ここは地獄か?

フェイスブックの広告、多すぎません?

いや、そういう広告があるからフェイスブックにお金が入って、みんなが無料で使えるっていうのはわかるんですよ。広告は大事です。

でも、特にスマホで見ているときに、タイムラインの2番目くらいから延々と広告が鈴なりに続いて、スワイプしてもスワイプしても広告ばかり。俺の友達の投稿はいったいどこに行ったんだ?

ここ最近のネットはなんだかおかしいです。

グーグルで検索すれば、一番最初に表示されるのはAIによる回答。

どこまで正しいのかわかんないし、間違ってても誰も責任とらんし、見るだけ時間の無駄だと思って、目を通すことなくスワイプします。

おまけに今度はツイッターが、検索したらタイムラインの上の方に、検索内容とは何の関係もないニュースが表示されるようになって。

広告ならまだしょうがないかと思うけど、ニュースはいらない!

なるたけ余計な情報は見たくないんですよ。だって、ネットのデマに踊らされない最も確実な方法って「そもそも、ネットを見ない」なので。

ああいうデマっていうのは読み手の怒りや不安を煽るように巧妙に罠が仕掛けられているので、「情報を見たうえで、真偽を判断する」というのはほぼ不可能ですね。「俺は真偽がわかる」なんて思っちゃダメ。「見たら最後、必ず騙される!」、そう考えて、なるべく余計な情報は避けるようにしているんです。

それにしても、「正しい情報を、最短で手に入れたい」ってだけなのに、広告が多すぎたり、余計なニュースが入ってきたり、あってるかどうかわからないAIが答えたり、どうなってるんだ最近のネットは! 進歩すればするほど、手間ばっかりかかるじゃないか!許さんぞ、イーロンマスク!

だけど、おかしいのはプラットフォームを提供する側だけではないようで。

ツイッターにはタイムラインとは別に「おすすめ」の欄があります。好きな声優さんの見逃してた告知とかが流れてくるので、たまにチェックしてるんだけど、声優さんの告知なんてのんきな投稿よりも多いのが、誰かの炎上、苦情、中傷、差別、怒り……、侮蔑……、憎悪……。

……地獄か、ここは?

こんな業の塊みたいな投稿ばっかり「おすすめ」しやがって。誰が選んでるんだ? ほんとにAIか? マーラが選んでるんじゃないのか? 僕が菩提樹の下で悟りの境地に至るのを邪魔しようとしてるんじゃないのか?

ネットのことをテレビと比べてニューメディアなんて呼ぶ人もいるけど、勘違いも甚だしいですよ。まさに2500年前に釈迦が説いた六道輪廻の世界そのものじゃないですか。ニューどころか、クソ原始的なメディアなんじゃないか。

政治や国際情勢についてあれこれ語るより、怒りとか恐怖とか刺激とかにすぐ我を忘れて反応しちゃう自分の心の乱れともっと向き合ったらどうかね、と思う今日この頃です。

ここ半年くらい、SNSやネットニュースを見る量を減らしたり、サブスク見るのやめたりと、自分の心の乱れを減らすためにネット時間を減らすように心がけているんだけど、もっと大幅に削ってもいいのかな、って思うのですよ。

