小説「あしたてんきになぁれ」 第45話「ため息ときどき舌打ち、ところによりバスケ」

初めてのアルバイトが終わったたまきに、ある異変が起きる。そして、物語は新たな展開へ……。「あしなれ」第45話、スタート。


第44話「祈りのち『いつか』」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


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その日、たまきが目を覚まして最初にすることは、起き上がることなく、タオルケットを頭からかぶったまんま、

「……ふう」

とため息をつくことだった。

とりあえず、メガネをかけよう、と右手を伸ばしたところ、手首に痛みが走って、慌てて引っ込める。この前のリストカットの傷がまだ癒えていないらしい。

八月も始まったばかりで、世間ではどこもかしこも夏休みモードだというのに、たまきの心はもやもやがかかって、いまだ梅雨明けしない。

いや、しばらく晴れ渡っていたはずなのに、とっくに去ったと思っていた梅雨前線が戻ってきてしまった、そんな感じだ。

こんなにも心が曇りがかったのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。

お寺の壁画が完成し、「除幕式」を行った、その日はまだ元気だったのだ。生まれて初めてアルバイトをして、しかも自分の好きな絵を描かせてもらったうえに、きちんと対価まで払われた。もしかしたら、たまきの十六年の人生の中で、一番誇らしい瞬間だったかもしれない。

その次の日もまだ元気だった。亜美からの「ゲーセン行こうぜ」の誘いに、「まあ、たまには……」とついて行ってしまったほどだ。

その日の夜である。トイレに入って一人になった時に、ふと思ってしまった、

「あれ? 私、これから何をすればいいんだろう?」

そこから、凧の糸が切れてどんどん高度が下がるみたいに、たまきの気持ちもどんどん沈んでいった。

とりあえず寝てみたものの、寝てる間に気持ちが回復することもなく、次の日に目が覚めると、

「……ふう」

とため息。

その日の午後、久しぶりにリストカットをしてしまった。

そして、手当てをしてくれた舞から、たまきにとって驚きの診断名が下される。

「ああ、それは、燃え尽き症候群ってやつだな」

そんなものは、部活に汗を流したり、夜遅くまで受験勉強をしたり、そういう人がかかるものだとばかり思ってた。よもや、自分がかかるとは。

たぶん、鳥のラクガキを探し始めてから、たまきはリスカをしていない。それからしばらくして、アルバイトが始まった。サキって人のことを知ってショックはあったけどリスカに走らなかったのは、きっとまだアルバイトという束の間の習慣があったからだ。

だけど、そのアルバイトも終わってしまった。と同時に、たまきの中で鳥のラクガキ探しも、なんとなく終わってしまった気がした。

いや、ホントはずいぶん前から発見数が激減していて、「もう見つからないのかな」と思い始めていた。サキって人の最期を知って、いよいよもう見つからないような気がしていた。それでも、アルバイトが続いているうちは、「もしかしたら」という気持ちを何とか保っていたし、実際、バイトの終わり間際に一つ見つけることができた。

だけどそれも、バイトが終わりを迎えてしまったことで、ラクガキ探しも「もう見つからないんだろうな」という気持ちが勝ってしまい、たまきの中では終わりを迎えてしまった。もしかしたら、お寺の壁画を「ラクガキ探しの真のエンディング」にしてしまったというのもあるのかもしれない。

そして思う。「あれ? 私、これから何をすればいいんだろう?」

スケッチブックに向かって新たな作品を、という気分にはなれない。たまきは次から次へと湧き上がる衝動をキャンバスにぶつけるような芸術家ではない。お寺の壁画だって、悩んで悩んでようやく描き上げたのだ。

絵を描くことは好きだけど、何を描きたいのかと聞かれると、困る。とりあえず、公園でスケッチはしてみるものの、そんなに風景画が好きかと聞かれれば、別にそこまででもない。かといって、サキって人みたいに抽象的な絵が描けるわけでもない。

白紙のスケッチブックを見ても、特に描きたい題材なんて思い浮かばないし、題材探しに炎天下の公園に行く気にもなれない。

そして思う。「あれ? 私、これから何をすればいいんだろう?」

今のたまきには、「創作意欲を失った」と自殺してしまう芸術家や小説家の気持ちが、ちょっぴりわかる。創作意欲がなくなるということは、やることがなくなるということで、それってつまり「あれ? 私、これから何をすればいいんだろう?」ってことだ。

