「明日なんてどうでもいい」と援助交際で生計を立てる亜美と、「明日なんていらない」と自殺未遂を繰り返す少女・たまき。二人の家出少女がつぶれたキャバクラを不法占拠して共同生活を始めた。だが、たまきは人に話しかけられるのも、人に見られるのも大の苦手。そんなたまきに亜美はコミュニケーションをとろうとするが……。
「あしなれ」第2話、スタート!
登場人物はこちら! ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち
吸い込まれそうな曇り空。たまきは屋上からビルの下を覗き込んだ。長く息を吸うと、大きく吐いた。そんな呼吸を数回繰り返す。小柄な体に肩まで伸びた黒い髪。メガネをかけているが、レンズの左半分はほぼ前髪に隠れている。右手首には白い包帯が巻きつけられてある。蒸し暑いのにもかかわらず、長袖を着ている。
たまき、十五歳。
「たまき!」
たまきの背後で大声がする。たまきは振り返らなかった。声の主は二週間ほど一緒に暮らしている相手でよくわかっているし、そもそもこの屋上に出入りする人間は自分と彼女を置いてほかにいない。
「なにやってるの!」
長い金髪を後ろで束ねた薄着の少女。胸元は谷間を強調するようにあいている。ノースリーブの右の二の腕には青い蝶の入れ墨が見える。
亜美(あみ)、十八歳。
「大丈夫です」
たまきは亜美に聞こえるギリギリの音量で言った。
「今はそういう気分じゃないので」
たまきは振り返らずに、下を見たまま答えた。亜美はたまきに近づくと、包帯のまかれた方の手首を握った。一週間前、「城(キャッスル)」のトイレで切ったばかりの傷口がちくりと痛む。
亜美はたまきの手を握りながら、一週間前のことを思い出していた。あの日は雨が降っていて、今日のようにたまきは終始具合が悪そうだった。朝からほとんど何も食べず、ソファの上で横になっていたが、ふと立ち上がると、トイレへと入っていった。
一、二分後だっただろうか。トイレから出てきたとき、たまきの手首からは血が流れていた。
「またやっちゃった」
そういうと珍しく、彼女にしては本当に珍しく、にこっと笑ったのだった。
そんな前科があるから、亜美はたまきの腕を強く握った。
「大丈夫ですって。」
たまきは振り向きもせずに答えた。
「ちょっと気分悪いだけですから。乗り物酔いみたいなもんです」
そういうと、たまきは静かに目を閉じた。

その町はシンデレラ城のようだ、といったのは誰だっただろうか。
なるほど、遠くから見ると、東京の街並みの中に突如として現れる高層ビル群は、西洋の城郭を彷彿とさせる。その中は人々の夢、欲望、怨念が渦巻くまさに魔法の国、歓楽街が広がっている。
食欲、性欲、金銭欲。澄ました顔をしたオトナたちがそこでは獣と変わる。
いや、獣に戻ると言った方がいいのかもしれない。
そんな街にあるからなのか、その店は名前を「城(キャッスル)」という。
正確にはもう店ではない。一年ほど前に潰れ、店としての設備と機能を残したまま、店主はどこかへ消えた。
今、ここには二人の少女が住んでいる。たまきと亜美はともに家出中の身だ。ビルのオーナーはこのことを知らない。いわゆる、不法占拠だ。
部屋の内装はキャバクラそのものだが、亜美が援助交際で稼いだ金で、生活に必要なものを買い足してある。
テレビもその一つである。小さいが、ちゃんと映る。
亜美は今一人でバラエティ番組を見ていた。傍らではたまきがソファの上で丸くなっている。
「見ないの?」
亜美が画面を見たまま訪ねた。
「あまり好きじゃないんでいいです」
亜美はたまきの方を向いた。
「じゃああんたさ、何してれば楽しいの?」
この二週間、亜美はいろいろ試してきた。
「城」はビルの5階にあり、すぐ下はビデオ屋である。亜美はそこでDVDを数本借りてきた。どこで買ったのかDVDプレーヤーで再生させる。
何か楽しいことがあれば、死のうなんて気はなくなるだろう。という考えからだった。
最初に見せたのは恋愛もので、名作の呼び声高い。
その映画を見る間、たまきは一言もしゃべらなかった。
そして、映画が終わった後、ポツリと言った。
