歯医者さん、ありがとう

奥歯が黒ずんでいるのを見つけた。過去に二回も治療している場所だから、「またか……」と憂鬱な気持ちで歯医者に電話し予約する。

特に痛みはないんだけど、この歯は二回の治療で神経をとっちゃってるから、虫歯が進行していても気づかないのだ。

とぼとぼと歯医者に向かいながら、ふと考える。世の中の「医者」って呼ばれる職業の中で、歯医者さんほど患者から敵意のような目を向けられる医者もそうないんじゃないのか、と。

普通の医者の前では患者は「先生、何とかしてください!」とすがるような思いで立つものだけど、歯医者の前でだけは、自分で診療を予約しておきながら「貴様、俺の歯に何をするつもりだ!」という恨むような気持ちがどこかにあるように思う。

どうにも、いい印象がないのである。

まず、虫歯の治療と言ったら基本は「削る」、それでだめなら「引っこ抜く」と、言葉の響きが治療というよりも土木工事に近いのがよくない。

使う道具もドリルだのペンチだの、医療器具よりも拷問器具みたいなものが並んでいる。

挙句の果てには、麻酔してるにもかかわらず「痛かったら手を挙げてください」なんて言い出す。こんなの歯医者だけでしょ。

歯医者で憂鬱な瞬間はもう一つある。歯医者さんに症状の説明をする時だ。

虫歯の原因なんてのはたいていが「歯磨きをサボった」とか「歯医者に行くのをためらったら悪化した」とか、突き詰めれば自分の怠慢が原因なのだ。歯医者さんに症状を説明するのは、「おお主よ、私こと迷える子羊は歯磨きをサボるという罪を犯し、あろうことかすぐに歯医者に行くのをためらったために、虫歯が進行してズキズキと痛むのです」と、なんだか罪を告白して懺悔する気分になる。

牧師さんだったら聖書を手に「祈りなさい。神はすべてを赦します」とでも言ってくれるのだろうけど、歯医者さんはドリルを手に「痛かったら手を挙げてくださいね」というのだ。

さて、そんなこんなで歯医者さんの椅子に座った僕は、症状の説明をする。過去に二度も治療している場所はそれだけ歯磨きが届かない場所なんだから注意しなければいけないのに、そこがまた黒ずんでしまっただなんて、己の怠慢以外の何物でもない。

そんな僕の罪の告白を受け止めた歯医者さんは、僕の口の中を覗き込み、厳かに診断を下した。

「これは、前の治療で詰めたプラスチックが、変色しただけですね」

気が抜けて、危うく椅子から転げ落ちるところだった。

こうして、すっかり気の抜けた僕は、歯の研磨だけしてもらってスキップしながら家路についたのだった。歯医者さん、ありがとう!

本当にあった恐ろしい神社

地元でちっちゃな神社を見つけました。

普通の住宅街の中にある神社なんですけど、木々に囲まれ古めかしくて、なんだかそこだけ数百年も時間が止まってるみたい。

「天神社」と書いてあるからには天神様が祀られているんだろうけど、こういう神社はもっと古い神様を祀ってて、後から天神さまを祀ってるという可能性もあります。

どれ、由緒書きでもないのかな、と神社に近づいてみたその時!

