畑を借りました

畑を借りたんですよ。

2畳ほどの小さな区画を、月6500円で借りてます。

うちの近所にはいくつかこういう貸農園がありまして、いろいろ比較してたんですけど、地元だとここが一番安いです。

どうして安いのかと言うとその理由はカンタンで、

どの駅からも遠いんですよ。

3つある「最寄駅」、どの駅から歩いても30分以上かかるんですよ。バスを待っても30分に一本。

ただ、ウチからは自転車で10分ちょっとで行けちゃう。

これはいい場所を見つけたぞ。

もう少し探す範囲を広げればもっと安いところもあるけど、そこだと交通費やらお昼ごはんやらが通うたびにかかって、結局お金がかかっちゃう。

今度借りた畑なら、自転車でも歩きでも行けるから交通費はかからないし、うちでで昼ご飯を済ませてからでも十分作業できる。おまけに指導員の人までいるので、基本は自分の自由にやりつつも、不安なところは相談できる。この前は肥料の撒き方を教わりました。

そもそも、地元に貸農園がいくつかあって、比較して選べるって時点で恵まれてるなぁ、と思います。

都心だとたぶんこうはいかない。貸農園どころか、畑そのものがないんだから。

ウチの地元は首都圏のベッドタウンとしてかなりの人口を抱えてるけど、少し郊外へ行けば農地がたくさんあるんです。

とくに、畑に行く途中で大きな道路を二つ横切るんですけど、二つ目を横切ると景色は一気に畑だらけになって、心も自然と農作業ムードに切り替わるんですね。

おまけに、家から畑まで行く道中にコンビニもスーパーもあって、郵便局まであるので、なにかと便利。

あろうことか農園の目の前はホームセンターなんです。もはや、便利オブ便利。欲しいものは全部ここで買えちゃう。

まあ、いまのところは、農園の備品で間に合ってるんですが。

そんなこんなで、いまはスナップエンドウくんとイチゴちゃんを育ててます。

畑に行くのは週に一度。2畳ですから。

葉っぱの状態をチェックして、余分なつるが伸びてきたらちょん切って、雑草が生えてきたらひっこ抜いて、土が乾いてきたら水を撒いて。害虫に悩まされて。アリが這い回り、蜘蛛が顔をのぞかせる。空を見上げれば白い雲があり。

農園からもらったテキストとにらめっこしながらやってます。

どうも僕は、「次の作業工程がある」というのが楽しくてたまらないみたいです。これはZINE作りも一緒です。

子供のころから畑仕事をやってみたいなぁ、って気持ちはどこかにあって、今日まで潰えることがなかった、そういうことです。

正直な話、欲しいのは野菜や果物よりも、それを育てる技術の方なんです。「農地さえあれば、何とか生きていけるよ」と言えるくらいの。お稽古事を始めた、と考えれば、月6500円は安いものです。

「数年後に畑を処分したい。タダでいいから引き取ってくれ」という都合のいい方がいらっしゃいましたら、是非ともご連絡を。

「買い替える」なんて考えない

どうも僕は「やめる理由が見つかるまで延々と続ける性格」のみたいです。

たとえば、中学生の時に初めて携帯電話を買ってもう20年近くになるんですけど、

これまで持った携帯電話の台数は、3台。つまり、機種変は2回だけ。

今のスマートフォンが使い始めて3年だから、その前の2台は平均して7,8年使った計算になります。

どうしてそんなに機種変しないのかと言うと、「壊れなかったから」「使えたから」、つまり、「機種変しなきゃいけない明確な理由がなかったから」

逆に、じゃあなんで機種変したのか。1回目の時はなんで機種変したのかもう覚えてないけど、2回目はつい3年前なのではっきりと覚えてます。ガラケーの通話機能が使えなくなったからです。電話なのに電話できないのはさすがにマズいと思って変えたんです。

そういえば、小学校の頃は1年生の時に買ってもらったスーパーマリオの筆箱をずっと使ってました。理由はもちろん「まだ使えたから」。

そしてなんと、そもそも今この文章を書くのに使ってるテーブル、これが小学校に入るときに買ってもらった学習机なのです。なんと、もう四半世紀使っているということに、今気づきました。

