ミチと共にオダイバへと来たたまき。たまきとの間に隔たりを感じるミチは、たまきに「タメ口で話さない?」と提案してみたところ……。あしなれ第35話、始まるぜ。
「で、このあと、どうするの?」
「え、じゃあ、テレビ局見に行かない?」
「……さっき見た」
「そうなんだけど、せっかくお台場に来たんだから、もっと間近で見てみない? 芸能人とかいるかもよ」
「……別に、芸能人とか興味ない」
と、たまきが言った。いつもと口調が違うけど、これはたまきである。
そうしてたまきは、
「まあ、ミチ君がそうしたいなら」
と言うと、ミチの横を並んで歩きだした。
商業施設、もとい、モールの中の大通りを、出口に向けて歩いていく。
しばらく、二人は無言だった。
話を切り出したのは、意外にもたまきの方だった。
「こういうお店のタイルって、見てるとおもしろいよね」
「え? タイル? ……床の?」
「……うん、床の」
「床の……タイル……」
たまきに言われて、ミチは初めて、床のタイルに目を向けた。
「タイルだけの美術館とかあったら、行ってもいいと思う」
「美術館?」
「……ミチ君は、美術館にはいかないの? その……デートとか」
「行かないよ。たまきちゃんは行くの?」
「……デートに行ったことがないんだけど」
「そうじゃなくて、美術館に」
「……一応、美術部だったから、部活で何回か行った」
そこで会話は途切れてしまった。
なんだか気まずくなり、ミチは何か会話のとっかかりはないかと、あたりを見渡す。
ミチのすぐ横には日常雑貨のお店があった。目立つところに、マグカップがいくつか並べられていた。コラボ商品らしく、絵本やアニメのキャラクターが描かれている。
「こういうのとかさ、かわいいとか思わないの?」
ミチはたまきの肩をたたいて呼び止めた。
たまきは足を止めた。そして、何か吸い込まれるかのように、マグカップに視線を投げた。
やっぱりたまきだって、女の子なのだ。床のタイルばっかり見てないで、こういうものにも心惹かれるのだ。
……だけど、たまきの口から出てきた言葉は、ミチの想像していたものとは違っていた。
「……マグカップは……キライ」
「……え?」
ミチは、たまきの言っている意味が分からなかった。マグカップが嫌いだなんて、そんな人間いるのか。特に害なんてないじゃないか。
「家に……マグカップがあったの……。お父さんとお母さんと、お姉ちゃんと私の、四人分。同じお店で買ったもので、それぞれ動物の絵が描いてあったの」
「……ああ、家族でおそろい、ってやつ?」
「……それがリビングにある戸棚の、いちばん見えるところに飾ってあって……」
たまきは、そこでうつむいた。
「……いやだった」
そういうと、たまきはその場を離れてしまった。
二人は、モールの外へと出た。テレビ局は大通りを挟んで反対側にあり、道路の上はモノレールが走っている。
再び、話しかけたのはたまきの方だった。
「モノレールって、かわいいよね」
「は? モノレールが?」
「うん。なんだか、枝の上をもにょもにょ動いてるイモムシみたいで、かわいいと思う」
「い、いもむし……」
「私、今日初めてモノレールに乗ったんだけど、なんか自分が幽霊になったみたいで、……ちょっと、面白かった」
「あ……うん……」
「人って死んだらあんな感じかな」
「……そうなんじゃないかな」
そういいながらも、ミチは頭の中でたまきの話を整理してみる。「あんな感じ」の「あんな」とはどんなだ。幽霊のことだろうか。モノレールのことだろうか。いもむしのことだろうか。もしかしたら、さっきのタイルのことを言っているのか。
そもそも、さっきのモールの中でかわいい洋服やアクセサリーを見ても一言も「かわいい」とは言わなかったのに、ここにきて「モノレールがイモムシみたいでかわいい」とはどういうことだ。
信号が変わり、二人は道路を渡って、テレビ局の前にある広場へとっやって来た。
ミチの横をぴったり歩くたまきだったが、テレビ局を仰ぎ見ながら、ぴたりと立ち止まった。
「ん? どしたの?」
「……テレビ局、見た」
そういうと、たまきはミチの方を向いた。
「……それで、どうすれば……?」
「……どうすればっていうのは……?」
「ミチ君がテレビ局見ようって言って、ここにきて、テレビ局を見て、それで、どうすれば……」
「え、えっと、なにか感想とか……」
そう言われて、たまきは黙ってしまった。
しばらくして、たまきの方から質問してきた。
「……なんて感想言えばいいの?」
「え、えっと、例えば、『わ~、本物だ~!』とか……」
「……ニセモノのテレビ局があるの?」
