小説「あしたてんきになぁれ」 第44話「祈りのち『いつか』」

「鳥のラクガキとたまきのバイト」編、ついに完結! たまきが寺の壁画に込めた祈りとは……。「なしあれ」第44話、スタート!


第43話「雨のち極楽、ところにより『最期のラクガキ』」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです
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日差しが照り付け、セミが歌う。

たまきがこの街にやってきて、二度目の夏が始まった。

たまきにしては珍しく、白い半そでのTシャツを着ている。志保のおさがりだ。ケチャップのしみがついてしまったため志保はもう着ないらしく、それをたまきが譲り受けたのだ。どうせ汚れるペンキの作業にはうってつけだ。

脚立の脇に置かれた新聞紙の上には、いくつかのペンキ缶が置かれている。小型のものがほとんどだが、大型の缶も4つ用意してあって、それぞれ白、黒、灰色、青が入っている。

脚立やペンキ缶は、毎日住職さんがブロック塀の前に用意しておいてくれる。準備と片づけは力仕事になるため住職さんの担当だ。たまきは毎日、ブロック塀の前にやってきて、一度大きく背伸びをしてから、絵の制作に取り掛かっている。

たまきの仕事をはまず、スケッチブックをよく見ることから始まる。まず壁画の全体像をスケッチしたものが一枚あり、さらにこのスケッチを八分割し、それぞれを拡大してより細かく描きこんだものが八枚ある。この拡大図の方のスケッチを見ながら、塀のどの箇所でどんな作業をするかを決めていく。

この日で作業を始めて4日目だ。作業はまだ半分も終わっていないけど、少しずつ、絵の姿が見え始めている。

たまきは脚立に腰かけて、塀の上側を描いていた。梅雨が来る前に塗装した青い壁に、さらに白いペンキを塗り足していく。

ふと、人の気配を感じたたまきは、横を向いた。

「よっ」

遠くから、亜美が歩いてくるのが見えた。根元が少し黒くなり始めた金髪を、肩のところで二つ結びにしている。たまきは壁の絵に視線を戻すと、

「また、邪魔しに来たんですか」

と、作業を続けながら言った。

「なんだよ。ウチがいつ邪魔したんだよ」

たまきは作業をしたまま、答えない。

「……何しに来たんですか?」

「なにって、見物ついでに差し入れ持ってきたんだよ」

亜美が右手を挙げた。ジュースの入ったペットボトルが握られている。

そのまま、ペットボトルをたまきのほほに押し付ける。ひんやりと冷たい。

「テレビで言ってたぞ。ネッチューショーに気をつけようって」

「……新聞紙のところに置いといてください。後で飲みます。……ありがとうです」

たまきは、ちょっとだけ亜美の方を向いて、行った。

亜美は指示されたとおりに、ペンキ缶が並ぶ新聞紙の隅の方に、ペットボトルを置いた。

「なに? こんなに色使うの?」

新聞紙の上の様々なペンキ缶を見ながら亜美が尋ねる。

「使うかも……です。全体的には、最初に塗った青を背景に白と黒と灰色をメインに使うんですけど、もうちょっと彩りも欲しいなって思ってて。極楽の部分をどんな色にするか、まだはっきりとは決めてないんです」

「ゴクラクのブブン? なんじゃそりゃ?」

亜美は再び、足元のペンキ缶に目をやった。

「ん? 黄色はこれだけか?」

亜美がまだ未開封の、イエローの小さいペンキ缶を手に取った。

「……亜美さん、黄色好きなんですか?」

「いや、キライじゃないけどさ、そうじゃなくて、仏像描くんだろ? 仏像って、黄色じゃねぇの?」

亜美は一歩後ろに下がって、描きかけのたまきの絵を見た。

「あれ? これ、仏像じゃなくね? これ、何? 鳥?」

壁の絵はまだ半分も描きあがっていないけど、大きな白い鳥が二羽ほど描かれているのがわかる。ほかにも小さな鳥が何羽か描きこまれている。

「まあ、その……仏像は描かないことにしたんです。お寺の壁だからって仏像を描かなきゃいけないわけじゃないし……」

「ふーん。これ、何の絵?」

たまきは作業の手を止めると、一度、息を吸った。

「その……鳥が……極楽から飛び立つ、そういう絵です」

「……は?」

「でも、その極楽をどう描くかまだ……、決めてないんです。昔の絵にあるような色鮮やかなものにするか、コンクリートみたいな灰色にするか……」

「……へ?」

「私としては灰色にしたいなって気持ちの方が強いんですけど……、極楽は絵の真ん中に描くんです。だから、もうちょっと彩りがあった方がいいかなって思って……」

「ちょいちょいちょいちょい」

亜美はたまきの肩に手を置いた。

「わかる言葉でしゃべれ。何言ってっかさっぱりわかんねぇ」

「あ……はい……えっと……」

たまきはもう一度息を吸った。

「その……鳥が……極楽から飛び立つ……、そういう絵……です。でも……、その極楽をどう描くか……まだ……」

「いや、さっきの説明と一文字も変わってねぇよ」

亜美はたまきの肩に手を置いたままそういうと、顔をたまきの方にグイッと近づけた。

「つーかおまえさ、自分の絵が人に見られるの、嫌がってなかったっけ?」

「……そうでしたっけ?」

途端に、たまきの方に置かれた亜美の手が離れ、その腕でたまきの首筋を一気にからめとり、力任せに締め付ける。

「なーにが『そうでしたっけ』だ! 去年、ウチの似顔絵を描いた時、あれを『城』の壁に貼るのめっちゃ嫌がってただろうが!」

脚立の片側の脚がアスファルトから離れ、たまきの持つ缶の中の白いペンキが波打つ。

「まっ、亜美さんっ、あぶなっ……!」

「部屋の壁であんなに嫌がってたのに、こんな人に見られるようなところに堂々と描きやがって、挙句の果てには『そうでしたっけ?』だぁ? じゃあ、去年はいったい何だったんだよ!」

「あ、亜美さんっ! あぶなっ! や、やめっ!」

ようやく亜美が手を放し、脚立も安定を取り戻した。たまきははぁはぁと息をつく。

そう言われてみれば、自分でも少し矛盾している、ような気がしなくもない。

たまきはその違和感を塗りつぶすかのように、再び壁にペンキをあてがった。

 

「極楽、ですか?」

お茶をすすり終えた志保は、そう尋ねた。

「そう、極楽」

と住職が答える。

志保は掃除を中心としたお寺のバイトを終え、寺の事務所でお茶をごちそうになりながら、住職さんからたまきが描く絵について聞いていた。

「仏像を描くんじゃなかったんですか?」

「別にお寺だから仏像の絵じゃなきゃいけないってことはないわ。目的は落書きの防止なんだし、たまきちゃんが描きたいものを描くのが一番じゃない?」

「でも、何で極楽? そういえば、この前も極楽がどうとか言ってましたけど。どういう絵なんですか?」

「極楽から鳥が飛び立って、どこか別の場所へと向かっていく、そういう絵だって言ってたわ」

住職さんはたまきのスケッチを思い出しながら言った。

「ふーん」

といいながら志保はお茶に口を付けたあと

「……それってヘンじゃないですか?」

と尋ねた。

「だって住職さん、極楽はいつかたどり着きたい理想郷だってこの前言ってたじゃないですか。そこから飛び立って、どこに行くんですか?」

「さあ?」

住職さんはすました顔で答える。

「そうね。私が見たスケッチでは、極楽というよりも、東京のビル街に見えたわね」

「……へ?」

「たまきちゃんに聞いたらね、ビルが立ち並び、多くの人やお金が集まるこの街こそが極楽なんじゃないかってあの子いうのよ」

「……はぁ」

「でも、この街が極楽だからこそ、そこにいたくない、そこから飛び立ちたいって人もいるんじゃないかって……」

「あ、あの……」

志保は手にした湯飲みを机の上に置いた。

「えっと……何の話をしてるのかさっぱり……」

「ごめんなさいね。アタシも実はよくわかってないのよ。あの子と一緒に暮らしてる志保ちゃんなら何かわかるんじゃないかと思ったんだけどねぇ」

そう言われても、たまきについては志保もわからないことがいっぱいある。

そういえば、そもそもたまきは人に自分の絵が見られることを嫌がっていたのではないか。いったいいつから平気になったのだろうか。

ふと、志保は宙を見上げた。一緒に暮らしているはずなのに、ここ最近はたまきとそんなにしゃべっていないような気がする。

まあ、たまきちゃんはもともとあんまりしゃべらないからなぁ、と志保は結論付けて、前を向いた。

「たまきちゃんが言ってる意味はよくわからなかったんだけどねぇ……」

と、住職さんは切り出した。

「見せてもらったスケッチはよく描けてると思うし、それにたまきちゃんが絵の構想についてずいぶん熱心に話すもんだから、アタシもたまきちゃんの描きたいものを描いてもらうのが一番なのかなって思って、お願いしたのよ」

「熱心に?」

志保は思わず聞き返していた。たまきが何かに熱くなって、まくしたてるように語る姿なんて想像がつかない。

「そう。まあ、熱心にって言っても、いつもとそう変わらなかったんだけどね。ただ、自分の思いを、自分が何を描きたいのかを、なんとかしてアタシに伝えようと一言一言しっかり言葉を選んでる、そんな感じがしたのよね。自分の絵と真剣に向き合ってるって感じ。熱心さは感じるんだけど、その反面、いつもよりさらに静かで、そうね……まるで、仏様にお祈りしているみたいだったわ」

住職はそういうと、涼しげに微笑んだ。

 

写真はイメージです
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それから何日かして、その日のバイトが終わり、たまきは歓楽街の中をすたすたと歩く。この後、一度「城」に戻って、汗でぐっしょりになってしまったシャツを着替えて、別の場所に行きたいため、いつもよりも少し早足になっている。

「城」のある太田ビルが見えてきた時、正面から見覚えのある人物が歩いてきた。

亜美だ。

青い蝶の入れ墨が彫られた腕、胸の谷間、ふとも元ふくらはぎと、見せれるところをすべて見せるファッション。たまきにとっての服は「いかに自分を隠すか」というものだけど、亜美にとっては「いかに見せるか」がテーマなのだろう。

