「稼ぐ」という言葉が嫌い

「稼ぐ」という言葉が嫌いです。

なんだか「自分一人の実力で、これだけ稼いだぜ、ざまぁ」みたいな臭いを感じて、イヤなのです。

だって仕事はお客さんから「いただくもの」だし、お金もお客さんの役に立って初めて「いただくもの」。

なのに「稼ぐ」という言葉には「全部自分の力」みたいな思いが見え隠れして、イヤなのですよ。

とはいえ、僕も気を抜くとつい「今日の稼ぎは……」なんて口にしてしまってるんですけどね。その都度「いけないいけない」と自分をいさめているわけです。

とはいえ、臆面もなく「俺の稼ぎは……」とか言うやつは好きになれません。周りへの感謝を忘れた、犬畜生だと思ってます。

ところがね、そんな犬畜生がいたのですよ。

タイムラインに流れてきたネット記事に「仕事は自分で作るもの」「給料はもらうものではなく稼ぐもの」とまあ偉そうに書いてあったのです。

……噛み殺すぞ、てめぇ。

(人に噛みつくのは犯罪です。絶対にやめましょう)

給料は「稼ぐもの」ではなく、会社がお客さんの役に立って、「いただいた」お金の中から分配されるもの。つまりは、いただくものです。それも、いただく相手は上司でも経理部でも社長でもなく、会社の外の人からいただくのです。

さらに言えば、会社員の場合、その会社のブランド価値を高めてくれた先輩方がいるわけで、さらに言えば会社を設立した人がいるわけで。どれだけ有能な社員でも、彼らの存在抜きにして、今日の有能さはありえないわけです。

じゃあ、自分で起業した人は「全部俺の稼ぎだぜ!」でいいのか、って言ったらそういうわけでもなくて。

たとえば会社の業務を楽にするためのソフトとかアプリとか。

……おまえが作ったんか? ちがうよな。

たとえば会社の業務で使う車。

……おまえが作ったんか? ちがうだろ。

たとえば取引先との連絡に使っているスマートフォン。

……おまえが作ったんか? ちがうでしょ? スティーブ・ジョブズとグラハム・ベルに感謝しなさい。

そして、これらが壊れた時、じゃあ自分一人で直せるのか、って言ったら、専門家でない限り無理なんですよ。

さらに言えば、「起業して、収益を上げられるような時代・環境」を整えた人は誰だろう、と考えると、それはもう気の遠~くなるほどの年月をかけて、気の遠~くなるほどたくさんの人たちが、今の時代を気づいたわけで、己などその大河に一滴に過ぎないわけです。

自分一人じゃ、ほんとは何にもできない。だから、仕事で電話を掛けるときは、こう言うわけですね。

「お世話になっております」

なぜ、ZINEを販売するお店は(そんなに)ないのか

年末にイベントに参加してきたんですよ。出展する側ですね。

野外のイベントだったんでコロナのリスクは低いんですけど、むしろ凍死のリスクが高くて、死ぬかと思いました。

文学フリマや、ましてやコミケなんかと比べると決して大規模なイベントではなかったけど、それでもまずまずの部数を売り上げたんです。

そして、ふと思うのが、「毎日、このくらいの売り上げがあったら、結構な収入にならないか?」

1日1万円を売り上げるとして、ひと月営業したら、30万円。

……悪くないじゃない。

もちろん、これだけだと店舗の家賃やコストだけで飛んでく可能性があるけど、何人かでチームを組んでお店を作ったら、結構いけるんじゃないの?

となると問題は、「僕のZINEはイベントじゃなくても売れるのか?」という点ですね。「イベントだから」売れてるんじゃないのか。お祭り気分だからみんな買ってくれたんじゃないのか。

まさにハレとケの問題。イベントで売れたZINEは普通のお店でも売れるのか?

となると、疑問に思うのが「なぜ、コミケの同人サークルは、常設店舗を作らないのか?」ということ。

半年に一度のコミケには、50万人ほどが集まるといいます。

もし、秋葉原あたりにコミケと全く同じ品ぞろえのお店があって、365日営業しているとしたら、1日3000人近くのお客さんが集まる大繁盛店になるという計算。

もはや、デパートですよ。秋葉原同人誌デパート。コミケがあれほど繁盛してるのに、なぜ同人誌デパートが生まれない?

