知識はあるけど知性がない、そんなやつを「知識デブ」と呼べ!

知識を自慢したがる人が多い。知識をひけらかし、自分より知識の少ないものを馬鹿にする、そんな人を、特にネット上でよく見かける。しかし、どんな知識もググればすぐに手に入る現代において、知識はそんなに価値がのだろうか。知識だけにかまけて、知性を磨くことをおろそかにしていないだろうか。


知識はあるけど、本質を見通せない人

過去に、このブログのコメント欄にこんな書き込みがあった。「どの記事か」を書いてしまうと、もはや名誉棄損になってしまうので、どの記事かは書かない。

僕の記事に対して、「前提が間違っている」「見当違い」というコメントだった。どうも僕が話題にしたことの専門家、専門の業者の方らしく、「なんでそんなこと詳しいの?」というくらい詳しかった。

批判は真摯に聞くとして、一方でこんな思いが沸き上がってきた。

確かに、僕の記事は前提が間違っていたのかもしれない。

……だから何だというのだろう。

前提に多少の間違いがあったとしても、結論は一緒ではないだろうか。結論部は変わらないのではないだろうか。

僕の前提が正しかったとしても、相手の前提が正しかったとしても、根本の部分は共通していて、結論部は変わらないはずなのだ。

そこのところ、むこうはどう思うのだろう、と考えて、「ずいぶんお詳しいですね。〇〇の原因などについてぜひ、詳しいお話をお聞かせください。」と返信した。「〇〇の原因」こそがズバリ、「結論部」にあたる箇所だ。

すると返事が返ってきた。「ずいぶんとお詳しいですね」という社交辞令に気をよくしたのか、長々と8行に渡って、最初の話題と「似たような事例」がつらつらと書かれている。

……あなたがその話題に詳しいことはわかったけど、僕は「似たような事例」を教えてくれなんて一言も言ってないんだよ。「〇〇の原因」についてどう思うかと聞いているんだよ。僕の導き出した結論と、あなたの思う結論が一緒なのかどうかを知りたいんだよ。

その肝心の部分に関してはたった一言、「〇〇が有名ですが、そこに答えがあるかと思います。」

その答えをあなたがどう考えているかを聞いてるんだよ! 「ここにあるかと思います」じゃなくて。

結局、この人は知識ばっかり豊富だが、「その知識がどのような結論を導き出すのか」「その知識でどうやって問題を解決するか」が全く見えていなかったのだ。

僕が気にしていたのは「前提がずれたら結論もずれるのか?」、その1点である。結論がずれないのであれば、多少の前提のずれは正直な話、どうでもいい。そして僕の考えは、「前提が多少ずれたところで、その根本の部分外れないのだから、結論はずれない」である。僕は相手に、前提がずれたら結論は変わるのか、変わらないのか、どう思うのか、むこうの意見を聞きたかったのだが、相手は全く関係ない知識を並べ立てたあげく、「そこに答えがあるかと思います。」=「私には答えがわかりません」と煙に巻いただけだった。

このように、「知識はあるのに、本質を見通す力のない人」を、僕は「知識デブ」と呼んでいる。必要以上にため込んだ知識が、かえって知性を圧迫している。

 知識はあるけど、教えない

SNSなんかを見ていると、政治問題に関してちょっと間違ったことを言うと、何か罪でも犯したかのように批判が集まる。やれ、バカだのアホだの、勉強してから発言しろだの、人格否定の集中砲火だ。

間違った知識をただすことはよいことだ。間違った知識をSNSに書いて、誰かがそれを信じて、それが広まるのはよくない。

だが、同時にこうも思う。

罵倒する必要なんて全くない、と。

ある程度強い言葉や皮肉を言わなければ伝わらない場合もある。だが、人格否定レベルの罵倒する必要などあるまい。

相手の知識が間違っている、そう思ったら、正しい知識を教えてあげればいいのだ。それこそが、知識を持つ者の責務ではないだろうか。

「教える」というのは、知識があるだけではできない。知性を必要とするものだ。「相手が何を理解していないのか」「何がわかっていないのか」「どう説明すればいいのか」に思いをはせる。これは知識ではなく知性が必要だ。相手の知識・知的レベルを推し量り、思いをはせることが重要だ。

だから、勉強ができる人=いい先生、とは限らない。「知識が豊富である」と「教えるのがうまい」のはまた別なのだ。

知識のない人を罵倒する人を見ると、教えるだけの知性がないのではないか、と思ってしまう。

教えることで有名な人に、池上彰さんがいる。例えば池上さんに、「どうしてアメリカと北朝鮮は仲が悪いんですか?」と質問したとしよう。ここで池上さんが「そんな簡単なことも知らないのか、バカ! 勉強してから発言しろ!」と言った日には、彼の仕事はなくなる。絶対にそんなことは言わないからこそ、池上さんの話は人気なのだ。

そういった初歩的な質問を投げかけられた時、池上さんはこういう。

「いい質問ですねぇ」

そういわれると、質問した側も悪い気はしない。「なんだ、バカみたいな質問でも、臆することなく言っていいんだ」とどんどん質問して、議論は活発化し、どんどん話は深まる。知識も深まる。

これが知性である。どうすれば相手が気持ちよく学習できるかに頭を働かせるのだ。それができない人が、知識のない人を「勉強しろバカ!」と罵倒する。ただ、自分の知識を自慢したいだけである。

これまた、知識デブである。知識ばっかり肥えて、教えるだけの知性が身についていない。

知識デブの知識自慢だなんて、デブの体重自慢のようなものだ。見苦しいことこの上ない。

ちなみに、なぜアメリカと北朝鮮は仲が悪いのか、の答えであるが、

興味がないから知らない。

知的メタボリックについて

「知識のある人」ならばもしかしたら、「知的デブ」が僕のオリジナルの言葉ではないことに気付いていたかもしれない。

「知識デブ」というのは、外山滋比古が提唱している「知的メタボリック」の言いかえである。「知的メタボリック」よりも「知識デブ」の方が、ことの危険性をより分かりやすく伝えられると思って、言い換えてみた。

だが、外山氏の「知的メタボリック」という言葉も、なかなか的を得た言い方だ。過剰な内臓脂肪が内臓や血管を圧迫して健康を害するように、過剰にため込んだ知識が却って知性を損なっている、というのが外山氏の言う「知識メタボリック」の本質だ。

