格安の貸農園を見つけたゾ

近所で畑を借りるようになってそろそろ2年がたつのですが、

その近くで、別の貸農園が募集を出してるのを見つけたんです。

なんと、年間契約で1万円!  ひと月いくらで考えると、今借りてる畑より、ケタ一つ安い!

今の畑だって近隣で比べると相当安いってことで、喜んで借りたっていうのに。

それでいて広い! 今借りてる畑より、12倍広い!

まあ、安いのにはちゃんと訳があって。

めちゃくちゃ、アクセスが悪いんですよ、そこ。

浦和の中のへき地もへき地。一番近い最寄駅からでも30分は歩くのです。

一番近いコンビニも、歩いて15分ほど。

そもそも、へき地すぎて人通りが少なくて、こんなところに貸農園があるなんてまず気づかないような場所なんです。

試しに見物に行ったんだけど、作業してる人もいないし、冬野菜を育ててる気配もないし……。

まあ、ということは、おそらくまだまだ畑は空いてるってことです。これはチャンスです。

浦和の中でもへき地だけど、私の家からなら自転車で30分。まあ、通勤すると思えば普通に通える距離です。

ここならば、いままでよりも約10分の一の値段で、10倍以上の作物が採れる。

つまり、元気100倍アンパンマンというわけです。

ただ、畑の面積が12倍になって、採れる作物も12倍になるということは、そこに使う労力も12倍になるというわけで。コスパはいいんだけど、リアルな体力的パフォーマンスはかなり増えちゃう。

あまり雑草も生えず、作業量もそこまでではない冬場だと、今の畑なら10日に一度、それも30分くらいで済んでます。

それが12倍ということは、一回の作業時間が6時間になるということ。「特にやることがそんなにない時」でこれなのです。

冬場だと4時半には日が沈んでしまうので、4時までにはすべての作業を終わらせるとすると、お昼休憩も挟んで朝の9時から丸一日作業をするわけです。

10日に一度くらいなんだと思ったそこのあなた。繰り返す。これは「特にやることがない一日」の場合。

夏場だとすぐ雑草がぼうぼうになるし作物もいっぱい実るから、今の畑ではだいたい週一で通い、炎天下のなか1時間近く作業をしています。

これが12倍になると、12時間作業をすることになります。到底、1日じゃ終わりません。

しかも、昨今の夏の暑さは危険なので、午後1時には作業を終わらせて帰りたい!

そうなると、一日4時間を3日間、なんてパターンもあり得るわけです。それが毎週続く可能性もあるわけで。

その間、現金収入は減るわけです。

つまりですね、畑の面積が12倍になると、今のライフスタイルの抜本的な見直しが必要になってくるんですよ。なので、「空いてんじゃん。ラッキー!」と気軽に手を出すわけにはいかないんです。

しかもそこ、無農薬はダメということで、無農薬でやりたい私としてはちょっと考えもの。

とはいえ、さいたま市は東京に近い政令指定都市でありながら、広大な農地を抱えているので、こういう貸農園はまだまだ増えるんじゃないかと予想しています。

刺激とエンタメの自家発電

ちょっと前に「情報と娯楽が多すぎる」って書いたんです。

で、少し前に「現代人の人生は、人生ゲームみたいだ」って書いたんです。

この二つはですね、僕の中では実はリンクしてる話なんですよ。

現代人の人生は、なんだか人生ゲームみたい。決まったようなコースの上を歩いているから、先のことも何となく見通せちゃう。止まったマス目を攻略して、マス目をどんどん進んで行って、お金を稼いで、いろいろ手に入れて……、最終的には「人生」そのものを攻略していく。「幸せ」ってやつももしかしたら、ゲームを攻略した報酬みたいなものかもしれません。

社会人に求められるスキルってやつは僕にはゲームを攻略するスキルに見えるし、ビジネス書や自己啓発本はなんだか攻略本みたい。栄養ドリンクとかもなんだかゲームに役立つアイテムみたいです。

そう、人生はまるでゲームみたい。

だけど、人生と人生ゲームには一つ、決定的な違いがあるんです。

人生って、ゲームっぽいわりに、つまんないんですよ。

だから、街中にも、ネットにも、情報と娯楽があふれてるんです。

だって、人生がつまんないんだもん。

テレビを見てもネットを見ても、誰それがホームランを打ったとか、誰それが熱愛発覚だとか、誰それが不適切で炎上したとか、言ってしまえばどうでもいい情報ばっかり。情報化社会なのに、もっとましな情報ないの?

