今回はバレンタインデーのエピソード、バレンタインデーに真剣な志保と、バレンタインデーを含めたあらゆるイベントごとが苦手なたまき、バレンタインデーに興味があるのかないのかよくわからない亜美、それぞれのお話です。それではあしなれ第25話、スタート!
昼間のスナックほどおかしな空間はない。
スナックとは本来、夜に営業するつもりで作られている。だから、窓がない店が多い。窓をつけたって、どうせ日の光は入ってこないのだ。
さらに、店内の照明がうすぼんやりとしている店も多い。都会の夜の闇に溶け込み、夜の闇を楽しむための空間。それがスナックだ。
だからなのか、絵に描いたような青空が広がる昼間にスナックを訪れると、そこが「昼間」という時間から隔絶された空間であるかのように思える。ドアをくぐった瞬間、空間が歪むのだ。
「そのあと」というヘンな名前のスナックも、そんなうすぼんやりとした影をたたえた店だった。
「東京は城のようだ」と誰かが言ったが、東京を代表する大きな駅から坂道を下り、まるで東京という城のお堀のような閑散とした住宅街の中に、スナック「そのあと」はたたずんでいる。
「ランチタイムやってないの? 昼間もママの料理食べたいよ。絶対繁盛するって」という常連のおじさんにそそのかされた若き雇われママさんが、週に二回、ランチタイム営業をやっているのだが、これがさっぱり人が来ない。
やっぱり、周囲にオフィスが全然ないという立地が悪いのかしら、と若きママは考えているのだが、ママの弟に言わせると「全然宣伝とかしてないからじゃねぇの?」。
「だったら、ミチヒロがうちのCMソング作ってよ。で、その辺の路上で歌って宣伝してきてよ」
と若きママは、「プロのミュージシャンになる」と豪語する弟に提案するのだが、弟は「オレ、そういう商業的な歌は歌わないの」とずいぶんと生意気なことを言っていた。
時計は午後一時を回り、店のわきに置かれたテレビの中では、ライオンの着ぐるみがサイコロをぶん投げている。若きママは誰もいない店内で、大きなあくびをした。
その時、ドアがかちゃりと開いて、ちりんちりんとドアのベルが鳴った。
「いらっしゃい」
わずかに開いたドアの隙間から、誰かが中をうかがうようにのぞき込んでいる。
「あ、営業してますよ。大丈夫ですよ」
ドアはきい……と、風に揺らされているかのように開いた。外の光がこぼれてくるのと同時に、中学生くらいに見える、背丈の低い女の子が入ってきた。
「あ、たまきちゃん! いらっしゃい!」
若きママが女の子の名前を呼ぶと、そのたまきという女の子は、ロボットのようなぎこちなさと丁寧さで
「こんにちは……」
と言って頭を下げると、カウンターの一番左端の席を指さして、
「あの……ここ……座って大丈夫ですか?」
と若きママに尋ねた。若きママがにっこりとほほ笑むと、たまきはスカートのすそを引っ張りながら、その椅子に腰かけた。
そのしぐさがどうにも、子どものころにかわいがっていた黒猫にそっくりで、若きママは思わず笑いそうになった。「クロ」と名付けてかわいがっていた黒猫が、若きママが弟と一緒に暮らしてた施設の敷地に初めて迷い込んできた時も、ちょうどこんな感じだった。
たまきは五百円玉をカウンターの上に置いた。
「あの、焼きそばお願いしても大丈夫ですか?」
「焼きそばね、了解。お金は食べ終わってからでいいからね」
若きママの言葉に、たまきは恥ずかしそうに五百円玉を引っ込めた。
若きママは少しからかうように
「お酒は何にする? ハイボール?」
と尋ねる。
「え?」
たまきは困惑して、それこそ猫のように目を丸くした。
「あ、あの、私、その……」
「冗談だってば」
若きママは歯を見せて笑うと、冷蔵庫から焼きそばの袋を取り出した。
ものの数分でほかほかのソース焼きそばがたまきの目の前に置かれた。
たまきは割り箸を手に両手を合わせると、
「いただきます」
とつぶやいた。力を入れて割りばしを割る。たまきは割りばしがしなって割れる瞬間が、本当に苦手だ。どうせ箸を作るなら、割ってから出荷してくれればいいのに。
ソース焼きそばを口へと運ぶ。なんだか、昔、たまきのお姉ちゃんが作ってくれた焼きそばを、数年の時を経てようやく口をつけているような気がした。
ふと、顔をあげてみると、カウンターの中に若きママことミチのお姉ちゃんの姿がなかった。
どこかに行ったのかとあたりを見渡してみると、背後に気配を感じ、たまきは驚いて振り返った。
ミチのお姉ちゃんは、たまきの真後ろにいた。ニコニコしながら、たまきを見ている。
もっと正確に言えば、たまきのお尻あたりをニコニコと眺めていた。
「あ、あの……私の、その、おしりに、なにかついてますか……」
「いや、何もついてないんだよねぇ~」
そう言いながらミチのお姉ちゃんはたまきのお尻、特に尾骶骨あたりをしげしげと眺めた。
「ネコみたいだから、黒いしっぽでもついてるんじゃないか、と思ったんだけどねぇ」
