女エッセイ四天王

まんまと、してやられました。

図書館で池田晶子さんの哲学エッセイを借りて帰ろうとしたんだけど、貸出カウンターの前に「もう一冊いかが?」という棚があって、三浦しをんさんのエッセイが置いてあるんですよ。

まんまと借りてしまいましたとさ。くそーやられた。

そんで、池田晶子を読んで、三浦しをんを読む。読みながら、「そういえば上の世代の女性の書いたエッセイ、よく読むなぁ」と気づくのでした。

池田晶子さんっていうと、哲学エッセイで有名ですね。哲学とは何か、「考える」とは何か、物事の本質とは何か、存在と無の謎とは何か。そんな話を「エッセイ」という形で、わかりづらい専門用語には頼らずに綴った池田晶子さんの本を、貪るように読んでます。20年も前に亡くなられているのに、その言葉は全然色あせない。

三浦しをんさんは、去年BSでやってたドラマ「舟を編む」にドはまりしたのがきっかけ。原作も買ったけど、エッセイがかなりのハイテンション文体で、ユーモアにあふれてておもしろいんです。借りてきたエッセイでは、BLの魅力を熱く語っていました。

さて、僕のエッセイ好きの原点は、酒井順子さんなのでした。学生のころ、貪るように読みましたね。酒井順子さんは女性の読者が多いイメージなので、たぶん僕の世代の男性で酒井順子さん好きという人は少ないのかな、と思います。

最近読み始めたのが、加門七海さん。歴史や民俗学にも造詣が深く、怪奇系の小説家なんだけど、本人もそこそこ霊感がある人で、怪奇現象に出くわすことが多く、実話系怪談みたいなエッセイを書くのです。

僕にとっては、今この四人が女性エッセイスト四天王なんです。

で、僕、この4人の四天王のある共通点に気づいたんですよ。

全員、東京出身!

たしかに、東京は日本で一番人口が多いです。日本人の10人に一人は東京都民です。

それでも、世の中東京都民じゃない人の方が圧倒的に多いはずなんです。

さらに、この「東京都民」というのは、今東京に住んでる人であって、「東京出身」はもっと少ないはず。千代田区の小学校なんて「こんなオフィス街に人家があるの?」って場所に、「これが校庭? 月極駐車場の間違いじゃないの?」なんてちっちゃい学校がポツンとあったりします。「東京出身」は意外と少ない。しかも、彼女たちが幼少期を過ごしたのは50年近く前。今の世代の「東京出身」よりもかなり少なくなるはず。

あのTOKIOだってTOKIO名乗ってたくせに(もはや過去形になってしもうた……)東京出身は一人だけ。だってのにこの四天王ときたら4人全員が東京生まれ東京育ちなのです。たぶん、悪そうなやつらは大体友達です。

そんでもって、エッセイを読む限りどうやら全員が東京にそのまま住んでいたようです。田舎に憧れて地方に移住することもなければ、海外生活をすることもない。

仕事的に東京に住む必要はまったくないような気がするんですけどね。会社に通勤していたわけじゃないし、芸能人みたいにテレビ局に通う必要もない。あちこち移動するから東京に拠点があるのが便利、というわけでもない。

なんだか、東京で生まれ育っているから、東京にいるのが当たり前、そんな感じがするのです。

一方で、彼女たちの世代ってたぶん最初から今のような摩天楼東京だったのじゃなくて、幼少期から少しずつ東京が「建設」されていく様子を見て育ったんじゃないかと思うんですよ。

上京して環境がガラッと変わったとかじゃなくて、同じ場所にいるはずなのに風景がどんどん変わっていく。こういうところで育ったからこそ、「身の回り」に対する感覚が磨かれていったのかも、なんてことを考えるのでした。

去年のよかったこと3つ

去年はZINE作りの活動の中で、3つ「よかった」ことがありました。

一つ目は、去年の3月に行った琵琶湖旅行。

ただの旅行じゃありません。ZINEの原稿にするための取材旅行であり、交通費、宿泊代、訪れた先の入館料などをぜんぶZINEの売り上げで賄ったんです。

ふだん、ZINEの売り上げはそのまま次の制作費やイベント出店料などに回しているんだけど、琵琶湖まで旅行に行ってもその分のお金が確保できた、ということです。

家から離れたところに取材旅行に行きたい、その費用も自腹を切るのではなくちゃんと売り上げの中から賄いたい、というのは僕の念願でした。夢が一つ叶いました。

ちなみに、昨日もまた取材旅行に行ってきました。山形です。2年続けて行けるのはうれしいことだけど、わざわざ取材旅行に行くからには面白いZINEにしなければ。

二つ目は、雑誌「スペクテイター」に記事が掲載されたこと。

雑誌自体は先月末の発売だけど、「記事を書いてほしい」と依頼され、実際に作業をしていたのは去年の年末のことです。

ZINEの売り上げはずっと黒字で、旅費も賄えるほどだと言っても、それを仕事にできているほどじゃない。

ZINEを売りつつ、出版社の仕事もできればなぁ、と常々考えていました。

そしてついに去年、そのチャンスが来たんだけど、正直、ビビりました。

雑誌という媒体の中で、「民俗学とは何か?」を説明する文章を書く。そんな大役、自分に果たせるのか、と。「誰だ、こんな陳腐な文章を書いたのは!」と海原雄山みたいな顔したエラい人に怒られるんじゃないか、と。……いや待てよ、そいつ誰だ。

