高橋歩の本に、もう一度だけ向き合ってみることにした

自由人・高橋歩と言えば旅人のカリスマだ。僕は「ここがヘンだよ旅人たち」という記事の中で、「旅は好きだけど、高橋歩の本は好きではない」という話をした。特に反響はなかったが(ないんかい)、やっぱり食わず嫌いはよくない、ということで、3年前に挫折した高橋歩の本をもう一度読んで、もう一度高橋歩に向き合ってみることにした。

夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。

高橋歩の名言で真っ先に思いつくのがこの言葉だ。

「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」

「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。だから逃げるな」といった感じでとらえられる言葉のようだ。

ところが、僕なんかが読むと、どうもこの言葉は人を追い詰める言葉に聞こえてしまう。

別に逃げたっていいじゃないか。あんまり思い詰めると、かなう夢もかなわない。

一度逃げて、再び夢を追いかけたくなったら、同じ場所に戻ってくればいい。だって「夢は逃げない」のだから。ならば「自分」が逃げようがどうしようが、同じ場所で待っててくれてるはずだから、辛くなったら逃げればいいと思う。

「夢は逃げない。だから、またあとで戻っておいで」みたいな方が僕は好きだ。

と、ここまで考えて、ふと思う。

この言葉の初出はどこだ?

よもや半紙に習字で「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。 あゆむ」とだけ書かれて、蕎麦屋のトイレに飾ってあったわけではあるまい。

もしかしたら、元々はそれなりに長い文章の一部分で、インパクトのあるこのフレーズだけが独り歩きしているのかもしれない。

だとしたら、元々の文脈がわからないままにこの言葉を論評するのは反則ではないか。もしかしたら、元の文章にはめ込んでみると、すごく納得のいく言葉なのかもしれない。

これを機に、かつて挫折した高橋歩の本に、もう一度だけ向き合ってみよう。そういえば、ちゃんと最後まで読み通したことがない。ちゃんと読んだら、「なんだ、高橋歩、面白いじゃん」となるかもしれない。

そう思ったら、本を手元に置けばいい。「やっぱり、高橋歩は好きになれない」と思ったらブックオフに売り飛ばせばよい。

よし、もう一度だけ、高橋歩に向き合ってみよう。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも……自分だ。

本が見つからない。探すのはいつも自分だ。

まず、地元の図書館に行き、「高橋歩」で検索をかける。

何種類か見つかったが、どれも部数は一冊ずつ。おまけに、どれも貸し出し中。

僕はさいたま市全体のデータベースに検索をかけている。さいたま市は合併に合併を繰り返した結果、市内に数えるのがイヤになるほどの数の図書館がある。

にもかかわらず、高橋歩の著書は一冊ずつ。数えるのがイヤになるほどの数の図書館の中で、同じ本は一冊しかない。案外、高橋歩は人気がないのかもしれない。

その一方で、本はすべて貸し出し中。やっぱり高橋歩は人気があるのかもしれない。

次に、近所のブックオフに行ってみた。

ところが、ここでも見つからない。

ブックオフに一冊もないとは、案外、高橋歩は人気がないのかもしれない。

一方で、ブックオフにないということは「買った人が著書を手放さない」ということだ。やっぱり高橋歩は人気があるのかもしれない。

そして、二件目のブックオフでついにこの本を見つけることができた。

「『夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。』、この言葉には初出があるのではないか。このフレーズだけが独り歩きしているのではないか」

初出は、本のタイトルだった!

そりゃ、独り歩きしますわ。だって、タイトルだもの。

ちなみに、表紙に写っている男の子は高橋歩、ではない。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。

プロローグにこう書かれている。

この本は、高橋歩が、これから夢をかなえようとする仲間、後輩、読者たちとの飲みの場で、本気で語ってきた様々な言葉、エピソード、アドバイス、ユーモア、考え方を一冊にまとめた語録集だ。

重要なのは「飲みの場で」というフレーズだ。

どうやら、これから読む言葉は酒の席での言葉らしい。

なるほど、これまで高橋歩の文章は「距離が近い」と敬遠してきたが、「酒の席での言葉」だという前提なら、ある程度は納得できる。

さて、ページを進めていこう。

オレらが何かを始めるとき、世の中は必ずというほど「理由を説明しろ」と言ってくる。でもそんなもん、自分がただ「カッケェって思う」とか「鳥肌が立つ」とか「ああいう風になりてぇ!」とかで十分じゃね?