「よっ!」

亜美はたまきを見つけると、片手をあげた。

「ちょうどよかった。これからゲーセンに行くとこなんだ。いっしょ行こうぜ」

「……あの……私……これから行くところがあるので……」

たまきの返事に、亜美は明らかに不服そうに口を尖らせた。

「それ、今日じゃなきゃダメなやつ?」

「まあ……早い方が……」

「じゃ、明日でもいいってことだな。ゲーセン行こうぜ」

亜美はたまきの肩に腕を回す。

「……ゲームセンターだって、別に今日じゃなくてもいいじゃないですか……」

「バカ。明日になったら潰れてるかもしれねぇだろ。よく言うじゃん。親孝行したいと思った時にはもう親はいないぞって」

親孝行から一番遠そうなヤツに言われても、説得力がない。

「……ゲームセンターに行っても、別に遊びたいゲームとかないので……」

たまきは亜美の腕から肩を外すと、「城」に向かって歩き出した。背中越しに亜美の声が響く。

「お前なぁ、16才で遊びたいゲームがないって、それはもうビョーキだぞ」

たまきは振り向かなかった。

「……私だって、好きなゲームくらい、あります」

「え? なに?」

雑踏の中で亜美にはよく聞き取れなかったが、たまきは一言も発することなく、ビルの方へと歩いていった。

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世間的には、夏休みと呼ばれる時期に入ったのだろか。コリアンタウンはあの雨の日の三倍ほどの人でごった返していた。路地から大通りへ出ようとしたたまきは、あまりの人の多さに一瞬ためらい、踵を返そうとしたけれど、踏みとどまると、意を決して人の波の中へと入っていった。

やはり、場違いな気持ちはぬぐえない。大丈夫、誰も私のことなんか見てない、気にも留めてない、と言い聞かせて、必死に一歩一歩足を進めた。

わざわざ、作業後の疲れた体に鞭を打ってやってきたのだ。「人混みはイヤだ」なんて理由で引き返すのはもったいない。

たまきがそうまでしてコリアンタウンにやってきたのは、もちろん、チーズタッカルビが食べたくなったからでも、K―PОPアイドルのブロマイドが欲しいからでもない。ましてや、駅前のお菓子工場から漂うチョコの臭いにつられてきたわけでもない。目的地はコリアンタウンを抜けた先にある。

ハンペンレコードの壁に描かれた、サキの「ぐらふぇてー」とかいうのをもう一度見るためだ。壁画の作業を進めるにつれて、あの絵をもう一度見たいという想いがたまきの中で強くなった。ほかのラクガキを寄せつけないような魔力をあの絵を、もういちどちゃんと見たい。たまきの絵が完成する前に。いや、もう一度あの絵を見ないまま完成と言い切ることはたまきにはできなかった。

それにしても暑い。拭いても拭いても汗が零れ落ちて、せっかく着替えてきたのにシャツはもうぐっしょりと濡れてしまった。もう夕方だから涼しくなるだろうとたまきは考えていたけれど、昼間の熱気がそのまま残り、涼しくなるどころかむしろサウナの中にいるように暑い。そういえば亜美さんが熱中症に気を付けようなんて言ってたな、とたまきは歩きながら思い出した。

駅からハンペンレコードまでの道は曲がり角がほとんどないので、たまきも迷うことなくたどり着くことができた。

青い壁のビルを通り越して、駐車場の前に立って振り返ると、色鮮やかないくつも線で構成された「ぐらふぇてー」が見えた。改めて見てみると、幾重にも絡まった色とりどりの糸が、ほどけ、解放されていく、そんな風にも見える。

サキって人の絵に挑みたい、そう思って壁画の作業を続けてきたたまきだったけど、こうやってまたサキって人の絵を目の当たりにすると、自分の力不足を実感してしまう。

たまきはスケッチブックの下絵をを片手に、ていねいにていねいに作業を進めているのだけど、目の前の「ぐらふぇてー」はそんな設計図なんて見ないで、勢いだけで描かれたように、たまきには思えた。

あれから少しだけサキって人に近づけたようにたまきは思っていたけれど、やっぱり、まだまだ遠いのかもしれない。それとも、近づきすぎてしまうと、あの屋上の白い扉の向こう側に、たまきも立ってしまうのだろうか。

たまきはあの白い扉を思い浮かべる。歓楽街で一番高い雑居ビルの、屋上の扉。サキって人はそこから飛び降りて、遠くに行ってしまった。まるで、天国の扉だ。階段を上って登って、高い高いところにある、真っ白な天国への扉……。

急に体がふらつき、たまきは電柱へともたれかかった。

暑い暑いと思っていたのに、急に寒気がする。あと、頭ががんがんと痛み出した。

足の力が抜けるように、たまきはしゃがみこんだ。

見上げると、そこにはサキって人の絵がある。無数の色とりどりの線が、なんだかうねって動いているような気がした。

そのまま、かなりの時間が過ぎた。いや、たまきがそう感じただけで、本当は数分しかたっていなかったのかもしれない。

がさり、と音がした方を振り向くと、見覚えのある人が立っていた。

「アンタ……、この前の……」

ライオン店長さんだ。レジ袋を持って立っている。ライオン店長さんはしゃがむと、

「おい、大丈夫か? 具合悪そうだな。熱中症か?」

ライオン店長さんは、すぐそばの自販機からポカリを買ってきて、たまきに渡した。たまきは受け取ると、ぐびぐびと一気に飲む。

半分ほど飲み干すと、少し体力が戻ってきた。

「……あ、ありがとうございます。あの、お金……」

「いいよそんなの。立てるか?」

たまきは、小さく頷いた。

 

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ライオン店長さんは、たまきをレコード屋の下にある古着屋に招き入れた。レジ袋の中の缶ビールを冷蔵庫に突っ込むと、コップに冷たい水を入れて、たまきの前に持ってきた。

たまきは、店内にある椅子に座っている。古着屋は冷房が効いていて、たまきの火照った体も徐々に冷めてきた。

「あの……、ここも店長さんが経営してるんですか?」

「いや、ここはダチの店だよ。ただ、ウチの店の真下だからな、今日みたいに店番を頼まれることもあるし」

ライオン店長さんは作業を終えると、たまきの方を見た。

「病院とか行かなくて大丈夫か?」

「あ……、はい」

体力は戻ってきた。体調も7割ほど。ちょっとだけ頭が痛いけど、さっきほどじゃない。たぶん、歩いて『城』に帰れるだろう。

「あの、ホントにさっきのお金……」

「ああ、大丈夫大丈夫。そのお金はさ、帰りに自販機でなんか買って、飲みながら帰りな」

「……はい」

たまきはコップの水をぐびぐびと飲む。

「で、今日は何の用だったの? また、サキの話を聞きに来た?」

「いえ、その、もう一度あの絵を見たくて……」

「ふーん。ホントにあいつの絵が好きなんだな」

ライオン店長さんは、くっくっくと笑った。

「アンタ、ヘンな人だな。あんなラクガキ追っかけてるなんて。それに、ウチの壁に描かれたヤツをわざわざ見に来るヤツも初めてだよ。熱中症になってまでさ」

「……よく言われます」

「……アンタなら、わかるのかもな」

「え? 何がですか?」

「サキがなんであんなラクガキを街中にしてたのか、だよ」

ライオン店長さんは、どこか遠くを見つめているようだった。

「自己顕示欲で落書きするヤツはいっぱいいるよ。ここは俺たちのナワバリだってな」

たまきは、亜美が言ってたナワバリの話を思い出した。

「でも、サキはそういうタイプじゃなかったし、何より、あいつの絵は、見つけにくいんだ」

「はい……」

それはたまきが誰よりもわかってる。見つけやすい場所にあるものもいくつかあった。でも、ほとんどがちょっと見つけにくい場所にあり、たまきみたいにわざわざ探さないと見つからない。

「あいつが生きてた時に、聞いてみたことがあんだよ。なんで見つからないような場所にばっか絵を描くんだって。そしたらあいつ、なっつったと思う? アンタわかるか?」

たまきは、コップの水に目を落とした。たまきはサキって人に会ったことがないし、どんな声でどんな風にしゃべるのかもわからない。

それでも、ふと心に浮かんだ言葉があった。

「……『秘密』ですか?」

「……驚いたな。その通りだ。『ヒ・ミ・ツ』ってそう言って笑って、教えてくれなかった」

たまきは再びコップに口をつける。

「やっぱり、アンタならわかるのかもしれないな。あいつが絵を描いた理由が」

たまきは、コップの中の水をすべて飲み干した。

「……私の中では、一応、こうなんじゃないかなって思ってることがあります。でも、勝手に思ってるだけだし、合ってるかどうかは……」

「いや、アンタならたぶん当てられる気がするよ」

たまきは、ふっと息を吐いた。

「……ゲームだったんだと思います」

「……ゲーム?」

「……はい」

ライオン店長さんは、少し考えるように上を見た。

「ゲームっていうと、誰かとラクガキで競って遊んでたとか、そういうことか?」

「……その、そういうんじゃなくて……」

たまきは下を向く。自分の中にある考えを誰かに伝えるための言葉を、必死に探す。

「えっと……その……あのラクガキ自体がゲームだったというか……、あのラクガキを描くことでゲームを作ってたというか……、私が勝手にそう思ってるだけなんですけど……」

たまきはライオン店長さんの顔をのぞき込むが、今一つ反応が薄い。たまきが言いたいことは、どうやらライオン店長さんにはうまく伝わってないようだ。

たまきは、口をパクパクさせながら、言葉をつづけた。

「その……子供のころにお姉ちゃんとやってたゲームがあって……、お城とか、雪山とか、洞窟とかを冒険して、さらわれたお姫様を助けに行くんです。そのためには、なんかアイテムを集めなくちゃいけなくて、そのアイテムがいろんなところに隠されてるんです……。すごく高いところにあったり、海に潜らないといけなかったり、暗号みたいなのを解かなくちゃいけなかったり、敵と戦ったり……」

「ああ、ロクヨンとかサンシャインとかだろ? 懐かしいなぁ。3Dのゲームって、今はそんな珍しくないけど、当時は衝撃的だったよ」

ライオン店長さんは、たまきの方を向く。

「ゲームって、それのこと?」

たまきは、無言で頷いた。

「なんか……似てるなぁって……」

「……サキは誰かに自分のラクガキを探させて、ゲームとして楽しんでもらうために、街中にラクガキを描いた、アンタはそう思ってるわけか?」

「……はい。それに……」

たまきは、すうっと息を吸うと、言葉をつづける。

「サキって人にとっても、やっぱりゲームだったんだと思います。簡単には見つからないけど、でも、探そうと思えば見つかる、そんなギリギリの場所にラクガキしていくことが……」