役には立たないんだけど、刺激的。そんな情報ばっかりです。

そして、みんな刺激に飢えるかのように、情報に貪りつく。

娯楽も多すぎです。宮崎駿が40年も前にすでに「アニメが多すぎる」なんて言っていたのに、今やそのころのアニメの数の比じゃないですよ。

おまけにサブスクに加入すれば、ドラマもアニメも見放題。

ゲームも数多く作られ、ゲーム実況動画をはじめ、星の数ほどの動画がネットを埋め尽くす。

本屋さんにあるマンガだって読み切れないのに、ネットにもさらにマンガがいっぱい。

いくらなんでも、情報と娯楽が多すぎる。どうしてこんなに多いのか。

人生がつまんないからです。

「人生ゲーム」を攻略すればお金とか資産とかモノとかは手に入るんだけど、ゲームにおいて最も重要な「刺激」と「エンタメ」が決定的に欠けてるからなんです。

マジでクソゲーです。クソゲー・オブザ・ライフです。

自分の人生ゲームの中で刺激が得られないから、他人の記録とか、他人の熱愛とか、他人の炎上とかに刺激を求めて群がるんです。

自分の人生ゲームの中で「エンタメ」を感じられないから、他人が作ったゲームとか、他人が作ったアニメとか、他人が作った動画とかにエンタメを求めて群がるんです。

挙句の果てには、政治とか、事件とか、戦争すらも、エンタメとして消費されていく。

刺激とエンタメのクスリ漬け阿片窟です。

でも、「人生を楽しむ」って、そうじゃねぇだろ。いつだって、主語は「自分」であるべきだろうがよ。

そう思うようになったのは、つい最近です。

なので、とりあえず、「与えられる刺激」と「与えられるエンタメ」をなるべく生活から排除してみることにしたんです。

とりあえず、アニメは次のクールから「新作は5本以内」に絞ろうと思います。

スマホを触る時間、特にSNSを見る時間も、意識的にセーブするようにしました。

ニュースも、テレビであれネットであれ、見る時間を絞ってます。

この前、親からネットフリックスで面白いドラマやってると勧められましたけど、中指たてて断りました。

とはいえ、別に僕は禁欲して悟りを開きたいわけじゃないんです。むしろ、逆です。

「与えられた刺激」や「与えられたエンタメ」じゃあ、満足できないんです。

刺激もエンタメも、自家発電したいんです。

カップ麺や外食で済ませるより、自分で料理した方が、手間はかかるし味もそこそこだけど、楽しい。

アマゾンでネットショッピングするより、自分で買いに行った方が、楽しい。

AIに質問するより、自分で調べたり考えたりした方が、時間はかかるけれど、楽しい。

不便すぎるのも困るけど、便利さは時に日常から「刺激」と「エンタメ」を奪っていきます。

主語が「僕が」「私が」になれば、ちょっとめんどいけれど、きっと楽しい。刺激とエンタメの自家発電です。

5年前、「ZINE」という媒体の存在を知った時に、「ああ、これは一生遊べるやつだ」と直感しました。まだ飽きずに続けてるってことは、きっと、うまく自家発電ができているのでしょう。

人生ゲームのような人生

学生時代の就活で、一番答えに困った質問があるんですよ。

「10年後の自分はどうなってると思いますか?」

……し、しらねぇよ。

たぶん、キャリアアップがどうとか、スキルアップがどうとか、そういうことを答えればいいんだろうけど、どうしても「運が悪かったら、死んでるかもしれません」しか答えが出てこない。

だってだって、コロナ禍やウクライナ戦争を10年前に予言してたやつなんていたかよ。いたらそれこそ怪しい予言者扱いされてましたよ。

10年後のことなんて何が起きるかわかったもんじゃないのに、のんきに10年後のことなんて語れるかよ。

そう思ってるんですけど、どういうわけか頻繁に聞かれるんですね。「10年後の自分はどうなってると思いますか?」。なんなの? あいつら、予知能力者を採用したいの? エスパー発掘団体だったの?

ただ、最近になって、なんであんな質問をよくされたのか、そして、どうして僕が答えられなかったのか、なんとなくわかってきました。

なんか、都市文明の中の人生って、ある程度コースとステップが決まっっちゃってるような気が、最近してるんですよ。選択肢が多いようで意外と少ないというか、受験、就職、昇進、結婚、みたいなステップを一個一個クリアしていく、みたいな感覚。

なんだか、人生ゲームみたいだなって思います。「人生ゲーム」が「人生」に似てるんじゃなくて、「人生」がなんだか「人生ゲーム」に似てきちゃった。

でも、「人生ゲーム」だからこそ、「10年後、自分がどのマスに止まっているか」はなんとなく想像できるんですよ。だって、分岐点がいくつかあったとしても、人生ゲームなら先のコースがある程度は見えてるんだから。人生ゲームだからどんなコースであれ「ゴール」にちゃんとたどり着くことを想定しているわけで、「23歳で交通事故にあって死亡。ゲームオーバー!」みたいなマス目は想定してないわけです。

