このたび遠野に行くことになり、それに先立ち、柳田國男の「遠野物語」を読んでみた。これまで柳田は難しいからと敬遠していたが、いざ読んでみるとなかなかに面白い。河童で有名な遠野だが、「遠野物語」には河童のほかにもさまざまな民話が書かれていて、その背景にまで思いを巡らせるとさらに面白い。
「遠野物語」とクトゥルフ神話
遠野物語は1910年に出版された。日本民俗学の父・柳田國男が遠野の民俗学者・佐々木喜善から聞いた遠野の民話をまとめたものである。いわゆる昔話というのは意外と少なく、明治になってからの話や、3~4年前の話と前置きされているものも多い。昔話というよりは、学校の怪談のような噂話に近い。
中には、山のカミサマを馬鹿にした男が、四肢をもがれて死んでいた、なんておぞましい話もある。まるで、白昼のバクダッドで見えない怪物に八つ裂きにされて死んだ、アブドゥル・アルハザードだ。
このアルハザードとは、アメリカのホラー小説群「クトゥルフ神話」に出てくる架空の魔術師であるが、このクトゥルフ神話が誕生した時代が1920年代ごろなので、奇遇にも遠野物語と海を隔ててほぼ同時期に生まれたということになる。
ホラー小説家のラヴクラフトが新しい形の恐怖として、神が人間を無慈悲に踏みにじるクトゥルフ神話を創作したころ、日本では古くからある恐怖として同じタイプの話が伝わっていることが明らかになった。ラヴクラフトが想像した「新しい恐怖」とは、西洋では新しいものであったのかもしれないが、東洋では古くから身近なものだったのかもしれない。
柳田國男と、遠野物語と、山人
柳田國男は「山人」の研究に熱心だった。古くから村には住まず、山などで生活する漂泊の民を「サンカ」と呼んでいたが、それとは別に、柳田國男はいわゆる「日本人」とは別の民族が山の中で暮らしていると考えていたようだ。
今日では柳田の数ある功績の中でもこの山人についての研究だけは、「さすがに山人は迷信だろう」というのが一般的な見解だ。しかし、「遠野物語」では里のものとは顔つきが違う山男と遭遇した、はたまた、天狗と遭遇した、なんて話をよく見る。中には山の中で2m近い大男にあった、なんて話もある。
こういう話をいくつも見ると、「山人がいる!」とまではさすがに思わないが、柳田が「山の中には『日本人』とは違う山人がいるんだ」と胸をときめかせたのも不思議ではないな、と思う。
遠野物語の神隠し
遠野物語委は神隠しの話もいくつか収録されている。面白いのが、どれもふとした日常の中でふと若い娘が消えてしまうという話だ。そのまま見つからない話もあれば、山の中で山男の妻となっているのを見つけた、という話もある。
山男の妻の話がホントかどうかはわからないが、急に人が姿を消す、というのはよくある話だったのかもしれない。
昔の遠野は今よりさらに自然が豊かな場所だった。それだけ、足を滑らせて転落したり、獣に襲われたりと、危険も多かったということではないだろうか。
遠野物語と動物
遠野物語には動物にまつわる話も多く収録されている。狐に化かされたという話だったり、狼に襲われたという話だったり。熊の話なんかも多い。
天狗や神隠しに比べるとインパクトは小さいが、遠野の人々がどういう動物と共に暮らしていたかがよくわかる、貴重な史料だ。
遠野物語と河童
遠野と言ったら河童で有名だ。カッパ淵は遠野観光では欠かせない観光スポットだ。
「遠野物語」には河童が馬を川に引き込もうとしたという、水難事故を彷彿とさせる話が収録されている。このほかにも、河童は出てこないものの、水難事故や水害の類を彷彿とさせる話は多い。
遠野の町を地図で見てみると、猿ヶ石川が細かく分岐しているのがわかる。水害の多い土地だったのかもしれない。
民話のように、古から文字に頼らずに伝えられてきたものの背景にはその土地の歴史が隠されている。それを読み解くのが民俗学の役割である。現地に足を運べば、さらに多くのことがわかる。民俗学とは、五感をつかって歴史を紐解く学問なのだ。