あの頃のヴィレヴァン

ああ、あの頃のヴィレヴァンはよかったなぁ……。

20年前、大宮のとあるビルの5Fにヴィレヴァンことヴィレッジヴァンガードがあって、僕はそこに足しげく通っていたんです。

何の店なのかよくわからない外観。中に入ってもやっぱり何の店なのかよくわからない。マリオとかカービィとかのグッズがあると思えば、ほかの店にはないような雑貨、癖の強すぎる本、オリコンチャートに入ってないCD、碑文谷教授のビデオ……。

本だけ見ても、雑学系、オカルト系、謎の旅行記、マニアックすぎる写真集……。エロ本ですらオシャレな写真集かのように置いてありました。

店内は細かい通路が入り組んでいて、360度どこを見渡しても刺激的なサブカルグッズばかり。何なら、天井からも変な人形が吊るされていたりします。

薄暗い店内に流れるのは、ジブリのジャズアレンジとか、J-POPのテクノアレンジとかパンクロックアレンジとか、聞いたことがあるようで聞いたことのない曲ばかり。

そして、やっぱりヴィレヴァンと言えば、短い言葉にユーモアと皮肉が詰まったポップ! あのポップが読みたくて通ってた部分もあります。

そんな「あの頃のヴィレヴァン」で一番覚えているのが、ドラえもんの第6巻だけが入荷されて山積みになっているという、奇妙な光景です。

ドラえもんの原作は第6巻の「さようならドラえもん」で一度連載が終わって、第7巻の「帰ってきたドラえもん」で連載が再開されるんです。だから、「さようならドラえもん」は事実上の最終回と言われ、あの「ドラ泣き」の映画の元ネタとなったお話。

そのお話を収録した第6巻がだけが山積み、いや、ドラ積みになっているのです。

でも、この第6巻の意味を知らない人が見ると、「なぜか6という中途半端な巻数だけ入荷して山積みになってる」という、わけわからない光景にしかならない。

でも、わかる人が見ると、にやっとなる。

ユーモアとジョークに溢れた品ぞろえと中毒性のあるポップが好きで、しょっちゅう通っていました。

あの頃のヴィレヴァン、商品よりももあのお店の独特の空気がいまのぼくに確実に影響を与えてます。ZINEの販売ブースを作るときも、何とかしてあのヴィレヴァンのような雰囲気を出せないかと試行錯誤したり、ヴィレヴァンを意識しまくったポップを何枚も書いたり。

だけど、どうも最近のヴィレヴァンはピンとこない。

人気キャラのぬいぐるみとか、おしゃれなリュックとか、スマホケースとかが並んでて、でも、全然「あの頃」のようにピンと来ない。

一番がっかりしたのがポップです。そこにはユーモアも皮肉もなく、ただ商品の名前とか種類とかサイズとか、「見りゃわかりますけど」ということしか書いてない。

いったいどうしちまったんだ、ヴィレヴァン。

そしたら数日前、「なぜヴィレヴァンはダメになったのか」という内容のネット記事が話題になってたんです。

かつてのヴィレヴァンは独特のセンスであふれていた。だけどイオンモールに出店し、ファミリー層を意識することでトゲのあるセンスが失われ、よくある雑貨屋に成り下がってしまった……、という内容。

そしてこのネット記事を皮切りに、「あの頃のヴィレヴァン至上主義ゾンビ」たちがネット上にわらわらとわいてきたのです。

あの頃のヴィレヴァン(おおよそ20年前)こそ僕の私のサブカルの原点。センスに溢れた品揃えを、サブカルに詳しすぎる店員さんが、ユーモアのあるポップで紹介してくれた。なのにイオンに出店して以来、ただの雑貨屋、キャラクターショップになっちまった。ああ、あの頃のヴィレヴァンはよかった……。

驚きましたね。「あの頃のヴィレヴァン」に憧れ、「今のヴィレヴァン」に物足りなさを感じてる人がこんなにもいたのか、僕だけじゃなかったのか、と。

あの頃のヴィレヴァンは、「欲しいものが置いてある店」ではなかった。

「置いてあるものが欲しくなる店」だったんです。

何か欲しいものが決まっててお店に行くんじゃなくて、全くの無目的にお店に入り、店内をぐるぐる回ってるうちに、なにこれなにこれなんじゃこりゃ?とおもしろいものがいっぱい見つかって、ついついほしくなってしまう、それがあの頃のヴィレヴァン。