……近づけないんですよ、神社に。そんなバカな。

夕暮れ時、逢ヶ魔時、そんな時間帯も相まってか、有限の薄闇の中に身をひそめる神社は、なんだか異様な雰囲気を放って、近づけないんです。

距離にして数m。これが、どうしても近づけない。

怖い。いや、恐ろしい。

鎖につながれたライオンとにらみ合ってるみたいな気分なんです。

しかし、相手はカミサマ。一度境内に入ったのに、挨拶もなしに逃げるのはさすがにマズい。

数m離れたところからだけど、とりあえず二礼二拍手一礼をして、そそくさと立ち去りました。

うーむ、この超自然的緊張感は、去年、東京タワーで行われた「呪物展」で呪いの絵を見て以来だなぁ。あの時も、ただ絵を見ただけなのに、一気に疲れ果ててしまった。

そんなことを思い出しながら、心臓バクバクで神社を去ったのですが、

どこか、妙にすがすがしいんですよ。あれほど恐ろしい場所じゃと思っていたのに。

去年の「呪いの絵」を見たときは、一気に疲れ果てて、帰り道も負の感情が抜けず、二回つまづいて、スマホを一度落としたくらいでした。

ところが、今回は妙にすがすがしい。

なんというか、会社の偉い人にすごいびくびくしながら挨拶したら、「おう、がんばれよ」と励まされた、そんな気分です。

その後しばらく、信号に引っ掛かりませんでした。

なるほど、これが「オソレ」というやつですか。

「オソレ」という言葉にはマイナスの意味の「恐れ」と、プラスの意味の「畏れ」があります。

語源をたどると「押される」の意味だという説があり、どうやら「気圧される」に近いものなのではないか。

「畏れ」と「恐れ」、二つの「オソレ」。正と負の表裏一体、たぶん、二つの「オソレ」はもともと同じものだったと、僕は考えてます。「畏怖」というやつですね。恐怖を覚えると同時に、威厳を感じる、なんとも不思議な感覚。

現代風に言うと「ヤバい」というやつです。「ヤバい」はプラスの意味でもマイナスの意味でも使われる言葉。「ヤバいだけじゃわからん! いいのか悪いのかはっきりしなさい!」なんていうけれど、いいも悪いも両方感じるのが「ヤバい」なんです。

このヤバい「オソレ」がいつしか、プラスの「畏れ」とマイナスの「恐れ」の二つに分けられて使われるようになったわけです。

それ以前の、神様のような得体のしれないものに対する原始の感情は、このヤバい方の「畏怖のオソレ」だったんじゃないか。改めてそんなことを考えました。

しかし、そんな原始のオソレを放つあのちっちゃな神社、いったい何者……。

ZINEの最新号ができました

民俗学エンタメZINE「民俗学は好きですか?」の最新号が、ついに完成しました!

最新号の特集テーマは、「巫女」です!

神社の巫女さんだけじゃなくて、古代の巫女から東北のイタコ・沖縄のユタに至るまで、いろんな角度で巫女を掘り下げています。

今回は表紙もちょっとかわいくポップなものができたかな、と自負しています。

さてさて、いつもZINEが完成するたびに、達成感というよりも「モノづくりが終わってしまった……」という「もののあはれ」の気持ちのほうが強かったんですけど、今回は意外と達成感があるんですよ。

というのも、5月11日の文学フリマに間に合うかどうか、ちょっとぎりぎりだったので、何とか間に合ったなぁという達成感があるのです。

どうしてぎりぎりになったのかと思い返してみると、やっぱり3月に行った取材旅行が大きいですね。

今までは、「普通にプライベートで旅行に行く」⇒「お、このネタ、使えるじゃん」⇒「よし、これでひとネタ書こう」というものだったんだけど、今回初めて、最初から記事を書くつもりで旅行の日程を組んだわけです。

でも、1月2月は寒いから、暖かくなってからの方がいいよね。

せっかく行くなら、晴れてるほうがいいよね。

そんなこんなで日程をずるずると三月中頃に引っ張った結果、旅行から帰って一か月ちょっとで記事を仕上げ、表紙を作り、校正を終わらせなければいけなくなったわけです。

やっぱり、5月上旬に文学フリマがあるのに、3月中頃に取材旅行に行くのは、ちょっと遅かったかな。無事に完成したからいいけど、何かのアクシデントがあるかもしれないから、もっと制作には余裕を持ちたいよなぁ。

この次の第14号は、11月末の文学フリマに向けて作る予定。ということは、11月の初めには完成させておきたい。

予算の関係上、次もまた大規模な取材旅行に行けるかどうか微妙だけど、どこかに行くのなら8月9月に行かないとなぁ。

……8月なんて暑くて死んじまうよ! 取材旅行なんだから、ホテルのプールでのんびりくつろぐってわけにはいかんのよ。あちこち回らなきゃいかんのよ。

行くなら9月かなぁ。

もしくは、うんと涼しいところを目指して北海道に行くとか。

……予算が足りないよ。行きたくてしょうがない青森の恐山ですら、「遠っ! 高っ! 予算ない! 無理っ!」であきらめたのに。

え? 6月の梅雨入り前に行けばいい?

