街中で落書きを見つけた三人。「ウチらのナワバリで勝手なことしやがって。と憤る亜美に対し、たまきはその落書きに妙に魅かれて……。あしなれ第36話、スタート!
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「はっ! はっ! おらぁ!」
奇声を発しながら、亜美が太鼓をたたいている。
本物の太鼓ではない。ゲームセンターにある、ゲームの和太鼓だ。
「どどどどーん!」
口でそう叫びながら、亜美は太鼓を連打した。
一曲終わり、亜美はバチを置いてふうとため息をつく。
「亜美ちゃんさ、叫ばないと太鼓叩けないの?」
横で見ていた志保が尋ねた。
「掛け声と一緒に叩くと、パワーが3倍になるんだぞ」
太鼓を叩くのに、3倍ものパワーが必要なのだろうか。そもそも、亜美が叩いていたのは厳密には太鼓ではなく、ゲームのコントローラーである。常人の3倍ものパワーでたたいたら、壊れてしまうのではないだろうか。
「祭りで太鼓叩いてるやつも、全員言ってるんだからな」
「嘘だよ、聞いたことないよ」
「そりゃ、太鼓の音がでかいから、聞こえないだけだよ」
ほかに客はいない。亜美は百円を投入し、再びプレイし始めた。
「よっ! はっ! たっ! たぁ! とんとととん!」
でたらめな掛け声だけど、叩く姿はなかなか様になっていた。
「ほら、たまきもやってみろ」
亜美は次のプレイのための百円を片手に持ちながら、もう片方の手にバチを持つと、たまきに差し出した。
「私は別に……」
「亜美ちゃん、そうやって強要するのはよくないって」
「べつに強要してねぇだろ! な、ボウリングやバッティングセンターみたいなスポーツってわけじゃねぇ。ほんとにただのゲームなんだから、軽い気持ちでやればいいんだよ」
じゃあ、やっぱり3倍のパワーなんて必要ないんじゃないだろうか。
たまきは亜美からバチを受け取ると、太鼓の前に立った。ゲームが始まり、音楽が流れる。
「よっはったったぁとんとととん」
小さな声で亜美の掛け声を忠実に模倣しながら、たまきは太鼓をたたいた。まあ、いちばん簡単なモードなので、ふつうにやればふつうにクリアできる。いかに「ふつうに」が苦手なたまきでも、これくらいの「ふつうに」はこなせる。
「どうだ、たまき。やってみた感想は」
「えっと、棒をもって、太鼓をたたいて、曲が終わって……」
たまきは亜美の方に振り替えると、困ったように言った。
「それで、どうすれば……」
どうすればと聞かれても、困る。
「おまえ、ゲーセンでゲームやっても楽しくないって、それはもうビョーキだぞ」
とうとう病気呼ばわりされてしまった。まあ、ゲームの楽しさがわからないたまきの方がおかしいのだ、ということくらいは、たまきも理解している。
「あ、じゃあ、つぎ、あたしやる!」
志保が手を挙げた。たまきからバチを受け取ると、百円を入れて太鼓の前で構える。
志保は無言で太鼓をたたき続ける。
「お前、掛け声言えよ」
「絶対ヤダ」
画面を凝視しながら、志保はバチを動かした。曲が終わると、かなりの高得点がマークされた。
「どう? すごいでしょ?」
「すごいけどさ……」
亜美は少し言いにくそうに言葉を続けた。
「なんか楽しそうに見えねぇっつーか、ゲームしてるっていうより、そういう作業をこなしてるように見えるっつーか……」
「そ、そんなこと……」
「だいたい、おまえの場合、太鼓の音が小さいんだよ」
「べつに、大きな音を出すゲームじゃないでしょ。本物の太鼓じゃないんだし」
「だから、リズムよく太鼓を叩いてるっつーよりは、黙々と太鼓にバチを当ててる作業してるように見えるんだよ」
「そんなの……き、気のせいだよ……」
それ以上、志保は反論しなかった。
