不法占拠を続ける三人娘のところにも秋の足音が聞こえる。
施設で知り合ったトクラに引っ掻き回される志保。
ミチの思わぬ発言に腹を立てるたまき。
そして、なぜか「城」にいない亜美。
「あしなれ」第12話、三者三様の秋をお楽しみください。

屋上から西の空を見て、志保は思わず目を止めた。
つい半月ほど前のこの時間はまだまだ夕焼け空が広がっていたのだが、いつの間にか日は短くなり、空はすっかりすみれ色に染まっている。藍染のようなグラデーションの空の手前には無数のビルが城塞のようにそびえたち、窓の灯りは洞窟にちりばめられた宝石のように煌めいている。
洗濯物を細い腕にかけながら、志保はそこに影法師のように立ち尽くした。
空の色が菫から藍、そして紺へと、水の膜に色素を落としたように移り変わり、志保はそこで何かに気付いたかのように目を見開いた。
「なに見とれちゃってるんだろ」
そう自嘲気味に笑うと、洗濯物を腕にかけたまま、搭屋へと入っていった。

「確かに迷惑じゃねぇ、とは言ったけどさ」
京野舞は煙草に火を付けながらいった。傍らにはバラのように赤く染まったガーゼが数枚置かれている。
「二週間で三回も呼び出されると、流石にイライラするぞ」
「……ごめんなさい」
たまきは真新しい右手首の包帯をさすりながら言った。
「イライラすると、手元が狂うからヤなんだよ」
「……ごめんなさい」
「そんなうなだれんな。別に、怒ってるわけじゃねぇから」
舞は珍しくにっこりと笑う。
「なんかあったか?」
「……特には……」
たまきは髪をとかして、前髪で左目を隠した。
「で、お前はクレープ屋でもはじめんのか?」
舞は、テーブルの上に積まれたお菓子の本を見ながら、志保に言った。
「そうなんですよ」
志保が笑顔で返す。
「なに、ほんとにやるの?」
志保は、施設の仲間と一緒に「大収穫祭」でクレープ屋をやることを話した。
「へぇ、あの施設、そういうこともやってるんだ。大収穫祭ね……。クレープ屋って、施設に通ってる人全員出るの?」
「……三分の一くらいですかね。有志だけなんで」
「ふーん」
舞がぷはぁと煙を吐き出す。
「イベントは二週間後です。先生もぜひ、来てください!」
志保は目を輝かせていった。舞は、
「……まあ、お前が施設でどんなことに取り組んでるか、見とかなきゃな」
とだけ答えた。たまきには、どこか感情が入っていないようにも聞こえた。
「……ところで、お前ら、メシは食ったのか?」
「これからなんですけど、今日、クレープつくる練習で帰るのおそかったからどうしようかって話してたところなんです」
志保が読みかけのお菓子の本を閉じて答えた。
「あたしが作ろうか?」
「え? いいんですか?」
「コミュニケーションって大事だろ?」
そう言って舞はドアの方を見る。
「この前はこんなタイミングであいつが帰ってきたんだけど、……今日は帰ってこないな」
舞が言う「あいつ」とは、この「城(キャッスル)」の最初の住人、亜美のことである。
「なんか最近……、ちょくちょくいないよね」
志保の問いかけにたまきはこくりとうなづいた。
「どこ行ってるんだ、あいつ? 昼間っから援交か?」
「さあ、隣町のヘアサロンに行くって言ってたけど……」
志保の言葉に、たまきは首をかしげる。
「この前もそんなこと言ってましたよ。隣町の理髪店に行くって。美容院って、そんなに頻繁にいくようなところですか?」
「……その割には、髪型、特に変わってるようには思えないけどなぁ」
「……亜美ちゃん、何やってるんだろ?」
三人の視線が、壁に掛けられた亜美の絵へと向かう。
「私たちに言えない、何か危ないことでもしてるんじゃないでしょうか……」
「援交してるっておおぴろっげに言うやつが、これ以上何を隠すんだよ」
舞が腕組みしながら言う。
「……いけないクスリの売人とか」
「もしそうだとしたら、真っ先にあたしに売りつけてるとおもうよ」
「同居人が売人だったら、お前、即、施設入所だからな」
舞が苦笑いしながら志保を見た。
「じゃあ、ピストルの売人とか……」
「とりあえず、売人から離れようぜ」
舞が呆れたように笑う。
「まったく、どこほっつき歩いてんだか」
舞はそう言いながら亜美の似顔絵を見ると、
「それにしてもこの絵、よく描けてるな」
と言ったので、たまきは思わず下を向いた。
