あしなれ、前回までのあらすじ
ミチのカノジョ、海乃は実は既婚者だった。ミチとの交際が海乃の旦那にばれ、ミチは激しい暴行を受ける。その日の夜、舞の家で治療を受けるミチにたまきは、海乃が既婚者であることをミチは知っていたのではないか、知ってるのに「何も知らなかった」と嘘をついているのではないかとぶつける。

「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」
たまきはいつになく強い目で、まっすぐにミチを見据えた。
暗い部屋の中、外の明かりに照らされたたまきの顔は、ほんのりと紅潮している。
「え……、知ってるって……」
ミチは半笑いをしながら、窓の外を見た。
「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」
たまきはもう一度同じ言葉を、より語気を強めていった。
ミチはたまきの方を向くと、左手で鼻の下をこすりながら、ひきつった笑顔を見せた。
「し……知ってたわけないじゃん。俺だって今日初めて知って……」
「私は知ってました」
たまきの言葉にミチの指が止まった。そのまま左手はだらりと下がるものの、顔は硬直したまま、たまきを見続ける。
「え……」
「私は海乃っていう人が結婚してるって知ってました」
「いつ……」
ミチはそう言って唇をかんだ。
「……大収穫祭の次の日の朝、その……ホテルから出てきた二人にあった、あの時です」
たまきはミチの方を見ながらも、ときどき記憶をたどるように左上を見ながら、しゃべり始めた。
「あの海乃って人……、『ひきこもりはダメ』みたいなこと言って、私の頭なでたんです……。その時、私、はっきりと見ました。左手の薬指に、指輪してるの……」
たまきは言葉を選ぶように続けた。
「最初は……、見間違いじゃないかと思いました。左手っていうのは私の見間違いかなって……。でも、あの時、海乃っていう人の右手は、ミチ君と手をつないでました。私の頭を撫でたのは、指輪をしてたのは間違いなく左手だったんです……。それでも、ほんとに薬指だったかなって……。でも、あの人、別れ際に私にゆっくりと手を振ったんです。左手で。その時、指輪が見えました……。間違いなく薬指でした……」
ミチは気まずそうに、ドアの方に目をやった。
「私、もしかしてミチ君、このことに気付いてないのかなって思いました。でも、この前、ミチ君の働いてるお店に行った時、ミチ君、海乃って人とハイタッチしてましたよね……。その時も私、はっきりと見ました……指輪」
たまきは、一度下を向き、それから、ミチを再び見据えた。
「私が気付いているのに、お付き合いしてたミチ君が気付いてなかったわけないじゃないですか……!」
ミチは気まずそうに唇をなめると、たまきをちらりと見やったが、すぐにまた目線をそらした。
「知ってましたよね……!」
「……まあ」
ミチは窓の外を見ながら答えた。
「……知ってて付き合ったんですか?」
「俺が知ったのも……たまきちゃんと同じくらいのタイミングだよ」
ミチはようやく、たまきの方を向いた。
「大収穫祭の夜に海乃さんとホテルに泊まって、……そん時、海乃さんが誰かと電話してて、誰って聞いたらダンナって……。そん時まで、海乃さん指輪してるの隠してて……俺、そん時初めて、海乃さんが結婚してるって知って……」
「……じゃあ、その時、お別れすればよかったんじゃないですか?」
たまきは一度ため息をつくと、言葉を続けた。
「その時、海乃って人ときちんとお別れてしていれば、今日、こんなことにはならなかったんじゃないですか?」
ミチは、何かをあきらめたような笑顔を見せた。
「たまきちゃんってさ、誰かを好きになったこととか、ある?」
「……ありませんけど」
「じゃあ、わかんないよ」
ミチは再び窓の外を見ながら言った。