そんなすぐに企画が固まらないよ!

いま作ってるZINEに集中するために、制作中は「その次のZINE」の企画とかは一切考えないようにしてるので、全然間に合いません。

さて、9月、どこ行こうか。いや、予算の範囲でどこに行けるか……。

お前だったのか!

畑のソラマメが少しずつ大きくなってきました。収穫までは群がるアブラムシとの戦いです。油せっけん水を吹き付けては、ハケでせっせと落とし続ける。ちょっとしたバイオテロ、ジェノサイドです。

ところが、4月に入って、アブラムシの数が随分と減ったんです。

あれま、アブラムシのシーズンオフかしら、と思って調べてみるとですね、むしろアブラムシはこれからの季節が本番と書いてあるんですよ。

それでも畑に行くたびに、びっしりといたアブラムシが明らかに減っているので、やはり何か起きたとしか思えません。

そうやってソラマメの世話をしていると、葉っぱからひょっこりとテントウムシが顔を出しました。

そういえば、ナナホシテントウはアブラムシの天敵と聞いたことがあるぞ。

一方で、同じテントウムシでも黒い点々の多いニジュウヤホシテントウはナスの葉っぱを食べちゃうので、ウチの今季はナスじゃなくてソラマメだけど、あまりお近づきになりたくない。

果たしてこいつはどっちだと背中のお星さまを数えてみたところ、さすがに28もないように見えます。

ナナホシテントウなら大歓迎! どうぞ好きなだけお食べください。アブラムシのケータリングでございます。

さて、しばらく前から謎の黒い虫もソラマメに出没するようになりました。なので、ついでに調べてみたところ、なんと、そいつがテントウムシの幼虫だったことが発覚したんです!

ってことは、あの黒い虫が成長してテントウムシになって、アブラムシを食べてくれていたのか!

てっきりアブラムシの一味だと思って、油せっけん水かけて悪かったなぁ。

気分は「ごん! おまえだったのか……!」です。

しかし、おもしろいものです。わずか半畝のソラマメ畑にも、生態系がある。

ソラマメが成長すると、その液を吸いにアブラムシが群がる。

アブラムシが群がると、どこで聞いたのかテントウムシがやってきて、アブラムシを食べる。

ってことは、僕がそのテントウムシを食べれば生態系の頂点に……。

ナンバーワン……。ナンバーワン……! 戦え……戦え……!

……いや、食べないよ!

危なかった。ソラマメが食べたくて栽培してるのに、生態系ナンバーワンの座を狙ったばっかりに、うっかりテントウムシを食べるところだった。

っていうか、テントウムシを食べるくらいなら、びっしり群がるアブラムシを食べたほうが……。

……いや、食べないよ!

農薬を使わなくても、自分で害虫を食べればいいんだとか、どんな究極の有機農法だよ。もう野菜育てるのやめて、森で虫とって食ってろよ。

ソラマメだよ。ソラマメが食べたいんだよ。

わくわく動物ランドへようこそ

この前、近所のマンションに「タヌキ、アライグマ、ハクビシンに注意! 見かけても触らないように!」っていう貼り紙がありまして。駅前の大きなマンションなのに、そんなに動物がいるの? いつから我が町はわくわく動物ランドになったの?