ただ、コミケの主力商品は二次創作品。悪い言い方をすれば「パクリ」。

二次創作の売買が許されているのはイベント、つまりお祭りだからであり、それをさすがにお店で堂々と売り始めたら、さすがに集〇社あたりから「ちょっ、待てよ!」と言われてしまうのではないか。

メ〇ンブックスなんかでひっそりと委託販売してるくらいならまだしも、堂々とお店を構えるのはさすがにマズい気がしますね。

その点でウチは大丈夫です。完全なオリジナル作品ですから。

(まあ、全ての民俗学は柳田國男の二次創作なんじゃないか、という疑念は置いといて)

まあつまり、同人誌の即売イベントがあれだけ盛り上がるということは、「商業誌じゃないから」「個人が作ったものだから」「手作りだから」は、売れない理由にはならない、ということです。

むしろ、出版不況と言われ続ける今こそ、ZINEに価値があるのかもしれない。

全国でZINEやリトルプレスを扱うお店も、確実に増えてきています。ZINEを売る場をハレからケへと移す方法も、どこかにあるはずなんです。

「悪」を煽る奴も同罪じゃないのか?

ネットとかを見ていると、腑に落ちないことが多々あって。

「悪いヤツ」や「悪いもの」をもてはやした連中は、「悪いことをしたやつと同罪」ではないのか、って想いがずっとあるんですよ。

たとえば、ちょっと前に話題になった「迷惑ユーチューバー」。逮捕だの裁判だのアカウント凍結だので話題になりましたけど、あれって、「動画作った本人」だけが悪いんでしょうか。

どうしてそんな動画作ったのかと言うと、「再生回数が伸びるから」ですよね。誰も見ない迷惑動画を黙々と作るような酔狂な人間はまずいないはず。「この動画、迷惑でおもしれー!」ともてはやした連中が、サル山の猿のようにうじゃうじゃいたから、迷惑ユーチューバーは迷惑動画を作り続けたはずなんですよ。

迷惑動画をおもしろがって楽しんだ連中は、動画を作った本人と同罪じゃないのか? だって、こいつらがいなかったら、迷惑ユーチューバーは活動できなかったはずなんです。

そして、こいつらがタチ悪いのと思うのは、

「いや、僕らただ動画見てただけですよ」という言い逃れができてしまう、という点。

たしかに、積極的に悪いことをした人間と、それをただ見てた人間を同罪にする、と言うのは無理があるのかもしれません。

一方で、「いじめを黙認して傍観してるやつも、イジメた奴と同罪」っていうし。

犯罪にしろ虐待にしろ、「通報義務」ってあるし。

飲酒運転を黙認したやつは飲酒運転したやつと同罪だし。

悪を傍観することは、悪を黙認することであり、悪を推奨することなのではないか。

思えば、昔からこういう問題がたびたび出てくるわけです。

たとえば、10年ほど前の某ボクサー一家の問題。

それまでさんざん「ワルっぽいところがいい!」とか言ってたのに、いざ問題を起こしたら、みんなてのひら返し。

挙句の果てには「持ち上げてたマスコミが悪い」。

マスコミが持ち上げてたのは視聴率が取れるからであり、つまりは「ワルっぽくておもしれ‐!」って人たちがいっぱいいたから、マスコミが持ち上げたわけです。誰も食いつかないものにマスコミは注目しません。

最近だと、SNSの誹謗中傷で自殺者を出した某番組。この番組も、過剰な演出がイケなかった、ということにされています。

するとやはり、過剰な演出をした番組が悪い、と言われるのですね。

でも、テレビが過剰な演出をしたのは、その方が視聴率が取れるからであり、つまりは「リアリティショーっていうの? 過激でおもしれー!」という連中がいっぱいいたからです。

そして、ボクサー一家が問題を起こそうが、シェアハウス番組が問題を起こそうが、面白がった連中は知らんぷりです。「僕ら、ただ見てただけです」というわけですね。

……同罪だからな。

ちなみに、「ガキ使」をやらなかった今年の日テレの大みそかは、視聴率が悪かったらしいです。みんなやっぱりケツバットとタイキックが見たかったんですね。

……アウトー!