「ゲームねぇ……」

ライオン店長さんは頭の後ろで手を組む。

「いや、ゲームだったとしても、同じラクガキが街中にあるって気づいて探し回って遊ぶ奴なんているわけ……」

そこまで言ってライオン店長さんは、「あっ」と言って言葉を切った。目線の先にはたまきがいる。

「……まあ、アンタがそう思うなら、そうなのかもな。アンタはホントにヘンな人だ。あったことのないサキのことを、なんか誰よりもわかってるって気がする」

もちろん、ホントのことはたまきにもわからない。

ぜんぶ、たまきの勝手な妄想である。

論拠を示せ、と言われても、困る。

それでも、たまきは、あれはゲームなんだと確信していた。

だって、鳥のラクガキを探して、街のあちこちを巡ることはたまきにとって、どんなゲームよりも楽しかったのだから。

 

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七月もそろそろ終わる前に、たまきのアルバイトの終わりがやってきた。何事もなければ、今日ですべての作業が完成するはずだ。

行信寺までの通い路をたまきはゆく。

想えば、こうやってどこかに毎日通うだなんて、ずいぶんと久しぶりだった。でも、それも今日で終わる。出不精のたまきがこの辺りをうろつくことなんて、もう当分あるまい。

歓楽街を抜け、区役所のある大通りを渡ると、古い飲み屋街に出る。そこには遊歩道が通っていて、たまきはいつものようにそこを横切ろうとした。

ふと、毎日遊歩道を横切ってばかりで、歩いたことは一度もなかったな、と思った。

少し早めに『城』を出たので、時間にはまだ余裕がある。たまきは少し寄り道をしたくなり、遊歩道を横切るのをやめ、遊歩道沿いに少し歩いてみることにした。

遊歩道には木々が植えられ、セミの声が鳴り響く。車の音や何かの宣伝などの人口の音が鳴りやまない歓楽街においては、セミの声だけしか聞こえないというだけでも、むしろ静かに思えてくるから不思議だ。

遊歩道はそれほど長くなく、一分ほど歩くと、歓楽街に出た。たまきにとってはあまりなじみのない場所だ。ホストクラブの看板が見える。

なじみのない場所に出て、うっかり遅刻したら行けないので、たまきは歓楽街には出ずに、遊歩道を引き返すことにした。遊歩道には木々が植えられ、セミの声が鳴り響く。都会の喧騒の中では、セミの声すらもむしろ静寂に……。

ふと、たまきは、なにげなく視線を脇に立つマンションへと送った。マンションの入り口は遊歩道側にはなく、たまきはマンションの裏手を見ていることになる。白い外壁のマンションで、4,5階建てくらいか、そんなに大きくはない。

その3階のベランダの外壁をなにげなく見やった時、たまきの脚が止まった。

呼吸がひときわ大きくなる。

見つけた。

あの、鳥のラクガキだった。

たまきはマンションへと近づいた。ほんの少しだけ近づいたことで、ちょっとだけ鮮明に見える。

たぶん、この絵はそんなに古いものではない。サキって人が一体いつからラクガキをしていたのかは、ライオン店長さんに聞いてもわからなかったのだけど、それでも、「新しいもの」と「古いもの」には少し時間の開きがある。今見つけたこの絵は、その中でもかなり新しいように見える。

ほかならぬたまきが言うのだから、間違いない。ことこの「サキって人の鳥のラクガキ」に関しては、なんでも鑑定団よりも、メトロポリタン美術館よりも、自分の目が一番正しい、という自負がたまきにはあった。

「……よしっ」

そういうと、たまきは遊歩道をまた歩き出した。やがてさっきのところまで曲がると、飲み屋街を抜けるいつものルートを歩き始めた。

……そうだ、帰ったら地図に新しいラクガキの場所を、描いておかないと。

 

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とうとう、たまきの壁画が完成し、翌日には除幕式が行われた。

もちろん、別に幕がかけられていたわけではない。志保と住職さんの間で、完成のお披露目を冗談めかしてなんとなく「除幕式」と呼び始めたら、いつの間にかその呼び名で定着してしまったのだ。

除幕式には、作者であるたまきに加え、住職さん、志保、そしてバイトを紹介した舞が出席した。もちろん、「出席」と言っても椅子が並べられているわけではなく、4人で路上の壁画をただ眺めるだけである。

「あちぃ……」

舞はコーラの入った冷たい缶を首筋に押し付けた。コーラは住職さんが用意したものだ。除幕式の後はお寺の事務室でささやかな「たまきちゃんおつかれさまパーティ」が開かれることになっていて、お菓子や飲み物が用意されている。

「えー、本日はお暑い中お集まりいただき、誠にありがとうございます」

住職さんがあいさつを始めた。

「この度は自坊の壁に新たに壁画を描いていただいたということで、仏教と壁画の歴史は古く、インドのアジャンター石窟や……」

「勘弁してくれ、ママ。こんな炎天下の中でボウズの説教聞いてたら、こっちがホトケになっちまうよ。ボウズの説教と夏の髪型は短い方がいいっていうだろ?」

と、ロングヘア―の舞がうんざりしたように言った。

「では、アタシの挨拶はこのへんで、作者のたまきちゃんから一言」

青いジャージ姿のたまきが、ぺこりと頭を下げた。

「えっと……、できました……その……お世話になりました……」

「それでは、作品の方をご覧ください」

と住職。「ご覧ください」と言ったところで、さっきからずっと視界に入っているのだけど。

縦3メートル、横幅は10メートル弱という大作である。

真ん中には、ビル街が描かれている。都庁に似た建物も描かれている。一方で、赤や黄色など、現実にはなさそうな、鮮やかな色のビルも目立つ。華やかなビル街が、斜め上空から、ちょうど鳥が見下ろしているようなアングルで描かれている。

ビル街の中には、何羽かの鳥が描かれていた。

そのビル街を囲むように、白い鳥が六羽、大きく描かれている。上空を小さく輪を描くように旋回する六羽の鳥。その輪の中に、ビル街が見えるという構図だ。

これが壁画の中心部で、その外側には、色とりどりの鳥たちが描かれ、いずれも絵の外に飛び出していくかのようにはばたく姿が刻まれていた。

「ふーん」

と舞。

「すごーい。これ、たまきちゃんが一人で描いたの?」

と志保。

「……まぁ」

とたまき。

「で、これはどういう絵なんだ? センセイ、解説頼むよ」

舞はそいう言うと、コーラに口をつけた。

「えっと……、極楽から鳥が飛び立って、どこか違う場所に羽ばたいていく……、そういう絵です……」

「極楽?」

「住職さんから、極楽っていうのは昔の人が思い描いた理想郷で、大都会を思い浮かべたものも多いって聞いて」

「それで、歓楽街を極楽に見立てて描いたんだ」

と志保。

「……そうなんですけど……、でも……」

と、たまきは少しうつむきがちに言った。

「でも、みんなが極楽だって思ってる場所でも、そこになじめない人っていうのはきっといて……、じゃあ、そういう人はどこに行けばいいんだろう、って……」

たまきは、顔をあげない。

「みんなはそこが理想郷だと思ってるのに、自分だけなじめない……。じゃあ、もっと遠くの、別の場所に行くしかないじゃないですか……」

たまきは、一度大きく息を吸うと、言葉をつづけた。

「そうやって、この街からいなくなった人が、その、どこか遠く、その人だけの理想郷に、ちゃんとたどり着けたらいいなって、そう思って……その……祈りを込めて……」

いつかの志保と住職さんが言っていた話を、たまきは思い出す。江戸の端にあったこの街は、異界への入り口なんだと。

そんな場所にある絵なら、この街から遠い場所へと、違う世界へと「飛び去った人たち」の目にも、なにかの拍子に止まるかもしれない。

最初にバイトを引き受けた時は、あの鳥のラクガキに引き寄せられた、なんだかそんな気がしていた。

壁に青いペンキで塗装をしているときは、絵のデザインは決まっていなかったし、なにより、ここに自分の絵を描くということに実感がなく、ただ来る日も来る日も青いペンキで壁を塗りつぶしていた。

梅雨に入り、絵のデザインを考え始め、「自分の絵が、通りがかった人に見られるかも」という実感が芽生え始め、少し怖くなってきた時に、ミチに連れられてたまきはライオン店長さんに会った。

そして、サキって人のことを知った。

ショックはあった。

でも、それ以上に、描きたい、挑みたい、そんな気持ちが強くなった。

いつの間にか、「絵を見られたら恥ずかしい」なんて気持ち、どこかに行ってしまった。

そして今、こうして完成した絵を見ていると、少しだけ恥ずかしさが戻ってきた。

スケッチブックの中の絵は、今でもむやみに人に見せることはできないし、『城』の壁にかけてある亜美の似顔絵は、できれば外したいと今でも思う。

それでも、こんな堂々としてるところに、たまきは絵を描いた。

きっと、いろんな人に見られても、恥ずかしくても、それでもたまきはこの絵を見てほしかったんだと思う。

ほかの誰でもない、あのサキって人に。

異界の入り口だというこの場所の、よりにもよって墓地の塀。

そんな場所なら、もしかしたら、サキって人にも届くかもしれない。たまきなりの「祈り」を込めて描いたこの絵が。

いや、もしかしたら、たまきが絵を描くのをずっと見守っていてくれたのかもしれない。

だって、たまきはサキって人と、ずっと絵を通して「会話」をしてきた、同じゲームを遊んで楽しんだ、……友達なんだから。

 

たまきは、自分の描いた絵の前で、人生初めてのバイト代をもらった。住職さんから渡された封筒の中には、ひと月ちょっとの作業代が入っている。

たまきと志保は封筒の中を覗き込んで、目を丸くする。

「こ、こんなにいいんですか?」

「もちろんよ」

と住職。

「さてと、たまきちゃんのうちでのアルバイトは、これでいったん終わりだけど、このあとも、絵が汚れちゃったり、塗装が剥げちゃったり、ラクガキされちゃったり、いろいろあると思うから、定期的に補修作業とかお願いしたいのよね。たまきちゃん、大丈夫?」