日光のお猿さんの精神です。余計な情報は見ざる、心を乱す話は聞かざる、日ごろの愚痴や人の醜聞は言わざる。

そうして削った時間で、窓の外の雲を見たり、近所の森から響く虫の音を聞いたり、コーヒー飲みながら本を読んだり……、なんてできたら優雅でいいじゃないですか。

スマホが壊れただけだけど

スマートフォンが壊れました。

操作がおかしくなって、2日でとうとうお陀仏です。中のデータとかはたぶん無事なんだけど、操作ができないから、ロックが解除できず、引き出せない。

幸いにも保証期間内だったので、すぐに無料で交換してもらえることになりました。

おまけに、ひとつ前のスマホをとってあって、そこにほぼ同様のデータが残っていたので、そっちのデータを移行して引継ぎは終了。

なので、そこまで深刻なトラブルではなかったんだけど、おかしくなってから新しいスマホが届くまで、スマホがいつもの10%ぐらいしか使えない数日間が続きました。

不便、と言えば確かに不便。

とはいえとはいえ、普段からほとんどスマホに頼らない生活をしてるので、「ちょっと不便でイラっとする」くらいで、対して困らないのです。

これがもし、おサイフケータイみたいな電子マネーに依存してて、現金なんて持ち歩かないぜ、なんて生活をしていたら、もう絶望じゃないですか。この暑い中、コンビニでも自販機でも何も買えずに立ち尽くすしかない。

今回の教訓。金は、現ナマに限る。現金は裏切らない。

普段からそんなにスマホを使わないけど、それでもスマホが使えないとなると、いつもより頭を使います。ネットの検索エンジンでなく記憶と知識の検索エンジンをフル稼働し、アプリを使わず五感をフル稼働して街を歩きます。

だけど、これからAIがどんどん普及して、AIに頼りっぱなしの生活になって、それで急に「壊れました。使えません」となったら、と考えるとぞっとしますねAIに依存した社会で、急にAIが使えなくなったら、もはや人類はコンビニに行くことも最寄り駅に行くこともできなくなるんじゃないか。

AI依存社会でAIが急に壊れるというのは、文明に慣れ切った人が急に山の中で遭難してサバイバルしなきゃならないようなものです。

たぶん、「AIが使えない」だけじゃすまないと思うんですよ。「AIが使えなかったら何をしていいのかわからない」みたいになるんじゃないか。

ふだんからAIに頼ってAIに何でも聞いて、そんな人が急にAIを使えなくなったら、「自分で考えて判断する」、そんな当たり前のことすらできなくなってるんじゃないか。

SF映画にありがちなAIの大反乱なんかよりも、急なシステムエラーの方がよっぽど現実味がある気がします。今でさえしょっちゅう、あの銀行のシステムが壊れたとか、あのサイトのサービスが使えないとか、やってるんだから。

熱中症より怖いもの

夏になってもう二回も、道端で熱中症のバアさんを介抱する羽目になりました。

二人も介抱して思うのが、どっちのババ……バアさんも、認識が甘いなぁ、ということなんですよ。

自分の体調の異変、体力の衰え、夏の異常な暑さ、そういうものへの認識が甘いなぁ、と思うんです。

70過ぎのバアさんが、40℃になるかならないかニュースで騒がれてる日の真昼間に、どうして外をうろついているのか。

70過ぎのバアさんが、日傘とか帽子とか熱中症対策を全くせず、どうして夏の真昼間を歩いているのか。

で、見てみるとどちらものバアさんも買い物袋をぶら下げてるんですよ。

買い物なんて、夕方にしろぉ!

わざわざ昼間に外に出て、熱中症になりました、歩けません、助けてください、と言われても、正直「知らんがな!」というのが本音ですよ。

で、塩タブレット持ってたんで、それ渡してとりあえず舐めてください、と言っても舐めないんです。

ぼおっとして頭が回らない、というわけではないみたいです。こっちの言ってる内容は通じて、理解してる。

でも、「私にはまだ必要ない」「そこまで体調悪くない」そんな風に思ってるように見えるんです。まともに歩けてないのに。

猛暑をナメるな、塩をナメろ! と、イライラしてくるわけです。

ただ、後になって思うのが、もしやあれが「正常化バイアス」というやつだったんじゃないかな。

正常化バイアスっていうのは、事故とか災害とか何か異常が起きたときに「こんなの大したことない」「自分は大丈夫だろう」と思い込んでしまうこと、だそうです。

熱中症で明らかにまともに歩けてないのに、すぐそこだからと家に帰ろうとする。

まっすぐ歩けないのに、「自分はそこまで体調悪くない」「ちょっと休めば大丈夫」くらいにしか思ってないんですよ。ナメてる、というよりはやっぱり、正常化バイアスだったんじゃないか。

