お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。あしなれ第31話、スタート!
第30話「間違いと憂欝の桜前線」
「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち
たまきが駅に来るのは久しぶりだった。
駅のそばで暮らしているのだから、駅の近くに来たことは何度もある。だけど、駅そのものを利用したのは、この街に来て以来、ほぼ一年ぶりだ。シブヤに行ったときも、あの時もバスを使ったので、駅には来ていない。
なんだか切符を買って改札をくぐってしまうと、ここではないどこ遠くに行ってしまいそうな気がする。
たまきにとって駅とは、いわば羅生門だ。きっと駅の二階には、恐ろしい顔をした鬼とか、死体から髪の毛を抜く婆とかがいるのだろう。
たまきが駅に来たのは、死体になって婆に毛を抜いてもらうためではない。
志保とともにギンザに行くためだ。
少し前にたまきは、ミチから薄群青のパーカーをもらった。それを見た志保は、パーカーの下に着る服もパーカーに合わせたものがいいといい、たまきと一緒に買いに行くという話になったのだ。
たまきとしては、今持っている服を着て、その上に羽織ればいいじゃないか、と思うのだが、そんなたまきに志保は言った。
「たまきちゃん、おしゃれに手を抜いちゃだめだよ! 自分磨きの第一歩は、おしゃれだよ!」
たまきとしてはちゃんとお風呂でごしごしと自分を磨いて洗っているつもりなのだが、志保から見ると全然足りないらしい。しぶしぶ、たまきは服を買いに行くことにした。
たまきは切符の販売機の前に立ち、路線図で「有楽町」という駅を探して、そこまでの運賃分の切符を買った。「楽しいことが有る町」と書いて「有楽町」。
ふと、何日か前に亜美に言った言葉を思い出す。
『私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!』
切符を買い終えて振り返ると、志保が改札の前で手招きをしていた。志保はたまきが来るのを確認すると、
「じゃ、いこっか」
と言うと、パスケースを改札機にかざして、中に入った。
当然、すぐ後ろをたまきがついてきていると思ったのだが、しばらく進んでからたまきがいないことに気づき、振り返ると、たまきはまだ改札の外にいた。ぽかんとした様子で志保を見ている。
「どうしたの?」
「い、今の、どうやったんですか?」
「今のって?」
「だって、切符入れてないのに、改札が開いて……」
たまきはまるで魔法使いにでも出会ったかのように目を丸くしている。
「え、だってこれ、かざすだけで入れるよ?」
「でも……お金は……」
「チャージしてるから……」
今度は志保が目を丸くする番だった。たまきはこういう、改札にすいっと入れるカードの存在を、知らないのだ。たまきがそういうものを持っていないのも、見たことがないのも知ってはいたけど、まさか、どうやって使うのかすら知らなかったとは。なんだか、ジャングルに住む未開の部族に出会った気分だ。
がたんごとんと緑の電車に揺られ、有楽町にやってきた。そこから歩いてギンザへと向かう。
ギンザを選んだのはもちろん志保だ。志保いわく「せっかくだから、少し背伸びしてみようか」。この「背伸び」というのはどうやらつま先立ちのことではないらしい。
地元の商店街に「銀座」の名がつくものがあるので、たまきはなんとなく商店街のような場所をイメージしていた。だけど、たまきが実際に目にしたギンザは、町全体におしゃれが漂っていた。それもただのおしゃれではない。清潔感・高級感ともに、たまきが今まで訪れたどの町よりも洗練されていた。
周りを見渡しても、入っただけで入場料を取られるんじゃないかと思うくらいおしゃれなお店ばかり。
こんな街を、たまきのような、もらったパーカーを羽織っただけの子が歩いたら、おしゃれ警察、いや、おしゃれポリスに連行されてしまうのではないか。
たまきは不安そうに志保を見た。こんな街に、本当にたまきでも着れるような服なんて売っているのか。
志保はたまきの不安を察したらしく、
「大丈夫。たまきちゃんに似合う服もきっとあるから。自信持って」
と言うと、たまきを前に向かせた。もしかしたら、たまきの服を探すというのを口実に、ただ単に志保がギンザに来てみたかっただけなのかもしれない。
高速道路をくぐったところに、車一台が通れる程度の、小さな道があった。横断歩道はあるが信号はない。
この道を渡ろうとして、たまきは横断歩道の右側を見た。そこには、横断歩道を横切るつもりなのであろう、数台の車が列を作って止まっていた。どうやら、横断歩道を渡る歩行者が途切れるのを待っているらしい。
たまきは、道を渡らずに立ち止まった。
「どうしたの? 渡らないの?」
と志保が問いかける。
「……ちょっと待てば、この車が全部行っちゃうと思うんで」
止まっている車は3台か4台ほど。車通りもそんなに多くない。
歩行者がみんな、ほんの十数秒待てば、止まっている車はすべて通り抜けるはずだ。それを待ってから渡ろう。たまきはそう考えたのだ。
十五分が過ぎた。
たまきと志保は、ずっと同じ場所に立っていた。
「たまきちゃん、そろそろ……」
と志保がたまきの方を、少し心配そうに見る。
「でも……」
たまきは、右側をちらりと見た。
横断歩道の右側には、5、6台の車が並んでいた。
ほんの十数秒、歩行者全員が道路を渡らずに待ってあげれば、車が全部通過して、渋滞もなくなる。たまきはそう考えていた。そう考えたから、ずっとそこに立っていた。
ところが、ほとんどの歩行者は、立ち止まることなく道路を渡っていった。
多くの車が、ずっと前に進むタイミングを待っているのに、みんな平気な顔して道を渡っていく。ほんの十数秒待てば車は全部通過して渋滞がなくなるはずなのに、我先にと道を渡っていく。
十五分の間、道路を渡る人の流れは、ほとんど途切れることはなかった。
たまに歩行者が途切れるときがあった。先頭の車はその隙を見つけて横断歩道を横切り、先へと進む。