とはいえ、実は僕、この3匹、全部近所で見てるんですよ。

タヌキはついこの前。2回も見ました。ネコにしてはデカいなと思ってよく見たら、タヌキでした。

ハクビシンを見たのは数年前。あれは夜道の住宅街のことだった……。

自転車のライトが前方のネコみたいな生き物を照らしたんです。うっかり轢いたら大変だとその生き物をよく見ていたところ、なんと3匹に分裂したんです。そんなバカな!

どうやら、3匹のちっちゃいなにかが集まって1匹のネコみたいに見えていたようで。

子猫にしては小さすぎるけど、ネズミにしてはデカすぎる。お前はいったい何者だ、と見ていると、そのうちの一匹がくるりと振り返ったんです。

自転車のライトが顔にあたっても臆することなくこっちを見ていて、その鼻筋には白い線が一本通っていました。

あ~! おまえはハクビシン!

またある時は、とある用水路の脇の道をやっぱりネコみたいな生き物が歩いているのを見ました。

だけど、歩き方がどこか「イヌ科」っぽいんですよ。

犬みたいな歩き方をするネコだなぁと思ってよく見ると、ネコではなくてタヌキ顔。

あ~! おまえはタヌキ!

と驚いたんだけど、むこうも「わ~! ニンゲンだぁ~!」と驚いたのか、くるりと尻尾を向けて逃げていきました。

そのしっぽがしましまだったので調べてみると、タヌキじゃなくてアライグマだったようです。

アライグマはしっぽがしましまで、タヌキは先っぽが黒い。区別に困ったらしっぽを見ましょう。

アライグマはその名の通り気が荒いので、見つけても近づかないようにとよく言うけれど、中には気の小さいやつもいるみたいで、僕が見たアライグマはとっとと逃げていきました。

アライグマの世界で気が小さいと、いろいろ苦労しそうだなぁ。

一方で、タヌキやハクビシンの方が堂々としてましたね。ハクビシンは自転車のライトが顔にあたっても逃げなかったし、タヌキに至っては真昼間にお散歩してました。

そしてこれはついこの前の話。ちょうどこの前タヌキを見たあたりで、またしてもタヌキの様な動物を見かけました。

もうタヌキにはいちいち驚かないぞ、と思いつつも、タヌキかもしれないと思って顔を確かめてみたところ、なんと!

タヌキ柄の、ネコでしたとさ。

ちょっと、じっくり、考える

今は畑でソラマメを育てています。

ソラマメを育てるのは、アブラムシとの戦いなんです。黒ゴマみたいなアブラムシがびっしりとソラマメに貼り付き、汁を吸っているんです。

収穫できるのはまだまだ先みたい。それまでは、ただひたすらアブラムシとの戦いです。

この前はジャガイモを植えたのだけど、こちらはまだ芽が出ません。まあ、周りの畑も同じような感じなので、気長に待つこととします。

野菜を育てたりモノづくりをしたりしてると、「じっくり待つ」という時間が生まれます。

どうも現代人はこの「じっくり待つ」ということが苦手に思えてなりません。

ちょっと検索したらすぐに最適解が出る、ということに慣れすぎちゃって、「じっくり待つ」「じっくり考える」ってことができなくなって、どんどん短絡的になってるんじゃないか、そんな風に思えるんです。

ついこの前、闇バイト事件の実行犯が「自分のようにならないでほしい」と獄中で書いた手記というのがタイムラインに上がっていて、少し目を通したのですが、「ラクに稼げるうまい話なんてない」「被害者やその家族のことを考えるべきだった」と、「そんなの、ちょっと考えればわかるだろ!」ということが書かれていました。

ということはやっぱり、その「ちょっと考えれば」ができなかった、ってことなんですよ。むしろ「ラクに稼げる仕事」とちょっと検索すれば、ネットが最適解を出してくれる、と思って、その結果出てきた「闇バイト」に疑うことなく手を出してしまったんじゃないか。

