あしたてんきになぁれ 第31話あとがき

第31話を読んでくれたあなた、ありがとう。いつにもまして長かったでしょ(笑)。

1話目からずっと読んでくれているあなた、本当にありがとう。ここまで長かったでしょ。

この31話目だけ読んだよと言うあなた、ありがとう。……話、ついていけてます?

31話目にして今回初めて「あとがき」なんてものを書いているのですが、なぜかというと、この31話目が「あしなれ」という小説にとって、特別なエピソードだからです。

亜美、志保、たまきの「家出」「不法占拠」という冒険は、まだまだ続きます。

まだまだ続くんだけど、終わりが見えない(笑)。実は最終回の内容と、そこへ向けた展開はもう頭の中にあるんですけど、まだまだ消化したいエピソードがいっぱいあって、いつそこにたどり着くのやら。

もしかしたら、最終回を書く前に、僕の人生の方が先に最終回を迎えてしまうかもしれません。もしそうなったらこの小説は「未完」として放置されることになります。

なので、「本当の最終回」はまだまだ先なのですが、「もし、ここでシリーズが終わるのだとしたら」という「とりあえずの最終回」としてこの第31話を書きました。

この「とりあえずの最終回」は、僕としては「セーブポイント」に近い意味です。ラスボスと戦う前に一応セーブしとこう、と同じノリです。「僕になんかあった時のために一応、現時点での最終回書いとこう」。

もしもこの先、僕がうっかり腐った饅頭でも食べて死んでしまった時は、この第31話が最終回だったんだと思ってください。

もちろん、「あしなれ」のお話はまだまだ続きます。その証拠に、第32話は実はもう書きあがってます。それどころか、「新章突入」です。

あと、「本当の最終回」は、こんなもんじゃないです。

これからも、亜美、志保、たまきの冒険はまだまだ続きます。「城」を飛び出し、街を飛び出し、南へ、西へ、北へ、東への大冒険です。

とりあえず、次回からたまきには少し冒険をさせようと思ってます。ちょっとだけ「南」に行ってもらおうかなぁ、と。

では、第32話「風吹けば、住所録」でお会いしましょう。

小説 あしたてんきになぁれ 第31話「桜、ところにより全力疾走」

お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。あしなれ第31話、スタート!


第30話「間違いと憂欝の桜前線」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


たまきが駅に来るのは久しぶりだった。

駅のそばで暮らしているのだから、駅の近くに来たことは何度もある。だけど、駅そのものを利用したのは、この街に来て以来、ほぼ一年ぶりだ。シブヤに行ったときも、あの時もバスを使ったので、駅には来ていない。

なんだか切符を買って改札をくぐってしまうと、ここではないどこ遠くに行ってしまいそうな気がする。

たまきにとって駅とは、いわば羅生門だ。きっと駅の二階には、恐ろしい顔をした鬼とか、死体から髪の毛を抜く婆とかがいるのだろう。

たまきが駅に来たのは、死体になって婆に毛を抜いてもらうためではない。

志保とともにギンザに行くためだ。

少し前にたまきは、ミチから薄群青のパーカーをもらった。それを見た志保は、パーカーの下に着る服もパーカーに合わせたものがいいといい、たまきと一緒に買いに行くという話になったのだ。

たまきとしては、今持っている服を着て、その上に羽織ればいいじゃないか、と思うのだが、そんなたまきに志保は言った。

「たまきちゃん、おしゃれに手を抜いちゃだめだよ! 自分磨きの第一歩は、おしゃれだよ!」

たまきとしてはちゃんとお風呂でごしごしと自分を磨いて洗っているつもりなのだが、志保から見ると全然足りないらしい。しぶしぶ、たまきは服を買いに行くことにした。

 

たまきは切符の販売機の前に立ち、路線図で「有楽町」という駅を探して、そこまでの運賃分の切符を買った。「楽しいことが有る町」と書いて「有楽町」。

ふと、何日か前に亜美に言った言葉を思い出す。

『私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!』

切符を買い終えて振り返ると、志保が改札の前で手招きをしていた。志保はたまきが来るのを確認すると、

「じゃ、いこっか」

と言うと、パスケースを改札機にかざして、中に入った。

当然、すぐ後ろをたまきがついてきていると思ったのだが、しばらく進んでからたまきがいないことに気づき、振り返ると、たまきはまだ改札の外にいた。ぽかんとした様子で志保を見ている。

「どうしたの?」

「い、今の、どうやったんですか?」

「今のって?」

「だって、切符入れてないのに、改札が開いて……」

たまきはまるで魔法使いにでも出会ったかのように目を丸くしている。

「え、だってこれ、かざすだけで入れるよ?」

「でも……お金は……」

「チャージしてるから……」

今度は志保が目を丸くする番だった。たまきはこういう、改札にすいっと入れるカードの存在を、知らないのだ。たまきがそういうものを持っていないのも、見たことがないのも知ってはいたけど、まさか、どうやって使うのかすら知らなかったとは。なんだか、ジャングルに住む未開の部族に出会った気分だ。

 

写真はイメージです

がたんごとんと緑の電車に揺られ、有楽町にやってきた。そこから歩いてギンザへと向かう。

ギンザを選んだのはもちろん志保だ。志保いわく「せっかくだから、少し背伸びしてみようか」。この「背伸び」というのはどうやらつま先立ちのことではないらしい。

地元の商店街に「銀座」の名がつくものがあるので、たまきはなんとなく商店街のような場所をイメージしていた。だけど、たまきが実際に目にしたギンザは、町全体におしゃれが漂っていた。それもただのおしゃれではない。清潔感・高級感ともに、たまきが今まで訪れたどの町よりも洗練されていた。

周りを見渡しても、入っただけで入場料を取られるんじゃないかと思うくらいおしゃれなお店ばかり。

こんな街を、たまきのような、もらったパーカーを羽織っただけの子が歩いたら、おしゃれ警察、いや、おしゃれポリスに連行されてしまうのではないか。

たまきは不安そうに志保を見た。こんな街に、本当にたまきでも着れるような服なんて売っているのか。

志保はたまきの不安を察したらしく、

「大丈夫。たまきちゃんに似合う服もきっとあるから。自信持って」

と言うと、たまきを前に向かせた。もしかしたら、たまきの服を探すというのを口実に、ただ単に志保がギンザに来てみたかっただけなのかもしれない。

 

高速道路をくぐったところに、車一台が通れる程度の、小さな道があった。横断歩道はあるが信号はない。

この道を渡ろうとして、たまきは横断歩道の右側を見た。そこには、横断歩道を横切るつもりなのであろう、数台の車が列を作って止まっていた。どうやら、横断歩道を渡る歩行者が途切れるのを待っているらしい。

たまきは、道を渡らずに立ち止まった。

「どうしたの? 渡らないの?」

と志保が問いかける。

「……ちょっと待てば、この車が全部行っちゃうと思うんで」

止まっている車は3台か4台ほど。車通りもそんなに多くない。

歩行者がみんな、ほんの十数秒待てば、止まっている車はすべて通り抜けるはずだ。それを待ってから渡ろう。たまきはそう考えたのだ。

 

十五分が過ぎた。

たまきと志保は、ずっと同じ場所に立っていた。

「たまきちゃん、そろそろ……」

と志保がたまきの方を、少し心配そうに見る。

「でも……」

たまきは、右側をちらりと見た。

横断歩道の右側には、5、6台の車が並んでいた。

ほんの十数秒、歩行者全員が道路を渡らずに待ってあげれば、車が全部通過して、渋滞もなくなる。たまきはそう考えていた。そう考えたから、ずっとそこに立っていた。

ところが、ほとんどの歩行者は、立ち止まることなく道路を渡っていった。

多くの車が、ずっと前に進むタイミングを待っているのに、みんな平気な顔して道を渡っていく。ほんの十数秒待てば車は全部通過して渋滞がなくなるはずなのに、我先にと道を渡っていく。

十五分の間、道路を渡る人の流れは、ほとんど途切れることはなかった。

たまに歩行者が途切れるときがあった。先頭の車はその隙を見つけて横断歩道を横切り、先へと進む。

だが、2台目の車がそれに続こうとすると、必ず歩行者が渡り始め、車の行く手を遮るのだ。車は前に進みたそうにゆっくりと動くのだが、歩行者たちはお構いなしにわたっていく。運転手さんが苦笑いしているのを、たまきは何度も目撃した。

先頭の車が抜けてから、2台目の車が抜けるのに、数分かかった。そうこうしている間に、後ろには新しい車が並ぶ。渋滞はいつまでたってもなくならない。

ほんの十数秒、立ち止まってあげるだけで渋滞はなくなるのに、どうしてみんな立ち止まらないんだろう。どうして車の行く手を遮ってまで、ほんの数mほどの道を急いで渡りたいんだろう。

ふとたまきは、中学の時に国語の授業で習ったお話を思い出していた。地獄にたらされた蜘蛛の糸に、罪人が我先にと押し寄せ、自分だけ助かろうとしたばっかりに、蜘蛛の糸がぷっつりと切れて、地獄に逆戻りする、そんなお話だ。

たまきにとって一番驚いたのは、たまきの目の前で我先にと、車の行く手を遮って道を渡る人たちが、地獄に落とされるようなみすぼらしい罪人ではなく、たまきよりもおしゃれな人たちだったという事だ。

亜美の周りにいるような、いかにも悪人という人たちではない。手をつないだカップルだったり、ベビーカーを押す若いママさんだったり、スーツを着たサラリーマンだったり、高級そうな服に身を包んだおばさんだったり、おしゃれに気を遣うおじいさんだったり。皆、人のよさそうな笑顔を浮かべていた。

きっとみんな、家出や不法占拠のような、間違ったことをしているたまきなんかよりも、ずっと立派に人生を生きている人たちなのだろう。

何より、みんなたまきよりもずっと、おしゃれだった。

「たまきちゃん……」

志保がたまきの袖を引っ張る。

「ひきこもりだ……」

たまきがぽつりとつぶやいた。

「……たまきちゃん?」

みんなみんな、ひきこもりだ。

おしゃれというのは、人により良く自分を見せるためにやるはずだ。

なのに、目の前の横断歩道を渡っていく人たちは、おしゃれな人たちばかりなのに、ちっとも周りが見えていない。周りが見えていれば、車がずっと歩行者が途切れるのを待っていることに気づくはずだし、立ち止まるはずじゃないか。

おしゃれをして、人には自分を見てほしいくせに、自分は人を、周りを全く見ていない。自分磨きだなんていうけれど、結局それって、自分のことしか見ていないだけなんじゃないか。

それじゃまるで、ひきこもりじゃないか。外を歩いていても、心の中はひきこもりじゃないか。

しましま模様の横断歩道を、途切れることのない人の流れを、困ったようにハンドルを握る運転手さんの顔を、眺めながら立ち尽くすたまき。そんなたまきを志保は困ったように見ていたが、少し考えると、たまきに声をかけた。

「じゃあさ、車の列の一番後ろに回ろっか。列の一番後ろに回って、そこから渡ろうよ。そうしたら、車の妨げにもならないでしょ?」

たまきは、渋滞の列の一番後ろへと視線を投げかけた。4台目にトラックが止まっていて、その後ろは見えない。

たまきは無言で、車列の一番後ろに向かって、道沿いに歩きだした。志保もそれに続く。

あのまま、意地で横断歩道の前に立ち尽くしていてもよかったのだけれど、さすがにもう疲れたのだ。

立ち尽くすことが疲れたのではない。

自分のことしか見ていない「おしゃれなひきこもり」の顔を見続けることに、疲れたのだ。

ほんの十数メートル歩いただけで、車列の最後尾にたどり着いた。そこから二人は道路を渡る。

十数秒待てば、渋滞はなくなる。

十数メートル歩けば、車を遮ることなく道を渡れる。

どちらも、ほんのちょっとだけ人に優しくなれれば、なんてことのないことのはずなのに、誰もそれをしようとしない。

 

そのあと、志保とたまきはいくつかのお店をまわった。デパートの中のお店だったり、若者向けのお店だったり。

お昼になって二人は、カフェでランチを食べていた。

「ちょっと背伸びしすぎたかなぁ」

と志保は、フォークにパスタを巻き付けながら笑った。

たまきは無言で、フォークにスパゲッティを巻き付ける。

「でも、確かにたまきちゃんは、原宿系って感じじゃないよね。もうちょっと落ち着いた感じの方が似合いそうだし。そのパーカーも落ち着いた感じだから、もうちょっと探してみたら似合うやつが……」

「……もういいです」

たまきは静かにそういった。

「え?」

「もう、おしゃれなんかしなくていいです……」

そういうたまきを、志保はまた困ったように見ていたが、すぐにやさしく笑った。

「そんなことないって。むしろ、たまきちゃんは自分に合ったファッションが見つかれば、すごくかわいくなると思うよ。そうだ、午後はアメ横とか行ってみようか。安くてたまきちゃんに似合いそうなのが……」

「だから……そういうのはもう……いやなんです」

たまきはコップの水に視線を落としたまま、つぶやく。

おしゃれだの、自分磨きだのというけれど、結局は自分のことばかり気にして、それでいて周りのことは全然見ていない。

そう考えたら、おしゃれに気を遣うのが、急にばかばかしくなったのだ。

志保も、立ち尽くしていた十五分の間にたまきに何かがあったことを察したらしい。少し言葉を選ぶように考えあぐねる。

「でもさ……、亜美ちゃんのお花見に、たまきちゃんも行くんでしょ? まあ、亜美ちゃんのファッションに合わせることはないけど、少しぐらいおしゃれしても……」

「……お花見には、行きません」

たまきは視線を上げることなく言った。

「……断ったんです」

「そうなんだ……」

志保にはたまきが、ジャングルの未開の部族ではなく、その部族ですらめったに見つけられないような、密林の奥地に住む色鮮やかな蝶々のように思えた。

「じゃあ、帰ろっか。あ、ごめん。帰る前に、あたしの買い物しちゃっていいかな?」

たまきは、無言で頷いた。

 

写真はイメージです

「ただいまぁ」

「お、お帰り」

志保とたまきが「城」へ戻ると、亜美が一人で、テレビを見ながらハンバーガーをほおばっていた。机の上にはポテトとチキンナゲット、さらにコーラが置かれている。

「服買いに行ったんだろ? どんなの買ってき……」

亜美の言葉が言い終わらないうちに、たまきは衣裳部屋へと飛び込み、スケッチブックの入ったリュックを引っ張り出すと、

「……出かけてきます」

と言ってすぐに外へ出て行ってしまった。たまきが「城」に入ってから外へ出ていくまでにかかった時間としては、最短記録だったかもしれない。

階段を下りながら、たまきはふうっとため息をつく。

亜美からのお花見の誘いを断ってから数日の間、どうにも亜美と顔を合わせるのが気まずいのだ。

別に、ケンカしたわけではない。亜美はたまきがお花見に来ないことを了承してくれた。

なのにあれ以来、たまきは亜美と顔を合わせるのが気まずくなってしまったし、亜美の態度にも何かよそよそしさを感じる。

別に、避けられているわけではない。意地悪をされているわけではない。

なのになぜか、よそよそしいのだ。

まるで、振出しに戻ってしまったかのような感覚だ。1年ほど前、初めて亜美と出会って、まだどんな人なのか全然わからなかった頃のよそよそしさに。

 

たまきが出ていったドアを亜美はなんだかさみしそうに見つめていた。

「結局たまきちゃん、何も買わなかったんだよねぇ。これはあたしの買い物」

そういって志保は洋服の入ったビニール袋を机の上に置いた。

亜美は志保の方を振り向かないし、返事もしない。

「……ねえ、たまきちゃんと何かあった?」

「んあ?」

不意を突かれたように、亜美が振り返る。

「あたしが気付かないと思った? ここしばらく、二人ともなんかヘンだよ。絶対なんかあったでしょ?」

そういうと、志保は亜美の隣に腰掛けた。

「まえにさ、たまきちゃんはあたしと亜美ちゃんの間を取り持つ緩衝材だ、って話したじゃん。なのにさ、そのたまきちゃんと亜美ちゃんがなんか変な感じになっちゃったら、あたしまでピリピリしてくるんですけど」

亜美にしては珍しく、何も言うことなく、自分の膝のあたりを見ていた。

「たまきちゃん、お花見の誘い、断ったんだって? それってなんか関係ある?」

志保は亜美の顔をのぞき込む。

「どうせ亜美ちゃんが、絶対来いよとか、無理強いしたんでしょ?」

「そ、そんなことしてないし……!」

「じゃあなんで、二人が気まずくなってんのよ」

「べ、別に……」

亜美は、隠し事をしている子供のように、志保から目をそらした。

「じゃあ、例えば、嫌がるたまきちゃんに、お花見に来ればなんだかんだで楽しくなるとか言って来させようとしたとか……」

亜美は驚いたように目を見開き、無言で志保の方に振り向いた。

「図星だ……」

志保があきれたようにため息をついた。

「それで、たまきちゃんはなんて言ったの?」

「ウチとあいつじゃ……、楽しいと思うことが違うんだって……」

亜美はポテトを口にくわえたまま、片膝を抱えた。

「それ聞いてからさ、なんか考えるようになっちゃってさ……。ひょっとしたら、ウチが今まであいつに良かれと思ってやってきたことって、もしかしてあいつにとっては楽しくなかったのかも知れないって……」

そこで亜美は、志保の顔を見た。

今度は、志保が驚いて目を見開いていた。

「え? いまさら?」

「な、なんだよ、いまさらって」

「たまきちゃん楽しんでないかもって、いまさら気づいたの?」

「……は?」

「は、じゃないよ。無理やりクラブに連れてったり、無理やりクリスマスパーティさせたり、ああいうの、たまきちゃんが楽しんでると思ったの?」

「え、あいつ、楽しんでなかったの?」

そこで志保は、また深くため息をついた。

「たとえばさ、去年の暮れにさ、三人でボウリング場に行ったじゃない」

「ああ、行った行った……」

そこで亜美は、大きく身を乗り出した。

「おい、まさかあれもたまき、楽しんでなかったっていうんじゃ……」

去年の暮れ、クリスマスの少し前に、三人は近くのボウリング場に行った。

亜美は持ち前の運動神経の良さを発揮して、好スコアをたたき出した。投げるたびに何か変な掛け声を発していたことを除けば、なかなか様になっていた。

志保もボウリングは何度か経験があり、それなりにできたが、体力が続かず、途中からは見ているだけになった。

たまきは、それまでボウリングを全くやったことがなかった。ボウリングの球も持ったことがないし、ボウリングシューズも履いたことがない。

当然、いきなりうまくいくわけがない。たまきの投げたボウリング玉は、まっすぐ進まずにすぐにガーターへと落ちた。

しばらくすると、亜美の懇切丁寧な指導が入った。

「いいか、この手のスポーツは、まずはフォームをしっかりと覚えることが大事なんだ」

「こういうのはな、全身運動なんだよ。腕の力だけで投げるんじゃなくて、体全体でボールを押し出すんだ」

「投げるときに掛け声を言うと、パワーが3倍になるんだぞ。プロボウラーだってみんなやってるんだからな」

亜美のアドバイスはどこまで信憑性があるのか、志保にはわからなかった。それでもたまきは素直に従っていた。亜美に教わったフォームをまねして、腕だけでなく全身でボールを押し出すようにして、投げるときは小さく「えい」と言っていた。

そんなことを繰り返すうちに、次第にたまきのボールの飛距離が伸びていった。

そして何度目かの投球で、たまきのボールはガーターに落ちるか落ちないかのぎりぎりのところを転がっていった。

「いけ! そこだ! 落ちるな! 行け! 行けー!」

これは、亜美の絶叫である。

そしてとうとう、ボールはガーターに落ちることなく、一番右端のピンを捉えた。ボールに当たって足元をすくわれたピンは跳ねとび、もう一本別のピンを倒した。

「やったぞ、たまき! 2本も倒れたじゃねぇか! 初めてですごいぞ! おい、ハイタッチだハイタッチ! やったやった!」

この時、志保は自分のボールを取りながら見ていた。

大はしゃぎでハイタッチを求めてくる亜美に対し、たまきもハイタッチで返すものの、顔が全くの無表情だったことに。

そのあと、たまきは最高で6本のピンを倒した。だが、たまきの無表情がほころぶところを、ボウリング場内で志保が見ることはなかった。

「マジかよ……」

志保の話を聞いて、亜美は半ば信じられないといった顔をしていた。ボウリングに行って、初心者とはいえそれなりにピンを倒して、楽しくない人間などこの地球上に存在するというのか。

「でも、あいつ、反応薄いだけで内心では楽しんでたんじゃ……」

「いくらたまきちゃんでも、楽しかったらちゃんと笑うでしょ。誕生日の時は、やっぱり楽しそうだったよ」

そう言われると、誕生日の時は、相変わらず表情は硬かったけれど、たまきなりの笑顔をしていたような気がする。

「あたしが覚えてるのはね、投げるたびになんか、首傾げてたなってことかな」

「自分の投球に納得いってなかったんじゃないの? ほら、あいつ、生真面目じゃん」

「そうかな。あたしには、『これ、なにが楽しいんだろ?』って首傾げてるように見えたけど。むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ」

「なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!」

亜美は、ソファのクッションをバシンとたたいた。

「じゃあさ、ウチがあいつ連れてったゲーセンとか、ビリヤードとか、ダーツとか、ああいうのも……」

亜美の問いかけに、志保は少し考えて、

「帰り道の方が楽しそうだったね」

「だからなんで帰り道なんだよ!」

今度は亜美はクッションを手に取って放り投げた。

「他には……えっと……ここで野球の試合見せた時とか、ロックバンドのアルバム借りてきて聞かせたときとか……」

亜美の問いかけに、志保は静かに首を横に振った。

「今年の夏に、あいつをサーフィンに連れて行こうと思ってたんだけど……」

「やめといたほうがいいんじゃないかなぁ」

亜美は背もたれに思いっきり寄りかかる。

「えー……。じゃああいつ、なにしたら『楽しい』って思うんだよ……!」

なんだか、初めてたまきに出会った頃にも、こんなことを言っていたような気がする。

「でも、ほら、たまきちゃんって絵が好きじゃない。今もどこかで絵をかいてるんじゃない? だからさ、例えば美術館に行くとか……」

「そんなの、ウチが楽しくねーよー!」

「ほらね」

そういって志保は微笑む。

「亜美ちゃんとたまきちゃんじゃ、楽しいって思うことが違うんだよ」

そういうと志保は、体ごと亜美に向き直った。

「自分ばっかり楽しんでないで、もっとちゃんと、周りを見なさい」

「……はい」

亜美にしては珍しく、素直にこうべをもたげた。

「話は変わるんだけどさ……」

そういって志保は亜美に尋ねた。

「車が1台ぐらいしか通れない、小さな道があったとするじゃん?」

「……何の話だよ」

「その道をさ、歩行者がひっきりなしに渡っていくの。で、その歩行者が渡り切るのを、何台もの車が待ってる。亜美ちゃんが歩行者で、その道を渡りたいって思ってたら、どうする?」

「は?」

亜美は質問の意図がよくわからない。

「渡るに決まってんだろ。みんな渡ってんだろ?」

「たまきちゃんはね、そこでずっと待ってるの。みんなが道を渡るのをやめて、車が全部いなくなるのを。みんながちょっと立ち止まれば、車は全部進めるはずだから、って」

「はぁ? 暇なのかよ、あいつ」

そういって亜美は腕を組んだ。

「たとえば道の向こうにからあげがあるとするだろ。そうやってのんびり待ってる間にさ、からあげがなくなってるかもしれないだろ? ウチだったら赤信号でも渡るね」

「信号無視はダメでしょ」

そういって志保は笑う。

「ほらね。やっぱり、亜美ちゃんとたまきちゃんは、違うんだよ」

 

写真はイメージです

南風が桜前線を押し上げ、週末になると東京でも桜が花開き、散りゆく花びらが風を、土を、桜色に染め上げた。

金曜日に、たまきはいつもの公園を訪れた。たまきにも多少の風流な心があったらしく、桜色に染め上げられた公園を絵に描きたいと思ったのだが、平日にもかかわらず、多くの花見客でごった返し、なんだか風に舞う花びらよりも、人の数の方が多いような気がして、たまきは引き返してしまった。

それ以来、たまきはひきこもりっぱなしだ。お風呂に入りに行ったり、コインランドリーに行ったり、外出と言えばそれくらい。

志保は木曜日にバイト先の花見に出かけた。もちろん、同じバイトをしている田代も一緒だったはずだ。

亜美はというと、日曜日が近づくにつれ、誰かと電話したり、メールをしてる時間が長くなった。亜美にしては珍しく忙しくしてて、あまり「城」の中にはいない。正直、たまきとしてはその方がありがたかった。いまだに、亜美とどう接すればいいのかがわからない。

一方で、亜美がどこかへ行き、志保がバイトに行って、一人で「城」の中でお留守番をしているのは、どことなく寂しかった。一人ぼっちにはもう慣れっこのはずなのに。

相変わらず、心のどこかがもやもやしたまんま、たまきは日曜日を迎えた。「城」の中に積まれていた、花見用の段ボールたちは、前日の深夜にどこかへと運び出された。

薄暗い部屋の中でたまきが一人ぼんやりしていると、志保が帰ってきた。志保はこの日、午前中はいつもの施設へ、午後はバイトへと、忙しくしていた。

帰ってきた志保は、ソファに座り、足をソファの上に投げ出した。

たまきは、そんな志保の顔をちらりと見る。

「志保さんは……」

たまきは恐る恐る尋ねた。

「お花見……行かないんですか……」

「この前行ってきたよ」

と志保。

「そうじゃなくて、亜美さんのお花見のことです……」

「行かないよ」

志保はきっぱりと言った。

「誘われたけどね。たまきちゃんが行かないのに、あたしだけ行っても、ねぇ」

たまきは、志保の方を向いた。

「そんな……別に私に気を使わなくても……」

「そうじゃないよ。あたしも、亜美ちゃんのお友達はあまり得意なタイプじゃないもん。いったってどうせ楽しめないし、たまきちゃんが行かないんだったら、なおさらだよ」

そういって志保は笑った。そういえば、クリスマスの時もそんなことを言っていたような気がする。

「そういえば、バイト先の人に聞いたんだけど、この辺の川のそばも、なかなかの桜スポットらしいよ」

「この辺の川、ですか?」

「この辺」に川などあっただろうか。

「そう、あっちの方にね」

と言って志保は、北西を指さした。

「有名な川だよ。昔の歌のタイトルにもなっててね」

と言って志保は軽くメロディを口ずさんだが、たまきはその歌を知らなかった。もっとも、志保の音程が正しかったとは限らないが。

「ここからだと歩いて三十分ぐらい。せっかくだからさ、二人でちょっとお花見してこない?」

「二人で……ですか」

「そう、二人で」

たまきはしばらく黙っていたが、静かに頷いた。

 

写真はイメージです

歓楽街を出て、高架に沿って二人は歩いていく。夕焼け空に照らされた漆黒の高架は、まるで強固な城壁のようにも見える。

いつもたまきが公園へ行くよりも、少し長い時間を歩いた。

コリアタウンを抜け、アジアタウンを抜け、昔ながらの商店街を抜け、やがて二人は、川辺に出た。

そこは川と言っても、コンクリートで模られた道に、水を流しているだけのようにも見える。無機質で直線的な河床とは対照的に、川辺に植えられた桜の木々は花開き、その命を以って春を鮮やかに奏でていた。空はすでに紺色に染まっている。

風に吹かれて舞う花びらが、わずかな街灯の明かりに照らされてきらめく。まるで、朝日を反射して輝く波しぶきのようだ。そのまま花びらは川面へと吸い込まれ、桜色に染め上げる。

川には橋が架かっていて、たもとにはコンビニがあった。二人はコンビニでおにぎりやお菓子、飲み物を買うと、橋の上に立った。桜の枝の向こう側にもう一本、橋があって、その上を電車が走り抜けていった。

川沿いの遊歩道には幾人かの花見客がいて、桜を携帯電話で写真に収めていた。それでも、都立公園の花見客に比べればほぼいないに等しい。この場所を狙ってやってきたのではなく、たまたま通りがかった人たちなのだろう。

二人は、遊歩道のベンチに座った。見上げた桜よりも少し高いところに街灯があり、その明かりは花びらを通り抜けて、志保とたまきの足元を照らしていた。

「きれいだねぇ」

「うん……」

たまきは、散りゆく花びらの一つ一つをぼんやりと見つめていた。何も考えずに、ただ花びらを見つめていた。

ふと、たまきが目線を落とすと、志保がたまきにお菓子を差し出していた。

「ふふ。やっと気づいた。食べる?」

「はい……」

たまきはおかしを受け取り、口にくわえた。

「花びらずっと見てて飽きないの?」

「まあ……」

「ヘンなの」

そう言って志保は微笑む。

たまきは志保を見やると、お菓子をほポリポリとほおばりながら、再び花びらへと視線を戻した。

今ごろ亜美は、公園で大勢の友達とともにどんちゃん騒ぎをしているのだろうか。

志保と二人でのお花見はどんちゃん騒ぎをすることもなく、たまきの心の中はだいぶ穏やかだ。

……穏やかなのだが、どこかさみしさをたまきは感じていた。

それも、不思議なことに、今までたまきが感じたことのないさみしさなのだ。

街の喧騒も、電車の音も、風の音も、何か不完全なものに聞こえるような、不思議なさみしさ。

それは、一人ぼっちの時に感じる、空き缶を押しつぶすようなさみしさとは明らかに違う。

まるで、音の鳴らないピアノを弾いているかのような、物足りなさ。

たまきは視線を落として、そのさみしさをゆっくりと噛みしめていた。

志保はお茶を飲みながら、そんなたまきをじっと見ていたが、やがて背もたれによりかかると、言葉を漏らした。

「やっぱり、亜美ちゃんがいないと、さみしいよねぇ」

その言葉に、たまきは思わず志保の方を見た。

志保は、たまきの考えていることがわかったのだろうか。

それとも、志保もたまきと同じことを考えていたのだろうか。

たまきの感じていたさみしさ。それは、亜美がいないことによるものだった。

志保と二人でのお花見も、決して悪くはない。

だけど、いつもいるはずのもう一人がいない。

いつもの三人じゃない。

たったそれだけで、片腕をどこかに置いてきてしまったかのように世界が物足りなく感じる。

一人ぼっちのさみしさだったら、誰でもいいからそばにいてくれれば、紛らわせるけれど、「亜美がいないさみしさ」は、亜美にしか埋められない。

ほかのだれかでは、代わりにはならないのだ。

志保がたまきに何かを差し出した。今度は、お菓子ではないようだ。

「電話してみよっか」

志保がたまきに差し出したのは、携帯電話だった。

「呼んじゃおっか、亜美ちゃん」

「でも……それは……私のわがままです……」

たまきはそういって下を向く。

「亜美さんも向こうで……友達と楽しく過ごしてるかもしれないのに……私のわがままでこっちに来てほしいだなんて……」

「たまきちゃんだけのわがままじゃないよ。あたしのわがままでもあるんだから」

そういって志保は、優しく微笑む。

「いいんじゃない、たまにはわがまま言っても。どんなわがままだって言葉にしなきゃ伝わんないよ。来るか来ないかを決めるのは亜美ちゃんなんだし。それに、もしかしたら、向こうも同じこと考えてるかもよ?」

「え?」

「そしたら、もう、わがままじゃないでしょ?」

 

写真はイメージです

 

日が暮れてすっかり夜になった。都立公園は漆黒の夜空を桜で覆い隠し、ライトが桜を明るく照らし、大勢の笑い声が彩を添えていた。

その中でひときわ、目を引く一角があった。

ブルーシートの上には、動物園に行けば「ヤンキー」や「パリピ」に分類されていそうな連中が集まっていた。髪を派手に染め上げていたり、そうかと思えば坊主頭だったり、刺青を彫ったり、金属ジャラジャラだったり、サングラスをしてたり。「不良の集まり50人セット」と称して、ドン・キホーテで売られていてもおかしくない。

男に比べれば数は少ないが、女もいる。これまた、セクシーを通り越して、破廉恥の領域に片足を突っ込んだような恰好をしている。

少なくとも、こんな場にたまきが来てしまったら、なじめないどころか、泣き出してしまったかもしれない。

さて、亜美はというと、その中でもひときわ、破廉恥の親分みたいな恰好をしていた。

胸の谷間を強調した、緑のタンクトップに、下はダメージジーンズ。それだけだと寒いので、黒い皮のジャンパーを羽織っている。

金髪はいつものポニーテールをほどいてバッサリと下ろし、キャップを被っていた。

亜美はブルーシートから少し離れたところで、なにをするでもなく、集まった群れを見ていた。

笑い声が飛び交い、紙コップには酒が注がれ、反対にゴミ袋の中には潰れたビールの缶が詰め込まれていく。ところどころに、無造作に開けられたスナック菓子や、チョコの包み紙が置かれていた。

「どうだよ。俺がちょっと声かければ、これだけ集まるんだぜ」

ヒロキが酒を片手に笑う。傍らで赤ん坊を抱いている少女は、ヒロキの嫁だ。確か、亜美よりも年下だったはず。

「亜美さん、お疲れっす」

声をかけられて、亜美は振り返った。シンジというひょろ長い男が、女を連れて立っている。

「んあ、来たの」

「そりゃ、亜美さんに来いって言われたら、来るに決まってるじゃないっすか、ねぇ」

確かこいつは最初、来れないとか言ってたはずだった気がするが、なんだか今の亜美にはどうでもよいことに思えた。

亜美がやっていることは援助交際とはいえ、知らないオジサン相手におバカな子ネコちゃんを演じて小遣いをもらうような小娘の遊びとは違う。身一つでこの街に流れ着いた亜美にとって、それは生きていくための稼業に他ならない。

ほぼ無一文だったころは、カネをくれるのであれば「誰とでも」だったが、ある程度金が手に入ると、客を選ぶようになった。

誰とつるめば、どんなグループに身を置けば、この街で自分の座る椅子を確保できるか。

不良がたむろするこの街で、自分と同じ匂いをまとった連中を見つけるのは、そう難しくはない。その中で、どのグループに近づけばいいか。この街の中でそれなりに力があって、亜美のような人間がすんなりと溶け込めそうなグループ。力と言ってもそれは必ずしも暴力を指すとは限らず、経済力だったり、人脈だったり、情報網だったりする。

そうして、自分の居場所となるグループを見つけたら、なるべく、ボス猿の近くへと行く。

そのころにはすでに、亜美が援助交際をしているという事は知られていたので、当然、ボス猿やその取り巻きからもそういう目で見られる。一緒に酒を飲んで話していれば、次第に向こうから誘ってくる。金を出して誘えばノッテくる、「どうせそういうオンナだ」と思われていたのだろうが、亜美としても、自分から誘惑する手間が省けるので好都合だ。どうせ恋愛をするつもりなど最初からないし、相手が自分のことを手頃な玩具程度にしか思わなかったとしても、別に構わない。こっちだって手頃な番犬程度にしか思っていないのだから。

問題は、そのあとである。いかに相手を満足させるか。一夜限りのおもちゃなどで終わらず、いかに深い関係となるか。「情婦」としても、「飲み友達」としても。

ボス猿集団と常日頃から仲良くし、ベッドを共にし、軽いオンナというイメージを持たれる一方で、ボス猿集団よりもランクの劣るサルたちの誘いには応じなかった。

後ろ盾ができたからだ。ランクの劣る男たちの誘いを無碍にしても、「あいつはボスのオンナだから」の一言で許される。

そうすることで、次第にグループの中での亜美の立ち位置も変わってきた。ボスのお気に入りで、ボスやボスに近い連中としか誘いには応じない。それより下の男たちにとっては、亜美は決して手を出すことが許されない、高級娼婦のような高嶺の花。

ブランドのバッグのなにがそんなにすごいのかわからないけど、とりあえずハリウッド女優が持ってたからほしい、でも高くて買えない。でもいつかは欲しい。それと同じ理屈だ。

そうして亜美は、この街に自分の椅子を作ってきた。

花見だの、クリスマスだの、クラブのパーティだのといったイベントごとは亜美にとって、自分のこの街での立ち位置を確認するという側面もあった。自分がどういう立ち位置にいて、どれほどの影響力を持っているのか。

亜美には、王様がピラミッドを作らせたり、マスゲームをさせたりする理由が、ちょっとだけわかった。きっと、お城の中で玉座に座って、王冠をかぶっているだけでは、自分が本当に王様なのか自信がなくなってしまうのだろう。たくさんの人間が、自分の一声で集まり動いているところを見ないと、自分が王様だと信じられないのだ。

そして、今見ている光景はまさに、彼女が楊貴妃であるという事を確かめるには十分なものだった。

なのになぜだろう。何かが足りないと感じてしまうのは。

ここは自分の国で、そして自分は王様なのに、見知らぬ国にいるような気がして仕方がない、そんな物足りなさ。

亜美はどうにも、集まったサル山の中に入って共に騒ぐ意欲が、不思議と涌かなかった。

ふと、視界の端に目を向けると、ミチの姿があった。彼もまた、ヒロキに「絶対に来いよ」と脅され、亜美に「お前、来るよな」と念を押された、哀れな下っぱ猿の一匹だった。

ミチは誰かと話していた。相手はどうも、亜美たちが呼びつけた仲間ではない。

年は六十以上だろうか。煤けた顔には濃いしわが刻まれている。白髪頭にキャップを被っている。どうやら、ホームレスらしい。

「すいませんね、なんか、騒がしくしちゃって」

「なぁに、公園はみんなのものだ、わしらのものじゃない。好きに使うがいいさ」

そういって老人は笑う。話しぶりからして、どうやら二人は知り合いのようだ。

ミチのやつ、ホームレスと一体どういう知り合いだろう、と少しだけ興味を持った亜美は、ミチに近づいてみた。

「よっ、なに、しりあい?」

亜美が声をかけるとミチが振り向く。一方のホームレスは、

「じゃあ、そろそろ出かけるとするか」

と傍らの自転車に手をかけた。

が、ふと動きを止め、亜美の方をじっと見た。

「な、なんだよ」

「あ、いや、亜美さん、この人、別に怪しい人じゃなくて……」

老人は亜美の顔をじっと見ると、

「お前さん、どこかで会ったか?」

と尋ねた。

「あ?」

「いや、会ってはないな。だが、どこかで見た気がする。さて、どこだったか……」

亜美は一時期、お金がないとき、ホームレス相手に「シゴト」をしていたこともあったが、このホームレスとは会っていない。あのとき相手していたのは、もっとだらしなさそうなおっさんばかりだ。

