小説 あしたてんきになぁれ 第29話「パーカー、ときどきようかん」

田代とよりを戻した志保、花見の準備を進める亜美、そして、春に着る服がないたまき、今回はそんなお話。


第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

勝負服、と言われてたまきが最初に思い浮かんだのは迷彩服だった。自衛隊の人が迷彩服を身にまとい、自動小銃を構える光景だ。勝負する人が誰かと勝負するときに着ているのだ。立派な勝負服のはずだ。

ところが、志保の言う勝負服は、たまきがイメージする勝負服とはずいぶん違っていた。志保の言う勝負服とは「雑誌の表紙に載ってそうなオシャレな服」のことを言うらしい。さっきから衣裳部屋のクローゼットからいくつかの服を取り出しては、首をひねる、その繰り返しだ。どの服もオシャレな服なのだが、たまきの乏しいファッション語彙力では「どれもオシャレ」以上の細かい描写ができない。

「うーん、違うんだよなぁ。もっと優しい感じで、それでいて媚びない強さが欲しいっていうかさぁ」

と志保はなんだか指揮者が演奏者にアドバイスするかのようなことを言っている。

「つーかさ、なんで勝負服が4着もあんだよ? ここぞってときに着る服だろ? 普通1着だろ?」

志保の様子を見ていた亜美が口を出す。最初は志保の服選びに楽しそうに付き合っていたが、志保のあまりの優柔不断さに飽きてきたらしい。

両手に服のかかったハンガーを持つ志保は、くるりと亜美の方を向いた。

「あのね、亜美ちゃん。イマドキね、ウルトラマンだって相手や状況に合わせていくつもの姿を使い分けて戦うんだよ?」

志保の言いたいことはどうやら「勝負服は複数あっていい」ということらしい。

それにしても、とたまきは不思議に思う。

志保はこれからデートに行く予定のはずだ。なのに、なぜ「勝負服」だなんてものが必要なのだろう? たまきの認識では、デートというのは恋人同士が仲良くする行動のはずだ。いったい誰と勝負するのだろう?

でも、たまきたちが住む町は日本最大の歓楽街であり、治安もあまりよくないと聞く。もしかしたら町で悪者に絡まれて、戦うことになるのかもしれない。たまきが一人で街を歩いているときはそんな人に襲われたことはないけれど、一人で歩いているよりデートしている人の方が、なんだか絡まれやすそうな気がする。

でも、それだったらやっぱり迷彩服の方がいいんじゃないだろうか。

ちなみに志保は「勝負下着」なるものも持っているらしい。下着で勝負する人だなんて、たまきはお相撲さんぐらいしか思い浮かばない。あれ? お相撲さんってパンツはいて戦うんだったっけ?

「亜美ちゃんだってさ、こんなかにいくつもあるんじゃないの? 勝負服」

志保はクローゼットの中にずらりと並ぶ亜美の服を見て言う。

「勝負服?」

亜美も自分の服を見るが、

「うーん、ガキの頃の空手大会で、大一番ってときは必ず道着の下に学校の体操着着こんでたけど、勝負服っていうとあれくらいかなぁ」

と亜美は、本当に勝負するときに着ていた服装を挙げた。

「ねえ、亜美ちゃんはどれがいいと思う?」

志保は両手のハンガーをグイっと亜美に押し付けて尋ねる。

「知らねーよ。お前の勝負服なんだから、お前が着たい服を着ればいいだろ?」

亜美の言葉を聞いた志保は、何かはっとしたように目を開いた。

「そうだよね……」

そういうと志保は手に持った二つのハンガーに目を落とすが、すぐさま、

「あー、でも、どっち着よう~?」

とふりだしに戻ってしまった。

そんな志保を横目に、たまきは五日ぶりに出かける準備を始める。とはいえ、化粧をすることもなければ、服で悩むこともない。いつものジャンパーを羽織って、いつものニット帽をかぶって、いつものリュックを背負って……

そこで志保が声をかけた。

「たまきちゃん、そのジャンパー着てくの?」

「……はい」

大しておしゃれでもないジャンパーだけど、これしかないのだから、これを着ていくしかない。

「もう3月なんだし、今日は特にあったかいから、そのジャンパーじゃちょっと暑いんじゃない?」

「そうですか」

そういってたまきはリュックを下すと、ジャンパーを脱いだ。

そのまま再びリュックを背負い、外に出ようとする。

「ちょっと待って。何も羽織っていかないのはさすがに寒いんじゃないかな」

「そうですか」

そういうとたまきは、さっきのジャンパーを羽織った。

「いや、だから、そのジャンパーじゃ暑いんじゃ……」

「そうですか」

たまきは再びジャンパーを脱いだ。

「でも何も羽織らないのは……」

「そうですか」

と言ってたまきが再びジャンパーに手を伸ばした時、亜美が口をはさんだ。

「二択かよ!」

ジャンパーに手を伸ばしたまま、たまきの手が止まる。そのままたまきは、亜美の方を見た。

「そのジャンパーじゃ暑いっつってんだろ!」

「でも、何か羽織った方がいいって……」

「だから、そのジャンパーより薄手のなにか、だろ! なんでそのジャンパーを着るか着ないかの二択なんだよ!」

そんなこと言われても、たまきは「上着」と呼べるものをこのちょっと厚手のジャンパーしか持ってない。

「しょうがないなぁ。じゃあ、あたしの貸してあげる」

そう言って志保は両手のハンガーを放り出すと、クローゼットの中をガサゴソとあさる。

「え……でも……志保さんの服じゃ、サイズが合わないんじゃ……」

「上着だったら別にサイズがぴったりな必要ないって」

そう言って志保はクローゼットの中から何かを選び取った。

「これなんかいいんじゃないかなぁ」

志保が選び取ったのは、鮮やかなピンクのカーディガンだった。

「今日みたいなあったかい日は、これくらいがちょうどいいって」

舞い散る桜のような鮮やかなピンク色を目にしたたまきは、思わず後ずさった。

「あの……えっと……それ、着なきゃダメですか……?」

「なんで? かわいいじゃん。きっと、似合うよ」

志保は保険の外交員のような笑顔だ。

「でも……その……その服、なんか……女の子っぽくないですか……?」

「たまきちゃん、女の子じゃん」

「そうなんですけど……そうなんですけど……」

たまきの中では「生物学的に女性であること」と「女の子っぽい格好をすること」は別なのだ。

誰が決めたか知らないけど、「女の子っぽい」はどういうわけか「華やかであること」らしい。フリフリのナントカとか、ヒラヒラのナニナニとか、ハナガラのアレコレとか、華やかすぎてもういっそ花そのものになりたいんじゃないかと思えるような服が「女の子っぽい」と呼ばれる。

たまきは花になぞなりたくないのだ。あんなに目立って、虫も人もわんさか集まってくるようなものにはなりたくない。

葉っぱでいい。注目されることもなく、ひらりと落ちて、朽ち果てる。そうだ、葉っぱでいい。

そう考えると、やっぱり迷彩服のような「隠れやすい服」の方がたまきには似合っているのかもしれない。

問題は、迷彩服はジャングルとかで隠れるために着るのであって、街中で迷彩服を着たら、むしろ目立つということだ。

あと、今度は男の子っぽくて、たまきには似合わない。

 

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結局、たまきは何も羽織ることなく外に出たのだが、やっぱり寒い。ニット帽をいつもよりも目深にかぶってみるけれど、寒さの解決にはならなかった。素直に志保のカーディガンを借りればよかったとも思うけど、ピンクのカーディガンを着て街を歩くとなると、今度は心が寒くなる。たまきに暖色は似合わないのだ。

ふと、たまきは足を止めて、人の流れに目を凝らしてみる。こうやって見てみると、実に様々な服装の人が街を歩いているものだ。

ちょっと前までは寒色系のコートを羽織った人が多かった。冬になるとなぜか服の色も落ち着いたものになる。

それから少し暖かくなって、街を行く人のファッションも、少し華やかになり、バリエーションも増えた気がする。

待ちゆく人の一人一人を見ていると、みんなおしゃれだ。それは単に、おしゃれな服を着ているというだけでなく、髪型が凝っていたり、染めていたり、毛先の一本一本に気を使っていたりする。さらには、ピアスだの、ネックレスだの、指輪だの、アクセサリーをつけている人もいる。

サラリーマンと思しき男性がたまきの横を通る。ごく普通のスーツで、こういう真面目そうな人はやっぱりおしゃれとかしないのかな、と思ったけれど、よく見たらネクタイが黄色地にペンギンの絵が描かれたものだった。スーツという限られた中での、精いっぱいのおしゃれなのかもしれない。

なんだかこの町で自分だけおしゃれじゃないような気がしてきた。そもそも、東京というおしゃれな街は、おしゃれじゃない人が歩いていい場所ではないんじゃないだろうか。たまきみたいなおしゃれじゃない子が東京を歩くと、「おしゃれ警察」がやってきて、「こいつ、おしゃれじゃないぞ! 逮捕する!」とどこかへ連行されてしまうのではないだろうか。

学校の授業に「おしゃれ」なんてないのに、なんでみんなおしゃれに服が着れるのだろうか。たまきは、顕微鏡の使い方やリコーダーの吹き方よりも、友達の作り方とか、おしゃれな服の着方を教えてほしかった。どうして学校はいつも、本当に必要なことを教えてくれないんだろう。

 

街ゆくおしゃれな人たちとすれ違い、その都度なんだか肩身の狭い思いをしながら、たまきはあることに気づいた。

「勝負服」というのはもしかして、街を歩く人全員に対して勝負する服なのではないだろうか。

なにせ、デートをするときに着る服なのである。女の子も男の子もひときわおしゃれな服を着たいはずだ。

なのに、街で自分よりもおしゃれな人とすれ違って、恋人がそっちの方に見とれていたら、悔しいじゃないか、たぶん。街ですれ違う誰と比べても勝てるほどのおしゃれな服、それが勝負服なのではないか。

 

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すれ違う人とのおしゃれ勝負に負けっぱなしのまま、たまきはいつもの公園にやってきた。うつむいたまま歩くが、うつむいているのは別におしゃれ勝負に負けっぱなしだからではない。いつもたまきはこんな感じだ。もしかしたら、前を向いて歩くと自分が負けっぱなしなことに気づいてしまうから、無意識にうつむいているのかもしれない。

いつもの階段までとぼとぼと歩き、腰かけて絵を描き始める。

絵を描き始めると、季節の変化というものにも気づいてくる。この前まで公園の木々は葉を落としていたが、いつしか葉っぱが生えているだけでなく、徐々につぼみや花も芽吹いている。あとしばらくしたら、お花見シーズンになるのだろう。

お花見。たまきには関係のないイベントだ。

しばらくすると、後ろから声が聞こえた。

「お、たまきちゃん、やっと来たな!」

ミチの声である。

「来てますよ」

たまきはミチの方を見ることなく答える。

「たまきちゃん、ここしばらく来なかったでしょ?」

「まあ」

「なんで来なかったんよ」

「……まあ」

数日外出しないことぐらい、たまきにとっては大した問題ではない。ミチのように、用もないのに外をうろちょろしているほうがおかしいのだ。

「寒くないの、それ?」

おそらくミチは、たまきの服装を見ていっているのだろう。

「……まあ」

ミチはいつものようにたまきのすぐ横に腰かける。

たまきもいつものように、すっと横に動いて間隔をあける。

いつものように、たまきの隣でギターケースを地面に置く音が聞こえる。

いつもならここで、ケースをあけてギターを取り出す音が聞こえるのだが、たまきの鼓膜に入り込んでいたのは、紙袋が立てるがさがさという音だった。

たまきはその音を聞いた時、驚いた猫のように、反射的にミチとの間隔をさらにあけた。前にもこの音に聞き覚えがあったからだ。

前にこの紙袋のがさがさという音を聞いたのは、今からひと月ほど前だった。確かバレンタインデーで、ミチから執拗にチョコをねだられた時だ。

今度はなんなんだろう。いったい何をねだられるんだろう。

たまきは毛を逆立てた猫のように、この上ない警戒心をもって、ミチの方を見た。

「たまきちゃん、今日、何日だかわかる?」

「……さあ」

「三月十八日だよ。じゃあ、4日前は何日だったでしょう」

「三月十四日」

「大正解!」

この男はたまきのことをバカにしているのだろうか。いくらたまきが学校に行ってないといっても、引き算くらいできる。

「では、三月十四日は何の日だったでしょうか?」

ミチがにやにやしながら尋ねてくる。

「……誕生日ですか?」

「いや、それ、先月だから!」

「……ですよね」

つい2週間ほど前、ミチの誕生日をなんとかスルーしたのだ。こんなに早く次の誕生日が来るわけない。

「先月、バレンタインデーだったでしょ?」

「……はい」

「じゃあ、今月は何?」

「……ひなまつりですか?」

三月のイベントだなんて、それくらいしか思い浮かばない。

「ホワイトデーだよ、ホワイトデー」

なんだっけ、それ。

ホワイトデーとは、バレンタインデーにチョコをもらった男子が、女子にお返しをする日である。バレンタインデーは古代ローマに起源をもつのだが、ホワイトデーの起源はごく最近の日本にある。歴史の差が表れてしまっているのか、バレンタインデーに比べると、いまひとつパッとしない。

これまでたまきはバレンタインデーというイベントをスルーしてきた。必然的に、ホワイトデーも関係ないことになる。

ところが今年は、何の気の迷いか、ミチに百円のチョコをあげてしまった。

義理チョコだし、何か見返りを期待していたわけではないので、そのまますっかり忘れていたし、ましてやホワイトデーなんてイベントが自分にやってくるだなんて思っていなかったのだ。

そもそも、ミチに「ホワイトデーにお返しをする」という発想があったことに驚きだ。

「あの……その紙袋の中身が……ホワイトデーのその……」

「そうだよ」

たまきはこれまた最大の警戒心をもって紙袋を凝視する。茶色に紙袋に、どこかのお店のロゴが書いてあるが、何のお店なのかたまきにはわからない。

「そんなビビんないでよ。姉ちゃんと二人で選んだんだからさ」

それを聞いてたまきの警戒心が跳ね上がった。さっきのが最大だと思っていたが、まだ上があったとは。

ミチのお姉ちゃんは、たまきのことをネコに似てると言ってからかってくるような人だ。紙袋の中身はもしや、ネコの餌とか、ネコの首輪とかではないのか。

ガサゴソという不安な音とともに、紙袋の中身があらわとなった。

第一印象は「青い布」だ。たたまれた青い布の塊だ。

「薄群青だ……」

そう、たまきはつぶやいた。

「え?」

「これ、薄群青って色ですよね」

「そうなの? ブルーだと思ってた」

たまきは学校にいたころ、美術部にいたので、色にはちょっとだけ詳しい。一口に「青」といっても濃淡いろいろあるが、これは「薄群青」という色に近い。

ミチがたたまれた布を広げ、徐々にその姿があらわとなる。

洋服だ。薄群青の、長袖の洋服だ。

服の真ん中の部分がぱっくりと開いて、チャックがついている。たぶん、ジャンパーと同じように、服の上から羽織るタイプの上着なのだろう。

襟首のところにはフードがついている。

「これって……ジャンパーですか?」

「いやいや、パーカーだよ」

「ぱーかー……?」

「ヘンな色の名前は知ってるのに、パーカーは知らないの? ヘンなの」

そういうとミチはたまきの背後に回り、薄群青のパーカーをたまきの肩にかける。たまきはされるがままにそでを通す。

「姉ちゃんが、たまきちゃんは絶対このサイズだって言ってたんだけど、サイズ大丈夫かな」

たまきはパーカーの袖や裾を見た。たまきには少し大きかったようだが、上着ならちょっとくらい大きくてもよいのかもしれない。

「お、似合う似合う。かわいいじゃん」

そういって、ミチは笑った。

何より、パーカーはあったかい。亜美の言っていた「ジャンパーより薄手の何か」にぴったりだ。

「あの、これっていくらしたんですか……」

「えっと、二千円くらいかな?」

「二千円!?」

たまきにとっては、ずいぶんと大金だ。

「あの……こんな高いの、もらえません……!」

「なんでよ?」

「だって、私があげたチョコ……、百円ですよ……」

「だからさ、来年のバレンタインとか誕生日とかでお返ししてくれればいいから」

「来年……ですか……」

来年なんて生きてるかな、とたまきは首をかしげる。

「これで来年、プレゼントあげる理由がない、なんて言わないでしょ」

たまきはしばらく黙っていた。

「その……とりあえず高いものあげておけば私が喜ぶなんて思ってるんだったら……心外です」

たまきはミチの目を見ることなく言った。だけど、パーカーの暖かさはどうにも否定できなかった。

 

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かえりみち。

たまきにしてはめずらしく、たまきにしては本当にめずらしく、とぼとぼと下を向くことなく、まっすぐ前を向いて歩いていた。

行きと帰りでたいした違いは無い。もらったパーカーを羽織ってみただけである。薄群青の無地で地味なパーカーだ。

たったそれだけの違いなのだけれど、少しだけ何かのレベルが上がったような気がして、道行くおしゃれさんとすれ違っても気後れしない。それでもおしゃれ警察が来たら、「こいつ、もらったパーカーを羽織ってるだけだぞ!」と逮捕されてしまうのだろうか。

ふと、たまきは立ち止まり、ショーウィンドウに映る自分を見ると、ニット帽を脱いでみた。また何かのレベルがちょっとだけ上がった、様な気がした。

経験値を上げてちょっとだけレベルが上がった勇者の気分で、たまきは太田ビルの階段を登る。5階の「城」のドアの前に立ち、ドアノブに手を伸ばそうとしたときに、少し上から声をかけられた。

「たまき、こっち」

屋上へと続く階段の中ほどから、亜美が手招きしていた。手には黒っぽい何かが握られている。

言われるままに、たまきは屋上へと上がった。洗濯物が干してある。他には紙袋が置いてあるだけで、特段何か変わった様子は無い。

「中、入っちゃだめなんですか?」

たまきは亜美に尋ねてみた。

「今、ヤサオ来てんだよ」

ヤサオというのは、志保のカレシの田代に亜美が勝手に付けたあだ名である。

「志保がどういうところに住んでるのか見ておきたい、だってよ」

そういうと亜美は、紙袋の中から四角い何かを取り出して、たまきのほうに投げてよこした。たまきはあわててキャッチする。

「な、なんですか、これ」

「ヤサオのお土産。ようかんだってさ」

たまきが包み紙をはずすと、黒っぽいようかんが顔を出した。

カノジョの家に来て、お土産を買ってくるだなんて、大人だなぁ、とたまきはぼんやりと思う。

「何で入っちゃだめなんですか?」

「何でって、キマズイだろ」

そういって、亜美は舌打ちをした。

なるほど、とたまきは納得した。

「城」に平気でオトコを連れ込んだり、エッチなことをする亜美でも、「気まずい」と思うことがあるらしい。

だけど、たまきには、それ以上に何かあるような気がした。

「亜美さんは……、えっと、田代って人のことが、苦手なんですか?」

「キライだね」

亜美は屋上の柵のむこうに広がる青空を見ながら言った。

「おもしろくねーじゃん、あいつ」

どういう意味なのか、たまきには今一つよくわからなかった。

亜美は、足元の紙袋を拾う。

「こんなもの買ってきやがってさ」

「……気が利きますよね」

「気が利きすぎて、ヒクわ。ウチと大して年変わんねーのによ」

亜美は紙袋をパンパンとたたいた。

「志保に言わせるとさ、そういう時は素直にもらっておけば相手も喜ぶし、自分もうれしいつーんだけどさ、オトコから高いものもらってキャッキャと喜ぶオンナなんて、オンナはオトコからなんかモノもらって当然、って思ってるってことだろ? そういうオンナがよ、オトコにナメられんだよ。とりあえず、高いものあげとけば喜ぶって感じでな」

ぎくり、とたまきの中から、関節がずれたような音がした。

「で、でも、亜美さんだって、男の人からビールとかもらってるじゃないですか」

「そりゃそうだろ。ウチ、十九だから買えねーんだもんよ」

「デートに財布持ってかない主義だって……」

「これだからお前はおこちゃまなんだよ」

亜美の言葉に、たまきは不服そうにようかんをかじる。

「『おごらせる』と『おごってもらう』は全然違うんだよ」

たまきには、その違いがよくわからない。

「それにしても、このようかん、うまいな」

亜美はそう言ってようかんを頬張った。

「ところでお前、そのパーカー、どうした」

たまきよりもはるかにおしゃれな亜美が、たまきの服装が出かける前と少し変わっていることに気づかないはずがない。

「……まあ」

「ふーん、ウチの好みじゃねぇけど、まあ、いいんじゃね? いくらしたんよ」

「……二千……円……くらい……」

「金、足りなくなったらエンリョなく言えよ。お前は、金使わなさすぎなんだからな」

どうやら亜美は、たまきが適当に買ってきたと思ったらしい。たまきとしても、そのほうがいい。

 

「ああ、ここにいたんだ」

そういって、田代が一人、屋上へと階段を上ってきた。

「ごめんね。気を使わせちゃったね。もう帰るから」

「あっそ」

亜美は田代のほうを見ることなく、何やら携帯電話をいじっている。

亜美がどういう理由で田代のことが嫌いなのか、たまきには今一つよくわからない。でも、いくら嫌いだからってそれを態度に出さなくてもいいんじゃないか。たまきだってよく、ミチに「あなたのことは嫌いです」と言っているけど、だからと言ってあからさまな態度をとったりはしない。

たまきはそう思ったのだが、亜美は良くも悪くも、嘘がつけない性格なのだろう。良くも悪くもごまかせないのだ。

もちろん、亜美だってうそをつくことぐらいあるだろうし、男性の前で猫を被ることがあるのもたまきは知っている。一方で、ああこいつキライだなぁ、と判断したら、そういったことをぱたりとやめてしまうのだろう。おそらく、意識してやっているのではなく、自然とスイッチが入らなくなるのではないか。

そういう時はたまきがフォローに回れればいいのだが、たまきはたまきで、知らない人全般が苦手なのである。

結果、柵にもたれて背中を向けたままの亜美と、目を合わせられないたまきという、なんとも気まずい空気が生み出されてしまった。

そんな空気に気づいているのかいないのか、田代は二人のほうへと近づいてくる。

「えっと、亜美さんでよかったんだよね。で、そっちの子は……」

田代がたまきのほうを見る。そういえば、田代にちゃんと名前を言ったことがなかった。

答えたのは、たまきではなく亜美だった。

「ん? ああ、こっちはたまき。うちのザシキワラシ」

とうとう動物ですらない、妖怪扱いされてしまった。

「二人はここで志保ちゃんと一緒に暮らしてるんだよね?」

「……はい」

事実なのに、たまきはどこか自信なさげに答えた。

「えっと、二人はどれくらい勉強してるの?」

田代の言葉に、亜美とたまきは、きょとんとした感じで互いに顔を見合わせた。

「ベンキョー?」

「……ですか?」

「何の?」

亜美もたまきも、勉強なんてここ何年もしていない。

今度は田代がきょとんとした感じで尋ねた。

「何のって、薬物依存や違法薬物に関する勉強だよ」

そこで二人は、もう一度顔を見合わせた。

「え? おまえ、なんか勉強とかしてる?」

「いえ……別に……」

それからたまきは言い訳するように、特に田代に対して言い訳するように、付け足した。

「その……舞先生……知り合いのお医者さんに難しいことは任せてるので……」

「まあ、基本ウチら、先生に丸投げだよなぁ」

たまきはどこかで、舞の胃がキリキリときしんだような気がした。

「そうなんだ」

田代はあまり納得していないようだ。

「でも、薬物依存の患者と一緒に暮らすんだったら、そういう勉強も必要なんじゃないかな。本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思うし」

勉強だなんてそんなこと、たまきは考えたこともなかった。

それともうひとつ、たまきの心に強く引っかかった言葉があった。

「本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思う」

今のたまきたちの生活は間違っている、遠回しにそういわれたような気がした。

「ベンキョーね、まあ、そのうちな。ああ、ようかん、うまかったよ。ありがとな」

田代が帰るまで、けっきょく亜美は、一度も田代を見ることはなかった。

 

「送信……っと」

亜美は携帯電話をぱたりと閉じると、たまきの方を向いた。

「たまきも来るだろ、花見」

「お花見……ですか……?」

「そ、花見。再来週くらいになるかな」

どうやら、携帯電話でやっていたのは、お花見の企画だったらしい。

どうせまた、亜美とつるんでるガラの悪い男たちが集まるのだろう。テレビで見る「お花見で騒ぐ、迷惑な若者たち」の絵面そのままの光景になるに違いない。

正直、そんなお花見、行きたくない。

いや、これがもし、田代みたいな人当たりのよさそうな人ばかりが集まるお花見だったとしても、やっぱりたまきは参加するのをためらうのだろう。

行ったところで、どうせなじめやしないのだから。

それでもたまきは、

「……まあ」

というあいまいな返事しかできない。

たまきも少しは亜美を見習って、嫌なものは嫌だとはっきり示せた方がいいのではないだろうか。

そんなことを考えてみるも、誘ってくれた亜美に悪いとか、断ったら嫌われちゃうんじゃないかとか、いろんなことがよぎってどうしても「行きたくない」とはっきり言えない。

そもそも、たまきのようにずっと友達がいなかった子にとって、友達から誘われる、というのはとてもありがたい、夢のようなことなのだ。断れるはずがないじゃないか。

「ところでさぁ、たまき」

柵にもたれたまま亜美は、たまきのほうを見ていった。

「お前にとって、志保って何よ」

「え、え?」

急になんだか恥ずかしいことを聞かれて、たまきは戸惑いながらも答えた。

「私にとって……志保さんは……志保さんです」

たまきにはそれしか答えが出てこなかった。

「だよなぁ。志保は志保だよなぁ」

「……亜美さん、その、ヘンなこと聞くかもしれないですけど……」

「ん? どした?」

そこから先の言葉がたまきには出てこなかった。

「おい、言えよ。気になるだろが」

亜美は体ごとたまきのほうを向くと、腰をかがめてたまきの目をのぞき込む。

「なんだよ。気にすんなって。どうせおまえの言うことは、いつもヘンなんだから」

「その……」

たまきは、いつもよりさらに自信なさげに言った。

「……私たちがここで暮らしていることは、間違っているんでしょうか」

不法占拠、つまり家賃を払っていない。おまけにそのメンバーが、援助交際娘と、薬物依存患者と、家出少女である。やっぱり、こんなの間違っているんじゃないだろうか。

「そんなの、百人に聞いたら、百人が間違ってるっつーに決まってんだろうが」

「やっぱり……」

亜美は煙草を一本取りだし、火をつけた。

「……だから?」

「え?」

たまきは亜美を見上げる。

「ああ、ウチらがやってることは間違ってるよ。だから? じゃあ、解散するか?」

「そ、そんなの……!」

こまる。ここが解散になったら、たまきはどこに行けばいいというのか。ここにいられなくなったら、いよいよ死ぬしかないじゃないか。

「な、ウチらの生き方が間違ってようが、それでしか生きていけねぇんだったら、そう生きてくしかねぇじゃねぇか」

亜美は携帯灰皿にたばこをぎゅっと押し付けると、灰皿のふたをぱたりと閉じた。蓋に断ち切られた煙が、何か断末魔のようにふわりと漂い、消えた。

つづく


次回 第30話「間違いと憂欝の桜前線」

自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。……2月公開予定!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

田代に別れを告げた志保はがっつりと落ち込んでしまう。そんな志保の周りで、亜美が、たまきが、舞がそれぞれ動く。「志保編三部作」の最後の「あしなれ」第28話、スタート!


第27話 「ラプンツェルの破滅警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「おい、いいのか?」

亜美の問いかけに志保は小声で

「いいの……」

とだけ答えた。志保は亜美も、そして田代の方も見ることはなく、その場を離れた。

志保が田代に「すべて」を話すのを、少し離れたところから亜美とたまきも聞いていた。亜美とたまきにも聞いてほしかったのと、志保が一人で田代の前に立つ勇気がなかったのがその理由だ。

「ちっ」

亜美はわざと聞こえるように舌打ちをすると、ズボンのポケットに手を突っ込んで志保の後を追った。

たまきは、田代の方を見やった。

事態が飲み込めない、そんな表情だろうか。

まあ、当然だろう。いきなり呼び出されて、あんな話をされて話を飲み込め、というのはいくらなんでも無理がある。

「あ、あの……」

たまきは一歩前に進み出て、田代に声をかけて、それからすぐに、心の底から後悔した。「知らない人に話しかける」というのが、たまきは一番苦手なのだ。

声をかけてしまってから後悔し、たまきは田代から目線を外す。

一方、声をかけられた田代は、たまきの方を見た。

「君は……志保ちゃんの友達……?」

まあ、田代から見て志保の後ろの少し離れたところでずっと話を聞いていれば、いくらたまきのように影の薄い子でもその存在に気付くだろうし、友達なのかな、と思うだろう。

もう引き返せないと悟ったたまきは、

「あ、あの……」

と言ってから一度深呼吸をして、言葉をつづけた。

「志保さん……その……田代……さん……にお話しするまで……すごく悩んでました……。そ、それだけわかってあげてください……」

たまきはほとんど田代の目を見ることなくそれだけ言うと、くるりと背を向け、まるで悪いことでもしたかのように、小走りにその場を立ち去った。人と話すことよりも、その場から逃げ出すことの方が得意なたまきである。

人気のない路地裏で、少し先を歩いていた亜美に追いつき、横を並んで歩きだす。

「ん? ヤサオと何か話してたのか?」

「べ、べつに……」

ニット帽をかぶったたまきは、もうその話題には触れられたくないように下を向いた。

「まさか、志保がヤサオをフッたのをいいことに、ヤサオのことを奪おうとか……」

「そんなわけないです」

たまきは即座に否定した。

たまきは前方に目をやる。亜美とたまきより5mくらい前を離れたところを、志保が歩いていた。右手にはハンカチが握られていて、時おり目元にそれを押し当てている。

「あ、あの……さっきの志保さんの話なんですけど……」

たまきは亜美の横を歩きながらも、亜美と目線を合わせることなく言った。

「私にはよくわからなかったです……」

学校に行けて、友達がいて、カレシがいて、志保はそれが「怖い」という。

でも、結構な話ではないか。

「その……自慢話にしか聞こえなかったというか……」

あんまり志保のことを悪く言いたくはないのだが、たまきからしてみればうらやましい話でしかなかった。なんで志保はわざわざ自分で「壊したい」なんて思ったのか、よくわからない。

それを聞いていた亜美は、最初は黙っていたが、やがて笑い出した。

「はははは。なるほど、自慢話か」

「……やっぱり変ですか?」

亜美は前方を歩く志保と十分に距離をとっていることを確認すると、少し声のボリュームを落とした。

「まあ、自慢話って言ったら、そうだよなぁ」

たまきは黙ったまんま答えない。

「ま、世の中の悩みっていうのは案外、他のヤツが聞いたら自慢話かもしんねぇよな」

亜美はそう言って笑うと、たまきの方を見る。

「だってさ、仕事の愚痴もさ、仕事ないやつが聞いたら自慢話じゃん。恋人の愚痴も、恋人いないやつが聞いたら自慢話じゃん。子育ての愚痴も、子供いないやつが聞いたら自慢話じゃん」

「……まあ」

「でさ、そういう話するやつにさ、『え? なに? 自慢?』って聞き返すじゃんか」

「え……あ……そうなんですか……」

そこでそんな煽るような言い返し、たまきにはできない。

「するとたいていさ、『あんたなんかに何がわかんの!』って逆ギレされんだよ。は?って話じゃんか。ウチに言ってもわかんねぇって思うんだったら、最初っから相談すんじゃねーよ、バーカ!って言うわけよ」

「あ、そう思う、ってわけじゃなくて、ほんとに言っちゃうんですか……」

たぶん、実際は今より十倍くらい辛辣な言い方に違いない。胸ぐらをつかむ程度のことはしているかもしれない。

「で、何の話だっけ?」

亜美は話しているうちに興奮して、何の話をしてるのかわからなくなったらしい。

「その……、悩みってあんがい自慢話だって話です……」

「ああ、そうだった」

亜美は頭の後ろで腕を組んだ。

「だからな、悩みってあんがい自慢話だったりするんだよ」

「そうでしょうか……?」

たまきにはどうも今一つ納得できない。今日は納得できないことが多い日だ。

「そんなもんだって。……お前の悩みだってもしかしたら、うらやましいって思ってるやつがいるかもしんねぇな」

「そんなわけないです」

たまきは間髪入れずに答えた。

学校にいけない。友達がいない。ないないづくしのたまきの悩みをうらやましく思う人などいるわけない。

そう思ってから、たまきはふと、ミチのことを思い出していた。

家族とうまくやれない、家族のことが嫌い、そんなたまきの悩みが、家族のいないミチには「わからない」のだという。

それは「うらやましい」とはまた違うのかもしれない。だけど、自分の悩みが他人にとっては自慢話なのだとしたら、いくら言葉を尽くしても理解されないのは当然のことかもしれない。「お前に何がわかる」と逆ギレしてみたところで、亜美の言うとおり、そもそも最初からどれだけ言葉を尽くして他人の悩みなど理解できるものではないのだ。たぶん、たまきが志保の悩みをいまいち理解できなかったように、志保にはたまきの悩みはわからないし、亜美にもたまきの悩みはきっとわからないのだろう。

ただ一つ、たまきには理解できない理由ではあるけれども、志保は本気で苦しんでいる、ということだけはたまきにもわかった。

 

写真はイメージです

それから、二日ほどたった。

「城」の中は明かりがついておらず、消防の観点から申し訳なさそうについてる窓から、わずかに外の光が差し込む程度だ。

公園に行って絵でも描こうかと、たまきは起き上がった。ぼさぼさの髪を手櫛で整え、「衣裳部屋」においてあるリュックサックを手に取った。

そこでたまきはふと思い出す。今、この空間にもう一人いるということを。

志保はソファに腰掛け、何をするでもなく、ただそこに座っていた。

亜美は昨夜からいない。どこに行ったかもわからない。まあ、亜美はいつもそんな感じだ。

一方の志保は、いつもとは全然様子が違っていた。目はうつろで焦点が合わず、どこを見ているのかわからない。髪はぼさぼさ。染めた髪の根本は少し黒くなり始めていたが、今の志保にとってはどうでもいいことらしい。

「あ、あの……」

「……なに……」

紙やすりで雑に削り取ったかのようなか細い声で、志保は答える。

「……今日は施設に行く日じゃなかったでしたっけ……」

「……休むって電話したから……」

「……そうですか……アルバイトの方は……」

「……バイトもやめた方がいいよね……。なかなか電話できなくて……」

たまきは手にしたリュックを床に置いた。

これではどっちが引きこもりなのかわからない。

舞からは、志保を一人にするなと言われている。そうでなくても、今の志保を一人置いて出かけるなんて、たまきにはできない。亜美ならするだろうけど。

結局、たまきは黙ったまま座り続けた。志保も黙ったまんまだ。

何の会話もないまま三十分が過ぎたころ、不意に静寂が破られた。

ドアをどんどんと叩く音。次に声が聞こえる。

「おい、不法占拠の野良猫ども。誰かいるんだろ? あたしだ、開けろ」

舞の声だった。

たまきは志保の方を見た。志保はドアをたたく音と声に気付いているのかいないんか、これといった反応はない。

たまきは立ち上がると、「城」のドアを開けた。

「……こんにちは」

たまきはドアから顔を出すと、申し訳なさそうに挨拶をした。

「……おまえひとりか? 志保は?」

「……中にいます」

舞はドアをぐいっと開けると、靴を脱ぐことなくずかずかと「城」の中に入っていった。

入ってきた舞に気付いた志保は、無言で軽くお辞儀をするだけだ。

「よお。聞いたぞ。オトコをフッたんだって?」

「……まあ」

志保はなんだか、たまきみたいな返事の仕方をする。

「なんだよ。なにフッた方がこの世の終わりみたいな顔してんだよ」

「……ですよね」

志保は目線を上げることなく答えた。

「どれ、診察してやっか」

舞は、志保の向かい側にあるソファに座った。それから、後ろにいるたまきの方を向く。

「たまき、悪い。ちょっと席外してくんねぇかな。そんな長居しねぇから。その間……そうだな……古本屋とか、どっかそうだな、お前の好きそうなとこってどこか……」

舞としては引きこもりのたまきに「どこか行け」という残酷なお願いをするのにかなり気を使ったのだが、たまきは意外とあっさりと、

「わかりました」

というと、床に置いてあったリュックを手に取り、「城」の外へと出て行った。

「さて、どれどれ熱は……ないな」

舞は志保のおでこに手を当てる。

「はい……熱は……ないです」

「いや、冗談だってば」

舞は苦笑しながら、志保の額から手を離した。

「熱はないけど……こりゃ重症だな」

舞は志保の顔色をしげしげと見る。

「さて、あたしはお前の主治医だから、お前がまたクスリに手を出しそうになったら、止めにゃあならん義務がある。そんで、今のお前は明らかに精神的にやばい状態だ。よってあたしは、これからお前を診療しようと思う。あ、この場合、あたしの方から来たから、往診っていうのか」

舞はわざと明るく言ったが、志保の表情は変わらない。

「とりあえず、亜美からお前が男をフッたとしか聞いてないから、何があったのか、話してみな」

 

写真はイメージです

小さく舌打ちして、亜美は携帯電話を閉じた。

「余計なことしたかな」

舞に志保のことを話してよかったのかどうか。とはいえ、それ以上の余計なことは言っていない。亜美が舞に話したのは、単に「志保がオトコをフッて、えらく落ち込んでいる」ということだけで、亜美が聞いた志保の過去にまつわる話は一切しゃべっていない。そもそも、亜美は舞から電話で、「志保が前に恋愛相談に来たけど、あの件は結局どうなった」と聞かれたことに答えただけだ。

「シゴト」と用事を済ませた亜美は、どこに向かうでもなく繁華街の街をぶらぶらとしていた。

何気なく、ついこのあいだ志保が田代と会っていた空き地の前を通りかかる。ふと、亜美は空き地の中に、見たことのある姿を見つけた。

田代だった。田代は何をするでもなく、空き地の中に立ちすくんだまま、あたりを見渡している。

「おいおいもしかして……」

その様子を亜美は少し離れたところから見ていた。

(こいつまさか、ここにいればまた志保がやってくるんじゃねぇかって、月9みたいなことしてるんじゃねぇだろうな……)

亜美は半ばあきれた様子で田代を見ていた。

なるほど、確かに田代は優しそうな好青年である。背も高く、柔和な顔立ちだ。

だが、亜美の好みではない。正直、こんなののどこがいいんだろう、と首をかしげる。亜美の付き合うような男たちがお酒で、ミチのようなその取り巻きがジュースだとすると、こいつは水、よくてお茶といったところだろうか。

来るはずもない志保を待っているのがさすがにかわいそうになり、亜美は田代に近づいた。

「おい」

あまりに乱暴な亜美の呼びかけに、田代は自分が呼ばれたと気づかず、亜美の方を向かない。

「いや、ヤサオ、おまえだよおまえ」

ややいら立ちのこもった亜美の呼びかけで、ようやくヤサオこと田代が振り向いた。

「君は……志保ちゃんの友達の……」

田代も亜美のことを覚えていたらしい。いや、髪を金に染め上げ、冬場でも見せれるところを見せようとする亜美の姿を「忘れろ」という方が無理なのかもしれない。

「あのさ、まさかとは思うけど、ここで志保来ねぇかって待ってんの?」

「う、うん……」

田代は、少しぎこちなくうなづいた。

「志保ちゃん、今日バイト休んでて……。最後にあったのここだから、もしかしたらまた会えるかと……」

「おまえバカか」

ほとんど面識はないはずの亜美からいきなり「バカ」と浴びせられ、田代は面食らった。しかし、亜美の方は気にすることなく言葉をつづける。

「バイト休むような奴が、この辺うろついてるわけねぇだろ、バカ。そんな元気あるんだったら、バイト行ってるだろうが、バカ」

まるで語尾につける句読点のように、亜美は「バカ」と言い放つ。そのたびに田代はボクサーにビンタされたかのように、少し顔をゆがめる。

「でも、俺、志保ちゃんの家どこか知らないし……電話しても出ないし……」

「『さよなら』っつったオトコから電話かかってきて、出るわけねぇだろ、バカ。そこで出るようなら、そもそもさよならとか言わねぇつーの、バカ。つーかさ、フッた男から電話かかってきたら、かえって志保が苦しむんじゃねーかとかさ、考えねぇのかよ、バカ」

「す、すいません……」

わずかなあいだでバカの集中砲火を浴びた田代は、うなだれるしかなかった。

「……ま、いきなりあんな話されたら、わけわかんねぇよな。悪ぃ、言いすぎた」

そういうと、亜美は公園内に置かれた、大きな岩を指し示した。

「おい、ここ座れ」

そう言って乱暴に自分の横の岩を蹴っ飛ばす。

「え?」

「んだよ? 別に噛みつきやしねぇから、いいからとりあえず座れ」

 

「なるへそ」

舞はソファに座り、腕を組んで志保の話を聞いていた。

「で、お前は別れたことに納得してんのか?」

「はい……」

志保は吐息のようにつぶやいたあと、無理しているかのような笑顔で、こう付け加えた。

「たまきちゃんに言われたんで」

「ん?」

腕組みをしたままの舞は、何かに引っかかったように、志保を見た。

「たまきに言われたから別れたのか?」

「……はい」

舞は少し身を乗り出す。

「さっきの話じゃ、たまきが言ったのはあくまでも、別れる別れないを決めるのはお前じゃなくて相手だって話だろ? あいつはお前に『別れろ』なんて言ってないだろ? それが何で、『たまきに言われたから別れた』ってことになるんだよ」

