なぜピースボートに若者が集まるのか? ~世界一周と無縁空間~

コロナウイルスの蔓延、さらにダイヤモンドプリンセス号でのクラスター発生で、クルーズ業界はどこもピンチらしい。御多分に漏れず、ピースボートもなかなか厳しい状況だと聞く。しかし、そもそもなぜ若者は船旅に集まるのだろうか。


集団バックパッカーとリセット願望

今に始まったことではないが、ピースボートはアンチも多く、悪評が多い。

ネット右翼が思い込みでしゃべってるだけというのもあるけど、たまにどう言葉を尽くしても擁護できないトラブルを巻き起こすから、悪評が絶えない。「悪意のないトラブルメーカー」である。ある意味、厄介だ。

それでも、ピースボートに若者は集まる。かくいう僕もその一人。

なぜかというと、「ほかに代わりがないから」である、と思う、たぶん。

若者でも払える程度の金額で世界一周ができる。なおかつ、船旅だから一人でチケットや宿を手配して旅するよりは安全性が高い。

安く安全な世界一周を提供しているのがピースボートであり、こと「船旅」という領域において、ピースボートは唯一無二の存在である。

ピースボートに集まる若者というと、国際貢献だの平和活動だのに関心が高い、というイメージが強いのではないか。

だが、決してそんなことはない!

もう一度言う。決してそんなことはない!

少なくとも僕は、世界の貧困とか格差とか戦争とか環境問題とか、どうでもいいと思ってる(こらー!)。

もちろん、そういうことに興味があってピースボートに乗ってる若者も多いけど、僕の実感では、そういうのに興味があるのではなく、ただ単純に旅がしたくて船に乗る若者のほうが多い、気がする。

ピースボートが始まったころは、政治思想的な考えが強かったのかもしれないが、現在のピースボートは、若者に関して言えばいわば、集団バックパッカーだ。「世界を旅てみたい」「世界をこの目で見たい」といった若者が集まって船に乗っている。

そして、集団バックパッカーの中には、必ずしもポジティブな理由とは限らない人もいる。

「今の退屈な人生を変えたい!」「今の自分を変えたい!」「今のままでいることが怖い!」「ここではないどこかに行きたい!」という、ちょっと意地悪な言い方をすれば「現実逃避」にも映りかねない動機で船に乗る若者も多い。

「今の自分が嫌だ!」「今の自分の現状を変えたい!」という強烈な自己否定が、「日本でのつまらない自分」から解放されるであろう旅に対して、強い憧憬を生むのだ。

いわば「リセット願望」である。「人生をやり直したい」というと、何か大失敗でもしたのかと思うが、そうではない。「これと言って不幸というわけでもないけれど、もっと不幸な人もいるんだけど、むしろ恵まれているほうかもしれないんだけど、可もなく不可もなくな今の人生を一度リセットしたい」、そういうリセット願望が人間にはあるのである。一歩間違えたら自殺願望になってしまうのかもしれないけど。

ピースボートが拾い集めているのはそういったリセット願望である、と思う。町中に貼られたピースボートのポスターは、普通の人には「居酒屋でよく見る、なんか写真がきれいなポスター」程度にしか映らないけど、リセット願望を抱えた人間には、不思議と「今の自分を、人生をリセットできる冒険の扉」に見えてしまうのだ。

樹海に行って首をくくるくらいなら、青い海に出てやり直そうか、というわけだ。

そして実際、ピースボートはリセット願望を抱えた人間が、「生きたまま」何かをリセットするのにぴったりな場所なのだ。それを紐解くキーワードが「無縁空間」である。ピースボートとは、現代の無縁空間なのだ。

無縁空間の歴史

もしも、「それまでの自分」と全く関係なく生きていける場所があるとしたら? リセット願望を抱える者にとって、これほど都合の良い場所はないだろう。

そして、日本の歴史の中で、そういった場所は確実に存在した。それが「無縁空間」だ。

中世民衆史の第一人者、網野善彦の有名な論文「無縁・公界・楽」は、そんな無縁空間が日本に存在していたことを説いている。

たとえば、「縁切寺」「駆け込み寺」という言葉がある。昔の夫婦関係は、男性から一方的に離婚を言い渡すことができても、女性のほうから離婚することはできなかった。ところが、駆け込み寺に女性が逃げ込んだ瞬間、男性側が何を言おうとも有無を言わさず離婚が成立したという。その寺に入った瞬間に、男女の縁が切れたのである。