知識があれば思考で苦労することがない。思考の肩代わりをする知識が多くなればなるほど思考は少なくてすむ道理になる。その結果、ものを多く知っている人は一般に思考力がうまく発達しないという困ったことが起こる。(『忘却の整理学」より)

外山氏は大学で教鞭をとっているなかで、日ごろよく勉強をしている学生の卒論よりも、あまり勤勉でない学生の卒論の方がしばしば面白い、ということに気付き、「知識が知性を邪魔しているのではないか」と考えるようになった。

外山氏の論はあくまでも「エッセイ」であり、学術的なものではない。が、知識があるのに知性がない知識デブが多いのは、検証したとおりである。知識の量ばっかりありがたがって、知性を磨くことをおおろそかにしたあげく、本質を見通すことも、他者に教えることもできずに、知識自慢しかできない残念な物知りで終わってしまう。「馬鹿の一つ覚え」とはよく言ったものだ。

いかに優れた名刀を持っていようと、それを握った人間に剣術の心得がなければ意味がないのと一緒である。

そもそも、今や何でも「ググれば一発」の時代である。物知りよりも「検索の早い人」の方が重宝される時代に、物知りであると自慢するなんて、それこそ知性がない証のようなものだ。一方、検索は「どうすれば目的の知識を引き出せるか」と頭を働かせることであり、検索の旨い人というのは、知性がある人だ。

たとえば、以前ラジオのクイズで「丸の内線の駅で、東京と霞が関の間にあるのは何駅だ」という問題が出た。

このクイズの面白いところは「検索クイズ」と言って、パソコンやスマートフォンで検索してもいい、むしろ、検索の早さを競い合う、という趣旨だった。

知性のない人は「東京と霞が関の間」と検索してしまう。ちなみに、これだと乗換案内が出てきてしまう。

知性のある人はここで、「丸の内線 路線図」と検索する。

路線図を出したら、あとは東京駅と霞が関を目で探す。東京の地理がだいたいわかっていれば、路線図のどの辺を探せばいいのかの見当はつく。

知性とは、こういうことだ。別に「答えは銀座駅だ!」と知らなくても、知性をもって正しい答えを導き出せる。

もちろん、知識は0では困る。だが、過剰な知識は知性を損なう。この辺も脂肪とよく似ている。つくづく、外山氏の知性に驚かされる。

まとめ

以前、友人からこんな話を聞いた。

ある学生が、「ググれば何でも調べられる時代なのに、どうして勉強しなければいけないのか」と先生に質問した。

先生は「知識を使えるようにしないと意味がないから」と答えたそうだ。

この「知識を使う」ということが知性の役目なのではないだろうか。

思えば、知識を活用して結論を導き出すことも、知識をわかりやすく他人に教えることも、「知識を使う」ということであり、その「知識の使い方」こそが知性なのかもしれない。

知識はあるけどその使い方を、燃焼の仕方を知らず、知識ばかりが無駄に肥大化し、知性を圧迫している。そんな知識デブは確実に存在する。

使い方を知らないから、せっかくの知識もただの自慢や、他人の罵倒ぐらいしかできることがない。知識が泣いている。

そんな知識デブは、あなたのすぐそばにいるのかもしれない。

いや、あなた自身が、知識に肥え太った、知識デブなのかもしれない……。

「やりたいことができない人」はダメ人間なのか?

「やりたいことがあったら、できない言い訳などせずに、やろう!」みたいな論調をよく自己啓発本とかで見る。まるで、やりたいことができない人間はダメ人間である、とでも言いたげである。しかし、本当にそうなのだろうか。「やりたいけどできない」の裏には、その人にとって何か大切なものが隠れているんじゃないだろうか。それを無視して、簡単に排除していいのだろうか。

やりたいことをやろう!

人生は、やりたいことをやるべきである。

なるべくやりたくないことを排除し、やりたいことをやる。

「やりたくないこと」を排除していくと、ストレスがなくなる。

ストレスがなくなるとストレスに対する許容量が増える。余裕が生まれる。

その結果、ちょっとくらいのストレスが気にならなくなる。

たとえば、駅に行ったら人身事故で電車が止まってる。いつ帰れるかわからない。これは結構なストレスだ。ほかの客の舌打ちなんかも聞こえてくる。日ごろからストレスの多い生活を送っていると、もうストレスの許容量がなくなり、結果「電車が止まってる」というストレスに耐えきれずに、いらいらする。ひどい人は駅員にあたる。

だが、ストレスの少ない生活をしていると、ストレスを受け入れる容量がまだたくさんあるので、「まあ、これくらいいいか」で済ますことができる。

こういったことは自分の身で実証済みだ。

人生は、やりたくないことを減らして、やりたいことをバンバンやるべきである。

だから、「やりたいけどできない」というのはよくない。「できない言い訳」は勇気を出してつぶし、やりたいことをばんばんやるべきだ!

……という論調が世の中多い。

実際、「やりたいこと できない」で検索をかけると、そういった論調が多い。

「世の中には、やりたいことをやる人と、やりたいことができない人がいる。お金がない、時間がない、自信がない、そういった理由でやりたいことにブレーキをかけている。でも、それはよくない! やりたいことをやって、人生を豊かにしよう!」

今回は、こういった論調に疑問を呈していきたい。

「くだらない理由」の裏にある大切なもの

以前、こんなことがあった。

友達に地球一周の旅の話をしていた。

一応言っておくと、自分から「オレの旅の話を聞きたいだろ?」と切り出したのではない。むこうから話してくれと言われて話しているのだ。

話し終えるとみんな「いいなぁ」と言う。

なので僕が「だったら行けばいいじゃん。何なら、スタッフとか紹介するよ」というと、友人の人がこう言った。

「履歴書に穴が開くと、社会にカムバックできなくなる」

なんだそのくだらねぇ理由、と正直その時は思った(口に出してはいない)。そんなくだらないことを気にしているのか、と。そういうくだらねぇ理由を考えなくて済む世の中になればいい、そう思った。

それから3年たった今、僕はこう考えている。

あの時「くだらねぇ」と思った理由の中に、友人の大切にしている何かがあったのではないか、と。

それを「くだらねぇ」の一言で斬り捨ててしまうことが、一番くだらないことだったのではないか、と。

「履歴書に穴が開くと、社会にカムバックできなくなる」ということは、その友人は「社会参加」、もっと言えば「働いてお金を稼ぐこと」に対しても価値を見出している、大切に思っている、ということではないだろうか。