「それは……」

志保は少し間を開けてから答えた。

「だって……、本当のことを言ったら、きっと彼はあたしのことを軽蔑し、別れると思うんです。だったら、自分から別れた方がいいって思って……」

「ん?」

舞はまたいぶかしむように顔をしかめる。どうにも話がつながって見えない。

舞は煙草を灰皿に押し付けると、そこから漏れ出た煙を眺めながら、しばらく考えた。

今聞いたばかりの、志保が覚醒剤に手を出した理由。

志保が田代と別れることとなった経緯。

「ふーむ……」

舞は片手でたばこを持ち、もう片手を頬に当てて考え込む。

「なるほど……」

舞は何かを一人で合点したように、再び煙草を口にした。

「おまえの問題点が、やっとわかったよ」

「私の……」

「ああ」

舞はゆっくりと息を吐いた。

「結局おまえは、何一つ自分で決めてないんだよ」

「え……」

志保は虚を突かれたように、ぽかんと口を開ける。

「どういう意味ですか?」

志保は少し、自分のプライドが傷つけられた気がした。

自分の人生を壊す。その選択が、そのやり方が、たとえどんなに愚かなことだったとしても、それを「自分の意志で決めた」、それだけは間違いないと思っていたからだ。

そもそも、「自分でなにも決めてない人生」を変えたくて、人生を壊すと決めたはずだ。「結局なにも自分で決めてない」だなんて、そんなことあるもんか。

「おまえの判断基準はいつだって、『こうしたい』じゃない。『こうした方がいい』なんだよ」

たばこの煙が天井へと延びていき、空気になじんで、消えていく。

「だってお前、ほんとは別れたくなかったんじゃないのか。だから、あたしに相談したり、たまきに相談したりしたんじゃないのか? 別れたかったら、相談なんかしないよな」

「それは……そうですけど……」

「じゃあなんで別れたんだ?」

「だってそれは……別れた方がいいと思って……」

そこで志保ははっとした。自分が今まさに「した方がいい」と口にしていたことに。

「クスリに手を出す前のお前は、自分の意志や欲望を持たずに、常識ってやつに価値判断を任せて生きてきた。お前の言う『空っぽの人生』ってやつだ。お前はそれが嫌だった。さっきおまえが話してくれたことをまとめると、そうなるよな」

志保は無言でうなづく。

「確かに……薬に手を出したこと自体はバカだったと思います……。でも、それからはあたし……、ちゃんと自分の意志を持って……自分で『こうしたい』って考えるように……」

「思ってるだけだ。それを決断にまでは結び付けちゃいない」

舞は志保の目を、まっすぐに見据えて言った。

「現におまえは、はっきり『別れたくない』と思っていたにもかかわらず、『別れた方がいい』と決断したんだ」

「でも……だって……そうじゃないですか。あんな話したら、彼だってあたしのことに嫌い……」

「話を聞いて相手がどう思ったのか、ちゃんと確認したのか?」

志保は少し泣きそうになりながら、首を横に振った。

「なんで確かめない? それこそ、たまきに言われたんじゃないのか? どうするのかを決めるのはお前じゃない、相手だって」

「だって……」

志保の声が少し震え始めた。

「耐えられるわけないじゃないですか……。好きな人から『おまえなんか嫌いだ』なんて言われるのは……。耐えられるわけないじゃないですか……」

「だから自分から『別れた方がいい』と」

舞はソファの背もたれに背中を押し付け、がっしりと腕を組んだ。

「でも、お前の本音は『別れたくない』だったんだろ? それなのに別れちまったら、お前の本音はどこに行くんだろうな?」

その問いかけに、志保は答えなかった。

あたしが。あたしが。あたしが。たまきや亜美に相談するときにさんざん言ってきたのに、最後の最後で「あたし」を黙殺する自分。舞の言うとおり、どんなに「あたしが」と強く思い続けても、志保はそれを決断に結び付けられないのだ。

「どこにも行きやしねぇよな。お前の心の奥底でずっとくすぶり続ける」

舞は少し身を乗り出すと、志保の胸を指さした。

「おまえさっき、別れたことは納得してるって言ってたけど、納得してるんだったらこんなところでひきこもってなんかないよな。本当はこれっぽっちも納得なんかしてないんだよ。『別れたくない』がお前の本音なんだから。そんでもってそれを、たまきのせいにしてる」

「あたし、べつにたまきちゃんのせいだなんて……」

「だってさっき言ったじゃないかよ。『たまきに言われたから』って」

「それは……」

志保は下を向いた。

「別れるって決断をしたのはお前だ。でも、お前の本音じゃない。お前の意志じゃない。決断をしたのはお前だけど、お前じゃない。ややこしいけど、わかるか?」

「……まあ」

「おまえの本音はお前の中でくすぶってるまま。納得なんかしていない。それを『人に言われたから』ってことにして納得しようとしてるだけだ。ほんとはお前が決めたのに」

舞はそういうと、再び煙草に口を付けた。

「いやな、別に『そうした方がいい』って判断したこと自体が悪いわけじゃねぇんだよ。たとえば、ケーキが食べたいけど食べたら太るから食べない方がいい、ってときは、『食べない方がいい』を選んでも全然いいんだよ。ただな……」

舞はそこで一度言葉を切ると、志保をまっすぐに見た。

「おまえの場合は、それが多すぎる。それも、重要な選択の時はほぼ必ず、本音を無視して『した方がいい』の方を選んじまう」

志保は、舞の目を見れなかった。

「おまえが財布盗んだ時だってそうだ。お前の本音は『ここに残りたい』だった。でもお前はあの時、『ここから去った方がいい』を選択したんだ。あんときもお前がここに残れないかと言い出したのはたまきだったよな。そのあと、亜美が言い出して、お前自身が言い出したのは、一番最後だ」

志保は黙ったままうつむいている。

「クスリに手を出したのだってそうだよ」

「そうなんですか……」

「まあ、まず薬物に手を出しちゃいけないって大前提があるけど、それは今更言ってもしょうがねぇ。ちょっと置いとこう。お前は常識に従っちまう人生ってやつを変えたかったんだろ? だったらなんで覚醒剤なんだ? たとえばさ、学校に通いながら、自分でこうしたいって決めて、自分でしっかり進路定めて、周りにどう言われようと自分の意志を貫く、そんな生き方じゃダメだったのか? っていうか、そんな生き方がしたかったんじゃないのか?」

「それは……でも……それじゃ駄目な気がして……」

「何がダメなのさ?」

「……結局、元の場所に戻っちゃうんじゃないかって」

「それだよ、それそれ」

舞は志保を指さす。

「おまえは自分が『こうしたい』って思っても、それを貫けないんだよ。だからお前は、クスリに頼った。覚醒剤はどんなに意志の強いやつでも人生を破滅させる。普通はそれは悪い意味で使われるんだけど、お前はそれに頼ったんだ。お前みたいに、意志を貫くことができないやつでも、確実に人生を破滅させられる」

舞は煙草を灰皿に押し付けると、ふっと笑顔を見せた。

「最初に会ったとき、お前の薬物依存を『病気』だって言っただろ? 治さなきゃいけない病気なんだ。でも、その根本はクスリがどうこうじゃない。なんでクスリに手を出したか、そこだ。治さなけりゃいけないのは、お前のその意志の弱さ、意志を貫けない性格なんだよ。そのままでいいっつうなら別にいいけど、お前はそれを治したいって思ってるんだろ? 第一、本音を押し殺しながら生きてたら、お前自身がいつまでたっても苦しいまんまじゃねぇか」

「そうですよね……」

「で、お前はどうしたかったんだ?」

舞は歯を見せてにっと笑った。

「あたしは……別れたくなかったです……でも……」

「ストップ! そっから先は言うな」

舞は手で志保の言葉の続きを制する。

「別れたくなかったんなら、カレシにしがみついてでも、ヤダヤダ別れたくないって言えばよかったんだよ」

「そんなみっともない……」

「おまえまだ十七だろ? いいじゃんか、みっともなくて」

そういうと舞は優しく笑った。

「あの……」

志保は顔を上げて、少し身を乗り出す。

「あたしはどうすれ……」

そこで志保ははっとして言葉を切った。

「どうすればいいか」ではない。

「どうしたいか」だ。

いいじゃないか、みっともなくて。

自分の過去も、言いたくないことも、全部話したのだ。

だったらさらに醜態さらして、「ヤダヤダ、別れたくない」とみっともなく田代にしがみついてみたらどうだ。

きっと軽蔑されるだろう。でも、どうせフられるならとことん軽蔑されるのも悪くない気がしてきた。

精神的なダメージや体裁を考えたら、もちろん、そんなことは「しない方がいい」。

でも、今の志保は「そうしたい」のだ。

志保は携帯電話を取り出すと、優しくボタンを押した。

 

田代は亜美に促されるがままに、公園の中に置かれた岩に腰掛けた。

だが、亜美の方はどこにも腰掛けずに立ったまんまだ。そのまま腕を組んで田代の方をにらむように見ているから、ずいぶんと亜美の方が偉そうに見える。

「で、お前どうしたいの?」

亜美は尋問、いや、質問をぶつけた。

田代は困ったように周りを見渡してから答えた。

「まず志保ちゃんに会って……」

「そりゃそうだろ、バカ。志保とコンタクトとりてぇからこんなとこうろついてんだろうが」

「ちゃんと話して……」

「あたりまえだ、バカ。あったら話すに決まってんだろうがよ」

「あの……」

田代はかなり困ったように亜美を見た。

「……あんまりバカバカ言わないでくれないかな……?」

「あ? バカじゃねぇの? バカにバカって言って何が悪いんだよ、このバカ!」

亜美は田代にグイっと顔を近づける。

「ウチが聞いてんのは、会って話して、そのあとどうしたいのかってことだ、バカ。会ってしゃべってそれで満足なわけねぇだろ。その先があんだろ?」

「それは……」

田代はいよいよ困ったような顔を見せる。

「ま、ウチはお前があの話聞かされたら、てっきり逃げ出すと思ってたよ。もう一度会って話したいっていうのはほめてやるよ」

「ど、どうも……」

「逃げようとか思わなかったのか? 志保の方からお前に別れ切り出したんだ。お前がこのまま会おうとしなければ、それで縁が切れたのに。そうすれば、厄介ごとからも手を切れるんじゃねぇのか……」

「厄介ごと……」

田代はそこで、少し下を見た。

「一度好きになった人を……、厄介ごとだなんて、思えないよ……」

「そもそもさ、志保のどこがよかったんよ」

「それは……、明るくて……優しくて……一緒にいて楽しいっていうか……」

そこで亜美は、深くため息をついた。

「で、結局どうしたいんだよ?」

「……僕に何ができるかわからないけど、彼女を支えていきたいと思う……」

「あんな話聞かされてもか?」

「……あんな話聞かされたからかもしれない。僕だっていろいろ考えたよ。でも、今の志保ちゃんには、やっぱりだれか支えてあげる人が必要なんじゃないかって思って……」

「……お前の手に負えないかもしれないんだぞ」

亜美は腕組みしたまま、まっすぐに田代を見た。

「……僕もこれから薬物について勉強していきたいと思うし……、たとえ手に負えなくても、僕はまだ志保ちゃんのことが好きだから、僕が守ってあげなくっちゃ……」

「ちっ!」

亜美はわざと聞こえるような大きな舌打ちをした。

「え?」

「ああ、いや、何でもねぇよ」

そういうと亜美はそっぽ背く。そして、心の中で叫んだ。

こいつ、ぜんぜんおもしろくねー!

つまんねー。なんてつまんねー男。笑点だったら座布団を全部没収して、ステージの下に蹴り落したっていいくらいのつまらなさだ。

原宿の女子高生が好きそうな甘ったるいラブソングに、魔法をかけて体と声を与えたらこの田代ってやつになるんじゃないだろうか。そういえば、前にカラオケに行ったとき、志保はそんな甘ったるいラブソングばかり歌ってた。

こんなヤサオのどこがいいのかと亜美は今まで不思議で仕方なかったが、何となくその理由がわかった気がした。そういえばこいつら、二人そろって青春映画を見に行くようなカップルだった。

なぁにが「支えていきたい」だ。「守ってあげなくちゃ」だ。道徳の教科書みたいな顔しやがって、このやろう。

さて、どうしたものか、と亜美は頭をひねる。

志保が田代に別れを告げて以来がっつり落ち込んでいるのはよく知っている。田代もその気だというのなら、二人の間を取り持ってやるくらいのことはやってもいい。

やってもいいのだけれど、志保をまたこのつまらない男くっつけても、なんだかおもしろくなさそうだ。

とはいえ、と亜美は考えを改める。これは志保と田代の問題である。亜美がつまらないという理由で間を取り持たない、というのは筋が通らないだろう。亜美としては面白みがないが、志保がこのタワーレコードに平積みで置いてありそうな男が好みだというのならば、とやかく言わずにその間を取り持ってやるっていうのが友達ではないだろうか。

なにより、「城」に引きこもりは一人で十分だ。二人もいると、めんどくさいうえに、しんきくさい。

「おい、ヤサオ」

「あの……それって僕のこと……」

「ウチはジヒ深いから、お前と志保の間を取り持ってやる」

「え……?」

田代はにわかには信じがたいという目で亜美を見る。

「ウチが首に鎖つけて絞め殺してでも、志保をお前の前に引きずり出してやるよ。いやだ、会いたくない、って泣きわめいても、お前の前に連れてきてやるから安心しろ」

「え……べ、別にそこまでしなくても……もっと穏便に……」

「いや、今のあいつに必要なのは荒療治だ。何日も何日もうじうじしやがって。こういう時はな、無理やりにでもことを進めた方がいいんだって」

亜美が思いつく解決法というのはだいたいいつも、荒療治とか無理やりとかである。そして、それがうまくいったためしは、ほぼない。

亜美は携帯電話を取り出す。

「でもな、お前がまた志保と付き合ったとしても、ハッピーエンドになるとは限んねぇぞ。バッドエンドかもしんねぇぞ。そのこと、わかってんのか?」

田代は、手を組んで少し下を向いた。

「……バッドエンドにはさせません」

「いや、お前がさせねぇっつったって、バッドエンドになるかも知んねぇだろ? そん時どうすんだよ」

「だから、バッドエンドにするつもりはありません」

「いやだから、つもりがねぇっつっても実際……」

「そもそも、最初から悪い方向になるかもしれないなんて思いながら恋愛なんてしないですよね。恋愛って、幸せな将来を思い浮かべてするものですよね? だから、志保ちゃんとの幸せな未来を思い浮かべて、そこに向かって二人で歩いていく、それが恋愛でしょ? 確かに、志保ちゃんは普通の子とは違うのかもしれないけど、悪いことばかり考えてたら、本当にバッドエンドになっちゃうんじゃないのかな?」

亜美は何か言いたげに田代を見ていたが、

「ま、どうでもいいわな……」

と言うと、携帯電話をいじり始めた。もう、道徳の授業はうんざりだ。

電話帳から志保の名前を探して押す。だが、呼び出し音がいくらなっても志保が出てこない。

「おかしいな。あいつ出ねぇ。誰かと話してんのかな?」

そう言って志保が振り返ると、田代が誰かと電話で話していた。

「……うん、わかった。じゃあ、この前の場所で待ってるから……」

そういうと田代は、電話を切った。

「志保ちゃん、これからこっちに来るみたい」

「おまえと話してたんかい!」

亜美はやるせなさそうに携帯電話をポケットにしまった。

 

写真はイメージです

たまきは公園の「庵」の前に座っていた。

ベニヤ板とブルーシートでできたお化けのような「庵」は、無数のホームレスたちがせわしなさそうに出入りしている。

最初はここに来るたまきのことを物珍しそうに見ていたホームレスたちだったが、いつしかここにたまきがいるのも風景の一部となったらしく、さほど気にしなくなった。

たまきの正面には、仙人が安物の椅子に腰かけて、たまきのスケッチブックに目を通している。

「前よりうまくなったんじゃないか?」

そう言って仙人はたまきにスケッチブックを返した。たまきはぺこりと頭を下げた。

「それで、今度は何に悩んでるのかな?」

「やっぱり、わかりますか……?」

たまきは視線を落としたまま答えた。

「……友達に、えらそうなことを言ってしまったのかもしれません」

「ほう」

仙人は興味深そうにたまきを見た。

「そのせいで、友達がカレシさんと別れてしまったのかも……」

「お嬢ちゃんのせいなのかい」

「それは……わかんないんですけど……」

たまきはずっと下を見たままだ。

「私は、ちゃんと正しいことを言えたのかな……、もしかしたら、私が言ったことは間違ってたんじゃないかなって思って……」

「お嬢ちゃんがその友達に何を言ったのかはわからないが……」

仙人は片手に持ったカップ酒を、人差し指でトンと叩いた。

「それはどこかにはっきりとした正解があることなのかい?」

「え?」

たまきはここで、初めて仙人の目を見た。

「学校のテストみたいに、はっきりとした正解が存在することだったら、何が正解で何が間違いかはっきりしている。裁判なら法律に照らして正解か間違っているかはっきりさせる。だがなお嬢ちゃん、世の中のたいていの問題は実は、はっきりとした正解は存在しないんだ」

そこで仙人は再びカップ酒に口を付けた。

「だから争いが絶えない。俺の方が正しい。いや、私の方が正しいってな。実はどこにも正解がないのに、自分こそが正しいんだお前が間違ってるんだって主張しあうから、人は争う」

仙人はカップ酒を傍らに置くと、たまきの目を見る。

「そして、何が正しいかわからないから、人は悩む。どこにも正解がないから、何が正しいのかわからない。でも、人はやっぱり、自分が正しいと思ったことをしたいもんだし、間違ったことはしたくないもんだ。何が正しいかわからないけど、これが正しいんだって信じなければ、何も決められない。どこにも正解は存在しないのに、それでもどこかに正解があるはずだと信じて動かなければならない。人生ってのは、神様と追いかけっこしてるようなもんだな」

「はあ……」

たまきはぽかんと口を開ける。数週間ぶりに学校の授業に出て、まったくついていけなかった時もこんな顔をしていたのかもしれない。

「それで……私はどうしたらよかったのかなと……」

「そんなの、お嬢ちゃんのしたいようにすればいい」

仙人はそう言って優しく微笑む。

「はっきりとした正解なんてどこにもないんだから、自分がしたいようにすればいい」

「でも、それで間違ってたら……」

「自分が間違ったことをしたと思ったら……」

仙人はにっこり微笑んだ。

「自分のしたいようにすればいい」

 

写真はイメージです

「城」に帰ったたまきは、またしても口をぽかんと開けた。

「だから~、またユウタさんとやり直すことになったんだってば~」

志保がこれまでの落ち込みっぷりが嘘のようにニコニコとしている。

たまきは困ったように亜美を見上げた。

「なにか……あったんですか……?」

「しらねー」

亜美はこの上なくつまらなそうにしている。

「その……田代って人は、志保さんの話聞いて、それでもいいって言ってくれたってことですか……」

「うん、私のこと支えるから一緒に頑張ろうって言ってくれたの。なんでだと思う?」

「……なんでなんですか?」

横から亜美が

「聞かねぇ方がいいって」

と忠告するより早く、志保は

「志保ちゃんのことが好きだから、だってさ! ヤダもう、言わせないでよ!」

と言いながら、たまきの肩を強くたたいた。

「というわけで、ご心配おかけしました! もう大丈夫だから! あ、先生にも電話しないと!」

というと志保は、携帯電話片手に外へと出ていった。

……結局、なんだったのだろう。

何か一つの騒動が終わったようで、もしかしたらなにも終わっていないような気もする。

「ちっ」

とたまきの横で、亜美が舌打ちをした。

「一つ……気になるんですけど……」

「なんだ?」

「その……田代って人は……志保さんのことが好きだから支えるって言ったんですよね?」

「んあ? ンなこと言ってたな。あのタワレコヤロウめ」

「たわれこ?」

たまきは不思議そうに亜美を見ていた。

「で、何が気になるって?」

「……志保さんのことが好きだから支えるってことは、もし志保さんのことが好きじゃなくなったら、どうなるんでしょうか?」

亜美はしばらく黙っていたが、

「……んなこと、あいつが志保のこと嫌いになってから考えればいいんじゃね?」

そういうと亜美は、ソファの上に体を投げ出し、寝転がった。

 

何かがおかしいのだけれど、何がおかしいのか、たまきにはまだわからなかった。

 

つづく


次回 第29話「パーカー、ときどきようかん」(仮)

次回、たまきがおしゃれに目覚める!?  続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」第27話にして、ついに主人公の一人、志保の過去が明かされます。なぜ、志保は薬物に手を出したのか。「あしなれ」第27話スタート!


第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

シブヤの大型家電量販店の中のゲーム売り場、最新のレースゲームのお試しプレイ用コントローラーを、志保は握っていた。

1Pのコントローラーは友人が握っている。志保は2Pのコントローラーを握り、画面の向こうにある緑の車を操っている。

 

神崎志保。星桜高校1年生。

 

画面の中の車は猛スピードで高速道路を走り、何台もの車を追い抜いていく。現実の高速道路と違うのは、いくらスピードを出してもパトカーが現れないこと、いやがらせかと思うくらいに曲がりくねっていること、そして、高速道路にもかかわらず、壁がないことだ。

コントローラーの操作を誤ると、あっという間にコースアウトしてしまう。道路の向こうい広がる暗闇に車が飛び出し、三回繰り返すとそのままゲームオーバーだ。

制服である紺色のブレザーを身にまとった志保は、表情を変えることなく、コントローラーを握りしめていた。

隣では友人の赤い車が、ヘアピンカーブで大きくコースアウトして暗闇を舞った。直後に現れる真っ赤な「GAME OVER」の文字。

「あ~!」

友人がため息にも似た叫びを漏らし、その後ろで別の友人たちが口々に

「惜しかったよ~」

「いや、あれ、ムズいって」

と笑いあっている。

一方の志保は、相変わらず硬い表情を崩すことなく、コースに車を走らせていた。友人たちの視線も志保に注がれる。

「志保っちうまいじゃん。ゲームとかやるイメージなかったけど」

「これは操作がシンプルだから」

志保は画面を凝視したまま答えた。

そう、こういうのは要領を抑えればいいのだ。

そもそも、自動車レースというのは、速く走ればいいわけではない。単に自動車の速さですべてが決まるのであれば、ドライバーなんて誰でもいい。

ドライバーの腕の見せ所はハンドルさばきである。トップスピードで走りつつ、高速で迫りくるコースの変化に対して、的確なハンドル操作をミスすることなく繰り返すことが、トップレーサーの才能だ。

もちろん、志保にそんな才能はない。

だから、志保はスピードを出すことを控えた。

志保たちがプレイする前にこのゲームを体験していた人たちはいずれも、トップ近くまで加速し、コースアウトや激突を繰り返し、ゲームオーバーとなっていた。後ろで並びながらその様子を見ていた志保は理解した。このレースゲームはコースの難易度が高く、トップスピードを出してしまうと、よほど慣れていない限りクリアできない。初心者が完走したければ、スピードを抑えることが重要だ。

スピードを抑えることは、レースとしては邪道かもしれない。

それでも、コースアウトしてゲームオーバーになってしまったら、何にもならないじゃないか。

志保はスピードを捨て、正確さに徹した。

そうなると後はもう、要領の良さの問題である。車をずらしたり、方向を変えたり、必要なタイミングで必要な操作をするだけだ。

志保は無事完走した。画面に「FINISH」の文字が踊り、背後から友人たちの歓声が聞こえる。

「志保っち、すごいじゃん!」

「あ、でも、順位は17位だって」

このゲームは30台もの車でレースを競う、という設定だ。第30位から始まり、一台ずつ車を抜いていく。

志保は早々に順位を捨てた。順位を気にしていたら、完走できない。どれだけ早かろうと、ちゃんとゴールできなかったら意味がない。

「でもさぁ、ミカのあれ、マジウケたよね」

ミカというのは、志保の隣でプレーして、早々にゲームオーバーとなった友人だ。

「あれねぇ。他の車に二回連続でぶつかって、そのままコースアウトってヤバすぎるでしょ」

「しかも、そのあと復活したけど、5秒でまたコースアウトして、ゲームオーバーでしょ? 下手すぎ」

そう言って、友人たちはゲラゲラと笑う。

会話の中心にいるのは、完走した志保ではなく、ゲームオーバーになった友人の方だった。

志保にはその理由がわかっていた。

志保のプレーは、ゲームとして面白くなかったのだ。

なにより、志保自身がプレーしていても、面白くなかった。

完走しても、ちっともうれしくなかった。

ゲームをしていたはずなのに、いつの間かそれが作業となり、楽しめなかった。

いっそコースアウトしてゲームオーバーしてしまった方が、ゲームとしては楽しめたのかもしれない。

 

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焦げ茶色のレンガを積み上げたような巨大なマンションに、志保は入っていった。志保は物心がついた時から、このマンションの9階で家族と暮らしている。

「ただいま……」

薄暗い部屋の中から返事はない。だが、そもそも返事を期待していたわけではないので、志保は表情を変えることなく靴を脱ぐ。

共働きの両親は今日も帰りが遅い。夕食に間に合うのであれば何か連絡があるはずだが、神崎家の食卓に二人以上の人間が並ぶことは稀だ。休日でさえ、志保はひとりで食事をとることが多い。一人っ子なので、志保は家でのほとんどん時間を、一人で過ごしている。

そういえばさっきメールが来ていた。もしかしたら、とチェックする。

メールの主は両親ではなく、違う学校に通うカレシだった。ゴールデンウィークに入る少し前に、友達が開いた合コンのような感じの食事会で出会った相手だ。内容はたわいもないようなこと。志保もたわいのないようなことを打ち込んで返信する。

携帯電話をテーブルの上に置くと、着替えを済ませ、一息つくと、夕食の準備に取り掛かった。

最初は母の手伝いとして料理を始めたのだが、いつの間にか自分一人のために料理をするようになっていた。

料理をし、食事をし、片付ける。ここまでを志保は、まるで機械化された工場のように淡々とこなした。

夕食後はテレビを一時間ほど見る。番組が終わると自室へと向かい、机の上に参考書を置いた。一学期の期末テストもそう遠くない。ちゃんと勉強しておかなくては。

そこで携帯電話が鳴った。母親からのメールだった。

用件は二つ。帰りが終電近くなるということと、ちゃんと勉強しておくようにとのこと。

他にないのか、と志保は少し寂しく思った。

年頃の娘が一人で留守番をしているのである。「戸締りをしっかり」くらい書いてあってもいいんじゃないだろうか。夕飯にちゃんと栄養のあるものを食べてるのかとか、そういうことは気にならないのだろうか。

もっとも、昨日も一昨日も母親からのメールは同じ文面だった。どうせ、前に送ったメールをコピーしているのだろう。

志保も昨日母親に送ったメールをコピーする。ただ、それだけではさすがに物足りないので、絵文字を一つ追加した。「わかった。大丈夫。ちゃんとやってるよ」という味気ない文面も、そのひと工夫でだいぶ印象が変わる。

新しいメールを一から作成するよりも、そういう機能を使う方が、効率が良く、要領がよい。

そう、世の中の大抵のことは要領である。

料理を作るのも、勉強するのも、要領だ。傾向と対策を把握し、あらかじめいくつかのパターンを想定しておいて、状況に合わせて、用意しておいた対処法をこなしていけば、大抵のことはうまくいく。昼間のゲームがそうだったように。

人間関係だって、結局は要領だ。どういう話題を押さえておけば、友達が喜ぶか。どういう返事をメールで送れば、カレシと良好な関係が保てるか。どういう子供を演じておけば、両親が安心するか。

神崎志保という少女のもっとも秀でた部分は、その要領の良さと言える。

そもそも志保は、基本スペックからして高かった。勉強は人並み以上にでき、運動もそこそこできる。おしゃれにも気を使い、わりとモテる部類に入っている。手先も器用で、料理もできる。苦手なことと言えば、歌うことがちょっと苦手なくらい。

基本スペックが高いうえに、志保は要領がよいため、大抵のことは何でもこなせた。何でもできる子だったし、できないことがあっても、どうすればできるようになるかはすぐに分かった。そして、少し練習すればすぐにコツをつかみ、うまくなれた。

頭が良くて、かわいくて、何でも要領よくこなせる子。志保は小学校の頃から、そういうポジションだった。

子供の頃はそれでよかったのだ。勉強ができれば、両親や先生が褒めてくれる。おしゃれに気を遣えば、お友達から一目置かれ、男子にもモテる。

進学校に入り、多くの友達を作り、カレシを作る。青春のリア充要素を、その持ち前の容量の良さで志保は次々と揃えていった。

それはそれで、幸福だった。

だが、いつからだろうか。志保の幸福と背中合わせの場所に、得体のしれない恐怖が居座り、無数の見えない針で背中に痛みを与えるようになっていったのは。

勉強も友達もカレシも、要領よくこなしていけば、大抵のものは手が届く。多少の障害やハプニングが起ころうとも、その要領の良さでうまく切り抜けてしまう。

今まで、ずっとそうしてきた。

そして、たぶん、これからも。

進学、就職、出世、結婚、子育てと、たぶん世の多くの人がそうしているように、自分もそつなくこなしていけば、多少の障害はあれど、そう苦労することなく手にできてしまう。そんな予感が志保にはあった。それは驕りでも慢心でもなく、自分を客観的に分析したうえでの答えだ。

その予感が志保に、得体のしれない恐怖を与えていた。なんだかもう自分の人生が数十年先まで決まっているのではないかという得体のしれない恐怖に、志保は感触のない水の中でおぼれているかのような息苦しさを感じていた。

そして行きつく先は、両親と同じような大人になっている自分である。そういう未来が、容易に想像できた。

別に両親の人生を否定しているわけではない。大きな企業で重責を担っている両親のことは、素直に尊敬している。

それでも、結局は両親と同じような人生を歩んでしまうことは、なんだか歪んだ時空の無限ループに陥っているような気がして、それが志保にはとてつもなく怖かった。

たしかに自分の意志で選んでいるはずなのに、何か陰謀めいた力によって自分の意志を操作されているかのような、言いようのない恐怖感。実は自分が人間ではなく、プログラム通りに動くロボットなのだと突きつけられたかのような絶望感。

志保を操る陰謀めいた力。おそらく「常識」と呼ぶものがそれだろう。

その常識に逆らうことなく、淡々と従ってしまう自分と、そこからもたらされるわかりきった明日、未来。それが何より、怖かった。

勉強して、お風呂に入って、気が付いたら夜の十一時を過ぎていた。両親はまだ帰ってこない。

志保は自分の部屋の電気を消すと、ベッドに入った。

昼間とたがわぬ明るさを保っていた部屋だったが、灯りを消すと、部屋は夜本来の暗闇に包まれた。

 

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「変わってんな、お前」

志保のカレシであるタカユキはそう言って笑った。

「やっぱりヘンかなぁ」

志保はパスタをフォークに巻き付けている。

シブヤの商業施設の中にあるパスタの店で、志保はタカユキとともにランチを食べていた。

何でもそつなくこなせてしまうと、先のことが見えてしまい、結局予定通りの人生しか歩めそうになくて、それが怖い。

そんなことをタカユキに話したのだが、返ってきたのは「変わってんな、お前」という言葉だった。

変なやつだと言われることもうすうす予想できていたのだが、志保は普段はそんな風に言われることがないので、改めて他人から変だと言われると、少しイラっとした。

だが、客観的に見ればやっぱり志保の考え方は変なのであろう。それもわかるから、志保は感情のささくれをそっと直して、タカユキの話を聞く。

タカユキはパスタを巻いたフォークを頬張り、メロンソーダを飲んでから、続きを話し始めた。

「だってさ、勉強も、ファッションも、料理も、人間関係も、何でもできるにこしたことないじゃん。その結果さ、欲しいものが手に入って、やりたいことがうまくいく。充実してんじゃん。それが怖いっていうのが、よくわかんねぇんだよなぁ」

もう一口、タカユキはパスタを口にした。

「それってさ、贅沢じゃね?」

そういわれることも、志保は予想していた。むしろ、そういわれることがわかっていたから、今まで誰にもこの話はしていなかった。

「何、ヤなの? 今の学校とか。あ、もしかして、俺と付き合ってるのがヤとかいうなよ?」

「ちがうちがう! そういうんじゃない。今の学校好きだし、そもそも、自分で志望して入ったんだし。タカくんのこともちゃんと好きだって」

そう言ってから志保は、「好き」という前に2秒ほど空白を開けるべきだったかな、と思った。それもやっぱり、持ち前の容量の良さで、恥じらいを演出したほうがタカユキはかわいいと思うだろう、というあざとい計算からくるものであった。

だが、もう一つ理由があった。何の臆面もなく、戸惑いもためらいも恥じらいもなく、「好き」と息を吐くように言ってしまう自分に、何か違和感を感じてしまったのだ。

「でしょ? 俺にとってお前は、かわいくて頭いい自慢のカノジョなんだから、ヘンな心配しなくていいんだよ」

自慢のカノジョと褒められると、やっぱり悪い気がしない。志保は少し顔を赤らめて下を向いた。

だが、またもや志保の左側に、要領が良くて客観的な志保が現れ、問いかける。

「自慢のカノジョ」というが、一体誰に自慢するというのだろうか。

そもそも好きだから付き合うのであって、誰かに自慢したりうらやましがれれるために付き合うのではない、はずである。

「自慢のカノジョ」というけれど、本当に自慢したいのはカノジョのほうじゃない。「自慢のカノジョを持っている俺ってスゲェ」なのではないか。

それは、ブランド物のバッグや高価なアクセサリーを見せびらかすのと大して変わりないのではないか。

でも、その自慢癖は、おそらく志保にもある。

タカユキはおしゃれな方ではあるが、決してギャル男というわけではなく、派手な遊び人でもない。志保の第一印象も「大人びててやさしそうな人」だった。実際、やや軽いところもあるが、一方でやさしくまじめな一面も持っている。

そんなタカユキは志保にとっても「自慢のカレシ」であった。

実際、タカユキの写真を友人たちに見せたときの、「え~! カレシ、かっこいい!」「やさしそー!」「いいなぁ」という羨望の強い驚嘆を浴びたときは、間違いなく優越感を味わっていた。

結局のところ、志保も一番かわいいのは自分ではないか。

要領よく何でも手にしてしまう自分の人生に言いようのない怖さを感じている一方で、そうやって常識的な欲望を満たすことを自ら欲し、手に入れている。

「常識」に従うことに恐怖を感じながらも、結局のところ志保は、「常識」を踏み外して生きることができないのだ。

もしかして、自分は本当の意味でタカユキのことを好きなのではないんじゃないか。ふとそんなことを志保は考えてしまう。

志保が欲しかったのは、「自慢のカレシを演じてくれる誰か」であって、それがたまたまタカユキだっただけなのではないか。

「さて、そろそろ行こうぜ」

タカユキが立ち上がり、志保も後に続く。

「あ、あたしも払うよ」

志保はバッグの中の財布に手をかけたが、タカユキは

「いいよいいよ、おごるって」

と言って一人でレジに行ってしまった。

二人で食事するときは、いつもタカユキがおごってくれる。志保は何度も自分も払うと申し出るのだが、タカユキは財布にかなり余裕があるらしく、いつもその申し出を断る。

そのたびに志保は引き下がる。ここはしおらしく、タカユキに「カノジョにおごるカレシ」を演じさせておけば、すべて丸く収まるという計算のもとに。

「でも、タカ君っていつもお金に余裕あるよね」

タカユキは学年でいえば志保の一個上、高2である。バイトの経験も志保よりあるのだろうが、だからと言って毎回おごってくれるとなると、その財源が気になる。

「販売系のバイトって言ってたよね。何売ってるの?」

店を出た志保は、タカユキの横に並びながら尋ねた。タカユキのバイトについてはこれまで、「販売系」としか聞いていない。服か何かを売ってるのだろうと勝手に思っている。

タカユキは少し何かを考えるようなそぶりを見せてから、口を開いた。

「……アイスだよ。あと、チョコとかかな」

「なにそれ? スイーツ屋さん? なんか似合わない」

志保はそういって笑った。それにしても、よっぽど人気で儲かっているアイス屋さんで働いているに違いない。

 

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この世には、とっくにバランスを失っていて、今にも崩壊しそうであるにもかかわらず、外から見てもとてもそんな風には見えないものがある。

たとえば風船。外から見るとまんまるで愛らしいが、その実態は空気が内部から圧力をかけ、ゴムがはちきれんばかりに膨張したとても不均衡な状態だ。わずかな穴ひとつで簡単に破裂する。

志保の家庭もそのような状態だった。両親は仕事でほとんど帰らず、たまに顔を合わせても会話と言えば「勉強はどうなんだ」くらい。次第に志保もカレシや友達との時間が増え、家に寄り付かなくなった。家族それぞれの時間が、家の外を軸に回り始め、家は、思い出の写真を飾るだけの箱となった。

志保の両親が離婚したのは、高校一年生の夏休みに入ってすぐだった。母親の方が家を出ていき、志保は父と暮らすことになった。名字も父方の「神崎」のまま。

実は、離婚の原因は、志保にもよくわからない。少なくとも、不倫だとか暴力だとか、何か決定的なものがあったわけではない。

一方で、何がきっかけになったのかはわからないが、その根底には「家族が家族でなくなっていた」ことがあるということを、志保は確信していた。

おそらく、きっかけはまるで風船に刺さった針のような小さなものだったのだろう。普通の家庭ならば、日常の小さな棘として見過ごされるようなものだったのかもしれない。

だが、志保の家庭は違った。その何ともわからぬ小さなきっかけで、それまで確実に存在していたにも拘らずまるで存在しないかのように扱われてきた家族のほころびが、一気に破滅へと広がった。ちょうど、風船が何に触れて穴が開いたのかもわからずに破裂するかのように。

そのことは、志保の心にもちろん、影を落とした。

だが、それ以上に志保の心を曇らせたことがあった。

それは、両親が離婚したにもかかわらず、志保の生活も人生も、何も変わらなかったということだった。

両親の離婚が決定的になった時、志保はもちろん悲しかった。だが、その一方で、自分が少し胸躍っていることを否定できなかった。

両親の離婚という大事件で、自分の人生も何か変わるのではないか、と。

レースゲームに例えれば、突然コントローラーが故障してどう操作すればいいのか全く分からない、そんな状況が訪れるのではないかと、少し期待していたのだ。

要領の良さとか、スペックの高さとか、そういうものとは違う、もっと人間的な何かが試される大きな試練が訪れるのではないか、と。

常識通りに生きることに違和感を覚えつつも、けっきょく常識を踏み外せない志保は、何か常識はずれなトラブルが起きて、常識通りの人生を無理やり変えてくれないかということを期待するしかなかった。

だが、離婚後最初の一週間で、そんな試練は訪れないことを志保は悟ってしまう。

家に帰ってもだれもおらず、自分で自分のご飯を作り、夏期講習やデートに出かける、それまでと変わらない日々。

もともと家にいなかった両親が半分になったところで、志保の生活に変化はなかったのだ。ゼロに2分の1をかけてもも、答えはゼロのままである。

おそらく、神崎家の破綻は志保が思っていたような大事件ではなく、とっくの昔に破綻していた家族に、「離婚」という名前がようやく付いた、たったそれだけのことだったのかもしれない。

だが、そのことは、両親が離婚した以上に、志保の心に大きな影を落とす。

家庭が破綻して、両親が離婚しても、自分の人生は何も変わらない。

じゃあ、一体何が起きれば、志保の人生は変えられるというのだろうか。

 

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「志保っちのカレってさ、青柳第二高だっけ?」

八月に入ったある日のことだった。友人たちと四人で、カフェで時間をつぶしていた志保に、友人の一人が尋ねた。

「そうだけど?」

志保は答えたが、そこから先の会話が続かなかった。

尋ねといてなんなんだろう、と友人の顔を見ると、なんとも微妙そうな表情をしている。

「なに? どうかしたの?」

「……塾で聞いた話なんだけどさ……」

そう言って友人は、何か申し訳なさそうに切り出した。

「この前、青柳第二の生徒が二人、覚醒剤で逮捕されたんだって……」

その話を聞いた時、最初の反応として志保は思わず笑ってしまった。

「覚醒剤? あはは、ないない。ガセだよ、そんなの」

評判の悪い不良高校ならいざ知らず、青柳第二高校は偏差値も少し高めの、普通の高校である。

そこの生徒が覚醒剤で捕まるなんて、ありえない。まず、接点がないはずだ。覚醒剤なんて代物、どこから入手するというのだろうか。

「誰から聞いたの、そんな話」

志保は半ば笑いながら尋ねた。

「だから、塾の友達だって。その人の友達の先輩って言うのが、青柳第二の人と付き合ってて……」

つまり、「友達の友達から聞いた怪談話」のようなものだ。取るに足らない、信憑性に欠ける話だ。

「それでね、ママにその話したら、ママが高校の頃にも、そんな噂があったんだって」

志保は友人の話す噂話よりも、「ママとたわいのない話をした」という部分の方が引っかかった。母親とそんな、取るに足らないような噂話をしたなんて、いつが最後だっただろうか。

そこで、別の友人が口をはさんだ。

「あたしもガセだと思うけどなぁ。青柳第二でしょ? ないって」

「でも、ママの話だとね……」

友人はそういうと、ドリンクを一口すすって、話しはじめた。

「ママが高校の頃の青柳第二って、不良高校ってわけではなかったみたいなんだけど、それでも何人かの不良グループがいたんだって。その人たちがやばい大人と繋がってて、校内でクスリとか売りさばいてたんだって」