「彼氏作れる人っていいですよね」
その「いいですよね」は憧れではなく、諦めだった。
それだけ言うとたまきは、毛布を頭からかぶり、ソファの上に丸くなって寝てしまった。
それ以後、亜美はたまきに恋愛ものを見せなくなった。
ならばと借りてきたのがホラーものだった。殺された女の霊が襲い掛かるというものだ。
ホラーの大好きな亜美は、映画の途中にちらりとたまきを見た。口では「問題ないです」といっていたが、実際のところ、大丈夫なのだろうか。
たまきは泣いていた。最初、それが怖さのあまり泣きだしているのかと思った。
だが、違った。それにしては静かなのだ。泣き叫ぶのではなく、泣く。聞こえるのは悲鳴ではなく嗚咽だった。
「どしたの?」
亜美はたまきに尋ねた。
「この人、死んだのに楽になれずに現世をさまよい続けてる。自分が死んでもこうなのかなってふと考えたら、なんだか悲しくなってきて……」
そういうとたまきはメガネをはずし、ハンカチで目頭を押さえた。
それ以来、亜美はたまきにビデオを見せなくなった。
いろいろな場所にも連れ出そうとした。
「たまき、ゲーセン行かない?」
たまきはソファの上でいつものごとく寝っころがっていたが、上体だけ起こすと、
「雨が降ってるんでいいです」
「雨なんていいじゃん。すぐそこじゃん。」
亜美はそういったが、たまきはそのまま毛布を頭からかぶると、
「いいです」
とだけ言った。
この二週間、たまきの外出といえば、買い物と銭湯くらいである。それも、積極的に出かけているというよりは、「居候の身なのだから、買い物ぐらいしなくては」と考えているように見え、自ら積極的に出かけることはなかった。
時は戻って今、たまきはぼんやりとテレビの画面を見つめていた。
「楽しい、ですか……」
たまきはうつむいたまま答えた。
「あまり思ったことないですね」
「嘘?」
亜美は驚いたようにたまきを見た。
「え? 友達と話してるときとか」
「友達ですか」
たまきは顔を上げずに答えた。
「あんまりいたことないんで……。人に話しかけられるのが嫌いなんです」
「そう……」
それを言われると、亜美は何も言うことがない。
「……ウチは話しかけても大丈夫……?」
亜美は恐る恐る尋ねた。
「……あまり話しかけて欲しくないんですけど……」
たまきはそう前置きしつつ、
「一緒に住んでるのに話しかけるなっていうのもあれなんで……、ちょっとくらいなら……」
そしてたまきはボソッと付け足した。
「でも、亜美さんのそういうズカズカしてるところ、嫌いじゃないです」
「ウチってそんなにズカズカしてる?」
亜美の問いかけに、たまきは無言で頷いた。
「なんでそんなに、話しかけられるのが嫌いなの?」
たまきは口を閉じたまま、亜美をにらんだ。
「そういうのがズカズカしてるっていうんです」
亜美は非常口を兼ねたキッチンの窓のカーテンを開けた。今は、「城」の中に日差しが入り込むわずかな時間だ。日の光が当たったたまきは、ドラキュラよろしく毛布を頭からかぶる。
「たまき、メイクを教えてあげようか」
亜美が日の光を眩しそうに見ながら言った。
「結構です」
たまきは毛布の中から答えた。
「もう!」
亜美はたまきの毛布を掴むと、一気にはがした。
「そんなんだからね、自殺とかするんだよ! 少しはおしゃれしたら!」
亜美はソファの上でにらんでくるたまきを見下ろしながら言った。夏が近いというのに長袖にロングスカート、見せれるところは全部見せてる亜美とは(別にビキニを着ているわけではない)対照的だ。
「ほっといてください」
たまきは上体を起こしながら反論した。
亜美はたまきに近づくと、たまきの髪を真中から分けた。普段は前髪で隠すことが多いたまきの顔があらわになる。
「お、かわいいかわいい。ついでにメガネも取っちゃおうか。」
そういって亜美はたまきのメガネを顔から外した。しかし、ほんの少し放したところで、たまきがひったくるようにメガネを取り返すと、再びかけた。まるで自分にとってメガネはメガネとしての本来の役割以上に、防具だとでも言いたげなように。