今使ってるベッドは中学校に入るときに買ってもらったやつだから、これまた20年以上同じベッドで寝起きしていることになります。

どちらも、いまだに立派に原形をとどめてます。買い替えるための明確な理由がないから、買い替えない。それだけ。

趣味はラジオを聴くこと。ラジオを受信できるウォークマンをスピーカーにつないで聞いてます。まさに今も、ラジオを聞きながら書いてます。

10年前に買ったウォークマンなので、あちこち壊れ始めていて、実は移動しながら使うと接触が悪くなって音楽がよく聞こえません。

動かすとまずいんだけど、ずっとテーブルの上に置いていればちゃんと使える、ということでウォークマンなんだけどウォークすることなく使ってます。

いつ買い替えるんだと聞かれればもちろん、「完全に音が出なくなった時」。

新機種が出たとか、新商品が出たとか言われても、「へぇ~」と聞き流してます。

こうやって振り返ってみると、そういえばそもそも買う時に「いつか買い替える」ということを前提にしていないなぁ。

ボールペンや消しゴムのような明らかな消耗品は、さすがにそのうち買い替えるだろうと思って買うのだけれど、そうでなければまず「買い替える」という発想がそもそもない。

とはいえ、別に一生使い倒してやろう、という覚悟があるわけでもない。

本当にただただ、「買い替える」という発想がないだけなのです。

スマホを捨てよ、海に潜ろう

ゼンカイのあらすじ

ゼンリョクゼンカイでスマートフォンを忘れたノックさん。気づいた時には時すでに遅し。電車はドンブラコと最寄り駅から離れていく。しかし、スマートフォンがないことで、日常のちょっとした考える時間、すなわちシンキングダイムの重要性に気づくのだった!

「考えること」の大切さを繰り返し説いてきた哲学者で文筆家の池田晶子さんは生前、テレビもネットもやらなかったそうです。インターネットで世界中がつながっても、ガラクタのような情報が増えるだけだ、と。たしかにそうかもしれないですね。

それよりも、思索の世界に入り込めば何時間でも楽しめる。だから彼女にはテレビもネットも必要なかったのだとか。

なーんとなくわかる気がしますね。彼女の場合「自分とは何か」「善悪とは何か」「宇宙はなぜ存在するのか」なんて哲学的なテーマをいくつも持っていて、それについて考えることでいくらでも時間を費やせた。いわば、頭の中に膨大な「思索の海」を抱えていて、どこまでもどこまでも潜っていけた。

問題はこの「思索の海」は日ごろから「考えること」をしていかないと、水が溜まっていかないということ。

ふだんから考えることをしないで、テレビやスマートフォンばっかり覗いていると、水が全然たまりません。プールぐらいの浅さのところを潜って、すぐに底をついておしまいです。

そんなんだから急に「おうち時間」なんて言われると何していいかわからなくなるわけです。

意識的にオフラインの時間を作って、何か考えてみたり、逆に無心になって何も考えなかったり、そういう時間が必要なんです。四六時中スマートフォン片手に、社会情勢やらトレンドやらの最新情報をチェックしてる人が賢くて偉い、なんてことはないんですよ。むしろ、「思索の海」に水が溜まってないのにバカスカ情報だけ取り入れてる人の方がバカなのかもしれないですよ? 水槽に水が全然ないのに魚を放流しまくってるようなものですから。

だいたい、ネットでデマに踊らされてる人ってのは、むしろ普段からスマートフォンをいじくって色んな情報を見てるはず、の人ですから。知識や情報量の多さが人を賢くするわけではないんです。

まあ、テレビやスマートフォンに比べると、読書やラジオはそういうオフライン時間にオススメかもしれません。映像がない分、想像力を働かせる必要があるから、知識や情報を吸収しつつ、ちゃんと考える時間も取れる。

テレビが普及し始めた時に「一億総白痴」なんて言われて、そんなことあるまいと思ってたけど、イヤあんがい、少しずつそうなっていたのかもしれませんね。

スマホを忘れただけなのに

スマートフォンを忘れて家を出てしまった。気づいた時にはもう遅い。駅の改札をくぐってしまったうえ、駐輪場に自転車を入れてしまったから、いまから出すと100円かかってしまう。

仕方ないので、そのまま電車に乗った。夜まで帰れない予定だし、今日はこちらから電話だのLINEだので連絡を取る用事があるのだけれど、いまから取りに帰るとお金も時間もかかるのだから、仕方ない。