やはり、どうにも信憑性に欠ける話である。

「それって、三十年くらい前の、うわさ話でしょ?」

志保はドリンクをすすりながら、さほど気にしてないように言った。

「だからママが言うにはね、その時の密売グループみたいなのが今でも校内に裏のパイプみたいなのを持ってて、そこを通じて麻薬を売ってるんじゃないかって」

「それって、ママの想像でしょ? 刑事ドラマかなんかの見過ぎぎじゃないの?」

志保はもはや、気にしないのを通り越して、呆れかえってしまった。

「とにかく、志保っちも気を付けてよ?」

友人は心配そうに志保を見た。

「気をつけるって何を?」

「だから……、ヘンなクスリを売りつけられないように……」

「タカ君はそういうんじゃないし」

「あ、いや、志保っちのカレシがそうだって言うんじゃなくて……」

友人はそういうとバツの悪そうに、ドリンクのストローに口をつけた。

「まあ、志保は大丈夫でしょ」

それまで黙って話を聞いていた別の友人が口を開く。

「志保は頭いいし、しっかりしてるもん。そういうクスリに手を出す人って、『いつでもやめられると思ってた』とか、『自分は大丈夫だと思ってた』とか、そういう風に考えてるんでしょ? 志保はそういうタイプじゃないって」

「でも、もしカレから勧められたりしたら断わりづらいんじゃ……」

「だから、タカ君はそういう人じゃないって」

志保は怒るでもなく、明るく言った。

まったくもってばかばかしい話だ。青柳第二がどうとか、志保のカレシがどうとかいう話もばかばかしいが、仮に噂が事実だったとして、志保のカレシがクスリに関わる人物だったとして、志保がそんなものに手を染めるなどありえない。志保は友人たちとの会話をそう頭の中で片づけ始めた。

薬物の恐ろしさくらい、志保だってわかっている。そういう授業もあったし、テレビでも見たことがある。

一度使ってしまえばやめられなくなる悪魔の薬。意志の強さでどうにかなるレベルではない。

友人が言う通り、『自分はやめられる』『自分は大丈夫』、そんな甘い考えは通用しない。意志の強さや体質などに関係なく、万人に等しく破滅をもたらす薬、それが覚醒剤である。

そう、覚醒剤は、万人に等しく破滅を与える。

……その一言だけが、どうにも志保の心から離れてくれなかった。

 

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自分の部屋で一人、パソコンの画面をスクロールさせて、志保は文字を追って行った。

「薬物 恐ろしさ」で検索して出てきたのは、警察や市役所などが作った、薬物がいかに恐ろしいかを伝えるホームページなどだった。

薬物がもたらす快楽についても書かれていた。薬物に手を染める人はきっとそういうのに魅かれる人がほとんどなのだろうが、正直、志保はそこには特に興味がない。

志保が知りたかったのは、薬物がいかに人を破滅させるか、という点だった。

勉強の合間の息抜きに調べ始めたのだが、気が付けば読みふけっている自分がいた。

覚醒剤を一度でも使えば、肉体だけでなく、精神も破壊し、さらに依存度が強く、一度使ったら抜け出せない。このサイトを書いた人はきっと、薬物に興味を持った人にその恐ろしさを伝えることで踏みとどまらせようと思って書いたに違いないのだが、志保はその文章に妙な期待感を抱いている自分を否定できなかった。

次に志保は「青柳第二 覚醒剤」で検索をしてみた。

いわゆる掲示板のようなものに、「青柳第二の生徒が覚醒剤で捕まった」とか、「昔もそんな事件があった」とか、友人から聞いた話に近いものが書かれていたが、いかんせん、掲示板というのが嘘くさく、信憑性に欠ける。

その中で一つ、志保がまだ聞いたことのない話があった。どこまでも信憑性に欠ける話ではあったが、覚醒剤の売り子についての話だ。

志保は不良というと髪を金に染め上げ、タバコを吸ってノーヘルでバイクを乗り回す、そんなヤンキー漫画に出てくるようなイメージしかなかったが、今、青柳第二で売り子として暗躍している不良たちは、そんなステレオタイプな連中とは違うのだという。

外見は普通の生徒と変わらない。どちらかと言えばちょっと遊んでいる風ではあるが、校則を逸脱するような派手さはなく、校則の範囲でおしゃれをしているといった感じだという。

「……なんか、タカ君みたい」

思わずそう口にしている志保がいた。

売り子の少年たちは、生活態度も目立った素行不良などはない。

だが、学校にばれないところで悪事を働く。見た目の派手さやケンカの強さではない、狡猾さのある不良なのだという。

つまりは、「いかにもなワル」ではなく、教師から見ても親から見ても友人から見ても、そんな悪人には見えない、それでいて、隠れて悪事を働く狡猾さと、それを罪だと思わない倫理のなさ、そういった子に密売グループは目を付けるのだという。

そんな若者は、わりと多いんじゃないか。そんな風に志保は考えていた。バレなければ多少ズルをしたって構わない。ルールを真面目に守るよりも、どうすれば他人より優位に立てるか、どうすればより多くのお金が手に入るか、そっちの方が大事という若者は。

そして、志保はあることに気づいていた。

クリックをするたびに、画面をスクロールするたびに、志保の中に「自分の人生を壊したい」という、何色ともつかない願望が芽生え、大きくなっているということに。

いや、本当はもっと前から抱いていたものだったのかもしれない。それまでは、人生を「壊す」ための手段など思いもよらず、そんな願望があること自体を自覚していなかった。だが今、その「手段」があることに気づいてしまい、同時におぞましい願望を自分が抱いていたことにも気づいてしまったのだろう。

そんなおぞましい願望を抱いたのは初めてだった。「願望」自体を抱いたことが、志保にとっては初めてだったかもしれない。

それまでの志保は、「常識」に従って生きてきた。

そう、何かを自分で望んだのではない。ただ常識に従い、常識的に有利な方へと自分の駒を進めてきただけだ。

毎日勉強するのも、自分がそう望んだんじゃない。「勉強しないと将来に影響する」という常識に従っているだけだ。

進学校に入ったのも、自分がそう望んだんじゃない。偏差値の高い学校に行けば将来に有利だという常識に従っただけだ。

友達付き合いも、自分で望んだんじゃない。「友達は多い方がいい」という常識に従っただけだ。

タカユキと付き合ったのだって、自分では「彼のことが好きだから」と思っているけれど、本当は自分でそう望んだのではなく、「カレシがいた方が幸せだ」という常識に従っているだけなのかもしれない。

そう、何一つ自分で望んでなんかいない。何一つ自分で選んでなんかいない。ただ常識に従っていて生きていただけだ。

「常識」と言うとまっとうなものに見えるけど、「どこのだれが決めたかも定かではない価値観」だ。「自分の意志」ではない。

自分の願望を抱かず、自分にとって何が幸せか考えもせず、ただ常識が決めた幸せに向かって駒を進めるだけの人生。

それが「自分の人生」と言えるのか。

そんな人生を歩む自分は、本当に「自分」と言えるのか。

その人生を歩むのは、別に自分じゃなくてもいいんじゃないか。

「神崎家の一人娘」も、「星桜高校の志保っち」も、「タカユキのカノジョ」も、志保じゃない別の誰かが成りすましても、誰も気づかないんじゃないか。

だって、志保がこれまでやってきたことは、「一人娘」や「優等生」、「明るい友人」、「自慢のカノジョ」という役割を常識的に演じることだったのだから。

求められていたのは志保ではない。与えられた役割を、常識ってやつが書いた脚本にしたがって、要領よくこなしてくれる「誰か」。

要領よく役をこなしてくれるのであれば、別にそれは、志保じゃなくてもよかったのだ。

それでも、志保は与えられた役に縋りつき、そつなくこなすことしかできない。

役をうまくこなせば、その先にあるのは銀幕の中のような、誰もがうらやむ幸せな光景だ。キャンパスライフを楽しむ志保。スーツを身にまとい会社で活躍する志保。ウェディングドレスを着て教会で祝福される志保、赤ん坊を抱いて幸せそうな志保、年老いて子供や孫に囲まれる志保……。

でも、そこに写っているのが志保じゃない別の誰かと入れ替わっても、たぶん、誰も気づきやしないのだろう。

誰もがうらやむ幸せを手にする人間が誰かだなんて、本当は別に誰でもよいのだ。

だって、ただ常識に従って生きてきただけで、本当に自分が望んで手にした幸せではないのだから。

同じように、志保の周りの人たちが、違うだれかに入れ替わっても、たぶん志保は気づかないのだろう。母親がいなくなっても、生活が大して変わらなかったように。家族が、友人が、カレシが、別の誰かと入れ替わっても、志保は何事もなく生きていくのだろう。

何一つ実体を伴わない空っぽの人生。誰もがただ役割をそつなくこなしていくだけの人生。まるで自分という存在が顔も名前もない靄でしかないような気がして、志保にとってそれはたまらない恐怖だった。

そんな恐怖が、志保にある願望を抱かせた。

それまで願望を抱かず、常識が求める役割を願望とすり替えて生きてきた志保が、はじめて抱いた願望。

それが「自分のこの人生を壊したい」というものだった。

自分のこの人生を壊して、常識にただ従うだけの人生を変えたい。

親の離婚や家族の崩壊よりもさらに強烈な、今いる場所にはもう二度と戻ってこれないくらいに、何もかも、徹底的に、完膚なきまでに、壊したい。

そうすることでしか、「自分」というものがつかめない。志保はそう思うようになっていた。

ふと、要領の良い志保が、どす黒い破壊願望を抱く志保をいさめるようにささやきかける。そんなことしてもろくな結末にならない。もっとよく考えろ。もっとうまい方法があるはずだ。

志保が最初に壊したのは、そんな要領の良い自分だった。そうやって要領よく最善のやり方を求めても、何かが変わったようで結局今までと何も変わらないような気がしたのだ。

後先考えずに壊す。きっと、それくらいのことしないと、また「ここ」に戻ってしまう。後先考えずに壊すことでしか、この恐怖からは逃れられない。

なにより、はじめて抱いた心の底からの願望、それも、計算高さとは真逆の感情を前に、「要領の良さ」はあまりにも無力だった。

黒い願望を抱いたまま検索を続ける日々が、何日か続いた。

その間も志保の変わりない日常が続いた。夏期講習に行って、家事をして、カレシにメールして、勉強するだけの日々。そこには、志保の人生を変えるなにかは転がっていはいなかった。ブレーキのない列車に乗り続けるかのような恐怖感は、日に日に強くなっていく。いや、元から抱いていた恐怖を、日に日に実感しているのだ。

ただ一つ、ネットの中に書かれた、悪魔の薬についての話だけが、志保が望む破滅をもたらす唯一の扉に見えた。

そして、「壊したい」はいつしか、「壊そう」へと変わった。

 

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観覧車は志保とタカユキを乗せて回る。上る。

東京から少し遠出しての遊園地デート。志保が最初に乗りたいと言ったのは、絶叫マシーンでもお化け屋敷でもなく、観覧車だった。

タカユキはもっとスリルがあるアトラクションが良かったらしいが、志保がどうしても乗りたいというので、折れた。

「でも、観覧車ってさ、たしかに景色はスゴイいいけど、地味じゃん」

観覧車に乗る前、タカユキはそうつぶやいた。

そう、観覧車は、地味だ。

大騒ぎすることもなく、黙って座っていれば、眺めの良い所へ行ける。

そこから見える景色を見て「きれいだねー」とつぶやく。ほんとは予想通りの景色でしかないことは隠して。

そうして、また同じ所へと戻ってくる。そうしたら、また別の客が乗り込むだけ。

観覧車に誰が乗ってるかなんて、どうでもいいことだ。

だが、観覧車がほかのアトラクションより優れているところを挙げるとすれば、それは気密性の高さだろう。

中でだれがどんな話をしてようと、決して外に漏れることはない。

志保はタカユキの手をぎゅっと握りしめる。高度が増すにつれて少しずつその力は強くなり、志保の鼓動も早くなる。

だが、それは高いところが苦手なわけではない。ましてや、恋のドキドキなんてものではない。

下を歩く人たちが、ピーナッツぐらいの大きさになった時、志保は切り出した。

「……なんかまたおごってもらっちゃって、ごめんね」

「いいって別に。余裕あるし」

「そんなに時給いいの? アイスとかチョコとか売るバイト」

「時給か……。時給で考えたことねぇから、わかんねぇや」

「ふーん」

志保は下を見た。ピーナッツよりさらに小さくなった人影と、自分の膝と、腰まで垂れた自分の髪が同時に見えた。

「それってさ……、今持ってる?」

「……ん?」

タカユキが志保の方を見たが、志保は下を向いたまま、彼を見なかった。

「アイスとか……チョコとか……」

志保とタカユキは、園内に入ってから、何も買うことなくこの観覧車に乗った。もしかしたらタカユキが板チョコを隠し持っててもおかしくはないが、アイスクリームなど持ってるはずがないのは、一目瞭然である。

それでも志保は尋ねた。「アイスかチョコは持っているか」と。

それが、志保が扉を開けるために用意したカギだった。もし、志保の推測が正しければ、タカユキは何かを察するはずだ。それで鍵があく。

志保のような常識を踏み外せない人間でも、ちょっと目をつむっている間に、確実に人生を破壊してくれるクスリの入った宝箱の鍵が。

「そっか……」

タカユキは志保の隣でため息にもつかない息を漏らした。

「ここにはないよ。センパイに電話すれば用意してもらえると思うけど……。でも、高いよ?」

そういってからタカユキは、一度言葉を切る。

「まあ、最初だけなら、俺が金払ってもいいけど……」

「またおごってくれるんだ……」

そういって志保は笑った。

最初はおごっても、どうせ依存から抜け出せず、何度も買い求めるすることになる。最終的には儲かるという計算なのだろう。

もしかしたら、最初から絶好のカモだと目をつけられていたのかもしれない。いや、今はそんなことはどうでもいい。

そうすることを決めたのは、まぎれもない志保自身だ。

青柳第二高校で脈々と、ドラッグの密売が受け継がれているという噂。

売り子の姿にタカユキがぴたりとあてはまるという推測。

そして、「アイス」が覚醒剤を、「チョコ」が大麻を意味する隠語である、というネットで簡単に出てくる事実。

「お菓子」や「スイーツ」ではなく、「アイス」や「チョコ」という言い方をしたタカユキの選択。

それだけでタカユキがそうだと決めつけるには確証が足らなかったが、鍵が開くかどうかを試してみるには十分だった。

なにより、「人生を壊す」という目的において、こんなチャンスはもう訪れないだろう。

そして、鍵は開いた。

志保の胸には、今まで感じたことのない充足感が広がっていた。

親や先生、常識に従うのではなく、はじめて自分の意志で何かを望み、何かを選択したのだという充足感。

それがたとえ「自分の人生を破滅させる」という決断だったとしても。

 

一つ一つを田代の前で言葉にしながら、志保の眼はいつの間にか涙にぬれていた。

なに、泣いてるんだろ。

全部、自分で決めたことなのに。

望み通り、観覧車のようにただ上って降りるだけだった志保の人生は、根元から壊せたのに。

きっと、田代が志保への失望を表情に浮かべるのを、見たくなかったから、目が涙でぬれるんだろう。

いつかのトクラの言葉が蘇る。破滅と背徳は甘美なのだ、と。

破滅を自ら望む人なんているわけない、そんな風に志保は考えていた。

でも、ちがった。クスリがもたらす想像を絶する快楽と絶望の狭間にもまれて、そもそものきっかけを志保は忘れていた。

誰よりも志保が、自分の破滅を望んでいたということを。

観覧車のように高い塔の上で、ラプンツェルが長い髪を垂らして待ち望んでいたのは、すてきな王子様なんかじゃない。

高い塔も、長い髪も、お姫様という役割も、何もかも壊してくれる、破滅そのものである。

「サイテーだよね……。意味わかんないよね……」

涙が志保の目からぽろぽろとこぼれる。おかげで、田代が今どんな顔をしているのか、志保にはわからない。

いい。わからなくていい。どうせ失望と幻滅と軽蔑といったところだろう。

でも、それは仕方ない。

志保はみずから破滅を望み、その道へと進んだのだから。その代償は甘んじて引き受けるべきだ。

そもそも、志保が徹底的な破滅を望んだのは、もう「あそこ」には戻らないようにするためだ。

それなのに、人並みに恋をしようだなんて。

恋をして、結ばれて、幸せになって、そんな甘い夢を描いてしまった自分がいた。

でも、その先にあるのは、きっと志保が恐れていた「常識に従うだけの人生」なのではないか。

そして「そこ」に戻ってしまった志保はきっとまたこう思うだろう。

「これが自分の人生なのか」

「こんなの、自分じゃなくてもいいんじゃないか」

「自分はただ役割を演じているだけなんじゃないか」

「本当に自分で選んで決めたのか」

本当に恐ろしいのは、悪魔のクスリなんかじゃない。

恐ろしいのは、空っぽの人生をまた歩んでしまうこと。

その先にある幸せが空っぽであると気づかずに、流されるままに追い求めてしまうこと。

そして、そんな人生を破壊したいという衝動をまた抱くであろうこと。その甘美な衝動からは逃れられず、どんな背徳的な手段を使っても、また自分の手で壊してしまうということ。

人は時に、自ら望んで手に入れたはずの幸せを、自ら壊してしまう。不倫だったり、DVだったり、虐待だったり、このような悲劇の不可思議なところは、それが望んだ幸せと祝福の延長線上にあるということだ。

幸福になることを望んで、望み通りの幸福を手に入れたはずなのに、なぜか自分の手でそれを壊す選択をしてしまう。

こんなはずじゃなかった。

私が望んだ幸せは、こんな形じゃなかった。

こんな現実が待ってるなんて、思っても見なかった。

それがもし、自分で望んだ幸せだったら、そのための選択と行動の結果だったら、きっとどんな代償にだって人は耐えられる。だって、自分で望んで、自分で選んだのだから。

耐えられなかった、壊したくなったということは、きっとそれは、実は自分で望んだものではなかったということなんだろう。自分で選んだように思えて実は、どこの誰が描いたともわからない「常識的な幸せ」に自分を落とし込み、そこで求められる役割を演じてきただけ。

それが積み重なると人は、「これは私の望んだ幸せではない」と、自ら壊してしまう。

今の志保にはまだ、自分にとって何が幸せなのかを自分で見つけ、自分で選び、自分で手に入れていくことができない。何が自分にとっての幸せなのか、今思い描いている幸せな未来は本当に自分で選んだものなのか、今の志保にはまだわからない。

なのにこのまま田代と一緒にいても、また目先の快楽と常識に引きずられてしまう気がした。そしてまた空っぽの人生を歩めば、きっとまた、自分の手で壊してしまう。

そんな未来が、そんな明日が怖い。

 

湧き上がる何かを押さえつけ、志保は言葉を発した。だが、もうその言葉も志保の耳には届いていない。田代の言葉も、顔も、もう志保には届いていない。

覚えているのは一番最後に「さようなら」と告げ、田代に背を向けたことだけだった。

 

つづく


次回 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」(仮)

第26話から続く「志保ちゃん三部作」の最後のエピソードです。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。志保、亜美、舞、そしてたまき……、それぞれの恋愛観が激しくぶつかり合う(?)「あしなれ」第26話スタート!


第25話「チョコレートの波浪警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

冬は夜の帳が降りるのが早い。

子供のころはなんだか、「早くおうちに帰りなさい」と空と街灯から諭されているような気がした。もう一日が終わるよ、楽しい時間はおしまいだよ、と。

だが、大人になると、必ずしも夜というのは一日の終わりというだけではない。ほのかなイルミネーションに彩られた町並みは、ともすれば昼間よりも美しく映える。

夜の繁華街の大きな道を、冷たい風をかき分けながら、志保は太田ビルへと向かって歩いていた。

バイト代を奮発して買ったコートとちょっと高めの靴、愛用のお気に入りのバッグ。メイクは薄めではあるが、それでも気合を入れてある。

つまりは、志保は今、デート帰りなのだ。

信号を渡り、いつもの歓楽街へと入っていく。太田ビルが近づくにつれ、「デート帰りの志保ちゃん」の顔から、「不法占拠の志保」へと戻っていく。

太田ビルに着き、コンビニのわきの階段を、息を切らせながら登っていく。

こういうところに不法占拠で住みついてることを、カレシである田代には話していない。いや、志保はもっととんでもない隠し事をしている。打ち明ける機会を逸したまま、一か月もたってしまった。

隠し事は、時に百年の恋も冷めるほどの危険性を秘めている。

そのことは、志保の心臓をいばらのように締め付けているのだが、それでもなかなか打ち明けることができない。

本当のことを知ったら、彼はどんな反応をするだろうか。自分のもとから去ってしまうんじゃないだろうか。

だが、隠し事をしたままでも、いずれ彼は去って行ってしまうかもしれない。

鞭で叩かれるのか、棒で叩かれるのか、どちらか選べ、と迫られているかのようだ。

どっちも嫌だ、と志保は先延ばししているのだが、先に延ばせば延ばすほど、その道の先には鞭か棒かの二択しかないと認めざるを得ない。

そして、鞭にしろ棒にしろ、先延ばしにすればするほど、その威力は強くなる。

なぜならきっと、先延ばしにすればするほど、志保は田代と離れがたくなるに違いないからだ。

離れがたくなればなるほど、「別れ」の傷は深くなる。

なるほど、トクラの言うとおり、それは破滅だ。

トクラはその破滅を楽しめばいい、という。恋の結末は大抵が破滅であり、破滅的で背徳的な恋ほど盛り上がるのだから、と。

人が背徳的なものに惹かれてしまう、というのは志保にも理解できる。

だが、破滅的なものに惹かれてしまう、ましてや、破滅を楽しめなんて、到底納得できない。

破滅したい人なんているわけがないし、ましてや、それを楽しめるはずがない。

 

息を切らせながら、5階にある「城」という名前の、キャバクラ跡地に入る。中にはソファーとイスが営業当時のまま残されているが、いまはそこに小型のテレビとか、ぬいぐるみとか、生活感あふれるものが置いてある。ゴミ捨て場で拾ってきたビデオデッキまである。

「ただいまぁ」

「おかえりー」

亜美が携帯電話の画面をのぞき込みながら言った。たまきは寝ているのか、ソファの上で丸くなって寝っ転がっている。

テーブルの上には、二人分のカップラーメン。時刻はもうすでに、夜の九時半を過ぎていた。

志保が田代と付き合うようになって以来、志保の帰りが遅くなることが増え、その分、亜美とたまきが夕飯をカップ麺やお弁当、ファーストフードですませることも多くなった。志保は申し訳なさを感じていたが、亜美は

「お前はうちの料理担当だけど、家政婦ってわけじゃねぇからな。ま、ウチらのことは気にせず、楽しんでこいや」

と言い、たまきはそもそも、食事なんて食べれればなんでもいいという感じだ。

「お風呂は?」

「いや、まだだ。お前もまだだろ? 十時半ぐらいになったら行こうぜ」

「城」にはさすがに風呂はないので、三人は近くの銭湯を利用している。二十四時間営業しているので、お金さえ払えば、いつでも入れる。もっとも冬場は、湯上りで夜の街を歩くのがちょっとした苦行なので、夕方のうちに入ることも多い。

「たまきちゃん寝てるんじゃない?」

「ん? 起こせばいいだろ」

志保はコートを脱ぎ、カバンをおろしソファに座り込んだ。

「あのさ……」

「ん?」

志保の問いかけに、亜美が返事をする。

「この前の話の続きなんだけどさ……」

「どの話だよ」

「……あたしがユウタさんに、ほんとのこと隠してるって話」

「誰だよ、ユウタって」

亜美はそんな名前、今初めて聞いたようだ。

「田代さんのこと」

「ああ、ヤサオのカレシか。アイツ、そんな名前だったのか」

亜美は携帯電話を閉じ、机の上に置いた。

「……やめようぜ。たまきが寝てる時にケンカしたら、なんか収まる気がしねぇよ」

「いや、そういうんじゃなくてね……」

志保はこの時になって、初めて亜美の方を向いた。

「付き合って一か月くらいになるんだけどさ、その、まだ言えてなくて……」

志保は胸元まで伸びた長い髪をいじりながら言った。

「わかってる……隠し事は良くないって……。でも、ほんとのこと言ったら、何もかも終わっちゃう気がして……」

「ま、フツーは別れるよなぁ」

亜美はあえて他人事のように言った。

「亜美ちゃんだったらどうする? 彼氏に言えないことがあって、でも言わなきゃって時、亜美ちゃんならどうする?」

志保は何かに縋るように亜美を見た。

「隠し事の内容によるなぁ」

亜美は志保の方を向くことなく答えた。

「知られると何となく恥ずかしいとか、そういうタイプの隠し事だったら、言いたくないなら言わなくてもいいと思うし」

「でも、あたしの場合は……」

「まあ、全然違うわな」

亜美は相変わらず、志保を見ない。

「ばれたら確実に驚かれる、ほぼ確実に別れる、ってタイプのやつだろ」

「うん……」

志保は現実から目をそらすように、亜美から視線を外す。

「……ウチだったら言うな」

「そうなんだ……」

「だってさ、どうせ別れるんなら、あとくされない方がいいだろ。隠し続けてバレたら、そのぶん、面倒なことになるだろ」

「うん……」

志保にしては珍しく、亜美の話に素直にうなづいている。

「だったら早い方がいいだろ」

「でもさ…、言ったら、別れるかもしれないんだよ?」。

「んー、そうだな」

「だったらさ、なるべく隠し通してさ、その、少しでも長続きするようにした方が……」

そう言いながら志保は、自分がこの前とは逆のことを言っているような気がした。

「だってさ……バレたら……その……破滅じゃない」

「なんだよ。破滅はヤなのかよ」

この時になって、亜美は初めて志保の方を向いた。

「……当たり前でしょ」

「あのさ、志保。どんな恋愛だって、いつかは必ず終わるんだぜ」

なんだか、この前もそんな話を聞いたような気がする。

「つーことはさ、今別れるのも、来年別れるのも、結婚して何十年かたって死に別れるのも、結局は一緒じゃんか」

「……一緒じゃないでしょ」

「一緒だよ一緒。要はさ、なんでそんな終わることビビってんだ? って話なわけよ」

そう言うと、亜美は煙草を一本取りだした。

「おい、吸っていいか?」

「……どうぞ」

亜美は慣れた手つきでタバコに火をつける。

「例えばさ、からあげがあるだろ? どんなにうまいからあげも、食べればなくなるんだよ。山盛りのからあげでもさ、食べ続ければなくなるんだよ。そんなの当たり前じゃん。からあげ食べながらさ、からあげがなくなるのやだっていう奴いないだろ? からあげがなくなることなんか、考えもしないで食ってるだろ?」

「……その例え話、よくわかんないんだけど」

「だからさ、オトコも一緒だよ。どうせいつか別れるんだよ。なのになんで別れることビビってんのかな? もっと今を、この瞬間を楽しめばいいじゃねぇか」

終わりが来ることを恐れずに今を楽しめ、という意味ではトクラの意見と一緒だ。だが、一方で亜美の意見とトクラの意見は正反対でもある。

トクラは、なるべく終わらないようにして長く楽しめと言う。

亜美は、いつ終わるのも一緒だからとっとと終わらせろという。

どちらが正しいのか、志保にはわからない。どっちも間違ってるのかもしれない。

でもたった一つ、はっきりと言えることがあった。

「あたし、終わらせるつもりないから……。別れるつもりないから……」

志保はソファの上に置いてあるクマのぬいぐるみを手に取ると、ぎゅっと抱きしめる。

「お前にそのつもりがなくても、クスリのこと話したら、別れることになると思うぞ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと黙ってるののか? それでバレたら、修羅場だぜ。百パー別れることになるだろうよ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと隠し通す気か? 隠し通せると思ってんのか?」

亜美は問い詰めるように志保を見る。

「……隠し通せるとは思ってないし、何より……隠し事はしたくない……」

「じゃあ、答えは決まりだろ。覚悟決めて、とっととホントのことを話すしかねぇだろ。まだ付き合って一か月だろ? 今言えば、ヤサオも理解してくれるかもしんねぇぞ。確率は低いけどな。でも、延ばせば延ばすほど、その確率はもっと低くなるぞ。お前、ウチより頭いいんだから、それくらいわかるだろ?」

「……うん」

志保はどこか納得できないようにうなづいた。

「でもさ……」

「でもなんだよ?」

亜美は少しうんざりした口調だ。

「ほんとのこと言ったら別れるかもしれないでしょ……」

志保はクマのぬいぐるみを抱きしめる腕に力を入れる。ぬいぐるみのクマは、少し苦しそうにゆがむ。

「そりゃそうだろ」

「それはイヤ……」

「じゃあどうすんだよ!!」

苛立った亜美は志保の胸からクマのぬいぐるみを強引に奪い取り、壁に向って投げつけた。ドンという鈍い音は、なんだかぬいぐるみがあげた悲鳴のようにも、志保の悲鳴のようにも聞こえた。

志保は立ち上がると、床に転がったクマを拾う。

「わかんないから聞いてるんでしょ!」

「お前、ウチが言ったこと全否定じゃねぇかよ! あれもいや、これもいや。じゃあこうするしかねぇだろって言っても、それもいや。話になんねぇよ!」

志保はクマのぬいぐるみを拾うと、再び胸の前でしっかりと抱きとめ、少し涙でにじんで目で亜美を見た。それを見た亜美はため息をつく。

「……きつい言い方したのは謝るよ。でも、ウチ、間違ったこと言ってっか?」

その時、亜美の視界の端で何かが動いた。亜美の視線がそちらに向き、それを見た志保も同じ方向を向く。

二枚のタオルケットにくるまって寝ていたはずのたまきが、いつの間にかメガネをかけてこちらを見ていた。

「ごめんね、たまきちゃん。起こしちゃった?」

「……いえ」

たまきは少し視線を下に泳がせていたが、やがて志保の方を見た。

「あの……」

「なに? どうしたの?」

「その……」

たまきが何か言いかけたとき、

「やめ! この話はもうやめ! もうラチあかねぇよ。たまきも起きたことだし、風呂入りに行こうぜ」

「……そうだね」

志保は寂しげにそう言うと、たまきの方を向いて

「たまきちゃん、気にしなくていいからね。ちょっと恋愛相談に乗ってもらってただけだから」

と、わざと優しく微笑んだ。

たまきはやっぱりなにか言いたげに下を見ていたが、志保はそれに気づくことなく、気持ちを切り替え、銭湯に行く準備を始めた。

 

写真はイメージです

そうこうしているうちに、暦は3月に入った。まだまだ冬の寒さは残っているが、それも日に日にあたたかくなっている。もうひと月もすれば上着を羽織ることもなくなるし、この公園も桜色に染め上げられる。

日付は三月三日のひな祭り。いつものごとく階段に腰掛けるミチとたまきは、ひな壇に構えるお内裏様とお雛様のようにも見える。

とはいえ、それは二人仲がよさそうだから、という意味ではない。たがいに目を合わすことなく、会話もなく、正面を向いているさまが、ただ人形を置いただけのようにも見える、という話だ。

だが、この日のミチは時折、たまきの方をちらりちらりと見ていた。

やがて、しびれを切らしたように口を開く。

「俺、このまえ誕生日だったんだよねぇ」

それを聞いたたまきは、ふうっとため息を一つはいた。

「……知ってます。四日前ですよね」

「なんだ。俺の誕生日がいつか、ちゃんとわかってんじゃん」

そりゃここ半月ほど、会うたびに「俺、そろそろ誕生日なんだよねー」と言われ続ければ、いやでも意識せざるを得ない。さらにそれが日に日に「来週誕生日なんだよねー」「五日後」「三日後」とカウントダウンまでされれば、さすがのたまきでもミチの誕生日がいつなのか見当がつく。

だから、誕生日当日は、公園にはいかなかった。ミチは「城」と同じビルのラーメン屋でバイトしているので、うっかり出くわさないように、その日のたまきは完全に引きこもった。もともと、ひきこもることに定評のあるたまきだ。「今日は絶対に外に出ない」と決めたら、その徹底ぶりは完璧だ。

さらに念には念を入れて、その後三日も公園で絵を描くことを控えた。

そして今日、さすがに誕生日から四日もたっていればもうそのことを話題にしないだろう、と思って公園に来たのだが、どうやらたまきの認識が甘かったようだ。

「たまきちゃん、プレゼントは?」

ミチがニコニコしながらたまきに尋ねた。

「……ありません」

たまきはミチを見ることなく答える。

「でも、バレンタインの時はチョコくれたじゃん。俺、知ってるぜ。なんだかんだ言ってたまきちゃんはちゃんとプレゼントくれる子だって」

たまきはそこでもう一つ深くため息をつくと、志保と亜美の言葉を思い出した。

『ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!』

『だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが』

たまき本人は認めたくないのだが、亜美と志保に言わせるとたまきは「警戒心が強い割に、実は押し切っちゃえばチョロい女」らしい。

そして、どうやらミチもたまきのことを「押し切っちゃえばチョロい女」だと思っているようだ。

「俺、知ってるぜ。たまきちゃんはなんだかんだいってちゃんとプレゼント考えてくれてるって」

ミチがニコニコを通り越してにやにやしながら言った。

「私……考えたんですけど……」

「うん、なになに?」

「……私がミチ君にプレゼントする理由がないんですけど」

そこで初めて、たまきはミチの方を見た。

「え?」

ミチとしては想定外の回答だったらしい。

「誕生日プレゼントをあげる理由がないのに、プレゼントをあげなきゃいけないなんて、おかしいですよね? おかしくないですか?」

仙人曰く、誕生日はその人と出会えたことを感謝する日だという。

だが、たまきはこの男と出会えてよかったなんて、ちっとも思えない。

「いやいや、理由がないってことないでしょ~」

ミチはわざとおどけたような笑顔で言った。

「ほら、俺、いつもたまきちゃんと仲良くしてるし」

「……私だって、これでもミチ君と仲良くしてるつもりです」

そう言いつつも、たまきの視線はまたミチを外れ、正面を向いている。

「仲良くしてるからって、私ばっかりミチ君になにかあげるのって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「まって! ちょっと待って!」

ミチはたまきの言葉を片手で制した。

「俺、たまきちゃんの誕生日祝ったじゃん!」

「そうですね」

たまきはまたしてもミチを見ることなく答えた。

「そうだろ? だから、俺ばっかりなにかあげてるって言い分はおかしくない?」

「私、あの後、ミチ君のことかばって、嫌な思いしました」

二人の間に、三月にしては少し冷たい風が吹いた。

「私の誕生日の件は、あれでチャラになったと思います。むしろ、マイナスです」

「いや、でもその後、うちに来て飯食ったじゃん! あれ、うちのおごりだぜ?」

「あれでプラスマイナスゼロです」

たまきは絵を描く作業をやめる気配がない。

「それに、あのあと私、ミチ君にチョコあげてます。そのお返し、まだもらってません。なのにまた私がなにかあげるって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「いや……でも……」

ミチは何かを必死に探すように空を見上げる。

「でも……ほら……たまきちゃん、俺の歌が好きだって言ってたじゃん」

「今は嫌いになりました」

そこでたまきは、再びミチの方を向いた。

「そもそもあなたのことも嫌いです」

そう言うとたまきは立ち上がった。

「私、帰ります」

たまきはスケッチブックをリュックにしまうと、そのままミチを見ることなくすたすたと階段を上って行ってしまった。

後にはギターを抱えたミチが残されていた。もはや、風の吹く気配もない。

 

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「お前、まだ言ってないの?」

手にした包帯の束を伸ばしながら、舞があきれたように言った。

志保とたまきが二人でいるときに、たまきが何週間ぶりかのリストカットをしたので舞が「城」へと呼び出された。「城」に舞の自腹で置かれた救急箱を使って、たまきの傷を処置していく。

そのさなか、志保が舞に、亜美にしたのと同じ相談を持ち掛けたのだ。

「はい……すいません……」

「やれやれ……オトコができたと聞いてたから、どうなるもんかと心配してたらこれだよ……」

舞はため息をつきながら、たまきの右手首に包帯をぐるぐると巻いていく。

たまきは、黙って志保の方を見ていた。

「それで……、先生はどう思いますか……。その……クスリのこと……ちゃんと言った方がいいでしょうか……」

「まず、言うべきか言わないべきかの二択、っつーのが間違ってる」

舞はきっぱりと言い放った。

「正直に言う以外に選択肢はない。言いづらいのや言いたくないのはわかる。でも、言うべきか言わないべきかじゃない。言うしかないんだよ」

舞はたまきの手首の包帯をきつく結び付けると、まっすぐに志保を見た。

「それがお前の果たすべき責任だ」

「でも……その……クスリのこと言ったら、カレはあたしから離れて行っちゃうんじゃ……」

なんだか、毎回同じようなことを言っている気もする。

「そんなの仕方ねぇだろ」

舞は少し呆れるように言った。

「お前が今日まで頑張ってきたのは知ってるからこういう言い方したくはないんだけどさ、自業自得ってやつだよ」

「そうですよね……」

志保はそう言って下を向いたが、やはりどこか納得していないようだ。

「でも……あたし……絶対に別れたくないんです……」

「そもそも、クスリのこと、まだまだ問題は山積みなのに、オトコを作る方が悪い」

舞は犯人に詰め寄る刑事みたいな口調で言った。

「一生オトコを作るなとは言わない。だがな、そういうイロコイは、ちゃんと自分に向き合えるようになってからしろ。何もかも中途半端な状態でオトコ作って、別れたくないなんて、そんなん通るわけねぇだろ」

舞は救急箱を片付けながら言い放った。

「いいか、人として未熟な奴が形だけの幸せを手にしたところで、いつか必ずそのしわ寄せが来るからな。それはお前に来るかもしれないし、相手の男にかもしれないし、周りの人間かもしれない。下手したら、将来生まれてくるお前の子どもにしわ寄せがいく、なんてこともあるかもな」

志保はなんだか、激流に流される人が藁を必死につかむかのように、スカートのすそを握りしめていた。

「そうですよね……。あたしにカレシ作る資格なんてないですよね……」

それを見ていた舞は、額に手を当てる。

「あー、悪い。ちょっと言い方きつかったな。いや、お前ぐらいの年の子がカレシ作りたがるのはわかるよ。ああ、痛いほどわかるさ。だけど、お前は今そういうことする状況ではないよな、って話よ。わかるだろ。カレシ作る資格がないんじゃない。カレシ作る状況じゃないって話だよ」

志保は仏さまがクモの糸を垂らしてくれたかのように、舞の方を見た。

「恋人の存在が薬物依存に立ち向かう力になるってことも、無きにしも非ずだからな。恋をするなとは言わん。だけど、それは相手に理解があってこそだ。クスリのこと聞いた途端にしっぽ撒いて逃げ出すような男と付き合っても、ロクなことにならねぇぞ」

「それは……わかってるんですけど……」

「その、ユウタだっけ、そいつがお前をちゃんと支えてくれる男かどうかを確かめるには、言うしかないんじゃないの?」

「でも……言ったら別れることになるんじゃ……」

「だから、そこで理解してくれないような男と無理して一緒にいても、絶対ハッピーエンドになんてならねぇって」

「でも……」

その後に続く言葉が、舞には予想できた。

「って言うかお前、ここ最近、ずっとそれで悩んでたのか? それで深刻そうな顔してたのか?」

「え? あたし、そんな悩んでる様に見えました?」

さっきまで思いつめたような顔をしていた志保だが、舞の言葉が意外だったのか、少し表情が和らいだ。

「たまきがリスカしたっていうから来てみたら、玄関にいたお前があんまりにも深刻そうな顔してるから、たまきじゃなくて志保がリスカしたのかと思ったくらいだ」

「そうですか……」

志保は再び、それこそ深刻そうにうつむいた。

舞の隣に座っていたたまきは、新しく巻いてもらった右手首の包帯をさすりながらも、切なげに志保を見つめていた。

 

2対1。田代にクスリのことを言うべきか言わないかで人に聞いてみた結果、3人に聞いて二人が「言うべき」、一人が「言わなくていい」。今のところ、2対1で「言うべき派」の勝ち越しだ。

この点差ならまだまだわからない。次の1点が「言わない派」に入れば、2対2の同点である。

でも、そんなに人の意見ばかり集めていったい自分はどうするつもりなのだろうか。舞が帰った後の「城」で、志保はひとりひざを抱えて考え込む。

「言わなくてもいいよ」という一言を誰かに言ってほしいだけなんじゃないだろうか。

そう考えると、トクラの答えが一番志保が望む形に近いと思うのだが、トクラは「どうせいつか破滅するんだから、すぐに言わなくていいよ」という考え方である。そこが志保の求める答えとは違う。

クスリのことは「言わなくていい」、でもこの恋は「きっと結ばれる」、そんな都合のいいことを言ってくれる人を探しているのだ。

でも、いつまでこんなことを続けるんだろう……。

 

写真はイメージです

「あの……」というたまきの呼びかけで、志保は我に返った。

「ん……どうかしたの、たまきちゃん」

反射的に、志保は笑顔と作って答えた。

たまきはソファの上に寝ころんでいた。うつぶせになって志保にお尻を向け、頭からはすっぽりとタオルケットをかぶっている。

「……舞先生も言ってましたけど、最近、志保さん、すごく悩んでいるように見えます……」

「そ、そう? そう見える? そうなんだ、あははは……。大丈夫だよ。大したことないから、心配いらな……」

「そんなわけないです」

たまきは姿勢を変えることなく言った。

「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……。なんだかこのまま、遠くに行ってしまいそうな気がして……怖いです……」