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ゲームセンターで少し汗を流した後、銭湯に入ってさっぱりして、帰りにコンビニに寄ってから帰る。3人のいつものルーティンだ。
4月に入り、だいぶ暖かくなったので、日が沈んでからもお風呂に行くようになったし、銭湯帰りにぶらぶら寄り道しても湯冷めしない。
三人は、コンビニで買い物を済ませたものの、すぐには帰らずに、買ったお菓子をつまみながら街をぶらぶらしていた。
少しばかり、冬の時よりも町はにぎわっているように見える。歓楽街にはグループで入れる居酒屋が多い。大学の新歓コンパや、会社の歓迎会が多いのだろう。中には、明らかに羽目を外してしまった姿も見られる。
たまきはいつも、亜美と志保の少し後ろを歩くのだけれど、ちょっと不安になって、その距離を少し詰めた。
ふと、亜美が足を止めたので、思わずぶつかりそうになり、たまきは足を止めた。
「どうしたの?」
志保は亜美の目線の先を追った。
通りの脇にある、ビルとビルの間の隙間。人が一人ギリギリ通れるような間隔しかなく、配管が無数に走り、地面にはポリ袋だの煙草の吸殻だのが散乱している。
そんな隙間の壁の一部に、スプレーのラクガキがあった。緑のスプレーで何やらアルファベットのようなものが書かれている。英単語なのだろうが、文字を崩してあるのか、なんて書いてあるかはわからない。
それがちょうど亜美の顔の高さの場所にあって、その下にもいくつか小さいラクガキがあった。配管にもステッカーが貼ってある。
亜美はしばらくそのラクガキを眺めていたが、
「ちっ」
と舌打ちして、顔をしかめた。
「へー、意外」
様子を見ていた志保が笑う。
「あ?」
「亜美ちゃんもそういう町の美化意識があるんだぁ、って」
「ビカイシキ?」
亜美は、志保の言ってる意味が理解できていない。
「ラクガキ見て顔をしかめるんだから、街をきれいにしたいっていう意識があるんだなぁ、って思って」
「は? ウチがそんな学級委員みたいなこと考えるわけねぇだろ?」
そういえばつい先週、道端に亜美が煙草をポイ捨てして、志保が咎めたばかりだった。
「ここは、ウチらのナワバリなんだよ」
「……どゆこと?」
今度は志保が、亜美の言ってることを理解しかねている。
亜美は、向かいのビルの上階を指さした。
「あそこにヒロキが経営してるバーがあんだろ」
「え? ヒロキさんってバーの経営者だったの?」
志保の驚きを華麗にスルーして、亜美は続ける。
「で、その2号店がこっち。その下がシンジの働いてるホストクラブだ」
志保は「シンジ」とやらの顔が思い浮かばなかった。
「で、あれがケイタの店だろ? そんで、リョウジの働くクラブがあれ」
顔は思い浮かばないけれど、どうやら亜美のクリスマスパーティや花見に集まるような連中のことだろう。亜美はその後も、夜空の星座案内かのように、周りのビルの店を示しては、誰それの店だと解説している。
「『城』の下の階にあるビデオ屋あんだろ? あそこのオーナーもウチらのグループの一人」
「え、あのおじさん?」
「あれは店長。そうじゃなくて、オーナー。ヒロキが、たまにビデオや手伝ったりしてんのも、オーナーがダチだからだぜ」
ほかにも、志保と出会ったクラブとか、ミチがライブをしたライブハウスとか、さっきまでいたゲーセンとか、ぜんぶ亜美のいう「グループ」のメンバーが何らかの形でかかわっているらしい。どうやら、たまきと志保は知らないうちに亜美の「ナワバリ」の中で生活していたようだ。
「つまり、この辺り一帯は、ウチらのナワバリなんだよ」
亜美は証明終了という顔をしているが、たまきはそもそも何の説明をされたのかすらよくわからない。困ったように志保の方を見た。