そして、髪の毛をくしゃくしゃとやると、前髪を垂らした。メガネの左側のレンズの大半が髪の毛に隠れる。
「……私はこれでいいんです」
そういうとたまきはそっぽを向いた。
亜美はため息をついた。
亜美としてはたまきとコミュニケーションを取りたいし、たまきのことを知りたいのだが、たまきは一定の距離を取ろうとしている。

雨上がりの夏の日差しは、もう梅雨明けが近いことを知らせている。日の光は濡れたアスファルトで反射し、海原のようにきらめいている。
亜美はファーストフード店の紙袋を片手に、汗を拭きながら「城」のある太田ビルへと向かっていた。
太田ビルの一階、コンビニのわきに「城」へと続く階段がある。そこに、二人の男が椅子を並べて座っていた。彼らは、そばを通る男性を見つけるたびに、
「DVDどうっすか?」
と声をかけている。
「お疲れ」
亜美は二人に声をかけた。
「おう、お疲れ」
二人のうち、年上らしき方が答える。派手なシャツに金髪、髪型は坊主に近い。サングラスにひげ、ビビるなという方が無理な風貌だ。
ヒロキ。亜美の客の一人である。
「何、今日はミチも一緒?」
亜美はもう一人の方を見ながら言った。
「お疲れ様っす」
ミチと呼ばれた茶髪の少年が返事をした。高校生ぐらいだろうか。ワルっぽい恰好をしているが、顔にはまだあどけなさが残る。
「あんたまだ十六でしょ。いいの? こういうバイトやって?」
「お前に言われたくねぇよ、なぁ」
ヒロキが笑いながらミチを見た。
「呼び込みぐらいいいんじゃねぇの?」
「ふーん、ウチんとこに迷惑かけないでよね」
「それはそうと亜美、今晩もよろしく頼むぜ」
ヒロキがにやりと笑った。
亜美とヒロキ、ミチが談笑をしていると、階段を下りる音が聞こえてきた。
階段の入り口から黒い長袖の少女が現れた。たまきである。
「たまき、どこ行くの!」
亜美はたまきに声をかけた。
「買い物です」
たまきはそれだけ言うと、駅の方むかって歩いて行った。
「やれやれ、4日ぶりの外出か」
亜美がたまきを見送りながら言った。
「センパイ、今のがこの前言ってた子っすか」
「ああ」
ヒロキがミチの質問に答えた。
「へぇ、かわいいっすね。ああいうの、タイプっすよ」
「なにミチ、あんた、ああいうのタイプなの?」
亜美がミチの方を向いて言った。
「ああいう地味でおとなしそうな子ってタイプっすよ」
「ふーん」
亜美が何かを思いついた顔をした。
「じゃあさ、あんたに頼みがあるんだけどさ……」

東京では欲しいものは何でもそろうと誰かが言っていたが、たまきはそれはウソだと思う。
確かに、流行りの洋服や、知る人ぞ知るインディーズバンドのCDとか、東京の方がよその町より手に入りやすいものも多いだろう。
だが、野菜や本など、日用品は東京の都心では手に入りにくい。
文房具などもその一つだ。
たまきは、先週リストカットした時に治療のために会った、元医師の医療ライター京野(きょうの)舞(まい)からもらった、文具屋のチラシを持っていた。これが手に入らなかったら、どこで買い物をすればいいかもわからなかったに違いない。
たまきは鉛筆と画用紙だけ買って店を出た。雨上がりの東京の町には、いろとりどりの服を着た人が歩いている。
この人たちはきっと自分より楽しく生きているのだろう。普通に学校に通い、普通に仕事し、普通に恋をして、友達に囲まれ……、そう考えると吐き気がしてうずくまりたくなる。呼吸は、毒ガスでも吸ってるんじゃないかってぐらい苦しく、なんだかふらふらする。
早く「城」に帰ろう。そして横になろう。そうすれば、楽になれる。
本当につらい時、涙なんて出ない。あるのは吐き気である。
「城」へ戻ってからというもの、たまきはずっと横になっていた。
別に、横になったからといって体調が良くなるわけではない。だが、これ以上気分が悪くなっても大丈夫という点では、街中を歩いているよりは楽だ。いくらでも鬱になれる。どんなに鬱になっても、寝床で寝ていれば、これ以上歩いたりする必要もない。
今や、「城」はたまきの小さな世界、「城」の中がたまきのすべてだった。
