たまきが追い続けてきた「鳥のラクガキ」の作者、サキはすでに自ら命を絶っていた……。「死にたがり」のたまきが、はじめて「死んだ人」と向き合う。
「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち
第42話「ジャングルのちライオン、ところにより鳥」
降りしきる雨の中、たまきは青い傘をさして歩く。すれ違う人たちも、色とりどりの傘をさして歩いている。
晴れている時よりも、雨の中で外を歩く方が、たまきは好きだった。
日本最大ともいえる繁華街の街並みは、昼間はとてもきらびやかでたまきはいたたまれない気持ちになる。そして、この街の輝きはむしろ、夜の闇に沈んだときの方が強く感じられるのだ。
だけど、雨が降っている時だけは、この繁華街の街並みもどこか色を失ったかのように思える。
雨の日は傘のせいで、すれ違う人の顔が見えないことが多い。スーツ姿のサラリーマンの人は紺の傘で顔を隠し、女子高生と思われる制服の人はピンクの傘で顔を隠す。子供と思われる小さいシルエットが、黄色の傘をさして歩いている。
もしかしたら、傘の下に隠れているのは人間の顔ではなく、とんでもない異形の化け物なんじゃないか。
そんなことをたまきは考える。どうしようもなくバカバカしい考えだけど、雨の日の繁華街はどうにも異世界に迷い込んだような気分になる。
それが、楽しいのだ。
どこの街に行っても自分が場違いに思えてしまうたまきは、いっそ思いっきり非現実的な世界の方がなじめるんじゃないかなんてことを考えてしまう。
……サキって人もそうだったのだろうか。
たまきは立ち止まって、雨粒の一つ一つを数えるように、虚空を見つめた。
サキって人が何で飛び降りたのか、ミチが聞こうとしたのを自分から遮ったくせに、あれから一週間ほどの間、たまきはふとした時に「なんでサキって人は飛び降りたんだろう」なんてことを考えてしまっている。
写真で見たサキって人は、たまきとは正反対に見えた。露出の高い服装は、たまきが亜美に何度勧められても断った類のものだし、髪をピンク色に染めようなんてこれっぽっちも思わない。街で目立っちゃうじゃないか。
なにより、写真で見たサキって人は、とびっきりの笑顔だった。あんな笑顔、たまきにはできない。
でも、サキって人が自分で飛び降りたのだとしたら、その人はたまきと同じ「側」の人だったと言える。サキって人がたまきと同じ「側」にいたからこそ、その匂いをたまきはあのラクガキから感じて、追っかけまわしてたんじゃないのか。
たまきはレコード屋の外壁に描かれた絵を思い出していた。あんなに伸びやかな絵を描ける人が、どうしてたまきみたいなじめじめした子とおなじ側に立っていたんだろう。
いったい何が、何がサキって人を死に駆り立てたんだろう。
どうしてサキって人は死んでしまったんだろう。
こんなことをたまきはこの一週間、ずっと考えていた。だけど、あの時ミチを止めないで話を聞けばよかった、とは思えない。そもそも、あのライオン店長さんがそんなことまで知ってるとは思えなかったし、それに、わからないからこそ、たまきはいまこうして、どうしてどうしてとサキって人に思いを巡らせている。
そうやってサキって人のことに思いを巡らせていると、なんだか彼女と対話しているような気分にたまきはなっていた。
サキって人に会うことはもうできないし、会話することも叶わない。
それに、もしサキって人が生きているときにたまきが出会えていたとして、たまきが上手く会話できるなんて思えない。
だからこんなふうにどうしてどうしてと思いを巡らせることが、たまきとサキって人の「会話」としてふさわしいのかもしれない。きっと、直接会って話すことよりも。
それに、街にはサキって人が遺した鳥の絵がある。この絵を探して街を巡っている間、やっぱりたまきは絵を描いた人となんだか会話しているような気持になっていた。