感想:「白い砂のアクアトープ」とは何のアニメだったのか

ふだん、僕はアニメを見るとき、事前情報を一切入れない。当日のテレビ欄で初めて「こんなアニメ始まるのか」と知るのである。

そんな僕が唯一、予告CMで「これは見たい!」とチェックを入れ、見逃さないように放送日をしっかり確認したアニメ、それが「白い砂のアクアトープ」。

予告を見て、「これは僕好みのアニメっぽいぞ。それも、P.A.WORKSだと!?」とチェックを入れていたのです。3か月も前から。

そして、「白い砂のアクアトープ」、期待通りのアニメでした。

「白い砂のアクアトープ」のあらすじ(軽いネタバレあり)

「終わっちゃった、私の夢……」

東京でアイドルとして活動しながら夢を追いかけていた少女、宮沢風花。だが、チャンスを手放してしまい、夢を諦めてアイドルをやめてしまう。

だけど、すぐに実家の岩手に帰る気にもなれなかった風花は、たまたま東京駅で沖縄の観光ポスターを目にして、沖縄への一人旅に出る。

当てもなく沖縄をさまよう風花はやがて、「がまがま水族館」という古い水族館にたどり着き、館長の孫娘、海咲野くくると出会う。どこにも行く当てのない風花は、がまがま水族館が人手不足・絶賛バイト募集中であることを知り、がまがまで働くことになった。

だが、がまがまは設備の老朽化で、あと1か月で閉館することがすでに決まっていた。

がまがまを我が家のように思って育ち、自他ともに認める水族館バカのくくるは、なんとかがまがまを存続できないかと一人奮闘していたのだ。

「風花、私の夢を手伝って!」

一か月の間、なんとかがまがまを存続できないかと奮闘するくくると、そんなくくるを手伝いながら、水族館の仕事に触れていく風花。

だけど、台風が直撃した夜、がまがまの老朽化した設備では生き物たちを守り切れないという現実を目の当たりにし、くくるは閉館を受け入れる。

こうして、がまがまはその歴史に幕を下ろし、風花も岩手へと帰っていったのであった。

ここまでが12話までのお話。これはこれで十分「いいアニメじゃった」って言えるんだけど、

これ、まだ、お話の半分です。12話であまりにもきれいに終わったので、ネットは「あと半分、どうなるの?」と騒然としていました。

さて、迎えた第13話。時は流れて、くくるは沖縄で、風花は岩手で、それぞれ高校を卒業し、二人はそろって沖縄に新たにオープンした大型水族館、「アクアリウム・ティンガーラ」に就職した。

風花はペンギンの飼育チームに配属。まずは、数十匹いるペンギンの顔と名前を一致させるところから始まる。

一方、飼育員志望、と言うか飼育員しか眼中にないくくるだったが、配属されたのはなぜか企画・営業の部署だった。圧迫上司には「プランクトン」とあだ名をつけられ、くくるの「水族館で働いているのに、生き物とまったく触れ合えない日々」が始まった……。

というのが、「白い砂のアクアトープ」のあらすじ。

さて、「白い砂のアクアトープ」とは、いったいどういうアニメだったのだろうか。

どういうアニメって、水族館のアニメですよ。

それはそうなんだけど、ここで言いたいのは、「このアニメの主題とは何か」。つまり、「このアニメで一番伝えたかったことはなにか」「24話もかけて描きたかったこととは何か」

「白い砂のアクアトープ」の主題、それは最終回に登場する。「水族館が好き」というセリフだ。

もっと細かく言うと、「たまたま水族館に行きついただけだった少女・風花」と、「水族館が好きだけど、水族館で働くことは必ずしも楽しいことだけではない、ということがわかっていなかった少女・くくる」が、本当の意味で「水族館が好き」と言えるようにまるまでを描いた物語、それが「白い砂のアクアトープ」である。