そこに入れば、世俗の縁が切れる。それが無縁空間だ。

そういった場所は寺だけではなく、宿場町や市場、港町にも存在した。

無縁空間で切れる縁というのは、男女の縁だけではない。主従関係の縁、親子の縁、さらにお金の貸し借りの縁まで切れたという。

現代人が思い浮かべる「縁」とは少し違う。現代人が「この度はご縁があって……」などと口にするときの両者は対等な関係であることが多いけど、昔の日本人にとっての「縁」は決して対等な関係ではなかった。主従関係や親子関係、お金の貸し借りが台頭でないのはもちろん、夫婦関係も決して対等ではない。男性側を「主人」「亭主」などと呼ぶのがその名残だし、対等でないから女性側は縁切寺へ逃げ込むわけだ。

人は生きている間にいくつもの縁に結ばれている。いや、縛られている。領主と農民の縁、親と子の縁、亭主と嫁の縁、金の貸し借りの縁、いずれも決して対等な関係ではない。

ところが、無縁空間に逃げ込めば、その縁も切れてしまうというのだ。嫌な上司ももう上司じゃなくなる。顔も見たくないような旦那の顔を、本当に見ずに済むようになる。借金もチャラ。なんて理想的な空間。そこに行けばどんな願いもかなうというのか。おおガンダーラ。

そんな無縁空間には4つの要素がある。これはピースボートにもかかわってくることなので、しっかりと読んでほしい。

要素① 無縁

最初の要素は「無縁」だ。無縁空間なのだから当たり前といえば当たり前。

無縁、つまり、無縁空間にいる人たちはみな、世俗との縁が切れている人ばかりだ。

たとえば宿場町。宿場町を訪れる旅人は、どこの誰ともわからない人ばかり。無縁な状態である。

そして、彼らをもてなす宿場の住人もまた、無縁な人々である。彼らは農村社会からあふれ、はじき出されたものたちなのだ。

そこに住む者も、そこを訪れる者も、関わる人すべてが無縁な状態。それが一つ目の要素だ。

要素② 自由

無縁空間の住人は、出入りが自由だった。無縁空間に入るのも自由であれば、そこから逃げ出すのも自由だった。無縁空間は何者も拒まない。さらに、農民の移動が制限されていた時代でも、無縁空間の住民は移動が自由だった。

要素③ 自治

無縁空間はどこからの支配も受けない。「ここは俺たちの町だ!」という強い帰属意識のもと、自分たちの町を自分たちで治める、すなわち「自治」を行っていたのだ。

要素④ 反抗

無縁空間は何者も拒まないと書いたけど、たった一つ拒むものがある。それが、権力の介入だ。権力者が無縁空間に介入することを、無縁空間の住民は嫌った。介入しようとすれば、徹底的に反抗する。

 

無縁空間はこれら4つの要素を持っていた。そこにいても素性を問われず、出入りも自由。そして、既存の権力による支配を拒む。だからこそ、「無縁」という性質が保たれるのだ。

さて、現代人も多くの縁に縛られている。とりたてて不幸というわけではないんだけれど、見えない縁に縛られて身動きが取れない。そんな時、人はリセット願望を抱く。リセット願望を抱いた人間が、逃げ込む駆け込み寺、それこそが無縁空間である。

そして、ピースボートはまさに、現代の無縁空間なのだ。

ピースボートという無縁空間

ピースボートはまさに、現代の無縁空間である。その性質を紐解いていこう。

まず、無縁空間というのはいつも、社会のはじっこに生まれる。寺、宿場、市場、港、これらは農村を基本とした社会のはじっこに生まれるものだ。はじっこだからこそ、既存の縁が届かないのだろう。

では、ピースボートはどうかというと、船旅はまさに海の上という、現代社会のはじっこで行われる。いつの時代も海の上というのは、社会のはじっこである。

そして、ピースボートは先に挙げた4つの要素を持っている。

まず、無縁の要素。無縁空間に携わる人はすべて社会と無縁でなければならない。

つまり、無縁空間にいる間は、社会の肩書がリセットされなければならない。「〇〇会社の社長」とか「どこそこの店長」とか、「××大学ホニャララ学部1年」みたいな肩書が付きまとったのでは、無縁空間とは言えないし、リセット願望も満たされない。「肩書なんか関係ないよ」という状態になって初めてリセット願望は満たされるのだ。

