くらやみ坂のナツミ

インディーズ小説「くらやみ坂のナツミ」がついに完成しました!

ん~? 拍手が聞こえないぞ~?

4つの短編から成る全102ページ、750円で販売中です。

https://nonbuzle.booth.pm/items/6252171

9か月くらいで作るつもりが、蓋を開けてみたらピッタリ1年かかっていました。企画を立ち上げたのが、ちょうど1年前の11月です。

とはいえ、執筆自体は半年前に終わってまして。

じゃあ、残りの半年は何してたのかっていうと表紙づくりに一か月ほど、残りは推敲と校正ですね。一校、二校、三校、頭痛、眩暈、吐き気……。

途中から、症状になってるがね。

だって、校正は集中力と神経を使うばかりで、おもしろくはないんだもん。それが一か月も続けば、眩暈の一つも覚えますさ。

今回、初めて印刷所を使ったので、入稿作業もドタバタでした。「あとはデータを送るだけ」と高をくくってからが長かったです。限られた日数の中で、聞いたことのない専門用語と書いたことのない書類のオンパレード。トンボ、背幅、出力見本、頭痛、眩暈、吐き気、動機、息切れ、脳震盪……。

入稿が終わった日はもう、ぐったりと疲れ果ててました。慣れない作業と時間との戦いだったのです。

さて、次は何を作ろうかしら。

「くらやみ坂のナツミ」を作っていろいろとわかったことがあります。

「くらやみ坂のナツミ」は四つの短編から成ります。

ということは、何話分書けば何ページぐらいになって、いくらぐらいお金がかかって、いくらで売れるか、というのがだいたいわかってきたわけです。

長編を書くにしても、細かく話数ごとに分割すれば、どのような本になるかもある程度想像がつく。僕の場合、「一話」だと思う長さが1万字~1万五千字ぐらいで、だいたい25ページくらいなわけですね。

「このプロットなら分割すれば、だいたい〇話くらいになるかな」

「ということは、〇ページぐらいにはなるわけだ」

「ちょっと長すぎるな。値段も高くなるし。よし、話数を削ろう。一話ももっと短くしよう」

みたいな調整も、次回からはできるわけです。長編が作りやすくなる。

また、一年ぐらいかけて小説を作りたいなぁ。

……の前に、

12月1日の文学フリマ東京のために、「民俗学は好きですか?」の最新号を完成させないと!

10月は「くらやみ坂のナツミ」の完成作業にかなり時間を使ってしまったため、「民俗学は好きですか?」のスケジュールの方が、地味に綱渡り状態になっています。

「1年で3冊作る!」が今年の目標だったんだけど、その3冊目が全く気を抜けない! やるぞ~!

本の表紙が作れない!

ZINEの表紙を撮影しに長瀞に行ってきました。

イヤぁ、長瀞に行くまでが、長かった!

熊谷まで行って、秩父鉄道に乗って、いちど寄居で降ろされて……。

という距離の話ではなく。

「長瀞で写真を撮るぞ!」と決めてから、実際に行くまでが長かった!

その理由は天候です。

最初、木々が青々と生い茂る夏に行こうと思ったんだけど、

「クソ暑い日」か「雨の日」しかない!

クソ暑い日とか、もうムリじゃん。「屋外の運動は控えてください」って言われてるさなかにカメラ持って外うろつくとかもう、死亡フラグじゃん。

雨の日とか、もうムリじゃん。そもそも写真うつり悪いし、秩父のゲリラ豪雨やばいし、それで増水した川のそば行くとか、死亡フラグじゃん。

危険を冒してまで長瀞に行くの、やだよう……。

小説「くらやみ坂のナツミ」の表紙を作るときも、これで苦労したんですよ。東京都内のとある駅前が小説のイメージにぴったりだとわかり、撮影に行こうと思ったのですけど、

やっぱり「クソ暑い日」か「雨の日」しかないぃ!

そして、締め切りの関係で「くらやみ坂のナツミ」の表紙を優先した結果、長瀞に行くのがようやく今ごろになったわけです。

さて、長瀞。埼玉県内有数の観光地であり、山に挟まれた土地ながらも住宅の数も多いです。

訪れたのは平日。学校帰りの子供たちとすれ違います。聞こえてくるのは楽しそうに笑いあう声。そしてちりんちりんと高らかに響く鈴の音。

……え? 鈴の音?

まさか、熊除けの鈴か!?

しかも、鈴をつけてるのは一人二人じゃなく、子供とすれ違うたびにちりんちりんちりんちりん。防犯ブザーかってぐらい、みんなつけているのです。

え? 熊、出るの、ここ!?

そんな。せっかく危険な日を避けて避けてようやくやってきたというのに、そうか、もう熊が冬眠前の時期に……。

しかし、子供たちとすれ違ったのは長瀞駅前。確かに山がすぐ目の前だけども、めっちゃ観光地。めっちゃ人里。めっちゃ車通る

こんなところに熊が出るというのか!

というわけで、家に帰ってから長瀞の熊情報を確認しました。なるほど、去年目撃されているようです。秩父全体ではつい最近も目撃されているようで。

そして、長瀞の目撃情報に記されていた場所は、今日僕がうろついていた場所から、わずか6kmしか離れていませんでしたとさ。場所も、山と人里の間みたいな場所。っていうか、「県営住宅付近」って書いてある……。

……そいつはくまったな。クマに出くわすのは、やだよう……。

モノづくりと旅の終わり

小説「くらやみ坂のナツミ」の制作もいよいよ佳境に入っています。

でも、その「佳境」がなかなか大変です。印刷所に入稿するまでにやらなけやいけないことがいくつもあるんです。

やらなきゃいけないことをリストアップして、工程表を作ります。

きっと「予定してない作業」がいろいろ出てくるだろうなと思って、少し日程に余裕をもって工程表を作ります。

すると、予想通りに「予定してない作業」が出てくるんですね。予定してるんだか、してないんだか。

たとえば、せっかく表紙を作ったのに、「トンボ」という枠に当てはめてみると、なんとタイトルの部分が断裁した時にちょん切れてしまうことが判明。慌てて作り直しました。

入稿前の最終チェックに小説を読み始めたら、行間が狭くて読みづらいことが判明。この行間の調節に手間取って、その日の作業は終わりました。

表紙を作ったり、ページを作ったり、他にも、値段を決めたり、宣伝方法を考えたり、小説を書くっていうよりも、小説の本を丸ごとプロデュースしている感覚です。

そして、各話ごとにばらばらだった原稿をまとめて、一つのデータにして、そのデータに「くらやみ坂のナツミ」とファイル名を付けた時、思わずふへへと笑ってしまいました。

この瞬間がたまらない。何か月もかけて作り続けてきた物が、形あるものとしての輪郭を持ち始めるまさにこの瞬間が。

モノづくりって旅に似てるんですよ。船旅でバルセロナに行ったとき、港から地図だけを頼りにサグラダ・ファミリアまで歩いて、建物のむこうにようやくあの特徴的なシルエットが見えた時のあの歓喜。「ついにここまでたどり着いた!」というあの歓喜に似ているんです。

むしろ、本当に完成した時は、達成感よりも「もののあはれ」の方が強いかもしれないですね。「ああ、旅が終わってしまう」という気持ち。さながら、旅が終わって地元に帰る新幹線ももう終わりに近づき、見覚えのあるビルが車窓に見えてくるような、あのもののあはれ。