それに、令和になった今でも、駅前を中心に意外と公衆電話は残っている。問題ない。

しかしこうやってスマートフォンを手放してみると、その分、スマートフォンをのぞき込む人の姿が目に付く。歩きスマホだったり、スマートフォンで音楽を聴いてたりで、こちらに気づかずにぶつかりそうな人もいる。2台同時に操る猛者まで見た。

それに引き換え、こちとらちょっとのスキマ時間にSNSを見ることもできない。いや、普段からあまりスマートフォンを触らないようにしているのだけど、それでも日ごろけっこう触ってしまっていたんだなぁ、と気づく。

いったい、僕たちは一日にどれほどの時間をあのうっすい板切れごときに費やしているというのだ。ほんの10年前まで存在もしなかったくせに。

スマートフォンに触れないとなると、暇な時間は「考えること」しかできない。作りかけの新作の原稿を考えたり、前に読んだ漫画の内容を思い出したり、保留にしていたことを考え出してみたり……。

けっこう楽しいじゃないか。人間は考えるアシなのである。考えることは楽しいのだ。

もしかして、人類はスマートフォンによって、こうした日常のちょっとした「考える時間」を奪われているんじゃないのか。

ネット検索ができないから、気になったことはずっと気になっている。

グーグルマップが見れないから、自分で道を思い出すしかない。

天気予報が見れないから、空模様から予測するしかない。

ところがスマートフォンがあると、こういう「ちょっとした考える時間」がどんどん奪われていく。

よくない。これはよくない。特に、大人になると、ほかにいろいろ考えなければいけないことが出てきて、ただでさえ「自由に考えられるちょっとした時間」が減っていくというのに、残った時間までも板切れごときに吸い上げられるなんて、時間のピンハネじゃないか。

最近、回転ずしやでの迷惑行為が世間を騒がしていて、「こんなことして動画をネットに挙げれば炎上するって、ちょっと考えればわかるでしょ?」と思うけど、もしかしたら今の子供たちはその「ちょっと考える」ための時間を、大人が作ったスマートフォンに奪われているんじゃないか。大人が子供たちから時間を吸い上げておいて、『よく考えろ』もないもんだ。

そんなことを考えながら、お昼ごはんを買おうとファミリーマートに入る。

するとなんと、レジの上にモニターがあって、そこで映像が延々と流れされていたのだ。

レジを並んでいる十数秒間を退屈しないように、なんだろうけど、冗談じゃない。「レジを並んでいる十数秒間にちょっと考える時間」まで奪うつもりなのか!

実際、映像が流れて、音まで出ていると、どうしても思考を止めてそっちを見てしまう。よくない。これは実によくない。

これからどんどんデバイスが発達してどんどん便利になると、そのぶん、どんどん「ちょっとした時間」が奪われていくんだろうなぁ。

人間は考えるアシだ。だったら、考えなかったら、ただのアシじゃないか。これを俗に「悪しきこと」というのです。

飲み会がしたい

飲み会がしたい。

思い返せば、コロナが始まるよりもさらに前からもう、満足のいく飲み会をやれてないんじゃないか。

別にお酒が飲みたいわけじゃない。そもそも、もう何年もお酒を飲んでない。禁酒しているんじゃなくてお酒に全く興味がないだけ。そんなくだらないものに費やすお金があるなら、僕は一個でも多くのから揚げを食べたい。

どんちゃん騒ぎして記念写真を撮りたいわけでもない。僕はほとんど自分の写真を残さない。過去の写真を全く見返さないから、撮るだけ時間の無駄と思ってる。「記念写真とろーよー」という声がかかったら、僕は確実に逃亡する、っていうか、逃亡したことがある。

思い出話に花を咲かせたいわけでもない。これまた、記念写真を見返すことと同じくらい時間の無駄だと思ってる。せっかく久しぶりに会って、今この時ではなく昔の話をしてるってなんなんだそれは。

恋バナに花を咲かせる、もあんまり興味がない。人のプライベートには首を突っ込まない主義だ。いま目の前にいる本人の話が聞きたいのであって、いま目の前にいない恋人の話なんてどうでもいい。

オタク話はまあ面白いんだけど、ちがうんだ。そういう飲み会をしたいんじゃないんだ。

これから何をやりたいか、何を企んでいるか、何に今ワクワクしているか、そういうお互いの頭の中にある設計図、宝の地図をぶつけ合う、そういう飲み会を、もう何年もやってない。