「ほんと、よく亜美ちゃんの特徴捉えてますよねぇ」
「街の似顔絵屋さんにでも描いてもらったのか?」
舞の問いかけに、誇らしげに答えたのは志保の方だった。
「たまきちゃんが描いたんですよ。亜美ちゃんの誕生日プレゼントに」
「マジで?」
舞がたまきの方を振り向く。たまきはピンクのクッションを掴むと、顔全体に押しつけるように抱きしめた。
「はぁ~、たまき、お前にこんな特技があるとはなぁ。あたし、絵ごころ全然ないから、尊敬するよ」
舞はまるで鑑定士のように手に口を当て、描かれた鉛筆の線まで覗き込むように見ていた。こんな風に、絵をじろじろ見られるのが嫌だから、たまきは飾りたくなかったのだ。
「いや、大したもんだよ」
それでも、褒められるのはなれていないので戸惑うが、悪い気はしない。
結局、亜美は帰ってこなかった。
舞は、「ちりこんかん」という、たまきの食べたことのない料理を作った。舞の作るちりこんかんという料理は、豆とひき肉に少量のケチャップとスパイスを混ぜて茹でたものだった。
「おいしい~!」
志保が感嘆の声を上げる。
「先生と結婚するだんなさんは幸せ者だよ」
志保は年にちょっと釣り合わない感想を述べた。
「いや、あん時は忙しかったからな、ダンナにつくってやる余裕なんてあまりなかったよ。むしろ、ダンナが作ってくれた方が多かったな」
舞はモリモリとちりこんかんを頬張りながら言ったが、たまきと志保のスプーンを持つ手は完全に止まってしまった。
「えー! 先生、結婚してたの!?」
志保が驚嘆の声を上げる。たまきの左手はスプーンを口元に運んだまま止まり、重力で垂れ下がったスプーンから豆がコロコロとこぼれ落ちる。
だが、驚いたのは舞も同じようだった。
「え、あ、『結婚してたの』か……。『してた』という意味では……、イエスだな。っていうかお前ら、亜美から聞いてなかったのか?」
「全然」
志保とたまきが同時に首を横に振った。
「そうか。あいつには会ったばかりのころに、『ねえねえ、先生ってカレシいないの』って感じでしつこく聞かれて、べつに隠すことでもないから話したんだがな。あいつ、口軽そうだからてっきりお前らにも喋ってるもんだと思ってた」
舞が亜美の口調を真似すると、志保はくすりと吹き出した。
「意外と口が堅いんだね、亜美ちゃん」
「……聞きだすのに興味はあっても、喋ることに興味ないんじゃないですか?」
たまきはようやく思い出したかのようにちりこんかんを口に運んだ。
「あれ? 『結婚してた』ってことは……」
志保はちょっと言いづらそうに舞を見たが、舞はあっけらかんと
「ああ、別れたぞ。まだ、二十代だったころの話だ」
と答えた。志保は
「へぇ~」
と感心したようだったが、
「あれ? じゃあ、もしかして、先生ってお子さんとかいるんですか?」
と目を輝かせた。
「お前、ガキなんていたら、今頃こんなところでおまえらの面倒なんて見てねぇよ」
「……ですよね」
志保はばつの悪そうに笑った。

「やっぱり、イチゴとバナナはマストでしょ」
トクラはホワイトボードに書かれた「イチゴ」と「バナナ」の文字を赤ペンで丸く囲んだ。
東京大収穫祭まで残り2週間を切った。今日中にメニューの最終決定を決めなければいけない。
「メロンとか、どうですか?」
志保は手を上げて提案してみたが、トクラは
「高い」
と一蹴した。
「色合い的には三色クレープってことでバランスいいと思ったんだけど」
「カンザキさん、メロンが緑なのは外側で、中はオレンジ色だよ。だったら、キウイがいいんじゃないかな」
おじさんが横から提案する。
「で、アイスはどうするの?」
志保の隣に座っていた女の子が訪ねた。アイスをクレープにれるか否かが、ここ数日の焦点だった。コンビニで買ったアイスを混ぜて試作したりしていたのだ。
「あたしはアイス入れたいんだけどな」
トクラは、赤ペンで「アイス」の文字の下に二重の線を引いた。
「でも、祭りは十月でしょ? アイスに需要があるかなぁ」
おじさんは首をかしげるが、トクラは
「真冬じゃないんだし、アイスは絶対喜ばれるって。十月って言ってもまだはじめだし。アイスが入ってるクレープって、よくあるよね、カンザキさん?」
急に名指しで質問をされて、志保は戸惑いつつも答える。
「え、あ、あると思いますよ? っていうか、なんであたし?」