「人を好きになるってさ、なんつーか、そんな単純なことじゃねぇんだよ。そりゃ、確かに浮気はルール違反なのかもしれないけどさ、恋愛ってもっとなんつーか、尊いもんで、一度好きになっちゃったらもう、そういう次元じゃ……」
「……ごまかさないでください」
たまきはいつになく低い声で言った。その喉の奥に何か熱がこもっているのをミチは感じた。
「そんなに、恋愛って大事なんですか……?」
「そりゃ……、まあ……」
「何よりも?」
「……そりゃ、そうじゃない?」
ミチはあいまいにはにかんだ。
「そうですよね。大事ですよね。ミチ君、そういう歌うたってますもんね。志保さんや亜美さん見てても、私とそんなに年が違わないのに、二人とも大人で、やっぱりそういう経験の差なのかなって思います。そういう経験が大切なんだっていうのは、なんとなくわかります。でも……、だったら……」
時刻はすでに夜の十時を回っていた。暖房の風の音が重苦しく響いていた。
「だったら、なんでそれを、言い訳の道具に使うんですか?」
「……」
再び暖房の音。そして、たまきの声。
「そういう経験ないからわかんないとか、そんな単純じゃないとか、結局、ただの言い訳じゃないですか。自分を正当化しているだけじゃないですか。恋愛が、人を好きになることが、そんなに大切なんだったら、どうしてそれを都合のいい言いわけの道具に使うんですか? それって、大事なものの価値を、自分で貶めてるってことですよね? おかしいですよね? おかしくないですか?」
たまきは、いつの間にか椅子から立ち上がって、ミチに詰め寄っていた。ミチはたまきから目を反らし、ぐるぐる巻かれた右手の包帯に目を落とした。
「私、ミチ君が不倫してるってわかって、なんだかもやもやして……。でも、不倫はイケナイことだけれど、私がとやかく言う事じゃないし……、それに、ミチ君がそこまであの海乃って人のこと好きなら、もうしょうがないのかなって思ってました……。もし、不倫が相手のダンナさんにばれた時、ミチ君は海乃って人をかばって、それでも、恋を貫き通すくらいの覚悟なんだって勝手に思ってました。だから、今日、ミチ君が殴られて……、『知らなかった』っていったとき……、ショックでした……。ああ、そういう覚悟はなかったんだ、って……」
「……勝手に人を、ラブソングの主人公とかにすんなよ……」
「だってミチ君、そういう歌、歌ってたじゃないですか……!」
たまきはミチの布団をぎゅっとつかんだ。
「ずっと大事にするとか、ずっと守り続けるとか……!」
「よく覚えてんな……」
「結局、そんな覚悟なんてなかったんですよね……」
たまきは、震える唇を前歯で軽く抑えた。
「ミチ君も、海乃って人も、結局、本当に大事なのは自分たちだったんじゃないですか。自分たちだけ楽しければそれでいい。今が楽しければそれでいい。それを恋愛って言葉で包んで、ふたをして……、ひきこもってただけなんじゃないですか?」
たまきはミチの目を強くにらみつけた。
ミチは目をそらしたかった。だが、そらせなかった。
「確かに、あの男の人がミチ君にやったことは、やりすぎだと思います。でも、不倫されれば誰かが傷ついたり、怒ったりするのは、当たり前じゃないですか。あなたたちもわかってましたよね? 私より経験豊富なんだから、当然わかってましたよね? 私、ミチ君も海乃って人も、それでも貫く覚悟があるって思ってました……。そう信じたかった……。でも違った……」
たまきの脳裏に、いつかの海乃の言葉が蘇ってきた。
『引きこもり?へぇ~、かわいい~』
『あれ、でも、この子ヒキコモリなの?だって、外にいるよ?』
『ダメだぞ、ちゃんと学校に行かなきゃ』
声帯がけいれんして嗚咽を繰り返す。そうやって、たまきのことばを喉の奥へ奥へ通し戻そうとする。
それでもたまきは言葉をつづける。前にもこんなことがあったような気がする。