そして、なぜ僕が「10年後の自分」を問われると、答えに詰まったのか。

「人生ゲーム」をやるつもりが全くなかったからだと思います。自分がルーレットを回してコマを進めている姿が、どうしても想像できない。

高校の半ばくらいから、「大学受験」というマス目のゾーンに止まりました。そこには「受験勉強を頑張り、大学受験を突破すれば、大学のマス目に進めるよ」と書いてあるわけです。そのマスに止まったらみんな、「受験勉強」っていうミニゲームを始め、クリアすると次のマス目に進めるわけです。マリパみたいですね。

みんなが「せーのっ!」で受験勉強をやってる時に、僕は「なんでこのマス目に止まったら、こんなことしなきゃいけないの? っていうか、なんでこのマス目に止まらなきゃいけないの?」って首をかしげていたわけです。ゲームのやる気、ゼロです。

そして、全く同じことを、「就活」のマス目でも、「新社会人」のマス目でも、繰り返していたわけですね。

「このマス目に書いてあることは、絶対やらなきゃいけないのか?」

「そもそも、必ずこのマス目に止まらなきゃいけないのか」

「ほんとにこのマス目通り進まなきゃいけないのか」

「だれだよ、こんなマス目作ったヤツ」

挙句の果てには、「船旅」とか「ZINE作り」とか「貸し農園」みたいなマス目を、欄外に勝手に描いて、そっちに自分のコマ置いちゃう。

たぶん、僕に「人生ゲームをクリアしたい」という欲求は、全くないんですよ。

違うゲームやりたいんですよ、ずーっと。「これじゃない!」ってゲーム盤そのものをひっくり返したいんです。

情報と娯楽が多すぎる

この前、久々に、

ホントに何もやることがなくて。

布団の上で3時間ぐらい、夕方から、ただゴロゴロとしていたんですね。

最初は漫画を読んでたんですけど、それも読み終わって、ホントにただだらだらと。

パソコンもつけず、スマホも触らず、テレビも、大好きなラジオもつけず。

ああ、いい時間だなぁ。

そして、ふと、思ったんです。

スマホが普及して、いつでもどこでも情報が手に入る、世界と繋がれる。

そんな時代だからこそ、実は大事なのはオフラインの時間の方なんじゃないか。

オンラインの時代において、いかにオフラインの時間を確保するかが、人生を豊かにするんじゃないか、という仮説。

思えば、僕が子供のころにはすでに教科書とかに「これからは情報化の時代です。情報の取捨選択が大事なのです」と書いてあって、「いや、取捨選択ってなんだよ」と思ってたんですけど、それってつまり、「入ってくる情報をあるていど制限する」ということなんじゃないか。

だいたい、情報の量が多すぎるんですよ。それも、芸能人の熱愛とか、野球のホームランとか、誰それの炎上とかあいつを赦すなとか、どーでもいいニュースにかぎって、聞いてもないのに勝手に入ってきやがる。

そもそも、ニュースなんて実はそんなに見なくてもいいんじゃないか。

コロナの一番ひどかった時でさえ、朝のニュースで「いやぁコロナが大変ですねぇ」と言った後、昼のニュースで「コロナが大変ですねぇ」、夕方のニュースで「コロナが大変ですねぇ」、夜のニュースで「コロナが大変ですねぇ」。

その間、情報に特に変わりはなく、昼間と同じ映像が夜にも流されていました。

コロナ禍の半月目ぐらいで、僕は気づきました。「これ、テレビにかじりつかなくても、大丈夫なやつだ。だって、昼のニュースと夜のニュース、全く同じ内容じゃないか」

コロナの一番ひどい時ですらこんな調子なのだから、そうでもないときのテレビニュースとかSNSのトレンドとか、実はもっと見なくていいんじゃないか。

なに、ちゃんとニュースを見ないと、情報に取り残される?

いやいや、逆に情報に振り回されてるんですよ。情報のジャイアントスイングですよ。

むしろこれだけ反乱した情報の中から、「ホントに大事な情報」を見つけ出すのなんか、至難の業ですよ。

情報だけじゃなくて、娯楽も多すぎです。

この前、「いま、ネットフリックスのドラマが話題!」と聞いて、僕は首をかしげたんです。テレビ局が6つぐらいあって、BSもあって、それぞれがいっぱいドラマを流してる。TOKYO-MXは毎日数本アニメを流してる。映画館に行けば映画も見れる。

それなのに、まだ何か見たいのか?