とくに、友人たちと東北に旅行に行ったときなんか、みんな東京駅まで乗ってくんだけど僕は大宮駅で降りるので、一足先に自分だけ「じゃあ、また……」と新幹線を降りなきゃいけないあのもののあはれ……。

逆に友人が名古屋まで新幹線で帰るってときは、「ここから東京で乗り換えてまた新幹線に乗るの? 大変だねぇ。あ、僕ここで降りてあとは在来線だから、じゃ」というあの優越感……。

……何の話だよ。

とにもかくにも、「くらやみ坂のナツミ」の旅も、もうすぐ終わりを迎えるのです。いや、「作品づくり」から「本の販売」へと、乗り換えて旅は続くのかな。

ウンコを抱えて雨宿り

秋野菜・冬野菜の季節になりました。

ひと月前に茎ブロッコリーの苗を植えたのですが、そろそろ追肥の時期です。事前に畑にまいた肥料から、植え付け一月後に追加で肥料を根元に植えるのです。

というわけで、肥料をバケツに用意して、ブロッコリーの前に立った時のことでした。

雨が、ポツ、ポツ、ポツリ。

どうやら通り雨が降ってきたんですね。ようし、とっとと終わらせよう。

しゃがみこんで、位置を決めて、移植ごてを土に当てて、肥料を埋めるための穴を開けたところで、

雨が、ざぁー、ざざぁー。

これは、さすがにマズい。

とりあえず、肥料を濡らしちゃいかんだろう、ということで、肥料の入ったバケツを持って、畑の中の屋根がある東屋みたいな場所に避難しました。

傘持ってきてないし、もう肥料をバケツに入れちゃったし、仕方がないので、雨がやんで作業の続きができるようになるまで、雨宿りです。

さて、傍らに肥料の入ったバケツを置いて雨宿りしていたんですけど、

その肥料ってのが、鶏の糞なんですよ。

なにが悲しくて、鳥のウンコ抱えて雨宿りしなけりゃならんのじゃ。

ふーんだ!

まあ、鳥の糞と言っても、もちろん肥料用に処理されたものです。見た目はちっちゃい石ころ。臭いはまあちょっと変なにおいするけど、顔を近づけなきゃ別に気にするほどでもない。

そういう意味では、今日使う肥料が鶏の糞でまだよかったです。

この肥料が牛の糞だったらって思うと、悲惨です。

もちろん、これもまた肥料用に処理されたものなんだけど、

まず、見た目がアレ。ほぼ、まんま、アレ。

フレーク状になってるので畑の上にパラパラと撒くとよく効く肥料って感じなんだけど、バケツの中にたまった見た目はどうしてもアレを彷彿とさせます。

そのうえ、臭いもアレ。抑え気味の、アレ。

鶏の糞はまだ「ヘンな匂い」で済むんだけど、牛の糞の臭いは、ちょっとアレなのです。肥料を扱う日は、マスク必須です。臭うから。

おまけに、鶏の糞は40ccしか使わないからバケツにちょっとしか入ってないんだけど、

牛の糞の場合はバケツにどっさりと入れるんですよ。どデカい柄杓で三杯分。

見た目がアレで、臭いもアレで、量もアレな牛の糞を抱えて雨宿り。想像するとぞっとします。雨が上がる前に、こっちが腐ってしまいます。

でも、これを入れないと作物が育たない!

肥料を入れる土づくりをさぼったら、野菜は育たないんですよ。大事な仕事は実は、野菜を植える前に始まり、野菜を植える前に終わると言っても過言ではないんです。

小説「あしたてんきになぁれ」 第43話「雨のち極楽、ところにより『最期のラクガキ』」

たまきが追い続けてきた「鳥のラクガキ」の作者、サキはすでに自ら命を絶っていた……。「死にたがり」のたまきが、はじめて「死んだ人」と向き合う。


「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

第42話「ジャングルのちライオン、ところにより鳥」 


写真はイメージです

降りしきる雨の中、たまきは青い傘をさして歩く。すれ違う人たちも、色とりどりの傘をさして歩いている。

晴れている時よりも、雨の中で外を歩く方が、たまきは好きだった。

日本最大ともいえる繁華街の街並みは、昼間はとてもきらびやかでたまきはいたたまれない気持ちになる。そして、この街の輝きはむしろ、夜の闇に沈んだときの方が強く感じられるのだ。

だけど、雨が降っている時だけは、この繁華街の街並みもどこか色を失ったかのように思える。

雨の日は傘のせいで、すれ違う人の顔が見えないことが多い。スーツ姿のサラリーマンの人は紺の傘で顔を隠し、女子高生と思われる制服の人はピンクの傘で顔を隠す。子供と思われる小さいシルエットが、黄色の傘をさして歩いている。

もしかしたら、傘の下に隠れているのは人間の顔ではなく、とんでもない異形の化け物なんじゃないか。

そんなことをたまきは考える。どうしようもなくバカバカしい考えだけど、雨の日の繁華街はどうにも異世界に迷い込んだような気分になる。

それが、楽しいのだ。

どこの街に行っても自分が場違いに思えてしまうたまきは、いっそ思いっきり非現実的な世界の方がなじめるんじゃないかなんてことを考えてしまう。

……サキって人もそうだったのだろうか。

たまきは立ち止まって、雨粒の一つ一つを数えるように、虚空を見つめた。

サキって人が何で飛び降りたのか、ミチが聞こうとしたのを自分から遮ったくせに、あれから一週間ほどの間、たまきはふとした時に「なんでサキって人は飛び降りたんだろう」なんてことを考えてしまっている。

写真で見たサキって人は、たまきとは正反対に見えた。露出の高い服装は、たまきが亜美に何度勧められても断った類のものだし、髪をピンク色に染めようなんてこれっぽっちも思わない。街で目立っちゃうじゃないか。

なにより、写真で見たサキって人は、とびっきりの笑顔だった。あんな笑顔、たまきにはできない。

でも、サキって人が自分で飛び降りたのだとしたら、その人はたまきと同じ「側」の人だったと言える。サキって人がたまきと同じ「側」にいたからこそ、その匂いをたまきはあのラクガキから感じて、追っかけまわしてたんじゃないのか。

たまきはレコード屋の外壁に描かれた絵を思い出していた。あんなに伸びやかな絵を描ける人が、どうしてたまきみたいなじめじめした子とおなじ側に立っていたんだろう。

いったい何が、何がサキって人を死に駆り立てたんだろう。

どうしてサキって人は死んでしまったんだろう。

こんなことをたまきはこの一週間、ずっと考えていた。だけど、あの時ミチを止めないで話を聞けばよかった、とは思えない。そもそも、あのライオン店長さんがそんなことまで知ってるとは思えなかったし、それに、わからないからこそ、たまきはいまこうして、どうしてどうしてとサキって人に思いを巡らせている。