「都合のいい言い訳をして、現実から逃げて、目をそらして、自分たちだけの殻に閉じこもって、ひきこもっているのは、あなたたちの方じゃないですか! そんな人たちに、私がひきこもりだからって、不登校だからって、なんで馬鹿にされなきゃいけないんですか⁉ 本当に逃げてるのは、本当にひきこもってるのは、あなたたちの方じゃないですか‼ なんで私がばかにされなきゃいけないんですか‼」
そこまで言って、たまきの目からポロリとひとしずく零れ落ちた。
「あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!」
たまきは飛び出すように、寝室を出た。
蛍光灯が白い壁を照らす。たまきはソファをにらみつけると、クッションを手に取り、勢いよく寝転がった。
部屋の奥にあるキッチンでは舞が何やら作業をしていた。
「もう十時過ぎてるのでー、大声出さないでもらえますかー。近所迷惑でクレーム来ちゃうので―」
舞がわざと語尾を伸ばしていった。その言葉にたまきが飛び起きる。
「ご、ごめんなさい! 私、先生の迷惑とか、周りのこととか、全然考えてなくて……!」
「そんな必死で謝んな。大丈夫だよ、となり、空き部屋だから」
そう言って舞は笑った。
「……聞こえてました?」
「お前の声だけ、ほぼ全部」
たまきはバツが悪そうに下を向いた。
「お前あんな大声で、あんなにしゃべるんだなって、聞いてて結構面白かったぞ。録音して亜美と志保にも聞かせてやりてぇ」
「え?」
「いや、録音してないから、大丈夫だよ」
そういって舞はまた笑った。
ピーッという電子音が舞の後ろから聞こえてきた。舞は振り返ると、電子レンジのドアを開ける。
舞はテーブルの上にどんと、出来立ての冷凍チャーハンを置いた。
「さてと……、夜食のチャーハンができたわけだが、どうする? 気まずいってんなら、あたしが行こうか?」
「私が行きます。そのために、ここに残ってるんで」
たまきはそういうとチャーハンのお皿に手を伸ばしたが、すぐに
「あつっ……!」
といって手を離した。
「おいおい、気をつけろよ」
舞は笑いながら、たまきに鍋つかみを手渡した。
寝室のドアがガチャリと開いて、リビングの明かりが漏れこむと同時に、たまきが何かを持って入ってきた。
「お夕飯はチャーハンです」
舞がドアを閉めると、再び部屋は薄暗くなった。
たまきはチャーハンを化粧台の上に置くと、部屋の明かりをつけた。
薄暗かった部屋が一気に明るくなる。お皿からはチャーハンの蒸気が幽かに立ち上っている。
ミチは、何かを避けるかのように窓の外へと目をやった。
「……俺のこと、嫌いなんじゃなかったの?」
「大嫌いです」
たまきは即座に答えた。
「だったら、そんな奴の世話なんか……」
「それとこれとは話が別です」
たまきは椅子に腰を下ろした。
「誰かを見捨てる理由なんて、口にしたくありません」
その言葉から少し間があって、ミチが口を開いた。
「でも、さっき、海乃さんのこと、見捨てるっつーか、突き放すようなこと言ったじゃん……」
たまきはチャーハンにスプーンを突き刺したまま、まるで米粒の数を数えるかのようにじっと下を見ていた。
「……わかってる。あんなこと、言いたくて言ったわけじゃないし……」
「……たまきちゃん?」
「なんであんな冷たいこと言っちゃったんだろ……」
たまきはそのまま、石のように動かなかったが、気を取り直したかのように立ち上がると、チャーハンのお皿をミチの顔へと近づけた。
「だからミチ君は見捨てません。右手、使えないんですよね。ほら、こっち向いて口開けてください」
ミチはたまきの方を向いた。たまきはチャーハンをスプーンですくい、ミチの方に差し出す。
ミチはそれをじっと見ていた。
「食べてください。食べないと、治るものも治りません」
