明日がどうでもいい亜美と、明日がいらないたまきの住む「城」に、新たな仲間、明日が怖い志保が加わった。ある日、ミチに彼のバンドのライブに誘われたたまきは、断りきれずにライブに行くと約束してしまう。しかも、その姿を亜美と志保に見られてあらぬ誤解をされてしまう。しかし、ライブ当日、穏やかそうに見えた3人の暮らしにある事件が起こる。正確には、ある事件を起こしてしまう……。
「あしなれ」第4話、スタート!
第3話 病院のち料理
登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち
夏の朝。ブラインド越しに日差しが注ぎ込む。「城(キャッスル)」の中には志保が一人。テレビで朝のニュースを見ている。今日のトップニュースは国境の島に、外国の船が近づいたというものである。
ふと、悪寒が走る。何か明るい話題はないかとチャンネルを変える。
志保が「城」で暮らし始めて二週間。何とか、クリーンでやってこれた。
やればできる。きっと大丈夫。
「たっだいまー」
勢いよくドアが開き、日の明かりとともに亜美が帰ってきた。
「いやぁ、朝からあっついねぇ」
「ほんとだねぇ」
志保がふふふと笑った。
「城」の同居人に志保が増えてから、亜美は「仕事」を外で行うようになった。場所はホテルだったり、相手の家だったり。たまき曰く、ようやく亜美も「配慮」という言葉を覚えたらしい。
「あれ?」
亜美は室内を見渡した。いつもなら必ずいる、たまきがいない。
「たまきは?」
「なんかね、公園に行くって言ってたよ」
志保が、テレビを見ながら答える。
亜美は、鞄を床に放り投げると、ソファに座り、テーブルの上に足を投げ出した。
「あいつ、たまに公園に行くけど、一体、何やってるんだ?」
「さあ」
志保が答える。
「ちょっと、見当もつかないなぁ」

その公園に行く道のりは、たまきにとってはちょっとした旅行だ。
まず、たまきにしてみれば三途の川に等しい、黒いアスファルトの大通りを渡り、歓楽街を出なければならない。
歓楽街を抜けると、線路と電気屋の間の大きな道を歩く。しばらくすると、人でごった返すスクランブル交差点につく。
ここで、線路の反対側へ行ける。
線路をくぐったら今度は左へ。たまきの大嫌いな人ごみの中を歩き、駅についたら、吐き気を抑えながら駅の構内を通り地下へ。そして、駅に背を向けて地下道を歩きだす。
この辺でそろそろ疲れてくる。普段歩かないたまきが歩いているという疲れもあるし、大嫌いな人ごみ、それも、東京随一の人ごみの中を歩いてきた疲れもある。
すれ違う人がほんの一瞬、自分に目を向ける。この、ほんの一瞬が大嫌いだ。
疲れてきたたまきにとって、地下道の動く歩道はありがたい。もたれかかるように乗る。
地下道を抜け、道路を歩道橋で渡ると、緑の木々が見える。公園だ。
公園の林の中を歩くと、広場へとつながる階段がある。
聞こえる音は、広場にある人工の滝の音、やかましいぐらいのセミの鳴き声、そして、若い男の歌声だった。
男は、夏にもかかわらず、日差しの中で歌っていた。午前中とはいえ、気温は二十五度を越し、男も汗を流している。
男は、階段に腰を下ろして、アコースティックギターを腿に乗せて歌っていた。
ハイトーンで、芯のある声。
その男はたまきの顔見知りだった。
しかし、たまきは彼のことをあまり知らない。
まず、名前も知らない。「ミチ」と呼ばれてはいるが、本当の名前は知らない。
年はたまきの一つ上の十六。仕事は知らない。学生ではないらしい。また、プロのミュージシャンを目指しているらしく、ほぼ毎日、ここで歌っているらしい。
たまきは、ミチの座っている段の日陰に腰を下ろした。