「いや、ないけど……」
「ニセモノがないのに、本物だって感動するの、おかしいよね? おかしくない?」
ミチは何も答えなかった。
「それで……この後どうすれば……」
そう言われて、またミチは黙り込む。
正直、モールに行った後のことなんて、全く考えていなかったのだ。
モールに行った後は、「次、どこ行く~」「ここ行ってみようよ~」という流れに、「ごく自然に」なると思っていたので、「この後どうすれば」と一方的に指示を待たれると、それこそ部活の先輩が後輩に指示しているみたいで、面白くない。
「えっと、じゃあ、海行ってみようよ」
とっさの思い付きだった。モールにも、テレビ局にも、たまきは食いつかない。これ以上「施設」を巡っても、何の反応もないような気がする。
たまきは無言で頷いた。
だが、一分ほどたった時だった。
海に行くにはもう一度道路を渡らなければいけない。モノレールの駅が道路をまたぐようにして作られているので、そこを通路として使うことにした。その階段でたまきは立ち止まった。
「……どうしたの?」
「……海を見たら、私は何て言えばいいの?」
モノレールは海を渡り、倉庫街の上を泳ぎ、マンションの合間をすり抜けていく。
たまきとミチは、オダイバから帰るモノレールに乗っていた。
時刻はランチタイムを少し過ぎたあたり。オダイバから帰る方向のモノレールは、比較的すいている。
結局、二人は海には行かずに、そのまま帰りのモノレールに乗った。
帰る、と決まってからの二人は、必要最低限の会話しかなかった。
たまきがしゃべらないのはいつものこととして、ミチが黙ってしまったのは、考え事をしているからだ。
たまきとさっぱり会話がかみ合わない。モールに行ってもお店ではなくタイルを見てる。マグカップはなぜか嫌い。モノレールをかわいいという。テレビ局を見ても何の感想もない。本当にミチと同じ場所を巡っていたのだろうか。
ミチは隣に座るたまきの方を見た。たまきはじっと正面を見据えたまま、ミチの方など見ようともしない。
ミチはたまきに対して、どこか隔たりを感じていた。隔たっているうえに、間に壁を築かれてしまっている、そんな感じだ。
もちろん、ミチはたまきに対して、距離をとっているつもりも、壁を作っているつもりも、ない。むしろ、積極的に近づこうとしているのだ。だから、喜ぶだろうと思ってオダイバのモールに連れてきたのだ。良かれと思って、アクセサリーを買ってあげたのだ。
だけど、その様もはたから見ると、部活の先輩後輩程度のものにしか見えなかったらしい。思えば、この時からすでに隔たりを感じていた。
だからミチはたまきに、「敬語をやめてみないか」と言ったわけだ。それに対してたまきは、心底嫌そうな顔をしたけれど、一応は応じてくれた。
なぜだろう。ため口になった時の方が、隔たりの上に壁まで築かれていると感じてしまうのは。
もしかして、たまきが言っていた「敬語の方がラクだ」という言葉は、あれは本当だったんじゃないか。
ミチとしては、敬語は堅苦しくて疲れるだろう、友達なんだし、ため口の方が気が楽だろう、と思って言ってみたわけだが、今日わかったことは、たまきはミチの感覚とは大幅にずれている、ということだ。ミチが考える一般論はたまきには通用しない。
ミチは、施設で飼っていたクロを思い出した。クロは頭をなでてやると、しっぽをばたばたとふっていた。それはネコにとっては嫌がっているサインなのだそうだ。
今にして思えば、クロは騒がしい人間のガキンチョなんかに、近寄って欲しくなかったのかもしれない。
じゃあ、クロはミチたちのことが嫌いだったのかと言うと、そうも言いきれない。餌を食べ終わった後も、クロは施設の中をうろうろしてたし、ミチたちが遊んでいるところにやってきて、近づきはしないけど、少し離れたところからその様子をぼおっと眺めていたことならよくあった。誤ってクロのそばにサッカーボールが飛んで行っても、逃げずにミチたちの遊びを眺めていた。
やっぱりあの距離が、クロにとっては理想の距離だったのかもしれない。それ以上近づいたり、ましてや触ってきたりすると、嫌がる。
ただ、嫌がるわりには、頭をなでられたクロが逃げ出したり、引っかいたりするようなことは一度もなかった。じっとしたまま、だまって、しっぽをばたばた振っていただけだ。ミチが抱っこをした時だって、なんだかぶぜんとした表情だった気がするけど、やっぱりじっとしていた。
もしかしたらクロは、子供たちが思う「理想のネコ」を演じていたのかもしれない。
