長野がオレを呼んでいる。

……ああ、長野に行きたい。

正確に言うと、「行きたいところ、気になるところが、長野に集中してる」

この前、大宮の博物館でやってた縄文土器の展示を見に行ったんですよ。そしたら、そこに長野の井戸尻博物館の土器が貸し出し展示されてたんです。

井戸尻って名前は前々から知ってたんですけど、どういう場所なのかちゃんと知るのは初めてで。どうやら、縄文土器のメッカみたいな場所らしいんです。

地図で見るとそのすぐ近くに、「高遠」って場所があって、それは僕が研究している野仏を作った石工たちの故郷なんですよ。ここの石工があちこちに散らばって、野仏を作っていった。たぶん、関東の野仏も彼らなんじゃないかな。だって、素人が彫ったとは思えないレベルのやつがいっぱいあるんだもん。野仏マニアとしては、ぜひ一度訪れてみたいですね。

さらにこれまた近くに、辰野町って町がありまして、ここは野仏・道祖神がたくさんある町として知られているんです。

で、そこから北に行くと、諏訪湖と御柱祭りで有名な諏訪があるんです。諏訪は学生の時に一度行ったことがあります。

学生の時、民俗学の先生が、「諏訪の文化はほかとは全然違う!」って力説してたんです。たとえば、家の作り方とか、全国のどこにもない形式の家なんだそうです。

さらに、先生が学生と諏訪に調査に出かけて、電車に乗っていた時、先生は周りの人の顔を見比べて、「諏訪の人って、ほかの地域とは違う顔立ちをしてない?」って思ったんだとか。

……そんなアホな!? いくらなんでも、顔立ちまで違うって、柳田國男が追い求めた「山人」じゃあるまいし。

あくまでも先生個人の感想です。

とにかく先生は「諏訪は他と違うんだ!」って力説してました。

そんなこんなですわで、ブラタモリで諏訪を特集していた時に、気になって見てたんです。

「顔立ちが違う!」って話はさすがにしてなかったけど、諏訪は良質な石が取れたらしくて、各地から人が石を求めてやってくる、古代人にとっては聖地だった、みたいな話をしてました。

各地から人が集まって来たんだったら、いろんな文化が混ざって独自の文化になったのかもしれない。

逆に、そこから全国各地に散らばっていったのかもしれない。諏訪神社って全国の分布がえげつないし。

そして、諏訪の北には塩尻があります。

長野の山の中には、海から塩を運ぶための「塩の道」が静岡、愛知、新潟からそれぞれ伸びていて、その三つの「塩の道」の終点が塩尻。「塩の道」の最後だから「塩尻」、まさに最果ての地。

さらに、その北には安曇野があります。

安曇野というのは、海の民だった安曇系の海人族が開拓した土地。海のない長野の山奥なのに、海人族が開拓したという、これまた神秘の地域なんですよ。

長野、特に諏訪湖周辺に、こうしたスポットが集まってるんです。御柱祭り、縄文土器、野仏、海人族……。

ああ、長野に行きたい。

行きたいなら行けばいいじゃないか、という話なんだけど、一泊二日の観光旅行じゃちょっと足りない気がする。しっかりどっしり腰を据えて回ってみたい。そのためには、お金と日にちをしっかり確保して、しっかり計画を練っていかないと。

そうだ、諏訪で合宿がしたい。いや、誰とだよ。

大学で一緒に民俗学をやってた仲間ですら、ここまでコアな好みに付き合ってくれるかどうか疑問なので(まあ、諏訪もそいつらと行ったんだけど)、一人で行くしかないかなぁ。ほぼ、観光する気はないし。

先日、「井戸尻に行きたいなぁ」とツイッターでつぶやいたところ、井戸尻考古館(公式)アカウントからいいねがきました。やはり井戸尻が、長野がオレを呼んでいる……。

平気で他人を傷つけるやつ

「平気で他人を傷つける人」について、僕の中で一つの傾向を見出していまして、それが「自分はいつだって被害者だと思ってる人」なんですよ。

自分はいつだって被害者。自分はいつだって正しい。自分はいつだって善人。

そう思ってるヤツが、実は平気で他人を傷つける人だ、そんな風に考えています。

平気で他人を傷つけるくせに、頭の中では「自分はいつだって被害者。自分はいつでも善人」だと思っているから、よもや自分が他人を傷つけてるなんて思ってない。

それどころか、「自分はいつだって被害者」だから、周りの人間はバカばっかり、周りが全部悪い、私はいつだって被害者でかわいそう、って思っているわけです。まさか自分が加害者になるなんて、これっぽっちも考えてない。

最近、煽り運転で死亡事故を起こした犯人が、自分の車のドライブレコーダーのデータを捨てて証拠隠滅を図った、という事件がありました。

ん? んんん?