そして、「白い砂のアクアトープ」は「くくるの視点」と「風花の視点」で、意味合いが大きく異なる。物語そのものはたいして変わらないはずなのに(この百合ップルはスキあらばいつも一緒にいるのだ)、その意味が大きく変わる。

「水族館が好き」(くくるの物語)

「伝説の飼育員」をおじいに持ち、水族館を我が家のようにして育ったくくるは、自他ともに認める水族館バカ。学校の授業中でも海の生き物のことを考え、水族館で働けるなら休みなんかいらないというブラックなセリフも平気で言ってのける。

くくるにとって「水族館が好き」というのは、あまりにも当り前のこと。

ところが、そんなくくるがティンガーラで配属されたのは、特に興味のない営業・企画の部署だった。アットホームな雰囲気のがまがまと違い、ティンガーラは多くの人が働く「ガチ職場」。

はたから見ている分には、くくるが期待されているからこそ、飼育以外の仕事を経験させようという人事にしか見えないのだけれど、当の本人は「ぜったい意地悪されてる」。くくるという子は、基本的に未熟なのです。

好きじゃない企画・営業の仕事だったけど、くくるなりに一生懸命がんばる日々。だけど、何日もかけて用意したプレゼンで失敗して結果を出せずに落ち込んだくくるは、とうとう水族館の仕事をずる休みしてしまう。

これは、大事件である。水族館が大好きなくくるが、水族館から逃げ出したのだ。水族館で働けるなら休みなんていらないと豪語していたくくるが、ずる休みをしたのだ。

そうして心折れたくくるが、どう立ち直って、どう水族館に向き合っていくかが終盤の展開なのであるが、ここで注目したいのは、大好きな職場にも、「やりたくない仕事」や「めんどくさい人間関係」、「心折れる挫折」など、「好きだけじゃどうしようもないこと」があるという点だ。

好きな仕事や好きな場所で、つらいことや好きになれないことに直面した時、それでもあなたは「好き」って言えますか?

好きだけじゃどうしようもない。でも、やっぱり好きじゃないと乗り越えられない。

ただただ純粋に水族館が好きだったくくるが、水族館の「好きではない部分」を目の当たりにして、そこを乗り越えて本当の意味での「水族館が好き」と言えるようになるまでを描く物語、それがくくるのがわから見た「白い砂のアクアトープ」なのだ。

だから、くくるは最終回でおじいに「がまがまで働いてたとき、つらいことあった?」と尋ねる。このセリフをわざわざ最終回に持ってくるということは、それだけこのセリフがくくるにとって重要だということである。

「水族館が好き」(風花の物語)

風花はくくると違い、がまがまに来るまでは特に水族館に思い入れはなかった。たまたま水族館に流れ着いただけであり、行き場のない風花を受け入れてくれるのであれば、博物館でも図書館でも映画館でも写真館でも、蝋人形の館でもよかったのだ。

風花はまじめな子なので、たまたま行き着いただけの水族館の仕事にも真摯に取り組んでいく。ペンギンの名前を覚え、海の生き物の知識を深めていく。だが、くくるのような根っからの水族館バカや、大学で海洋生物を専攻していたような飼育員と比べると、やはり知識不足である。

それを印象づけるシーンがある。23話でのハワイ留学を賭けたプレゼンのシーン、風花だけがほかの人の発表も熱心にメモに取っていた。風花のまじめさが際立つ一方で、ほかの人に比べると風花はまだまだ勉強不足、ということを本人もわかっているからメモを取っているのだろう、という風にも見えるのだ。

ティンガーラの面接のときも、がまがまでの一か月で水族館の仕事に興味を持ったというだけで、はっきりと「水族館が好き」とは言っていない。

自分の意志や決断ではなく、たまたま流れ着いただけの場所。逃げてきて、たまたま行き着いただけの場所。それでもあなたはそこが「好き」って言えますか?