志保は、頭の中に碁盤を思い浮かべていた。囲碁のルールは確か、自分の石で周りを固めてしまえば、そこが自分の陣地になるはずだ。同じ理屈で、自分たちの仲間の店で囲まれた領域が、亜美の言う「ナワバリ」なのだろう。
とすると、亜美がラクガキひとつで怒っているのも何となく理解できた。自分の陣地にどんと相手の石を置かれた、そういうことなんじゃないか。
「つまり、亜美ちゃんたちのナワバリに、知らない誰かが勝手にラクガキしたから、怒ってるってこと?」
「さっすが! よくわかってんじゃねぇか!」
こんなことでホメられてもうれしくない。
「最近、これとおんなじラクガキが、歓楽街のあちこちで見つかってんだよ。ウチらのナワバリの、中でも外でも。誰かが、ここは自分のナワバリだって言ってやがんだよ。クソ腹立つ」
なるほど。どうやら、碁石の代わりにお店とラクガキで囲碁をしているようなものらしい。囲碁というより、犬のマーキングに近いのかもしれない。
だけど、そもそも亜美の言う「ナワバリ」も、別に土地を買い占めているわけでも、法律で決まっているわけでもない。自分たちの行動範囲を「ナワバリ」と言い張っているだけだ。要は、町を丸ごと不法占拠しているようなものである。
そんな志保の考えを見透かしたのか、亜美は不満そうに口を尖らせた。
「なんだよ、そのキョーミなさそうな顔は」
「興味ないもん。あたしに関係ないし」
「なに言ってんだ? おまえらも、ウチらのグループのメンバーに入ってんだからな」
「え?」
「ええ!」
志保もたまきも、そんな不良グループと契約書や杯を交わした記憶なんて、ない。
「あたりまえだろ。ウチと一緒につるんでるんだから」
たまきが「そういうものなんですか?」と言いたげに志保を見上げ、志保は「そんなルールない」と言いたげに首を横に振る。
「そんなグループに入ったおぼえ、ないんだけど? 勝手に入れないでよ」
「は? おまえら、どうして今までウチらの不法占拠がばれなかったか、わかんないのか?」
「え?」
志保は亜美の説明を思い返してみた。『城』の下の階のビデオ屋のオーナーは、亜美の「グループ」のメンバーだという。
つまり、その真上にある『城』も、すっぽりと「ナワバリ」に入ってしまっている、ということだ。
亜美はそれ以上説明しなかったが、不法占拠が今日までバレていない理由は、きっとそういうことなんだろう。
そもそも、野良猫同然の暮らしをしていた亜美が、太田ビルの『城』と言うキャバクラの廃墟に転がりこめたのも、もともとそこがナワバリの中だからではないか。
つまり、志保もたまきも全く無自覚のうちに、亜美の「グループ」と「ナワバリ」に守られていた、ということではないか。なんだか、非核三原則を持ちながらもアメリカの核の傘下で守られてる日本みたいだ。
亜美は、もう説明は終わったという感じで志保に背を向け、再びラクガキをにらみつけていた。
「たまき」
「は、はい」
「おまえさ、この辺で絵を描く道具が買える店、知ってる?」
「ま、まあ」
「ソコ行ったらさ、こういうスプレーも売ってっかな?」
亜美はスプレーで書かれたラクガキを指さして言った。
「さ、さあ。見たことないですけど、あるかもしれないです」
「そんなの買ってどうするの、亜美ちゃん」
「いや、このラクガキの上から、スプレーで別のマークでも書いて、ここはうちらのナワバリだって示そうかなって」
「ええ?」
どうやら亜美は、ラクガキの上に新たにラクガキを塗り重ねるつもりらしい。
「なんでもいいんだけどさ、そうだな、うちのイニシャルの『A』を赤ででっかく書く、ってのどうだ。ナワバリのほかの場所も、ラクガキされる前になんか書いとくか」
「なに言ってるの亜美ちゃん!」