「……そう」

部屋の中は蛍光灯で照らされていいるにもかかわらず、壁から染み出したうすい靄のような影が、じわじわと二人の周りを覆って、闇を作り出しているかのようだった。

しばらく静寂が続いた後、たまきが口を開いた。

「……どうして、私には何も聞いてくれないんですか?」

「え?」

「亜美さんにも、舞先生にも、カレシさんのこと聞いてましたよね。私だって、志保さんが悩んでるなら力になりたいです。でも、どうして私には何も聞いてくれないんですか。」

靄のような影が、たまきの周りにまとわりつく。

「……私に恋愛のこと聞いたって、どうせわかるわけない、そんな風に思ってるんですか?」

「そんなこと……!」

思うはずがない、志保はそう言おうとしたが、言葉が続かなかった。

たまきに恋愛のことを相談してもわかるわけがない、と志保が明確に思っていたわけではない。

それでも、亜美にも舞にも、そしてトクラにもした相談を、たまきにはしなかった。そんな選択肢を思いつきもしなかった。

無意識のうちに「たまきに相談する」という選択肢を外していたのだ。つまり、心のどこかで「たまきに聞いたってわかるわけがない」と、知らず知らずのうちに思ってしまっていたのだ。

「確かに……私は恋愛とかカレシとか、そういうのには疎いのかもしれません……」

たまきは相変わらず、頭からすっぽりとタオルケットをかぶったままだ。なんだか、床に無造作に投げ置かれた雑巾のようにも見える。

「でも……ちゃんと見てますよ。志保さんのことも、亜美さんのことも、ミチ君のことも……」

「うん……」

志保の頭の中に、先ほどたまきが言った「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……」という言葉が響いた。

「たまきちゃん、あたし、どうしたらいいと思う?」

「……志保さんは、『カレシさんに言わなくていいよ』って言って欲しいんですよね」

たまきの言葉に志保は驚きつつも、無言でうなづいた。たまきはそれを見ていないが、空気から察したかのように、言葉をつづけた。

「でも……、私は、ちゃんと言わなきゃいけないって思います」

「うん……わかってる……」

そう、最初からわかっていたのだ。そんなの、人に聞かなくたって最初からわかっていたのだ。「すべてを打ち明けなければいけない」と。

「でも……あたし、ユウタさんと別れたくない……」

何度目だろう、このセリフを言うのは。

「……わかってます」

たまきは静かに告げた。そして、こう続けた。

「でも、それは志保さんのわがままです」

「……わが……まま?」

「はい。クスリのことを知って、志保さんと別れるかどうするかを決めるのは、志保さんじゃなくて、田代って人です。でも、このまま何も言わなったら、何も知らなかったら、田代って人はそれを悩むこともできないんです。それに、言うのがおそくなったり、あとからほかの人に知らされたりすれば、田代って人は余計に傷つくと思います」

たまきはタオルケットをすっぽりとかぶったままだ。だから、志保からたまきの表情をうかがい知ることはできない。

「私には、『人を好きになる』っていうことがどういうことなのか、まだわかりません。でも、もしそれが、自分より相手の方が大切だっていう想いなのだとしたら、どうして相手の人の幸せを一番に考えないんですか? 相手の人の幸せを一番に考えなきゃいけないのに、自分が嫌だから言いたくないとか、自分が嫌だから別れたくないとか、それっておかしいですよね。おかしくないですか?」

そこでたまきはようやく起き上がると、志保の方を向いた。メガネをかけていないその顔は、いつもより少し大人に見えた。

「それとも志保さんは、田代って人より、自分のこと方が好きなんですか?」

そんなことない。志保はそう言い切りたかったが、またしても言葉が出なかった。

志保は、これまでのトクラや亜美、舞との会話を思い返す。

そして気づく。いつだって主語は「あたし」だったということに。

あたしは、言いたくない。

あたしは、別れたくない。

あたしは、あたしは、あたしは。

「志保さんが田代って人にクスリのことを話して、お別れすることになったとしても、田代って人にとってそれが一番幸せなことなら、それは仕方ないことなんだと思います。志保さんにとってそれはつらいことかもしれませんけど……」

そこでたまきは一度、言葉を切った。そして、今までで一番強い口調で続けた。

「……でも、志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!」

そこまで言うとたまきは急に恥ずかしそうに下を向いた。

「……なんかすいません、私なんかがえらそうに……」

「ううん。大丈夫。ありがとう」

志保は何かを観念したかのように息をついた。

三対一。でも、最後の一点は他のどの一点よりも強く、そして、温かかった。

 

歓楽街のちょうどど真ん中に、小さな神社がある。弁天様を祀っているらしく、その周辺はちょっとした空地になっている。

亜美たちは知る由もないが、はるか昔、この歓楽街には川が流れていた。その川も埋め立てられ、今では多くのお店が立ち並び、ホストの看板で彩られ、バスが走っている。水のカミサマである弁天様は、この街にかつて川があったころの名残だ。

その空地の一角で、志保は田代を待っていた。鼓動がいつもよりも早く、そして力強く、それこそ濁流のように血流を押し流す。

少し離れたところで、亜美とたまきが志保の様子を見ていた。たまきは黒いニット帽を、亜美はピンクのニット帽をかぶっている。

亜美は

「ウチら、その辺に隠れてようか?」

と提案したが志保は首を横に振った。

「ううん、近くにいて。二人にも聞いててほしいの」

やがて、路地の奥から田代が姿を現した。バイトの帰りらしく、ラフなジャンパー姿に、リュックを背負っている。

田代は志保を見つけると笑顔で手を挙げた。志保も軽く手を挙げるが、その顔に笑顔はなかった。

「どうしたの、話って」

田代は勤めて笑顔だったが、やはりこれからの会話にどこか不安を感じているかのようだった。

志保は一度大きく息を吸った。頭の中でたまきの言葉を思い出す。

『志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!』

志保は息を吐いた。三月の空気はまだまだ冷たく、志保の吐息を白く変える。

やがて吐息は空に消えたけど、志保の中にある煙のようなさみしさは消えることはなかった。

それでも、志保は話を切り出した。

「……お別れを言いに来たんです」

それが、志保の出した答えだった。

つづく


次回 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

志保ちゃんの過去編です。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第25話「チョコレートの波浪警報」

今回はバレンタインデーのエピソード、バレンタインデーに真剣な志保と、バレンタインデーを含めたあらゆるイベントごとが苦手なたまき、バレンタインデーに興味があるのかないのかよくわからない亜美、それぞれのお話です。それではあしなれ第25話、スタート!


第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

昼間のスナックほどおかしな空間はない。

スナックとは本来、夜に営業するつもりで作られている。だから、窓がない店が多い。窓をつけたって、どうせ日の光は入ってこないのだ。

さらに、店内の照明がうすぼんやりとしている店も多い。都会の夜の闇に溶け込み、夜の闇を楽しむための空間。それがスナックだ。

だからなのか、絵に描いたような青空が広がる昼間にスナックを訪れると、そこが「昼間」という時間から隔絶された空間であるかのように思える。ドアをくぐった瞬間、空間が歪むのだ。

「そのあと」というヘンな名前のスナックも、そんなうすぼんやりとした影をたたえた店だった。

「東京は城のようだ」と誰かが言ったが、東京を代表する大きな駅から坂道を下り、まるで東京という城のお堀のような閑散とした住宅街の中に、スナック「そのあと」はたたずんでいる。

「ランチタイムやってないの? 昼間もママの料理食べたいよ。絶対繁盛するって」という常連のおじさんにそそのかされた若き雇われママさんが、週に二回、ランチタイム営業をやっているのだが、これがさっぱり人が来ない。

やっぱり、周囲にオフィスが全然ないという立地が悪いのかしら、と若きママは考えているのだが、ママの弟に言わせると「全然宣伝とかしてないからじゃねぇの?」。

「だったら、ミチヒロがうちのCMソング作ってよ。で、その辺の路上で歌って宣伝してきてよ」

と若きママは、「プロのミュージシャンになる」と豪語する弟に提案するのだが、弟は「オレ、そういう商業的な歌は歌わないの」とずいぶんと生意気なことを言っていた。

時計は午後一時を回り、店のわきに置かれたテレビの中では、ライオンの着ぐるみがサイコロをぶん投げている。若きママは誰もいない店内で、大きなあくびをした。

その時、ドアがかちゃりと開いて、ちりんちりんとドアのベルが鳴った。

「いらっしゃい」

わずかに開いたドアの隙間から、誰かが中をうかがうようにのぞき込んでいる。

「あ、営業してますよ。大丈夫ですよ」

ドアはきい……と、風に揺らされているかのように開いた。外の光がこぼれてくるのと同時に、中学生くらいに見える、背丈の低い女の子が入ってきた。

「あ、たまきちゃん! いらっしゃい!」

若きママが女の子の名前を呼ぶと、そのたまきという女の子は、ロボットのようなぎこちなさと丁寧さで

「こんにちは……」

と言って頭を下げると、カウンターの一番左端の席を指さして、

「あの……ここ……座って大丈夫ですか?」

と若きママに尋ねた。若きママがにっこりとほほ笑むと、たまきはスカートのすそを引っ張りながら、その椅子に腰かけた。

そのしぐさがどうにも、子どものころにかわいがっていた黒猫にそっくりで、若きママは思わず笑いそうになった。「クロ」と名付けてかわいがっていた黒猫が、若きママが弟と一緒に暮らしてた施設の敷地に初めて迷い込んできた時も、ちょうどこんな感じだった。

たまきは五百円玉をカウンターの上に置いた。

「あの、焼きそばお願いしても大丈夫ですか?」

「焼きそばね、了解。お金は食べ終わってからでいいからね」

若きママの言葉に、たまきは恥ずかしそうに五百円玉を引っ込めた。

若きママは少しからかうように

「お酒は何にする? ハイボール?」

と尋ねる。

「え?」

たまきは困惑して、それこそ猫のように目を丸くした。

「あ、あの、私、その……」

「冗談だってば」

若きママは歯を見せて笑うと、冷蔵庫から焼きそばの袋を取り出した。

ものの数分でほかほかのソース焼きそばがたまきの目の前に置かれた。

たまきは割り箸を手に両手を合わせると、

「いただきます」

とつぶやいた。力を入れて割りばしを割る。たまきは割りばしがしなって割れる瞬間が、本当に苦手だ。どうせ箸を作るなら、割ってから出荷してくれればいいのに。

ソース焼きそばを口へと運ぶ。なんだか、昔、たまきのお姉ちゃんが作ってくれた焼きそばを、数年の時を経てようやく口をつけているような気がした。

ふと、顔をあげてみると、カウンターの中に若きママことミチのお姉ちゃんの姿がなかった。

どこかに行ったのかとあたりを見渡してみると、背後に気配を感じ、たまきは驚いて振り返った。

ミチのお姉ちゃんは、たまきの真後ろにいた。ニコニコしながら、たまきを見ている。

もっと正確に言えば、たまきのお尻あたりをニコニコと眺めていた。

「あ、あの……私の、その、おしりに、なにかついてますか……」

「いや、何もついてないんだよねぇ~」

そう言いながらミチのお姉ちゃんはたまきのお尻、特に尾骶骨あたりをしげしげと眺めた。

「ネコみたいだから、黒いしっぽでもついてるんじゃないか、と思ったんだけどねぇ」

そんなわけない。たまきはそう思った。

「知ってる? ネコって、しっぽで気持ちがわかるんだよ。ピンと立てている時はうれしい時、しっぽを丸めてるときは怖がってる時、しっぽをばたばた振ってるときは嫌がってる時、昔飼ってたクロはねー、なでるとよくしっぽをばたばた振ってたんだよ」

だから、嫌がってる、とわかっているのに、どうしてなでるのだろう。

「ネコってしゃべらないけど、ちゃんと気持ちは表現してるんですね」

「ね、たまきちゃんそっくり」

「え?」

たまきは驚いたように、ミチのお姉ちゃんの目を覗き込んだ。

「ほら、今も、すごい驚いたような顔してる。あんまりしゃべんない子だなって思ったけど、その分、顔にすごい出るよね、たまきちゃん。だから、見てて面白いよ」

そんなわけない。そんなわけない。

たまきは、強くそう思った。

今まで、人からそんな風に言われたことなんてない。

むしろ、「表情が乏しい」といったようなことをよく言われてきた。

親からは「何考えてるかわかんない子」と言われ、亜美からは「それで笑ってるつもりなのか?」と呆れられ、志保にご飯の感想を「おいしいです」と告げれば、「本当に? 無理しておいしいって言わなくていいんだよ?」と疑われる。

ミチに至っては、たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、それを態度に反映させようという姿勢が全くない。たまきが怒っている時にさらに怒らせるようなことを、たまきが恥ずかしがっている時にさらに恥ずかしがるようなことを、たまきが落ち込んでいる時にさらに傷つけるようなことを平気で言う。

それが、たまきの気持ちをわかっていてわざと嫌がらせをしている、というのであれば、もうこんな人とは関わらない、で済むのだが、そうではないから始末が悪い。

あの人はきっと、たまきが何考えているかなんて、これっぽっちもわかっていないのだ。たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、全部いつもとおんなじ表情に見えているに違いない。たぶん、ミチはそのクロっていうネコが嫌がっていることをそもそも気づかずに撫でていたんだろう。

そんなだから、そのミチのお姉ちゃんがたまきのことを「顔にすごい出る」と評したのは、意外としか言いようがなかった。

そう言えば、以前にも同じようなことを一度だけ言われた気がする。誰だったっけ。

「私……あんまり顔に出ないって言われます……」

ミチのお姉ちゃんに表情を読み取られたことが少し恥ずかしくなり、たまきはうつむきがちに言った。

「そんな恥ずかしそうに言わなくても」

またしても心を見抜かれ、たまきはますます恥ずかしくなった。もしかしたら、ミチのお姉ちゃんには超能力でもあるんじゃないか。ばかばかしい考えだが、その方が「たまきは顔に出やすい」という説よりも現実味がある気がする。

たまきは五百円玉を差し出し、二十円を受け取って、お店を出た。

空には雲一つない冬の青空が広がる。さっきまでのうすぼんやりとした空間なんて、まるで存在しなかったかのようだ。

たまきは、歓楽街へと帰る坂道を、とぼとぼと登り始めた。

坂道を登りながら、たまきの頭の中で、なにかがぐるぐると回る。

この前は「ネコに似てる」と言われ、今日はさらに「顔に感情が出やすい」と言われた。

あの店に行くと、ミチのお姉ちゃんに合うと、たまきが思ってもいなかったたまきを突きつけられる。

でも、もしかしたら、「自分が思っている自分」の方が間違っているのかもしれない。

何せ、普段は自分で自分の顔を見ることができないのだ。自分が人からどう映っているのか、わからないのだ。

よくよく思い返せば、たまきは自分の「笑顔」を知らない。鏡の前で笑顔の練習をしてみたことならあるが、そこに映っていたのはあくまでも「練習している笑顔」でしかない。

そうではなく、亜美や志保との暮らしの中で、ごく自然に出る笑顔、亜美や志保が見ているであろうたまきの笑顔を、たまき自身は知らないのだ。せいぜい、誕生日の時に撮ってもらった写真に写る、ちょっとカタい笑顔を見たくらいだ。

そんなことを考えながら、一つ思い出したことがあった。

『たまきってすぐ顔に出るから』

昔、たまきにそういったのは、たまきのお姉ちゃんだった。

たまきのお姉ちゃんも、もしかしたら「たまきが思っているたまき」とは全然違うたまきを見ていたのかもしれない。そして、ひょっとしたら、そっちの方が本当のたまきなのかもしれない。

たまきは踏切で足を止める。目の前を列車が轟音をあげながら通過する。クリーム色に近い白の車体に、青いラインが走っている。走り去る列車を見つめながら、ふと思う。

たまきの姉やミチの姉が見ているたまきが実は本当のたまきなのだとしたら、ここにいるたまきはいったい誰なのだろう。

 

写真はイメージです。

たまきは冬が苦手だ。

別に、寒いから苦手なわけではない。むしろ、気候で行ったら冬よりも夏の方が苦手だ。

たまきが冬を苦手とするのは、クリスマス、お正月、バレンタインデーと、たまきの苦手な「イベント」が目白押しだからだ。最近ではハロウィンもある。どうしてみんな、あんなにもイベント好きなんだろう。何も楽しいことなんてないじゃないか。

そして、たまきの嫌いな「イベントの冬」ももうすぐ終わる。最後のイベントであるバレンタインデーが間近に迫っていた。一か月後にはホワイトデーがあると言えばあるが、どういうわけか、そっちはあんまり盛り上がらない。

亜美、志保、たまきの三人は、デパートで行われていた「チョコレートフェア」なるものを見に来ていた。

正直、たまきはチョコに全然興味がない。チョコをあげたい男の子もいない。そもそも、甘いものは別に好きじゃない。

だが、あんまりイベントに背を向けすぎると、かえってみじめになる気がしてついてきたのだが、やっぱり興味がないものは興味がない。

一方、志保は、興味があるを通り越して、もはや切実な問題とでも言いたげにチョコを見て回っている。

数日前、田代とともに映画を見に行った志保は、ものすごい上機嫌で帰ってきた。

「どうした。コクられたのか?」

と茶化す亜美に対して、

「そうなの! 聞いて聞いて!」

と、じゃれつくウサギのように志保ははしゃいだ。

「なに!? マジで!?」

と、亜美もしっぽを振る子犬のように飛びつく。たまきだけが、まるで水槽の中の熱帯魚でも見るかのように、少し離れた場所から二人を見ている。

「映画見終わって、食事して、そのあと街を歩いてたら、田代さんが……」

そこで志保はいったん言葉を切った。

「『なあ、俺たち、付き合わない?』だって!」

と志保は顔を赤らめて、亜美の肩をバンバンと叩いた。

「で、お前はなんつったの?」

「『うん、いいよ』って!」

「で、その後どうしたんだ? ヤッたのか?」

「やだもう! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」

志保は再び、亜美の肩をバンバンと叩いた。

その様子を、たまきは少し離れたところからぼんやりと眺めている。

『付き合わない?』

『いいよ』

お互いに、好きだとは言ってないし、好きということを確かめてもいないけど、それでいいのかな。そんなことをぼんやりと考えながら。

 

時は戻って現在。志保はチョコ売り場の中をウロチョロしながら、チョコを品定めしている。

「なんだ、まだ決めてねぇのか。ま、『本命』チョコだから、仕方ねぇか」

亜美はわざと「本命」を強調した。それから、口の横に手を当てると、

「みなさ~ん! この女、本命チョコえらんでますよ~! おい、リア充がいるぞ~!」

「もう! ちょっと黙っててよ」

と志保が亜美の方に近づいてくる。

「あれ? 亜美ちゃんもチョコ買ったの?」

「あ? ああ、友チョコだよ、友チョコ」

亜美が手にしたお店の袋を無造作に振り回した。

志保は陳列されていた、ハート形のチョコを手に取る。

「これまた、あからさまな本命チョコですなぁ」

と笑う亜美と、口をとがらせる志保。亜美は今度はたまきの方を向いた。

「お前はチョコ買わないの?」

「……別に」

「ミチにあげたりしねぇの?」

「なんでですか?」

たまきは心の底から不思議そうに、亜美の方を見た。

「いや、別に、本命チョコじゃなくても、義理チョコでもあげとけば、あいつ、しっぽ振って喜びそうじゃん」

「……あげる義理がないです」

そう言ってたまきは、視線を志保の方へとむけた。志保はまだチョコを選んでいる。右手と左手、それぞれにハート形のチョコを手に持ち、見比べている。

たまきは正直、どっちでもいいような気がしてきた。

 

写真はイメージです。

それから数日後、たまきは例によって、いつもの公園のいつもの階段に腰を下ろして、絵を描いていた。

ふと、背後に人影を感じる。

「お、たまきちゃん来てるな?」

ミチの声だ。

「来てますよ」

たまきはミチの方を見ることなく答えた。

ミチは階段を降りると、たまきのすぐ横に腰掛ける。たまきはすっと体をスライドさせ、ミチとの距離を開けた。

いつもならミチがギターケースを置き、ギターを取り出す音が聞こえてくるものだが、それが聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、紙袋をがさがさと広げる音。

ちらりとミチの方を見ると、珍しくギターケースを持ってきていない。

「今日は歌わないんですね」

とたまきが言うと、

「この後バイトだし、そのあとは先輩たちと飲みに行くから」

ミチの年齢だと、飲みに行ってはいけないはずなのだが、たまきは面倒くさいのでそこはスルーした。

「じゃあ、何しに来たんですか?」

「何しにって、たまきちゃんからチョコを貰いに来たんだよ」

あれ? とたまきは思った。そんな約束、してたっけ?

絵を描く手を止め、大急ぎでたまきは頭の中に検索をかける。ミチにチョコをあげるなんて約束をしたかどうかを調べるが、そんな記憶は全くない。念のため、なにか勘違いさせるようなことを言ったのではないかとも考えたが、そちらも全く心当たりがない。

「そんな約束、してないと思うんですけど……」

「え? だって今日、バレンタインデーだよ?」

そこでたまきは初めて、今日が二月十四日であることを知った。なるほど、だから今朝、志保が妙にうきうきしていたのか。

だが、バレンタインデーだからなんだというのだろう。

「バレンタインデーだと、なんで私がミチ君にチョコをあげなければいけないんですか?」

「え? だって、たまきちゃん、女の子じゃん」

もしかして、この男はバレンタインデーのことを「女子が男子を見るや否や、無差別にチョコをばらまく日」とでも勘違いしているのではないだろうか。

「……その紙袋は何ですか?」

まさか、たまき一人から紙袋が埋まるほどのチョコを期待しているとでもいうのだろうか。たまきは二木の菓子ではない。

「いや、この後バイト先でもらって、先輩たちと飲みに行った先でもらうからさ」

「……貰うって、それはもう決まってるんですか?」

「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」

どうも会話がかみ合わない。「バレンタインデーを忘れるほど興味のない女子」と「バレンタインデーに過剰な期待をする男子」が会話をすると、こういうことになるらしい。

たまきは、絵を描く作業に戻った。しばらくの間、沈黙が続く。

「たまきちゃん、チョコは? まだ?」

「……持ってません」

これまでの会話の流れから、たまきがチョコなんか用意してないことくらい、気づかないのかな。

「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」

ミチの返事は、たまきの予想と一言一句同じだった。隣からはあからさまに、紙袋をがさがさと広げる音がする。

「チョコこじき」、そんな言葉がたまきの頭をかすめた。

 

写真はイメージです。

バレンタインデーの起源は、ローマ帝国にあるという。

ローマ帝国では兵士の結婚を禁じていた。故郷に恋人や妻がいれば士気が下がるからだという。確かに、「俺、この戦争が終わったら田舎に帰って結婚するんだ」と語る兵士に限って、戦争が終わるまで生き延びることがない。

だが、キリスト教の司祭だったバレンタインは兵士たちのために隠れて結婚式を執り行っていた。しかし、そのことがばれんた、いや、ばれたために処刑されてしまう。その処刑された日が二月十四日だった。

バレンタインデーの正体は、実はバレンタインさんが処刑された命日だった。そんなことを語るシスターの話を、志保はぼんやりと聞いていた。起源がどうあれ、重要なのはその後の歴史、そして、今日を生きる志保たちがバレンタインデーをどうとらえているからだ。バレンタインさんは恋人たちのために尊い犠牲になったのだ。それは二千年前も今も変わらない。合掌。

シスターによる簡単な講義が終わった後は、チョコレート交換会が始まった。志保が通う施設は、何も四六時中「依存症とは何か」などと暗い顔をしているわけではない。むしろ、イベントごとをみんなで楽しむことを更生への一環として、積極的に取り入れている。

各自それぞれ、箱サイズのチョコを持ち寄ってテーブルの上に置き、みんなでつまみあう。ただし、アルコール依存の人もいるので、ウイスキーボンボンのようなタイプのチョコはNGだ。

「これ、神崎さんの?」

トクラが志保の持ってきたチョコを手に取る。

「はい」

「ふうん」

トクラはそのチョコをしげしげと眺める。

「本命は別にちゃんといる、ってことか」

そう言って、トクラは包みの銀紙からチョコをはぎ取り、口に放り込んだ。

「え、なんでわ……」

そこまで言って、志保は自分の反応がほぼ「イエス」と言っていることに等しいと気づいた。別にカレシがいることを隠すつもりはないが、トクラに知られると、なんだか後々面倒な気がするのだ。

トクラは志保にそっと近づくと、耳打ちするように言った。

「お相手はどこまで知ってるの?」

そう言ってトクラは悪戯っぽく微笑んだ、ような気がした。実際には見てないけど、そんな気がした。

志保は何も答えなかった。答えられなかった。

沈黙。

それだけで、トクラは大体のことを察したかのようだった。

志保は、田代に対して「現在」を何も教えていない。田代の中での志保は、都内の高校に通う女の子、という認識のはずだ。

嘘、とも言い切れない。少なくとも一年ほど前までは、志保は「都内の高校に通う女の子」だったのだから。

そこから先のことを語っていないだけだ。嘘をついているのではない。沈黙を貫いているだけだ。

そうな風に自分に言い聞かせようとする自分自身が、志保は嫌だった。

彼のことを騙してる。

そして、自分のことも騙してる。

そんな自分が嫌だった。

でも、だったら、「自分のことを騙そうとする自分」とはいったい誰なのだろう。騙される方の自分とは、いったい誰なのだろう。

そして、そんな自分が嫌になる自分とは、いったい誰なのだろう。

「ちょっと……いいですか……」

志保はトクラに、部屋の隅に来るように促した。チョコの置かれたテーブルから少し離れる二人。

「トクラさんだったら……どうします……? 付き合ってる人に、自分の『病気』のこととか、正直に言いますか……」

「それ訊いてさ……」

トクラは少しいぶかしむように志保を見た。

「あたしの言ったとおりにしてさ、それでうまくいかなくなったらあたしのせいにする、っていうなら答えないよ?」

「あ、いえ、そういうつもりじゃ……」

「まあ、あたしだったら、言うか言わないかは相手次第だけど、なるべく長持ちする方を選ぶよね」

「長持ち……?」

志保はトクラが言っていることが、ちょっとよくわからなかった。

「だから、相手がクスリとか依存症とかにあまり縁がない人、理解のない人だったら、言わないかな」

「でも、いつかバレるんじゃないですか? そうなったら、なんで言わなかったんだ、嘘ついてたのか、って余計にややこしいことになりませんか?」

志保の言葉は、まるで自分で自分をいさめているかのようだった。だが、そんな自分をいさめる自分とはいったい誰なのだろう。

「まあ、バレたらオワリだよね」

「だったら……」

「あのね神崎さん」

トクラは志保の肩にポンと手を置いた。

「すべての恋はね、いつか必ず終わるんだよ?」

その言葉に、志保は再び沈黙した。だがそれは、さっきの沈黙とはまた少し違ったものだった。

「出逢い、結ばれることが恋の始まりなら、その終わりは等しく『別れ』。結婚したって、離婚する人も多いし、いつかは死に別れる。それが嫌なら心中するしかないけど、心中って破滅だと思わない?」

トクラはもう一度、志保の肩を軽く叩いた。

「未来はコントロールできない。でも、今現在はコントロールできる。どういう終わり方を迎えるかはコントロールできないけど、今、この恋愛をどう楽しむかはコントロールできるの。だったら、今が楽しければそれでいいんじゃない? で、それを少しでも長く引き伸ばすの」

「でも、今が楽しければその後どうなってもいいなんて、そんなの、待ってるのはそれこそ破滅じゃないですか……」

「あら、破滅じゃ嫌?」

トクラは微笑んだ、ような気がした。実際は見ていないのでわからない。

「さっき言ったでしょ。すべての恋は必ず終わる。それは別れるか破滅するか。それに『別れ』も喧嘩したり浮気したり憎しみ合ったり、大半が破滅。多くの恋の結末は破滅なの。神崎さん、なんでだと思う?」

志保はまたしても沈黙した。この沈黙は単に、答えがわからないゆえの沈黙である。

「恋を燃え上がらせるのは、破滅と背徳なの。破滅的で、背徳的な恋ほど盛り上がるの。だから人は、破滅は嫌だ、背徳はいけないと言いながら、知らず知らずのうちに破滅と背徳に向かって突き進む。不倫なんてそのいい例じゃない。明らかな背徳で、その先に待っているのは明らかな破滅。なのに不思議と後を絶たない。なんでだと思う? それは、明らかな背徳で、向かう先が明らかな破滅だから。破滅と背徳、それに勝る快楽はないから」

トクラはテーブルの前に戻ると、チョコの包みに手を伸ばした。

「どうせ恋の行きつく先が破滅なら、何も恐れることなんかないじゃない。いつか破滅するとわかっててなお、今を楽しまないと。太ると知っててついついチョコを食べちゃう。虫歯になると知っててついついチョコを食べちゃう。それとおんなじ。バレンタインさんもそのことを知ってたのかもね。これから戦場に向う兵士の結婚式なんて、すぐに戦死しちゃうかもしれないから、せめて式だけでも、ってことでしょ? 破滅に向かう恋が一番美しい、バレンタインさんはそれがわかってたんじゃないかしら」

そう言って、トクラはチョコを口の中に放り込んだ。

 

写真はイメージです。

「じゃあ、たまきちゃんは結局、チョコを買わなかったの?」

公園から駅へと向かう地下道の途中で、紙袋を手にしたミチがたまきに尋ねた。

「……亜美さんと志保さんとお金を出し合って、三人で食べる用のチョコは買いました」

「でもそれってさ、誰かにあげたわけじゃないじゃん」

「……まあ」

たまきはミチの少し後ろを歩きながら、うつむきがちに答えた。

「誰かにチョコ、あげないの?」

「別に……」

「だって今日、バレンタインデーだよ?」

さっきから、こういう会話の繰り返しである。たまきはいい加減にうんざりしてきた。

「今までだれかにチョコあげたことないの?」

「ありません」

「男友達とかは?」

「そんな人、いません」

「じゃあ、女友達。学校で友チョコあげたりしなかったの?」

「……そんな人、いません」

ミチはそこで少し考えてから

「じゃあ、父親とかは?」

と尋ねた。たまきも少し考えてから

「お姉ちゃんとお金を出しあって……、でも、あれもお姉ちゃんが選んで、渡してたから……」

と答える。

長い地下通路も終わり、タクシーの入るロータリーに差し掛かった。二人は階段を上って地上へと出る。

日本、いや、世界で最も利用者数が多いなどと言われるその駅前は、時間としてはまだ夕方にもかかわらず、すでに夜の帳が降りきったように真っ暗だ。だが、仕事帰りのサラリーマンやOLらしき人でごった返し、むしろ昼間以上の混雑を見せていた。

「じゃあ、私はこっちなんで……」

たまきは駅の北側を指さすと、くるりとミチに背を向けて、歩き出した。

だが、ミチも

「いや、俺もこっちだから」

とついてくる。

「あれ、ミチ君の家あっち……」

とたまきは駅の南の方を指さしたが、

「この後バイトだから」

と、たまきの横に並んで歩きだした。

そうだった。この男は、たまきが暮らす太田ビルの2階のラーメン屋でバイトをしているのだ。

すなわち、たまきが「城」に帰るまで、ずっと一緒なのだ。

「じゃあ、今まで一度もチョコあげたことないの? なんで? 今まで十何回もバレンタインデーあったのに?」

つまり、このうんざりするチョコ尋問も、太田ビルに着くまでの十数分間、ずっと続く。

ちょうど、右手にコンビニが見えてきた。

たまきは、コンビニンの前で立ち止まると、ミチの方を向いて

「ちょっと待っててください」

と言うと、コンビニの中へと入った。

二、三分ほどして、たまきはコンビニから出てきた。手には百円ちょっとで売られている、赤いパッケージのチョコのお菓子を持っていた。

たまきはそのチョコレートを、不機嫌そうに、ミチの前に突き出した。

「これ、あげます」

ミチはぽかんと、たまきが突き付けた赤いパッケージを見る。

「え? いいの?」

たまきは相変わらず不機嫌そうに赤いパッケージを突き出したまま、ミチをにらむ。

この男の口に石ころを詰め込んで黙らせる労力を考えれば、チョコを買って渡すことくらい、大したことない、はずだ。

「……義理チョコです」

一応、たまきは念を押しといた。

ミチはたまきの手から赤いパッケージを受け取ると、待ってましたとばかりに紙袋の中に放り込んだ。

「やった。たまきちゃんの『はじめて』、もらっちゃった」

「そ、そういうヘンな言い方、やめてください!」

たまきは慌てたように、恨めしげに、紙袋の中へと消えた赤いパッケージを見ようとした。それが完全に紙袋の中へと入ったのを確認すると、たまきは再び、「城」の方へと向かって歩き出す。

「ところでさ……」

たまきの横を歩きながらミチが口を開いた。

「今月末、俺の誕生日なんだよねぇ」

「知りません……!」

たまきは深くため息をついた。

 

写真はイメージです。

「来年こそは手づくりしようかなぁ」

志保は「城」のキッチンを見ながら言った。

「まだ手作りチョコって作ったことないんだよねぇ。ここの設備しっかりしてるから、頑張ればイケそうな気がする」

冬の夜、三人は「城」でまったりと過ごしていた。暖房の効いた部屋の中にいると、こういう場所があることにありがたみを感じる。もちろん、家賃は払っていないのだけれど。

「志保さんならできると思います」

ゴッホの画集を読んでいたたまきが、志保の方に目をやって告げた。

「まあ、来年もあたしがここにいれば、だけどね……」

志保はそうやって自嘲気味に笑う。

「そもそも、来年もカレシがいるかどうかわかんねぇもんな。あ、別のオトコに変わってたりして!」

亜美は悪戯っぽく笑いながら、テーブルの上に置かれたチョコの包みに手を伸ばした。3人で千円ずつ出し合って買ったものだ。

「もう……!」

志保は不満げにチョコに手を伸ばす。

「ところで、たまきは誰かにチョコあげなかったのか?」

「え? ま、まあ……」

たまきは、どうとでも解釈できそうな言葉でお茶を濁した。

「そう言えばさ、亜美ちゃん、いっぱいチョコ買ってたじゃん。なんかケースのやつとかさ。あれって男友達にあげたりしたの?」

亜美のチョコを咀嚼する口が止まった。

「いや……あれは……女友達にあげたから。友チョコだよ」

「男友達にはあげなかったの?」

「はっ。アイツらにやるチョコなんてねぇよ。まあ、チョコ代立て替えてくれるっつ―なら、渡してもいいけどな」

「えー、でも、あげようかなって思ったりしないの? バレンタインデーだよ?」

あれ、さっき、どこかでそんなこと言われたぞ、とたまきは思った。

「ほら、ヒロキさんとか、付き合い長いんでしょ?」

そういうと、志保は亜美の方ににじり寄る。ヒロキとは、亜美の客の中で、特に付き合いがある男の名前だ。たまきも、亜美とヒロキが二人で街を歩いているところを見ている。

「ここだけの話、あたし、亜美ちゃんとヒロキさんちょっといいかんじなんじゃないか、なんて思ってるけど、そこんとこどうなの?」

にやにやしながら亜美に尋ねる志保。だが、亜美は眉一つ動かすことなく、あっけらかんと答えた。

「ヒロキ? あーないない。そもそも、あいつヨメもコドモもいるし」

「なんだそうなの。じゃあしょうがないか……」

さらっと受け流してから、志保とたまきは、亜美がとんでもないことを言っていることに気づいた。

「えぇ!!」

志保が、壁が破れるんじゃないかってくらいの大声を出す。たまきは大声こそ出さなかったが、目を丸く見開いて、て亜美を見た。

「ん? どした?」

亜美だけがぽかんとしたように、チョコをポリポリかみ砕きながら、二人を交互に見ている。

「ちょっと待って? ヒロキさんって、奥さんも子供もいるの?」

「ああ、いるいる。それがマジウケることに、ヒロキの嫁って、うちの一個下なんだぜ。それでガキいるって、じゃあ何歳の時に結婚して、何歳の時に産んだんだよ、そもそも、何歳の時に手ぇ出したんだよ、ってハナシじゃん? ウチもそれ聞いた時はさすがに『こいつらやべぇな』って思ったよ」

「ちょっと待って? ちょっと待って?」

志保は頭が追い付いていないのか、亜美の話を制した。たまきは、あまりにも自分とかけ離れた世界の話なので、もう理解することをやめた。

「え? それ、不倫じゃん!」

「それってどれだよ」

「亜美ちゃんとヒロキさんの関係!」

「は?」

亜美は亜美で、いま志保に言われたことが理解できないらしい。

「不倫じゃねぇだろ。お互い、本気じゃないんだし」

「亜美ちゃん、結婚してる人とその……エッチすることは悪いことだ、ってのはわかってる?」

「あのな……」

亜美はまるで人の道でも説いて聞かすかのような顔で話し始めた。

「いくらからあげが好きだからって、毎日からあげ食ってたら、たまにはテンプラが食いたくなるだろ?」

前にもこんな話を聞いた気がする。

「あれ……ちょっと待って……あたし……思い出してきたんだけど……」

志保がより一層戸惑ったような表情になった。

「亜美ちゃんさ、クリスマスの時、『不倫はスジが通んない』って言ってなかった? そうだよ、不倫してた女の人、殴ろうとしてたじゃん! っていうか、ヒロキさんも『不倫した奴が悪い』みたいなこと言ってなかった?」

「そりゃそうだろ。不倫は悪いに決まってんじゃねぇか」

「でも、自分が不倫してんじゃん!」

「だから、お互い本気じゃねぇから不倫じゃねぇってば。っていうか、あんとき、お前の方こそ、不倫するやつの気持ちわかるみたいなこと言ってなかったっけ?」

「『気持ちがわかる』と『不倫してもいい』は別の話でしょ!」

志保は手ごろなクッションをソファにたたきつけた。

「相手の奥さんの気持ちとか考えたことあるの、亜美ちゃん!」

「相手の気持ち? 相手の気持ちねぇ……」

亜美はしばらく考え込むようなしぐさを見せた。

「ヒロキのヨメは何も知らねぇんじゃねぇかな」

「だから……そういうことじゃなくてさ……、相手の奥さんが傷つくんじゃないかとか……」

「何も知らねぇんだから、傷つくわけねぇだろ。そもそも、本気じゃないんだし」

「だから……そうじゃなくて……」

「あのさ……」

亜美はうんざりしたように志保を見た。

「嘘ついてオトコと付き合ってるような奴に、とやかく言われたくねぇんだけど」

亜美の声には、温度がこもっていなかった。

「嘘って……」

「あのヤサオに、なんも言ってねぇんじゃねぇの?」

「それは……」

志保が下を向く。

「自分のカノジョが嘘ついてて、実はクスリやってて、しかもそれずっと黙ってましたって、お前こそ相手の気持ち考えたことあんのかよ。あ、これも相手はなんも知らねぇから、別にいいのか」

「それは……わかってるけど……」

志保は沈黙した。唇が少し震えているようにも見える。

亜美は、「なんか文句あるか」と言いたげに椅子にふんぞり返っている。

たまきは、少し離れたところで画集を膝の上において、それを見ているだけだった。

亜美と志保の周りに、真冬の朝の冷気のように落ち着かない空気が漂っていた。一触即発、というのとはちょっと違う。むしろ、重苦しい何かで押さえつけられたような感じだ。

たまきはなんとなく、ゴッホが描いた、麦畑の上をカラスが飛んでいる絵を思い出した。ゴッホなら、今のこの部屋の空気を何色で書くだろうか。

何か言わなきゃ、たまきはそう思った。

以前、志保はたまきが亜美と志保の間をつないでいる、たまきはそこにいるだけでその役割を果たしてくれる、と言っていた。だったら、不穏な空気が漂う今こそその力を使うときなんじゃないのか。コンド―……、じゃなかった、緩衝材としての役目を果たすときなんじゃないのか。

だがしかし、何を言えばいいのだろう。普段でさえ何をしゃべればいいのかわからないのに、こんなに落ち着かない状態の時に言うべき言葉なんて、思い浮かぶわけがない。

亜美か志保、どっちかのフォローに回ろうかと思ったが、たまきの乏しい会話力では、フォローしきれそうにないし、どっちかの味方をしたらどっちかを怒らせてしまうかもしれない。そして、それをなだめる会話力も、やっぱりたまきは持ってない。

だったらいっそ、全然違うこと、意表を突くようなことを言って、場の空気を変えるという作戦がいいのではないか。だけど、今この状態で、二人が不穏な空気を忘れてノッてくるような話題なんてたまきにあるはずも……。

「あ、あの……」

たまきはそっと立ち上がると、たった今、必死で考えたフレーズを口にした。

「私、チョコレートあげました、ミチ君に……!」

その言葉を聞いた途端、凍り付いた空気が一気に蒸発したかのように、亜美と志保は驚いた様子でたまきの方に振り向いた。

「はぁ!?」

「えぇ!?」

「……義理チョコですけど……」

急に恥ずかしくなって、たまきは下を向く。

「なんで? そういうの興味ないって言ってたじゃん!」

志保がまるで裏切り者を問い詰めるかの如く、たまきに迫る。

「さっき会ったとき、あまりにもチョコをあげないのかとしつこかったから……チョコくらいいいかなと思って……」

「ダメだよたまきちゃん!」

志保がたまきの両肩をつかんだ。

「ダメだったんですか……?」

「ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!」

「でも……別にチョコレートをあげるくらい……」

「そういう小さいことを積み重ねていくと、だんだん押し切られるのが当たり前になっちゃうよ! もしエッチなことをさせてほしいとか言われたらどうするの?」

「それとこれとは話が違うんじゃ……」

「一緒だよ一緒! 亜美ちゃんからも何か言ってよ!」

志保が、さっきまで口論していたはずの亜美に助言を求める。

「志保の言うとおりだぞ、たまき」

亜美は腕を組んでたまきに言った。

「だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが」

そう言われると、そんな気もする。そもそも、たまきがこの「城」で暮らすようになったのだって、亜美に押し切られたからだったような気もする。

「だからいっそのこと、そのまま押し切られてオトナの階段を上るってのもありなんじゃね?」

「何言ってるの亜美ちゃん!」

志保は今度は亜美の肩をつかんだ。

「そうでもしねぇと、こいつは自分からオトナの階段上ったりしねぇって」

「だからってそんなやり方……傷つくのはたまきちゃんなんだよ?」

「お前さっき、そういうこと繰り返してけば、それが当たり前になるっつったじゃねぇか。押し切られるのはこいつにとって当たり前のことなんだから、当たり前のことやってなんで傷つくんだよ?」

「だから……そうじゃなくて……」

 

夜中。太田ビルの屋上で志保は電話をかけていた。街の明かりが志保のブラウンの髪を照らす。

「あ、チョコ、食べてくれたんだ。どうだった? おいしかった?」

そのあと、二言三言言葉を交わす。

「うん、あたしも。大好きだよ」

そう言って志保は電話を切ると、振り返った。

そこには亜美が立っていて、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、にやにや笑っていた。

「熱いねぇ」

「うわっ! 亜美ちゃん、いつからいたの?」

「ん、今来たとこだけど?」

本当はもっと前からいて、黙ってそこに立ってたんじゃないか、そんな気がしてきた。

「じゃ、じゃあ、あたし、部屋ん中戻るから……!」

志保が顔を赤らめて、そそくさと屋上を後にしようとする。志保の背中越しに、亜美が声をかける。

「大好きだよー!」

「やめて~!」

そんな叫びとともに、志保は階段を下りて行った。

「熱いねぇ……」

亜美はポケットから何かを取り出した。

紺色の包装紙に包まれた、ハート形のチョコレート。

亜美は軽くそれを上に向って放り投げ、落ちた来たそれをキャッチする、

そのままチョコを手に、亜美は屋上の柵にもたれかかった。

このまま、屋上から落としてチョコを粉々に砕いてしまおうか、とも思ったけど、怒られそうなのでやめにする。

亜美は無造作にビリビリと包装を破って中のチョコを取り出すと、かじりついた。

ガリッという音がして、チョコがちょこっと砕ける。

チョコは見た目に反して、少し苦かった。

自分で買ったチョコを自分で食べて、誰かに渡したつもりになる。

その「誰か」というのは、一体どこにいるのだろう。

つづく


次回 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」(仮)

田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。5月公開予定!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫」

ミチの家で夕飯をごちそうしてもらうことになったたまき。そこで、たまきは初めて、ミチの家族のことを知り、ある後悔の念に駆られる。「あしなれ」第24話、スタート!