ああ、あの頃のヴィレヴァンはよかった……。

イチローとハヤオ

前にちょこっと書いたけど、テレビでイチローさんがすごく考え深いことを言っていたってお話。

半年ほど前、イチローさんが高校の野球部を訪れて、直接指導するっていうテレビの企画をぼけーと見ていたんです。

その中でイチローさんが子供たちに伝えたいこととして言っていたのが、「とにかく、自分の好きなことがわからない大人が多すぎる」でした。

この言葉は僕にとって、かなり衝撃的なものとして、記憶に刻み込まれたんです。

まず、「多い」ではなく「多すぎる」って言い方が、一般論としてではなく実感と危機感がこもっているよう感じるんです。

そして何よりも驚いたのが、この言葉を野球界で生きてきたイチローさんが言ったってこと。

だって、野球界って、選手であれ、球団のスタッフであれ、それを取り巻く人々であれ、野球が好きな人が集まってくる場所なんじゃないのか?

そんな世界で生きてきたはずのイチローさんが「自分の好きなことがわからない大人が多すぎる」と言うのは、相当なことだなぁと思ったのです。

でも、本当にそうなのかな?

同年代の友達を見てみても、それこそ野球観戦に行ったり、映画を見に行ったり、バンド活動をしたり、アニメを見たり、ゲームに課金したり、推し活とやらをしていたり、好きなことをやってますよ。

学生時代よりもお金がある分、使えるお金も行動範囲も大きくなります。この前も好きなラジオのイベントが東京であったんだけど、「仙台から来ました!」なんて猛者のリスナーもいました。

とはいえ、イチローさんだってそんなことは百も承知で、そのうえで「好きなことがわからない大人が多すぎる」って言ってるはずです。なんたって、あのイチローさんですから。趣味を見つけなさいって話じゃない気がする。

ということは、好きなことを仕事にして生きていこう、ってことなのかな。昔、そんな広告があったなぁ。

ただ、イチローさんほど好きなことを仕事にすることの難しさを知ってて、それをストイックにやってきた人もいないと思うんですよ。「好きなことだけして生きていこうぜ! イエーイ!」なんてチャラついたことを言うとは思えない。なんてったって、あのイチローさんですから。

じゃあ、何の話をしてるんだろう?

これはもしや、仕事か趣味かという二元論を超越した、「生き方」という問題なんじゃないのか。

どんな仕事であれ、どんな生活であれ、自分の好きな「生き方」を貫いていく。

すなわち、「君たちはどう生きるか」

ハヤオのこの問いかけと、イチローのあの投げかけは、実は同じものだったんじゃないか?

ハヤオは実はイチローだったんじゃないか?

足してハチローなんじゃないか?

イチローさんが言う「好きなことがわかっていない大人が多すぎる」というのは、ハヤオの「君たちはどう生きるか」という問いかけに答えられない大人が多すぎる、ということだったのではないか。

「君たちはどう生きるか」は恐ろしく意地悪な問いかけです。

「僕はこう生きる!」と答えられたとしても、この答えはいつだって「暫定的」でしかないんです。

明日には気が変わってるかもしれない。生活環境が変わっているかもしれない。社会情勢が変わっているかもしれない。

明日になったら答えが変わってるかもしれないし、答えられなくなってるかもしれない。そうはならない、なんて保証は絶対に、ない。

だからこそ、何度も何度も、その都度その都度、自分に問いかけていかなければいけないんです。「いま、僕はどう生きるか?」と。

まるで、打席ごとに一球一球投げるピッチャーのように。

やっぱり、ハヤオはイチローで、ハチローだったんだ! ラピュタは本当にあったんだ!

生きていくには、理由がいる

久しぶりに、仲間たちに会った。

久々に会うということで、ここ数年の自分について、思い返していた。恥の多い人生を送ってるんじゃないかと。

そしたら、あることに気づいてしまった。

常に心の中にあったはずの鬱屈としたもの、仲間内の言葉で言う「メロウ」が、ZINE作りを始めてからいつの間にかなくなっていたのだ。

そもそもZINEづくり自体が「どうせいつか死ぬなら好きなことをして死のう」というネガティブな気持ちで始めたものだったのに。

ところが、ZINEを作り続けて、1冊完成すると、自然と「次も作ろう」という気持ちになる。誰に頼まれたわけでもなく、僕の一存「飽きた。やーめた」でいつでもやめられるはずなのに。

