ミチに連れられて絵コード店へと行くたまき。そこでついに、たまきは落書きの作者と「出会う」……。「あしなれ」第42話、スタート!
東京にも梅雨が訪れた。とはいえ、カエルが喜びの歌をケロケロ歌うこともなく、ただしとしとと濡れたアスファルトがイヤな匂いを発するばかりだ。
昨日から降り続いていた雨が午後になってようやく止んだ。公園の「庵」の前に、仙人が椅子に腰かけてカップ酒をぐびぐびと煽っている。
桜の木の枝から雨粒がしたたり落ちる。その向こうから、少女が仙人の方に近づいてくるのが見えた。
「やあ」
仙人はそう声をかけて笑った。
「久しぶりだね、お嬢ちゃん。元気にしとったか」
仙人の問いかけに、たまきは無言で頷いた。
「その……ちょっと……バイトをしてました」
「ほう、アルバイトか……」
「そのことで、ちょっと相談があって……」
「ふむ……」
仙人は難しい顔をしながら、スケッチブックをめくる。そこには、仏像が鉛筆でいくつもいくつも描きこまれていた。
「その……どうでしょうか……?」
「悪くはないんじゃないか?」
仙人はメガネのずれを直しながらそう言った。よく見ると、仙人のメガネには少しひびが入っている。
「その……なにか足らないところとか……」
「そう言われてもなぁ……。その住職さんには見せたのかい?」
「ええ、まあ」
「なんと言ってた?」
「いいんじゃないかしら、と……」
「ならそれでいいじゃないか」
そう言って仙人は笑う。
「わしはその住職さんではないからな。住職さんが何を求めてお前さんに絵を任せているのかわからんから、勝手なことは言えん。すくなくとも、技術的にはまあよく描けてる方だと思うぞ」
「そうですか……」
たまきは、なにか納得いかないみたいだ。
「この中の一体をお寺の塀に描くわけか」
「いえ、その、お寺の塀は横に長いので、いくつかの仏像の絵が横にずらりと並ぶ形になるかな……と……」
「はっはっは。まるで三十三間堂だな」
たまきは首をかしげる。
「京都にそういう場所があるんだ。金色の仏像がずらりとならんどってな、その中に必ず知り合いに似た顔があるという、有名な場所だ」
たまきは京都に行ったことがなかった。中学の修学旅行で行く予定だったみたいだけど、修学旅行には参加しなかった。
「ふむ、足りないところか……」
仙人はまたメガネの位置を直しながら、しげしげと絵を眺めた。
「確かに、よく描けているが……」
仙人はたまきに目線を写した。
「お嬢ちゃんは、どうして仏像を描いているんだい?」
「え、えっと……それは……アルバイトで、住職さんに頼まれて……」
「それだけかい?」
「え、まあ、はい……」
たまきには、今一つ仙人の質問の意図がつかめない。
「お嬢ちゃんは、仏様に祈ったことはあるかい?」
「……え?」
たまきは、胸の前で両手を合わせた。
「いのり……ですか……?」
神様や仏様に祈るだなんて、そんなこと、考えたこともない。
たまきはそれを言葉にすることはなかったが、そのたたずまいから仙人には十分に伝わったらしい。
「足りないところがあるとすれば、それは祈りだな。祈りが足りない」
「いのり……」
たまきは胸の前で合わせた両手を見つめる。
正直、仙人の言っている意味は全く分からない。でも、感想を求めたのはたまきであり、きっと「祈り」の意味を自分でしっかり考えることが、仙人からたまきに出された宿題なんだろう。
翌日からまた、雨はしとしとと空を覆い、地面を濡らした。
たまきがまどろみから目を開ける。
薄暗い「城」の中では、亜美がソファに寝転がりながら暇そうに携帯電話をいじっていた。一方で、志保は忙しそうにバタバタと出かける準備をしている。
「ヨコハマの天気は曇りときどき雨だってよ」
「なに、その微妙な天気。サイアク~」
志保が手櫛で髪を整えながら、げんなりしたように言う。
「土砂降りよりましだろ。ってゆーか、梅雨の時期にデートに行く方が悪いんじゃね?」