肩からかけていた鞄を降ろすと、その中からスケッチブックとペンケースを取り出した。
斜め前にある高層ビルを描き始める。そのため、体の向きが若干ミチの方に動く。
左手に握った黒い鉛筆で一心不乱に、風景の模写をするたまき。その左隣でギターをかき鳴らして歌うミチ。
――さあ、歩いて行こう――
――光あふれる明日へ――
――さあ、手を伸ばそう――
――光あふれる未来へ――
たまきは自分の絵が嫌いだった。
黒い鉛筆ですべてを書くのだが、どうも、暗いのだ。
だったら、色鉛筆を使えばいいじゃないかという気がするが、色鉛筆で書いてもやっぱり暗いし、色を使うのはあまり気分が乗らない。
だから、たまきはミチの歌が好きだった。
はっきり言ってしまえば、どこかで聞いたような歌詞である。目新しいメッセージなんてものはなく、きれいごとと言ってしまえばそれまで。
それでも、たまきはミチの歌が好きだった。彼の歌を聞いていれば、自分の絵も少しは明るくなるんじゃないか、そんな気がした。
断っておくが、たまきは歌っているミチ本人は嫌いである。
ちゃらくてなれなれしいのも嫌なのだが、目つきもいやらしい。確実に、たまきに対してやらしいことを考えている。そういう経験のないたまきでも、本能的に感じ取れる。むしろ、たまきは他人からの目線に敏感だと言えるだろう。
だから、歌声に耳を傾け、体の向きも少しミチに傾けていても、視線を送ることは決してなかった。
公園の方に視線を送ると、日曜日だからか、いろんな人がいる。道路に面した日向の方では、スケボーに興じる若者たち。一方、滝のそばの日陰には、ホームレスと思われるおじさんたちが座っている。彼らに何か、プリントを配っている人はボランティアだろうか。
ビル街の中で緑に囲まれた、都会の喧騒を離れたと表現される公園だが、こう見ると、光と影の都会の象徴の気がした。
今の二人、たまきとミチもそうである。日向で汗をかきながら、希望に満ちた歌を歌うミチ。日陰で鉛筆で、童話の魔女の森みたいな絵を描くたまき。
「ありがとうございました」
ミチが一曲歌い終え、ギターの余韻を右手で止めると、宙を見ながら言った。
「今の、だれに言ったんですか」
たまきが、ミチの方を見ないで尋ねた。
「世の中」
聞かなきゃよかった、とたまきは思った。
「そこ、暑くないですか」
午前中とはいえすでに気温はかなり上がっている。ミチは、ずっと日向で歌っている。
「暑いね」
ミチも、たまきの方を向かずに答える。傍らに置いてあった、水の入ったペットボトルに口をつける。
「ぬるっ!」
当然である。ずっと日向に置いてあったのだから。
「暑いなら、日陰に入ればいいじゃないですか」
たまきはミチの方を見もしない。
「いや、こういうのは見た目も大事なんだよ。太陽の光に照らされてこそ、ロックンロールなんだよ」
言ってる意味が分からない。たまきのイメージでは、ロックと太陽は程遠いものだったし、そもそも、さっきの歌はロックではなく、フォークに近いものではないだろうか。
「今度、ライブがあるんだよ」
「そうですか」
「たまきちゃんもきなよ」
たまきは男にちゃん付されるたびに、背中がぞわっとなる。
しばらく沈黙が二人を包んだ。
「……わかりました。いきます」
「え?」
ミチが初めてたまきの顔を見た。たまきもミチの顔を見る。
「どうしたの突然。今まで、頑なに断り続けてきたのに」
「いい加減、断るのもめんどくさくなったんで。一回くらいなら」
たまきはそういうと、顔の向きを被写体のビルへと戻した。
「さてと」
ミチは立ち上がった。
「バイトの面接に行ってくるか」
そういうと、ミチはたまきの方を向いた。
「何のバイトか聞きたい?」
「どうでもいいです」