そうしてZINEを作り続けているんだけど、それで生活できているわけではないし、もうちょっと社会人としてちゃんとした方がいいのかなぁ、という不安はずっとある。

でも、たしかにちゃんと就職して、ガシガシ働いて、年相応の責任を負って、まともに社会人をしていれば、「生活」はして行けるんだろう。

だけど、その道を行く場合、ぼくはいま「生存」してるんだろうか。仕事帰りに電車に飛び込んだり、夜中にベランダから飛び降りたり、そういうことをしないと言い切れるだろうか。

そんな風に考えていくと、どんなに命は尊いと言っても、人は何か「生きる理由」がないと生きていけないと思うのだ。

僕にはZINE作りしかないし、ZINE作りがあるし、ZINE作りがあるから生きていける。

人はパンのみで生きるにあらずっていうけどまさにその通りで、理由もなく漠然と生活を続けられるほど人は強くない。生きる理由が見つからなかったり失ってしまったり、自ら命を絶つ人ってそういうことなんじゃないか。

この前テレビでイチローがこんなことを言っていた。世の中には自分が何を好きなのかわかっていない大人が多すぎる、と。それってつまり、生きる理由が見つからないまま生きてる大人が多すぎる、ってことなんじゃないか。

理由もなく生きていけるほど人は強くない。理由がなければ生きていけないし、理由があれば生きていける。

僕の場合は学生時代の「民俗学」であり、10年前の「船旅」であり、今の「ZINEづくり」というわけだ。

10年前の大宮ボラセンはまさに、「生きる理由」がある場所だった。

だから、そのボラセンがなくなると聞いた時、ぼくは思ったのだ。かつての僕のような人たちのために、鬱屈したものを抱える人たちのために、この街に「大宮ボラセン」は必要だ、と。

どうすれば、あの頃の大宮ボラセンのような場所を作れるか。この10年、ことあるごとに考えるんだけど答えは見つからない。見つからないけど問いを繰り返す。

10年前の自分に「その件はもうやめた。あきらめた」なんて言いたくなかったから。

でも一方で僕は、10年前の自分にこう言いたい。

「鬱屈したものを抱える人たちのために」

……キミさ、そこにどうして、「自分」を入れていないんだい?

まさかキミさ、「自分はもう大丈夫」「自分にはもう必要ない」「自分はもう卒業した」とでも思ってたのかい?

だとしたらキミさ、それは調子に乗ってるってやつだよ。キミは理由もなくただ漠然と生きることなんてできないんだから。何かの拍子に「理由」を失ったら、キミはあっさり死んでしまうんだよ。

だいたいさ、「鬱屈したものを抱える人たちのために」ってさ、それはいったい、どこの誰のことを言ってるんだ?

よーく考えてみろ。大宮ボラセンにこだわってるとキミが一番感じている人間は誰だ?

ほかでもない、キミ自身だろ?

そんなことはない。仲良しのあの人や、スタッフだったあの人の方が、ってキミは思ってるだろ?

でも、他人の気持ちを自分の気持ち以上に感じ取ることは、不可能なんだ。

となると、大宮ボラセンにこだわっていると「キミが一番感じている」人間は誰だ?

キミ以外ありえないだろ?

だったら、名前も顔もわからない誰かのためなんかじゃなく、「自分のために大宮ボラセンを作りたい」でよかったんだよ。

「誰かのために」だから答えが見つからないんだ。そりゃそうだ。誰かって、誰やねん。そもそもの問いが曖昧過ぎるから、答えが見つからないんだ。

ストレートに「自分のために」でよかったんだ。

だってきっと、他人に手を差し伸べることより、自分に手を差し伸べることの方が、難しいんだから。

「生きる理由」を見出し続けて、自分で自分に手を差し伸べ続ける。結局、キミにはそれしかできないし、キミにはきっとそれができるんじゃないかな。

ヤサイノオワリ

まだ八月も半ばなのに、夏ももう終わりだなぁと思ってしまうのはきっと、畑の夏野菜が終わりを迎えてきたからかもしれません。

少し前に畑に行ったら、エダマメが一気に枯れていて、腰を抜かしました。何か悪い病気なのかと思ったけど、ほかの畑も同じような感じだったし、時期から考えても、エダマメのシーズンはおしまいってことなのでしょう。それにしても、少し前までジャングルかってくらい防虫ネットの中で青々と茂っていたのに、こうも一気に枯れてしまうとは。

エダマメパーティ、楽しかったな。

 

エダマメは定期的に水やりをしなければいけないんだけど、どうせ梅雨が来るからそんなにこまめにやらなくてもいいだろう、と思っていたら、今年は梅雨が短かったんです。雨が少ないせいで、生育が遅かったのかな。