「は、はい」

「じゃあ、お願いね」

こうして除幕式が終わり、舞は暑い暑いと言いながら、さっさと寺の中へと引っ込んでしまった。住職さんも舞の後をついていき、志保はまだ外に残って、日傘で日差しをガードしつつ、絵の細部を見ていた。たまきは、ペットボトルの水を飲みながら、そんな志保を見ている。

そこに、

「よっ」

と聞きなれた声。亜美だ。美白などという概念のない亜美は、帽子や日傘で日光をガードするどころか、むしろ肌を夏の日差しに積極的にさらしている。

「亜美ちゃん、今来たの?」

と志保。

「さっき起きたんだよ」

「あ、住職さんにあってく? 今、中にいるよ?」

「えー、いいよ。オカマのボウズなんて訳わかんなさすぎて、いまいちピンとこないし」

と、亜美は相変わらず失礼なことを言う。

「これか、たまきの描いた絵。前見た時は半分もできてなかったけど」

亜美は、塀の端から端までを見渡した。

「マジか……」

「すごいでしょ? たまきちゃんの絵」

「いや、もっとヤバいやつを想像してたんだけどなぁ。いつもヤベェじゃん、こいつの絵」

亜美はもう一度、絵を見渡す。

「えー、思ったよりフツーじゃん。どうしちまったんだよ、たまき」

別に亜美に失望されたところで、たまきとしては特に感想はない。

亜美は、中央に描かれた白い鳥に目を止めた。

「これさ、おまえが探し回ってた、あのラクガキのやつ?」

「……まあ」

「やっぱそうかぁ。似てるもんなぁ。……パクったのか」

「……リスペクト、のつもりです」

たまきは不服そうに口をとがらせる。

「その……私が続きを描けたらいいなって……」

「続き? あの鳥の絵の?」

たまきは頷いた。

もちろん、たまきが白い鳥を大きく描いたのは、偶然ではない。パクった、というのも少し違う。

いつか誰かが、たまきと同じようにあの鳥のラクガキの「ゲーム」に夢中になった時、その人はきっと、たまきと同じように「新作」が見つからないことに落胆するかもしれない。

だから、たまきはあのゲームの続きを作りたかったのだ。いや、「続き」ではなく、「終わり」なのかもしれない。あの屋上の白い扉の向こう側にあるであろう「最期のラクガキ」とは違う、このゲームの、もう一つのエンディングを、たまきなりのエンディングを、たまき自身の手で描いてみたかったのだ。

たまき自身のために、そして、いつかまた現れるかもしれない、まだ見ぬプレイヤーのために。

そしてこの白い鳥ですら、実は「ヒント」に過ぎない。たまきが探してきたラクガキはどれも見つけづらいという特徴がある。だからこそのゲームなのだ。たまきの壁画のように堂々とでかでかと描いてしまってはゲームにならない。

壁画に描かれた白い鳥は、あくまでも「真のエンディング」のヒントに過ぎないのだ。「真のエンディング」は、あの鳥のラクガキと同じように、そう簡単には気づかないように描いてある。

一年後かもしれないし、十年後かもしれないし、五十年、百年後かもしれない。「真のエンディング」にたどり着く誰かが現れるときには、たまきはとっくにもう死んでいるかもしれない。でも、それでもいい。いつかまた、誰かがあの「ゲーム」に気づき、そしてその誰かが、いつかこのエンディングにたどり着いてくれれば……。

「ん? あれ?」

と、亜美が声をあげる。

「どうしたの?」

と志保が尋ねるが、亜美は口に手を当てたまま、じっと絵を見る。

そして、

「わかった!」

と大きな声をあげた。

「これさ、ビル街があって、その周りを白い鳥が囲んでるじゃん」

「うん」

「この白い鳥に囲まれた部分がさ、ちょうどこいつが探してた鳥のラクガキと、おんなじ形してんだよ」

「え? どういうこと?」

志保が首をかしげながら、絵の中央部を凝視する。

「だからさ、白い鳥が輪っか描くみたいに飛んでるだろ? で、ウチら、あー、あの絵パクったんだなって思うじゃん? そっちに目が行くじゃん。 でも、この白い鳥は実はフレームで、それに囲まれた真ん中の部分が、あのラクガキとおんなじ形になってるんだよ」

「あ、あー! わかった! わかった! 確かに、鳥に囲まれた風景の部分の輪郭が、たまきちゃんが探してたやつとおんなじだ!」

「だろ? どうだたまき、図星だろ!」

亜美がたまきの方を向くと、不服そうに口を尖らせたたまきがそこに立っていた。

……いつか誰かが気付けばいい、そう思って描いたのに、どうしてこの人は、今この場で気づいちゃうんだろう。

 

つづく


次回 第45話「タイトル未定」

鳥のラクガキ探しもたまき初めてのバイトも終わり、春ごろからまた新しい物語が始まります。お楽しみに。


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第43話「雨のち極楽、ところにより『最期のラクガキ』」

たまきが追い続けてきた「鳥のラクガキ」の作者、サキはすでに自ら命を絶っていた……。「死にたがり」のたまきが、はじめて「死んだ人」と向き合う。


「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

第42話「ジャングルのちライオン、ところにより鳥」 


写真はイメージです

降りしきる雨の中、たまきは青い傘をさして歩く。すれ違う人たちも、色とりどりの傘をさして歩いている。

晴れている時よりも、雨の中で外を歩く方が、たまきは好きだった。

日本最大ともいえる繁華街の街並みは、昼間はとてもきらびやかでたまきはいたたまれない気持ちになる。そして、この街の輝きはむしろ、夜の闇に沈んだときの方が強く感じられるのだ。

だけど、雨が降っている時だけは、この繁華街の街並みもどこか色を失ったかのように思える。

雨の日は傘のせいで、すれ違う人の顔が見えないことが多い。スーツ姿のサラリーマンの人は紺の傘で顔を隠し、女子高生と思われる制服の人はピンクの傘で顔を隠す。子供と思われる小さいシルエットが、黄色の傘をさして歩いている。

もしかしたら、傘の下に隠れているのは人間の顔ではなく、とんでもない異形の化け物なんじゃないか。

そんなことをたまきは考える。どうしようもなくバカバカしい考えだけど、雨の日の繁華街はどうにも異世界に迷い込んだような気分になる。

それが、楽しいのだ。

どこの街に行っても自分が場違いに思えてしまうたまきは、いっそ思いっきり非現実的な世界の方がなじめるんじゃないかなんてことを考えてしまう。

……サキって人もそうだったのだろうか。

たまきは立ち止まって、雨粒の一つ一つを数えるように、虚空を見つめた。

サキって人が何で飛び降りたのか、ミチが聞こうとしたのを自分から遮ったくせに、あれから一週間ほどの間、たまきはふとした時に「なんでサキって人は飛び降りたんだろう」なんてことを考えてしまっている。

写真で見たサキって人は、たまきとは正反対に見えた。露出の高い服装は、たまきが亜美に何度勧められても断った類のものだし、髪をピンク色に染めようなんてこれっぽっちも思わない。街で目立っちゃうじゃないか。

なにより、写真で見たサキって人は、とびっきりの笑顔だった。あんな笑顔、たまきにはできない。

でも、サキって人が自分で飛び降りたのだとしたら、その人はたまきと同じ「側」の人だったと言える。サキって人がたまきと同じ「側」にいたからこそ、その匂いをたまきはあのラクガキから感じて、追っかけまわしてたんじゃないのか。

たまきはレコード屋の外壁に描かれた絵を思い出していた。あんなに伸びやかな絵を描ける人が、どうしてたまきみたいなじめじめした子とおなじ側に立っていたんだろう。

いったい何が、何がサキって人を死に駆り立てたんだろう。

どうしてサキって人は死んでしまったんだろう。

こんなことをたまきはこの一週間、ずっと考えていた。だけど、あの時ミチを止めないで話を聞けばよかった、とは思えない。そもそも、あのライオン店長さんがそんなことまで知ってるとは思えなかったし、それに、わからないからこそ、たまきはいまこうして、どうしてどうしてとサキって人に思いを巡らせている。

そうやってサキって人のことに思いを巡らせていると、なんだか彼女と対話しているような気分にたまきはなっていた。

サキって人に会うことはもうできないし、会話することも叶わない。

それに、もしサキって人が生きているときにたまきが出会えていたとして、たまきが上手く会話できるなんて思えない。

だからこんなふうにどうしてどうしてと思いを巡らせることが、たまきとサキって人の「会話」としてふさわしいのかもしれない。きっと、直接会って話すことよりも。

それに、街にはサキって人が遺した鳥の絵がある。この絵を探して街を巡っている間、やっぱりたまきは絵を描いた人となんだか会話しているような気持になっていた。

ラクガキなんか探して何が楽しいんだ、と亜美はあきれていたけれど、たまきは普通に会話することが苦手だからこそ、絵を通してそれを描いた人と会話しようとしているのかもしれない。

たまきは、足を止めた。

行信寺の塀の前に来た。たまき自身が塗装した真っ青な壁が一面に広がっている。

そうだ、絵は会話だ。発した声はすぐに消えてしまうけど、絵はその人が死んだ後もずっとずっと残る、言葉にして声なんだ。

自分にもそんな絵が描けるのだろうか。自分がいなくなった後も、自分の声としてずっとその場所で響き続ける、そんな絵が。

もうそろそろ、梅雨が明ける。梅雨が明けたら、壁に絵を描く作業を始める。今日はその打ち合わせで来たのだ。

だけど、肝心のどんな絵を描くのかが、まだ全然決まってなかった。

とりあえず、仏像を描くことにはなるのだろう。細かく描きこむのではなく、かなりデフォルメしたものになると思うけど。

問題はそのあとである。壁は横に長く、仏像いうのはだいたいが縦に長い。仏像を一体しか描かないと、かなりのスペースが余ってしまう。それじゃむしろ、空いたスペースにラクガキしてくださいと言ってるようなものだ。

スペースの限り何体も仏像を描くことを考えたけど、仙人に話したら笑われてしまった。

それに、やみくもに仏像を並べたところで、ラクガキを防止するという本来の目的を達成できるとは、たまきには思えなかった。

悩めるたまきに住職さんは「涅槃像」というものを教えてくれた。仏様が亡くなる時の姿で、横になっているので、横長の塀にはまさにうってつけだ。

でも、たまきの画力ではただお昼寝してるようにしかならないだろうと思ったので、断った。ラクガキ防止なのだから、町の不良たちにナメられてはいけない。「ほとけのひるね」ではダメなのだ。

