目黒区にある「日本民藝館」というところに行ってきたんですよ。
いまから100年ほど前に、作者の名前もわからない民芸品に美を見出してせっせと集めた柳宗悦っていう変人がいて、その人が集めた民芸品を展示する美術館です。
少し前からこの柳宗悦についていろいろ調べてまして。白樺派の一人として、ゴッホをはじめとする西洋の芸術家を日本に紹介していた彼が、どうして名もなき民芸品に美を見出すようになったのか。
この人はどうやら、美術評論家よりも、宗教学者・思想家に近いみたいです。彼が民芸品に見出した美というのも、何か宗教哲学に近いものだったみたいで。宗教思想などを専門としている人が、なぜ民芸品に美を見出したのか。
やっぱり現物を見るのが一番、ということで民藝館に行ってきたんです。
入場料1200円……。たけぇ……。
まあ、民間の美術館だしなぁ……。
展示されているのは、焼き物のお皿とか壺とか、木の机とか、服とか、タンスとか。どことなく、おばあちゃんちのにおいがしました。
そのほとんどが作者不明で、もちろんアート作品じゃなく日用品として作られたものばかり。まさか美術館に展示されるなんて、作った本人すら夢にも思わなかったでしょう。
でも、柳宗悦がこの民芸品に美を揺さぶられた、というのも何となくわかってきました。
たしかに、どれもアートとしても面白いです。釉薬の模様がユニークだったり、緻密な装飾が施されているものも多いです。
いっぽうで、言葉は悪いんですけど、どこか稚拙というか、不格好というか。
たとえば、一つだけ写真おっけーなツボがあるんですけど、このツボもよく見ると形がなんかアンバランス。
一つの民芸品のなかに、緻密さと、稚拙さが、同居している不思議な感じです。
たとえば、木でできた小さなタンスが展示されてたんですよ。まあ、だいたいタンスってのは木から作られるんですけど。
その形も、どこかいびつなんです。今の家具屋で売ってるようなきれいな直線を描いているわけじゃなくて、なんとなく曲がってて、いびつな形に見える。
でも、じゃあほんとに稚拙なのか、技術が足りないのか、って言ったら、たぶんそんなことないんですよ。だってそのタンス、すっごい緻密な装飾が施されてたんだもん。
木でつくるタンスであれ、粘土で作る焼き物であれ、布で作る服であれ、材料は自然物、生モノです。それを、機械を使わずに、手作業だけで民芸品を作っていく。
そのとき、生ものである材料が持つエネルギーを殺しきれてない、殺さないまま作っている、それが稚拙さの正体なんじゃないか。
現代のものづくりの技術は完璧です。この完璧っていうのは、「材料の持ってるエネルギーを殺して、完璧に道具として仕立てる」という意味で。たとえば、木製の家具はいっぱいあるけど、普段ほとんど「これは、木である」と意識することはないじゃないですか。
プラスチック製品にいたっては、もうプラスチックの原型を思い浮かべることなんてない。そもそも、プラスチックの原型って、何?
それに対して民芸品は、緻密な技術を持つ一方で、材料の持つ生命力を殺しきらない稚拙さを併せ持ってるように感じました。芸術品としての美と、日用品としての粗末さが同時に存在する、不思議な物体。それが民藝だ、と考えると柳宗悦が美を揺さぶられたというのもわかるのです。
うん、よくわかんないだろ。よくわかんないのなら、一度、民藝館に行ってみなさい。1200円取られるけど。
追伸:古本市で柳の書いた「美の総門」って本を見つけたんですよ。この本は彼の民芸運動の集大成らしいです。欲しいなぁ。
……古本なのに2200円。……たけぇ。