「海乃さんが一度だけ……、まかない作ってくれたことあるんだ……」
ミチはスプーンの先から目線を落とした。
「チャーハンを……」
「そうですか。早く食べてください」
「これ見てたら、そのこと思い出したっていうか……」
「これは違うチャーハンです」
「でも、思い出しちゃうっつーか……」
「じゃあ、牛乳でもかけますか? そうすればチャーハンじゃなくなります」
「……食うよ」
ミチはスプーンの先にかぶりついた。
「……熱っちぃ」
「知りません」
たまきは、無表情のまま、再びスプーンをチャーハンに突っ込んだ。今度は、ミチに差し出す前に、軽く息を吹きかけた。

「さあ、バッターボックス、志保選手が入りました。右投げ、右打ち、打率はえーっと……」
「亜美ちゃん、ちょっと静かにしてくれない? 集中できない」
志保はバットを構えた。正面を難しそうににらみつける。
深夜のバッティングセンター。客の入りは上々で、あちこちからボールがネットに突き刺さる音や、バットによって高く打ち上げられる音が聞こえる。
志保と向かい合ったピッチングマシーンからボールが飛んでくる。そのたびに志保はぶんぶんとバットを振るのだが、当たるどころかかすりもしない。
後ろのベンチで亜美はそれを頬杖しながらじっと見ていた。
「あ~、むずかし~」
ヒットはおろか、ファウルすらあきらめた志保がベンチへと戻る。
「お前は腕だけ振ってるからダメなんだよ。こういうのはな、全身運動なんだよ。体全体でボールを前へはじき返すのがコツだ」
亜美がバッターボックスに立つ。ピッチングマシーンから、勢いよくボールが放たれた。
「せいやっ!」
亜美がバットを振ると、カンという心地よい音とともに、ボールが放物線を描いて飛んでいく。
「そいやっ!」
今度の打線は少し低めだった。
「はーい、どっこいしょ―!」
「ねえ、その掛け声、必要?」
ベンチで息を切らしていた志保が尋ねる。
「掛け声のタイミングで、バットにボールを当てるのがコツだ」
そういって亜美は、再びバットを構える。
「よいよい―よっこらせ―!」
今の掛け声は、長すぎて逆にタイミングが合わないんじゃないか。志保はそんなことを考える。一方、亜美は、志保の方を向いた。
「プロ野球選手もみんな打つときに掛け声言ってんだからな」
「うそだよ。聞いたことないよ」
「そりゃお前、スタジアムは客でいっぱいなんだ。歓声で聞こえてねぇだけだよ」
そういうと、亜美はバットをまっすぐに構えた。
「お前、知ってっか? 叫んだ方が力が出るんだぞ」
亜美はバットを持ったままぐるぐる回りだした。
「ハンマー投げの選手とかさ、こう、ハンマー振り回して、で、投げるときに思いっきり『あー!』ってさけん……」
「亜美ちゃん! バット!」
亜美は、志保が指さす方を見た。
斜め上のネットに的のようなものが設置されている。ここにボールが当たればホームラン、という事だ。
亜美が見たのは、その的に、掛け声と同時に亜美の手からすっぽり抜けたバットが、まさに突き刺さる瞬間だった。
「あー!!」
亜美が今日一番の大声を出した。

ミチが寝たいと言ったので、たまきは部屋の電気を消した。
たまきがカーテンを閉めるといよいよ真っ暗になったが、ミチがちょっと明るい方がいいと言ったので、たまきは再びカーテンを開けた。
薄暗い部屋の中で、イブの夜に10代の男女が二人きり、と書くと何かロマンチックなマチガイでも起きそうだが、包帯ぐるぐる巻きのミチと、毛並みを逆立てた猫のようにイスに座るたまきとでは、マチガイなんて間違っても起きそうにない。
「あのさ……」
ミチが口を開いた。
「寝るんじゃなかったんですか?」
「今日、いろいろあったから……寝付けなくて……」
「全部ミチ君のせいです。ちゃんと反省してください」
たまきはどこか無機質な声で答える。
「よくさ、母親が寝る前に子供に昔話聞かせるっていうじゃん……?」