僕もそう思う。人生において重要な選択をするときほど、理由が他人にうまく説明できないというのは何回か経験している。

ただ、最後の「じゃね?」というのが非常に引っかかる。

この一言が、なんか全部を台無しにしているように僕には感じ取れてしまう。

もちろん、こういった口調がいい! という人もいるのだろう。

一方で、僕はこういった口調の本はちょっと受け入れられない。友達でもない人が急に「じゃね?」と話しかけてきたら、はっきり言って腹が立つ。

わかってる。これは「飲みの席での言葉」だということは。飲みの席の言葉なら別に語尾が「じゃね?」でもいいんじゃね?(せっかくなのでちょっと真似してみました)

しかし、まさか飲みの席の言葉を全部録音して、一字一句そのまま書いているわけではあるまい。本人や周囲の記憶に基づいて「こんなこと言ってたよね」と思い出して、本に収録しているはずだ。

だとしたら、語尾は果たして「じゃね?」でいいのか。「本に収録するんだし、語尾は『じゃない?』に変えようよ」という発想はなかったのだろうか。

本気さで勝つ、

アツさで勝つ、

バイブスで勝つ!

「新しいフィールドで挑戦しようとすると、」という出だしで始まる文章の一説。要は「初挑戦で実績なんてあるわけないのだから、やってみなきゃわからないに決まってる。初めてやるときは、本気さ、アツさ、バイブスくらいしかよりどころがない」ということらしい。

言っていることはわかる。初挑戦に実績なんてあるわけない。そりゃそうだ。

だが、いくら何でも考えがなさすぎないか? たぶん、「初挑戦で失敗していった人」の多くは「精神論でなんとななると思ってた」のではないだろうか。

あと、僕のように「何事も7割投球」というスタンスの人間は、こういうこと言われるともうどうしていいのかわからなくなる。

才能があろうがなかろうが、できるまでやれば絶対にできちゃうわけだからね。

人には向き不向きがあり、世の中にはどんなに頑張っても努力してもできないことがたくさんある。

BELIEVE YOUR 鳥肌

言いたいことはわかるんだけど……、「鳥肌」だけ日本語なのが中途半端に見えて、この言葉の良さを損ねている気がしてしょうがない。「鳥肌」も英語にするか、「鳥肌」をもっと簡単な英単語で置き換えるか……、

そもそも、わざわざ英語にしなくても「鳥肌を信じろ!」でいいんじゃね?(せっかくなのでもう一回真似してみました)。

日本の政治家に不満? ハイ、そう思う人は政治家になりましょう。

政治家になっちゃったらそれこそ高橋歩が嫌いそうなよくわかんないしがらみとかで身動き取れなくなってしまう。政治を変えたかったら、政治家にはならない方がいい。

あと、「政治家にならなくても政治に参加できるのが民主主義」っていうのを聞いたことがある。「政治に不満があるなら政治家になれ」っていうのははっきり言って視野が狭いと思う。もっとほかに道はいくらでもある

まず、やり過ぎる。そして気付く。自分なりのバランスはそれからで十分だべ。

「十分だべ」。

……どこ弁だ?

プロフィールには「東京生まれ」と書いてある。「だべ」について調べてみると、「だべ」は実は東日本で割と広く使われている方言らしい。

この本にはほかにも「だべ」という言葉がよく出てくる。

それまで特に訛りなど感じさせていないのに、たまに「だべ」という言葉を使われると、どうも文章のバランスが悪くなって引っかかる。訛るなら全部訛ってほしい。

本全体を通して、言っている内容はわかる。ツッコみどころもあるが、賛同できる個所もある。

だが、文章の細かい表現とかがどうしても気になってしまう。

「じゃね?」とか「だべ」とか「即〇〇」とか「最強!」とかこういったフランクな文体が、少しずつ僕の体力をそいで行く。僕の周りにこう言う言葉遣いをする人はいないので、慣れていないだけなのかもしれないが、「またこのフランク表現か……」と頭を抱え、気づけばページをめくる手が重くなっていく。本を読んでいてこんなにも体力を消耗したのは初めてだ。

読むのをやめようかとまで考えたが、今回のテーマは「もう一度だけ高橋歩に向き合ってみる」だ。最後まで読み通せば何か考えも変わるかもしれない。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも……自分だ!