「受かったら教えるよ。ぜってーびっくりするから」
なんだかかみ合わない会話を残し、ミチは公園を去った。
一人残ったたまきは、つまらなそうに作業を進める。
びっくりなんてここ何年もしていない。むしろ、トイレでリストカットして、自分が他者をびっくりさせている側だ。
確かに、クラブのトイレで志保が倒れているのを見たときはパニックになった。しかし、それは何をしていいのかわからなかったからで、びっくりとは少し違う。
思うに、びっくりするにはある程度高いテンションが必要だと思うのだ。
そんなことを考えながら、作業を進めていたたまきの肩を誰かがたたいた。
同時にたまきの傍らにしゃがみ込む、金色の長い髪。
ノースリブの腕に見える、青い蝶の入れ墨。
聞きなじんだ声。
「何々、二人いい感じじゃん」
たまきの視界に亜美のにんまり顔が飛び込んできた。
たまきにしては珍しく、本当に珍しく、思わず「キャー!」と仰天の叫び声をあげた。

「あっついねー」
亜美が手で顔を仰ぐ。
「今日、最高気温、三十二度だからねぇ」
志保が太陽の方に目をやりつつ、タオルで汗を拭きながら、蝉の歌声をかき消すように答える。三人は階段を降り、広場に立っている。スケボーを楽しむ若者も、ホームレスの皆さんもみな男性。女性は三人と、ホームレス集団の中にいる、ボランティアと思われる女性だけだ。
「そうじゃなくて、たまきとミチがさ……」
「あ、そうだね。たしかに熱かったねぇ」
志保が、町で見つけた野良猫をなでるような優しい目つきでたまきの方を見る。
「だから、二人が思ってるような関係じゃないですから!」
たまきは二人に背を向けて立っている。背を向けている理由は一つ、赤くなった顔を二人に見られないためだ。胸の前ではしっかりスケッチブックをホールドしている。ただでさえ恥ずかしいのに、スケッチを見られたら恥の上塗りだ。
「ほう、ウチらが思ってる関係じゃないと」
「もっと親密な関係ってこと?」
「オトコとオンナの一線を越えちゃったわけだな。フムフム」
この二人は、何が何でもたまきとミチを「そういう関係」にするつもりだ。
「そもそも、二人とも、何でここにいるんですか」
「いやね、たまきがよく公園に行くっていうからね、何してるのかなって見に来たらねぇ」
「まさか密会してるなんてねぇ。いやぁ、たまきちゃん、若いなぁ。一歳しか違わないけど、若い!」
「だから、密会じゃないですって」
たまきは二人に背を向けたまま、日陰でうつむいて答える。
「階段でねぇ」
「二人より添って、ねぇ」
「寄り添ってないです! かなり間隔開けて座ってましたから!」
「でも、同じ段で、ねぇ」
「ねぇ」
「そういう関係じゃないなら、違う段に座ればいいじゃない、ねぇ」
「ねぇ」
たまきは痛いところを突かれた。たまきが公園に来た時、すでに、ミチは階段に腰掛け歌っていた。たまきは、わざわざ同じ段に座って絵を描き始めた。
理由は、ミチの歌を聴きたかったからだ。ミチのバカみたいに明るい歌を聴きながら書けば、少しは自分の絵も明るくなると思ったのだ。
だから、「なぜ隣にいた」と聞かれれば、「ミチの歌が好きだから」となる。
その言葉をたまきはそのまま言おうとした。だが、もしそんなことを言ったらどうなるだろうか。
「ミチの歌が好きなんだってさ」
「え? それって、ミチ君のことが好きなんじゃないの?」
とちゃかされるに決まってる。
やはり「好き」というワードは威力が強すぎる。別の言葉に言い換える必要がある。
ならば、「嫌いじゃない」が妥当だろう。
「ミチの歌は嫌いじゃない」。まだ、ちょっと威力が強い気がする。セリフをもう一つ付け足して弱める必要がある。