第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


 

駅の南側に行ってみたのは、たまきにとって初めてだった。

駅の西側を南に向って歩いていくと、大きな通りにぶつかる。たまきもミチも知らないが、この道は遠く山の中へと続く街道だ。

その街道は今、大きな橋となっている。たまきは最初、橋の下には大きな川が流れているんだと思った。だが、ミチによると、橋の下にあるのは川ではなく、線路だという。

「こんな太い線路ってあるんですか?」

たまきは驚いてミチに聞き返した。この橋のサイズだったら、下には幅50mほどの大きな川が流れていると思っていたのだが、川ではなく線路だとすると、とてつもなく太い線路が走っていることになる。ということは、その線路の上をこれまた見たこともない巨大な列車が走っているということに……。

「ちがうよ」

たまきの少し前を歩いていたミチが、笑いながら振り向いた。

「何本もの線路がこの下に集まってるんだよ」

ちょっと考えればわかることだった。たまきは自分のバカみたいな妄想が恥ずかしくなってきた。

たまきは今、ミチの家に向って歩いている。生まれて初めて、男の子の家にお邪魔する。

 

夕飯を外ですまさなければいけないのに、財布を忘れてきてしまったたまき。たまきは最初、ミチにお金を借りようとした。

勇気を振り絞って生まれて初めて借金の申し込みをしたのだが、ミチの答えは非常にあっさりとしたものだった。

「あ、ごめん。俺もカネ、持ってない」

ミチは家を出るとき、「まあ、今日はそんなに長くいないし」と、百十円だけポケットに入れて出てきた。途中の自販機にその百十円を入れて、コーラと交換してしまったので、ミチも今、一円も持ってないのだという。

どうしようと途方に暮れるたまき。またしてもぐうとおなかが鳴る。この調子でおなかが鳴り続けたら、あと2時間ぐらいしたら空腹で倒れてしまうんじゃないか。そんな妙な不安が、空腹感と一緒に、たまきの胃の奥から喉元を締め付けてくる。

飢え死には、なんかヤだなぁ。

どうしようかとあたりをきょろきょろと見渡すたまき。だが、いくら見渡したところで都合よくお金や食べ物が落ちているわけでも、また、答えが書いてあるわけでもない。

そんなたまきにミチがかけた言葉は、これまたあっさりとしたものだった。

「あ、じゃあさ、ウチくる?」

「え?」

ミチの思いもかけない提案に、たまきの体は一瞬硬直した。

たまきにとって「初めて会う人」は最大の敵の一つなのだが、同じくらい「初めて行く家」も苦手である。男の子の家ともなればなおさらだ。

そもそも、ミチの家にはミチの家族がいるのではないか。知らない人に囲まれてご飯を食べるなんて。「気まずい」とはまさにこのことだ。

それに、ミチが一人暮らしならそれはそれで、女の子としてちょっと警戒しておかなきゃいけないような気もする。

「あ、あの、ダメです。そんな急に知らない人が行っても……、ミチ君の家族も迷惑だと思いますし……」

「あ、ウチっつっても、家じゃないんだ」

じゃあ、どこだ。

「俺の姉ちゃんが店やっててさ。スナック。まあ、俺が住んでるアパートの一階だから、ウチと言えばウチなんだけどさ。家にいるときはいつもそこで夕飯食ってるんよ。姉ちゃん、どうせ仕事でずっとキッチンにいるんだし、急にもう一人増えたからってそんな困んないよ」

「でも……私、お金持ってないし……」

「いいよいいよそんなの。この前、たまきちゃんに助けてもらったお返し、俺、まだ何にもしてないんだもん。そろそろなんかしねぇと、今度は姉ちゃんにボコボコにされるから」

「でも……」

「でも」といったはいいものの、そのあとに続くセリフがたまきには見つからなかった。セリフの代わりに、再びおなかがぐうと鳴った。

「じゃあ、決まり。ここから歩いてそんなかかんないから」

そういうとミチは歩きだしてしまった。たまきも仕方なしにその後ろをとぼとぼとついて行く。

こんな簡単に男の子に押し切られてしまうのは、女の子としてよくないんじゃないか、そんなことをちょっと思いながら。

 

画像はイメージです。

ミチとたまきは線路沿いのテラスを歩いている。地形からも、古い町並みからも自由なテラスの上は、完全な人口の空間だ。左側を見ると、削りたての鉛筆のようにとんがった建造物が見える。

一歩一歩と歩みを進めるごとに、緊張でたまきの鼓動が少しずつ高まっていく。知らない場所に行き、知らない人に会う。たまきが一番苦手なことだ。

「その……これから行くところって……ミチ君の実家なんですか?」

「ちがうよ。俺、出身、ヨコハマだし」

「……そうなんですか」

二人はテラスの階段を降りていく。すぐに踏切にぶつかるが、ちょうどいいことに、遮断機は上がっている。二人は線路を渡ると、右に曲がって線路沿いを歩いていく。

「姉ちゃんがさ、ちょっと歳はなれてるんだけど、ずっと水商売しててさ。それで、こっちでお店持たないかって話になって。雇われママさんっつーの? オーナーの人が店やってくれる人探してて、姉ちゃん、その人と知り合いだったみたいで、姉ちゃんに店やらないかって話になって」

ミチはたまきの前を歩きながら、ちらちらとたまきを振り返って話を続けた。

「それがちょうど俺の中学卒業の時期と重なっててさ。で、姉ちゃんと一緒にこっち来ないかって話になってさ」

「じゃあ、今、お姉さんと二人暮らしなんですか」

「二人暮らし……、なんつったらいいのかなぁ。そのスナックの二階がアパートになってて、スナックのオーナーがそのアパートの大家でもあるんよ。で、俺と姉ちゃんはそこに住んでんだけど、部屋は別々なんだよね。オーナーのご厚意、ってやつでちょっと安く貸してもらってるんだよ。だから、姉ちゃんには毎日会ってるんだけど、二人暮らし……ってわけじゃないかな」

ミチの話を聞きながら、たまきはひとつ気になっていることがあった。

さっきから、ミチの家族は「姉ちゃん」しか話の中に出てこない。

「じゃあ、お父さんとお母さんは、ヨコハマの実家にいるんですか?」

「お父さん? 誰の?」

「ミチ君のです」

「いや、俺、親いないし」

「え?」

たまきの足が止まった。

東京の家々の間を縫うかのような細い路地は下り坂になっている。空はすっかり暗くなり、いくつかの街灯が足元を照らしている。

ミチは少ししてから、たまきの足が止まっていることに気づいた。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「……初めて聞きました」

たまきは、息をのみ込んだように驚いた顔をしていた。

「……親は二人ともいないってことですか?」

「そうだよ? あれ、ほんとに言ってなかったっけ?」

たまきは無言でうなづく。

「そっか。言ったような気がしてたんだけどな。そういや言ってなかったかもなぁ」

ミチはぼりぼりと頭をかいた。

なんで親がいないんですか、とたまきは聞こうとした。だけど、そんな立ち入ったこと、聞いてもいいのだろうか。

そんなたまきの逡巡を察したのか、口を開いたのはミチの方だった。

「父親は最初からいないんよ。母親も俺がちっちゃいころに、俺と姉ちゃん置いてどっか行っちゃって。俺と姉ちゃんはずっと施設で育ったんだよね」

二人は、再び坂道を下り始めた。

「だから、『家族』ってよくわかんねぇんだよね。特に、『親』って何なのかさ。父親は知らないし、母親のこともほとんど覚えてねぇし。俺にとって家族とか親っていうのは、いねぇのが当たり前だからさ。姉ちゃんいるけど、まあ、姉ちゃんは家族っていうよりは姉ちゃんだし」

ミチは手を頭の後ろで組んだ。

「でもさ、テレビとか見てるとさ、家族の絆がどうとかさ、親の愛がどうとかさ、そういうドラマとか多いじゃん。だから、家族は仲が良くて、子どもは親が好きっていうのが、当たり前なのかなぁ、って思ってたんだけど、たまきちゃんの話聞いてると、そうじゃない人もいるんだね」

そう言ってからミチは最後に付け足した。

「まあ、よくわかんねぇんだけどさ」

ミチの話を聞いて、たまきは夕方に言った自分の言葉を思い出していた。

『ミチ君みたいな人にはわかんないですよ……きっと……』

もしかして自分は、とてつもなく失礼なことを言ってしまったのではないだろうか。

たまきは家族が苦手だ。両親が嫌いだ。

それでも、たまきにとって、それは当たり前にいる存在だった。

でも、ミチにとってはそうではなかった。

「あ、あの……」

たまきは駆け出すと、ミチの横に並んだ。

「さっきはごめんなさい。私、すごい失礼なことを……」

「いいよいいよ。親いないって言ってなかったんだし。普通はみんな、親いるわけだから、言わなきゃ普通わかんねぇって話だよな」

ミチの「普通」という言葉が、たまきにはどこかの別の国の言葉のようにも聞こえた。

「でも、知らなかったとしても、ミチ君は親がいないのに私、すごい失礼な……」

「っていうよりさ、むしろ、『親のいないかわいそうな子』って扱われることの方が嫌なんだよね」

「……ごめんなさい」

「だってかわいそうもなにも俺にとって親は『いない』のが当たり前なんだから。まあ、俺は姉ちゃんがいたから、そう思えるだけなのかもな。施設には荒れてるやつもいたし」

そういうと、ミチはたまきの方を見た。

「俺こそなんかさっき、いやなこと言っちゃったかも。ごめんね。悪気はないんよ。たまきちゃんの言う『家族』の話がさ、俺の聞いてた話と違うなぁ、って思って」

そう言ってから、ミチは少し照れ臭そうに笑う。

「なんか最近、謝ってばっかだな、俺ら」

「……ですね」

たまきも少し寂しそうに下を向いた。

 

写真はイメージです。

坂を下り続け、線路はいつの間にか高架へと変わっていた。高架をくぐる道におろされた柱に、駅名が書かれた看板が取り付けられている。どうやらここは駅らしいが、見たところ、駅舎らしき建物は見当たらない。

あまり大きな駅ではないみたいだが、それでも駅前はちょっとした商店街になっていた。ふと、わきに目をやると、さっきのとんがった建物が目に入る。

その商店街からちょっと路地に入ったところに、スナックが立ち並ぶ一角があった。ミチはその中のビルの一つの前に立った。すすけたビルで、2階はアパートになっているのだろうか、窓がいくつかあって、物干し竿がかかっている。

1階はお店になっていて、路上に看板が置かれていた。

看板にはひらがなで「そのあと」と書かれていた。

なんだろう、と思ってたまきはその看板を見つめていたが、どうやら、お店の名前らしい。

スナック、「そのあと」。

ヘンな名前。たまきはそう思ったが、言葉には出さなかった。

「ヘンな名前だろ? 姉ちゃんが店もらう前から、この名前だったみたいだぜ?」

そういうと、ミチは店の扉を開けた。

「ただいまぁ。姉ちゃん、友達連れて……」

ドアがバタンと閉まった。

たまきは、中に入らずにお店を見つめていた。暗い色の扉はなんだかものものしく、なんだか異世界の門のように来るものを拒んでいる。

再び扉が開いて、ミチが顔を出した。

「たまきちゃん、何やってるの? はいんなよ」

たまきはふうっとため息をつく。同時におなかがぐうっと鳴った。

 

お店の中は薄暗く、やっぱり違う世界に迷い込んでしまったかのようだ。

細長いお店の中にカウンターがあり、口紅のように真っ赤な椅子が並んでいる。カウンターの中のキッチンには、エプロン姿の女性が立っていた。

スナックのママ、という言葉の持つイメージに比べると、幾分か若い。亜美や志保よりも、たまきの姉よりも年上だと思うが、舞に比べるとずいぶんと若い気もする。

鮮やかな長い茶髪で、少しウェーブがかかっている。メイクは少し濃いめだが、厚化粧というわけでもなかった。

たぶんこの人がミチのお姉ちゃんなのだろうが、年が離れているせいか、目もと以外はあんまりミチに似てない気もした。

ミチのお姉ちゃんはたまきの方を見ると、にっこりと笑顔を見せた。

「いらっしゃい」

「こ、こんにちは……」

たまきは、自分がそこにいることそのものが申し訳ないかのように、うつむいてあいさつをした。

「あなたがミチヒロのお友達?」

「ミチヒロ」って誰だろう? とたまきはあたりを見渡したが、どうやら今まで「ミチ君」と呼んできた彼が、「ミチヒロ」らしい。

「ま、とりあえず座って」

 

ミチのお姉ちゃんに促され、たまきとミチはカウンターの前にある椅子に腰かけた。

椅子の上のたまきは、石像のように固まっている。

自分から名乗ったほうがいいのだろうか。いや、自分から名乗るべきなのだろう。

わかっているんだけど、どうしても言葉が出てこない。代わりにおなかがぐうと鳴る。

自己紹介ができずに今にも泣きだしそうなたまきだったが、先に声をかけたのはミチのお姉ちゃんの方だった。

「もしかして、あなたがひきこもりのたまきちゃん?」

どうして初めて会うのに自分の名前を知っているのだろう、という疑問より、どうして引きこもりだってばれたんだろうという疑問の方が、たまきの頭をもたげた。とりあえずたまきは無言でうなずいた。なんだが引きこもりであることも認めたようで少々腑に落ちないが、事実なのだからしょうがない。

「へ~。聞いてたイメージ通りだ~」

ミチのお姉ちゃんはそう言って笑った。たまきは横にいるミチを見ると、「私のこと、どういう話したんですか?」と言いたげににらんだ。

ミチのお姉ちゃんはミチの方を向くと、

「なんか、今までミチヒロが連れてきた女の子たちと比べると、この子、全然雰囲気違うね」

「ちょっ! 姉ちゃん!」

ミチは困ったように姉を見て、そのあとでたまきの顔色を窺った。今度はたまきは「今までに何人の女の子連れてきてるんですか」と言いたげににらんでいた。

「ミチヒロも人妻なんかと不倫してないで、こういう真面目そうな子と付き合いなさいよ」

どうやら、一連の顛末をミチのお姉ちゃんは知っているらしい。

「私は……真面目じゃないです……その……学校行ってないし……」

たまきは渡された原稿をただ読んでいるだけのようなたどたどしさで答えた。

「へぇ~。聞いてた通り、すごい人見知りなんだぁ。ふふ、かわいい~」

そういうとミチのお姉ちゃんはカウンターから手を伸ばし、ニット帽の上からたまきの頭を撫でた。

撫でられる、なんてあまり慣れないことをされて、たまきは身をよじって今すぐ店の外に駆け出したい衝動にかられたが、そうしたい、と思っただけでそれを実行できないのもまたたまきらしさである。椅子に座ったまま、されるがままに撫でられる。

ニット帽越しに撫でられる感触を感じ取りながら、たまきは前にもこんなことされたな、と思い出していた。

「で、ミチヒロ、なんだっけ? お夕飯用意すればいいんだっけ?」

「そうそう、二人分」

「焼きそばでいい?」

「たまきちゃん、それでいい?」

ミチはたまきの方を向き、たまきは無言でこくりとうなづいた。

「じゃ、作るね~」

ミチのお姉ちゃんは冷蔵庫から焼きそばの麺を三袋取り出した。

「ミチヒロは大盛でいいよね?」

「うん、お願い」

ミチとお姉ちゃんのやり取りを見ながら、たまきは自分の姉のことを思い出していた。

 

たまきの姉は、当たり前のことが当たり前にできる人だった。

やさしくて、おしゃれで、友達も多くて、勉強も運動もそこそこできる。人一倍優秀というわけでもないが、何でもそつなくこなせる人だった。

たまきはそんなお姉ちゃんが大好きだった。生来の人見知りだったたまきは、外に出るときはいつもお姉ちゃんの手を握り、お姉ちゃんの後ろを引っ張られるようについて行った。

たまきが学校に行けなくなって以来、父と母は時に腫物のように、時に邪魔もののように、時にわるもののようにたまきを扱った。でも、たまきの姉がたまきに接する態度は変わらなかった。

父も母も出かけたある土曜日、姉がたまきのひきこもる部屋にやってきた。

「お昼に焼きそば作ったよ」

たまきの目の前に焼きそばが盛り付けられたお皿が置かれた。

焼きそばから立ち込める湯気の向こう側に、姉の笑顔があった。

それがたまきにとっては、たまらなくまぶしかった。

どっか行ってくれないかな。

そう思った。

たまきは結局、焼きそばに手を付けなかった。姉はたまきの部屋を去る時、初めて悲しそうな顔をした。

別に、お姉ちゃんのことが嫌いになったわけじゃない。お姉ちゃんがたまきに冷たくしたわけでもない。

ただ、その存在がまぶしかった。

たまきのことを気にかけてくれたお姉ちゃんを、たまきはみずから遠ざけた。

さっきだってそうだったではないか。お金と食べるものがなくて困ってるたまきを、ミチは家まで連れてきて、ご飯を用意してくれた。

そのミチを、たまきは自分から遠ざけようとした。ミチがまぶしかったという理由で。

どうして、自分のことを気にかけてくれる人を、自分に手を差し伸べてくれる人を、自分から遠ざけてしまうんだろう。

どっか行っちゃえばいいのに。

それはミチに向けた言葉でも、お姉ちゃんに向けた言葉でもなかった。

たまきがたまき自身に向けた言葉だった。

つまるところ、たまきはお姉ちゃんのことが嫌いになったわけでも、ミチのことが心底嫌いなわけでもない。

自分のことが嫌いなのだ。

 

ミチとたまきの目の前に、ソース焼きそばの盛り付けられたお皿が置かれた。湯気がたまきの眼鏡を曇らせる。

たまきは割り箸を手に取ると、両手を合わせた。

「い、いただきます」

両手に力を込めて割り箸を割る。しなった割りばしが割れる瞬間が、あまり好きではない。

隣を見ると、ミチがすでに焼きそばにむさぼりついていた。

たまきはふうふうと息を吹きかけると、湯気に絡みつくソースのにおいと一緒に、焼きそばを口の中へと入れた。

空腹の極みに達してからの焼きそばは、無条件においしかった。

ふと、ミチが

「俺ちょっと、トイレ行ってくるわ」

と言って立ち上がる。

「え……?」

店の奥にあるトイレへと立つミチを不安げに見送るたまき。ミチがいなくなったら、今日、初めて会った人と二人きりになってしまう。

「ちょっと、食事中にそういうこと言わないの。黙っていきなさい」

ミチのお姉ちゃんはぶぜんとしたようにミチの背中に向けて投げかけた。トイレのドアがバタンと閉まる。

「全く、我が弟ながらデリカシーのない奴よ」

そういうとミチのお姉ちゃんはたまきの方を見た。

「どう? おいしい?」

たまきは慌てて焼きそばを飲み込んだ。

「は、はい。おいしいです。ありがとうございます。あ、あの、お金は後で必ず……」

「いいって、そんなの」

「でも……」

たまきはカウンターの上に掲げられたメニュー表を見た。焼きそば480円と書いてある。

「いいっていいって。たまきちゃんでしょ、ミチヒロのこと助けてくれたの。そのお礼よ」

ミチのお姉ちゃんは白い歯を見せた。

「こんなにちっちゃいのに、ミチヒロのこと、盾になって守ってくれたんだぁ」

たまきはなんて返事していいのかわからず、下を向いて黙々と焼きそばを食べ続けた。

しばらくして顔をあげると、ミチのお姉ちゃんはまだたまきを見てニコニコしている。

こういう状況が、本当に苦手だ。

どっか行ってくれないかな。

そんな言葉がまたたまきの頭をもたげたが、もうそんな風に考えることはやめよう、そう思った。

いきなり来て、お金も持ってないのに、お夕飯を作ってくれなんてぶしつけなお願いをしたにもかかわらず、ミチのお姉ちゃんはたまきのことを歓迎してくれている。

もう、そういう人を自分から遠ざけるのはやめよう。

たまきは顔をあげると、ミチのお姉ちゃんの目を見て、もう一度、

「おいしいです」

と言って、たまきにしては精いっぱいの笑顔を見せた。

すると、ミチのお姉ちゃんはたまきにグイっと顔を近づけた。たまきは少しひるんだが、逃げることなくこらえた。

「たまきちゃんてさ、ここ来るの初めてだっけ?」

「は……初めてです」

「だよね。いや、なんか見たことあるっていうか、誰かに似てるっていうか……。誰か芸能人とかに似てる、って言われたことない?」

「な、ないです……」

たまきみたいに影の薄い芸能人、いるわけない。

「そっかぁ……誰かに似てるんだよねぇ……」

ミチのお姉ちゃんがそう言ったタイミングで、トイレのドアが開いてミチが戻ってきた。

「あ~、すっきりした」

「ほんとデリカシーのない奴よ」

ミチのお姉ちゃんが弟をぎろりとにらむ。

ミチが帰ってきたことでたまきは少しほっとして、焼きそばをほおばった。焼きそばは少し冷めて、たまきの舌にはちょうどいい温度だ。

ミチのお姉ちゃんはその様子を見ていたが、突然、

「わかった!」

と声をあげた。

「なんだよ、姉ちゃん」

「この子なにかに似てる、って思ってたんだけど、わかった! クロだ! クロに似てるんだ!」

くろって誰だろう? とたまきはミチを見る。ミチも何のことかわからないらしく、

「クロって?」

と姉に聞き返していた。

「ほら、あんたが小学生ぐらいの時だからもう十年前か。施設に黒猫が迷い込んできてさ、みんなで『クロ』って名前つけてエサやってかわいがってたじゃん。この子、そのクロに似てるんだ!」

そんなわけない、とたまきは思った。たまきは人間である。ちょっと小型だけど人間である。いくらなんでも、ネコに似てるわけがない。

たまきはぶぜんとしたまま、焼きそばを口に運んだ。

ミチも、

「うーん、似てはないんじゃない。確かに、たまきちゃん、黒い服着てるけど、さすがにネコに顔が似てるってことは……」

「いやね、顔が似てるっていうんじゃなくて、なんていうのかな、雰囲気が似てるのよ。動き方とか、たたずまいとかさ」

そう言って、ミチのお姉ちゃんはたまきを指さし、

「ほら、この焼きそば食べてる姿もさ、なんかクロに似てるんだよねぇ」

そんなわけない、とたまきは思った。そのクロというネコは左の前足で割り箸を持って、焼きそばを食べていたとでもいうのだろうか。

「クロって最後どうしたんだっけ」

ミチのお姉ちゃんは弟の方を見て尋ねた。

「たしか……急にいなくなっちゃったんだよ。それで、自分の死期を悟って姿を消したんじゃないか、みたいなこと言ってなかったっけ」

「そうだったっけ。じゃあ、もしかしたら、この子、クロの生まれ変わりかも!」

そんなわけない、とたまきは思った。たまきはいま十六歳。そのクロというネコがいなくなったのが十年前なら、たまきはその時すでに六歳だ。生まれ変わりなわけがない。

「いやぁ、見れば見るほど、よく似てるなぁ」

そう言ってミチのお姉ちゃんは再びたまきの頭に手を伸ばして撫でた。

「ほら、この撫でてる時の嫌そうな表情とか、ほんとそっくり」

嫌そうだとわかってるなら、やめてくれればいいのに。

 

焼きそばを食べ終えて少し休憩すると、たまきは立ち上がった。そろそろ帰らないと、たまきみたいな年の女の子がこういう店に夜遅くまでいてはいけない気がする。

「あの、私、帰ります。焼きそば、ごちそうさまでした。おいしかったです」

たまきはぺこりと頭を下げた。

「またご飯食べに来なよ。水曜と金曜は、ランチタイムやってるから」

ミチのお姉ちゃんは、フライパンを洗いながら答えた。

「ああ、あの、あまりお客さんが入らないランチタイム?」

「うるさいな」

ミチのお姉ちゃんは弟をにらみつけた。

「じゃあ、帰ります」

「うん、またね」

そう言ってミチが片手をあげたとき、ミチのお姉ちゃんがフライパンをミチの頭の上に振り下ろした。ガンという鈍い音が聞こえて、たまきも何事かと振り返る。

「いってぇ! 姉ちゃん、何すんだよ!」

「『うんまたね』じゃないでしょ! ちゃんと送ってあげなさい!」

「あ、あの、私、大丈夫です。一本道ですし……」

たまきは申し訳なさそうに言った。

「ダメダメ。もうすっかり暗くなってるし、人通り少ないからあぶないよ。ミチヒロ、送っていきなさい。その不法占拠してるビルまでとは言わないから、駅の近くの明るいところまで」

たまきは「不法占拠とか勝手に話さないでくれますか」と言いたげに、ミチをにらんだ。

 

写真はイメージです。

行きはひたすら下っていたが、その分、帰りは上り坂が続く。ミチのお姉ちゃんが言うとおり、あたりは深夜と見まがうほどに暗くなり、街灯が寂しく灰色のアスファルトを照らしている。行く手には鉛筆みたいなビルがそびえたつ。とんがった先端がやけに明るくライトアップされ、なんだか空に向かってビームでも放ちそうだ。

二人はほとんど会話することなく歩いていたが、たまきの歩く姿を横目に見ていたミチが口を開いた。

「でも、たしかにたまきちゃんって、ネコっぽいかも」

「え?」

「いや、今歩いてる感じも、なんかネコっぽいんだよねぇ」

たまきは自分の足元を確認した。

そんなわけない。たまきはちゃんと、二本足で歩いている。

「なんですか、二人そろって。人のことを動物みたいに」

「え、でも、ネコってかわいいからいいじゃん」

「動物じゃないですか」

たまきは口をとがらせながら言った。

「似てると言えば……」

そう言ってから、たまきはそこから先を言っていいものかどうか、ちょっと迷った。でも、さっき、ミチのお姉ちゃんもその話題を口にしていたので、別にいいかと、たまきは言葉をつづけた。

「ミチ君のお姉さん、誰かに似てるって私も思ってたんですけど……」

「へぇ、だれだれ?」

「……海乃って人に似てる、って思いました」

ミチは何も答えなかった。

「……ミチ君のお姉さんの方が、やさしいかんじでしたけど」

たまきはミチの方を見た。ミチは口を真一文字に固めて、少しこわばったような表情をしていた。

それを見たたまきは珍しく笑みを、それこそ、ネズミを捕まえた子猫のような笑みを浮かべた。

「もしかして、海乃って人が好きだったのは、お姉さんに似てたからですか?」

ミチはしばらく何も言わなかった。やがて、恥ずかしそうに一言だけつぶやいた。

「おかしい……?」

「いいえ」

たまきは少し微笑んでいった。

「私も私のお姉ちゃんのこと、大好きですから」

「あれ? 家族きらいなんじゃなかったっけ?」

「お姉ちゃんは……お姉ちゃんです」

街灯に照らされた二つの影は、つきそうでくっつかない、微妙な隙間を開けながら、坂道を登って行った。

つづく


次回 第25話「チョコレートの波浪警報」

次回はバレンタインのエピソードです。2020年2月14日、バレンタインに公開します! 続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

田代と一緒に映画を見に行く志保。3人はばらばらの行動をとることに。行く当てもなくいつもの公園を訪れたたまきだったが、あるミスを犯したことに気づいてしまう……。そんなあしなれ第23話、スタート!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「じゃ、行ってくるね」

いつもより少しばかりおしゃれした志保が玄関で、玄関と言ってもマットが敷かれ、靴が置いてあるだけの玄関で、靴を履き始めた。

「なあ、その映画、おもしろいの?」

ソファで寝ころびながら亜美が尋ねた。

「まだ見てないんだから、おもしろいかどうかなんてわからないでしょ?」

志保はちょっと高めのおしゃれな靴を履くのに苦戦していた。

「どういう映画?」

「えっとね、高校生の女の子5人組が、学校に、部活に、恋に、青春に駆け抜けてくってお話」

「フツ―!!」

亜美はソファの上で両手両足を大きく伸ばした。

「ふつう……ですね……」

たまきもソファの上で体育すわりをしながら、ぼそっとつぶやく。

「普通が一番だって」

志保はようやく靴をかけたようで、ドアノブに手をかけた。

「というわけで、今日は遅くなります。お夕飯は各自で、ってことで」

「今日帰ってこない、ってこともあるかもな」

亜美は起きやがるとにやにやと白い歯を見せた。

志保はドアを半分開けたが、亜美の言葉にくるりと踵を返すと、靴のまま亜美のもとへと詰め寄った。

「だから、何度も言うけど、私と田代さんはまだそういう関係じゃないんだから!」

「まだ、ねぇ」

亜美は相変わらずにやにやしている。

「よしんば、そういう関係だったとしても、あたしはそんな簡単に外泊したりとかしないから! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」

「よしんば」

亜美は「よしんば」という言葉が面白かったのか、口元を抑えて笑った。

「よしんば、よしんばだよ、よしんばそういう関係だったとしても、デートするたびにエッチするとか、あたしはそういう……」

「よしんば!」

「よしんば」がよっぽど面白かったのか、亜美はソファの上で笑い転げた。

「……とにかく、行ってくるから!」

志保は亜美に勢いよく背中を向けると、「城(キャッスル)」を出て行った。

「よしんばがんばって来いよー!」

志保の背中に向けて亜美が元気に手を振った。

ドアがバタンと閉まる。亜美はよいしょっと立ち上がった。

「オトコと映画なんか見に行って、なにが楽しいんだろ?」

「……楽しいんじゃないですか、たぶん」

たまきが体育座りのまま答えた。

「どのへんが? だって、映画館って真っ暗じゃん。二人で行ったって、相手の顔、見れないじゃん」

「映画館って、真っ暗なんですか?」

たまきはまっすぐに亜美を見上げた。一瞬、会話が途切れる。

「そこ!?」

「……どこですか?」

「いや、そこ引っかかるところか? 映画館は真っ暗に決まってんだろ?」

「そうなんですか?」

「そうなんですかってお前、映画館行ったことねぇの?」

たまきは無言でうなづいた。

「でも、真っ暗だったら、なか、歩けないですよね。トイレとかどうするんですか?」

「ぜんぶ真っ暗じゃねぇよ! 映画始まったら真っ暗にするんだよ!」

「なんでですか?」

「なんでって……」

「だって、テレビ暗くして見てたら、怒られるじゃないですか。なんで映画は真っ暗で見るんですか?」

「……なんでだろう?」

亜美は首をかしげたが、やがて、もうこの話題に飽きてしまったのか、衣裳部屋の方を見ると、

「ウチも出かけてくるわ。お前はどうする?」

とたまきに尋ねた。

「私も……出かけます……。ここに残っても、お夕飯ないし……」

「別に無理して出かけなくても、下のコンビニでなんか買って食えばいいじゃん」

「……そういう気分じゃないんで。ちょっと出かけたいかも……」

「へぇ。お前にしては珍しい」

亜美は笑顔を見せると、衣裳部屋の方に歩き出した。

一方、たまきは、言ってはみたものの出かけるあてもない。

「あ、あの、亜美さんについて行っちゃだめですか?」

衣裳部屋のドアノブに手をかけたまま、亜美の動きが止まった。

亜美が答えたのはしばらくたってからだった。

「……隣町のヘアサロン行くからさ、お前来ても、おもしろくないと思うぞ」

亜美はたまきの方には振り返らなかった。

「ヘアサロン……」

志保に「いつもと同じでお願いします」とだけ言って髪を切ってもらっているたまきにとって、美容室というだけでも十分に敷居が高いのに、「ヘアサロン」だなんてどこかの宮殿みたいな名前を出されたら、それだけで委縮してしまう。高い入場料でも取られるんじゃないだろうか。

おまけに、うわさに聞く美容師という職業の人たちは、黙って髪を切ればいいものを、どういうわけか話しかけてくるという。知らない人に髪を触られたり、顔を見られたりする時点ですでに嫌なのに、おまけに話しかけてくるだなんて。

だが、そんなことを言ってたら、また亜美から「何うじうじしてるんだよ」とか「どうでもいいじゃん、そんなの」とか言われてしまいそうだ。たまきももう十六歳なのだし、いいかげん人並みに美容院くらい行けるようにならないといけないのではないか。

そうだ。美容院に行ったら、ずっと目をつぶっていればいいのだ。そしたら無理に話しかけられることもないだろう。

「あ、あの、私も行きます、ヘアサロン」

そう言ってしまってから、たまきは亜美の反応が怖かった。驚かれるんじゃないか。もしかしたら、笑い飛ばされるかも。

そう思ってドキドキしていたが、しばらくたっても、亜美は何も言わない。

「……その、私も少しおしゃれしたほうがいいかなって……」

心から思っているわけではないセリフを言うと、どうしても言い訳がましく聞こえてしまう。

「あ、あのさ……」

亜美がようやく口を開いた。振り返らないままだが。

「その美容院、予約制なんだよね」

「よやく……ですか……」

「……そ。かなり人気のところでさ、今から予約しても、無理だと思うぞ」

「……わかりました」

たまきの返事を聞くと、亜美はまるで魔法が解けたかのように動きだし、衣裳部屋の中へと入っていった。

「ヘアサロン」に行かなくていいということで、どこかほっとしている自分がいることに、たまきは気づいていた。

あと二つ、たまきが気付いたことがある。

一つは、亜美が「隣町のヘアサロン」から帰ってきても、きっと髪型は変わってないということ。

そして、亜美はきっと今、ほっといてほしいんじゃないかということ。なんとなくだけど。

 

写真はイメージです

志保は映画館の前で一人、田代を待っていた。ベージュのコート、赤いマフラーに身を包み、街路樹のように立っている。

歓楽街の中にある映画館。真冬の風の中を多くの人が行きかう。

自分の吐いた息が白い靄のように立ち込め、消えていくさまを志保は見つめていた。

待つ、という行為を、志保は決して嫌いではない。

時に、恋愛の本質とは相手と一緒にいる時間よりも、相手のことを想いながら待つ時間にあるのではないか、と思えるほどだ。

緊張からか自分の鼓動が少し早いのを感じる。今日の服やメイクはこれでよかったのかと少し不安になる。田代が来たらなんて話しかければいいのか考え始めると答えは尽きない。

不安。

焦燥。

緊張。

それすらも、それすらも心地よい。

古い短歌なんかには、こういう相手を待つ時間のじれったさを歌ったものがいくつかあったはずだ。今も昔も、「相手を待つ」というのは恋の醍醐味なんだと思う。

もっとも、以前にそんなことを亜美に話したら、「ウチは5分待たせるオトコはコロス」と物騒なことを言っていた。

ふと、視線を感じて志保は背後を振り返った。

初詣の時みたいに、またトクラがどこからか見ているんじゃないだろうか。

志保はキョロキョロと周りを見渡す。周囲の建物の窓、さらには屋上にまで目線を送る。屋上からトクラが双眼鏡で覗いているんじゃないだろうか。

結局トクラの姿は見つからなかったが、それでもどこからか感じる視線はぬぐえなかった。

待ち合わせ時間の4分前となった。白い吐息が晴れてくると、そこに田代の姿があった。

黒のジャケットを着こみ、両の手をポケットに突っ込んでいたが、志保と目線が合うと、ポケットから手を出した。

「待った?」

「ううん、今来たとこ」

本当は六分前からここにいた、なんて言うのは野暮というものだ。

「チケットはもう買ったの?」

「ううん、これから」

「じゃ、行こうか。席、どの辺がいいかな」

「うーん、前の方かな」

志保は笑顔で答えていたが、内心では困っていた。事前に用意していた、いくつかの気の利いたセリフが、田代の顔を見たとたんにどこかに飛んで行ってしまったことに。

 

写真はイメージです

赤い薄手のセーターに黒の革ジャンを着て、亜美は駅へと向かって歩いていく。途中、デパートに立ち寄って12個入りのお饅頭の箱を購入した。

デパートを出て再び真冬の街の中を駅に向かって歩いていく。

お饅頭の入った手提げ袋を亜美はぶんぶんと大きく振りながら歩いていた。しかし、ふと立ち止まり、手提げ袋に目をやる。あまり振り回すと中身のお菓子によくないのではないか、そう思い直したのか、手提げ袋を持った右腕をだらんと下げ、なるべく動かさないように歩き出した。

歓楽街から駅までの間は、真ん中に街路樹があるせいか、ほとんど車が通らない。大通りと大通りに挟まれたこの一角は道いっぱいに歩行者が広がっている。

亜美は左に曲がった。このまままっすぐ行けば駅だ。

その時、カップルとすれ違った。

男の方も女の方も割と背が高い。二人ともサングラスをしていたが、すれ違っただけでも美男美女であることは分かった。

今のやつら、どっかで見たことあるぞ。亜美は直感的にそう思って振り返った。別に急いでるわけではないので、後をつけて誰だったか確かめようかとも思ったが、振り返った時には二人はもう雑踏の中に消えていた。二人とも黒っぽい服装をしていた気がするが、冬の大都会にはそんな服装の人は多すぎて、逆に見つけられない。

ま、いっか、と亜美は駅へと向かうスクランブル交差点を渡り始めた。とはいえ、あれが一体誰だったのかちょっと気にはなる。

女の方を思い出したのは、交差点を渡ってすぐだった。

確か、志保と同じ施設に通っている女だ。名前は知らないが、亜美は確か二回会っているはずだ。

一回目は十月に行われた大収穫祭の時。確か、クレープを焼いていた女だ。

まあ、それくらいなら亜美もいちいち覚えちゃいない。

亜美がその女の顔を覚えていたのは、十日ほど前にも見ていたからだ。初詣に行った神社で志保と偶然に会ったらしく、何やら話していた。そう言えば、服装もさっきとほぼ一緒だった気がする。

女の方を思い出せてちょっとすっきりしたが、男の方は思い出せない。

まあ、どうでもいいや。たぶん、志保と同じ施設の人で、大収穫祭の時に見たのをたまたま覚えてたんだろ、と亜美は気にせず、改札を抜けた。

駅構内はまるでゲームに出てくる洞窟やお城のように、広大で、入り組んでいる。その中を溢れんばかりの人が縦横無尽に行きかう。

初めてこの駅を降りたときに、あまりの人の多さに亜美は、その日は何かのお祭りをやっているんだと思った。駅を出ても人の波は収まらず、やっぱりどこかで大きな祭りをやっているんだと思った。それが何でもない木曜日の午後の日常の風景にすぎないと知って、亜美は思わず「ウソだろ」と口にしていた。

あれから一年ぐらいが経った。いつの間にか、この町にもこの駅にも慣れてしまった。

大人になるというのは、そういう風に特別だと思っていたことが当たり前になっていくことなのかもしれない。亜美にだって小学校の頃は男子とちょっと手を握ったくらいでドキドキした時代もあった。今となっては信じられないが。それが今では、手をつなぐどころか、男と夜にベッドを共にすることすら、何でもないことだ。