もう、いいじゃん。

ヒマなら雲の流れとか川の流れとか炎の揺らめきとか夜空の星とかを見ればいいじゃない。虫の声とか鳥のさえずりとか風の音とか聞けばいいじゃない。

娯楽は隙間に楽しむもののはずなのに、いつの間にか、娯楽を追いかけるどころか、娯楽に追いかけられているんです。

疲れるわ。

どーでもいい娯楽の数が多すぎるうえに、その娯楽がまた世の中の情報量が増やしていく。

なので、最近、あえて情報や娯楽に触れないようにしているんです。

用のないときは、スマートフォンに触らない! 「とりあえずニュースを見る」というクセをなくす! マンガやアニメのような娯楽をむさぼらない!

情報に時間を振り回されず、娯楽に生活を追われずに、自分のハンドルは自分で握る。ブンブン! そんなオフラインな日々を送りたいなぁ、と思う今日この頃なのです。

ウンコを抱えて雨宿り

秋野菜・冬野菜の季節になりました。

ひと月前に茎ブロッコリーの苗を植えたのですが、そろそろ追肥の時期です。事前に畑にまいた肥料から、植え付け一月後に追加で肥料を根元に植えるのです。

というわけで、肥料をバケツに用意して、ブロッコリーの前に立った時のことでした。

雨が、ポツ、ポツ、ポツリ。

どうやら通り雨が降ってきたんですね。ようし、とっとと終わらせよう。

しゃがみこんで、位置を決めて、移植ごてを土に当てて、肥料を埋めるための穴を開けたところで、

雨が、ざぁー、ざざぁー。

これは、さすがにマズい。

とりあえず、肥料を濡らしちゃいかんだろう、ということで、肥料の入ったバケツを持って、畑の中の屋根がある東屋みたいな場所に避難しました。

傘持ってきてないし、もう肥料をバケツに入れちゃったし、仕方がないので、雨がやんで作業の続きができるようになるまで、雨宿りです。

さて、傍らに肥料の入ったバケツを置いて雨宿りしていたんですけど、

その肥料ってのが、鶏の糞なんですよ。

なにが悲しくて、鳥のウンコ抱えて雨宿りしなけりゃならんのじゃ。

ふーんだ!

まあ、鳥の糞と言っても、もちろん肥料用に処理されたものです。見た目はちっちゃい石ころ。臭いはまあちょっと変なにおいするけど、顔を近づけなきゃ別に気にするほどでもない。

そういう意味では、今日使う肥料が鶏の糞でまだよかったです。

この肥料が牛の糞だったらって思うと、悲惨です。

もちろん、これもまた肥料用に処理されたものなんだけど、

まず、見た目がアレ。ほぼ、まんま、アレ。

フレーク状になってるので畑の上にパラパラと撒くとよく効く肥料って感じなんだけど、バケツの中にたまった見た目はどうしてもアレを彷彿とさせます。

そのうえ、臭いもアレ。抑え気味の、アレ。

鶏の糞はまだ「ヘンな匂い」で済むんだけど、牛の糞の臭いは、ちょっとアレなのです。肥料を扱う日は、マスク必須です。臭うから。

おまけに、鶏の糞は40ccしか使わないからバケツにちょっとしか入ってないんだけど、

牛の糞の場合はバケツにどっさりと入れるんですよ。どデカい柄杓で三杯分。

見た目がアレで、臭いもアレで、量もアレな牛の糞を抱えて雨宿り。想像するとぞっとします。雨が上がる前に、こっちが腐ってしまいます。

でも、これを入れないと作物が育たない!

肥料を入れる土づくりをさぼったら、野菜は育たないんですよ。大事な仕事は実は、野菜を植える前に始まり、野菜を植える前に終わると言っても過言ではないんです。

あの頃のヴィレヴァン

ああ、あの頃のヴィレヴァンはよかったなぁ……。

20年前、大宮のとあるビルの5Fにヴィレヴァンことヴィレッジヴァンガードがあって、僕はそこに足しげく通っていたんです。

何の店なのかよくわからない外観。中に入ってもやっぱり何の店なのかよくわからない。マリオとかカービィとかのグッズがあると思えば、ほかの店にはないような雑貨、癖の強すぎる本、オリコンチャートに入ってないCD、碑文谷教授のビデオ……。

本だけ見ても、雑学系、オカルト系、謎の旅行記、マニアックすぎる写真集……。エロ本ですらオシャレな写真集かのように置いてありました。

店内は細かい通路が入り組んでいて、360度どこを見渡しても刺激的なサブカルグッズばかり。何なら、天井からも変な人形が吊るされていたりします。

薄暗い店内に流れるのは、ジブリのジャズアレンジとか、J-POPのテクノアレンジとかパンクロックアレンジとか、聞いたことがあるようで聞いたことのない曲ばかり。

そして、やっぱりヴィレヴァンと言えば、短い言葉にユーモアと皮肉が詰まったポップ! あのポップが読みたくて通ってた部分もあります。

そんな「あの頃のヴィレヴァン」で一番覚えているのが、ドラえもんの第6巻だけが入荷されて山積みになっているという、奇妙な光景です。

ドラえもんの原作は第6巻の「さようならドラえもん」で一度連載が終わって、第7巻の「帰ってきたドラえもん」で連載が再開されるんです。だから、「さようならドラえもん」は事実上の最終回と言われ、あの「ドラ泣き」の映画の元ネタとなったお話。