一方の老人は不意に「ああ、そうか」と一人合点したように笑った。そして亜美の方を見ると

「お嬢さん、今日はずいぶんとさみしそうだな」

とだけ言い残すと、自転車をこいで、公園の闇の深い方へと消えて行ってしまった。

「は……」

「あ、あの、ほんとに変な人とかじゃないんで……」

ミチが取り繕うように言葉を添えるが、亜美は無視して歩き出した。

呼びつけた仲間たちのそばへと戻っていく。

ああそうか、自分はさみしかったのか、と亜美は一人で納得した。

自分が一声かければ、これだけの人数が集まる。

なのに、志保とたまきは来なかった。

別に来なくてもよかった連中ばかりが集まって、本当に来てほしかった二人は来なかった。

たまきに「お花見には行きません」と言われて以来、どこかさみしさを抱えていたのは、たまきが「本当に来てほしかった友達」だったからだ。

たまきに「いいから来いよ」なんて言えなかったのは、亜美にとってたまきが、単なる頭数合わせなどではなく、「本当に来てほしかった友達」だからだ。つまらなそうにしててもとりあえず人数がそろえばいい、などと言うのではない。純粋に、一緒にお花見を楽しみたかったから、「嫌々来ている」では意味がないのだ。

たまきに断られた後、たまきとの接し方がわからなくなってしまったのもその「嫌々来ている」をずっとたまきに強いてしまっていたのではないかという、後悔からくるものだった。

ふと、携帯電話が鳴った。

画面を見てみると、志保からだった。

確か、たまきと一緒に「城」にいるはずである。今からでも来るのかと思ったけれど、たまきを置いて一人で来ることはないだろう。

「もしもし?」

「あ、亜美ちゃん? 今、お花見中?」

「そうだけど……」

電話口の志保の向こうに、電車の駆け抜ける音が聞こえた。

「ん? お前、外にいるのか?」

「うん。いま、たまきちゃんと二人でお花見中」

「お花見?」

「そう、二人で」

「そう……」

「それでね、たまきちゃんが亜美ちゃんに言いたいことがあるんだって」

「……たまきが」

「うん。……亜美ちゃん、覚悟して聞いた方がいいよ。それじゃ、代わるね」

しばし、沈黙が流れる。

「あ、あの……亜美さん、こんにちは……」

「……おう」

たまきはなんだか、初めて亜美と話すような口ぶりだ。亜美も、たまきの声を聴いたのは、久しぶりだったような気がする。

「あの、亜美さん……」

たまきはそこで、一呼吸置いた。

「亜美さんも……こっちに来ませんか……」

「え?」

再び、沈黙が流れた。

「こっちで一緒に……お花見しませんか……その……三人で……」

「……バーカ」

亜美は、どこか力なく言った。

「ウチ、これでも幹事だぞ。抜けられるわけねぇだろ」

「そうですよね……。ごめんなさい、わがまま言って……」

「……お前らさ、今、どこいんの?」

「え? えっと……ここ……どこなんでしょう?」

たまきは振り返って、志保に尋ねた。

「あの……、東中野駅の、川のそば、だそうです」

「だそうですって、なんでお前、自分がいる場所、わかってねぇんだよ」

そういって、亜美は笑った。

 

携帯電話をポケットにしまうと、亜美はブルーシートの上のサル山を見やった。

あちらこちらで笑い声が起きる。全員が同じ方を向いているのではなく、いくつかのグループに分かれ、そのグループもやはり、集団内の序列ごとにまとまっているように見える。まさに、サル山だ。

亜美はサル山を見つめていたが、ふと目線を落とすと、半歩後ずさった。

誰も亜美に声をかけるものはいない。

一歩、二歩、亜美はゆっくりと、路面に丁寧に足跡を刻むようにゆっくりと、集団から離れてみた。

誰も亜美に声をかけない。

三歩、四歩、五歩六歩七歩八歩。

亜美は少しずつ歩調を速めるも、誰も、亜美を引き留めない。そもそも、亜美が少しずつ離れていることに、気づいていない。

「……んだよ」

亜美が声をかけてこんなに集まったのに、亜美がその場を離れようとしても、誰も声をかけない。

九歩、十歩、十一歩十二歩十三歩。

夜の漆黒の周りを桜色が縁どる空に、亜美のスニーカーが砂利を踏みしめる音が響いた。

そのまま砂利を磨り潰すように回れ右をすると、亜美は集まった輩に背を向けて、勢いよく走り出した。

スニーカーが激しく地面をたたく。その度に桜の花びらがわずかながらも地面から舞い上がる。

公園から道路へと向かう坂道を、亜美は一気に駆け抜けた。

道路に出て、横断歩道に差し掛かる。信号は赤。車は、数十メートル先に、一台近づいているだけだった。

亜美は構わず、横断歩道に躍り出た。

横断歩道から少し離れていたところを走っていた車のライトが、亜美の姿をかすめるように捕らえる。亜美と車の間にはかなりの余裕があったが、車はクラクションを鳴らす。

クラクションをかき消すように、亜美は舌打ちをした。

うるせぇな。今すぐぶつかるようなキョリじゃねぇだろ。ちょっとぐらい待ってろ。

こっちはな、今行かなかったら、二度とあいつらとお花見なんかできねぇかもしれねぇんだよ。

横断歩道を渡り切ると、亜美は縁石を飛び越えて歩道へと着地する。背後を先ほどの車が駆け抜けていくが、亜美は目もくれずに、ビルの隙間の路地へと踏み出した。

どうして王様の景色を捨ててまであの二人とお花見がしたいのか、どうして自分は走っているのか、亜美にもその理由はわからなかった。

それでも、胸が高鳴る理由が、走っていることで酸素を欲している、だけでは決してないことはわかった。

たぶん、たまきに何かを誘われたのなんて、初めてかもしれない。

それがなんだか、嬉しかった。

 

写真はイメージです

桜の花開く川沿いは、さすがに川のせせらぎが聞こえるほどではないけれど、それでもすぐ近くの都心に比べれば、静寂に包まれていた。

志保はお菓子の袋を手に持ち、それをたまきの方にも向けていたが、たまきの様子を見て、思わず笑ってしまった。

たまきはしきりに、川下の方に視線を飛ばしていた。

「そんなに亜美ちゃんが来ないか気になる?」

その言葉にたまきは、驚きと気恥ずかしさを隠さなかった。

「べ、別に、そういうわけじゃ……それに、断られましたし……」

「どうかな、あんがい来ちゃうかもよ。でもね」

そういって志保は優しく微笑んだ。

「来るとしたら、そっちじゃないと思う」

「えっ」

たまきはもう一度、「そっちじゃない」と言われた方角を見やった。

「だって、私たち、こっちから来て……」

「でも、亜美ちゃん、公園にいたんでしょ。だったら、来るのはこっちじゃなくてあっち……」

そういって、志保が川上を指さした時、ちょうどその方角から、何者かが

「とうっ!」

と跳び上がった。道路から川沿いの遊歩道へと続く段差を飛び越えたのだ。

そのまま、すたっと着地を決める。

「え?」

「亜美ちゃん?」

志保とたまきが、同時に目を見開いた。

「はあ……はあ……、疲れた……走ったー!」

亜美は肩を落とし、胸で大きく息をしている。

「亜美ちゃん、走ってきたの?」

志保の問いかけに、亜美は無言で頷く。

「ズボンがボロボロですよ? 途中で転んで破けちゃったんですか?」

「バーカ、ダメージジーンズだよ!」

「……え?」

「最初からこういうデザインだっつーの!」

「はあ……」

どうしてわざとぼろぼろのジーンズを作るんだろう、とたまきは疑問に思ったが、それよりももっと気になる疑問があった。

「亜美さん、どうしてこっちに来たんですか?」

「お前が来いって言ったからだろ!」

「でも、幹事だから抜けられないって……」

「あー、思ったほどそうでもなかったわ。はっはっは」

それを聞いたたまきは、志保の方を振り向いて、少し得意げな顔をした。

「どうです、志保さん。私が一声かければ、亜美さんだってきちゃうんですよ?」

「ほんとだね。すごいよ、たまきちゃん」

珍しくどや顔のたまきだったが、不意に背後から亜美の手が伸び、たまきにチョークスリーパーホールドを仕掛ける。

「『亜美さんだって』ってウチ以外お前の一声で誰が来るんだよ!」

「ご、ごめんなさい! 一度言ってみたかったんです!」

「あ、あたし、たまきちゃんの一声で来ちゃうよ」

「二人だけじゃねぇか!」

「でも、舞先生もよく、たまきちゃんの一声で来るじゃない。『また切っちゃいました』で」

「リスカの手当てに来てるだけだろそれ!」

亜美は一通りたまきをいじめると解放した。今度はたまきがハアハアと息をつく。

「でも……二人だけでもうれしいし……二人だけで……十分です……」

そういってたまきは、恥ずかしそうに笑った。

「この三人が……いいです」

「じゃあ、亜美ちゃんも来たことだし、乾杯しよっか」

志保は、傍らのレジ袋の中から、コーラの缶を取り出した。

「なんだよ、酒はねぇのかよ」

「あるわけないでしょ」

亜美は不服そうにコーラを開ける。

「それじゃあ、我らの変わらぬ友情を祝して、乾杯!」

「カンパイ」

「……かんぱい」

缶同士が軽くぶつかり、こすれる音がする。

「変わらぬ友情」というけれど、あの頃よりは何かがちょっと変わってるんじゃないか、そんなことをたまきは考えていた。

 

亜美はコンビニでからあげを買うと、ベンチに腰掛け、もりもりと頬張っていた。そんな亜美を挟むように、右側に志保、左側にたまきが座る。

「ところでさ、たまき」

「はい?」

亜美は隣のたまきを、のぞき込むように顔を向ける。

「お前、年末に行ったボウリング、楽しくなかったってマジか?」

「え……まあ……」

たまきは申し訳なさそうにうつむくと、わずかに首を縦に動かした。

「なんでだよ! ボウリングだぞ! 何がそんなに不満なんだよ」

「え……だって……ボウリングってボール投げるじゃないですか」

「そりゃそうだろ。ボウリングだもんよ」

「転がるじゃないですか」

「あたりまえだろ」

「ピンに当たって、倒れるじゃないですか」

たまきはそこで言葉を切ると、亜美の方を見た。

「……それで、どうすれば……?」

「どうすればってお前、そこで喜ぶんだよ」

「……なんで喜ぶんですか?」

「なんでって、ボールが当たってピンが倒れたら喜ぶだろ!」

たまきは困ったように志保を見た。

亜美も困ったように志保を見る。

志保は困ったようにはにかんだ。

「つまりたまきちゃんが言いたいのは、投げたボールが転がって、当たったピンが倒れるのは当たり前だから、それで喜ぶのはヘンじゃないか、ってこと?」

たまきは無言で、こくりとうなづいた。

「当り前じゃねぇだろ。お前、最初ガーター連発だったじゃねぇか。ピンに当たるようになるまでけっこうかかっただろ」

これまたたまきは、無言でうなづく。

「ボールがまっすぐ転がってるとき、たまきちゃんはどう感じたの?」

「ああ、まっすぐ転がってるなぁって……」

「そのあと、ピンに当たって2本倒れたろ」

「ああ、ピンが倒れたなぁって……」

たまきは二人の目を見た。

「それで……どうすれば……」

「そこで喜ぶんだよ!」

「……なんでですか?」

「それがボウリングだろ!」

たまきは、わからない、といった感じで二人を見る。

「お前、なにしたら楽しいって思うんだよ」

「……昔もそれ、聞かれた気がします」

たまきは下を向いた。前髪がたまきの目を、眼鏡ごと覆い隠す。

「今、こうしてるのは……楽しいですよ」

満月の下でお酒を飲んだ夜、シブヤに行ったときの夕暮れ、誕生日を祝ってもらった夜、真夜中に散歩して、日の出を見た明け方、一年にも満たない日々だけれど、亜美と志保に出会う前よりも、思い出ははるかに増えた。

「私……ちゃんと楽しんでますよ……」

「そっか」

たまきの顔を見てどこかほっとしたように、志保は笑った。

「あたしも、楽しいよ。亜美ちゃんは?」

志保に聞かれた亜美は、恥ずかしそうに笑った。

「これで酒があったら最高だけどな。ま、からあげがあるから、よしとするか」

ふと、亜美は先日のやり取りを思い出していた。

『むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ』

『なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!』

特別なことなんて何もしなくていい。

この三人で、同じ時間を過ごすこと。

このなんでもない時間こそが、たまきにとって楽しかったんだ。

「ウチも、まあ、楽しいよ」

そういって亜美は空を見上げた。桜の花びらの向こう側に、いつかの夜のように、まあるい満月が見えた。

つづく


次回 第32話「風吹けば、住所録」

「城」に、特にたまきの身に大事件が勃発! たまき16歳の「ひとりでできるもん」、開幕! 続きはこちら!


第31話あとがき


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第30話「間違いと憂欝の桜前線」

自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。「あしなれ」30話目、スタート!


第29話「パーカー、ときどきようかん」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「ねえ、これ見て見て! どうしたと思う?」

「城」の中へと戻ったたまきと亜美に、志保はカバンを見せつけた。今まで志保が持っていなかったカバンだが、たまきの乏しいおしゃれ語彙力では「見知らぬカバン」以外の言葉が見つからない。

「えっと、どうしたんですか、このカバン」

たまきの問いかけに、隣にいた亜美が

「聞かねぇ方がいいって」

と忠告したが、それを言い終わるより早く志保は、

「カレからもらったの! やだもう! 言わせないでよ!」

というとたまきの肩を強くたたいた。

亜美の大袈裟な舌打ちが聞こえる。

カバンなんかもらって、何がそんなにうれしいのか、たまきにはわからない。 そもそも、志保はほかにもカバンを持っていたはずだ。そっちのカバンはどうしたんだろう。穴でも開いてしまったのだろうか。

「ウチ、タバコ吸ってくるわ」

すでにたばこのヤニをはらんでいるかのような声で亜美は言うと、部屋を出て行ってしまった。

たまきは「城」の中を見渡す。いつもに比べるとやけに片付いていて、なんだか今まで自分が暮らしてきた場所とは違うところみたいだ。

どことなく、「踏み荒らされた」そんな気がした。片付いているのに「踏み荒らされた」だなんて変な感じがする。

なんとなく居心地が悪いままにたまきがソファに座っていると、志保が正面のソファに腰を掛けた。

「それで、たまきちゃんはそのパーカー、誰からもらったの?」

「ふえ?」

弾丸が心臓に正確に命中した、そんな気がした。

「どど、どうしてもらったって……思うんですか?」

危うく「どうしてもらったってわかったんですか」と言いそうになったたまきだったが、すんでのところで言葉を変えた。

「だってたまきちゃん、自分じゃお洋服買わないじゃん」

「そ、そうなんですけど……」

「それに、自分で買うとしても、たまきちゃんが選ぶ色って大体、ブラックとかグレーとかじゃん。ブルーは選ばないでしょ」

たまきは視線を落とす。自分がいま身に着けている、黒いスカートと灰色の靴下が目に入った。

「その……ミ、ミチ君のお姉さんにもらったんです」

嘘ではない。ミチは「姉ちゃんと一緒に選んだ」といったのだから。

「どうしてミチ君のお姉さんが、たまきちゃんにパーカーをくれるの?」

「さ……さあ……」

「ふーん」

志保の表情からは、志保がたまきの答えをどう判断したのかはうかがい知れない。

「そのパーカーだったらさ、インナーもそれに合わせたやつ着た方がいいよ」

「……はあ、そうなんですか」

「今度、一緒に買いにいこっか」

「は……はい」

よくわからないが、たまきは今度、志保と一緒にウインナーを買いに行くことになったらしい。ソーセージじゃダメなのだろうか。

 

その日の夜。

亜美はどこかに出かけたまんま帰ってこない。志保はソファの上でタオルを二枚かけて寝ている。

たまきも同じようにして寝ているのだが、この日はなかなか寝付けなかった。

昼間の田代との会話が頭から離れない。面と向かってそう言われたわけではないけれど、たまきたちがこの「城」にいることは間違っている、そんな気がした。

いや、こればかりは「そんな気がした」ではない。たまきたちが「城」で暮らしていることは、事実として「間違っている」のだ。

まず、三人とも家賃を払っていない。不法占拠であり、間違いなく違法行為だ。おしゃれ警察どころか、本物の警察に逮捕されてしまうかもしれない。

おまけに三人とも未成年だ。世間的にはやっぱり、未成年というのは保護者のもとで生活しなければいけないんじゃないか。

亜美はエッチなことをしてお金を稼ぎ、志保は薬物依存で、たまきは自殺未遂を繰り返す。間違っていることだらけである。

間違っていることは、してはいけないのだ。

ところが、間違っているからと言って、家に帰るわけにはいかない。家に帰ってしまったら、たまきはとても生きていける自信がない。

死にたがりでおなじみのたまきだけれども、家で死ぬことだけは嫌だ。家ではないどこか別の場所で死にたいのだ。

そもそも、たまきが死にたかったのは、あの家にいたからなんじゃないか。たまきが死にたい死にたい言いながらも今日まで何となく生きているのは、あの家を離れたからなんじゃないか。

となると、たまきという人間は、「家出して帰らない」という間違ったことをしていかないと、生きていけないということになる。

今までたまきにかかわった大人の多くが、こういってきた。「命を粗末にしてはいけない」と。なぜなら、生きているということはただそれだけで素晴らしいことなのだから。

ところがたまきは、「生きる」という素晴らしいことをするためには、どうしても間違ったことをしなければいけないのだ。

間違ったことをしないと生きていけない。それでも生きることは素晴らしいのだろうか。

たまきは狭いソファの上で器用に寝返りを打つ。

そういえば、前に仙人がこんなことを言っていた。「自分がしたことが間違ってると思うなら、したいようにすればいい」と。

たまきがやっていることは間違っている。

たまきは正しいことをしたい。

なのに、たまきは正しいことであるはずの「家に帰る」を絶対にしたくない。

間違っているとわかっているのに、間違っていることはしたくないのに、間違ったことをするしかない。

やっぱり、たまきみたいな子は死ぬしかないのだろうか。

その時、ドアが急に開いて、部屋の電気がぱちりとついた。

たまきはそっちの方を見る。メガネをかけていないから視界がぼやけているけど、どうやら亜美のようだ。

「なんだ、たまき、起きてたのか」

その声は紛れもなく亜美だった。たまきはメガネをかける。やっぱり亜美だ。

たまきの視界の傍らで、志保が起き上がった。

「何……どうしたの……?」

「わりぃ。起こしちゃったか。いや、今度の花見で使うやつ、ここに置くことになってさ。今運んでもらってるんだよ」

そういうと、「城」の中に段ボール箱を抱えた男たちが入ってきた。

「何入ってるの、これ?」

「レジャーグッズとかだよ。あと、酒類。ああ、シンジ、花火はそっちに置いといて」

シンジと呼ばれた痩せた男が、抱えた段ボールを床に置く。

「花火? その段ボールの中、全部花火なの?」

「そうだよ」

花見で使うにはずいぶんな量である。亜美は爆弾テロでもするつもりなのだろうか。

「お花見って、花火するんですか?」

お花見なんてやったことのないたまきが、志保に尋ねる。

「さあ……、もう、お花を見るつもり、ないよね」

深夜に、雑居ビルの無人のはずの部屋に、人知れず運び込まれた、爆薬入りの段ボール。ここだけ聞くと、やっぱりいつ警察が来てもおかしくない気がしてきた。

「お花見はいつやるの?」

と志保が尋ねる。

「再来週か……早くて来週だな。さっき予報見たら、なんか予定より早く咲くんじゃねぇかって言ってるんだよ」

そういってから亜美は志保に、

「お前は来るか?」

と尋ねた。

「うーん、バイト先のお花見と被るかもしれないし~」

「なんだよ。バイト先なんてそんなのバックレ……」

そういってから亜美は、ふとあることに気づく。

「そうか。バイト先の花見ってことは、ヤサオも来んのか」

「ヤダもう! 亜美ちゃん! 言わせないでよ!」

そういうと志保は亜美にぬいぐるみを投げつけた。

「いや、お前、なんも言ってねぇだろ」

亜美はぬいぐるみを片手でキャッチする。

「そっか。お前こねぇのか」

「まだわかんないけどね。スケジュール次第」

「たまきも来るのに残念だ」

「へ?」

たまきはあいまいな返事をしただけなのだが、亜美の中ではもう、お花見に来ることになっているらしい。

正直、亜美とその「悪そうな友達」がやるお花見なんて、行きたくない。全くなじめずに、お地蔵さまのように固まって、たたずんでいるだけの自分が容易に想像できる。

かといって、きっぱりと断ることもたまきにはできなかった。

たまきみたいな友達のいない子にとって、お花見のようなイベントに誘われるということは、とてもありがたいことなのだ。たとえ、絶対にその場になじめないとわかっていても。だから、どうしても断ることができないのだ。

こういう時、亜美や志保だったら、誘われても行きたくないと、きっぱり断ることができるのだろうか。

 

朝になった。

結局、たまきはあのあと横になったらすぐに眠ってしまった。

眠って、朝になったからと言って、寝る前の悩みは別に解決してはいない。

どうして人間には、眠っている間に悩み事を勝手に考えて、起きたら答えが出ている、そんな機能が搭載されていないんだろう。そうしたら、毎日ごろごろしているだけのたまきなんて、今頃お悩み解決の大先生になれたかもしれないのに。

目覚めたからといって、たまきは別にやることもないので、ごろごろしている。

やることがないので、どうしても悩みを考えてしまう。

とはいえ、夜に考えていたことは、朝になっても答えが出ない。そのままお昼になったけど、やっぱり答えが出なかった。

そうだ、仙人に聞いてみよう。仙人だったらきっと、答えを知っているはずだ。

たまきは立ち上がると、何やら携帯電話をいじっている志保を見た。

「あの……ちょっと出かけてきます……」

 

写真はイメージです

いつもの道をとぼとぼ歩き、たまきは公園へとたどり着いた。公園の中の仙人が暮らす「庵」へと向かう。

庵の前では、何人かのホームレスたちが行ったり来たりしていた。だけど、仙人の姿は見当たらない。いつもなら庵の前に椅子を出して、カップ酒でも飲んでいるのだが、今日は姿が見えない。

たまきはなけなしの勇気を振り絞って、そばにいたホームレスに話しかけてみた。何度も「庵」に来るうちに顔見知りにはなったが、話したことはほとんどない。

「あ、あの……その……仙人さんはいませんか……」

ホームレスが足を止めて、たまきの方を向く。

「ああ、仙さんね。仙さんなら、シゴトに行ったよ」

仙人の仕事というのは確か、街中を一日中駆けずり回って、空き缶を集めるというものだった。だったら、当分帰ってこないのだろう。

「そうですか……」

当てが外れたたまきは、下を向いた。

「お嬢ちゃんが来たこと、仙さんに伝えておこうか?」

「いえ……いいです……」

そういうとたまきは、軽く頭を下げて、「庵」を後にした。

とぼとぼと歩きながら、いつもの階段に一人腰を下ろす。

考えてみれば、仙人には仙人の生活があり、都合があるのだ。いつもいつもたまきの都合の良いときにいてくれるわけではないし、いつもいつもたまきの相談を聞いてくれるとも限らない。

そもそも、自分は仙人にいったい、何を尋ねるつもりだったんだろうか。

たまきがしていることは間違っている。たまきはどうしたらいいのか、そんなことを聞こうとしていたのだろうか。

でも、もし仙人が、たまきのやっていることは間違っているのだから、今すぐパパとママのところへ帰れと言っても、たまきはかたくなに首を横に振り続けただろう。

そう、「どうしたらいいか」の答えは最初から決まっているのだ。いや、違う。誰に何を言われても、誰に間違いを指摘されても、それでもたまきは家に帰りたくないのだ。そう、仙人に相談したところで、誰に相談したところで、たまきは答えを変えるつもりは全くないのだ。

もしかしたら、ただ単に「お嬢ちゃんは間違ってなんかいないよ」と言ってもらいたかっただけなんじゃないだろうか。志保が田代のことをいろんな人に相談して回ったように。

そんなことを考えてみると、階段の上の方から

「よっ」

と、声がした。見上げてみると、そこにはギターケースを担いだミチの姿があった。

「……こんにちわ」

「今日は絵、描いてないの?」

「……まあ」

「ふーん。あ、そのパーカー、着てくれたんだ」

ミチはたまきが来ている、薄群青のパーカーを指さす。

「……まあ」

ミチはたまきの隣に腰掛ける。たまきはすっと横にずれて、間隔をあけた。

ミチはギターを取り出して、チューニングを始めている。

「あ、あの……」

たまきは少しミチの方へと顔を向けていった。

「ん? どしたの?」

「ミチ君は……自分のやってることが間違ってるって思ったこと……ありますか?」

「また、ヘンなこと聞くね」

そういってミチは笑った。

「もちろん、あるさ」

「それってどんな時ですか……?」

「……まあ、去年のクリスマスに、たまきちゃんに怒られた時かな」

「ああ……、そうでしたね」

たまきは、ミチの方へとむけていた視線を、正面へと戻した。そういえば、そんなこともあった。ミチが人妻と不倫して、相手のダンナにボコボコに殴られて、そのあと……。

そこでたまきは、あることに気づいた。

「……ということは、不倫してた時も、殴られてた時も、間違ったことをしているとは思ってなかった、ってことですか?」

「たまきに怒られた時点で、間違ってると思った」という話から解釈すると、そうなってしまう。

「え? ああ、その、えっと……や、やだなぁ、そんなわけね……ははは」

ミチの乾いた笑いを聞いていたら、こんな男からもらったパーカーを着ていることが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。クシャクシャに丸めてこの場でたたきつけて返そうかとも思ったけど、このパーカーはミチからだけではなく、ミチのお姉ちゃんからのプレゼントでもあるのだ。ミチのお姉ちゃんは、たまきをネコ扱いしていることを除いては、たまきのような子にいつも焼きそばを作ってくれるステキな人なのだ。そのような人からもらったものを粗末にしてはいけない。

たまきは、パーカーのチャックをキュッと閉めた。

「そういえば、たまきちゃんもお花見来るんだって?」

「ほえ?」

どうもたまきは、核心を突かれたり、予期しない質問が飛んできたりすると、ヘンな声が出てしまうらしい。多分たまきは、国会議員には向いてはいないだろう。都合の悪い質問をされるたびに、「ほにゃ?」とか言ってしまうに違いない。そもそも、人前で演説すること自体が無理だ。自分の写真が選挙ポスターになって、町中に貼られてるなんて、考えられない。

「……まあ」

いつも通りのあいまいな返事を繰り返すたまき。

「場所って、この公園だよね。ここってお花見スポットで有名だし」

「そう……なんですか……」

たまきは頭上を見上げる。夏ごろからよく来ていたこの公園の木が、実は桜であるということを、たまきは今、初めて知った。

「たまきちゃんさ、亜美さんから、何人ぐらい来るか聞いてない?」

「さ、さあ……」

「そっか。俺、センパイからのまた聞きだから、よくわかってねぇんだよなぁ。日にちもまだ決まってないんだろ。バイトのシフトはもう決まっちゃってるから、かぶったら行けないかもなぁ」

そうか。たまきも何か別の用事があればよかったのだ。志保だって、バイト先の花見と被るかもしれない、なんて言っていたではないか。何か別の用事があれば、亜美の誘いを断ることができるし、先約があるならしょうがない、と亜美に嫌な気持ちをさせることもないはずだ。

問題は、「城」にしか居場所のないたまきにとって、別の用事なんかない、ということである。何か用事を無理やりでっち上げても亜美のことだ、「そんなの別の日にすればいいじゃん」とか言って、強引に花見に連れて行こうとするのではないか。

ミチはギターの弦をいじっていたが、やがて、たまきの方を向いた。

「あれ? もしかしてたまきちゃん、花見行きたくない?」

「ほへ?」

またヘンな声が出てしまった。

「ど、どうして行きたくないって……」

そういってからたまきは少し考え、

「……わかったんですか?」

と言い足した。

「いや……なんとなくだけど……なんかたまきちゃん、乗り気じゃないような気がしたから……」

ミチは、ギターの弦に視線を落としながら言った。

「そもそもたまきちゃんって、なんか大勢と一緒にいるときは、あんまり楽しそうじゃないかなって。っていうかそもそも、人が大勢いるとこには、たまきちゃんってほとんどいないよね」

たしかに、祭りだパーティだの時は、わざわざ人のいないようなところに移動するたまきである。

ミチは、ギターをいじる手を止めた。

「いいんじゃね? 行きたくないなら、行かないで」

たまきは無言のまま、ミチの方を向いた。

「だって、花見って楽しむためにやるんだもん。楽しめないなと思ったら、行かなくていいんじゃね?」

「で、でも、せっかく亜美さんに誘ってもらったのに……、悪いです……」

「ああ、わかるなぁ、それも」

ミチはそう言って、笑った。

「俺もさ、センパイに誘われて、クラブとかに行くのよ。未成年でも入れる、クラブ風のイベント。でもさ、俺、クラブミュージックとか、全然好きじゃねぇんだよ。ダンスとかもやったことねぇし、酒代もやたらかかるし」

一か所、法的にちょっとおかしい部分があったが、たまきはスルーした。今のたまきは、人の間違いを指摘できるような気分ではないのだ。

「でも、センパイの誘いだから断れねぇんだよな。メールとかには『お前も来る?』って書いてあるんだけど、ほんとは『まさか来ないなんて言わねぇよな』って書いてあるような気がしてさ。おまけにさ、行ったら行ったで、もうこれ以上は飲めねぇよ、ってタイミングでセンパイが肩ガシッとやってさ、『おい、飲んでるか? ちょっと足りないんじゃねぇか? おごってやるから遠慮せずに言えよ』って言われると、『じゃ、じゃあ、もう一杯』って言わなきゃいけないんよ。今度は『後輩に気前よくおごるセンパイ』って演出に付き合わなきゃいけねぇんだよ」

チャラ男の世界で生きていくのも、なんだか大変である。

「でも、たまきちゃんと亜美さんの関係って、そういうんじゃないと思うんだよなぁ」

「そ、そうなんですか?」

「俺なんかはさ、ぶっちゃけ、頭数要員なわけよ」

「……あたまかず、ですか?」

「そ。誰でもいいから、人数が集まればいい、ってわけ。『俺が一声かければ、これだけ集まるんだぜ』みたいな。だから断るとさ、『俺の顔に泥塗りやがって』みたいなこと言われちゃうわけよ。『お前が来ないとつまらない』じゃねぇんだよ。『俺の顔に泥塗りやがって』なんだよ。ま、アクセサリーみたいなもんだね。ジャラジャラいっぱいつけてるヤツがえらい、みたいな」

たまきは無言のまま、ミチを見ていた。

「でも、たまきちゃんと亜美さんって、そういうんじゃない気がする」

「まあ、私は……地味ですから」

たまきなんてアクセサリーとしては、安物のヘアピンみたいなものだろう。目立たなさすぎて、そもそもつけてることに気づかれないようなやつだ。

「そうそう、たまきちゃんはアクセサリーってタイプじゃないよ」

ああ、やっぱり。

「たぶん亜美さんは、本当に来てほしくて誘ったんじゃないかな」

「ふぇえ?」

そういわれて驚いたたまきだったが、よくよく考えてみると、確かにそうかもしれない。

だって、たまきなんか誘って来てもらったところで、何の自慢にもならないのだ。

「ウチが一声かければ、たまきだって来るんだぜ」と亜美が言ったところで、何の自慢にもならない。

そう、たまきがイベントやパーティに来たところで、何の自慢にもならないのだ。学校にいた時、誰からも何の誘いもなかったのは、たまきなんか呼んでも、何の自慢にもならないからだ。

それでもたまきを誘うというのは、少なくとも頭数合わせではない、と考えてみてもいいのではないだろうか。大体、たまきは影が薄すぎて、たまきみたいな子をいくら集めても、頭数にはならない気がする。

「それにさ」

とミチが言葉をつづけた。

「亜美さんの方から誘ったんでしょ? だったら、亜美さんはたまきちゃんが楽しめるようなお花見を企画する、っていうのが筋なんじゃない? 誘われたけど楽しそうじゃないな、と思ったら、断っていいんだよ」

その言葉を聞いたたまきは、ゆっくりと立ち上がった。

「私、帰ります。その……ありがとうございました」

たまきはぺこりと頭を下げると、階段を上っていく。

「ところでさ、たまきちゃんって、俺といるときは楽しいの?」

「……さあ」

たまきは振り返ることなく、答えた。たまきの黒い髪が、風にふわっと揺れた。

 

写真はイメージです

たまきはとぼとぼと太田ビルに帰ってきた。

「断ってもいい」と言われて、少し勇んだものの、やっぱりいざ断るとなると、憂欝である。

おまけに、ゆうべからの悩みは、ちっとも解決なんかしていない。

階段を上って「城」の前に立つと、屋上から亜美の声が聞こえてきた。

「ああ、ウチウチ」

一瞬、亜美がどこかのおばあさんに詐欺の電話でもかけてるんじゃないか、とたまきの頭によぎったが、どうやらそういった電話ではないらしい。

「シンジ、花見に来れないって言ってんだって? なんで? あいつ、なんつってる?」

亜美は屋上の中でも階段のそばにいるらしく、階下のたまきにもその声がよく聞こえてくる。たまきは、屋上への階段を上り始めた。踊り場まで行くと、亜美の下半身が視界に入った。

「あ? ウチが来いっつってんのに、こねぇとかあいつ、ふざけんなよ? 先約? しるかよ。その先約のオンナと一緒に来ればいいだろ」

たまきはなんだか、見えない手で背中を引っ張られたような感覚だった。

「んじゃまた。うん。はーい」

亜美は電話を切って、携帯電話をたたんだ。

「あの……」

たまきはか細い声で話しかけた。

「ん? ああ、たまき。帰ってたのか。花見な、来週の日曜になりそうだわ。ちょうどその頃が見ごろ……」

「あの、私……!」

誰かの言葉をさえぎるように話しかけるのは、たまきにとってもしかしたら初めてのことだったかもしれない。

だが、続く言葉が出てこない。

「どした?」

「私……その……」

たまきは一度、大きく息を吸うと、亜美の目を見た。

「お花見には……行きません……!」

「え?」

空は青く、雲がふんわりと浮かぶ暖かな陽気だったが、たまきはそのことを忘れていたし、亜美は気づいていないようだった。

「私、お花見には、行きません」

「……なんか予定と被っちゃったか? じゃあ、土曜日にしようか? ああ、サイアク月曜でもいいぞ。どうせ暇人ばっかだし、その方がすいて……」

「ですから……『行かない』んです」

そう、ほかに用事があるわけじゃない。「行けない」わけではない。

「行きたく……ないんです……!」

たまきは亜美の目を見れず、目線を落とした。

「誘ってもらったことは、嬉しかったです……。でも、私、やっぱりお祭りとかパーティとか、苦手です……。だから、行きたくないんです……」

正直な話、たまきは殴られることを覚悟の上だった。もちろん、今まで亜美がたまきに暴力をふるったことなどないし、いくら亜美が短気だからと言って決して短絡的に暴力をふるう人間ではないこともわかっていたが、亜美からのせっかくの誘いを断るのだから、それくらいされても仕方ないんじゃないか、とびくびくしていた。

たまきは、恐る恐る亜美の目を見た。

亜美は、少し驚いたようにたまきを見ていた。さっき電話で「ふざけんな」と怒鳴っていた時とは様子が違う。とりあえず、殴るとかそういう感じではなさそうだ。

たまきと目が合うと、亜美は、はあぁとため息をついた。

「お前な、そんなこと言ってたら、いつまでたってもイベントを楽しめないぞ」

亜美の言い方はなんだか、好き嫌いをする幼稚園の娘をたしなめる、若いママのようだった。

「別に……楽しめなくて……いいです……」

「またそんなことを……。だからお前はダメなんだよ。そんなんじゃ、いつまでたってもウジウジしたままだぞ」

「ウジウジしてたら……ダメなんですか……?」

「大丈夫だって。花見に行けば、なんだかんだで楽しくなるって」

「だから……だから……!」

どうしてわかってくれないんだろう。ずっと一緒にいるのに。

「私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!」

空は相変わらずの青空だったが、太陽が雲の影に隠れ、急に少し薄暗くなった。

「亜美さんはいつも、なんだかんだで楽しくなるっていうけど、私はそれで楽しかったことなんて、なかったです……。亜美さんは私がウジウジしてるからだっていうけど、私だって、楽しいって思うことだってあります。だけどそれは、亜美さんの思う『楽しい』とはたぶん、違うんです……」

この時の亜美の様子をなんと表現すればいいのか、たまきにはわからなかった。少なくとも、今までたまきが見たことのないような表情をしていた。

「楽しめない場所に行きたくないっていうのは……ヘンですか……。亜美さんだって、学校辞めて家出してここに来たんですよね。それって、学校も家も、楽しくなかったからですよね。だったら、わかりますよね……。楽しくないところには……行きたくないんです……」

亜美は何も答えなかった。

「……さようなら」

そう言うとたまきは頭を下げて、階段を下りて行った。

 

「城」のドアノブに手をかけてから、たまきは「しまった」と思った。

「さようなら」だなんて、まるで金輪際あわないような言い方をしてしまった。

もちろんそんなわけなくて、ただ「失礼します」だとなんだか部活の先輩や学校の先生に言っているみたいで、なんか違うなと思ったのだが、「さようなら」は余計に違ったかもしれない。

ただでさえ、亜美の誘いを断ってしまったことに罪悪感を覚えていたのに、「さようなら」だなんて言ってしまって、余計にその気持ちを重苦しく感じてしまうたまきなのであった。

そもそも、罪悪感と言えば、「たまきは間違ったことをしている」というゆうべからの悩みが、ずっとたまきの心にのしかかっているのだった。そこに新たに罪を増やしてしまったから、余計に重く感じる。

昔、たまきがお姉ちゃんと遊んだパズルゲームが、なんかそんな感じだった。相手に攻撃されると、石がずどんと降ってきて、どうやっても消せずにそのまま残り続けるのだ。たて続けに石を落とされると、画面が石で埋まってゲームオーバーになってしまう。そんな気分なのだ。

人は、罪を犯すことでしか生きていけないのだろうか、などと十六歳にしてはちょっと哲学的なことを考えながら、たまきはドアを開けた。

「……ただいまです」

「おかえりー」

と志保の声。

「おー、帰ったか」

と別の声。顔を上げてみると、志保と一緒に舞がお茶を飲んでいた。舞が「城」にいるのはさほど珍しいことではなく、三人の様子を見に、特に用事がなくてもたまにやってきて、お茶を飲んで帰るのだ。