エサをもらっている身だし、寝床を借りることもある。ガキンチョどものこともそこまでキライじゃない。ここはおとなしく「人間になついている、かわいい野良猫」のフリでもして、なでられておいてやるか。そうすれば、ガキどもも満足だろう。
「たまきちゃん」
ミチは、隣に座るたまきに声をかける。
「……何?」
「……しゃべり方なんだけどさ、たまきちゃんがラクな方でいいと思うんだ。だから、その、無理して俺に合わせなくても……」
そこでたまきは一度、深いため息をつくと、ミチの目を見た。
「……だから、私はこういうしゃべり方のほうが楽なんですって、最初に言いましたよね」
なんだか、久しぶりにたまきと目が合った気がする。オダイバにいる間、たまきがミチの方を見ることはあっても、目線は合わなかったんじゃないか。
「ミチ君って、自分がしゃべりたいことだけしゃべって、私が言ってることは、全然聞いてないですよね」
「そ、そうかもしれません……」
なぜか、ミチまで敬語になってしまった。
「私、あんまりしゃべらない方ですよ」
「……知ってます」
「なのに、たまにしゃべった内容も聞いてなかったってなると、……怒りますよ」
「ごめんなさい」
「ミチ君のそういうところ、私、キライです」
“素”に戻ったたまきは、いつもより饒舌だ。
「その……さ……、たまきちゃんさ、俺が、海乃さんの代わりにたまきちゃんをオダイバに連れてきたんじゃないかって言ったじゃん?」
「……はい」
「それって……やっぱり……いや?」
そこでたまきは再び、深いため息をつく。
「……いやじゃない人って、いるんですか?」
「……おっしゃる通りです」
「……わかってますよ」
「……え?」
「ミチ君が、別にわざとそういうことしてたわけじゃないってことくらい、わかってますよ。もしかしたら、私に言われるまで、自分でもはっきりとは気づいてなかったんじゃないですか?」
ミチは答えられなかった。
「……まあ、いいですけど」
ミチは、たまきが一瞬微笑んだようにも見えたが、気のせいだったかもしれない。
「でも、私、ゆうべ言いましたよね。『期待にはこたえられない』って」
たまきは、わざとミチから視線を外した。
「ミチ君って、本当に私の話、聞いてないんですね」
がたん、ごとん。がたん、ごとん。
モノレールから電車へと乗り換えて、東京駅でさらに乗り換えて、二人はシンジュクへと帰ろうとしていた。
「……たまきちゃんさ」
「……はい」
「六時までまだだいぶ時間あるけど、もうこのまま帰る?」
たまきは、何も答えなかった。
電車がどこかの駅に停まり、ドアが開いた。
突然、ミチは立ち上がった。
「たまきちゃん、降りよう!」
「え……?」
ミチは、たまきの手を引っ張った。つられてたまきも立ち上がる。
そのまま二人は、電車を降りてしまった。たまきの後ろでドアの閉まる音がした。
「待ってください……! 何か用事でもあるんですか?」
「……別に」
「この街って、何があるんですか?」
「知らねー」
そのままミチは、たまきの手を引っ張ってぐいぐい進む。
改札を出たところで、たまきはミチの手を振り払った。
やっぱり、ちょっと強引すぎたかな。また文句を言われてしまう。
ミチがそう思った時、たまきが口を開いた。
「……まあ、ミチ君がそうしたいなら」
改札の外には、商店街があった。とはいえ、周囲に住宅はほとんどなく、灰色のビルがあたりを囲んでいる。
ふりむくと、二人が出てきた駅があった。線路は高架の上を走り、駅舎には焼けたような色をしたレンガが、外壁にあしらわれていた。
周りを歩くのは、スーツ姿のサラリーマンが多い。すくなくとも、オダイバよりは安心できる、とたまきは感じた。
「……それで、この後どうすれば……」
「そうだなぁ。シンジュクは西の方だからあっちか……。」
ミチは商店街の奥の方を指さした。
「とりあえず、あっちのほう行ってみようか」
「え……、ここからシンジュクまで歩くんですか……?」
たまきは不安そうにミチを見た。
「いや、それはさすがに無理だけどさ、ま、とりあえず、いけるとこまで行ってみようよ」
「……とりあえず」
とりあえず、たまきとミチは歩きだした。ミチはサッサカと歩き、そのななめ後ろをたまきは黙ってとぼとぼとついていった。
午前中に比べればだいぶ口数は減ったが、時折ミチはたまきに話しかけ、その都度、たまきは「まあ」とか「さあ」みたいな返事を返した。
大通りを渡ると、あたりはオフィス街になっていた。何十年も前からあるような、コンクリートでできた古いビルが並ぶ。地面も灰色のアスファルト。なんだかモノクロ写真の中に迷い込んだみたいで、空だけがやけに青い。
ミチが立ち止まった。たまきも立ち止まる。