ウ~む、だとしたら、イライラして悪かったなぁ。

でもね、お水飲んでください、とペットボトルを差し出しても、「私は大丈夫だから、このお水はあなたが飲みなさい」と言って返してくるんですよ。息も絶え絶えに。

イラっとするわけですね。なんだ、曇りの日でも万全の熱中症対策をしてるこの俺が、アンタより体調悪そうに見えるか? と。俺の足元がふらついてるんじゃない、アンタがふらついてるんだ、と。

何より、他人に気を使う前に、自分の体調に気を使って、外出を控えるとか、ネッククーラーつけるとか、もっとちゃんと対策してれば、道端で熱中症になることもないんだよ! とイライラするわけです。

そして、私、学びました。正常化バイアスに陥っている人に向けて、「塩タブレット舐めてくださいね」「お水飲んでくださいね」なんて親切そうな言い方をしても、動いてくれない。

「なんだと、俺の水が飲めないっていうのか!? つべこべ言わずに黙って飲めクソバ〇ア!」ぐらい強い言い方をしないと、お水を飲んでくれないんです。

悪い言い方をすれば、「脅す」。そのくらいしないと、お水飲んでくれない、マジで。

少し前に津波警報が出ましたけど、テレビをつけると「にげて!」「にげろ!」と強い言葉で書かれてるんですね。あれは「避難してください」なんて丁寧な言葉じゃ逃げずに津波に飲まれてしまった人がいたという、東日本大震災の経験からなのですね。これもまた、正常化バイアスのせいだといわれています。やっぱり、ちょっと脅すぐらいのつもりじゃないと、危機意識を抱いてはくれないみたいです。

という、熱中症よりも正常化バイアスの方が怖いかもよ、というお話でした。

義務で映画を見に行かない

あたしゃもう、疲れたよ。

テレビをつけても、ネットを見ても、ラジオをつけても、あの映画を見たかあのドラマを見たかネトフリを見たかと、無理に進めてくるのです。

疲れた! あたしゃもう、疲れた!

なので、義務で映画を見に行くことを、やめました。

どういうことか。

予告映像とかを見てもピンと来てないのに、「でも、○○だからなぁ……」という義務感で映画を見に行くのをやめた、という話です。

話題作だけど、予告映像を見ても宣伝文句を聞いても全然ぴんと来ない。さて、どうしたものか。

でもなぁ、といろいろと考えるわけです。あの監督が撮った映画だからなぁ、あの脚本家が書いた映画だからなぁ、あの会社のあのシリーズの映画だからなぁ、社会現象になってるからなぁ、もしかしたら世紀の大傑作かも……。見に行った方がいいのかな……と。

でもその時、ふと思ったんです。

全然楽しみじゃないのに、「○○だから見た方がいい」という義務感で映画を見に行っても、朝起きて、ご飯食べて、家を出て、お昼食べて、映画館入って、チュロス片手にほかの映画の予告編を上映前に見てるこの時間が、ちっとも楽しくない!

よし、義務で映画見に行くの、やめよう!

もちろん、見た後で、「これは名作だ!  見に来てよかった!」と号泣する可能性は大いにあります。

そうだとしても、最初の予告やポスターでピンとこないのなら、見に行くまでがちっとも楽しくないから、やっぱり義務で見に行くのはやめよう。

というわけで、最初にピンとこないのならば、「○○だから」という義務で映画を見に行くのをやめるようにしました。

映画に限らず、何かのイベントとか、何なら飲み会とか、行くかどうか迷ったときは、ふと自分の問いかけてみるのです。「君はワクワクしてるのか?」と。

すると意外と、義務で行こうとしてることって多いなあ、と気づいてきました。

でも、何事もやっぱり最初のワクワクって大事ですよ。好きなアニメとか思い返しても、放送終わった後もいつまでも好きなやつって、やっぱり1話目からワクワクしてのめりこめたやつが多いですね。最高だったぜ、ガールズバンドクライ。