いっそのこと、お寺だからとりあえず仏像を描く、ということはやめて、サキって人がレコード屋の壁に描いたみたいに、抽象的な絵を描いてみたらどうか。

でも、たまきは抽象画なんて描いたことがないし、レコード屋と同じ絵をそっくりそのまま真似して描いたとしても「それ以来ラクガキされない」なんて特殊効果が発動するとは思えない。

ふと、いつぞやの仙人の言葉をたまきは思い出した。

たまきの描いた仏像のスケッチには、「祈り」が足りない、と。

仙人の言葉の意味はまだ分からない。だけど、仏像を横に並べても、涅槃像を描いても、サキって人の絵を丸パクリしても、たまきが納得できないのはきっとそこに「祈り」がないとわかっているからなんだろう。

 

画像はイメージです

行信寺では住職さんが温かいお茶を出してくれた。外は雨だからという配慮なのだろうけど、猫舌のたまきとしては普通のお水の方が嬉しかった。今日は志保も来ていて、本堂の掃除をしている。

「予報だと、来週の火曜日から梅雨明けになるんじゃないかって話なのよ」

住職さんはたまきにパソコンで天気予報を見せながら話した。

「だから、とりあえず来週の月曜から作業に入れるようにしてもらって、で、雨が降ったらその日はお休みってことでいいかしら」

今日は水曜日だから、今日を含めてあと五日しかない。この五日間で作業をはじめられる状態にデザインを仕上げなければいけない。

たまきは出されたお茶に手を付けられずにいた。湯気が立ちこめる間は熱くて飲めないというのもあるし、まだ絵のデザインが決まってないくせに口をつけてはいけないような気もしている。

住職さんは立ち上がると、

「参考になるかどうかわからないけど……」

と、たまきをある場所に案内した。

そこは本堂と事務室みたいな部屋をつなぐ廊下だった。廊下の壁には本棚が置かれ、本がぎっしりと並んでいる。

パッと見た感じ、仏教関連の本が並んでいるようだ。何やら難しそうな本から、「世界の宗教」と書かれた子供向けの漫画本まで、いろいろと揃っている。たまきが以前に貸してもらった、仏像の写真集もあった。

「いろいろ見てってかまわないわよ。デザインの参考になるといいんだけど」

とりあえず、たまきは手当たり次第に写真や絵にまつわる本をあさってみた。

全国のお寺の写真を載せた本。

木彫りの仏像の写真集。

古い水墨画の本。

あれやこれやと読み漁っていると、志保が後ろから覗き込んできた。

「なに読んでるの?」

「その……絵のデザインをどうするか迷ってて……」

「外の壁の? 仏様を描くんじゃないの?」

「そうなんですけど……細かい部分がまだ……」

志保は腕組みをしてうーんと言いながら何か考えているようだ。

「そうだ。壁一面にずらりと仏様を並べちゃうっていうのは? 中学の修学旅行で京都の三十三間堂ってところに行ったんだけど、仏像がずらーっと並んでて圧巻だったんだよ。そんな感じで、どうかな」

たまきは答えない。

「もしくは、仏様をでっかく横長に描いちゃうとか。ほら、涅槃像ってあるじゃない。あれいいんじゃない?」

たまきは答えない。

「いっそのこと、仏様を描くのやめて、ハデに抽象画みたいなの描くっていうのもありだよね。うん、お寺だからって無理に仏様にこだわることないかも」

たまきは答えない。

アイデアを出してくれるのはありがたいのだけれど、どうせなら、まだ検討してないやつを出してほしかった。

遠くで住職さんが志保を呼ぶ声が聞こえた。志保は返事をして立ち去っていった。

そういえば、志保と話したのはなんだか久しぶりのような気がする。一緒に暮らしているのに。

志保が田代とヨコハマにお泊りデートをして以来、あんまりちゃんと志保と話せていない気がするのだ。お泊りデートの後は志保はガイハクしていないし、たまきだって別に志保を避けているわけじゃないのに。

そういえば、志保は誕生日を迎えたというのに、ちゃんと「おめでとう」も言えていないような気がする。

たまきは、ため息をつきながら、本を棚に戻した。

死んだ人との「会話」にばかり夢中になって、生きている友達と会話できてないだなんて、自分はなんてダメなんだ。

たまきは寺の中にはの方を見た。相変わらず、雨がしとしとと降り続いている。

 

三十分くらい、いろんな本を読んでみたものの、あまりいいアイデアは浮かんでこない。日本の仏教だけじゃなく、シルクロードの仏教遺跡とか、タイのお寺とか、インドやネパール当たりの仏教の歴史とか、いろんな本をパラパラと読み漁ってみたものの、これといったものが見つからないのだ。

いかにも仏教っぽいモチーフを仏様の周りにてきとーにちりばめた絵を描いたところで、そこにはやっぱりたまきの「祈り」は描けていない気がする。そう考えると、頭に浮かぶ泡沫のアイデアがどれも取るに足らないものに思えてしまうのだ。

いのりいのり、とそれこそたまきは祈るように小さく唱えながら、次の本に手を伸ばした。背表紙には「仏教の幻想郷」と書かれている。ムック本というやつだ。

真ん中あたりのページを適当に開いてみた。

社会科の歴史の教科書に出てくるような、資料館に展示されているような、色褪せた古い絵だ。

真っ赤な顔したでっかいおじさんが、怒りの形相で見る者を睨みつける。

隣のページには、赤鬼だの青鬼だのがいて、それこそ鬼の形相で、人の舌を抜いたり、巨大な釜に放り込んで豆のように煮込んだり。

なるほど、これが地獄絵図というものだろう。

たまきは地獄絵図をしげしげと眺める。きっとたまきみたいな迷惑をかけてばっかりの子は死んだら地獄に落ちるのだろうから、しっかりと見ておかないと。

次のページには真っ暗闇の中を人が真っ逆さまに落っこちる姿が描かれている。絵の下には解説文。なんと、地面にぶつかるまでに数億年ただひたすら落下し続けるという地獄なのだそうだ。

……これは地獄だ。人は自由に空を飛べないのだから、数億年落下し続けるということは、数億年身動きが取れないということである。

サキという人がなぜ死を選んだのかの本当の理由はたまきにはわからないけど、数ある自殺の手段の中でなぜ飛び降りを選んだのかはなんとなくわかる。一度宙に体を投げだしたら後戻りできないうえ、すぐに終わるからだ。それなのに数億年も落っこち続けるだなんて。生きてる時間よりもよっぽど長いじゃないか。

たまきは、パラパラと前のページをめくり始めた。

色調が一転して、華やかで色鮮やかな絵が出てきた。

極楽の絵である。どうやらこの本は、前半で極楽、後半で地獄を、古い絵と一緒に解説していく構成らしい。

明るい色調で描かれ、巨大な楼閣を背景に、仏様やその仲間たちがたくさん描かれている。

明るくて、建物も人もいっぱい。これじゃいつもの歓楽街と大して変わらないじゃないか。やっぱりたまきは極楽にはなじめそうにない。

でも、絵の題材にするのならば地獄よりも極楽の方がいいのだろう。たまきは何かヒントになるものはないかと、極楽のページをパラパラとめくっていた。

ふと、ページをめくるたまきの手が止まる。

「浄土の六鳥」と題されたページに6つの鳥の絵が載っていた。

「とり……」

たまきは、惹きつけられる様にそのページを見始めた。

頭が二つある鳥が描かれている。きっと空想上の鳥だろう。

孔雀の絵もある。これはたまきもよく知ってる。動物園で見たことがある。

たまきは、解説文を読み始めた。仏教と、極楽と、鳥。いったいどんな関係があるんだろう。

だけど、途中から文章はたまきの頭の中に入ってこなくなった。

不意に、たまきの脳裏は鮮やかな色をした鳥たちが羽ばたくイメージで埋め尽くされた。

鳥たちは優雅に、舞い踊るように、青空を翔ける。風に乗り、雲を突き抜け、鳥たちはみな同じ方向を目指す。そしてその先に見えてくる極楽浄土……。

たまきがイメージできるのはそこまでだった。イメージの中で覗き見た極楽浄土は、さっき絵で見た、「超豪華な神社みたいな建物が立ち並ぶ街」なのだけど、そこから先のイメージが湧かない。極楽浄土の具体的な風景をイメージしようとしても、やっぱりさっき本で見た絵の内容しか思い出せない。

極楽浄土のイメージが、どうしてもさっき読んだ本の引きずられる借り物のイメージなのに対し、鳥たちはたまきの頭の中で自由に舞い踊り、力強く羽ばたく。映画で見る長編アニメのような滑らかな動きだ。

もちろん、この鳥たちも、今さっき本で見た絵や彫刻がイメージのもとになっているのだろう。だけどさっきの極楽浄土よりもよっぽど鮮明に鳥たちは頭の中で動き回る。まるで、ずっとたまきの中で眠っていて、何かのきっかけで羽ばたく時を待っていたかみたいに。

自然と湧いてきたこのイメージを絵にしたい。たまきはごく普通にそう思った。そこに理屈などない。きっとこれが、仙人の言う「祈り」に近いものなのかもしれない。

 

ようやく描く絵のイメージが固まってきた。だけど、それでもまだ不鮮明な部分がある。極楽浄土だ。どうしてもたまきの中ではまだ、借り物のイメージでしかない。

せっかく専門家が近くにいるのだから聞いてみよう、とたまきは寺の事務室に向かった。事務室では部屋の片づけでもしているのか、志保と住職さんがあれやこれやとせわしなく作業をしている。

専門家に聞けばいい、と思って来たたまきだけど、自分が「人に聞く」ということが苦手なのを急に思い出して、さっきのムック本を抱えたまま、立ち尽くしてしまった。

5分くらいぼけーっと立ち尽くし、ようやく志保が、

「さっきからどうしたの? そんなところで」

と声をかけてくれた。

「えっと……、極楽について……その……」

「極楽?」

と今度は住職さんが尋ねる。

「あ、もしかして、絵の題材の話?」

と志保。

どうしてこんな簡単な会話を、志保の「通訳」がないとできないんだろう、とたまきは自分自身にもどかしさを感じながらも、頷く。

たまきはさっきの本を開き、極楽の絵が描かれたページを住職さんに見せた。

「あの……極楽って、こういう場所なんですか?」

「……どうかしら? ごめんなさいね。アタシも行ったことないのよ」

そりゃそうだ。

「……そうね、たしかに、行ったことない場所、そこが極楽なのかもしれないわね。その時代その時代で、いろんな人が思い描いた理想郷。いつかこんな場所に行きたいと思うけど、行ったことがない場所ってことかしらね」

