かつて、細野晴臣をはじめとした多くのミュージシャンが住んだという埼玉県狭山市。細野晴臣が住んでいたという1970年代の香りを求めて、僕は再び埼玉県狭山市へと向かった。細野晴臣の時代から40年以上。国道16号が通り、風景はだいぶ変わったが、当時の雰囲気はいまだに残っていた。細野晴臣の足跡を求めるたび、これにてはっぴいえんど?
細野晴臣の足跡を求める旅 前回の3つの出来事
1.自由堂ノックは、かつて細野晴臣をはじめとしたミュージシャンの多くが住んでいたという、埼玉の「アメリカ村」へと向かった。
2.入間市駅から歩いて15分のところにあるアメリカ村、「ジョンソンタウン」を訪れた。
⇒埼玉・入間の住宅街にアメリカの町が!~ジョンソンタウンの旅~
3.ところが、細野晴臣たちが住んでいたのは、「入間市駅」の隣の「稲荷山公園駅」だった!
というわけで、今回、僕は西武鉄道の稲荷山公園駅を訪れた。
埼玉県狭山市、稲荷山公園駅の旅
駅前には「ポプラ」というコンビニがあるだけ。南は自衛隊基地、北は稲荷山公園である。
ここが稲荷山公園。またの名をハイドパーク。90年代まではアメリカ風の住居が並んでいたらしい。10年前には、細野晴臣が中心となって、「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」というイベントも行われた。
坂を下りて町へと抜ける。
稲荷山のふもとにある愛宕神社。愛宕信仰は火防の神様。自衛隊や米軍の基地のある町にはピッタリかもしれない。
一方で、19世紀初頭からここではお稲荷様を祀っているらしい。お稲荷様は農業の神様だ。この当たりも耕作地として田畑が多かったのだろう。
すぐそばには、こんなのもある。
馬頭観音だ。年代は大正13年。このころまで、この当たりは馬での往来がされていたのだろう。
また、野仏があるということはそこが古い道であることも表している。稲荷山をぐるっと回るこの道は古くから存在していたらしい。おそらく、入間基地ができる前はもっと遠くまで伸びていたのだろう。
この駅の近くで、洋風の家を見つけた。
これは前回訪れたジョンソンタウンの写真。見比べてみると、白く長い板で作られた壁がよく似ている。
「鵜ノ木」。それがこの当たりの地名らしい。
こんな感じの平屋住宅に細野たちも住んでいたのだろうか。おそらく、この当たりがアメリカ村だったのだろう。
こんな感じの団地などもある。
すぐ近くを国道16号線が入間川と並行して走っている。
16号沿いに建てられていた。これも馬頭観音だろうか。
自動車屋さんにアメリカの星条旗。
国道を渡ると、国道に並行して伸びる商店街があった。
この道を狭山方面へと進むと、途中で県道340号線に合流する。この道は宿場町だった入間から狭山へと続くものだった。この町で細野たちミュージシャンも買い物をしていたのだろうか。
道沿いには長栄寺というお寺がある。
釣鐘もあり、町の中心として時を告げる役割も担っていたのだろう。
19世紀中ごろの馬頭観音だ。やはり、入間と狭山の間を、馬を使って往来していたのだろうか。
狭山と言えば狭山茶だ。商店街より北には茶畑がある。
狭山茶を生んだのは京都の宇治だった。宇治で取れたお茶が壺に入れられて江戸へ運ばれる。
お茶は美味しく飲まれるからいいが、問題は壺である。狭山茶が来るたびに壺が増えて、余る。
この増えていく壺をどうしようかとなった時に考え出されたのが、「江戸でもお茶を作って京都に送ればい」というものだった。
そうして、「壺に入れて送り返すためのお茶」として作られたのが狭山茶だったのだ。
入間川から水をとっている用水路。この当たりが肥沃な農地であったことの名残だろうか。
入間川だ。まっすぐ歩けば、細野たちが住んだアメリカ村から10分ぐらいでつく。彼らもこの入間川を見ていたのだろう。
入間川には個人的な思い出がある。ピースボートのポスターを貼り続け、乗船代99万円分の最後の1枚を張った町が狭山市だった。最後の1枚を張り終えた僕は、入間川を眺めながら、植村花菜の「猪名川」という曲を聞いていた。
川と音楽というと、井上陽水を思い出す。細野晴臣の一つ年下にあたる彼は、細野がこの町に移り住んだ73年に「夢の中へ」が初めてのヒットを飛ばしていた。
その年の暮れに出したアルバム『氷の世界』に「桜三月散歩道」という曲がある。歌の主人公が恋人に、町を離れて川のある土地に行こうと語りかける歌なのだが、町を離れる理由がすごい。
なんと、「町へ行けば人が死ぬ」というのだ。
73年という時代は、高度経済成長のしわ寄せがすでに顕在化していた。いわゆる四大公害病は既に裁判が始まっていたし、71年には公害に対する警鐘を鳴らした映画「ゴジラ対ヘドラ」が放映された。また、コインロッカーに乳児を置き去りする事件が問題となっていた。都市の肥大化により、人々のライフスタイルに変容をきたしてきていた。
「人が死ぬ」は大げさだが、急速に発展した都市生活は、どこか閉塞感があるものだったのではないだろうか。
だから、細野晴臣は東京を脱出し、井上陽水は川を目指した。
川は自然の中にあっても都市の中にあっても、大雨で増水でもしない限り、常にゆったりと流れている。川に集う人々も散歩やジョギング、サイクリングなどどこかゆったりしている。
川のそばにはマイナスイオンだけではなく、常に「自然のリズム」が流れているのだ。そして、人は川に来ることで「都市のリズム」から「自然のリズム」に、自分のリズムを戻すことができる。
古来から日本では川が異界との境界だった。現在でも地方においても都市においても、川の上に家が建つことはなく、埋め立てて家が建ったらそこはもう川ではない。川は特別な空間だ。そこに来ることで、人は自然のリズムに戻れる。
細野晴臣が住んだ73年当時、この一帯はおそらく入間川に並行して伸びる小さな街道沿いの農村だったに違いない。そこに稲荷山を背にぽっとあらわれたアメリカ村。細野たちがこの町で暮らした時の景色はそんな感じだったのだろう。
そのまま、この街が音楽の聖地、ボヘミアンの町となっていたらどんなに面白かっただろう。入間市のジョンソンタウンとつながり、この一帯の景色もだいぶ変わっていただろう。
ただ、逆に下手に都市化することなく、街道沿いには小さな町が続き、まだ川に行けば「自然のリズム」を思いっきり感じられる環境だ。
細野晴臣の足跡をたどる旅は、この辺ではっぴいえんどにしようと思う。
では、ばいにゃら。