もしかしたら、サキって人もそうだったのかもしれない。「あれ?」と思ってしまうことが怖いから、なにか「やること」が欲しくてひたすらに落書きを続けた。それでもとうとう「あれ?」がぬぐえなくて、死んでしまった。今度もしライオン店長さんに会うことがあったら、この新しい仮説をぶつけてみたい気もする。

生きているということはそれだけで価値があるというけど、つまるところ、いくら命は尊いと言ったって、ただ漠然と目的もなく生きることなんてできないのだ。人間、なんでもいいから「生きる理由」があれば生きていけるけど、なければ死ぬのだ。

たまきの伸ばした右手が、テーブルの上のメガネに触れる。が、すぐに何かを諦めるかのようにメガネを手放すと、右手をタオルケットの中へと引っ込めた。そしてまた、

「……ふう」

とため息をつく。

すると、まるでそこにハモリを入れるかのように、

「はぁ……!」

という別のため息が覆いかぶさってきた。

志保である。

さらにそこから間髪を入れずに

「ちっ!」

というわざとらしい舌打ち。

亜美である。

「ったく、昨日からはあはあはあはあ、うるせぇな!」

たまきはビクッとなり、慌ててメガネをわしづかみにすると、とび起きた。だけど、亜美の視線はたまきではなく、志保の方へとむけられている。

「だって、もう丸一日、返事が来ないんだよ?」

と志保は携帯電話を握りしめていった。化粧をしておらず、髪型もぼさぼさのままだ。どうやら、まだ寝起きらしい。

「丸一日って、いつメール送ったんだよ」

「昨日の夕方」

「一日たってねぇよ!」

志保の姿を見ながら、たまきは「会いたくて会いたくて震える」なんて歌あったなと思ったけど、流行りに疎いので歌の続きは知らない。

「向こうは年上で、大学生だろ? いろいろ忙しいんじゃねぇ?」

「返事送るぐらい、すぐじゃん。前はもっとこまめに返事くれたし。ピョンくんはね、マメな人なの」

「ピョンくん?」

たまきは首をかしげた。志保のカレシは「ゆうたさん」だったはずだ。いつから「ピョンたさん」などという、ウサギかカエルの親戚みたいな人と付き合い出したのだろう。

「あ、あの……ピョンさんって……」

「ん? ああ、あのヤサオだよ」

と答えたのは亜美の方だった。亜美が「ヤサオ」と呼ぶ男は、たまきもあったことのある、志保のカレシの「ゆうたさん」のはずだ。

「『ゆうたさん』から『ゆうたくん』になって、そっから『ゆーたん』になって、それが何でか『ゆーぴょん』になって、で、先月ぐらいから名前の方がどっか行って『ピョンくん』になったんだよ」

と亜美は出世魚の名前みたいな解説した後、

「……はぁあ!」

と、苛立ったようなわざとらしいため息をした。この意味ならたまきにもわかる。「なんでこんな下らねぇこと、ウチが覚えてんだよ?」と言ったところだろうか。

「ピョンくん、この前もすぐに返事くれなかったし、もしかしたら、嫌われてるのかな……。……嫌うよね、あたしみたいな、色々抱えてるめんどくさい女なんて……」

「いや、めんどくせーのはこっちのセリフだよ……」

亜美は心底うんざりしたように吐き捨てた。

 

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「……ふう」

とため息をつきながら、たまきは電車を降りた。わずか一駅しか移動しておらず、ちょっとお金がもったいない気がするけど、この前熱中症になったばっかりなので、たまきは電車に乗ることにした。死に方にもいろいろあるけど、熱中症で死ぬのはいやだ。

駅を出て、高架線沿いの坂道を少し下ると、高架の下が金網で区切られた区画がある。

たまきは金網の前に立って、その向こうをのぞき込む。

鳥のラクガキがある。たまきがかなり最初の方に見つけたやつだ。

うん、今日もちゃんとあるな、とたまきは足を先へと進めた。

坂道をもう少し下ると、スナックなどの飲食店が集まる一画がある。

その中に、「そのあと」というヘンな名前のスナックがある。ミチのお姉ちゃんが雇われママさんをしている店だ。

毎週水曜のランチタイムに、ミチのお姉ちゃんが作ってくれる焼きそばを食べに行く。これが今のたまきに残された数少ない習慣の一つだった。

少し遅めに出たので、時間的にはランチタイムの終わりごろである。

たまきは店の前でふうっとまた一つため息をつく。

もう何度も来ているお店だし、ミチのお姉ちゃんともすっかり顔なじみなんだけど、それでもドアを開ける前はいつも緊張してしまうし、踵を返して帰ろうかとも思ってしまう。

それでも、わざわざここまで来たのにもったいないと思うし、ここで帰ってしまったらたまきにとっての貴重な「習慣」がなくなってしまうので、意を決して扉を開ける。

生きるために習慣があるのではなく、習慣とかルーティンがあるから生きていけるのかもしれない。

「……おじゃま……します……」

申し訳なさそうに空いた扉の隙間から、たまきは店の中に入る。

「あ、たまきちゃん、いらっしゃい。焼きそばね。ちょっと待ってて」

と、ミチのお姉ちゃんの声がする。

 