「だって、そういうところ、よく行きそうな雰囲気だもん」
そうかしら、と志保は思いながらも、そういえば、高校の通学途中にクレープ屋があって、トモダチやカレシと行ったな、なんてことを思い出した。
「アイスを入れるとしてさ、どこでアイス買うの? コンビニやスーパーのアイスじゃ、足りないでしょ?」
志保の隣の少女が尋ねる。
「業務用、っていうのがあるんじゃないの? 昔、ヨーロッパに行ったときに、バケツみたいなのに入ったアイス、食べたことあるよ」
トクラがジェスチャーを交えて話した。
「その、業務用アイスっていうのは、どこで売ってるのかな?」
「さあ、問屋とかじゃない?」
トクラがどこか無責任に言った。
話が煮詰まってきた。こんな調子で今日中に決まるのかな、と志保が壁に掛けられた時計に目をやると、そこにはシスターが立っていた。
「ちょっといいかしら」
シスターはいつものように上品にほほ笑みながら歩み寄ってきた。
「この前皆さんにしていただいた検査ですけれども……」
検査というのは検便のことだ。飲食物を扱う屋台をやるということで、検便が行われたのだ。
もしかして、自分だけ薬物とか別の検査もされているんじゃないか。志保は検便の容器を見ながらそんなことを考えていた。もちろん、財布の一件以来もう二か月も薬を絶っているのだから、検査されたところで何も出てこない。何も出てこないはずなんだけど、なんだか不安な自分がいる
だから、これからシスターがどんな話をするのか、不安でしょうがない。「神崎さん、ちょっと別室に来てくださる?」とか言われたらどうしようかと、ありえないはずのことを考えてしまっているのだ。
一度そう考え始めると、どうしてもその考えがぬぐえない。二カ月も薬を絶っているのだから今更検査で何かが出てくるなんてありえないのだが、どうしても何か見つかってしまうような気がしてしまう。
「全員検査は合格でした」
シスターの言葉に志保は胸を締め付けていた鎖が突如消えたかのような解放感に抱かれ、笑みをこぼした。
ため息をついて顔を上げ、トクラの足が視界に入る。ふと気になってトクラの顔を見ると、トクラはにこにこ笑っていた。
……トクラさんもパスしたんだ。
もちろん、今回の検便はばいきんかなにかの検査であって、薬物の検査ではない。冷静に考えれば、教会が抜き打ちで検査をするとも考えられない。
それでも、志保はトクラが検査をパスしたことが、そして何よりも、トクラが何食わぬ顔で検査を受けていたことが引っ掛かった。

ひと月ぐらい前までは蝉の声がやかましかった公園だが、秋を迎えて少しずつ落ち葉も目立ち、ギターの音がよく通るようになった。
ミチは林の中にビールの空き箱をひっくり返して用意した台の上に立つと、じゃらりとギターを鳴らす。彼の前方にはいくつか椅子が並べられ、ホームレスたちが腰かけている。
「えー、今付き合ってるカノジョを想って作りました、新曲です。タイトルは、あー」
ミチはギターのネックに手をかけたまま、右上を見た。
「『アイラブユー』です」
少し小さめの椅子に腰かけたたまきが、少し微笑んでミチを見上げながら、ぱちぱちと手をたたいた。しかし、その隣の仙人は口を堅く結び、ミチをまっすぐ見据えながら腕組みをしている。
ミチはジャカジャカとギターを軽くストロークして、歌い始めた。
――陽炎揺らめく夏の中で
――煌めく小さな光
――まるで海のように
――僕を包み込んでくれた
――そうさ君の微笑みは
――まさに天使の笑顔
――まるで空のように
――僕を包み込んでくれた
――好きだ好きだ愛してる
――ずっと大事にするからね
――好きだ好きだ愛してる
――ずっと守り続けるよ
そんな歌が3番まで続く。ハイトーンな声のキーを少し落として、ミチはゆったりと歌い上げた。
歌終わりに優しくストロークをして曲を終えると、ミチはやりきったという表情で頭を下げた。
「ありがとうございました」
たまきが軽く微笑みながらぱちぱちと拍手をする。だが、仙人は目をつむったまま動かない。とはいえ、背筋がしっかり伸びているので、寝ているわけではなさそうだ。
「……どうでした?」
ミチは仙人の顔を窺うように身をかがめた。
「……歌声はよかった。メロディも悪くない」
前にもそんな感想を聞いたな、とミチは苦笑いする。