たまきは舞に軽くお辞儀をすると、靴を脱いであがった。

「どうしたの、元気ないね」

と志保が言うが、これはいつもたまきが帰ってくるたびに言われている。もはや英語の授業の「ハウアーユー?」に近い定型文だ。この構文はたまきが、

「まあ」

と返事をするところまでがセットである。たまきがウキウキ気分で帰ってくることなど、三月に一回、あるかないかだ。

ソファに腰掛けたたまきは、テーブルの上にお菓子がおいてあるのを見た。

「広島で買ってきた、変わり種もみじ饅頭だ。チョコとかカスタードとかあるぞ」

「先生ね、仕事で瀬戸内海の方に行ってたんだって」

「瀬戸内の離島をまわって、医療事情を取材して周ってきたんだ」

「そうですか……」

たまきはお菓子には手を付けない。

「……なんか本当に元気ないね?」

「どれどれ?」

と言って舞は、たまきの額に手を当てる。

「うん、熱はないな」

「はい……。熱はないです……」

「いや、だから冗談だってば」

舞はそういうと、志保の方を見て笑った。

「で、若き哲学者殿は、今度はなにで悩んでるんだ?」

舞が冗談めかして言った。

「舞先生は……」

たまきは下を向いたままぽつりと言った。

「……自分のやってることが間違ってる、って思ったことはありますか?」

「なるほど。つまりお前は、自分が間違ったことをやってるって思って、悩んでるんだな」

たまきは無言で頷いた。

「どうしたの? 誰かに何か言われたの?」

志保の問いかけにたまきは答えない。まさか「あなたのカレシに言われました」なんて言えない。

「なるほどなるほど」

と舞は腕組みをした。

「そりゃあたしにだってあるさ。自分は間違ったことしてるなぁ、って思うことは」

「それは……どんな時でしょうか」

たまきはやっと、舞の顔を見た。

「どんな時って、そりゃお前、潰れたキャバクラに勝手に居座ってる野良猫どもの相手してる時だよ。大人として、こいつらを黙認してていいのか、親元に帰してやるのが常識ある大人のやることなんじゃないか、ってな」

それを聞いて、たまきは言葉に詰まってしまった。

「それで……、舞先生は結局どうし……」

「どうもこうもあるかよ。見ての通りだよ。スルーだよ、スルー」

そう言うと、舞は志保とたまきの顔を見る。

「どいつもこいつも、初めて会った時より少し表情が柔らかくなって、そんなの間近で見てたら、『お前ら家に帰れ』なんて言えるかよ」

舞はお菓子の箱から一つ、もみじ饅頭を取り出して、頬張り始めた。

「お前らが家賃払いたくないからここにいたい、ってだけだったら、あたしがとっくに警察呼んでるよ。でも、お前らは『ここにいたい』っていうよりは、『帰りたくない』ってタイプだろ? とにかく家に帰りたくなくて、そんなお前らの居場所がここだけだった、そういう事だろ? そんな奴らに『家に帰れ』とは言えねえぇよ。たとえ、大人として間違ってるといわれてもな」

『帰りたくない』、ふと、その言葉がたまきには引っかかった。

昨日、亜美に「間違ってるなら解散するか」と問われた時、たまきはそれだけは嫌だと思った。それは舞の言うとおり、とにかく家に帰りたくないからだろう。今朝から何度考えても、やっぱり答えは「帰りたくない」だ。

でも、それだけだったのだろうか。確かに、はじめは「家に帰りたくない」という一心で、この「城」にしがみついていたはずなのだが。

「でも、やっぱり私たちって、間違ってますよね……」

そういったのは志保だった。

「先生はいろんなこと考えて黙認してくれてるんでしょうけど、実際に不法占拠してる私たちって、やっぱりただのわがままなんじゃ……」

「そりゃ、そうだ」

そういいながら、舞は二つ目のまんじゅうを手に取ると、志保とたまきにも食べるように促した。二人もまんじゅうに手を伸ばす。

「でも、家には帰りたくない、だろ。たまきなんか、家に帰ったらすぐ死んじゃいそうだもんなぁ」

舞は冗談めかして言ったが、たまきにはどうにも冗談に聞こえない。

「自分たちが間違ってる、悪いことをしてる、ってわかってるなら、結構だ。その気持ち、忘れるんじゃないぞ」

「でも……」

たまきが口を開いた。

「間違ってることをしてるのに、そのまま何もしないのは、もやもやします……」

「そりゃそうだろ」

舞は手の中で、まんじゅうを包んでいたビニール袋をクシャクシャと丸めた。

「悪いことをしてりゃもやもやするのはしょうがないだろ。悪いことしてるのに、心はすっきりしたいだなんて、都合のいいこと言うんじゃないよ」

そう言って舞は、紅茶の入ったカップに口を付けた。

「ま、『自分は間違ってるんじゃないか』『自分が悪いんじゃないか』ってもやもやは大事にしとけよ。自分が正しんだ、自分は間違ってなんかないんだ、って思いこむ大人に限って、ただ単にそういった感覚を忘れてるだけだったりするからな」

舞はカップをテーブルに置く。

「ほんとはみんな、そんなもやもやを抱えて生きてるはずなのに、気づいてないふりしてるだけさ。お前らは間違ったことをしている。だけど、正しいことをすることができない。だったら、そのもやもやをしっかりと感じながら、生きていくしかないだろ。そしていつか、自分たちの間違いの始末を、きっちり付けられる大人になることだな」

 

そこに、ドアが開いて亜美が入ってきた。

「あれ? 先生来てたんだ?」

亜美の声を聴いた途端、たまきはなんだか自分がそこにいてはいけないような気がして、慌てて立ち上がった。

「あ、あの、私、屋上にいます……!」

そういうとたまきは、亜美とは目を合わせることなく、亜美の脇をすり抜けて、「城」から出ていった。

「たま……」

と亜美が言いかけたが、扉が閉まると、その声も聞こえなくなった。

 

写真はイメージです

屋上からたまきは歓楽街を眺める。ここからは、歓楽街の街並みも、駅前のデパートも、線路の向こうの都庁も見える。ここに立つと、この街のすべてを掌握してるかのような錯覚と、世界中のだれからも見つからないように隠れ住んでいるという実感が、同時に襲ってくるのだから、不思議だ。

結局、たまきの中のもやもやとした罪悪感は、消えることがなかった。

それもそのはずだ。家出とか、不法占拠とかは、どうあがいても正当化できないのだ。そうである以上、「たまきがしていることは間違っている」というのは、動かしがたい事実なのだ。罪悪感を感じない方が、狂っているのだ。

きっとたまきみたいな不良品は、この先もこんなもやもやをいっぱい抱えて生きていくんだろう。それは罪悪感だけじゃない。劣等感、屈辱、嫉妬、焦燥、不安、憂欝、孤独……。他人と自分を比べ、現実に見下され、その度にみじめな思いをして、いろんなもやもやを抱えて生きていくのだろう。積み重なったみじめな思いを、神様がパン祭りのお皿と交換してくれるわけでもない。積み重なったみじめさなんて、何の役にも立たない。

「生きているという事は、ただそれだけで素晴らしい」というけれども、ただただみじめな思いを重ねるだけの人生でも、それでも生きることは素晴らしいのだろうか。

もしかしたら、たまきが今まで言葉には出せずに、手首から血を出して訴えていたのは、このことだったのかもしれない。みじめな思いを積み重ねるだけの人生でも、生きていく意味なんてあるのか、と。

そして、そんなまさに血を吐くような問いかけに、答えてくれた大人はいなかった。

やっぱり学校は、本当に大切なことに限って、教えてくれないのだ。

つづく


次回 第31話「桜、ところにより全力疾走」

お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第29話「パーカー、ときどきようかん」

田代とよりを戻した志保、花見の準備を進める亜美、そして、春に着る服がないたまき、今回はそんなお話。


第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

勝負服、と言われてたまきが最初に思い浮かんだのは迷彩服だった。自衛隊の人が迷彩服を身にまとい、自動小銃を構える光景だ。勝負する人が誰かと勝負するときに着ているのだ。立派な勝負服のはずだ。

ところが、志保の言う勝負服は、たまきがイメージする勝負服とはずいぶん違っていた。志保の言う勝負服とは「雑誌の表紙に載ってそうなオシャレな服」のことを言うらしい。さっきから衣裳部屋のクローゼットからいくつかの服を取り出しては、首をひねる、その繰り返しだ。どの服もオシャレな服なのだが、たまきの乏しいファッション語彙力では「どれもオシャレ」以上の細かい描写ができない。

「うーん、違うんだよなぁ。もっと優しい感じで、それでいて媚びない強さが欲しいっていうかさぁ」

と志保はなんだか指揮者が演奏者にアドバイスするかのようなことを言っている。

「つーかさ、なんで勝負服が4着もあんだよ? ここぞってときに着る服だろ? 普通1着だろ?」

志保の様子を見ていた亜美が口を出す。最初は志保の服選びに楽しそうに付き合っていたが、志保のあまりの優柔不断さに飽きてきたらしい。

両手に服のかかったハンガーを持つ志保は、くるりと亜美の方を向いた。

「あのね、亜美ちゃん。イマドキね、ウルトラマンだって相手や状況に合わせていくつもの姿を使い分けて戦うんだよ?」

志保の言いたいことはどうやら「勝負服は複数あっていい」ということらしい。

それにしても、とたまきは不思議に思う。

志保はこれからデートに行く予定のはずだ。なのに、なぜ「勝負服」だなんてものが必要なのだろう? たまきの認識では、デートというのは恋人同士が仲良くする行動のはずだ。いったい誰と勝負するのだろう?

でも、たまきたちが住む町は日本最大の歓楽街であり、治安もあまりよくないと聞く。もしかしたら町で悪者に絡まれて、戦うことになるのかもしれない。たまきが一人で街を歩いているときはそんな人に襲われたことはないけれど、一人で歩いているよりデートしている人の方が、なんだか絡まれやすそうな気がする。

でも、それだったらやっぱり迷彩服の方がいいんじゃないだろうか。

ちなみに志保は「勝負下着」なるものも持っているらしい。下着で勝負する人だなんて、たまきはお相撲さんぐらいしか思い浮かばない。あれ? お相撲さんってパンツはいて戦うんだったっけ?

「亜美ちゃんだってさ、こんなかにいくつもあるんじゃないの? 勝負服」

志保はクローゼットの中にずらりと並ぶ亜美の服を見て言う。

「勝負服?」

亜美も自分の服を見るが、

「うーん、ガキの頃の空手大会で、大一番ってときは必ず道着の下に学校の体操着着こんでたけど、勝負服っていうとあれくらいかなぁ」

と亜美は、本当に勝負するときに着ていた服装を挙げた。

「ねえ、亜美ちゃんはどれがいいと思う?」

志保は両手のハンガーをグイっと亜美に押し付けて尋ねる。

「知らねーよ。お前の勝負服なんだから、お前が着たい服を着ればいいだろ?」

亜美の言葉を聞いた志保は、何かはっとしたように目を開いた。

「そうだよね……」

そういうと志保は手に持った二つのハンガーに目を落とすが、すぐさま、

「あー、でも、どっち着よう~?」

とふりだしに戻ってしまった。

そんな志保を横目に、たまきは五日ぶりに出かける準備を始める。とはいえ、化粧をすることもなければ、服で悩むこともない。いつものジャンパーを羽織って、いつものニット帽をかぶって、いつものリュックを背負って……

そこで志保が声をかけた。

「たまきちゃん、そのジャンパー着てくの?」

「……はい」

大しておしゃれでもないジャンパーだけど、これしかないのだから、これを着ていくしかない。

「もう3月なんだし、今日は特にあったかいから、そのジャンパーじゃちょっと暑いんじゃない?」

「そうですか」

そういってたまきはリュックを下すと、ジャンパーを脱いだ。

そのまま再びリュックを背負い、外に出ようとする。

「ちょっと待って。何も羽織っていかないのはさすがに寒いんじゃないかな」

「そうですか」

そういうとたまきは、さっきのジャンパーを羽織った。

「いや、だから、そのジャンパーじゃ暑いんじゃ……」

「そうですか」

たまきは再びジャンパーを脱いだ。

「でも何も羽織らないのは……」

「そうですか」

と言ってたまきが再びジャンパーに手を伸ばした時、亜美が口をはさんだ。

「二択かよ!」

ジャンパーに手を伸ばしたまま、たまきの手が止まる。そのままたまきは、亜美の方を見た。

「そのジャンパーじゃ暑いっつってんだろ!」

「でも、何か羽織った方がいいって……」

「だから、そのジャンパーより薄手のなにか、だろ! なんでそのジャンパーを着るか着ないかの二択なんだよ!」

そんなこと言われても、たまきは「上着」と呼べるものをこのちょっと厚手のジャンパーしか持ってない。

「しょうがないなぁ。じゃあ、あたしの貸してあげる」

そう言って志保は両手のハンガーを放り出すと、クローゼットの中をガサゴソとあさる。

「え……でも……志保さんの服じゃ、サイズが合わないんじゃ……」

「上着だったら別にサイズがぴったりな必要ないって」

そう言って志保はクローゼットの中から何かを選び取った。

「これなんかいいんじゃないかなぁ」

志保が選び取ったのは、鮮やかなピンクのカーディガンだった。

「今日みたいなあったかい日は、これくらいがちょうどいいって」

舞い散る桜のような鮮やかなピンク色を目にしたたまきは、思わず後ずさった。

「あの……えっと……それ、着なきゃダメですか……?」

「なんで? かわいいじゃん。きっと、似合うよ」

志保は保険の外交員のような笑顔だ。

「でも……その……その服、なんか……女の子っぽくないですか……?」

「たまきちゃん、女の子じゃん」

「そうなんですけど……そうなんですけど……」

たまきの中では「生物学的に女性であること」と「女の子っぽい格好をすること」は別なのだ。

誰が決めたか知らないけど、「女の子っぽい」はどういうわけか「華やかであること」らしい。フリフリのナントカとか、ヒラヒラのナニナニとか、ハナガラのアレコレとか、華やかすぎてもういっそ花そのものになりたいんじゃないかと思えるような服が「女の子っぽい」と呼ばれる。

たまきは花になぞなりたくないのだ。あんなに目立って、虫も人もわんさか集まってくるようなものにはなりたくない。

葉っぱでいい。注目されることもなく、ひらりと落ちて、朽ち果てる。そうだ、葉っぱでいい。

そう考えると、やっぱり迷彩服のような「隠れやすい服」の方がたまきには似合っているのかもしれない。

問題は、迷彩服はジャングルとかで隠れるために着るのであって、街中で迷彩服を着たら、むしろ目立つということだ。

あと、今度は男の子っぽくて、たまきには似合わない。

 

写真はイメージです

結局、たまきは何も羽織ることなく外に出たのだが、やっぱり寒い。ニット帽をいつもよりも目深にかぶってみるけれど、寒さの解決にはならなかった。素直に志保のカーディガンを借りればよかったとも思うけど、ピンクのカーディガンを着て街を歩くとなると、今度は心が寒くなる。たまきに暖色は似合わないのだ。

ふと、たまきは足を止めて、人の流れに目を凝らしてみる。こうやって見てみると、実に様々な服装の人が街を歩いているものだ。

ちょっと前までは寒色系のコートを羽織った人が多かった。冬になるとなぜか服の色も落ち着いたものになる。

それから少し暖かくなって、街を行く人のファッションも、少し華やかになり、バリエーションも増えた気がする。

待ちゆく人の一人一人を見ていると、みんなおしゃれだ。それは単に、おしゃれな服を着ているというだけでなく、髪型が凝っていたり、染めていたり、毛先の一本一本に気を使っていたりする。さらには、ピアスだの、ネックレスだの、指輪だの、アクセサリーをつけている人もいる。

サラリーマンと思しき男性がたまきの横を通る。ごく普通のスーツで、こういう真面目そうな人はやっぱりおしゃれとかしないのかな、と思ったけれど、よく見たらネクタイが黄色地にペンギンの絵が描かれたものだった。スーツという限られた中での、精いっぱいのおしゃれなのかもしれない。

なんだかこの町で自分だけおしゃれじゃないような気がしてきた。そもそも、東京というおしゃれな街は、おしゃれじゃない人が歩いていい場所ではないんじゃないだろうか。たまきみたいなおしゃれじゃない子が東京を歩くと、「おしゃれ警察」がやってきて、「こいつ、おしゃれじゃないぞ! 逮捕する!」とどこかへ連行されてしまうのではないだろうか。

学校の授業に「おしゃれ」なんてないのに、なんでみんなおしゃれに服が着れるのだろうか。たまきは、顕微鏡の使い方やリコーダーの吹き方よりも、友達の作り方とか、おしゃれな服の着方を教えてほしかった。どうして学校はいつも、本当に必要なことを教えてくれないんだろう。

 

街ゆくおしゃれな人たちとすれ違い、その都度なんだか肩身の狭い思いをしながら、たまきはあることに気づいた。

「勝負服」というのはもしかして、街を歩く人全員に対して勝負する服なのではないだろうか。

なにせ、デートをするときに着る服なのである。女の子も男の子もひときわおしゃれな服を着たいはずだ。

なのに、街で自分よりもおしゃれな人とすれ違って、恋人がそっちの方に見とれていたら、悔しいじゃないか、たぶん。街ですれ違う誰と比べても勝てるほどのおしゃれな服、それが勝負服なのではないか。

 

写真はイメージです

すれ違う人とのおしゃれ勝負に負けっぱなしのまま、たまきはいつもの公園にやってきた。うつむいたまま歩くが、うつむいているのは別におしゃれ勝負に負けっぱなしだからではない。いつもたまきはこんな感じだ。もしかしたら、前を向いて歩くと自分が負けっぱなしなことに気づいてしまうから、無意識にうつむいているのかもしれない。

いつもの階段までとぼとぼと歩き、腰かけて絵を描き始める。

絵を描き始めると、季節の変化というものにも気づいてくる。この前まで公園の木々は葉を落としていたが、いつしか葉っぱが生えているだけでなく、徐々につぼみや花も芽吹いている。あとしばらくしたら、お花見シーズンになるのだろう。

お花見。たまきには関係のないイベントだ。

しばらくすると、後ろから声が聞こえた。

「お、たまきちゃん、やっと来たな!」

ミチの声である。

「来てますよ」

たまきはミチの方を見ることなく答える。

「たまきちゃん、ここしばらく来なかったでしょ?」

「まあ」

「なんで来なかったんよ」

「……まあ」

数日外出しないことぐらい、たまきにとっては大した問題ではない。ミチのように、用もないのに外をうろちょろしているほうがおかしいのだ。

「寒くないの、それ?」

おそらくミチは、たまきの服装を見ていっているのだろう。

「……まあ」

ミチはいつものようにたまきのすぐ横に腰かける。

たまきもいつものように、すっと横に動いて間隔をあける。

いつものように、たまきの隣でギターケースを地面に置く音が聞こえる。

いつもならここで、ケースをあけてギターを取り出す音が聞こえるのだが、たまきの鼓膜に入り込んでいたのは、紙袋が立てるがさがさという音だった。

たまきはその音を聞いた時、驚いた猫のように、反射的にミチとの間隔をさらにあけた。前にもこの音に聞き覚えがあったからだ。

前にこの紙袋のがさがさという音を聞いたのは、今からひと月ほど前だった。確かバレンタインデーで、ミチから執拗にチョコをねだられた時だ。

今度はなんなんだろう。いったい何をねだられるんだろう。

たまきは毛を逆立てた猫のように、この上ない警戒心をもって、ミチの方を見た。

「たまきちゃん、今日、何日だかわかる?」

「……さあ」

「三月十八日だよ。じゃあ、4日前は何日だったでしょう」

「三月十四日」

「大正解!」

この男はたまきのことをバカにしているのだろうか。いくらたまきが学校に行ってないといっても、引き算くらいできる。

「では、三月十四日は何の日だったでしょうか?」

ミチがにやにやしながら尋ねてくる。

「……誕生日ですか?」

「いや、それ、先月だから!」

「……ですよね」

つい2週間ほど前、ミチの誕生日をなんとかスルーしたのだ。こんなに早く次の誕生日が来るわけない。

「先月、バレンタインデーだったでしょ?」

「……はい」

「じゃあ、今月は何?」

「……ひなまつりですか?」

三月のイベントだなんて、それくらいしか思い浮かばない。

「ホワイトデーだよ、ホワイトデー」

なんだっけ、それ。

ホワイトデーとは、バレンタインデーにチョコをもらった男子が、女子にお返しをする日である。バレンタインデーは古代ローマに起源をもつのだが、ホワイトデーの起源はごく最近の日本にある。歴史の差が表れてしまっているのか、バレンタインデーに比べると、いまひとつパッとしない。

これまでたまきはバレンタインデーというイベントをスルーしてきた。必然的に、ホワイトデーも関係ないことになる。

ところが今年は、何の気の迷いか、ミチに百円のチョコをあげてしまった。

義理チョコだし、何か見返りを期待していたわけではないので、そのまますっかり忘れていたし、ましてやホワイトデーなんてイベントが自分にやってくるだなんて思っていなかったのだ。

そもそも、ミチに「ホワイトデーにお返しをする」という発想があったことに驚きだ。

「あの……その紙袋の中身が……ホワイトデーのその……」

「そうだよ」

たまきはこれまた最大の警戒心をもって紙袋を凝視する。茶色に紙袋に、どこかのお店のロゴが書いてあるが、何のお店なのかたまきにはわからない。

「そんなビビんないでよ。姉ちゃんと二人で選んだんだからさ」

それを聞いてたまきの警戒心が跳ね上がった。さっきのが最大だと思っていたが、まだ上があったとは。

ミチのお姉ちゃんは、たまきのことをネコに似てると言ってからかってくるような人だ。紙袋の中身はもしや、ネコの餌とか、ネコの首輪とかではないのか。

ガサゴソという不安な音とともに、紙袋の中身があらわとなった。

第一印象は「青い布」だ。たたまれた青い布の塊だ。

「薄群青だ……」

そう、たまきはつぶやいた。

「え?」

「これ、薄群青って色ですよね」

「そうなの? ブルーだと思ってた」

たまきは学校にいたころ、美術部にいたので、色にはちょっとだけ詳しい。一口に「青」といっても濃淡いろいろあるが、これは「薄群青」という色に近い。

ミチがたたまれた布を広げ、徐々にその姿があらわとなる。

洋服だ。薄群青の、長袖の洋服だ。

服の真ん中の部分がぱっくりと開いて、チャックがついている。たぶん、ジャンパーと同じように、服の上から羽織るタイプの上着なのだろう。

襟首のところにはフードがついている。

「これって……ジャンパーですか?」

「いやいや、パーカーだよ」

「ぱーかー……?」

「ヘンな色の名前は知ってるのに、パーカーは知らないの? ヘンなの」

そういうとミチはたまきの背後に回り、薄群青のパーカーをたまきの肩にかける。たまきはされるがままにそでを通す。

「姉ちゃんが、たまきちゃんは絶対このサイズだって言ってたんだけど、サイズ大丈夫かな」

たまきはパーカーの袖や裾を見た。たまきには少し大きかったようだが、上着ならちょっとくらい大きくてもよいのかもしれない。

「お、似合う似合う。かわいいじゃん」

そういって、ミチは笑った。

何より、パーカーはあったかい。亜美の言っていた「ジャンパーより薄手の何か」にぴったりだ。

「あの、これっていくらしたんですか……」

「えっと、二千円くらいかな?」

「二千円!?」

たまきにとっては、ずいぶんと大金だ。

「あの……こんな高いの、もらえません……!」

「なんでよ?」

「だって、私があげたチョコ……、百円ですよ……」

「だからさ、来年のバレンタインとか誕生日とかでお返ししてくれればいいから」

「来年……ですか……」

来年なんて生きてるかな、とたまきは首をかしげる。

「これで来年、プレゼントあげる理由がない、なんて言わないでしょ」

たまきはしばらく黙っていた。

「その……とりあえず高いものあげておけば私が喜ぶなんて思ってるんだったら……心外です」

たまきはミチの目を見ることなく言った。だけど、パーカーの暖かさはどうにも否定できなかった。

 

写真はイメージです

かえりみち。

たまきにしてはめずらしく、たまきにしては本当にめずらしく、とぼとぼと下を向くことなく、まっすぐ前を向いて歩いていた。

行きと帰りでたいした違いは無い。もらったパーカーを羽織ってみただけである。薄群青の無地で地味なパーカーだ。

たったそれだけの違いなのだけれど、少しだけ何かのレベルが上がったような気がして、道行くおしゃれさんとすれ違っても気後れしない。それでもおしゃれ警察が来たら、「こいつ、もらったパーカーを羽織ってるだけだぞ!」と逮捕されてしまうのだろうか。

ふと、たまきは立ち止まり、ショーウィンドウに映る自分を見ると、ニット帽を脱いでみた。また何かのレベルがちょっとだけ上がった、様な気がした。

経験値を上げてちょっとだけレベルが上がった勇者の気分で、たまきは太田ビルの階段を登る。5階の「城」のドアの前に立ち、ドアノブに手を伸ばそうとしたときに、少し上から声をかけられた。

「たまき、こっち」

屋上へと続く階段の中ほどから、亜美が手招きしていた。手には黒っぽい何かが握られている。

言われるままに、たまきは屋上へと上がった。洗濯物が干してある。他には紙袋が置いてあるだけで、特段何か変わった様子は無い。

「中、入っちゃだめなんですか?」

たまきは亜美に尋ねてみた。

「今、ヤサオ来てんだよ」

ヤサオというのは、志保のカレシの田代に亜美が勝手に付けたあだ名である。

「志保がどういうところに住んでるのか見ておきたい、だってよ」

そういうと亜美は、紙袋の中から四角い何かを取り出して、たまきのほうに投げてよこした。たまきはあわててキャッチする。

「な、なんですか、これ」

「ヤサオのお土産。ようかんだってさ」

たまきが包み紙をはずすと、黒っぽいようかんが顔を出した。

カノジョの家に来て、お土産を買ってくるだなんて、大人だなぁ、とたまきはぼんやりと思う。

「何で入っちゃだめなんですか?」

「何でって、キマズイだろ」

そういって、亜美は舌打ちをした。

なるほど、とたまきは納得した。

「城」に平気でオトコを連れ込んだり、エッチなことをする亜美でも、「気まずい」と思うことがあるらしい。

だけど、たまきには、それ以上に何かあるような気がした。

「亜美さんは……、えっと、田代って人のことが、苦手なんですか?」

「キライだね」

亜美は屋上の柵のむこうに広がる青空を見ながら言った。

「おもしろくねーじゃん、あいつ」

どういう意味なのか、たまきには今一つよくわからなかった。

亜美は、足元の紙袋を拾う。

「こんなもの買ってきやがってさ」

「……気が利きますよね」

「気が利きすぎて、ヒクわ。ウチと大して年変わんねーのによ」

亜美は紙袋をパンパンとたたいた。

「志保に言わせるとさ、そういう時は素直にもらっておけば相手も喜ぶし、自分もうれしいつーんだけどさ、オトコから高いものもらってキャッキャと喜ぶオンナなんて、オンナはオトコからなんかモノもらって当然、って思ってるってことだろ? そういうオンナがよ、オトコにナメられんだよ。とりあえず、高いものあげとけば喜ぶって感じでな」

ぎくり、とたまきの中から、関節がずれたような音がした。

「で、でも、亜美さんだって、男の人からビールとかもらってるじゃないですか」

「そりゃそうだろ。ウチ、十九だから買えねーんだもんよ」

「デートに財布持ってかない主義だって……」

「これだからお前はおこちゃまなんだよ」

亜美の言葉に、たまきは不服そうにようかんをかじる。

「『おごらせる』と『おごってもらう』は全然違うんだよ」

たまきには、その違いがよくわからない。

「それにしても、このようかん、うまいな」

亜美はそう言ってようかんを頬張った。

「ところでお前、そのパーカー、どうした」

たまきよりもはるかにおしゃれな亜美が、たまきの服装が出かける前と少し変わっていることに気づかないはずがない。

「……まあ」

「ふーん、ウチの好みじゃねぇけど、まあ、いいんじゃね? いくらしたんよ」

「……二千……円……くらい……」

「金、足りなくなったらエンリョなく言えよ。お前は、金使わなさすぎなんだからな」

どうやら亜美は、たまきが適当に買ってきたと思ったらしい。たまきとしても、そのほうがいい。

 

「ああ、ここにいたんだ」

そういって、田代が一人、屋上へと階段を上ってきた。

「ごめんね。気を使わせちゃったね。もう帰るから」

「あっそ」

亜美は田代のほうを見ることなく、何やら携帯電話をいじっている。

亜美がどういう理由で田代のことが嫌いなのか、たまきには今一つよくわからない。でも、いくら嫌いだからってそれを態度に出さなくてもいいんじゃないか。たまきだってよく、ミチに「あなたのことは嫌いです」と言っているけど、だからと言ってあからさまな態度をとったりはしない。

たまきはそう思ったのだが、亜美は良くも悪くも、嘘がつけない性格なのだろう。良くも悪くもごまかせないのだ。

もちろん、亜美だってうそをつくことぐらいあるだろうし、男性の前で猫を被ることがあるのもたまきは知っている。一方で、ああこいつキライだなぁ、と判断したら、そういったことをぱたりとやめてしまうのだろう。おそらく、意識してやっているのではなく、自然とスイッチが入らなくなるのではないか。

そういう時はたまきがフォローに回れればいいのだが、たまきはたまきで、知らない人全般が苦手なのである。

結果、柵にもたれて背中を向けたままの亜美と、目を合わせられないたまきという、なんとも気まずい空気が生み出されてしまった。

そんな空気に気づいているのかいないのか、田代は二人のほうへと近づいてくる。

「えっと、亜美さんでよかったんだよね。で、そっちの子は……」

田代がたまきのほうを見る。そういえば、田代にちゃんと名前を言ったことがなかった。

答えたのは、たまきではなく亜美だった。

「ん? ああ、こっちはたまき。うちのザシキワラシ」

とうとう動物ですらない、妖怪扱いされてしまった。

「二人はここで志保ちゃんと一緒に暮らしてるんだよね?」

「……はい」

事実なのに、たまきはどこか自信なさげに答えた。

「えっと、二人はどれくらい勉強してるの?」

田代の言葉に、亜美とたまきは、きょとんとした感じで互いに顔を見合わせた。

「ベンキョー?」

「……ですか?」

「何の?」

亜美もたまきも、勉強なんてここ何年もしていない。

今度は田代がきょとんとした感じで尋ねた。

「何のって、薬物依存や違法薬物に関する勉強だよ」

そこで二人は、もう一度顔を見合わせた。

「え? おまえ、なんか勉強とかしてる?」

「いえ……別に……」

それからたまきは言い訳するように、特に田代に対して言い訳するように、付け足した。

「その……舞先生……知り合いのお医者さんに難しいことは任せてるので……」

「まあ、基本ウチら、先生に丸投げだよなぁ」

たまきはどこかで、舞の胃がキリキリときしんだような気がした。

「そうなんだ」

田代はあまり納得していないようだ。

「でも、薬物依存の患者と一緒に暮らすんだったら、そういう勉強も必要なんじゃないかな。本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思うし」

勉強だなんてそんなこと、たまきは考えたこともなかった。

それともうひとつ、たまきの心に強く引っかかった言葉があった。

「本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思う」

今のたまきたちの生活は間違っている、遠回しにそういわれたような気がした。

「ベンキョーね、まあ、そのうちな。ああ、ようかん、うまかったよ。ありがとな」

田代が帰るまで、けっきょく亜美は、一度も田代を見ることはなかった。

 

「送信……っと」

亜美は携帯電話をぱたりと閉じると、たまきの方を向いた。

「たまきも来るだろ、花見」

「お花見……ですか……?」

「そ、花見。再来週くらいになるかな」

どうやら、携帯電話でやっていたのは、お花見の企画だったらしい。

どうせまた、亜美とつるんでるガラの悪い男たちが集まるのだろう。テレビで見る「お花見で騒ぐ、迷惑な若者たち」の絵面そのままの光景になるに違いない。

正直、そんなお花見、行きたくない。

いや、これがもし、田代みたいな人当たりのよさそうな人ばかりが集まるお花見だったとしても、やっぱりたまきは参加するのをためらうのだろう。

行ったところで、どうせなじめやしないのだから。

それでもたまきは、

「……まあ」

というあいまいな返事しかできない。

たまきも少しは亜美を見習って、嫌なものは嫌だとはっきり示せた方がいいのではないだろうか。

そんなことを考えてみるも、誘ってくれた亜美に悪いとか、断ったら嫌われちゃうんじゃないかとか、いろんなことがよぎってどうしても「行きたくない」とはっきり言えない。

そもそも、たまきのようにずっと友達がいなかった子にとって、友達から誘われる、というのはとてもありがたい、夢のようなことなのだ。断れるはずがないじゃないか。

「ところでさぁ、たまき」

柵にもたれたまま亜美は、たまきのほうを見ていった。

「お前にとって、志保って何よ」

「え、え?」

急になんだか恥ずかしいことを聞かれて、たまきは戸惑いながらも答えた。

「私にとって……志保さんは……志保さんです」

たまきにはそれしか答えが出てこなかった。

「だよなぁ。志保は志保だよなぁ」

「……亜美さん、その、ヘンなこと聞くかもしれないですけど……」

「ん? どした?」

そこから先の言葉がたまきには出てこなかった。

「おい、言えよ。気になるだろが」

亜美は体ごとたまきのほうを向くと、腰をかがめてたまきの目をのぞき込む。

「なんだよ。気にすんなって。どうせおまえの言うことは、いつもヘンなんだから」

「その……」

たまきは、いつもよりさらに自信なさげに言った。

「……私たちがここで暮らしていることは、間違っているんでしょうか」

不法占拠、つまり家賃を払っていない。おまけにそのメンバーが、援助交際娘と、薬物依存患者と、家出少女である。やっぱり、こんなの間違っているんじゃないだろうか。

「そんなの、百人に聞いたら、百人が間違ってるっつーに決まってんだろうが」

「やっぱり……」

亜美は煙草を一本取りだし、火をつけた。

「……だから?」

「え?」

たまきは亜美を見上げる。

「ああ、ウチらがやってることは間違ってるよ。だから? じゃあ、解散するか?」

「そ、そんなの……!」

こまる。ここが解散になったら、たまきはどこに行けばいいというのか。ここにいられなくなったら、いよいよ死ぬしかないじゃないか。

「な、ウチらの生き方が間違ってようが、それでしか生きていけねぇんだったら、そう生きてくしかねぇじゃねぇか」

亜美は携帯灰皿にたばこをぎゅっと押し付けると、灰皿のふたをぱたりと閉じた。蓋に断ち切られた煙が、何か断末魔のようにふわりと漂い、消えた。

つづく


次回 第30話「間違いと憂欝の桜前線」

自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

田代に別れを告げた志保はがっつりと落ち込んでしまう。そんな志保の周りで、亜美が、たまきが、舞がそれぞれ動く。「志保編三部作」の最後の「あしなれ」第28話、スタート!