そうやってサキって人のことに思いを巡らせていると、なんだか彼女と対話しているような気分にたまきはなっていた。

サキって人に会うことはもうできないし、会話することも叶わない。

それに、もしサキって人が生きているときにたまきが出会えていたとして、たまきが上手く会話できるなんて思えない。

だからこんなふうにどうしてどうしてと思いを巡らせることが、たまきとサキって人の「会話」としてふさわしいのかもしれない。きっと、直接会って話すことよりも。

それに、街にはサキって人が遺した鳥の絵がある。この絵を探して街を巡っている間、やっぱりたまきは絵を描いた人となんだか会話しているような気持になっていた。

ラクガキなんか探して何が楽しいんだ、と亜美はあきれていたけれど、たまきは普通に会話することが苦手だからこそ、絵を通してそれを描いた人と会話しようとしているのかもしれない。

たまきは、足を止めた。

行信寺の塀の前に来た。たまき自身が塗装した真っ青な壁が一面に広がっている。

そうだ、絵は会話だ。発した声はすぐに消えてしまうけど、絵はその人が死んだ後もずっとずっと残る、言葉にして声なんだ。

自分にもそんな絵が描けるのだろうか。自分がいなくなった後も、自分の声としてずっとその場所で響き続ける、そんな絵が。

もうそろそろ、梅雨が明ける。梅雨が明けたら、壁に絵を描く作業を始める。今日はその打ち合わせで来たのだ。

だけど、肝心のどんな絵を描くのかが、まだ全然決まってなかった。

とりあえず、仏像を描くことにはなるのだろう。細かく描きこむのではなく、かなりデフォルメしたものになると思うけど。

問題はそのあとである。壁は横に長く、仏像いうのはだいたいが縦に長い。仏像を一体しか描かないと、かなりのスペースが余ってしまう。それじゃむしろ、空いたスペースにラクガキしてくださいと言ってるようなものだ。

スペースの限り何体も仏像を描くことを考えたけど、仙人に話したら笑われてしまった。

それに、やみくもに仏像を並べたところで、ラクガキを防止するという本来の目的を達成できるとは、たまきには思えなかった。

悩めるたまきに住職さんは「涅槃像」というものを教えてくれた。仏様が亡くなる時の姿で、横になっているので、横長の塀にはまさにうってつけだ。

でも、たまきの画力ではただお昼寝してるようにしかならないだろうと思ったので、断った。ラクガキ防止なのだから、町の不良たちにナメられてはいけない。「ほとけのひるね」ではダメなのだ。

いっそのこと、お寺だからとりあえず仏像を描く、ということはやめて、サキって人がレコード屋の壁に描いたみたいに、抽象的な絵を描いてみたらどうか。

でも、たまきは抽象画なんて描いたことがないし、レコード屋と同じ絵をそっくりそのまま真似して描いたとしても「それ以来ラクガキされない」なんて特殊効果が発動するとは思えない。

ふと、いつぞやの仙人の言葉をたまきは思い出した。

たまきの描いた仏像のスケッチには、「祈り」が足りない、と。

仙人の言葉の意味はまだ分からない。だけど、仏像を横に並べても、涅槃像を描いても、サキって人の絵を丸パクリしても、たまきが納得できないのはきっとそこに「祈り」がないとわかっているからなんだろう。

 

画像はイメージです

行信寺では住職さんが温かいお茶を出してくれた。外は雨だからという配慮なのだろうけど、猫舌のたまきとしては普通のお水の方が嬉しかった。今日は志保も来ていて、本堂の掃除をしている。

「予報だと、来週の火曜日から梅雨明けになるんじゃないかって話なのよ」

住職さんはたまきにパソコンで天気予報を見せながら話した。

「だから、とりあえず来週の月曜から作業に入れるようにしてもらって、で、雨が降ったらその日はお休みってことでいいかしら」

今日は水曜日だから、今日を含めてあと五日しかない。この五日間で作業をはじめられる状態にデザインを仕上げなければいけない。

たまきは出されたお茶に手を付けられずにいた。湯気が立ちこめる間は熱くて飲めないというのもあるし、まだ絵のデザインが決まってないくせに口をつけてはいけないような気もしている。

住職さんは立ち上がると、

「参考になるかどうかわからないけど……」

と、たまきをある場所に案内した。

そこは本堂と事務室みたいな部屋をつなぐ廊下だった。廊下の壁には本棚が置かれ、本がぎっしりと並んでいる。

パッと見た感じ、仏教関連の本が並んでいるようだ。何やら難しそうな本から、「世界の宗教」と書かれた子供向けの漫画本まで、いろいろと揃っている。たまきが以前に貸してもらった、仏像の写真集もあった。

「いろいろ見てってかまわないわよ。デザインの参考になるといいんだけど」

とりあえず、たまきは手当たり次第に写真や絵にまつわる本をあさってみた。

全国のお寺の写真を載せた本。

木彫りの仏像の写真集。

古い水墨画の本。

あれやこれやと読み漁っていると、志保が後ろから覗き込んできた。

「なに読んでるの?」

「その……絵のデザインをどうするか迷ってて……」

「外の壁の? 仏様を描くんじゃないの?」

「そうなんですけど……細かい部分がまだ……」

志保は腕組みをしてうーんと言いながら何か考えているようだ。

「そうだ。壁一面にずらりと仏様を並べちゃうっていうのは? 中学の修学旅行で京都の三十三間堂ってところに行ったんだけど、仏像がずらーっと並んでて圧巻だったんだよ。そんな感じで、どうかな」

たまきは答えない。

「もしくは、仏様をでっかく横長に描いちゃうとか。ほら、涅槃像ってあるじゃない。あれいいんじゃない?」

たまきは答えない。

「いっそのこと、仏様を描くのやめて、ハデに抽象画みたいなの描くっていうのもありだよね。うん、お寺だからって無理に仏様にこだわることないかも」

たまきは答えない。

アイデアを出してくれるのはありがたいのだけれど、どうせなら、まだ検討してないやつを出してほしかった。

遠くで住職さんが志保を呼ぶ声が聞こえた。志保は返事をして立ち去っていった。

そういえば、志保と話したのはなんだか久しぶりのような気がする。一緒に暮らしているのに。

志保が田代とヨコハマにお泊りデートをして以来、あんまりちゃんと志保と話せていない気がするのだ。お泊りデートの後は志保はガイハクしていないし、たまきだって別に志保を避けているわけじゃないのに。

そういえば、志保は誕生日を迎えたというのに、ちゃんと「おめでとう」も言えていないような気がする。

たまきは、ため息をつきながら、本を棚に戻した。

死んだ人との「会話」にばかり夢中になって、生きている友達と会話できてないだなんて、自分はなんてダメなんだ。

たまきは寺の中にはの方を見た。相変わらず、雨がしとしとと降り続いている。

 

三十分くらい、いろんな本を読んでみたものの、あまりいいアイデアは浮かんでこない。日本の仏教だけじゃなく、シルクロードの仏教遺跡とか、タイのお寺とか、インドやネパール当たりの仏教の歴史とか、いろんな本をパラパラと読み漁ってみたものの、これといったものが見つからないのだ。

いかにも仏教っぽいモチーフを仏様の周りにてきとーにちりばめた絵を描いたところで、そこにはやっぱりたまきの「祈り」は描けていない気がする。そう考えると、頭に浮かぶ泡沫のアイデアがどれも取るに足らないものに思えてしまうのだ。