「それで、歌詞の方は……」
「今、どこから指摘しようか、考えている」
仙人のその言葉に、ミチは肩を落とした。
「そうだな。好きなのか愛しとるのか、どっちなんだ?」
「え?」
ミチがギターを肩から外しながら、仙人に聞き返した。
「歌の中で『好き』とも『愛してる』とも言っていただろう? 結局、どっちなんだと聞いている」
「そんなの……どっちもですよ」
ミチは困ったように口をとがらせた。
「で、どっちなんだ?」
横で聞いていたたまきは思う。仙人が同じ質問を繰り返すときは、相手の出した答えに納得していないときだ。それは、相手に何かを気付いてほしい時でもある。
「だから……、どっちもですって」
ミチは、もう勘弁してくれというような目で、仙人を見た。

自動販売機とはよくよく考えると不思議な装置だ。軽い百円玉を入れると、ズシリと重い液体を入れた缶が出てくるのだから。あの百円玉のどこにこれほどの重さがあるのだろうと不思議に思う。
志保は身をかがめ取り出し口に手を突っ込み、黄色い缶の炭酸飲料を取り出した。
プルタブに指を賭けたところで、志保は声を聞いた。
「よかったね。検査、引っかからなくて」
志保は鞭に撃たれたかのように左側を見た。通りの奥から、トクラがこちらに向かって歩いてくる。
教会から駅へと続く住宅街の道は、塀から顔を突き出した木々の緑によって彩られていたが、ところどころ黄色い葉っぱも交じってきた。
志保はトクラをじっと見ていた。
「なに? どしたの、カンザキさん」
トクラが怪訝そうに首をかしげる。
「……いえ」
志保はトクラから目をそらすと、缶のプルタブを開けた。トクラは歩調を速めると志保のそばまで来て、囁くように言った。
「私たちの検便ってさ、やっぱ、クスリの検査までされてるのかな?」
「さ、さあ」
志保は冷たい缶を両手でしっかり包み込むように持つ。
「されてたら、やばいよね」
「それってどういう意味ですか?」
志保は反射的にトクラの方を見た。トクラは右上を見上げたが視線を戻して、言葉を選ぶように言った。
「ほら、施設がプログラムの受講者に黙ってそういう検査してたら、信頼関係ってやつが崩れちゃって、ヤバいよね、って話。まあ、あの施設はそんなことするところじゃないけどさ」
そう言ってトクラは笑う。志保は、炭酸水をのどに流し込むと、駅に向かって歩き出した。
「カンザキさんって、シャブやってたんだよね」
「……あまり大きな声で言わないでもらえますか」
「ああ、ごめんごめん」
トクラはそう言いつつも、悪びれた感じではない。
「売人の番号って残ってるの?」
「……消しました」
財布を返しに行った日の昼に、売人の番号は携帯電話から消去した。一緒にいた亜美にも確認してもらっている。
「なんだ」
「……残ってたらどうするつもりだったんですか」
「教えてもらうに決まってんじゃん」
トクラはケラケラと笑いながら、そう答えた。その言葉に志保は足を止めた。二、三歩進んでトクラが気付き、振り返る。
「どしたの? あ、やっぱり、番号残ってた?」
「……トクラさんは、何のために通っているんですか?」
二種間ほど前にも同じことを訊いた気がする。
同じ質問を繰り返すということは、答えに満足していないからであり、相手に何かを気付いてほしい時でもある。
トクラは笑みを浮かべながら、志保の質問に答えた。
「行かないと、周りがうるさいから」
さっきまでアスファルトを照らしていた太陽が雲の影に隠れる。志保は睨むようにトクラを見ていたが、トクラはひるむ様子もなく言葉をつづけた。
「カンザキさんはさ、あそこのプログラムで、本当にクスリやめられると思ってるの?」
「そのために、私は通っています」
手にもったアルミ缶が少しへこむ。
「もう、周りを裏切りたくないんです」
「裏切るよ、どうせ」
トクラは不敵に笑いながら志保に近づく。
「あの施設に通ってても、クスリの再犯で捕まったやつを何人か知ってるし、実は私自身あそこに通うのは2回目だったりするの。まじめに通ってたんだけどね、逮捕されちゃっていけなくなっちゃった」
「施設のやり方が間違ってる、ってことですか」
施設の職員はみな親切で、志保は上品な感じが少し苦手だが、好感を抱いていた。それを悪く言われるのはいい気分がしない。
何より施設のやり方が間違いだということになると、この二カ月が無駄になってしまう。