住職さんはたまきの持っている本を受け取り、ページを見る。

「この絵は室町時代のものね。この時代は、今みたいな都市と呼べるような場所は京都以外にはほとんどないわ。その京都だって、応仁の乱という戦争の舞台だったの。そんな時代の絵だから、立派で、豪華で、平和な大都市こそが、いつか行ってみたい理想郷、極楽として描かれたのかしらね」

住職さんはたまきに本を返した。

「極楽浄土の浄土って言葉にはね、仏教的な意味とは違う、もう一つの世俗的な意味があるの。そうね、今でいう『異世界』を表すのに、浄土って言葉が使われることがあるわ。だからやっぱり、極楽浄土って、こことは違う世界、ってことなんじゃないかしらねぇ」

「はあ……」

自分で聞きに来ておきながら、たまきは住職さんの話を頭の中で整理するので精いっぱいだった。

「異世界っていうとね」

と、たまきの横に立った志保が言った。

「このお寺がある場所も、異世界の入り口なんだよ」

「……?」

志保はたまに、真顔でヘンなことを言う。

「江戸の城下町ってね、今の東京よりももっと小さかったんだよ。江戸の人たちにとって、城下町の外は異世界。その境目にあたるのがちょうどこのお寺がある、この街なんだよ」

「……はあ」

豆知識を教えてくれるなら、もうちょっと頭の整理がついた時にしてほしかった。

「このへんってさ、都会の真ん中なのに、お寺がいっぱいあるでしょ? それって、やっぱりこの場所が江戸の人たちにとって、異界への入り口だったからなんだよ」

「……志保さん、なんでそんなこと詳しいんですか?」

「……、えっと、何で知ったんだっけ?」

志保は宙を見上げた。するとそこに、ぬっと住職さんが顔を出した。

「アタシが教えたのよ、志保ちゃん♡」

「あ……」

これが「釈迦に説法」というやつだろうか。

 

写真はイメージです

数億年降り続きそうだった雨も、いつの間にか上がっていた。たまきは志保と一緒に「城」へと帰る。

途中、いつもたまきが行く大きな文房具屋さんに立ち寄って、新しいスケッチブックを買った。

文房具屋を出ると、大通り沿いに北へ。初詣に行った神社に入って、裏口から歓楽街へと抜け出る。

そういえば、志保と二人っきりで歩くのは、ずいぶんと久しぶりだ。たしか二か月ほど前に志保とこの辺りを歩いたような気がする。ちょうど、たまきがラクガキを探し始めた時期だっただろうか。

記憶の糸をたどっていたたまきだったが、ふいに足を止めた。

「? どうしたの?」

と志保も立ち止まり、たまきの背に合わせて腰をかがめ、たまきの顔をうかがう。

「……志保さん、前にこのへんで、飛び降り自殺があったって言ってませんでしたっけ?」

「とびおり?」

志保は首をかしげたが、やがて思い出したように言った。

「そういえば、前にこの辺でパトカーがいっぱい止まってるのは見たけど、飛び降り自殺かどうかは……」

「それです、それ! それって、いつのことですか?」

「えっとね……、二か月前、いや、もうちょっと前かな?」

「それって、どこのビルですか?」

「えっとね、こっちだよ」

志保は歩き出した。たまきもそのあとをついていく。

やがて、焦げ茶色のビルが近づく。以前に、たまきが屋上の貯水槽にラクガキがあるのを見つけたビルだ。このビルの向かい側にも、同じようにラクガキがあるのをたまきは知っている。

志保はそのビルを通り過ぎると、角を左に曲がった。たまきもそのあとをついていく。

雨上がりの歓楽街は、イカついお兄さん、ギャルっぽいお姉さん、スーツ姿のサラリーマン、セーラー服の女子高生と、様々な人が通りすぎていく。二人が今歩いている場所は、その歓楽街の中心に近く、人通りもかなり多い。

ふと、四つ角のところで志保は足を止めた。

「この辺りのはずなんだけど……」

たまきは周りをきょろきょろと見渡すが、ピルが多すぎて、「このあたり」の一言じゃわからない。

志保は四つ角の一画を指さした。

「あのあたりのはずなんだけど……、規制線も貼られて近づけなかったし、人だかりもあったしで、どのビルかまではちょっと……」

「人が倒れてるとか、そういうのは見なかったんですか?」

「だから、何が起きたのかは知らないんだってば」

たまきは志保が指示したあたりへと向かった。細いビルがいくつも並んでいる。

それぞれ、ビルの一階では床屋さんだったり焼き肉屋さんだったりが営業していた。こういう時、中に入ってお店の人に、二か月前にここで何が起きたのかを聞ける性格ならよかったのに。

ふと、あるモノがたまきの目に留まった。

足元に、小さな瓶が置いてあった。仙人がよく飲んでいるカップ酒の小瓶だ。その小瓶の中に、タバコが数本入っている。

何かが気になるのだけど、何が気になるのか自分でもわからないまま、たまきはしゃがみこんで、その小瓶を見つめた。ツンとしたアルコールの臭いがたまきの鼻をくすぐる。

その様子を、志保が不思議そうに眺めている。

「どうしたの? ゴミでしょ? 亜美ちゃんみたいな人が捨てたんだよ、きっと」

そう志保は言ったが、たまきにはどうしてもその言葉をそのまま飲み込むことができなかった。「誰かが捨てた」というよりも、「誰かが置いた」、そんな気がするのだ。

そしてたまきは、あることに気づいた。

小瓶の中のタバコは、吸い殻ではない。火をつけていない、新品のタバコが数本入っているのだ。

やっぱり、これは「捨てられた」ものじゃない。「置かれた」んだ。

新品のタバコを、お酒の匂いが残る小瓶に入れて、誰かがここに「置いた」。

……誰かが「供えた」。誰かが「たむけた」。

ここで死んだ人のために。きっとお酒とたばこが好きな人だったのだろう。

小瓶は、志保が指示した一角の中のあるビルの入り口に「置かれ」ていた。たまきはそのビルを見上げる。周りのビルと比べると、頭ひとつ高い気がした。

ここだ。きっと、このビルだ。

やっぱりたまきは、こういう「会話」の方が得意のようだ。小瓶を見つけたのだって、もしかしたら誰かに呼ばれたのかもしれない。

ビルの一階は床屋さん。そのわきに通路があり、奥に階段が見える。

たまきはビルの中に勢いよく飛び込むと、通路を抜け、階段を上り始めた。

ふだんにない機敏な動きでたまきがビルの中に入っていくのを、志保は驚きとともに見つめていた。

「たまきちゃん?」

と声をかけてみたものの、まるで耳に入っていないようだ。

なんだか、自分には聞こえない声にたまきが呼ばれているように見えて、志保はちょっと怖くなった。

 

ビルは七階建てだった。もしかしたら、歓楽街の雑居ビルの中では一番高いのかもしれない。

たまきは息を切らしつつ、最上階へとたどり着いた。もっとも、階段はさらに上へと伸びている。きっと、屋上に出れるのだろう。

最上階はどうやら空き店舗のようだ。でもたまきが暮らす「城」と比べるとずいぶんボロボロで、そもそもドアがあるはずの場所にドアがない。

中に入ってみる。たいして広くはない。壁の一方はガラス張りになっていて、歓楽街の景色がよく見える。

一通り調べてみたけれど、ガラスの壁は開け閉めできそうにない。ここから飛び降りたわけではないだろう。やっぱり、屋上から飛び降りたのだろうか。

少し息を整える。歓楽街の中でもひときわ高い場所から見下ろした景色は、さっき本で見た極楽の姿をどことなく彷彿とさせた。

再び、たまきの中に絵のイメージが浮かび上がった。白い鳥たちが力強く羽ばたいていく。昔の絵に描かれたような、楼閣の立ち並ぶ極楽の中から、人の頭上を飛び越え、建物の間をすり抜け、やがて極楽を抜け出して、高く、もっと高く。

そんなイメージを思い浮かべながら、たまきは空き店舗を出てさらに階段を上った。

たどり着いたのは二畳ほどの部屋。白い扉と、立てかけられた掃除道具以外、何もない。たぶんここは屋上の塔屋で、扉を開ければ屋上に出れるのだろう。

扉には真新しい白い紙が貼られていて、手書きで「立入禁止!」と書かれていた。

たまきはドアノブに手をかける。

がちゃり、がちゃがちゃ、がちゃり。

扉はびくともしない。

たまきはふうっとため息をついた。

もしもサキって人がここから飛び降りたのだとしたら、その時は不用心にも屋上の扉は開いていたことになる。そこに誰か侵入して飛び降りたとなれば、ビルの持ち主は警察からどうしてカギをかけないんだと怒られたはずだ。そうなれば、屋上の扉は鍵をかけられ、貼り紙の一つくらい貼られるだろう。そうだ、飛び降り現場の屋上なんて、入れるわけないじゃないか。

ため息交じりにドアノブに視線を落とした時、たまきはあることに気づいた。

丸いドアノブに、白いなにかがついている。たまきは身をかがめると下からドアノブを見上げた。

ペンキだ。白いペンキが点々とドアノブについているのだ。

白ということは、サキって人が白い鳥のラクガキを描く時に垂らしたのだろうか。いや、扉も白いから、業者の人がうっかり垂らしたなんてことも……。

いや、それはありえない。だって、白い点の多くは、丸いドアノブの下側についているのだから。偶然たれ落ちたんならこんなところにつくはずがない。わざとペンキをつけたんだ。

なんのために?