そのお話を収録した第6巻がだけが山積み、いや、ドラ積みになっているのです。

でも、この第6巻の意味を知らない人が見ると、「なぜか6という中途半端な巻数だけ入荷して山積みになってる」という、わけわからない光景にしかならない。

でも、わかる人が見ると、にやっとなる。

ユーモアとジョークに溢れた品ぞろえと中毒性のあるポップが好きで、しょっちゅう通っていました。

あの頃のヴィレヴァン、商品よりももあのお店の独特の空気がいまのぼくに確実に影響を与えてます。ZINEの販売ブースを作るときも、何とかしてあのヴィレヴァンのような雰囲気を出せないかと試行錯誤したり、ヴィレヴァンを意識しまくったポップを何枚も書いたり。

だけど、どうも最近のヴィレヴァンはピンとこない。

人気キャラのぬいぐるみとか、おしゃれなリュックとか、スマホケースとかが並んでて、でも、全然「あの頃」のようにピンと来ない。

一番がっかりしたのがポップです。そこにはユーモアも皮肉もなく、ただ商品の名前とか種類とかサイズとか、「見りゃわかりますけど」ということしか書いてない。

いったいどうしちまったんだ、ヴィレヴァン。

そしたら数日前、「なぜヴィレヴァンはダメになったのか」という内容のネット記事が話題になってたんです。

かつてのヴィレヴァンは独特のセンスであふれていた。だけどイオンモールに出店し、ファミリー層を意識することでトゲのあるセンスが失われ、よくある雑貨屋に成り下がってしまった……、という内容。

そしてこのネット記事を皮切りに、「あの頃のヴィレヴァン至上主義ゾンビ」たちがネット上にわらわらとわいてきたのです。

あの頃のヴィレヴァン(おおよそ20年前)こそ僕の私のサブカルの原点。センスに溢れた品揃えを、サブカルに詳しすぎる店員さんが、ユーモアのあるポップで紹介してくれた。なのにイオンに出店して以来、ただの雑貨屋、キャラクターショップになっちまった。ああ、あの頃のヴィレヴァンはよかった……。

驚きましたね。「あの頃のヴィレヴァン」に憧れ、「今のヴィレヴァン」に物足りなさを感じてる人がこんなにもいたのか、僕だけじゃなかったのか、と。

あの頃のヴィレヴァンは、「欲しいものが置いてある店」ではなかった。

「置いてあるものが欲しくなる店」だったんです。

何か欲しいものが決まっててお店に行くんじゃなくて、全くの無目的にお店に入り、店内をぐるぐる回ってるうちに、なにこれなにこれなんじゃこりゃ?とおもしろいものがいっぱい見つかって、ついついほしくなってしまう、それがあの頃のヴィレヴァン。

ああ、あの頃のヴィレヴァンはよかった……。

イチローとハヤオ

前にちょこっと書いたけど、テレビでイチローさんがすごく考え深いことを言っていたってお話。

半年ほど前、イチローさんが高校の野球部を訪れて、直接指導するっていうテレビの企画をぼけーと見ていたんです。

その中でイチローさんが子供たちに伝えたいこととして言っていたのが、「とにかく、自分の好きなことがわからない大人が多すぎる」でした。

この言葉は僕にとって、かなり衝撃的なものとして、記憶に刻み込まれたんです。

まず、「多い」ではなく「多すぎる」って言い方が、一般論としてではなく実感と危機感がこもっているよう感じるんです。

そして何よりも驚いたのが、この言葉を野球界で生きてきたイチローさんが言ったってこと。

だって、野球界って、選手であれ、球団のスタッフであれ、それを取り巻く人々であれ、野球が好きな人が集まってくる場所なんじゃないのか?

そんな世界で生きてきたはずのイチローさんが「自分の好きなことがわからない大人が多すぎる」と言うのは、相当なことだなぁと思ったのです。

でも、本当にそうなのかな?