「悪い、トイレ行ってきていい? さっきのコンビニにあると思うからさ」
一、二分前に渡った大通りにコンビニがあったのを、たまきも記憶していた。
たまきは無言で頷き、ミチは来たミチを駆け足で戻っていった。
ふうっとたまきはため息をついた。
周りにあるのは、何かの会社が入ったビルばかり。あとは、駐車場。駐車場に止まっている車まで、グレーとブラックばっかりだった。特に暇をつぶせそうなものは見当たらない。
駐車場の脇にある、赤い自動販売機が目に入った。グレーばっかりの世界では、それなりに鮮やかに見える。
自販機でも見ながら、ぼおっと待ってようとたまきが近づくと、駐車場の車と車の間で何かが動いた。
のぞき込んでみると、何かが飛び出して、車のボンネットの上に飛び乗った。
「わっ」
飛び出してきたのは、三毛猫だった。
「ねこ……」
続けてさらに二匹、車の隙間から飛び出して、ボンネットへと飛び乗った。白猫と黒猫だ。白猫は三毛猫の隣に座り、二匹の間に隠れるようにして、黒猫がたまきを見ている。
三匹は、たまきのことをじっと見ていた。
とりあえず歩いていたら、トリにあわずに、ネコにあった。
たまきは、ねこに近づいてみた。ねこたちは逃げるそぶりを見せない。
三毛猫がにゃあと鳴いた。
たまきは、左手を伸ばしてみる。
三毛猫の毛先に手が触れた。
三毛猫はボンネットの上に寝そべった。
たまきの左手が、おそるおそる動き、三毛猫の背中をなでる。ねこの肌の感触が手に伝わる。なんだかゴムの風船みたいで、力を入れたら壊れてしまうんじゃないかと思うと、急に怖くなった。
「……あなたたち、野良猫ですか?」
三毛猫がもう一度、にゃあと鳴いた。
ふふっ、とたまきは笑った。
「私はあなたたちに似てるそうです」
たまきはねこに話しかけた。
「でも、そんなわけないと思うんですよ。私の方が大きいですし、私は二本足で歩きますし、しっぽだってありません。全然似てませんよ、ねぇ。ほら、毛の色だって違う」
たまきは、奥にいる黒猫の方を見た。
「……あなたは、私と毛の色がいっしょですね。……あと、そうやって前に出てこないのも、なんだか似てる気がします。そうですね、この三匹の中だったら、あなたが一番似てるかもしれませんね」
たまきの左手が三毛猫を優しくなでる。
「ここでみんなで一緒に暮らしてるんですか? 仲良しなんですね」
今度は、白猫がにゃあと鳴いた。たまきの少し後ろの方を見ている。
「どうしたんですか? ……自販機のジュース飲みたいんですか? まさかそんなわけ」
振り向くと、ミチがレジ袋をぶら下げて立っていた。にやにやと笑っている。
たまきは、気まずそうにミチを見た。左手は三毛猫の背中に当てたまま、固まっている。
「なんか誰かとしゃべってるなぁ、と思ったら、ネコに話しかけてたの? っていうかたまきちゃん、なんでネコにまで敬語なのよ」
「べ、別に……」
「なんかさ、人間と話す時より、ネコに話しかけてる時の方が、饒舌じゃない?」
「そ、そんなわけ……」
ボンネットから白猫が飛び降りて、たまきの足元に寄ってきた。
「よし、そのまま、そのまま」
そういうとミチは、携帯電話のカメラを起動した。
「……何やってるんですか」
「せっかくだから、撮ってあげるよ」
「……やめてください」
たまきは、ミチから目線をそらした。
「一枚くらいいいじゃん」
「……ヘンなことに使わないでくださいよ」
「ヘンなことってどんな?」
たまきは口をとがらせて、ほおを赤らめた。わかってるくせに、たまきが恥ずかしがるだろうと思ってわざと聞いてくるのだ。柿の実をぶつけて楽しんでいるのだ。
「大丈夫だって。姉ちゃんに見せるだけだから」
「……そうやってまた、私がねこに似てるとか言って、二人でからかうんですね」
そういいながらも、ヘンなことに使われるよりかはましだとたまきは考えていた。ミチやミチのお姉ちゃんが、たまきのことを本気でバカにしてるわけではないこともわかっている。
ゆうべの布団のこともある。あまり気は進まないが、ちょっとぐらい被写体になってもいいか。
「それで、私はどうすれば……」
「ん? さっきみたいに、ネコと戯れてればいいよ」
たまきはしゃがむと、白猫の頭をなで始めた。白猫は気持ちよさそうににゃおと鳴く。
「よーし、そのままネコを抱っこしてみようか」
「一枚だけ」と言いながら、すでに3枚は撮影されている。たまきは憮然としながら、白猫を抱え上げた。人に慣れたねこなのか、身動きをしない。一方で、黒猫は相変わらず、ボンネットの上からたまきを見ているだけだ。
「ほら、たまきちゃんこっち向いて」