ドライブレコーダーっていうのは、自分が煽られた時のためにのっけてるものであって、煽る方が自分の車に搭載しててどうする。案の定、犯行の瞬間が映ってるものだから、証拠隠滅(すぐばれたけど)する羽目になる。

つまり、コイツは煽り運転をしておきながら、「自分が煽り運転の被害者になるんじゃないか」なんてたわけたことを考えて、ドライブレコーダーをのっけてた、ってことなんですよ。

こういうの。こういうやつのこと、僕さっきからずっと書いてんの。

で、こういうやつに言わせると、「私の周りはバカばっかり」「世の中クズばっかり」となるんですけど、

……いや、おめーがおかしいんだよ。

だってさ「自分の周りになぜかバカばかり集まる」「自分の周りになぜかろくでなしばかり集まる」って、不自然じゃん。「自分は善人で正しいのに、周りにはバカばっかり集まる」って、それ、不自然じゃん。

実は自分がいちばんろくでなしで、わがままで、イヤなやつなんだけど、自分ではそれを全く自覚していなくて、自分は善人なんだと思いこんでいれば、そりゃ認識がゆがんで相対的に「周りがバカばっかり」に見えます。むしろ、そう思いこまないと、その人の中でつじつまが合わなくなる。

で、そういう人に「いや、おまえが間違ってるんだよ」と指摘すると、たいていはふてくされます。

SNSとかで事件のニュースをリツイートして高説ぶってるやつは、だいたいそのタイプだろう、と思っています。「自分は善人である」と思いこんでないと、ニュースの批評なんてできないもの。

さて、ここ数か月の世界情勢で、日本でも軍備拡張とか核武装とかの議論が上がってますけど、

「日本が攻められたらどーする!」だけじゃなくて、「逆に日本が侵略者になる可能性はないのか?」って話をしない人の意見は、信用しないことにしてます。

まあ、現行の憲法がある以上、日本が侵略者になるなんてありえない。寝言は寝て言え、ってレベルでありえない。

ありえないんだけど、政治の思想とか知識とか関係なしに「自分が加害者になるかもしれない」と考えないヤツは、やっぱり政治とか以前に、人間としてのねじがどこか緩んでて「この人、ヤバい人だ」って思うのです。

選挙演説って誰が聞くのか

駅前の選挙演説って、どれだけ効果あるんですかね。実は意外と効果がないんじゃないか。

選挙戦が始まって、駅前を通ると選挙演説をしているのに出くわしたり、「〇〇代表が来ます!」みたいな立て看板を見かけたりすることが多くなりました。特に、うちの地元は人が集まる駅なので、よく見ます。

でも、「駅前の選挙演説」に足を止める人ってどんだけいるのか。

まあたしかに、駅前は人が集まる場所です。そういう意味では、駅前で演説をするというのは、一見すると効果的。

ただ、みんな別に「駅前」に行くことが目的で集まってるわけじゃないんですよ。

駅から電車に乗って、どこか遠くへ行くことが目的なんですよ。

もしくは、駅前のデパートとか、駅の近くのバス停とか、とにかく目的地はほかにあって、駅前でボケーっとすることが目的で集まってる人というのは、あまりいない。

つまり、駅前にいる人の8割は「先を急いでいる人」だって考えるべきです。

そんな「先を急いでいる人たち」が、じっくりと選挙演説なんて聞いてくれるのか。

っていうか、そもそもちゃんと「先を急いでいる人たち」に向けた演説をやっている候補者がどれだけいるのか。

ちょうどこの前も、駅前で演説してる人がいました。

さて、どんな話をしてるのか、と、歩きながら耳を傾けてみます。

話が聞こえ始めてから、通過するまでだいたい1分くらい。

……その間、単語がいくつかきこえただけで、「おそらくあの話題かな~」と推測できるくらいで、主張とかマニフェストとかそういうのはさっぱりわかりませんでした。

だいたい、「あー」とか「うー」とか「えー」とか、多すぎるんですよ。もっとコンパクトにまとめたまえ。

通行人にもしっかりと話を届けるってことを考えたら、大阪のしゃべくり漫才の師匠みたいなスピードで話さなきゃダメですよ。

しかも、漫才師の皆さんは「劇場で10分かけてやるネタ」をM-1のために4分に編集してやるそうです。だったら、候補者の皆さんも、「10分かけてやる演説」を「駅前用に4分に編集する」ってくらいの努力はするべきです。