第27話 「ラプンツェルの破滅警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「おい、いいのか?」

亜美の問いかけに志保は小声で

「いいの……」

とだけ答えた。志保は亜美も、そして田代の方も見ることはなく、その場を離れた。

志保が田代に「すべて」を話すのを、少し離れたところから亜美とたまきも聞いていた。亜美とたまきにも聞いてほしかったのと、志保が一人で田代の前に立つ勇気がなかったのがその理由だ。

「ちっ」

亜美はわざと聞こえるように舌打ちをすると、ズボンのポケットに手を突っ込んで志保の後を追った。

たまきは、田代の方を見やった。

事態が飲み込めない、そんな表情だろうか。

まあ、当然だろう。いきなり呼び出されて、あんな話をされて話を飲み込め、というのはいくらなんでも無理がある。

「あ、あの……」

たまきは一歩前に進み出て、田代に声をかけて、それからすぐに、心の底から後悔した。「知らない人に話しかける」というのが、たまきは一番苦手なのだ。

声をかけてしまってから後悔し、たまきは田代から目線を外す。

一方、声をかけられた田代は、たまきの方を見た。

「君は……志保ちゃんの友達……?」

まあ、田代から見て志保の後ろの少し離れたところでずっと話を聞いていれば、いくらたまきのように影の薄い子でもその存在に気付くだろうし、友達なのかな、と思うだろう。

もう引き返せないと悟ったたまきは、

「あ、あの……」

と言ってから一度深呼吸をして、言葉をつづけた。

「志保さん……その……田代……さん……にお話しするまで……すごく悩んでました……。そ、それだけわかってあげてください……」

たまきはほとんど田代の目を見ることなくそれだけ言うと、くるりと背を向け、まるで悪いことでもしたかのように、小走りにその場を立ち去った。人と話すことよりも、その場から逃げ出すことの方が得意なたまきである。

人気のない路地裏で、少し先を歩いていた亜美に追いつき、横を並んで歩きだす。

「ん? ヤサオと何か話してたのか?」

「べ、べつに……」

ニット帽をかぶったたまきは、もうその話題には触れられたくないように下を向いた。

「まさか、志保がヤサオをフッたのをいいことに、ヤサオのことを奪おうとか……」

「そんなわけないです」

たまきは即座に否定した。

たまきは前方に目をやる。亜美とたまきより5mくらい前を離れたところを、志保が歩いていた。右手にはハンカチが握られていて、時おり目元にそれを押し当てている。

「あ、あの……さっきの志保さんの話なんですけど……」

たまきは亜美の横を歩きながらも、亜美と目線を合わせることなく言った。

「私にはよくわからなかったです……」

学校に行けて、友達がいて、カレシがいて、志保はそれが「怖い」という。

でも、結構な話ではないか。

「その……自慢話にしか聞こえなかったというか……」

あんまり志保のことを悪く言いたくはないのだが、たまきからしてみればうらやましい話でしかなかった。なんで志保はわざわざ自分で「壊したい」なんて思ったのか、よくわからない。

それを聞いていた亜美は、最初は黙っていたが、やがて笑い出した。

「はははは。なるほど、自慢話か」

「……やっぱり変ですか?」

亜美は前方を歩く志保と十分に距離をとっていることを確認すると、少し声のボリュームを落とした。

「まあ、自慢話って言ったら、そうだよなぁ」

たまきは黙ったまんま答えない。

「ま、世の中の悩みっていうのは案外、他のヤツが聞いたら自慢話かもしんねぇよな」

亜美はそう言って笑うと、たまきの方を見る。

「だってさ、仕事の愚痴もさ、仕事ないやつが聞いたら自慢話じゃん。恋人の愚痴も、恋人いないやつが聞いたら自慢話じゃん。子育ての愚痴も、子供いないやつが聞いたら自慢話じゃん」

「……まあ」

「でさ、そういう話するやつにさ、『え? なに? 自慢?』って聞き返すじゃんか」

「え……あ……そうなんですか……」

そこでそんな煽るような言い返し、たまきにはできない。

「するとたいていさ、『あんたなんかに何がわかんの!』って逆ギレされんだよ。は?って話じゃんか。ウチに言ってもわかんねぇって思うんだったら、最初っから相談すんじゃねーよ、バーカ!って言うわけよ」

「あ、そう思う、ってわけじゃなくて、ほんとに言っちゃうんですか……」

たぶん、実際は今より十倍くらい辛辣な言い方に違いない。胸ぐらをつかむ程度のことはしているかもしれない。

「で、何の話だっけ?」

亜美は話しているうちに興奮して、何の話をしてるのかわからなくなったらしい。

「その……、悩みってあんがい自慢話だって話です……」

「ああ、そうだった」

亜美は頭の後ろで腕を組んだ。

「だからな、悩みってあんがい自慢話だったりするんだよ」

「そうでしょうか……?」

たまきにはどうも今一つ納得できない。今日は納得できないことが多い日だ。

「そんなもんだって。……お前の悩みだってもしかしたら、うらやましいって思ってるやつがいるかもしんねぇな」

「そんなわけないです」

たまきは間髪入れずに答えた。

学校にいけない。友達がいない。ないないづくしのたまきの悩みをうらやましく思う人などいるわけない。

そう思ってから、たまきはふと、ミチのことを思い出していた。

家族とうまくやれない、家族のことが嫌い、そんなたまきの悩みが、家族のいないミチには「わからない」のだという。

それは「うらやましい」とはまた違うのかもしれない。だけど、自分の悩みが他人にとっては自慢話なのだとしたら、いくら言葉を尽くしても理解されないのは当然のことかもしれない。「お前に何がわかる」と逆ギレしてみたところで、亜美の言うとおり、そもそも最初からどれだけ言葉を尽くして他人の悩みなど理解できるものではないのだ。たぶん、たまきが志保の悩みをいまいち理解できなかったように、志保にはたまきの悩みはわからないし、亜美にもたまきの悩みはきっとわからないのだろう。

ただ一つ、たまきには理解できない理由ではあるけれども、志保は本気で苦しんでいる、ということだけはたまきにもわかった。

 

写真はイメージです

それから、二日ほどたった。

「城」の中は明かりがついておらず、消防の観点から申し訳なさそうについてる窓から、わずかに外の光が差し込む程度だ。

公園に行って絵でも描こうかと、たまきは起き上がった。ぼさぼさの髪を手櫛で整え、「衣裳部屋」においてあるリュックサックを手に取った。

そこでたまきはふと思い出す。今、この空間にもう一人いるということを。

志保はソファに腰掛け、何をするでもなく、ただそこに座っていた。

亜美は昨夜からいない。どこに行ったかもわからない。まあ、亜美はいつもそんな感じだ。

一方の志保は、いつもとは全然様子が違っていた。目はうつろで焦点が合わず、どこを見ているのかわからない。髪はぼさぼさ。染めた髪の根本は少し黒くなり始めていたが、今の志保にとってはどうでもいいことらしい。

「あ、あの……」

「……なに……」

紙やすりで雑に削り取ったかのようなか細い声で、志保は答える。

「……今日は施設に行く日じゃなかったでしたっけ……」

「……休むって電話したから……」

「……そうですか……アルバイトの方は……」

「……バイトもやめた方がいいよね……。なかなか電話できなくて……」

たまきは手にしたリュックを床に置いた。

これではどっちが引きこもりなのかわからない。

舞からは、志保を一人にするなと言われている。そうでなくても、今の志保を一人置いて出かけるなんて、たまきにはできない。亜美ならするだろうけど。

結局、たまきは黙ったまま座り続けた。志保も黙ったまんまだ。

何の会話もないまま三十分が過ぎたころ、不意に静寂が破られた。

ドアをどんどんと叩く音。次に声が聞こえる。

「おい、不法占拠の野良猫ども。誰かいるんだろ? あたしだ、開けろ」

舞の声だった。

たまきは志保の方を見た。志保はドアをたたく音と声に気付いているのかいないんか、これといった反応はない。

たまきは立ち上がると、「城」のドアを開けた。

「……こんにちは」

たまきはドアから顔を出すと、申し訳なさそうに挨拶をした。

「……おまえひとりか? 志保は?」

「……中にいます」

舞はドアをぐいっと開けると、靴を脱ぐことなくずかずかと「城」の中に入っていった。

入ってきた舞に気付いた志保は、無言で軽くお辞儀をするだけだ。

「よお。聞いたぞ。オトコをフッたんだって?」

「……まあ」

志保はなんだか、たまきみたいな返事の仕方をする。

「なんだよ。なにフッた方がこの世の終わりみたいな顔してんだよ」

「……ですよね」

志保は目線を上げることなく答えた。

「どれ、診察してやっか」

舞は、志保の向かい側にあるソファに座った。それから、後ろにいるたまきの方を向く。

「たまき、悪い。ちょっと席外してくんねぇかな。そんな長居しねぇから。その間……そうだな……古本屋とか、どっかそうだな、お前の好きそうなとこってどこか……」

舞としては引きこもりのたまきに「どこか行け」という残酷なお願いをするのにかなり気を使ったのだが、たまきは意外とあっさりと、

「わかりました」

というと、床に置いてあったリュックを手に取り、「城」の外へと出て行った。

「さて、どれどれ熱は……ないな」

舞は志保のおでこに手を当てる。

「はい……熱は……ないです」

「いや、冗談だってば」

舞は苦笑しながら、志保の額から手を離した。

「熱はないけど……こりゃ重症だな」

舞は志保の顔色をしげしげと見る。

「さて、あたしはお前の主治医だから、お前がまたクスリに手を出しそうになったら、止めにゃあならん義務がある。そんで、今のお前は明らかに精神的にやばい状態だ。よってあたしは、これからお前を診療しようと思う。あ、この場合、あたしの方から来たから、往診っていうのか」

舞はわざと明るく言ったが、志保の表情は変わらない。

「とりあえず、亜美からお前が男をフッたとしか聞いてないから、何があったのか、話してみな」

 

写真はイメージです

小さく舌打ちして、亜美は携帯電話を閉じた。

「余計なことしたかな」

舞に志保のことを話してよかったのかどうか。とはいえ、それ以上の余計なことは言っていない。亜美が舞に話したのは、単に「志保がオトコをフッて、えらく落ち込んでいる」ということだけで、亜美が聞いた志保の過去にまつわる話は一切しゃべっていない。そもそも、亜美は舞から電話で、「志保が前に恋愛相談に来たけど、あの件は結局どうなった」と聞かれたことに答えただけだ。

「シゴト」と用事を済ませた亜美は、どこに向かうでもなく繁華街の街をぶらぶらとしていた。

何気なく、ついこのあいだ志保が田代と会っていた空き地の前を通りかかる。ふと、亜美は空き地の中に、見たことのある姿を見つけた。

田代だった。田代は何をするでもなく、空き地の中に立ちすくんだまま、あたりを見渡している。

「おいおいもしかして……」

その様子を亜美は少し離れたところから見ていた。

(こいつまさか、ここにいればまた志保がやってくるんじゃねぇかって、月9みたいなことしてるんじゃねぇだろうな……)

亜美は半ばあきれた様子で田代を見ていた。

なるほど、確かに田代は優しそうな好青年である。背も高く、柔和な顔立ちだ。

だが、亜美の好みではない。正直、こんなののどこがいいんだろう、と首をかしげる。亜美の付き合うような男たちがお酒で、ミチのようなその取り巻きがジュースだとすると、こいつは水、よくてお茶といったところだろうか。

来るはずもない志保を待っているのがさすがにかわいそうになり、亜美は田代に近づいた。

「おい」

あまりに乱暴な亜美の呼びかけに、田代は自分が呼ばれたと気づかず、亜美の方を向かない。

「いや、ヤサオ、おまえだよおまえ」

ややいら立ちのこもった亜美の呼びかけで、ようやくヤサオこと田代が振り向いた。

「君は……志保ちゃんの友達の……」

田代も亜美のことを覚えていたらしい。いや、髪を金に染め上げ、冬場でも見せれるところを見せようとする亜美の姿を「忘れろ」という方が無理なのかもしれない。

「あのさ、まさかとは思うけど、ここで志保来ねぇかって待ってんの?」

「う、うん……」

田代は、少しぎこちなくうなづいた。

「志保ちゃん、今日バイト休んでて……。最後にあったのここだから、もしかしたらまた会えるかと……」

「おまえバカか」

ほとんど面識はないはずの亜美からいきなり「バカ」と浴びせられ、田代は面食らった。しかし、亜美の方は気にすることなく言葉をつづける。

「バイト休むような奴が、この辺うろついてるわけねぇだろ、バカ。そんな元気あるんだったら、バイト行ってるだろうが、バカ」

まるで語尾につける句読点のように、亜美は「バカ」と言い放つ。そのたびに田代はボクサーにビンタされたかのように、少し顔をゆがめる。

「でも、俺、志保ちゃんの家どこか知らないし……電話しても出ないし……」

「『さよなら』っつったオトコから電話かかってきて、出るわけねぇだろ、バカ。そこで出るようなら、そもそもさよならとか言わねぇつーの、バカ。つーかさ、フッた男から電話かかってきたら、かえって志保が苦しむんじゃねーかとかさ、考えねぇのかよ、バカ」

「す、すいません……」

わずかなあいだでバカの集中砲火を浴びた田代は、うなだれるしかなかった。

「……ま、いきなりあんな話されたら、わけわかんねぇよな。悪ぃ、言いすぎた」

そういうと、亜美は公園内に置かれた、大きな岩を指し示した。

「おい、ここ座れ」

そう言って乱暴に自分の横の岩を蹴っ飛ばす。

「え?」

「んだよ? 別に噛みつきやしねぇから、いいからとりあえず座れ」

 

「なるへそ」

舞はソファに座り、腕を組んで志保の話を聞いていた。

「で、お前は別れたことに納得してんのか?」

「はい……」

志保は吐息のようにつぶやいたあと、無理しているかのような笑顔で、こう付け加えた。

「たまきちゃんに言われたんで」

「ん?」

腕組みをしたままの舞は、何かに引っかかったように、志保を見た。

「たまきに言われたから別れたのか?」

「……はい」

舞は少し身を乗り出す。

「さっきの話じゃ、たまきが言ったのはあくまでも、別れる別れないを決めるのはお前じゃなくて相手だって話だろ? あいつはお前に『別れろ』なんて言ってないだろ? それが何で、『たまきに言われたから別れた』ってことになるんだよ」

「それは……」

志保は少し間を開けてから答えた。

「だって……、本当のことを言ったら、きっと彼はあたしのことを軽蔑し、別れると思うんです。だったら、自分から別れた方がいいって思って……」

「ん?」

舞はまたいぶかしむように顔をしかめる。どうにも話がつながって見えない。

舞は煙草を灰皿に押し付けると、そこから漏れ出た煙を眺めながら、しばらく考えた。

今聞いたばかりの、志保が覚醒剤に手を出した理由。

志保が田代と別れることとなった経緯。

「ふーむ……」

舞は片手でたばこを持ち、もう片手を頬に当てて考え込む。

「なるほど……」

舞は何かを一人で合点したように、再び煙草を口にした。

「おまえの問題点が、やっとわかったよ」

「私の……」

「ああ」

舞はゆっくりと息を吐いた。

「結局おまえは、何一つ自分で決めてないんだよ」

「え……」

志保は虚を突かれたように、ぽかんと口を開ける。

「どういう意味ですか?」

志保は少し、自分のプライドが傷つけられた気がした。

自分の人生を壊す。その選択が、そのやり方が、たとえどんなに愚かなことだったとしても、それを「自分の意志で決めた」、それだけは間違いないと思っていたからだ。

そもそも、「自分でなにも決めてない人生」を変えたくて、人生を壊すと決めたはずだ。「結局なにも自分で決めてない」だなんて、そんなことあるもんか。

「おまえの判断基準はいつだって、『こうしたい』じゃない。『こうした方がいい』なんだよ」

たばこの煙が天井へと延びていき、空気になじんで、消えていく。

「だってお前、ほんとは別れたくなかったんじゃないのか。だから、あたしに相談したり、たまきに相談したりしたんじゃないのか? 別れたかったら、相談なんかしないよな」

「それは……そうですけど……」

「じゃあなんで別れたんだ?」

「だってそれは……別れた方がいいと思って……」

そこで志保ははっとした。自分が今まさに「した方がいい」と口にしていたことに。

「クスリに手を出す前のお前は、自分の意志や欲望を持たずに、常識ってやつに価値判断を任せて生きてきた。お前の言う『空っぽの人生』ってやつだ。お前はそれが嫌だった。さっきおまえが話してくれたことをまとめると、そうなるよな」

志保は無言でうなづく。

「確かに……薬に手を出したこと自体はバカだったと思います……。でも、それからはあたし……、ちゃんと自分の意志を持って……自分で『こうしたい』って考えるように……」

「思ってるだけだ。それを決断にまでは結び付けちゃいない」

舞は志保の目を、まっすぐに見据えて言った。

「現におまえは、はっきり『別れたくない』と思っていたにもかかわらず、『別れた方がいい』と決断したんだ」

「でも……だって……そうじゃないですか。あんな話したら、彼だってあたしのことに嫌い……」

「話を聞いて相手がどう思ったのか、ちゃんと確認したのか?」

志保は少し泣きそうになりながら、首を横に振った。

「なんで確かめない? それこそ、たまきに言われたんじゃないのか? どうするのかを決めるのはお前じゃない、相手だって」

「だって……」

志保の声が少し震え始めた。

「耐えられるわけないじゃないですか……。好きな人から『おまえなんか嫌いだ』なんて言われるのは……。耐えられるわけないじゃないですか……」

「だから自分から『別れた方がいい』と」

舞はソファの背もたれに背中を押し付け、がっしりと腕を組んだ。

「でも、お前の本音は『別れたくない』だったんだろ? それなのに別れちまったら、お前の本音はどこに行くんだろうな?」

その問いかけに、志保は答えなかった。

あたしが。あたしが。あたしが。たまきや亜美に相談するときにさんざん言ってきたのに、最後の最後で「あたし」を黙殺する自分。舞の言うとおり、どんなに「あたしが」と強く思い続けても、志保はそれを決断に結び付けられないのだ。

「どこにも行きやしねぇよな。お前の心の奥底でずっとくすぶり続ける」

舞は少し身を乗り出すと、志保の胸を指さした。

「おまえさっき、別れたことは納得してるって言ってたけど、納得してるんだったらこんなところでひきこもってなんかないよな。本当はこれっぽっちも納得なんかしてないんだよ。『別れたくない』がお前の本音なんだから。そんでもってそれを、たまきのせいにしてる」

「あたし、べつにたまきちゃんのせいだなんて……」

「だってさっき言ったじゃないかよ。『たまきに言われたから』って」

「それは……」

志保は下を向いた。

「別れるって決断をしたのはお前だ。でも、お前の本音じゃない。お前の意志じゃない。決断をしたのはお前だけど、お前じゃない。ややこしいけど、わかるか?」

「……まあ」

「おまえの本音はお前の中でくすぶってるまま。納得なんかしていない。それを『人に言われたから』ってことにして納得しようとしてるだけだ。ほんとはお前が決めたのに」

舞はそういうと、再び煙草に口を付けた。

「いやな、別に『そうした方がいい』って判断したこと自体が悪いわけじゃねぇんだよ。たとえば、ケーキが食べたいけど食べたら太るから食べない方がいい、ってときは、『食べない方がいい』を選んでも全然いいんだよ。ただな……」

舞はそこで一度言葉を切ると、志保をまっすぐに見た。

「おまえの場合は、それが多すぎる。それも、重要な選択の時はほぼ必ず、本音を無視して『した方がいい』の方を選んじまう」

志保は、舞の目を見れなかった。

「おまえが財布盗んだ時だってそうだ。お前の本音は『ここに残りたい』だった。でもお前はあの時、『ここから去った方がいい』を選択したんだ。あんときもお前がここに残れないかと言い出したのはたまきだったよな。そのあと、亜美が言い出して、お前自身が言い出したのは、一番最後だ」

志保は黙ったままうつむいている。

「クスリに手を出したのだってそうだよ」

「そうなんですか……」

「まあ、まず薬物に手を出しちゃいけないって大前提があるけど、それは今更言ってもしょうがねぇ。ちょっと置いとこう。お前は常識に従っちまう人生ってやつを変えたかったんだろ? だったらなんで覚醒剤なんだ? たとえばさ、学校に通いながら、自分でこうしたいって決めて、自分でしっかり進路定めて、周りにどう言われようと自分の意志を貫く、そんな生き方じゃダメだったのか? っていうか、そんな生き方がしたかったんじゃないのか?」

「それは……でも……それじゃ駄目な気がして……」

「何がダメなのさ?」

「……結局、元の場所に戻っちゃうんじゃないかって」

「それだよ、それそれ」

舞は志保を指さす。

「おまえは自分が『こうしたい』って思っても、それを貫けないんだよ。だからお前は、クスリに頼った。覚醒剤はどんなに意志の強いやつでも人生を破滅させる。普通はそれは悪い意味で使われるんだけど、お前はそれに頼ったんだ。お前みたいに、意志を貫くことができないやつでも、確実に人生を破滅させられる」

舞は煙草を灰皿に押し付けると、ふっと笑顔を見せた。

「最初に会ったとき、お前の薬物依存を『病気』だって言っただろ? 治さなきゃいけない病気なんだ。でも、その根本はクスリがどうこうじゃない。なんでクスリに手を出したか、そこだ。治さなけりゃいけないのは、お前のその意志の弱さ、意志を貫けない性格なんだよ。そのままでいいっつうなら別にいいけど、お前はそれを治したいって思ってるんだろ? 第一、本音を押し殺しながら生きてたら、お前自身がいつまでたっても苦しいまんまじゃねぇか」

「そうですよね……」

「で、お前はどうしたかったんだ?」

舞は歯を見せてにっと笑った。

「あたしは……別れたくなかったです……でも……」

「ストップ! そっから先は言うな」

舞は手で志保の言葉の続きを制する。

「別れたくなかったんなら、カレシにしがみついてでも、ヤダヤダ別れたくないって言えばよかったんだよ」

「そんなみっともない……」

「おまえまだ十七だろ? いいじゃんか、みっともなくて」

そういうと舞は優しく笑った。

「あの……」

志保は顔を上げて、少し身を乗り出す。

「あたしはどうすれ……」

そこで志保ははっとして言葉を切った。

「どうすればいいか」ではない。

「どうしたいか」だ。

いいじゃないか、みっともなくて。

自分の過去も、言いたくないことも、全部話したのだ。

だったらさらに醜態さらして、「ヤダヤダ、別れたくない」とみっともなく田代にしがみついてみたらどうだ。

きっと軽蔑されるだろう。でも、どうせフられるならとことん軽蔑されるのも悪くない気がしてきた。

精神的なダメージや体裁を考えたら、もちろん、そんなことは「しない方がいい」。

でも、今の志保は「そうしたい」のだ。

志保は携帯電話を取り出すと、優しくボタンを押した。

 

田代は亜美に促されるがままに、公園の中に置かれた岩に腰掛けた。

だが、亜美の方はどこにも腰掛けずに立ったまんまだ。そのまま腕を組んで田代の方をにらむように見ているから、ずいぶんと亜美の方が偉そうに見える。

「で、お前どうしたいの?」

亜美は尋問、いや、質問をぶつけた。

田代は困ったように周りを見渡してから答えた。

「まず志保ちゃんに会って……」

「そりゃそうだろ、バカ。志保とコンタクトとりてぇからこんなとこうろついてんだろうが」

「ちゃんと話して……」

「あたりまえだ、バカ。あったら話すに決まってんだろうがよ」

「あの……」

田代はかなり困ったように亜美を見た。

「……あんまりバカバカ言わないでくれないかな……?」

「あ? バカじゃねぇの? バカにバカって言って何が悪いんだよ、このバカ!」

亜美は田代にグイっと顔を近づける。

「ウチが聞いてんのは、会って話して、そのあとどうしたいのかってことだ、バカ。会ってしゃべってそれで満足なわけねぇだろ。その先があんだろ?」

「それは……」

田代はいよいよ困ったような顔を見せる。

「ま、ウチはお前があの話聞かされたら、てっきり逃げ出すと思ってたよ。もう一度会って話したいっていうのはほめてやるよ」

「ど、どうも……」

「逃げようとか思わなかったのか? 志保の方からお前に別れ切り出したんだ。お前がこのまま会おうとしなければ、それで縁が切れたのに。そうすれば、厄介ごとからも手を切れるんじゃねぇのか……」

「厄介ごと……」

田代はそこで、少し下を見た。

「一度好きになった人を……、厄介ごとだなんて、思えないよ……」

「そもそもさ、志保のどこがよかったんよ」

「それは……、明るくて……優しくて……一緒にいて楽しいっていうか……」

そこで亜美は、深くため息をついた。

「で、結局どうしたいんだよ?」

「……僕に何ができるかわからないけど、彼女を支えていきたいと思う……」

「あんな話聞かされてもか?」

「……あんな話聞かされたからかもしれない。僕だっていろいろ考えたよ。でも、今の志保ちゃんには、やっぱりだれか支えてあげる人が必要なんじゃないかって思って……」

「……お前の手に負えないかもしれないんだぞ」

亜美は腕組みしたまま、まっすぐに田代を見た。

「……僕もこれから薬物について勉強していきたいと思うし……、たとえ手に負えなくても、僕はまだ志保ちゃんのことが好きだから、僕が守ってあげなくっちゃ……」

「ちっ!」

亜美はわざと聞こえるような大きな舌打ちをした。

「え?」

「ああ、いや、何でもねぇよ」

そういうと亜美はそっぽ背く。そして、心の中で叫んだ。

こいつ、ぜんぜんおもしろくねー!

つまんねー。なんてつまんねー男。笑点だったら座布団を全部没収して、ステージの下に蹴り落したっていいくらいのつまらなさだ。

原宿の女子高生が好きそうな甘ったるいラブソングに、魔法をかけて体と声を与えたらこの田代ってやつになるんじゃないだろうか。そういえば、前にカラオケに行ったとき、志保はそんな甘ったるいラブソングばかり歌ってた。

こんなヤサオのどこがいいのかと亜美は今まで不思議で仕方なかったが、何となくその理由がわかった気がした。そういえばこいつら、二人そろって青春映画を見に行くようなカップルだった。

なぁにが「支えていきたい」だ。「守ってあげなくちゃ」だ。道徳の教科書みたいな顔しやがって、このやろう。

さて、どうしたものか、と亜美は頭をひねる。

志保が田代に別れを告げて以来がっつり落ち込んでいるのはよく知っている。田代もその気だというのなら、二人の間を取り持ってやるくらいのことはやってもいい。

やってもいいのだけれど、志保をまたこのつまらない男くっつけても、なんだかおもしろくなさそうだ。

とはいえ、と亜美は考えを改める。これは志保と田代の問題である。亜美がつまらないという理由で間を取り持たない、というのは筋が通らないだろう。亜美としては面白みがないが、志保がこのタワーレコードに平積みで置いてありそうな男が好みだというのならば、とやかく言わずにその間を取り持ってやるっていうのが友達ではないだろうか。

なにより、「城」に引きこもりは一人で十分だ。二人もいると、めんどくさいうえに、しんきくさい。

「おい、ヤサオ」

「あの……それって僕のこと……」

「ウチはジヒ深いから、お前と志保の間を取り持ってやる」

「え……?」

田代はにわかには信じがたいという目で亜美を見る。

「ウチが首に鎖つけて絞め殺してでも、志保をお前の前に引きずり出してやるよ。いやだ、会いたくない、って泣きわめいても、お前の前に連れてきてやるから安心しろ」

「え……べ、別にそこまでしなくても……もっと穏便に……」

「いや、今のあいつに必要なのは荒療治だ。何日も何日もうじうじしやがって。こういう時はな、無理やりにでもことを進めた方がいいんだって」

亜美が思いつく解決法というのはだいたいいつも、荒療治とか無理やりとかである。そして、それがうまくいったためしは、ほぼない。

亜美は携帯電話を取り出す。

「でもな、お前がまた志保と付き合ったとしても、ハッピーエンドになるとは限んねぇぞ。バッドエンドかもしんねぇぞ。そのこと、わかってんのか?」

田代は、手を組んで少し下を向いた。

「……バッドエンドにはさせません」

「いや、お前がさせねぇっつったって、バッドエンドになるかも知んねぇだろ? そん時どうすんだよ」

「だから、バッドエンドにするつもりはありません」

「いやだから、つもりがねぇっつっても実際……」

「そもそも、最初から悪い方向になるかもしれないなんて思いながら恋愛なんてしないですよね。恋愛って、幸せな将来を思い浮かべてするものですよね? だから、志保ちゃんとの幸せな未来を思い浮かべて、そこに向かって二人で歩いていく、それが恋愛でしょ? 確かに、志保ちゃんは普通の子とは違うのかもしれないけど、悪いことばかり考えてたら、本当にバッドエンドになっちゃうんじゃないのかな?」

亜美は何か言いたげに田代を見ていたが、

「ま、どうでもいいわな……」

と言うと、携帯電話をいじり始めた。もう、道徳の授業はうんざりだ。

電話帳から志保の名前を探して押す。だが、呼び出し音がいくらなっても志保が出てこない。

「おかしいな。あいつ出ねぇ。誰かと話してんのかな?」

そう言って志保が振り返ると、田代が誰かと電話で話していた。

「……うん、わかった。じゃあ、この前の場所で待ってるから……」

そういうと田代は、電話を切った。

「志保ちゃん、これからこっちに来るみたい」

「おまえと話してたんかい!」

亜美はやるせなさそうに携帯電話をポケットにしまった。

 

写真はイメージです

たまきは公園の「庵」の前に座っていた。

ベニヤ板とブルーシートでできたお化けのような「庵」は、無数のホームレスたちがせわしなさそうに出入りしている。

最初はここに来るたまきのことを物珍しそうに見ていたホームレスたちだったが、いつしかここにたまきがいるのも風景の一部となったらしく、さほど気にしなくなった。

たまきの正面には、仙人が安物の椅子に腰かけて、たまきのスケッチブックに目を通している。

「前よりうまくなったんじゃないか?」

そう言って仙人はたまきにスケッチブックを返した。たまきはぺこりと頭を下げた。

「それで、今度は何に悩んでるのかな?」

「やっぱり、わかりますか……?」

たまきは視線を落としたまま答えた。

「……友達に、えらそうなことを言ってしまったのかもしれません」

「ほう」

仙人は興味深そうにたまきを見た。

「そのせいで、友達がカレシさんと別れてしまったのかも……」

「お嬢ちゃんのせいなのかい」

「それは……わかんないんですけど……」

たまきはずっと下を見たままだ。

「私は、ちゃんと正しいことを言えたのかな……、もしかしたら、私が言ったことは間違ってたんじゃないかなって思って……」

「お嬢ちゃんがその友達に何を言ったのかはわからないが……」

仙人は片手に持ったカップ酒を、人差し指でトンと叩いた。

「それはどこかにはっきりとした正解があることなのかい?」

「え?」

たまきはここで、初めて仙人の目を見た。

「学校のテストみたいに、はっきりとした正解が存在することだったら、何が正解で何が間違いかはっきりしている。裁判なら法律に照らして正解か間違っているかはっきりさせる。だがなお嬢ちゃん、世の中のたいていの問題は実は、はっきりとした正解は存在しないんだ」

そこで仙人は再びカップ酒に口を付けた。

「だから争いが絶えない。俺の方が正しい。いや、私の方が正しいってな。実はどこにも正解がないのに、自分こそが正しいんだお前が間違ってるんだって主張しあうから、人は争う」

仙人はカップ酒を傍らに置くと、たまきの目を見る。

「そして、何が正しいかわからないから、人は悩む。どこにも正解がないから、何が正しいのかわからない。でも、人はやっぱり、自分が正しいと思ったことをしたいもんだし、間違ったことはしたくないもんだ。何が正しいかわからないけど、これが正しいんだって信じなければ、何も決められない。どこにも正解は存在しないのに、それでもどこかに正解があるはずだと信じて動かなければならない。人生ってのは、神様と追いかけっこしてるようなもんだな」

「はあ……」

たまきはぽかんと口を開ける。数週間ぶりに学校の授業に出て、まったくついていけなかった時もこんな顔をしていたのかもしれない。

「それで……私はどうしたらよかったのかなと……」

「そんなの、お嬢ちゃんのしたいようにすればいい」

仙人はそう言って優しく微笑む。

「はっきりとした正解なんてどこにもないんだから、自分がしたいようにすればいい」

「でも、それで間違ってたら……」

「自分が間違ったことをしたと思ったら……」

仙人はにっこり微笑んだ。

「自分のしたいようにすればいい」

 

写真はイメージです

「城」に帰ったたまきは、またしても口をぽかんと開けた。

「だから~、またユウタさんとやり直すことになったんだってば~」

志保がこれまでの落ち込みっぷりが嘘のようにニコニコとしている。

たまきは困ったように亜美を見上げた。

「なにか……あったんですか……?」

「しらねー」

亜美はこの上なくつまらなそうにしている。

「その……田代って人は、志保さんの話聞いて、それでもいいって言ってくれたってことですか……」

「うん、私のこと支えるから一緒に頑張ろうって言ってくれたの。なんでだと思う?」

「……なんでなんですか?」

横から亜美が

「聞かねぇ方がいいって」

と忠告するより早く、志保は

「志保ちゃんのことが好きだから、だってさ! ヤダもう、言わせないでよ!」

と言いながら、たまきの肩を強くたたいた。

「というわけで、ご心配おかけしました! もう大丈夫だから! あ、先生にも電話しないと!」

というと志保は、携帯電話片手に外へと出ていった。

……結局、なんだったのだろう。

何か一つの騒動が終わったようで、もしかしたらなにも終わっていないような気もする。

「ちっ」

とたまきの横で、亜美が舌打ちをした。

「一つ……気になるんですけど……」

「なんだ?」

「その……田代って人は……志保さんのことが好きだから支えるって言ったんですよね?」

「んあ? ンなこと言ってたな。あのタワレコヤロウめ」

「たわれこ?」

たまきは不思議そうに亜美を見ていた。

「で、何が気になるって?」

「……志保さんのことが好きだから支えるってことは、もし志保さんのことが好きじゃなくなったら、どうなるんでしょうか?」

亜美はしばらく黙っていたが、

「……んなこと、あいつが志保のこと嫌いになってから考えればいいんじゃね?」

そういうと亜美は、ソファの上に体を投げ出し、寝転がった。

 

何かがおかしいのだけれど、何がおかしいのか、たまきにはまだわからなかった。

 

つづく


次回 第29話「パーカー、ときどきようかん」(仮)

次回、たまきがおしゃれに目覚める!?  続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」第27話にして、ついに主人公の一人、志保の過去が明かされます。なぜ、志保は薬物に手を出したのか。「あしなれ」第27話スタート!


第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

シブヤの大型家電量販店の中のゲーム売り場、最新のレースゲームのお試しプレイ用コントローラーを、志保は握っていた。

1Pのコントローラーは友人が握っている。志保は2Pのコントローラーを握り、画面の向こうにある緑の車を操っている。

 

神崎志保。星桜高校1年生。

 

画面の中の車は猛スピードで高速道路を走り、何台もの車を追い抜いていく。現実の高速道路と違うのは、いくらスピードを出してもパトカーが現れないこと、いやがらせかと思うくらいに曲がりくねっていること、そして、高速道路にもかかわらず、壁がないことだ。

コントローラーの操作を誤ると、あっという間にコースアウトしてしまう。道路の向こうい広がる暗闇に車が飛び出し、三回繰り返すとそのままゲームオーバーだ。

制服である紺色のブレザーを身にまとった志保は、表情を変えることなく、コントローラーを握りしめていた。

隣では友人の赤い車が、ヘアピンカーブで大きくコースアウトして暗闇を舞った。直後に現れる真っ赤な「GAME OVER」の文字。

「あ~!」

友人がため息にも似た叫びを漏らし、その後ろで別の友人たちが口々に

「惜しかったよ~」

「いや、あれ、ムズいって」

と笑いあっている。

一方の志保は、相変わらず硬い表情を崩すことなく、コースに車を走らせていた。友人たちの視線も志保に注がれる。

「志保っちうまいじゃん。ゲームとかやるイメージなかったけど」

「これは操作がシンプルだから」

志保は画面を凝視したまま答えた。

そう、こういうのは要領を抑えればいいのだ。

そもそも、自動車レースというのは、速く走ればいいわけではない。単に自動車の速さですべてが決まるのであれば、ドライバーなんて誰でもいい。

ドライバーの腕の見せ所はハンドルさばきである。トップスピードで走りつつ、高速で迫りくるコースの変化に対して、的確なハンドル操作をミスすることなく繰り返すことが、トップレーサーの才能だ。

もちろん、志保にそんな才能はない。

だから、志保はスピードを出すことを控えた。

志保たちがプレイする前にこのゲームを体験していた人たちはいずれも、トップ近くまで加速し、コースアウトや激突を繰り返し、ゲームオーバーとなっていた。後ろで並びながらその様子を見ていた志保は理解した。このレースゲームはコースの難易度が高く、トップスピードを出してしまうと、よほど慣れていない限りクリアできない。初心者が完走したければ、スピードを抑えることが重要だ。

スピードを抑えることは、レースとしては邪道かもしれない。

それでも、コースアウトしてゲームオーバーになってしまったら、何にもならないじゃないか。

志保はスピードを捨て、正確さに徹した。

そうなると後はもう、要領の良さの問題である。車をずらしたり、方向を変えたり、必要なタイミングで必要な操作をするだけだ。

志保は無事完走した。画面に「FINISH」の文字が踊り、背後から友人たちの歓声が聞こえる。

「志保っち、すごいじゃん!」

「あ、でも、順位は17位だって」

このゲームは30台もの車でレースを競う、という設定だ。第30位から始まり、一台ずつ車を抜いていく。

志保は早々に順位を捨てた。順位を気にしていたら、完走できない。どれだけ早かろうと、ちゃんとゴールできなかったら意味がない。

「でもさぁ、ミカのあれ、マジウケたよね」

ミカというのは、志保の隣でプレーして、早々にゲームオーバーとなった友人だ。

「あれねぇ。他の車に二回連続でぶつかって、そのままコースアウトってヤバすぎるでしょ」

「しかも、そのあと復活したけど、5秒でまたコースアウトして、ゲームオーバーでしょ? 下手すぎ」

そう言って、友人たちはゲラゲラと笑う。

会話の中心にいるのは、完走した志保ではなく、ゲームオーバーになった友人の方だった。

志保にはその理由がわかっていた。

志保のプレーは、ゲームとして面白くなかったのだ。

なにより、志保自身がプレーしていても、面白くなかった。

完走しても、ちっともうれしくなかった。

ゲームをしていたはずなのに、いつの間かそれが作業となり、楽しめなかった。

いっそコースアウトしてゲームオーバーしてしまった方が、ゲームとしては楽しめたのかもしれない。

 

写真はイメージです

 

焦げ茶色のレンガを積み上げたような巨大なマンションに、志保は入っていった。志保は物心がついた時から、このマンションの9階で家族と暮らしている。

「ただいま……」

薄暗い部屋の中から返事はない。だが、そもそも返事を期待していたわけではないので、志保は表情を変えることなく靴を脱ぐ。

共働きの両親は今日も帰りが遅い。夕食に間に合うのであれば何か連絡があるはずだが、神崎家の食卓に二人以上の人間が並ぶことは稀だ。休日でさえ、志保はひとりで食事をとることが多い。一人っ子なので、志保は家でのほとんどん時間を、一人で過ごしている。

そういえばさっきメールが来ていた。もしかしたら、とチェックする。

メールの主は両親ではなく、違う学校に通うカレシだった。ゴールデンウィークに入る少し前に、友達が開いた合コンのような感じの食事会で出会った相手だ。内容はたわいもないようなこと。志保もたわいのないようなことを打ち込んで返信する。

携帯電話をテーブルの上に置くと、着替えを済ませ、一息つくと、夕食の準備に取り掛かった。

最初は母の手伝いとして料理を始めたのだが、いつの間にか自分一人のために料理をするようになっていた。

料理をし、食事をし、片付ける。ここまでを志保は、まるで機械化された工場のように淡々とこなした。

夕食後はテレビを一時間ほど見る。番組が終わると自室へと向かい、机の上に参考書を置いた。一学期の期末テストもそう遠くない。ちゃんと勉強しておかなくては。

そこで携帯電話が鳴った。母親からのメールだった。

用件は二つ。帰りが終電近くなるということと、ちゃんと勉強しておくようにとのこと。

他にないのか、と志保は少し寂しく思った。

年頃の娘が一人で留守番をしているのである。「戸締りをしっかり」くらい書いてあってもいいんじゃないだろうか。夕飯にちゃんと栄養のあるものを食べてるのかとか、そういうことは気にならないのだろうか。

もっとも、昨日も一昨日も母親からのメールは同じ文面だった。どうせ、前に送ったメールをコピーしているのだろう。

志保も昨日母親に送ったメールをコピーする。ただ、それだけではさすがに物足りないので、絵文字を一つ追加した。「わかった。大丈夫。ちゃんとやってるよ」という味気ない文面も、そのひと工夫でだいぶ印象が変わる。

新しいメールを一から作成するよりも、そういう機能を使う方が、効率が良く、要領がよい。

そう、世の中の大抵のことは要領である。

料理を作るのも、勉強するのも、要領だ。傾向と対策を把握し、あらかじめいくつかのパターンを想定しておいて、状況に合わせて、用意しておいた対処法をこなしていけば、大抵のことはうまくいく。昼間のゲームがそうだったように。

人間関係だって、結局は要領だ。どういう話題を押さえておけば、友達が喜ぶか。どういう返事をメールで送れば、カレシと良好な関係が保てるか。どういう子供を演じておけば、両親が安心するか。

神崎志保という少女のもっとも秀でた部分は、その要領の良さと言える。

そもそも志保は、基本スペックからして高かった。勉強は人並み以上にでき、運動もそこそこできる。おしゃれにも気を使い、わりとモテる部類に入っている。手先も器用で、料理もできる。苦手なことと言えば、歌うことがちょっと苦手なくらい。

基本スペックが高いうえに、志保は要領がよいため、大抵のことは何でもこなせた。何でもできる子だったし、できないことがあっても、どうすればできるようになるかはすぐに分かった。そして、少し練習すればすぐにコツをつかみ、うまくなれた。

頭が良くて、かわいくて、何でも要領よくこなせる子。志保は小学校の頃から、そういうポジションだった。

子供の頃はそれでよかったのだ。勉強ができれば、両親や先生が褒めてくれる。おしゃれに気を遣えば、お友達から一目置かれ、男子にもモテる。

進学校に入り、多くの友達を作り、カレシを作る。青春のリア充要素を、その持ち前の容量の良さで志保は次々と揃えていった。

それはそれで、幸福だった。

だが、いつからだろうか。志保の幸福と背中合わせの場所に、得体のしれない恐怖が居座り、無数の見えない針で背中に痛みを与えるようになっていったのは。

勉強も友達もカレシも、要領よくこなしていけば、大抵のものは手が届く。多少の障害やハプニングが起ころうとも、その要領の良さでうまく切り抜けてしまう。

今まで、ずっとそうしてきた。

そして、たぶん、これからも。

進学、就職、出世、結婚、子育てと、たぶん世の多くの人がそうしているように、自分もそつなくこなしていけば、多少の障害はあれど、そう苦労することなく手にできてしまう。そんな予感が志保にはあった。それは驕りでも慢心でもなく、自分を客観的に分析したうえでの答えだ。

その予感が志保に、得体のしれない恐怖を与えていた。なんだかもう自分の人生が数十年先まで決まっているのではないかという得体のしれない恐怖に、志保は感触のない水の中でおぼれているかのような息苦しさを感じていた。