「……そうですね。私やお姉ちゃんもお母さんに読んでもらいました」
「なんかさ、昔話知らない?」
「……知りません」
たまきはどこかあきれたように言った。
「じゃあさ、たまきちゃんの昔話聞かせてよ。っていうかさ、お姉ちゃんいるんだ? あれ、たまきちゃんってどこ出身だっけ? そういった話……」
ミチはわざと明るい口調で言ったが、それを水をかけて打ち消すようにたまきは、
「絶対に嫌です」
とだけ言った。
ふたたび静寂が部屋を支配する。
「……もしかして、私がいるの、気まずいですか?」
ミチはすぐには答えなかった。しばらく静寂を聞いた後、口を開いた。
「まあね……」
「私は舞先生から、ミチ君に何か異常があったらすぐに知らせるように頼まれてここにいます」
「でも、見られてると寝づらいっていうか……」
たまきは立ち上がると、ミチに背を向けて座りなおした。
「うん……まあ……ありがとう……」
電気を消してしばらくの間、ミチは横になっていたが、やがてトイレに行きたいと言い出した。たまきはその旨を舞に知らせ、舞がミチを連れてトイレに行く。
今のミチは一人でトイレに行けない。右手は包帯でぐるぐる巻きだし、満足に歩けない。
ミチはたまきが来る前から踏まれたり蹴られたりしていて、歩くたびに左足が痛いと言っていた。舞は「サイアク骨に亀裂入ってるかもだけど、まあ、しばらくおとなしくしてりゃくっつくから」とテキトーな診断をした。
ミチをトイレに連れて行った舞が戻ってきた。ミチに肩を貸しながら部屋に戻る。
「お前さぁ、いくつだよ?」
「……十七っす」
「何が見られて恥ずかしいだよ。あたしが気にしねぇっつってんだから、別にいいじゃねぇか。お前だってカノジョいんだろ? やることやってんだろ?」
ミチは少しさみしそうに、
「カノジョがいたのは……今日の夕方までっす」
とだけ言った。
「ああ、そうだったな。悪い悪い」
そいうと、舞はミチを投げ飛ばすかのように、ベッドの上に放り投げた。
「いたた……。先生、俺、けが人なんすから、もっと丁寧に……」
「けが人? 不慮の事故に巻き込まれたとかなら同情してやるけど、お前勝手に怪我して、勝手にウチ来て、あたしの仕事邪魔してんだからな。言っとくけど、あとで5000円くらいもらうからな」
「え?」
「バカ! ちゃんとした病院に入院してたら、この3倍くらいかかるからな、お前」
そういうと、舞はドアの方へと向かう。たまきは、申し訳なさそうに舞を見た。
「ごめんなさい。私が、その、おトイレの世話できないから、先生に代わりにやってもらって……」
「お、じゃあ、次はお前がミチのパンツ下ろす?」
「次もよろしくお願いします」
たまきは間髪入れずに頭を下げた。
「じゃ、あたし、隣にいるからなんかあったら言って。たまき、ミチが寝たらこっち来ていいぞ」
そういって舞は部屋を出ようとしたが、振り返ってたまきの方を向くと、
「けんかするなよ」
と言ってニッっと笑った。
「私、けんかなんてしてません」
ドアが閉まった後、たまきが不満そうに、珍しく口を尖らせた。
「先生にも聞こえちゃったのかな、さっきの話」
「全部聞こえたって言ってました」
たまきが淡々と答えた。
「そっか……知られたくなかったなぁ……」
「知りません」
たまきはミチから目をそらしてそういった。やがてミチの方を向き直ると、
「自業自得です」
とだけ付け足した。
ミチはたまきの顔をじっと見ていた。
たまきはミチの視線から逃げるように立ち上がる。
「寝るんですよね。電気、消しますね」
部屋の入り口にあるスイッチへとたまきは向う。
不意に、ミチの声がたまきの背中へと投げかけられた。
「……その目だ」
「え?」
たまきは壁のスイッチに手を触れたまま、押すことなくミチの方へと振り返った。