別に、実現できそうもない夢でもいいの。「宝の地図」なんて、どうせそんなもの。簡単に手に入りそうなら、それはもうお宝じゃない。

どんなに忙しくても、どんなに貧乏でも、余命いくばくもなくても、「宝の地図」を描くだけなら自由です。

ドデカすぎて実現まで10年近くかかりそう、そんな途方もない夢をぶつけ合って笑いあう、そんな飲み会がしたいんだ。いや、飲み会じゃなくていい。酒に興味がないから、食事会でいい。からあげの店でいい。

やっぱり、一番聴いてて楽しいのは、人の愚痴でも、のろけ話でも、思い出話でもなく、

今の冒険の話、次の冒険の計画、やっぱこれに尽きるでしょ。

冒険のさなかの失敗話、冒険のさなかに出会った人、冒険の自慢話。聴いてて楽しいのも、話してて楽しいのも、やっぱりそれだろ。

頭の中の宝の地図をぶつけ合う、そういう飲み会がしたいのです。

ファンタジスタはいらない

サッカーW杯のカタール大会が終わってしばらくたちますけど、今回はなかなか興味深かったです。

結果的にはアルゼンチンが優勝したけど、10年ぐらいたってカタール大会ってどんなだっけと言われた時に、きっと僕が思い出すのは、メッシでもエムバペでもなく

「モロッコ、すごかったなぁ」

だと思います。

日本もドイツとスペインを下して死のリーグを抜け出し、クロアチアとPK戦にもつれこんだ。

まあ正直な話、日本代表なんて勝とうが負けようがどうでもいいんですけど(僕にとっては32か国ある出場国の一つに過ぎない)、ただ、今回の日本代表はなかなか興味深いんですよ。

スターが、いないんですよ。

もちろん、点を取った選手は注目されやすいですけど、誰か中心になって突出して活躍した選手がいるかと考えると、特にいない。

大会後の報道を見てても、メディアによく出るのは、キャプテンの吉田とか、ベテランの長友や権田とか、森保監督とか、要はしかるべきポジションの人が代表して出てるくらいで、それこそメッシやエムバペ、ポルトガルのクリロナみたいな、その国を代表するようなスターやエースは特にいない。

これが何を表しているかというと、「ひとりの天才の力・個の力で勝ったんじゃなくて、チーム全体の力で勝った」、ってことなんですよ。

ドイツ戦もスペイン戦も、相手と対等に渡り合えたかと言ったらそう言うわけじゃない。やっぱり相手の方が上手くて、ボールぜんぜん取れなくて、攻められ続けてるんだけど、なんとか耐え忍んで、1失点で押さえて、少ないチャンスをものにして勝つ。

つまり、守備が決壊していたら絶対にできない勝ち方なんです。守備って一人のスーパースターやファンタジスタにような個の力でどうにかなるものじゃなくて、戦術、約束事、全員が連動する、そういうことが大事なんです。守備が上手くいったということは、チーム力が良かったということ。一人のスーパースターがドリブルで切り裂いてシュートをねじ込んだ、そういう勝ち方じゃなかったはず。

快進撃を見せたモロッコだって、一人で点を取りまくった天才がいたわけじゃない。チームとして強かった。実際、守備はめちゃくちゃ硬かったです。

結局、天才メッシを擁するアルゼンチンが優勝して、「メッシはすべてを手に入れた」って言われてますけど、僕はむしろ「10代のころから天才と言われ続けたメッシですら、ワールドカップを制するのにここまで手間取る、サッカーは一人の天才の力でどうこうなるスポーツじゃない」という風に映りました。

でも、この「一人の天才の力ではどうにもならない」こそチームスポーツの醍醐味じゃないですか。選手それぞれに得意不得意があって、それぞれの選手がそれぞれのポジションでそれぞれの特技を発揮して勝つ。