終盤でティンガーラの近くの入り江にバンドウイルカの子供が迷い込んでくる。近所の子供たちから「バンちゃん」と呼ばれ親しまれるが、一方で、ケガをしてるわけでも弱っているわけでもないのに、なぜ沖へ出ていかないんだろうとくくる達は不思議がる。

「バンちゃん」は風花の現状を象徴しているのではないだろうか。迷い込んでたまたまやってきた場所が居心地がよく、沖に出ることを忘れたバンドウイルカ。

だからこそ、第23話で風花がくくると離れハワイへ留学する決意を固めたシーンで、「バンちゃん」が飛び上がり月に照らされるカットが描かれる。入り江に迷い込んだバンちゃんは、風花の姿そのものだからだ。

そして最終回には「バンちゃん」は登場しない。きっと風花の決意を見届けて、沖に帰ったのであろう。

風花がくくると離れるという決断をしたことには、物語の中で大きな意味がある。

風花がアイドルをやめてしまったのも、後輩にセンターの座を譲ってしまったことで、「やる気がない」と思われたことが原因だった。

風花は、自分の夢よりも他人を優先させてしまうのだ。

それ自体は決して悪いことではない。風花が優しすぎるが故のことである。

だけど、毎回毎回、自分よりも他人を優先させていたら、損をするのは風花である。

そして、ティンガーラで働いていた風花はやがて海の環境問題に興味を抱く。そんな風花にハワイ留学のチャンスが巡ってくるのだが、最初、風花は「くくると離れたくないから」と断ってしまう。

くくるにとって風花は、親友であると同時に、お姉さん替わりでもあった。そんな風花がいなくなったら、いま仕事でいっぱいいっぱいのくくるはどうなってしまうのか。

ここで再び、風花は自分の夢よりも他人を優先させようとしてしまう。

たまたま水族館に迷い込んだだけの風花が、今度はそこを離れられなくなってしまったのだ。

これは、くくるにとってもよくない。自分が理由で風花が夢を諦めたとなったら、くくるは絶対に責任を感じてしまう。実際、風花にセンターを譲られた後輩は、自分が風花を引退に追い込んでしまったんだと、逆に責任を感じてしまっていた。

だが、くくるが風花の優しさを受け止めたうえで、風花を夢へと送り出す側に回ることで、風花はようやく自分の夢へと進む。

「たまたま流れ着いた場所」から「居心地の良い場所」へと変わり、それが「たとえそこを旅立っても、また帰ってくる場所」になることで、ようやく風花は沖に出られたのだ。これが、風花にとっての「白い砂のアクアトープ」だ。

「白い砂のアクアトープ」は何のアニメか

最終回、完成したばかりの新エリア、床には白い砂が敷き詰められ、天井まで水槽が覆うまさに「白い砂のアクアトープ」で、風花とくくるはそれぞれ、「水族館が好きと言葉にする。

風花にとっては、たまたま流れ着いた場所なんかではなく、どこに行ってもまた帰ってこれる大切な場所として、ティンガーラが、「水族館が好き」。

くくるにとっては、たんによいところやおもしろいところだけでなく、いやなところやつらいところも味わって、それでもやっぱり「水族館が好き」。

そして、くくると風花が本当の意味で「水族館が好き」と言えた時、ティンガーラにキジムナーが現れる。

1クール目ではたびたび、がまがまにキジムナーが現れて不思議な幻想を人々に見せていたが、ティンガーラに舞台を移してからは、その描写は全くなかった。

がまがまはくくるのおじいが館長をしていた水族館。最終回でのくくるの「がまがまで働いていて、つらいことあった?」の質問に、おじいは「いっぱいあった」と答える。きっとおじいは、何度もつらい思いをしても、それでもやっぱり水族館が大好きな、本当の意味での「水族館が好き」と言える人なのだろう。だから、がまがまにはキジムナーが現れた。

そのがまがまはなくなって、がれきの山と化してしまうのだけれど、そこにいついていたキジムナーはもしかしたら、くくると風花が本当の意味で「水族館が好き」と言えるようになるまで、二人がいるティンガーラに行くのを待っていたのかもしれない。

くくると風花が本当の意味での「水族館が好き」と言えるようになるまでの全24話、それがアニメ「白い砂のアクアトープ」である。

最後に、これだけは言いたい。

最終回、風花が2年のハワイ留学を終えてくくると再会した時、衝撃の事実が発覚する。

会えなかった2年間、お互いが相手の名前の意味を調べていた!

……どんだけ好きだ、おまえら!