いのりいのり、とそれこそたまきは祈るように小さく唱えながら、次の本に手を伸ばした。背表紙には「仏教の幻想郷」と書かれている。ムック本というやつだ。

真ん中あたりのページを適当に開いてみた。

社会科の歴史の教科書に出てくるような、資料館に展示されているような、色褪せた古い絵だ。

真っ赤な顔したでっかいおじさんが、怒りの形相で見る者を睨みつける。

隣のページには、赤鬼だの青鬼だのがいて、それこそ鬼の形相で、人の舌を抜いたり、巨大な釜に放り込んで豆のように煮込んだり。

なるほど、これが地獄絵図というものだろう。

たまきは地獄絵図をしげしげと眺める。きっとたまきみたいな迷惑をかけてばっかりの子は死んだら地獄に落ちるのだろうから、しっかりと見ておかないと。

次のページには真っ暗闇の中を人が真っ逆さまに落っこちる姿が描かれている。絵の下には解説文。なんと、地面にぶつかるまでに数億年ただひたすら落下し続けるという地獄なのだそうだ。

……これは地獄だ。人は自由に空を飛べないのだから、数億年落下し続けるということは、数億年身動きが取れないということである。

サキという人がなぜ死を選んだのかの本当の理由はたまきにはわからないけど、数ある自殺の手段の中でなぜ飛び降りを選んだのかはなんとなくわかる。一度宙に体を投げだしたら後戻りできないうえ、すぐに終わるからだ。それなのに数億年も落っこち続けるだなんて。生きてる時間よりもよっぽど長いじゃないか。

たまきは、パラパラと前のページをめくり始めた。

色調が一転して、華やかで色鮮やかな絵が出てきた。

極楽の絵である。どうやらこの本は、前半で極楽、後半で地獄を、古い絵と一緒に解説していく構成らしい。

明るい色調で描かれ、巨大な楼閣を背景に、仏様やその仲間たちがたくさん描かれている。

明るくて、建物も人もいっぱい。これじゃいつもの歓楽街と大して変わらないじゃないか。やっぱりたまきは極楽にはなじめそうにない。

でも、絵の題材にするのならば地獄よりも極楽の方がいいのだろう。たまきは何かヒントになるものはないかと、極楽のページをパラパラとめくっていた。

ふと、ページをめくるたまきの手が止まる。

「浄土の六鳥」と題されたページに6つの鳥の絵が載っていた。

「とり……」

たまきは、惹きつけられる様にそのページを見始めた。

頭が二つある鳥が描かれている。きっと空想上の鳥だろう。

孔雀の絵もある。これはたまきもよく知ってる。動物園で見たことがある。

たまきは、解説文を読み始めた。仏教と、極楽と、鳥。いったいどんな関係があるんだろう。

だけど、途中から文章はたまきの頭の中に入ってこなくなった。

不意に、たまきの脳裏は鮮やかな色をした鳥たちが羽ばたくイメージで埋め尽くされた。

鳥たちは優雅に、舞い踊るように、青空を翔ける。風に乗り、雲を突き抜け、鳥たちはみな同じ方向を目指す。そしてその先に見えてくる極楽浄土……。

たまきがイメージできるのはそこまでだった。イメージの中で覗き見た極楽浄土は、さっき絵で見た、「超豪華な神社みたいな建物が立ち並ぶ街」なのだけど、そこから先のイメージが湧かない。極楽浄土の具体的な風景をイメージしようとしても、やっぱりさっき本で見た絵の内容しか思い出せない。

極楽浄土のイメージが、どうしてもさっき読んだ本の引きずられる借り物のイメージなのに対し、鳥たちはたまきの頭の中で自由に舞い踊り、力強く羽ばたく。映画で見る長編アニメのような滑らかな動きだ。

もちろん、この鳥たちも、今さっき本で見た絵や彫刻がイメージのもとになっているのだろう。だけどさっきの極楽浄土よりもよっぽど鮮明に鳥たちは頭の中で動き回る。まるで、ずっとたまきの中で眠っていて、何かのきっかけで羽ばたく時を待っていたかみたいに。

自然と湧いてきたこのイメージを絵にしたい。たまきはごく普通にそう思った。そこに理屈などない。きっとこれが、仙人の言う「祈り」に近いものなのかもしれない。

 

ようやく描く絵のイメージが固まってきた。だけど、それでもまだ不鮮明な部分がある。極楽浄土だ。どうしてもたまきの中ではまだ、借り物のイメージでしかない。

せっかく専門家が近くにいるのだから聞いてみよう、とたまきは寺の事務室に向かった。事務室では部屋の片づけでもしているのか、志保と住職さんがあれやこれやとせわしなく作業をしている。

専門家に聞けばいい、と思って来たたまきだけど、自分が「人に聞く」ということが苦手なのを急に思い出して、さっきのムック本を抱えたまま、立ち尽くしてしまった。

5分くらいぼけーっと立ち尽くし、ようやく志保が、

「さっきからどうしたの? そんなところで」

と声をかけてくれた。

「えっと……、極楽について……その……」

「極楽?」

と今度は住職さんが尋ねる。

「あ、もしかして、絵の題材の話?」

と志保。

どうしてこんな簡単な会話を、志保の「通訳」がないとできないんだろう、とたまきは自分自身にもどかしさを感じながらも、頷く。

たまきはさっきの本を開き、極楽の絵が描かれたページを住職さんに見せた。

「あの……極楽って、こういう場所なんですか?」

「……どうかしら? ごめんなさいね。アタシも行ったことないのよ」

そりゃそうだ。

「……そうね、たしかに、行ったことない場所、そこが極楽なのかもしれないわね。その時代その時代で、いろんな人が思い描いた理想郷。いつかこんな場所に行きたいと思うけど、行ったことがない場所ってことかしらね」

住職さんはたまきの持っている本を受け取り、ページを見る。

「この絵は室町時代のものね。この時代は、今みたいな都市と呼べるような場所は京都以外にはほとんどないわ。その京都だって、応仁の乱という戦争の舞台だったの。そんな時代の絵だから、立派で、豪華で、平和な大都市こそが、いつか行ってみたい理想郷、極楽として描かれたのかしらね」

住職さんはたまきに本を返した。

「極楽浄土の浄土って言葉にはね、仏教的な意味とは違う、もう一つの世俗的な意味があるの。そうね、今でいう『異世界』を表すのに、浄土って言葉が使われることがあるわ。だからやっぱり、極楽浄土って、こことは違う世界、ってことなんじゃないかしらねぇ」

「はあ……」

自分で聞きに来ておきながら、たまきは住職さんの話を頭の中で整理するので精いっぱいだった。

「異世界っていうとね」

と、たまきの横に立った志保が言った。

「このお寺がある場所も、異世界の入り口なんだよ」

「……?」

志保はたまに、真顔でヘンなことを言う。

「江戸の城下町ってね、今の東京よりももっと小さかったんだよ。江戸の人たちにとって、城下町の外は異世界。その境目にあたるのがちょうどこのお寺がある、この街なんだよ」

「……はあ」

豆知識を教えてくれるなら、もうちょっと頭の整理がついた時にしてほしかった。

「このへんってさ、都会の真ん中なのに、お寺がいっぱいあるでしょ? それって、やっぱりこの場所が江戸の人たちにとって、異界への入り口だったからなんだよ」

「……志保さん、なんでそんなこと詳しいんですか?」

「……、えっと、何で知ったんだっけ?」

志保は宙を見上げた。するとそこに、ぬっと住職さんが顔を出した。

「アタシが教えたのよ、志保ちゃん♡」

「あ……」

これが「釈迦に説法」というやつだろうか。

 