やはり、ミチ本人のことは嫌いであるということは、はっきり伝えた方がいいだろう。
思考を巡らすこと約1秒。たまきは口を開いた。
「あの人は嫌いだけど、あの人の歌は嫌いじゃないんで」
たまきは二人の反応を見るために、ちらりと後ろを振り返った。
そこには、無防備なウサギを見つけたライオンのようににやにや笑う亜美と志保がいた。無防備なウサギを見つけたライオンがどんな表情をするかなど知らないのだが。
「あの人のことは嫌いなんだって」
「でも、あの人の歌は嫌いじゃないんだって」
「あれだよね。第一印象は最悪だけど、なんか惹かれるところがあって気になっちゃうってパターンだよね。うわぁ、マンガみたい」
「あたしもそういう恋愛したいなぁ。いやぁ、たまきちゃん、若い! 一つしか違わないけど若いなぁ」
どうしてこうなるんだろう。穴があったら飛び降りて、埋めてもらって、死んでしまいたい。
暑いので、自販機でコーラを三本買った。
「あれが都庁かぁ。東京にずっと住んでるけど、生で見たのは初めて」
志保が、公園と道路を挟んで反対側にそびえたつビルを見上げながら言った。
「あれだろ、竹島買ったじいさんが住んでるビルだろ」
「うーん、亜美ちゃん、どこから訂正すればいいのかな?」
志保が困ったように微笑む。
「まず、竹島じゃなくて尖閣諸島ね。それを買うって言い出したのは知事だけど、実際買ったのは国の政府。で、ここは職場だけど住んでるわけじゃないし。そもそも、前の知事だし。」
二人からちょっと離れたところでコーラを飲んでいたたまきは、ある事実に気付いた。
ミチのライブの時間を聞いていない。
行くと約束してしまった以上、それを反故にはしたくない。
つまり、たまきはもう一度ミチにあって、ライブの日時、場所を聞かなければならない。
思いつく唯一の方法は、またこの公園に来ることだ。たしか、ほぼ毎日この公園にいると言っていた。
しかし、もし今後「公園に出かける」などと言おうものなら、あの二人にあらぬ想像をされることだろう。かといって、嘘をついて外に出たら、万が一ばれた時、いよいよもって逢引き扱いされるであろう。
そうだ。ヒロキならばミチの連絡先を知っているかもしれない。ならばヒロキを通して連絡を取り、こっちで場所と時間を指定して会えばいい。なんなら、ヒロキの携帯電話を借りて、直接電話で話してもいい。

「城」まで歩いて帰った。時間はちょうどお昼頃だ。
「城」は雑居ビルの5階にある、キャバクラだった部屋だ。1階はコンビニ。2階はラーメン屋。3階は雀荘で、4階はビデオ店である。
お昼ご飯を1階のコンビニで買うことにした。
空から日差しが降り注ぎ、アスファルトから陽炎が立ち上る中、「城」の入っている太田ビルの前についた。
ビルの前には、ビールケースに腰掛けた男が一人いる。
強面のチャラ男。彼の名はヒロキ。亜美の客であり、ミチの「センパイ」である。何の先輩なのかは知らない。
「おっす。ヒロキ、お疲れ!」
亜美がヒロキに声をかけた。ヒロキは、4階の呼び込みをしているため、一日中ここに座っている。
「熱くないんですか?」
志保が尋ねた。
「大丈夫。水、飲んでるから」
ヒロキが答える。
亜美と志保は、コンビニへ入っていった。
たまきは階段を昇らず、ヒロキの前で立ち止まった。
ヒロキなら、ミチの連絡先を知っているはずだ。
ヒロキがたまきの方を見た。
「ん? たまきちゃん、どうした?」
ヒロキとたまきが一瞬目が合った。
たまきはふいっと目をそらした。
ヒロキとは全く知らないわけではない。見かけほど怖い人間ではないこともわかってきた。
それでも、ヒロキと目を合わせるのは怖かった。ヒロキに限らず、他人と目を合わせるのが怖い。