「しょうがないでしょ。あたし、六月生まれなんだから」
この日は志保の誕生日の前日。今日と明日、志保は田代とヨコハマで初めてのお泊りデートをする予定なのだ。もちろん、ヨコハマに泊まりに行くことは、主治医である舞の「まあ、一日くらい、いいんじゃね?」という許可をもらってある。
「あ~も~、どーしよー! 間に合わないかも~! いってきます~」
と、志保は大急ぎでヒールの高い靴を履くと、駆けだすようにドアの外へと消えた。
扉が完全に閉まったのを確認してから、亜美は
「ちっ!」
と、舌打ち、ではなく、はっきりと口で言った。
その様子をたまきは、ソファの上に横たわりながら見て、ころりと亜美に背を向けた。
志保が恋人と外泊することの、何がそんなに気に入らないのだろうか。むしろ、亜美の方がよっぽど外泊が多いじゃないか。
とはいえ、たまきの中にも、なにかもやもやとした、釈然としないものが凝り固まるかのように存在しているのを、たまきはうすうす気づいていた。
誕生日には友達よりも恋人と一緒にいたい。そう思うのは、きっと当り前のことなんだろう。
でも、「トモダチ」よりも「コイビト」の方がえらいだなんて、誰が決めたんだろう。
一緒にいると楽しい。トモダチとコイビトで何が違うというんだろう。
「亜美さん……」
「ん?」
「たとえば……からあげがあるじゃないですか」
「……ああ」
「みんなで食べようと思ってせっかく作ったからあげを、知らない人につまみ食いされたとしたら……どう思いますか?」
「ムカつくね!」
亜美はたまきの方を見ることなく答えた。
たまきはのそのそと起き上がると、着替えて、顔を洗って、鏡で髪を手櫛で整えるという、たまきなりに頑張って身だしなみを整える。
「出かけてきます……」
と、リュックを背負いながらたまきは言った。
「お、何だ? おまえもデートか?」
と言いながら亜美は上半身を起こしたが、すぐに
「んなわけねぇか。雨降ってるのに、どこ行くんだ?」
たまきは少し考えてから、
「隣町の……床屋さんです……」
と答え、「城」を出た。
雨の中たまきは青い傘をさして北へと向かう。
繁華街を抜けた北側はいわゆるコリアンタウンだ。韓国料理のお店だったり、韓流スターのグッズのお店だったりが並ぶ。
たまきが普段この辺りを歩くことはない。以前にお花見に行くときに通ったくらいだ。
影のように黒いアスファルトに雨水がしみわたり、たまきが歩くたびに跳ね上がるしぶきが鈍く煌く。
次第に雨は弱まっていき、歩き始めて二十分ほどたつと、すっかり雨はやんでいた。
たまきは大通りに出た。この辺りはコリアンタウンの中心地らしく、右も左もそれっぽいお店が並んでいる。
そして、両側の歩道には、制服を着た女子高生が大勢行きかっている。平日だというのに、遊園地と見まごうくらいだ。時間的にはまだ正午を過ぎたあたりであり、たまきが言えた義理ではないが、彼女たちは学校はどうしているのだろうか。きっと、たまきと違って「適度に」学校をさぼったりできる人たちなのかもしれない。
女子高生の群れの間を縫うようにしてたまきはコリアンタウンを歩く。コリアンタウンの景色よりもハングル文字の看板よりも、制服を着た学生の中にいることの方が、たまきにとっては違う国に迷い込んだような感覚に陥るのだった。
やがて、大通りをまたぐように走る高架が見えてきた。駅だ。駅前には大きな工場があって、ミントの香りが漂ってくる。きっとお菓子工場か何かだ。
たまきは改札の前に立つと、キョロキョロと周りを見渡した。ここが待ち合わせ場所なのだ。
不意に肩を暖かれ、振り返ると、ミチがそこに立っていた。
「よっ。おつかれ」
「……どうもです」
たまきは軽く頭を下げた。
ミチがたまきに「レコ屋の店長が、『鳥のラクガキ』を描いた人を知ってるらしい」と告げてから、一週間近くがたっていた。これから、ミチの案内でそのレコード屋に行くのである。