逆に、ネットやメディアでどんだけ「すごい!」「名作だ!」と言われてても、見ててワクワクしないものは、やっぱり駄目ですね。結局、ネット受けするネタを詰め込んだだけで、のめりこめないし、だんだんとメッキがはがれて評判も落ちてくる。

「この映画がすごい!」「このアニメがすごい!」「このマンガがすごい!」みたいな話はいっぱい流れてきます。だけど、やっぱりどれもピンとこない。最初にワクワクできなかったものを「そうか、すごいのか」とためしに見ても、すごいのはわかるんだけど、やっぱりワクワクできないんだよなぁ……。

あと、「大どんでん返しがすごい!」みたいなやつは、それで散々ひどい目にあってきたので、もう信用しないのです。特撮の場合は特に。「どんでん返しがすごい!」「伏線回収がすごい!」なんて言われる作品は逆に、「ヒーローのカッコよさの何たるかがわかってないから、小手先のテクニックでごまかす」みたいな感じで、大人(特にオタク)からの評判はいいけど、お子様人気がまあ悪い。どんでんは返さなくていいから、まっすぐワクワクさせてくれ。

なので、義務であれこれ見るのをやめて、本当にワクワクできるものだけみたいな、と思う今日この頃です。

人生の主語を取り戻せ!

ちょっとエンタメが多すぎるんじゃないでしょうか。

いまや、ドラマはテレビだけでなく、サブスクでもたくさんやってます。

アニメも1日に何本も放送されます。昔では考えられなかったことです。

本屋さんに行けば到底読み切れない量の漫画があるうえ、ネットで漫画が読めるサイトもあります。

音楽だって、いまやサブスクで聞き放題。you tubeには次から次へといろんな動画がアップされています。

……ちょっと多すぎるんじゃないでしょうか。

何がおかしいって、これだけエンタメがあるのに、「ああ、満足した」という声をちっとも聞かないんです。「あのドラマをサブスクで一気見してさぁ」というから、そうか満足しただろうと思いきや、「それが終わったから今度はあのアニメを一気見するんだ」と満足することなく次へ行く。

そして、思うのです。こんなにエンタメが、刺激がたくさんある時代なのにもかかわらず、現代人は実は退屈してるんじゃないだろうか。退屈してるから次から次へと刺激を求める。でも、その退屈ってやつはもっと人生の根源的なもので、つかの間のエンタメなんかじゃ満たせないんだけど、ほかに満たし方がわからないから、エンタメを貪る。

そうしてエンタメを貪っては、感想をSNSに投稿する。現代はSNSの時代です。世界中の人と繋がることができる。

だけど、ドラマやアニメの感想や考察をいちいちSNSに上げることに何の意味があるのか。一本まとめての感想ならまだしも、1シーンごとに実況を投稿する人もいる。そんなの突き詰めれば、ただの自己主張じゃないですか。「ドラマを見た」「アニメを見た」という話じゃなくて、「僕を見て!」「私を見て!」、突き詰めればそんなことしか書いていない。だから嫌いなんだよ、考察系ドラマ。「こんな複雑なドラマを作れる俺たちすごい!」という自己主張に始まり、「こんな複雑な謎を考察できる私をほめて!」という自己主張で終わる。

そして、やっぱり思うのです。こんなに世界中の人と繋がれる時代なのにもかかわらず、現代人は孤独なんじゃないだろうか。孤独だからSNSで自己主張を繰り返す。その孤独ってやつはもっと人生の根源的なもので、ネットのつながりなんかじゃ満たせないんだけど、ほかに満たし方がわからないから、ツイートを垂れ流す。