そんなわけない。たまきはそう思った。
「知ってる? ネコって、しっぽで気持ちがわかるんだよ。ピンと立てている時はうれしい時、しっぽを丸めてるときは怖がってる時、しっぽをばたばた振ってるときは嫌がってる時、昔飼ってたクロはねー、なでるとよくしっぽをばたばた振ってたんだよ」
だから、嫌がってる、とわかっているのに、どうしてなでるのだろう。
「ネコってしゃべらないけど、ちゃんと気持ちは表現してるんですね」
「ね、たまきちゃんそっくり」
「え?」
たまきは驚いたように、ミチのお姉ちゃんの目を覗き込んだ。
「ほら、今も、すごい驚いたような顔してる。あんまりしゃべんない子だなって思ったけど、その分、顔にすごい出るよね、たまきちゃん。だから、見てて面白いよ」
そんなわけない。そんなわけない。
たまきは、強くそう思った。
今まで、人からそんな風に言われたことなんてない。
むしろ、「表情が乏しい」といったようなことをよく言われてきた。
親からは「何考えてるかわかんない子」と言われ、亜美からは「それで笑ってるつもりなのか?」と呆れられ、志保にご飯の感想を「おいしいです」と告げれば、「本当に? 無理しておいしいって言わなくていいんだよ?」と疑われる。
ミチに至っては、たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、それを態度に反映させようという姿勢が全くない。たまきが怒っている時にさらに怒らせるようなことを、たまきが恥ずかしがっている時にさらに恥ずかしがるようなことを、たまきが落ち込んでいる時にさらに傷つけるようなことを平気で言う。
それが、たまきの気持ちをわかっていてわざと嫌がらせをしている、というのであれば、もうこんな人とは関わらない、で済むのだが、そうではないから始末が悪い。
あの人はきっと、たまきが何考えているかなんて、これっぽっちもわかっていないのだ。たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、全部いつもとおんなじ表情に見えているに違いない。たぶん、ミチはそのクロっていうネコが嫌がっていることをそもそも気づかずに撫でていたんだろう。
そんなだから、そのミチのお姉ちゃんがたまきのことを「顔にすごい出る」と評したのは、意外としか言いようがなかった。
そう言えば、以前にも同じようなことを一度だけ言われた気がする。誰だったっけ。
「私……あんまり顔に出ないって言われます……」
ミチのお姉ちゃんに表情を読み取られたことが少し恥ずかしくなり、たまきはうつむきがちに言った。
「そんな恥ずかしそうに言わなくても」
またしても心を見抜かれ、たまきはますます恥ずかしくなった。もしかしたら、ミチのお姉ちゃんには超能力でもあるんじゃないか。ばかばかしい考えだが、その方が「たまきは顔に出やすい」という説よりも現実味がある気がする。
たまきは五百円玉を差し出し、二十円を受け取って、お店を出た。
空には雲一つない冬の青空が広がる。さっきまでのうすぼんやりとした空間なんて、まるで存在しなかったかのようだ。
たまきは、歓楽街へと帰る坂道を、とぼとぼと登り始めた。
坂道を登りながら、たまきの頭の中で、なにかがぐるぐると回る。
この前は「ネコに似てる」と言われ、今日はさらに「顔に感情が出やすい」と言われた。
あの店に行くと、ミチのお姉ちゃんに合うと、たまきが思ってもいなかったたまきを突きつけられる。
でも、もしかしたら、「自分が思っている自分」の方が間違っているのかもしれない。
何せ、普段は自分で自分の顔を見ることができないのだ。自分が人からどう映っているのか、わからないのだ。
よくよく思い返せば、たまきは自分の「笑顔」を知らない。鏡の前で笑顔の練習をしてみたことならあるが、そこに映っていたのはあくまでも「練習している笑顔」でしかない。
そうではなく、亜美や志保との暮らしの中で、ごく自然に出る笑顔、亜美や志保が見ているであろうたまきの笑顔を、たまき自身は知らないのだ。せいぜい、誕生日の時に撮ってもらった写真に写る、ちょっとカタい笑顔を見たくらいだ。
そんなことを考えながら、一つ思い出したことがあった。
『たまきってすぐ顔に出るから』
昔、たまきにそういったのは、たまきのお姉ちゃんだった。
たまきのお姉ちゃんも、もしかしたら「たまきが思っているたまき」とは全然違うたまきを見ていたのかもしれない。そして、ひょっとしたら、そっちの方が本当のたまきなのかもしれない。
たまきは踏切で足を止める。目の前を列車が轟音をあげながら通過する。クリーム色に近い白の車体に、青いラインが走っている。走り去る列車を見つめながら、ふと思う。
たまきの姉やミチの姉が見ているたまきが実は本当のたまきなのだとしたら、ここにいるたまきはいったい誰なのだろう。
たまきは冬が苦手だ。