さらに、最近の若い世代は「映画を1.5倍速で見る」とか、「音楽のイントロを飛ばして聞く」とか、何を焦っているのか、とにかく長ったらしいのが苦手みたいです。「ファスト文化」というそうな。

そんな昨今の若者たちに対して、「10分くらい聞いてないと本質が見えてこない演説」なんて、ウケるはずないでしょう。2.5倍速でしゃべりなさい。

深刻なリサーチ不足です。

「若者が政治に無関心」なんて言われるけど、僕に言わせれば実は逆で「政治が若者に無関心」に見えます。

ラジオが深い!

ラジオの話が深い。深いのです。

ワイド番組と呼ばれるラジオにはたいていゲストコーナーがあります。ゲストコーナーは番組の大きな目玉。

いろんな人がゲストに来ます。ラジオは音だけのメディアなので、やっぱりミュージシャンが多い。スゴイ有名な人から、今日デビューしましたって人まで、ピンからキリまで。

もちろん、ミュージシャン以外のゲストも来ます。ものすごく有名な人から、「そんな人いるんだ」っていう人まで、やっぱりピンからキリまで。

それなりの知名度がないと出れないテレビよりも、そのすそ野が広いのがラジオの特徴なんです。

「そんな職業あるんだ」「なにその肩書き?」「そんな活動してるの?」という新たな発見が多いのが、ラジオの醍醐味。

ちなみに、今まで一番びっくりした肩書きは「大阿闍梨」です。

「来週のゲストは大阿闍梨の○○さんです」

……大阿闍梨!? そういうバンド名とかコンビ名とかじゃなくて、本物の大阿闍梨!?

一方で、すごい有名な人がゲストに来た時も面白いんです。普段テレビなどではしないような深い話をじっくりと聞けるんです。

たとえば、僕のイチオシのラジオ番組「山崎怜奈の誰かに話したかったこと(通称「ダレハナ」)」の先週のゲストが、秋元康さんだったんです。ちなみに、秋元康はこの番組のゲスト最多出演だそうです。

ちょうど前の日に、パーソナリティの山崎怜奈さんが乃木坂46の卒業を番組で発表したばかりというタイミングで、秋元康はご存じ乃木坂のプロデューサー。「公開面談」という形で、話の大半はれなちさんの個人的な面談。

でも、秋元康がやっぱりすごいなぁと思ったのは、れなちさんの個人的な相談に答えてるんだけど、それがちゃんとラジオ聞いてるリスナーにも突き刺さる、個人的な相談に乗ってるようで、広く色んな人に通じる話をしている、ってことなんです。やっぱさすがだなぁ。

そういう深い話をラジオでやってる、っていうのが面白いんですよ。ラジオは公共の電波だから、電波の届く場所にいて、ラジオを周波数に合わせれば、だれでも聞ける。でも、テレビより知名度は低いし、you tubeのようになん百万って単位のフォロワーを抱えているわけでもない。人気番組のツイッターアカウントでも、フォロワーは数万人程度。

誰でも聞けるのに、まず「この時間におもしろいラジオをやってる」と知ってる人が少ない。テレビやyou tubeが大通り沿いの華やかなお店だとしたら、ラジオは路地裏のバーとか、地下のライブハウスとか、そんな感覚。入場は無料なんだけど、まずそこに店があると知ってる人が少ない。