そのうち、結婚とか出産とか子育てとか、今の亜美には想像もつかないようなことが、日常になり、当たり前になり、何でもないことになるのだろう。

誰かと結婚するなんて想像もつかないし、今の亜美は結婚なんてするつもりはさらさらないのだが、それでもいつか、なにかの手違いで結婚しているかもしれない。だが、エプロンをつけて赤ん坊を抱えて「あなた、行ってらっしゃい」なんて微笑む奥さんに自分がなるとは想像つかない。ダンナに金渡して「めんどくせぇから勝手に外で食え!」ってタイプの鬼嫁にはなれるだろうが。

今の亜美は迷子にならずに人ごみの中をかき分けて、迷路のような駅構内を当たり前のように歩いている。それと同じように、当たり前のように結婚して、子供産んで、孫ができて、「結婚とか想像つかねー」とか言ってた自分が嘘みたいに色あせていくのだろう。

それが大人になる、ということなのであれば、なんかヤだな。

だって、大人になって、いろんなことが当たり前になって、行きつく先はどうせ死である。棺桶である。墓場である。

特別だと思っていたことが一つずつ当たり前になっていく。そして最後には、死ぬことすらも当たり前のことになっていく。周りで家族や友達が死んでいくことが当たり前になっていき、最後には自分が死ぬことも当たり前になるのだ。

亜美は「普通」が嫌いだ。亜美にとって普通は退屈そのものである。だが、このまま生きていれば自分はどんどん大人になっていく。特別だと思っていたことがどんどん普通のことになっていく。どんどん退屈になっていく。

明日のことなんてどうでもいい。今日が楽しければそれでいい。亜美はそう思っているのだが、それでも大人になっていけば今日がどんどん退屈なものになっていく。

だったらたまきみたいに美容院に行くか行かないかでおろおろしたり、志保みたいに映画館に着ていく服を一時間もかけて選ぶ、何でもないようなことを人一倍気にしてしまう、そういう人生の方が案外退屈しなくていいかもしれない。

発車メロディが鳴り、電車のドアが閉まる。亜美を乗せた電車がガタゴトと北へ向かって走り出す。

亜美はドアにもたれかかって、目線をあげた。その途端、「あ」と声を漏らした。

電車の上部に掲げられたビールの広告のポスター。ビール缶を片手に、若い男性が笑みを見せていた。

さっきすれ違ったカップルの男の方だった。名前は知らないが、最近テレビで顔を見る。どこかで見たことがあると思ったら、そういうことだったらしい。

 

「そうやってさ、すごく特別だったことがさ、少しずつ当たり前になっていくんだよ。手をつなぐこととか、キスとか、デートとかさ。そうやって、みんな少しずつ大人になってくんだよ」

「でも、それって、ドキドキすることが一つずつ減ってくってことじゃない? だったら私、大人になんかなりたくない」

「でも、そんなこと言ったってさ、どっかで大人にならなきゃいけないし。それに、周りのみんなはどんどん大人になっていくんだよ?」

スクリーンに映し出された二人のセーラー服の少女が、海岸線の道路を歩きながら話している。一人は青空をバックに堤防の上を歩いている。

志保はそのシーンを、ポップコーンを口に運びながら見ていた。手にしたポップコーンがちょっと多すぎたのか、2つばかり手からこぼれてひざの上に落ちる。志保はその二つを手に取ると、隣の田代を見た。暗いながらも、田代がまっすぐスクリーンの方を見ているのを確認すると、ひざの上の二つを自分の口へと放り込んだ。

映画館が暗くて本当に良かった。こんな、ちょっとはしたないところも見られずに済むのだから。

映画が始まって一時間。Lサイズのコーラはもう空になってしまった。にもかかわらず、のどが渇く。志保はもう一度、田代がこちらを見ていないことを確認すると、紙コップにつけられたプラスチック製のふたを、音をたてないように取り外した。氷を一個つまむと、素早く口の中に放り込む。映画館が暗くて本当に良かった。

当り前じゃなかったことが一個ずつ当たり前になっていく。そうやって、みんな大人になっていく。氷を口の中で溶かしながら、志保は映画の中の言葉を反芻する。

人生とはおおむねそういうものだ。小学生の時は中学生になることにドキドキした。町でかわいい制服や部活のジャージに身を包む、自分よりも背の高い女子中学生に会ったときはあこがれを抱いた。と同時に、自分もあと何年かしたら彼女たちと同じ中学生になる、ということが信じられなかった。

あんなにも信じられなかったのに、いざ中学生になってみると、いつの間にか中学生であることが当たり前になっていった。

あの時、ふと怖さを感じたことを志保は覚えている。

そのうち当たり前のように高校生になり、当たり前のように大学生になり、当たり前のように就職する。当たり前のように彼氏ができて、当たり前のように結婚して、当たり前のように母親になる。

なんだか、自分の人生がすでにゴールまで決まっているような気がした。漫画っぽく言えば「ネタバレ」というヤツだろうか。読んだことはないけれど、要所要所の展開はすでにネタバレされている漫画を、「ああ、ネタバレ通りの展開だな」と確認していく作業。

それは志保にとって、退屈を通り越して、ある種の恐怖だった。

社会のどこかに「理想の人生」っていうのがあって、そのために必要な進学とか就職とか結婚っていうアイテムを一個一個回収していくだけの作業が人生なのだとしたら、自分はいったい何のために生まれて来たのだろう。

志保は人生がそういった作業であることを受け入れることが、たまらなく怖かった。かといって、だったら自分は学校なんか行かない、結婚もしないなどと言い切れるわけでもなかった。現に、今もこうやってデートに来ている。人並みの幸せってやつをただただ回収していくだけの人生に違和感を覚えながらも、人並みの幸せってやつを欲し、満喫しようとしている。クスリの快楽と引き換えに捨てたはずの「人並みの人生」に、どうにかして戻る道はないのかと考えている。

一度過ちを犯した人間が、困難を乗り越えて、人並みの幸せを手に入れる道に戻ってくる。世間的にはそれを「立ち直る」というのだろう。きっと今、志保に関わってくれるほぼすべての人が、志保がそうやって「立ち直る」ことを望んでいるはずだし、志保自身もそれを望んでいるはずだ。いや、立ち直れなければ堕落するだけ。「立ち直る」以外に選択肢なんてないはずだ。

スクリーンの中ではシーンが切り替わる。テニス部に所属する主人公の少女が、コートで練習に励んでいる。演じている女優はこの前まで別の映画で主演していた。その時は確か病気で余命宣告をされたはかなげな少女の役だったが、今はユニフォーム姿で青空のもとでラケットを振っている。

ホイッスルが鳴り、コーチが少女にフォームの指導をする。少女はこのコーチに片想いをしているらしい。コーチ役の俳優は最近出てきた人で、この前電車に乗った時は缶ビールのポスターに映っていた。

スクリーンの中の少女が恋焦がれるコーチに向ってほほ笑む。志保と同年代の女優さんは、誰よりも美しく、誰よりもまぶしく、誰よりも輝いているように見える一方、ただ決められたセリフを読み、求められている演技をこなしているだけのようにも見えた。あの子が急に「やってらんねぇよ!」と叫んで、コーチに馬乗りになってぼこぼこに殴りだしたらもっと面白いのに。

 

いざ外に出たはいいものの、どこか行きたい場所があるわけでもなく、たまきは当てもなく北に向かって歩き出した。

病院と交番のわきを通り過ぎ、公園を抜けて舞のマンションのそばを通る。

舞の家に行こうかとも考えたが、たしか今、舞は正月休みを兼ねて、友人とどこかに旅行に出かけてしまった。「あたしがいない間、絶対にトラブルを起こすな」という脅迫めいた言葉を置き土産に。

さらに北へと進む。韓国料理のお店が立ち並ぶ大通りに出た。これ以上向こうに入ったことがないので、たまきは引き返した。

とぼとぼと来た道を引き返し、再び太田ビルの前に戻ってきたが、カギは亜美が持っているので夜にならないと「城」にも入れない。仕方がないので、今度は南へ、駅へと向かってとぼとぼと歩き出した。

東京のど真ん中、こんなにも人がいっぱいいて、こんなにも建物が、お店がいっぱいあるのに、行きたい場所がどこにもない。

この町で暮らすようになって半年がたったが、やっぱりたまきはこの町にもなじめていないようだ。

道路を渡り、線路をくぐり、地下道に入る。いつも公園に向かう道だ。別に公園に何か用事があるわけでもないし、今日は絵を描く道具など持っていないのだが、ほかに行くところもないので、たまきは公園へと足を向ける。ここでいつもと違う道に入ってみたり、いつもと違うお店に行ってみたり、そういう冒険をたまきはしない。

公園に入るとたまきは仙人の暮らす「庵」へと向かった。赤茶色の落ち葉の向こうにベニヤ板のお化けが、木々に隠れるように立っていた。

少し近づいて覗き込んでみたが、仙人はいないようだ。そう言えば、仙人たちホームレスは空き缶を片手に町中駆けずり回ってお金をもらっていると、前に言っていた。今頃、町中を駆けずり回っているのかもしれない。

たまきはいつもの階段に足を向けると、一番下の段に腰掛けた。

こんなことなら、亜美の言うとおり、「城」でごろごろして、コンビニでおにぎりでも買って食べてればよかった。

それでも何となく一人ぼっちになりたくなくて外に出てきたが、外に出てもやっぱりたまきは一人ぼっちだった。

一人になると余計なことをいろいろと考えてしまう。

志保はデートに出かけてしまった。

亜美はどこに行ったか知らないが、どうせ男がらみだろう。

たまきだけ、ひとりぼっち。デートをすることもなければ、会いに行く友達もいない。そういったこととさっぱり縁がないし、どうしたらみんなと同じことができるようになるのかもわからない。やっぱりたまきは、かわいそうな子なのだ。

周りのみんなは学校に行って、友達を作って、恋をして、仕事をして、階段の上の方へどんどん上がっていく。まるで、それが当たり前のように。そうやってみんな、当たり前のように大人になっていく。

たまきだけ階段の一番下の段にうずくまって、ただ上を見上げているだけ。階段の昇り方なんてわからないし、誰も教えてくれない。みんながたまきのいる段を通り過ぎて、どんどん上に昇っていくのを、恨めしげに見上げるだけだ。

階段なんて昇れるのが当たり前。だから、誰もたまきに昇り方なんて教えてくれない。当たり前のようにできることをどうやって教えろというのだ。

別にたまきはカレシが欲しいわけでも、恋をしたいわけでもない。

ただただ、人並みになりたいだけなのだ。

みんなと同じように階段を昇れるようになりたいだけなのだ。

他の人が当たり前のようにしていることを、当たり前にできるようになりたいだけなのだ。

 

写真はイメージです

「よっ」

たまきが腰かけている階段の上の方で声がした。振り返って見上げると、ギターケースを抱えたミチがいた。グレーのジャンパーを羽織り、手には飲みかけのコーラの缶を持っている。

たまきは、無言で軽くお辞儀をした。

「なんか今日、いつもより下の方にいない?」

ミチは階段の中ほどまでは降りてきたが、そこで足を止めた。

「そんな下の方にいないで、こっちあがって来れば?」

ミチは階段の中ほどに腰掛けると、横にギターケースを置いた。

たまきは背中を丸めて、深く深くため息をつく。白い息がもやもやと怪しげに揺れる。

ミチこそ、たまきから見れば階段の上の方にいる人間である。トラブルになったものの、ついこの前まではカノジョがいた。

それに、ミチには夢がある。プロのミュージシャンになるという夢が。たまきにはない夢がある。

今のたまきにとって、ミチはあまりにもまぶしすぎた。

ミチはギターを弾きながら歌い始めた。まだ歌詞はついていないらしく、ラララと歌っている。軽やかにギターをかき鳴らし、ハイトーンでありながらもちょっとハスキーな声で、のびやかに歌っている。

普段は好きなミチの歌も、こんな時に聞くとなんだか後ろから幾千もの針で心を貫かれたかのようだ。

どっか行ってくれないかな。たまきはそんなことを思った。

思っただけで、それを言葉や態度には表さない。たまきはそこまで子どもではない。ミチのことを嫌いと口にしたり、本人に言ったりすることはあっても、嫌いだ嫌いだと醜く顔を歪めて喚いたり、あからさまな態度に表すようなことはしないのだ。

一曲歌い終わるとミチは「ありがとうございました」と世の中に対してあいさつした。そうして、たまきの方に顔を向ける。

「いつまでもそんな下の方いないで、こっちあがって来ればいいじゃん。何? 下の方、好きなの?」

「……私の勝手です」

こういうミチの妙になれなれしいところが嫌いだ。初めて会った時から、ミチはなれなれしかった。なれなれしいという意味では亜美も同じなのだが、亜美とミチで決定的に違うところが一つある。

亜美はたまきがほっといてほしい時、不思議とほっといてくれるのだ。

一方、ミチはたまきがほっといてほしい時も、ずかずか入り込んでくる。今、まさにそうであるように。

クリスマスの一件で少しはミチも変わったかと思ったが、三つ子の魂百まで、そんなに簡単に人は変わらないようだ。

「そういやさ、今日、絵描いてないじゃん。正月休み?」

「別に……」

ミチの問いかけにたまきは振り向くことなく答える。

「ひきこもりにも正月休みってあんの?」

「知りません」

「そういや、お正月に実家とか帰ったりしたの?」

「……帰ってません」

「なんで?」

ミチの無神経な言葉に、たまきは初めて振り返った。ミチは階段の何段か上の方で、ギターを抱えてたまきを見下ろしている。

「実家帰ったら家族とかいるんでしょ? 会いたいとか思わないの?」

「思いません……!」

「なんで? 家族なんでしょ? 家族と離れてたら会いたいって思うのは当たり前なんじゃないの?」

ミチは、わからない、といった顔でたまきを見る。

「……家族のことが好きだったら、そうなんじゃないですか……?」

「たまきちゃん、家族のこと、嫌いなの?」

「……はい、たぶん」

もうたまきはミチを見ていなかった。ミチに背を向け、背中を丸め、自分のスカートのすそをじっと見ていた。

「なんで? だって、家族でしょ?」

気が付けば時計は午後四時半を回り、すでに日が沈み、西のビルの輪郭線から夜が空を侵食し始めていた。空は薄い藍色に染まり、そこから降りてきた影がたまきの背中をべったりと濡らしたかのようだった。

「ミチ君みたいな人にはわかんないですよ……きっと……」

感情を押し殺した声でそう答えるのが、たまきには精いっぱいだった。

「……かもね」

ミチはどこか寂しそうにその言葉を受け止めた。

「でも、普通はみんな、家族好きなんじゃない?」

「私は……ミチ君みたいに、普通じゃないんです……」

家族が好きだと、普通に言える家庭だったらどんなに良かったか。

わかってる。普通じゃないのは自分の方なんだ、ということを。世間的にはたまきより両親の方がよっぽど普通なんだろう。別に虐待を受けたわけでもないし、意地悪な両親だったわけでもない。

ごく普通の両親と、ごく普通の長女がいる家に、普通じゃない次女が生まれてしまったことが間違いなのだ。両親はたまきを普通の子どもとして、お姉ちゃんと同じように、当たり前のことが当たり前のようにできる子どもとして育てたかったけど、たまきはその期待に応えられなかった。やっぱりたまきが悪いのだ。たまきみたいなかわいそうな子が生まれて来てしまったことが、そもそもの間違いなんだ。

今日は絵をかいていないからか、そんなネガティブな思考がたまきの脳をつかんで離さない。

今日はリュックを持ってきていない。たまきのお守りのカッターナイフもリュックの中に入ったままだ。こんな時こそ、お守りが必要だったのに。

 

午後四時四十五分になった。たまきのおなかがぐうぅと鳴る。

もう、帰ろう。

たまきは立ち上がると、

「私、帰ります……」

とミチの方を見ることなく言った。

「うん、じゃあね」

とミチ。

たまきは公園の出口に向かってとぼとぼと歩きはじめる。

何かを食べたい気分ではないが、空腹感には抗えない。今日は志保がいないから、自分で夕ご飯を調達しないと。

歓楽街の中にハンバーガーやポテトのお店がある。そこへ行こう。そう言えば、この前志保から、そのお店の割引券を分けてもらった。あれはたしか、財布に入ってたはず。なんの割引券だっけ……。

そこでたまきは、自分がとんでもないミスを犯していることに、ようやく気付いた。

たまきは普段、外出するときはリュックを背負っている。誕生日に亜美たちに買ってもらったやつだ。

外出(そのほとんどが公園で絵を描くことなのだが)に必要な道具は全部、リュックの中に入れてある。画用紙。色鉛筆。駅前でもらったティッシュ。

そして、財布も。

たまきは、自分の背中に手をまわした。自分が今、リュックを背負っていないことを再確認する。

今日は絵を描くつもりがなかったので、リュックを「城」に置いてきてしまったのだ。そのリュックの中には画用紙や色鉛筆と一緒に、財布も入っているのだ。

そして今、「城」は鍵がかかっていて入れない。鍵を持っているのは亜美だが、いつ帰ってくるかわからない。

いつ帰ってくるかわからないけど、亜美も夕飯を外で済ませてくるはずなので、つまりは、すぐには帰ってこない。

もしも亜美が帰ってくるのが九時とか十時とかもっと遅かったら。それまでぐうぐうとなるおなかの空腹感を抱えたまま、寒い1月の街に、無一文で立ち尽くすことになってしまう。

たまきは幼き日に読んだ絵本「マッチ売りの少女」のはかなげな絵を思い出していた。

再びおなかがぐうとなった。胃の底から悪魔のような飢餓感が、早く何か口に入れろとたまきに急かす。東京には山ほど食べ物があるのに、お金をもっていないとチョコの1枚だって手に入らない。

たまきはくるりと向きを変えると、「庵」に向って歩き出した。歩きながら考える。

志保は……ダメだ。デート中だ。ジャマしてはいけない。

亜美に連絡を取って、もし可能なら亜美と合流して……。

そこでたまきは、自分が携帯電話などという文明の利器をそもそも持っていないことを思い出す。

亜美に電話するには公衆電話を使わなければいけないが、公衆電話に払うお金がない。そもそも、亜美の携帯電話の番号が書かれたメモも、財布と一緒にリュックの中だ。志保の番号だったら覚えてるのに。

「庵」の前についた。黄昏時の薄い闇が靄のようにかかっていたが、それでも、誰もいないことを確かめるには十分だった。

舞の家は……ダメだ。今、旅行中だった。

たまきは深く深呼吸をすると、さっきまでいた階段の方に、少し早足で歩き始めた。

階段の下の方に戻ると、帰り支度を始めていたミチが目に入った。たまきは、たまきなりの速度で駆け出した。

たまきが声をかける前に、ミチの方が気づいた。

「あれ? 帰ったんじゃなかったの?」

「あ、あの……ミチ君ってこの後、バイトですか?」

「いや、今日休みだけど」

「……これからお夕飯ですか?」

「まあ、家に帰ったら」

ミチはギターをケースにしまい終えると、ギターケースを担ぎ、コーラが入っていた空き缶を片手に立ち上がった。

「あ、あの……」

たまきはミチから目線を外し、恥ずかしそうに下を見た後、ミチに目線を戻すと、再び目線を外し、なんとも申し訳なさそうに言った。

「その……ずうずうしいお願いがあるんですけど……」

たぶん、いつの日か美容院で「髪を切ってくれませんか」という時も、きっとたまきはこんな感じなのだろう。

つづく


次回 第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫(仮)」

ミチの家で夕飯をごちそうしてもらうことになったたまき。そこで、たまきは初めて、ミチの家族のことを知り、ある後悔の念に駆られる。続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第22話「明け方の青春」

初詣に向った亜美と志保。二人はそこである人物に合う。そして翌朝、たまきを加えた三人は「二日目の初日の出」を見るために早起きしたのだが……。「あしなれ」第22話スタート。


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

この町が今のような繁華街として発展し始めたのは、戦後の闇市からだ。何もかもなくなった焼け野原の中、露天商やバラック小屋が駅前に集まり、食べ物や日用品を売っていた。

そういった店のほとんどがいわゆる不法占拠だった。もっとも、地権者にお伺いを立てようにも、地権者は地方に疎開してしまっている。

不法占拠のお店はいけないことだけれども、いちいち取り締まっていたら食べ物が手に入らず、せっかく戦争が終わったのにみんな飢え死にしてしまう。

だから闇市は数年のあいだ見逃されてきたし、時には警察が率先して闇市を用意することすらあった。

そんな歴史がある街だからか、今でも闇市を彷彿とさせるような雑多な街並みがこの町には多い。昭和のノスタルジーを感じさせる飲み屋が集結し、飲みに来る客だけでなく、街並みを楽しみたい、そんな人もこのあたりを訪れる。近年では外国人も多いようだ。

歓楽街を出てそんなレトロな飲み屋街を抜けると、小さな階段と神社の鳥居が見える。

現代の不法占拠者たる亜美と志保はその階段を昇って行った。

階段をのぼり、鳥居をくぐると、神社の裏手に出る。

決して大きい神社ではない。ここからだったら明治神宮にだって歩いて行ける。明治神宮と比べたらこの神社はほんの箱庭程度の広さだ。

それでもそこはその町を代表する神社であり、元旦たるこの日は、多くの初詣客が参拝のために並んでいた。行列のことをよく「アリの行列」などというが、列を短くするために4,5人ごとに並ぶその形は、むしろ巨大な蛇を彷彿とさせる。

「すごいねぇ」

志保は階段で切らせた息を整えながら言った。

「ああ、すげぇな」

亜美はそう答えたが、目線は志保と違い、神社の周囲に向けられていた。

本殿の後ろに、いくつものビルがそびえたつ。

「こんなビルだらけのところにも神社ってあるんだな」

「でも、都内にはそういうところいっぱいあるよ?」

「でも、東京の連中ってあくせくしてるじゃん。なんかさ、ムダがないっつうか。なのにさ、神社ってぶっちゃけムダなスペースじゃん。そんなのつぶしてビルとかマンションとか建てちゃいそうなのにさ、ちゃんと残してんだなぁ、って思ってよ」

「無駄ってことはないんじゃない? こんなに参拝客来てるんだから」

「え、何、お前、カミサマとか信じてんの?」

「いや、信じてないけどさ、でも、一応教会に付属する施設のお世話にはなってるし……」

「ああ、そういやそうだったな。あの施設って讃美歌みたいなの歌うの?」

「それはないけどシスターが聖書を読んでくれる時間はあるよ」

「聖書って何書いてあんのさ?」

「う~ん、あたしも詳しく読んだわけじゃないけど、キリスト教の歴史とかかな」

「歴史?」

「そう。キリストが生まれる前とか……」

「ちょい待って。キリストってカミサマだろ? カミサマが生まれる前に歴史なんかあんの?」

「あるよ。聖書には旧約と新約ってあってね……」

なぜか神社でキリスト教の話をしながら、二人は歩いていく。

神社の本殿は境内よりも高いところに建てられている。二人はその本殿の裏にある階段から入り、いま境内を見下ろしている格好だ。

本殿のわきには何やら透明な箱が置かれている。中を覗き込むと、赤い小さな紙がくるっと丸められて、筒状にしてたくさん入っていた。箱には「おみくじ200円」と書かれている。

「変わってんな、このおみくじ」

亜美がしゃがみこんでおみくじの箱を覗き込む。

「うちの近所の神社は、普通に白い紙が中に入ってたよ」

「そうなんだ。あたしんとこじゃ、筒の中に木の棒が入ってて、そこに書いてある番号のおみくじがもらえたよ」

二人は小銭入れに200円を入れ、それぞれおみくじを引いた。

赤い包み紙を外してそれぞれおみくじを読む。

「なあ、志保、『半吉』ってなんだ?」

「はんきち?」

「そう。半分の吉」

「それって、中吉とどう違うの?」

「知らねーよ。おまえはどうだった?」

「えっと……『ショキチスエキョウ』って読むのかな?」

「は? 今、なんつった?」

亜美が不思議そうに志保を見た。

「だから、『初吉末凶』だってば」

「なにそれ?」

「あたしだってわかんないよ」

志保が難しそうな顔をしておみくじをにらみつける。

「あ、でも、縁談のところ『よき縁あり』だって。やった!」

志保が小さくガッツポーズした。

「旅行もよしって書いてある。東がいいんだってさ」

「お、いいな。東っていうと、千葉じゃん。千葉行こうぜ、千葉」

「なんでそんなに千葉に行きたがるの?」

志保が首をかしげる。

「バカ、言わせんなよ」

亜美はいったん志保に背中を向けると、くるりと振り向いて、

「千葉には太陽があるんだぜ」

と言ってにっと笑う。志保はあきれてため息をついた。

「亜美ちゃんはどんなのだった?」

志保が亜美のおみくじを覗き込む。

「あ、待ち人来ないって書いてあるよ。残念でした~」

「別に誰も待っててねぇし」

亜美が口をとがらせる。

「旅行は北がいいってさ」

「北ねぇ。北……。北海道にでも行くか」

「北海道には何があるの?」

「北海道には雪があるんだぜ」

今度は亜美はたいしてひねりも面白みもないことを言った。

「そうだ。せっかくだから、たまきにもおみやげ持って帰ろうぜ」

そういうと亜美は再び財布から200円を出した。

「ちょっと待って。おみやげって、おみくじのこと?」

「そうだよ」

「たまきちゃんのおみくじを、亜美ちゃんが引いて渡すの?」

「そりゃそうだろ。あいつ、来なかったんだから」

「そのおみくじって……当たるの? だって、本人が引いたものじゃないんだよ?」

志保がそう尋ねると、亜美はあっけらかんとして、

「バカ、こんな紙クズが当たるわけねぇだろ」

と元も子もないことを言い出した。

ふたたび200円を入れて、亜美はおみくじの山の中に手を突っ込む。

それと同時に志保は、自分のおみくじをそっとポケットにしまった。

そこには「病気:油断すべからず。過信すべからず。」と書いてあったのだが、志保はそれを亜美には伝えなかった。

こんな紙屑が当たるわけない、そう自分に言い聞かせて。

 

本殿から境内の入り口の方まで、参拝の行列が伸びている。軽く100人は超えていると思うが、それ以上は数える気にもならない。

「おい、あっちに屋台あるぞ。行こうぜ」

亜美が行列の向こうにあるいくつかの屋台を指さして言った。

「じゃあ、なにか食べ物買ってから並ぶ?」

「並ぶ? どこに?」

「いや、これに」

志保は参拝客の行列を指さした。

「ヤだよ。並ぶわけねぇじゃん。うち、並ぶの嫌いだし」

亜美は行列を一瞥すると、そういって通り過ぎて行った。

「あれ? 参拝しないの?」

「別にカミサマとか信じてないし」

「え? でも、初詣に来たんでしょ?」

志保が本殿の方を指さした。

「そうだよ。初詣に来たんだよ」

亜美は屋台を指さして言った。

「じゃ、あたしもなんか買おうかな……」

志保も参拝客の列を通り過ぎて屋台へと向かう。

「あ、クレープある。じゃ、あたし買ってくるね」

志保がそう言いながら亜美の方を向くと、亜美はフランクフルト屋の前にできた行列に並んでいた。

「おう、じゃ、その辺で待ってて。ウチも買ったら行くから」

「あれ、並ぶの嫌いなんじゃ……」

志保はしばらく亜美を見ていてが、

「ま、いっか……」

とクレープ屋の前に立った。

志保は並ぶことなくクレープを買えた。

クレープを食べながらちらりとフランクフルト屋の行列を見ると、亜美はまだ列の中ほどに並んでいた。

志保が再びクレープに目線を戻した時、

「よっ」

と言いながら誰かが志保の肩をたたいた。

声からして女性だ。だが、亜美はまだ列に並んでいるはずだ。とっさに志保はその列の方を見たが、亜美はまだ列の中で暇そうにしていた。

「カンザキさん、あけおめ」

志保は驚きで硬直しつつも、声のした方を振り返った。

トクラがそこに立っていた。真っ黒なコートを着込み、サングラスをかけていた。服から小物までの一つ一つがいかにもセレブと言わんばかりの高級さを漂わせている。

「ど、どうも、……あけましておめでとうございます……。トクラさんも初詣ですか?」

「ん? まあ、そんなとこ」

トクラはサングラスを外してにっと笑った。

「あっちの金髪の子と一緒? 今日はメガネの子はいないんだ」

「誘ったんですけど、たまきちゃん、こういうの苦手みたいで……」

「ふうん」

トクラは自分で話題を振っておきながら、あまり興味がないようだった。

「カンザキさん、あっちの歓楽街でご飯食べてきたの?」

「え、別にそういうわけじゃないですけど」

「ふうん。駅じゃなくて歓楽街の方から来たから、あっちで遊んでから来たのかなぁって思って」

「今日はお正月だからお店あまりやってませんよ……。あれ、なんであたしたち、あっちから来たってわかるんですか?」

「ああ、だって、ずっとつけて来たから」

「ええ?」

つけてきた?

あまり聞きなれない言葉に、志保は戸惑う。

つけて来たっていったいどこから? まさか、「城」から? 不法占拠がばれやしないだろうか。

いやいや、雑居ビルから出てきたのを見られたところで、なにかお店に用があったと思うのが普通。よもや不法占拠で暮らしてるなんて思わないだろう。

そもそも、舞のマンションを経由してからここにきている。

いや、気にすべきはそこじゃない。つけてきた、とはいったいどういうことだろうか。

混乱のあまり言葉が出ない志保を見ながら、トクラは志保がなにを聞きたいのか先回りしてわかっているらしく、勝手に答え始めた。

「何分か前に歓楽街の中をカンザキさんがあの金髪の子と歩いているの、たまたま見かけたんよ。で、あとをつけてみた、ってわけ」

そう言うと、トクラは志保の耳に顔を近づけ、囁くように言った。

「カンザキさんさ、自分じゃ気づいてないかもだけど、けっこう挙動不審だったよ」

「え、それどういうことですか?」

志保は意味が分からない、といった風にトクラを見た。

「あっちこっちキョロキョロキョロキョロ、金髪の子と比べても、だいぶ挙動不審だったよ」

「そんなこと……」

そういいながら、志保はふと、思い当たることがあった。

確かに、外を歩いている間、誰かに見られてる、そんな感覚が何度もした。

でもそれって……。

「それって、トクラさんが後をつけて来たからじゃないですか? ずっと誰かに見られてる気がしましたもん」

志保は少しムッとした感じで答えた。

「あ、そう。カンザキさん、気づいてたんだ」

そういうとトクラはクスっと笑う。

「その割には、こっち一回も見なかったけど。全然違うとこ見てたよ。本当に気づいてた?」

「そ、それは……」

志保は言いよどみ、トクラから視線を外した。

「カンザキさんさ、今日以外でも、誰かに見られてるって思う時ない? 町の中とか、家の中とかさ」

志保は答えなかった。

トクラの言うとおり、町の中でも、「城」にいる時でも、誰かに見られてる、そう思うことがよくあった。外はまだしも、屋内にいる時に誰かに見られていると強く感じる、それが志保には不可解だった。もしかして隠しカメラで盗撮されているのではないかと、一人でいる時に「城」の中を大捜索したこともある。何も出てこなかったが。

「あたしもね、誰かに見られてるって思うことよくあるのよ。部屋の中で監視カメラ探したり、盗聴器探したり、あと、窓の向こうから誰か盗撮してるんじゃないかって、窓開けて外に怒鳴ったこともあったよ」

トクラはそう言いながら志保の肩に手を置いた。志保はそれを払いのけようとしたが、なぜかできなかった。

「カンザキさんも聞いたことあるでしょ。ハッパだのクスリだのやってると、そういう妄想抱くようになるって。誰かに見られてる、聞かれてる、つけられてるって」

「あたし、今はクスリなんて使ってません」

志保は体をよじって、トクラの手を振るい落とした。

「使ってなくてもふとしたきっかけでそういう症状が戻ってくることがあるの。フラッシュバックって言ってね。それがひどくなると、またクスリに手を出すようになるの」

トクラは、志保が払いのけた手を再び志保の肩に置いた。そこに、

「お待たせ~」

と亜美がフランクフルトをほおばりながらやってきた。トクラは手を離すと、

「じゃ、カンザキさん、またね」

と言って去って行った。

「ん? 知り合い?」

「……施設の人と、偶然会って……」

「ふうん」

亜美はそれ以上は興味のなさそうにフランクフルトにかぶりつく。

黒いコートを着たトクラの背中を追いながら、志保はふと思った。

トクラは歓楽街の中から、志保たちをつけていたという。

元旦の歓楽街に一体何の用があったのだろう。

 

写真はイメージです

初詣を済ませた亜美と志保は、「城」へと帰ってきた。もっとも、参拝はしていないのだから本当に初詣を済ませたといっていいのか、疑問が残るが。

「城」の中ではたまきはソファに腰掛け、ゴッホの画集を眺めていたが、志保が

「ただいまぁ」

と声をかけると背筋を伸ばし、

「おかえりなさい」

と返事をした。

「おい、たまき、風呂行くぞ。早風呂だ。準備しろ」

亜美の声掛けにも、

「はい」

とはっきりと返事をする。志保はそんなたまきをまじまじと眺めていた。

「たまきちゃん、なんかいいことでもあった?」

「え?」

志保の問いかけにたまきが戸惑いを見せた。

「ど、どうしてそう思うんですか……」

「いや、何となくなんだけど、いつもより元気があるなぁ、って思って」

「……そう見えますか」

たまきは志保から視線を外しながら答えた。

「そういえばさあ」

と亜美がお風呂セットを用意しながら声をかける。

「ウチは早く風呂入って早く寝て、二日目の初日の出も見るつもりだけど、お前らはどうすんだ?」

「だから亜美ちゃん、それ、もう初日の出じゃないって」

志保はそう笑いつつ、

「日の出って何時?」

と亜美に尋ねた。

「う~んと、ちょっと待ってな」

亜美は携帯電話をいじりだした。

「4時半だってさ」

「4時半かぁ。早いなぁ」

志保がけだるそうな声を出す。

「一度起きて初日の出見て、それからまた寝りゃいいじゃねぇか」

「じゃあ、あたしも“二日目の初日の出”見ようかな。たまきちゃんはどうする?」

「あ、じゃあ、私も見たいです。“二日目の初日の出”」

そう言って笑うたまきを見て、志保は再び尋ねた。

「たまきちゃん、やっぱりなんかいいことあった?」

「べ、別に……」

そこで亜美が、

「そうだ、たまきにおみやげがあったんだ」

と言って、買ってきたおみくじを渡した。

「おみやげ、ですか」

たまきはおみくじの中を見た。亜美と志保も後ろからのぞき込む。

運勢は「凶」だった。

「凶だってよ。お前、くじ運ねぇなぁ」

「え、亜美ちゃんが引いたんでしょ?」

たまきはまじまじと「凶」の文字を見つめる。

「凶」というのはあまりよくないやつのはずだ。

死のうとしたけれど死にきれない、とかかな。

「あ、たまきちゃん、縁談よしって書いてあるよ」

「お、旅行悪しだってさ」

年上二人は、たまきが見るより先に見ていってしまう。

「あ、でも、方角は西がいいってさ。だから、西に旅行に行けばいいんじゃない? 亜美ちゃん、西には何があるの?」

「西か? 西にはたこ焼きがあるんだよ」

亜美もだんだん適当になってきた。いや、元から適当だったのかもしれない。

「西ですか……」

たまきはぼんやりと自分の左側を見た。もっとも、そこは北なのだが、たまきには知る由もない。

恋愛運とか旅行運とか、たまきに縁遠そうなことよりも、たまきは「ともだち運」を知りたかったのだが、たまきみたいな友達のいない子のことまでは、カミサマも考えていなかったようだ。

 

その日、たまきは久々にすっきりと眠れた。

別にこれまでも不眠症だったわけではないのだが、寝ようと目を閉じても心がざわざわしてなかなか眠れなかった。そんなことが一週間続いたのだが、その日は久々にすぐに眠りに落ちた。

夢の中で、たまきは森を歩いていた。

木々は複雑に入り組み、奥まで見通すことを拒んでいるかのようだ。

上を見上げても今度は枝がたまきの視界を遮り、太陽の光を細切れにする。

なんだか、たまきの絵に出てくるような木を集めて作った森、そんな印象を受けた。

そんな森の中を歩いていく。たまきは奥へ奥へと向かって行ったつもりだったのだが、いつの間にかアスファルトで舗装された大きな道に出てしまった。

道の上をたくさんの人が歩いている。セーラー服を着た女の子たち、なにやら楽しそうな若者の群れ、スーツを着たサラリーマン。

たまきもしばらく人の流れに沿って歩いていたが、なんだか息苦しくなり、たまきは道を外れて再び森の奥へと向かっていった。

森の奥へ奥へと向かっていくと、今度はどんどん心細くなる。

木の根っこに躓かないようにと下を向いて歩いていたが、頭に何かがぶつかった。顔をあげてみると、スニーカーが見えた。

さらに目線を上に上げる。スニーカーを履いた女の人が、木の枝からぶら下がっているらしい。学校の制服を着ている。女子高生、もしくは、中学生だろうか。

ぶら下がるといっても、鉄棒のように腕からぶら下がっているのではなく、木の枝からロープが伸びていて、それを首に括り付けてぶら下がっている。

要は、首つり自殺の死体だったのだ。

不思議と、怖くはなかった。どこかで、これは夢だと気づいているのかもしれない。

それよりも、スニーカーに何か見覚えがあるのが気になり、たまきは目線の少し上にあるスニーカーをしげしげと眺めた。

見覚えがあるはずだ。そのスニーカーは、たまきが今使っているものだった。

目線をあげてもう一度死んだ女の子を見てみる。

よく見るとその子の制服も、たまきの中学校のものだった。

眼鏡をかけていないが、その女の子はたまきだった。

ぽたっ、と水が生きてる方のたまきの顔に零れ落ちた。死んでる方のたまきのスカートの奥から、足を伝って滴っている。

そういえば、首を吊って死ぬと、お漏らしをすると聞いたことがある。

たまきは急に怖くなって、走り出した。木の根っこが地面の上に複雑に生い茂っているはずなのだが、躓くことなくたまきは走り続ける。夢は変なところでリアルなくせに、変なところで設定がご都合主義だ。

やがて、開けたところに出た。森の中でそこだけぽっかりと公園のように開けて、電話ボックスが置いてある。たまきは電話ボックスの中に入ってドアを閉めると、息を落ち着かせた。

受話器を取って「城」へと電話をかける。よくよく考えると「城」に固定電話などないし、もちろん電話番号もないはずなのだが、夢というのはこういう違和感になぜか気づけない。

呼び出し音を聞きながらふと見上げると、視線の先に大きな山があった。

青い山のてっぺんに白い雪が積もっている。富士山だった。

ああ、富士山だ。そういえば、おみくじに、西に行け、と書いてあったっけ。

そう思ったときに電話の向こうから亜美の声が聞こえてきた。

「おい、たまき、起きろ。二日目の初日の出、見に行くぞ」

そこで、目が覚めた。

 

写真はイメージです。

1月2日の午前4時15分、三人は太田ビルの屋上に立った。空は真っ暗だが、屋上から下に目をやれば、街灯の明かりと看板の明かり、店から漏れる明かり、お店から漏れる明かりが街を煌々と照らしていた。

夜のない街、不夜城。確かにそうなのかもしれない。

たまきは眠い目をこすりながら、鉄柵に寄り掛かる。冬の夜の冷気を思いっきり吸い込んだ鉄柵は冷たい。

一番眠そうなのは志保だった。大きなあくびを一つ二つ。

「四時半だっけ? 初日の出」

亜美がうんと答える代わりにうなづいた。

「志保、なんか初夢とか見た?」

「ううん、見てない。亜美ちゃんは?」

「なんか見た気がするんだけど、起きたら忘れちゃった」

「あ~、あるよね~、そういうこと。すごい楽しい夢だったとか、すごい怖い夢だったとか、そういうのは覚えてるのに、肝心の中身を全然覚えてないってこと」

志保が眠そうに眼をこすりながら言う。

「たまきちゃんは初夢見た?」

「はい」

「へぇ。どんなの?」

たまきは、なんて答えるか少し迷った。たまきの場合、見た夢をはっきりと覚えていた。

はっきりと覚えていたから、少し迷った。

「その……森の中を歩いていたら……山が、富士山が見えました」

「富士山? それ、初夢で一番いいやつじゃん!」

「え? そうなんですか?」

「そうだよ。昔から、『一富士二鷹三茄子』って言って、富士山と鷹とナスの夢を初夢で見ると縁起がいい、って言われてるんだよ」

「はあ……」

たまきは初めて聞いた、と言わんばかりにきょとんとしている。

「え? 富士山は日本一だからわかるけど、鷹はなんで?」

亜美が鉄柵にもたれながら口をはさんだ。

「さあ……かっこいいからじゃない?」

志保も適当に答える。

「じゃあ、ナスは?」

「ナスは……」

志保はなんとか答えを探そうとしたが、言葉が出てこなかった。

ただただ、ナスのように真っ黒な空が、三人の頭上に広がっていた。

 