同年代の友達を見てみても、それこそ野球観戦に行ったり、映画を見に行ったり、バンド活動をしたり、アニメを見たり、ゲームに課金したり、推し活とやらをしていたり、好きなことをやってますよ。

学生時代よりもお金がある分、使えるお金も行動範囲も大きくなります。この前も好きなラジオのイベントが東京であったんだけど、「仙台から来ました!」なんて猛者のリスナーもいました。

とはいえ、イチローさんだってそんなことは百も承知で、そのうえで「好きなことがわからない大人が多すぎる」って言ってるはずです。なんたって、あのイチローさんですから。趣味を見つけなさいって話じゃない気がする。

ということは、好きなことを仕事にして生きていこう、ってことなのかな。昔、そんな広告があったなぁ。

ただ、イチローさんほど好きなことを仕事にすることの難しさを知ってて、それをストイックにやってきた人もいないと思うんですよ。「好きなことだけして生きていこうぜ! イエーイ!」なんてチャラついたことを言うとは思えない。なんてったって、あのイチローさんですから。

じゃあ、何の話をしてるんだろう?

これはもしや、仕事か趣味かという二元論を超越した、「生き方」という問題なんじゃないのか。

どんな仕事であれ、どんな生活であれ、自分の好きな「生き方」を貫いていく。

すなわち、「君たちはどう生きるか」

ハヤオのこの問いかけと、イチローのあの投げかけは、実は同じものだったんじゃないか?

ハヤオは実はイチローだったんじゃないか?

足してハチローなんじゃないか?

イチローさんが言う「好きなことがわかっていない大人が多すぎる」というのは、ハヤオの「君たちはどう生きるか」という問いかけに答えられない大人が多すぎる、ということだったのではないか。

「君たちはどう生きるか」は恐ろしく意地悪な問いかけです。

「僕はこう生きる!」と答えられたとしても、この答えはいつだって「暫定的」でしかないんです。

明日には気が変わってるかもしれない。生活環境が変わっているかもしれない。社会情勢が変わっているかもしれない。

明日になったら答えが変わってるかもしれないし、答えられなくなってるかもしれない。そうはならない、なんて保証は絶対に、ない。

だからこそ、何度も何度も、その都度その都度、自分に問いかけていかなければいけないんです。「いま、僕はどう生きるか?」と。

まるで、打席ごとに一球一球投げるピッチャーのように。

やっぱり、ハヤオはイチローで、ハチローだったんだ! ラピュタは本当にあったんだ!

生きていくには、理由がいる

久しぶりに、仲間たちに会った。

久々に会うということで、ここ数年の自分について、思い返していた。恥の多い人生を送ってるんじゃないかと。

そしたら、あることに気づいてしまった。

常に心の中にあったはずの鬱屈としたもの、仲間内の言葉で言う「メロウ」が、ZINE作りを始めてからいつの間にかなくなっていたのだ。

そもそもZINEづくり自体が「どうせいつか死ぬなら好きなことをして死のう」というネガティブな気持ちで始めたものだったのに。

ところが、ZINEを作り続けて、1冊完成すると、自然と「次も作ろう」という気持ちになる。誰に頼まれたわけでもなく、僕の一存「飽きた。やーめた」でいつでもやめられるはずなのに。

そうしてZINEを作り続けているんだけど、それで生活できているわけではないし、もうちょっと社会人としてちゃんとした方がいいのかなぁ、という不安はずっとある。

でも、たしかにちゃんと就職して、ガシガシ働いて、年相応の責任を負って、まともに社会人をしていれば、「生活」はして行けるんだろう。

だけど、その道を行く場合、ぼくはいま「生存」してるんだろうか。仕事帰りに電車に飛び込んだり、夜中にベランダから飛び降りたり、そういうことをしないと言い切れるだろうか。

そんな風に考えていくと、どんなに命は尊いと言っても、人は何か「生きる理由」がないと生きていけないと思うのだ。

僕にはZINE作りしかないし、ZINE作りがあるし、ZINE作りがあるから生きていける。

人はパンのみで生きるにあらずっていうけどまさにその通りで、理由もなく漠然と生活を続けられるほど人は強くない。生きる理由が見つからなかったり失ってしまったり、自ら命を絶つ人ってそういうことなんじゃないか。

この前テレビでイチローがこんなことを言っていた。世の中には自分が何を好きなのかわかっていない大人が多すぎる、と。それってつまり、生きる理由が見つからないまま生きてる大人が多すぎる、ってことなんじゃないか。

理由もなく生きていけるほど人は強くない。理由がなければ生きていけないし、理由があれば生きていける。

僕の場合は学生時代の「民俗学」であり、10年前の「船旅」であり、今の「ZINEづくり」というわけだ。

10年前の大宮ボラセンはまさに、「生きる理由」がある場所だった。

だから、そのボラセンがなくなると聞いた時、ぼくは思ったのだ。かつての僕のような人たちのために、鬱屈したものを抱える人たちのために、この街に「大宮ボラセン」は必要だ、と。

どうすれば、あの頃の大宮ボラセンのような場所を作れるか。この10年、ことあるごとに考えるんだけど答えは見つからない。見つからないけど問いを繰り返す。

10年前の自分に「その件はもうやめた。あきらめた」なんて言いたくなかったから。

でも一方で僕は、10年前の自分にこう言いたい。

「鬱屈したものを抱える人たちのために」

……キミさ、そこにどうして、「自分」を入れていないんだい?