亜美という同居人がいるが、亜美と共に暮らすのは、家族と暮していた時よりも気が楽だった。亜美はズカズカとたまきに関わってくる。だが。今までの二週間で、亜美に傷つけられたことはなかった。
家族は違った。父も母も姉も、たまきに関心を示さなかった。そのくせ、たまきの心を傷つける。
亜美との生活はそんなころと比べると楽だった。だが、亜美と一緒にいるのが楽なだけで、極度の人見知りが治ったわけではない。
だから、亜美の客に「顔見せ」をするのが非常にいやだった。
この「顔見せ」がたまきの唯一の収入のための手段である。亜美の客が来ているとき、顔を見せる。こんにちわとあいさつする。ただそれだけである。
亜美曰く、たまきが顔見せをするようになってから、仕事の量が増えたそうだ。客の数が増えたわけではなく、同じ客が来る回数が増えたらしい。
「ウチの客ってさ、ウチみたいなタイプの女としか付き合わないんだよ。だからさ、たまきみたいに地味でおとなしくて、オトコとあんま話したことないって子がウケるんだよ」
亜美はそう言っていた。
「いいじゃん、顔見せるだけでお金になるんだから。アイドルみたいだし、楽でいいじゃん」
などと言って亜美は笑っていたが、楽どころか、苦痛以外の何物でもない。たまきは、「人に見られる」というのが大嫌いなのだ。
だが、居候になっている以上、苦痛でもやらねばならない。
現在、亜美は一晩二万円で客を取っているらしい。そのうちの八千円が亜美の取り分、四千円がたまきの小遣い、残りの八千円が食費や、二人で使うお金だ。だが、亜美の八千円なんて、お酒や洋服や美容院などで瞬く間に消えていく。
客は週に一、二回やってくる。一人だけの日もあるし、五、六人を相手にしていた日もあった。不法占拠のため家賃はかからず、光熱費や水道代も払っていないので(ただ、電気や水道が使えるということを考えると、誰かが代わりに払っているのだろうけど、その「誰か」が誰なのかは知らない。ビルのオーナーが気付かないうちに、オーナーの口座から引き落とされているという説が濃厚である。)何とかやっていける。そもそも、たまきは小食で、一日二食(朝は食べない)の上、一回の量も少ないので、かなり安上がりで済む。
午後十時。先ほど「顔見せ」に行ったところ、亜美は四、五人の男性とお酒を飲んでいた。「顔見せ」も果たしたし、そろそろ寝ようとたまきはソファの上に横になった。
たまきがいる部屋は、亜美が使っている店のスペースとは、ドアを隔てて奥にある。「城」がキャバクラだった時、キャバ嬢たちの控室として使われていたらしい。今は亜美とたまきの衣裳部屋として使われている。亜美の色とりどりの服たちと、たまきの数少ない、地味な服。
部屋の真ん中には白いソファが置かれている。四人ぐらい座れそうだ。たまきの小柄な体なら、十分横になれる。
たまきは真っ暗な部屋でソファーの前のテーブルにメガネを置くと、横になった。少しだけ気分が楽になる。
横になって2,3分ほどだろうか。まだ、寝付くには至らず、たまきはただただ無心で横になっていた。
ドアの開く音がし、電気がついた。亜美が入ってきたのだろうか。
「あー、いたいた」
全く予期していなかった男性の声に、たまきは目を開いた。たまきには似合わない素早い動きで起き上がると、メガネをかけ、ドアの方を見た。
ドアの前には、二人立っていた。先ほど、亜美と一緒にいた少年、その奥には亜美がいた。
亜美は男より一歩前に出ると、口を開いた。
「たまき、こいつ、ミチさ、今日、ここで寝るから」
「え?」
亜美はそういうと、今度はミチの方を向いた。
「万が一たまきを泣かせるようなことがあったら、殺すからね」
「やですねぇ。泣かしたりしませんよー」
そういうと亜美は、部屋を出て行ってしまった。
なんだ、このエロ漫画みたいな展開。
まあ、あまり深く考えない亜美のことである。おそらく、たまきも彼氏ができれば自殺など辞めるだろうと考え、しかし、ほっといたら絶対彼氏なんかできないと判断し、このような強引な行動に出たのだろう。
安直だ。安直すぎる。女と男を一晩ほっといたら、恋愛感情が生まれるなんて、いくらなんでも安直すぎる。