なにかと世間を騒がせる陰謀論も、やっぱりこの「ちょっと考える」「じっくり考える」ができない人が信じてしまうんじゃないかと思うんです。世界情勢だとか、政治だとか、歴史問題とか、こういうのは本来、うんとこさ勉強して、勉強して、それでようやく輪郭や断片がおぼろげにに見えてくる程度、そういうものだと思うんです。歴史なんて、知れば知るほど何がホントなのかわからなくなるものです。

ちょっと検索しただけで「これが答えだ! 真実だ!」みたいなのが出てきたらそれはもう100%アヤシイんだけど、やっぱり「自分でじっくり考える」ってことができずに、その手間を省いて、「正解や真実は誰かがすぐ教えてくれる、どっかに書いてある」と思いこんでるから、この手の陰謀論を信じちゃう。自分でなにかを考えたわけじゃなくて、誰かが言い出した「正解」とか「真実」とやらを、そうだそうだ!といいねしてリツイートしてるだけなのに、なにか高尚な思想でも持ったと勘違いしてやがる。

「ちょっとはてめぇで考えろ!」って思うんだけど、その「自分で考える」ができない人が増えてます。

そんでもって、AIの登場で「ちょっと聞けばすぐ最適解が得られる」という思い込みはますます強くなるんじゃないか、と危惧しているのです。

人の意見や考えを参考にするのも大事だけど、「参考」はあくまでも「参考」であって、自分の「思考」じゃない。ネットに書いてあるのもあくまでも「参考」であって、「正解」や「真実」などではなのです。

なにかの答えが知りたければ、知恵熱で倒れるくらい自分で考えろ!

……と思うんだけど、「ちょっと検索すれば最適解が出てくる」⇒「自分で考えずに、誰かがすぐに答えを用意してくれると思ってる」の流れはもはや時代の流れ、止めようがないのかもしれません。

だからこそ、たかだか24PのZINEを半年かけて作って、1枚ずつ印刷して、ホチキスで止めて、手売りするという「ひとつのモノをじっくり作る」という行為には、何か意味があるのかもしれません。

スマホって必要?

たぶん、いまのスマートフォンを使い始めて、5年になります。

あと5年くらい使いたかったんだけど、先日、仕事に必要なアプリの更新のお知らせが来て、いまのスマホでは推奨できない、とのこと。

まあ、それだけでスマホを替えちゃうのはもったいないかなと思ったんだけど、そういえば最近、電池の減りが早く、充電にも時間がかかるようになったような気がする。

これは本格的にスマホの調子が悪くなってお困りになる前に替えるのが吉ということなのかな。

というわけで、スマホ売り場をいくつか回ってみたのだけど、

……、高くない? スマホ。

10万近いのとかあるんだけど。え? 前からそんなに高かった?

じゃあみんな、10万近くするようなものを、毎日持ち歩いてるの?

怖っ!

「スマホを落としただけ」みたいな映画あったけど、「落としただけ」じゃ済まんよ。大損害だよ。

パソコンが10万ぐらいするのならまだわかるけど、持ち歩いて、落っことしたりなくしたりするリスクがあるスマホがそんなにするのは納得いかない。

そもそも、いま使ってるスマホ、10万もしなかったはず。物価高だと言ったって値上がりするにもほどがあるだろう、と思って探してみると、もっと安いのもちゃんと見つかりました。

10万と数万なら、そりゃ数万で済む方がいいだろう、と思う一方で、「安かろう、悪かろう」という言葉もある。やっぱり、ちゃんとお金をかけた方がいいのか。

ホントにスマホに10万円も必要なの?