志保はラクガキをのぞき込む亜美に近寄った。
「落書きは犯罪なんだよ?」
だが亜美は、ハハハと笑うだけだった。
「お前、不法占拠とかいろいろやっといて、いまさらラクガキぐらいでなにいってんだ?」
「いや、そうなんだけど……、だからって何やってもいいってことにはならないでしょ! むしろ、そういう目立つようなこと、やめてよ!」
「だってお前、ウチらのナワバリに知らないヤツがなんか描いてんだぜ? 悔しくないのか?」
「ない!」
志保はきっぱりそう言うと、たまきの方を見た。たまき本人にその自覚はないけれど、こういう時に落としどころを作れるのがたまきである。
たまきも自覚はないなりに、このタイミングで志保がこっちを見るということは、何か言ってほしいんだな、と察する。
とはいえ、何を言ったらいいかなんて、わかるわけがない。そもそも、何を言ったらいいかがわからないからこそ、黙っていたのだ。そんな急に、今この場をうまく収める言葉なんて、思い浮かぶわけがない。
ただ、さっきの亜美と志保の会話の中で、一つだけ気になっていたことがあった。他に何も思い浮かばないので、それを口にしてみることにした。
「えっと、ラクガキって、やっちゃダメなんですか?」
しばしの沈黙。そして、
「え? そこから? 落書きはダメって知らなかったの?」
たまきは無言で頷く。
「そうか、このラクガキ、おまえが描いて回ってるって可能性あったな。おまえ、絵が好きだもんな」
「え? まさかたまきちゃん、外で落書きしてないよね?」
たまきはプルプルと首を横に振る。
「でも、ラクガキしてるのがたまきだったらよかったのにな。お前もグループのメンバーだから、おまえがウチらのナワバリでラクガキしてるってなら別にいいもんな」
「メンバーじゃないし、メンバーでもダメなものはダメだから!」
そこでまた、しばらく沈黙があった後、亜美はふーっ吐息をついた。
「ま、上から書くにしても、このラクガキよりセンスあるもん描かないと意味ないしな。ウチが描いても、センスねぇなって笑われるだけか。……帰っか」
亜美は太田ビルの方に向かって歩き出した。とりあえず、明日にでもスプレーを買ってラクガキするようなことはなくなったらしい。
ただ、一度立ち止まり、たまきの方を見て、
「おまえ、センスあるやつ描けるんだったら、描いていいんだぞ?」
「だからダメだって!」
亜美は再び歩き出し、志保が後に続く。
だが、しばらくして、志保はたまきがついてこないことに気づいた。
振り返ると、たまきはまださっきの場所で、ラクガキを見つめていた。
「たまきちゃん?」
志保の呼びかけにも反応しない。「たまきちゃん、行くよ?」
「は、はい!」
ようやくたまきは呼びかけに気づき、二人の後を追った。
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「まったく、我が弟ながら情けないよ」
ミチのお姉ちゃんが呆れたようにつぶやいた。
「で、そのままたまきちゃんを帰しちゃったわけ?」
ミチのお姉ちゃんが十日ぶりに海外旅行から帰ってきたのが昨日の昼。「そのあと」というヘンな名前のスナックは、今日の夜から営業再開である。
今は営業前の肩慣らしにと、店で弟に昼飯を作ろうと準備していたところだった。そこで「なんか変わったことはなかった?」という質問に明らかに言いよどんだ弟に、たまきとのことの顛末を洗いざらい白状させたところである。
「そういうのをね、『据え膳食わぬは武士の恥』っていうの」
ミチには意味がさっぱり分からないが、姉が言わんとしていることはなんとなくわかった。
「女の子がわざわざ泊りに来たのよ? 向こうだってそういう展開を期待してたってことでしょ?」