ラクガキなんか探して何が楽しいんだ、と亜美はあきれていたけれど、たまきは普通に会話することが苦手だからこそ、絵を通してそれを描いた人と会話しようとしているのかもしれない。
たまきは、足を止めた。
行信寺の塀の前に来た。たまき自身が塗装した真っ青な壁が一面に広がっている。
そうだ、絵は会話だ。発した声はすぐに消えてしまうけど、絵はその人が死んだ後もずっとずっと残る、言葉にして声なんだ。
自分にもそんな絵が描けるのだろうか。自分がいなくなった後も、自分の声としてずっとその場所で響き続ける、そんな絵が。
もうそろそろ、梅雨が明ける。梅雨が明けたら、壁に絵を描く作業を始める。今日はその打ち合わせで来たのだ。
だけど、肝心のどんな絵を描くのかが、まだ全然決まってなかった。
とりあえず、仏像を描くことにはなるのだろう。細かく描きこむのではなく、かなりデフォルメしたものになると思うけど。
問題はそのあとである。壁は横に長く、仏像いうのはだいたいが縦に長い。仏像を一体しか描かないと、かなりのスペースが余ってしまう。それじゃむしろ、空いたスペースにラクガキしてくださいと言ってるようなものだ。
スペースの限り何体も仏像を描くことを考えたけど、仙人に話したら笑われてしまった。
それに、やみくもに仏像を並べたところで、ラクガキを防止するという本来の目的を達成できるとは、たまきには思えなかった。
悩めるたまきに住職さんは「涅槃像」というものを教えてくれた。仏様が亡くなる時の姿で、横になっているので、横長の塀にはまさにうってつけだ。
でも、たまきの画力ではただお昼寝してるようにしかならないだろうと思ったので、断った。ラクガキ防止なのだから、町の不良たちにナメられてはいけない。「ほとけのひるね」ではダメなのだ。
いっそのこと、お寺だからとりあえず仏像を描く、ということはやめて、サキって人がレコード屋の壁に描いたみたいに、抽象的な絵を描いてみたらどうか。
でも、たまきは抽象画なんて描いたことがないし、レコード屋と同じ絵をそっくりそのまま真似して描いたとしても「それ以来ラクガキされない」なんて特殊効果が発動するとは思えない。
ふと、いつぞやの仙人の言葉をたまきは思い出した。
たまきの描いた仏像のスケッチには、「祈り」が足りない、と。
仙人の言葉の意味はまだ分からない。だけど、仏像を横に並べても、涅槃像を描いても、サキって人の絵を丸パクリしても、たまきが納得できないのはきっとそこに「祈り」がないとわかっているからなんだろう。
行信寺では住職さんが温かいお茶を出してくれた。外は雨だからという配慮なのだろうけど、猫舌のたまきとしては普通のお水の方が嬉しかった。今日は志保も来ていて、本堂の掃除をしている。
「予報だと、来週の火曜日から梅雨明けになるんじゃないかって話なのよ」
住職さんはたまきにパソコンで天気予報を見せながら話した。
「だから、とりあえず来週の月曜から作業に入れるようにしてもらって、で、雨が降ったらその日はお休みってことでいいかしら」
今日は水曜日だから、今日を含めてあと五日しかない。この五日間で作業をはじめられる状態にデザインを仕上げなければいけない。
たまきは出されたお茶に手を付けられずにいた。湯気が立ちこめる間は熱くて飲めないというのもあるし、まだ絵のデザインが決まってないくせに口をつけてはいけないような気もしている。
住職さんは立ち上がると、
「参考になるかどうかわからないけど……」
と、たまきをある場所に案内した。
そこは本堂と事務室みたいな部屋をつなぐ廊下だった。廊下の壁には本棚が置かれ、本がぎっしりと並んでいる。
パッと見た感じ、仏教関連の本が並んでいるようだ。何やら難しそうな本から、「世界の宗教」と書かれた子供向けの漫画本まで、いろいろと揃っている。たまきが以前に貸してもらった、仏像の写真集もあった。