もしかしたら、あのラクガキを描いた本人に会えるかもしれない。「作者の知り合いに会える」ということは、本人に会える可能性だってゼロじゃないはずだ。
でも、いざ会えるとなった時、何を話していいのかわからない。ただでさえ人見知りなうえに、聞きたいことが多すぎて、逆に何も質問が思い浮かばない。
本人に会ってみたいけど、できるなら会いたくない、そんな風にたまきは考えていた。
「迷わなかった? 別に迎えに行ってもよかったのに」
とミチは言ったが、冗談じゃない。ミチとどこかに出かけるところなんて、絶対に知り合いに見られたくなかったから、わざわざ待ち合わせ場所を『城』から遠ざけたのだ。それこそ今日みたいな日にミチがたまきを迎えに『城』に来ようものなら、亜美に何を言われるかわかったものじゃない。
ミチと合流したたまきは、彼の後をとぼとぼとついていく。二人は高架の反対側の路地裏を歩く。
そこはさっきのコリアンタウンとは違い、タイだのネパールだのスリランカだの、いろんな国のお店が並んでいた。さっきのように女子高生がぞろぞろと歩いているわけでもなく、むしろアジア系の外国人が多いようにも感じる。
東京の都心のいかにも「東京でござい」みたいな場所よりも、こういうもはや国籍不明な場所の方が、たまきは歩いていてよっぽど居心地がよかった。
ふと、店と店の間の狭いスペースに、スプレーのラクガキがあるのが目に留まった。
そういえば、ここは歓楽街から歩いてこれるような場所だ。
そして、これから行く先には鳥のラクガキの作者を知っている人がいるという。
だったら、このへんも「作者」の活動範囲の中なんじゃないだろうか。
繁華街では見つけられなくなったラクガキも、ここにならあるかも。
「ああ、着いた着いた、ここだよ」
とミチが指さしたのは、駅から少し離れたところにある青い塗装の建物だった。一階は古着屋で、外階段を上った二階をミチは指さす。そこが目的地のレコード店なのだろう。
ところが、たまきに話しかけるつもりで後ろを振り向いたミチだったが、視線の先にたまきがいない。
「あれ?」
ついさっきまで後ろをついてきてたのに、と当たりを見渡すと、道路を挟んではす向かいの雑居ビルの前にたまきが立っていた。
「そっちじゃないよ」
とミチが声をかけるも、たまきはビルの前を右に行ったり左に行ったりしている。そして、隣のビルとの間にある狭い隙間に入っていってしまった。
ミチがあとを追っかけていくと、隙間に入り込んだたまきが、ビルの上の方を見上げていた。
「どうしたの? なにがあるの?」
「あれです、あれ!」
たまきの声は心なしか弾んでいるように聞こえた。たまきが指さす方へとミチも視線を向けた。
灰色のコンクリートの壁のかなり上の方に、白いなにかが付着していた。目を凝らすと、以前にたまきと一緒に公園で見つけた鳥のラクガキと同じものに見えた。
「これ、たまきちゃん探してるやつ?」
「はい……!」
やはりたまきの声はどこか弾んでいる。
「よく見つけられたね」
「このビルならなんかありそうな気がして。やっぱりあった……」
ミチは周りを見渡す。
「このビルならって……、ほかのビルと何か違うの?」
たまきはその質問には答えずに、レコード屋のある青いビルの前に立った。
「ここですか?」
「そうそう。ここの二階ね」
ミチは外階段を上っていった。そして、二階のドアの前に立って振り返った。
またしても、たまきは視線の先にいない。
「あれ?」
ミチがきょろきょろと周りを探す。数十秒して、ようやく自分の真下、外階段の下にたまきがいるのを見つけた。
「今度は何?」
ミチが階段を降りてたまきのもとに向かう。
外階段のあるビルの側面は駐車場に面していて、視界はかなり開けている。たまきは駐車場の中に立って、青いビルの壁を見つめている。
その隣にミチが立ち、同じように壁を見つめた。