しかも、よりによってチャラい。
たまきはミチの方をちらりと見た。ニヤニヤ笑っている。対して楽しいこともないのに、笑っている人がたまきは嫌いだ。年は同じくらいだろうか。茶髪にピアス。色黒。黒地に、でかでかと銀のドクロが描かれたTシャツを着ている。見ようによってはかっこいいのかもしれないが、自分がじろじろ見られるのが嫌いなたまきは、人の顔を長いこと見ることもないので、正直、どうでもいい。ただただ、チャラそうだという印象だけが残る。
ムリムリムリムリムリムリムリムリ。
ミチはたまきの隣に座った。小さなソファなので、密着度が高い。
「たまきちゃんか。よろしく」
男にちゃん付されると、背中がぞわっとなる。
「俺、バンドやってるんだ」
ミチは、聞いてもいないのに勝手にしゃべりだした。
「今度ライブ来てよ」
バンドのライブなんて、行ったことがない。人ごみも、ロックンロールも大嫌いだ。
今すぐこの部屋を飛び出したいたまきだったが、隣の部屋では亜美が「仕事」を始めているかもしれない。
「たまきちゃんてさ、彼氏いるの?」
ミチのその言葉に、たまきの鼓動がほんの一瞬止まった。
もし彼氏なんて人がいたら、こんな私にならなかったのかな。いや、恋人なんてたいそうなものでなくていい。友達、いや、もっと近い人たち。
家族。そう、家族の一人でも、父でも母でも姉でも、誰か一人でも、たまきのことを好きだと言ってくれたら、こんな自分にならなかったのではないか。
ふと、涙が出てきた。本当につらい時、やっぱり涙が出てくるようだ。
焦ったのはミチの方である。たまきがなんか知らないけど泣いている。このままでは亜美に殺される。
「たまきちゃん、大丈夫?」
声をかけてみるも、涙は止まらない。
ただただ泣き続けるたまきと、ただただオロオロするミチという、密室の中はおかしな構図になった。
目を覚ますともうミチはいなかった。泣いたところまでは覚えているのだが、そこから先が覚えてない。すぐに寝てしまったようだ。
たまきはドアを開け、接客スペースに入った。亜美がタオルをかぶって、ソファの上で寝ている。たまきは、机の上に置いてあった、昨日買った画用紙と鉛筆を取った。
「ん~。たまき、どっか行くの?」
亜美が毛布の中から顔をのぞかせた。
「……公園行ってきます」
「公園ってどこの?」
「……都立公園……」
「都立公園! 遠いよ? 十五分くらい歩くよ? 大通り渡るよ? 大丈夫? 飛び込まない?」
「今日は大丈夫です」
そういうとたまきは「城」を出た。

都立公園は緑にあふれていた、都会のオアシスである。様々な人が思い思いの時間を過ごしている。
昼寝。ジョギング。お絵かき。ホームレス。その中でたまきは絵をかいていた。
別に好きで書いているわけではないし、とりわけ上手いとも思っていない。
ただ、絵を描いているときは、目の前のことに集中できる。たまきは鉛筆で風景を描いているのだが、その時だけは、余計なことを考えず、目の前のことに集中できるのだ。
左手に持った鉛筆を走らせ、三十分ほどで絵を書き上げた。書き上げてしまったのが何か残念だ。また、見たくもない現実と、考えたくもない明日に目を向けなければならない。
たまきは立ち上がると、公園の中を歩き始めた。
公園の中には、たまきと同様に絵を描いている人がいた。小さなスケッチブックに鉛筆で描くたまきと違い、その人は大きなカンバスに、水彩絵の具で描いていた。
とてもきれいな絵だった。同じ風景を描いているのに、どうしてこうも違うんだろう。
たまきは自分の絵を見た。木々の間から見える高層ビルを描いたのだが、なんだかおとぎ話に出てくる魔女の城みたいにおどろおどろしい。見たままに描いているはずなのに不思議だ。いや、そういう風に見えているのか。
たまきは広場に出た。広場は周りとは低いところにあり、四角い。一方は壁。反対側は大通りに面していている。残りの二面には階段があった。
広場へと続く階段を下りていくと、歌声が聞こえた。声のする方を見ると、階段の真ん中あたりで、男性がギターを弾きながら歌っていた。たまきに向けて背を向けて歌っている。