たまきは首だけカメラの方に向けた。
「ほら、笑って」
たまきの表情は変わらない。
「機嫌悪そうに見えるよ。ほら、笑って」
たまきは笑いはしなかったが、表情筋が緩んだのか、さっきよりは柔和な顔つきになった。
ミチは、携帯電話を下ろした。
「笑ってよ~。さっきネコに話しかけてた時は、笑ってたじゃん」
「……気のせいです」
「ねえ、俺も抱っこしたい」
「……落とさないでくださいよ」
「大丈夫だよ。オレ、施設でネコ飼ってたことあるし」
たまきは白猫をミチに渡した。
そして目線を、黒猫の方に向けた。
この黒猫は、触られたり抱えられたりするのは好きではなさそうだ、たまきはなぜかそんな風に思った。三毛猫が黒猫を守るかのように、たまきと黒猫の間に陣取っていた。
たまきは振り返って、白猫を抱いているミチを見た。
「……なんか、ミチ君のネコの持ち方、雑ですね」
「……いや、そんなことないっしょ」
「……携帯電話をいじってる時と、触り方がいっしょです」
「そんなわけないっしょ」
「本質的には、一緒です」
ミチは、納得いかないといった感じで、白猫を降ろした。白猫は仲間のもとへと走って行った。
「それとミチ君、一枚だけって言ってたのに、何枚か撮ってましたよね」
「ん? ああ、そういえば気づいたら」
「一枚だけにしてください」
「えー、いいじゃん。だから、姉ちゃんに見せるだけだって」
「見せてください。私が残す写真を決めますから」
ミチは渋々、画像フォルダをたまきに見せた。
「……これ以外全部消してください」
「これ? ああ、いちばん最後のやつね。わかったよ」
「……最後のやつが、一番かわいく撮れてたんで」
「自分が?」
「……ねこの方です」
たまきは頬をちょっぴり赤くして、そっぽを向いた。
「あ、そうだ。コンビニでおかしかったんよ」
「なにかおもしろいことでもあったんですか」
「いや、これこれ」
ミチはレジ袋の中から、ポッキーの箱を出した。どうやら「おかしかった」は「可笑しかった」ではなく、「おかし買った」だったみたいだ。
ミチは箱から一本ポッキーを出すと、腰をかがめて、たまきの目線の前に差し出した。
「ほら、おたべ」
「……もらいます」
たまきはポッキーを口にくわえた。
オフィス街からいつの間にか、お店がちらほらと増えてきた。
ミチが前を歩き、その少し後ろをたまきがついていく。
「だからさ、雑っていうのが納得できないんよ。オレ、こう見えてもネコ好きだよ。丁寧に扱ってるつもりよ」
「でも、私には雑に見えました」
「だから、もっと具体的に言ってよ。『雑』なんて漢字一文字じゃわかんないって」
「そんなの、言葉で説明できるものじゃないです」
「そっちの方が雑じゃね? たまきちゃんさ、『雑』って言葉に逃げてない?」
ミチはたまきの前を歩いているので、たまきの表情は見えない。見えないんだけど、カチンと音が聞こえたような気がした。
「……私が逃げる必要、なくないですか? 私は私が感じたままに言ってるだけで逃げる必要とかないですよね。なのに私が逃げてるって、おかしいですよね。おかしくないですか?」
「まあ、そうなんだけど」
「そもそも、ミチ君、ねこ飼ってたことあるんですよね。私よりねこについていろいろ経験してるんですよね。だったら逆に、説明しなくたってわかりますよね、いろいろ経験してるんだから」
「またその話か……」
「はい、またその話です。だってミチ君、ゆうべ、私が恋愛のことわからないのは、経験してないからだ、経験すれば言葉で説明しなくてもわかるって言ってたじゃないですか。だったら、ねこの扱い方を私より経験しているミチ君が、具体的に言われないとわからないのって、おかしいですよね。おかしくないですか?」
ああ、また怒られるのね、とミチは振り返って、たまきを見た。そして、あれっと思って足を止めた。
「……今、笑ってたでしょ」
「……気のせいです」
たまきはミチから視線をそらした。
ほどなくして、周りに大きなビルが増えてきた。二人は裏路地を出て、大通りを歩き始めた。
そのあたりから、ミチがしきりに首を傾げ始めた。
「どうしたんですか」
後ろを歩くたまきが声をかける。
「いや、思ってた場所と、ちがうところに来てる気が……」
ミチは正面に見える、商業ビルの群れを見ながら言った。
「あれ、アキバじゃね?」
「……アキハバラじゃダメなんですか」
「いや、全然方角ちがうよ。だってアキバだと……」
二人は川にかかる橋を渡ろうとしていた。ミチは道路わきにある地図を見ていたが、やがて
「え、なんで!」
と声を上げた。
「どうしたんですか」
「やっぱりここ、アキバだよ!」