「いや、あの施設はよくやってる方だとおもうよ。どこもあんな感じだと思うし、実際、依存症に対する取り組みではあそこはまあまあ有名な方だし」
トクラは志保に最接近すると、囁くように告げた。
「間違ってるのはね、私たち」
志保は自分の呼吸とトクラの呼吸が同期するのを感じた。手にもつ缶がベコベコへこみ、その冷たさがやけに志保の手の熱を奪っていく。
「薬物の再犯率はね、私やカンザキさんくらいの年だったら、40%くらいかな。それに、再犯率っていうのは、逮捕されないとカウントされないからね」
「……トクラさんは、もう治療する気がないってことなんですか」
いつしか志保の声は震えていた。
「ほんっと、カンザキさんって十年ぐらい前の私に似てる。まあ、私はカンザキさんほど真面目じゃなかったけどさ。それでも、本気でクスリをやめたいって思ってたり、自分の努力次第で何とかなるって思ってたり、周りを裏切りたくないってところとか、ホントそっくり」
志保は、自分の息が少し粗くなっているのを感じていた。
「だから、ほっとけないっていうか。ほら、ドラマの結末知ってて再放送見てるときってさ、最後死んじゃうキャラとか出てくると、教えたくなるじゃない、その人の宿命ってやつを」
その言葉に、志保は急に恐怖を感じた。
この人とあたしはちがう。あたしはこの人のようにはならない。
さっきまでそう思っていたのに、急にトクラをそんなふうに見れなくなっていた。
どうあがいたって、あたしはこの人みたいになる。
きっとトクラには、神崎志保という少女が、まるで自分の再放送を見ているかのように映っているんだろう。ドラマの再放送ってやつは、どうあがいたって絶対に過去に見た最終回と同じ結末に行きついてしまうのだ。
上空では雲が流れゆき、再び太陽が顔を出した。秋の澄んだ空気が灯に照らされ、トクラの顔がさっきよりも軽く見える。
まるで、志保とトクラのあいだにへだたりなんてないと言わんばかりに、はっきりとトクラの顔が見える。
志保の指先が小刻みに震える。トクラはそんな志保をからかうように見ると、再び囁くように告げた。
「ねぇ、シャブって、どんな味?」
「……どんなって」
思わず答えそうになった時、志保の頭の中で警報機が鳴り響く。
その質問に答えてはいけない。
思い出してはいけない。
忘れよう忘れようとこの二か月頑張ってきたのに。
心臓の奥から何かが電撃のようにほとばしる。
止まらない震え。
うっすらと滲む汗。
開いた瞳孔。
動悸。
日差しに照らされた緑の木々たちがモノクロになってぐにゃりと歪む。
「どうしたの、カンザキさん?」
トクラが悪戯っぽく微笑む。志保は小刻みに震える手で缶を持ち上げると、再び口の中に液体を流し込んだ。
炭酸水から揮発した二酸化炭素がのどをびりびりと刺激するが、何の解決にもならない。

夏場ともなるとアスファルトが熱を湛え、たまきは階段以外の場所で絵をかくことも多かったが、九月の終わりが近くなり、再び地べたに腰かけられるようになった。ミチは階段の中ほどに腰かけ、ギターを弾きながら鼻歌を歌っている。たまきは同じ段に腰かけ、公園の絵を描いている。二人の間は人が一人二人通れるくらいに空いている。そうでなくても、広い階段だ。二人ぐらい腰かけたところで、大して邪魔にはならない。
二十分ほど、二人は会話をすることがなかったが、突如ミチが語りかけた。
「なんかないの? 質問とか」
何を聞かれているのかわからず、たまきはミチの方を向いて首をかしげた。たぶん、漫画やアニメだったら、たまきの頭上に「?」とマークが浮かんでいたはずだ。
「『カノジョのどこが好きなの?』とか、『カノジョってどんな人なの?』とか、『デートはどこ行くの』とかさ」
「なんでそんなこと聞かなきゃいけないんですか?」
たまきの頭上の?マークが増えた。
「志保ちゃんはこの前、いろいろ聞いてくれたよ」
「志保さんですから。私、志保さんじゃないんで」
たまきは表情を変えることなく答えた。
「だったら、二人のこと応援してるよ、とかさ」
「なんで応援しなくちゃいけないんですか?」
応援なんて言うのは、自分のことが十分にできている余裕のある人が有り余った力でやるものだと思う。