亜美とも志保とも、舞ともミチとも、いまだに目を合わせられない。
もっとさかのぼれば、学校でも誰とも目を合わせずに過ごしていたと思う。両親や姉とも目線を合わせることはなかった。
一体いつからだろう。いつから、人と目を合わせるのが怖くなったんだろう。
たまきは人に見られるのが嫌いだ。顔を見られまいと髪で覆い、素肌を見られまいと袖で隠す。
中でも一番見られたくないのが目なのかもしれない。目を見られると、自分の内面を見られているような気がする。
もっとも、内面を見透かされたからと言って、何が困るというのだろう。内面の何を見られるのをこんなにも恐れているのだろう。
それでも本能的に怖さをぬぐえなかったたまきは、何も言わずにヒロキの前を去ってコンビニへ入っていった。

午後一時、「城」の中は冷房が効いていて快適だ。今日はお風呂に行くまでもうここから出ない、たまきは決めた。それにしても、この部屋の電気代はいったい誰が払っているんだろう。
たまきはソファの上に横になってタオルケットをかけていた。メガネはかけたままだ。
たまきは一日のほとんどをこうして横になって過ごしている。別に体調が悪いわけではない。問題があるのはフィジカルではなくメンタルだ。メンタルの不調がフィジカルにも不調をきたし、気分が悪い。なんだか、乗り物酔いしているような感覚。乗り物ならば降りればいいのだが、この世界そのものが酔う場合はどうすればいいのだろう。
たまきの隣では、亜美がいびきとも寝息ともつかない音を出して寝ていた。
亜美の生活リズムは普通とは違っている。亜美の場合、深夜に「労働」するので、寝るのはそれが終わってから、明け方近くになる。その時は4時間しか寝ない。
午前中に起きて、朝ごはんを食べ、「城」でゴロゴロして、お昼を食べたら今度は二度目の睡眠に入る。今度は3時間ぐらい寝る。そうして、夕方ごろに起きてきて、そのまま深夜まで起きて、明け方また寝る、という生活サイクルである。体に悪そうだが、実際のところどうなのかは知らない。本人はトータルで7時間も寝ているから問題ないと思っているし、自身の健康にはあまり関心がない。たぶん病気にならないと思っているし、なっても何とかなるだろうと思っている。
志保は起きていた。彼女の生活リズムは二人に比べると、規則正しかった。ただ、たまきから見ると、あまり寝ていないように思えた。
志保はブラインドおろして、電気をつけた部屋の中で、本を読んでいた。ブックカバーをしているので何の本を読んでいるのかはわからないが、マンガの類ではなさそうだ。
そこにチャイム音が鳴り響く。
ピンポーンピンポーンピポピポピンポーン。
亜美がのそのそと起き上がる。
「誰だよ、こんな時間に……」
世間的には、来客が来ても何の迷惑でもない時間なのだが、亜美からしてみれば、眠りを妨げた、大迷惑な奴である。
一番、意識がしっかりしている、志保がドアを開けるため立ち上がる。その間も、ひたすらチャイムは鳴りつづける。
ピンポーンピンポーンピポピポピンポーン。
たまきは迷惑そうにドアの方を見る。どうやら相手は非常識な人のようだ。大方、亜美の「客」だろう。しかし、彼らはたいてい夜中に来る。こんな昼間にいったい誰だろう。
たまきの頭に、亜美の客以外でこの場所を知っている非常識な男の顔が浮かんだのと、志保が開けたドアの向こうから、その本人の声が飛び込んできたのはほぼ同時だった。
「志保さん、ちわーっす」
その声を聴いた瞬間、たまきは背筋が寒くなった。
「ミチ君。」
志保が、目の前にいる、最近知り合ったばかりの少年の名を呼んだ。
たまきは、久しぶりに自分の鼓動が高鳴っているのを感じた。