一人で何でもできるんだったら、そもそもチームスポーツである意味がない。一人でやればいいじゃん。そういう競技もいっぱいあるよ。

オシム監督なんて、「ファンタジスタはいらない」とはっきりと言ってました。実際、オシムサッカーは全員が連動してチームとしてかつ、そういうサッカーでした。

なんだか最近、その辺がおろそかになってる気がします。チームスポーツなのに、個人の力ばっかり注目される。

一人が何本シュートを打とうが何本ホームランを打とうが、チームが勝てなきゃゼロと一緒。チームの勝敗だけが評価のすべて。個人の記録を競うスポーツじゃないんです。

個の力が必要以上に誇示されるようになってきた、そんな時代になってきたと思うのは、僕だけですかね。

そんな時代だからこそ、日本やモロッコのようなチームが健闘したことに意義があると思うのですよ。

缶バッジとサムズアップ

コンビニに行くと目立つところに、ワンピースとか仮面ライダーとかの一番くじがあるじゃないですか。

僕はワンピもライダーも大好きなんですけどね、フィギュアには全く興味がないので、スルーしちゃってます。

「かさばるグッズ」に興味がないんですよ。

場所をとるうえに、ホコリとか掃除するのめんどそうだし。

おまけに、実用性が全然ないじゃん。

渋谷のワンピースショップに行ったときも、かさばらないうえに実用性がある、そんなグッズは意外と少なくて困りました。せっかく来たのに、買うもんないじゃん。

マグカップとか売ってたんですけど、かさばる上にね、別に食器には困ってないし。新しいのいらんのよ。

そんな僕にとって重宝するグッズがあるんです。それが、「コースター」

小さく平べったくてからかさばらないうえに、実用的! あと、紙製のコースターは意外と消耗品だから、なんぼあっても困らない。

「コラボカフェ」みたいなイベントに行くともらえます。

あとは、やっぱり缶バッジですね。

実用的じゃないけど、かさばらないし、安いからついつい買っちゃいます。

こういうのは開封するまでどのキャラが出るかわからない、ってギャンブル性もあるんですよ。

まあ、僕はこの手の運には強くて、結構な確率で推しキャラを引いちゃうんですけど。

「プリンセス・プリンシパル」の缶バッジを2個買った時は、なんと推しキャラの「ベアトリス」がダブってました。缶バッジってけっこう落としやすいから、ダブりは助かりますね。

そんな缶バッジにまみれた生活を送っているある日、こんな出来事があったんですよ。

道を歩いていると、背後からバイクで追い越していったピザ屋のお兄さんが、突然僕にむかってサムズアップをして走り去ったんです。

はてな。ピザ屋さんにサムズアップされる覚えなんてないし。

知り合いかな、って思ったけど、一瞬見えた横顔は知らない顔。

なにより、向こうは僕を後ろから追い越していったんで、僕の顔は見てないはずなんですよ。見えたのと言えば、背中にしょってるリュックぐらい。そして、リュックには最推しアニメ「刀使ノ巫女」の缶バッジがいっぱい……。

……まさか、彼は同じ刀使ノ巫女を愛する同志だったというのか? それで、僕の缶バッジを見てサムズアップを?

たしかに、いくつかある缶バッジの中でも、遠目からでもわかるくらいデカいやつがあって、しかも、それは主人公のキャラが描かれているもの。わかる人にはすぐピンと来るはずです。

刀使ノ巫女のゲームは、去年サービス終了しちゃったんだけど、500万ダウンロードを突破していたはずなので、プレイヤーは町中に結構いるはず。

こんなふうに、町で自分の好きなアニメのグッズを持ってる人を見ると、嬉しくなるけど、声をかけるのはさすがに、という場面が何度かあったんだけど、そうか、さりげなくサムズアップすればいいんだ。

民藝館に行ってきた

目黒区にある「日本民藝館」というところに行ってきたんですよ。

いまから100年ほど前に、作者の名前もわからない民芸品に美を見出してせっせと集めた柳宗悦っていう変人がいて、その人が集めた民芸品を展示する美術館です。

少し前からこの柳宗悦についていろいろ調べてまして。白樺派の一人として、ゴッホをはじめとする西洋の芸術家を日本に紹介していた彼が、どうして名もなき民芸品に美を見出すようになったのか。

この人はどうやら、美術評論家よりも、宗教学者・思想家に近いみたいです。彼が民芸品に見出した美というのも、何か宗教哲学に近いものだったみたいで。宗教思想などを専門としている人が、なぜ民芸品に美を見出したのか。