「……アキハバラじゃダメなんですか?」
「だって俺ら、西に向かって歩いてるつもりだったのに、いつの間にか北に向かって歩いてたってことになるんだぜ」
西と北。たまきは指であっちを指したりこっちを指したりしながら、その位置を頭に思い浮かべた。北が上で、西が左。
……ぜんぜん違うじゃないか。
「え?」
たまきも地図をのぞき込んだ。
「私たち、西に向かって歩いてるつもりが、北に向かって歩いてたってことですか? 最初から?」
「いや、そんなわけねぇって。駅を出た時は、確かに西に向かって歩いてたんだから」
「じゃあ、どこかで間違えた?」
「どこで間違えるんだよ。ずっとほぼまっすぐに歩いてきたんだぜ」
二人は、駅から歩いてきた道のりを思い出した。どこか間違えるポイントがあったとすれば……。
ミチがトイレに行って、たまきが猫と遊んでた、あの駐車場しか思い浮かばない。
二人は地図を見ていたが、やがて、お互いの顔を見合わせた。
そして、どちらからというでもなく、笑い始めた。
はじめは、くすくすと。やがてミチが耐えきれなくなったかのようにゲラゲラと笑い出すと、つられてたまきからも笑い声が漏れてきた。
「じゃ、じゃあ、俺ら、あの後ぜんぜん違う方角に歩き出してたってこと?」
「そ、そうなりますね」
「たまきちゃん、気づいてよ」
「ミチ君こそ」
「二人とも気づかなかったって、あ、ありえる?」
通りがかった人が、この二人はなにがそんなに面白いのだろうと、不思議そうに眺めていく。だけど、気づいていないのか、気にしてないのか、二人は笑うことをやめない。
「い、いま、笑ってるでしょ?」
ミチが肩で息をしながら言った。
「だって、二人ともぜんぜん違う方角に歩き出してるのに、二人とも気づかなかったって、おかしいですよね。おかしくないですか」
たまきはだんだん、道端でバカみたいに笑っているのが恥ずかしくなってきたのか、顔が赤くなってきた。
「いや、ウケるし」
そういうとミチは大きく呼吸し、息を整えた。
「まあ、電車乗っちまえばすぐ帰れるから、別に西に行こうが南に行こうが、どっちでもいいんだけどさ」
「ですよね。どっちでもいいですよね」
「じゃ、アキバにでも寄って帰ろうか。アキバからだったら、たぶん乗り換えなしで帰れるんじゃないかな」
そういうとミチは歩き始めた。そのあとをたまきがついていく。
ミチの後ろを歩きながら、たまきは思い出したのか、一回、くすっと笑った。
アキバの人混みは、オダイバのおしゃれさんとはまた違った感じだった。ごく普通の人たちの中にたまに、それこそマンガやゲームから抜け出してきたような恰好の人たちがいる。
それでも、たまきにとってはまだ居心地がよかった。「おしゃれ」にくらべたらまだ「奇抜」の方が幾分かましである。
「メイドカフェいかがですか~」
やけにフリフリの格好をした女性がたまきに近づいて、声をかけた。おそらく、何かのお店の勧誘なのだろうけど、それにしても「冥土カフェ」とはどういう場所か、ちょっとだけ気になった。きっと、えらく陰気なカフェなのだろう。
大通りに出ると、よりいっそうアキハバラという街の特異性が見えてきた。
右も左もアニメやマンガ、ゲームの広告ばかり。オダイバにはあんなにあった洋服屋なんてほとんどなく、マンガのお店、ゲームのお店、家電のお店、何かよくわかんないお店と、いろんなお店が並んでいる。
もちろん、おしゃれ警察も、おしゃれ軍隊もいない。いや、おしゃれな人はいるのだ。だけど、「女子とはこうあるべきよ!」みたいな、圧力をそこに感じない、その意味では、たまきは幾分ラクだった。
ふと、目に入ったアニメの広告に目が留まる。主人公なのかヒロインなのか、美少女がでかでかと描かれていた。露出が大胆だが、奇抜なデザインの服を着ている。
「そのアニメ、好きなの?」
ミチが声をかけた。
「いや、別に……。ただ、私もこんな絵が描けたらな、って思って……」
亜美の似顔絵のように、実在する人物に似せて描いたことはある。だけど、アニメのキャラクターみたいに、実在しない人物を想像だけでデザインして描くということは、今までやったことがなかった。いつも描いているのも風景画ばっかりで、おまけに、実物にちっとも似やしない。存在しないものを描くなんて、よくよく考えると、すごいことじゃないか。
たまきはミチの方に視線を向けた。次にミチの視線の先にあるアニメ少女の方を見て、もう一回ミチの方を見た。
「……いやらしいところ、見てますよね」
「み、みてないし」
ミチは広告から目線をそらした。