高いスマホと安いスマホで何が違うのかというと、やっぱり、高いスマホの方が高性能なのでしょう。

ということは、僕がそこまでの性能を求めてないのなら、そんなに高性能じゃなくても、全然問題ないはず。

さて、僕はいま、どれくらいスマホを使っているのだろうと思ってスマホの容量を見てみると、32ギガのスマホを30ギガまで使って「あともうちょっとだけ容量があったらなぁ」とぼやいてる、くらいなのでした。きっと、40、50ギガもあれば十分なのでしょう。

一方、スマホのカタログを見てみると、250ギガとか書いてある。

使いもしない200ギガのために10万円も払うのならば、50ギガとか100ギガとかの安いやつでいいんじゃないか。

いや、そもそもの話。

どうしても必要なアプリがあるからスマホが必要なのであって、それさえなければ、僕にはスマホ自体がそもそも必要ないんじゃないか。

では、その30ギガを一体どんな風に使っているのかというと、電話をしたり、LINEを見たり、ツイッターを見たり、路線検索したり、地図を見たり、目覚ましをかけたり。それくらい。

スケジュール管理は、全て手書き。壊れたら手に負えないマシンに、日々のスケジュールなんてまかせないんですね。

なにかのアプリの類とか、ほとんどダウンロードしていない。

動画には1ギガも使っていない。なぜなら、ユーチューブを「どうせ、見ない」と、とっとと削除したのである。

つまりは、ガラケーの時代からほとんど変わってない。僕に必要なのは携帯電話であって、スマートフォンじゃなかったのです。

技術が進歩し、必要としてる人に必要な技術が届くのはけっこうなことだけど、そこまで必要としていない人もいるわけである。そういう人に最先端の技術を使え使え、使わなきゃ生活できないぞと押し付けるのも、一つのハラスメントなのかもしれません。

AIはホントに最先端なのか

最近、「AIによる要約」をよく見ます。

あれはよくない。本当によくない。

どこまで合ってるかどうかわからない要約なんて目にしたら、先入観ができちゃうし、「自分でちゃんと情報を確かめる」という癖がつかなくなっちゃう。

しかも、タチが悪いことに、グーグルでもツイッターでもこの「AIによる要約」を非表示にできないんですよね。

ツイッターはまだ隅っこの方に出てくるから、なるべく見ないようにしてるんだけど、グーグルはいの一番に出てくる。ああいうのが一番タチが悪い。

唯一、シークレットモードってやつにするとAIが出てこないので、スマートフォンで検索するときはわざわざそれを起動しています。

近年、ネットニュースの見出しだけ見て内容も読まずに拡散する奴が多いって問題になっているのに、「AIによる要約」なんてことをやってたら、余計に「勘違いや早とちりで拡散する奴」が増えますよ。

なんぼタイパ重視って言っても、省いちゃいけない過程ってありますよ。

しかも問題点はさらにあって、これ、あの悪名高いイーロン・マスクが「人類から思考力と判断力を奪って堕落させてやるぜ! げへへへへ!」と悪意に満ちてやってるわけではないんです。

『こっちの方が便利だろう』という100%善意でやってることなんです。

いまの世の中、なんでもそう。『こっちの方が便利だろう』と言って、どんどん新しいものを押し付けられる。パソコンのソフトとか、スマホのアプリとか、知らないうちに更新してるし。

でも、ゴーマンかましてよかですか?

便利かどうかを決めるのは作り手じゃない! 使い手だ!

ただ進歩すれば幸せになれるわけではない、と水木しげるセンセイもおっしゃっています。

むしろ、歴史を少しかじっていると、「最先端の技術だと思ってることが、実は太古の昔からあるものとそんなに変わらない」と思うことがよくあります。

古来より日本には「神がかりの託宣」っていうのがありまして、シャーマンにカミサマを降ろして、作物の出来だとか、災害や病気は起きないかとか、いろんなことを尋ねるんですね。

その様子を調べてみると、なんかAIにいろんなことを質問する最近の動向に似てる、と思うんですよ。託宣や占いに答えを求めるのと、AIに答えを求めるのは、実は大して変わんないんじゃないか。すくなくとも、答えを聞こうとする側の方は。

むしろ、占いとAIでいったい何が違うっていうのか。AIは学習して合理的に判断するって言っても、そのメカニズムを解説できる人間がどれだけいるのか。

「我々がいまAIだと思ってるやつは、ホントはキツネやタヌキの霊を機械におろしてしゃべらせてるんだぜ」と言われて、「そうじゃないよ。AIってのはね……」と理論立てて証明できる人間がどれほどいるか。