その人が、この扉のむこうへ行ったことを、後から来た誰かに知らせるために。

たまきは立ち上がった。白い扉を、そして見えないはずの扉の向こう側を凝視した。

間違いない。ここだ。サキって人が飛び降りたのはこのビルだ。

そして、この扉のむこうに、きっと最後のラクガキがあるはずだ。サキって人の、最期のラクガキが。

たまきにはわかる。だって、たまきはずっとサキって人と「会話」をしてきたんだから。

たまきは扉に右手をついた。袖がめくれて、手首の包帯があらわになる。いつも身に着けているものだし、ここ最近はリストカットをしていなかったので、たまきが包帯を意識したのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

「……ずるい。ずるいですよ」

たまきはサキって人とずっと「会話」をしてきた。だからわかる。サキって人はわかっていたはずだ。自分がここから飛び降りた後、この不用心な屋上の扉は施錠され、二度とむこう側には行けなくなることを。「最期のラクガキ」は誰にも見つからないということを。

それとも、どうしてもたどり着きたければ、サキって人の後を追う覚悟で扉をやぶってむこうへ来い、ということなのだろうか。

「……ずるいです」

階段の下の方から足音が聞こえてきた。

「たまきちゃん……?」

志保が息を切らしながら、上ってきたようだ。

たまきは志保に視線を向ける。じっと志保の目を見つめると、すぐにまた扉の方を見た。そして、もう一度つぶやいた。

「ずるいですよ……」

「ずるいって何が?」

志保が背中越しにたまきに尋ねるけれど、たまきは答えなかった。

つづく


次回 第44話「祈りのち『いつか』」

8話にわたり続いてきた「鳥のラクガキ」編もついに完結! たまきの「壁画」とサキのラクガキが交錯する時、たまきの「祈り」が描かれる。つづきはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第42話「ジャングルのちライオン、ところにより鳥」

ミチに連れられて絵コード店へと行くたまき。そこでついに、たまきは落書きの作者と「出会う」……。「あしなれ」第42話、スタート!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

第41話「ローラーのちハケ、ところにより筆」


画像はイメージです

東京にも梅雨が訪れた。とはいえ、カエルが喜びの歌をケロケロ歌うこともなく、ただしとしとと濡れたアスファルトがイヤな匂いを発するばかりだ。

昨日から降り続いていた雨が午後になってようやく止んだ。公園の「庵」の前に、仙人が椅子に腰かけてカップ酒をぐびぐびと煽っている。

桜の木の枝から雨粒がしたたり落ちる。その向こうから、少女が仙人の方に近づいてくるのが見えた。

「やあ」

仙人はそう声をかけて笑った。

「久しぶりだね、お嬢ちゃん。元気にしとったか」

仙人の問いかけに、たまきは無言で頷いた。

「その……ちょっと……バイトをしてました」

「ほう、アルバイトか……」

「そのことで、ちょっと相談があって……」

 

「ふむ……」

仙人は難しい顔をしながら、スケッチブックをめくる。そこには、仏像が鉛筆でいくつもいくつも描きこまれていた。

「その……どうでしょうか……?」

「悪くはないんじゃないか?」

仙人はメガネのずれを直しながらそう言った。よく見ると、仙人のメガネには少しひびが入っている。

「その……なにか足らないところとか……」

「そう言われてもなぁ……。その住職さんには見せたのかい?」

「ええ、まあ」

「なんと言ってた?」

「いいんじゃないかしら、と……」

「ならそれでいいじゃないか」

そう言って仙人は笑う。

「わしはその住職さんではないからな。住職さんが何を求めてお前さんに絵を任せているのかわからんから、勝手なことは言えん。すくなくとも、技術的にはまあよく描けてる方だと思うぞ」

「そうですか……」

たまきは、なにか納得いかないみたいだ。

「この中の一体をお寺の塀に描くわけか」

「いえ、その、お寺の塀は横に長いので、いくつかの仏像の絵が横にずらりと並ぶ形になるかな……と……」

「はっはっは。まるで三十三間堂だな」

たまきは首をかしげる。

「京都にそういう場所があるんだ。金色の仏像がずらりとならんどってな、その中に必ず知り合いに似た顔があるという、有名な場所だ」

たまきは京都に行ったことがなかった。中学の修学旅行で行く予定だったみたいだけど、修学旅行には参加しなかった。

「ふむ、足りないところか……」

仙人はまたメガネの位置を直しながら、しげしげと絵を眺めた。

「確かに、よく描けているが……」

仙人はたまきに目線を写した。

「お嬢ちゃんは、どうして仏像を描いているんだい?」

「え、えっと……それは……アルバイトで、住職さんに頼まれて……」

「それだけかい?」

「え、まあ、はい……」

たまきには、今一つ仙人の質問の意図がつかめない。

「お嬢ちゃんは、仏様に祈ったことはあるかい?」

「……え?」

たまきは、胸の前で両手を合わせた。

「いのり……ですか……?」

神様や仏様に祈るだなんて、そんなこと、考えたこともない。

たまきはそれを言葉にすることはなかったが、そのたたずまいから仙人には十分に伝わったらしい。

「足りないところがあるとすれば、それは祈りだな。祈りが足りない」

「いのり……」

たまきは胸の前で合わせた両手を見つめる。

正直、仙人の言っている意味は全く分からない。でも、感想を求めたのはたまきであり、きっと「祈り」の意味を自分でしっかり考えることが、仙人からたまきに出された宿題なんだろう。

 

写真はイメージです

翌日からまた、雨はしとしとと空を覆い、地面を濡らした。

たまきがまどろみから目を開ける。

薄暗い「城」の中では、亜美がソファに寝転がりながら暇そうに携帯電話をいじっていた。一方で、志保は忙しそうにバタバタと出かける準備をしている。

「ヨコハマの天気は曇りときどき雨だってよ」

「なに、その微妙な天気。サイアク~」

志保が手櫛で髪を整えながら、げんなりしたように言う。

「土砂降りよりましだろ。ってゆーか、梅雨の時期にデートに行く方が悪いんじゃね?」

「しょうがないでしょ。あたし、六月生まれなんだから」

この日は志保の誕生日の前日。今日と明日、志保は田代とヨコハマで初めてのお泊りデートをする予定なのだ。もちろん、ヨコハマに泊まりに行くことは、主治医である舞の「まあ、一日くらい、いいんじゃね?」という許可をもらってある。

「あ~も~、どーしよー! 間に合わないかも~! いってきます~」

と、志保は大急ぎでヒールの高い靴を履くと、駆けだすようにドアの外へと消えた。

扉が完全に閉まったのを確認してから、亜美は

「ちっ!」

と、舌打ち、ではなく、はっきりと口で言った。

その様子をたまきは、ソファの上に横たわりながら見て、ころりと亜美に背を向けた。

志保が恋人と外泊することの、何がそんなに気に入らないのだろうか。むしろ、亜美の方がよっぽど外泊が多いじゃないか。

とはいえ、たまきの中にも、なにかもやもやとした、釈然としないものが凝り固まるかのように存在しているのを、たまきはうすうす気づいていた。

誕生日には友達よりも恋人と一緒にいたい。そう思うのは、きっと当り前のことなんだろう。

でも、「トモダチ」よりも「コイビト」の方がえらいだなんて、誰が決めたんだろう。

一緒にいると楽しい。トモダチとコイビトで何が違うというんだろう。

「亜美さん……」

「ん?」

「たとえば……からあげがあるじゃないですか」

「……ああ」

「みんなで食べようと思ってせっかく作ったからあげを、知らない人につまみ食いされたとしたら……どう思いますか?」

「ムカつくね!」

亜美はたまきの方を見ることなく答えた。

たまきはのそのそと起き上がると、着替えて、顔を洗って、鏡で髪を手櫛で整えるという、たまきなりに頑張って身だしなみを整える。

「出かけてきます……」

と、リュックを背負いながらたまきは言った。

「お、何だ? おまえもデートか?」

と言いながら亜美は上半身を起こしたが、すぐに

「んなわけねぇか。雨降ってるのに、どこ行くんだ?」

たまきは少し考えてから、

「隣町の……床屋さんです……」

と答え、「城」を出た。

 

雨の中たまきは青い傘をさして北へと向かう。

繁華街を抜けた北側はいわゆるコリアンタウンだ。韓国料理のお店だったり、韓流スターのグッズのお店だったりが並ぶ。

たまきが普段この辺りを歩くことはない。以前にお花見に行くときに通ったくらいだ。

影のように黒いアスファルトに雨水がしみわたり、たまきが歩くたびに跳ね上がるしぶきが鈍く煌く。

次第に雨は弱まっていき、歩き始めて二十分ほどたつと、すっかり雨はやんでいた。

たまきは大通りに出た。この辺りはコリアンタウンの中心地らしく、右も左もそれっぽいお店が並んでいる。

そして、両側の歩道には、制服を着た女子高生が大勢行きかっている。平日だというのに、遊園地と見まごうくらいだ。時間的にはまだ正午を過ぎたあたりであり、たまきが言えた義理ではないが、彼女たちは学校はどうしているのだろうか。きっと、たまきと違って「適度に」学校をさぼったりできる人たちなのかもしれない。

女子高生の群れの間を縫うようにしてたまきはコリアンタウンを歩く。コリアンタウンの景色よりもハングル文字の看板よりも、制服を着た学生の中にいることの方が、たまきにとっては違う国に迷い込んだような感覚に陥るのだった。

やがて、大通りをまたぐように走る高架が見えてきた。駅だ。駅前には大きな工場があって、ミントの香りが漂ってくる。きっとお菓子工場か何かだ。

たまきは改札の前に立つと、キョロキョロと周りを見渡した。ここが待ち合わせ場所なのだ。

不意に肩を暖かれ、振り返ると、ミチがそこに立っていた。

「よっ。おつかれ」

「……どうもです」

たまきは軽く頭を下げた。

ミチがたまきに「レコ屋の店長が、『鳥のラクガキ』を描いた人を知ってるらしい」と告げてから、一週間近くがたっていた。これから、ミチの案内でそのレコード屋に行くのである。

もしかしたら、あのラクガキを描いた本人に会えるかもしれない。「作者の知り合いに会える」ということは、本人に会える可能性だってゼロじゃないはずだ。

でも、いざ会えるとなった時、何を話していいのかわからない。ただでさえ人見知りなうえに、聞きたいことが多すぎて、逆に何も質問が思い浮かばない。

本人に会ってみたいけど、できるなら会いたくない、そんな風にたまきは考えていた。

「迷わなかった? 別に迎えに行ってもよかったのに」

とミチは言ったが、冗談じゃない。ミチとどこかに出かけるところなんて、絶対に知り合いに見られたくなかったから、わざわざ待ち合わせ場所を『城』から遠ざけたのだ。それこそ今日みたいな日にミチがたまきを迎えに『城』に来ようものなら、亜美に何を言われるかわかったものじゃない。