別に、寒いから苦手なわけではない。むしろ、気候で行ったら冬よりも夏の方が苦手だ。
たまきが冬を苦手とするのは、クリスマス、お正月、バレンタインデーと、たまきの苦手な「イベント」が目白押しだからだ。最近ではハロウィンもある。どうしてみんな、あんなにもイベント好きなんだろう。何も楽しいことなんてないじゃないか。
そして、たまきの嫌いな「イベントの冬」ももうすぐ終わる。最後のイベントであるバレンタインデーが間近に迫っていた。一か月後にはホワイトデーがあると言えばあるが、どういうわけか、そっちはあんまり盛り上がらない。
亜美、志保、たまきの三人は、デパートで行われていた「チョコレートフェア」なるものを見に来ていた。
正直、たまきはチョコに全然興味がない。チョコをあげたい男の子もいない。そもそも、甘いものは別に好きじゃない。
だが、あんまりイベントに背を向けすぎると、かえってみじめになる気がしてついてきたのだが、やっぱり興味がないものは興味がない。
一方、志保は、興味があるを通り越して、もはや切実な問題とでも言いたげにチョコを見て回っている。
数日前、田代とともに映画を見に行った志保は、ものすごい上機嫌で帰ってきた。
「どうした。コクられたのか?」
と茶化す亜美に対して、
「そうなの! 聞いて聞いて!」
と、じゃれつくウサギのように志保ははしゃいだ。
「なに!? マジで!?」
と、亜美もしっぽを振る子犬のように飛びつく。たまきだけが、まるで水槽の中の熱帯魚でも見るかのように、少し離れた場所から二人を見ている。
「映画見終わって、食事して、そのあと街を歩いてたら、田代さんが……」
そこで志保はいったん言葉を切った。
「『なあ、俺たち、付き合わない?』だって!」
と志保は顔を赤らめて、亜美の肩をバンバンと叩いた。
「で、お前はなんつったの?」
「『うん、いいよ』って!」
「で、その後どうしたんだ? ヤッたのか?」
「やだもう! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」
志保は再び、亜美の肩をバンバンと叩いた。
その様子を、たまきは少し離れたところからぼんやりと眺めている。
『付き合わない?』
『いいよ』
お互いに、好きだとは言ってないし、好きということを確かめてもいないけど、それでいいのかな。そんなことをぼんやりと考えながら。
時は戻って現在。志保はチョコ売り場の中をウロチョロしながら、チョコを品定めしている。
「なんだ、まだ決めてねぇのか。ま、『本命』チョコだから、仕方ねぇか」
亜美はわざと「本命」を強調した。それから、口の横に手を当てると、
「みなさ~ん! この女、本命チョコえらんでますよ~! おい、リア充がいるぞ~!」
「もう! ちょっと黙っててよ」
と志保が亜美の方に近づいてくる。
「あれ? 亜美ちゃんもチョコ買ったの?」
「あ? ああ、友チョコだよ、友チョコ」
亜美が手にしたお店の袋を無造作に振り回した。
志保は陳列されていた、ハート形のチョコを手に取る。
「これまた、あからさまな本命チョコですなぁ」
と笑う亜美と、口をとがらせる志保。亜美は今度はたまきの方を向いた。
「お前はチョコ買わないの?」
「……別に」
「ミチにあげたりしねぇの?」
「なんでですか?」
たまきは心の底から不思議そうに、亜美の方を見た。
「いや、別に、本命チョコじゃなくても、義理チョコでもあげとけば、あいつ、しっぽ振って喜びそうじゃん」
「……あげる義理がないです」
そう言ってたまきは、視線を志保の方へとむけた。志保はまだチョコを選んでいる。右手と左手、それぞれにハート形のチョコを手に持ち、見比べている。
たまきは正直、どっちでもいいような気がしてきた。
それから数日後、たまきは例によって、いつもの公園のいつもの階段に腰を下ろして、絵を描いていた。
ふと、背後に人影を感じる。
「お、たまきちゃん来てるな?」
ミチの声だ。
「来てますよ」
たまきはミチの方を見ることなく答えた。
ミチは階段を降りると、たまきのすぐ横に腰掛ける。たまきはすっと体をスライドさせ、ミチとの距離を開けた。
いつもならミチがギターケースを置き、ギターを取り出す音が聞こえてくるものだが、それが聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、紙袋をがさがさと広げる音。
ちらりとミチの方を見ると、珍しくギターケースを持ってきていない。
「今日は歌わないんですね」
とたまきが言うと、
「この後バイトだし、そのあとは先輩たちと飲みに行くから」
ミチの年齢だと、飲みに行ってはいけないはずなのだが、たまきは面倒くさいのでそこはスルーした。
「じゃあ、何しに来たんですか?」
「何しにって、たまきちゃんからチョコを貰いに来たんだよ」
あれ? とたまきは思った。そんな約束、してたっけ?