それを理解しようともせず、「くだらねぇ」の一言で斬り捨てることが一番くだらないことではなかったのか。

大切だから、失うのが怖い

2017年に放送されていた「宇宙戦隊キュウレンジャー」にこんなシーンがあった。

主題歌の中で「考えてわかんないことは速攻近づこう Space jurney やらない理由など探さずに」という歌詞があるのだが、一方で、最終回直前にこう言ったやり取りがあった。

最終決戦前、ヘビツカイシルバーことナーガ・レイというキャラクターが、「怖い」という感情を口にする。

このナーガというキャラがけっこう変わったキャラで、彼は感情を持たない一族の出身だ。はるか昔、争いの絶えなかったその一族は争わないようにするために感情を捨てたのだ。

その一族の出身であるナーガは「感情を学びたい、手に入れたい」と旅に出て、やがてキュウレンジャーに加入する。そして、物語の中で少しずつ感情を学んでいく。

そのナーガが口にした「怖い」という言葉に、ナーガとずっと一緒に旅をしてきた相棒のバランスというキャラクターがこう答える。

「おめでとう。君は『怖い』という感情を手に入れたんだ。それは『今を失いたくない』という思いなんだよ」

最終決戦で勝てる保証などない。もしかしたら死んでしまうかもしれない。自分は生き残っても、大切な仲間を失ってしまうかもしれない。

それが、怖い。

「できない」という理由の裏にはこの「怖い」という感情が隠れていることが多い。

たとえば好きな人がいるとしよう。

面と向かって「君が好きだ」と叫んだら、振られてしまうかもしれない。

どうして振られるのが怖いのかというと、「今の関係」を失うのが怖いからだ。

「君が好きだ」という思いと同じくらい、「今の関係性を失いたくない、壊したくない」という思いも大切なのである。

それを「勇気を出して告白しよう!」とか、「思いを伝えないと先に進まないよ」と言ってしまうのは簡単。

でも、「君が好きだと言いたいけど、今の関係を失いたくないからできない」、ここまでがワンセットでその人の個性、その人の価値観である。

それを「後半部分だけ斬り捨てろ」というのは、道理が通らないのではないか。

それを「個性の尊重」と言えるのだろうか。「できる自分の価値観」を「できない人」に押し付けているだけではないだろうか。

それでもやりたいことをやりたい人へ

「やりたいけど、お金がないからできない」のは、その人にとってお金が大切だからである。

「やりたいけど、時間がないからできない」のは、その人が別の大切なことに時間を費やしているからである。

「やりたいけど、自信がないからできない」のは、その人が失敗を恐れているからである。失敗したって死にはしない。が、何かを失う。その「何か」がその人が大切にしているものである。

「やりたいけど、家族が反対しているからできない」のは、その人にとって家族も大切だからである。

「できない理由」の裏には、その人が大切にしている何かがある。

そもそも、大切でないものなんか、最初から天秤にかけたりしない。

自分の例になるが、僕が地球一周の船旅を決断できたのは、決して人より行動力があるからでも決断力があるからでもない。

当時僕は仕事をしていなかった。しかし、前の仕事でためたお金がけっこうあった。

天秤にかけるものがな~にもなかった。ただそれだけである。

仕事はしてなかったし、お金も「ある程度は使えるな」と大して重視していなかった。

たいして大切じゃなかったから、天秤にかけなかった。それだけだ。

「やりたい、でも……」と天秤にかけている時点で、それはとても大切なものなのだ。

それを「勇気がない」「行動力がない」「決断力がない」と捨てさせようとする。

それは、その人のことを考えているように見えて、

ただ、自分の「やりたいことができる人」の価値観を押し付けているだけである。

それは、優しさとは言えない。

もちろん、やりたいことはやるべきである。その方が人生は楽しい。

でも、「できない理由」もその人にとっては、失いたくない大切な「何か」である。

「やりたいこと」だけを優先して「できない理由」を「臆病だ!」「勇気を出せ!」と切り捨てさせようとするのは、その人の尊厳を踏みにじっていることに等しい。

しかし、「できない理由」だけを尊重して、「やりたいこと」を我慢するのも、やはり人生を無駄にしている。

ならば、道は一つだ。

本当にその人のことを考えるのであれば、「やりたいこと」と「できない理由」の両方を尊重するべきである。

つまり、「両方が実現できる方法を探す」べきなのではないか。

「好きだといいたいけど、今の関係を失いたくない」というのなら、かけるべき言葉は「勇気を出して告白しろ!」ではなく、「今の関係を維持したまま、好意を伝える方法」なのではないだろうか。

「やりたいけど、お金がないからできない」というのなら、言うべきは「お金を言い訳にするな!」ではなく、お金を稼ぎながらやりたいことを実現する方法ではないだろうか。

「やりたいけど、時間がないからできない」というのなら、言うべきは「仕事なんかやめちゃえ!」ではなく、「仕事をしながら短時間でやりたいことをする方法」か、「仕事の時間を減らす方法」ではないだろうか。」

「やりたいけど、家族が反対しているからできない」というのなら、言うべきは「家族のことなんか忘れろ!」ではなく、家族との関係を崩すことなく、やりたいことを実現する方法なのではないだろうか。

「やりたいこと」と「失いたくないもの」、両方を実現すること、それが一番「その人らしい生き方」のはずだ。

「やりたいことをやりたいなら、『失いたくないもの』を捨てろ!」と言えるのは、所詮は他人であり、その人にとっては相手の「失いたくないもの」なんてどうでもいいからである。むしろ「やりたいことをやれてる自分」に酔っているから相手に押し付けたいだけかもしれない。