青く塗装されたコンクリートの壁に、絵が描かれていた。黒い線、黄色い線、赤い線、オレンジの線。たぶん、ペンキだろう。色とりどりの線が壁の上を縦横無尽に走っている。
正直な話、ミチにはこれが何を描いたものなのか、さっぱりわからなかった。子供が画用紙にクレヨンでぐちゃぐちゃと描いた絵を、大人がビルの壁で再現したような感じにしか見えない。
「この絵が……どうかした?」
たまきは何も言わず、ただ絵を見つめていた。
人目につかない場所に描かれている鳥のラクガキと違い、この絵は道を駐車場の方から来れば、すぐに目に入る。どうぞ見てくださいと言わんばかりだ。
たまきにも、この線の塊が何を描いたものかはわからない。いや、そもそも形ある何かを描いたような絵ではないのかもしれない。
ただ、壁いっぱいを使って無数の線が、壁からはみ出してしまいそうなぐらいダイナミックにほとばしる様に、たまきは強く惹かれていた。
ようやく二人はレコード屋の中に入った。店の名前を「ハンペンレコード」という。
「ヘンな名前だよな」
と、ドアを開ける前にミチが言ったけど、少なくともミチのお姉ちゃんのスナックよりはまだまともな名前のようにたまきには思えた。
「こんにちわー。店長、いますかー」
ミチの後ろからたまきがおずおずと中に入った。
と同時に、たまきの鼓膜に音楽が飛び込んできた。
図太い太鼓の音だ。でも、和太鼓の音でもなければ、前にミチのライブで聞いたドラムの音でもない。乾いた大木をたたきつけたような音が、部屋中に鳴り響いている。
メロディも、ギターのようでもあり、ピアノのようでもあり、ヴァイオリンのようでもあり、そのどれでもないようであり、とにかく、たまきには判別できなかった。
たまきの乏しすぎる音楽知識の中で、一番近いと思えるのが、ゲームの音楽だった。お姉ちゃんがやっていたRPGの戦闘中に流れる音楽になんだか似ている。
そして、歌、というよりも外国の人の声、がいっしょに聞こえてくる。早口で何かをまくしたてるようであり、たぶんこれが「ラップ」というものなのだろう。
たまきは店内を見渡した。
店の中に所狭しと並ぶ棚には、真四角の絵がたくさん飾られている。とはいえ、ここは絵ではなくレコードを売る店のはずなので、これらはきっとレコードの入れ物なのだろう。サングラスをした黒人男性の写真だったり、たぶんどこかの外国の路上だったり、何かよくわかんないイラストだったり。
狭い店内にジャングルのように屹立する棚。天井のスピーカーからは音がスコールのごとく降り注ぐ。
ミチと一緒じゃなかったら、そして鳥のラクガキがなかったら、たまきはこんな店に入ろうとすら思わなかっただろう。
「店長~!」
ミチが雄たけびのように店長を呼ぶと、店の奥から
「あいよ~」
とけだるそうな返事が聞こえた。ガタリ、と、たぶん椅子から誰かが立ち上がった音。
ジャングルの奥から出てくるのは、トラかライオンか、はたまた恐竜か。
棚と棚の間から、店長と思しき男性が姿を見せた。
何よりもたまきの目線を惹きつけたのは、その男性の髪型だ。毛が太い。いや、太いってもんじゃない。まるでロープである。ロープのごとく太く長い黒髪なのだ。
一瞬、カツラなのかと思ったけれど、毛の根元に目をやると、数本、いや数十本の髪の毛を束ねて、一本の太いロープのようにしているのがわかった。
あとでたまきはミチからこの髪型のことを「ドレッド」と呼ぶことを教えてもらうが、今はまだそんな名称は知る由もない。口元は黒いひげでもじゃもじゃと覆われている。目つきはけだるそうでもあり、どこか鋭さも感じる。年は四十歳を越えたくらいだろうか。
ライオンおじさんだ。レコードジャングルの奥に住まう、極太たてがみのライオンおじさんである。
「なんだ、ミチか。どした? その子は?」
ライオンさんがけだるそうに、ミチとたまきに視線を送る。
「この子たまきちゃんっていうんすけど、この前言ってた鳥のラクガキの人について、たまきちゃんに話してほしくて」
「ああ、その子がお前のカノジョ?」
