知識を自慢したがる人が多い。知識をひけらかし、自分より知識の少ないものを馬鹿にする、そんな人を、特にネット上でよく見かける。しかし、どんな知識もググればすぐに手に入る現代において、知識はそんなに価値がのだろうか。知識だけにかまけて、知性を磨くことをおろそかにしていないだろうか。
知識はあるけど、本質を見通せない人
過去に、このブログのコメント欄にこんな書き込みがあった。「どの記事か」を書いてしまうと、もはや名誉棄損になってしまうので、どの記事かは書かない。
僕の記事に対して、「前提が間違っている」「見当違い」というコメントだった。どうも僕が話題にしたことの専門家、専門の業者の方らしく、「なんでそんなこと詳しいの?」というくらい詳しかった。
批判は真摯に聞くとして、一方でこんな思いが沸き上がってきた。
確かに、僕の記事は前提が間違っていたのかもしれない。
……だから何だというのだろう。
前提に多少の間違いがあったとしても、結論は一緒ではないだろうか。結論部は変わらないのではないだろうか。
僕の前提が正しかったとしても、相手の前提が正しかったとしても、根本の部分は共通していて、結論部は変わらないはずなのだ。
そこのところ、むこうはどう思うのだろう、と考えて、「ずいぶんお詳しいですね。〇〇の原因などについてぜひ、詳しいお話をお聞かせください。」と返信した。「〇〇の原因」こそがズバリ、「結論部」にあたる箇所だ。
すると返事が返ってきた。「ずいぶんとお詳しいですね」という社交辞令に気をよくしたのか、長々と8行に渡って、最初の話題と「似たような事例」がつらつらと書かれている。
……あなたがその話題に詳しいことはわかったけど、僕は「似たような事例」を教えてくれなんて一言も言ってないんだよ。「〇〇の原因」についてどう思うかと聞いているんだよ。僕の導き出した結論と、あなたの思う結論が一緒なのかどうかを知りたいんだよ。
その肝心の部分に関してはたった一言、「〇〇が有名ですが、そこに答えがあるかと思います。」
その答えをあなたがどう考えているかを聞いてるんだよ! 「ここにあるかと思います」じゃなくて。
結局、この人は知識ばっかり豊富だが、「その知識がどのような結論を導き出すのか」「その知識でどうやって問題を解決するか」が全く見えていなかったのだ。
僕が気にしていたのは「前提がずれたら結論もずれるのか?」、その1点である。結論がずれないのであれば、多少の前提のずれは正直な話、どうでもいい。そして僕の考えは、「前提が多少ずれたところで、その根本の部分外れないのだから、結論はずれない」である。僕は相手に、前提がずれたら結論は変わるのか、変わらないのか、どう思うのか、むこうの意見を聞きたかったのだが、相手は全く関係ない知識を並べ立てたあげく、「そこに答えがあるかと思います。」=「私には答えがわかりません」と煙に巻いただけだった。
このように、「知識はあるのに、本質を見通す力のない人」を、僕は「知識デブ」と呼んでいる。必要以上にため込んだ知識が、かえって知性を圧迫している。
知識はあるけど、教えない
SNSなんかを見ていると、政治問題に関してちょっと間違ったことを言うと、何か罪でも犯したかのように批判が集まる。やれ、バカだのアホだの、勉強してから発言しろだの、人格否定の集中砲火だ。
間違った知識をただすことはよいことだ。間違った知識をSNSに書いて、誰かがそれを信じて、それが広まるのはよくない。
だが、同時にこうも思う。
罵倒する必要なんて全くない、と。
ある程度強い言葉や皮肉を言わなければ伝わらない場合もある。だが、人格否定レベルの罵倒する必要などあるまい。
相手の知識が間違っている、そう思ったら、正しい知識を教えてあげればいいのだ。それこそが、知識を持つ者の責務ではないだろうか。
「教える」というのは、知識があるだけではできない。知性を必要とするものだ。「相手が何を理解していないのか」「何がわかっていないのか」「どう説明すればいいのか」に思いをはせる。これは知識ではなく知性が必要だ。相手の知識・知的レベルを推し量り、思いをはせることが重要だ。
だから、勉強ができる人=いい先生、とは限らない。「知識が豊富である」と「教えるのがうまい」のはまた別なのだ。
知識のない人を罵倒する人を見ると、教えるだけの知性がないのではないか、と思ってしまう。
教えることで有名な人に、池上彰さんがいる。例えば池上さんに、「どうしてアメリカと北朝鮮は仲が悪いんですか?」と質問したとしよう。ここで池上さんが「そんな簡単なことも知らないのか、バカ! 勉強してから発言しろ!」と言った日には、彼の仕事はなくなる。絶対にそんなことは言わないからこそ、池上さんの話は人気なのだ。