やりたいことがあるけどできない人へ

できない理由はいろいろあると思うが、やっぱり何かを恐れているからだろう。

何を恐れているのかと言えば、リスク、つまりは、何かを失うことを恐れているのだ。

あなたが失うことを恐れているそれは、あなたにとってとても大切なもののはずだ。

でなければ、最初から天秤にかけて悩んだりしない。

「リスクを恐れずに!」「勇気を出せ!」「後先考えるな!」と他人に口で言うのは簡単。

でも、『失いたくないもの』を失って、傷つくのは自分である。

やりたいことをかなえたい。

でも、大切なものを失いたくない。

ならば、道は一つだ。

失いたくないものを守りつつ、やりたいことをかなえる。

両方を取りに行く。それしか道はない。

そして、それが一番「自分らしい生き方」である。

欲張り? 何を言っているのか。

天秤にかけている時点で、最初から欲張りなのである。

本当は両方手に入れたいのである。

やりたいけれどできない。そんなことを言うと、「自分の気持ちに素直になって」と「やりたいこと」だけを取らせようとする人が多い。

でも、自分の気持ちに素直になるのなら、

両方取りに行け。

旅好きな人の性格は意外と不寛容なんじゃないかというブログ

ピースボートの乗客に話を聞くと、よく「世界を回って、多様な価値観を知った」という。世界一周などを経験してる旅人は大体そういう。多様性が大切だ、と。……本当にそうだろうか。いや、実際、世界にはいろんな価値観の人間がいる。僕が問いたいのはそこではなく、「本当に世界を旅すると多様な価値観が身につくのか」という点である。


日本のパスポートは最強なのだから日本人は旅をするべき! なのか?

船を降りてまだ1年もたっていないとき、ピースボート主催のささやかなイベントに出席した。

その時のテーマは確か「日本人は恵まれてるんだから、旅に出ない理由はない!」とかそんな感じだったと思う。

どういう意味で「日本人は恵まれている」のかというと、「日本のパスポートは最強である」という理由らしい。

基本、日本のパスポートはどこの国へ行ってもすんなりと入国できる。こんなに信用度の高いパスポートを持つ国はそうそうないらしい。日本人は恵まれているのだ。

確かに、ネットで「日本 パスポート」と検索すると、サジェストに「威力」とか「最強」とか、なんだかドラゴンボールみたいな単語が出てくる。それだけ日本のパスポートはすごいのだ。

ところが、そんな世界最強のパスポートを日本は発行しているにもかかわらず、日本国民のパスポート所持率はわずか25%(2017年)。

ちなみに、アメリカ人は約4割がパスポートを持っていて、イギリス人はなんと7割がパスポートを持っているのだから、どうやら日本のパスポートの所持率は低いらしい。

20代に至ってはなんとパスポートの取得率は5%だという。なんと、消費税よりも低い。

ちなみに、僕は、「パスポートを持っている珍しい20代」である。地球一周の船旅が3年前なのだから、当然と言えば当然だ。

世界最強のパスポートを持っているのに、日本人が世界を旅しないのはもったいない! みんな、もっと世界を旅しよう! こんなに恵まれた国にいて、旅に出ない理由なんてない!

……というのがその時のイベントの趣旨だった。

その時はうんうん、もったいないなぁとうなづいていたのだが、3年たった今、ふと思う。

こんなに恵まれた国にいて旅にでない理由なんてない! 日本人はもっと旅をするべきだ!

……本当にそうなのだろうか。本当に、旅に出ない理由はないのだろうか。

旅をする人、旅をしない人

このことを考えるにあたり、自分の友達でよく海外に行く人と全く行かない人を思い浮かべて比較してみた。

毎年夏になると必ず海外に行く友人がいる。「その時期は日本にいない」なんて言われると、ああ、もうそんな時期か、なんて思う。

一方で、生まれてこの方海外なんて行ったことないんじゃないか、という友人もいる。

海外旅行によっく行く人と、まったくいかない人、彼らで何が違うのだろうか、と考えてみた。

さっきのイベントだと、なんだか行動力の差、もっと言えば勇気があるか、度胸があるか、積極的か消極的か、みたいな論調だった。みんな、もっと積極的になろう、海外に行こう、視野を広く持とう、と。

だが、周りの友人たちを比べても、海外に行くやつが特別度胸があるとか、海外に行かないやつが消極的で視野が狭いとか、そんな印象はない。語学力だって同じくらいだと思う。経済力も違いはないだろう。

果たして、海外によく行くやつと、全然いかないやつ、その差はいったい何なのか。

両者を比べてみて、一つの可能性に行きついた。それは、

海外によく行くやつはアウトドア趣味であり、海外に行かないやつはインドア趣味である!

というよくよく考えれば当たり前のことだった。

そう、海外によく行く友人は、アウトドア趣味なのだ。海外に限らず、普段からよくいろんなところに出かけている。

一方、海外に行かない友人はインドア趣味なのだ。普段から家の近くで過ごしている。

これはもう、趣味の問題である。

もちろん、すべての人間がこれに当てはまるわけではない。

だが、海外に行く人と行かない人の差は、度胸がないとか、視野がどうこうとかそういうのではなく、ただの趣味嗜好である、という可能性がある。

日本人は4人に一人しかパスポートを持っていないという。

それはそのまま、アウトドア派とインドア派の比率が1:3である。ということを表しているだけなのかもしれない。

20代の場合はパスポート所持率は5%しかない。さすがに20代の95%がインドア派である! とまではいわないが、今の20代はインドア派が多いのではないだろうか。

でなければ、秋葉原があんなに発展するわけがない。あの町は漫画とかゲームとかフィギュアとかアニメグッズとかパソコンの部品とか、「おうちで楽しむもの」を中心に売って今の姿となったのだ。。

そう、外に出ないでも、20代は結構楽しんでいるのだ。

僕らが旅に行かない理由

なぜ、今の若者は海外に行かないのか。

それはあれが足りないとか、これを知らないとか、今の20代に何かが不足しているわけではない。それは、「旅に出ることが正義」という旅人の中だけで通用する、意外と視野の狭い考え方である。

なぜ今の若者は海外に行かないのか。

別に行こうと思わないからである。

日本のパスポートは世界最強である。そんな恵まれた国に生まれた僕たちが、旅に出ない理由なんてない?

理由なんて腐るほどあるさ。

興味がない。

つかれる。

めんどくさい。

別に旅が好きじゃない。

そんな時間があったら家でアニメを見たい。

そんなお金があったら、日本のお寺やお城をめぐりたい。

そもそも、家から出たくない!

知らない人コワい!