お姉ちゃんは、ミチの携帯電話に保存されている、猫と戯れるたまきの写真を見ながら言った。
「いや、俺も最初はそうかもって思ったりもしたんだけどさ、とにかくさ、その、たまきちゃんはなんつうか、ちがうんだよ」
「なにがちがうのさ」
「その、姉ちゃんとは違うんだよ」
「ちょっと! 実の姉を尻軽女みたいに言うとは、許さないよ!」
ミチはしまったと、心の中で軽く舌打ちをした。
だが、とにかく姉の想像しているようなパリピな女子にたまきは当てはまらないのだ。ズレているどころか、重なるところが見つからない。
おまけに、ミチはたまきからはっきりと宣言されているのだ。「期待にはこたえられない」と。それこそ、たまきが姉の言うようなことを何一つ期待していなかったということではないか。
なんとかそのことを姉に理解してもらわないと、このままふぬけ呼ばわりされたのでは、昼飯がマズくなる。
「そのさ、姉ちゃんはまだたまきちゃんと何回かしか会ってないんでしょ? だから、まだあの子のことをよくわかってないんだよ」
「ほーう、まるで自分はたまきちゃんのよくわかってる、みたいな言い方ですな」
お姉ちゃんはちょっと茶化すように言ったが、ミチはそこで黙り込んでしまった。
はたして、自分はたまきのことを理解しているのだろうか。
正直、泊まりに来た夜、なぜ怒られたのか、どこに地雷があったのか、今でもよくわかっていない。
オダイバでのあれこれも、いまだにわからないことだらけだ。
ただでさえ女心はわかりづらいというのに、たまきの思考と感性は一般的な女心とは外れたところにあって、輪をかけて理解できないのだ。
ふいに、店のドアが開き、ドアの上につけられたベルが鳴った。
「すいません、今日はランチやってなくて……」
と言いかけたお姉ちゃんだったが、入ってきた人物の顔を見て、
「あら、ウワサをすれば。いらっしゃい」
と笑顔を見せた。その言葉で、ミチも誰が来たのかがわかり、ドアの方に振り返った。
「あの……ミチ君、いま……すよね」
ミチと目が合ったたまきは、軽く会釈をした。
「なに、今日はどうしたの? もしかして、またデートのお誘い?」
お姉ちゃんの言葉にたまきは一瞬、背中をビクッと震わせた。
「ち、ちがいます別に……」
と言い淀みながらたまきはミチの方を見た。
いかにミチがたまきのことをわかっていない、といっても、さすがに今のたまきが睨むようにミチを見て、何を言おうとしているかぐらいは察しが付く。おおかた「この前のこと、勝手にしゃべったんですか?」って感じだろう。ミチも、「だってしょうがないじゃん」と言いたげに、たまきから視線を逸らす。
「あ、あの……この前の写真を見せてもらおうと思って……」
「この前のって、猫をなでたりしてるやつ?」
お姉ちゃんが聞き返す。
「えっと……そっちじゃなくて……」
たまきが見たいのは、アキハバラの駅で見た夕日の写真だ。
「ああ、あれね。せっかくだから、プリントアウトしてあげるよ。姉ちゃん、ケータイの写真って、プリントできる?」
「パソコンに転送すればできるんじゃない? あたしのパソコンに添付してメールを送ればいいんじゃないの? あとで印刷しとくから」
「あ、ありがとうございます」
たまきはぺこりと頭を下げた。
そして、そのまま動かない。
しばらくしてたまきが顔を上げると、お姉ちゃんに尋ねた。
「……お姉さんは、私が猫と遊んでる時の写真を、見たんですか?」
「うん、見た見た。かわいく撮れてたよ」
「……何枚ですか?」
あの時、十枚くらい写真を撮られた気がするが、たまきはミチに、「猫を抱っこしている写真」一枚を残して、あとは消すように頼んだはずなのだ。
それなのに、お姉ちゃんは「猫をなでたりしてるやつ」の写真を見たというのだ。これはおかしい。おかしくないですか?