たまきはその歌声の方へ近づいて行った。高めのキーである。芯がしっかりしているというのだろうか。力強い歌声だ。上手い。
歌詞も明るく、力強いものだった。
――僕の歩く今が未来になる
――夢もいつか「今」に変わる
――明日を変えなければいけないんだ
――未来が僕を待っている
どこかで聞いたようなありきたりの歌詞だが、彼の歌声にはどこか希望を感じた。
歌を聴いて、いい歌だと思ったのは久しぶりだった。たまきは階段を下り、彼の横、少し離れたところに立った。
腰を下ろし、彼の顔を見た。
短い茶髪にピアス。どこかあどけなさの残る顔。
ミチだった。昨夜、至近距離で見たのだ。間違いない。
ギターをはじく手が止まり、弦の余韻を指で止めると、ミチは喋り出した。
「ありがとうございました。今の曲は『未来』というタイトルです。」
そういうと、ミチは弦をいじり、チューニングを始めた。
「……こんにちわ」
たまきにしては珍しく、本当に珍しく、声をかけた。
ミチがたまきの方を向いた。
「……たまきちゃん?」
ミチは立ち上がると、たまきの方に歩み寄った。
「昨日は、ほんと、ごめんね」
「……いえ、私の方こそ、失礼しました」
たまきはうつむきながら答えた。ミチも視線を落とす。
ミチはたまきのスケッチブックに目が留まった。
「絵、描いてたんだ。見せて。」
そういうと、ミチはたまきが右手に持っていたスケッチブックを取った。と、同時に、たまきの右手の包帯に目が言った。たまきはあわてて右手を体の後ろに回すと、ミチをにらんだ。
「返してください」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。見せてよ」
そういうと、ミチはスケッチブックを開いた。
死ぬほど恥ずかしい。早めに死んどけばよかった。
帰るなりたまきは横になり目を閉じ、気が付いたら夕方だった。
公園でスケッチブックをひったくったその足でたまきは「城」へと戻った。途中二、三回、赤信号を無視して道路に飛び出してしまおうかと考えたが、何とか思いとどまって帰ってきた。
一方、亜美は椅子に深く腰掛け、対に置いてある椅子の上に足を投げ出し、携帯電話をいじっていた。やがて、携帯電話を閉じると、死んだように横になっているたまきの方を向いた。
「たまき、今夜、クラブに行くから」
「……行ってらっしゃい……」
「あんたも行くんだよ」
亜美の言葉に、たまきは大して驚かなかった。どうせまた、たまきに楽しいことを教えて、自殺をやめさせようという魂胆だろう。
「……行きません……」
たまきは、亜美に背を向けたまま答えた。
「……行かないなら、ご飯抜きだよ!」
「……構いません……」
餓死か。苦しいだろうけど、死ねるのならば、ちょうどいい。
「もう、そんなこと言わないで、行こうよ! 下に車来てるから!」
亜美は、たまきのかぶっているタオルを引きはがすと、たまきを立たせ、腕を引っ張って、外へ連れ出そうとした。たまきは、されるがままに動く。行きたくはないが、抵抗するのもめんどくさい。

たまきは生まれて初めてクラブに入った。そして、死ぬ前に来た最後のクラブなんだろうなぁと、次の自殺の予定もまだ立ててないのにぼんやりと考える。
DJブースにはDJが立っていて、そこからドムドムッてビートが流れ出す。その音に合わせて多くの人たちが躍り出す。決まった踊りはなく、思い思いの踊りを踊っている。ブースの反対側はちょっとしたバーになっていて、女の子が数人、椅子に腰かけながらお酒を飲んでいる。未成年を簡単に入れてしまうあたり、たぶん、まともなクラブじゃない。闇営業というやつだろうか。
なんだか子供のころ行った盆踊りの会場に似ている。やぐらがあって、その上には太鼓がある。そこから繰り出されるリズムや、流れる音楽に合わせてみんな踊っている。会場には屋台もある。
そういえば、あの祭り、苦手だったな。浴衣を着せられ、お姉ちゃんといったけど、苦手だった。
亜美は、フロアの真ん中で、知らない男性と一緒に踊っている。亜美曰く、このクラブの場は、楽しいのはもちろん、客の新規開拓の場でもあるらしい。