スマートフォンを分解しても、そこに「AI」はいません。じゃあ、なんでそれを何かの霊ではなくAIだと思ってるかというと、作った人が「最新AIを使っています」と言い張っているからに過ぎないんです。

開発者がAIだと言ってるから信じる。

霊媒師が神様だと言ってるから信じる。

どう違うんねん。

歴史を学ぶ意義って、最先端だ新時代だと思ってることが、実は太古の昔からあるものと大して変わらない、ということを学べるところにあるのかもしれません。世界には「最先端」「新時代」「近未来」、そんなうたい文句を掲げた「過去の遺物」が山ほどあるんです。

あんまりAIに頼っていると「AIなんてイタコと大して変わらないじゃないか」ということに気づく力も衰えていきます。

だから、「新しさ」の上にあぐらをかいてはいけないよ、ということですね。

脱ネット・脱エンタメ・脱情報生活

年末あたりから「脱ネット・脱エンタメ・脱情報生活」を掲げて、少しずつ実践しています。

いくつか箇条書きにしてみると

・ネットニュースやSNSを見るのは「8時間に1回」ぐらいのペースを保つ。

・テレビニュースも見る回数を減らす。「とりあえずニュース見とくか」はやめる。

・アニメは月5作品まで。

要は「無意識にスマホに触らない、無意識にネットを見ない、無意識にテレビを点けない」「見るときは時間を決めて、その時間になるまでは見ない」というわけです。

なんでそんなことを始めたのかというと、回転ずしのお皿みたいに情報やエンタメが次から次へと流れてくる、現代社会のこの状態はちょっとおかしくないか? と思い始めたからなんです。

テレビやネットを見るとそれこそ「○○を見逃すな!」「○○に乗り遅れるな!」みたいに煽ってきます。でも、そんな感じで次から次へと情報やエンタメを摂取するのは、おかしい。

だって、回転寿司に行って、レーンに流れてるお寿司を「見逃すなんてもったいない!」って片っ端から食べるようなマネ、しないでしょ?

焼肉食べ放題に行って、「すべての部位を食べないともったいない!」ってメニュー表の片っ端から注文することは、やらないでしょ?

でも、ネットニュースとかアニメとかだと、みんなそれをやってるわけです。「見逃すなんて、もったいない!」「片っ端から見ないと、もったいない!」って。対してお金も払ってないはずなのに。

ちょっとスマホを覗くだけで、ニュースだとか、トレンドだとか、アニメだとか、ドラマだとか、スポーツだとか、やたら見ろ見ろすすめてくるんですよ。

鬱陶しくって、仕方がない!

自分から検索したわけでもないのに、ニュースとかトレンドとか見せられたり、知らないドラマとかアニメとかすすめられたり、

そういうので時間を奪われるのが、発狂するくらい嫌なのです。

ネットニュースの見出しとか、you tubeのサムネイルとか、マンガの広告とか、内容が気になるように巧妙に作られてます。

ああいうのは、押したら負けだと思って日々生きています。毎日これ修行です。

他人の醜聞に興味を示さない。耳にしても気にしない。すぐに忘れる。情報を追わない。そうすれば、踊らされないしだまされない。

あと、つい最近、ここに「AIによる要約は見ない」が追加されました。あれは人から「自分の目でちゃんと確かめる」という習慣を奪うと思ってるので。要約があってようが間違ってようが、見ない。