今、ピーマンも一株育ててるんだけど、ピーマンもこまめな水やりが必要ですが、やっぱり生育が遅い。今週に入って、ようやく一か月前の追肥の効果が出てきて、久々に収穫できたぐらいです。

一方で、ミニトマトの方は生育は悪くないけど、どういうわけか縦に長いんです。

なにか育て方を間違えたかな、と思ったけど、ほかの畑のミニトマトも同じように縦に長い。

ほおばってみると、ふつうのミニトマトよりも一回り大きい気がする。

ミニトマトは水を嫌う野菜なので、梅雨が短かったことで逆によく育ったのかもしれません。

ちなみに、ナスも一株育てているのですが、こいつはあまり水とか関係ないみたいで、とにかくよく育ってました。毎週のようにナス料理を作り続けたおかげで、ナス料理のレベルがちょっと上がった。

これまたうちの畑で取れたバジル(実はこれが一番楽しみだったりする)と一緒に油でいためて、ちょっと蒸すとおいしいです。

まさに、ナスだけに言うことナス

ただ、ナスは葉っぱがトゲトゲしていて、油断するとめちゃくちゃ痛い。これがホントのトゲナストゲアリ。怒りも悲しみも喜びも、全部ナスにぶちこめ。

「キレイなバラにはとげがある」なんて言うけど、「うまいナスにもとげがある」も新たに追加してほしいところです。

今、太陽消毒ってやつをやっていて(畑に水を撒いてビニールをかぶせ、サウナにするのだ!)、来週は、秋冬の野菜に向けて土づくりです。あのスラムダンクの安西先生が「土づくりを適当にやっちゃいかん。種や苗を植える前に試合終了だよ」って言いそうなので、しっかりやらないと。安西先生、いい土を作りたいです……。

ルパンに心を盗まれて

大宮駅前のTSUTAYAが今週、惜しまれつつ閉店するそうなんですよ。

まあ、「惜しまれつつ」っていうほどの思い入れはないんですけど。「あら、そう閉店しちゃうのね。時代の流れかねぇ」くらいなもんで。

ただ、僕の目を強く引き付けた文言がありまして。

それが「大中古市」。

閉店に伴いDVDを中古販売するんです。

前にもほかのTSUSTAYAの大中古市で僕は、ONE PIECEのDVD、それも僕が子供のころにやっていた映画やテレビのDVDを3本、1000円で手に入れました。今でもよく見まてす。

あの時のように、DVDを安く大量にゲットするチャンス!

というわけで、とりあえずONE PIECEの映画を4本買いました。

でも、こんなチャンスはそうそうないので、ほかにもDVDを買いたいなぁ。何を買うか慎重に考えないと。

「ご注文はうさぎですか?」、「ヤマノススメ」、「SHIROBAKO」、「プリンセス・プリンシパル」、「彼方のアストラ」、「白い砂のアクアトープ」、「リコリス・リコイル」、「ラブライブ!サンシャイン!!」、「幻日のヨハネ」……。

好きなアニメのタイトルが浮かんでは消え、浮かんでは消え、心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴れば、あやしうこそものぐるほしけれ。

いや、待てよ。そうだ。こんな時でないと、あのアニメのDVDは揃えられない……。

そのアニメは、ルパン三世の第2シリーズ。

ルパン三世はこれまで6回テレビアニメが放送されてるけど、その中でも1976年に始まった第2シリーズは特別なんです。

映画やCMで見る「赤いジャケットのルパン三世」が登場したのがこの第2シリーズ。

さらに、おなじみの「ルパン三世のテーマ」のあの曲がOPで使われたのもこの第2シリーズ。

今のルパンのイメージを作ったのが、この第2シリーズなんですよ。

何より、ぼくが子供のころ、夕方に再放送していて、毎日見てました。思い出のアニメなんですよ。

そしてルパンはまだ小学生だった僕からとんでもないものを盗んでいきました。そう、私の心です。

ずっとDVDを手に入れたいと思っていたけど、一つ問題がありましてね。

第2シリーズはなんと、155話もあるんです。DVDにしてなんと26巻!

全部そろえようとすると一体いくらかかるのか……、計算するだけで眩暈がくーらくら。

でも、大中古市なら安く手に入るチャンス! というわけでアニメの棚の「ら行」を探してみたところ……。

なんと、ほぼ完ぺきなコレクションがそろえてあるじゃないか!

しかし、これがチキンレースのはじまり!