絵を描く手を止め、大急ぎでたまきは頭の中に検索をかける。ミチにチョコをあげるなんて約束をしたかどうかを調べるが、そんな記憶は全くない。念のため、なにか勘違いさせるようなことを言ったのではないかとも考えたが、そちらも全く心当たりがない。
「そんな約束、してないと思うんですけど……」
「え? だって今日、バレンタインデーだよ?」
そこでたまきは初めて、今日が二月十四日であることを知った。なるほど、だから今朝、志保が妙にうきうきしていたのか。
だが、バレンタインデーだからなんだというのだろう。
「バレンタインデーだと、なんで私がミチ君にチョコをあげなければいけないんですか?」
「え? だって、たまきちゃん、女の子じゃん」
もしかして、この男はバレンタインデーのことを「女子が男子を見るや否や、無差別にチョコをばらまく日」とでも勘違いしているのではないだろうか。
「……その紙袋は何ですか?」
まさか、たまき一人から紙袋が埋まるほどのチョコを期待しているとでもいうのだろうか。たまきは二木の菓子ではない。
「いや、この後バイト先でもらって、先輩たちと飲みに行った先でもらうからさ」
「……貰うって、それはもう決まってるんですか?」
「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」
どうも会話がかみ合わない。「バレンタインデーを忘れるほど興味のない女子」と「バレンタインデーに過剰な期待をする男子」が会話をすると、こういうことになるらしい。
たまきは、絵を描く作業に戻った。しばらくの間、沈黙が続く。
「たまきちゃん、チョコは? まだ?」
「……持ってません」
これまでの会話の流れから、たまきがチョコなんか用意してないことくらい、気づかないのかな。
「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」
ミチの返事は、たまきの予想と一言一句同じだった。隣からはあからさまに、紙袋をがさがさと広げる音がする。
「チョコこじき」、そんな言葉がたまきの頭をかすめた。
バレンタインデーの起源は、ローマ帝国にあるという。
ローマ帝国では兵士の結婚を禁じていた。故郷に恋人や妻がいれば士気が下がるからだという。確かに、「俺、この戦争が終わったら田舎に帰って結婚するんだ」と語る兵士に限って、戦争が終わるまで生き延びることがない。
だが、キリスト教の司祭だったバレンタインは兵士たちのために隠れて結婚式を執り行っていた。しかし、そのことがばれんた、いや、ばれたために処刑されてしまう。その処刑された日が二月十四日だった。
バレンタインデーの正体は、実はバレンタインさんが処刑された命日だった。そんなことを語るシスターの話を、志保はぼんやりと聞いていた。起源がどうあれ、重要なのはその後の歴史、そして、今日を生きる志保たちがバレンタインデーをどうとらえているからだ。バレンタインさんは恋人たちのために尊い犠牲になったのだ。それは二千年前も今も変わらない。合掌。
シスターによる簡単な講義が終わった後は、チョコレート交換会が始まった。志保が通う施設は、何も四六時中「依存症とは何か」などと暗い顔をしているわけではない。むしろ、イベントごとをみんなで楽しむことを更生への一環として、積極的に取り入れている。
各自それぞれ、箱サイズのチョコを持ち寄ってテーブルの上に置き、みんなでつまみあう。ただし、アルコール依存の人もいるので、ウイスキーボンボンのようなタイプのチョコはNGだ。
「これ、神崎さんの?」
トクラが志保の持ってきたチョコを手に取る。
「はい」
「ふうん」
トクラはそのチョコをしげしげと眺める。
「本命は別にちゃんといる、ってことか」
そう言って、トクラは包みの銀紙からチョコをはぎ取り、口に放り込んだ。
「え、なんでわ……」
そこまで言って、志保は自分の反応がほぼ「イエス」と言っていることに等しいと気づいた。別にカレシがいることを隠すつもりはないが、トクラに知られると、なんだか後々面倒な気がするのだ。
トクラは志保にそっと近づくと、耳打ちするように言った。
「お相手はどこまで知ってるの?」
そう言ってトクラは悪戯っぽく微笑んだ、ような気がした。実際には見てないけど、そんな気がした。
志保は何も答えなかった。答えられなかった。
沈黙。
それだけで、トクラは大体のことを察したかのようだった。
志保は、田代に対して「現在」を何も教えていない。田代の中での志保は、都内の高校に通う女の子、という認識のはずだ。
嘘、とも言い切れない。少なくとも一年ほど前までは、志保は「都内の高校に通う女の子」だったのだから。
そこから先のことを語っていないだけだ。嘘をついているのではない。沈黙を貫いているだけだ。
そうな風に自分に言い聞かせようとする自分自身が、志保は嫌だった。