写真はイメージです

数億年降り続きそうだった雨も、いつの間にか上がっていた。たまきは志保と一緒に「城」へと帰る。

途中、いつもたまきが行く大きな文房具屋さんに立ち寄って、新しいスケッチブックを買った。

文房具屋を出ると、大通り沿いに北へ。初詣に行った神社に入って、裏口から歓楽街へと抜け出る。

そういえば、志保と二人っきりで歩くのは、ずいぶんと久しぶりだ。たしか二か月ほど前に志保とこの辺りを歩いたような気がする。ちょうど、たまきがラクガキを探し始めた時期だっただろうか。

記憶の糸をたどっていたたまきだったが、ふいに足を止めた。

「? どうしたの?」

と志保も立ち止まり、たまきの背に合わせて腰をかがめ、たまきの顔をうかがう。

「……志保さん、前にこのへんで、飛び降り自殺があったって言ってませんでしたっけ?」

「とびおり?」

志保は首をかしげたが、やがて思い出したように言った。

「そういえば、前にこの辺でパトカーがいっぱい止まってるのは見たけど、飛び降り自殺かどうかは……」

「それです、それ! それって、いつのことですか?」

「えっとね……、二か月前、いや、もうちょっと前かな?」

「それって、どこのビルですか?」

「えっとね、こっちだよ」

志保は歩き出した。たまきもそのあとをついていく。

やがて、焦げ茶色のビルが近づく。以前に、たまきが屋上の貯水槽にラクガキがあるのを見つけたビルだ。このビルの向かい側にも、同じようにラクガキがあるのをたまきは知っている。

志保はそのビルを通り過ぎると、角を左に曲がった。たまきもそのあとをついていく。

雨上がりの歓楽街は、イカついお兄さん、ギャルっぽいお姉さん、スーツ姿のサラリーマン、セーラー服の女子高生と、様々な人が通りすぎていく。二人が今歩いている場所は、その歓楽街の中心に近く、人通りもかなり多い。

ふと、四つ角のところで志保は足を止めた。

「この辺りのはずなんだけど……」

たまきは周りをきょろきょろと見渡すが、ピルが多すぎて、「このあたり」の一言じゃわからない。

志保は四つ角の一画を指さした。

「あのあたりのはずなんだけど……、規制線も貼られて近づけなかったし、人だかりもあったしで、どのビルかまではちょっと……」

「人が倒れてるとか、そういうのは見なかったんですか?」

「だから、何が起きたのかは知らないんだってば」

たまきは志保が指示したあたりへと向かった。細いビルがいくつも並んでいる。

それぞれ、ビルの一階では床屋さんだったり焼き肉屋さんだったりが営業していた。こういう時、中に入ってお店の人に、二か月前にここで何が起きたのかを聞ける性格ならよかったのに。

ふと、あるモノがたまきの目に留まった。

足元に、小さな瓶が置いてあった。仙人がよく飲んでいるカップ酒の小瓶だ。その小瓶の中に、タバコが数本入っている。

何かが気になるのだけど、何が気になるのか自分でもわからないまま、たまきはしゃがみこんで、その小瓶を見つめた。ツンとしたアルコールの臭いがたまきの鼻をくすぐる。

その様子を、志保が不思議そうに眺めている。

「どうしたの? ゴミでしょ? 亜美ちゃんみたいな人が捨てたんだよ、きっと」

そう志保は言ったが、たまきにはどうしてもその言葉をそのまま飲み込むことができなかった。「誰かが捨てた」というよりも、「誰かが置いた」、そんな気がするのだ。

そしてたまきは、あることに気づいた。

小瓶の中のタバコは、吸い殻ではない。火をつけていない、新品のタバコが数本入っているのだ。

やっぱり、これは「捨てられた」ものじゃない。「置かれた」んだ。

新品のタバコを、お酒の匂いが残る小瓶に入れて、誰かがここに「置いた」。

……誰かが「供えた」。誰かが「たむけた」。

ここで死んだ人のために。きっとお酒とたばこが好きな人だったのだろう。

小瓶は、志保が指示した一角の中のあるビルの入り口に「置かれ」ていた。たまきはそのビルを見上げる。周りのビルと比べると、頭ひとつ高い気がした。

ここだ。きっと、このビルだ。

やっぱりたまきは、こういう「会話」の方が得意のようだ。小瓶を見つけたのだって、もしかしたら誰かに呼ばれたのかもしれない。

ビルの一階は床屋さん。そのわきに通路があり、奥に階段が見える。

たまきはビルの中に勢いよく飛び込むと、通路を抜け、階段を上り始めた。

ふだんにない機敏な動きでたまきがビルの中に入っていくのを、志保は驚きとともに見つめていた。

「たまきちゃん?」

と声をかけてみたものの、まるで耳に入っていないようだ。

なんだか、自分には聞こえない声にたまきが呼ばれているように見えて、志保はちょっと怖くなった。

 

ビルは七階建てだった。もしかしたら、歓楽街の雑居ビルの中では一番高いのかもしれない。

たまきは息を切らしつつ、最上階へとたどり着いた。もっとも、階段はさらに上へと伸びている。きっと、屋上に出れるのだろう。

最上階はどうやら空き店舗のようだ。でもたまきが暮らす「城」と比べるとずいぶんボロボロで、そもそもドアがあるはずの場所にドアがない。

中に入ってみる。たいして広くはない。壁の一方はガラス張りになっていて、歓楽街の景色がよく見える。

一通り調べてみたけれど、ガラスの壁は開け閉めできそうにない。ここから飛び降りたわけではないだろう。やっぱり、屋上から飛び降りたのだろうか。

少し息を整える。歓楽街の中でもひときわ高い場所から見下ろした景色は、さっき本で見た極楽の姿をどことなく彷彿とさせた。

再び、たまきの中に絵のイメージが浮かび上がった。白い鳥たちが力強く羽ばたいていく。昔の絵に描かれたような、楼閣の立ち並ぶ極楽の中から、人の頭上を飛び越え、建物の間をすり抜け、やがて極楽を抜け出して、高く、もっと高く。

そんなイメージを思い浮かべながら、たまきは空き店舗を出てさらに階段を上った。

たどり着いたのは二畳ほどの部屋。白い扉と、立てかけられた掃除道具以外、何もない。たぶんここは屋上の塔屋で、扉を開ければ屋上に出れるのだろう。

扉には真新しい白い紙が貼られていて、手書きで「立入禁止!」と書かれていた。

たまきはドアノブに手をかける。

がちゃり、がちゃがちゃ、がちゃり。

扉はびくともしない。

たまきはふうっとため息をついた。

もしもサキって人がここから飛び降りたのだとしたら、その時は不用心にも屋上の扉は開いていたことになる。そこに誰か侵入して飛び降りたとなれば、ビルの持ち主は警察からどうしてカギをかけないんだと怒られたはずだ。そうなれば、屋上の扉は鍵をかけられ、貼り紙の一つくらい貼られるだろう。そうだ、飛び降り現場の屋上なんて、入れるわけないじゃないか。

ため息交じりにドアノブに視線を落とした時、たまきはあることに気づいた。

丸いドアノブに、白いなにかがついている。たまきは身をかがめると下からドアノブを見上げた。

ペンキだ。白いペンキが点々とドアノブについているのだ。

白ということは、サキって人が白い鳥のラクガキを描く時に垂らしたのだろうか。いや、扉も白いから、業者の人がうっかり垂らしたなんてことも……。

いや、それはありえない。だって、白い点の多くは、丸いドアノブの下側についているのだから。偶然たれ落ちたんならこんなところにつくはずがない。わざとペンキをつけたんだ。

なんのために?