そして行きつく先は、両親と同じような大人になっている自分である。そういう未来が、容易に想像できた。

別に両親の人生を否定しているわけではない。大きな企業で重責を担っている両親のことは、素直に尊敬している。

それでも、結局は両親と同じような人生を歩んでしまうことは、なんだか歪んだ時空の無限ループに陥っているような気がして、それが志保にはとてつもなく怖かった。

たしかに自分の意志で選んでいるはずなのに、何か陰謀めいた力によって自分の意志を操作されているかのような、言いようのない恐怖感。実は自分が人間ではなく、プログラム通りに動くロボットなのだと突きつけられたかのような絶望感。

志保を操る陰謀めいた力。おそらく「常識」と呼ぶものがそれだろう。

その常識に逆らうことなく、淡々と従ってしまう自分と、そこからもたらされるわかりきった明日、未来。それが何より、怖かった。

勉強して、お風呂に入って、気が付いたら夜の十一時を過ぎていた。両親はまだ帰ってこない。

志保は自分の部屋の電気を消すと、ベッドに入った。

昼間とたがわぬ明るさを保っていた部屋だったが、灯りを消すと、部屋は夜本来の暗闇に包まれた。

 

写真はイメージです

「変わってんな、お前」

志保のカレシであるタカユキはそう言って笑った。

「やっぱりヘンかなぁ」

志保はパスタをフォークに巻き付けている。

シブヤの商業施設の中にあるパスタの店で、志保はタカユキとともにランチを食べていた。

何でもそつなくこなせてしまうと、先のことが見えてしまい、結局予定通りの人生しか歩めそうになくて、それが怖い。

そんなことをタカユキに話したのだが、返ってきたのは「変わってんな、お前」という言葉だった。

変なやつだと言われることもうすうす予想できていたのだが、志保は普段はそんな風に言われることがないので、改めて他人から変だと言われると、少しイラっとした。

だが、客観的に見ればやっぱり志保の考え方は変なのであろう。それもわかるから、志保は感情のささくれをそっと直して、タカユキの話を聞く。

タカユキはパスタを巻いたフォークを頬張り、メロンソーダを飲んでから、続きを話し始めた。

「だってさ、勉強も、ファッションも、料理も、人間関係も、何でもできるにこしたことないじゃん。その結果さ、欲しいものが手に入って、やりたいことがうまくいく。充実してんじゃん。それが怖いっていうのが、よくわかんねぇんだよなぁ」

もう一口、タカユキはパスタを口にした。

「それってさ、贅沢じゃね?」

そういわれることも、志保は予想していた。むしろ、そういわれることがわかっていたから、今まで誰にもこの話はしていなかった。

「何、ヤなの? 今の学校とか。あ、もしかして、俺と付き合ってるのがヤとかいうなよ?」

「ちがうちがう! そういうんじゃない。今の学校好きだし、そもそも、自分で志望して入ったんだし。タカくんのこともちゃんと好きだって」

そう言ってから志保は、「好き」という前に2秒ほど空白を開けるべきだったかな、と思った。それもやっぱり、持ち前の容量の良さで、恥じらいを演出したほうがタカユキはかわいいと思うだろう、というあざとい計算からくるものであった。

だが、もう一つ理由があった。何の臆面もなく、戸惑いもためらいも恥じらいもなく、「好き」と息を吐くように言ってしまう自分に、何か違和感を感じてしまったのだ。

「でしょ? 俺にとってお前は、かわいくて頭いい自慢のカノジョなんだから、ヘンな心配しなくていいんだよ」

自慢のカノジョと褒められると、やっぱり悪い気がしない。志保は少し顔を赤らめて下を向いた。

だが、またもや志保の左側に、要領が良くて客観的な志保が現れ、問いかける。

「自慢のカノジョ」というが、一体誰に自慢するというのだろうか。

そもそも好きだから付き合うのであって、誰かに自慢したりうらやましがれれるために付き合うのではない、はずである。

「自慢のカノジョ」というけれど、本当に自慢したいのはカノジョのほうじゃない。「自慢のカノジョを持っている俺ってスゲェ」なのではないか。

それは、ブランド物のバッグや高価なアクセサリーを見せびらかすのと大して変わりないのではないか。

でも、その自慢癖は、おそらく志保にもある。

タカユキはおしゃれな方ではあるが、決してギャル男というわけではなく、派手な遊び人でもない。志保の第一印象も「大人びててやさしそうな人」だった。実際、やや軽いところもあるが、一方でやさしくまじめな一面も持っている。

そんなタカユキは志保にとっても「自慢のカレシ」であった。

実際、タカユキの写真を友人たちに見せたときの、「え~! カレシ、かっこいい!」「やさしそー!」「いいなぁ」という羨望の強い驚嘆を浴びたときは、間違いなく優越感を味わっていた。

結局のところ、志保も一番かわいいのは自分ではないか。

要領よく何でも手にしてしまう自分の人生に言いようのない怖さを感じている一方で、そうやって常識的な欲望を満たすことを自ら欲し、手に入れている。

「常識」に従うことに恐怖を感じながらも、結局のところ志保は、「常識」を踏み外して生きることができないのだ。

もしかして、自分は本当の意味でタカユキのことを好きなのではないんじゃないか。ふとそんなことを志保は考えてしまう。

志保が欲しかったのは、「自慢のカレシを演じてくれる誰か」であって、それがたまたまタカユキだっただけなのではないか。

「さて、そろそろ行こうぜ」

タカユキが立ち上がり、志保も後に続く。

「あ、あたしも払うよ」

志保はバッグの中の財布に手をかけたが、タカユキは

「いいよいいよ、おごるって」

と言って一人でレジに行ってしまった。

二人で食事するときは、いつもタカユキがおごってくれる。志保は何度も自分も払うと申し出るのだが、タカユキは財布にかなり余裕があるらしく、いつもその申し出を断る。

そのたびに志保は引き下がる。ここはしおらしく、タカユキに「カノジョにおごるカレシ」を演じさせておけば、すべて丸く収まるという計算のもとに。

「でも、タカ君っていつもお金に余裕あるよね」

タカユキは学年でいえば志保の一個上、高2である。バイトの経験も志保よりあるのだろうが、だからと言って毎回おごってくれるとなると、その財源が気になる。

「販売系のバイトって言ってたよね。何売ってるの?」

店を出た志保は、タカユキの横に並びながら尋ねた。タカユキのバイトについてはこれまで、「販売系」としか聞いていない。服か何かを売ってるのだろうと勝手に思っている。

タカユキは少し何かを考えるようなそぶりを見せてから、口を開いた。

「……アイスだよ。あと、チョコとかかな」

「なにそれ? スイーツ屋さん? なんか似合わない」

志保はそういって笑った。それにしても、よっぽど人気で儲かっているアイス屋さんで働いているに違いない。

 

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この世には、とっくにバランスを失っていて、今にも崩壊しそうであるにもかかわらず、外から見てもとてもそんな風には見えないものがある。

たとえば風船。外から見るとまんまるで愛らしいが、その実態は空気が内部から圧力をかけ、ゴムがはちきれんばかりに膨張したとても不均衡な状態だ。わずかな穴ひとつで簡単に破裂する。

志保の家庭もそのような状態だった。両親は仕事でほとんど帰らず、たまに顔を合わせても会話と言えば「勉強はどうなんだ」くらい。次第に志保もカレシや友達との時間が増え、家に寄り付かなくなった。家族それぞれの時間が、家の外を軸に回り始め、家は、思い出の写真を飾るだけの箱となった。

志保の両親が離婚したのは、高校一年生の夏休みに入ってすぐだった。母親の方が家を出ていき、志保は父と暮らすことになった。名字も父方の「神崎」のまま。

実は、離婚の原因は、志保にもよくわからない。少なくとも、不倫だとか暴力だとか、何か決定的なものがあったわけではない。

一方で、何がきっかけになったのかはわからないが、その根底には「家族が家族でなくなっていた」ことがあるということを、志保は確信していた。

おそらく、きっかけはまるで風船に刺さった針のような小さなものだったのだろう。普通の家庭ならば、日常の小さな棘として見過ごされるようなものだったのかもしれない。

だが、志保の家庭は違った。その何ともわからぬ小さなきっかけで、それまで確実に存在していたにも拘らずまるで存在しないかのように扱われてきた家族のほころびが、一気に破滅へと広がった。ちょうど、風船が何に触れて穴が開いたのかもわからずに破裂するかのように。

そのことは、志保の心にもちろん、影を落とした。

だが、それ以上に志保の心を曇らせたことがあった。

それは、両親が離婚したにもかかわらず、志保の生活も人生も、何も変わらなかったということだった。

両親の離婚が決定的になった時、志保はもちろん悲しかった。だが、その一方で、自分が少し胸躍っていることを否定できなかった。

両親の離婚という大事件で、自分の人生も何か変わるのではないか、と。

レースゲームに例えれば、突然コントローラーが故障してどう操作すればいいのか全く分からない、そんな状況が訪れるのではないかと、少し期待していたのだ。

要領の良さとか、スペックの高さとか、そういうものとは違う、もっと人間的な何かが試される大きな試練が訪れるのではないか、と。

常識通りに生きることに違和感を覚えつつも、けっきょく常識を踏み外せない志保は、何か常識はずれなトラブルが起きて、常識通りの人生を無理やり変えてくれないかということを期待するしかなかった。

だが、離婚後最初の一週間で、そんな試練は訪れないことを志保は悟ってしまう。

家に帰ってもだれもおらず、自分で自分のご飯を作り、夏期講習やデートに出かける、それまでと変わらない日々。

もともと家にいなかった両親が半分になったところで、志保の生活に変化はなかったのだ。ゼロに2分の1をかけてもも、答えはゼロのままである。

おそらく、神崎家の破綻は志保が思っていたような大事件ではなく、とっくの昔に破綻していた家族に、「離婚」という名前がようやく付いた、たったそれだけのことだったのかもしれない。

だが、そのことは、両親が離婚した以上に、志保の心に大きな影を落とす。

家庭が破綻して、両親が離婚しても、自分の人生は何も変わらない。

じゃあ、一体何が起きれば、志保の人生は変えられるというのだろうか。

 

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「志保っちのカレってさ、青柳第二高だっけ?」

八月に入ったある日のことだった。友人たちと四人で、カフェで時間をつぶしていた志保に、友人の一人が尋ねた。

「そうだけど?」

志保は答えたが、そこから先の会話が続かなかった。

尋ねといてなんなんだろう、と友人の顔を見ると、なんとも微妙そうな表情をしている。

「なに? どうかしたの?」

「……塾で聞いた話なんだけどさ……」

そう言って友人は、何か申し訳なさそうに切り出した。

「この前、青柳第二の生徒が二人、覚醒剤で逮捕されたんだって……」

その話を聞いた時、最初の反応として志保は思わず笑ってしまった。

「覚醒剤? あはは、ないない。ガセだよ、そんなの」

評判の悪い不良高校ならいざ知らず、青柳第二高校は偏差値も少し高めの、普通の高校である。

そこの生徒が覚醒剤で捕まるなんて、ありえない。まず、接点がないはずだ。覚醒剤なんて代物、どこから入手するというのだろうか。

「誰から聞いたの、そんな話」

志保は半ば笑いながら尋ねた。

「だから、塾の友達だって。その人の友達の先輩って言うのが、青柳第二の人と付き合ってて……」

つまり、「友達の友達から聞いた怪談話」のようなものだ。取るに足らない、信憑性に欠ける話だ。

「それでね、ママにその話したら、ママが高校の頃にも、そんな噂があったんだって」

志保は友人の話す噂話よりも、「ママとたわいのない話をした」という部分の方が引っかかった。母親とそんな、取るに足らないような噂話をしたなんて、いつが最後だっただろうか。

そこで、別の友人が口をはさんだ。

「あたしもガセだと思うけどなぁ。青柳第二でしょ? ないって」

「でも、ママの話だとね……」

友人はそういうと、ドリンクを一口すすって、話しはじめた。

「ママが高校の頃の青柳第二って、不良高校ってわけではなかったみたいなんだけど、それでも何人かの不良グループがいたんだって。その人たちがやばい大人と繋がってて、校内でクスリとか売りさばいてたんだって」

やはり、どうにも信憑性に欠ける話である。

「それって、三十年くらい前の、うわさ話でしょ?」

志保はドリンクをすすりながら、さほど気にしてないように言った。

「だからママが言うにはね、その時の密売グループみたいなのが今でも校内に裏のパイプみたいなのを持ってて、そこを通じて麻薬を売ってるんじゃないかって」

「それって、ママの想像でしょ? 刑事ドラマかなんかの見過ぎぎじゃないの?」

志保はもはや、気にしないのを通り越して、呆れかえってしまった。

「とにかく、志保っちも気を付けてよ?」

友人は心配そうに志保を見た。

「気をつけるって何を?」

「だから……、ヘンなクスリを売りつけられないように……」

「タカ君はそういうんじゃないし」

「あ、いや、志保っちのカレシがそうだって言うんじゃなくて……」

友人はそういうとバツの悪そうに、ドリンクのストローに口をつけた。

「まあ、志保は大丈夫でしょ」

それまで黙って話を聞いていた別の友人が口を開く。

「志保は頭いいし、しっかりしてるもん。そういうクスリに手を出す人って、『いつでもやめられると思ってた』とか、『自分は大丈夫だと思ってた』とか、そういう風に考えてるんでしょ? 志保はそういうタイプじゃないって」

「でも、もしカレから勧められたりしたら断わりづらいんじゃ……」

「だから、タカ君はそういう人じゃないって」

志保は怒るでもなく、明るく言った。

まったくもってばかばかしい話だ。青柳第二がどうとか、志保のカレシがどうとかいう話もばかばかしいが、仮に噂が事実だったとして、志保のカレシがクスリに関わる人物だったとして、志保がそんなものに手を染めるなどありえない。志保は友人たちとの会話をそう頭の中で片づけ始めた。

薬物の恐ろしさくらい、志保だってわかっている。そういう授業もあったし、テレビでも見たことがある。

一度使ってしまえばやめられなくなる悪魔の薬。意志の強さでどうにかなるレベルではない。

友人が言う通り、『自分はやめられる』『自分は大丈夫』、そんな甘い考えは通用しない。意志の強さや体質などに関係なく、万人に等しく破滅をもたらす薬、それが覚醒剤である。

そう、覚醒剤は、万人に等しく破滅を与える。

……その一言だけが、どうにも志保の心から離れてくれなかった。

 

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自分の部屋で一人、パソコンの画面をスクロールさせて、志保は文字を追って行った。

「薬物 恐ろしさ」で検索して出てきたのは、警察や市役所などが作った、薬物がいかに恐ろしいかを伝えるホームページなどだった。

薬物がもたらす快楽についても書かれていた。薬物に手を染める人はきっとそういうのに魅かれる人がほとんどなのだろうが、正直、志保はそこには特に興味がない。

志保が知りたかったのは、薬物がいかに人を破滅させるか、という点だった。

勉強の合間の息抜きに調べ始めたのだが、気が付けば読みふけっている自分がいた。

覚醒剤を一度でも使えば、肉体だけでなく、精神も破壊し、さらに依存度が強く、一度使ったら抜け出せない。このサイトを書いた人はきっと、薬物に興味を持った人にその恐ろしさを伝えることで踏みとどまらせようと思って書いたに違いないのだが、志保はその文章に妙な期待感を抱いている自分を否定できなかった。

次に志保は「青柳第二 覚醒剤」で検索をしてみた。

いわゆる掲示板のようなものに、「青柳第二の生徒が覚醒剤で捕まった」とか、「昔もそんな事件があった」とか、友人から聞いた話に近いものが書かれていたが、いかんせん、掲示板というのが嘘くさく、信憑性に欠ける。

その中で一つ、志保がまだ聞いたことのない話があった。どこまでも信憑性に欠ける話ではあったが、覚醒剤の売り子についての話だ。

志保は不良というと髪を金に染め上げ、タバコを吸ってノーヘルでバイクを乗り回す、そんなヤンキー漫画に出てくるようなイメージしかなかったが、今、青柳第二で売り子として暗躍している不良たちは、そんなステレオタイプな連中とは違うのだという。

外見は普通の生徒と変わらない。どちらかと言えばちょっと遊んでいる風ではあるが、校則を逸脱するような派手さはなく、校則の範囲でおしゃれをしているといった感じだという。

「……なんか、タカ君みたい」

思わずそう口にしている志保がいた。

売り子の少年たちは、生活態度も目立った素行不良などはない。

だが、学校にばれないところで悪事を働く。見た目の派手さやケンカの強さではない、狡猾さのある不良なのだという。

つまりは、「いかにもなワル」ではなく、教師から見ても親から見ても友人から見ても、そんな悪人には見えない、それでいて、隠れて悪事を働く狡猾さと、それを罪だと思わない倫理のなさ、そういった子に密売グループは目を付けるのだという。

そんな若者は、わりと多いんじゃないか。そんな風に志保は考えていた。バレなければ多少ズルをしたって構わない。ルールを真面目に守るよりも、どうすれば他人より優位に立てるか、どうすればより多くのお金が手に入るか、そっちの方が大事という若者は。

そして、志保はあることに気づいていた。

クリックをするたびに、画面をスクロールするたびに、志保の中に「自分の人生を壊したい」という、何色ともつかない願望が芽生え、大きくなっているということに。

いや、本当はもっと前から抱いていたものだったのかもしれない。それまでは、人生を「壊す」ための手段など思いもよらず、そんな願望があること自体を自覚していなかった。だが今、その「手段」があることに気づいてしまい、同時におぞましい願望を自分が抱いていたことにも気づいてしまったのだろう。

そんなおぞましい願望を抱いたのは初めてだった。「願望」自体を抱いたことが、志保にとっては初めてだったかもしれない。

それまでの志保は、「常識」に従って生きてきた。

そう、何かを自分で望んだのではない。ただ常識に従い、常識的に有利な方へと自分の駒を進めてきただけだ。

毎日勉強するのも、自分がそう望んだんじゃない。「勉強しないと将来に影響する」という常識に従っているだけだ。

進学校に入ったのも、自分がそう望んだんじゃない。偏差値の高い学校に行けば将来に有利だという常識に従っただけだ。

友達付き合いも、自分で望んだんじゃない。「友達は多い方がいい」という常識に従っただけだ。

タカユキと付き合ったのだって、自分では「彼のことが好きだから」と思っているけれど、本当は自分でそう望んだのではなく、「カレシがいた方が幸せだ」という常識に従っているだけなのかもしれない。

そう、何一つ自分で望んでなんかいない。何一つ自分で選んでなんかいない。ただ常識に従っていて生きていただけだ。

「常識」と言うとまっとうなものに見えるけど、「どこのだれが決めたかも定かではない価値観」だ。「自分の意志」ではない。

自分の願望を抱かず、自分にとって何が幸せか考えもせず、ただ常識が決めた幸せに向かって駒を進めるだけの人生。

それが「自分の人生」と言えるのか。

そんな人生を歩む自分は、本当に「自分」と言えるのか。

その人生を歩むのは、別に自分じゃなくてもいいんじゃないか。

「神崎家の一人娘」も、「星桜高校の志保っち」も、「タカユキのカノジョ」も、志保じゃない別の誰かが成りすましても、誰も気づかないんじゃないか。

だって、志保がこれまでやってきたことは、「一人娘」や「優等生」、「明るい友人」、「自慢のカノジョ」という役割を常識的に演じることだったのだから。

求められていたのは志保ではない。与えられた役割を、常識ってやつが書いた脚本にしたがって、要領よくこなしてくれる「誰か」。

要領よく役をこなしてくれるのであれば、別にそれは、志保じゃなくてもよかったのだ。

それでも、志保は与えられた役に縋りつき、そつなくこなすことしかできない。

役をうまくこなせば、その先にあるのは銀幕の中のような、誰もがうらやむ幸せな光景だ。キャンパスライフを楽しむ志保。スーツを身にまとい会社で活躍する志保。ウェディングドレスを着て教会で祝福される志保、赤ん坊を抱いて幸せそうな志保、年老いて子供や孫に囲まれる志保……。

でも、そこに写っているのが志保じゃない別の誰かと入れ替わっても、たぶん、誰も気づきやしないのだろう。

誰もがうらやむ幸せを手にする人間が誰かだなんて、本当は別に誰でもよいのだ。

だって、ただ常識に従って生きてきただけで、本当に自分が望んで手にした幸せではないのだから。

同じように、志保の周りの人たちが、違うだれかに入れ替わっても、たぶん志保は気づかないのだろう。母親がいなくなっても、生活が大して変わらなかったように。家族が、友人が、カレシが、別の誰かと入れ替わっても、志保は何事もなく生きていくのだろう。

何一つ実体を伴わない空っぽの人生。誰もがただ役割をそつなくこなしていくだけの人生。まるで自分という存在が顔も名前もない靄でしかないような気がして、志保にとってそれはたまらない恐怖だった。

そんな恐怖が、志保にある願望を抱かせた。

それまで願望を抱かず、常識が求める役割を願望とすり替えて生きてきた志保が、はじめて抱いた願望。

それが「自分のこの人生を壊したい」というものだった。

自分のこの人生を壊して、常識にただ従うだけの人生を変えたい。

親の離婚や家族の崩壊よりもさらに強烈な、今いる場所にはもう二度と戻ってこれないくらいに、何もかも、徹底的に、完膚なきまでに、壊したい。

そうすることでしか、「自分」というものがつかめない。志保はそう思うようになっていた。

ふと、要領の良い志保が、どす黒い破壊願望を抱く志保をいさめるようにささやきかける。そんなことしてもろくな結末にならない。もっとよく考えろ。もっとうまい方法があるはずだ。

志保が最初に壊したのは、そんな要領の良い自分だった。そうやって要領よく最善のやり方を求めても、何かが変わったようで結局今までと何も変わらないような気がしたのだ。

後先考えずに壊す。きっと、それくらいのことしないと、また「ここ」に戻ってしまう。後先考えずに壊すことでしか、この恐怖からは逃れられない。

なにより、はじめて抱いた心の底からの願望、それも、計算高さとは真逆の感情を前に、「要領の良さ」はあまりにも無力だった。

黒い願望を抱いたまま検索を続ける日々が、何日か続いた。

その間も志保の変わりない日常が続いた。夏期講習に行って、家事をして、カレシにメールして、勉強するだけの日々。そこには、志保の人生を変えるなにかは転がっていはいなかった。ブレーキのない列車に乗り続けるかのような恐怖感は、日に日に強くなっていく。いや、元から抱いていた恐怖を、日に日に実感しているのだ。

ただ一つ、ネットの中に書かれた、悪魔の薬についての話だけが、志保が望む破滅をもたらす唯一の扉に見えた。

そして、「壊したい」はいつしか、「壊そう」へと変わった。

 

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観覧車は志保とタカユキを乗せて回る。上る。

東京から少し遠出しての遊園地デート。志保が最初に乗りたいと言ったのは、絶叫マシーンでもお化け屋敷でもなく、観覧車だった。

タカユキはもっとスリルがあるアトラクションが良かったらしいが、志保がどうしても乗りたいというので、折れた。

「でも、観覧車ってさ、たしかに景色はスゴイいいけど、地味じゃん」

観覧車に乗る前、タカユキはそうつぶやいた。

そう、観覧車は、地味だ。

大騒ぎすることもなく、黙って座っていれば、眺めの良い所へ行ける。

そこから見える景色を見て「きれいだねー」とつぶやく。ほんとは予想通りの景色でしかないことは隠して。

そうして、また同じ所へと戻ってくる。そうしたら、また別の客が乗り込むだけ。

観覧車に誰が乗ってるかなんて、どうでもいいことだ。

だが、観覧車がほかのアトラクションより優れているところを挙げるとすれば、それは気密性の高さだろう。

中でだれがどんな話をしてようと、決して外に漏れることはない。

志保はタカユキの手をぎゅっと握りしめる。高度が増すにつれて少しずつその力は強くなり、志保の鼓動も早くなる。

だが、それは高いところが苦手なわけではない。ましてや、恋のドキドキなんてものではない。

下を歩く人たちが、ピーナッツぐらいの大きさになった時、志保は切り出した。

「……なんかまたおごってもらっちゃって、ごめんね」

「いいって別に。余裕あるし」

「そんなに時給いいの? アイスとかチョコとか売るバイト」

「時給か……。時給で考えたことねぇから、わかんねぇや」

「ふーん」

志保は下を見た。ピーナッツよりさらに小さくなった人影と、自分の膝と、腰まで垂れた自分の髪が同時に見えた。

「それってさ……、今持ってる?」

「……ん?」

タカユキが志保の方を見たが、志保は下を向いたまま、彼を見なかった。

「アイスとか……チョコとか……」

志保とタカユキは、園内に入ってから、何も買うことなくこの観覧車に乗った。もしかしたらタカユキが板チョコを隠し持っててもおかしくはないが、アイスクリームなど持ってるはずがないのは、一目瞭然である。

それでも志保は尋ねた。「アイスかチョコは持っているか」と。

それが、志保が扉を開けるために用意したカギだった。もし、志保の推測が正しければ、タカユキは何かを察するはずだ。それで鍵があく。

志保のような常識を踏み外せない人間でも、ちょっと目をつむっている間に、確実に人生を破壊してくれるクスリの入った宝箱の鍵が。

「そっか……」

タカユキは志保の隣でため息にもつかない息を漏らした。

「ここにはないよ。センパイに電話すれば用意してもらえると思うけど……。でも、高いよ?」

そういってからタカユキは、一度言葉を切る。

「まあ、最初だけなら、俺が金払ってもいいけど……」

「またおごってくれるんだ……」

そういって志保は笑った。

最初はおごっても、どうせ依存から抜け出せず、何度も買い求めるすることになる。最終的には儲かるという計算なのだろう。

もしかしたら、最初から絶好のカモだと目をつけられていたのかもしれない。いや、今はそんなことはどうでもいい。

そうすることを決めたのは、まぎれもない志保自身だ。

青柳第二高校で脈々と、ドラッグの密売が受け継がれているという噂。

売り子の姿にタカユキがぴたりとあてはまるという推測。

そして、「アイス」が覚醒剤を、「チョコ」が大麻を意味する隠語である、というネットで簡単に出てくる事実。

「お菓子」や「スイーツ」ではなく、「アイス」や「チョコ」という言い方をしたタカユキの選択。

それだけでタカユキがそうだと決めつけるには確証が足らなかったが、鍵が開くかどうかを試してみるには十分だった。

なにより、「人生を壊す」という目的において、こんなチャンスはもう訪れないだろう。

そして、鍵は開いた。

志保の胸には、今まで感じたことのない充足感が広がっていた。

親や先生、常識に従うのではなく、はじめて自分の意志で何かを望み、何かを選択したのだという充足感。

それがたとえ「自分の人生を破滅させる」という決断だったとしても。

 

一つ一つを田代の前で言葉にしながら、志保の眼はいつの間にか涙にぬれていた。

なに、泣いてるんだろ。

全部、自分で決めたことなのに。

望み通り、観覧車のようにただ上って降りるだけだった志保の人生は、根元から壊せたのに。

きっと、田代が志保への失望を表情に浮かべるのを、見たくなかったから、目が涙でぬれるんだろう。

いつかのトクラの言葉が蘇る。破滅と背徳は甘美なのだ、と。

破滅を自ら望む人なんているわけない、そんな風に志保は考えていた。

でも、ちがった。クスリがもたらす想像を絶する快楽と絶望の狭間にもまれて、そもそものきっかけを志保は忘れていた。

誰よりも志保が、自分の破滅を望んでいたということを。

観覧車のように高い塔の上で、ラプンツェルが長い髪を垂らして待ち望んでいたのは、すてきな王子様なんかじゃない。

高い塔も、長い髪も、お姫様という役割も、何もかも壊してくれる、破滅そのものである。

「サイテーだよね……。意味わかんないよね……」

涙が志保の目からぽろぽろとこぼれる。おかげで、田代が今どんな顔をしているのか、志保にはわからない。

いい。わからなくていい。どうせ失望と幻滅と軽蔑といったところだろう。

でも、それは仕方ない。

志保はみずから破滅を望み、その道へと進んだのだから。その代償は甘んじて引き受けるべきだ。

そもそも、志保が徹底的な破滅を望んだのは、もう「あそこ」には戻らないようにするためだ。

それなのに、人並みに恋をしようだなんて。

恋をして、結ばれて、幸せになって、そんな甘い夢を描いてしまった自分がいた。

でも、その先にあるのは、きっと志保が恐れていた「常識に従うだけの人生」なのではないか。

そして「そこ」に戻ってしまった志保はきっとまたこう思うだろう。

「これが自分の人生なのか」

「こんなの、自分じゃなくてもいいんじゃないか」

「自分はただ役割を演じているだけなんじゃないか」

「本当に自分で選んで決めたのか」

本当に恐ろしいのは、悪魔のクスリなんかじゃない。

恐ろしいのは、空っぽの人生をまた歩んでしまうこと。

その先にある幸せが空っぽであると気づかずに、流されるままに追い求めてしまうこと。

そして、そんな人生を破壊したいという衝動をまた抱くであろうこと。その甘美な衝動からは逃れられず、どんな背徳的な手段を使っても、また自分の手で壊してしまうということ。

人は時に、自ら望んで手に入れたはずの幸せを、自ら壊してしまう。不倫だったり、DVだったり、虐待だったり、このような悲劇の不可思議なところは、それが望んだ幸せと祝福の延長線上にあるということだ。

幸福になることを望んで、望み通りの幸福を手に入れたはずなのに、なぜか自分の手でそれを壊す選択をしてしまう。

こんなはずじゃなかった。

私が望んだ幸せは、こんな形じゃなかった。

こんな現実が待ってるなんて、思っても見なかった。

それがもし、自分で望んだ幸せだったら、そのための選択と行動の結果だったら、きっとどんな代償にだって人は耐えられる。だって、自分で望んで、自分で選んだのだから。

耐えられなかった、壊したくなったということは、きっとそれは、実は自分で望んだものではなかったということなんだろう。自分で選んだように思えて実は、どこの誰が描いたともわからない「常識的な幸せ」に自分を落とし込み、そこで求められる役割を演じてきただけ。

それが積み重なると人は、「これは私の望んだ幸せではない」と、自ら壊してしまう。

今の志保にはまだ、自分にとって何が幸せなのかを自分で見つけ、自分で選び、自分で手に入れていくことができない。何が自分にとっての幸せなのか、今思い描いている幸せな未来は本当に自分で選んだものなのか、今の志保にはまだわからない。

なのにこのまま田代と一緒にいても、また目先の快楽と常識に引きずられてしまう気がした。そしてまた空っぽの人生を歩めば、きっとまた、自分の手で壊してしまう。

そんな未来が、そんな明日が怖い。

 

湧き上がる何かを押さえつけ、志保は言葉を発した。だが、もうその言葉も志保の耳には届いていない。田代の言葉も、顔も、もう志保には届いていない。

覚えているのは一番最後に「さようなら」と告げ、田代に背を向けたことだけだった。

 

つづく


次回 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」(仮)

第26話から続く「志保ちゃん三部作」の最後のエピソードです。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。志保、亜美、舞、そしてたまき……、それぞれの恋愛観が激しくぶつかり合う(?)「あしなれ」第26話スタート!


第25話「チョコレートの波浪警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

冬は夜の帳が降りるのが早い。

子供のころはなんだか、「早くおうちに帰りなさい」と空と街灯から諭されているような気がした。もう一日が終わるよ、楽しい時間はおしまいだよ、と。

だが、大人になると、必ずしも夜というのは一日の終わりというだけではない。ほのかなイルミネーションに彩られた町並みは、ともすれば昼間よりも美しく映える。

夜の繁華街の大きな道を、冷たい風をかき分けながら、志保は太田ビルへと向かって歩いていた。

バイト代を奮発して買ったコートとちょっと高めの靴、愛用のお気に入りのバッグ。メイクは薄めではあるが、それでも気合を入れてある。

つまりは、志保は今、デート帰りなのだ。

信号を渡り、いつもの歓楽街へと入っていく。太田ビルが近づくにつれ、「デート帰りの志保ちゃん」の顔から、「不法占拠の志保」へと戻っていく。

太田ビルに着き、コンビニのわきの階段を、息を切らせながら登っていく。

こういうところに不法占拠で住みついてることを、カレシである田代には話していない。いや、志保はもっととんでもない隠し事をしている。打ち明ける機会を逸したまま、一か月もたってしまった。

隠し事は、時に百年の恋も冷めるほどの危険性を秘めている。

そのことは、志保の心臓をいばらのように締め付けているのだが、それでもなかなか打ち明けることができない。

本当のことを知ったら、彼はどんな反応をするだろうか。自分のもとから去ってしまうんじゃないだろうか。

だが、隠し事をしたままでも、いずれ彼は去って行ってしまうかもしれない。

鞭で叩かれるのか、棒で叩かれるのか、どちらか選べ、と迫られているかのようだ。

どっちも嫌だ、と志保は先延ばししているのだが、先に延ばせば延ばすほど、その道の先には鞭か棒かの二択しかないと認めざるを得ない。

そして、鞭にしろ棒にしろ、先延ばしにすればするほど、その威力は強くなる。

なぜならきっと、先延ばしにすればするほど、志保は田代と離れがたくなるに違いないからだ。

離れがたくなればなるほど、「別れ」の傷は深くなる。

なるほど、トクラの言うとおり、それは破滅だ。

トクラはその破滅を楽しめばいい、という。恋の結末は大抵が破滅であり、破滅的で背徳的な恋ほど盛り上がるのだから、と。

人が背徳的なものに惹かれてしまう、というのは志保にも理解できる。

だが、破滅的なものに惹かれてしまう、ましてや、破滅を楽しめなんて、到底納得できない。

破滅したい人なんているわけがないし、ましてや、それを楽しめるはずがない。

 

息を切らせながら、5階にある「城」という名前の、キャバクラ跡地に入る。中にはソファーとイスが営業当時のまま残されているが、いまはそこに小型のテレビとか、ぬいぐるみとか、生活感あふれるものが置いてある。ゴミ捨て場で拾ってきたビデオデッキまである。

「ただいまぁ」

「おかえりー」

亜美が携帯電話の画面をのぞき込みながら言った。たまきは寝ているのか、ソファの上で丸くなって寝っ転がっている。

テーブルの上には、二人分のカップラーメン。時刻はもうすでに、夜の九時半を過ぎていた。

志保が田代と付き合うようになって以来、志保の帰りが遅くなることが増え、その分、亜美とたまきが夕飯をカップ麺やお弁当、ファーストフードですませることも多くなった。志保は申し訳なさを感じていたが、亜美は

「お前はうちの料理担当だけど、家政婦ってわけじゃねぇからな。ま、ウチらのことは気にせず、楽しんでこいや」

と言い、たまきはそもそも、食事なんて食べれればなんでもいいという感じだ。

「お風呂は?」

「いや、まだだ。お前もまだだろ? 十時半ぐらいになったら行こうぜ」

「城」にはさすがに風呂はないので、三人は近くの銭湯を利用している。二十四時間営業しているので、お金さえ払えば、いつでも入れる。もっとも冬場は、湯上りで夜の街を歩くのがちょっとした苦行なので、夕方のうちに入ることも多い。

「たまきちゃん寝てるんじゃない?」

「ん? 起こせばいいだろ」

志保はコートを脱ぎ、カバンをおろしソファに座り込んだ。

「あのさ……」

「ん?」

志保の問いかけに、亜美が返事をする。

「この前の話の続きなんだけどさ……」

「どの話だよ」

「……あたしがユウタさんに、ほんとのこと隠してるって話」

「誰だよ、ユウタって」

亜美はそんな名前、今初めて聞いたようだ。

「田代さんのこと」

「ああ、ヤサオのカレシか。アイツ、そんな名前だったのか」

亜美は携帯電話を閉じ、机の上に置いた。

「……やめようぜ。たまきが寝てる時にケンカしたら、なんか収まる気がしねぇよ」

「いや、そういうんじゃなくてね……」

志保はこの時になって、初めて亜美の方を向いた。

「付き合って一か月くらいになるんだけどさ、その、まだ言えてなくて……」

志保は胸元まで伸びた長い髪をいじりながら言った。

「わかってる……隠し事は良くないって……。でも、ほんとのこと言ったら、何もかも終わっちゃう気がして……」

「ま、フツーは別れるよなぁ」

亜美はあえて他人事のように言った。

「亜美ちゃんだったらどうする? 彼氏に言えないことがあって、でも言わなきゃって時、亜美ちゃんならどうする?」

志保は何かに縋るように亜美を見た。

「隠し事の内容によるなぁ」

亜美は志保の方を向くことなく答えた。

「知られると何となく恥ずかしいとか、そういうタイプの隠し事だったら、言いたくないなら言わなくてもいいと思うし」

「でも、あたしの場合は……」

「まあ、全然違うわな」

亜美は相変わらず、志保を見ない。

「ばれたら確実に驚かれる、ほぼ確実に別れる、ってタイプのやつだろ」

「うん……」

志保は現実から目をそらすように、亜美から視線を外す。

「……ウチだったら言うな」

「そうなんだ……」

「だってさ、どうせ別れるんなら、あとくされない方がいいだろ。隠し続けてバレたら、そのぶん、面倒なことになるだろ」

「うん……」

志保にしては珍しく、亜美の話に素直にうなづいている。

「だったら早い方がいいだろ」

「でもさ…、言ったら、別れるかもしれないんだよ?」。

「んー、そうだな」

「だったらさ、なるべく隠し通してさ、その、少しでも長続きするようにした方が……」

そう言いながら志保は、自分がこの前とは逆のことを言っているような気がした。

「だってさ……バレたら……その……破滅じゃない」

「なんだよ。破滅はヤなのかよ」

この時になって、亜美は初めて志保の方を向いた。

「……当たり前でしょ」

「あのさ、志保。どんな恋愛だって、いつかは必ず終わるんだぜ」

なんだか、この前もそんな話を聞いたような気がする。

「つーことはさ、今別れるのも、来年別れるのも、結婚して何十年かたって死に別れるのも、結局は一緒じゃんか」

「……一緒じゃないでしょ」

「一緒だよ一緒。要はさ、なんでそんな終わることビビってんだ? って話なわけよ」

そう言うと、亜美は煙草を一本取りだした。

「おい、吸っていいか?」

「……どうぞ」

亜美は慣れた手つきでタバコに火をつける。

「例えばさ、からあげがあるだろ? どんなにうまいからあげも、食べればなくなるんだよ。山盛りのからあげでもさ、食べ続ければなくなるんだよ。そんなの当たり前じゃん。からあげ食べながらさ、からあげがなくなるのやだっていう奴いないだろ? からあげがなくなることなんか、考えもしないで食ってるだろ?」