たまきは、熱々の焼きそばをもそもそと食べる。決して食べるのが早い方ではないけれど、それでも食べ終えるまでにそんなに時間がかからない。

焼きそばを平らげて箸を置く。こうして、たまきの貴重な習慣はあっという間に終わってしまった。

「……ふう」

とやるせなくため息をつく。

すると、それにかぶせるように、

「ふうぅ……」

と、ミチのお姉ちゃんが少し長めのため息をついた。

「あ~、もう、ランチにぜんぜんお客さん来ない~。ほぼたまきちゃんのためにお店開けてるようなもんだよ~」

そういうとミチのお姉ちゃんははぁっと深いため息をまた一つ。

「繁盛するってお客さんが言うからランチ始めたのにさ、ちっとも来やしない」

ミチのお姉ちゃんは、お皿の片づけを始めた。

「忙しかったらそれはそれで疲れるけどさ、ヒマだとその倍疲れるんだよねぇ。なんていうの? 体が固まってほぐれない感じ。これだったらなんかジムとかで運動してた方がマシだわぁ」

ミチのお姉ちゃんは、皿洗いを終えると大きく伸びをした。そして、時計を見る。

「よーし、今日のランチタイムも終わり!」

たまきは財布の中から五百円玉を取り出すと、カウンターの上に置いて、お釣りを受け取った。

「さてと、ヘンな疲れ方したから、軽く運動でもしてこよっかなぁ」

と、ミチのお姉ちゃんはつぶやいた。

「あれ? 寝ないんですか?」

とたまきは首をかしげる。お店の本営業は夕方の5時からで、いつもランチタイムが終わるとミチのお姉ちゃんは仮眠をとるはずだ。

「いいのいいの、あとで仮眠するし、そのぶん開店時間を遅らせればいいんだから。今日は7時ぐらいからでいいんじゃない?」

そんな、適当な。

「だいたい、ランチタイムやってるってウチのお客さんみんな知ってるはずのに誰も来ないんだもの。5時開店だって言って律義に5時からくるヤツなんて、いないいない」

そういうと、ミチのお姉ちゃんは腕を胸の前で十時に組み、軽くストレッチをし始めた。

「あ、たまきちゃんもいっしょにどう?」

「え? う、運動ですか?」

「そ。せっかくだから」

冗談じゃない。大嫌いだった学校の授業の中で、たまきが最も嫌いだったのが体育の時間なのだ。ただでさえクラスになじめなかったうえに、運動神経も悪く、あろうことかそのことをみんなの前でさらされて、人と比べられる。

図工や美術だったら、たまきの数少ない得意科目だったし、小学校中学校ではそこまでレベルの差なんて出ない。でも、体育はできる子とできない子の差が、タイムだとか記録だとかであからさまに出てしまう。

自分が人よりできないんだということを、自分にも他人にもまざまざと見せつける。あんな残酷な授業、他にあるもんか。

だから、普段のたまきだったら、絶対にイエスなんて言わない。どんな運動か知らないけど、運動なんてするくらいだったら、亜美と一緒にゲーセンに行って、たいして面白くもないゲームのボタンをピコピコ押してる方がまだマシである。

そのはずだったのに、たまきがつい、

「……まあ、ちょっとだけなら……」

と言ってしまったのは、とめどなくあふれるため息を押さえるためには、いつもの習慣にはない、全然違ったことをやった方がいいのではないか、なんてことをちょっと考えてしまったからだった。

「よし、じゃあ、行こう」

「……はい、行きます……」

そういうことに、なってしまった。

 