そういうところにゲストを招いて、深~いお話をする。いつもたまり場にしている隠れ家的なお店に、ゲストの人がやってきて、深い話をしてくれる。それが面白いんです。

「売れる本」と「面白い本」

趣味はと聞かれると、「面白い本屋めぐり」と答えます。その店独自のチョイスで選んだ本を棚にならべる、面白い本屋めぐり。

逆に言うと、わざわざ巡らないと面白い本屋には出会えない、巷の本屋の大半は面白くない、ってことです。

たとえば、本屋の目立つところには、ビジネス本や自己啓発本が置いてあることが多いですよね。目立つところにあるということは、売れてる本なんでしょう。

ただ、売れてる本だからといって、面白い本かというと、そうでもないんです。

もちろん、ビジネス本や自己啓発本で面白い本はあるんですけど、繰り返し読みたくなる本なんてのはそうそうない。だから、すぐブックオフに書類送検されるわけですね。

そんなことを考えていたある日の雨の昼下がり、いつものようにイチオシのラジオ「山崎怜奈の誰かに話したかったこと」を聞いていると、ゲストが金八先生こと武田鉄矢さんだったんですよ。

武田さんの読書術の話をしていて、その時に武田さんが言っていたのが、「上から下へと知識や情報を一方的に教えようとする本は面白くない」って話だったんです。

そういう本は、わかりやすいように作られているんだけど、面白くはない。面白い本というのは対話なんだ、と語っていました。著者の言うことをそのまま受け止めるんじゃなくて、「それ、ほんとなの?」とか、「それ、ちがうんじゃないの?」などと反芻しながら、著者との対話を楽しむのだ、と。

僕が抱いている「売れてる本」への違和感も、そういうことなのかしら。わかりやすく作られているから、売れるんだけど、「わかりやすい=おもしろい」ではない。

そう思って本屋に行ってみると、なんか、「売れてる本」は「書かされてる感」が強いのかなぁ、なんてことを思うんです。

本というのは、著者が「こんな本を書きたい! 書きます!」といって生まれるんじゃなくて、編集者が企画して「こんな本を書いてください」と著者に依頼して生まれるもの。

でも、実際に本にするときには、さも著者が自発的に書いて自腹はたいて出版したかのような熱量がないと、「面白い本」にはならないんじゃないか。

ビジネス本や自己啓発本の本棚を見ていると、やっぱり「企画に書かされてるなぁ」「編集者のしたり顔が目に浮かぶわぁ」みたいな本が多いんです。

で、実際に読んでみても大して面白くなくて、すぐブックオフに売り飛ばす。企画が当たってるから売り上げはあるんだけど、中身が伴わない。

本の帯の「30万部突破」の隣に、「うち25万部がブックオフ送り!」みたいなことも書くべきです。実質5万部じゃねぇか、と。がっかり度80%じゃねぇか、と。

そんなビジネス本や自己啓発本の中でも面白い本の著者ってどんな人だろう、って思い返すと、「自分の芯がしっかりしてる人」「我が強い人」。要は、「さも自分で自腹切って出版してるかのように思わせる人」なのです。

それまでの経歴とか実績とか、成功者かどうかとか、そんなのはあまり関係なく、文章の上手い下手もあまり関係なく、企画の空気を振り切って、自分を突き通せる人の本が面白い。ある意味、「空気を読まない」ってヤツなのかもしれません。

空気を読まない人の本が、面白く読める本、とはこれいかに。

そんなことを考えていると、今度はネットで山下達郎のインタビュー記事が話題になってまして。そこで山下達郎は拡大志向ではなく、曲の耐用年数を考えて作ってきた、という話が出てきました。楽曲を広く浸透させることより、長く聞いてもらうことを考えてきた、と。

さて、はたして、いま「耐用年数」を考えて作られてる本がどれだけあるか。本なんて、それこそ千年残りうる媒体なのに。

本屋が好き

先日、本屋についていろいろと語り合う機会がありまして。その時思ったんですけど、さいたま市って、実はめちゃくちゃ本屋や図書館に恵まれている場所なんじゃないかと思うんですよ。

なにせ、浦和駅前に紀伊国屋と蔦屋書店、さらに地元の古い本屋と、3つも大きな本屋があるのですよ。

さらに、浦和では毎月一回古本市が開かれているんです。ここがもう、宝の山。毎月何かしら買ってしまいます。

さいたま市でもだんだん本屋は少なくなってきてるんですけど、それでも、「本屋のない自治体がある」なんて言われると、恵まれてる方なのかな、と思っちゃうんです。

図書館を見てみると、横浜市が図書館が18個なのに対して、さいたま市は25個。

しかも、横浜市は人口20万人に対して図書館1個なのに対して、さいたま市は人口5万人に対して図書館1個。どおりで、図書館がいっぱいあると思った。

まあ、千葉市も似たような感じみたいなので、横浜が特別少ないのかもしれません。

文化行政がアレでおなじみの大阪市ですら、11万人で図書館ひとつだからなぁ……。

一方で、やっぱり本屋が少なくなってきてるのも事実。

ネットの普及だったり、アマゾンの侵食だったり、電子書籍の普及だったり(電子書籍は当初言われてるほど普及してない気も……)。

それでも、僕はやっぱり本屋さんに行くのが好きなのです。

「東京の面白い本屋さん」というのを探し歩くのが好きだし、地球一周の旅をして一番好きな場所はどこかと聞かれたら迷わず「神保町と秋葉原、ついでに中野ブロードウェイ」と答える始末。