現代人は退屈に飢え、孤独に渇いている。

そう、こんなにも豊かな時代なのに、現代人は飢えて、渇いている。「何をしても人生が満たされない」という、根源的な飢えと渇き。

「君たちはどう生きるか」なんてどっかの映画の題名みたいな「根源的な問い」に足して答えが見つからず、なーんとなく「人生とは、社会とは、こんなもんさ」と日々を生きて、とりあえず生活している。

要は、その人の人生から「自分」という主語が欠落してしまってる。そんな風に見えてしまうのです。

自分の人生なのに「俺が」「私が」という主語が欠落してるから飢えと渇きが治まらない。そしてその不満足を「誰か」が満たしてくれないかと期待する。

だから、誰かの言葉に熱狂し、誰かの刺激で退屈を紛らわし、誰かからのいいねで孤独を紛らわす。

だけど、人生の主語に「俺が」「私が」を取り戻さない限り、決して満たされることはない。

あの有名な歌の「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんてそーんなのはーいーやだ!」、あの問いかけに「僕は」「私は」という主語で答えられない。

だから「そーんなのはーいーやだ!」って飢えと渇きがずっと続いてるわけですね。

僕が民俗学のZINEを作るのも、きっと僕の人生の主語を「僕が」にしたい、ただそれだけなのかもしれません。

右腕の力が強い

少し前にアニメ「プリンセス・プリンシパル」の4作目の劇場版を見に行きました。本当に大好きなアニメで、好きなアニメを3つ挙げるとしたら必ずランクインするくらいです。

映画の特典で、メインキャラ5人のうちの誰かが描かれた色紙がもらえます。僕の目当てはベアトリス! 確率は20%。

映画館の入り口で特典を受け取り、開封してみたところ、なんとベアトリスを引き当てました。

というわけで、家に帰って、過去の映画特典の中に並べたのだけど、

……意図してないのに、めっちゃベアトリスばっかり集まってくるんだけど。

過去4回映画があって、そのたびに特典があったわけです。いずれも「ベアトリスが当たる確率は20~25%」というもの。

そこで僕、4回中3回、ベアトリスを引き当ててるんですよね。

なんなら、コラボカフェでもらった缶バッジがあって、それも僕はベアトリスを引き当ててます。

しかも、缶バッジは二個もらえるんだけど、両方ともベアトリスだったのです。「両方ともベアトリス」の確率は、わずか4%!

そんな話を友達にしたところ、「右腕力強いんだよなぁ」と言われました。

いや、僕、左利きなんだけど。

友達が言うこの「右腕力」というのは、「くじでほしいものを引き当てる力」のことなんでしょうね、きっと。野球のドラフト会議で、監督が交渉権だか何だかを決めるくじを引くときに、黄金の右腕がどーのこーのという話が出てくる、気がします。

しかも、友達の口ぶりから察するに「今回の件に限らず、基本的に右腕力強いよね」という印象が僕にあるようです。

たしかに、スマホゲームを登録した時も、「初回ログインボーナス11連ガチャ無料!」と書いてあったので、「よーし、お目当てのサヤカが出るまでガチャを回し続けるぞぉ!」と意気込んでガチャを始めたら、一発目でサヤカを引き当てました。1発でサヤカを引き当てる確率ですか? 当時は17人実装キャラがいたので、6%以下ですね。

あと、「ゲームバランスを壊しかねない技を持つキャラ」を早々に引き当てたため、ゲーム攻略の際にかなり重宝しました。あのキャラを手に入れてなかったら、攻略はもっと苦戦したはず……。

こうなってくると、いま話題のSwich2とか、当たった落ちたとあちこちで歓喜と悲鳴が聞こえてるけれど、僕の右腕力をもってすれば、案外簡単に手に入ってしまうのではないか。

ところが、僕は全然ゲームをやらず、もう20年くらい「新しいゲーム機」というのを買ったことがないので、当然のようにSwich2なんて応募してないんですね。そもそも、いつ「Swich1」が出たんだよ。

もしや、右腕力の秘訣は、普段からのこの物欲のなさなのでは……?