「いろいろ見てってかまわないわよ。デザインの参考になるといいんだけど」
とりあえず、たまきは手当たり次第に写真や絵にまつわる本をあさってみた。
全国のお寺の写真を載せた本。
木彫りの仏像の写真集。
古い水墨画の本。
あれやこれやと読み漁っていると、志保が後ろから覗き込んできた。
「なに読んでるの?」
「その……絵のデザインをどうするか迷ってて……」
「外の壁の? 仏様を描くんじゃないの?」
「そうなんですけど……細かい部分がまだ……」
志保は腕組みをしてうーんと言いながら何か考えているようだ。
「そうだ。壁一面にずらりと仏様を並べちゃうっていうのは? 中学の修学旅行で京都の三十三間堂ってところに行ったんだけど、仏像がずらーっと並んでて圧巻だったんだよ。そんな感じで、どうかな」
たまきは答えない。
「もしくは、仏様をでっかく横長に描いちゃうとか。ほら、涅槃像ってあるじゃない。あれいいんじゃない?」
たまきは答えない。
「いっそのこと、仏様を描くのやめて、ハデに抽象画みたいなの描くっていうのもありだよね。うん、お寺だからって無理に仏様にこだわることないかも」
たまきは答えない。
アイデアを出してくれるのはありがたいのだけれど、どうせなら、まだ検討してないやつを出してほしかった。
遠くで住職さんが志保を呼ぶ声が聞こえた。志保は返事をして立ち去っていった。
そういえば、志保と話したのはなんだか久しぶりのような気がする。一緒に暮らしているのに。
志保が田代とヨコハマにお泊りデートをして以来、あんまりちゃんと志保と話せていない気がするのだ。お泊りデートの後は志保はガイハクしていないし、たまきだって別に志保を避けているわけじゃないのに。
そういえば、志保は誕生日を迎えたというのに、ちゃんと「おめでとう」も言えていないような気がする。
たまきは、ため息をつきながら、本を棚に戻した。
死んだ人との「会話」にばかり夢中になって、生きている友達と会話できてないだなんて、自分はなんてダメなんだ。
たまきは寺の中にはの方を見た。相変わらず、雨がしとしとと降り続いている。
三十分くらい、いろんな本を読んでみたものの、あまりいいアイデアは浮かんでこない。日本の仏教だけじゃなく、シルクロードの仏教遺跡とか、タイのお寺とか、インドやネパール当たりの仏教の歴史とか、いろんな本をパラパラと読み漁ってみたものの、これといったものが見つからないのだ。
いかにも仏教っぽいモチーフを仏様の周りにてきとーにちりばめた絵を描いたところで、そこにはやっぱりたまきの「祈り」は描けていない気がする。そう考えると、頭に浮かぶ泡沫のアイデアがどれも取るに足らないものに思えてしまうのだ。
いのりいのり、とそれこそたまきは祈るように小さく唱えながら、次の本に手を伸ばした。背表紙には「仏教の幻想郷」と書かれている。ムック本というやつだ。
真ん中あたりのページを適当に開いてみた。
社会科の歴史の教科書に出てくるような、資料館に展示されているような、色褪せた古い絵だ。
真っ赤な顔したでっかいおじさんが、怒りの形相で見る者を睨みつける。
隣のページには、赤鬼だの青鬼だのがいて、それこそ鬼の形相で、人の舌を抜いたり、巨大な釜に放り込んで豆のように煮込んだり。
なるほど、これが地獄絵図というものだろう。
たまきは地獄絵図をしげしげと眺める。きっとたまきみたいな迷惑をかけてばっかりの子は死んだら地獄に落ちるのだろうから、しっかりと見ておかないと。
次のページには真っ暗闇の中を人が真っ逆さまに落っこちる姿が描かれている。絵の下には解説文。なんと、地面にぶつかるまでに数億年ただひたすら落下し続けるという地獄なのだそうだ。
……これは地獄だ。人は自由に空を飛べないのだから、数億年落下し続けるということは、数億年身動きが取れないということである。