とたんにたまきがミチをぎろりとにらむ。
『私のこと、そんな風に説明したんですか?』
と言葉にしたわけではないけれど、そうとしか読み取れない表情をしている。
一方のミチは
『イヤ、違うって!』
と言いたげに、両腕で大きな×しるしを作った。それからライオンさんの方を指さして、
『店長が勝手にそう言ってるだけだって!』
と口にしたわけではないけれど、そう言いたそうな顔をした。
その様子をライオンさんはにやにや笑いながら見ている。
「で、その子が鳥の絵を探して回ってるんだって?」
ライオンさんの問いかけに、たまきは無言で頷いた。
「たまきちゃんさ、なんか地図作ってたよね」
ミチに促されて、たまきはリュックから鳥のラクガキが描かれた場所を記した地図を取り出した。
その地図を見たライオンさんは、声を上げて笑った。
「ははは! マジか! ホントにいるんだそんなヤツ! サキが聞いたらぶっ飛ぶぞ!」
ライオンさんは手を叩いて大笑いする。何がそんなに面白いのだろうか。
あと、サキって誰だろう?
本当に何がそんなに面白いのか、ライオンさんは笑いすぎて涙目になっている。
「はぁ、悪ぃ悪ぃ。で、何の話をすればいいんだっけ?」
「えっと……その……」
たまきはミチに視線を送った。どうしても、知らない人の前では、声帯が上手く動いてくれない。
「その鳥のラクガキを描いた人について、教えてほしいんすよ」
と、ミチがたまきの「通訳」をしてくれた。
「ん? サキについて話せばいいの?」
再び、「サキ」という名前が出てきた。
それまで、ミチの後ろに少し隠れるみたいに立っていたたまきだったが、再び「サキ」という名前を耳にした途端、勢いよく一歩前に出た。
「あ、あのラクガキを描いた人は、サキっていうんですか!」
「ん? ん、ああ」
それまで黙っていた子が急にしゃべり出したので、ライオンさんは戸惑いながらも返事をしてくれた。
「その……、サキさんって、女の人ですよね?」
「ん、ああ」
「いくつぐらいの人ですか?」
「んと、二十歳ちょい過ぎだったんじゃねぇかな?」
たまきの中で次第に、おぼろげだった作者像の輪郭が見え始めた。
そしてたまきは、あれ?っと思う。
「ミチ君、あのラクガキを描いた人はセナって名前だって言ってませんでした?」
たまきは後ろにいるミチの方を見た。ミチはぽかんとした表情で、
「俺そんなこと言ったっけ?」
と歯の抜けたような声で答えた。どうも、自分がたまきになんて名前を伝えたかなんて忘れてしまっているようだ。
なんていい加減な人なんだろう。一方のたまきは、この一週間まだ見ぬ「セナ」像をあれこれと考えて、一体どんな人なんだろうと想像を膨らませていたのに、そもそもの名前がちがっていたなんてあんまりだ。
「それで……その……せ……サキさんって人は、どこにいるんでしょうか。……会えますか?」
ライオンさんは、少したまきから視線をそらした、ようにも見えた。
「そこの階段降りて駐車場の方から見ると、このビルの壁に絵が描いてあるの見えるんだけど、見た?」
「え? あ、はい……」
「あれ描いたのもサキだぜ」
「え?」
たまきは後ろを振り返った。振り返ったところで、あの絵が見えるわけではないのだけれど。
「サキは俺がクラブで皿回してる時によく来てくれる客の一人だったんだよ」
人とは見かけによらないものだ。どうやらライオンさんは大道芸クラブか何かに所属して皿回しの芸を見せているらしい、とたまきは解釈した。
「うちの店にもよく来てくれたし、ラップやってるヤツで共通の知り合いも多くて仲良くなったわけよ」
「……はぁ」
ここで言う「ラップやってるヤツ」というのは、音楽のラップのことだろうか。それともサランラップか何かを使った大道芸のことだろうか。
「俺も昔はグラフィティをやってたからさ、知り合いの中にグラフィティやってるやつは何人かいるけど、サキは飛びぬけてうまかったね。センスが光ってた」