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亜美は一人、「城」の中で伸びをした。

ヒマである。志保は買い物に行ってしまったし、どういうわけかたまきも出かけたまま、帰ってこない。

今日は特に予定もなく、やることも別にない。

「……ちっ!」

と亜美は舌打ちをする。もうすぐ誕生日が近いってのに、貴重な十代最後の数週間を、こんな舌打ちに使ってしまうだなんて、屈辱の極みである。

ゲームでもするか、とゲーム機に手を伸ばしてみるものの、そういやこのゲームにも飽きてきたな、と思い直した。

再び、伸び。そして、舌打ち。

明日のことなんてどうでもいい。今日が楽しければそれでいい。そう生きている亜美にとって、今日が、今この瞬間が楽しくないのは、死活問題である。

亜美は携帯電話を取り出すと、ソファにもたれながら、メールを打ち始めた。手頃なオトコにヒマしてるヤツいないかと一斉送信する。口にはタバコ。志保がいると「換気扇のところで吸ってよね!」とウルサイけれど、いまは小言を言う人もいない。

そのまま二十分が経過した。返事は一つもない。亜美はタバコを灰皿に押し付ける。

肝心な時につかえねーヤツら、と、亜美は舌打ちをした。

さっきからテレビを点けているのだけど、古そうな映画が流されていて、難しそうな顔で難しそうなことを話していて、ちんぷんかんぷん。

ゲーセンにでも行くか……、と思ったけど、ここ一か月で二十回くらい行ってる気がする。さすがに飽きた。

バッティングセンター……は先週行ったんだった。

ここでまた舌打ち。歓楽街のくせにウチのことを退屈させるだなんて、フザけやがって。

そして、ぽつりとつぶやいた。

「……走るか」

亜美はおもむろに立ち上がると、衣裳部屋へと入った。並んだハンガーの中から、ラフな黄色いTシャツを選ぶ。どこかのテレビ番組で募金を募るときに来てそうな鮮やかなイエローだが、亜美の夏服の中では露出も少なく、地味な方だ。

亜美はこのシャツのことを「ランニング用」と呼んでいた。ほかにも「ランニング用」の安物の服が数着、この衣裳部屋にはある。

「規則正しい」なんて言葉と程遠い自堕落な生活を送る亜美にとって、週に一、二回のランニングは数少ない貴重な習慣だ。

健康のためとか、プロポーションを保つとか、そういうことよりも「デブにはなりたくない」という気持ちが強い。

あと、体を動かすのは純粋にストレス発散になる。亜美は体を動かすことが好きなのだ。小学校のころから空手道場に通ってたし、近所の野山を駆け回って遊び、男の子に混じって野球やサッカーをしていた。中学ではソフトボール部でレギュラー選手だった。

中学に入ったあたりから次第に学校がつまらなくなるのだけど、部活と体育の時間だけは別だった。体育の時間なら、サッカーもバスケもバドミントンもできる。おまけに、部活とちがって勝敗だの大会だのに神経をとがらせる必要もない。一時間丸々遊んでいるようなものだ。美術のような意味不明な授業をつぶして、体育がもっと増えればいいのに、学校に通っていたころの亜美はそんなことをよく思っていた。

ランニング用のシャツに着替えた亜美は、軽くストレッチをする。歓楽街を抜けてしばらく行くと「ギョエン」と呼ばれる公園みたいな場所がある。ただ、公園のくせに入場料をとるので入ったことはないし、正直、そこが何なのかよくわかっていない。ただ、この「ギョエン」の周りは人も車もあまり通らない箇所が多いので、この「ギョエン」の周りが亜美のいつものランニングコースだ。「ギョエン」を走っていると国立競技場もあこがれの神宮球場も見えて、なんかテンションが上がる。

もっとも、亜美にランニングの習慣があるなんてことは、同居している志保もたまきも知らないし、付き合いの長い舞も知らない。取り立てていちいち言うことではないし、志保やたまきをランニングに誘ったところで、絶対に首を縦には振らないであろうことぐらい、いくら亜美でもさすがにわかる。

「さてと……」

ストレッチを終えた亜美は、ドアを開けて「城」の外へと出た。時間は昼下がり。ビルの南側に面した外階段に、直射日光が容赦なく降り注ぐ。

「……ぅ熱っ!」

亜美は踵を返して、「城」の中へと戻った。

……なに、この暑さ! バカじゃねぇの?