だが、2台目の車がそれに続こうとすると、必ず歩行者が渡り始め、車の行く手を遮るのだ。車は前に進みたそうにゆっくりと動くのだが、歩行者たちはお構いなしにわたっていく。運転手さんが苦笑いしているのを、たまきは何度も目撃した。
先頭の車が抜けてから、2台目の車が抜けるのに、数分かかった。そうこうしている間に、後ろには新しい車が並ぶ。渋滞はいつまでたってもなくならない。
ほんの十数秒、立ち止まってあげるだけで渋滞はなくなるのに、どうしてみんな立ち止まらないんだろう。どうして車の行く手を遮ってまで、ほんの数mほどの道を急いで渡りたいんだろう。
ふとたまきは、中学の時に国語の授業で習ったお話を思い出していた。地獄にたらされた蜘蛛の糸に、罪人が我先にと押し寄せ、自分だけ助かろうとしたばっかりに、蜘蛛の糸がぷっつりと切れて、地獄に逆戻りする、そんなお話だ。
たまきにとって一番驚いたのは、たまきの目の前で我先にと、車の行く手を遮って道を渡る人たちが、地獄に落とされるようなみすぼらしい罪人ではなく、たまきよりもおしゃれな人たちだったという事だ。
亜美の周りにいるような、いかにも悪人という人たちではない。手をつないだカップルだったり、ベビーカーを押す若いママさんだったり、スーツを着たサラリーマンだったり、高級そうな服に身を包んだおばさんだったり、おしゃれに気を遣うおじいさんだったり。皆、人のよさそうな笑顔を浮かべていた。
きっとみんな、家出や不法占拠のような、間違ったことをしているたまきなんかよりも、ずっと立派に人生を生きている人たちなのだろう。
何より、みんなたまきよりもずっと、おしゃれだった。
「たまきちゃん……」
志保がたまきの袖を引っ張る。
「ひきこもりだ……」
たまきがぽつりとつぶやいた。
「……たまきちゃん?」
みんなみんな、ひきこもりだ。
おしゃれというのは、人により良く自分を見せるためにやるはずだ。
なのに、目の前の横断歩道を渡っていく人たちは、おしゃれな人たちばかりなのに、ちっとも周りが見えていない。周りが見えていれば、車がずっと歩行者が途切れるのを待っていることに気づくはずだし、立ち止まるはずじゃないか。
おしゃれをして、人には自分を見てほしいくせに、自分は人を、周りを全く見ていない。自分磨きだなんていうけれど、結局それって、自分のことしか見ていないだけなんじゃないか。
それじゃまるで、ひきこもりじゃないか。外を歩いていても、心の中はひきこもりじゃないか。
しましま模様の横断歩道を、途切れることのない人の流れを、困ったようにハンドルを握る運転手さんの顔を、眺めながら立ち尽くすたまき。そんなたまきを志保は困ったように見ていたが、少し考えると、たまきに声をかけた。
「じゃあさ、車の列の一番後ろに回ろっか。列の一番後ろに回って、そこから渡ろうよ。そうしたら、車の妨げにもならないでしょ?」
たまきは、渋滞の列の一番後ろへと視線を投げかけた。4台目にトラックが止まっていて、その後ろは見えない。
たまきは無言で、車列の一番後ろに向かって、道沿いに歩きだした。志保もそれに続く。
あのまま、意地で横断歩道の前に立ち尽くしていてもよかったのだけれど、さすがにもう疲れたのだ。
立ち尽くすことが疲れたのではない。
自分のことしか見ていない「おしゃれなひきこもり」の顔を見続けることに、疲れたのだ。
ほんの十数メートル歩いただけで、車列の最後尾にたどり着いた。そこから二人は道路を渡る。
十数秒待てば、渋滞はなくなる。
十数メートル歩けば、車を遮ることなく道を渡れる。
どちらも、ほんのちょっとだけ人に優しくなれれば、なんてことのないことのはずなのに、誰もそれをしようとしない。
そのあと、志保とたまきはいくつかのお店をまわった。デパートの中のお店だったり、若者向けのお店だったり。
お昼になって二人は、カフェでランチを食べていた。
「ちょっと背伸びしすぎたかなぁ」
と志保は、フォークにパスタを巻き付けながら笑った。
たまきは無言で、フォークにスパゲッティを巻き付ける。
「でも、確かにたまきちゃんは、原宿系って感じじゃないよね。もうちょっと落ち着いた感じの方が似合いそうだし。そのパーカーも落ち着いた感じだから、もうちょっと探してみたら似合うやつが……」
「……もういいです」
たまきは静かにそういった。
「え?」
「もう、おしゃれなんかしなくていいです……」
そういうたまきを、志保はまた困ったように見ていたが、すぐにやさしく笑った。
「そんなことないって。むしろ、たまきちゃんは自分に合ったファッションが見つかれば、すごくかわいくなると思うよ。そうだ、午後はアメ横とか行ってみようか。安くてたまきちゃんに似合いそうなのが……」
「だから……そういうのはもう……いやなんです」
たまきはコップの水に視線を落としたまま、つぶやく。
おしゃれだの、自分磨きだのというけれど、結局は自分のことばかり気にして、それでいて周りのことは全然見ていない。
そう考えたら、おしゃれに気を遣うのが、急にばかばかしくなったのだ。
志保も、立ち尽くしていた十五分の間にたまきに何かがあったことを察したらしい。少し言葉を選ぶように考えあぐねる。
「でもさ……、亜美ちゃんのお花見に、たまきちゃんも行くんでしょ? まあ、亜美ちゃんのファッションに合わせることはないけど、少しぐらいおしゃれしても……」
「……お花見には、行きません」
たまきは視線を上げることなく言った。
「……断ったんです」
「そうなんだ……」
志保にはたまきが、ジャングルの未開の部族ではなく、その部族ですらめったに見つけられないような、密林の奥地に住む色鮮やかな蝶々のように思えた。
「じゃあ、帰ろっか。あ、ごめん。帰る前に、あたしの買い物しちゃっていいかな?」
たまきは、無言で頷いた。
「ただいまぁ」
「お、お帰り」
志保とたまきが「城」へ戻ると、亜美が一人で、テレビを見ながらハンバーガーをほおばっていた。机の上にはポテトとチキンナゲット、さらにコーラが置かれている。
「服買いに行ったんだろ? どんなの買ってき……」
亜美の言葉が言い終わらないうちに、たまきは衣裳部屋へと飛び込み、スケッチブックの入ったリュックを引っ張り出すと、