とうとうたまきはライオンさんの言葉についていけなくなって、すがるようにミチを見た。
「ミチ君……、その……、ぐら……ぐら……」
「ぐら? ああ、グラフィティっていうのはね、ヒップホップの言葉で言うラクガキのことだよ」
だからそのひっぷほっぷっていうのは何なんだ、とたまきは聞きたかったけど、うまく言葉にならない。
でもこれで、ライオンさんの話が少しわかった。つまり、ライオンさんの知り合いにもラクガキをやってる人が何人かいて、その中でもサキって人は特にセンスが良かったということだ。だったら最初からそう言えばいいのに。
気づけば、ライオンさんは店の少し奥の、レジが置いてある机の横に座って、パソコンを操作していた。
「あの絵は俺がサキに頼んだんだよ。あの壁にもラクガキされてさ。それも暴走族がやるような、とびっきりセンスねぇやつ。だからサキ呼んでさ、センスねぇラクガキされるくらいなら、おまえがこの壁にラクガキしてやれっつったわけよ。ほかのラクガキをもう寄せ付けないようなラクガキを頼むよって。ああ、あったあった」
ライオンさんはたまきを手招きした。たまきは恐る恐るライオンさんに近づく。
「これがそん時の写真。もう二年も前になるか。このペンキのブラシ持ってるのがサキだ」
たまきは画面をのぞき込んだ。写真はさっきの駐車場でこの建物を背景に撮ったものだ。壁にはさっき見た絵が描かれているが、まだ描きかけのようだ。写真にはライオンさんと、その他に男性が数人。そして一番真ん中で笑顔を浮かべる女性が映っていた。
まず目についたのが、髪が鮮やかなピンク色だということだ。服装はいつも亜美が着ているようなものに近く、露出度の高めな服を着て、頭にはキャップをかぶっている。
左手にはペンキのブラシ。右手はピースサインを作っている。亜美と同い年か年上ぐらいのはずなのだけど、幼さの残る顔立ちは、たまきと同い年と言われても納得してしまうだろう。
「その……この人が……」
「……ああ、サキだ」
ライオンさんは、画面を見ることなく答えた。
「あの、店長、それでそのサキって人はどこに行けば……」
「実際大したもんだったぜ。サキのグラフィティは」
ライオンさんは、ミチの質問を遮るように話し出した。
「ここの壁に描いてもらって以来、ラクガキがぱったりなくなった。このビルだけだ。ほかのビルはけっこうやられてて、たびたび町内で問題になってんだけど、ここだけあの絵ができて以来、全くラクガキがないんだぜ」
「それってやっぱり、それだけあの絵がスゴイってことなんすか?」
と尋ねたのはミチである。
「ミチさ、たとえばさ、おまえがスゴイって思ったバンドのライブに割り込んでさ、無理やり自分がマイク握って歌って、ライブをぶち壊しにしたいなんて思うか?」
「……思わないっすね」
「そういうことだよ。たぶん、気が引けるんだろ。この絵の上にラクガキするのはちょっと……みたいな感じでな」
なんだか今自分がやってるバイトに似ている、とたまきは思った。でも、ラクガキしたくなくなる絵なんてたまきに描けるのだろうか。壁の塗装の段階でさっそくラクガキされてしまっているというのに。
「それでなんスけど、店長、そのサキさんに会えないのかなって思ってきたんすけど……?」
と尋ねたのはミチの方だった。
しばらく、沈黙が流れた。もっとも、店内には爆音で音楽が鳴り響いてるのだけど、ふしぎと静寂しか感じられない時間が数秒つづいた。
ライオンさんは、ふうっと息を吐くと、たまきの方を見た。
たまきは思わず視線をそらそうとしたけれど、思い直して、ライオンさんの視線を受け止めた。
ライオンさんの目に、なにかを決意したかのような兆しを感じたからだ。たまきも、人の目線が苦手だなんて言ってていいような場面ではないような気がした。
ライオンさんはたまきの目をまっすぐ見つめて、告げた。
「……もう会えない」
「え?」