サキという人がなぜ死を選んだのかの本当の理由はたまきにはわからないけど、数ある自殺の手段の中でなぜ飛び降りを選んだのかはなんとなくわかる。一度宙に体を投げだしたら後戻りできないうえ、すぐに終わるからだ。それなのに数億年も落っこち続けるだなんて。生きてる時間よりもよっぽど長いじゃないか。
たまきは、パラパラと前のページをめくり始めた。
色調が一転して、華やかで色鮮やかな絵が出てきた。
極楽の絵である。どうやらこの本は、前半で極楽、後半で地獄を、古い絵と一緒に解説していく構成らしい。
明るい色調で描かれ、巨大な楼閣を背景に、仏様やその仲間たちがたくさん描かれている。
明るくて、建物も人もいっぱい。これじゃいつもの歓楽街と大して変わらないじゃないか。やっぱりたまきは極楽にはなじめそうにない。
でも、絵の題材にするのならば地獄よりも極楽の方がいいのだろう。たまきは何かヒントになるものはないかと、極楽のページをパラパラとめくっていた。
ふと、ページをめくるたまきの手が止まる。
「浄土の六鳥」と題されたページに6つの鳥の絵が載っていた。
「とり……」
たまきは、惹きつけられる様にそのページを見始めた。
頭が二つある鳥が描かれている。きっと空想上の鳥だろう。
孔雀の絵もある。これはたまきもよく知ってる。動物園で見たことがある。
たまきは、解説文を読み始めた。仏教と、極楽と、鳥。いったいどんな関係があるんだろう。
だけど、途中から文章はたまきの頭の中に入ってこなくなった。
不意に、たまきの脳裏は鮮やかな色をした鳥たちが羽ばたくイメージで埋め尽くされた。
鳥たちは優雅に、舞い踊るように、青空を翔ける。風に乗り、雲を突き抜け、鳥たちはみな同じ方向を目指す。そしてその先に見えてくる極楽浄土……。
たまきがイメージできるのはそこまでだった。イメージの中で覗き見た極楽浄土は、さっき絵で見た、「超豪華な神社みたいな建物が立ち並ぶ街」なのだけど、そこから先のイメージが湧かない。極楽浄土の具体的な風景をイメージしようとしても、やっぱりさっき本で見た絵の内容しか思い出せない。
極楽浄土のイメージが、どうしてもさっき読んだ本の引きずられる借り物のイメージなのに対し、鳥たちはたまきの頭の中で自由に舞い踊り、力強く羽ばたく。映画で見る長編アニメのような滑らかな動きだ。
もちろん、この鳥たちも、今さっき本で見た絵や彫刻がイメージのもとになっているのだろう。だけどさっきの極楽浄土よりもよっぽど鮮明に鳥たちは頭の中で動き回る。まるで、ずっとたまきの中で眠っていて、何かのきっかけで羽ばたく時を待っていたかみたいに。
自然と湧いてきたこのイメージを絵にしたい。たまきはごく普通にそう思った。そこに理屈などない。きっとこれが、仙人の言う「祈り」に近いものなのかもしれない。
ようやく描く絵のイメージが固まってきた。だけど、それでもまだ不鮮明な部分がある。極楽浄土だ。どうしてもたまきの中ではまだ、借り物のイメージでしかない。
せっかく専門家が近くにいるのだから聞いてみよう、とたまきは寺の事務室に向かった。事務室では部屋の片づけでもしているのか、志保と住職さんがあれやこれやとせわしなく作業をしている。
専門家に聞けばいい、と思って来たたまきだけど、自分が「人に聞く」ということが苦手なのを急に思い出して、さっきのムック本を抱えたまま、立ち尽くしてしまった。
5分くらいぼけーっと立ち尽くし、ようやく志保が、
「さっきからどうしたの? そんなところで」
と声をかけてくれた。
「えっと……、極楽について……その……」
「極楽?」
と今度は住職さんが尋ねる。
「あ、もしかして、絵の題材の話?」
と志保。
どうしてこんな簡単な会話を、志保の「通訳」がないとできないんだろう、とたまきは自分自身にもどかしさを感じながらも、頷く。