それに、そもそも僕が細かい表現とかを気にしている方がおかしいのかもしれない。表現などは些細な問題で、ところどころツッコみどころもあるが、「覚悟を決めろ」とか「まずは行動しろ」とか「直観を信じろ」とか、賛同できる個所は多い。

「僕が細かいのか? 僕がおかしいのか?」

そう思いながら本を読んでいた。135ページ目までは。

誰も矛盾を指摘しない。指摘するのはいつも僕だ。

135ページにはこう書かれていた。

本当に好きなようにやるなら、自腹でやれって想うよ。

この言葉を読んだとき、僕に衝撃が走った。高橋歩風に言えば「脳みそスパーク」……とはちょっと違うかもしれない。

なぜなら、この衝撃とは、「さっきと言ってることが違う!」という衝撃だったからだ。

わずか7ページ前にこう書かれていた。

友達から金を借りるのはイケナイことか?

この後、高橋歩がサラ金に手を出し、友達からお金を借りたエピソードが続く。この2ページ前には

とりあえず借金ぶっこいてとにかく始めちゃって、1年後にはもう店つぶしちゃって、(中略)ヤツの方が、絶対にアツい。

要は、高橋歩は「やりたいことがあるなら貯金なんてしてないで、借金してでもやれ」と言っているのだ。

にもかかわらず、7ページ後に「自腹でやれ」。さらにその次のページでは

オレは、他人の金で自分の夢を追うようなまねはしない。

とまで言い切っている。借金をしたエピソードはいったい何だったんだろう。

果たして、高橋歩は、「とりあえず借金ぶっこいて」と「自腹でやれ」が矛盾していることに気付いていないのか、どちらかの発言を忘れてしまったのか。

それとも、借金を「他人の金」と認識していないのか。友達から借りようがサラ金から借りようが銀行から借りようが親から借りようが、借金はあくまでも「他人の金」だと思うのだが。

断わっておくと、僕は「矛盾」そのものは嫌いではない。人は矛盾をはらむ生き物だと思うし、時にその矛盾が「いやよいやよも好きのうち」のような人間らしさを醸し出す。

また、人は考えが変わるものである。このブログだって、1年前の記事と今の記事ではたぶん、言ってることが違う(笑)。

それでも、わずか7ページでころっと変わってしまうのはあんまりだ。

とはいえ、たった一か所の矛盾をついて鬼の首を取ったように「高橋歩の言うことはでたらめだ!」と叫ぶほど僕は小さい人間ではない。

しかし、これまで「この表現どうなんだろ?」とか「この内容には賛同できないなぁ」といった細かい違和感の蓄積を重ねた状態でこの矛盾した個所を読むと、もはやとどめの一撃。

この時、僕は駅のホームで電車を待ちながら読んでいたのだが、もし僕が超人ハルク並みの剛腕を持っていたら、「もうこんな本読めるかー!」と本を真っ二つに引き裂き、線路に投げ捨てていただろう。

もちろん、本を傷つけるのはよくないし、そんなことしたらブックオフに持っていけないし、そもそもそんな腕力がない。あと、線路に物を捨てるのもよくない。

そして、思い出す。

3年前に僕が途中まで読んでやめた「高橋歩の本」も、まさにこの本だったということに。

そして、まったく同じ個所で、同じように「さっきと言ってることが違う!」となって、同じようにそれまで貯めていた違和感が爆発し、読むのをやめたのだ。

正直、もうこれ以上読みたくないのだが、今回のテーマは「もう一度高橋歩に向き合ってみる」。ここでやめたら3年前の繰り返しだ。最後まで読み通せば、また考えが変わるかも。

高橋歩は逃げない。逃げるのはいつも……自分だ(泣)。

とはいえこんな状態で読んでも、もう何が書いてあっても全く響かない。全部空寒く感じてしまう。

最後まで読んで、げっそりとした気持ちで本を閉じた。

高橋歩は「人間」を語らない。語るのはいつも「オレ」だ。

この本を読んで引っかかっていたことの一つが、「オレはこうする」「オレはこうした」という話が多すぎることだった。

その都度「僕はあなたじゃない」と思いながら読んでいた。

だが、例えば岡本太郎なんかもよく著書で「僕はこう生きてきた」みたいな話をしている。だが、不思議とそれには引っかからない。

なぜだろう。高橋歩と岡本太郎、何が違うんだろう。

そう考えた結果行きついたのが「人間」というワードだった。

岡本太郎の場合「僕はこうして生きてきた」の根拠に「人間とはこういうものだ」という考えが横たわっている。「人間とはこういうものだと思っている。だから、僕はこうして生きてきた」という話を語っている。

高橋歩のような「一言メッセージ系」の先駆者である相田みつをも「にんげんだもの」というフレーズが有名だ。

「人間とは何か」、そこを突き詰めているから、「自分はこうだ」を「人間とはこうだ」までに突き詰めているから、その言葉は広く人の心に刺さる。どんな人が読んでも、その人が「人間」である限り、「ああ、わかるなぁ」という箇所があるのだ。