やっぱり現物を見るのが一番、ということで民藝館に行ってきたんです。

入場料1200円……。たけぇ……。

まあ、民間の美術館だしなぁ……。

展示されているのは、焼き物のお皿とか壺とか、木の机とか、服とか、タンスとか。どことなく、おばあちゃんちのにおいがしました。

そのほとんどが作者不明で、もちろんアート作品じゃなく日用品として作られたものばかり。まさか美術館に展示されるなんて、作った本人すら夢にも思わなかったでしょう。

でも、柳宗悦がこの民芸品に美を揺さぶられた、というのも何となくわかってきました。

たしかに、どれもアートとしても面白いです。釉薬の模様がユニークだったり、緻密な装飾が施されているものも多いです。

いっぽうで、言葉は悪いんですけど、どこか稚拙というか、不格好というか。

たとえば、一つだけ写真おっけーなツボがあるんですけど、このツボもよく見ると形がなんかアンバランス。

一つの民芸品のなかに、緻密さと、稚拙さが、同居している不思議な感じです。

たとえば、木でできた小さなタンスが展示されてたんですよ。まあ、だいたいタンスってのは木から作られるんですけど。

その形も、どこかいびつなんです。今の家具屋で売ってるようなきれいな直線を描いているわけじゃなくて、なんとなく曲がってて、いびつな形に見える。

でも、じゃあほんとに稚拙なのか、技術が足りないのか、って言ったら、たぶんそんなことないんですよ。だってそのタンス、すっごい緻密な装飾が施されてたんだもん。

木でつくるタンスであれ、粘土で作る焼き物であれ、布で作る服であれ、材料は自然物、生モノです。それを、機械を使わずに、手作業だけで民芸品を作っていく。

そのとき、生ものである材料が持つエネルギーを殺しきれてない、殺さないまま作っている、それが稚拙さの正体なんじゃないか。

現代のものづくりの技術は完璧です。この完璧っていうのは、「材料の持ってるエネルギーを殺して、完璧に道具として仕立てる」という意味で。たとえば、木製の家具はいっぱいあるけど、普段ほとんど「これは、木である」と意識することはないじゃないですか。

プラスチック製品にいたっては、もうプラスチックの原型を思い浮かべることなんてない。そもそも、プラスチックの原型って、何?

それに対して民芸品は、緻密な技術を持つ一方で、材料の持つ生命力を殺しきらない稚拙さを併せ持ってるように感じました。芸術品としての美と、日用品としての粗末さが同時に存在する、不思議な物体。それが民藝だ、と考えると柳宗悦が美を揺さぶられたというのもわかるのです。

うん、よくわかんないだろ。よくわかんないのなら、一度、民藝館に行ってみなさい。1200円取られるけど。

追伸:古本市で柳の書いた「美の総門」って本を見つけたんですよ。この本は彼の民芸運動の集大成らしいです。欲しいなぁ。

……古本なのに2200円。……たけぇ。

そんなに話題に合わせたいのか?

・若い世代の人はいろんなものを倍速で見る。

・映画もファスト映画で見る(違法)

・音楽はイントロをとばして聞く

・スポーツは結果だけ知ればいい

・短時間で楽しむ、タイムパフォーマンス重視

そういった話を聞くたびに、何をそんな生き急いでんねん、理解できねぇなぁ、と思っていたのだけれど、ここはひとつ、視点を変えてみることにしました。

「スポーツは結果だけ知ればいい」とは、日本で最もサッカー観戦文化が根付いている町で生まれ育った身としては、承服できる話じゃないけど、要は、試合の過程を楽しむというよりは、情報として知っておきたい、ってことですよね。

ファスト映画(違法)も、映画館でじっくり映画の世界に入り込むのではなく、情報として映画の結末が知りたい。

たかだか数十秒のイントロをとばすのも、楽曲を歌詞とメロディだけの情報として聞いている。

じゃあ、なんでそんなに情報が欲しいのか。

そんなことを考えながらラジオを聴いていると、令和キッズの意見として、「ゲームは別に自分でやるより、実況動画を見てる方が、友達とだらだらゲームで楽しんでるみたいで、好き」という話が出てきました。

これだ!

いままで、人がゲームしてるところなんか見て何が楽しいんだろうと思ってたけど、「人がゲームしてるところが見たい」んじゃなくて、そもそもゲームが見たいわけでもなくて、「ゲームしてる時の会話の空間が好き」なんじゃないか。

そう、彼らが重視しているのは「コミュニケーション」。SNSもコミュニケーションのツール。you tubeも「動画投稿サイト」ではなく、コミュニケーションと話題のための情報を提供してくれるツール。

どうしてyou tuberの人は毎日毎日動画投稿してるのか疑問だったんだけど、彼らは「昨日の○○見た?」「見た見た!」というどこの学校でも毎朝繰り返されているあのやり取りの、「〇〇」に入る部分を毎日毎日せっせと作っているわけです。

要は、話題作りですね。you tuberとはつまり「みんなが話せる話題を作る人」なわけです。

コミュニケーションが何より大事、そのための話題づくりが大事、となると、倍速文化もある程度理解ができます。

彼らは、映画を見たいわけでもなく、音楽を聴きたいわけでもなく、「あれ知ってる?」と話題をふられた時に「うん、知ってる」と答えられる回数を一回でも増やしたいから、「話題作」を一通りチェックしたいのです。なんだか、テスト勉強みたいですね。

……なんでみんなそんなにまでして、周りと話題を合わせたいんだろう?