そして、ピースボートはこの無縁の要素を満たす場所である。

なぜなら、ピースボートはニックネーム文化なのだ。

「ボラスタ」と呼ばれるポスター貼り出身の若者は、たいていがニックネームを持っている。ボラスタ登録後にまずニックネームをつけられる。

そして、ピースボートにいる間、基本的にニックネームでしか呼ばれない。本名を呼ばれるのは、避難訓練で点呼をとるときぐらい。

だから、船にいる間は、相手の本名を知らないまま「友達」として付き合う。

本名すらわからないのだから、その人が陸では何者なのかだなんて、本人がしゃべらない限り、まずわからない。僕の場合だと、本名も肩書も一切が無視され、単に「埼玉から来たノック」としか見られない。まさに無縁だ。

そして、このニックネーム文化は、スタッフ側にも適用される。スタッフもあだ名で呼びあい、あだ名で呼ばれる。もちろん、公式な場では本名を名乗るし、船内ではスタッフの本名が分かるようになっているのだけれど、普段の船内生活の中ではニックネームでしか呼ばれない。

まさに、関わる人すべてが、ニックネームによって無縁となるのだ。

次に自由の要素。来る者は拒まず、去る者は追わず。それが無縁の原理である。

もちろん、船旅は莫大なお金がかかるので、だれでも自由に乗れるとはいかない。だが、ピースボートにはボランティアスタッフ(ボラスタ)として活動すれば船代が割引される「ボラ割り」という制度があり、ボラ割りをためるためのボラスタになるのには、まさに来る者は拒まず、去る者は追わずなのだ。

登録に関しては、面接とか審査とか一切ない。事務所に言って名前さえ書けば、だれでもボラスタになれる。

そして、去る者は追わない。ボラスタをやめたければいつでもやめていいし、船の予約も期間内であれば簡単に取り消せる(まあ、ウイルスが蔓延して、一斉キャンセルとかになったら話は別だけど)。

実際、乗船するまでのモチベーションが保てずに、ボラスタをやめてしまった人も少なくない。

次に自治の要素。誰から支配されるのではなく、自分たちの手で場を運営してこその無縁空間だ。

よく言われるのが、「船は受け身では楽しめない」。ピースボート側から何か提供されるのを待っているのではなく、自分から積極的に参加し、行動しないと、ピースボートの船旅は楽しめない。

船の中では毎日、様々な企画が行われている。ピースボート側で用意した企画もあるが、多くは乗客の自主企画である。大規模なイベントも乗客の手で運営される。また、船内での映像の撮影や、音響、船内新聞づくりも乗客の手で行われる。

完全な自治、とはいかないまでも、自治度はかなり高い。

そして最後の要素は反抗である。無縁空間は権力の介入を許してはならない。

そりゃピースボートなんだから反権力的だろうと思ったそこのあなた、冒頭の文をもう一度読み直してほしい。ピースボートに乗る若者の多くは、政治とかそういうのに興味があるのではなく、ただ旅がしたい集団バックパッカーである。そして、その中にはリセット願望の強いものも多い。

彼らにとって介入してほしくないもの、それは政治権力ではない。「世俗の縁」だ。職場のしがらみとか、家庭のごたごたとか、友達関係の煩わしさとか、そういったものに介入されたくなくて、船に乗るのだ。

そして、船に乗れば、これらの「世俗の縁」から介入されない生活を送れる。

そもそも、物理的に届かないのだ。船に乗れば外界から完全に遮断される。海の上はWi-Fiが弱いので、家族も友達も職場も、めったに連絡が取れない。

 

こうやって見ていくと、ピースボートは強い「無縁の原理」を持つ無縁空間なのだ。そこに行けば、世俗のしがらみは断ち切られ、何者でもない自分として、約100日の間、世界を旅できる。

もちろん、カルト宗教みたいに「絶対に断ち切れます!」なんて断言することはできないけれど、少なくとも一般社会と比べれば、限りなく無縁に近い空間であるといえるだろう。

ピースボートは現代の無縁空間であり、若者が抱く「リセット願望」を生きたままかなえることができる。

だから、ピースボートに若者が集まるのだ。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です