こんな暑さの中、外で運動しようだなんて、正気の沙汰ではない。ランニングは夕方まで待った方がいい。

こうして、また暇な時間だけが亜美に残った。

「ちっ!」

と舌打ちして、亜美は足元にあったクズかごを蹴っ飛ばした。小さめのクズかごは軽く宙を舞う。

だが、亜美の思ってた以上にゴミが詰まっていたらしい。宙を舞うクズかごの中から、けっこうな量のゴミがクラッカーの紙テープのように勢いよく飛び出し、床に散らばった。

「やっべ!」

亜美はゴミを慌てて拾うと、舌打ちをしながらクズかごの中へと放り込んでいった。

 

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たまきは電車にあまり乗らないし、詳しくもない。「すいかで電車に乗る」というのを、まん丸の巨大スイカを抱えて電車に乗ることではない、そんな人はいない、ということを知ったのがつい最近ことだ。

そして今日「スイカを抱えて電車に乗る人はいないけど、バスケットボールを抱えて電車に乗る人はいる」ということを知った。

ミチのお姉ちゃんがよくバスケの練習をする公園は、前にたまきも鳥のラクガキを探しに訪れた場所だ。スナック「そのあと」からはそこそこな距離がある。ミチのお姉ちゃんは、普段はスクーターに乗ってそこに行くらしいのだけど、あんまりにも暑いので、電車に乗ることにした。たまきも最近、熱中症で座り込んでしまったばかりなので、その方がありがたい。

電車を降りてからは、ものの数分で公園に到着した。線路を越える大きな橋の下に公園がある。公園にはバスケのゴールと、ゾウやパンダの置物があり、そして天井、つまり橋の裏側には例の鳥のラクガキがある。

たまきは公園につくと、まずそのラクガキを探しに行った。公園から橋の上に出れる階段を少し昇ると、天井にあの鳥のラクガキがあるのが見えた。消されることなく相変わらずそこにある。そもそも、たまき意外のほとんどの人はその存在に気づいてすらいないのかもしれない。

ふと、たまきの横でミチのお姉ちゃんも同じように天井を見上げていた。

「あれ? たまきちゃんが言ってたラクガキって」

たまきはこくりとうなづく。そういえば、そもそもここにラクガキがあるって教えてくれたのも、ミチのお姉ちゃんだった。

「三十分ぐらいできるかなぁ」

ミチのお姉ちゃんは腕時計を見ながらそう言うと、

「よし、じゃあ、準備運動から始めようか」

とたまきに告げた。

たまきは見様見真似で、準備運動をする。すると、その途中でミチのお姉ちゃんがくすくす笑い出した。

「ごめんごめん。いや、たまきちゃん、ふだん運動とかしないでしょ」

そんなにぎこちない動きだったのか、とたまきは顔が少し赤くなった。

「運動とか、苦手?」

「……まあ」

苦手なのになぜこんなとこに来てしまったんだろう、とたまきは首をかしげた。

「それで……私はどうすれば……」

準備運動が終わり、たまきは不安げにお姉ちゃんに尋ねた。

「そうだなぁ……、たまきちゃん、シュート練習とか、したい?」

「別に……」

ほんとに自分は何しに来たんだろう、とたまきは目線をそらす。

「オッケー。じゃあ、あたしの練習、ちょっと手伝ってもらおうかな」

ミチのお姉ちゃんはバスケのゴールの正面、少し離れたところにボールを抱えて立つと、公園の一角を指して、たまきをそこに立たせた。お姉ちゃんとゴールとたまきが、ちょっとした三角形を形作っている。

「あたしがシュートしたボールを拾って、あたしにパスしてほしいんだけど、大丈夫?」

たまきは少し考えた後、こくりとうなづいた。たぶん、球拾いってやつだ。それならたまきにもなんとかなるだろう。

ミチのお姉ちゃんはその場で何回か軽くドリブルをすると、ボールを両手に持って構えた。

同時に、膝が軽く曲がる。

息を、すう。

曲げた膝を伸ばしながら真上にジャンプ。

右手でボールを頭の上に掲げる。

左手は添えるだけ。

息を、はく。

汗が零れる。

放たれたボールがアーチを描き、ゴールめがけて飛んでいく。

たまきは宙を見上げ、ボールを目で追った。

ボールはリングにぶつかり、ガンッと鈍い音を立てて、右へと弾き飛ばされた。

「あちゃ~。もうちょい左かぁ~」

地面に転がっていくボールをたまきはしばらく目で追っていたけれど、やがて思い出したように慌てて走り出した。

そうだった。これを拾うのが私の仕事だった。

「たまきちゃん、ワンバウンドでいいからね~」

ミチのお姉ちゃんが手を振って、たまきに呼び掛ける。

たまきはボールを拾うと、言われたとおりにワンバウンドでミチのお姉ちゃんに投げ渡した。

……つもりだったけど、ボールは小さく3回くらいバウンドし、力なく地面を転がり、お姉ちゃんの足元にたどり着いた。お姉ちゃんはしゃがみ込んでそれを拾う。

まあ、変なところに飛んでいかなかっただけ、よしとしよう。たまきはそう思った。

 