「海乃さんってさ……、なんつーか、ちょっとのことでは物おじしない人なんだよ……。それが何であの時、引き下がったのか不思議だったんだ……」
「あの時って……いつですか?」
「たまきちゃんが『地獄を見ればいい』っていった時」
スイッチに触れていたたまきの手が、だらりと下がった。
「あの時、海乃さん、何かにおびえるような目をして、逃げるように去ってったんだ」
「……よく覚えてますね」
たまきは下を見ながらつぶやいた。
「海乃さんらしくないなって思って、何がそんなに怖かったんだろうって。でも、わかった。その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……」
「……そうですか」
たまきはそれだけ言うと、電気を消した。

「やっぱさ、スジ通んなくね?」
亜美が缶ビールのプルタブを開けながら言った。
「城」で開かれていたクリスマスパーティは、たまきからの緊急通報でお開きになった。志保は「城」に帰ってきてからパーティの片づけを始めたが、亜美はもったいないからと言って、手を付けられることのなかった缶ビールを飲み始めた。
「何が?」
志保がごみ袋に紙コップを放り込みながら聞き返す。
「だってさ、ダンナいるのに不倫したのはあのオンナだろ? やっぱり、あいつが無傷っておかしいだろ」
「まだその話?」
志保があきれたように言う。
「そもそもさ、不倫するんなら結婚すんなよな、って話じゃん」
志保は聞き流すかのようにせっせと片づけを続けていたが、不意に手を止めた。
「……その理屈、ヘンじゃない?」
「は?」
「いやそれだと、最初から不倫するつもりの人が結婚するのがよくない、って言い方じゃない。そんな人いないでしょ? 結婚してるのに不倫するのがいけないんでしょ?」
「いや、どうせ不倫するのに、結婚するのはスジ通んねぇだろ」
「いやだから、『どうせ不倫する』っていうのが変じゃない? 最初から不倫する前提っていうのが。まず結婚して、それから不倫するのであって……」
「だから、どうせ不倫するのに結婚すんなっつってんじゃん」
しばらく、二人は見合っていた。
「……合わねぇなぁ、ウチら」
「合わない」
「たまき、早く帰ってこねぇかなぁ」
「明日にならないと帰ってこないよ。もう夜遅いし」
「誰だよ、たまき、先生の所に置いてきたの」
「亜美ちゃんだよ」
志保は再び片づけを始めた。
「……あたしはちょっぴりわかるけどな」
志保は目線を上げることなくつぶやいた。
「何が?」
「不倫しちゃう人の気持ち」
「へぇ!」
亜美が何か珍しい生き物でも見つけたかのように身を乗り出した。
「お前が? おいおい、優等生の志保ちゃんはどこ行ったんだよ」
「……そんなの、だいぶ前に死んだよ」
志保は相変わらず目線を上げずに、ごみ袋を縛り始めた。
「何? 浮気とか不倫とかしたことあんの?」
「ないけどさ……、でもさ……、『やっちゃだめ』って言われていることってさ、やりたくならない? なんて言うんだろう。背徳は甘美の味っていうか……」
亜美は、志保の話を聞きながら、煙草を灰皿に押し付けた。
「たとえそれが自分の身を亡ぼすとわかっていてもさ、背徳そのものが快楽っていうかさ、いっそ背徳に身をゆだねたくなるっていうか……」
「ハイトクうんぬんはよくわかんねぇんだけどさ」
亜美は缶ビールの残りを喉の奥に押しやる。
「夜中に太るってわかってんのに、カップ麺食いたくなるようなもんか?」
「かもね」
志保は少し寂しげに笑った。
「……もしかしてお前さ」
「ん?」
「……いや、何でもない」
亜美は空き缶をそっとテーブルの上に置いた。
「アー、なんか、マジでカップ麺食いたくなってきた」
「この時間に? 太るよ?」
亜美は立ち上がると、志保の忠告を無視して「城」を出ていく。二、三分でカップ麺の入ったビニール袋を提げて帰ってきた。