歯医者さん、ありがとう

奥歯が黒ずんでいるのを見つけた。過去に二回も治療している場所だから、「またか……」と憂鬱な気持ちで歯医者に電話し予約する。

特に痛みはないんだけど、この歯は二回の治療で神経をとっちゃってるから、虫歯が進行していても気づかないのだ。

とぼとぼと歯医者に向かいながら、ふと考える。世の中の「医者」って呼ばれる職業の中で、歯医者さんほど患者から敵意のような目を向けられる医者もそうないんじゃないのか、と。

普通の医者の前では患者は「先生、何とかしてください!」とすがるような思いで立つものだけど、歯医者の前でだけは、自分で診療を予約しておきながら「貴様、俺の歯に何をするつもりだ!」という恨むような気持ちがどこかにあるように思う。

どうにも、いい印象がないのである。

まず、虫歯の治療と言ったら基本は「削る」、それでだめなら「引っこ抜く」と、言葉の響きが治療というよりも土木工事に近いのがよくない。

使う道具もドリルだのペンチだの、医療器具よりも拷問器具みたいなものが並んでいる。

挙句の果てには、麻酔してるにもかかわらず「痛かったら手を挙げてください」なんて言い出す。こんなの歯医者だけでしょ。

歯医者で憂鬱な瞬間はもう一つある。歯医者さんに症状の説明をする時だ。

虫歯の原因なんてのはたいていが「歯磨きをサボった」とか「歯医者に行くのをためらったら悪化した」とか、突き詰めれば自分の怠慢が原因なのだ。歯医者さんに症状を説明するのは、「おお主よ、私こと迷える子羊は歯磨きをサボるという罪を犯し、あろうことかすぐに歯医者に行くのをためらったために、虫歯が進行してズキズキと痛むのです」と、なんだか罪を告白して懺悔する気分になる。

牧師さんだったら聖書を手に「祈りなさい。神はすべてを赦します」とでも言ってくれるのだろうけど、歯医者さんはドリルを手に「痛かったら手を挙げてくださいね」というのだ。

さて、そんなこんなで歯医者さんの椅子に座った僕は、症状の説明をする。過去に二度も治療している場所はそれだけ歯磨きが届かない場所なんだから注意しなければいけないのに、そこがまた黒ずんでしまっただなんて、己の怠慢以外の何物でもない。

そんな僕の罪の告白を受け止めた歯医者さんは、僕の口の中を覗き込み、厳かに診断を下した。

「これは、前の治療で詰めたプラスチックが、変色しただけですね」

気が抜けて、危うく椅子から転げ落ちるところだった。

こうして、すっかり気の抜けた僕は、歯の研磨だけしてもらってスキップしながら家路についたのだった。歯医者さん、ありがとう!

本当にあった恐ろしい神社

地元でちっちゃな神社を見つけました。

普通の住宅街の中にある神社なんですけど、木々に囲まれ古めかしくて、なんだかそこだけ数百年も時間が止まってるみたい。

「天神社」と書いてあるからには天神様が祀られているんだろうけど、こういう神社はもっと古い神様を祀ってて、後から天神さまを祀ってるという可能性もあります。

どれ、由緒書きでもないのかな、と神社に近づいてみたその時!