それから十数分、ミチのお姉ちゃんはひたすら、ゴールに向けてボールを投げ続けた。そのたびにたまきはボールを追いかけ、拾い、お姉ちゃんに投げ渡す。たまきは投げているつもりなんだけど、はたから見たら転がしてるように見えるかもしれない。

お姉ちゃんが放ったシュートは、よく入った。七割ほどの成功率なんじゃないか。

ボールを拾って、ふとたまきはゴールのほうに目をやる。たまきが立っている場所は、ゴールまでの直線距離ならお姉ちゃんとさほど変わらない。むしろ、少し近いくらいだ。

それでも、ここからボールを投げてあのわっかに入れるなんて、たまきには不可能に思えた。

たまきはミチのお姉ちゃんに向けてボールを投げ転がす。だけど、ボールはお姉ちゃんよりもやや右側へと転がってしまった。

「あ、ごめんなさい……」

「いいよいいよ、たまきちゃんが球拾いしてくれて助かったよ。自分でシュートして自分で取りに行くの、なかなか面倒だもん」

ミチのお姉ちゃんはボールを拾うと、ドリブルしながら元の位置に戻った。再びボールを構えて、膝を曲げ、息を吸う。

たまきはいつしか、シュートの成否よりも、ボールの行方よりも、この一瞬に注目するようになっていた。

ゴールという一点を見つめるお姉ちゃんの目を、いつの間にか見つめていた。

すさまじい集中力、というのとは少し違う。むしろたまきの目には、ほんの一瞬だけ、ミチのお姉ちゃんが無心になっているように見えた。

ふと、いつか仙人に言われた言葉を思い出す。たしか、お寺の壁画に何を描くか迷って、仙人にスケッチを見せに行った時だ。たまきの絵には祈りが足りない、そう言われた。

シュートの直前、ボールを構えるミチのお姉ちゃんの姿は、なんだか祈りをささげているようにたまきの目に映った。

前にこの公園にミチと来た時、ミチはたまきに、お姉ちゃんがこの公園で時々練習してること、弟のために高校進学をあきらめ、本格的なバスケもあきらめてしまったことを語った。

その時の印象では、お姉ちゃんが泣く泣く夢をあきらめたような悲壮感漂う姿をイメージしていた。少なくとも、ミチはそんな風に語っていた。

だけど、いま、目の前でシュート練習をしているミチのお姉ちゃんは、夢をあきらめた哀れな女性、という風には見えない。ゴールめがけてボールを投げ、その結果に一喜一憂し、ただただ純粋にバスケの練習を楽しんでいるように見えた。

にしても、どうして練習なんてしているのだろうか。試合に出る予定でもあるのだろうか。

「たまきちゃん、どうしたの?」

お姉ちゃんが不思議そうに問いかけた。たまきはハッと我に返る。どうやら、拾い上げたボールを抱えたまま、立ちすくんでしまっていたらしい。

「私の投げ方、なんかヘンだった?」

お姉ちゃんは、たまきが自分のほうを向いたままぼけーっと固まっていたのが不思議らしい。

「え、えっと……その……、お姉さんって、試合するんですか?」

「……試合?」

「だって……練習してるから……」

「ああ、そういうこと。別にないよ、試合なんて」

そういってお姉ちゃんは笑った。

「試合の予定があったらさ、こんなとこで一人で練習しないでしょ。チームメートと一緒にやるって」

「じゃあ、なんで……」

「なんでって言われると……」

お姉ちゃんは頭の後ろをポリポリと掻く。

「シュートしたいから、かなぁ」

「……はぁ」

たまきは、お姉ちゃんにボールを投げ転がした。お姉ちゃんはそれを受け取ると、再びシュートの動作に入る。

放たれたボールはリングに弾かれ、たまきの足元へと転がってきた。それを拾いながら、たまきは再びお姉ちゃんに尋ねた。

「シュートをしたいっていうのは……、それってやっぱり……バスケのことまだあきらめきれなくて……」

それを聞いたお姉ちゃんは、少し考えるそぶりをした後、口を開いた。

「……ミチヒロでしょ。アイツ、たまきちゃんになんか余計なこと言ったな?」

ミチのお姉ちゃんはゆっくりとたまきのそばに近寄ると、ボールを渡すように促した。たまきは投げたり転がしたりすることなく、そのまま渡した。

「アイツ、あたしのバスケのこと、なんて言ってた?」

「その……中学でキャプテンしてたけど、でも、ミチくんや施設の子のためにあきらめたって……」

それを聞いたミチのお姉ちゃんは、ボールを片手で抱えて、ため息をつきながら、額に手を当てた。

「アイツ、まだそんなこと言ってんのかぁ。違うって言ってんのに」

「……違うんですか? だって、ミチくん、お姉さんがバスケ続けてたらいいところまでいけたんじゃないかって……」

「いいとこって言っても、せいぜい県大会のベスト4とかその辺だよ。それでもめっちゃすごいんだけど、たぶんあいつが思い描いてたのはもうちょい華やかなイメージだったんじゃないかな。『姉ちゃん、プロ選手になりなよ』なんて言ってたし」