さっき、散々からかわれた相手が自分の部屋を訪ねてきている。そして、部屋の中には、からかった二人もいる。このままだと、ろくなことにならない。
要件はだいたいわかっている。ミチも気付いたのだ。ライブの時間や場所を伝えていないことに。
それを伝えに来てくれたのは別にいい。だが、なぜ今、ここなんだ。ライブに行くことを二人に知られたら、からかわれること請け合いじゃないか。
ただ、ミチは先ほどの公園での三人のやり取りを知らない。なのにそれを責めるのは酷というものだ。
だが、それにしてもタイミングが悪すぎる。なぜ、三人そろっているときに来た。先ほどの非常識なチャイムといい、たまきはますますミチのことが嫌いになった。
ともあれ、まずはミチをここから連れ出すことだ。屋上がいい。話はそこで聞こう。二人には適当にごまかせばいい。
ミチを連れ出そうとたまきが起き上った。それを見たミチは声を上げた。
「あ、たまきちゃん」
ミチが余計なことを言う前に連れ出さねば。たまきは珍しく、たまきにしては本当に珍しく、走り出した。
普段走らない人が走ると、あまりろくなことが起こらない。足をテーブルの脚にぶつけて、たまきはソファの上に転がり込む。
たまきの頭上をのんきな声が響く。
「ライブね、明日の7時! 場所はね……」
ああ、おわった。
「ライブ?」
けだるそうにソファの上に転がっていた亜美が起き出す。
「なになに? 何の話?」
「たまきちゃんがね、今度ライブ来てくれるんですよ」
「うそぉ!」
亜美の大声が響き渡る。
「たまきなんで? どういう風の吹き回し? イベントとか大嫌いじゃん」
「……会うたびにしつこく言ってくるので」
「ああ、男に強く迫られると、断れないタイプか」
「……そういうのとは違うと思うんですが……」
今度は横から志保が口をはさむ。
「若いなぁ、たまきちゃん。ほんとはいきたくないんだけど、しつこく言うから行ってあげるんだからね!ってやつだね」
「ああ、ツンデレか」
「……そういうのとも違うと思うんですが……」
「あ、そうだ!」
ミチが、靴を置くマットを無視して土足で上がりこんできた。
「亜美さんと志保さんも来てくださいよ」
ミチは、亜美と志保に近寄って言った。
「えー。でもねぇ」
「なんかねぇ。悪いよねぇ」
二人はたまきの方をちらちら見ながら、ニヤニヤ笑う。
「何すか、悪いって。来てくれないと、ノルマ達成できないんですよ」
「ノルマ?」
志保が聞き返す。
「一人五人は連れてこないといけないんですよ。招待ってことで、金は俺が払うんで、お願いします」
「ノルマがあるっつーんならしょうがない。行ってやるか」
「あざーっす。これ、チケット三枚。んじゃ、また明日」
ミチは自分の用件だけ済ませ、亜美にチケットを渡すと、さっさと帰ってしまった。たまきはますますミチが嫌いになった。
午後三時ごろ。亜美を眠りから叩き起こしたのは、彼女の携帯電話だった。
「誰だよ……こんな時間に……」
亜美は携帯電話を確かめた。
「もしもし?」
「おっす。亜美」
「先生、……何すか?」
電話の相手は「先生」こと、京野舞だった。
「今さ、仕事で京都にいんのよ」
「……オペかなんかっすか?」
亜美がけだるそうに聞く。
「おめー、あたしが医療行為やってんのはボランティアで、本業はライターだってことを忘れてねぇか?」
「ああ、そうでしたね」
「今、取材で来てんだよ。ほら、京都の病院で臓器移植の手術があったろ」
「……何すか、それ」
「お前、ニュース見てないのか? まあいいや。そういうわけで、お土産何がいい?」
「何があるんすか?」
「八ッ橋とね、固い八ッ橋とね、変わり種八ッ橋とね」
「……全部八ッ橋じゃないっすか。何でもいいっすよ、粒あんじゃなきゃ」