たまきはさっきの本を開き、極楽の絵が描かれたページを住職さんに見せた。
「あの……極楽って、こういう場所なんですか?」
「……どうかしら? ごめんなさいね。アタシも行ったことないのよ」
そりゃそうだ。
「……そうね、たしかに、行ったことない場所、そこが極楽なのかもしれないわね。その時代その時代で、いろんな人が思い描いた理想郷。いつかこんな場所に行きたいと思うけど、行ったことがない場所ってことかしらね」
住職さんはたまきの持っている本を受け取り、ページを見る。
「この絵は室町時代のものね。この時代は、今みたいな都市と呼べるような場所は京都以外にはほとんどないわ。その京都だって、応仁の乱という戦争の舞台だったの。そんな時代の絵だから、立派で、豪華で、平和な大都市こそが、いつか行ってみたい理想郷、極楽として描かれたのかしらね」
住職さんはたまきに本を返した。
「極楽浄土の浄土って言葉にはね、仏教的な意味とは違う、もう一つの世俗的な意味があるの。そうね、今でいう『異世界』を表すのに、浄土って言葉が使われることがあるわ。だからやっぱり、極楽浄土って、こことは違う世界、ってことなんじゃないかしらねぇ」
「はあ……」
自分で聞きに来ておきながら、たまきは住職さんの話を頭の中で整理するので精いっぱいだった。
「異世界っていうとね」
と、たまきの横に立った志保が言った。
「このお寺がある場所も、異世界の入り口なんだよ」
「……?」
志保はたまに、真顔でヘンなことを言う。
「江戸の城下町ってね、今の東京よりももっと小さかったんだよ。江戸の人たちにとって、城下町の外は異世界。その境目にあたるのがちょうどこのお寺がある、この街なんだよ」
「……はあ」
豆知識を教えてくれるなら、もうちょっと頭の整理がついた時にしてほしかった。
「このへんってさ、都会の真ん中なのに、お寺がいっぱいあるでしょ? それって、やっぱりこの場所が江戸の人たちにとって、異界への入り口だったからなんだよ」
「……志保さん、なんでそんなこと詳しいんですか?」
「……、えっと、何で知ったんだっけ?」
志保は宙を見上げた。するとそこに、ぬっと住職さんが顔を出した。
「アタシが教えたのよ、志保ちゃん♡」
「あ……」
これが「釈迦に説法」というやつだろうか。
数億年降り続きそうだった雨も、いつの間にか上がっていた。たまきは志保と一緒に「城」へと帰る。
途中、いつもたまきが行く大きな文房具屋さんに立ち寄って、新しいスケッチブックを買った。
文房具屋を出ると、大通り沿いに北へ。初詣に行った神社に入って、裏口から歓楽街へと抜け出る。
そういえば、志保と二人っきりで歩くのは、ずいぶんと久しぶりだ。たしか二か月ほど前に志保とこの辺りを歩いたような気がする。ちょうど、たまきがラクガキを探し始めた時期だっただろうか。
記憶の糸をたどっていたたまきだったが、ふいに足を止めた。
「? どうしたの?」
と志保も立ち止まり、たまきの背に合わせて腰をかがめ、たまきの顔をうかがう。
「……志保さん、前にこのへんで、飛び降り自殺があったって言ってませんでしたっけ?」
「とびおり?」
志保は首をかしげたが、やがて思い出したように言った。
「そういえば、前にこの辺でパトカーがいっぱい止まってるのは見たけど、飛び降り自殺かどうかは……」
「それです、それ! それって、いつのことですか?」
「えっとね……、二か月前、いや、もうちょっと前かな?」
「それって、どこのビルですか?」
「えっとね、こっちだよ」
志保は歩き出した。たまきもそのあとをついていく。
やがて、焦げ茶色のビルが近づく。以前に、たまきが屋上の貯水槽にラクガキがあるのを見つけたビルだ。このビルの向かい側にも、同じようにラクガキがあるのをたまきは知っている。
志保はそのビルを通り過ぎると、角を左に曲がった。たまきもそのあとをついていく。