そもそも、「頑張って学校に行け」という応援なのか脅迫なのかよくわからない言葉を浴び続けてきたたまきにとって、「応援」がはたして良いものなのかよくわからない。
たまきの無表情っぷりに、ミチは不満のようだ。カノジョの話をしたくてしょうがないらしい。
「普通さ、もっと友達の恋愛に関心も……」
「友達じゃないです。知り合いです」
それに、たまきは「ふつう」ではない。そんなことはもう、わかりきっている。
ふと、たまきの頭に亜美の言葉がよぎった。
「あいつ、地味な女がタイプだって言ってたぞ」
だが、この前見た海乃って人は、おしゃれな茶髪に顔はばっちりメイクをし、ミニチャーハンを運んできた手には色とりどりのマニキュアがぬられてことも覚えている。とても「地味」とは思えない。
「地味な女の子がタイプなんじゃなかったんですか?」
たまきはミチの方を見ることなく尋ねた。深い意味はなく、ただ「聞いてた話と違うな」という違和感から来た質問だった。
「え?」
とミチがたまきの方を見る。
「……あの海乃って人、地味には見えなかったので」
地味というのは、露出の少ない黒い服を好み、化粧をせずにメガネをかけ、髪の毛をいじることもなく、口数少なく大きな声も出さない人、つまりたまきみたいな女のことを言うのだ。
「う~ん、恋愛するんだったら、おしゃれで、スタイル良くて、話してて楽しい子がいいかなぁ」
「じゃあ、地味な子が好きっていうのは、なんだったんですか」
これまた、話の流れで出てきた素朴な疑問である。深い意味などない。
「ああ、地味な子が好きっていうのはね、恋愛対象の話じゃなくて……」
たまきは何気なく、ミチの方を見た。ミチとたまきの目があう。
「エッチの対象」
「え?」
たまきの左手から小さな鉛筆がポロリと落ち、階段に当たってカランと音を立てる。そのままカンカラカンと下に転げ落ちていったが、たまきは気づいていないのか、ミチの方を見て目を見開いたまま動かない。
ミチは身を乗り出し、たまきとの距離をぐっと詰める。
「地味な子ってさ、エッチの経験とか、そもそも付き合ったことないって子おおいじゃん」
たまきは呆然としたままうなづく。自分がまさにそうだ。
「そういう子をなんていうかさ、穢してみたいっていうかさ。どんな顔してどんな声出すんだろうって」
たまきは急激に体が下腹部から熱くなるのを感じていた。
「ち、ちなみに……」
いつもの1.5倍の早口でたまきが尋ねる。
「私って、地味ですか?」
「うん」
ミチが、何をわかりきったことをとでも言いたげにうなづく。
「ってことは私も……」
「もちろん、エッチの対象だよ」
ミチがたまきをいやらしい目で見ていることはうすうす気づいていたが、こうも恥ずかしげもなく断言されると、顔が紅潮していく原因が怒りなのか恥ずかしさなのか、自分でもわからなくなってくる。
「たまきちゃんってさ、自分では気づいてないのかもしれないけど、目はわりとパッチリしてるし、ロリっぽいかわいらしさがあるっていうかさ……」
「そうですか……」
この場合、何と返事をしたらいいのだろう。
「それに、亜美さんみたいに巨乳ってわけじゃないけど、そこそこおっぱいあるし」
充血してきた目をたまきは下に向ける。
「バージンでしょ? エッチしたらどうなるんだろうって思うとさ、一回ちょっと壊してみたいなぁ、って」
たまきは蒸気機関車の煙のように早く立ち上がり、赤くなってきた目でミチを見下ろすと、いつもより強い口調で言った。
「私、帰ります!」
「え、ああ。おつかれ。またね」
片手を上げるミチに素早くたまきはお辞儀をすると、たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、階段を一段飛ばしで登っていった。

「あの子絶対クスリやってるって」
「だって、あのやせかた、おかしいもん」
「うーわ、犯罪者じゃん」
雑踏をすれ違うたびに、そんな声が聞こえる。
そのたびに志保は足を止めて振り返り、声の主を探す。
なんだか、今視界に入っている全員がそう言っていたような気がして、志保は雑踏の中を縫って駆け出す。
すぐに息が切れて立ち止まる。震える手であたりを探るが、手をつないでくれる人は誰もいない。
駅から歓楽街へ戻るには、三途の川のように大きな道路を横切らなければならない。残念なことに歩行者用の信号は赤になったばかりで、色とりどりの車が濁流のように目の前を横切る。