「……出かけてきます」
と言ってすぐに外へ出て行ってしまった。たまきが「城」に入ってから外へ出ていくまでにかかった時間としては、最短記録だったかもしれない。
階段を下りながら、たまきはふうっとため息をつく。
亜美からのお花見の誘いを断ってから数日の間、どうにも亜美と顔を合わせるのが気まずいのだ。
別に、ケンカしたわけではない。亜美はたまきがお花見に来ないことを了承してくれた。
なのにあれ以来、たまきは亜美と顔を合わせるのが気まずくなってしまったし、亜美の態度にも何かよそよそしさを感じる。
別に、避けられているわけではない。意地悪をされているわけではない。
なのになぜか、よそよそしいのだ。
まるで、振出しに戻ってしまったかのような感覚だ。1年ほど前、初めて亜美と出会って、まだどんな人なのか全然わからなかった頃のよそよそしさに。
たまきが出ていったドアを亜美はなんだかさみしそうに見つめていた。
「結局たまきちゃん、何も買わなかったんだよねぇ。これはあたしの買い物」
そういって志保は洋服の入ったビニール袋を机の上に置いた。
亜美は志保の方を振り向かないし、返事もしない。
「……ねえ、たまきちゃんと何かあった?」
「んあ?」
不意を突かれたように、亜美が振り返る。
「あたしが気付かないと思った? ここしばらく、二人ともなんかヘンだよ。絶対なんかあったでしょ?」
そういうと、志保は亜美の隣に腰掛けた。
「まえにさ、たまきちゃんはあたしと亜美ちゃんの間を取り持つ緩衝材だ、って話したじゃん。なのにさ、そのたまきちゃんと亜美ちゃんがなんか変な感じになっちゃったら、あたしまでピリピリしてくるんですけど」
亜美にしては珍しく、何も言うことなく、自分の膝のあたりを見ていた。
「たまきちゃん、お花見の誘い、断ったんだって? それってなんか関係ある?」
志保は亜美の顔をのぞき込む。
「どうせ亜美ちゃんが、絶対来いよとか、無理強いしたんでしょ?」
「そ、そんなことしてないし……!」
「じゃあなんで、二人が気まずくなってんのよ」
「べ、別に……」
亜美は、隠し事をしている子供のように、志保から目をそらした。
「じゃあ、例えば、嫌がるたまきちゃんに、お花見に来ればなんだかんだで楽しくなるとか言って来させようとしたとか……」
亜美は驚いたように目を見開き、無言で志保の方に振り向いた。
「図星だ……」
志保があきれたようにため息をついた。
「それで、たまきちゃんはなんて言ったの?」
「ウチとあいつじゃ……、楽しいと思うことが違うんだって……」
亜美はポテトを口にくわえたまま、片膝を抱えた。
「それ聞いてからさ、なんか考えるようになっちゃってさ……。ひょっとしたら、ウチが今まであいつに良かれと思ってやってきたことって、もしかしてあいつにとっては楽しくなかったのかも知れないって……」
そこで亜美は、志保の顔を見た。
今度は、志保が驚いて目を見開いていた。
「え? いまさら?」
「な、なんだよ、いまさらって」
「たまきちゃん楽しんでないかもって、いまさら気づいたの?」
「……は?」
「は、じゃないよ。無理やりクラブに連れてったり、無理やりクリスマスパーティさせたり、ああいうの、たまきちゃんが楽しんでると思ったの?」
「え、あいつ、楽しんでなかったの?」
そこで志保は、また深くため息をついた。
「たとえばさ、去年の暮れにさ、三人でボウリング場に行ったじゃない」
「ああ、行った行った……」
そこで亜美は、大きく身を乗り出した。
「おい、まさかあれもたまき、楽しんでなかったっていうんじゃ……」
去年の暮れ、クリスマスの少し前に、三人は近くのボウリング場に行った。
亜美は持ち前の運動神経の良さを発揮して、好スコアをたたき出した。投げるたびに何か変な掛け声を発していたことを除けば、なかなか様になっていた。
志保もボウリングは何度か経験があり、それなりにできたが、体力が続かず、途中からは見ているだけになった。
たまきは、それまでボウリングを全くやったことがなかった。ボウリングの球も持ったことがないし、ボウリングシューズも履いたことがない。
当然、いきなりうまくいくわけがない。たまきの投げたボウリング玉は、まっすぐ進まずにすぐにガーターへと落ちた。
しばらくすると、亜美の懇切丁寧な指導が入った。
「いいか、この手のスポーツは、まずはフォームをしっかりと覚えることが大事なんだ」
「こういうのはな、全身運動なんだよ。腕の力だけで投げるんじゃなくて、体全体でボールを押し出すんだ」
「投げるときに掛け声を言うと、パワーが3倍になるんだぞ。プロボウラーだってみんなやってるんだからな」
亜美のアドバイスはどこまで信憑性があるのか、志保にはわからなかった。それでもたまきは素直に従っていた。亜美に教わったフォームをまねして、腕だけでなく全身でボールを押し出すようにして、投げるときは小さく「えい」と言っていた。
そんなことを繰り返すうちに、次第にたまきのボールの飛距離が伸びていった。
そして何度目かの投球で、たまきのボールはガーターに落ちるか落ちないかのぎりぎりのところを転がっていった。
「いけ! そこだ! 落ちるな! 行け! 行けー!」
これは、亜美の絶叫である。
そしてとうとう、ボールはガーターに落ちることなく、一番右端のピンを捉えた。ボールに当たって足元をすくわれたピンは跳ねとび、もう一本別のピンを倒した。
「やったぞ、たまき! 2本も倒れたじゃねぇか! 初めてですごいぞ! おい、ハイタッチだハイタッチ! やったやった!」
この時、志保は自分のボールを取りながら見ていた。
大はしゃぎでハイタッチを求めてくる亜美に対し、たまきもハイタッチで返すものの、顔が全くの無表情だったことに。
そのあと、たまきは最高で6本のピンを倒した。だが、たまきの無表情がほころぶところを、ボウリング場内で志保が見ることはなかった。
「マジかよ……」
志保の話を聞いて、亜美は半ば信じられないといった顔をしていた。ボウリングに行って、初心者とはいえそれなりにピンを倒して、楽しくない人間などこの地球上に存在するというのか。