彼のことを騙してる。
そして、自分のことも騙してる。
そんな自分が嫌だった。
でも、だったら、「自分のことを騙そうとする自分」とはいったい誰なのだろう。騙される方の自分とは、いったい誰なのだろう。
そして、そんな自分が嫌になる自分とは、いったい誰なのだろう。
「ちょっと……いいですか……」
志保はトクラに、部屋の隅に来るように促した。チョコの置かれたテーブルから少し離れる二人。
「トクラさんだったら……どうします……? 付き合ってる人に、自分の『病気』のこととか、正直に言いますか……」
「それ訊いてさ……」
トクラは少しいぶかしむように志保を見た。
「あたしの言ったとおりにしてさ、それでうまくいかなくなったらあたしのせいにする、っていうなら答えないよ?」
「あ、いえ、そういうつもりじゃ……」
「まあ、あたしだったら、言うか言わないかは相手次第だけど、なるべく長持ちする方を選ぶよね」
「長持ち……?」
志保はトクラが言っていることが、ちょっとよくわからなかった。
「だから、相手がクスリとか依存症とかにあまり縁がない人、理解のない人だったら、言わないかな」
「でも、いつかバレるんじゃないですか? そうなったら、なんで言わなかったんだ、嘘ついてたのか、って余計にややこしいことになりませんか?」
志保の言葉は、まるで自分で自分をいさめているかのようだった。だが、そんな自分をいさめる自分とはいったい誰なのだろう。
「まあ、バレたらオワリだよね」
「だったら……」
「あのね神崎さん」
トクラは志保の肩にポンと手を置いた。
「すべての恋はね、いつか必ず終わるんだよ?」
その言葉に、志保は再び沈黙した。だがそれは、さっきの沈黙とはまた少し違ったものだった。
「出逢い、結ばれることが恋の始まりなら、その終わりは等しく『別れ』。結婚したって、離婚する人も多いし、いつかは死に別れる。それが嫌なら心中するしかないけど、心中って破滅だと思わない?」
トクラはもう一度、志保の肩を軽く叩いた。
「未来はコントロールできない。でも、今現在はコントロールできる。どういう終わり方を迎えるかはコントロールできないけど、今、この恋愛をどう楽しむかはコントロールできるの。だったら、今が楽しければそれでいいんじゃない? で、それを少しでも長く引き伸ばすの」
「でも、今が楽しければその後どうなってもいいなんて、そんなの、待ってるのはそれこそ破滅じゃないですか……」
「あら、破滅じゃ嫌?」
トクラは微笑んだ、ような気がした。実際は見ていないのでわからない。
「さっき言ったでしょ。すべての恋は必ず終わる。それは別れるか破滅するか。それに『別れ』も喧嘩したり浮気したり憎しみ合ったり、大半が破滅。多くの恋の結末は破滅なの。神崎さん、なんでだと思う?」
志保はまたしても沈黙した。この沈黙は単に、答えがわからないゆえの沈黙である。
「恋を燃え上がらせるのは、破滅と背徳なの。破滅的で、背徳的な恋ほど盛り上がるの。だから人は、破滅は嫌だ、背徳はいけないと言いながら、知らず知らずのうちに破滅と背徳に向かって突き進む。不倫なんてそのいい例じゃない。明らかな背徳で、その先に待っているのは明らかな破滅。なのに不思議と後を絶たない。なんでだと思う? それは、明らかな背徳で、向かう先が明らかな破滅だから。破滅と背徳、それに勝る快楽はないから」
トクラはテーブルの前に戻ると、チョコの包みに手を伸ばした。
「どうせ恋の行きつく先が破滅なら、何も恐れることなんかないじゃない。いつか破滅するとわかっててなお、今を楽しまないと。太ると知っててついついチョコを食べちゃう。虫歯になると知っててついついチョコを食べちゃう。それとおんなじ。バレンタインさんもそのことを知ってたのかもね。これから戦場に向う兵士の結婚式なんて、すぐに戦死しちゃうかもしれないから、せめて式だけでも、ってことでしょ? 破滅に向かう恋が一番美しい、バレンタインさんはそれがわかってたんじゃないかしら」
そう言って、トクラはチョコを口の中に放り込んだ。
「じゃあ、たまきちゃんは結局、チョコを買わなかったの?」
公園から駅へと向かう地下道の途中で、紙袋を手にしたミチがたまきに尋ねた。
「……亜美さんと志保さんとお金を出し合って、三人で食べる用のチョコは買いました」
「でもそれってさ、誰かにあげたわけじゃないじゃん」
「……まあ」
たまきはミチの少し後ろを歩きながら、うつむきがちに答えた。
「誰かにチョコ、あげないの?」
「別に……」
「だって今日、バレンタインデーだよ?」
さっきから、こういう会話の繰り返しである。たまきはいい加減にうんざりしてきた。
「今までだれかにチョコあげたことないの?」
「ありません」
「男友達とかは?」
「そんな人、いません」
「じゃあ、女友達。学校で友チョコあげたりしなかったの?」