……近づけないんですよ、神社に。そんなバカな。

夕暮れ時、逢ヶ魔時、そんな時間帯も相まってか、有限の薄闇の中に身をひそめる神社は、なんだか異様な雰囲気を放って、近づけないんです。

距離にして数m。これが、どうしても近づけない。

怖い。いや、恐ろしい。

鎖につながれたライオンとにらみ合ってるみたいな気分なんです。

しかし、相手はカミサマ。一度境内に入ったのに、挨拶もなしに逃げるのはさすがにマズい。

数m離れたところからだけど、とりあえず二礼二拍手一礼をして、そそくさと立ち去りました。

うーむ、この超自然的緊張感は、去年、東京タワーで行われた「呪物展」で呪いの絵を見て以来だなぁ。あの時も、ただ絵を見ただけなのに、一気に疲れ果ててしまった。

そんなことを思い出しながら、心臓バクバクで神社を去ったのですが、

どこか、妙にすがすがしいんですよ。あれほど恐ろしい場所じゃと思っていたのに。

去年の「呪いの絵」を見たときは、一気に疲れ果てて、帰り道も負の感情が抜けず、二回つまづいて、スマホを一度落としたくらいでした。

ところが、今回は妙にすがすがしい。

なんというか、会社の偉い人にすごいびくびくしながら挨拶したら、「おう、がんばれよ」と励まされた、そんな気分です。

その後しばらく、信号に引っ掛かりませんでした。

なるほど、これが「オソレ」というやつですか。

「オソレ」という言葉にはマイナスの意味の「恐れ」と、プラスの意味の「畏れ」があります。

語源をたどると「押される」の意味だという説があり、どうやら「気圧される」に近いものなのではないか。

「畏れ」と「恐れ」、二つの「オソレ」。正と負の表裏一体、たぶん、二つの「オソレ」はもともと同じものだったと、僕は考えてます。「畏怖」というやつですね。恐怖を覚えると同時に、威厳を感じる、なんとも不思議な感覚。

現代風に言うと「ヤバい」というやつです。「ヤバい」はプラスの意味でもマイナスの意味でも使われる言葉。「ヤバいだけじゃわからん! いいのか悪いのかはっきりしなさい!」なんていうけれど、いいも悪いも両方感じるのが「ヤバい」なんです。

このヤバい「オソレ」がいつしか、プラスの「畏れ」とマイナスの「恐れ」の二つに分けられて使われるようになったわけです。

それ以前の、神様のような得体のしれないものに対する原始の感情は、このヤバい方の「畏怖のオソレ」だったんじゃないか。改めてそんなことを考えました。

しかし、そんな原始のオソレを放つあのちっちゃな神社、いったい何者……。

ZINEの最新号ができました

民俗学エンタメZINE「民俗学は好きですか?」の最新号が、ついに完成しました!

最新号の特集テーマは、「巫女」です!

神社の巫女さんだけじゃなくて、古代の巫女から東北のイタコ・沖縄のユタに至るまで、いろんな角度で巫女を掘り下げています。

今回は表紙もちょっとかわいくポップなものができたかな、と自負しています。

さてさて、いつもZINEが完成するたびに、達成感というよりも「モノづくりが終わってしまった……」という「もののあはれ」の気持ちのほうが強かったんですけど、今回は意外と達成感があるんですよ。

というのも、5月11日の文学フリマに間に合うかどうか、ちょっとぎりぎりだったので、何とか間に合ったなぁという達成感があるのです。

どうしてぎりぎりになったのかと思い返してみると、やっぱり3月に行った取材旅行が大きいですね。

今までは、「普通にプライベートで旅行に行く」⇒「お、このネタ、使えるじゃん」⇒「よし、これでひとネタ書こう」というものだったんだけど、今回初めて、最初から記事を書くつもりで旅行の日程を組んだわけです。

でも、1月2月は寒いから、暖かくなってからの方がいいよね。

せっかく行くなら、晴れてるほうがいいよね。

そんなこんなで日程をずるずると三月中頃に引っ張った結果、旅行から帰って一か月ちょっとで記事を仕上げ、表紙を作り、校正を終わらせなければいけなくなったわけです。

やっぱり、5月上旬に文学フリマがあるのに、3月中頃に取材旅行に行くのは、ちょっと遅かったかな。無事に完成したからいいけど、何かのアクシデントがあるかもしれないから、もっと制作には余裕を持ちたいよなぁ。