その人が、この扉のむこうへ行ったことを、後から来た誰かに知らせるために。

たまきは立ち上がった。白い扉を、そして見えないはずの扉の向こう側を凝視した。

間違いない。ここだ。サキって人が飛び降りたのはこのビルだ。

そして、この扉のむこうに、きっと最後のラクガキがあるはずだ。サキって人の、最期のラクガキが。

たまきにはわかる。だって、たまきはずっとサキって人と「会話」をしてきたんだから。

たまきは扉に右手をついた。袖がめくれて、手首の包帯があらわになる。いつも身に着けているものだし、ここ最近はリストカットをしていなかったので、たまきが包帯を意識したのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

「……ずるい。ずるいですよ」

たまきはサキって人とずっと「会話」をしてきた。だからわかる。サキって人はわかっていたはずだ。自分がここから飛び降りた後、この不用心な屋上の扉は施錠され、二度とむこう側には行けなくなることを。「最期のラクガキ」は誰にも見つからないということを。

それとも、どうしてもたどり着きたければ、サキって人の後を追う覚悟で扉をやぶってむこうへ来い、ということなのだろうか。

「……ずるいです」

階段の下の方から足音が聞こえてきた。

「たまきちゃん……?」

志保が息を切らしながら、上ってきたようだ。

たまきは志保に視線を向ける。じっと志保の目を見つめると、すぐにまた扉の方を見た。そして、もう一度つぶやいた。

「ずるいですよ……」

「ずるいって何が?」

志保が背中越しにたまきに尋ねるけれど、たまきは答えなかった。

つづく


次回 第44話「祈りのち『いつか』」

8話にわたり続いてきた「鳥のラクガキ」編もついに完結! たまきの「壁画」とサキのラクガキが交錯する時、たまきの「祈り」が描かれる。つづきはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

エロ漫画に飛び込め!

作ったZINEを販売できるイベントを常に探して、あちこちにアンテナを張っています。

ただ、話だけ聞くとよさそうなイベントでも、実際に足を運んで自分の目で見てからでないと、次回に出店できるかどうかを決められません。

6月の末には池袋で販売イベントがあると聞いて視察に行ってきました。

で、行って見てびっくりしたのですが、まあ行く前からうすうす気づいてたんですが、

エロ同人誌がメインのイベントだったんですね。右も左も、アラレもない姿の少女のイラストばかり。

とはいえ、マンガがメインの販売イベントでも僕のようなZINEが売れるのは5月に参加したコミティアでわかったので、エロ漫画メインでも正直問題ありません。

というわけで、エロ漫画を無視して探すは「僕と同じようなタイプの同人誌を売ってる人はいるか」。

そのイベントでも、「資料系」と呼ばれるエロも色気のないマニアックな同人誌を売ってる一角を見つけたんです。好きな電車を紹介する同人誌、みたいなの売ってる人たちを。

ただ、いくつか問題があったんです。

エロ漫画がメインのイベント、ということで、「資料系」がある一角は会場のはずれの方。

おまけに、会場内の人の群がり方にばらつきがあって、人気サークルの周りには人がいっぱいいるんだけど、そうじゃないところには人がほとんどいない。

結果、導線というものが完全に死んでいて、資料系が並ぶ一角の前を、人が全然通らないんですね。

これでは売れるどころか立ち読みする人もいない。おまけに、出展料も結構高い。いやぁ、見に来てよかった。「このイベントに出店しても意味ないな」ということが確認できた。

で、今日は秋葉原のイベントに行ってきました。もちろん、僕が出店する余地はあるかどうかを見るために。

さてどんなイベントか、と会場に入ると、右も左もエロ、エロ、エロ!

……やっぱりかぁ~。まあ、うすうす気づいてましたよ。そもそも、主催してるのがエロ同人誌をいっぱい売ってるメロンブックスさんなんだから。

ただ、実は僕のZINEはメロンブックスさんにも置いてもらってて、そこそこ売れてるので、エロ漫画メインのイベントでもまだ売れるチャンスがあるかもしれない。

というわけで、「資料系」の同人誌がないかどうか探してみます。

すると、今回はけっこういたんですよ。資料系の同人誌の人たち。全体の3割くらいいたかもしれない。

場所もそんな外れの方ではなく、お客さんもちゃんと前を通ってる。

出展料も安いし、これは次回出てみる価値はあるかもなぁ。

ただ、ここにくるお客さんは当然、エロ漫画のついでに面白ものないかな、という感じだろうから、いつもの「民俗学は好きですか?」だけでは、ちょっと弱いかも。だけど、ちょうど小説「くらやみ坂のナツミ」が完成間近だから、「民俗学は好きですか?」と「くらやみ坂のナツミ」の抱き合わせでいけるかも。

あと、やっぱりアウェーになると思うから、売り方もちょっと工夫しないと。

あ、「くらやみ坂のナツミ」にエロ描写は全くないので、念のため。

あの頃のヴィレヴァン

ああ、あの頃のヴィレヴァンはよかったなぁ……。

20年前、大宮のとあるビルの5Fにヴィレヴァンことヴィレッジヴァンガードがあって、僕はそこに足しげく通っていたんです。

何の店なのかよくわからない外観。中に入ってもやっぱり何の店なのかよくわからない。マリオとかカービィとかのグッズがあると思えば、ほかの店にはないような雑貨、癖の強すぎる本、オリコンチャートに入ってないCD、碑文谷教授のビデオ……。

本だけ見ても、雑学系、オカルト系、謎の旅行記、マニアックすぎる写真集……。エロ本ですらオシャレな写真集かのように置いてありました。

店内は細かい通路が入り組んでいて、360度どこを見渡しても刺激的なサブカルグッズばかり。何なら、天井からも変な人形が吊るされていたりします。

薄暗い店内に流れるのは、ジブリのジャズアレンジとか、J-POPのテクノアレンジとかパンクロックアレンジとか、聞いたことがあるようで聞いたことのない曲ばかり。

そして、やっぱりヴィレヴァンと言えば、短い言葉にユーモアと皮肉が詰まったポップ! あのポップが読みたくて通ってた部分もあります。

そんな「あの頃のヴィレヴァン」で一番覚えているのが、ドラえもんの第6巻だけが入荷されて山積みになっているという、奇妙な光景です。

ドラえもんの原作は第6巻の「さようならドラえもん」で一度連載が終わって、第7巻の「帰ってきたドラえもん」で連載が再開されるんです。だから、「さようならドラえもん」は事実上の最終回と言われ、あの「ドラ泣き」の映画の元ネタとなったお話。