旅に出ない理由なんていくらでもある。

旅に出ない理由が、「本当は世界を旅してみたいけど、親が反対していて」とか、「お金がなくて」とか「幕府に禁じられてて」といった外的な抑圧が原因だった場合、それはなんとしても排除し、旅に出られるようにするべきだ。

ただ、性格、趣味嗜好の問題で、「別に行かなくてもいい」と思っているのであれば、

無理に海外を旅しなければいけない理由なんてない。

「そんなことない! 世界を旅するのは楽しいよ。旅に出れば考えは変わるって!」

というポジティブ旅人の声が聞こえてきそうだが、

「楽しいから行こう」はあまり勧誘の決め手にはならない。

こんな経験はないだろうか。相手にひたすら自分の趣味の話をして、あわよくば相手も同じ趣味に引きずり込もうとするのだが、「またその話か……」とうんざりされることを。

そう、いくら熱心に「楽しいよ!」「面白いよ!」と進めても、「そう? じゃあ、やってみるか!」と相手がなるのはごくまれで、それこそ95%はうんざりされて終わるのだ。

ちなみに、僕がこのブログでよくピースボートの話をするのは、「ピースボートは楽しいよ! 面白いよ!」と人に薦めたいから、ではなく、単にピースボートについての記事は閲覧数が高い、というデータに基づいてである。

日本のパスポートは世界最強である。なのに、なぜ日本の若者は海外に行かないのか⁉

そんなの、人それぞれである。無理強いはよくない。

旅好きの「国内蔑視」

そもそも、どうして「海外を旅すること」にこだわるのか。別に国内旅行だっていいじゃないか。

確かに、海外を旅することは楽しい。言葉の通じない国、まったく違う文化、食べたこともない食べ物。海外を旅することは刺激的だ。確かに、国内旅行よりは刺激が多い。

だが、日本国内も十分刺激が多い。

同じ日本でも都会と田舎は全然違うし、北と南も全然違う。山村と漁村も全然作りが、風景が違う。

土地によっていろんな郷土料理があるし、時には方言が全く聞き取れないときもある。

地球一周をして思ったことが「世界にはやばい国がたくさんある」ということだった。

そして、こうも思った。「日本だって同じくらいやばいはずだ」と。

別に僕は、「日本が世界で特別な国」だなんて思っていない。

それは「日本は世界で特別すごい国ではない」と思っていると同時に、「日本は世界で特別しょぼい国でもない」ということだ。日本には日本の魅力がある。

「世界を旅すること」というのは、世界のいろんな国の魅力を発見していくことだ。

その視点があるなら、日本の魅力だって見つけられるはずである。旅をする前は当たり前すぎて見逃していた日本の魅力に、世界を旅して養ってきた視点があれば、気づけるはずである。

ところが、どういうわけか日本の旅好きは「国内蔑視」がはなはだしいように感じる。「地球一周」を掲げるピースボートは団体の特性上、海外の話ばかりするのはしょうがないのかもしれないが、ピースボートとは本来直接関係のない人だったり団体だったりイベントだったりもみな、「海外へ行こう!」の一辺倒。

国内旅行がそんなにいけないのだろうか。もしも、「国内を旅したって、海外のような体験は得れない。やっぱり海外じゃなきゃダメだ」と考えているのだとすれば、

それこそ視野が狭いんじゃないだろうか。

「やらない理由」に愛をくれ

どうも、旅好きの多くは「やらない理由」に対してあまりにも不寛容なのではないか。最近、そんなことを考えている。

旅に行っていろんな国を見て回ることが正義であって、なんだかんだ理由をつけてやらないのはよくない、そういう風潮を感じる。

僕も昔は、それこそ船を降りた直後はそんな風に考えていた。

だが、最近こう考えるようになってきた。

「やらない理由」にその人らしさが出るのではないか、と。

「〇〇したいけど、××だからしない、やらない、できない」といった話を聞いた時、僕たちはつい「〇〇」だけがその人の本音であり、「××」の部分は本音を邪魔する障害だと考えてしまう。

その結果、「〇〇したいけど××だからやらない」という話を聞くと、「気持ちに素直になって」とか、「動かなきゃ何も変わらないよ」とか、「後悔してからじゃ遅いよ」とか、「男ならどんと行け!」とか、どっかのラブソングの焼き直しみたいなことを言って、「〇〇」を実行させようとする人が出てくる。「××」は完全な悪者だ。

だけど、違うのではないか。

「〇〇」が本音であって「××」は障害や言い訳なのではない。

「〇〇したいけど××だからやらない」、ここまでがセットとなってその人の「本音」なのではないだろうか。

「海外に行きたい!」「お店を持ちたい!」「結婚したい!」、こういったポジティブな「〇〇したい!」はその人の人間性がよく表れている。

一方で、「怖いから無理」「自信がないからやらない」「めんどくさいからいい」といったネガティブな「でも××だから……」にもその人の人間性が色濃く反映されているのではないだろうか。

「〇〇したい!」がその人の人格の光りの部分なら、「でも××だからやらない」は影の部分である。

そして、光と影の両方を理解することが大切なんだと思う。

「怖いけど勇気をもってやってみよう!」とか、「自信なんてなくたって大丈夫!」とか、「めんどくさくても動かないと始まらないよ!」という励ましの言葉は一見いいこと言っているようにも見える。

いいこと言っているように見えて実は相手の人格の影の部分を完全に無視している。

怖いとか、自信がないとか、めんどくさいとか、そういったネガティブなセリフをその人が吐くようになったのには、その人の人生に基づいたそれなりの理由があるはずだ。そこにその人の人生や価値観がもしかしたら凝縮されているのかもしれない。

もしかしたら、「でも××だから……」の部分にその人が大切にしているものが隠れているのかもしれない。

そして、ネガティブやコンプレックスがあってこその人間なのではないだろうか。

君が好きだと叫びたい。けど言えない。

会いたくて会いたくて震える。でも会いに行かない。

海外を旅してみたい。でもいかない、いけない。

こういう矛盾をはらむから、人間は面白いのだ。愛らしいのだ。

なのに、「でも××だから…」の部分を、あまりにも僕らはないがしろにしているのではないだろうか。

「世界を旅するといろんな価値観に気付く」「多様性が大事」だというのならば、「やらない理由もその人の個性」であることを認め、尊重しなければいけないはずだ。

もっと「やらない理由」を愛してやってもいいんじゃないだろうか。

みんながみんな旅をしなくたっていいじゃないか

日本のパスポートは世界最強なのに、日本人は75%がパスポートを持っていない。それでいいのか⁉

いいんです。むむっ!