こうしてスマホに触らずに空いた時間で、なるべく日常の中で楽しみを見つけようと思っています。

最近は、せっせとコーヒーを淹れて、こおろこおろとかき混ぜてます。

別にコーヒーはたいして好きじゃないんだけど、この「自分で味を調整する」という日常のちょっとした楽しみを大事にしたいんです。

あとは、読書やラジオのようなスローペースなメディアを楽しんだり。スローペースなメディアは、トレンドとかオススメとかをあんまり押し付けてきません。

やることがないならいっそのこと、お昼寝をしてしまうのもありです。「暇だからスマホ」「暇だからネトフリ」「暇だからSNS」は極力避けるようにしています。

こんなふうに、なるべくオフラインの中で楽しみを見出したいのです。

寝床改革

朝、起きると体がこわばって、なんともだるい。

前日の疲れが取れてないんだなぁ、と漠然と思ってたんですけど、それだけじゃなく寝てる間に筋肉が凝り固まってるんじゃないかと思い立ったわけです。

去年マッサージグッズをいろいろと買ったので、朝起きてそいつを使ってみるとほぐれるほぐれる。

やっぱり、寝てる間に筋肉にも負荷がかかっていたみたいです。

布団がよくないのかな。

どっか旅行でもしようかと貯めてたお金があったんですけど、そのお金を使って、いい布団、さらにはいいベッドでも買った方がいいのかもしれません。

そうだよ。一晩二晩くらいしか泊まらない宿の寝床に金を払うより、まずは毎日使う寝床にお金をかけようぜ。寝床は人生の3分の1を過ごす場所だというし。僕の場合はしょっちゅう昼寝をするので、5分の2ぐらいは寝床の上かもしれません。

そういえば、借りてる畑のすぐ近くに、ニトリがあったなぁ……。

道路挟んで反対側に、大川家具もあったなぁ……。なんだよ、家具屋紛争地帯かよ。

ただ、お金をかける前にもやることはあるようで。

ある日、布団に入って、あれ? と思ったことがあったんです。

寝るときのこの姿勢、もしかして、これが肩とか背中とかに負荷をかけてるんじゃないのか?

要は、体重を上半身だけで支えて寝ている、そんな気がしてきたんですよ。

試しに、もっとお尻とか足の方に体重が行くように意識してみると、やっぱり体重の乗り具合が違うんです。

ということはやっぱり、寝ている時の体重は背中とか肩とかに集中しているということじゃないのか。

人体の重心はおへそあたりだというから、それより上の部分で体を支えて寝ているというのは、やっぱりヘンなわけです。

体重が偏っていれば、敷布団の沈み込みが深くなり、薄くなる。そりゃ、背中が痛くなるわけだ。

どうもね、寝てる間に、足を伸ばさずに崩してるようで。

すると、上半身の方に体重が行ってしまうようです。

結果、肩と背中が痛い。

調べてみると、「体圧分散」という言葉があるそうなんです。

要は、寝ている時の体を全身でバランスよく支えよう、って話です。

後頭部、肩甲骨、お尻、かかとを布団やベッドにぴったりつけると、圧力がバランスよく分散されるらしいのです。

実際にやってみると、確かに負荷の偏りがなくなった、気がする。

とりあえず、肩甲骨はプロレスの「両肩をマットにつけて3カウント! 1! 2! 3!」のイメージで床につけてます。

お尻はさすがに意識しなくても床についてるので、かかとを意識して床につけてみる。それだけでもだいぶ違います。

そして後頭部。人間の頭は重いので、体を起こしている限り、首と肩の筋肉は頭を支え続けているそうです。だから、寝るときはそこから解放してやらねばならない。後頭部をしっかりつけて、なるべく首で支えないようにして見ました。

それともうひとつ。

敷布団のマットを触ってみたところ、長年使ってるせいで、やっぱり背中の部分が潰れて薄くなってるんですね。

なので、寝てるとベッドの硬さがじかに伝わってくる。

なので、使ってないバスタオルをそこに敷いて、厚みを補強してみました。これだけでも、背中の感触が全然違う。

今のところ、以前よりも起床時の凝りが少しマシになった、ような気もします。

結局、立ってる時も、歩いてる時も、座ってる時も、そして寝ている時でさえも、いい姿勢を保つというのが、一番疲れないんですね。