そういった初歩的な質問を投げかけられた時、池上さんはこういう。
「いい質問ですねぇ」
そういわれると、質問した側も悪い気はしない。「なんだ、バカみたいな質問でも、臆することなく言っていいんだ」とどんどん質問して、議論は活発化し、どんどん話は深まる。知識も深まる。
これが知性である。どうすれば相手が気持ちよく学習できるかに頭を働かせるのだ。それができない人が、知識のない人を「勉強しろバカ!」と罵倒する。ただ、自分の知識を自慢したいだけである。
これまた、知識デブである。知識ばっかり肥えて、教えるだけの知性が身についていない。
知識デブの知識自慢だなんて、デブの体重自慢のようなものだ。見苦しいことこの上ない。
ちなみに、なぜアメリカと北朝鮮は仲が悪いのか、の答えであるが、
興味がないから知らない。
知的メタボリックについて
「知識のある人」ならばもしかしたら、「知的デブ」が僕のオリジナルの言葉ではないことに気付いていたかもしれない。
「知識デブ」というのは、外山滋比古が提唱している「知的メタボリック」の言いかえである。「知的メタボリック」よりも「知識デブ」の方が、ことの危険性をより分かりやすく伝えられると思って、言い換えてみた。
だが、外山氏の「知的メタボリック」という言葉も、なかなか的を得た言い方だ。過剰な内臓脂肪が内臓や血管を圧迫して健康を害するように、過剰にため込んだ知識が却って知性を損なっている、というのが外山氏の言う「知識メタボリック」の本質だ。
知識があれば思考で苦労することがない。思考の肩代わりをする知識が多くなればなるほど思考は少なくてすむ道理になる。その結果、ものを多く知っている人は一般に思考力がうまく発達しないという困ったことが起こる。(『忘却の整理学」より)
外山氏は大学で教鞭をとっているなかで、日ごろよく勉強をしている学生の卒論よりも、あまり勤勉でない学生の卒論の方がしばしば面白い、ということに気付き、「知識が知性を邪魔しているのではないか」と考えるようになった。
外山氏の論はあくまでも「エッセイ」であり、学術的なものではない。が、知識があるのに知性がない知識デブが多いのは、検証したとおりである。知識の量ばっかりありがたがって、知性を磨くことをおおろそかにしたあげく、本質を見通すことも、他者に教えることもできずに、知識自慢しかできない残念な物知りで終わってしまう。「馬鹿の一つ覚え」とはよく言ったものだ。
いかに優れた名刀を持っていようと、それを握った人間に剣術の心得がなければ意味がないのと一緒である。
そもそも、今や何でも「ググれば一発」の時代である。物知りよりも「検索の早い人」の方が重宝される時代に、物知りであると自慢するなんて、それこそ知性がない証のようなものだ。一方、検索は「どうすれば目的の知識を引き出せるか」と頭を働かせることであり、検索の旨い人というのは、知性がある人だ。
たとえば、以前ラジオのクイズで「丸の内線の駅で、東京と霞が関の間にあるのは何駅だ」という問題が出た。
このクイズの面白いところは「検索クイズ」と言って、パソコンやスマートフォンで検索してもいい、むしろ、検索の早さを競い合う、という趣旨だった。
知性のない人は「東京と霞が関の間」と検索してしまう。ちなみに、これだと乗換案内が出てきてしまう。
知性のある人はここで、「丸の内線 路線図」と検索する。
路線図を出したら、あとは東京駅と霞が関を目で探す。東京の地理がだいたいわかっていれば、路線図のどの辺を探せばいいのかの見当はつく。
知性とは、こういうことだ。別に「答えは銀座駅だ!」と知らなくても、知性をもって正しい答えを導き出せる。
もちろん、知識は0では困る。だが、過剰な知識は知性を損なう。この辺も脂肪とよく似ている。つくづく、外山氏の知性に驚かされる。
まとめ
以前、友人からこんな話を聞いた。
ある学生が、「ググれば何でも調べられる時代なのに、どうして勉強しなければいけないのか」と先生に質問した。
先生は「知識を使えるようにしないと意味がないから」と答えたそうだ。
この「知識を使う」ということが知性の役目なのではないだろうか。
思えば、知識を活用して結論を導き出すことも、知識をわかりやすく他人に教えることも、「知識を使う」ということであり、その「知識の使い方」こそが知性なのかもしれない。
知識はあるけどその使い方を、燃焼の仕方を知らず、知識ばかりが無駄に肥大化し、知性を圧迫している。そんな知識デブは確実に存在する。
使い方を知らないから、せっかくの知識もただの自慢や、他人の罵倒ぐらいしかできることがない。知識が泣いている。
そんな知識デブは、あなたのすぐそばにいるのかもしれない。
いや、あなた自身が、知識に肥え太った、知識デブなのかもしれない……。