「うーん、十枚くらい?」
お姉ちゃんの答えを聞くやいなや、たまきの目線はミチの方にぶつけられた。それが何を意味するか、ミチにもはっきりとわかる。間違いなく、睨んでいるし、怒っている。
「見せてください」
「え、えっと……」
「携帯電話のその写真、見せてください」
ミチが携帯電話を操作し、件の写真の画像を出す。たまきは、ひったくるようにそれを奪い取ると、慣れない手つきで操作しながら、ほかの画像も確認した。
「……私、消してくださいって言いましたよね。ちっとも消してないじゃないですか」
「……いや、だって、もったいないなぁ、って思って。せっかく撮ったのに」
「消してください、って言いましたよね」
「いや、でも、俺のケータイのデータをどうしようが、俺の勝手じゃん?」
「写ってるのは、私です」
まっすぐにミチをにらみつけるたまきと、目線を合わせようとしないミチ。お姉ちゃんはその様子を、何やら楽しそうににやにやと見つめながら、
「いいじゃない。かわいく撮れてるんだから」
と口をはさんだ。
「……そういう問題じゃないです。……そもそも、私はかわいくはないです」
「そんなことないって~」
とお姉ちゃんは、たまきの手にある携帯電話の画像をのぞき込む。
「ほら、このしっぽをピンと立ててる姿、なかなか様になってるよ」
「それは私じゃなくて、ねこです」
「ああ、ごめん。似てるから間違えちゃった」
そんなわけない。ツッコミどころがありすぎるが、絶対にまちがえるわけない。
「……ほら、姉ちゃんのパソコンに写真送るから、ケータイ返して」
ミチが携帯電話を取り戻す。
「余計な写真も消しておいてください」
「わかったわかった、消しておくから!」
ミチが送信を終え、お姉ちゃんは印刷のために、いったん自分の部屋へと戻った。
お店の中にはミチとたまきの二人だけ。しかし、たまきはまだ怒っているのか、ミチと目を合わせようとせず、店の中を見渡している。
ふと、たまきは店の中にバスケットボールにまつわるものがいくつか置いてあることに気づいた。アメリカ人(たぶん)のバスケの選手の写真がテーブルの上の写立てにあり、壁の高いところにはバスケのユニフォームが飾られている。バスケットのゴールをかたどった小さな置物もみつけた。
お姉さんはバスケが好きなのだろうか。しかし、お店の雰囲気とは何だか合っていない気もする。こういうのはスナックよりも、ハンバーガー屋さんとかステーキ屋さんとかの方が似合いそうだ。
そんな風にきょろきょろと店の中を見渡していたら、ミチと目が合ってしまった。たまきは慌てて視線を外す。
「たまきちゃんさ」
ミチは不満げに口を開いた。
「どうして、今日は笑わないの?」
「べ、別に……」
「なんかさ、この前よりもよそよそしくない?」
「き……気のせいです」
「俺ら、一夜を共にした仲じゃん」
「たまたま同じ部屋にいただけです……」
そのまま、たまきはうつむきがちに言った。
「笑顔が見たいんだったら……」
そこに、ミチのお姉ちゃんが戻ってきた。手には写真が握られている。
「プリント終わったよ~」
たまきはイスから立ち上がると、たまきとは思えないほどしなやかな動きでお姉ちゃんの方に駆け寄った。そのまま写真を奪い取るかのように手にすると、
「私、帰ります。ありがとうございました」
と早口に告げ、たまきとしては信じられないスピードで店を出ていった。一連の動きはまるで、一流のバスケプレイヤーが相手選手からボールをかっさらい、そのままコートを駆け抜けて、鮮やかにダンクシュートを決めたかのようだった。
「ミチヒロ、あんたまたなんか怒らせたんじゃないの?」
「……わっかんねぇなぁ」
ミチは、ドアの上にあるベルが揺れるのをただ見ていた。
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たまきは、スナックのドアを閉めると立ち止まり、ふうっと大きなため息をついた。
一息つくと、ゆっくりと歩き出す。
高架沿いの坂道をたまきは、とぼとぼと上っていった。
長い坂道の中ほどあたりで、ふと、たまきは足を止めた。
高架下の一角。フェンスで区切られ、中に入ることはできない。フェンスのむこうには2メートルほど先にコンクリートの壁があり、それ以外には何もない。
フェンスには「不法投棄禁止」という看板が貼り付けられていた。コンクリートの壁はそこだけ「コ」の字型にくぼんでいて、きっと、ポイ捨てにちょうどいい場所で、ほっといたらゴミがたまってしまうから、フェンスをつけてポイ捨てできないようにしたのだろう。
そのフェンスのむこう側の壁に、鳥の絵がラクガキされていた。
おそらく、ペンキで書いたのだろう。だけど、絵のサイズは普通の写真くらいでしかない。ハケではなく絵筆にペンキをつけて描いたのではないか。
白い鳥が、羽ばたくポーズを描いたものだ。くっきりとした黒い輪郭線と、どこか灰色が混じったような白。翼は特に細かく描きこまれている。
たまきがこのラクガキに気づいて足を止めたのは、これと同じものを前にも見ていたからだ。
つい昨日、銭湯帰りに亜美が見つけたスプレーのラクガキ。あのラクガキの周りには他にも、小さなマークが描かれていたり、ステッカーが貼られていたりしたのだけど、その中にこれと同じ鳥の絵があった。
ぼんやりとその絵を見ているうちに、たまきはあることに気づいた。
この絵、どうやって描いたんだろう?