「でも、あいつ、反応薄いだけで内心では楽しんでたんじゃ……」
「いくらたまきちゃんでも、楽しかったらちゃんと笑うでしょ。誕生日の時は、やっぱり楽しそうだったよ」
そう言われると、誕生日の時は、相変わらず表情は硬かったけれど、たまきなりの笑顔をしていたような気がする。
「あたしが覚えてるのはね、投げるたびになんか、首傾げてたなってことかな」
「自分の投球に納得いってなかったんじゃないの? ほら、あいつ、生真面目じゃん」
「そうかな。あたしには、『これ、なにが楽しいんだろ?』って首傾げてるように見えたけど。むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ」
「なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!」
亜美は、ソファのクッションをバシンとたたいた。
「じゃあさ、ウチがあいつ連れてったゲーセンとか、ビリヤードとか、ダーツとか、ああいうのも……」
亜美の問いかけに、志保は少し考えて、
「帰り道の方が楽しそうだったね」
「だからなんで帰り道なんだよ!」
今度は亜美はクッションを手に取って放り投げた。
「他には……えっと……ここで野球の試合見せた時とか、ロックバンドのアルバム借りてきて聞かせたときとか……」
亜美の問いかけに、志保は静かに首を横に振った。
「今年の夏に、あいつをサーフィンに連れて行こうと思ってたんだけど……」
「やめといたほうがいいんじゃないかなぁ」
亜美は背もたれに思いっきり寄りかかる。
「えー……。じゃああいつ、なにしたら『楽しい』って思うんだよ……!」
なんだか、初めてたまきに出会った頃にも、こんなことを言っていたような気がする。
「でも、ほら、たまきちゃんって絵が好きじゃない。今もどこかで絵をかいてるんじゃない? だからさ、例えば美術館に行くとか……」
「そんなの、ウチが楽しくねーよー!」
「ほらね」
そういって志保は微笑む。
「亜美ちゃんとたまきちゃんじゃ、楽しいって思うことが違うんだよ」
そういうと志保は、体ごと亜美に向き直った。
「自分ばっかり楽しんでないで、もっとちゃんと、周りを見なさい」
「……はい」
亜美にしては珍しく、素直にこうべをもたげた。
「話は変わるんだけどさ……」
そういって志保は亜美に尋ねた。
「車が1台ぐらいしか通れない、小さな道があったとするじゃん?」
「……何の話だよ」
「その道をさ、歩行者がひっきりなしに渡っていくの。で、その歩行者が渡り切るのを、何台もの車が待ってる。亜美ちゃんが歩行者で、その道を渡りたいって思ってたら、どうする?」
「は?」
亜美は質問の意図がよくわからない。
「渡るに決まってんだろ。みんな渡ってんだろ?」
「たまきちゃんはね、そこでずっと待ってるの。みんなが道を渡るのをやめて、車が全部いなくなるのを。みんながちょっと立ち止まれば、車は全部進めるはずだから、って」
「はぁ? 暇なのかよ、あいつ」
そういって亜美は腕を組んだ。
「たとえば道の向こうにからあげがあるとするだろ。そうやってのんびり待ってる間にさ、からあげがなくなってるかもしれないだろ? ウチだったら赤信号でも渡るね」
「信号無視はダメでしょ」
そういって志保は笑う。
「ほらね。やっぱり、亜美ちゃんとたまきちゃんは、違うんだよ」
南風が桜前線を押し上げ、週末になると東京でも桜が花開き、散りゆく花びらが風を、土を、桜色に染め上げた。
金曜日に、たまきはいつもの公園を訪れた。たまきにも多少の風流な心があったらしく、桜色に染め上げられた公園を絵に描きたいと思ったのだが、平日にもかかわらず、多くの花見客でごった返し、なんだか風に舞う花びらよりも、人の数の方が多いような気がして、たまきは引き返してしまった。
それ以来、たまきはひきこもりっぱなしだ。お風呂に入りに行ったり、コインランドリーに行ったり、外出と言えばそれくらい。
志保は木曜日にバイト先の花見に出かけた。もちろん、同じバイトをしている田代も一緒だったはずだ。
亜美はというと、日曜日が近づくにつれ、誰かと電話したり、メールをしてる時間が長くなった。亜美にしては珍しく忙しくしてて、あまり「城」の中にはいない。正直、たまきとしてはその方がありがたかった。いまだに、亜美とどう接すればいいのかがわからない。
一方で、亜美がどこかへ行き、志保がバイトに行って、一人で「城」の中でお留守番をしているのは、どことなく寂しかった。一人ぼっちにはもう慣れっこのはずなのに。
相変わらず、心のどこかがもやもやしたまんま、たまきは日曜日を迎えた。「城」の中に積まれていた、花見用の段ボールたちは、前日の深夜にどこかへと運び出された。
薄暗い部屋の中でたまきが一人ぼんやりしていると、志保が帰ってきた。志保はこの日、午前中はいつもの施設へ、午後はバイトへと、忙しくしていた。
帰ってきた志保は、ソファに座り、足をソファの上に投げ出した。
たまきは、そんな志保の顔をちらりと見る。
「志保さんは……」
たまきは恐る恐る尋ねた。
「お花見……行かないんですか……」
「この前行ってきたよ」
と志保。
「そうじゃなくて、亜美さんのお花見のことです……」
「行かないよ」
志保はきっぱりと言った。
「誘われたけどね。たまきちゃんが行かないのに、あたしだけ行っても、ねぇ」
たまきは、志保の方を向いた。
「そんな……別に私に気を使わなくても……」
「そうじゃないよ。あたしも、亜美ちゃんのお友達はあまり得意なタイプじゃないもん。いったってどうせ楽しめないし、たまきちゃんが行かないんだったら、なおさらだよ」
そういって志保は笑った。そういえば、クリスマスの時もそんなことを言っていたような気がする。
「そういえば、バイト先の人に聞いたんだけど、この辺の川のそばも、なかなかの桜スポットらしいよ」
「この辺の川、ですか?」
「この辺」に川などあっただろうか。
「そう、あっちの方にね」
と言って志保は、北西を指さした。
「有名な川だよ。昔の歌のタイトルにもなっててね」
と言って志保は軽くメロディを口ずさんだが、たまきはその歌を知らなかった。もっとも、志保の音程が正しかったとは限らないが。