大中古市は閉店の日に近づくほど安くなる、というシステムなんです。

この日の時点でDVDの値段は一個880円。十分安いけど、いまルパンを全巻買ってしまうと、2万円以上になってちゃう。

来週になれば550円。再来週には330円。安く買いたいなら日を改めなきゃいけない。

ただ、再来週になったらもう売り切れてなくなってるかもしれない!

ちょっとずつ買い進めていくしかない。安く買いたいという気持ちと、ほかの人に取られてなるものかという気持ち、天秤が頭の中でぐーらぐら。

とりあえず2本だけ買って、「後日、必ず頂戴しに参上いたします」と心の中で予告状を残して、店を後にしました。

そうして、3回にわたってお店に通い、ルパンを買い進めていった結果、

19本のDVDを回収することに成功しました!

獲物はごっそりいただいたぜ!

コンプリート出来なかったのは残念だったけど、ぼくにとって最悪の事態は「ごっそりなくなってる」ということなので、19本100話以上を回収できたのは満足です。

使ったお金は一万円弱。でも、ふつうに買おうとしたらこの値段だと2本しか買えない。ブックオフの中古コーナーに行っても、10本買えるかどうか。

こうして我が家にルパンのDVDがやってきました。さっそく、第1話から見始めたんだけど、OPを見て気づいたことが。

メインの声優さんが全員、鬼籍に入られてしまった……。不二子を演じた増山さんが今年亡くなられ、50年にわたり次元を演じた小林さんも数年前にお亡くなりに……。

さて、アニメを見始めると、やっぱり最近のルパンとは違うなぁ、と感じるんです。最近のルパンはちょっとカッコよすぎるというか、人を出し抜く天才みたいに描かれ過ぎてる気がする。

50年前のルパンは、盗みの天才なんだけど、どこか抜けてて、いつも何かしらのトラブルが起きて、ワーワーギャーギャー騒ぎながらも、なんとか最後には帳尻を合わせる、そんなルパンです。

ストーリーにも時代を感じます。「ヒトラーの遺産」というお話は、「東ドイツ」から「西ドイツ」へ、ルパンたちが「ベルリンの壁」を強行突破する、というお話でした。

イヤぁ、楽しい、夢にまで見た「ルパンが家にある生活」。

しかし、今月はいろいろイベントが重なっているのに、1万円も使ってしまった……。奴はとんでもないものを盗んでいきました。私の財布の余裕です……。

夢で逢えたら

ヘンな夢を見ました。

夢の中で僕は、どういうわけか「力士」っていう設定なんですよ。今、標準体重なんだけどなぁ。

そして、引退の手続きをしているんです。

力士の引退というと断髪式を思い浮かべるんですれど、そういうのじゃなくて、なんか書類手続きの準備をしてる、そんな夢でした。

そして目が覚めて、思うのです。

……夢の中でくらい、もっと力士らしいことしろよ!

力士という設定の意味がない! ただの「書類手続する夢」じゃないか!

もっとさぁ、相撲を取るとかさぁ、ちゃんこ鍋を食べるとかさぁ、力士っぽいことあるでしょ。

僕の夢なのに、全く僕の好みがわかってない。プロデューサー出て来い!

そもそも、僕の好みの話をするんだったら、別に相撲好きでも何でもないんだけど。めったに見ないし。

なぜに力士になる夢?

やっぱり今、オリンピックやってるからですかねぇ。連日色んなスポーツをやってるから、ふだん見ないスポーツでも夢に見ることだって……。

……オリンピックで相撲はやってないよ!

っていうかそもそも、オリンピックまったく見てないよ!

深夜にオリンピックのなんかの試合やってたみたいだけど、ふつうにワールドプロレスリング見てたよ。今年も夏のG1クライマックスが始まったんだよ。熱い夏が今年も始まったんだよ。いきなり大波乱だよ。

そうだ! 僕の夢なんだから、僕の好みに合わせてプロレスの夢を見せろ! プロレスラー出て来い!

まったく、一人しか視聴者がいないのに、その視聴者の好みに夢を合わせてこないなんて、一体どうなってるんだ?

ただ、たまには夢さんも僕の好みに合わせた夢を見せてくれるみたいです。

この前見たのは、大量のゾンビ軍団に襲われる夢でした。

いや、ゾンビだけなら全然好みじゃないのよ。むしろ、悪夢だよ。

次々とゾンビが現れ、追っかけまわされ、周りの人もゾンビに噛まれて感染してゾンビになるという恐怖と絶望の悪循環。

おまけに、寝ているリアルの体の方も金縛りにあって、圧迫感がすごくて息苦しい!