さっきから、様子がおかしい。とってもおかしい。
またしても声が聞こえる。
「ねえ、シャブってどんな味?」
声の主はトクラだった。驚いてあたりを見渡すと、雑踏の中にトクラの姿がちらりと見えたが、すぐに見えなくなった。聞こえるのは車の騒音だけで、頭上の電光掲示板から流れるなんかのCDの宣伝すらもよく聞こえない。
トクラは何であんなことを言ったのか。志保は頭をかきむしりながら考える。いや、無理やりにでも考えないと、クスリ以外のことを考えないと、どうにかなってしまう。
「教えたくなるじゃない、その人の宿命ってやつを」
またトクラの声が聞こえる。記憶の中のトクラかもしれないし、さっき見かけたトクラなのかもしれない。
どうせいつかこうなるのが宿命なのだとしたら、戦うのなんて時間の無駄、ということなのだろうか。だからあの人は志保にクスリを思い出させようとした。どんなに頑張ったって、どうせいつか自分の手でその頑張りを捨ててしまうのだから。だとしたら、早い方がいいじゃない。頑張って頑張って、また亜美ちゃんやたまきちゃんを、舞先生を、そしてあたし自身を裏切って悲しませるくらいだったら、いま裏切った方が、みんなダメージ少なくて済むんじゃないの?
「やっちゃえば? どうせいつか裏切るんだったら、いま裏切った方が、みんなのためだよ」
今度はトクラが耳元でささやいてきた。志保はとっさに振り向いた。
そこにトクラはいなかった。
いたのは、志保だった。
いるはずのない、自分だった。
囁いたのは、志保の声だった。
恐怖に駆られた志保は、踵を返して走り出そうとした。
横断歩道の一番目の黒い空白を踏みしめたとき、志保の目に最初に飛び込んできたのは、赤く光る歩行者用の信号機だった。
次に右側を見た。25mほど向こうに青い乗用車が見える。車の姿と、タイヤが地面にこすれる音が、少しずつ大きくなっていく。
首から下はアスファルトを踏みしめたまま硬直して動かない。志保は、唯一動かせる首だけを後方に向けた。
信号待ちをする人々が鉄柵のように並んでいる。彼らは、まだ自分たちが何を見ているのかを理解できていないようだ。
その人ごみの中から、程よく日焼けした腕が伸びてきて、志保の右腕を掴み、そのまま勢いよく引っ張った。
「危ない!」
知らない誰かの声と、タイヤの摩擦音が響く中、志保は、その知らない誰かの胸に倒れこんだ。
信号は赤だ。今、飛び出したら死ねるんじゃないだろうか。
いつもは足元を通り過ぎるタイヤを見ながら、たまきはそんなことを考えてしまうのだが、今日に限って真っ赤に染まる信号をにらみながらじっと待っている。
考えれば考えるほどに頭に来る。もちろん、ミチのことだ。
ミチが時々たまきの胸元や足の付け根あたりを見たりと、たまきのことをいやらしい目で見ているのは察していた。それだけでも嫌だけど、まだ「男の子ってそんなものなのかな」と思うことで納得してきた。
ところが今度は、エッチをしてみたいと言ってきた。それも、「壊す」だの「穢す」だの。
いったいミチは、女の子のことを、たまきのことを、なんだと思っているのだろうか。壊すだけ壊して、穢すだけ穢して、どうせ責任とか取らないんだろう。わかってる。ミチはたまきのことが好きだとか、女として見てるとか、そういうんじゃない。弱そうな女の子を支配して、自分のものにして、遊びたいだけ。つまり、私はミチ君にとって都合のいいおもちゃってわけ。あ~、もう、君付けなんかしなくていいよ、あんな人。あの人にとって私は、あの人がバイト代ためて買ったハーモニカみたいなものなんだ、きっと。自分のものにして、遊ぶ。それだけ。
だいたいさ、あの人はカノジョさんがいるはずなのに、ほかの女の子とそういうことしようっていうのが、許せない。亜美さんみたいに好きでもない人とエッチできる人がいるっていうのは理解しているし、それが亜美さんの生き方なんだから、私はとやかく言わないけど、亜美さんと違って、ミチ君、じゃなかった、あの人には本命のカノジョさんがいるはず。なのに、ほかの女の子にああいうこと言うなんて、私だけじゃなくて、カノジョさんにも傷つけるよ。
カノジョさんがギターで、私がハーモニカ、そういうことなんだろう。あの人は結局、どっちも持って置きたかったんだ。
あ~、むかつく!