「ここからだと歩いて三十分ぐらい。せっかくだからさ、二人でちょっとお花見してこない?」
「二人で……ですか」
「そう、二人で」
たまきはしばらく黙っていたが、静かに頷いた。
歓楽街を出て、高架に沿って二人は歩いていく。夕焼け空に照らされた漆黒の高架は、まるで強固な城壁のようにも見える。
いつもたまきが公園へ行くよりも、少し長い時間を歩いた。
コリアタウンを抜け、アジアタウンを抜け、昔ながらの商店街を抜け、やがて二人は、川辺に出た。
そこは川と言っても、コンクリートで模られた道に、水を流しているだけのようにも見える。無機質で直線的な河床とは対照的に、川辺に植えられた桜の木々は花開き、その命を以って春を鮮やかに奏でていた。空はすでに紺色に染まっている。
風に吹かれて舞う花びらが、わずかな街灯の明かりに照らされてきらめく。まるで、朝日を反射して輝く波しぶきのようだ。そのまま花びらは川面へと吸い込まれ、桜色に染め上げる。
川には橋が架かっていて、たもとにはコンビニがあった。二人はコンビニでおにぎりやお菓子、飲み物を買うと、橋の上に立った。桜の枝の向こう側にもう一本、橋があって、その上を電車が走り抜けていった。
川沿いの遊歩道には幾人かの花見客がいて、桜を携帯電話で写真に収めていた。それでも、都立公園の花見客に比べればほぼいないに等しい。この場所を狙ってやってきたのではなく、たまたま通りがかった人たちなのだろう。
二人は、遊歩道のベンチに座った。見上げた桜よりも少し高いところに街灯があり、その明かりは花びらを通り抜けて、志保とたまきの足元を照らしていた。
「きれいだねぇ」
「うん……」
たまきは、散りゆく花びらの一つ一つをぼんやりと見つめていた。何も考えずに、ただ花びらを見つめていた。
ふと、たまきが目線を落とすと、志保がたまきにお菓子を差し出していた。
「ふふ。やっと気づいた。食べる?」
「はい……」
たまきはおかしを受け取り、口にくわえた。
「花びらずっと見てて飽きないの?」
「まあ……」
「ヘンなの」
そう言って志保は微笑む。
たまきは志保を見やると、お菓子をほポリポリとほおばりながら、再び花びらへと視線を戻した。
今ごろ亜美は、公園で大勢の友達とともにどんちゃん騒ぎをしているのだろうか。
志保と二人でのお花見はどんちゃん騒ぎをすることもなく、たまきの心の中はだいぶ穏やかだ。
……穏やかなのだが、どこかさみしさをたまきは感じていた。
それも、不思議なことに、今までたまきが感じたことのないさみしさなのだ。
街の喧騒も、電車の音も、風の音も、何か不完全なものに聞こえるような、不思議なさみしさ。
それは、一人ぼっちの時に感じる、空き缶を押しつぶすようなさみしさとは明らかに違う。
まるで、音の鳴らないピアノを弾いているかのような、物足りなさ。
たまきは視線を落として、そのさみしさをゆっくりと噛みしめていた。
志保はお茶を飲みながら、そんなたまきをじっと見ていたが、やがて背もたれによりかかると、言葉を漏らした。
「やっぱり、亜美ちゃんがいないと、さみしいよねぇ」
その言葉に、たまきは思わず志保の方を見た。
志保は、たまきの考えていることがわかったのだろうか。
それとも、志保もたまきと同じことを考えていたのだろうか。
たまきの感じていたさみしさ。それは、亜美がいないことによるものだった。
志保と二人でのお花見も、決して悪くはない。
だけど、いつもいるはずのもう一人がいない。
いつもの三人じゃない。
たったそれだけで、片腕をどこかに置いてきてしまったかのように世界が物足りなく感じる。
一人ぼっちのさみしさだったら、誰でもいいからそばにいてくれれば、紛らわせるけれど、「亜美がいないさみしさ」は、亜美にしか埋められない。
ほかのだれかでは、代わりにはならないのだ。
志保がたまきに何かを差し出した。今度は、お菓子ではないようだ。
「電話してみよっか」
志保がたまきに差し出したのは、携帯電話だった。
「呼んじゃおっか、亜美ちゃん」
「でも……それは……私のわがままです……」
たまきはそういって下を向く。
「亜美さんも向こうで……友達と楽しく過ごしてるかもしれないのに……私のわがままでこっちに来てほしいだなんて……」
「たまきちゃんだけのわがままじゃないよ。あたしのわがままでもあるんだから」
そういって志保は、優しく微笑む。
「いいんじゃない、たまにはわがまま言っても。どんなわがままだって言葉にしなきゃ伝わんないよ。来るか来ないかを決めるのは亜美ちゃんなんだし。それに、もしかしたら、向こうも同じこと考えてるかもよ?」
「え?」
「そしたら、もう、わがままじゃないでしょ?」
日が暮れてすっかり夜になった。都立公園は漆黒の夜空を桜で覆い隠し、ライトが桜を明るく照らし、大勢の笑い声が彩を添えていた。
その中でひときわ、目を引く一角があった。
ブルーシートの上には、動物園に行けば「ヤンキー」や「パリピ」に分類されていそうな連中が集まっていた。髪を派手に染め上げていたり、そうかと思えば坊主頭だったり、刺青を彫ったり、金属ジャラジャラだったり、サングラスをしてたり。「不良の集まり50人セット」と称して、ドン・キホーテで売られていてもおかしくない。
男に比べれば数は少ないが、女もいる。これまた、セクシーを通り越して、破廉恥の領域に片足を突っ込んだような恰好をしている。
少なくとも、こんな場にたまきが来てしまったら、なじめないどころか、泣き出してしまったかもしれない。
さて、亜美はというと、その中でもひときわ、破廉恥の親分みたいな恰好をしていた。
胸の谷間を強調した、緑のタンクトップに、下はダメージジーンズ。それだけだと寒いので、黒い皮のジャンパーを羽織っている。
金髪はいつものポニーテールをほどいてバッサリと下ろし、キャップを被っていた。
亜美はブルーシートから少し離れたところで、なにをするでもなく、集まった群れを見ていた。
笑い声が飛び交い、紙コップには酒が注がれ、反対にゴミ袋の中には潰れたビールの缶が詰め込まれていく。ところどころに、無造作に開けられたスナック菓子や、チョコの包み紙が置かれていた。