「お湯、沸かしてあるよ」
「さすが、気が利くねぇ」
亜美はカップ麺のふたを開け、お湯を注ぐ。
三分後には、湯気とともに醤油スープの刺激的な香りが、ふたを開けたカップ麺から部屋の中へと飛び出した。
この上なく愛おしそうに亜美は持ち上げた麺を眺め、ずるずるとすする。
「あ~、旨い。深夜のカップ麺ってなんでこんなに旨いんだ? 昼間のカップ麺と中身はおんなじはずなのに」
「だから、そういうことだよ。背徳は甘美なの」
「ん?」
亜美は麺をすすりながら曖昧な返事をする。
「昼間のカップ麺も深夜のカップ麺も、味は一緒。なのに深夜のカップ麺の方がおいしそうに感じるのは、背徳だから。『深夜のラーメンは太るから食べちゃだめ』って思うほど、おいしく感じちゃうんだよ。禁忌と背徳。『やっちゃだめ』って言われていることに手を出す、それ自体が快楽なんだよ……」
志保はどこかさみしげに、亜美を見ていた。
「ハイトクの意味は何となくわかったけどよ、カンビってどういう意味だよ」
「甘くておいしい、って意味」
「甘い? バカ、お前、これ、醤油ラーメンだぞ。甘いわけねぇだろ」
「フフッ、そうだね」
と志保は微笑んだ。
夜の十二時を回った。舞はメガネをかけ、パソコンに向かっていた。
ドアがガチャリと開いて、誰かが部屋に入ってきた。
クリスマスの夜に部屋に入ってくるのはサンタクロースだと相場が決まっているが、舞が振り向いた先にいたのは白いお髭のおじさんではなく、たまきだった。
「ミチ君、寝ました」
たまきが眠そうな声でつぶやいた。
「そうか、悪かったな。面倒な役割押し付けて」
「いえ、ミチ君を、舞先生のところに連れてきたのは、私たちですから」
「テーブルの上に菓子鉢あるだろ? そこにあるお菓子は食っていいから」
舞はたまきを見ることなく、パソコンに向き合ったまま言った。
だが、たまきはテーブルの方ではなく、舞の傍らにやってきた。
「ん? どうした?」
「あの……」
たまきは、少し下を見てから、舞の方を見た。
「今日、私とミチ君がここでしゃべってたことは、その……、みんなには、ないしょにしてもらえませんか?」
「なんで?」
舞はたまきの目を見たが、すぐにふうっと息を吐いた。
「安心しな。あたしは口が堅いことでこの辺じゃ有名なんだ」
それを着て、たまきもふっと息を吐くと、笑みを浮かべた。
「ちょっと待ってな」
舞は椅子から立ち上がると、ソファのわきへと向かった。
「最近、簡易ベッド買ったんだ」
「簡易ベッドですか?」
たまきの視線が、舞が向かっていった先に、部屋の隅っこに置かれた物体に向けられた。
「ああ、最近、トイレで倒れてたり、ベンチで泣いてたりして、そのままうちに泊まるやつが増えたからな。あたしの寝床を確保しておかないと」
そういって舞は笑った。一方、たまきはテーブルの上にメガネを置くと、ソファの上にころりと横になった。
「おい、お前はこっちだ。あたしがソファで寝るから」
舞が準備した簡易ベッドを指さす。
「いえ、私はこっちでいいです。慣れてるので」
「そんな狭いところで寝てたら、いつまでたっても背が伸びねぇぞ」
「べつにいいです」
たまきは静かに目を閉じた。
なかなか寝付けない。目をつむっても、どうにも寝付けない。
心のもやもやは一向に晴れない。
ミチがいつまでも嘘をついているのを見て、たまきは心がもやもやした。
もやもやしたから、思いのたけをぶつけた。
思いのたけをぶつければすっきりすると思ったのに。
なのに、なぜだろう。
さっきよりも、もやもやは深まって、しばらくは眠れそうにない。
つづく
次回 第21話「もやもやのちごめんね」
お正月を迎えたたまき。だが、クリスマスの一件が頭から離れず、もやもやしたままだった。たまきの心を悩ます一番の理由は、「なぜクリスマスの一件が頭から離れないのか、その理由がわからない」ことだった。