1月2日午前4時25分。依然として空は真っ暗で、空気は刺すように冷たい。

最初に違和感に気づいたのは志保だった。

「ねえ、おかしくない?」

真っ暗な空を見上げながら志保が言う。

「何が?」

「あと5分で日の出のはずでしょ? いくらなんでも、空、暗すぎない?」

亜美とたまきは空を見上げた。相変わらず、宇宙の深淵まで覗けそうな真っ暗な空が広がっている。

「亜美ちゃん、昨日、初日の出見たんでしょ? どうだった? こんなに暗かった?」

「え~、どうだったっけなぁ……」

亜美は額に手を当ててしばらく記憶を探るように目を閉じた。

「そういや、もっと空が青っぽかったような……」

「もしかして、世界はとっくに終わってて、もう二度と太陽は昇ってこないんじゃ……」

志保はそう言ってからほかの二人の顔を見て

「そんなわけないよね……。ごめん、今のは忘れて……」

と恥ずかしそうにうつむいた。

「あの……本当に4時半なんですか?」

たまきが不安そうに亜美を見た。

「えー、4時半って書いてあったよ」

亜美は携帯電話を取り出して操作した。

「ほら、ここ、1月2日の日の入りは4時半って書いてあるじゃん」

「ほんとですね」

たまきは亜美の携帯電話を覗きこんで言った。だが、志保は

「ちょっと待って!」

と大きな声を出すと、亜美の携帯電話をかっさらった。

「日の入りが4時半!?」

「ああ、そう書いてあるだろ?」

「亜美ちゃん、日の入りって、日没、夕方のことだよ!?」

「へぇ、そうなん……」

亜美はぼんやりと携帯電話を見つめていたが、顔を見上げて空を見て、

「は?」

と声をあげた。

「日の入りって、初日の出のことなんじゃねぇの?」

「逆だよ。朝は日の出、夕方は日の入り」

「でもよ、プロレスとかで選手入場っつったら、選手がロープ越えてリングの中に入ってくる事だろ? じゃあ、太陽が地面越えて入ってくるのだって『日の入り』じゃねぇのかよ? 太陽は朝に入ってきて、夜に出ていくもんだろ? なんで夕方が日の入りなんだよ、おかしいだろ!」

「あたしに文句言われても、朝が『日の出』なんだから、夕方は逆に『日の入り』じゃん」

「それがおかしい、つってんだよ。太陽は朝に入ってきて、夜に出てくもんだろ!」

「だからあたしに言われても……」

「あの……」

たまきが申し訳なさそうに口をはさんだ。

「それじゃ、日の入りが4時半っていうのは、今日の夕方4時半に日が沈むってことなんですか?」

「……そうだね。ほら、ちゃんと”PM4:30″って書いてあるよ。亜美ちゃん、見落としてたんでしょ。」

「じゃあ、日の出は結局、何時なんですか?」

亜美と志保は同時に携帯電話を覗き込んだ。

「朝の……7時……」

「なんだよ! 2時間半も先じゃんか! ふざけんなよ!」

「亜美ちゃんが間違えたんでしょ? そもそも亜美ちゃん、昨日、初日の出見たんでしょ? なんで時間違うって気づかないの?」

「起きてテレビつけたら初日の出がどうこう言ってったから見に行っただけで、初日の出見たらすぐまた寝たから、時計なんか見てねぇよ」

気づけば時間は朝の4時33分になっていた。相変わらず空は漆黒の渦がとぐろを巻いている。

「……どうする? 寝る?」

志保が一気に疲れたような顔を見せた。

「いまから戻っても、寝れる気がしねぇよ。体冷えてかえって目がさえちまったよ……」

「たまきちゃんはどうしたい? 寝たい?」

「別に……」

たまきも体が冷えて寝れる気がしない。

「とりあえず寒いし、部屋戻ってそうだな……テレビでも見ようぜ……」

亜美はそういうと、階段に向かって歩き出した。

 

午前4時45分。3人はテレビの通販番組をぼんやりと見ていた。

「なあ、ほかに番組ないのか?」

亜美が志保を見て、志保はチャンネルを回す。

ニュース、ニュース、ニュースとチャンネルを回すもニュース番組が続き、そのたびに志保は亜美の顔を見るが、亜美は顔をしかめて首を振るばかり。

最後にたどり着いたチャンネルはただひたすらとどこかの清流の映像を流し続けていた。

「つまんねー!」

亜美はそういうと勢いよく立ち上がった。

「ちょっと出かけてくるわ」

「え、出かけるってどこへ?」

志保が驚いたように亜美を見る。

「この辺だよこの辺」

亜美はソファの上に無造作に投げ出されていたジャケットを羽織った。

「この辺って言ったって、お店なんかやってないでしょ?」

「でも、寝れねーし、テレビつまんねーし、ここにいたってしょーがねーから、ちょっと散歩してくる」

「でも、朝の5時だよ? もし、おまわりさんとかに見つかって補導されちゃったら……」

「大丈夫だよ。あれじゃね、警察も今日くらいは正月休みなんじゃね?」

「そんわけないでしょ」

志保はあきれたようにため息をついた。どうやら、説得は無駄らしい。

「わかった。じゃあ、あたしも行く」

そう言うと志保は立ち上がった。

「一人で歩いてるより二人で歩いてる方がまだ、不審にみられないかもしれないでしょ。わかんないけど」

志保も外出の準備をする。

「じゃあ、その理屈だと三人の方がいいだろ。たまき、お前も来いよ」

「え……」

たまきは座ったまま、二人の顔を見上げた。

「うーん、どうだろ……、たまきちゃんって背もちっちゃいし、夜中に出歩いてたらかえって怪しいんじゃ……」

「いや、わかんねぇぞ。うちら二人歩いてたら夜遊びっぽく見えるけど、たまき一人増えるだけで、印象変わるかもしれねぇ。たまき、絶対夜遊びしそうじゃねーもん」

「まあ、確かに……」

二人の視線がたまきへとむけられる。

「たまきちゃんはどうしたい?」

志保が優しく問いかける。

「えっと……その……」

「昼間と違って人なんかいねぇから、大丈夫だろ。来いよ」

「あの……そうなんですけど……その……」

たまきは心配そうに、亜美と志保を見つめた。

「この辺って悪い人もいっぱいいるじゃないですか。夜中に歩いてたら、悪い人に撃たれて死んじゃうかも……」

それだけ言ってたまきは、恥ずかしそうに下を向いた。

亜美と志保はいったんお互いに顔を見あい、それからたまきに視線を戻し、大爆笑した。

「いくらなんでも、そこまで治安悪くないよ、たまきちゃん」

「だいたい、いつも死にたい死にたい言ってるやつが、なに『撃たれて死んじゃうかも』って心配してんだよ」

「そうですけど……撃たれるのはなんか……」

たまきはバツの悪そうに、亜美の方を見た。

 

写真はイメージです

コンビニの前の冷たいアスファルトの上に三匹の野良猫がたむろしていた。亜美たちが太田ビルの階段がら降りてくると、驚いたのかネコたちは道を空けてくれた。

亜美たちはコンビニを覗き込む。店員さんが掃除をしているほかには、二人ほどの男性客が雑誌を立ち読みしている。

「……で、どこ行くの?」

「そんなん決めてねぇよ。一人でその辺ぶらぶら歩いてくつもりだったからなぁ。どっち行く?」

亜美は道のあっちとこっちを指さして、志保とたまきに尋ねた。

「そっちは交番が二つもあるから、やめた方がいいんじゃない?」

「じゃあ、駅の方行くか。でも、駅前にも交番あるぞ?」

「そこまでいかなくてもいいでしょ。ほどほどのところで引き返せば」

「じゃあ、行くか。いいかたまき、常に周りを見渡して、警察を見かけたらすぐに知らせるんだぞ」

なんだか、散歩に行くというより、戦争に行くゲリラ部隊みたいだ。たまきはそんなことを考えながら、二人のあとについていった。

 

ものの2~3分で大通りにたどり着く。

昼間は車が絶えず行きかい、途切れることなどないが、真夜中ともなると車はたまに何台か通るくらいで、さながら音のない川のようだ。

「なんか、こういう真夜中のさ、誰もいない東京の大通りを、車でぶっ飛ばしたくねぇ?」

大通り沿いに歩きながら、亜美が口を開いた。昼間は喧騒に飲み込まれてなかなか声が届かないのだが、今はとてもよく聞こえる。

「ちゃんとスピード守ってよ、亜美ちゃん」

「たまきはどうだ?」

「私は別に……」

たまきが少し不安げに道路を見ながら答えた。

 

三人は映画館の前にやってきた。当たり前だが、今は上映時間外で、誰もいない。

海外のアクションもの、日本の恋愛もの、サスペンスもの、シリアスでグロそうなもの、なんだかよくわからないものと、様々な映画のポスターが並んでいる。

「あ、今度これ見に行くんだ」

志保がポスターの中の一つを指さした。

青い空にうっすらと雲がたなびく。それを背景に、セーラー服を着た女の子が一列に並んでいる。何か楽しいことでも語りあっているのか、誰もがはじけんばかりの笑顔だ。

キャッチコピーには「青春、それは誰もが必ず通る道」と書かれていた。

「誰と見に行くんだよ、こんな映画」

亜美が笑みを浮かべながら尋ねる。

「別に誰とでもいいでしょ」

志保が少しそっぽを向いて答えた。

「っていうかこれ、何の映画?」

「青春映画だよ」

「面白いの、それ? こっちの方がおもしろそうじゃね?」

亜美は暗くてグロそうな映画のポスターを指さした。

「あー、でも、デートにはこういうの向かないかぁ」

そう言って亜美はにやっと笑う。

「その映画、マンガ読みましたけど、あまり面白くなかったです」

たまきがぼそりと、それでいてはっきりとつぶやく。

「へぇ。どんな内容?」

「……人が死ぬんです」

「それだけ?」

たまきは小さくうなづいた。

「じゃあ、デートには合わねぇなぁ。やっぱこっちじゃねぇと」

亜美はわざと「デート」を強調し、志保も少し顔を赤らめる。

たまきは「青春映画」のポスターをじっと見た。

どうして、こういう映画のポスターは、青空が背景に使われるんだろう。

まあ、「青春」というくらいだ。青空のようにさわやかで、晴れ渡って、どこまでも突き抜ける。それが「青春」という言葉のイメージなのだろう。

それが青春だというのならば、私は青春なんて知らない。

たまきがそんなことを考えていると、いつの間にか亜美と志保は歩きだしていたらしく、少し離れたところで立ち止まって、たまきを手招きしている。

たまきはとぼとぼと歩きながら、空を見上げた。

ビルとビルの間の地割れのようなスペースに、真っ黒な空が濁流のようにあるだけだ。これで満天の星でも輝いていれば、これはこれで青春だと胸を張れそうだが、ただただ真っ黒な空があるだけだ。

誰か、真っ黒な青春映画や、灰色の青春映画も作ってくれればいいのに。

 

写真はイメージです

お正月の真夜中の歓楽街は、お店がたくさんあるところはしばしば人がいるが、路地裏ともなるとほとんど人がいない。三人は人目につかないようにと道を選んで歩く。でも、あんまり人目につかない場所も怖いので、そういうところは避けて歩く。また、誰かが道端で殴られてるところにでも出くわしたらたまったもんじゃない。

そうこうしているうちに、昼間に亜美と志保が訪れた神社の入り口に来た。

「せっかくだからお参りしてかない?」

と志保が鳥居の奥を指さす。

「昨日来たじゃん」

と口をとがらせる亜美。

「昼間はすごい行列でちゃんとお参りできなかったでしょ? 今ならすいてるって」

「別にいいけど、まだ並んでたりして」

「まさかぁ」

亜美と志保は笑いながら境内へと入り、たまきもそれにとぼとぼとついていく。

昼間の大行列も、今は霞のように消えていた。それでも何人かは人がいて、初詣なのだろうか、お参りをしている。夜の闇の中でうっすらと明かりがついた真っ赤な社は、昼間に見るよりもなんだか神々しかった。

石段を上り、社の前に立つ。志保がお賽銭を入れると、たまきもそれを見てお賽銭を入れた。

柏手を叩く構えを見せて、志保が固まる。

「……どっちだっけ? 叩く? 叩かない?」

「神社は叩く」

そう答えたのは亜美だった。パンパンと二回たたき、志保とたまきもそれに倣う。

両手を合わせて祈りをすますと、亜美は

「行くか」

と言ってきた道を引き返した。

「亜美ちゃん、よく神社のお参りに仕方なんか知ってたね」

「オヤジがうるせぇんだよ、こういうシキタリとか。それよりお前ら、なにお願いしたんだよ」

「え、あたしは……」

志保が口を開きかけたが、亜美は

「ま、どうせお前は色ボケしたこと考えてたんだろ」

と、両手を後ろに組んで言った。

「べ、別に……その……ちゃんとその、治療のこともお願いしたもん」

「治療のことも、ねぇ……」

亜美は「も」をやけに強調してにやりと笑う。

「たまきは何お願いしたんだ。まさかカミサマに『殺してください』とかお願いしてねぇよな」

「してません」

「じゃあ、何お願いしたんだ?」

「別に何も……」

「まさか、お前も色ボケたことを……」

「ほんとに何も……」

たまきはほんとに何もお願いしなかった。亜美の真似をして手を叩いて合わせてみたものの、お願いしたいことは特には思い浮かばなかった。

「そういう亜美ちゃんは何お願いしたの?」

「え? カネだよ、カネ」

「夢がないなぁ」

「何言ってんだよ。カミサマよりカネサマの方が願い叶えてくれんだろ」

亜美は胸の前でパンパンと二回手を叩いた。

 

そのあとも歓楽街を当てもなく三人でうろついた。

酔っ払い以外にほとんど人がいなかったが、次第に車の量も増え、スーツ姿の人もちらほらと目に入るようになった。

太田ビルの前に戻ってきた時には、三人の頭上には、群青の絹を敷いたような空が広がっていた。

三人はコンビニで買い物をしてから、「城」へと戻ったが、亜美は荷物だけ置くと、

「屋上にいるから」

と言った。

「まだ日の出には時間あるよ?」

「いいよ、待ってるよ。4時半からずっと待ってるのに比べたらましだろ」

「じゃあ、あたしも屋上で待ってようかな」

そう言って志保も亜美のあとを続く。たまきは少し眠かったが、せっかくなので屋上に行くことにした。

屋上から見た空は、さっきと同じ群青のようだが、それでいて、さっきからほんの数分しかたっていないにもかかわらず、少し明るくなったような気もする。

4時半の時はまだ空が真っ黒で、屋上から見えるビルも、輪郭も壁の色もわからず、窓の明かりでとりあえずビルがあるとわかる程度だった。だが、今は群青の空を背景に、ビルの輪郭がぼんやりと、壁の色彩がはっきりと見える。

明け方の空の群青は、昼間の青空に近い色なのかもしれない。

だが、青空それ自体が輝きを放つのに対し、明け方の群青の空は深みのある暗さをたたえている。

そのため、群青の空に包まれた町明かりは、その深みのある暗さに引きたてられ、不思議と夜中に見るよりも輝いているように見えた。

その空はとっておきの絵の具で塗りたくったかのようにきれいで、朝と夜の狭間の不安定さを持ち、少しずつその色味を変えていく。町明かりはまるで真珠のようにほのかな輝きを放ち、ちりばめられていた。

「あのビルとビルの間、ちょっと空が明るくなってない?」

「ああ、あそこから初日の出が入ってくるんだよ。二日目の初日の出」

志保が指さした方角から、少しずつ空が白く、明るくなってきている。あと二、三十分もすれば、誰もが知っている青空へと変わるのだろう。

だからこそ、たまきにはこの群青の空が、なんだかいとおしいもののように思えた。

たまきは、青空の青春なんか知らない。

でも、青空のもとで青春を謳歌する人たちは、きっとこの群青の空を知らないのだろう。

群青の空は青空よりもどこか暗く、それでいてきれいで、儚い。

そんな空を、友達と三人で見ている。

それがどれほど奇跡的で、どれほどかけがえなくて、どれほどいとおしい瞬間なのか、きっと青空の下で青春を過ごす人たちには、わからないだろう。

「青春、それは誰もが必ず通る道」、そう書かれた映画のキャッチコピーを思い出す。

誰もが必ず通るはずの青春を、たまきは通っていない。そこを通る前にわき道にそれ、いまだやぶの中だ。

それでも、こんなにきれいな青い空が広がっていた。

たまきは昼間の、青空の青春を知らない。

知らなくていい。

この群青の夜明け前の空が、きっと私の、私だけの青春なんだ。

つづく


次回 第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

田代と一緒に映画を見に行く志保。3人はばらばらの行動をとることに。行く当てもなくいつもの公園を訪れたたまきだったが、あるミスを犯したことに気づいてしまう。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

 

小説「あしたてんきになぁれ」 第21話「もやもやのちごめんね」

クリスマスの一件以降、なぜかたまきの心はもやもやしたまま、晴れない。一方、ミチもまたモヤモヤを抱えていた。そして、お正月がやってくる。「あしなれ」第21話、スタート。


第20話「冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

たまきはまどろむ。

眠りにおける最大の快楽がこのまどろみだ。夢と現のちょうど境目で、まるでヤジロベーのようにゆらゆらとバランスを取るこのまどろみがなんとも心地よい。

たまきはブランケットにくるまり、器用にソファの上に寝転がってまどろむ。

いつもは三人そろってソファで寝てる、と舞に話すと、お前らよくそんな狭いところで寝れるな、と言われた。

だが、たまきは広い場所よりも狭い場所の方が好きだ。

ずっと、狭い場所で生きてきた。

教室よりも狭い自分の部屋に引きこもっていたし、今も大都会の東京にいながら、この「城(キャッスル)」という名のつぶれた小さなキャバクラに引きこもっている。

もしかしたらたまきの心も、狭い狭い籠の中に入っているのかもしれない。

ひとりぼっちはいやだ、ひとりぼっちはさみしい、と言いながら、その心の内に他者が踏み込むことは決して許さない。籠の中から外を恨めしげに見ているが、籠の中に誰かが入ってくるのはけっして認めない。

さながら路地裏の野良猫のようである。甘えたそうにこっちを見ているのに、いざ近づくと、触らにゃいでくれといわんばかりに、一目散に逃げだしてしまう。

そんなたまきのまどろみを邪魔したのは、

「おめでとー!」

という亜美と志保の叫びだった。

夢と現の間でゆらゆら揺れていたたまきのヤジロベーが、バランスを崩して現の方に真っ逆さまに落っこちる。

何か天変地異でも起きたかのようにたまきは飛び起きた。眼鏡をはずしたままだから、視界がぼやける。

とりあえず冷静になる。なにが起きたのかは知らないが、亜美と志保は「おめでとー!」と言ったのだ。とりあえず、マイナスなことが起きているわけではない。火事や地震のように、今すぐここから逃げなくてはいけないわけではないだろう。

「お、たまき、起きたか」

「たまきちゃん、おめでとー!」

どうやら、何かおめでたいことが自分の身に起きたらしい。

だが、全く心当たりがない。宝くじでもあたったのだろうか。いや、買った覚えなんかない。

「あの、何かおめでたいことがあったんですか?」

たまきは裸眼のまま目をぱちくりして尋ねた。亜美と志保の顔もぼやけて、髪の毛の色で何となくこっちが亜美でこっちが志保だろう、とわかる程度だ。もし、声がそっくりな別人と入れ替わっていてもわかるまい。

「バーカ、正月だよ!」

亜美の新年一発目の「バーカ」が聞こえた。

1月1日の、午前零時になったばかりである。

「たまきちゃん、あけましておめでとう」

たまきの目の前で志保がにっこりとほほ笑む。いや、たまきには見えていないのだが、声の調子から微笑んでいる気がする。

「……おやすみです」

たまきはそうとだけ言うと、再びごろりと横になって目を閉じた。

なんだ、おめでたいことなんて、なにも起きてないや。

 

再びまどろみの塀の上に戻ろうとしたたまきだったが、たまきのヤジロベーは現の側に大きく傾いたまま、ピクリとも動きそうにない。

聞こえてくるのは亜美と志保の笑い声。どうやら、テレビを見ているらしい。テレビの向こうからタレントの笑い声も聞こえる。

だが、たまきがまどろめない理由は、どうやら回りがうるさいから、ではないらしい。

うるさいのはたまきの心の中なのだ。

周波数があってないラジオのように、ザザザ、ザザザとノイズが入り、時折、混線でもしたかのように、いつかの自分の言葉が聞こえてくる。

『その時になって初めて、地獄を見ればいいんじゃないですか』

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

そういったセリフはどこかエフェクトがかかっているみたいで、まるで自分の声ではないみたいだ。耳をすませばピーガガピーピーというノイズが聞こえてきそうだ。

いや、自分の声じゃないように聞こえるのは気のせいで、それらの言葉は紛れもなくたまきの言葉なのだ。自分の口ではっきりといった言葉なのだ。

クリスマスイブの夜以降、たまきはずっとこんな感じだった。以前は目を閉じればどこでもすぐに眠れたのに、心がざわついてなかなかすぐに寝付けない。

もっとも、いつもに比べてすぐに寝付けないだけで、別に全然眠れないわけではない。

よしんば不眠症だったとしても、たまきは別に困らない。毎日毎日「城」でごろごろして、たまに思い出したように公園に出かけて絵を描くぐらいの毎日なのだから。いっそ不眠症にでもなったほうがまだ健康的かもしれない。

たまきの心をざわつかせているのは、「なかなか寝れないこと」そのものではなく、「なぜなかなか寝れないのか」、その理由がわからないことだった。

正確にいえば、寝れない原因ははっきりしている。クリスマスイブの夜に起きた騒動のことが心から離れない。それがたまきの安眠を妨げているのだ。

問題は、なぜそれが心から離れないのか、その理由がわからないのだ。

ミチの不倫がばれて、相手の男性に殴られた。それはそれで大事件だったのだが、ミチは助かったし、問題自体はもう解決したはずだし、正直な話、ミチが不倫しようが殴られようが、たまきには直接関係のない話だ。

なのに、どうして、あの日のことが心から離れない。

あの日の自分の言葉が、心から離れない。

耳を澄ませば、またあの日の言葉が聞こえてくる。

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

聞こえてきたのはミチの言葉だった。

いったいなんだというのだろう。

たまきは正しいことを言ったはずだ。

悪いのはミチと海乃って人、あの二人なのだ。間違っていることをしたから、たまきは自分の思ったことを、自分が正しいと思ったことをぶつけた。

なのにどうして、たまきがいつまでももやもやしなければいけないのだろう。

 

寝付けない、寝付けない、そう思いながら気が付くと朝だった。

時計を見ると午前十時。

寝付けない寝付けないと言いつつ、どうやらしっかり眠っていたようだ。

眼鏡をかけて、ぼんやりと部屋を見渡すと、テレビがついていて、「全国の元旦の朝」みたいな映像が流れている。

「たまき、起きたか。あと十五分ぐらいしたら出かけるぞ」

ばっちりメイクをした亜美がそう言った。

「どこか出かけるんですか?」

「先生のとこ。お年玉もらって、おせち食うんだ」

「そのあとは初詣に行くよ」

と志保。

なんだかめんどくさいな、と思いつつもたまきは起き上がった。

たまきは髪の毛を整える程度の支度を済ませる。

「そういえば亜美ちゃん、朝さ、いなかったよね」

「ん? 屋上にいたんだよ」

亜美が答える。

「何してたの?」

「そりゃお前、正月の朝っつったら、初日の出見るために決まってんだろう。やばかったぜ。区役所とビルの隙間からちょうど朝日が昇ってくるんだ。光がこう、パーっとなって、ぴかーっとなって、うわっやべーってなって」

「よくわからないけど、あたしも見たかったなぁ。起こしてくれればよかったのに」

志保が不満げに口を尖らせた。

「じゃあさ、明日の朝見ようぜ」

「え?」

たまきと志保が同じタイミングで亜美を見た。

「明日見るって……何を?」

「何って、明日の初日の出だよ」

「明日って……、一月二日だよ?」

「知ってるよ」

「亜美ちゃん、初日の出の意味、わかってる?」

「その日初めて出てくる太陽の事だろ?」

「それ……ただの日の出です」

たまきがぼそりとつぶやく。

「亜美ちゃん、初日の出って、その年初めての日の出のことだよ?」

亜美は不思議そうな顔して話を聞いていたが、やがて顔をしかめて

「なにそれ?」

と言った。

「正月の朝だけ特別ってわけ?」

「そうだよ。だから亜美ちゃん、わざわざ早起きして見たんでしょ?」

「いや、うちは、テレビつけたら初日の出がどうとか言ってたから見に行っただけだけど、じゃあ、なに、今日の初日の出は初日の出だけど、明日の初日の出は初日の出じゃねぇのか?」

「だからそれ、ただの日の出です」

たまきがまたぼそっと言う。

「なんだよそれ。なんで正月の初日の出だけ特別なんだよ。明日見たっていいじゃねぇか。どうせおんなじところからおんなじ時間に昇ってくるんだから。今日の初日の出と明日の初日の出、クオリティが違うのかよ。んなわけねぇだろ?」

「まあ、クオリティは一緒だと思うけど……」

志保があきれたように言った。

 

お正月なんて何一つ特別なことなんてない。

たまきはそう思っているのだが、それでも年が変わり、1月1日というまっさらな日の空気は、冷たくもどこかすがすがしさを感じずにはいられなかった。

三人は連なって太田ビルの階段を下りていく。

2階まで降りると、ラーメン屋がのれんを出していた。

「この店、正月でもやってるんだ」

「みたいだね。年中無休って書いてあるよ」

「は~、正月早々ご苦労様です」

亜美が感心したように言うと、軽く敬礼をして見せた。

階段を下りた三人は舞の家に向けて歩き出す。

歓楽街に正月休みなんてないらしく、お正月だからと言って特別何かがいつもと違うわけではない。

「ミチってさ、今日もバイトしてんのかな?」

と亜美が切り出した。

「さあ。そもそも、ミチ君ってもうケガ治ってるの?」

「おい、たまき、なんか聞いてねぇか?」

「……なにも知りません。なんで私なんですか……」

「だって、お前が一番、ミチと仲いいだろ」

「……仲良くなんか、ないです」

たまきはわざと亜美から目線を外した。再びラジオのノイズみたいな音が聞こえた気がした。

「でも、たまきちゃん、よく公園でミチ君と一緒になるんでしょ? あの日もたまきちゃんだけ残ってたし、何か聞いてないの?」

「……あれ以来、会ってません」

たまきは、もうその話題に触れてほしくないかのように、歩調を落とした。

「でも、ミチ、もしも骨折とかしてたら、そんなすぐには治んねぇだろ」

「でも、先生は『最悪、亀裂入ってるかも』って言ってたから、逆に骨折してる可能性は低いんじゃない?」

ミチについて会話する亜美と志保の後ろを、たまきはとぼとぼとついていく。彼女の眼鏡に映る景色は、どことなくモノクロに感じた。

 

写真はイメージです

「せんせー、明けましておめでとー!」

「……お前ら、何しに来た」

舞は機嫌が悪そうに、マンションの廊下に並んだ三人をにらんだ。

「とりあえず、お前ら、中に入れ」

舞に促され、三人は部屋の中へと入る。

「先生、振袖とか着ないの?」

「一人で部屋の中で振袖着てたら、イタいだろ」

舞はそういうと、志保のほうを向いた。

「志保、お前、最近どうだ。クスリを断ってもう半年近くなるだろ」

「はい」

「クスリを使いたいって思うことはあるか? 怒らねぇから、正直に言えよ」

舞は灰皿の上に置いてあった煙草をくわえた。

「……あります。でも、一度も使っては……」

「了解。いいんだよ、それで」

舞はそういうと、今度はたまきのほうを向く。

「お前は、三日前のリスカの傷、どうなった」

「……別に何も」

正確にはまだちょっと痛いのだが、傷が開いたわけでもないので、たまきはだまっていた。

舞は何か考えるようなしぐさを見せた後、亜美のほうを向いた。

「亜美、お前、まさか、父親が誰ともわかんないガキを孕んだとか……」

「ないよ」

亜美があっけらかんとして答える。

舞は腕組みして数秒間考えた。

「じゃあ、お前ら、何しに来たんだ!?」

「何って……正月の挨拶ですよ」

「ずいぶん平和な用事だな……」

「何? 先生のとこって、ビョーキとかケガとかニンシンとかしてないと、来ちゃいけないの?」

「お前らが突然やってくるときは、だいたいなんかのトラブルと一緒だろうがよ! トイレで倒れてるとか、道路で殴られてるとか!」

たまきは舞の部屋を見渡した。いつもと何も変わらない。ここにいたら今日がお正月であることも忘れてしまいそうだ。

「せんせー、お年玉ちょーだい」

舞は浅くため息をついた。亜美がお年玉をせびることは想定済みだったらしい。

舞はおもむろにキッチンに向かうと、調理器具の中からお玉を手に取った。そしてリビングのソファの前に立つと、ソファの上にポトリとお玉を落とす。

「なに? いまの」

「おとし玉だよ」

三人はしばらく、ポカンと舞を見ていた。

「……くだらねぇ!」

「うるせぇ!」

亜美の言葉にかぶせるように、舞が吼えるかのように言葉をぶつけた。

「いいかお前ら、あたしはいつもお前らのことをタダ同然で面倒見てやってんだぞ! この前のミチの一件だって、本来の治療代と比べたら激安でやってやったんだからな! むしろ、お前らからもっとお金貰ってもいいくらいだ。なんであたしがお前らにお年玉払わにゃならんのだ!」

ミチの名前が出て、たまきは少し前のめりになるように口を開いた。

「あの、ミチ君、あれからどうなりました?」

「お、なに、心配?」

舞が妙ににやにやする。

「いや、そういうわけじゃ……」

下を向いたたまきを見て、舞はわざとらしく声を上げた。

「へぇ、心配してんだ。この前あんなにおおげん……」

「ま、舞先生…!」

たまきが慌てたように舞を見る。

「わかってるよ。言わないって」

舞はまだにやにやしている。

「おおげん?」

「なんだ、オオゲンって?」

志保と亜美が不思議そうに舞を見る。

「ん? ああ、ミチなら大元気だよ。オオゲンキ。結局、骨もおれてなかったし、頭打ったわけでもないし。年末に一回うちに呼んで様子見たけど、歩くのにちょっと足引きずってる感じだったけど、まあ、若いし、直に治るだろ」

「そうですか……」

たまきはどこか納得していないかのようだった。

「ところで、先生さ、おせち作ってないの?」

亜美がソファに腰掛けながら訪ねた。

「ないよ。一人でおせちなんか作るかよ」

「買ったりしてないの?」

「だからないって。一人でおせち食うかよ」

「なんだ。志保、おせちないってさ」

亜美がつまらなそうに言った。

「あれ? 亜美ちゃん、先生の家におせちあるから食べに行こうって……」

「いや、先生だったらおせちぐらい用意してるかもなぁ、って思ってたんだけどなぁ」

「え、ずいぶん自信ありげに言ってたけど、あれ、ただの予想だったの?」

「ダメじゃん、先生。正月なのにお年玉もおせちも用意してないなんて」

「勝手にあたしを当てにすんな」

舞が亜美を、ぎろりとにらみつけた。

 

結局、4人のお昼ご飯は舞の家にストックされていたカップラーメンという、お正月とは程遠いものとなった。

お昼を食べ終えて、亜美と志保は近くの神社に初もうでに向かった。

たまきも誘われたのだが、人ごみに行きたくなかったので、断った。

だいたい神様なんて信じていない。「早く死にたい」というたまきの願いは、一向にかなわないのだから。

テレビを見るとどこかで事故が起きたの、病気で人が死んだの、殺されたのと悲しいニュースが流れている。

こういうニュースが悲しいのは、死にたくない人が死んでしまうからだ。

どうせなら死にたくてしょうがない自分みたいな人が犠牲になればよかったのに。そうしたら悲しくなんかないのに。

死にたくない人が死んで、死にたい人が新年を迎える。もしも神様がいるなら、きっと悪趣味で残酷な奴に違いない。

 

たまきはソファの上でひざを丸めていた。舞の家にいてもやることがないし、このまま「城」に帰ろうかとも思ったが、帰ったところでやることはない。

何より、一人になったらまた心がもやもやして、あのノイズが聞こえてきそうだ。

眠ろうと思って目をつむった時、トイレに入った時、亜美も志保もいなくてひとりっきりになった時、心がもやもやして、ざわざわして、ノイズとともにイブの夜のことを思い出す。思い出してまたもやもやする。

ノイズが聞こえてくるタイミングはほかにもある。階段を下りてミチの働くラーメン屋の前を通りかかったとき、会話の中でミチの名前が出たとき、心がざわざわとし、あの夜のことが、ミチとのやり取りが頭をよぎる。

なぜあの日のことが頭を離れないのか、心がもやもやしてざわざわするのか。いくら考えても答えが出ない。

いくら考えても答えが出ないのに、それでも考えずにはいられない。もやもやするのが気のせいだなんて思えない。

さっきだってそうだ。ミチの名前が出るたびにもやもやしてるのに、自分からミチの話題を切り出した。ミチの話をすればまたもやもやするってわかっているのに。

そして、ミチのけがは心配ないという答えは、たまきが望むものではなかった。

別にミチのけがが治らなければいいとか、そういう意味ではない。たまきが知りたかったのは、ケガの具合じゃないのだ。それも心配だけれど、知りたかったのはもっと別のことなんだ。それは……。

「ミチ君、大丈夫でした……?」

「ん?」

舞は少し離れた所に立って、コーラを飲んでいたが、たまきの問いかけに怪訝な顔をした。

「さっき言っただろ? 大元気だったって……」

「けがのことじゃないです」

たまきは舞を見ることなく言った。

「そうじゃなくて、その、落ち込んだりしてなかったかなとか……」

舞はコーラを一口飲んでから答えた。

「そういう意味では元気なかったかもな。確かに、声のトーンとか、目線とか……、まあ、あんなことあったんだし、そんなすぐに立ち直れはしないだろうし」

「たぶんそれ、私のせいです……」

まるで冬の冷たい吐息のように、たまきはぽつりとつぶやいた。

「おまえのせい? なんで?」

「私があの時、ミチ君を傷つけるようなこと言ったから……」

たまきの中のノイズが、より一層大きくなった。

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

あの日の言葉が、ノイズがかかった状態で聞こえてくる。

「それでミチが落ち込んでるって思ってるの? いやぁ、考えすぎだろ」

舞はコーラの感をテーブルの上に置くと、笑いながらそう言った。

「でも……」

「前にも言ったろ。お前は何でも自分のせいにしがちだって。ミチがケガしたのも、お前にいろいろ言われたのも、全部ミチの自業自得なんだから。大丈夫。お前は間違ったことは言っちゃいないよ」

「私も、間違ったことを言ったなんて思ってません……」

「だったらそれでいいだろ。まだ納得できないことがあるのか?」

「はい……」

舞はコーラ片手に、たまきの隣に座った。たまきは膝の上に置いた両手を固く結び、その一点を見つめていた。

「心が……もやもやするんです……。ざわざわするんです……。なんであんなこと言っちゃったんだろうって。なんであんな言い方しかできなかったんだろうって。私は間違ってない、間違ったことは言ってない、何度もそう思っても、それでももやもやするんです……」

話ながらたまきは、ノイズの奥にある自分の本音が少し聞こえたような気がした。

「なんでかね、それは」

舞はやさしくほほえみながらそうつぶやいた。

「きっと私は……自分のことが赦せないんだと思います」

たまきは今にも消え入りそうな声で、それでいて力強くそう答えた。

「ああいう言い方しかできなかったことが?」

「はい……」

「でも、あたしから見ても、お前の言ってたことは間違っちゃいないぜ。悪いのは不倫して、嘘ついてたミチだ。そのことをきつく言われて落ち込んだからって、お前が自分を責める必要はないんじゃないか?」

「でも……、もやもやするんです。なんでなんで私はあの時……、って。それが心から離れないんです。自分が……赦せないんです……」

「それは、なんで?」

舞はうつむくたまきの目を覗き込むようにして言った。

「そうまでして自分のことが赦せないのはなんで?」

「それが……わからないんです……」

たまきはじっと一点を見つめたまま答えた。

舞はごくごくとコーラを喉の奥に一気に流し込むと、缶をテーブルの上に置いた。

「確かに、お前の言ってたことは正しかったけど、優しくはなかったかもなぁ」

「え?」

たまきはこの時になって初めて、舞のほうを向いた。

「お前が言ってることはそういう事だろ? 自分は正しいことを言った。でも、優しくなかった。優しくなかった自分が赦せないって」

「そうなんですか?」

「いや、お前のことだよ」

舞は笑った。

自分の言ったことは正しい。

でも、優しくなかった。

舞の言葉を心の中でたまきは何度もつぶやく。

いつしか、たまきの中に聞こえていたノイズは消えていた。もやもやもざわざわも消えていた。

「あの日、私は、やさしくなかった……。ミチ君に対してやさしくできなかった自分が赦せなかった……」

たまきはもう一度舞のほうを向いた。

「そういうことなんですか?」

「だからあたしに聞いても正解なんか知らないって。お前のことなんだから」

そういって舞はまた笑う。

「私は……やさしくない自分が赦せなかったんだ……」

「おまえはヘンなやつだな」

舞は白い歯を見せてにっと笑う。

「ヘン……ですか?」

「だってさ、自分がやさしくなかったから自分を赦せないって、そんなこと考えるのは、やさしいやつだけだよ。おまえは人一倍やさしいんだよ。なのに、自分がやさしくなかったから赦せない、なんて言ってやがる。矛盾してるだろ」

「私は……やさしくなんかないです……だってあの時……ミチ君にきつい言い方を……、海乃って人にも……」

「だから、そんな風に考えること自体、やさしいやつだけなんだよ」

舞はさっきから、ゲラゲラと笑っている。

「あたしがお前ぐらいの時なんか、そんな風には考えなかったぜ。あたしは正しいこと言った、あたしは間違ってない、って。その言い方がやさしくなかったとか、もっと別の言い方があったんじゃないかとか、そんなこと考えなかったよ。いや……、大人になってからもそうだったかもな……」

どこか遠い目をする舞の横で、たまきは突然立ち上がった。

「私、ミチ君に謝らないと」

「おお、どうした、急に」

舞は立ち上がったたまきを見上げた。

「別にお前が謝る必要なんかないんじゃないか? 確かにお前の言い方はやさしくはなかったかもだけど、何度も言うけどさ、悪いのはミチなんだぜ。ミチが悪いことして、その結果なに言われようが、自業自得だと思うけどねぇ」

「でも、私はミチ君にやさしくできなかったんです。やっぱり、そのことをちゃんと謝らないと」

たまきの言葉に舞は、いつになく意志の強さを感じた。

「私、帰ります。舞先生、ありがとうございました」

「おお、まあ、頑張って謝って来いよ」

たまきは舞にぺこりとお辞儀をすると、舞の部屋を出て行った。

たまきが出ていき、部屋の扉がバタンと閉じた。その扉を見ながら、舞はひとり呟いた。

「ほんとうにヘンなやつだ」

 

写真はイメージです

元日の昼過ぎ、ミチはいつもの公園の、いつもの階段にいた。

けがをして、それも足をくじいていたので、この公園に来るのは久しぶりだった。

ギターケースを下すと、階段に腰掛ける。夏場には鉄板のように熱い階段のコンクリートも、今では氷のように冷たい。

腰を下ろしたまま、ミチはただぼおっと前だけを見ていた。

ふいに後ろから声をかけられた。

「あけましておめでとう」

振り返ると、そこには仙人が立っていた。

「……あけおめっす」

ミチは軽く頭を下げる。仙人は笑いながら、

「今の若いもんはそんな風に略すのか。まあ、正月なんて何がおめでたいのかわからんもんな」

と言った。

「今日は歌わんのか?」

ミチは答えなかった。

仙人はミチの横の空いたスペースに目をやった。

「となり、いいかな?」

ミチは無言でうなづく。

「かわいいお嬢ちゃんじゃなくて申し訳ないがな」

「別に……」

仙人はミチの隣に腰掛けた。

仙人は手にカップ酒を持っていて、それを開けるとちびちびと飲みだす。

仙人は、ミチの額に貼られたばんそうこうについては、何も聞かなかった。

仙人がカップ酒を半分ほど飲んだ時だった。

「あの……」

ミチが仙人に話しかけた。

「ちょっと、話を聞いてほしいんす……けど……」

ミチは横目で仙人の表情をうかがう。

「歌ではなくて話を聞いてほしいか。噺家にでもなったのか?」

そういって仙人は、優しく笑った。

 

ミチは仙人にすべてを話した。不倫したこと。ばれたこと。殴られたこと。相手にも、そして友達にも嘘をついたこと。そして、たまきに軽蔑されたこと。

仙人にも軽蔑されるかと思ったが、仙人は時折あいづちを入れるだけで、不倫したことに対して、特に何も言わなかった。

一通り話し終えて、仙人は

「そりゃ、大変だったな」

とだけ言った。

「仙人さんは……その……今の話を聞いて、俺のことどう思います……?」

「別にどうも思わんさ。わしに迷惑をかけたわけではないからな。おまえさん、まだ未成年だろ? だったら、いっぱい道を踏み外して、めいっぱい怒られればいい。おまえさんは今回、自分の行いで傷つく人がいることを知ったんだ。おまえさんぐらいの年だったら、そこから学んで、二度と同じ過ちをしなければそれでよい」

仙人はカップ酒の入った小瓶を地面に置いた。

「経験するだけじゃ何も偉くない。人の価値を決めるのは経験から何を学んだか、だ」

「そうっすか……」

「ところで、どうしてこんな話をわしにしたのかな?」

「……」

「わしはてっきり、お前さんに嫌われていると思っとったんだが」

ミチは答えず、下を見つめた。

「ただ話を聞いて、懺悔したいというのなら、わしなんかよりも寺や教会に行ったほうがよいぞ。悪い宗教家というのは口がうまいが、善い宗教家は話を聞くのがうまい」

「そのっすね……、俺、どう謝ったらいいのかわからなくて……」

仙人は再びカップ酒を口にした。

「さっきの話を聞く限り、お前さんの先輩が、お前さんとその女の人はもう二度と会わないということで話をまとめたんだろ? だったら、下手に謝罪しないほうがいい。かえって話がこじれる。勝手なことをすれば、先輩とやらの顔をつぶすことにもなる」