まさかキミさ、「自分はもう大丈夫」「自分にはもう必要ない」「自分はもう卒業した」とでも思ってたのかい?

だとしたらキミさ、それは調子に乗ってるってやつだよ。キミは理由もなくただ漠然と生きることなんてできないんだから。何かの拍子に「理由」を失ったら、キミはあっさり死んでしまうんだよ。

だいたいさ、「鬱屈したものを抱える人たちのために」ってさ、それはいったい、どこの誰のことを言ってるんだ?

よーく考えてみろ。大宮ボラセンにこだわってるとキミが一番感じている人間は誰だ?

ほかでもない、キミ自身だろ?

そんなことはない。仲良しのあの人や、スタッフだったあの人の方が、ってキミは思ってるだろ?

でも、他人の気持ちを自分の気持ち以上に感じ取ることは、不可能なんだ。

となると、大宮ボラセンにこだわっていると「キミが一番感じている」人間は誰だ?

キミ以外ありえないだろ?

だったら、名前も顔もわからない誰かのためなんかじゃなく、「自分のために大宮ボラセンを作りたい」でよかったんだよ。

「誰かのために」だから答えが見つからないんだ。そりゃそうだ。誰かって、誰やねん。そもそもの問いが曖昧過ぎるから、答えが見つからないんだ。

ストレートに「自分のために」でよかったんだ。

だってきっと、他人に手を差し伸べることより、自分に手を差し伸べることの方が、難しいんだから。

「生きる理由」を見出し続けて、自分で自分に手を差し伸べ続ける。結局、キミにはそれしかできないし、キミにはきっとそれができるんじゃないかな。

ヤサイノオワリ

まだ八月も半ばなのに、夏ももう終わりだなぁと思ってしまうのはきっと、畑の夏野菜が終わりを迎えてきたからかもしれません。

少し前に畑に行ったら、エダマメが一気に枯れていて、腰を抜かしました。何か悪い病気なのかと思ったけど、ほかの畑も同じような感じだったし、時期から考えても、エダマメのシーズンはおしまいってことなのでしょう。それにしても、少し前までジャングルかってくらい防虫ネットの中で青々と茂っていたのに、こうも一気に枯れてしまうとは。

エダマメパーティ、楽しかったな。

 

エダマメは定期的に水やりをしなければいけないんだけど、どうせ梅雨が来るからそんなにこまめにやらなくてもいいだろう、と思っていたら、今年は梅雨が短かったんです。雨が少ないせいで、生育が遅かったのかな。

今、ピーマンも一株育ててるんだけど、ピーマンもこまめな水やりが必要ですが、やっぱり生育が遅い。今週に入って、ようやく一か月前の追肥の効果が出てきて、久々に収穫できたぐらいです。

一方で、ミニトマトの方は生育は悪くないけど、どういうわけか縦に長いんです。

なにか育て方を間違えたかな、と思ったけど、ほかの畑のミニトマトも同じように縦に長い。

ほおばってみると、ふつうのミニトマトよりも一回り大きい気がする。

ミニトマトは水を嫌う野菜なので、梅雨が短かったことで逆によく育ったのかもしれません。

ちなみに、ナスも一株育てているのですが、こいつはあまり水とか関係ないみたいで、とにかくよく育ってました。毎週のようにナス料理を作り続けたおかげで、ナス料理のレベルがちょっと上がった。

これまたうちの畑で取れたバジル(実はこれが一番楽しみだったりする)と一緒に油でいためて、ちょっと蒸すとおいしいです。

まさに、ナスだけに言うことナス

ただ、ナスは葉っぱがトゲトゲしていて、油断するとめちゃくちゃ痛い。これがホントのトゲナストゲアリ。怒りも悲しみも喜びも、全部ナスにぶちこめ。

「キレイなバラにはとげがある」なんて言うけど、「うまいナスにもとげがある」も新たに追加してほしいところです。

今、太陽消毒ってやつをやっていて(畑に水を撒いてビニールをかぶせ、サウナにするのだ!)、来週は、秋冬の野菜に向けて土づくりです。あのスラムダンクの安西先生が「土づくりを適当にやっちゃいかん。種や苗を植える前に試合終了だよ」って言いそうなので、しっかりやらないと。安西先生、いい土を作りたいです……。

ルパンに心を盗まれて

大宮駅前のTSUTAYAが今週、惜しまれつつ閉店するそうなんですよ。

まあ、「惜しまれつつ」っていうほどの思い入れはないんですけど。「あら、そう閉店しちゃうのね。時代の流れかねぇ」くらいなもんで。

ただ、僕の目を強く引き付けた文言がありまして。

それが「大中古市」。

閉店に伴いDVDを中古販売するんです。

前にもほかのTSUSTAYAの大中古市で僕は、ONE PIECEのDVD、それも僕が子供のころにやっていた映画やテレビのDVDを3本、1000円で手に入れました。今でもよく見まてす。

あの時のように、DVDを安く大量にゲットするチャンス!