亜美と一緒に来たヒロキは、バーで酒を飲みながら、やはり、知り合ったばかりの人とトークで盛り上がっている。
どうして、知らない人とあんなに盛り上がれるんだろう。どうして、知らない人の間で踊れるんだろう。
たまきは、集団から少し離れたところからそれを見ていた。一度、亜美に手を引っ張られ、フロアには出たが、踊りのステップもわからず、本日二度目の外出で、かなり体力を消費しているのもあり、2,3分でフロアから出ると、バーでジュースを頼み、集団から離れた。今はジュースも飲み干し、本当にやることがない。
トイレ行って休もう。そう思っていると、タイミングよく、亜美が男とハイタッチを交わして戻ってきた。
「たまき、楽しんでる? そんなところに突っ立ってないで、こっち来たらいいじゃん?」
「……結構です……」
たまきはうつむいたまま答えた。
「……トイレ行ってきます……」
そういうと、たまきは亜美に背を向けて歩き出した。その後ろを、亜美がついてくる。
「あたしも行くよ」
「……場所わかってるんで、大丈夫です」
たまきは、トイレの場所を示す看板を指しながら言った。
「あんたはこのクラブのトイレをなめてる!」
そういうと、亜美はたまきの横に並んだ。
「このクラブはね、ただのクラブじゃないんだよ。このあたりのヤバいやつらのたまり場なんだから!」
「……何でそんなところに連れてきたんですか? どうせ連れてこられるなら、安全でまともなクラブに連れてって欲しかった……」
「ばか! 安全でまともなクラブに十五才連れていけるわけないだろ?」
だれもクラブに連れてってくれなんて頼んでない。
「ここはね、よそのまともなクラブから締め出されたようなやつしか来ないんだから」
亜美はそういうと自嘲的に笑った。
「それに、アブナイ方が楽しいじゃん」
なに言ってるんだろう、この人。
「でね、特に危ないのがここのトイレ。前にトイレ行った時なんか、トイレでセックスしてるやつらいたんだからね。もうね、よそのクラブじゃありえないぜ」
亜美の言葉に、たまきは驚いたように目を見開いて尋ねた。
「それって、どっちのトイレですか?」
「女子トイレに決まってるだろ! 何でウチが男子トイレ入んだよ!」
「でも、セックスってことは、男性が女子トイレにいたってことに……」
「いいんだよ、細かいことは」
そんな話をしながら、二人はトイレの方へ歩いて行った。
「それに、あんたまた自殺するかもしれないし」
亜美はたまきの目を見ずに言った。
「……今日はカッター持ってないので大丈夫です……」
カッターナイフはたまきのお守りだ。これさえあればいつでもこの世からエスケイプできる。基本肌身離さず持ち歩いているのだが、刃物の持ち込みがNGな場所へ行く時は当然持っていかないし、今日のように、急な外出の時も持っていない。
「わかんないよ。蛇口の水がぶ飲みして死ぬかも」
「……そんなテンションの高い死にかたしません……」
「そもそもね、あんたがトイレに行くって、ウチの中ではトラウマなんだからね。ウチが関わった2回とも、トイレで切ってるんだもん。もう、トイレ行くたびに、もしかしたらあんたが倒れてるんじゃないかって……」
そういいながら、亜美はたまきに先立ちトイレのドアを開けた。
ドアが奥に開かれるとともに、何かが二人の足元に倒れこんできた。
亜美は最初、それが骸骨だと思った。
だが、よく見ると違った。形状は骨に近かったが、薄い皮膚を纏い、欠陥が浮き出ている。人の腕のようだ。腕の付け根には当然体があり、それは布に覆われている。おそらく、服であろう。その服の上には、茶色く長い毛髪がかぶさっている。
毛髪は頭から伸びている。頭は顔を下にしており、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返していた。
それは、一人の少女だった。
続く
次回 第3話「病院のち料理」
倒れていた少女を元医師の舞とともに病院へ連れて行った亜美とたまき。少女は意外な病気に侵されていた。そして、二人の生活に大きな変化が訪れる。
「順調だけど、順調だから、明日が怖い。 」