「その……でも……」

「何か割り切れないことがあるのか?」

「俺、たまきちゃんにどう謝ればいいのかわからなくて……」

「ほう」

仙人は興味深そうにミチを見た。

「俺のせいで巻き込まれて、ケガしちゃったし、あんなに怒ってたし、ちゃんと謝んなきゃなって……。でも、こういう言い方するとあれなんすけど、あの子普通の女の子と違うっていうか……、普通の女の子ならなんかアクセサリーとかあげれば喜ぶかなって思うんすけど、たまきちゃんがアクセサリーとかつけてるの見たことないし、あの子、画集とかそういうの貰って喜ぶ子だから、何あげればいいかなって……」

「ボウズ」

「はい……」

ミチは緊張した面持ちで仙人を見た。

「わしから言えることは二つだ。まず、モノをあげれば謝ったことになると思っとるんなら、それは間違いだぞ」

「そ、それはそうなんすけど……」

ミチは仙人から視線を外し、泳がせた。

「でも、やっぱり、手ぶらっつーのも……」

「それにだ、確かにお嬢ちゃんが、お前さんに巻き込まれてケガしたことに怒っとるんだったら、まあまだお詫びの品を持ってくでもいいが、話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこに怒ったわけではないと思うぞ」

「……というと」

「そもそも、お嬢ちゃんがケガをしたのは、お前さんを助けようとしたからだろ。おまえさんはお嬢ちゃんに助けを求めたのか?」

「……いいえ」

「つまり、お嬢ちゃんは自分の判断でおまえさんを助けようとしたんだ。ケガしたくなかったら、そんな事せんだろ」

「でも、現に、たまきちゃんは俺のせいでケガしちゃったわけで……」

「まあ、お前さんの気が済まんというのなら、謝って来ればいいさ。モノがなきゃどうしても不安だというのなら、お菓子の一つでも買っていくといい。だが、わしにはもっと他に謝らなければならんことがあるような気がするがの」

ミチは何も答えなかった。

「お前さんもそのことをうすうすわかっとるんじゃないのか。だが、それが何なのか、はっきりとは分からない。何をあげたらいいかとかそういうんじゃなく、あの子の前に立った時に何を言えばいいのか、本当は何を謝らなければいけないのか、それがはっきりと自分でもわかっとらんのではないか? だから、とっとと謝りに行けばいいものを、一週間も何もせんでおる。」

「俺は、なにを謝らなければいけないんすか……」

ミチは、仙人をすがるように見た。

「それを自分で気づくところまでが勉強……と言いたいところだが、まあ、『謝らなければいけないことがある』と自分で思っただけでも上出来だろう」

仙人は、再びカップ酒に口をつけた。

「言っておくが、『わしはこう思う』って話であって、これが正解ってわけじゃないぞ。一応、わしの考えは述べるが、それをどう思うかはお前さんが判断することだ」

ミチはいつになく真剣なまなざしで仙人を見据えた。

「お前さんにとって、あのお嬢ちゃんはどういう存在だ?」

「え……友達っすけど?」

「それだけか?」

「それだけって、別にヘンな関係じゃないっすよ?」

ミチは少し顔を赤くしながら言った。

「じゃあ、ほかの友達にはなくて、あの子にだけはあるつながりがあるだろう?」

「え……?」

ミチは数学の問題でも解くかのように難しい顔をしたが、悩みつつも口を開いた。

「歌?」

「お前さんにとって、あの子はどういう存在だ?」

「……ファンっすか?」

「そうだ。それもたった一人の、な」

仙人は、やれやれとでも言いたげにミチを見ている。

「そのたった一人のファンを、お前さんは失望させたんだ。おまえさんの歌は全部嘘だったんだ、とな。おまえさんの話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこにがっかりして、そこに怒っていると思うがな。お嬢ちゃんが好きだったおまえさんの歌を、ほかでもないおまえさん自身が嘘にしてしまったことに」

ミチは何も答えられなかった。

「もちろん、ファンの期待に全部答えることなんてできん。中には、勝手な期待もあるだろう。だが、自分の歌を嘘にしちゃいかん。歌を殺しちゃいかん。おまえさんの歌はお前さんのものだが、聴いてくれる人のものでもあるからだ。おまえさんの歌が嘘になれば、お嬢ちゃんがお前さんの歌を聴いて抱いた想いや、思い出も嘘になってしまう」

仙人の言葉は白い息となって、霞のように空気に溶けていく。

「そこまで責任が持てんというのなら、人前で歌なんぞ歌わぬことだ」

ミチは何も答えない。ただ、傍らに置いたギターケースを見ていた。

やがて、おもむろにミチは立ち上がる。

「俺、そろそろバイトの時間なんで、行きます。……ありがとうございました」

「元旦からバイトか。大変だな」

「いえ……じゃ……」

ミチは軽く会釈をすると、公園の出口へとむかって歩き始めた。

結局開けることのなかったギターケースを担いで、大通りを渡る。

歩きながらミチは仙人の言葉に思いを巡らす。

それは、最初に言われた「正月なんて何がおめでたいかわからない」という言葉。

公園と駅の間にある官庁街は、ほとんど人通りがない。人気のない官庁街を、ミチは速足で歩いていく。

仙人のおっさんのゆうとおりだ。正月なんてちっともめでたくない。

だって俺の中では、去年はまだ、終わっていない。

 

写真はイメージです

ミチに謝ろうと勢いよく舞の家を飛び出したはいいものの、たまきは結局「城」に帰ってきた。

思えば、ミチの家も、連絡先も知らない。

いつもの公園に行けばもしかしたらいるかも、などと考えたが、「城」の鍵は今、たまきが預かっている。亜美と志保がいつ帰ってくるかわからないのに、遠出をするわけにはいかない。

結局、太田ビルに帰ってきたたまき。途中でミチの働くラーメン屋を覗き込んだが、覗いた程度でミチがいるかどうかはわからなかったし、謝罪をするためにわざわざお店に入るのは、お店にとって迷惑だろう。

結局、謝らなくちゃという思いを抱えてまたもやもやしたまま、たまきは『城』へと帰ってきた。

もやもやしたまま「城」でしばらく過ごしていたら、いつの間にか時間は午後4時になっていた。亜美と志保はまだ帰ってきていない。

ふと、おなかの虫がぐうとなった。

誰もいないのに、なぜだか恥ずかしいと思ってしまう。

おやつでも買おうと、たまきは立ち上がる。

下のコンビニ行くため、階段を下りていく。

3階から2階へと降りる階段の、踊り場を過ぎたあたりで、たまきは2階のラーメン屋の前に誰かいるのに気づいた。

階段のすぐそばにラーメン屋の入り口があり、2階の奥にはもう一つ、勝手口がある。勝手口のわきにはパイプ椅子が二つ置かれ、灰皿代わりの水の入ったバケツが置いてある。従業員の喫煙スペースとして使われている場所だ。

そこで一人、調理服を着た少年が、たばこを吸っていた。少年がタバコを吸うのはルール違反だが、吸っているのだからそう書くしかない。

少年の姿を見つけると、

「あっ……」

と、小さく声を漏らし、たまきは階段の上で足を止めた。そのまま次の一歩が踏み出せずに、階段の上に立ち尽くした。

さっきまで、謝ろう謝ろうと思っていたのに、急に本人に会うと、言葉が出てこない。

その少年、ミチもたまきに気づき、やっぱり

「あ……」

と、小さくつぶやくと、気まずそうにたまきを見ていた。

やがて、ミチは煙草をバケツの中に放り込み、やはり気まずそうに、それでも一歩一歩、たまきの方へと近づいて行った。

手を伸ばせば触れるくらいのところでミチは止まると、右上を見たり左上を見たり、視線を忙しく泳がせながら、言葉を探した。

「あ、あのさ……」

ようやく見つかったミチの言葉の出だしだったが、それにかぶせるように、たまきはいつもよりちょっと大きな声で、いつもよりちょっと早口で、

「あの、この前は、ごめんなさい!」

というと、思いっきり頭を下げた。

「……へ?」

ミチの方は出鼻をくじかれ、なおかつ面食らったようにたまきをぽかんと見つめる。

たまきが顔をあげた。いつになくまっすぐにミチを見据えている。

二人の視線が正面衝突した。

気恥ずかしさもあってか、たまきはすぐに次の言葉が言えなかった。

一方、ミチは虚を突かれたようにたまきを見ていた。やがて、絞り出すように言葉を述べる。

「……なんで……たまきちゃんが、謝るの?」

たまきは珍しく、ミチの目を見たまま、目をそらさなかった。

「あの日、ミチ君はケガしてて、傷ついてて、優しくしなきゃいけなかったのに、私、ちゃんと優しくできなくて……」

「でも、あれは、俺が悪いわけで……」

一方のミチは恥ずかしそうに視線を逸らす。

「だとしても、私はあの日、もっとミチ君に優しくしなきゃいけなかったんです。言いたいことがあっても、何もあの日に言うことはなかったんです。ごめんなさい」

たまきはもう一度頭を下げた。

顔をあげるとすぐ目の前にミチの顔があった。今度はミチがたまきをじっと見ると、

「……ずるくね?」

と言った。

「……え?」

「だって、謝らなきゃいけないのは俺の方なのに、そんな風にたまきちゃんから最初に謝られたら、俺、もう、謝れないじゃん。それってずるくね?」

「ずるいってどういうことですか? ミチ君も謝りたいことがあるなら、今、謝ればいいじゃないですか?」

「でも、たまきちゃんから先に謝られたら、もう謝れねぇじゃん。なんか、後出しじゃんけんみたいでさ」

「別にどっちが先だからってそんなの関係ないじゃないですか」

たまきとしても納得いかない。

「だってさ、優しくできなかったからごめんなさいって、そんな理由で先に謝られたらさ、なんか謝りづらいっていうか……」

「私が先に謝ったのがいけないんですか? 私は自分が悪いことしたって思ったから、謝ったんです。なんでそれに文句言われなきゃいけないんですか? おかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきもムキになって言い返す。ミチは何か言いたそうにたまきを見ていたが、

「おかしいっていえばまあ、可笑しいよな……」

と言って、笑い始めた。

「……何がそんなにおかしいんですか!?」

「いや、俺、たまきちゃんに謝るつもりだったのに、なんでまたけんかしてんだろ、って思ってさ」

「……べつにけんかしてるつもりはありません」

たまきは斜め下へと目をそらした。そして、ぽつりと言った。

「……謝りたいことがあるなら、謝ればいいじゃないですか」

「そうやって促されると、余計にダサいっていうか……」

「謝るのはいつだってダサいんです。さっきは、私がダサかったんですから」

そういうと、たまきは再びミチの目を見た。

「謝るのにかっこつけたいなんて、それこそずるくないですか?」

ミチは本当に恥ずかしそうにたまきを見ていた。そして、恥ずかしそうに口を開いた。

「なんかその、いろいろと、ごめんなさい……!」

「『なんかいろいろと』じゃわかりません」

「いや、今のことも謝んなきゃなぁ、って思うし、巻き込んじゃったこともそうだし、その……たまきちゃんがせっかく好きだって言ってくれた俺の歌……、自分で台無しにしちゃって……ごめん……」

ミチはぎこちなく、それでも潔く、頭を下げた。だからたまきが

「……ほんとですよ」

とつぶやいた時、彼女がどんな表情をしていたかミチは見ていない。

「……俺決めた。これまで作った歌は、全部捨てる」

「え?」

たまきは戸惑ったような声を上げ、申し訳なさそうにミチを見た。

「……別にそこまでする必要は……」

「いや、もうさ、あの日以来、歌えないんだよ」

ミチはたまきから視線を外す。

「さっきもギターもって公園に行ったんだけど、歌うどころか、ギターを持つ気にもなれなくてさ……、結局、俺は自分の作った歌の主人公になれなかった。自分で自分の歌を嘘にしちまったんだ。だから、もう、歌えないんだ」

たまきはミチをじっと見ていた。

「だから、全部捨てる。今の俺には歌えないし、だったら、一からやり直すことに決めたんだ。ヒット曲の切り貼りじゃねぇ、俺の身の丈に合った、俺自身の言葉で書いた歌を、一から作り直すって」

「そうですか……」

たまきはどこか寂しそうに、それでいて、どこかほっとしたようにつぶやいた。

「でも……、全部捨てなくてもいいんじゃないですか……。あの……犬の歌とか、私、まだその……」

少し恥ずかしそうにたまきが言った。

「……また歌えるようになったらね」

そういってミチは笑った。たまきも微笑んだ。

「なんだか今日は、ミチ君がいつもと違って見えます」

「違って見えるって?」

「いつもはなんか、もっと遠い感じだったけど、今日は目線が同じに見えるような気が……」

「それ、たまきちゃんがちょっと高いところにいるからだよ」

たまきは足元に目をやった。たまきはミチよりも階段1段分、高い所に立っていた。

たまきはそこからぴょんと飛び降りた。トン、と着地して見上げると、ミチの目が少し高いところにあり、いつもの身長差に戻った。たまきはミチの目を見上げると、

「いつも通り」

と言ってほほ笑んだ。

「そういえば……その……」

たまきはラーメン屋ののれんを見ると、言いづらそうにミチを見た。

「お店で働いてて、あの海乃って人と会わないんですか……」

「……あの人ね、……バイト辞めてた。俺が休んでる間に」

「そうですか……」

「ま、旦那いるんだったら、別に無理してバイトしなくても生活できるだろうしな」

ミチがわざと明るく言っているようにたまきには感じられた。

「じゃあ、私はこれで……」

そういってたまきはミチに背を向け、階段を上り始めた。

「……たまきちゃん!」

たまきの背中に、ミチの言葉が投げかけられる。

「新しい歌ができたらさ、また聞いてくれないかな?」

「……はい」

たまきは振り返ることなく答えた。

そのままたまきは階段を上り続けた。

4階から5階へと向かう階段の踊り場で、再びおなかが、ぐう、と鳴った。

恥ずかしそうにたまきはおなかに手をやる。

そうだった。私はおなかがすいて、下のコンビニにおやつを買いに行く途中だった、とたまきは自分の用事を思い出した。

しかし、いま戻っても、たぶん、まだミチがあそこでタバコを吸っているような気がする。

いま戻ったら絶対、「あれ、どうしたの?」と声を掛けられるに決まってる。

そう思ったらさらに恥ずかしくなって、たまきはおなかに手を当てたまんま、階段を上り続けた。

つづく


次回 第22話「明け方の青春」

近くの神社に初詣に行った亜美と志保。志保はそこで思いがけない人物に出会う。そして、「二日目の初日の出」を見るつもりがふとした手違いで日出より早く起きてしまった3人は、明け方の歓楽街を散歩することに。

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第20話「冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン」

あしなれ、前回までのあらすじ

ミチのカノジョ、海乃は実は既婚者だった。ミチとの交際が海乃の旦那にばれ、ミチは激しい暴行を受ける。その日の夜、舞の家で治療を受けるミチにたまきは、海乃が既婚者であることをミチは知っていたのではないか、知ってるのに「何も知らなかった」と嘘をついているのではないかとぶつける。


第19話「赤いみぞれのクリスマス」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです。

「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」

たまきはいつになく強い目で、まっすぐにミチを見据えた。

暗い部屋の中、外の明かりに照らされたたまきの顔は、ほんのりと紅潮している。

「え……、知ってるって……」

ミチは半笑いをしながら、窓の外を見た。

「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」

たまきはもう一度同じ言葉を、より語気を強めていった。

ミチはたまきの方を向くと、左手で鼻の下をこすりながら、ひきつった笑顔を見せた。

「し……知ってたわけないじゃん。俺だって今日初めて知って……」

「私は知ってました」

たまきの言葉にミチの指が止まった。そのまま左手はだらりと下がるものの、顔は硬直したまま、たまきを見続ける。

「え……」

「私は海乃っていう人が結婚してるって知ってました」

「いつ……」

ミチはそう言って唇をかんだ。

「……大収穫祭の次の日の朝、その……ホテルから出てきた二人にあった、あの時です」

たまきはミチの方を見ながらも、ときどき記憶をたどるように左上を見ながら、しゃべり始めた。

「あの海乃って人……、『ひきこもりはダメ』みたいなこと言って、私の頭なでたんです……。その時、私、はっきりと見ました。左手の薬指に、指輪してるの……」

たまきは言葉を選ぶように続けた。

「最初は……、見間違いじゃないかと思いました。左手っていうのは私の見間違いかなって……。でも、あの時、海乃っていう人の右手は、ミチ君と手をつないでました。私の頭を撫でたのは、指輪をしてたのは間違いなく左手だったんです……。それでも、ほんとに薬指だったかなって……。でも、あの人、別れ際に私にゆっくりと手を振ったんです。左手で。その時、指輪が見えました……。間違いなく薬指でした……」

ミチは気まずそうに、ドアの方に目をやった。

「私、もしかしてミチ君、このことに気付いてないのかなって思いました。でも、この前、ミチ君の働いてるお店に行った時、ミチ君、海乃って人とハイタッチしてましたよね……。その時も私、はっきりと見ました……指輪」

たまきは、一度下を向き、それから、ミチを再び見据えた。

「私が気付いているのに、お付き合いしてたミチ君が気付いてなかったわけないじゃないですか……!」

ミチは気まずそうに唇をなめると、たまきをちらりと見やったが、すぐにまた目線をそらした。

「知ってましたよね……!」

「……まあ」

ミチは窓の外を見ながら答えた。

「……知ってて付き合ったんですか?」

「俺が知ったのも……たまきちゃんと同じくらいのタイミングだよ」

ミチはようやく、たまきの方を向いた。

「大収穫祭の夜に海乃さんとホテルに泊まって、……そん時、海乃さんが誰かと電話してて、誰って聞いたらダンナって……。そん時まで、海乃さん指輪してるの隠してて……俺、そん時初めて、海乃さんが結婚してるって知って……」

「……じゃあ、その時、お別れすればよかったんじゃないですか?」

たまきは一度ため息をつくと、言葉を続けた。

「その時、海乃って人ときちんとお別れてしていれば、今日、こんなことにはならなかったんじゃないですか?」

ミチは、何かをあきらめたような笑顔を見せた。

「たまきちゃんってさ、誰かを好きになったこととか、ある?」

「……ありませんけど」

「じゃあ、わかんないよ」

ミチは再び窓の外を見ながら言った。

「人を好きになるってさ、なんつーか、そんな単純なことじゃねぇんだよ。そりゃ、確かに浮気はルール違反なのかもしれないけどさ、恋愛ってもっとなんつーか、尊いもんで、一度好きになっちゃったらもう、そういう次元じゃ……」

「……ごまかさないでください」

たまきはいつになく低い声で言った。その喉の奥に何か熱がこもっているのをミチは感じた。

「そんなに、恋愛って大事なんですか……?」

「そりゃ……、まあ……」

「何よりも?」

「……そりゃ、そうじゃない?」

ミチはあいまいにはにかんだ。

「そうですよね。大事ですよね。ミチ君、そういう歌うたってますもんね。志保さんや亜美さん見てても、私とそんなに年が違わないのに、二人とも大人で、やっぱりそういう経験の差なのかなって思います。そういう経験が大切なんだっていうのは、なんとなくわかります。でも……、だったら……」

時刻はすでに夜の十時を回っていた。暖房の風の音が重苦しく響いていた。

「だったら、なんでそれを、言い訳の道具に使うんですか?」

「……」

再び暖房の音。そして、たまきの声。

「そういう経験ないからわかんないとか、そんな単純じゃないとか、結局、ただの言い訳じゃないですか。自分を正当化しているだけじゃないですか。恋愛が、人を好きになることが、そんなに大切なんだったら、どうしてそれを都合のいい言いわけの道具に使うんですか? それって、大事なものの価値を、自分で貶めてるってことですよね?  おかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきは、いつの間にか椅子から立ち上がって、ミチに詰め寄っていた。ミチはたまきから目を反らし、ぐるぐる巻かれた右手の包帯に目を落とした。

「私、ミチ君が不倫してるってわかって、なんだかもやもやして……。でも、不倫はイケナイことだけれど、私がとやかく言う事じゃないし……、それに、ミチ君がそこまであの海乃って人のこと好きなら、もうしょうがないのかなって思ってました……。もし、不倫が相手のダンナさんにばれた時、ミチ君は海乃って人をかばって、それでも、恋を貫き通すくらいの覚悟なんだって勝手に思ってました。だから、今日、ミチ君が殴られて……、『知らなかった』っていったとき……、ショックでした……。ああ、そういう覚悟はなかったんだ、って……」

「……勝手に人を、ラブソングの主人公とかにすんなよ……」

「だってミチ君、そういう歌、歌ってたじゃないですか……!」

たまきはミチの布団をぎゅっとつかんだ。

「ずっと大事にするとか、ずっと守り続けるとか……!」

「よく覚えてんな……」

「結局、そんな覚悟なんてなかったんですよね……」

たまきは、震える唇を前歯で軽く抑えた。

「ミチ君も、海乃って人も、結局、本当に大事なのは自分たちだったんじゃないですか。自分たちだけ楽しければそれでいい。今が楽しければそれでいい。それを恋愛って言葉で包んで、ふたをして……、ひきこもってただけなんじゃないですか?」

たまきはミチの目を強くにらみつけた。

ミチは目をそらしたかった。だが、そらせなかった。

「確かに、あの男の人がミチ君にやったことは、やりすぎだと思います。でも、不倫されれば誰かが傷ついたり、怒ったりするのは、当たり前じゃないですか。あなたたちもわかってましたよね? 私より経験豊富なんだから、当然わかってましたよね? 私、ミチ君も海乃って人も、それでも貫く覚悟があるって思ってました……。そう信じたかった……。でも違った……」

たまきの脳裏に、いつかの海乃の言葉が蘇ってきた。

『引きこもり?へぇ~、かわいい~』

『あれ、でも、この子ヒキコモリなの?だって、外にいるよ?』

『ダメだぞ、ちゃんと学校に行かなきゃ』

声帯がけいれんして嗚咽を繰り返す。そうやって、たまきのことばを喉の奥へ奥へ通し戻そうとする。

それでもたまきは言葉をつづける。前にもこんなことがあったような気がする。

「都合のいい言い訳をして、現実から逃げて、目をそらして、自分たちだけの殻に閉じこもって、ひきこもっているのは、あなたたちの方じゃないですか! そんな人たちに、私がひきこもりだからって、不登校だからって、なんで馬鹿にされなきゃいけないんですか⁉ 本当に逃げてるのは、本当にひきこもってるのは、あなたたちの方じゃないですか‼ なんで私がばかにされなきゃいけないんですか‼」

そこまで言って、たまきの目からポロリとひとしずく零れ落ちた。

「あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!」

 

たまきは飛び出すように、寝室を出た。

蛍光灯が白い壁を照らす。たまきはソファをにらみつけると、クッションを手に取り、勢いよく寝転がった。

部屋の奥にあるキッチンでは舞が何やら作業をしていた。

「もう十時過ぎてるのでー、大声出さないでもらえますかー。近所迷惑でクレーム来ちゃうので―」

舞がわざと語尾を伸ばしていった。その言葉にたまきが飛び起きる。

「ご、ごめんなさい! 私、先生の迷惑とか、周りのこととか、全然考えてなくて……!」

「そんな必死で謝んな。大丈夫だよ、となり、空き部屋だから」

そう言って舞は笑った。

「……聞こえてました?」

「お前の声だけ、ほぼ全部」

たまきはバツが悪そうに下を向いた。

「お前あんな大声で、あんなにしゃべるんだなって、聞いてて結構面白かったぞ。録音して亜美と志保にも聞かせてやりてぇ」

「え?」

「いや、録音してないから、大丈夫だよ」

そういって舞はまた笑った。

ピーッという電子音が舞の後ろから聞こえてきた。舞は振り返ると、電子レンジのドアを開ける。

舞はテーブルの上にどんと、出来立ての冷凍チャーハンを置いた。

「さてと……、夜食のチャーハンができたわけだが、どうする? 気まずいってんなら、あたしが行こうか?」

「私が行きます。そのために、ここに残ってるんで」

たまきはそういうとチャーハンのお皿に手を伸ばしたが、すぐに

「あつっ……!」

といって手を離した。

「おいおい、気をつけろよ」

舞は笑いながら、たまきに鍋つかみを手渡した。

 

寝室のドアがガチャリと開いて、リビングの明かりが漏れこむと同時に、たまきが何かを持って入ってきた。

「お夕飯はチャーハンです」

舞がドアを閉めると、再び部屋は薄暗くなった。

たまきはチャーハンを化粧台の上に置くと、部屋の明かりをつけた。

薄暗かった部屋が一気に明るくなる。お皿からはチャーハンの蒸気が幽かに立ち上っている。

ミチは、何かを避けるかのように窓の外へと目をやった。

「……俺のこと、嫌いなんじゃなかったの?」

「大嫌いです」

たまきは即座に答えた。

「だったら、そんな奴の世話なんか……」

「それとこれとは話が別です」

たまきは椅子に腰を下ろした。

「誰かを見捨てる理由なんて、口にしたくありません」

その言葉から少し間があって、ミチが口を開いた。

「でも、さっき、海乃さんのこと、見捨てるっつーか、突き放すようなこと言ったじゃん……」

たまきはチャーハンにスプーンを突き刺したまま、まるで米粒の数を数えるかのようにじっと下を見ていた。

「……わかってる。あんなこと、言いたくて言ったわけじゃないし……」

「……たまきちゃん?」

「なんであんな冷たいこと言っちゃったんだろ……」

たまきはそのまま、石のように動かなかったが、気を取り直したかのように立ち上がると、チャーハンのお皿をミチの顔へと近づけた。

「だからミチ君は見捨てません。右手、使えないんですよね。ほら、こっち向いて口開けてください」

ミチはたまきの方を向いた。たまきはチャーハンをスプーンですくい、ミチの方に差し出す。

ミチはそれをじっと見ていた。

「食べてください。食べないと、治るものも治りません」

「海乃さんが一度だけ……、まかない作ってくれたことあるんだ……」

ミチはスプーンの先から目線を落とした。

「チャーハンを……」

「そうですか。早く食べてください」

「これ見てたら、そのこと思い出したっていうか……」

「これは違うチャーハンです」

「でも、思い出しちゃうっつーか……」

「じゃあ、牛乳でもかけますか? そうすればチャーハンじゃなくなります」

「……食うよ」

ミチはスプーンの先にかぶりついた。

「……熱っちぃ」

「知りません」

たまきは、無表情のまま、再びスプーンをチャーハンに突っ込んだ。今度は、ミチに差し出す前に、軽く息を吹きかけた。

 

写真はイメージです。

「さあ、バッターボックス、志保選手が入りました。右投げ、右打ち、打率はえーっと……」

「亜美ちゃん、ちょっと静かにしてくれない? 集中できない」

志保はバットを構えた。正面を難しそうににらみつける。

深夜のバッティングセンター。客の入りは上々で、あちこちからボールがネットに突き刺さる音や、バットによって高く打ち上げられる音が聞こえる。

志保と向かい合ったピッチングマシーンからボールが飛んでくる。そのたびに志保はぶんぶんとバットを振るのだが、当たるどころかかすりもしない。

後ろのベンチで亜美はそれを頬杖しながらじっと見ていた。

「あ~、むずかし~」

ヒットはおろか、ファウルすらあきらめた志保がベンチへと戻る。

「お前は腕だけ振ってるからダメなんだよ。こういうのはな、全身運動なんだよ。体全体でボールを前へはじき返すのがコツだ」

亜美がバッターボックスに立つ。ピッチングマシーンから、勢いよくボールが放たれた。

「せいやっ!」

亜美がバットを振ると、カンという心地よい音とともに、ボールが放物線を描いて飛んでいく。

「そいやっ!」

今度の打線は少し低めだった。

「はーい、どっこいしょ―!」

「ねえ、その掛け声、必要?」

ベンチで息を切らしていた志保が尋ねる。

「掛け声のタイミングで、バットにボールを当てるのがコツだ」

そういって亜美は、再びバットを構える。

「よいよい―よっこらせ―!」

今の掛け声は、長すぎて逆にタイミングが合わないんじゃないか。志保はそんなことを考える。一方、亜美は、志保の方を向いた。

「プロ野球選手もみんな打つときに掛け声言ってんだからな」

「うそだよ。聞いたことないよ」

「そりゃお前、スタジアムは客でいっぱいなんだ。歓声で聞こえてねぇだけだよ」

そういうと、亜美はバットをまっすぐに構えた。

「お前、知ってっか? 叫んだ方が力が出るんだぞ」

亜美はバットを持ったままぐるぐる回りだした。

「ハンマー投げの選手とかさ、こう、ハンマー振り回して、で、投げるときに思いっきり『あー!』ってさけん……」

「亜美ちゃん! バット!」

亜美は、志保が指さす方を見た。

斜め上のネットに的のようなものが設置されている。ここにボールが当たればホームラン、という事だ。

亜美が見たのは、その的に、掛け声と同時に亜美の手からすっぽり抜けたバットが、まさに突き刺さる瞬間だった。

「あー!!」

亜美が今日一番の大声を出した。

 

写真はイメージです

ミチが寝たいと言ったので、たまきは部屋の電気を消した。

たまきがカーテンを閉めるといよいよ真っ暗になったが、ミチがちょっと明るい方がいいと言ったので、たまきは再びカーテンを開けた。

薄暗い部屋の中で、イブの夜に10代の男女が二人きり、と書くと何かロマンチックなマチガイでも起きそうだが、包帯ぐるぐる巻きのミチと、毛並みを逆立てた猫のようにイスに座るたまきとでは、マチガイなんて間違っても起きそうにない。

「あのさ……」

ミチが口を開いた。

「寝るんじゃなかったんですか?」

「今日、いろいろあったから……寝付けなくて……」

「全部ミチ君のせいです。ちゃんと反省してください」

たまきはどこか無機質な声で答える。

「よくさ、母親が寝る前に子供に昔話聞かせるっていうじゃん……?」

「……そうですね。私やお姉ちゃんもお母さんに読んでもらいました」

「なんかさ、昔話知らない?」

「……知りません」

たまきはどこかあきれたように言った。

「じゃあさ、たまきちゃんの昔話聞かせてよ。っていうかさ、お姉ちゃんいるんだ? あれ、たまきちゃんってどこ出身だっけ? そういった話……」

ミチはわざと明るい口調で言ったが、それを水をかけて打ち消すようにたまきは、

「絶対に嫌です」

とだけ言った。

ふたたび静寂が部屋を支配する。

「……もしかして、私がいるの、気まずいですか?」

ミチはすぐには答えなかった。しばらく静寂を聞いた後、口を開いた。

「まあね……」

「私は舞先生から、ミチ君に何か異常があったらすぐに知らせるように頼まれてここにいます」

「でも、見られてると寝づらいっていうか……」

たまきは立ち上がると、ミチに背を向けて座りなおした。

「うん……まあ……ありがとう……」

 

電気を消してしばらくの間、ミチは横になっていたが、やがてトイレに行きたいと言い出した。たまきはその旨を舞に知らせ、舞がミチを連れてトイレに行く。

今のミチは一人でトイレに行けない。右手は包帯でぐるぐる巻きだし、満足に歩けない。

ミチはたまきが来る前から踏まれたり蹴られたりしていて、歩くたびに左足が痛いと言っていた。舞は「サイアク骨に亀裂入ってるかもだけど、まあ、しばらくおとなしくしてりゃくっつくから」とテキトーな診断をした。

ミチをトイレに連れて行った舞が戻ってきた。ミチに肩を貸しながら部屋に戻る。

「お前さぁ、いくつだよ?」

「……十七っす」

「何が見られて恥ずかしいだよ。あたしが気にしねぇっつってんだから、別にいいじゃねぇか。お前だってカノジョいんだろ? やることやってんだろ?」

ミチは少しさみしそうに、

「カノジョがいたのは……今日の夕方までっす」

とだけ言った。

「ああ、そうだったな。悪い悪い」

そいうと、舞はミチを投げ飛ばすかのように、ベッドの上に放り投げた。

「いたた……。先生、俺、けが人なんすから、もっと丁寧に……」

「けが人? 不慮の事故に巻き込まれたとかなら同情してやるけど、お前勝手に怪我して、勝手にウチ来て、あたしの仕事邪魔してんだからな。言っとくけど、あとで5000円くらいもらうからな」

「え?」

「バカ! ちゃんとした病院に入院してたら、この3倍くらいかかるからな、お前」

そういうと、舞はドアの方へと向かう。たまきは、申し訳なさそうに舞を見た。

「ごめんなさい。私が、その、おトイレの世話できないから、先生に代わりにやってもらって……」

「お、じゃあ、次はお前がミチのパンツ下ろす?」

「次もよろしくお願いします」

たまきは間髪入れずに頭を下げた。

「じゃ、あたし、隣にいるからなんかあったら言って。たまき、ミチが寝たらこっち来ていいぞ」

そういって舞は部屋を出ようとしたが、振り返ってたまきの方を向くと、

「けんかするなよ」

と言ってニッっと笑った。

「私、けんかなんてしてません」

ドアが閉まった後、たまきが不満そうに、珍しく口を尖らせた。

「先生にも聞こえちゃったのかな、さっきの話」

「全部聞こえたって言ってました」

たまきが淡々と答えた。

「そっか……知られたくなかったなぁ……」

「知りません」

たまきはミチから目をそらしてそういった。やがてミチの方を向き直ると、

「自業自得です」

とだけ付け足した。

ミチはたまきの顔をじっと見ていた。

たまきはミチの視線から逃げるように立ち上がる。

「寝るんですよね。電気、消しますね」

部屋の入り口にあるスイッチへとたまきは向う。

不意に、ミチの声がたまきの背中へと投げかけられた。

「……その目だ」

「え?」

たまきは壁のスイッチに手を触れたまま、押すことなくミチの方へと振り返った。

「海乃さんってさ……、なんつーか、ちょっとのことでは物おじしない人なんだよ……。それが何であの時、引き下がったのか不思議だったんだ……」

「あの時って……いつですか?」

「たまきちゃんが『地獄を見ればいい』っていった時」

スイッチに触れていたたまきの手が、だらりと下がった。

「あの時、海乃さん、何かにおびえるような目をして、逃げるように去ってったんだ」

「……よく覚えてますね」

たまきは下を見ながらつぶやいた。

「海乃さんらしくないなって思って、何がそんなに怖かったんだろうって。でも、わかった。その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……」

「……そうですか」

たまきはそれだけ言うと、電気を消した。

 

写真はイメージです。

「やっぱさ、スジ通んなくね?」

亜美が缶ビールのプルタブを開けながら言った。

「城」で開かれていたクリスマスパーティは、たまきからの緊急通報でお開きになった。志保は「城」に帰ってきてからパーティの片づけを始めたが、亜美はもったいないからと言って、手を付けられることのなかった缶ビールを飲み始めた。

「何が?」

志保がごみ袋に紙コップを放り込みながら聞き返す。

「だってさ、ダンナいるのに不倫したのはあのオンナだろ? やっぱり、あいつが無傷っておかしいだろ」

「まだその話?」

志保があきれたように言う。

「そもそもさ、不倫するんなら結婚すんなよな、って話じゃん」

志保は聞き流すかのようにせっせと片づけを続けていたが、不意に手を止めた。

「……その理屈、ヘンじゃない?」

「は?」

「いやそれだと、最初から不倫するつもりの人が結婚するのがよくない、って言い方じゃない。そんな人いないでしょ? 結婚してるのに不倫するのがいけないんでしょ?」

「いや、どうせ不倫するのに、結婚するのはスジ通んねぇだろ」

「いやだから、『どうせ不倫する』っていうのが変じゃない? 最初から不倫する前提っていうのが。まず結婚して、それから不倫するのであって……」

「だから、どうせ不倫するのに結婚すんなっつってんじゃん」

しばらく、二人は見合っていた。

「……合わねぇなぁ、ウチら」

「合わない」

「たまき、早く帰ってこねぇかなぁ」

「明日にならないと帰ってこないよ。もう夜遅いし」

「誰だよ、たまき、先生の所に置いてきたの」

「亜美ちゃんだよ」

志保は再び片づけを始めた。

「……あたしはちょっぴりわかるけどな」

志保は目線を上げることなくつぶやいた。

「何が?」

「不倫しちゃう人の気持ち」

「へぇ!」

亜美が何か珍しい生き物でも見つけたかのように身を乗り出した。

「お前が? おいおい、優等生の志保ちゃんはどこ行ったんだよ」

「……そんなの、だいぶ前に死んだよ」

志保は相変わらず目線を上げずに、ごみ袋を縛り始めた。

「何? 浮気とか不倫とかしたことあんの?」

「ないけどさ……、でもさ……、『やっちゃだめ』って言われていることってさ、やりたくならない? なんて言うんだろう。背徳は甘美の味っていうか……」

亜美は、志保の話を聞きながら、煙草を灰皿に押し付けた。

「たとえそれが自分の身を亡ぼすとわかっていてもさ、背徳そのものが快楽っていうかさ、いっそ背徳に身をゆだねたくなるっていうか……」

「ハイトクうんぬんはよくわかんねぇんだけどさ」

亜美は缶ビールの残りを喉の奥に押しやる。

「夜中に太るってわかってんのに、カップ麺食いたくなるようなもんか?」

「かもね」

志保は少し寂しげに笑った。

「……もしかしてお前さ」

「ん?」

「……いや、何でもない」

亜美は空き缶をそっとテーブルの上に置いた。

「アー、なんか、マジでカップ麺食いたくなってきた」

「この時間に? 太るよ?」

亜美は立ち上がると、志保の忠告を無視して「城」を出ていく。二、三分でカップ麺の入ったビニール袋を提げて帰ってきた。

「お湯、沸かしてあるよ」

「さすが、気が利くねぇ」

亜美はカップ麺のふたを開け、お湯を注ぐ。

三分後には、湯気とともに醤油スープの刺激的な香りが、ふたを開けたカップ麺から部屋の中へと飛び出した。

この上なく愛おしそうに亜美は持ち上げた麺を眺め、ずるずるとすする。

「あ~、旨い。深夜のカップ麺ってなんでこんなに旨いんだ? 昼間のカップ麺と中身はおんなじはずなのに」

「だから、そういうことだよ。背徳は甘美なの」

「ん?」

亜美は麺をすすりながら曖昧な返事をする。

「昼間のカップ麺も深夜のカップ麺も、味は一緒。なのに深夜のカップ麺の方がおいしそうに感じるのは、背徳だから。『深夜のラーメンは太るから食べちゃだめ』って思うほど、おいしく感じちゃうんだよ。禁忌と背徳。『やっちゃだめ』って言われていることに手を出す、それ自体が快楽なんだよ……」

志保はどこかさみしげに、亜美を見ていた。

「ハイトクの意味は何となくわかったけどよ、カンビってどういう意味だよ」

「甘くておいしい、って意味」

「甘い? バカ、お前、これ、醤油ラーメンだぞ。甘いわけねぇだろ」

「フフッ、そうだね」

と志保は微笑んだ。

 

夜の十二時を回った。舞はメガネをかけ、パソコンに向かっていた。

ドアがガチャリと開いて、誰かが部屋に入ってきた。

クリスマスの夜に部屋に入ってくるのはサンタクロースだと相場が決まっているが、舞が振り向いた先にいたのは白いお髭のおじさんではなく、たまきだった。

「ミチ君、寝ました」

たまきが眠そうな声でつぶやいた。

「そうか、悪かったな。面倒な役割押し付けて」

「いえ、ミチ君を、舞先生のところに連れてきたのは、私たちですから」

「テーブルの上に菓子鉢あるだろ? そこにあるお菓子は食っていいから」

舞はたまきを見ることなく、パソコンに向き合ったまま言った。

だが、たまきはテーブルの方ではなく、舞の傍らにやってきた。

「ん? どうした?」

「あの……」

たまきは、少し下を見てから、舞の方を見た。

「今日、私とミチ君がここでしゃべってたことは、その……、みんなには、ないしょにしてもらえませんか?」

「なんで?」

舞はたまきの目を見たが、すぐにふうっと息を吐いた。

「安心しな。あたしは口が堅いことでこの辺じゃ有名なんだ」

それを着て、たまきもふっと息を吐くと、笑みを浮かべた。

「ちょっと待ってな」

舞は椅子から立ち上がると、ソファのわきへと向かった。

「最近、簡易ベッド買ったんだ」

「簡易ベッドですか?」

たまきの視線が、舞が向かっていった先に、部屋の隅っこに置かれた物体に向けられた。

「ああ、最近、トイレで倒れてたり、ベンチで泣いてたりして、そのままうちに泊まるやつが増えたからな。あたしの寝床を確保しておかないと」

そういって舞は笑った。一方、たまきはテーブルの上にメガネを置くと、ソファの上にころりと横になった。

「おい、お前はこっちだ。あたしがソファで寝るから」

舞が準備した簡易ベッドを指さす。

「いえ、私はこっちでいいです。慣れてるので」

「そんな狭いところで寝てたら、いつまでたっても背が伸びねぇぞ」

「べつにいいです」

たまきは静かに目を閉じた。

 

なかなか寝付けない。目をつむっても、どうにも寝付けない。

心のもやもやは一向に晴れない。

ミチがいつまでも嘘をついているのを見て、たまきは心がもやもやした。

もやもやしたから、思いのたけをぶつけた。

思いのたけをぶつければすっきりすると思ったのに。

なのに、なぜだろう。

さっきよりも、もやもやは深まって、しばらくは眠れそうにない。

つづく


次回 第21話「もやもやのちごめんね」

お正月を迎えたたまき。だが、クリスマスの一件が頭から離れず、もやもやしたままだった。たまきの心を悩ます一番の理由は、「なぜクリスマスの一件が頭から離れないのか、その理由がわからない」ことだった。

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」