ぐわー! 怖い! 苦しい! 助けてー!

と、絶望と苦痛がピークになったその時!

なんと夢の中に、2年前に放送されていた「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」のレッド、「ドンモモタロウ」が登場したんです! アバターチェンジ!

ドンモモタロウは名前の通り、桃太郎がモチーフ。そして、劇中でも「とにかく圧倒的に強い」という設定。

ドンモモタロウが来てくれたから、もう大丈夫だ! 祭りだ祭りだ!

実際、ドンモモタロウは強かった! 剣のたった一振りで一度に10体ちかくのゾンビを一気になぎ倒したんです! 必殺、モモタロ斬!(実際、と書いたけど、夢の中のお話です)。

そのあとも、僕が襲われそうになるたびに、「ドンモモタロウ、助けてー!」となると一気にゾンビを蹴散らしてくれる。こ、これが本物のヒーロー……(夢の中のお話です)。

みなさん、ヒーローは本当にいます!(夢の中なら)

空気が澱む

夏です。怪談の季節です。

先日、加門七海さんの「たてもの怪談」という怪談エッセイを読みました。

……怪談エッセイって何だよ。

建物にまつわるエッセイなんですけど、この作者さんは霊感体質らしく、実家でも、引っ越し先でも、旅行先でも、行く先々でおばけに出くわすんです。

で、作者さんも慣れてるから、「家の電球が切れちゃった」ぐらいの感覚で、「ひとり暮らしなのに廊下から足音が聞こえちゃった」という話をするんです。

で、作者さんいわく、ふしぎなことが起こりやすい場所は、空気が澱んでるんだとか。

ああ、わかるわかる。そうそう。空気が澱んでるんだよねぇ。

……わかるんかい。

別におばけを見たことはないんだけど、どうも最近、「空気が澱む」という感覚がわかるようになってきたんです。年なのかな。

いや、子供のころは普通にラップ音が聞こえてたけど、大人になると聞こえなくなったから、当時の感覚が戻ってきた、幼児退行かもしれません。ばぶぅ。

空気の澱みを最初に感じたのは、数年前に友人たちと遠野に行った時。

遠野のデンデラ野だったか、ダンノハナだったか、『遠野物語』にも登場する、村と村との境界、死者の埋葬とかをやってた場所に車で行ったとき、「あ、ここはアカン」と感じたんです。早く車を出してくれぇ、と。

そのあとも、「処刑場跡地」とかに行くと空気が澱んでるという感じを覚えることがあって。体調にも変化があって、そこの住人には申し訳ないけど「よくこんな場所で暮らせるな」と思うくらい、空気が澱んでいる。

別に何かを見たってわけじゃないんだけど、空気が澱んでいるんです。

心霊的なものというよりも、磁場が悪いのか何なのか、その土地の重苦しい記憶がいまなおその場にとどまっている、みたいな。

つい先日もそんなことがあって。

とある「大きな駅」に用事があって行ったんです。

改札を出るとわりと大きめの建物が並んでいて、やっぱり大きな街だなぁ。

ところがところが、線路沿いをちょっと歩くと、「いま、再開発してます」って感じの場所に出たんです。

そこに出た途端に、「あ、ここはマズいな」。

正確に言うと、「この辺はまだ大丈夫だけど、これ以上奥にはいきたくないな」。

空気が澱んでるんですよ。

幸い、目的地は駅からすぐのところだったのでそれ以上奥にはいかずに済んだんだけど、用事を済ませて外に出たらまた空気が澱んでて、だんだん気分が悪くなってくる。

気分が悪いまま駅前の商店街まで戻って、ここまでくればもう大丈夫だぞ、と商店街のマクドナルドに駆け込みました。

さてさて、あれ以上先に進んでたらいったいどこにたどり着いたんだろう、墓場でもあるのかな、とスマートフォンの地図を見てみたところ、進行方向の1km先に有名な心霊スポットがあったことに気づいたのでした。

処刑場跡地の時は、そこがそういう場所だと知ってて行ってるから、先入観とかあるのかもな、と思ってたけど、1km先の心霊スポットを当ててしまうのはさすがに……。そもそも、その方角にその場所があるなんて知らなかったし……。

ついに僕も、見聞色の覇気が使えるようになったか。……あんまり嬉しくないなぁ。1km先までは、わからなくていいよぉ。

あてのない旅

「あてのない旅」ほど難しいものです。

「あてのない旅に出ます」といってはみるものの、実際はある程度の「あて」がないと、ちっとも動けない。

ホントのホントにあてのないまま旅に出たところで、立ちはだかる問題が「今夜、どこに泊まるか」です。

あてのないままふらりとどこかの田舎を旅して、日が暮れたからさあ泊まる場所を探そう、と思っても、空きがなかったり、そもそも近くにホテルがちっともなかったりすると、絶望です。あてのない旅から一転、宿のない旅になっちゃいます。