「どうだよ。俺がちょっと声かければ、これだけ集まるんだぜ」
ヒロキが酒を片手に笑う。傍らで赤ん坊を抱いている少女は、ヒロキの嫁だ。確か、亜美よりも年下だったはず。
「亜美さん、お疲れっす」
声をかけられて、亜美は振り返った。シンジというひょろ長い男が、女を連れて立っている。
「んあ、来たの」
「そりゃ、亜美さんに来いって言われたら、来るに決まってるじゃないっすか、ねぇ」
確かこいつは最初、来れないとか言ってたはずだった気がするが、なんだか今の亜美にはどうでもよいことに思えた。
亜美がやっていることは援助交際とはいえ、知らないオジサン相手におバカな子ネコちゃんを演じて小遣いをもらうような小娘の遊びとは違う。身一つでこの街に流れ着いた亜美にとって、それは生きていくための稼業に他ならない。
ほぼ無一文だったころは、カネをくれるのであれば「誰とでも」だったが、ある程度金が手に入ると、客を選ぶようになった。
誰とつるめば、どんなグループに身を置けば、この街で自分の座る椅子を確保できるか。
不良がたむろするこの街で、自分と同じ匂いをまとった連中を見つけるのは、そう難しくはない。その中で、どのグループに近づけばいいか。この街の中でそれなりに力があって、亜美のような人間がすんなりと溶け込めそうなグループ。力と言ってもそれは必ずしも暴力を指すとは限らず、経済力だったり、人脈だったり、情報網だったりする。
そうして、自分の居場所となるグループを見つけたら、なるべく、ボス猿の近くへと行く。
そのころにはすでに、亜美が援助交際をしているという事は知られていたので、当然、ボス猿やその取り巻きからもそういう目で見られる。一緒に酒を飲んで話していれば、次第に向こうから誘ってくる。金を出して誘えばノッテくる、「どうせそういうオンナだ」と思われていたのだろうが、亜美としても、自分から誘惑する手間が省けるので好都合だ。どうせ恋愛をするつもりなど最初からないし、相手が自分のことを手頃な玩具程度にしか思わなかったとしても、別に構わない。こっちだって手頃な番犬程度にしか思っていないのだから。
問題は、そのあとである。いかに相手を満足させるか。一夜限りのおもちゃなどで終わらず、いかに深い関係となるか。「情婦」としても、「飲み友達」としても。
ボス猿集団と常日頃から仲良くし、ベッドを共にし、軽いオンナというイメージを持たれる一方で、ボス猿集団よりもランクの劣るサルたちの誘いには応じなかった。
後ろ盾ができたからだ。ランクの劣る男たちの誘いを無碍にしても、「あいつはボスのオンナだから」の一言で許される。
そうすることで、次第にグループの中での亜美の立ち位置も変わってきた。ボスのお気に入りで、ボスやボスに近い連中としか誘いには応じない。それより下の男たちにとっては、亜美は決して手を出すことが許されない、高級娼婦のような高嶺の花。
ブランドのバッグのなにがそんなにすごいのかわからないけど、とりあえずハリウッド女優が持ってたからほしい、でも高くて買えない。でもいつかは欲しい。それと同じ理屈だ。
そうして亜美は、この街に自分の椅子を作ってきた。
花見だの、クリスマスだの、クラブのパーティだのといったイベントごとは亜美にとって、自分のこの街での立ち位置を確認するという側面もあった。自分がどういう立ち位置にいて、どれほどの影響力を持っているのか。
亜美には、王様がピラミッドを作らせたり、マスゲームをさせたりする理由が、ちょっとだけわかった。きっと、お城の中で玉座に座って、王冠をかぶっているだけでは、自分が本当に王様なのか自信がなくなってしまうのだろう。たくさんの人間が、自分の一声で集まり動いているところを見ないと、自分が王様だと信じられないのだ。
そして、今見ている光景はまさに、彼女が楊貴妃であるという事を確かめるには十分なものだった。
なのになぜだろう。何かが足りないと感じてしまうのは。
ここは自分の国で、そして自分は王様なのに、見知らぬ国にいるような気がして仕方がない、そんな物足りなさ。
亜美はどうにも、集まったサル山の中に入って共に騒ぐ意欲が、不思議と涌かなかった。
ふと、視界の端に目を向けると、ミチの姿があった。彼もまた、ヒロキに「絶対に来いよ」と脅され、亜美に「お前、来るよな」と念を押された、哀れな下っぱ猿の一匹だった。
ミチは誰かと話していた。相手はどうも、亜美たちが呼びつけた仲間ではない。
年は六十以上だろうか。煤けた顔には濃いしわが刻まれている。白髪頭にキャップを被っている。どうやら、ホームレスらしい。
「すいませんね、なんか、騒がしくしちゃって」
「なぁに、公園はみんなのものだ、わしらのものじゃない。好きに使うがいいさ」
そういって老人は笑う。話しぶりからして、どうやら二人は知り合いのようだ。
ミチのやつ、ホームレスと一体どういう知り合いだろう、と少しだけ興味を持った亜美は、ミチに近づいてみた。
「よっ、なに、しりあい?」
亜美が声をかけるとミチが振り向く。一方のホームレスは、
「じゃあ、そろそろ出かけるとするか」
と傍らの自転車に手をかけた。
が、ふと動きを止め、亜美の方をじっと見た。
「な、なんだよ」
「あ、いや、亜美さん、この人、別に怪しい人じゃなくて……」
老人は亜美の顔をじっと見ると、
「お前さん、どこかで会ったか?」
と尋ねた。
「あ?」
「いや、会ってはないな。だが、どこかで見た気がする。さて、どこだったか……」
亜美は一時期、お金がないとき、ホームレス相手に「シゴト」をしていたこともあったが、このホームレスとは会っていない。あのとき相手していたのは、もっとだらしなさそうなおっさんばかりだ。
一方の老人は不意に「ああ、そうか」と一人合点したように笑った。そして亜美の方を見ると
「お嬢さん、今日はずいぶんとさみしそうだな」
とだけ言い残すと、自転車をこいで、公園の闇の深い方へと消えて行ってしまった。
「は……」
「あ、あの、ほんとに変な人とかじゃないんで……」
ミチが取り繕うように言葉を添えるが、亜美は無視して歩き出した。