「……そんな人、いません」
ミチはそこで少し考えてから
「じゃあ、父親とかは?」
と尋ねた。たまきも少し考えてから
「お姉ちゃんとお金を出しあって……、でも、あれもお姉ちゃんが選んで、渡してたから……」
と答える。
長い地下通路も終わり、タクシーの入るロータリーに差し掛かった。二人は階段を上って地上へと出る。
日本、いや、世界で最も利用者数が多いなどと言われるその駅前は、時間としてはまだ夕方にもかかわらず、すでに夜の帳が降りきったように真っ暗だ。だが、仕事帰りのサラリーマンやOLらしき人でごった返し、むしろ昼間以上の混雑を見せていた。
「じゃあ、私はこっちなんで……」
たまきは駅の北側を指さすと、くるりとミチに背を向けて、歩き出した。
だが、ミチも
「いや、俺もこっちだから」
とついてくる。
「あれ、ミチ君の家あっち……」
とたまきは駅の南の方を指さしたが、
「この後バイトだから」
と、たまきの横に並んで歩きだした。
そうだった。この男は、たまきが暮らす太田ビルの2階のラーメン屋でバイトをしているのだ。
すなわち、たまきが「城」に帰るまで、ずっと一緒なのだ。
「じゃあ、今まで一度もチョコあげたことないの? なんで? 今まで十何回もバレンタインデーあったのに?」
つまり、このうんざりするチョコ尋問も、太田ビルに着くまでの十数分間、ずっと続く。
ちょうど、右手にコンビニが見えてきた。
たまきは、コンビニンの前で立ち止まると、ミチの方を向いて
「ちょっと待っててください」
と言うと、コンビニの中へと入った。
二、三分ほどして、たまきはコンビニから出てきた。手には百円ちょっとで売られている、赤いパッケージのチョコのお菓子を持っていた。
たまきはそのチョコレートを、不機嫌そうに、ミチの前に突き出した。
「これ、あげます」
ミチはぽかんと、たまきが突き付けた赤いパッケージを見る。
「え? いいの?」
たまきは相変わらず不機嫌そうに赤いパッケージを突き出したまま、ミチをにらむ。
この男の口に石ころを詰め込んで黙らせる労力を考えれば、チョコを買って渡すことくらい、大したことない、はずだ。
「……義理チョコです」
一応、たまきは念を押しといた。
ミチはたまきの手から赤いパッケージを受け取ると、待ってましたとばかりに紙袋の中に放り込んだ。
「やった。たまきちゃんの『はじめて』、もらっちゃった」
「そ、そういうヘンな言い方、やめてください!」
たまきは慌てたように、恨めしげに、紙袋の中へと消えた赤いパッケージを見ようとした。それが完全に紙袋の中へと入ったのを確認すると、たまきは再び、「城」の方へと向かって歩き出す。
「ところでさ……」
たまきの横を歩きながらミチが口を開いた。
「今月末、俺の誕生日なんだよねぇ」
「知りません……!」
たまきは深くため息をついた。
「来年こそは手づくりしようかなぁ」
志保は「城」のキッチンを見ながら言った。
「まだ手作りチョコって作ったことないんだよねぇ。ここの設備しっかりしてるから、頑張ればイケそうな気がする」
冬の夜、三人は「城」でまったりと過ごしていた。暖房の効いた部屋の中にいると、こういう場所があることにありがたみを感じる。もちろん、家賃は払っていないのだけれど。
「志保さんならできると思います」
ゴッホの画集を読んでいたたまきが、志保の方に目をやって告げた。
「まあ、来年もあたしがここにいれば、だけどね……」
志保はそうやって自嘲気味に笑う。
「そもそも、来年もカレシがいるかどうかわかんねぇもんな。あ、別のオトコに変わってたりして!」
亜美は悪戯っぽく笑いながら、テーブルの上に置かれたチョコの包みに手を伸ばした。3人で千円ずつ出し合って買ったものだ。
「もう……!」
志保は不満げにチョコに手を伸ばす。
「ところで、たまきは誰かにチョコあげなかったのか?」
「え? ま、まあ……」
たまきは、どうとでも解釈できそうな言葉でお茶を濁した。
「そう言えばさ、亜美ちゃん、いっぱいチョコ買ってたじゃん。なんかケースのやつとかさ。あれって男友達にあげたりしたの?」
亜美のチョコを咀嚼する口が止まった。
「いや……あれは……女友達にあげたから。友チョコだよ」
「男友達にはあげなかったの?」
「はっ。アイツらにやるチョコなんてねぇよ。まあ、チョコ代立て替えてくれるっつ―なら、渡してもいいけどな」
「えー、でも、あげようかなって思ったりしないの? バレンタインデーだよ?」
あれ、さっき、どこかでそんなこと言われたぞ、とたまきは思った。
「ほら、ヒロキさんとか、付き合い長いんでしょ?」
そういうと、志保は亜美の方ににじり寄る。ヒロキとは、亜美の客の中で、特に付き合いがある男の名前だ。たまきも、亜美とヒロキが二人で街を歩いているところを見ている。