と聞き返したのはミチの方だった。一方のたまきは、ライオンさんの言葉ですべてを察したかのように深くうなだれると、ゆっくりと息を吐き出した。
「え? え? どういうことっすか? なんで会えないんっすか? 引っ越したんすか?」
ライオンさんは無言でミチをにらみつけると、舌打ちをした。ミチはなんでライオンさんが苛立ってるのかわからない。
「あの…」
とたまきは切り出した。
「その……サキって人のこと、質問してもいいですか……。嫌なこと聞いちゃうかもしれないけど……」
「……いいよ」
ライオンさんはたまきの目を見て答えた。
「その……サキって人は……いつ……」
そう言いながらも、たまきはそれ以上聞いてはいけないような、知ってはいけないような気がして、うまく言葉を続けられない。そんな様子を察したのか、ライオンさんの方から話し出した。
「……サキが死んだのは二か月くらい前だ」
「え! 死んだ! サキって人、もう死んでるんすか!」
ミチが驚きのあまり爆音の音楽よりも大きな声を出した。
「え? いつ死んだんすか?」
「いま二か月前っつったろ!」
ライオンさんが噛みつかんばかりにミチをにらんだ。それからライオンさんは、たまきの方に視線を戻す。
「二か月前、歓楽街の路上でサキは倒れて死んでた。たぶん、近くのビルの屋上から飛び降りたんだろうな」
「飛び降り……、ですか……」
たまきがつぶやいた。落っこちたのではなく、自分から飛び降りた。
「現場にいたヤジウマの中にたまたま知り合いがいてな。そいつが言うには、サキの顔は見えなかったっていうんだ。顔は見えなかったけど、サキ、派手な髪してたからすぐわかったって。それってつまり、顔は地面の方を向いていたから見えなかったってことだろ?」
たまきは、頭の中でいつかの鳥のラクガキを探しに屋上に上ったことを思い出した。貯水タンクに描かれたラクガキを見上げながら、もし作業中にうっかり足を滑らせたら、落っこちて死んでしまうとたまきは思った。
でも、もし作業中に足を滑らせて落ちたのなら、きっと背中から落ちることになる。顔は上を向いているはずだ。
サキって人がうつぶせで死んでいたというのなら、いつもたまきが屋上から下をのぞき込むときと同じような体勢で落ちていったことになる。
うっかり落っこちたんじゃない。自分から飛び降りたんだ。
「アンタ、サキがもう死んでるって、最初からわかってたって感じだな」
「……べつに、わかってたってわけじゃないですけど……」
たまきは、手に持ったラクガキの地図に視線を落とした。
鳥のラクガキを追っかけているうちに、なんとなく感じていたことがあった。
鳥のラクガキの中にはビルの屋上の危険な場所など、そこに行く途中や絵を描いている途中で、一歩間違えればケガをしたり死んでしまったりするような危ない場所がいくつかあった。
最初は、すごく勇気のある人なのかと思った。命知らずの無謀な人なのかと思った。
でも、ラクガキを追っかけているうちに、だんだんとたまきは、なんだかこのラクガキを描いた人は自分に近い人のように思えていた。
絵を描いているときに、足を滑らせたり脚立が倒れたりして、うっかり死んでしまっても、それはそれで別にいい。
怖くないわけでもなく、スリルが楽しいわけでもなく、ただただ、自分の命に興味が持てない。
店内に重苦しい空気が流れ、それをごまかすかのようにやけにノリのいい音楽がスピーカーから吐き出されていた。
「あの……店長……聞きたいんすけど……」
ミチが申し訳なさそうに手を挙げた。
「サキって人は……なんで死んだんすか……?」
「だから、ビルから飛び降りたっつっただろ。少しは人の話聞けよ」
「あ、いや、そうじゃなくて、自殺なんすよね? なんで自殺なんかしたんすか?」
ライオンさんは舌打ちをして、ミチをにらみつけた。
「知らね……」
「ダメです、ミチ君!」
ライオンさんの言葉を遮るように、たまきが強く言った。たまきが急に大きな声を出したので、ライオンさんもびっくりしている。