旅に出る理由が人それぞれであるように、旅に出ない理由もまた人それぞれである。どちらを取るかは人それぞれだ。

海外のいろんな国を旅することが素晴らしいように、日本国内を旅することもまた素晴らしい。どちらを取るかは人それぞれだ。

「旅をしたい!」と思う気持ちにその人の個性が現れるように、「けどやらない、できない」という言葉にもまた個性が現れているのだ。どちらがより大事かは人それぞれだ。

そもそも、みんなが旅に出なきゃいけない理由なんかない。

旅をする楽しみは、わかるやつにだけわかる、マイナーな趣味、それでいいじゃないか。

「それじゃいけない! 旅をすることでいろんな価値観に気付ける! 人生が変わる! みんな、旅をするべきなんだ!」

でも、家でアニメを見て人生が変わることだってある。家で小説を読んで価値観が広がることもある。

何が人生を変えるのか。何が価値観を広げるか。

そんなの、人それぞれだ。

この、「そんなの、人それぞれ」という視点が欠けている旅好きがあまりにも多いんじゃないか。

そう思って今回、筆を執った次第である。

高橋歩の本に、もう一度だけ向き合ってみることにした

自由人・高橋歩と言えば旅人のカリスマだ。僕は「ここがヘンだよ旅人たち」という記事の中で、「旅は好きだけど、高橋歩の本は好きではない」という話をした。特に反響はなかったが(ないんかい)、やっぱり食わず嫌いはよくない、ということで、3年前に挫折した高橋歩の本をもう一度読んで、もう一度高橋歩に向き合ってみることにした。

夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。

高橋歩の名言で真っ先に思いつくのがこの言葉だ。

「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」

「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。だから逃げるな」といった感じでとらえられる言葉のようだ。

ところが、僕なんかが読むと、どうもこの言葉は人を追い詰める言葉に聞こえてしまう。

別に逃げたっていいじゃないか。あんまり思い詰めると、かなう夢もかなわない。

一度逃げて、再び夢を追いかけたくなったら、同じ場所に戻ってくればいい。だって「夢は逃げない」のだから。ならば「自分」が逃げようがどうしようが、同じ場所で待っててくれてるはずだから、辛くなったら逃げればいいと思う。

「夢は逃げない。だから、またあとで戻っておいで」みたいな方が僕は好きだ。

と、ここまで考えて、ふと思う。

この言葉の初出はどこだ?

よもや半紙に習字で「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。 あゆむ」とだけ書かれて、蕎麦屋のトイレに飾ってあったわけではあるまい。

もしかしたら、元々はそれなりに長い文章の一部分で、インパクトのあるこのフレーズだけが独り歩きしているのかもしれない。

だとしたら、元々の文脈がわからないままにこの言葉を論評するのは反則ではないか。もしかしたら、元の文章にはめ込んでみると、すごく納得のいく言葉なのかもしれない。

これを機に、かつて挫折した高橋歩の本に、もう一度だけ向き合ってみよう。そういえば、ちゃんと最後まで読み通したことがない。ちゃんと読んだら、「なんだ、高橋歩、面白いじゃん」となるかもしれない。

そう思ったら、本を手元に置けばいい。「やっぱり、高橋歩は好きになれない」と思ったらブックオフに売り飛ばせばよい。

よし、もう一度だけ、高橋歩に向き合ってみよう。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも……自分だ。

本が見つからない。探すのはいつも自分だ。

まず、地元の図書館に行き、「高橋歩」で検索をかける。

何種類か見つかったが、どれも部数は一冊ずつ。おまけに、どれも貸し出し中。

僕はさいたま市全体のデータベースに検索をかけている。さいたま市は合併に合併を繰り返した結果、市内に数えるのがイヤになるほどの数の図書館がある。

にもかかわらず、高橋歩の著書は一冊ずつ。数えるのがイヤになるほどの数の図書館の中で、同じ本は一冊しかない。案外、高橋歩は人気がないのかもしれない。

その一方で、本はすべて貸し出し中。やっぱり高橋歩は人気があるのかもしれない。

次に、近所のブックオフに行ってみた。

ところが、ここでも見つからない。

ブックオフに一冊もないとは、案外、高橋歩は人気がないのかもしれない。

一方で、ブックオフにないということは「買った人が著書を手放さない」ということだ。やっぱり高橋歩は人気があるのかもしれない。

そして、二件目のブックオフでついにこの本を見つけることができた。

「『夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。』、この言葉には初出があるのではないか。このフレーズだけが独り歩きしているのではないか」

初出は、本のタイトルだった!

そりゃ、独り歩きしますわ。だって、タイトルだもの。

ちなみに、表紙に写っている男の子は高橋歩、ではない。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。

プロローグにこう書かれている。

この本は、高橋歩が、これから夢をかなえようとする仲間、後輩、読者たちとの飲みの場で、本気で語ってきた様々な言葉、エピソード、アドバイス、ユーモア、考え方を一冊にまとめた語録集だ。

重要なのは「飲みの場で」というフレーズだ。

どうやら、これから読む言葉は酒の席での言葉らしい。

なるほど、これまで高橋歩の文章は「距離が近い」と敬遠してきたが、「酒の席での言葉」だという前提なら、ある程度は納得できる。

さて、ページを進めていこう。

オレらが何かを始めるとき、世の中は必ずというほど「理由を説明しろ」と言ってくる。でもそんなもん、自分がただ「カッケェって思う」とか「鳥肌が立つ」とか「ああいう風になりてぇ!」とかで十分じゃね?

僕もそう思う。人生において重要な選択をするときほど、理由が他人にうまく説明できないというのは何回か経験している。

ただ、最後の「じゃね?」というのが非常に引っかかる。

この一言が、なんか全部を台無しにしているように僕には感じ取れてしまう。

もちろん、こういった口調がいい! という人もいるのだろう。

一方で、僕はこういった口調の本はちょっと受け入れられない。友達でもない人が急に「じゃね?」と話しかけてきたら、はっきり言って腹が立つ。

わかってる。これは「飲みの席での言葉」だということは。飲みの席の言葉なら別に語尾が「じゃね?」でもいいんじゃね?(せっかくなのでちょっと真似してみました)

しかし、まさか飲みの席の言葉を全部録音して、一字一句そのまま書いているわけではあるまい。本人や周囲の記憶に基づいて「こんなこと言ってたよね」と思い出して、本に収録しているはずだ。

だとしたら、語尾は果たして「じゃね?」でいいのか。「本に収録するんだし、語尾は『じゃない?』に変えようよ」という発想はなかったのだろうか。

本気さで勝つ、

アツさで勝つ、

バイブスで勝つ!