「プロを目指してたんですか?」

「目指すも何も、日本に女子バスケのプロリーグはないよ」

「え? そうなんですか」

「世の中にはね、女の子ってだけで、最初から叶わない夢がいっぱいあるの」

その時だけ、お姉ちゃんはほんの一瞬、寂しそうな眼をした。

「だからさ、選手としてバスケ続けてこうなんて、最初からそんなに考えてなかったんだよねぇ。ブラジルのサッカー選手とかだと、スラム街からスーパースターになって何億って稼いでなんて話たまに聞くけど、あたしはそこまでの実力なんてないし、日本にそんな環境もないし、アメリカだったら女子バスケのプロもあるけど、アメリカ行くってなるとまたいろいろ大変じゃん。だったらふつうに働いたほうが断然稼げるじゃない? まあ、今も稼いでるとは言えないけど」

お姉ちゃんは、わきに抱えていたボールを、二、三回軽くドリブルしながら、元いた位置に戻った。そして再びシュートを放つ。

ボールは気持ちよくわっかに吸い込まれた。

「よしっ」

ゴール下に転がるボールを、たまきが拾いに行く。その後ろから、

「でもね」

と続けるお姉ちゃんの声が聞こえた。

「それとは別に、バスケは続けたいんだよね。ずっと」

「……それっていうのは……えっと?」

「ミチヒロが言う、『いいとこまで行く』っていうのとは別に、ってこと」

たまきが投げ転がしたボールを受け取り、お姉ちゃんは再びシュートする。今度は、わっかの後ろの板にあたって、大きくはじき返された。

「バスケは続けてく。一人っきりでも、働きながらでも、子育てしながらでも、おばあちゃんになっても、ずっと。確かに、スポーツを極めて一流選手になるのはすごいことだけど、実は『ずっと、何があっても、続けていく』ってのも、意外と同じくらいすごいことだと思うんだよね。環境が変わっても、病気になっても、お金がなくても、それでも何十年も続けてくって、実はそれだけですごいことだと思うし、あたしはプロになりたいよりも、むしろそうやってずっとバスケを続けていきたいって思うんだよねぇ」

弾き飛ばされたボールは、お姉ちゃんの足元に転がってきた。それを拾うとお姉ちゃんは再びシュートを放つ。

まるで見えない糸に引っ張られるかのように、ボールはわっかに吸い込まれた。今日一番きれいなシュートだった。

「よしっ、そろそろ帰ろうか。しかし、あっついねぇ」

お姉ちゃんは持参したタオルで汗を拭き、スポーツドリンクをごくごくと飲む。たまきもほとんど動いていないにもかかわらず、汗をかなりかいていた。このまえ熱中症で座り込んでしまった教訓から、たまきもスポーツドリンクをの自販機で買って飲んだ。

『ずっと、何があっても、続けていく』

ミチのお姉ちゃんの話は、たまきにいろいろと考えさせるものだった。

『ずっと、何があっても、続けていく』

お姉ちゃんの言うとおり、それってとっても難しいことなのかもしれない。

現に、たまきなんて、ちょっとバイトが終わったくらいでお絵描きの筆が止まってしまっているのだ。

何かをずっと好きでいて、ずっと続ける、何でもないことのように見えて、とっても大変なことなのかもしれない。

何があってもずっと絵を描き続ける。何があってもずっとバスケをし続ける。

つきつめれば、「何があっても生き続ける」、ただそれだけできっとすごいことなんだろう。それができなかった人をたまきは知っているし、たまきだってしょっちゅうそれが嫌になってしまうのだから。生き続けてる、それだけのことだけど、もっと褒めてもらってもいいはずだ。

 