神保町に通えない場所には住みたくない、というのが僕の持論です。

ところが、神保町に近すぎると今度は毎日のように散財してしまうだろうから、あんまり近くには住みたくない、というのも僕の持論。

以前に友人があの近くで働いてると聞いて「いいなぁ」と思った数秒後に「いや、だめだ! あんなところで働いたら、仕事終わりの度に散財してしまう!」と思い直しました。

そんな僕なんですけど、アキバや御徒町で働いていたこともあります。アキバは見てるだけで楽しいから散財しなくていいんです。

旅先でも面白い本屋がないかどうか調べ、その近くに宿をとる。いい本屋がある街に言うと、ワクワクします。

粋な居酒屋やしゃれたバー、おしゃれなカフェが好きな人がいるように、僕にとっては面白い本屋が大事なんです。

そんな本屋がさいたま市にもできないかなぁ。

と思ったら、この前、大宮で見つけたんですよ。取次ぎに頼らず、独自の選本でやっている面白い本屋!

おもしろくなってきましたよ。

ラジオリスナーの憂鬱

相変わらず、毎日ラジオばっかり聞いています。今もラジオを聴きながら書いています。そんな日々をもう17年ほど続けているので、「趣味:ラジオ」でいいのでしょう。

とくに、つい先日、お気に入りのラジオDJの子が2週間のコロナ療養から復帰したので、改めてラジオの楽しさを噛みしめている日々ですね。

やっぱり、ラジオの一番大事なところって、「いつもの人が、いつもの時間に、元気にしゃべってる」、これにつきます。2週間の間、代演のラジオDJが日替わりで登場して、それはそれで面白かったんですけど、やっぱり「いつもの人が、いつもの時間に、元気にしゃべってる」のが一番。

おもむろにラジオをつけていつもと違う人がしゃべっていると、不安になるわけです。「え? どうしたの? いつもの人は? 病気?」って。

なかには、大人の事情で表には出せない理由を「体調不良」ってことでお茶を濁してて、そのまま二度と帰ってこない、なんてことが、まれにあるんですよ。ごくまれに。

だったらまだ、「コロナです! 2週間出れません! 確定です!」って言われた方が、ほっとするというもの。出れない原因がはっきりわかってるんだから。

原因不明の体調不良が、一番怖い!

だからこそ、番組が始まり、「いつもの人」が第一声の挨拶をした瞬間に、安心するわけです。ああ、今日も元気だなぁ、と。

ラジオは、生活の一部なんです。生活の一部だから、「いつも通り」が一番大事。

だから、生活の一部であるラジオ番組が終わる、というのはラジオリスナーにとって一大事なんです。テレビ番組の最終回なんかとはわけが違います。

ラジオでは4月と10月に大きな番組改編があります。だから、「番組終了のお知らせ」は3月と9月に集中するんです。そこが、ラジオリスナーにとっての鬼門。だいたいみんな、ナーバスになりながらラジオに耳を澄ませています。

この時期になると、「もしや、そろそろそういうお知らせが来るのでは……」と肝を冷やしています。

そして、「番組の最後に重大発表があります」「番組から大事なお知らせがあります」なんて言われると、もう生きている心地がしないんですよ。

そしていざ、重大発表の時間がやってきます。

「20ⅩⅩ年に始まったこの番組ですが……」

だいたい、番組が終わるときはこういうしゃべりだしです。

「3月の放送を持ちまして……」

ああ、ついにこの時が……。

「放送時間が拡大します!」

ズコーっ!!

……ホントにたまに、そういうフェイントかけられることがあります。

そして、改変期を無事に乗り越えると、少なくともあと半年ぐらいは平気だろう、っとほっとしてラジオを楽しむわけです。

だから今、一番ラジオが楽しいわけですね。愛してるぜ、ラジオ!