鳥の絵は、フェンスのむこう側にあるのだ。
フェンスにドアのようなものはない。となると、フェンスのむこう側に行くには、フェンスをよじ登り、乗り越えなければならないはずだ。
たまきは視線を上へと投げた。フェンスはたまきの背よりもはるかに高く、3メートル以上の長さだ。ちょうど同じくらいの高さでコンクリ壁のへっこみも終わり、コンクリ壁が道路のそばまで大きくせり出す。せり出したコンクリ壁はフェンスとぴったりっついているわけではなく、隙間が空いている。やっぱりフェンスを乗り越えればむこう側に行けそうだ。
でも、それは「不可能ではない」というくらいの話でしかない。実際にむこう側に行くのは、かなり難しそうだ。
まず、3メートル以上あるフェンスをよじ登らなければいけない。まあ、たまきには無理だけど、世の中にはそういうのが得意な人もいるだろう。
問題は、フェンスを乗り越えるとき、フェンスとせり出したコンクリ壁の、わずかな隙間を通り抜けなければならないことだ。
たまきはその隙間に目をやる。これまた、通り抜けることは不可能ではない。だけど、やっぱり狭い。小柄なたまきですら、どこかをすりむかないと抜けられないのではないか。
そうやって苦労して通り抜けたら、今度は3メートル以上の高さを安全に降りていかなければならない。
しかも、手ぶらでフェンスを登ればいいのではない。ペンキをはじめとした絵を描く道具も持っていかなければならないのだ。
そんな苦労を重ねて、フェンスのむこうにたどり着き、ラクガキをしたら今度は全く同じ苦労をして、フェンスを上って道路に戻らなければいけない。
その間、もしもお巡りさんなどに見つかったら、とてもめんどくさいことになる。
……何のためにそこまでしてラクガキするのか?
ラクガキするだけなら、何もそんな手間と危険を冒す必要はない。この近くなら、高架の下を抜ける、人目につかない通路なんていくらでもある。そこでいいじゃないか。だいたい、フェンスのむこう側にラクガキしても、気づく人はかなり少ないのではないか。
そんな風に考えると、昨日みつけたラクガキも、ラクガキするには適していない場所だったのではないかと思えてくる。
ビルとビルの間の隙間は、かなり狭い。一人くらいなら入ることはできるけど、そこで細かい作業をするのは、無理ではないけど、かなり面倒である。人通りも多い場所だ。通りかかれば誰かが気付くだろうし、やっぱりおまわりさんに見つかったらひどく怒られるだろう。
たまきの目には、スプレーの落書きの方は、少し歪んでいるように見えた。おそらく、描いた人はビルの隙間に入ったわけではない。隙間の外から、スプレーを吹き付けて描いたのだ。壁面に対して斜めに吹き付けたので、少し歪んでしまったのだろう。
あの壁にはステッカーもたくさん貼られていたけど、それなら人目を忍んで隙間に入って、貼り付けたらすぐに出ればいい。
だけど、鳥のラクガキは筆で書かれているように見える。となると、スプレーやステッカーと違い、何分かのあいだ狭い隙間に入って、肘を満足に動かせないような状況で器用に描かなければならない。
……何のためにそんなことを?
たまきは、フェンスのむこうの鳥の絵をふしぎに見つめていた。それはさながら鳥かごの中の鳥のようでもあり、一方で、実は鳥かごに囚われているのはたまきの方なのではないかという、奇妙な錯覚を起こさせる、そんな絵だった。
つづく
次回 第37話「イス、ところにより貯水タンク」
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