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「……死ぬ!」

そう吐き捨てると、亜美は走るのをやめて立ち止まった。シャツの背中をぎゅっと絞ると、冗談のように汗が零れ落ちる。

夕方になれば涼しくなってランニングもできるだろう、と夕方に改めて出直してギョエンの周りを走り始めた亜美だったけど、その考えはあまりにも甘かったようだ。もっとも、亜美は「自分が甘かった」なんて考えない。天を見上げ太陽を睨み、「ふざけんなよっ!」と、神をも恐れない豪胆な言葉を吐き捨てる。

近くの自販機でスポーツドリンクを買って、ごくごくと飲み干す。そういえば、最近たまきが、熱中症に気をつけた方がいい、スポーツドリンクを飲んだ方がいい、とやたらにうるさい。あいつ、何かあったのだろうか。自分はちっとも外に出ないくせに。

スポーツドリンクを片手に、「城」へと帰る道を歩く。ビルとビルの間の切れ込みみたいな細い路地は日差しが届かず、幾分かマシだ。

亜美の唯一といえる習慣がランニングだったのに、それができないとなると調子が狂う。

そもそも、亜美のように飽きっぽい性格の人間が、自堕落な生活の中で、ランニングだけは欠かさず定期的に続けてきた、このことはもっと褒められてしかるべきなんじゃないだろうか。志保は口を開けば何かと小言がうるさいし、たまきに至っては口を開きもしない。一緒に暮らしててあの二人から褒められた記憶がほとんどないし、たまに褒めたと思ったら「亜美ちゃんておバカの割に」とか「亜美さんっておバカなのに」とか余計な枕詞が引っ付く。一体あいつらは、亜美のことを何だと思ってるのか、いや、「なんだと思ってるのか」ではない。バカだと思ってるのだろう。それも、陰でこっそりと思ってるのではなく、堂々と思っているのだ。こんなにも律義にけなげにランニングを続けている亜美のことを褒めないだなんて、あいつらはどうかしてる。

志保とたまきが亜美のランニングの日課を褒めないのは、そもそも亜美にそんな日課があるなんてことを知らないからなのだけど、そういうことに思いが至らないのが、亜美のおバカたるゆえんなのだろう。

そして亜美は、飲み干したペットボトルを道端に投げ捨てるという、全く褒められない行為を平然と行い、立ち去ろうとした。

亜美の左前方に投げ捨てられたペットボトルはころころと転がり、曲がり角のむこうへと消えていく。

ペットボトルの転がる方を追って、何気なく亜美は十字路の左手の路地の奥を見た。

「ん?」

そこに見知った顔があることに反応し、亜美は反射的に立ち止まり、これまた反射的に曲がり角に身を隠した。

そして、狙撃から身を隠す映画の主人公みたいに、そおっと曲がり角から顔を出し、路地の奥をもう一度見る。

やはり、見知った顔がいる。

志保だ。

もう一人いる。後ろ姿だが、男性だろう。

「……ヤサオじゃねぇな」

亜美はぼそりとつぶやいた。

後ろ姿だけど、志保のカレシの田代、ではない。

亜美はもう一度姿を引っ込めると、ニヤリと笑った。

「……おいおい、ウワキか?」

日頃口を開けばあれをやれだのこれをかたせだの、たまきちゃん困ってるでしょだのと小言のうるさい志保である。友人ながら、本当にそりが合わない。そういうそりの合わない友人関係で優位に立つのに効果的なことは何か。

弱みを握ることである。

亜美ならならエンコーだのウワキだの不倫だのと他人からとやかく言われても屁ではないけど、志保の性格なら、そういう弱みを握られるのは、非常に効果があるはずだ。

亜美は携帯電話を取り出すとカメラを起動した。もっとも、シャッター音がするとまずい。写真はイケそうだったらで構わない。

携帯電話片手に再び亜美は路地を覗き込んだ。すると今度は、志保の手に数枚の紙幣が握られているのが見えた。

おいおい、エンコーか? なんだあいつ、人のことさんざん言っといて。

亜美がいよいよカメラ付携帯電話を構える。

ところが、志保はその紙幣の束を、相手の男に渡してしまった。そして何かを受け取ると、まるで何事もなかったかのように背中を向けて、足早に立ち去った。

男のほうもくるりと向きを変え、亜美のほうへと近づく。

亜美はとっさに、身を隠した。携帯電話はポッケにしまう。

身を隠した亜美の背後を男が通る、結局、誰なのか確認はできなかった。

 

……何かを続けることと同じくらい、何かを断ち切ることも難しい。亜美がそのことを知るのは、もう少し後の話だ。


次回 第46話「タイトル未定」

11月公開予定です。すでに書き始めてますが、この続きを書くのが気が重いです……。


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。