そうならないためには、事前にホテルを予約しないといけない。

するとその時点でもう、「あて」ができてしまうんですね。

予約する時、チェックインの時間を入力しなければいけません。あてのない旅なんだから何時に到着するかなんて知らねぇよ、と思いつつも、「必須」と書いてあるので仕方なしに時間を入力する。

さらに言えば、せっかく予約したのに万が一にでもたどり着けないとキャンセル料をとられてしまうから、当日の新幹線の席も押さえちゃう。

新幹線のチケットを買うと、現地への到着時間もだいたいわかってきます。そんで、この街だとやっぱここははずせないよね、で、ここの施設の営業がこの時間までで、で、チェックインがこの時間だからそれまでに夕飯をだいたいこのへんで食べ……、

あてだらけじゃないか!

くっそ~。宿を予約しただけなのに、ドミノ倒しのようにほかの予定まで決まってしまった。不条理だ。納得できない。

「あてのない旅」を邪魔するトラップはまだまだあって。

電車に乗るとき、「あてのない旅」なので途中で気になった駅に降りてみることもあります。

だから、料金が前払いの切符よりも、後払いのICカードの方が都合がよい。

そんで、途中で気になった田舎町の良さげな雰囲気あふれる駅でいきなり降りちゃう。これぞまさに、憧れのあてのない旅!

でも、「田舎町の良さげな駅」は、けっこうな確率で無人駅だったりします。

そして、無人駅はけっこうな確率で、ICカードで乗り降りする設備がない!

つまり、ICカードで乗っちゃうと、改札から出られない! おまけに次の電車も全然来ない。

無人駅だから、誰も対応してくれない!

……無人駅なんだから、勝手に出てもバレないバレない。どうせまたこの駅に戻って電車に乗るんだから、無銭乗車には……。

と思って天井を見上げると、ちゃっかり防犯カメラなんてものがあって、こっちを睨んでいるのです。その予算をさ……ICカードの設備の方に……。

こうして、「あてのない旅」は「出られない駅」、そして「電車来ない時間」へと様変わりするのでした。

街道をゆけ!

少し前から、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読みはじめてます。

きっかけは何げなく見てたNHK BSの番組。そういえば、「舟を編む」もBSだったなぁ。

で、その番組は女優さんが「街道をゆく」を片手に現地を旅する、というものでした。

今まで司馬遼太郎は長編小説のイメージが強くてちょっと手が出せなかったのだけど、紀行文なら読みやすかろう、と手に取ってみることに。

とはいえ、シリーズが始まったのは50年前。本屋さんに行ってもなかなか手に入らないだろうなぁ。ということで地元の図書館に通ってコツコツと読んでいました。

内容は、日本や海外のいろんな場所を司馬遼太郎が歴史ウンチクを交えながら旅するというもの。

いや、「ウンチクを交え」どころじゃないな。7割ウンチク3割現地、といった感じです。「早く現地へ飛べよ!」と思いながら読んでます。

それでも、歴史オタクの知識自慢みたいにならないのがさすが。思うに、司馬遼太郎はただ歴史の知識を並べてるんじゃなくて、その向こうに「人間とは何ぞや」「人の歴史とは何ぞや」という問いかけが見えるのですよ。

さて、そんな図書館通いをしていたある日。

神保町の古本まつりに出かけた時のこと。なんとその「街道をゆく」の50年前に出たハードカバーがずらりと並んでいたのです!

50年前の本なのに、すっごく状態がいい! それも一個200円!

でも、ぱっと見シリーズ十数冊以上が並んでいて、全部買うと本棚が大変なことに……。我が家はワンピースだけで100冊以上あるんや……。

というわけで、最初の1巻と2巻だけ買って帰りましたとさ。もしも神保町で「街道をゆく」の1巻と2巻だけない歯の抜けたコレクションを見かけることがあったら、抜き取った犯人は私です。

そのあとも、久々に椎名誠の紀行文を読んだり。

読みながら、こういう紀行文エッセイを書く人減ったなぁ、としみじみ。

旅に出て、その内容を発信する人はいっぱいいるんだろうけど、発信の仕方はブログだったり、SNSだったり、動画だったりで、一冊の本にまとめる人が昔より減った気がします。映える写真もいいけれど、文章だけでじっくり旅路を書くっていう作家さんで新しい人があんまり出てきてないんじゃないか。時代が求めてないのかしら。