「……その例え話、よくわかんないんだけど」

「だからさ、オトコも一緒だよ。どうせいつか別れるんだよ。なのになんで別れることビビってんのかな? もっと今を、この瞬間を楽しめばいいじゃねぇか」

終わりが来ることを恐れずに今を楽しめ、という意味ではトクラの意見と一緒だ。だが、一方で亜美の意見とトクラの意見は正反対でもある。

トクラは、なるべく終わらないようにして長く楽しめと言う。

亜美は、いつ終わるのも一緒だからとっとと終わらせろという。

どちらが正しいのか、志保にはわからない。どっちも間違ってるのかもしれない。

でもたった一つ、はっきりと言えることがあった。

「あたし、終わらせるつもりないから……。別れるつもりないから……」

志保はソファの上に置いてあるクマのぬいぐるみを手に取ると、ぎゅっと抱きしめる。

「お前にそのつもりがなくても、クスリのこと話したら、別れることになると思うぞ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと黙ってるののか? それでバレたら、修羅場だぜ。百パー別れることになるだろうよ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと隠し通す気か? 隠し通せると思ってんのか?」

亜美は問い詰めるように志保を見る。

「……隠し通せるとは思ってないし、何より……隠し事はしたくない……」

「じゃあ、答えは決まりだろ。覚悟決めて、とっととホントのことを話すしかねぇだろ。まだ付き合って一か月だろ? 今言えば、ヤサオも理解してくれるかもしんねぇぞ。確率は低いけどな。でも、延ばせば延ばすほど、その確率はもっと低くなるぞ。お前、ウチより頭いいんだから、それくらいわかるだろ?」

「……うん」

志保はどこか納得できないようにうなづいた。

「でもさ……」

「でもなんだよ?」

亜美は少しうんざりした口調だ。

「ほんとのこと言ったら別れるかもしれないでしょ……」

志保はクマのぬいぐるみを抱きしめる腕に力を入れる。ぬいぐるみのクマは、少し苦しそうにゆがむ。

「そりゃそうだろ」

「それはイヤ……」

「じゃあどうすんだよ!!」

苛立った亜美は志保の胸からクマのぬいぐるみを強引に奪い取り、壁に向って投げつけた。ドンという鈍い音は、なんだかぬいぐるみがあげた悲鳴のようにも、志保の悲鳴のようにも聞こえた。

志保は立ち上がると、床に転がったクマを拾う。

「わかんないから聞いてるんでしょ!」

「お前、ウチが言ったこと全否定じゃねぇかよ! あれもいや、これもいや。じゃあこうするしかねぇだろって言っても、それもいや。話になんねぇよ!」

志保はクマのぬいぐるみを拾うと、再び胸の前でしっかりと抱きとめ、少し涙でにじんで目で亜美を見た。それを見た亜美はため息をつく。

「……きつい言い方したのは謝るよ。でも、ウチ、間違ったこと言ってっか?」

その時、亜美の視界の端で何かが動いた。亜美の視線がそちらに向き、それを見た志保も同じ方向を向く。

二枚のタオルケットにくるまって寝ていたはずのたまきが、いつの間にかメガネをかけてこちらを見ていた。

「ごめんね、たまきちゃん。起こしちゃった?」

「……いえ」

たまきは少し視線を下に泳がせていたが、やがて志保の方を見た。

「あの……」

「なに? どうしたの?」

「その……」

たまきが何か言いかけたとき、

「やめ! この話はもうやめ! もうラチあかねぇよ。たまきも起きたことだし、風呂入りに行こうぜ」

「……そうだね」

志保は寂しげにそう言うと、たまきの方を向いて

「たまきちゃん、気にしなくていいからね。ちょっと恋愛相談に乗ってもらってただけだから」

と、わざと優しく微笑んだ。

たまきはやっぱりなにか言いたげに下を見ていたが、志保はそれに気づくことなく、気持ちを切り替え、銭湯に行く準備を始めた。

 

写真はイメージです

そうこうしているうちに、暦は3月に入った。まだまだ冬の寒さは残っているが、それも日に日にあたたかくなっている。もうひと月もすれば上着を羽織ることもなくなるし、この公園も桜色に染め上げられる。

日付は三月三日のひな祭り。いつものごとく階段に腰掛けるミチとたまきは、ひな壇に構えるお内裏様とお雛様のようにも見える。

とはいえ、それは二人仲がよさそうだから、という意味ではない。たがいに目を合わすことなく、会話もなく、正面を向いているさまが、ただ人形を置いただけのようにも見える、という話だ。

だが、この日のミチは時折、たまきの方をちらりちらりと見ていた。

やがて、しびれを切らしたように口を開く。

「俺、このまえ誕生日だったんだよねぇ」

それを聞いたたまきは、ふうっとため息を一つはいた。

「……知ってます。四日前ですよね」

「なんだ。俺の誕生日がいつか、ちゃんとわかってんじゃん」

そりゃここ半月ほど、会うたびに「俺、そろそろ誕生日なんだよねー」と言われ続ければ、いやでも意識せざるを得ない。さらにそれが日に日に「来週誕生日なんだよねー」「五日後」「三日後」とカウントダウンまでされれば、さすがのたまきでもミチの誕生日がいつなのか見当がつく。

だから、誕生日当日は、公園にはいかなかった。ミチは「城」と同じビルのラーメン屋でバイトしているので、うっかり出くわさないように、その日のたまきは完全に引きこもった。もともと、ひきこもることに定評のあるたまきだ。「今日は絶対に外に出ない」と決めたら、その徹底ぶりは完璧だ。

さらに念には念を入れて、その後三日も公園で絵を描くことを控えた。

そして今日、さすがに誕生日から四日もたっていればもうそのことを話題にしないだろう、と思って公園に来たのだが、どうやらたまきの認識が甘かったようだ。

「たまきちゃん、プレゼントは?」

ミチがニコニコしながらたまきに尋ねた。

「……ありません」

たまきはミチを見ることなく答える。

「でも、バレンタインの時はチョコくれたじゃん。俺、知ってるぜ。なんだかんだ言ってたまきちゃんはちゃんとプレゼントくれる子だって」

たまきはそこでもう一つ深くため息をつくと、志保と亜美の言葉を思い出した。

『ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!』

『だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが』

たまき本人は認めたくないのだが、亜美と志保に言わせるとたまきは「警戒心が強い割に、実は押し切っちゃえばチョロい女」らしい。

そして、どうやらミチもたまきのことを「押し切っちゃえばチョロい女」だと思っているようだ。

「俺、知ってるぜ。たまきちゃんはなんだかんだいってちゃんとプレゼント考えてくれてるって」

ミチがニコニコを通り越してにやにやしながら言った。

「私……考えたんですけど……」

「うん、なになに?」

「……私がミチ君にプレゼントする理由がないんですけど」

そこで初めて、たまきはミチの方を見た。

「え?」

ミチとしては想定外の回答だったらしい。

「誕生日プレゼントをあげる理由がないのに、プレゼントをあげなきゃいけないなんて、おかしいですよね? おかしくないですか?」

仙人曰く、誕生日はその人と出会えたことを感謝する日だという。

だが、たまきはこの男と出会えてよかったなんて、ちっとも思えない。

「いやいや、理由がないってことないでしょ~」

ミチはわざとおどけたような笑顔で言った。

「ほら、俺、いつもたまきちゃんと仲良くしてるし」

「……私だって、これでもミチ君と仲良くしてるつもりです」

そう言いつつも、たまきの視線はまたミチを外れ、正面を向いている。

「仲良くしてるからって、私ばっかりミチ君になにかあげるのって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「まって! ちょっと待って!」

ミチはたまきの言葉を片手で制した。

「俺、たまきちゃんの誕生日祝ったじゃん!」

「そうですね」

たまきはまたしてもミチを見ることなく答えた。

「そうだろ? だから、俺ばっかりなにかあげてるって言い分はおかしくない?」

「私、あの後、ミチ君のことかばって、嫌な思いしました」

二人の間に、三月にしては少し冷たい風が吹いた。

「私の誕生日の件は、あれでチャラになったと思います。むしろ、マイナスです」

「いや、でもその後、うちに来て飯食ったじゃん! あれ、うちのおごりだぜ?」

「あれでプラスマイナスゼロです」

たまきは絵を描く作業をやめる気配がない。

「それに、あのあと私、ミチ君にチョコあげてます。そのお返し、まだもらってません。なのにまた私がなにかあげるって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「いや……でも……」

ミチは何かを必死に探すように空を見上げる。

「でも……ほら……たまきちゃん、俺の歌が好きだって言ってたじゃん」

「今は嫌いになりました」

そこでたまきは、再びミチの方を向いた。

「そもそもあなたのことも嫌いです」

そう言うとたまきは立ち上がった。

「私、帰ります」

たまきはスケッチブックをリュックにしまうと、そのままミチを見ることなくすたすたと階段を上って行ってしまった。

後にはギターを抱えたミチが残されていた。もはや、風の吹く気配もない。

 

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「お前、まだ言ってないの?」

手にした包帯の束を伸ばしながら、舞があきれたように言った。

志保とたまきが二人でいるときに、たまきが何週間ぶりかのリストカットをしたので舞が「城」へと呼び出された。「城」に舞の自腹で置かれた救急箱を使って、たまきの傷を処置していく。

そのさなか、志保が舞に、亜美にしたのと同じ相談を持ち掛けたのだ。

「はい……すいません……」

「やれやれ……オトコができたと聞いてたから、どうなるもんかと心配してたらこれだよ……」

舞はため息をつきながら、たまきの右手首に包帯をぐるぐると巻いていく。

たまきは、黙って志保の方を見ていた。

「それで……、先生はどう思いますか……。その……クスリのこと……ちゃんと言った方がいいでしょうか……」

「まず、言うべきか言わないべきかの二択、っつーのが間違ってる」

舞はきっぱりと言い放った。

「正直に言う以外に選択肢はない。言いづらいのや言いたくないのはわかる。でも、言うべきか言わないべきかじゃない。言うしかないんだよ」

舞はたまきの手首の包帯をきつく結び付けると、まっすぐに志保を見た。

「それがお前の果たすべき責任だ」

「でも……その……クスリのこと言ったら、カレはあたしから離れて行っちゃうんじゃ……」

なんだか、毎回同じようなことを言っている気もする。

「そんなの仕方ねぇだろ」

舞は少し呆れるように言った。

「お前が今日まで頑張ってきたのは知ってるからこういう言い方したくはないんだけどさ、自業自得ってやつだよ」

「そうですよね……」

志保はそう言って下を向いたが、やはりどこか納得していないようだ。

「でも……あたし……絶対に別れたくないんです……」

「そもそも、クスリのこと、まだまだ問題は山積みなのに、オトコを作る方が悪い」

舞は犯人に詰め寄る刑事みたいな口調で言った。

「一生オトコを作るなとは言わない。だがな、そういうイロコイは、ちゃんと自分に向き合えるようになってからしろ。何もかも中途半端な状態でオトコ作って、別れたくないなんて、そんなん通るわけねぇだろ」

舞は救急箱を片付けながら言い放った。

「いいか、人として未熟な奴が形だけの幸せを手にしたところで、いつか必ずそのしわ寄せが来るからな。それはお前に来るかもしれないし、相手の男にかもしれないし、周りの人間かもしれない。下手したら、将来生まれてくるお前の子どもにしわ寄せがいく、なんてこともあるかもな」

志保はなんだか、激流に流される人が藁を必死につかむかのように、スカートのすそを握りしめていた。

「そうですよね……。あたしにカレシ作る資格なんてないですよね……」

それを見ていた舞は、額に手を当てる。

「あー、悪い。ちょっと言い方きつかったな。いや、お前ぐらいの年の子がカレシ作りたがるのはわかるよ。ああ、痛いほどわかるさ。だけど、お前は今そういうことする状況ではないよな、って話よ。わかるだろ。カレシ作る資格がないんじゃない。カレシ作る状況じゃないって話だよ」

志保は仏さまがクモの糸を垂らしてくれたかのように、舞の方を見た。

「恋人の存在が薬物依存に立ち向かう力になるってことも、無きにしも非ずだからな。恋をするなとは言わん。だけど、それは相手に理解があってこそだ。クスリのこと聞いた途端にしっぽ撒いて逃げ出すような男と付き合っても、ロクなことにならねぇぞ」

「それは……わかってるんですけど……」

「その、ユウタだっけ、そいつがお前をちゃんと支えてくれる男かどうかを確かめるには、言うしかないんじゃないの?」

「でも……言ったら別れることになるんじゃ……」

「だから、そこで理解してくれないような男と無理して一緒にいても、絶対ハッピーエンドになんてならねぇって」

「でも……」

その後に続く言葉が、舞には予想できた。

「って言うかお前、ここ最近、ずっとそれで悩んでたのか? それで深刻そうな顔してたのか?」

「え? あたし、そんな悩んでる様に見えました?」

さっきまで思いつめたような顔をしていた志保だが、舞の言葉が意外だったのか、少し表情が和らいだ。

「たまきがリスカしたっていうから来てみたら、玄関にいたお前があんまりにも深刻そうな顔してるから、たまきじゃなくて志保がリスカしたのかと思ったくらいだ」

「そうですか……」

志保は再び、それこそ深刻そうにうつむいた。

舞の隣に座っていたたまきは、新しく巻いてもらった右手首の包帯をさすりながらも、切なげに志保を見つめていた。

 

2対1。田代にクスリのことを言うべきか言わないかで人に聞いてみた結果、3人に聞いて二人が「言うべき」、一人が「言わなくていい」。今のところ、2対1で「言うべき派」の勝ち越しだ。

この点差ならまだまだわからない。次の1点が「言わない派」に入れば、2対2の同点である。

でも、そんなに人の意見ばかり集めていったい自分はどうするつもりなのだろうか。舞が帰った後の「城」で、志保はひとりひざを抱えて考え込む。

「言わなくてもいいよ」という一言を誰かに言ってほしいだけなんじゃないだろうか。

そう考えると、トクラの答えが一番志保が望む形に近いと思うのだが、トクラは「どうせいつか破滅するんだから、すぐに言わなくていいよ」という考え方である。そこが志保の求める答えとは違う。

クスリのことは「言わなくていい」、でもこの恋は「きっと結ばれる」、そんな都合のいいことを言ってくれる人を探しているのだ。

でも、いつまでこんなことを続けるんだろう……。

 

写真はイメージです

「あの……」というたまきの呼びかけで、志保は我に返った。

「ん……どうかしたの、たまきちゃん」

反射的に、志保は笑顔と作って答えた。

たまきはソファの上に寝ころんでいた。うつぶせになって志保にお尻を向け、頭からはすっぽりとタオルケットをかぶっている。

「……舞先生も言ってましたけど、最近、志保さん、すごく悩んでいるように見えます……」

「そ、そう? そう見える? そうなんだ、あははは……。大丈夫だよ。大したことないから、心配いらな……」

「そんなわけないです」

たまきは姿勢を変えることなく言った。

「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……。なんだかこのまま、遠くに行ってしまいそうな気がして……怖いです……」

「……そう」

部屋の中は蛍光灯で照らされていいるにもかかわらず、壁から染み出したうすい靄のような影が、じわじわと二人の周りを覆って、闇を作り出しているかのようだった。

しばらく静寂が続いた後、たまきが口を開いた。

「……どうして、私には何も聞いてくれないんですか?」

「え?」

「亜美さんにも、舞先生にも、カレシさんのこと聞いてましたよね。私だって、志保さんが悩んでるなら力になりたいです。でも、どうして私には何も聞いてくれないんですか。」

靄のような影が、たまきの周りにまとわりつく。

「……私に恋愛のこと聞いたって、どうせわかるわけない、そんな風に思ってるんですか?」

「そんなこと……!」

思うはずがない、志保はそう言おうとしたが、言葉が続かなかった。

たまきに恋愛のことを相談してもわかるわけがない、と志保が明確に思っていたわけではない。

それでも、亜美にも舞にも、そしてトクラにもした相談を、たまきにはしなかった。そんな選択肢を思いつきもしなかった。

無意識のうちに「たまきに相談する」という選択肢を外していたのだ。つまり、心のどこかで「たまきに聞いたってわかるわけがない」と、知らず知らずのうちに思ってしまっていたのだ。

「確かに……私は恋愛とかカレシとか、そういうのには疎いのかもしれません……」

たまきは相変わらず、頭からすっぽりとタオルケットをかぶったままだ。なんだか、床に無造作に投げ置かれた雑巾のようにも見える。

「でも……ちゃんと見てますよ。志保さんのことも、亜美さんのことも、ミチ君のことも……」

「うん……」

志保の頭の中に、先ほどたまきが言った「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……」という言葉が響いた。

「たまきちゃん、あたし、どうしたらいいと思う?」

「……志保さんは、『カレシさんに言わなくていいよ』って言って欲しいんですよね」

たまきの言葉に志保は驚きつつも、無言でうなづいた。たまきはそれを見ていないが、空気から察したかのように、言葉をつづけた。

「でも……、私は、ちゃんと言わなきゃいけないって思います」

「うん……わかってる……」

そう、最初からわかっていたのだ。そんなの、人に聞かなくたって最初からわかっていたのだ。「すべてを打ち明けなければいけない」と。

「でも……あたし、ユウタさんと別れたくない……」

何度目だろう、このセリフを言うのは。

「……わかってます」

たまきは静かに告げた。そして、こう続けた。

「でも、それは志保さんのわがままです」

「……わが……まま?」

「はい。クスリのことを知って、志保さんと別れるかどうするかを決めるのは、志保さんじゃなくて、田代って人です。でも、このまま何も言わなったら、何も知らなかったら、田代って人はそれを悩むこともできないんです。それに、言うのがおそくなったり、あとからほかの人に知らされたりすれば、田代って人は余計に傷つくと思います」

たまきはタオルケットをすっぽりとかぶったままだ。だから、志保からたまきの表情をうかがい知ることはできない。

「私には、『人を好きになる』っていうことがどういうことなのか、まだわかりません。でも、もしそれが、自分より相手の方が大切だっていう想いなのだとしたら、どうして相手の人の幸せを一番に考えないんですか? 相手の人の幸せを一番に考えなきゃいけないのに、自分が嫌だから言いたくないとか、自分が嫌だから別れたくないとか、それっておかしいですよね。おかしくないですか?」

そこでたまきはようやく起き上がると、志保の方を向いた。メガネをかけていないその顔は、いつもより少し大人に見えた。

「それとも志保さんは、田代って人より、自分のこと方が好きなんですか?」

そんなことない。志保はそう言い切りたかったが、またしても言葉が出なかった。

志保は、これまでのトクラや亜美、舞との会話を思い返す。

そして気づく。いつだって主語は「あたし」だったということに。

あたしは、言いたくない。

あたしは、別れたくない。

あたしは、あたしは、あたしは。

「志保さんが田代って人にクスリのことを話して、お別れすることになったとしても、田代って人にとってそれが一番幸せなことなら、それは仕方ないことなんだと思います。志保さんにとってそれはつらいことかもしれませんけど……」

そこでたまきは一度、言葉を切った。そして、今までで一番強い口調で続けた。

「……でも、志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!」

そこまで言うとたまきは急に恥ずかしそうに下を向いた。

「……なんかすいません、私なんかがえらそうに……」

「ううん。大丈夫。ありがとう」

志保は何かを観念したかのように息をついた。

三対一。でも、最後の一点は他のどの一点よりも強く、そして、温かかった。

 

歓楽街のちょうどど真ん中に、小さな神社がある。弁天様を祀っているらしく、その周辺はちょっとした空地になっている。

亜美たちは知る由もないが、はるか昔、この歓楽街には川が流れていた。その川も埋め立てられ、今では多くのお店が立ち並び、ホストの看板で彩られ、バスが走っている。水のカミサマである弁天様は、この街にかつて川があったころの名残だ。

その空地の一角で、志保は田代を待っていた。鼓動がいつもよりも早く、そして力強く、それこそ濁流のように血流を押し流す。

少し離れたところで、亜美とたまきが志保の様子を見ていた。たまきは黒いニット帽を、亜美はピンクのニット帽をかぶっている。

亜美は

「ウチら、その辺に隠れてようか?」

と提案したが志保は首を横に振った。

「ううん、近くにいて。二人にも聞いててほしいの」

やがて、路地の奥から田代が姿を現した。バイトの帰りらしく、ラフなジャンパー姿に、リュックを背負っている。

田代は志保を見つけると笑顔で手を挙げた。志保も軽く手を挙げるが、その顔に笑顔はなかった。

「どうしたの、話って」

田代は勤めて笑顔だったが、やはりこれからの会話にどこか不安を感じているかのようだった。

志保は一度大きく息を吸った。頭の中でたまきの言葉を思い出す。

『志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!』

志保は息を吐いた。三月の空気はまだまだ冷たく、志保の吐息を白く変える。

やがて吐息は空に消えたけど、志保の中にある煙のようなさみしさは消えることはなかった。

それでも、志保は話を切り出した。

「……お別れを言いに来たんです」

それが、志保の出した答えだった。

つづく


次回 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

志保ちゃんの過去編です。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第25話「チョコレートの波浪警報」

今回はバレンタインデーのエピソード、バレンタインデーに真剣な志保と、バレンタインデーを含めたあらゆるイベントごとが苦手なたまき、バレンタインデーに興味があるのかないのかよくわからない亜美、それぞれのお話です。それではあしなれ第25話、スタート!


第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

昼間のスナックほどおかしな空間はない。

スナックとは本来、夜に営業するつもりで作られている。だから、窓がない店が多い。窓をつけたって、どうせ日の光は入ってこないのだ。

さらに、店内の照明がうすぼんやりとしている店も多い。都会の夜の闇に溶け込み、夜の闇を楽しむための空間。それがスナックだ。

だからなのか、絵に描いたような青空が広がる昼間にスナックを訪れると、そこが「昼間」という時間から隔絶された空間であるかのように思える。ドアをくぐった瞬間、空間が歪むのだ。

「そのあと」というヘンな名前のスナックも、そんなうすぼんやりとした影をたたえた店だった。

「東京は城のようだ」と誰かが言ったが、東京を代表する大きな駅から坂道を下り、まるで東京という城のお堀のような閑散とした住宅街の中に、スナック「そのあと」はたたずんでいる。

「ランチタイムやってないの? 昼間もママの料理食べたいよ。絶対繁盛するって」という常連のおじさんにそそのかされた若き雇われママさんが、週に二回、ランチタイム営業をやっているのだが、これがさっぱり人が来ない。

やっぱり、周囲にオフィスが全然ないという立地が悪いのかしら、と若きママは考えているのだが、ママの弟に言わせると「全然宣伝とかしてないからじゃねぇの?」。

「だったら、ミチヒロがうちのCMソング作ってよ。で、その辺の路上で歌って宣伝してきてよ」

と若きママは、「プロのミュージシャンになる」と豪語する弟に提案するのだが、弟は「オレ、そういう商業的な歌は歌わないの」とずいぶんと生意気なことを言っていた。

時計は午後一時を回り、店のわきに置かれたテレビの中では、ライオンの着ぐるみがサイコロをぶん投げている。若きママは誰もいない店内で、大きなあくびをした。

その時、ドアがかちゃりと開いて、ちりんちりんとドアのベルが鳴った。

「いらっしゃい」

わずかに開いたドアの隙間から、誰かが中をうかがうようにのぞき込んでいる。

「あ、営業してますよ。大丈夫ですよ」

ドアはきい……と、風に揺らされているかのように開いた。外の光がこぼれてくるのと同時に、中学生くらいに見える、背丈の低い女の子が入ってきた。

「あ、たまきちゃん! いらっしゃい!」

若きママが女の子の名前を呼ぶと、そのたまきという女の子は、ロボットのようなぎこちなさと丁寧さで

「こんにちは……」

と言って頭を下げると、カウンターの一番左端の席を指さして、

「あの……ここ……座って大丈夫ですか?」

と若きママに尋ねた。若きママがにっこりとほほ笑むと、たまきはスカートのすそを引っ張りながら、その椅子に腰かけた。

そのしぐさがどうにも、子どものころにかわいがっていた黒猫にそっくりで、若きママは思わず笑いそうになった。「クロ」と名付けてかわいがっていた黒猫が、若きママが弟と一緒に暮らしてた施設の敷地に初めて迷い込んできた時も、ちょうどこんな感じだった。

たまきは五百円玉をカウンターの上に置いた。

「あの、焼きそばお願いしても大丈夫ですか?」

「焼きそばね、了解。お金は食べ終わってからでいいからね」

若きママの言葉に、たまきは恥ずかしそうに五百円玉を引っ込めた。

若きママは少しからかうように

「お酒は何にする? ハイボール?」

と尋ねる。

「え?」

たまきは困惑して、それこそ猫のように目を丸くした。

「あ、あの、私、その……」

「冗談だってば」

若きママは歯を見せて笑うと、冷蔵庫から焼きそばの袋を取り出した。

ものの数分でほかほかのソース焼きそばがたまきの目の前に置かれた。

たまきは割り箸を手に両手を合わせると、

「いただきます」

とつぶやいた。力を入れて割りばしを割る。たまきは割りばしがしなって割れる瞬間が、本当に苦手だ。どうせ箸を作るなら、割ってから出荷してくれればいいのに。

ソース焼きそばを口へと運ぶ。なんだか、昔、たまきのお姉ちゃんが作ってくれた焼きそばを、数年の時を経てようやく口をつけているような気がした。

ふと、顔をあげてみると、カウンターの中に若きママことミチのお姉ちゃんの姿がなかった。

どこかに行ったのかとあたりを見渡してみると、背後に気配を感じ、たまきは驚いて振り返った。

ミチのお姉ちゃんは、たまきの真後ろにいた。ニコニコしながら、たまきを見ている。

もっと正確に言えば、たまきのお尻あたりをニコニコと眺めていた。

「あ、あの……私の、その、おしりに、なにかついてますか……」

「いや、何もついてないんだよねぇ~」

そう言いながらミチのお姉ちゃんはたまきのお尻、特に尾骶骨あたりをしげしげと眺めた。

「ネコみたいだから、黒いしっぽでもついてるんじゃないか、と思ったんだけどねぇ」

そんなわけない。たまきはそう思った。

「知ってる? ネコって、しっぽで気持ちがわかるんだよ。ピンと立てている時はうれしい時、しっぽを丸めてるときは怖がってる時、しっぽをばたばた振ってるときは嫌がってる時、昔飼ってたクロはねー、なでるとよくしっぽをばたばた振ってたんだよ」

だから、嫌がってる、とわかっているのに、どうしてなでるのだろう。

「ネコってしゃべらないけど、ちゃんと気持ちは表現してるんですね」

「ね、たまきちゃんそっくり」

「え?」

たまきは驚いたように、ミチのお姉ちゃんの目を覗き込んだ。

「ほら、今も、すごい驚いたような顔してる。あんまりしゃべんない子だなって思ったけど、その分、顔にすごい出るよね、たまきちゃん。だから、見てて面白いよ」

そんなわけない。そんなわけない。

たまきは、強くそう思った。

今まで、人からそんな風に言われたことなんてない。

むしろ、「表情が乏しい」といったようなことをよく言われてきた。

親からは「何考えてるかわかんない子」と言われ、亜美からは「それで笑ってるつもりなのか?」と呆れられ、志保にご飯の感想を「おいしいです」と告げれば、「本当に? 無理しておいしいって言わなくていいんだよ?」と疑われる。

ミチに至っては、たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、それを態度に反映させようという姿勢が全くない。たまきが怒っている時にさらに怒らせるようなことを、たまきが恥ずかしがっている時にさらに恥ずかしがるようなことを、たまきが落ち込んでいる時にさらに傷つけるようなことを平気で言う。

それが、たまきの気持ちをわかっていてわざと嫌がらせをしている、というのであれば、もうこんな人とは関わらない、で済むのだが、そうではないから始末が悪い。

あの人はきっと、たまきが何考えているかなんて、これっぽっちもわかっていないのだ。たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、全部いつもとおんなじ表情に見えているに違いない。たぶん、ミチはそのクロっていうネコが嫌がっていることをそもそも気づかずに撫でていたんだろう。

そんなだから、そのミチのお姉ちゃんがたまきのことを「顔にすごい出る」と評したのは、意外としか言いようがなかった。

そう言えば、以前にも同じようなことを一度だけ言われた気がする。誰だったっけ。

「私……あんまり顔に出ないって言われます……」

ミチのお姉ちゃんに表情を読み取られたことが少し恥ずかしくなり、たまきはうつむきがちに言った。

「そんな恥ずかしそうに言わなくても」

またしても心を見抜かれ、たまきはますます恥ずかしくなった。もしかしたら、ミチのお姉ちゃんには超能力でもあるんじゃないか。ばかばかしい考えだが、その方が「たまきは顔に出やすい」という説よりも現実味がある気がする。

たまきは五百円玉を差し出し、二十円を受け取って、お店を出た。

空には雲一つない冬の青空が広がる。さっきまでのうすぼんやりとした空間なんて、まるで存在しなかったかのようだ。

たまきは、歓楽街へと帰る坂道を、とぼとぼと登り始めた。

坂道を登りながら、たまきの頭の中で、なにかがぐるぐると回る。

この前は「ネコに似てる」と言われ、今日はさらに「顔に感情が出やすい」と言われた。

あの店に行くと、ミチのお姉ちゃんに合うと、たまきが思ってもいなかったたまきを突きつけられる。

でも、もしかしたら、「自分が思っている自分」の方が間違っているのかもしれない。

何せ、普段は自分で自分の顔を見ることができないのだ。自分が人からどう映っているのか、わからないのだ。

よくよく思い返せば、たまきは自分の「笑顔」を知らない。鏡の前で笑顔の練習をしてみたことならあるが、そこに映っていたのはあくまでも「練習している笑顔」でしかない。

そうではなく、亜美や志保との暮らしの中で、ごく自然に出る笑顔、亜美や志保が見ているであろうたまきの笑顔を、たまき自身は知らないのだ。せいぜい、誕生日の時に撮ってもらった写真に写る、ちょっとカタい笑顔を見たくらいだ。

そんなことを考えながら、一つ思い出したことがあった。

『たまきってすぐ顔に出るから』

昔、たまきにそういったのは、たまきのお姉ちゃんだった。

たまきのお姉ちゃんも、もしかしたら「たまきが思っているたまき」とは全然違うたまきを見ていたのかもしれない。そして、ひょっとしたら、そっちの方が本当のたまきなのかもしれない。

たまきは踏切で足を止める。目の前を列車が轟音をあげながら通過する。クリーム色に近い白の車体に、青いラインが走っている。走り去る列車を見つめながら、ふと思う。

たまきの姉やミチの姉が見ているたまきが実は本当のたまきなのだとしたら、ここにいるたまきはいったい誰なのだろう。

 

写真はイメージです。

たまきは冬が苦手だ。

別に、寒いから苦手なわけではない。むしろ、気候で行ったら冬よりも夏の方が苦手だ。

たまきが冬を苦手とするのは、クリスマス、お正月、バレンタインデーと、たまきの苦手な「イベント」が目白押しだからだ。最近ではハロウィンもある。どうしてみんな、あんなにもイベント好きなんだろう。何も楽しいことなんてないじゃないか。

そして、たまきの嫌いな「イベントの冬」ももうすぐ終わる。最後のイベントであるバレンタインデーが間近に迫っていた。一か月後にはホワイトデーがあると言えばあるが、どういうわけか、そっちはあんまり盛り上がらない。

亜美、志保、たまきの三人は、デパートで行われていた「チョコレートフェア」なるものを見に来ていた。

正直、たまきはチョコに全然興味がない。チョコをあげたい男の子もいない。そもそも、甘いものは別に好きじゃない。

だが、あんまりイベントに背を向けすぎると、かえってみじめになる気がしてついてきたのだが、やっぱり興味がないものは興味がない。

一方、志保は、興味があるを通り越して、もはや切実な問題とでも言いたげにチョコを見て回っている。

数日前、田代とともに映画を見に行った志保は、ものすごい上機嫌で帰ってきた。

「どうした。コクられたのか?」

と茶化す亜美に対して、

「そうなの! 聞いて聞いて!」

と、じゃれつくウサギのように志保ははしゃいだ。

「なに!? マジで!?」

と、亜美もしっぽを振る子犬のように飛びつく。たまきだけが、まるで水槽の中の熱帯魚でも見るかのように、少し離れた場所から二人を見ている。

「映画見終わって、食事して、そのあと街を歩いてたら、田代さんが……」

そこで志保はいったん言葉を切った。

「『なあ、俺たち、付き合わない?』だって!」

と志保は顔を赤らめて、亜美の肩をバンバンと叩いた。

「で、お前はなんつったの?」

「『うん、いいよ』って!」

「で、その後どうしたんだ? ヤッたのか?」

「やだもう! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」

志保は再び、亜美の肩をバンバンと叩いた。

その様子を、たまきは少し離れたところからぼんやりと眺めている。

『付き合わない?』

『いいよ』

お互いに、好きだとは言ってないし、好きということを確かめてもいないけど、それでいいのかな。そんなことをぼんやりと考えながら。

 

時は戻って現在。志保はチョコ売り場の中をウロチョロしながら、チョコを品定めしている。

「なんだ、まだ決めてねぇのか。ま、『本命』チョコだから、仕方ねぇか」

亜美はわざと「本命」を強調した。それから、口の横に手を当てると、

「みなさ~ん! この女、本命チョコえらんでますよ~! おい、リア充がいるぞ~!」

「もう! ちょっと黙っててよ」

と志保が亜美の方に近づいてくる。

「あれ? 亜美ちゃんもチョコ買ったの?」

「あ? ああ、友チョコだよ、友チョコ」

亜美が手にしたお店の袋を無造作に振り回した。

志保は陳列されていた、ハート形のチョコを手に取る。

「これまた、あからさまな本命チョコですなぁ」

と笑う亜美と、口をとがらせる志保。亜美は今度はたまきの方を向いた。

「お前はチョコ買わないの?」

「……別に」

「ミチにあげたりしねぇの?」

「なんでですか?」

たまきは心の底から不思議そうに、亜美の方を見た。

「いや、別に、本命チョコじゃなくても、義理チョコでもあげとけば、あいつ、しっぽ振って喜びそうじゃん」

「……あげる義理がないです」

そう言ってたまきは、視線を志保の方へとむけた。志保はまだチョコを選んでいる。右手と左手、それぞれにハート形のチョコを手に持ち、見比べている。

たまきは正直、どっちでもいいような気がしてきた。

 

写真はイメージです。

それから数日後、たまきは例によって、いつもの公園のいつもの階段に腰を下ろして、絵を描いていた。

ふと、背後に人影を感じる。

「お、たまきちゃん来てるな?」

ミチの声だ。

「来てますよ」

たまきはミチの方を見ることなく答えた。

ミチは階段を降りると、たまきのすぐ横に腰掛ける。たまきはすっと体をスライドさせ、ミチとの距離を開けた。

いつもならミチがギターケースを置き、ギターを取り出す音が聞こえてくるものだが、それが聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、紙袋をがさがさと広げる音。

ちらりとミチの方を見ると、珍しくギターケースを持ってきていない。

「今日は歌わないんですね」

とたまきが言うと、

「この後バイトだし、そのあとは先輩たちと飲みに行くから」

ミチの年齢だと、飲みに行ってはいけないはずなのだが、たまきは面倒くさいのでそこはスルーした。

「じゃあ、何しに来たんですか?」

「何しにって、たまきちゃんからチョコを貰いに来たんだよ」

あれ? とたまきは思った。そんな約束、してたっけ?