「それは……聞いちゃダメです、ミチ君」
「なんで?」
「なんでって……その……」
さっきの大声で力を使い果たしたかのように、たまきの声はどんどん小さくなっていく。何か言ったような気もするけど、はっきりとは聞き取れない。
「え、なんて? 聞こえない」
ミチがたまきの声を聞きとろうと近づき、たまきは目線をそらす。
ふと、たまきの背後からライオンさんのくっくっくという笑い声が聞こえてきた。
「あの……私、何かヘンなこと言いました……?」
「いや、こういう子がサキの絵を探して回ってるのかと思ってな」
ライオンさんは笑っていたけれど、その目はどこかさみしそうだった。そして
「ほんとは、まだサキの話なんてするつもりはなかったんだ」
と、ぽつりとつぶやいた。
「気持ちの整理がまだついてないってのと、まだ実感がないってのと……、だから正直、あいつの話はまだしたくなかったんだけどな、ただ、あいつの絵を探し回ってる子がどんな奴なのか、会ってみたくもなったんだ。で、会ってみてわかった」
ライオンさんはたまきの目を見つめた。
「アンタ、あいつとよく似た目をしてる」
そういった後、ライオンさんは、
「キャラは全然違うけどな」
と付け足した。
たまきは、仙人に言われた言葉を思い出していた。
『きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ』
鳥のラクガキがたまきのことを選んだわけ、そしてたまきがこの絵を選んだわけが、少しわかった気がした。
そして、ちっとも「新作」が見つからない理由も、わかってしまった。
レコード屋を出ると、再び雨が降り出していた。二人は歓楽街の方に向かって歩き出した。ミチは、最初は傘なんかいらないと歩いていたけれど、途中で雨脚が強くなり、しぶしぶ傘を差した。
ふたりに会話は、ほとんどない。
ミチはたまきになんて声をかけていいのかわからなかった。ここしばらくずっと追いかけていた人が、とっくに死んでいたのだ。顔にはあまり出さないけれど、たまきはショックを受けているに違いない。もっとも、ショックが顔に出てないというよりは、普段から身内に不幸があったかのような表情をすることが多いだけかもしれない。
「城」まで残り数分のところだった。たまきは急に
「じゃあ、私はここで。ありがとうございました」
というと、「城」とは違う方向に向かって歩き出した。
「あれ? 帰らないの? 俺もこれからバイトだから、ビルのところまで送るけど……」
「……用事があるので」
そういうたまきの声は、元気がないようにも聞こえるし、いつもこんな感じだったようにも聞こえる。ミチにはよくわからない。
雨の中、たまきは行信寺の塀の前に立った。
目の前にはたまきが数日かけて塗装した青い壁がある。幸い、まだラクガキされていないし、雨の中で塗装も剥げてはいない。
たまきは、自分でも思ったほどショックを受けていないと感じていた。
サキって人のこと、驚きがなかったと言えばうそになる。それでも、うすうすなんとなく、そうなんじゃないかという気はしていた。ずっと追いかけていたとはいえ、一度も会ったことのない人のために涙を流して悲しむような情緒も持っていない。
サキって人は、もういない。とっくにいない。
それでも、あのレコード屋の壁に描かれた絵はほかのラクガキを寄せつけず、町中に描かれた鳥のラクガキはたまきのことを振り回し続けた。
そんな絵が、自分に描けるんだろうか。
でも、そんな絵を描いてみたい。挑んでみたい。
サキって人に挑んでみたい。
今まで考えたこともなかったような感情が、たまきの中に芽生えつつあった。
つづく
次回 第43話「「雨のち極楽、ところにより『最期のラクガキ』」
たまきが追い続けてきた「鳥のラクガキ」の作者、サキはすでに自ら命を絶っていた……。「死にたがり」のたまきが、はじめて「死んだ人」と向き合う。つづきはこちら!