しかし、高橋歩の場合、たぶん「人間とは何か」と突き詰めていない。あくまでもどこまで行っても「オレの話」。「オレはこうしてきた」「オレならこうする」という話が多い。もちろん、自分の話をすること自体は悪いことではない。(何なら、この記事自体「僕の話」だ)。だが、「オレの話」で話が止まり、「人間の話」までに昇華されていない。

世の中には自分とは違うタイプの人間、違う考え方の人間がいて、そういった人には「オレの話」は通用しないんじゃないか、ということを考えていないのではないだろうか。

結果、読む人を選ぶ。「どんな人間」にも通用する話ではない。「オレ」に近いタイプの人間にしか共感できないのだ。

そして、どうやら僕は「オレ」から遠い人間らしい。

高橋歩にネガティブの気持ちはわからない。語る言葉はいつもポジティブだ。

もう一つ、僕が強く感じていたことだ(ああ、また「僕の話」だ)。

たとえば、友達がどうとか、仲間がどうとか、家族がどうとかいう話が出てくる。

そういった話を読むたびにこう思う。

それは、友達を作れる人の話、家族に恵まれた人の話だ……、と。

こういうところでまたじわじわと小さな違和感が蓄積されていく。

読み進めるたびにこう思うようになった。

「この人はネガティブな人の気持ちがわからないんだろうな……」と。

実際の高橋歩がどういう人物かはわからない。もしかしたら、本来の彼はとてつもないネガティブを抱えているのかもしれない。

だが、この本からそういったことを感じることはなかった。そういうタイプの人間に対する理解を感じ取れることはなかった。

人見知り、ひきこもり、死にたがり……、そういった人間に対してこの本は「やさしくない」、そう感じてしまった。

闇を抱えた人間にとって、栄養ドリンクが何よりもの毒となるときがあるのだ。

高橋歩だけが悪いのではない。自己啓発本はいつもこうだ。

もっとも、こういった「ネガティブな人にやさしくない」というのは、何も高橋歩だけの話ではない。いわゆる自己啓発本は大体こうだ。

たとえば、自己啓発本にはよく「やりたいと思ったことは、あれこれ言い訳せずにやれ! まず行動!」といったことが書かれている。

いつも思うのだが、

「やりたいこと」が「死にたい」だった場合、彼らは何て答えるのだろうか。まさか「死にたいと思ったら、あれこれ言い訳せずに死ね!」と答えるのだろうか。

たぶん、こういった本を書く人は、「世界一周をしたい!」「カフェを開きたい!」「好きなことして生きていきたい!」といったポジティブな人のみのことを考えていて、「死にたい」「消えたい」「切りたい」「殺したい」「壊したい」といったネガティブな「やりたい」を抱く人がいるなど、想定してないのだろう。

そういう人の言葉は、「死にたい」のようなネガティブなワードに置き換えると、途端に破綻をきたす。

たとえば、「これといった夢はないけど、しいて言えば自殺すること」だった場合、自殺をしたいんだけれどなかなか踏ん切りがつかない、そんな人だった場合、「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ。」の「夢」を「自殺」、もっと言えば「死」に置き換えれば、「死は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」という、自殺幇助ととられかねない言葉に変わってしまう。

だから、「ネガティブにやさしくない」のだ。「死ぬことが夢」なんてネガティブなことを考える人間が読むかもしれないということを、全く考えていないのだから。

「ネガティブな人」のことを最初から想定していない。存在しないものとして扱われている。これほど絶望的な扱いはないだろう。

まとめ

いろいろ書いたが、僕はけっしてただ単に高橋歩をディスりたかったわけではない。

以前にも書いたが、「旅人=高橋歩好き」というイメージが強すぎるように感じている。「旅が好きな人はみんな高橋歩が好き」と思われていて、そのように扱われている。「いや、俺、旅は好きだけど、高橋歩はあんまり……」と心の中で思っていても、「ノックも旅が好きなら、当然高橋歩のこと、尊敬してるよね」みたいなスタンスで決めてかかられ、「旅好きは高橋歩も好き」が大前提のように話が進む。

正直、肩身が狭い。旅好きのみんながみんな、あの雰囲気が好きなわけではない。あの雰囲気にあこがれているわけではない。

「旅好きはみんな高橋歩が好き、というわけではない。肩身が狭いのはいつも嫌だ」。結局僕が言いたかったのはこの一言だ。

さて、明日、ブックオフに行こう。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。