呼びつけた仲間たちのそばへと戻っていく。
ああそうか、自分はさみしかったのか、と亜美は一人で納得した。
自分が一声かければ、これだけの人数が集まる。
なのに、志保とたまきは来なかった。
別に来なくてもよかった連中ばかりが集まって、本当に来てほしかった二人は来なかった。
たまきに「お花見には行きません」と言われて以来、どこかさみしさを抱えていたのは、たまきが「本当に来てほしかった友達」だったからだ。
たまきに「いいから来いよ」なんて言えなかったのは、亜美にとってたまきが、単なる頭数合わせなどではなく、「本当に来てほしかった友達」だからだ。つまらなそうにしててもとりあえず人数がそろえばいい、などと言うのではない。純粋に、一緒にお花見を楽しみたかったから、「嫌々来ている」では意味がないのだ。
たまきに断られた後、たまきとの接し方がわからなくなってしまったのもその「嫌々来ている」をずっとたまきに強いてしまっていたのではないかという、後悔からくるものだった。
ふと、携帯電話が鳴った。
画面を見てみると、志保からだった。
確か、たまきと一緒に「城」にいるはずである。今からでも来るのかと思ったけれど、たまきを置いて一人で来ることはないだろう。
「もしもし?」
「あ、亜美ちゃん? 今、お花見中?」
「そうだけど……」
電話口の志保の向こうに、電車の駆け抜ける音が聞こえた。
「ん? お前、外にいるのか?」
「うん。いま、たまきちゃんと二人でお花見中」
「お花見?」
「そう、二人で」
「そう……」
「それでね、たまきちゃんが亜美ちゃんに言いたいことがあるんだって」
「……たまきが」
「うん。……亜美ちゃん、覚悟して聞いた方がいいよ。それじゃ、代わるね」
しばし、沈黙が流れる。
「あ、あの……亜美さん、こんにちは……」
「……おう」
たまきはなんだか、初めて亜美と話すような口ぶりだ。亜美も、たまきの声を聴いたのは、久しぶりだったような気がする。
「あの、亜美さん……」
たまきはそこで、一呼吸置いた。
「亜美さんも……こっちに来ませんか……」
「え?」
再び、沈黙が流れた。
「こっちで一緒に……お花見しませんか……その……三人で……」
「……バーカ」
亜美は、どこか力なく言った。
「ウチ、これでも幹事だぞ。抜けられるわけねぇだろ」
「そうですよね……。ごめんなさい、わがまま言って……」
「……お前らさ、今、どこいんの?」
「え? えっと……ここ……どこなんでしょう?」
たまきは振り返って、志保に尋ねた。
「あの……、東中野駅の、川のそば、だそうです」
「だそうですって、なんでお前、自分がいる場所、わかってねぇんだよ」
そういって、亜美は笑った。
携帯電話をポケットにしまうと、亜美はブルーシートの上のサル山を見やった。
あちらこちらで笑い声が起きる。全員が同じ方を向いているのではなく、いくつかのグループに分かれ、そのグループもやはり、集団内の序列ごとにまとまっているように見える。まさに、サル山だ。
亜美はサル山を見つめていたが、ふと目線を落とすと、半歩後ずさった。
誰も亜美に声をかけるものはいない。
一歩、二歩、亜美はゆっくりと、路面に丁寧に足跡を刻むようにゆっくりと、集団から離れてみた。
誰も亜美に声をかけない。
三歩、四歩、五歩六歩七歩八歩。
亜美は少しずつ歩調を速めるも、誰も、亜美を引き留めない。そもそも、亜美が少しずつ離れていることに、気づいていない。
「……んだよ」
亜美が声をかけてこんなに集まったのに、亜美がその場を離れようとしても、誰も声をかけない。
九歩、十歩、十一歩十二歩十三歩。
夜の漆黒の周りを桜色が縁どる空に、亜美のスニーカーが砂利を踏みしめる音が響いた。
そのまま砂利を磨り潰すように回れ右をすると、亜美は集まった輩に背を向けて、勢いよく走り出した。
スニーカーが激しく地面をたたく。その度に桜の花びらがわずかながらも地面から舞い上がる。
公園から道路へと向かう坂道を、亜美は一気に駆け抜けた。
道路に出て、横断歩道に差し掛かる。信号は赤。車は、数十メートル先に、一台近づいているだけだった。
亜美は構わず、横断歩道に躍り出た。
横断歩道から少し離れていたところを走っていた車のライトが、亜美の姿をかすめるように捕らえる。亜美と車の間にはかなりの余裕があったが、車はクラクションを鳴らす。
クラクションをかき消すように、亜美は舌打ちをした。
うるせぇな。今すぐぶつかるようなキョリじゃねぇだろ。ちょっとぐらい待ってろ。
こっちはな、今行かなかったら、二度とあいつらとお花見なんかできねぇかもしれねぇんだよ。
横断歩道を渡り切ると、亜美は縁石を飛び越えて歩道へと着地する。背後を先ほどの車が駆け抜けていくが、亜美は目もくれずに、ビルの隙間の路地へと踏み出した。
どうして王様の景色を捨ててまであの二人とお花見がしたいのか、どうして自分は走っているのか、亜美にもその理由はわからなかった。
それでも、胸が高鳴る理由が、走っていることで酸素を欲している、だけでは決してないことはわかった。
たぶん、たまきに何かを誘われたのなんて、初めてかもしれない。
それがなんだか、嬉しかった。
桜の花開く川沿いは、さすがに川のせせらぎが聞こえるほどではないけれど、それでもすぐ近くの都心に比べれば、静寂に包まれていた。
志保はお菓子の袋を手に持ち、それをたまきの方にも向けていたが、たまきの様子を見て、思わず笑ってしまった。
たまきはしきりに、川下の方に視線を飛ばしていた。
「そんなに亜美ちゃんが来ないか気になる?」
その言葉にたまきは、驚きと気恥ずかしさを隠さなかった。
「べ、別に、そういうわけじゃ……それに、断られましたし……」
「どうかな、あんがい来ちゃうかもよ。でもね」
そういって志保は優しく微笑んだ。
「来るとしたら、そっちじゃないと思う」
「えっ」
たまきはもう一度、「そっちじゃない」と言われた方角を見やった。
「だって、私たち、こっちから来て……」
「でも、亜美ちゃん、公園にいたんでしょ。だったら、来るのはこっちじゃなくてあっち……」
そういって、志保が川上を指さした時、ちょうどその方角から、何者かが