「……どうした、元気ないな」
「……寝てたんで」
亜美は眠そうに答えた。
「お前、まだそんな不規則な生活をしてたのか」
「大丈夫っすよ。不規則を規則正しくやってるんで」
「やれやれ。たまきは? あいつは元気か?」
「相変わらず元気ないっすよ」
「そうか、まあ、自殺しなければそれはそれでいいか」
そういうと舞はそこで一呼吸入れ、少し声のトーンを落とした。
「志保は? あいつは、何か変わったことないか?」
「ああ、全然元気っすよ」
「そうか?」
「ほんとっす。心配無用っす」
「ならいいんだけど。木曜に東京帰るから、そん時、あいつを依存症患者用の施設に見学に連れて行こうと思うんだ。あいつにもそう言っといて。じゃ」
そういうと舞は電話を切った。

一日というのはあっという間に過ぎる。たまきのように、一日中ごろごろしている人間にとってもあっという間に一日は過ぎ去り、もうライブ当日である。
ライブハウスは思ったよりずっと小さかった。少なくとも、以前亜美に連れられたクラブよりずっと小さい。
ステージ上には真ん中にドラムがデンとおかれ、ギターのような楽器が三本ほどおかれている。床の上にはたくさんの配線。
客席は学校の教室ぐらいの広さだ。
もっと込み合っていると思いうんざりしていたのだが、客は十五人から二十人程度で、まばら。
「こんなもんだよ、アマチュアのバンドなんて」
亜美はそういっていた。
ふと、たまきは志保の方を見た。さっきから全くしゃべっていない。少し呼気が荒い気もする。もっとも、志保もあまりおしゃべりというわけではない。それでも、たまきから見れば十分よくしゃべる、「友達作りスキル」の高い人だ。
そろそろライブが始まる。ちらりと出口の方を気にする自分が、たまきはちょっと嫌だった。
照明が徐々に暗くなり、非常口の明かりも消え、直後にステージの上に灯りがともされた。
ステージに、黒の衣装で統一した5人の若い男性が入ってきた。各々楽器を取ったりドラムに座ったりマイクを握ったり。
もちろん、その中にミチもいた。ステージの右端で、青いギターを持って立っている。
ライブはいきなり演奏から始まった。ドラマーがまずドラムをどこどこと叩くと、続いてベーシストがブオンブオンと奏で始める。
その後に、ミチがギターをジャカジャカジャンジャンとはじきだす。続いて、左側のギタリストがギュオンギュオンと音を鳴らす。
4つの音が合わさって爆音となり、照明があわただしく明滅しだす。一転、音がぴたりと止まり、左側のギタリストが少しはかなげなアルペジオを奏で始めると、いよいよ真ん中に構えたボーカルが少しハスキーな声で歌い始めた。
マイクスタンドに寄りかかるように歌うボーカル。他の楽器の音も入ってきて、少しずつ盛り上がり、サビでは衝動的に叫ぶかのようなバンド音をバックに、ボーカルもとうとう叫びだす。はっきり言って、歌詞は聞き取れない。
あれ、とたまきは思った。ミチくん、歌わないんだ。歌、うまいのに。
たまきはミチの方を見た。ステージの右端で。ギターのコードを抑える左手の指使いを確認しつつ、右手をひたすら動かしている。
その表情にいつもの人懐っこい笑顔はない。観客が盛り上がるなか、なんだか今、この空間で一番つまらなそうな顔をしているように見えた。
公園で歌っていた時にはあれほど輝いていたミチが、なんだか影のさしているように見える。
ふと、たまきは、彼とどこかであったことがある気がした。
もちろん、たまきとミチは何回か会っている。だが、そうではなく、どこかであった気がするのである。
十五分ほどで3曲を演奏した。たまきには曲の違いがよくわからない。
ボーカルが二言三言喋るとまた同じような曲を演奏し始めた。