そのお話を収録した第6巻がだけが山積み、いや、ドラ積みになっているのです。

でも、この第6巻の意味を知らない人が見ると、「なぜか6という中途半端な巻数だけ入荷して山積みになってる」という、わけわからない光景にしかならない。

でも、わかる人が見ると、にやっとなる。

ユーモアとジョークに溢れた品ぞろえと中毒性のあるポップが好きで、しょっちゅう通っていました。

あの頃のヴィレヴァン、商品よりももあのお店の独特の空気がいまのぼくに確実に影響を与えてます。ZINEの販売ブースを作るときも、何とかしてあのヴィレヴァンのような雰囲気を出せないかと試行錯誤したり、ヴィレヴァンを意識しまくったポップを何枚も書いたり。

だけど、どうも最近のヴィレヴァンはピンとこない。

人気キャラのぬいぐるみとか、おしゃれなリュックとか、スマホケースとかが並んでて、でも、全然「あの頃」のようにピンと来ない。

一番がっかりしたのがポップです。そこにはユーモアも皮肉もなく、ただ商品の名前とか種類とかサイズとか、「見りゃわかりますけど」ということしか書いてない。

いったいどうしちまったんだ、ヴィレヴァン。

そしたら数日前、「なぜヴィレヴァンはダメになったのか」という内容のネット記事が話題になってたんです。

かつてのヴィレヴァンは独特のセンスであふれていた。だけどイオンモールに出店し、ファミリー層を意識することでトゲのあるセンスが失われ、よくある雑貨屋に成り下がってしまった……、という内容。

そしてこのネット記事を皮切りに、「あの頃のヴィレヴァン至上主義ゾンビ」たちがネット上にわらわらとわいてきたのです。

あの頃のヴィレヴァン(おおよそ20年前)こそ僕の私のサブカルの原点。センスに溢れた品揃えを、サブカルに詳しすぎる店員さんが、ユーモアのあるポップで紹介してくれた。なのにイオンに出店して以来、ただの雑貨屋、キャラクターショップになっちまった。ああ、あの頃のヴィレヴァンはよかった……。

驚きましたね。「あの頃のヴィレヴァン」に憧れ、「今のヴィレヴァン」に物足りなさを感じてる人がこんなにもいたのか、僕だけじゃなかったのか、と。

あの頃のヴィレヴァンは、「欲しいものが置いてある店」ではなかった。

「置いてあるものが欲しくなる店」だったんです。

何か欲しいものが決まっててお店に行くんじゃなくて、全くの無目的にお店に入り、店内をぐるぐる回ってるうちに、なにこれなにこれなんじゃこりゃ?とおもしろいものがいっぱい見つかって、ついついほしくなってしまう、それがあの頃のヴィレヴァン。

ああ、あの頃のヴィレヴァンはよかった……。

イチローとハヤオ

前にちょこっと書いたけど、テレビでイチローさんがすごく考え深いことを言っていたってお話。

半年ほど前、イチローさんが高校の野球部を訪れて、直接指導するっていうテレビの企画をぼけーと見ていたんです。

その中でイチローさんが子供たちに伝えたいこととして言っていたのが、「とにかく、自分の好きなことがわからない大人が多すぎる」でした。

この言葉は僕にとって、かなり衝撃的なものとして、記憶に刻み込まれたんです。

まず、「多い」ではなく「多すぎる」って言い方が、一般論としてではなく実感と危機感がこもっているよう感じるんです。

そして何よりも驚いたのが、この言葉を野球界で生きてきたイチローさんが言ったってこと。

だって、野球界って、選手であれ、球団のスタッフであれ、それを取り巻く人々であれ、野球が好きな人が集まってくる場所なんじゃないのか?

そんな世界で生きてきたはずのイチローさんが「自分の好きなことがわからない大人が多すぎる」と言うのは、相当なことだなぁと思ったのです。

でも、本当にそうなのかな?

同年代の友達を見てみても、それこそ野球観戦に行ったり、映画を見に行ったり、バンド活動をしたり、アニメを見たり、ゲームに課金したり、推し活とやらをしていたり、好きなことをやってますよ。

学生時代よりもお金がある分、使えるお金も行動範囲も大きくなります。この前も好きなラジオのイベントが東京であったんだけど、「仙台から来ました!」なんて猛者のリスナーもいました。

とはいえ、イチローさんだってそんなことは百も承知で、そのうえで「好きなことがわからない大人が多すぎる」って言ってるはずです。なんたって、あのイチローさんですから。趣味を見つけなさいって話じゃない気がする。

ということは、好きなことを仕事にして生きていこう、ってことなのかな。昔、そんな広告があったなぁ。

ただ、イチローさんほど好きなことを仕事にすることの難しさを知ってて、それをストイックにやってきた人もいないと思うんですよ。「好きなことだけして生きていこうぜ! イエーイ!」なんてチャラついたことを言うとは思えない。なんてったって、あのイチローさんですから。

じゃあ、何の話をしてるんだろう?

これはもしや、仕事か趣味かという二元論を超越した、「生き方」という問題なんじゃないのか。

どんな仕事であれ、どんな生活であれ、自分の好きな「生き方」を貫いていく。

すなわち、「君たちはどう生きるか」

ハヤオのこの問いかけと、イチローのあの投げかけは、実は同じものだったんじゃないか?

ハヤオは実はイチローだったんじゃないか?

足してハチローなんじゃないか?

イチローさんが言う「好きなことがわかっていない大人が多すぎる」というのは、ハヤオの「君たちはどう生きるか」という問いかけに答えられない大人が多すぎる、ということだったのではないか。

「君たちはどう生きるか」は恐ろしく意地悪な問いかけです。

「僕はこう生きる!」と答えられたとしても、この答えはいつだって「暫定的」でしかないんです。

明日には気が変わってるかもしれない。生活環境が変わっているかもしれない。社会情勢が変わっているかもしれない。

明日になったら答えが変わってるかもしれないし、答えられなくなってるかもしれない。そうはならない、なんて保証は絶対に、ない。

だからこそ、何度も何度も、その都度その都度、自分に問いかけていかなければいけないんです。「いま、僕はどう生きるか?」と。

まるで、打席ごとに一球一球投げるピッチャーのように。

やっぱり、ハヤオはイチローで、ハチローだったんだ! ラピュタは本当にあったんだ!