「新しいフィールドで挑戦しようとすると、」という出だしで始まる文章の一説。要は「初挑戦で実績なんてあるわけないのだから、やってみなきゃわからないに決まってる。初めてやるときは、本気さ、アツさ、バイブスくらいしかよりどころがない」ということらしい。

言っていることはわかる。初挑戦に実績なんてあるわけない。そりゃそうだ。

だが、いくら何でも考えがなさすぎないか? たぶん、「初挑戦で失敗していった人」の多くは「精神論でなんとななると思ってた」のではないだろうか。

あと、僕のように「何事も7割投球」というスタンスの人間は、こういうこと言われるともうどうしていいのかわからなくなる。

才能があろうがなかろうが、できるまでやれば絶対にできちゃうわけだからね。

人には向き不向きがあり、世の中にはどんなに頑張っても努力してもできないことがたくさんある。

BELIEVE YOUR 鳥肌

言いたいことはわかるんだけど……、「鳥肌」だけ日本語なのが中途半端に見えて、この言葉の良さを損ねている気がしてしょうがない。「鳥肌」も英語にするか、「鳥肌」をもっと簡単な英単語で置き換えるか……、

そもそも、わざわざ英語にしなくても「鳥肌を信じろ!」でいいんじゃね?(せっかくなのでもう一回真似してみました)。

日本の政治家に不満? ハイ、そう思う人は政治家になりましょう。

政治家になっちゃったらそれこそ高橋歩が嫌いそうなよくわかんないしがらみとかで身動き取れなくなってしまう。政治を変えたかったら、政治家にはならない方がいい。

あと、「政治家にならなくても政治に参加できるのが民主主義」っていうのを聞いたことがある。「政治に不満があるなら政治家になれ」っていうのははっきり言って視野が狭いと思う。もっとほかに道はいくらでもある

まず、やり過ぎる。そして気付く。自分なりのバランスはそれからで十分だべ。

「十分だべ」。

……どこ弁だ?

プロフィールには「東京生まれ」と書いてある。「だべ」について調べてみると、「だべ」は実は東日本で割と広く使われている方言らしい。

この本にはほかにも「だべ」という言葉がよく出てくる。

それまで特に訛りなど感じさせていないのに、たまに「だべ」という言葉を使われると、どうも文章のバランスが悪くなって引っかかる。訛るなら全部訛ってほしい。

本全体を通して、言っている内容はわかる。ツッコみどころもあるが、賛同できる個所もある。

だが、文章の細かい表現とかがどうしても気になってしまう。

「じゃね?」とか「だべ」とか「即〇〇」とか「最強!」とかこういったフランクな文体が、少しずつ僕の体力をそいで行く。僕の周りにこう言う言葉遣いをする人はいないので、慣れていないだけなのかもしれないが、「またこのフランク表現か……」と頭を抱え、気づけばページをめくる手が重くなっていく。本を読んでいてこんなにも体力を消耗したのは初めてだ。

読むのをやめようかとまで考えたが、今回のテーマは「もう一度だけ高橋歩に向き合ってみる」だ。最後まで読み通せば何か考えも変わるかもしれない。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも……自分だ!

それに、そもそも僕が細かい表現とかを気にしている方がおかしいのかもしれない。表現などは些細な問題で、ところどころツッコみどころもあるが、「覚悟を決めろ」とか「まずは行動しろ」とか「直観を信じろ」とか、賛同できる個所は多い。

「僕が細かいのか? 僕がおかしいのか?」

そう思いながら本を読んでいた。135ページ目までは。

誰も矛盾を指摘しない。指摘するのはいつも僕だ。

135ページにはこう書かれていた。

本当に好きなようにやるなら、自腹でやれって想うよ。

この言葉を読んだとき、僕に衝撃が走った。高橋歩風に言えば「脳みそスパーク」……とはちょっと違うかもしれない。

なぜなら、この衝撃とは、「さっきと言ってることが違う!」という衝撃だったからだ。

わずか7ページ前にこう書かれていた。

友達から金を借りるのはイケナイことか?

この後、高橋歩がサラ金に手を出し、友達からお金を借りたエピソードが続く。この2ページ前には

とりあえず借金ぶっこいてとにかく始めちゃって、1年後にはもう店つぶしちゃって、(中略)ヤツの方が、絶対にアツい。

要は、高橋歩は「やりたいことがあるなら貯金なんてしてないで、借金してでもやれ」と言っているのだ。

にもかかわらず、7ページ後に「自腹でやれ」。さらにその次のページでは

オレは、他人の金で自分の夢を追うようなまねはしない。

とまで言い切っている。借金をしたエピソードはいったい何だったんだろう。

果たして、高橋歩は、「とりあえず借金ぶっこいて」と「自腹でやれ」が矛盾していることに気付いていないのか、どちらかの発言を忘れてしまったのか。

それとも、借金を「他人の金」と認識していないのか。友達から借りようがサラ金から借りようが銀行から借りようが親から借りようが、借金はあくまでも「他人の金」だと思うのだが。

断わっておくと、僕は「矛盾」そのものは嫌いではない。人は矛盾をはらむ生き物だと思うし、時にその矛盾が「いやよいやよも好きのうち」のような人間らしさを醸し出す。

また、人は考えが変わるものである。このブログだって、1年前の記事と今の記事ではたぶん、言ってることが違う(笑)。

それでも、わずか7ページでころっと変わってしまうのはあんまりだ。

とはいえ、たった一か所の矛盾をついて鬼の首を取ったように「高橋歩の言うことはでたらめだ!」と叫ぶほど僕は小さい人間ではない。

しかし、これまで「この表現どうなんだろ?」とか「この内容には賛同できないなぁ」といった細かい違和感の蓄積を重ねた状態でこの矛盾した個所を読むと、もはやとどめの一撃。

この時、僕は駅のホームで電車を待ちながら読んでいたのだが、もし僕が超人ハルク並みの剛腕を持っていたら、「もうこんな本読めるかー!」と本を真っ二つに引き裂き、線路に投げ捨てていただろう。