「とうっ!」
と跳び上がった。道路から川沿いの遊歩道へと続く段差を飛び越えたのだ。
そのまま、すたっと着地を決める。
「え?」
「亜美ちゃん?」
志保とたまきが、同時に目を見開いた。
「はあ……はあ……、疲れた……走ったー!」
亜美は肩を落とし、胸で大きく息をしている。
「亜美ちゃん、走ってきたの?」
志保の問いかけに、亜美は無言で頷く。
「ズボンがボロボロですよ? 途中で転んで破けちゃったんですか?」
「バーカ、ダメージジーンズだよ!」
「……え?」
「最初からこういうデザインだっつーの!」
「はあ……」
どうしてわざとぼろぼろのジーンズを作るんだろう、とたまきは疑問に思ったが、それよりももっと気になる疑問があった。
「亜美さん、どうしてこっちに来たんですか?」
「お前が来いって言ったからだろ!」
「でも、幹事だから抜けられないって……」
「あー、思ったほどそうでもなかったわ。はっはっは」
それを聞いたたまきは、志保の方を振り向いて、少し得意げな顔をした。
「どうです、志保さん。私が一声かければ、亜美さんだってきちゃうんですよ?」
「ほんとだね。すごいよ、たまきちゃん」
珍しくどや顔のたまきだったが、不意に背後から亜美の手が伸び、たまきにチョークスリーパーホールドを仕掛ける。
「『亜美さんだって』ってウチ以外お前の一声で誰が来るんだよ!」
「ご、ごめんなさい! 一度言ってみたかったんです!」
「あ、あたし、たまきちゃんの一声で来ちゃうよ」
「二人だけじゃねぇか!」
「でも、舞先生もよく、たまきちゃんの一声で来るじゃない。『また切っちゃいました』で」
「リスカの手当てに来てるだけだろそれ!」
亜美は一通りたまきをいじめると解放した。今度はたまきがハアハアと息をつく。
「でも……二人だけでもうれしいし……二人だけで……十分です……」
そういってたまきは、恥ずかしそうに笑った。
「この三人が……いいです」
「じゃあ、亜美ちゃんも来たことだし、乾杯しよっか」
志保は、傍らのレジ袋の中から、コーラの缶を取り出した。
「なんだよ、酒はねぇのかよ」
「あるわけないでしょ」
亜美は不服そうにコーラを開ける。
「それじゃあ、我らの変わらぬ友情を祝して、乾杯!」
「カンパイ」
「……かんぱい」
缶同士が軽くぶつかり、こすれる音がする。
「変わらぬ友情」というけれど、あの頃よりは何かがちょっと変わってるんじゃないか、そんなことをたまきは考えていた。
亜美はコンビニでからあげを買うと、ベンチに腰掛け、もりもりと頬張っていた。そんな亜美を挟むように、右側に志保、左側にたまきが座る。
「ところでさ、たまき」
「はい?」
亜美は隣のたまきを、のぞき込むように顔を向ける。
「お前、年末に行ったボウリング、楽しくなかったってマジか?」
「え……まあ……」
たまきは申し訳なさそうにうつむくと、わずかに首を縦に動かした。
「なんでだよ! ボウリングだぞ! 何がそんなに不満なんだよ」
「え……だって……ボウリングってボール投げるじゃないですか」
「そりゃそうだろ。ボウリングだもんよ」
「転がるじゃないですか」
「あたりまえだろ」
「ピンに当たって、倒れるじゃないですか」
たまきはそこで言葉を切ると、亜美の方を見た。
「……それで、どうすれば……?」
「どうすればってお前、そこで喜ぶんだよ」
「……なんで喜ぶんですか?」
「なんでって、ボールが当たってピンが倒れたら喜ぶだろ!」
たまきは困ったように志保を見た。
亜美も困ったように志保を見る。
志保は困ったようにはにかんだ。
「つまりたまきちゃんが言いたいのは、投げたボールが転がって、当たったピンが倒れるのは当たり前だから、それで喜ぶのはヘンじゃないか、ってこと?」
たまきは無言で、こくりとうなづいた。
「当り前じゃねぇだろ。お前、最初ガーター連発だったじゃねぇか。ピンに当たるようになるまでけっこうかかっただろ」
これまたたまきは、無言でうなづく。
「ボールがまっすぐ転がってるとき、たまきちゃんはどう感じたの?」
「ああ、まっすぐ転がってるなぁって……」
「そのあと、ピンに当たって2本倒れたろ」
「ああ、ピンが倒れたなぁって……」
たまきは二人の目を見た。
「それで……どうすれば……」
「そこで喜ぶんだよ!」
「……なんでですか?」
「それがボウリングだろ!」
たまきは、わからない、といった感じで二人を見る。
「お前、なにしたら楽しいって思うんだよ」
「……昔もそれ、聞かれた気がします」
たまきは下を向いた。前髪がたまきの目を、眼鏡ごと覆い隠す。
「今、こうしてるのは……楽しいですよ」
満月の下でお酒を飲んだ夜、シブヤに行ったときの夕暮れ、誕生日を祝ってもらった夜、真夜中に散歩して、日の出を見た明け方、一年にも満たない日々だけれど、亜美と志保に出会う前よりも、思い出ははるかに増えた。
「私……ちゃんと楽しんでますよ……」
「そっか」
たまきの顔を見てどこかほっとしたように、志保は笑った。
「あたしも、楽しいよ。亜美ちゃんは?」
志保に聞かれた亜美は、恥ずかしそうに笑った。
「これで酒があったら最高だけどな。ま、からあげがあるから、よしとするか」
ふと、亜美は先日のやり取りを思い出していた。
『むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ』
『なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!』
特別なことなんて何もしなくていい。
この三人で、同じ時間を過ごすこと。
このなんでもない時間こそが、たまきにとって楽しかったんだ。
「ウチも、まあ、楽しいよ」
そういって亜美は空を見上げた。桜の花びらの向こう側に、いつかの夜のように、まあるい満月が見えた。
つづく
次回 第32話「風吹けば、住所録」
「城」に、特にたまきの身に大事件が勃発! たまき16歳の「ひとりでできるもん」、開幕! 続きはこちら!
第31話あとがき
クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」