二人は、アキハバラの街をしばらくうろついた。どこかのお店に入ることはなかったけれど、変わったお店が多くて、看板を見ているだけでも、まあまあおもしろい。
「お、このビル、3階にミリタリーショップあるって」
「みり……」
「バンドやってる先輩にミリオタがいてさぁ。サバゲーとかするんだって。」
「さば……え……なんですか?」
「こっちにはボドゲカフェあるってさ」
「ぼど毛……」
「知らない? ボドゲ。ボードゲームのことだよ。人生ゲームとか……」
「ああ……」
たまきは、わかったようなわからないような顔をした。
相変わらず、ミチが一方的にしゃべり、たまきがそれにハイとかマアみたいな返事をする。
そんな風にしながら町をまわっていろいろ見ていたが、ミチがふと、足を止めた。
「たまきちゃんさ……」
「なんですか?」
「……疲れてる?」
「……まあ」
図星だった。電車を降りてから、普段のたまきでは決して歩かないようなキョリを歩いているのだ。
「どっかお店入ろうか」
ミチは、周りを見渡した。二人はいま大通り沿いにいて、見渡せばいろんな看板が見える。飲食店も見えるが、多すぎてむしろ選べないぐらいだ。
その中の一角を、ミチは指さした。
「たまきちゃん、カラオケ行こうぜ」
「……え?」
ミチがさしていたのは、カラオケ屋だった。
「私、歌うのはちょっと……」
たまきの不安を察したのか、ミチが言葉をつづける。
「俺、勝手に歌ってるから、たまきちゃん、座ってゆっくりしてるといいよ」
たまきは、答えない。
「……こういうことできるの、たまきちゃんとだけだし」
「……と言いますと」
「いつもさ、俺の歌、隣で聞いてくれてるじゃん」
「……まあ」
「一人でカラオケ行ってもいいんだけどさ、やっぱ、聞いてくれる人がいる方が、楽しいし……」
たまきはしばらく黙っていたが、無言で頷いた。
宇宙船を彷彿とさせる近未来的なデザインのカラオケボックスの一室で、たまきは、ミチが歌うのをずっと聞いていた。人の歌を歌っている時のミチは、迷いがないのか、いつもよりものびのびとうたっているような気がする。
ロックバンドの歌から、ダンスナンバー、しっとりとしたバラード、ちょっとジャズっぽい曲、さらにはラップの曲と、ミチは色んな歌を知っていた。もともと男性にしては高いキーで歌うミチは、女性の曲も器用にこなしていた。
その横で、たまきはメロンソーダを飲みながら、歌うことなく座っていた。ミチがずっとマイクを握っている状態だけど、たまきは歌うつもりがなかったので、問題ない。
また「なんか感想とかないの」と聞かれたらどうしようと思ったけど、特にミチは何も聞いてこなかった。
一時間ほどたった時、たまきはメロンソーダのおかわりをもらうために、部屋を出た。
おかわりをもらって部屋に戻るとき、制服を着た女子高生数人とすれ違った。
これがウワサに聞く「高校の放課後でカラオケに行く」というやつか。
もし、たまきが普通に高校に通っていたら、そんな青春を送っていただろうか。学校に行けば友達ができる、なんて思えるのは、たまきにしてみればそれだけで幸運なことなのだ。
たまきは学校に通っていても友達はできなかった。
そして、学校に行けなくなった。
だけど、いまこうして、男の子とカラオケに来ている。
そう考えると、自分でも少しおかしかった。
たまきは、みんなが知っているようなキラキラした青春をしていないのかもしれない。
でも、みんなが知らない冒険をしている。
部屋のドアを開けると、ミチは歌わずに座っていた。
「歌わないんですか」
たまきが元居た席へ腰かけると、正面のテーブルの上に、マイクが置いてあった。
いくらたまきでも、それが何を意味するのかぐらいわかる。
「……歌わないって言いましたよね」
「あと三十分しかないんだし、一曲ぐらい歌ってよ」
そういうとミチは、少し身を乗り出した。
「亜美さんから聞いたぜ。けっこうかわいい歌い方するって」
またよけいなことを……。
カラオケに入力する機械をミチが手に取り、何やら操作した。たまきがマイクをもってどうしようかと迷っていると、いきなり音楽が流れ始めた。女性アイドルグループの歌だった。
「ちょっと……」
「だってこの曲、知ってるんでしょ」
昨日の夜、ミチが部屋で流した音楽で、確かに、とりあえず知ってる曲だった。
「でも、歌詞、知らないし……」
「いや、カラオケだから歌詞でるって」
たまきはじっとマイクを見つめていた。
「ほら、イントロ終わるよ」
ミチにそう促され、たまきはすうっと息を吸うと、マイクの電源をオンにした。
アキハバラの改札を抜け、シンジュクへと帰る電車のホームに二人はやって来た。人込みを避け、ホームの一番端っこで電車を待つ。あと数分でやってくるらしい。