この次の第14号は、11月末の文学フリマに向けて作る予定。ということは、11月の初めには完成させておきたい。

予算の関係上、次もまた大規模な取材旅行に行けるかどうか微妙だけど、どこかに行くのなら8月9月に行かないとなぁ。

……8月なんて暑くて死んじまうよ! 取材旅行なんだから、ホテルのプールでのんびりくつろぐってわけにはいかんのよ。あちこち回らなきゃいかんのよ。

行くなら9月かなぁ。

もしくは、うんと涼しいところを目指して北海道に行くとか。

……予算が足りないよ。行きたくてしょうがない青森の恐山ですら、「遠っ! 高っ! 予算ない! 無理っ!」であきらめたのに。

え? 6月の梅雨入り前に行けばいい?

そんなすぐに企画が固まらないよ!

いま作ってるZINEに集中するために、制作中は「その次のZINE」の企画とかは一切考えないようにしてるので、全然間に合いません。

さて、9月、どこ行こうか。いや、予算の範囲でどこに行けるか……。

お前だったのか!

畑のソラマメが少しずつ大きくなってきました。収穫までは群がるアブラムシとの戦いです。油せっけん水を吹き付けては、ハケでせっせと落とし続ける。ちょっとしたバイオテロ、ジェノサイドです。

ところが、4月に入って、アブラムシの数が随分と減ったんです。

あれま、アブラムシのシーズンオフかしら、と思って調べてみるとですね、むしろアブラムシはこれからの季節が本番と書いてあるんですよ。

それでも畑に行くたびに、びっしりといたアブラムシが明らかに減っているので、やはり何か起きたとしか思えません。

そうやってソラマメの世話をしていると、葉っぱからひょっこりとテントウムシが顔を出しました。

そういえば、ナナホシテントウはアブラムシの天敵と聞いたことがあるぞ。

一方で、同じテントウムシでも黒い点々の多いニジュウヤホシテントウはナスの葉っぱを食べちゃうので、ウチの今季はナスじゃなくてソラマメだけど、あまりお近づきになりたくない。

果たしてこいつはどっちだと背中のお星さまを数えてみたところ、さすがに28もないように見えます。

ナナホシテントウなら大歓迎! どうぞ好きなだけお食べください。アブラムシのケータリングでございます。

さて、しばらく前から謎の黒い虫もソラマメに出没するようになりました。なので、ついでに調べてみたところ、なんと、そいつがテントウムシの幼虫だったことが発覚したんです!

ってことは、あの黒い虫が成長してテントウムシになって、アブラムシを食べてくれていたのか!

てっきりアブラムシの一味だと思って、油せっけん水かけて悪かったなぁ。

気分は「ごん! おまえだったのか……!」です。

しかし、おもしろいものです。わずか半畝のソラマメ畑にも、生態系がある。

ソラマメが成長すると、その液を吸いにアブラムシが群がる。

アブラムシが群がると、どこで聞いたのかテントウムシがやってきて、アブラムシを食べる。

ってことは、僕がそのテントウムシを食べれば生態系の頂点に……。

ナンバーワン……。ナンバーワン……! 戦え……戦え……!

……いや、食べないよ!

危なかった。ソラマメが食べたくて栽培してるのに、生態系ナンバーワンの座を狙ったばっかりに、うっかりテントウムシを食べるところだった。

っていうか、テントウムシを食べるくらいなら、びっしり群がるアブラムシを食べたほうが……。

……いや、食べないよ!

農薬を使わなくても、自分で害虫を食べればいいんだとか、どんな究極の有機農法だよ。もう野菜育てるのやめて、森で虫とって食ってろよ。

ソラマメだよ。ソラマメが食べたいんだよ。