「ここだけの話、あたし、亜美ちゃんとヒロキさんちょっといいかんじなんじゃないか、なんて思ってるけど、そこんとこどうなの?」
にやにやしながら亜美に尋ねる志保。だが、亜美は眉一つ動かすことなく、あっけらかんと答えた。
「ヒロキ? あーないない。そもそも、あいつヨメもコドモもいるし」
「なんだそうなの。じゃあしょうがないか……」
さらっと受け流してから、志保とたまきは、亜美がとんでもないことを言っていることに気づいた。
「えぇ!!」
志保が、壁が破れるんじゃないかってくらいの大声を出す。たまきは大声こそ出さなかったが、目を丸く見開いて、て亜美を見た。
「ん? どした?」
亜美だけがぽかんとしたように、チョコをポリポリかみ砕きながら、二人を交互に見ている。
「ちょっと待って? ヒロキさんって、奥さんも子供もいるの?」
「ああ、いるいる。それがマジウケることに、ヒロキの嫁って、うちの一個下なんだぜ。それでガキいるって、じゃあ何歳の時に結婚して、何歳の時に産んだんだよ、そもそも、何歳の時に手ぇ出したんだよ、ってハナシじゃん? ウチもそれ聞いた時はさすがに『こいつらやべぇな』って思ったよ」
「ちょっと待って? ちょっと待って?」
志保は頭が追い付いていないのか、亜美の話を制した。たまきは、あまりにも自分とかけ離れた世界の話なので、もう理解することをやめた。
「え? それ、不倫じゃん!」
「それってどれだよ」
「亜美ちゃんとヒロキさんの関係!」
「は?」
亜美は亜美で、いま志保に言われたことが理解できないらしい。
「不倫じゃねぇだろ。お互い、本気じゃないんだし」
「亜美ちゃん、結婚してる人とその……エッチすることは悪いことだ、ってのはわかってる?」
「あのな……」
亜美はまるで人の道でも説いて聞かすかのような顔で話し始めた。
「いくらからあげが好きだからって、毎日からあげ食ってたら、たまにはテンプラが食いたくなるだろ?」
前にもこんな話を聞いた気がする。
「あれ……ちょっと待って……あたし……思い出してきたんだけど……」
志保がより一層戸惑ったような表情になった。
「亜美ちゃんさ、クリスマスの時、『不倫はスジが通んない』って言ってなかった? そうだよ、不倫してた女の人、殴ろうとしてたじゃん! っていうか、ヒロキさんも『不倫した奴が悪い』みたいなこと言ってなかった?」
「そりゃそうだろ。不倫は悪いに決まってんじゃねぇか」
「でも、自分が不倫してんじゃん!」
「だから、お互い本気じゃねぇから不倫じゃねぇってば。っていうか、あんとき、お前の方こそ、不倫するやつの気持ちわかるみたいなこと言ってなかったっけ?」
「『気持ちがわかる』と『不倫してもいい』は別の話でしょ!」
志保は手ごろなクッションをソファにたたきつけた。
「相手の奥さんの気持ちとか考えたことあるの、亜美ちゃん!」
「相手の気持ち? 相手の気持ちねぇ……」
亜美はしばらく考え込むようなしぐさを見せた。
「ヒロキのヨメは何も知らねぇんじゃねぇかな」
「だから……そういうことじゃなくてさ……、相手の奥さんが傷つくんじゃないかとか……」
「何も知らねぇんだから、傷つくわけねぇだろ。そもそも、本気じゃないんだし」
「だから……そうじゃなくて……」
「あのさ……」
亜美はうんざりしたように志保を見た。
「嘘ついてオトコと付き合ってるような奴に、とやかく言われたくねぇんだけど」
亜美の声には、温度がこもっていなかった。
「嘘って……」
「あのヤサオに、なんも言ってねぇんじゃねぇの?」
「それは……」
志保が下を向く。
「自分のカノジョが嘘ついてて、実はクスリやってて、しかもそれずっと黙ってましたって、お前こそ相手の気持ち考えたことあんのかよ。あ、これも相手はなんも知らねぇから、別にいいのか」
「それは……わかってるけど……」
志保は沈黙した。唇が少し震えているようにも見える。
亜美は、「なんか文句あるか」と言いたげに椅子にふんぞり返っている。
たまきは、少し離れたところで画集を膝の上において、それを見ているだけだった。
亜美と志保の周りに、真冬の朝の冷気のように落ち着かない空気が漂っていた。一触即発、というのとはちょっと違う。むしろ、重苦しい何かで押さえつけられたような感じだ。
たまきはなんとなく、ゴッホが描いた、麦畑の上をカラスが飛んでいる絵を思い出した。ゴッホなら、今のこの部屋の空気を何色で書くだろうか。
何か言わなきゃ、たまきはそう思った。
以前、志保はたまきが亜美と志保の間をつないでいる、たまきはそこにいるだけでその役割を果たしてくれる、と言っていた。だったら、不穏な空気が漂う今こそその力を使うときなんじゃないのか。コンド―……、じゃなかった、緩衝材としての役目を果たすときなんじゃないのか。
だがしかし、何を言えばいいのだろう。普段でさえ何をしゃべればいいのかわからないのに、こんなに落ち着かない状態の時に言うべき言葉なんて、思い浮かぶわけがない。