僕は「周りと話題を合わせたい」「みんなの話題についていきたい」って思ったことが、一度もないんですよ。

たとえば、友人同士の会話で、みんなが僕の知らないことの話題で盛り上がっている時、いつも僕は「それ、知らないや、ふーん」で済ませます。僕はその話題について調べることすらしない。

「みんな見てる」とか、「いま、大人気」とか、「なにかの記録を更新」とか、そういったことは僕にとって、何のきっかけにもなりません。

鬼滅の刃、呪術廻戦、スパイファミリー、君の名は。

このへんは、名前しか知りません。どれだけ話題になろうが、記憶を塗り替えようが、まったく興味がない。

むしろ、「いま、話題!」と言われた時点で、見る気をなくします。

音楽に関しては、ラジオばっかり聞いてるので、「話題の曲を知らない」ということはないです。

一方で、ラジオばっかり聞いているので、いわるゆyou tuberさんの動画、全く見たことがありません。もちろん、何の興味もない。

僕がまともに流行に乗ったのは、ポケモンとワンピースぐらいです。無理して周りと話題を合わせようとは思わない。

みんな、何で話題を合わせようとするんですかね。

ZINEの表紙の色が決まらない

ZINEの表紙の色が決まりません。

「民俗学は好きですか?」のvol.8の執筆作業もそろそろ終わりを迎えられそうです。

今回の特集は「都市と怪談の四百年(仮)」。怪談がテーマということで、全体的にもおばけ関連の記事が多いです。

その作業も半月遅れで順調に進み(?)、そろそろ表紙について考えなければならないところ。

その表紙の色が決まらないんです。

怪談、ホラーというと、やっぱり黒っぽい表紙にするのが鉄板です。

……黒はvol.3とvol.4で使ってるんですよねー。

シリーズ8冊中、3冊が黒って、どうよ。

ちなみに、かのワンピースの場合、表紙に黒を使っているのは、5回です。102冊中、5回です。5%です。

こちとら、8冊中3回、40%黒ってどうよ。

どうして僕がここまで色かぶりを気にしてるかというと、いざ売ろうって時に、自分のブースに並べることを考えると、「同じ色ばっかり」になることを避けたいからなんですよ。「最新刊です!」つっても、同じ色のZINEがほかにもあったら、気づいてもらえないかもしれない。

何より、僕が整理するときに、同じ色が並んでたらややこしい!

ということで、今回は黒はナシで行きたいんです。

ちなみに、第二候補はミステリアスな紫だったのですが、

……vol.6で使ってるんですよねー。

8冊中2冊、25%紫ってどうよ。

ちなみに、ワンピースだと紫は7回、7%紫です。

で、いま、僕の頭の中にあるのが、グレーを表紙で使う、っていう案。

ただ、これはこれで問題が。

グレーが表紙の本って、売れるのかな。

GLAYが表紙なら売れるけど、グレーが表紙だと売れないんじゃないか。

なぜ、ここまで表紙の色で頭を悩ませているのかというと、色でそのZINEのイメージが決まるし、そうなると手に取る人の数も変わるし、買ってくれる人の数も変わる。

内容は面白いのに、表紙で損をしてる、ってことも当然あるわけです。

なので、どんな本がどんな表紙を使っているか、常にチェックしているんですけど、グレーが表紙の本や雑誌をあんまり見たことないんです。

ちなみに、ワンピースだとグレーはなんと第13巻のたったの1回! 22年前に一度使ったきり!

なんでこんなにワンピの表紙に詳しいかって? ウチに全巻あるからです。

ちなみに、平成ライダーの場合は主人公ではグレーは一人もいません。赤が八人、黒が一人、紫とピンク(マゼンダ)が二人ずつ。

昭和ライダーだとスーパー1がグレー、いや、あれはシルバーか。

とりあえず、やっぱりグレーは人気がないみたいです。GLAYは人気あるのに。

とりあえず、作ってみるしかないかー。