ただ、「怒られるかもしれないからやりません」じゃなくて、「やってから怒られよう」って思ったので、引き受けることにしました。

何より、喉から手が出るほど欲しかったのが「実績」です。「雑誌の仕事したいです。やったことないけど、やらせてください」よりも、「雑誌の仕事したいです。やったことあります。読んで判断してください」の方が、断然いいに決まっているので。

そして三つ目が、去年の6月ぐらいの話。

都内の小さなイベントに出店していた時です。小さいイベントなのでそんなにお客さんは来ません。

そこに、大学生くらいの若い女性がやってきました。

ひとしきり僕の作品を見た後で一言「あの、民俗学って何ですか?」

……全く何にも知らないのか! まったく、そんなド素人のお客さんはね……。

……大歓迎! あなたのような人を僕は待ってた!

とはいえ、民俗学を全く知らない人に、口頭でイチから説明するのはなかなか大変です。口をあっぷあっぷさせながら、必死に説明しました。

するとそのお客さん、なんと1冊買っていってくれたんです。

その時思ったのです。「今日の仕事は果たした」と。

大きなイベントでZINEがたくさん売れるのも大事だけど、民俗学を知らない人の「入り口」になる、このたった一冊には、計り知れない価値がある。

去年のイベント販売の中で、一番印象に残っているシーンなのです。

やるべきことをやり続けていれば、こんな風に思いもよらなかったことがいろいろ転がり込んできます。これもまた、船で学んだことです。

社会の風向きはどうしようもないし、時代の流れは待っちゃくれない。未来は誰にもわからない。

信じられるのは自分の「行動」だけ。変えられるのは自分の「生き方」だけ。

自分の心すら、移ろいやすく流されやすい。信じていいのは「行動」だけだし、自分を形作るのもまた「行動」だけ。

なので、これからもまたZINEを作り続けるのです。その「行動」のみが唯一にして最大。

ああ、でも「メディアの仕事が忙しくて、ZINEを作るヒマがありません!」なんてセリフも、言ってみたいかも。

ただ「流されてるだけ」

ここ最近考えているのが、「僕たちは自分の意志で何か行動しているように見えて、実は流されてるだけなんじゃないか」ということです。

はたして、僕は普段の生活の中でどれだけ「自分の意志で何かを決意して行動しているか」と振り返ってみると、実はただただ流されてるだけ、そんなことの連続なのように思えてきます。

「この映画を見たいんだ!」と映画を見に行くのか、なんだか話題だから見に行かなくちゃと「映画を見させられてる」のか。

「このドラマが好きなんだ!」とドラマを見てるのか、サブスクで見放題だからと「ドラマを見させられてる」のか。

「ゲームで遊んでる」のか、ガチャに振り回され、「ゲームにもてあそばれてる」のか。

最近はマンガが無料で読み放題!みたいなアプリの話をよく聞きます。あれだって、マンガを「読んでいる」のか、特に読みたいわけでもないマンガを「読まされている」のか。

「電車に乗って、行きたい場所に行く」のか、仕事に行かないといけないから「電車に乗せられてる」のか。

さらに電車に乗ると、広告の映像が流れてるんです。これまた「見させられてる」わけです。

なんなら、ファミマに並んでる時も広告が流れてます。あれも「見させられてる」わけです。

で、広告に目を通してみると「30代になったら投資は当たり前! さあ、投資を始めよう!」なんてことが書いてあります。何か目的があって投資をするんじゃなくて、「つべこべ言わずに投資をしよう! みんなやってるよ! 乗り遅れるな!」と迫ってくる。果たしてお金を「投資している」のか、言われるがままにただ「ぶん投げてるだけ」なのか。

去年は大きなイベントとして万博があったけど、あれも心の底から「行きたい」と思って行ったのか、実は「行かされてた」だけなのか。

今年は冬季オリンピック、野球のWBC、サッカーワールドカップとスポーツイベントが続くけど、これまた「心の底から好きだ! 見たい!」と思ってみるのか、ただ何となく「見させられている」だけなのか。

そうやってふと立ち止まって自分の暮らしを振り返ってみると、実はただ流されてるだけってことの連続です。

そんなに目くじらを立てなくても、とも思うけれども、こういう日常の「流されてるだけ」を積み重ねていくと、流されるのが当たり前になって、それが思考のクセになります。

そうなると、何か人生の大きな決断をしなければいけない時も、なんとなく「流されてるだけ」になってしまうんじゃないか。

たとえば、大学の学部を選ぶとき、「どうしてもこの学部じゃなきゃヤダー!」と決意していくのか、「就職に有利だし……」となんとなく流されていくのか。

だから、流されてなるものかと、サブスクを見ることをやめて、ゲームもやらず、マンガは紙の本をちゃんと買って読んで、電車やファミマの映像はなるべく見ないようにして、オリンピックも紅白も見ない、「自分で決意したわけではない物」にはなるべく触れないように、そんな風に暮らしています。

「何でも自由に決めていい」「何でも自由に行動していい」と言われるとかえって困ってしまう、誰かかわりに決めてくれ、管理してくれた方がラクだ、そんな人が世の中には結構いると聞きます。

そんなバカな、と思うんだけど、こうも「自分で決意したんじゃなくて、ただ流されているだけ」ってことばっかりだと、「自分で決意する・覚悟を決める」ってのがどんどんできなくなっていくのも当然なのかもしれません。