少し気分が悪くなってきた。ふと、隣の亜美を見ると、うでをふりあげぴょんぴょんとびはねている。
今度は後ろの志保を見た。が、そこには志保はいなかった。
トイレにでも行ったのかな。とりあえず、少し休もう、そう思い、たまきは会場を出た。
呼吸が荒い。鼓動も早い。寒気も感じる。だが、志保はもうそんなことは気にしなかった。
トイレの壁にもたれかかり、ただただ暗い天井を見つめていた。
少し、体が震える。
体が欲している。
志保は、携帯電話を取り出した。アドレス帳からある人物の名前を見つけ出す。
それは覚せい剤の売人の名前であった。
なぜ、彼のアドレスをいつまでも取ってあるのか。クスリをやめようと誓ったあの日、亜美やたまきに出会ったあの日なぜ消さなかったのか。
怖かったのだ。登録を消そうと彼の名前を見たとたんに、消すどころかまた再び彼に連絡を取って薬を手に入れてしまうかもしれなかったからだ。
震える手で携帯電話を支える。
今、アドレスを消せば、もう、クスリを手に入れることはできない。
そう思いつつも、志保は震える指で、「発信ボタン」を押した。
呼び出し音の後、低い男の声が電話から聞こえた。
「志保か。なんか用か?」
用なんてわかりきってるくせに。
「クスリ。欲しいの」
「場所は?」
志保は、自分の居場所を伝えた。しばらくして、男から返答があった。
「金は?」
「お金なら……」
そういって志保はカバンの中の財布に手を伸ばした。
だが、そこには財布はなかった。
志保はそこで初めて、財布を「城」に忘れていることに気付いた。
チケットは前日にミチが持ってきたので、今日、この瞬間まで、財布を忘れていることに気付かなかったのだ。
「……お金は、何とかする。いいから、早く持ってきて」
冷静に考えれば、「城」に戻って、財布を取ってくればいい話である。
冷静に考えられるのならば。

たまきは建物の外に取り付けられた、非常階段にいた。トイレに行くのが億劫になり、近くのあった非常階段に逃げ込んだのだ。
外はすっかり暗くなっていた。東京の夜空は星がなく、吸い込まれそうなくらいに暗い。
ライブスタジオはビルの3階にある。らせん状の非常階段から階下を覗き込み、はあっとため息をつく。
たまきは気づいた。
ミチのことをどこかであったことがあるというのは、ミチにある人物の姿を重ねていたからだと。
ある人物。それは、たまき自身のことだった。
何のやる気もなく、ただ消化試合のように生きている。絵を描くのも、楽しいからでもなく、何かを表現したいからでもない。時間をただ押し流すためだけの作業。
そんな自分の姿が、輝いていると思っていたミチに重なったのが、不思議だった。
そろそろ戻ろう。すっかり日の暮れた都会の空を見ながらたまきは思った。
非常階段からライブが行われている部屋へと続く廊下を歩く。と、廊下の右側の部屋から、少女が一人出てきた。茶色い長い髪の少女が誰なのか、たまきにはすぐにわかった。
「志保さん?」
たまきにしては結構大きな声で呼びかけたのだが、志保は見向きもせずに、廊下を横切ると、速足でエレベーターの乗り込んだ。たまきは、志保の出てきたドアを見た。
関係者控室。そう書かれたドアは、志保が本来、立ち入ることのないドアのはずだった。
つづく
次回 第5話 どしゃ降りのちほろ酔い
ライブハウスで財布の盗難事件が起こる。危うく濡れ衣を着せられそうになるたまき、真犯人に気づき苛立つ亜美、そして姿を消した志保。共同生活がピリオドを迎えそうになったその時、たまきが声を上げる……。
「『遠くばっかり見てんじゃねーぞバカヤロー!」』『そんなところにウチらはいねーぞ!」』『ここにいるぞバカヤロー!。……ここに生きてんぞバカヤロー!』」