雨上がりの歓楽街は、イカついお兄さん、ギャルっぽいお姉さん、スーツ姿のサラリーマン、セーラー服の女子高生と、様々な人が通りすぎていく。二人が今歩いている場所は、その歓楽街の中心に近く、人通りもかなり多い。
ふと、四つ角のところで志保は足を止めた。
「この辺りのはずなんだけど……」
たまきは周りをきょろきょろと見渡すが、ピルが多すぎて、「このあたり」の一言じゃわからない。
志保は四つ角の一画を指さした。
「あのあたりのはずなんだけど……、規制線も貼られて近づけなかったし、人だかりもあったしで、どのビルかまではちょっと……」
「人が倒れてるとか、そういうのは見なかったんですか?」
「だから、何が起きたのかは知らないんだってば」
たまきは志保が指示したあたりへと向かった。細いビルがいくつも並んでいる。
それぞれ、ビルの一階では床屋さんだったり焼き肉屋さんだったりが営業していた。こういう時、中に入ってお店の人に、二か月前にここで何が起きたのかを聞ける性格ならよかったのに。
ふと、あるモノがたまきの目に留まった。
足元に、小さな瓶が置いてあった。仙人がよく飲んでいるカップ酒の小瓶だ。その小瓶の中に、タバコが数本入っている。
何かが気になるのだけど、何が気になるのか自分でもわからないまま、たまきはしゃがみこんで、その小瓶を見つめた。ツンとしたアルコールの臭いがたまきの鼻をくすぐる。
その様子を、志保が不思議そうに眺めている。
「どうしたの? ゴミでしょ? 亜美ちゃんみたいな人が捨てたんだよ、きっと」
そう志保は言ったが、たまきにはどうしてもその言葉をそのまま飲み込むことができなかった。「誰かが捨てた」というよりも、「誰かが置いた」、そんな気がするのだ。
そしてたまきは、あることに気づいた。
小瓶の中のタバコは、吸い殻ではない。火をつけていない、新品のタバコが数本入っているのだ。
やっぱり、これは「捨てられた」ものじゃない。「置かれた」んだ。
新品のタバコを、お酒の匂いが残る小瓶に入れて、誰かがここに「置いた」。
……誰かが「供えた」。誰かが「たむけた」。
ここで死んだ人のために。きっとお酒とたばこが好きな人だったのだろう。
小瓶は、志保が指示した一角の中のあるビルの入り口に「置かれ」ていた。たまきはそのビルを見上げる。周りのビルと比べると、頭ひとつ高い気がした。
ここだ。きっと、このビルだ。
やっぱりたまきは、こういう「会話」の方が得意のようだ。小瓶を見つけたのだって、もしかしたら誰かに呼ばれたのかもしれない。
ビルの一階は床屋さん。そのわきに通路があり、奥に階段が見える。
たまきはビルの中に勢いよく飛び込むと、通路を抜け、階段を上り始めた。
ふだんにない機敏な動きでたまきがビルの中に入っていくのを、志保は驚きとともに見つめていた。
「たまきちゃん?」
と声をかけてみたものの、まるで耳に入っていないようだ。
なんだか、自分には聞こえない声にたまきが呼ばれているように見えて、志保はちょっと怖くなった。
ビルは七階建てだった。もしかしたら、歓楽街の雑居ビルの中では一番高いのかもしれない。
たまきは息を切らしつつ、最上階へとたどり着いた。もっとも、階段はさらに上へと伸びている。きっと、屋上に出れるのだろう。
最上階はどうやら空き店舗のようだ。でもたまきが暮らす「城」と比べるとずいぶんボロボロで、そもそもドアがあるはずの場所にドアがない。
中に入ってみる。たいして広くはない。壁の一方はガラス張りになっていて、歓楽街の景色がよく見える。
一通り調べてみたけれど、ガラスの壁は開け閉めできそうにない。ここから飛び降りたわけではないだろう。やっぱり、屋上から飛び降りたのだろうか。
少し息を整える。歓楽街の中でもひときわ高い場所から見下ろした景色は、さっき本で見た極楽の姿をどことなく彷彿とさせた。