亜美か志保、どっちかのフォローに回ろうかと思ったが、たまきの乏しい会話力では、フォローしきれそうにないし、どっちかの味方をしたらどっちかを怒らせてしまうかもしれない。そして、それをなだめる会話力も、やっぱりたまきは持ってない。
だったらいっそ、全然違うこと、意表を突くようなことを言って、場の空気を変えるという作戦がいいのではないか。だけど、今この状態で、二人が不穏な空気を忘れてノッてくるような話題なんてたまきにあるはずも……。
「あ、あの……」
たまきはそっと立ち上がると、たった今、必死で考えたフレーズを口にした。
「私、チョコレートあげました、ミチ君に……!」
その言葉を聞いた途端、凍り付いた空気が一気に蒸発したかのように、亜美と志保は驚いた様子でたまきの方に振り向いた。
「はぁ!?」
「えぇ!?」
「……義理チョコですけど……」
急に恥ずかしくなって、たまきは下を向く。
「なんで? そういうの興味ないって言ってたじゃん!」
志保がまるで裏切り者を問い詰めるかの如く、たまきに迫る。
「さっき会ったとき、あまりにもチョコをあげないのかとしつこかったから……チョコくらいいいかなと思って……」
「ダメだよたまきちゃん!」
志保がたまきの両肩をつかんだ。
「ダメだったんですか……?」
「ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!」
「でも……別にチョコレートをあげるくらい……」
「そういう小さいことを積み重ねていくと、だんだん押し切られるのが当たり前になっちゃうよ! もしエッチなことをさせてほしいとか言われたらどうするの?」
「それとこれとは話が違うんじゃ……」
「一緒だよ一緒! 亜美ちゃんからも何か言ってよ!」
志保が、さっきまで口論していたはずの亜美に助言を求める。
「志保の言うとおりだぞ、たまき」
亜美は腕を組んでたまきに言った。
「だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが」
そう言われると、そんな気もする。そもそも、たまきがこの「城」で暮らすようになったのだって、亜美に押し切られたからだったような気もする。
「だからいっそのこと、そのまま押し切られてオトナの階段を上るってのもありなんじゃね?」
「何言ってるの亜美ちゃん!」
志保は今度は亜美の肩をつかんだ。
「そうでもしねぇと、こいつは自分からオトナの階段上ったりしねぇって」
「だからってそんなやり方……傷つくのはたまきちゃんなんだよ?」
「お前さっき、そういうこと繰り返してけば、それが当たり前になるっつったじゃねぇか。押し切られるのはこいつにとって当たり前のことなんだから、当たり前のことやってなんで傷つくんだよ?」
「だから……そうじゃなくて……」
夜中。太田ビルの屋上で志保は電話をかけていた。街の明かりが志保のブラウンの髪を照らす。
「あ、チョコ、食べてくれたんだ。どうだった? おいしかった?」
そのあと、二言三言言葉を交わす。
「うん、あたしも。大好きだよ」
そう言って志保は電話を切ると、振り返った。
そこには亜美が立っていて、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、にやにや笑っていた。
「熱いねぇ」
「うわっ! 亜美ちゃん、いつからいたの?」
「ん、今来たとこだけど?」
本当はもっと前からいて、黙ってそこに立ってたんじゃないか、そんな気がしてきた。
「じゃ、じゃあ、あたし、部屋ん中戻るから……!」
志保が顔を赤らめて、そそくさと屋上を後にしようとする。志保の背中越しに、亜美が声をかける。
「大好きだよー!」
「やめて~!」
そんな叫びとともに、志保は階段を下りて行った。
「熱いねぇ……」
亜美はポケットから何かを取り出した。
紺色の包装紙に包まれた、ハート形のチョコレート。
亜美は軽くそれを上に向って放り投げ、落ちた来たそれをキャッチする、
そのままチョコを手に、亜美は屋上の柵にもたれかかった。
このまま、屋上から落としてチョコを粉々に砕いてしまおうか、とも思ったけど、怒られそうなのでやめにする。
亜美は無造作にビリビリと包装を破って中のチョコを取り出すと、かじりついた。
ガリッという音がして、チョコがちょこっと砕ける。
チョコは見た目に反して、少し苦かった。
自分で買ったチョコを自分で食べて、誰かに渡したつもりになる。
その「誰か」というのは、一体どこにいるのだろう。
つづく
次回 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」(仮)
田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。5月公開予定!