もちろん、本を傷つけるのはよくないし、そんなことしたらブックオフに持っていけないし、そもそもそんな腕力がない。あと、線路に物を捨てるのもよくない。

そして、思い出す。

3年前に僕が途中まで読んでやめた「高橋歩の本」も、まさにこの本だったということに。

そして、まったく同じ個所で、同じように「さっきと言ってることが違う!」となって、同じようにそれまで貯めていた違和感が爆発し、読むのをやめたのだ。

正直、もうこれ以上読みたくないのだが、今回のテーマは「もう一度高橋歩に向き合ってみる」。ここでやめたら3年前の繰り返しだ。最後まで読み通せば、また考えが変わるかも。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも……自分だ(泣)。

とはいえこんな状態で読んでも、もう何が書いてあっても全く響かない。全部空寒く感じてしまう。

最後まで読んで、げっそりとした気持ちで本を閉じた。

高橋歩は「人間」を語らない。語るのはいつも「オレ」だ。

この本を読んで引っかかっていたことの一つが、「オレはこうする」「オレはこうした」という話が多すぎることだった。

その都度「僕はあなたじゃない」と思いながら読んでいた。

だが、例えば岡本太郎なんかもよく著書で「僕はこう生きてきた」みたいな話をしている。だが、不思議とそれには引っかからない。

なぜだろう。高橋歩と岡本太郎、何が違うんだろう。

そう考えた結果行きついたのが「人間」というワードだった。

岡本太郎の場合「僕はこうして生きてきた」の根拠に「人間とはこういうものだ」という考えが横たわっている。「人間とはこういうものだと思っている。だから、僕はこうして生きてきた」という話を語っている。

高橋歩のような「一言メッセージ系」の先駆者である相田みつをも「にんげんだもの」というフレーズが有名だ。

「人間とは何か」、そこを突き詰めているから、「自分はこうだ」を「人間とはこうだ」までに突き詰めているから、その言葉は広く人の心に刺さる。どんな人が読んでも、その人が「人間」である限り、「ああ、わかるなぁ」という箇所があるのだ。

しかし、高橋歩の場合、たぶん「人間とは何か」と突き詰めていない。あくまでもどこまで行っても「オレの話」。「オレはこうしてきた」「オレならこうする」という話が多い。もちろん、自分の話をすること自体は悪いことではない。(何なら、この記事自体「僕の話」だ)。だが、「オレの話」で話が止まり、「人間の話」までに昇華されていない。

世の中には自分とは違うタイプの人間、違う考え方の人間がいて、そういった人には「オレの話」は通用しないんじゃないか、ということを考えていないのではないだろうか。

結果、読む人を選ぶ。「どんな人間」にも通用する話ではない。「オレ」に近いタイプの人間にしか共感できないのだ。

そして、どうやら僕は「オレ」から遠い人間らしい。

高橋歩にネガティブの気持ちはわからない。語る言葉はいつもポジティブだ。

もう一つ、僕が強く感じていたことだ(ああ、また「僕の話」だ)。

たとえば、友達がどうとか、仲間がどうとか、家族がどうとかいう話が出てくる。

そういった話を読むたびにこう思う。

それは、友達を作れる人の話、家族に恵まれた人の話だ……、と。

こういうところでまたじわじわと小さな違和感が蓄積されていく。

読み進めるたびにこう思うようになった。

「この人はネガティブな人の気持ちがわからないんだろうな……」と。

実際の高橋歩がどういう人物かはわからない。もしかしたら、本来の彼はとてつもないネガティブを抱えているのかもしれない。

だが、この本からそういったことを感じることはなかった。そういうタイプの人間に対する理解を感じ取れることはなかった。

人見知り、ひきこもり、死にたがり……、そういった人間に対してこの本は「やさしくない」、そう感じてしまった。

闇を抱えた人間にとって、栄養ドリンクが何よりもの毒となるときがあるのだ。

高橋歩だけが悪いのではない。自己啓発本はいつもこうだ。

もっとも、こういった「ネガティブな人にやさしくない」というのは、何も高橋歩だけの話ではない。いわゆる自己啓発本は大体こうだ。

たとえば、自己啓発本にはよく「やりたいと思ったことは、あれこれ言い訳せずにやれ! まず行動!」といったことが書かれている。

いつも思うのだが、

「やりたいこと」が「死にたい」だった場合、彼らは何て答えるのだろうか。まさか「死にたいと思ったら、あれこれ言い訳せずに死ね!」と答えるのだろうか。

たぶん、こういった本を書く人は、「世界一周をしたい!」「カフェを開きたい!」「好きなことして生きていきたい!」といったポジティブな人のみのことを考えていて、「死にたい」「消えたい」「切りたい」「殺したい」「壊したい」といったネガティブな「やりたい」を抱く人がいるなど、想定してないのだろう。

そういう人の言葉は、「死にたい」のようなネガティブなワードに置き換えると、途端に破綻をきたす。

たとえば、「これといった夢はないけど、しいて言えば自殺すること」だった場合、自殺をしたいんだけれどなかなか踏ん切りがつかない、そんな人だった場合、「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。」の「夢」を「自殺」、もっと言えば「死」に置き換えれば、「死は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」という、自殺幇助ととられかねない言葉に変わってしまう。

だから、「ネガティブにやさしくない」のだ。「死ぬことが夢」なんてネガティブなことを考える人間が読むかもしれないということを、全く考えていないのだから。

「ネガティブな人」のことを最初から想定していない。存在しないものとして扱われている。これほど絶望的な扱いはないだろう。

まとめ

いろいろ書いたが、僕はけっしてただ単に高橋歩をディスりたかったわけではない。

以前にも書いたが、「旅人=高橋歩好き」というイメージが強すぎるように感じている。「旅が好きな人はみんな高橋歩が好き」と思われていて、そのように扱われている。「いや、俺、旅は好きだけど、高橋歩はあんまり……」と心の中で思っていても、「ノックも旅が好きなら、当然高橋歩のこと、尊敬してるよね」みたいなスタンスで決めてかかられ、「旅好きは高橋歩も好き」が大前提のように話が進む。

正直、肩身が狭い。旅好きのみんながみんな、あの雰囲気が好きなわけではない。あの雰囲気にあこがれているわけではない。

「旅好きはみんな高橋歩が好き、というわけではない。肩身が狭いのはいつも嫌だ」。結局僕が言いたかったのはこの一言だ。

さて、明日、ブックオフに行こう。