あと、旅情ミステリーを見なくなったなぁ、と思うのです。浅見光彦シリーズの内田康夫とか、十津川警部シリーズの西村京太郎とか、ああいう旅情ミステリーの新しい作家さんっていうのをあまり聞かない。

ミステリー作家はいっぱいいるし、「このミステリーがすごい!」みたいなのもいっぱいあるけど、なんか奇をてらったようなものばっかで、旅と歴史を絡めたストレートな旅情ミステリーを見なくなったなぁ。「みちのく温泉旅殺人事件」とか、「熊野古道殺人事件」とか、「近江琵琶湖殺人事件」とか、みたいな、もうちょっとひねったらどうかねといった感じのタイトルで、「東京~京都~長崎を結ぶ、愛と殺意の逃避行! 八つ橋とカステラが解き明かす親子の愛!」たいなダサいサブタイトルがつく感じのやつ。

あー、でも、いま、乗り換えとかすぐ検索できちゃうから、西村京太郎の時刻表トリックみたいなのはもう使えないのかなぁ。

画像検索なんてしないぞ

少し前にBSでやってたテレビドラマ「舟を編む」にハマって、

ドラマの中で描かれた「辞書作りにかける情熱」にほだされて紙の辞書を本屋さんで買ってきて、

原作小説も買って読んで、

で、今、図書館で原作者の三浦しをんさんのエッセイ本を借りて読む、というところまで来ました。

それにしても、「舟を編む」もだいぶ肩ひじ張らずに読める小説だったけど、エッセイの方はなんというか……文体がぶっ飛んでるなぁ。小説家っていうよりも、芸人さんの文体なんですよ。ゲラゲラ笑いながら読みました。

読んでるうちに気になったことがあって。

三浦さんはエッセイの中でちょくちょく自分のことを、身もふたもない言い方をすれば「デブキャラ」扱いしてるんですね。

その頻度がけっこう多いので、こりゃ本当にふくよかな体形なのかな、と思ったり。

いや、ほんとはちょっとぽっちゃり、程度のものを話をおもしろくするために大げさに盛ってる可能性もあるな。

そのへんのことは、たぶん画像検索をすればすぐわかることなんですよ。

でも、そこはちょっと謎にしておきたいので、あえて調べない。

僕はエッセイとかラジオとか、「発信者にシークレットな部分がある媒体」が好きなのです。

you tubeみたいに、発信者がカメラの真正面に立って、何なら自分の部屋の中まで晒して、おまけに家族まで一緒に映って、「はいどーも!」って出てくるのは、どうも慣れない。部屋とか家族とか、その辺は別に「謎なのだ」でいいじゃない。

そうじゃなくて、エッセイみたいに「文章を通して」とか、ラジオみたいに「音だけ」とか、なにかしらの壁がある方が、なんか安心するんです。

そして、その容姿についてはちょっと謎にしておきたい。エッセイにしても、ラジオにしても、声優さんにしても、自分から画像検索をすることはまずないのです。

ただ、「徹底的に姿を隠すアーティスト」に関しては、さすがにちょっとやりすぎでは?と思うこともあります。そりゃ、日本の古来の神様のやり方だ。そこまでやっちゃうとちょっと人間味が……。

別に容姿非公開なわけじゃなくて、たぶんちょっと検索すればすぐわかるんだけど、ただ、僕が無理に検索しない、ってだけです。

今時、好きなラジオとかアニメとかのSNSをフォローしてれば、ラジオDJや声優さんの写真なんてタイムラインにゴロゴロ出てきますからね。それをいちいち「わー! 俺は絶対に見ないんだぁ! スワイプ! スワイプ!」とかそんなことしてないです。「積極的に調べることはしないけど、どこかでお顔を拝見することぐらいあるだろさ。人間だもの」ぐらいの軽い気持ちです。

なんなら、生で会えるイベントにだって行っちゃう。ちょうどこのまえ、ラジオのイベントのチケット申し込みをしたところです。「イベントなんて行かないぞ! 絶対に顔は見ないんだ!」とかそんなめんどくさいこと、しない。

ただ、「気になったから、即、検索!」はしない、それだけのことです。

とりあえず、当分は三浦しをんさんの検索はしないぞ。でも、なんかの本の著者近影とかでうっかり写真見ちゃったら、それはそれでしょうがないか。