絵を描く手を止め、大急ぎでたまきは頭の中に検索をかける。ミチにチョコをあげるなんて約束をしたかどうかを調べるが、そんな記憶は全くない。念のため、なにか勘違いさせるようなことを言ったのではないかとも考えたが、そちらも全く心当たりがない。

「そんな約束、してないと思うんですけど……」

「え? だって今日、バレンタインデーだよ?」

そこでたまきは初めて、今日が二月十四日であることを知った。なるほど、だから今朝、志保が妙にうきうきしていたのか。

だが、バレンタインデーだからなんだというのだろう。

「バレンタインデーだと、なんで私がミチ君にチョコをあげなければいけないんですか?」

「え? だって、たまきちゃん、女の子じゃん」

もしかして、この男はバレンタインデーのことを「女子が男子を見るや否や、無差別にチョコをばらまく日」とでも勘違いしているのではないだろうか。

「……その紙袋は何ですか?」

まさか、たまき一人から紙袋が埋まるほどのチョコを期待しているとでもいうのだろうか。たまきは二木の菓子ではない。

「いや、この後バイト先でもらって、先輩たちと飲みに行った先でもらうからさ」

「……貰うって、それはもう決まってるんですか?」

「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」

どうも会話がかみ合わない。「バレンタインデーを忘れるほど興味のない女子」と「バレンタインデーに過剰な期待をする男子」が会話をすると、こういうことになるらしい。

たまきは、絵を描く作業に戻った。しばらくの間、沈黙が続く。

「たまきちゃん、チョコは? まだ?」

「……持ってません」

これまでの会話の流れから、たまきがチョコなんか用意してないことくらい、気づかないのかな。

「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」

ミチの返事は、たまきの予想と一言一句同じだった。隣からはあからさまに、紙袋をがさがさと広げる音がする。

「チョコこじき」、そんな言葉がたまきの頭をかすめた。

 

写真はイメージです。

バレンタインデーの起源は、ローマ帝国にあるという。

ローマ帝国では兵士の結婚を禁じていた。故郷に恋人や妻がいれば士気が下がるからだという。確かに、「俺、この戦争が終わったら田舎に帰って結婚するんだ」と語る兵士に限って、戦争が終わるまで生き延びることがない。

だが、キリスト教の司祭だったバレンタインは兵士たちのために隠れて結婚式を執り行っていた。しかし、そのことがばれんた、いや、ばれたために処刑されてしまう。その処刑された日が二月十四日だった。

バレンタインデーの正体は、実はバレンタインさんが処刑された命日だった。そんなことを語るシスターの話を、志保はぼんやりと聞いていた。起源がどうあれ、重要なのはその後の歴史、そして、今日を生きる志保たちがバレンタインデーをどうとらえているからだ。バレンタインさんは恋人たちのために尊い犠牲になったのだ。それは二千年前も今も変わらない。合掌。

シスターによる簡単な講義が終わった後は、チョコレート交換会が始まった。志保が通う施設は、何も四六時中「依存症とは何か」などと暗い顔をしているわけではない。むしろ、イベントごとをみんなで楽しむことを更生への一環として、積極的に取り入れている。

各自それぞれ、箱サイズのチョコを持ち寄ってテーブルの上に置き、みんなでつまみあう。ただし、アルコール依存の人もいるので、ウイスキーボンボンのようなタイプのチョコはNGだ。

「これ、神崎さんの?」

トクラが志保の持ってきたチョコを手に取る。

「はい」

「ふうん」

トクラはそのチョコをしげしげと眺める。

「本命は別にちゃんといる、ってことか」

そう言って、トクラは包みの銀紙からチョコをはぎ取り、口に放り込んだ。

「え、なんでわ……」

そこまで言って、志保は自分の反応がほぼ「イエス」と言っていることに等しいと気づいた。別にカレシがいることを隠すつもりはないが、トクラに知られると、なんだか後々面倒な気がするのだ。

トクラは志保にそっと近づくと、耳打ちするように言った。

「お相手はどこまで知ってるの?」

そう言ってトクラは悪戯っぽく微笑んだ、ような気がした。実際には見てないけど、そんな気がした。

志保は何も答えなかった。答えられなかった。

沈黙。

それだけで、トクラは大体のことを察したかのようだった。

志保は、田代に対して「現在」を何も教えていない。田代の中での志保は、都内の高校に通う女の子、という認識のはずだ。

嘘、とも言い切れない。少なくとも一年ほど前までは、志保は「都内の高校に通う女の子」だったのだから。

そこから先のことを語っていないだけだ。嘘をついているのではない。沈黙を貫いているだけだ。

そうな風に自分に言い聞かせようとする自分自身が、志保は嫌だった。

彼のことを騙してる。

そして、自分のことも騙してる。

そんな自分が嫌だった。

でも、だったら、「自分のことを騙そうとする自分」とはいったい誰なのだろう。騙される方の自分とは、いったい誰なのだろう。

そして、そんな自分が嫌になる自分とは、いったい誰なのだろう。

「ちょっと……いいですか……」

志保はトクラに、部屋の隅に来るように促した。チョコの置かれたテーブルから少し離れる二人。

「トクラさんだったら……どうします……? 付き合ってる人に、自分の『病気』のこととか、正直に言いますか……」

「それ訊いてさ……」

トクラは少しいぶかしむように志保を見た。

「あたしの言ったとおりにしてさ、それでうまくいかなくなったらあたしのせいにする、っていうなら答えないよ?」

「あ、いえ、そういうつもりじゃ……」

「まあ、あたしだったら、言うか言わないかは相手次第だけど、なるべく長持ちする方を選ぶよね」

「長持ち……?」

志保はトクラが言っていることが、ちょっとよくわからなかった。

「だから、相手がクスリとか依存症とかにあまり縁がない人、理解のない人だったら、言わないかな」

「でも、いつかバレるんじゃないですか? そうなったら、なんで言わなかったんだ、嘘ついてたのか、って余計にややこしいことになりませんか?」

志保の言葉は、まるで自分で自分をいさめているかのようだった。だが、そんな自分をいさめる自分とはいったい誰なのだろう。

「まあ、バレたらオワリだよね」

「だったら……」

「あのね神崎さん」

トクラは志保の肩にポンと手を置いた。

「すべての恋はね、いつか必ず終わるんだよ?」

その言葉に、志保は再び沈黙した。だがそれは、さっきの沈黙とはまた少し違ったものだった。

「出逢い、結ばれることが恋の始まりなら、その終わりは等しく『別れ』。結婚したって、離婚する人も多いし、いつかは死に別れる。それが嫌なら心中するしかないけど、心中って破滅だと思わない?」

トクラはもう一度、志保の肩を軽く叩いた。

「未来はコントロールできない。でも、今現在はコントロールできる。どういう終わり方を迎えるかはコントロールできないけど、今、この恋愛をどう楽しむかはコントロールできるの。だったら、今が楽しければそれでいいんじゃない? で、それを少しでも長く引き伸ばすの」

「でも、今が楽しければその後どうなってもいいなんて、そんなの、待ってるのはそれこそ破滅じゃないですか……」

「あら、破滅じゃ嫌?」

トクラは微笑んだ、ような気がした。実際は見ていないのでわからない。

「さっき言ったでしょ。すべての恋は必ず終わる。それは別れるか破滅するか。それに『別れ』も喧嘩したり浮気したり憎しみ合ったり、大半が破滅。多くの恋の結末は破滅なの。神崎さん、なんでだと思う?」

志保はまたしても沈黙した。この沈黙は単に、答えがわからないゆえの沈黙である。

「恋を燃え上がらせるのは、破滅と背徳なの。破滅的で、背徳的な恋ほど盛り上がるの。だから人は、破滅は嫌だ、背徳はいけないと言いながら、知らず知らずのうちに破滅と背徳に向かって突き進む。不倫なんてそのいい例じゃない。明らかな背徳で、その先に待っているのは明らかな破滅。なのに不思議と後を絶たない。なんでだと思う? それは、明らかな背徳で、向かう先が明らかな破滅だから。破滅と背徳、それに勝る快楽はないから」

トクラはテーブルの前に戻ると、チョコの包みに手を伸ばした。

「どうせ恋の行きつく先が破滅なら、何も恐れることなんかないじゃない。いつか破滅するとわかっててなお、今を楽しまないと。太ると知っててついついチョコを食べちゃう。虫歯になると知っててついついチョコを食べちゃう。それとおんなじ。バレンタインさんもそのことを知ってたのかもね。これから戦場に向う兵士の結婚式なんて、すぐに戦死しちゃうかもしれないから、せめて式だけでも、ってことでしょ? 破滅に向かう恋が一番美しい、バレンタインさんはそれがわかってたんじゃないかしら」

そう言って、トクラはチョコを口の中に放り込んだ。

 

写真はイメージです。

「じゃあ、たまきちゃんは結局、チョコを買わなかったの?」

公園から駅へと向かう地下道の途中で、紙袋を手にしたミチがたまきに尋ねた。

「……亜美さんと志保さんとお金を出し合って、三人で食べる用のチョコは買いました」

「でもそれってさ、誰かにあげたわけじゃないじゃん」

「……まあ」

たまきはミチの少し後ろを歩きながら、うつむきがちに答えた。

「誰かにチョコ、あげないの?」

「別に……」

「だって今日、バレンタインデーだよ?」

さっきから、こういう会話の繰り返しである。たまきはいい加減にうんざりしてきた。

「今までだれかにチョコあげたことないの?」

「ありません」

「男友達とかは?」

「そんな人、いません」

「じゃあ、女友達。学校で友チョコあげたりしなかったの?」

「……そんな人、いません」

ミチはそこで少し考えてから

「じゃあ、父親とかは?」

と尋ねた。たまきも少し考えてから

「お姉ちゃんとお金を出しあって……、でも、あれもお姉ちゃんが選んで、渡してたから……」

と答える。

長い地下通路も終わり、タクシーの入るロータリーに差し掛かった。二人は階段を上って地上へと出る。

日本、いや、世界で最も利用者数が多いなどと言われるその駅前は、時間としてはまだ夕方にもかかわらず、すでに夜の帳が降りきったように真っ暗だ。だが、仕事帰りのサラリーマンやOLらしき人でごった返し、むしろ昼間以上の混雑を見せていた。

「じゃあ、私はこっちなんで……」

たまきは駅の北側を指さすと、くるりとミチに背を向けて、歩き出した。

だが、ミチも

「いや、俺もこっちだから」

とついてくる。

「あれ、ミチ君の家あっち……」

とたまきは駅の南の方を指さしたが、

「この後バイトだから」

と、たまきの横に並んで歩きだした。

そうだった。この男は、たまきが暮らす太田ビルの2階のラーメン屋でバイトをしているのだ。

すなわち、たまきが「城」に帰るまで、ずっと一緒なのだ。

「じゃあ、今まで一度もチョコあげたことないの? なんで? 今まで十何回もバレンタインデーあったのに?」

つまり、このうんざりするチョコ尋問も、太田ビルに着くまでの十数分間、ずっと続く。

ちょうど、右手にコンビニが見えてきた。

たまきは、コンビニンの前で立ち止まると、ミチの方を向いて

「ちょっと待っててください」

と言うと、コンビニの中へと入った。

二、三分ほどして、たまきはコンビニから出てきた。手には百円ちょっとで売られている、赤いパッケージのチョコのお菓子を持っていた。

たまきはそのチョコレートを、不機嫌そうに、ミチの前に突き出した。

「これ、あげます」

ミチはぽかんと、たまきが突き付けた赤いパッケージを見る。

「え? いいの?」

たまきは相変わらず不機嫌そうに赤いパッケージを突き出したまま、ミチをにらむ。

この男の口に石ころを詰め込んで黙らせる労力を考えれば、チョコを買って渡すことくらい、大したことない、はずだ。

「……義理チョコです」

一応、たまきは念を押しといた。

ミチはたまきの手から赤いパッケージを受け取ると、待ってましたとばかりに紙袋の中に放り込んだ。

「やった。たまきちゃんの『はじめて』、もらっちゃった」

「そ、そういうヘンな言い方、やめてください!」

たまきは慌てたように、恨めしげに、紙袋の中へと消えた赤いパッケージを見ようとした。それが完全に紙袋の中へと入ったのを確認すると、たまきは再び、「城」の方へと向かって歩き出す。

「ところでさ……」

たまきの横を歩きながらミチが口を開いた。

「今月末、俺の誕生日なんだよねぇ」

「知りません……!」

たまきは深くため息をついた。

 

写真はイメージです。

「来年こそは手づくりしようかなぁ」

志保は「城」のキッチンを見ながら言った。

「まだ手作りチョコって作ったことないんだよねぇ。ここの設備しっかりしてるから、頑張ればイケそうな気がする」

冬の夜、三人は「城」でまったりと過ごしていた。暖房の効いた部屋の中にいると、こういう場所があることにありがたみを感じる。もちろん、家賃は払っていないのだけれど。

「志保さんならできると思います」

ゴッホの画集を読んでいたたまきが、志保の方に目をやって告げた。

「まあ、来年もあたしがここにいれば、だけどね……」

志保はそうやって自嘲気味に笑う。

「そもそも、来年もカレシがいるかどうかわかんねぇもんな。あ、別のオトコに変わってたりして!」

亜美は悪戯っぽく笑いながら、テーブルの上に置かれたチョコの包みに手を伸ばした。3人で千円ずつ出し合って買ったものだ。

「もう……!」

志保は不満げにチョコに手を伸ばす。

「ところで、たまきは誰かにチョコあげなかったのか?」

「え? ま、まあ……」

たまきは、どうとでも解釈できそうな言葉でお茶を濁した。

「そう言えばさ、亜美ちゃん、いっぱいチョコ買ってたじゃん。なんかケースのやつとかさ。あれって男友達にあげたりしたの?」

亜美のチョコを咀嚼する口が止まった。

「いや……あれは……女友達にあげたから。友チョコだよ」

「男友達にはあげなかったの?」

「はっ。アイツらにやるチョコなんてねぇよ。まあ、チョコ代立て替えてくれるっつ―なら、渡してもいいけどな」

「えー、でも、あげようかなって思ったりしないの? バレンタインデーだよ?」

あれ、さっき、どこかでそんなこと言われたぞ、とたまきは思った。

「ほら、ヒロキさんとか、付き合い長いんでしょ?」

そういうと、志保は亜美の方ににじり寄る。ヒロキとは、亜美の客の中で、特に付き合いがある男の名前だ。たまきも、亜美とヒロキが二人で街を歩いているところを見ている。

「ここだけの話、あたし、亜美ちゃんとヒロキさんちょっといいかんじなんじゃないか、なんて思ってるけど、そこんとこどうなの?」

にやにやしながら亜美に尋ねる志保。だが、亜美は眉一つ動かすことなく、あっけらかんと答えた。

「ヒロキ? あーないない。そもそも、あいつヨメもコドモもいるし」

「なんだそうなの。じゃあしょうがないか……」

さらっと受け流してから、志保とたまきは、亜美がとんでもないことを言っていることに気づいた。

「えぇ!!」

志保が、壁が破れるんじゃないかってくらいの大声を出す。たまきは大声こそ出さなかったが、目を丸く見開いて、て亜美を見た。

「ん? どした?」

亜美だけがぽかんとしたように、チョコをポリポリかみ砕きながら、二人を交互に見ている。

「ちょっと待って? ヒロキさんって、奥さんも子供もいるの?」

「ああ、いるいる。それがマジウケることに、ヒロキの嫁って、うちの一個下なんだぜ。それでガキいるって、じゃあ何歳の時に結婚して、何歳の時に産んだんだよ、そもそも、何歳の時に手ぇ出したんだよ、ってハナシじゃん? ウチもそれ聞いた時はさすがに『こいつらやべぇな』って思ったよ」

「ちょっと待って? ちょっと待って?」

志保は頭が追い付いていないのか、亜美の話を制した。たまきは、あまりにも自分とかけ離れた世界の話なので、もう理解することをやめた。

「え? それ、不倫じゃん!」

「それってどれだよ」

「亜美ちゃんとヒロキさんの関係!」

「は?」

亜美は亜美で、いま志保に言われたことが理解できないらしい。

「不倫じゃねぇだろ。お互い、本気じゃないんだし」

「亜美ちゃん、結婚してる人とその……エッチすることは悪いことだ、ってのはわかってる?」

「あのな……」

亜美はまるで人の道でも説いて聞かすかのような顔で話し始めた。

「いくらからあげが好きだからって、毎日からあげ食ってたら、たまにはテンプラが食いたくなるだろ?」

前にもこんな話を聞いた気がする。

「あれ……ちょっと待って……あたし……思い出してきたんだけど……」

志保がより一層戸惑ったような表情になった。

「亜美ちゃんさ、クリスマスの時、『不倫はスジが通んない』って言ってなかった? そうだよ、不倫してた女の人、殴ろうとしてたじゃん! っていうか、ヒロキさんも『不倫した奴が悪い』みたいなこと言ってなかった?」

「そりゃそうだろ。不倫は悪いに決まってんじゃねぇか」

「でも、自分が不倫してんじゃん!」

「だから、お互い本気じゃねぇから不倫じゃねぇってば。っていうか、あんとき、お前の方こそ、不倫するやつの気持ちわかるみたいなこと言ってなかったっけ?」

「『気持ちがわかる』と『不倫してもいい』は別の話でしょ!」

志保は手ごろなクッションをソファにたたきつけた。

「相手の奥さんの気持ちとか考えたことあるの、亜美ちゃん!」

「相手の気持ち? 相手の気持ちねぇ……」

亜美はしばらく考え込むようなしぐさを見せた。

「ヒロキのヨメは何も知らねぇんじゃねぇかな」

「だから……そういうことじゃなくてさ……、相手の奥さんが傷つくんじゃないかとか……」

「何も知らねぇんだから、傷つくわけねぇだろ。そもそも、本気じゃないんだし」

「だから……そうじゃなくて……」

「あのさ……」

亜美はうんざりしたように志保を見た。

「嘘ついてオトコと付き合ってるような奴に、とやかく言われたくねぇんだけど」

亜美の声には、温度がこもっていなかった。

「嘘って……」

「あのヤサオに、なんも言ってねぇんじゃねぇの?」

「それは……」

志保が下を向く。

「自分のカノジョが嘘ついてて、実はクスリやってて、しかもそれずっと黙ってましたって、お前こそ相手の気持ち考えたことあんのかよ。あ、これも相手はなんも知らねぇから、別にいいのか」

「それは……わかってるけど……」

志保は沈黙した。唇が少し震えているようにも見える。

亜美は、「なんか文句あるか」と言いたげに椅子にふんぞり返っている。

たまきは、少し離れたところで画集を膝の上において、それを見ているだけだった。

亜美と志保の周りに、真冬の朝の冷気のように落ち着かない空気が漂っていた。一触即発、というのとはちょっと違う。むしろ、重苦しい何かで押さえつけられたような感じだ。

たまきはなんとなく、ゴッホが描いた、麦畑の上をカラスが飛んでいる絵を思い出した。ゴッホなら、今のこの部屋の空気を何色で書くだろうか。

何か言わなきゃ、たまきはそう思った。

以前、志保はたまきが亜美と志保の間をつないでいる、たまきはそこにいるだけでその役割を果たしてくれる、と言っていた。だったら、不穏な空気が漂う今こそその力を使うときなんじゃないのか。コンド―……、じゃなかった、緩衝材としての役目を果たすときなんじゃないのか。

だがしかし、何を言えばいいのだろう。普段でさえ何をしゃべればいいのかわからないのに、こんなに落ち着かない状態の時に言うべき言葉なんて、思い浮かぶわけがない。

亜美か志保、どっちかのフォローに回ろうかと思ったが、たまきの乏しい会話力では、フォローしきれそうにないし、どっちかの味方をしたらどっちかを怒らせてしまうかもしれない。そして、それをなだめる会話力も、やっぱりたまきは持ってない。

だったらいっそ、全然違うこと、意表を突くようなことを言って、場の空気を変えるという作戦がいいのではないか。だけど、今この状態で、二人が不穏な空気を忘れてノッてくるような話題なんてたまきにあるはずも……。

「あ、あの……」

たまきはそっと立ち上がると、たった今、必死で考えたフレーズを口にした。

「私、チョコレートあげました、ミチ君に……!」

その言葉を聞いた途端、凍り付いた空気が一気に蒸発したかのように、亜美と志保は驚いた様子でたまきの方に振り向いた。

「はぁ!?」

「えぇ!?」

「……義理チョコですけど……」

急に恥ずかしくなって、たまきは下を向く。

「なんで? そういうの興味ないって言ってたじゃん!」

志保がまるで裏切り者を問い詰めるかの如く、たまきに迫る。

「さっき会ったとき、あまりにもチョコをあげないのかとしつこかったから……チョコくらいいいかなと思って……」

「ダメだよたまきちゃん!」

志保がたまきの両肩をつかんだ。

「ダメだったんですか……?」

「ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!」

「でも……別にチョコレートをあげるくらい……」

「そういう小さいことを積み重ねていくと、だんだん押し切られるのが当たり前になっちゃうよ! もしエッチなことをさせてほしいとか言われたらどうするの?」

「それとこれとは話が違うんじゃ……」

「一緒だよ一緒! 亜美ちゃんからも何か言ってよ!」

志保が、さっきまで口論していたはずの亜美に助言を求める。

「志保の言うとおりだぞ、たまき」

亜美は腕を組んでたまきに言った。

「だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが」

そう言われると、そんな気もする。そもそも、たまきがこの「城」で暮らすようになったのだって、亜美に押し切られたからだったような気もする。

「だからいっそのこと、そのまま押し切られてオトナの階段を上るってのもありなんじゃね?」

「何言ってるの亜美ちゃん!」

志保は今度は亜美の肩をつかんだ。

「そうでもしねぇと、こいつは自分からオトナの階段上ったりしねぇって」

「だからってそんなやり方……傷つくのはたまきちゃんなんだよ?」

「お前さっき、そういうこと繰り返してけば、それが当たり前になるっつったじゃねぇか。押し切られるのはこいつにとって当たり前のことなんだから、当たり前のことやってなんで傷つくんだよ?」

「だから……そうじゃなくて……」

 

夜中。太田ビルの屋上で志保は電話をかけていた。街の明かりが志保のブラウンの髪を照らす。

「あ、チョコ、食べてくれたんだ。どうだった? おいしかった?」

そのあと、二言三言言葉を交わす。

「うん、あたしも。大好きだよ」

そう言って志保は電話を切ると、振り返った。

そこには亜美が立っていて、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、にやにや笑っていた。

「熱いねぇ」

「うわっ! 亜美ちゃん、いつからいたの?」

「ん、今来たとこだけど?」

本当はもっと前からいて、黙ってそこに立ってたんじゃないか、そんな気がしてきた。

「じゃ、じゃあ、あたし、部屋ん中戻るから……!」

志保が顔を赤らめて、そそくさと屋上を後にしようとする。志保の背中越しに、亜美が声をかける。

「大好きだよー!」

「やめて~!」

そんな叫びとともに、志保は階段を下りて行った。

「熱いねぇ……」

亜美はポケットから何かを取り出した。

紺色の包装紙に包まれた、ハート形のチョコレート。

亜美は軽くそれを上に向って放り投げ、落ちた来たそれをキャッチする、

そのままチョコを手に、亜美は屋上の柵にもたれかかった。

このまま、屋上から落としてチョコを粉々に砕いてしまおうか、とも思ったけど、怒られそうなのでやめにする。

亜美は無造作にビリビリと包装を破って中のチョコを取り出すと、かじりついた。

ガリッという音がして、チョコがちょこっと砕ける。

チョコは見た目に反して、少し苦かった。

自分で買ったチョコを自分で食べて、誰かに渡したつもりになる。

その「誰か」というのは、一体どこにいるのだろう。

つづく


次回 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」(仮)

田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。5月公開予定!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫」

ミチの家で夕飯をごちそうしてもらうことになったたまき。そこで、たまきは初めて、ミチの家族のことを知り、ある後悔の念に駆られる。「あしなれ」第24話、スタート!


第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


 

駅の南側に行ってみたのは、たまきにとって初めてだった。

駅の西側を南に向って歩いていくと、大きな通りにぶつかる。たまきもミチも知らないが、この道は遠く山の中へと続く街道だ。

その街道は今、大きな橋となっている。たまきは最初、橋の下には大きな川が流れているんだと思った。だが、ミチによると、橋の下にあるのは川ではなく、線路だという。

「こんな太い線路ってあるんですか?」

たまきは驚いてミチに聞き返した。この橋のサイズだったら、下には幅50mほどの大きな川が流れていると思っていたのだが、川ではなく線路だとすると、とてつもなく太い線路が走っていることになる。ということは、その線路の上をこれまた見たこともない巨大な列車が走っているということに……。

「ちがうよ」

たまきの少し前を歩いていたミチが、笑いながら振り向いた。

「何本もの線路がこの下に集まってるんだよ」

ちょっと考えればわかることだった。たまきは自分のバカみたいな妄想が恥ずかしくなってきた。

たまきは今、ミチの家に向って歩いている。生まれて初めて、男の子の家にお邪魔する。

 

夕飯を外ですまさなければいけないのに、財布を忘れてきてしまったたまき。たまきは最初、ミチにお金を借りようとした。

勇気を振り絞って生まれて初めて借金の申し込みをしたのだが、ミチの答えは非常にあっさりとしたものだった。

「あ、ごめん。俺もカネ、持ってない」

ミチは家を出るとき、「まあ、今日はそんなに長くいないし」と、百十円だけポケットに入れて出てきた。途中の自販機にその百十円を入れて、コーラと交換してしまったので、ミチも今、一円も持ってないのだという。

どうしようと途方に暮れるたまき。またしてもぐうとおなかが鳴る。この調子でおなかが鳴り続けたら、あと2時間ぐらいしたら空腹で倒れてしまうんじゃないか。そんな妙な不安が、空腹感と一緒に、たまきの胃の奥から喉元を締め付けてくる。

飢え死には、なんかヤだなぁ。

どうしようかとあたりをきょろきょろと見渡すたまき。だが、いくら見渡したところで都合よくお金や食べ物が落ちているわけでも、また、答えが書いてあるわけでもない。

そんなたまきにミチがかけた言葉は、これまたあっさりとしたものだった。

「あ、じゃあさ、ウチくる?」

「え?」

ミチの思いもかけない提案に、たまきの体は一瞬硬直した。

たまきにとって「初めて会う人」は最大の敵の一つなのだが、同じくらい「初めて行く家」も苦手である。男の子の家ともなればなおさらだ。

そもそも、ミチの家にはミチの家族がいるのではないか。知らない人に囲まれてご飯を食べるなんて。「気まずい」とはまさにこのことだ。

それに、ミチが一人暮らしならそれはそれで、女の子としてちょっと警戒しておかなきゃいけないような気もする。

「あ、あの、ダメです。そんな急に知らない人が行っても……、ミチ君の家族も迷惑だと思いますし……」

「あ、ウチっつっても、家じゃないんだ」

じゃあ、どこだ。

「俺の姉ちゃんが店やっててさ。スナック。まあ、俺が住んでるアパートの一階だから、ウチと言えばウチなんだけどさ。家にいるときはいつもそこで夕飯食ってるんよ。姉ちゃん、どうせ仕事でずっとキッチンにいるんだし、急にもう一人増えたからってそんな困んないよ」

「でも……私、お金持ってないし……」

「いいよいいよそんなの。この前、たまきちゃんに助けてもらったお返し、俺、まだ何にもしてないんだもん。そろそろなんかしねぇと、今度は姉ちゃんにボコボコにされるから」

「でも……」

「でも」といったはいいものの、そのあとに続くセリフがたまきには見つからなかった。セリフの代わりに、再びおなかがぐうと鳴った。

「じゃあ、決まり。ここから歩いてそんなかかんないから」

そういうとミチは歩きだしてしまった。たまきも仕方なしにその後ろをとぼとぼとついて行く。

こんな簡単に男の子に押し切られてしまうのは、女の子としてよくないんじゃないか、そんなことをちょっと思いながら。

 

画像はイメージです。

ミチとたまきは線路沿いのテラスを歩いている。地形からも、古い町並みからも自由なテラスの上は、完全な人口の空間だ。左側を見ると、削りたての鉛筆のようにとんがった建造物が見える。

一歩一歩と歩みを進めるごとに、緊張でたまきの鼓動が少しずつ高まっていく。知らない場所に行き、知らない人に会う。たまきが一番苦手なことだ。

「その……これから行くところって……ミチ君の実家なんですか?」

「ちがうよ。俺、出身、ヨコハマだし」

「……そうなんですか」

二人はテラスの階段を降りていく。すぐに踏切にぶつかるが、ちょうどいいことに、遮断機は上がっている。二人は線路を渡ると、右に曲がって線路沿いを歩いていく。

「姉ちゃんがさ、ちょっと歳はなれてるんだけど、ずっと水商売しててさ。それで、こっちでお店持たないかって話になって。雇われママさんっつーの? オーナーの人が店やってくれる人探してて、姉ちゃん、その人と知り合いだったみたいで、姉ちゃんに店やらないかって話になって」

ミチはたまきの前を歩きながら、ちらちらとたまきを振り返って話を続けた。

「それがちょうど俺の中学卒業の時期と重なっててさ。で、姉ちゃんと一緒にこっち来ないかって話になってさ」

「じゃあ、今、お姉さんと二人暮らしなんですか」

「二人暮らし……、なんつったらいいのかなぁ。そのスナックの二階がアパートになってて、スナックのオーナーがそのアパートの大家でもあるんよ。で、俺と姉ちゃんはそこに住んでんだけど、部屋は別々なんだよね。オーナーのご厚意、ってやつでちょっと安く貸してもらってるんだよ。だから、姉ちゃんには毎日会ってるんだけど、二人暮らし……ってわけじゃないかな」

ミチの話を聞きながら、たまきはひとつ気になっていることがあった。

さっきから、ミチの家族は「姉ちゃん」しか話の中に出てこない。

「じゃあ、お父さんとお母さんは、ヨコハマの実家にいるんですか?」

「お父さん? 誰の?」

「ミチ君のです」

「いや、俺、親いないし」

「え?」

たまきの足が止まった。

東京の家々の間を縫うかのような細い路地は下り坂になっている。空はすっかり暗くなり、いくつかの街灯が足元を照らしている。

ミチは少ししてから、たまきの足が止まっていることに気づいた。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「……初めて聞きました」

たまきは、息をのみ込んだように驚いた顔をしていた。

「……親は二人ともいないってことですか?」

「そうだよ? あれ、ほんとに言ってなかったっけ?」

たまきは無言でうなづく。

「そっか。言ったような気がしてたんだけどな。そういや言ってなかったかもなぁ」

ミチはぼりぼりと頭をかいた。

なんで親がいないんですか、とたまきは聞こうとした。だけど、そんな立ち入ったこと、聞いてもいいのだろうか。

そんなたまきの逡巡を察したのか、口を開いたのはミチの方だった。

「父親は最初からいないんよ。母親も俺がちっちゃいころに、俺と姉ちゃん置いてどっか行っちゃって。俺と姉ちゃんはずっと施設で育ったんだよね」

二人は、再び坂道を下り始めた。

「だから、『家族』ってよくわかんねぇんだよね。特に、『親』って何なのかさ。父親は知らないし、母親のこともほとんど覚えてねぇし。俺にとって家族とか親っていうのは、いねぇのが当たり前だからさ。姉ちゃんいるけど、まあ、姉ちゃんは家族っていうよりは姉ちゃんだし」

ミチは手を頭の後ろで組んだ。

「でもさ、テレビとか見てるとさ、家族の絆がどうとかさ、親の愛がどうとかさ、そういうドラマとか多いじゃん。だから、家族は仲が良くて、子どもは親が好きっていうのが、当たり前なのかなぁ、って思ってたんだけど、たまきちゃんの話聞いてると、そうじゃない人もいるんだね」

そう言ってからミチは最後に付け足した。

「まあ、よくわかんねぇんだけどさ」

ミチの話を聞いて、たまきは夕方に言った自分の言葉を思い出していた。

『ミチ君みたいな人にはわかんないですよ……きっと……』

もしかして自分は、とてつもなく失礼なことを言ってしまったのではないだろうか。

たまきは家族が苦手だ。両親が嫌いだ。

それでも、たまきにとって、それは当たり前にいる存在だった。

でも、ミチにとってはそうではなかった。

「あ、あの……」

たまきは駆け出すと、ミチの横に並んだ。

「さっきはごめんなさい。私、すごい失礼なことを……」

「いいよいいよ。親いないって言ってなかったんだし。普通はみんな、親いるわけだから、言わなきゃ普通わかんねぇって話だよな」

ミチの「普通」という言葉が、たまきにはどこかの別の国の言葉のようにも聞こえた。

「でも、知らなかったとしても、ミチ君は親がいないのに私、すごい失礼な……」

「っていうよりさ、むしろ、『親のいないかわいそうな子』って扱われることの方が嫌なんだよね」

「……ごめんなさい」

「だってかわいそうもなにも俺にとって親は『いない』のが当たり前なんだから。まあ、俺は姉ちゃんがいたから、そう思えるだけなのかもな。施設には荒れてるやつもいたし」

そういうと、ミチはたまきの方を見た。

「俺こそなんかさっき、いやなこと言っちゃったかも。ごめんね。悪気はないんよ。たまきちゃんの言う『家族』の話がさ、俺の聞いてた話と違うなぁ、って思って」

そう言ってから、ミチは少し照れ臭そうに笑う。

「なんか最近、謝ってばっかだな、俺ら」

「……ですね」

たまきも少し寂しそうに下を向いた。

 

写真はイメージです。

坂を下り続け、線路はいつの間にか高架へと変わっていた。高架をくぐる道におろされた柱に、駅名が書かれた看板が取り付けられている。どうやらここは駅らしいが、見たところ、駅舎らしき建物は見当たらない。

あまり大きな駅ではないみたいだが、それでも駅前はちょっとした商店街になっていた。ふと、わきに目をやると、さっきのとんがった建物が目に入る。

その商店街からちょっと路地に入ったところに、スナックが立ち並ぶ一角があった。ミチはその中のビルの一つの前に立った。すすけたビルで、2階はアパートになっているのだろうか、窓がいくつかあって、物干し竿がかかっている。

1階はお店になっていて、路上に看板が置かれていた。

看板にはひらがなで「そのあと」と書かれていた。

なんだろう、と思ってたまきはその看板を見つめていたが、どうやら、お店の名前らしい。

スナック、「そのあと」。

ヘンな名前。たまきはそう思ったが、言葉には出さなかった。

「ヘンな名前だろ? 姉ちゃんが店もらう前から、この名前だったみたいだぜ?」

そういうと、ミチは店の扉を開けた。

「ただいまぁ。姉ちゃん、友達連れて……」

ドアがバタンと閉まった。

たまきは、中に入らずにお店を見つめていた。暗い色の扉はなんだかものものしく、なんだか異世界の門のように来るものを拒んでいる。

再び扉が開いて、ミチが顔を出した。

「たまきちゃん、何やってるの? はいんなよ」

たまきはふうっとため息をつく。同時におなかがぐうっと鳴った。

 

お店の中は薄暗く、やっぱり違う世界に迷い込んでしまったかのようだ。

細長いお店の中にカウンターがあり、口紅のように真っ赤な椅子が並んでいる。カウンターの中のキッチンには、エプロン姿の女性が立っていた。

スナックのママ、という言葉の持つイメージに比べると、幾分か若い。亜美や志保よりも、たまきの姉よりも年上だと思うが、舞に比べるとずいぶんと若い気もする。

鮮やかな長い茶髪で、少しウェーブがかかっている。メイクは少し濃いめだが、厚化粧というわけでもなかった。

たぶんこの人がミチのお姉ちゃんなのだろうが、年が離れているせいか、目もと以外はあんまりミチに似てない気もした。

ミチのお姉ちゃんはたまきの方を見ると、にっこりと笑顔を見せた。

「いらっしゃい」

「こ、こんにちは……」

たまきは、自分がそこにいることそのものが申し訳ないかのように、うつむいてあいさつをした。

「あなたがミチヒロのお友達?」

「ミチヒロ」って誰だろう? とたまきはあたりを見渡したが、どうやら今まで「ミチ君」と呼んできた彼が、「ミチヒロ」らしい。

「ま、とりあえず座って」

 

ミチのお姉ちゃんに促され、たまきとミチはカウンターの前にある椅子に腰かけた。

椅子の上のたまきは、石像のように固まっている。

自分から名乗ったほうがいいのだろうか。いや、自分から名乗るべきなのだろう。

わかっているんだけど、どうしても言葉が出てこない。代わりにおなかがぐうと鳴る。

自己紹介ができずに今にも泣きだしそうなたまきだったが、先に声をかけたのはミチのお姉ちゃんの方だった。

「もしかして、あなたがひきこもりのたまきちゃん?」

どうして初めて会うのに自分の名前を知っているのだろう、という疑問より、どうして引きこもりだってばれたんだろうという疑問の方が、たまきの頭をもたげた。とりあえずたまきは無言でうなずいた。なんだが引きこもりであることも認めたようで少々腑に落ちないが、事実なのだからしょうがない。

「へ~。聞いてたイメージ通りだ~」

ミチのお姉ちゃんはそう言って笑った。たまきは横にいるミチを見ると、「私のこと、どういう話したんですか?」と言いたげににらんだ。

ミチのお姉ちゃんはミチの方を向くと、

「なんか、今までミチヒロが連れてきた女の子たちと比べると、この子、全然雰囲気違うね」

「ちょっ! 姉ちゃん!」

ミチは困ったように姉を見て、そのあとでたまきの顔色を窺った。今度はたまきは「今までに何人の女の子連れてきてるんですか」と言いたげににらんでいた。

「ミチヒロも人妻なんかと不倫してないで、こういう真面目そうな子と付き合いなさいよ」

どうやら、一連の顛末をミチのお姉ちゃんは知っているらしい。

「私は……真面目じゃないです……その……学校行ってないし……」

たまきは渡された原稿をただ読んでいるだけのようなたどたどしさで答えた。

「へぇ~。聞いてた通り、すごい人見知りなんだぁ。ふふ、かわいい~」

そういうとミチのお姉ちゃんはカウンターから手を伸ばし、ニット帽の上からたまきの頭を撫でた。

撫でられる、なんてあまり慣れないことをされて、たまきは身をよじって今すぐ店の外に駆け出したい衝動にかられたが、そうしたい、と思っただけでそれを実行できないのもまたたまきらしさである。椅子に座ったまま、されるがままに撫でられる。

ニット帽越しに撫でられる感触を感じ取りながら、たまきは前にもこんなことされたな、と思い出していた。

「で、ミチヒロ、なんだっけ? お夕飯用意すればいいんだっけ?」

「そうそう、二人分」

「焼きそばでいい?」

「たまきちゃん、それでいい?」

ミチはたまきの方を向き、たまきは無言でこくりとうなづいた。

「じゃ、作るね~」

ミチのお姉ちゃんは冷蔵庫から焼きそばの麺を三袋取り出した。

「ミチヒロは大盛でいいよね?」

「うん、お願い」

ミチとお姉ちゃんのやり取りを見ながら、たまきは自分の姉のことを思い出していた。

 

たまきの姉は、当たり前のことが当たり前にできる人だった。

やさしくて、おしゃれで、友達も多くて、勉強も運動もそこそこできる。人一倍優秀というわけでもないが、何でもそつなくこなせる人だった。

たまきはそんなお姉ちゃんが大好きだった。生来の人見知りだったたまきは、外に出るときはいつもお姉ちゃんの手を握り、お姉ちゃんの後ろを引っ張られるようについて行った。

たまきが学校に行けなくなって以来、父と母は時に腫物のように、時に邪魔もののように、時にわるもののようにたまきを扱った。でも、たまきの姉がたまきに接する態度は変わらなかった。

父も母も出かけたある土曜日、姉がたまきのひきこもる部屋にやってきた。

「お昼に焼きそば作ったよ」

たまきの目の前に焼きそばが盛り付けられたお皿が置かれた。

焼きそばから立ち込める湯気の向こう側に、姉の笑顔があった。

それがたまきにとっては、たまらなくまぶしかった。

どっか行ってくれないかな。

そう思った。

たまきは結局、焼きそばに手を付けなかった。姉はたまきの部屋を去る時、初めて悲しそうな顔をした。

別に、お姉ちゃんのことが嫌いになったわけじゃない。お姉ちゃんがたまきに冷たくしたわけでもない。

ただ、その存在がまぶしかった。

たまきのことを気にかけてくれたお姉ちゃんを、たまきはみずから遠ざけた。

さっきだってそうだったではないか。お金と食べるものがなくて困ってるたまきを、ミチは家まで連れてきて、ご飯を用意してくれた。

そのミチを、たまきは自分から遠ざけようとした。ミチがまぶしかったという理由で。

どうして、自分のことを気にかけてくれる人を、自分に手を差し伸べてくれる人を、自分から遠ざけてしまうんだろう。

どっか行っちゃえばいいのに。

それはミチに向けた言葉でも、お姉ちゃんに向けた言葉でもなかった。

たまきがたまき自身に向けた言葉だった。

つまるところ、たまきはお姉ちゃんのことが嫌いになったわけでも、ミチのことが心底嫌いなわけでもない。

自分のことが嫌いなのだ。

 