「アキバってあんまきたことなかったけど、意外と楽しめたなぁ」
相変わらずミチは一方的に話しかけていた。
ふと、たまきの方を見ると、たまきは首を左に向け、ホームの先のさらにむこう側を見ていた。
西日が、ちょうどビルの中に吸い込まれて沈もうとしていた。
背負っていたリュックを体の前に持ってきていて、リュックの袋口に手をかけていた。
「夕日、めっちゃキレイじゃん」
「……はい」
「……もしかして、絵に描きたいとか思ってる?」
たまきは答えなかった。
「……俺のわがままに付き合ってもらったんだし、いいよ。描いたら?」
「……でも、時間かかりますし、もう電車来ちゃいますし、……いいです」
そういってたまきは、リュックを背負いなおした。
ふと、音がしたのでミチの方を見ると、ミチが携帯電話のカメラを構えて、西日の写真を撮っていた。
「じゃ、あとでこの写真見て描けばいいじゃん」
ミチはたまきに携帯電話の画像を見せた。眼前の光景が、小さなモニターの中に刻み込まれていた。
たまきは、何かを言いたそうに、ミチの方を見た。
「……どしたん?」
「……べつに」
ちょうど、電車がやって来た。
帰宅ラッシュの時間、それもシンジュク行きとあって混むのを覚悟していたが、幸運にも二人並んで座ることができた。
さすがに疲れたのか、電車に乗ってからはミチは黙っていた。
ふと、右肩に暖かな重みを感じた。
隣に座るたまきが、疲れて眠ってしまい、その頭がミチの肩に触れていた。
「なんだよ……」
いつもは、近寄りもしないくせに。
シンジュクの改札を抜けると、時刻はもう六時を回っていた。駅前の広場を、大勢の人が行きかう。
ミチはここで、私鉄に乗り換える。
「じゃあ、私、帰ります」
少し眠ってちょっとだけ元気になったのか、たまきの声に少し張りが戻ったようだった。
「じゃ、またね」
そういってミチは片手を上げた。
「その、いろいろとお世話になりました」
「ごめんね。いろいろ連れまわしちゃって」
「いえ……私……その……」
たまきはミチから視線をそらした。
「……楽しかったですよ」
「そ、そう。ならいいけど……」
「その……」
たまきは、少しためらいがちに、ミチの目を見た。
「……ありがと」
そういうとたまきは、回れ右をして、少し小走りに、雑踏の中へと消えていった。
ミチはその様子を見送り、ひとり呟いた。
「……ずるくね?」
「……絶対おかしい!」
志保は時計を見るなり、そういった。
「六時に帰ってくる、って話なのに、たまきちゃん、まだ帰ってこないなんて、絶対おかしいよ」
「いや、まだ六時十分じゃねぇか」
ソファの上に寝そべった亜美が、飽きれたように言った。
もう二人とも『城』に帰ってきている。ビルのオーナーが大阪に帰ったことも、ビデオ屋の店長に確認済みだ。
「だって、今までたまきちゃんが待ち合わせに遅れたことなんて、なかったよ?」
「いや、それ、あいつ最初から待ち合わせ場所にいて、一歩も動いてないってだけじゃね?」
亜美は夕飯代わりのフライドポテトをつまみながら答える。
「そもそもさ、たまきは時計もケータイも持ってないんだぜ。そのたまきが時間ぴったりに帰ってくる方がむしろおかしいだろ」
「やっぱり、ミチ君と何かあったんじゃ……」
「ひょっとしたら、もう一泊するとかあるかもしれねぇな」
その時、入り口のドアが開いた。
「ただいまです……」
「お、おかえりー」
たまきが靴を脱ごうとすると、志保が駆け寄ってきた。
「大丈夫だった、たまきちゃん? ひどいことされなかった?」
「おい、正直に言えよ。どこまでヤッた?」
たまきは、疲れたようにため息をついた。
「志保さんが心配するようなことも、亜美さんが期待するようなことも、別になかったですよ」
「そう……ならいいけど」
「なんだ、つまんねぇな」
「ただ……」
そういうと、たまきはソファの上に寝転がった。
「私の人生にも、こういうことって起こるんですね」
「え?」
亜美と志保はたまきの顔を覗き見たが、たまきはすでに、まるで電池が切れたかのように眠りに落ちていた。
「え、なに? どういう意味?」
「おい! ×××ぐらいはやったんだよな?」
二人の声を子守唄代わりに、たまきは夢の中へと落ちていった。
つづく
次回 第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」
街中で落書きを見つけた三人。「ウチらのナワバリで勝手なことしやがって。と憤る亜美に対し、たまきはその落書きに妙に魅かれて……。