というわけで、とりあえずONE PIECEの映画を4本買いました。

でも、こんなチャンスはそうそうないので、ほかにもDVDを買いたいなぁ。何を買うか慎重に考えないと。

「ご注文はうさぎですか?」、「ヤマノススメ」、「SHIROBAKO」、「プリンセス・プリンシパル」、「彼方のアストラ」、「白い砂のアクアトープ」、「リコリス・リコイル」、「ラブライブ!サンシャイン!!」、「幻日のヨハネ」……。

好きなアニメのタイトルが浮かんでは消え、浮かんでは消え、心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴れば、あやしうこそものぐるほしけれ。

いや、待てよ。そうだ。こんな時でないと、あのアニメのDVDは揃えられない……。

そのアニメは、ルパン三世の第2シリーズ。

ルパン三世はこれまで6回テレビアニメが放送されてるけど、その中でも1976年に始まった第2シリーズは特別なんです。

映画やCMで見る「赤いジャケットのルパン三世」が登場したのがこの第2シリーズ。

さらに、おなじみの「ルパン三世のテーマ」のあの曲がOPで使われたのもこの第2シリーズ。

今のルパンのイメージを作ったのが、この第2シリーズなんですよ。

何より、ぼくが子供のころ、夕方に再放送していて、毎日見てました。思い出のアニメなんですよ。

そしてルパンはまだ小学生だった僕からとんでもないものを盗んでいきました。そう、私の心です。

ずっとDVDを手に入れたいと思っていたけど、一つ問題がありましてね。

第2シリーズはなんと、155話もあるんです。DVDにしてなんと26巻!

全部そろえようとすると一体いくらかかるのか……、計算するだけで眩暈がくーらくら。

でも、大中古市なら安く手に入るチャンス! というわけでアニメの棚の「ら行」を探してみたところ……。

なんと、ほぼ完ぺきなコレクションがそろえてあるじゃないか!

しかし、これがチキンレースのはじまり!

大中古市は閉店の日に近づくほど安くなる、というシステムなんです。

この日の時点でDVDの値段は一個880円。十分安いけど、いまルパンを全巻買ってしまうと、2万円以上になってちゃう。

来週になれば550円。再来週には330円。安く買いたいなら日を改めなきゃいけない。

ただ、再来週になったらもう売り切れてなくなってるかもしれない!

ちょっとずつ買い進めていくしかない。安く買いたいという気持ちと、ほかの人に取られてなるものかという気持ち、天秤が頭の中でぐーらぐら。

とりあえず2本だけ買って、「後日、必ず頂戴しに参上いたします」と心の中で予告状を残して、店を後にしました。

そうして、3回にわたってお店に通い、ルパンを買い進めていった結果、

19本のDVDを回収することに成功しました!

獲物はごっそりいただいたぜ!

コンプリート出来なかったのは残念だったけど、ぼくにとって最悪の事態は「ごっそりなくなってる」ということなので、19本100話以上を回収できたのは満足です。

使ったお金は一万円弱。でも、ふつうに買おうとしたらこの値段だと2本しか買えない。ブックオフの中古コーナーに行っても、10本買えるかどうか。

こうして我が家にルパンのDVDがやってきました。さっそく、第1話から見始めたんだけど、OPを見て気づいたことが。

メインの声優さんが全員、鬼籍に入られてしまった……。不二子を演じた増山さんが今年亡くなられ、50年にわたり次元を演じた小林さんも数年前にお亡くなりに……。

さて、アニメを見始めると、やっぱり最近のルパンとは違うなぁ、と感じるんです。最近のルパンはちょっとカッコよすぎるというか、人を出し抜く天才みたいに描かれ過ぎてる気がする。

50年前のルパンは、盗みの天才なんだけど、どこか抜けてて、いつも何かしらのトラブルが起きて、ワーワーギャーギャー騒ぎながらも、なんとか最後には帳尻を合わせる、そんなルパンです。

ストーリーにも時代を感じます。「ヒトラーの遺産」というお話は、「東ドイツ」から「西ドイツ」へ、ルパンたちが「ベルリンの壁」を強行突破する、というお話でした。

イヤぁ、楽しい、夢にまで見た「ルパンが家にある生活」。

しかし、今月はいろいろイベントが重なっているのに、1万円も使ってしまった……。奴はとんでもないものを盗んでいきました。私の財布の余裕です……。