ミチとたまきの目の前に、ソース焼きそばの盛り付けられたお皿が置かれた。湯気がたまきの眼鏡を曇らせる。

たまきは割り箸を手に取ると、両手を合わせた。

「い、いただきます」

両手に力を込めて割り箸を割る。しなった割りばしが割れる瞬間が、あまり好きではない。

隣を見ると、ミチがすでに焼きそばにむさぼりついていた。

たまきはふうふうと息を吹きかけると、湯気に絡みつくソースのにおいと一緒に、焼きそばを口の中へと入れた。

空腹の極みに達してからの焼きそばは、無条件においしかった。

ふと、ミチが

「俺ちょっと、トイレ行ってくるわ」

と言って立ち上がる。

「え……?」

店の奥にあるトイレへと立つミチを不安げに見送るたまき。ミチがいなくなったら、今日、初めて会った人と二人きりになってしまう。

「ちょっと、食事中にそういうこと言わないの。黙っていきなさい」

ミチのお姉ちゃんはぶぜんとしたようにミチの背中に向けて投げかけた。トイレのドアがバタンと閉まる。

「全く、我が弟ながらデリカシーのない奴よ」

そういうとミチのお姉ちゃんはたまきの方を見た。

「どう? おいしい?」

たまきは慌てて焼きそばを飲み込んだ。

「は、はい。おいしいです。ありがとうございます。あ、あの、お金は後で必ず……」

「いいって、そんなの」

「でも……」

たまきはカウンターの上に掲げられたメニュー表を見た。焼きそば480円と書いてある。

「いいっていいって。たまきちゃんでしょ、ミチヒロのこと助けてくれたの。そのお礼よ」

ミチのお姉ちゃんは白い歯を見せた。

「こんなにちっちゃいのに、ミチヒロのこと、盾になって守ってくれたんだぁ」

たまきはなんて返事していいのかわからず、下を向いて黙々と焼きそばを食べ続けた。

しばらくして顔をあげると、ミチのお姉ちゃんはまだたまきを見てニコニコしている。

こういう状況が、本当に苦手だ。

どっか行ってくれないかな。

そんな言葉がまたたまきの頭をもたげたが、もうそんな風に考えることはやめよう、そう思った。

いきなり来て、お金も持ってないのに、お夕飯を作ってくれなんてぶしつけなお願いをしたにもかかわらず、ミチのお姉ちゃんはたまきのことを歓迎してくれている。

もう、そういう人を自分から遠ざけるのはやめよう。

たまきは顔をあげると、ミチのお姉ちゃんの目を見て、もう一度、

「おいしいです」

と言って、たまきにしては精いっぱいの笑顔を見せた。

すると、ミチのお姉ちゃんはたまきにグイっと顔を近づけた。たまきは少しひるんだが、逃げることなくこらえた。

「たまきちゃんてさ、ここ来るの初めてだっけ?」

「は……初めてです」

「だよね。いや、なんか見たことあるっていうか、誰かに似てるっていうか……。誰か芸能人とかに似てる、って言われたことない?」

「な、ないです……」

たまきみたいに影の薄い芸能人、いるわけない。

「そっかぁ……誰かに似てるんだよねぇ……」

ミチのお姉ちゃんがそう言ったタイミングで、トイレのドアが開いてミチが戻ってきた。

「あ~、すっきりした」

「ほんとデリカシーのない奴よ」

ミチのお姉ちゃんが弟をぎろりとにらむ。

ミチが帰ってきたことでたまきは少しほっとして、焼きそばをほおばった。焼きそばは少し冷めて、たまきの舌にはちょうどいい温度だ。

ミチのお姉ちゃんはその様子を見ていたが、突然、

「わかった!」

と声をあげた。

「なんだよ、姉ちゃん」

「この子なにかに似てる、って思ってたんだけど、わかった! クロだ! クロに似てるんだ!」

くろって誰だろう? とたまきはミチを見る。ミチも何のことかわからないらしく、

「クロって?」

と姉に聞き返していた。

「ほら、あんたが小学生ぐらいの時だからもう十年前か。施設に黒猫が迷い込んできてさ、みんなで『クロ』って名前つけてエサやってかわいがってたじゃん。この子、そのクロに似てるんだ!」

そんなわけない、とたまきは思った。たまきは人間である。ちょっと小型だけど人間である。いくらなんでも、ネコに似てるわけがない。

たまきはぶぜんとしたまま、焼きそばを口に運んだ。

ミチも、

「うーん、似てはないんじゃない。確かに、たまきちゃん、黒い服着てるけど、さすがにネコに顔が似てるってことは……」

「いやね、顔が似てるっていうんじゃなくて、なんていうのかな、雰囲気が似てるのよ。動き方とか、たたずまいとかさ」

そう言って、ミチのお姉ちゃんはたまきを指さし、

「ほら、この焼きそば食べてる姿もさ、なんかクロに似てるんだよねぇ」

そんなわけない、とたまきは思った。そのクロというネコは左の前足で割り箸を持って、焼きそばを食べていたとでもいうのだろうか。

「クロって最後どうしたんだっけ」

ミチのお姉ちゃんは弟の方を見て尋ねた。

「たしか……急にいなくなっちゃったんだよ。それで、自分の死期を悟って姿を消したんじゃないか、みたいなこと言ってなかったっけ」

「そうだったっけ。じゃあ、もしかしたら、この子、クロの生まれ変わりかも!」

そんなわけない、とたまきは思った。たまきはいま十六歳。そのクロというネコがいなくなったのが十年前なら、たまきはその時すでに六歳だ。生まれ変わりなわけがない。

「いやぁ、見れば見るほど、よく似てるなぁ」

そう言ってミチのお姉ちゃんは再びたまきの頭に手を伸ばして撫でた。

「ほら、この撫でてる時の嫌そうな表情とか、ほんとそっくり」

嫌そうだとわかってるなら、やめてくれればいいのに。

 

焼きそばを食べ終えて少し休憩すると、たまきは立ち上がった。そろそろ帰らないと、たまきみたいな年の女の子がこういう店に夜遅くまでいてはいけない気がする。

「あの、私、帰ります。焼きそば、ごちそうさまでした。おいしかったです」

たまきはぺこりと頭を下げた。

「またご飯食べに来なよ。水曜と金曜は、ランチタイムやってるから」

ミチのお姉ちゃんは、フライパンを洗いながら答えた。

「ああ、あの、あまりお客さんが入らないランチタイム?」

「うるさいな」

ミチのお姉ちゃんは弟をにらみつけた。

「じゃあ、帰ります」

「うん、またね」

そう言ってミチが片手をあげたとき、ミチのお姉ちゃんがフライパンをミチの頭の上に振り下ろした。ガンという鈍い音が聞こえて、たまきも何事かと振り返る。

「いってぇ! 姉ちゃん、何すんだよ!」

「『うんまたね』じゃないでしょ! ちゃんと送ってあげなさい!」

「あ、あの、私、大丈夫です。一本道ですし……」

たまきは申し訳なさそうに言った。

「ダメダメ。もうすっかり暗くなってるし、人通り少ないからあぶないよ。ミチヒロ、送っていきなさい。その不法占拠してるビルまでとは言わないから、駅の近くの明るいところまで」

たまきは「不法占拠とか勝手に話さないでくれますか」と言いたげに、ミチをにらんだ。

 

写真はイメージです。

行きはひたすら下っていたが、その分、帰りは上り坂が続く。ミチのお姉ちゃんが言うとおり、あたりは深夜と見まがうほどに暗くなり、街灯が寂しく灰色のアスファルトを照らしている。行く手には鉛筆みたいなビルがそびえたつ。とんがった先端がやけに明るくライトアップされ、なんだか空に向かってビームでも放ちそうだ。

二人はほとんど会話することなく歩いていたが、たまきの歩く姿を横目に見ていたミチが口を開いた。

「でも、たしかにたまきちゃんって、ネコっぽいかも」

「え?」

「いや、今歩いてる感じも、なんかネコっぽいんだよねぇ」

たまきは自分の足元を確認した。

そんなわけない。たまきはちゃんと、二本足で歩いている。

「なんですか、二人そろって。人のことを動物みたいに」

「え、でも、ネコってかわいいからいいじゃん」

「動物じゃないですか」

たまきは口をとがらせながら言った。

「似てると言えば……」

そう言ってから、たまきはそこから先を言っていいものかどうか、ちょっと迷った。でも、さっき、ミチのお姉ちゃんもその話題を口にしていたので、別にいいかと、たまきは言葉をつづけた。

「ミチ君のお姉さん、誰かに似てるって私も思ってたんですけど……」

「へぇ、だれだれ?」

「……海乃って人に似てる、って思いました」

ミチは何も答えなかった。

「……ミチ君のお姉さんの方が、やさしいかんじでしたけど」

たまきはミチの方を見た。ミチは口を真一文字に固めて、少しこわばったような表情をしていた。

それを見たたまきは珍しく笑みを、それこそ、ネズミを捕まえた子猫のような笑みを浮かべた。

「もしかして、海乃って人が好きだったのは、お姉さんに似てたからですか?」

ミチはしばらく何も言わなかった。やがて、恥ずかしそうに一言だけつぶやいた。

「おかしい……?」

「いいえ」

たまきは少し微笑んでいった。

「私も私のお姉ちゃんのこと、大好きですから」

「あれ? 家族きらいなんじゃなかったっけ?」

「お姉ちゃんは……お姉ちゃんです」

街灯に照らされた二つの影は、つきそうでくっつかない、微妙な隙間を開けながら、坂道を登って行った。

つづく


次回 第25話「チョコレートの波浪警報」

次回はバレンタインのエピソードです。2020年2月14日、バレンタインに公開します! 続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

田代と一緒に映画を見に行く志保。3人はばらばらの行動をとることに。行く当てもなくいつもの公園を訪れたたまきだったが、あるミスを犯したことに気づいてしまう……。そんなあしなれ第23話、スタート!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「じゃ、行ってくるね」

いつもより少しばかりおしゃれした志保が玄関で、玄関と言ってもマットが敷かれ、靴が置いてあるだけの玄関で、靴を履き始めた。

「なあ、その映画、おもしろいの?」

ソファで寝ころびながら亜美が尋ねた。

「まだ見てないんだから、おもしろいかどうかなんてわからないでしょ?」

志保はちょっと高めのおしゃれな靴を履くのに苦戦していた。

「どういう映画?」

「えっとね、高校生の女の子5人組が、学校に、部活に、恋に、青春に駆け抜けてくってお話」

「フツ―!!」

亜美はソファの上で両手両足を大きく伸ばした。

「ふつう……ですね……」

たまきもソファの上で体育すわりをしながら、ぼそっとつぶやく。

「普通が一番だって」

志保はようやく靴をかけたようで、ドアノブに手をかけた。

「というわけで、今日は遅くなります。お夕飯は各自で、ってことで」

「今日帰ってこない、ってこともあるかもな」

亜美は起きやがるとにやにやと白い歯を見せた。

志保はドアを半分開けたが、亜美の言葉にくるりと踵を返すと、靴のまま亜美のもとへと詰め寄った。

「だから、何度も言うけど、私と田代さんはまだそういう関係じゃないんだから!」

「まだ、ねぇ」

亜美は相変わらずにやにやしている。

「よしんば、そういう関係だったとしても、あたしはそんな簡単に外泊したりとかしないから! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」

「よしんば」

亜美は「よしんば」という言葉が面白かったのか、口元を抑えて笑った。

「よしんば、よしんばだよ、よしんばそういう関係だったとしても、デートするたびにエッチするとか、あたしはそういう……」

「よしんば!」

「よしんば」がよっぽど面白かったのか、亜美はソファの上で笑い転げた。

「……とにかく、行ってくるから!」

志保は亜美に勢いよく背中を向けると、「城(キャッスル)」を出て行った。

「よしんばがんばって来いよー!」

志保の背中に向けて亜美が元気に手を振った。

ドアがバタンと閉まる。亜美はよいしょっと立ち上がった。

「オトコと映画なんか見に行って、なにが楽しいんだろ?」

「……楽しいんじゃないですか、たぶん」

たまきが体育座りのまま答えた。

「どのへんが? だって、映画館って真っ暗じゃん。二人で行ったって、相手の顔、見れないじゃん」

「映画館って、真っ暗なんですか?」

たまきはまっすぐに亜美を見上げた。一瞬、会話が途切れる。

「そこ!?」

「……どこですか?」

「いや、そこ引っかかるところか? 映画館は真っ暗に決まってんだろ?」

「そうなんですか?」

「そうなんですかってお前、映画館行ったことねぇの?」

たまきは無言でうなづいた。

「でも、真っ暗だったら、なか、歩けないですよね。トイレとかどうするんですか?」

「ぜんぶ真っ暗じゃねぇよ! 映画始まったら真っ暗にするんだよ!」

「なんでですか?」

「なんでって……」

「だって、テレビ暗くして見てたら、怒られるじゃないですか。なんで映画は真っ暗で見るんですか?」

「……なんでだろう?」

亜美は首をかしげたが、やがて、もうこの話題に飽きてしまったのか、衣裳部屋の方を見ると、

「ウチも出かけてくるわ。お前はどうする?」

とたまきに尋ねた。

「私も……出かけます……。ここに残っても、お夕飯ないし……」

「別に無理して出かけなくても、下のコンビニでなんか買って食えばいいじゃん」

「……そういう気分じゃないんで。ちょっと出かけたいかも……」

「へぇ。お前にしては珍しい」

亜美は笑顔を見せると、衣裳部屋の方に歩き出した。

一方、たまきは、言ってはみたものの出かけるあてもない。

「あ、あの、亜美さんについて行っちゃだめですか?」

衣裳部屋のドアノブに手をかけたまま、亜美の動きが止まった。

亜美が答えたのはしばらくたってからだった。

「……隣町のヘアサロン行くからさ、お前来ても、おもしろくないと思うぞ」

亜美はたまきの方には振り返らなかった。

「ヘアサロン……」

志保に「いつもと同じでお願いします」とだけ言って髪を切ってもらっているたまきにとって、美容室というだけでも十分に敷居が高いのに、「ヘアサロン」だなんてどこかの宮殿みたいな名前を出されたら、それだけで委縮してしまう。高い入場料でも取られるんじゃないだろうか。

おまけに、うわさに聞く美容師という職業の人たちは、黙って髪を切ればいいものを、どういうわけか話しかけてくるという。知らない人に髪を触られたり、顔を見られたりする時点ですでに嫌なのに、おまけに話しかけてくるだなんて。

だが、そんなことを言ってたら、また亜美から「何うじうじしてるんだよ」とか「どうでもいいじゃん、そんなの」とか言われてしまいそうだ。たまきももう十六歳なのだし、いいかげん人並みに美容院くらい行けるようにならないといけないのではないか。

そうだ。美容院に行ったら、ずっと目をつぶっていればいいのだ。そしたら無理に話しかけられることもないだろう。

「あ、あの、私も行きます、ヘアサロン」

そう言ってしまってから、たまきは亜美の反応が怖かった。驚かれるんじゃないか。もしかしたら、笑い飛ばされるかも。

そう思ってドキドキしていたが、しばらくたっても、亜美は何も言わない。

「……その、私も少しおしゃれしたほうがいいかなって……」

心から思っているわけではないセリフを言うと、どうしても言い訳がましく聞こえてしまう。

「あ、あのさ……」

亜美がようやく口を開いた。振り返らないままだが。

「その美容院、予約制なんだよね」

「よやく……ですか……」

「……そ。かなり人気のところでさ、今から予約しても、無理だと思うぞ」

「……わかりました」

たまきの返事を聞くと、亜美はまるで魔法が解けたかのように動きだし、衣裳部屋の中へと入っていった。

「ヘアサロン」に行かなくていいということで、どこかほっとしている自分がいることに、たまきは気づいていた。

あと二つ、たまきが気付いたことがある。

一つは、亜美が「隣町のヘアサロン」から帰ってきても、きっと髪型は変わってないということ。

そして、亜美はきっと今、ほっといてほしいんじゃないかということ。なんとなくだけど。

 

写真はイメージです

志保は映画館の前で一人、田代を待っていた。ベージュのコート、赤いマフラーに身を包み、街路樹のように立っている。

歓楽街の中にある映画館。真冬の風の中を多くの人が行きかう。

自分の吐いた息が白い靄のように立ち込め、消えていくさまを志保は見つめていた。

待つ、という行為を、志保は決して嫌いではない。

時に、恋愛の本質とは相手と一緒にいる時間よりも、相手のことを想いながら待つ時間にあるのではないか、と思えるほどだ。

緊張からか自分の鼓動が少し早いのを感じる。今日の服やメイクはこれでよかったのかと少し不安になる。田代が来たらなんて話しかければいいのか考え始めると答えは尽きない。

不安。

焦燥。

緊張。

それすらも、それすらも心地よい。

古い短歌なんかには、こういう相手を待つ時間のじれったさを歌ったものがいくつかあったはずだ。今も昔も、「相手を待つ」というのは恋の醍醐味なんだと思う。

もっとも、以前にそんなことを亜美に話したら、「ウチは5分待たせるオトコはコロス」と物騒なことを言っていた。

ふと、視線を感じて志保は背後を振り返った。

初詣の時みたいに、またトクラがどこからか見ているんじゃないだろうか。

志保はキョロキョロと周りを見渡す。周囲の建物の窓、さらには屋上にまで目線を送る。屋上からトクラが双眼鏡で覗いているんじゃないだろうか。

結局トクラの姿は見つからなかったが、それでもどこからか感じる視線はぬぐえなかった。

待ち合わせ時間の4分前となった。白い吐息が晴れてくると、そこに田代の姿があった。

黒のジャケットを着こみ、両の手をポケットに突っ込んでいたが、志保と目線が合うと、ポケットから手を出した。

「待った?」

「ううん、今来たとこ」

本当は六分前からここにいた、なんて言うのは野暮というものだ。

「チケットはもう買ったの?」

「ううん、これから」

「じゃ、行こうか。席、どの辺がいいかな」

「うーん、前の方かな」

志保は笑顔で答えていたが、内心では困っていた。事前に用意していた、いくつかの気の利いたセリフが、田代の顔を見たとたんにどこかに飛んで行ってしまったことに。

 

写真はイメージです

赤い薄手のセーターに黒の革ジャンを着て、亜美は駅へと向かって歩いていく。途中、デパートに立ち寄って12個入りのお饅頭の箱を購入した。

デパートを出て再び真冬の街の中を駅に向かって歩いていく。

お饅頭の入った手提げ袋を亜美はぶんぶんと大きく振りながら歩いていた。しかし、ふと立ち止まり、手提げ袋に目をやる。あまり振り回すと中身のお菓子によくないのではないか、そう思い直したのか、手提げ袋を持った右腕をだらんと下げ、なるべく動かさないように歩き出した。

歓楽街から駅までの間は、真ん中に街路樹があるせいか、ほとんど車が通らない。大通りと大通りに挟まれたこの一角は道いっぱいに歩行者が広がっている。

亜美は左に曲がった。このまままっすぐ行けば駅だ。

その時、カップルとすれ違った。

男の方も女の方も割と背が高い。二人ともサングラスをしていたが、すれ違っただけでも美男美女であることは分かった。

今のやつら、どっかで見たことあるぞ。亜美は直感的にそう思って振り返った。別に急いでるわけではないので、後をつけて誰だったか確かめようかとも思ったが、振り返った時には二人はもう雑踏の中に消えていた。二人とも黒っぽい服装をしていた気がするが、冬の大都会にはそんな服装の人は多すぎて、逆に見つけられない。

ま、いっか、と亜美は駅へと向かうスクランブル交差点を渡り始めた。とはいえ、あれが一体誰だったのかちょっと気にはなる。

女の方を思い出したのは、交差点を渡ってすぐだった。

確か、志保と同じ施設に通っている女だ。名前は知らないが、亜美は確か二回会っているはずだ。

一回目は十月に行われた大収穫祭の時。確か、クレープを焼いていた女だ。

まあ、それくらいなら亜美もいちいち覚えちゃいない。

亜美がその女の顔を覚えていたのは、十日ほど前にも見ていたからだ。初詣に行った神社で志保と偶然に会ったらしく、何やら話していた。そう言えば、服装もさっきとほぼ一緒だった気がする。

女の方を思い出せてちょっとすっきりしたが、男の方は思い出せない。

まあ、どうでもいいや。たぶん、志保と同じ施設の人で、大収穫祭の時に見たのをたまたま覚えてたんだろ、と亜美は気にせず、改札を抜けた。

駅構内はまるでゲームに出てくる洞窟やお城のように、広大で、入り組んでいる。その中を溢れんばかりの人が縦横無尽に行きかう。

初めてこの駅を降りたときに、あまりの人の多さに亜美は、その日は何かのお祭りをやっているんだと思った。駅を出ても人の波は収まらず、やっぱりどこかで大きな祭りをやっているんだと思った。それが何でもない木曜日の午後の日常の風景にすぎないと知って、亜美は思わず「ウソだろ」と口にしていた。

あれから一年ぐらいが経った。いつの間にか、この町にもこの駅にも慣れてしまった。

大人になるというのは、そういう風に特別だと思っていたことが当たり前になっていくことなのかもしれない。亜美にだって小学校の頃は男子とちょっと手を握ったくらいでドキドキした時代もあった。今となっては信じられないが。それが今では、手をつなぐどころか、男と夜にベッドを共にすることすら、何でもないことだ。

そのうち、結婚とか出産とか子育てとか、今の亜美には想像もつかないようなことが、日常になり、当たり前になり、何でもないことになるのだろう。

誰かと結婚するなんて想像もつかないし、今の亜美は結婚なんてするつもりはさらさらないのだが、それでもいつか、なにかの手違いで結婚しているかもしれない。だが、エプロンをつけて赤ん坊を抱えて「あなた、行ってらっしゃい」なんて微笑む奥さんに自分がなるとは想像つかない。ダンナに金渡して「めんどくせぇから勝手に外で食え!」ってタイプの鬼嫁にはなれるだろうが。

今の亜美は迷子にならずに人ごみの中をかき分けて、迷路のような駅構内を当たり前のように歩いている。それと同じように、当たり前のように結婚して、子供産んで、孫ができて、「結婚とか想像つかねー」とか言ってた自分が嘘みたいに色あせていくのだろう。

それが大人になる、ということなのであれば、なんかヤだな。

だって、大人になって、いろんなことが当たり前になって、行きつく先はどうせ死である。棺桶である。墓場である。

特別だと思っていたことが一つずつ当たり前になっていく。そして最後には、死ぬことすらも当たり前のことになっていく。周りで家族や友達が死んでいくことが当たり前になっていき、最後には自分が死ぬことも当たり前になるのだ。

亜美は「普通」が嫌いだ。亜美にとって普通は退屈そのものである。だが、このまま生きていれば自分はどんどん大人になっていく。特別だと思っていたことがどんどん普通のことになっていく。どんどん退屈になっていく。

明日のことなんてどうでもいい。今日が楽しければそれでいい。亜美はそう思っているのだが、それでも大人になっていけば今日がどんどん退屈なものになっていく。

だったらたまきみたいに美容院に行くか行かないかでおろおろしたり、志保みたいに映画館に着ていく服を一時間もかけて選ぶ、何でもないようなことを人一倍気にしてしまう、そういう人生の方が案外退屈しなくていいかもしれない。

発車メロディが鳴り、電車のドアが閉まる。亜美を乗せた電車がガタゴトと北へ向かって走り出す。

亜美はドアにもたれかかって、目線をあげた。その途端、「あ」と声を漏らした。

電車の上部に掲げられたビールの広告のポスター。ビール缶を片手に、若い男性が笑みを見せていた。

さっきすれ違ったカップルの男の方だった。名前は知らないが、最近テレビで顔を見る。どこかで見たことがあると思ったら、そういうことだったらしい。

 

「そうやってさ、すごく特別だったことがさ、少しずつ当たり前になっていくんだよ。手をつなぐこととか、キスとか、デートとかさ。そうやって、みんな少しずつ大人になってくんだよ」

「でも、それって、ドキドキすることが一つずつ減ってくってことじゃない? だったら私、大人になんかなりたくない」

「でも、そんなこと言ったってさ、どっかで大人にならなきゃいけないし。それに、周りのみんなはどんどん大人になっていくんだよ?」

スクリーンに映し出された二人のセーラー服の少女が、海岸線の道路を歩きながら話している。一人は青空をバックに堤防の上を歩いている。

志保はそのシーンを、ポップコーンを口に運びながら見ていた。手にしたポップコーンがちょっと多すぎたのか、2つばかり手からこぼれてひざの上に落ちる。志保はその二つを手に取ると、隣の田代を見た。暗いながらも、田代がまっすぐスクリーンの方を見ているのを確認すると、ひざの上の二つを自分の口へと放り込んだ。

映画館が暗くて本当に良かった。こんな、ちょっとはしたないところも見られずに済むのだから。

映画が始まって一時間。Lサイズのコーラはもう空になってしまった。にもかかわらず、のどが渇く。志保はもう一度、田代がこちらを見ていないことを確認すると、紙コップにつけられたプラスチック製のふたを、音をたてないように取り外した。氷を一個つまむと、素早く口の中に放り込む。映画館が暗くて本当に良かった。

当り前じゃなかったことが一個ずつ当たり前になっていく。そうやって、みんな大人になっていく。氷を口の中で溶かしながら、志保は映画の中の言葉を反芻する。

人生とはおおむねそういうものだ。小学生の時は中学生になることにドキドキした。町でかわいい制服や部活のジャージに身を包む、自分よりも背の高い女子中学生に会ったときはあこがれを抱いた。と同時に、自分もあと何年かしたら彼女たちと同じ中学生になる、ということが信じられなかった。

あんなにも信じられなかったのに、いざ中学生になってみると、いつの間にか中学生であることが当たり前になっていった。

あの時、ふと怖さを感じたことを志保は覚えている。

そのうち当たり前のように高校生になり、当たり前のように大学生になり、当たり前のように就職する。当たり前のように彼氏ができて、当たり前のように結婚して、当たり前のように母親になる。

なんだか、自分の人生がすでにゴールまで決まっているような気がした。漫画っぽく言えば「ネタバレ」というヤツだろうか。読んだことはないけれど、要所要所の展開はすでにネタバレされている漫画を、「ああ、ネタバレ通りの展開だな」と確認していく作業。

それは志保にとって、退屈を通り越して、ある種の恐怖だった。

社会のどこかに「理想の人生」っていうのがあって、そのために必要な進学とか就職とか結婚っていうアイテムを一個一個回収していくだけの作業が人生なのだとしたら、自分はいったい何のために生まれて来たのだろう。

志保は人生がそういった作業であることを受け入れることが、たまらなく怖かった。かといって、だったら自分は学校なんか行かない、結婚もしないなどと言い切れるわけでもなかった。現に、今もこうやってデートに来ている。人並みの幸せってやつをただただ回収していくだけの人生に違和感を覚えながらも、人並みの幸せってやつを欲し、満喫しようとしている。クスリの快楽と引き換えに捨てたはずの「人並みの人生」に、どうにかして戻る道はないのかと考えている。

一度過ちを犯した人間が、困難を乗り越えて、人並みの幸せを手に入れる道に戻ってくる。世間的にはそれを「立ち直る」というのだろう。きっと今、志保に関わってくれるほぼすべての人が、志保がそうやって「立ち直る」ことを望んでいるはずだし、志保自身もそれを望んでいるはずだ。いや、立ち直れなければ堕落するだけ。「立ち直る」以外に選択肢なんてないはずだ。

スクリーンの中ではシーンが切り替わる。テニス部に所属する主人公の少女が、コートで練習に励んでいる。演じている女優はこの前まで別の映画で主演していた。その時は確か病気で余命宣告をされたはかなげな少女の役だったが、今はユニフォーム姿で青空のもとでラケットを振っている。

ホイッスルが鳴り、コーチが少女にフォームの指導をする。少女はこのコーチに片想いをしているらしい。コーチ役の俳優は最近出てきた人で、この前電車に乗った時は缶ビールのポスターに映っていた。

スクリーンの中の少女が恋焦がれるコーチに向ってほほ笑む。志保と同年代の女優さんは、誰よりも美しく、誰よりもまぶしく、誰よりも輝いているように見える一方、ただ決められたセリフを読み、求められている演技をこなしているだけのようにも見えた。あの子が急に「やってらんねぇよ!」と叫んで、コーチに馬乗りになってぼこぼこに殴りだしたらもっと面白いのに。

 

いざ外に出たはいいものの、どこか行きたい場所があるわけでもなく、たまきは当てもなく北に向かって歩き出した。

病院と交番のわきを通り過ぎ、公園を抜けて舞のマンションのそばを通る。

舞の家に行こうかとも考えたが、たしか今、舞は正月休みを兼ねて、友人とどこかに旅行に出かけてしまった。「あたしがいない間、絶対にトラブルを起こすな」という脅迫めいた言葉を置き土産に。

さらに北へと進む。韓国料理のお店が立ち並ぶ大通りに出た。これ以上向こうに入ったことがないので、たまきは引き返した。

とぼとぼと来た道を引き返し、再び太田ビルの前に戻ってきたが、カギは亜美が持っているので夜にならないと「城」にも入れない。仕方がないので、今度は南へ、駅へと向かってとぼとぼと歩き出した。

東京のど真ん中、こんなにも人がいっぱいいて、こんなにも建物が、お店がいっぱいあるのに、行きたい場所がどこにもない。

この町で暮らすようになって半年がたったが、やっぱりたまきはこの町にもなじめていないようだ。

道路を渡り、線路をくぐり、地下道に入る。いつも公園に向かう道だ。別に公園に何か用事があるわけでもないし、今日は絵を描く道具など持っていないのだが、ほかに行くところもないので、たまきは公園へと足を向ける。ここでいつもと違う道に入ってみたり、いつもと違うお店に行ってみたり、そういう冒険をたまきはしない。

公園に入るとたまきは仙人の暮らす「庵」へと向かった。赤茶色の落ち葉の向こうにベニヤ板のお化けが、木々に隠れるように立っていた。

少し近づいて覗き込んでみたが、仙人はいないようだ。そう言えば、仙人たちホームレスは空き缶を片手に町中駆けずり回ってお金をもらっていると、前に言っていた。今頃、町中を駆けずり回っているのかもしれない。

たまきはいつもの階段に足を向けると、一番下の段に腰掛けた。

こんなことなら、亜美の言うとおり、「城」でごろごろして、コンビニでおにぎりでも買って食べてればよかった。

それでも何となく一人ぼっちになりたくなくて外に出てきたが、外に出てもやっぱりたまきは一人ぼっちだった。

一人になると余計なことをいろいろと考えてしまう。

志保はデートに出かけてしまった。

亜美はどこに行ったか知らないが、どうせ男がらみだろう。

たまきだけ、ひとりぼっち。デートをすることもなければ、会いに行く友達もいない。そういったこととさっぱり縁がないし、どうしたらみんなと同じことができるようになるのかもわからない。やっぱりたまきは、かわいそうな子なのだ。

周りのみんなは学校に行って、友達を作って、恋をして、仕事をして、階段の上の方へどんどん上がっていく。まるで、それが当たり前のように。そうやってみんな、当たり前のように大人になっていく。

たまきだけ階段の一番下の段にうずくまって、ただ上を見上げているだけ。階段の昇り方なんてわからないし、誰も教えてくれない。みんながたまきのいる段を通り過ぎて、どんどん上に昇っていくのを、恨めしげに見上げるだけだ。

階段なんて昇れるのが当たり前。だから、誰もたまきに昇り方なんて教えてくれない。当たり前のようにできることをどうやって教えろというのだ。

別にたまきはカレシが欲しいわけでも、恋をしたいわけでもない。

ただただ、人並みになりたいだけなのだ。

みんなと同じように階段を昇れるようになりたいだけなのだ。

他の人が当たり前のようにしていることを、当たり前にできるようになりたいだけなのだ。

 

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「よっ」

たまきが腰かけている階段の上の方で声がした。振り返って見上げると、ギターケースを抱えたミチがいた。グレーのジャンパーを羽織り、手には飲みかけのコーラの缶を持っている。

たまきは、無言で軽くお辞儀をした。

「なんか今日、いつもより下の方にいない?」

ミチは階段の中ほどまでは降りてきたが、そこで足を止めた。

「そんな下の方にいないで、こっちあがって来れば?」

ミチは階段の中ほどに腰掛けると、横にギターケースを置いた。

たまきは背中を丸めて、深く深くため息をつく。白い息がもやもやと怪しげに揺れる。

ミチこそ、たまきから見れば階段の上の方にいる人間である。トラブルになったものの、ついこの前まではカノジョがいた。

それに、ミチには夢がある。プロのミュージシャンになるという夢が。たまきにはない夢がある。

今のたまきにとって、ミチはあまりにもまぶしすぎた。

ミチはギターを弾きながら歌い始めた。まだ歌詞はついていないらしく、ラララと歌っている。軽やかにギターをかき鳴らし、ハイトーンでありながらもちょっとハスキーな声で、のびやかに歌っている。

普段は好きなミチの歌も、こんな時に聞くとなんだか後ろから幾千もの針で心を貫かれたかのようだ。

どっか行ってくれないかな。たまきはそんなことを思った。

思っただけで、それを言葉や態度には表さない。たまきはそこまで子どもではない。ミチのことを嫌いと口にしたり、本人に言ったりすることはあっても、嫌いだ嫌いだと醜く顔を歪めて喚いたり、あからさまな態度に表すようなことはしないのだ。

一曲歌い終わるとミチは「ありがとうございました」と世の中に対してあいさつした。そうして、たまきの方に顔を向ける。

「いつまでもそんな下の方いないで、こっちあがって来ればいいじゃん。何? 下の方、好きなの?」

「……私の勝手です」

こういうミチの妙になれなれしいところが嫌いだ。初めて会った時から、ミチはなれなれしかった。なれなれしいという意味では亜美も同じなのだが、亜美とミチで決定的に違うところが一つある。

亜美はたまきがほっといてほしい時、不思議とほっといてくれるのだ。

一方、ミチはたまきがほっといてほしい時も、ずかずか入り込んでくる。今、まさにそうであるように。

クリスマスの一件で少しはミチも変わったかと思ったが、三つ子の魂百まで、そんなに簡単に人は変わらないようだ。

「そういやさ、今日、絵描いてないじゃん。正月休み?」

「別に……」

ミチの問いかけにたまきは振り向くことなく答える。

「ひきこもりにも正月休みってあんの?」

「知りません」

「そういや、お正月に実家とか帰ったりしたの?」

「……帰ってません」

「なんで?」

ミチの無神経な言葉に、たまきは初めて振り返った。ミチは階段の何段か上の方で、ギターを抱えてたまきを見下ろしている。

「実家帰ったら家族とかいるんでしょ? 会いたいとか思わないの?」

「思いません……!」

「なんで? 家族なんでしょ? 家族と離れてたら会いたいって思うのは当たり前なんじゃないの?」

ミチは、わからない、といった顔でたまきを見る。

「……家族のことが好きだったら、そうなんじゃないですか……?」

「たまきちゃん、家族のこと、嫌いなの?」

「……はい、たぶん」

もうたまきはミチを見ていなかった。ミチに背を向け、背中を丸め、自分のスカートのすそをじっと見ていた。

「なんで? だって、家族でしょ?」

気が付けば時計は午後四時半を回り、すでに日が沈み、西のビルの輪郭線から夜が空を侵食し始めていた。空は薄い藍色に染まり、そこから降りてきた影がたまきの背中をべったりと濡らしたかのようだった。

「ミチ君みたいな人にはわかんないですよ……きっと……」

感情を押し殺した声でそう答えるのが、たまきには精いっぱいだった。

「……かもね」

ミチはどこか寂しそうにその言葉を受け止めた。

「でも、普通はみんな、家族好きなんじゃない?」

「私は……ミチ君みたいに、普通じゃないんです……」

家族が好きだと、普通に言える家庭だったらどんなに良かったか。

わかってる。普通じゃないのは自分の方なんだ、ということを。世間的にはたまきより両親の方がよっぽど普通なんだろう。別に虐待を受けたわけでもないし、意地悪な両親だったわけでもない。

ごく普通の両親と、ごく普通の長女がいる家に、普通じゃない次女が生まれてしまったことが間違いなのだ。両親はたまきを普通の子どもとして、お姉ちゃんと同じように、当たり前のことが当たり前のようにできる子どもとして育てたかったけど、たまきはその期待に応えられなかった。やっぱりたまきが悪いのだ。たまきみたいなかわいそうな子が生まれて来てしまったことが、そもそもの間違いなんだ。

今日は絵をかいていないからか、そんなネガティブな思考がたまきの脳をつかんで離さない。

今日はリュックを持ってきていない。たまきのお守りのカッターナイフもリュックの中に入ったままだ。こんな時こそ、お守りが必要だったのに。

 

午後四時四十五分になった。たまきのおなかがぐうぅと鳴る。

もう、帰ろう。

たまきは立ち上がると、

「私、帰ります……」

とミチの方を見ることなく言った。

「うん、じゃあね」

とミチ。

たまきは公園の出口に向かってとぼとぼと歩きはじめる。

何かを食べたい気分ではないが、空腹感には抗えない。今日は志保がいないから、自分で夕ご飯を調達しないと。

歓楽街の中にハンバーガーやポテトのお店がある。そこへ行こう。そう言えば、この前志保から、そのお店の割引券を分けてもらった。あれはたしか、財布に入ってたはず。なんの割引券だっけ……。

そこでたまきは、自分がとんでもないミスを犯していることに、ようやく気付いた。

たまきは普段、外出するときはリュックを背負っている。誕生日に亜美たちに買ってもらったやつだ。

外出(そのほとんどが公園で絵を描くことなのだが)に必要な道具は全部、リュックの中に入れてある。画用紙。色鉛筆。駅前でもらったティッシュ。

そして、財布も。

たまきは、自分の背中に手をまわした。自分が今、リュックを背負っていないことを再確認する。

今日は絵を描くつもりがなかったので、リュックを「城」に置いてきてしまったのだ。そのリュックの中には画用紙や色鉛筆と一緒に、財布も入っているのだ。

そして今、「城」は鍵がかかっていて入れない。鍵を持っているのは亜美だが、いつ帰ってくるかわからない。

いつ帰ってくるかわからないけど、亜美も夕飯を外で済ませてくるはずなので、つまりは、すぐには帰ってこない。

もしも亜美が帰ってくるのが九時とか十時とかもっと遅かったら。それまでぐうぐうとなるおなかの空腹感を抱えたまま、寒い1月の街に、無一文で立ち尽くすことになってしまう。

たまきは幼き日に読んだ絵本「マッチ売りの少女」のはかなげな絵を思い出していた。

再びおなかがぐうとなった。胃の底から悪魔のような飢餓感が、早く何か口に入れろとたまきに急かす。東京には山ほど食べ物があるのに、お金をもっていないとチョコの1枚だって手に入らない。

たまきはくるりと向きを変えると、「庵」に向って歩き出した。歩きながら考える。

志保は……ダメだ。デート中だ。ジャマしてはいけない。

亜美に連絡を取って、もし可能なら亜美と合流して……。

そこでたまきは、自分が携帯電話などという文明の利器をそもそも持っていないことを思い出す。

亜美に電話するには公衆電話を使わなければいけないが、公衆電話に払うお金がない。そもそも、亜美の携帯電話の番号が書かれたメモも、財布と一緒にリュックの中だ。志保の番号だったら覚えてるのに。

「庵」の前についた。黄昏時の薄い闇が靄のようにかかっていたが、それでも、誰もいないことを確かめるには十分だった。

舞の家は……ダメだ。今、旅行中だった。

たまきは深く深呼吸をすると、さっきまでいた階段の方に、少し早足で歩き始めた。

階段の下の方に戻ると、帰り支度を始めていたミチが目に入った。たまきは、たまきなりの速度で駆け出した。

たまきが声をかける前に、ミチの方が気づいた。

「あれ? 帰ったんじゃなかったの?」

「あ、あの……ミチ君ってこの後、バイトですか?」

「いや、今日休みだけど」

「……これからお夕飯ですか?」

「まあ、家に帰ったら」

ミチはギターをケースにしまい終えると、ギターケースを担ぎ、コーラが入っていた空き缶を片手に立ち上がった。

「あ、あの……」

たまきはミチから目線を外し、恥ずかしそうに下を見た後、ミチに目線を戻すと、再び目線を外し、なんとも申し訳なさそうに言った。

「その……ずうずうしいお願いがあるんですけど……」

たぶん、いつの日か美容院で「髪を切ってくれませんか」という時も、きっとたまきはこんな感じなのだろう。

つづく


次回 第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫(仮)」

ミチの家で夕飯をごちそうしてもらうことになったたまき。そこで、たまきは初めて、ミチの家族のことを知り、ある後悔の念に駆られる。続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」