再び、たまきの中に絵のイメージが浮かび上がった。白い鳥たちが力強く羽ばたいていく。昔の絵に描かれたような、楼閣の立ち並ぶ極楽の中から、人の頭上を飛び越え、建物の間をすり抜け、やがて極楽を抜け出して、高く、もっと高く。
そんなイメージを思い浮かべながら、たまきは空き店舗を出てさらに階段を上った。
たどり着いたのは二畳ほどの部屋。白い扉と、立てかけられた掃除道具以外、何もない。たぶんここは屋上の塔屋で、扉を開ければ屋上に出れるのだろう。
扉には真新しい白い紙が貼られていて、手書きで「立入禁止!」と書かれていた。
たまきはドアノブに手をかける。
がちゃり、がちゃがちゃ、がちゃり。
扉はびくともしない。
たまきはふうっとため息をついた。
もしもサキって人がここから飛び降りたのだとしたら、その時は不用心にも屋上の扉は開いていたことになる。そこに誰か侵入して飛び降りたとなれば、ビルの持ち主は警察からどうしてカギをかけないんだと怒られたはずだ。そうなれば、屋上の扉は鍵をかけられ、貼り紙の一つくらい貼られるだろう。そうだ、飛び降り現場の屋上なんて、入れるわけないじゃないか。
ため息交じりにドアノブに視線を落とした時、たまきはあることに気づいた。
丸いドアノブに、白いなにかがついている。たまきは身をかがめると下からドアノブを見上げた。
ペンキだ。白いペンキが点々とドアノブについているのだ。
白ということは、サキって人が白い鳥のラクガキを描く時に垂らしたのだろうか。いや、扉も白いから、業者の人がうっかり垂らしたなんてことも……。
いや、それはありえない。だって、白い点の多くは、丸いドアノブの下側についているのだから。偶然たれ落ちたんならこんなところにつくはずがない。わざとペンキをつけたんだ。
なんのために?
その人が、この扉のむこうへ行ったことを、後から来た誰かに知らせるために。
たまきは立ち上がった。白い扉を、そして見えないはずの扉の向こう側を凝視した。
間違いない。ここだ。サキって人が飛び降りたのはこのビルだ。
そして、この扉のむこうに、きっと最後のラクガキがあるはずだ。サキって人の、最期のラクガキが。
たまきにはわかる。だって、たまきはずっとサキって人と「会話」をしてきたんだから。
たまきは扉に右手をついた。袖がめくれて、手首の包帯があらわになる。いつも身に着けているものだし、ここ最近はリストカットをしていなかったので、たまきが包帯を意識したのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
「……ずるい。ずるいですよ」
たまきはサキって人とずっと「会話」をしてきた。だからわかる。サキって人はわかっていたはずだ。自分がここから飛び降りた後、この不用心な屋上の扉は施錠され、二度とむこう側には行けなくなることを。「最期のラクガキ」は誰にも見つからないということを。
それとも、どうしてもたどり着きたければ、サキって人の後を追う覚悟で扉をやぶってむこうへ来い、ということなのだろうか。
「……ずるいです」
階段の下の方から足音が聞こえてきた。
「たまきちゃん……?」
志保が息を切らしながら、上ってきたようだ。
たまきは志保に視線を向ける。じっと志保の目を見つめると、すぐにまた扉の方を見た。そして、もう一度つぶやいた。
「ずるいですよ……」
「ずるいって何が?」
志保が背中越しにたまきに尋ねるけれど、たまきは答えなかった。
つづく
次回 第44話「祈りのち『いつか』」
8話にわたり続いてきた「鳥のラクガキ」編もついに完結! たまきの「壁画」とサキのラクガキが交錯する時、たまきの「祈り」が描かれる。年末公開予定!
クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」