ぷんすかと腹を立てながらも、たまきは横断歩道を渡り終えた。お店が立ち並ぶ歩行者天国の大きな通りを、すたこらさっさと歩いていく。
1分ほどでまた信号待ちだ。たまきはスケッチブックの入ったカバンを胸の前でしっかりホールドすると、赤信号をにらみつけた。
ふと、聞きなじんだ声が鼓膜を打つ。
「ほんとにもう、大丈夫なんで」
声がしたほうに顔を向けると、志保の姿がそこにはあった。街路樹によりかかり、ペットボトル片手に何やら話している。
話している相手は知らない男性だ。見た感じ大学生くらいだろうか。顔だちにこれといって特徴はないが、服装はおしゃれな感じで背が高い。
「本当に大丈夫? 具合が悪いなら、救急車を呼ぶとか……」
「いえ、もう本当に大丈夫なんで。すいません。お時間お取りしてしまって……」
志保は相手にしきりに頭を下げている。
「そう……。疲れてるみたいだから、帰ったら、ゆっくり休みな」
男性はそういうとその場を立ち去った。たまきは少し時間を空けてから、志保に近づいた。
「……志保さん」
たまきの声掛けに志保は驚いたようにたまきを見た。
「い、いつからそこにいたの?」
「……い、今通りかかったんです」
いつになく早口でたまきが答える。
しばらく静寂が流れる。
「たまきちゃん、顔赤いよ?」
「志保さんこそ……、顔白いです」
信号が青になったタイミングで、どちらが言い出すでもなく、二人は歓楽街へ向けて歩き出した。志保はたまきの左側に立つと、するりと手を伸ばし、たまきの左手を握った。
こんなことは前にもあった。何もないのに、志保が手をつなぐなんてことはない。さっきの男性と何かあったのだろう。
こういう時、亜美さんなら何か聞くのかな。
たまきは結局、志保に何も聞かなかった。優しさから聞かなかったのでも、興味がなかったのでもない。どうしたらいいのかわからなかった。

手をつなぐ、と言ってもいわゆる恋人つなぎみたいなものではない。志保が差し出した細い左手に、たまきがそっと右手を添える程度のものだ。
志保の手の震えがたまきの手に、たまきの手の温かみが志保の手に、それぞれゆっくりと伝わる。
「手をつなぐ」という行為は互いの手の細菌を移しあう行為である。だが、互いに移しあうのは、細菌だけではないようだ。
「あ!」
たまきより少し前を歩いていた志保が声を上げた。少しうつむきがちだったたまきが顔を上げると、亜美がヒロキと腕を組んで歩いてくるのが見えた。
向こうは志保とたまきに気付いていないようだ。車が何台も並んで通れそうな広大な歩行者天国の斜め前から二人は腕を組んで歩いてくる。視界の端に移っている志保とたまきには気付いていないようだ。
手をつなぐよりも、腕を組んだ方が仲がよさそうに見える。
「よくさ、好きでもない男の人と、ああいう風に腕組んだり、エッチしたりできるよね。あたしは無理だな」
「……私もです」
「亜美ちゃんって、男の人の前だとキャラ変わるよね。甘え上手っていうか……」
「……ビジネスライクなだけだと思いますよ」
二人は、大通りへと出て信号待ちをしている亜美とヒロキの背中を見つめていた。寄り添うようにたたずむ二人の影は、秋の西日に照らされ、心なしか少し隙間があるように映っていた。
つづく
次回 第13話「降水確率25%」
10月に入り、ついに大収穫祭が開催される。クレープ屋ではりきる志保、祭りを楽しむ亜美、ステージ上で輝くミチ、そして、たまき。4人それぞれの祭りが始まる。「大収穫祭」編、いよいよクライマックス!