生きていくには、理由がいる

久しぶりに、仲間たちに会った。

久々に会うということで、ここ数年の自分について、思い返していた。恥の多い人生を送ってるんじゃないかと。

そしたら、あることに気づいてしまった。

常に心の中にあったはずの鬱屈としたもの、仲間内の言葉で言う「メロウ」が、ZINE作りを始めてからいつの間にかなくなっていたのだ。

そもそもZINEづくり自体が「どうせいつか死ぬなら好きなことをして死のう」というネガティブな気持ちで始めたものだったのに。

ところが、ZINEを作り続けて、1冊完成すると、自然と「次も作ろう」という気持ちになる。誰に頼まれたわけでもなく、僕の一存「飽きた。やーめた」でいつでもやめられるはずなのに。

そうしてZINEを作り続けているんだけど、それで生活できているわけではないし、もうちょっと社会人としてちゃんとした方がいいのかなぁ、という不安はずっとある。

でも、たしかにちゃんと就職して、ガシガシ働いて、年相応の責任を負って、まともに社会人をしていれば、「生活」はして行けるんだろう。

だけど、その道を行く場合、ぼくはいま「生存」してるんだろうか。仕事帰りに電車に飛び込んだり、夜中にベランダから飛び降りたり、そういうことをしないと言い切れるだろうか。

そんな風に考えていくと、どんなに命は尊いと言っても、人は何か「生きる理由」がないと生きていけないと思うのだ。

僕にはZINE作りしかないし、ZINE作りがあるし、ZINE作りがあるから生きていける。

人はパンのみで生きるにあらずっていうけどまさにその通りで、理由もなく漠然と生活を続けられるほど人は強くない。生きる理由が見つからなかったり失ってしまったり、自ら命を絶つ人ってそういうことなんじゃないか。

この前テレビでイチローがこんなことを言っていた。世の中には自分が何を好きなのかわかっていない大人が多すぎる、と。それってつまり、生きる理由が見つからないまま生きてる大人が多すぎる、ってことなんじゃないか。

理由もなく生きていけるほど人は強くない。理由がなければ生きていけないし、理由があれば生きていける。

僕の場合は学生時代の「民俗学」であり、10年前の「船旅」であり、今の「ZINEづくり」というわけだ。

10年前の大宮ボラセンはまさに、「生きる理由」がある場所だった。

だから、そのボラセンがなくなると聞いた時、ぼくは思ったのだ。かつての僕のような人たちのために、鬱屈したものを抱える人たちのために、この街に「大宮ボラセン」は必要だ、と。

どうすれば、あの頃の大宮ボラセンのような場所を作れるか。この10年、ことあるごとに考えるんだけど答えは見つからない。見つからないけど問いを繰り返す。

10年前の自分に「その件はもうやめた。あきらめた」なんて言いたくなかったから。

でも一方で僕は、10年前の自分にこう言いたい。

「鬱屈したものを抱える人たちのために」

……キミさ、そこにどうして、「自分」を入れていないんだい?

まさかキミさ、「自分はもう大丈夫」「自分にはもう必要ない」「自分はもう卒業した」とでも思ってたのかい?

だとしたらキミさ、それは調子に乗ってるってやつだよ。キミは理由もなくただ漠然と生きることなんてできないんだから。何かの拍子に「理由」を失ったら、キミはあっさり死んでしまうんだよ。

だいたいさ、「鬱屈したものを抱える人たちのために」ってさ、それはいったい、どこの誰のことを言ってるんだ?

よーく考えてみろ。大宮ボラセンにこだわってるとキミが一番感じている人間は誰だ?

ほかでもない、キミ自身だろ?

そんなことはない。仲良しのあの人や、スタッフだったあの人の方が、ってキミは思ってるだろ?

でも、他人の気持ちを自分の気持ち以上に感じ取ることは、不可能なんだ。

となると、大宮ボラセンにこだわっていると「キミが一番感じている」人間は誰だ?

キミ以外ありえないだろ?

だったら、名前も顔もわからない誰かのためなんかじゃなく、「自分のために大宮ボラセンを作りたい」でよかったんだよ。

「誰かのために」だから答えが見つからないんだ。そりゃそうだ。誰かって、誰やねん。そもそもの問いが曖昧過ぎるから、答えが見つからないんだ。

ストレートに「自分のために」でよかったんだ。

だってきっと、他人に手を差し伸べることより、自分に手を差し伸べることの方が、難しいんだから。

「生きる理由」を見出し続けて、自分で自分に手を差し伸べ続ける。結局、キミにはそれしかできないし、キミにはきっとそれができるんじゃないかな。

「考えること」と「見抜くこと」

久々に、本棚から池田晶子の「14才からの哲学」を引っ張り出して読んでいました。前に読んだ本でも、すっかり内容を忘れているもんです。

哲学という難解な学問を、エッセイのようなわかりやすい形式や言葉で一般の人たちに伝えた池田晶子は僕にとってあこがれの一人。学問をわかりやすく、おもしろく、奥深く。これこそ僕の目指すことだからです。だから、「14才からの哲学」は僕の愛読書の一つです。

愛読書っていう割には、内容をすっかり忘れてるんだけど。

さて、久々に「14才からの哲学」を読んでいて、ふと思ったことが。

池田晶子の言ってることって、岡本太郎の言ってることと、同じなんじゃないのか?

池田晶子は哲学と思考。岡本太郎は芸術と爆発。理論に基づいて思考する池田晶子と、読者にド直球を投げてくる岡本太郎。一見すると全然違う。

でもそれって、アプローチや立場の違いであって、見ているものは実は同じなんじゃないか。

岡本太郎の著書、例えば「自分の中に毒を持て」とかを読むと、よく「君も人間として生きてみないか!」ということが書いてあります。そりゃ人間として生きてるよ、ネコやウサギにはなれないよ、って思うけど、そうじゃない。

岡本太郎いわく、芸術なんて大したことない。なぜなら芸術とは人間として純粋に生きることそのものであり、人間であるならだれでもできる、だそうです。

岡本太郎が言ってるは、時代がどうとか、流行がどうとか、人の評価がどうとか、そういったことにとらわれず、ただ人間として純粋な生き方を貫け、ということなんです。人間としての生き方を貫くことが、あの有名な『芸術は爆発だ!』なんですよ。

一方で、池田晶子を読んでいるとよく「君は本当のことを知りたくないか」という言葉がよく出てきます。

なんか陰謀論のネット動画みたいなフレーズだけど、この「本当のこと」というのは哲学で言う真理みたいなこと。

あらゆるものを疑って、否定して、そうやって何もかも疑って否定しても、疑って否定している自分の存在だけは疑いようがない、われ思う、ゆえにわれあり、みたいな、思考と理論の先に行きついた真理。

たとえば社会とか、例えば国家とか、例えば現実とか、たとえば運命とか、全ては人の心、観念が生み出すもの。その人があると思いこめばあるけれど、ないと思えばない。ただ「ある」と思っている自分がいるだけ。そんな思い込みに惑わされず、思考と理論の先にある絶対に正しいこと、真理を知りたくはないか。それが哲学なんだ、と。

なんか似てるなぁ、と思うんですよ。「人間としての生き方を貫く」と「哲学の真理を知る」は同じものなんじゃないかと。

おなじものに思えるんだけど、そこに至る道筋が、この二人、全然ちがう。池田晶子は「考えること」を何よりも重視して、考えて、考えて、思考と理論を積み重ねた先に真理があるって考えました。

一方の岡本太郎は、「世界のすべてを見抜きたい」って言葉を残してるように、「見抜くこと」に重点を置くんです。

岡本太郎のすごいところは、この人、メチャクチャ頭いいんですよ。すごいもの知りだし、「考えること」もめっちゃ得意なはずなんです。

そういう頭のいい人ほど、何か未知のものを見た時に余計な分析をしたり、余計なうんちくを語ったりしがちなんだけど、岡本太郎はそういうことをしない。知識も理屈も挟まずに、ただ純粋に「見る」。見抜く。

哲学の観点から真理を考える池田晶子と、芸術の観点から根源を見抜く岡本太郎。この違いは面白いなぁ。

この二人、生前の接点はなさそうなんですよねぇ。対談とかあったらよかったのに。生きた時代が半世紀ちがうしなぁ。残念だなぁ。