ミチと合流したたまきは、彼の後をとぼとぼとついていく。二人は高架の反対側の路地裏を歩く。

そこはさっきのコリアンタウンとは違い、タイだのネパールだのスリランカだの、いろんな国のお店が並んでいた。さっきのように女子高生がぞろぞろと歩いているわけでもなく、むしろアジア系の外国人が多いようにも感じる。

東京の都心のいかにも「東京でござい」みたいな場所よりも、こういうもはや国籍不明な場所の方が、たまきは歩いていてよっぽど居心地がよかった。

ふと、店と店の間の狭いスペースに、スプレーのラクガキがあるのが目に留まった。

そういえば、ここは歓楽街から歩いてこれるような場所だ。

そして、これから行く先には鳥のラクガキの作者を知っている人がいるという。

だったら、このへんも「作者」の活動範囲の中なんじゃないだろうか。

繁華街では見つけられなくなったラクガキも、ここにならあるかも。

「ああ、着いた着いた、ここだよ」

とミチが指さしたのは、駅から少し離れたところにある青い塗装の建物だった。一階は古着屋で、外階段を上った二階をミチは指さす。そこが目的地のレコード店なのだろう。

ところが、たまきに話しかけるつもりで後ろを振り向いたミチだったが、視線の先にたまきがいない。

「あれ?」

ついさっきまで後ろをついてきてたのに、と当たりを見渡すと、道路を挟んではす向かいの雑居ビルの前にたまきが立っていた。

「そっちじゃないよ」

とミチが声をかけるも、たまきはビルの前を右に行ったり左に行ったりしている。そして、隣のビルとの間にある狭い隙間に入っていってしまった。

ミチがあとを追っかけていくと、隙間に入り込んだたまきが、ビルの上の方を見上げていた。

「どうしたの? なにがあるの?」

「あれです、あれ!」

たまきの声は心なしか弾んでいるように聞こえた。たまきが指さす方へとミチも視線を向けた。

灰色のコンクリートの壁のかなり上の方に、白いなにかが付着していた。目を凝らすと、以前にたまきと一緒に公園で見つけた鳥のラクガキと同じものに見えた。

「これ、たまきちゃん探してるやつ?」

「はい……!」

やはりたまきの声はどこか弾んでいる。

「よく見つけられたね」

「このビルならなんかありそうな気がして。やっぱりあった……」

ミチは周りを見渡す。

「このビルならって……、ほかのビルと何か違うの?」

たまきはその質問には答えずに、レコード屋のある青いビルの前に立った。

「ここですか?」

「そうそう。ここの二階ね」

ミチは外階段を上っていった。そして、二階のドアの前に立って振り返った。

またしても、たまきは視線の先にいない。

「あれ?」

ミチがきょろきょろと周りを探す。数十秒して、ようやく自分の真下、外階段の下にたまきがいるのを見つけた。

「今度は何?」

ミチが階段を降りてたまきのもとに向かう。

外階段のあるビルの側面は駐車場に面していて、視界はかなり開けている。たまきは駐車場の中に立って、青いビルの壁を見つめている。

その隣にミチが立ち、同じように壁を見つめた。

青く塗装されたコンクリートの壁に、絵が描かれていた。黒い線、黄色い線、赤い線、オレンジの線。たぶん、ペンキだろう。色とりどりの線が壁の上を縦横無尽に走っている。

正直な話、ミチにはこれが何を描いたものなのか、さっぱりわからなかった。子供が画用紙にクレヨンでぐちゃぐちゃと描いた絵を、大人がビルの壁で再現したような感じにしか見えない。

「この絵が……どうかした?」

たまきは何も言わず、ただ絵を見つめていた。

人目につかない場所に描かれている鳥のラクガキと違い、この絵は道を駐車場の方から来れば、すぐに目に入る。どうぞ見てくださいと言わんばかりだ。

たまきにも、この線の塊が何を描いたものかはわからない。いや、そもそも形ある何かを描いたような絵ではないのかもしれない。

ただ、壁いっぱいを使って無数の線が、壁からはみ出してしまいそうなぐらいダイナミックにほとばしる様に、たまきは強く惹かれていた。

 

写真はイメージです

ようやく二人はレコード屋の中に入った。店の名前を「ハンペンレコード」という。

「ヘンな名前だよな」

と、ドアを開ける前にミチが言ったけど、少なくともミチのお姉ちゃんのスナックよりはまだまともな名前のようにたまきには思えた。

「こんにちわー。店長、いますかー」

ミチの後ろからたまきがおずおずと中に入った。

と同時に、たまきの鼓膜に音楽が飛び込んできた。

図太い太鼓の音だ。でも、和太鼓の音でもなければ、前にミチのライブで聞いたドラムの音でもない。乾いた大木をたたきつけたような音が、部屋中に鳴り響いている。

メロディも、ギターのようでもあり、ピアノのようでもあり、ヴァイオリンのようでもあり、そのどれでもないようであり、とにかく、たまきには判別できなかった。

たまきの乏しすぎる音楽知識の中で、一番近いと思えるのが、ゲームの音楽だった。お姉ちゃんがやっていたRPGの戦闘中に流れる音楽になんだか似ている。

そして、歌、というよりも外国の人の声、がいっしょに聞こえてくる。早口で何かをまくしたてるようであり、たぶんこれが「ラップ」というものなのだろう。

たまきは店内を見渡した。

店の中に所狭しと並ぶ棚には、真四角の絵がたくさん飾られている。とはいえ、ここは絵ではなくレコードを売る店のはずなので、これらはきっとレコードの入れ物なのだろう。サングラスをした黒人男性の写真だったり、たぶんどこかの外国の路上だったり、何かよくわかんないイラストだったり。

狭い店内にジャングルのように屹立する棚。天井のスピーカーからは音がスコールのごとく降り注ぐ。

ミチと一緒じゃなかったら、そして鳥のラクガキがなかったら、たまきはこんな店に入ろうとすら思わなかっただろう。

「店長~!」

ミチが雄たけびのように店長を呼ぶと、店の奥から

「あいよ~」

とけだるそうな返事が聞こえた。ガタリ、と、たぶん椅子から誰かが立ち上がった音。

ジャングルの奥から出てくるのは、トラかライオンか、はたまた恐竜か。

棚と棚の間から、店長と思しき男性が姿を見せた。

何よりもたまきの目線を惹きつけたのは、その男性の髪型だ。毛が太い。いや、太いってもんじゃない。まるでロープである。ロープのごとく太く長い黒髪なのだ。

一瞬、カツラなのかと思ったけれど、毛の根元に目をやると、数本、いや数十本の髪の毛を束ねて、一本の太いロープのようにしているのがわかった。

あとでたまきはミチからこの髪型のことを「ドレッド」と呼ぶことを教えてもらうが、今はまだそんな名称は知る由もない。口元は黒いひげでもじゃもじゃと覆われている。目つきはけだるそうでもあり、どこか鋭さも感じる。年は四十歳を越えたくらいだろうか。

ライオンおじさんだ。レコードジャングルの奥に住まう、極太たてがみのライオンおじさんである。

「なんだ、ミチか。どした? その子は?」

ライオンさんがけだるそうに、ミチとたまきに視線を送る。

「この子たまきちゃんっていうんすけど、この前言ってた鳥のラクガキの人について、たまきちゃんに話してほしくて」

「ああ、その子がお前のカノジョ?」

とたんにたまきがミチをぎろりとにらむ。

『私のこと、そんな風に説明したんですか?』

と言葉にしたわけではないけれど、そうとしか読み取れない表情をしている。

一方のミチは

『イヤ、違うって!』

と言いたげに、両腕で大きな×しるしを作った。それからライオンさんの方を指さして、

『店長が勝手にそう言ってるだけだって!』

と口にしたわけではないけれど、そう言いたそうな顔をした。

その様子をライオンさんはにやにや笑いながら見ている。

「で、その子が鳥の絵を探して回ってるんだって?」

ライオンさんの問いかけに、たまきは無言で頷いた。

「たまきちゃんさ、なんか地図作ってたよね」

ミチに促されて、たまきはリュックから鳥のラクガキが描かれた場所を記した地図を取り出した。

その地図を見たライオンさんは、声を上げて笑った。

「ははは! マジか! ホントにいるんだそんなヤツ! サキが聞いたらぶっ飛ぶぞ!」

ライオンさんは手を叩いて大笑いする。何がそんなに面白いのだろうか。

あと、サキって誰だろう?

本当に何がそんなに面白いのか、ライオンさんは笑いすぎて涙目になっている。

「はぁ、悪ぃ悪ぃ。で、何の話をすればいいんだっけ?」

「えっと……その……」

たまきはミチに視線を送った。どうしても、知らない人の前では、声帯が上手く動いてくれない。

「その鳥のラクガキを描いた人について、教えてほしいんすよ」

と、ミチがたまきの「通訳」をしてくれた。

「ん? サキについて話せばいいの?」

再び、「サキ」という名前が出てきた。

それまで、ミチの後ろに少し隠れるみたいに立っていたたまきだったが、再び「サキ」という名前を耳にした途端、勢いよく一歩前に出た。

「あ、あのラクガキを描いた人は、サキっていうんですか!」

「ん? ん、ああ」

それまで黙っていた子が急にしゃべり出したので、ライオンさんは戸惑いながらも返事をしてくれた。

「その……、サキさんって、女の人ですよね?」

「ん、ああ」

「いくつぐらいの人ですか?」

「んと、二十歳ちょい過ぎだったんじゃねぇかな?」

たまきの中で次第に、おぼろげだった作者像の輪郭が見え始めた。

そしてたまきは、あれ?っと思う。

「ミチ君、あのラクガキを描いた人はセナって名前だって言ってませんでした?」

たまきは後ろにいるミチの方を見た。ミチはぽかんとした表情で、

「俺そんなこと言ったっけ?」

と歯の抜けたような声で答えた。どうも、自分がたまきになんて名前を伝えたかなんて忘れてしまっているようだ。

なんていい加減な人なんだろう。一方のたまきは、この一週間まだ見ぬ「セナ」像をあれこれと考えて、一体どんな人なんだろうと想像を膨らませていたのに、そもそもの名前がちがっていたなんてあんまりだ。

「それで……その……せ……サキさんって人は、どこにいるんでしょうか。……会えますか?」

ライオンさんは、少したまきから視線をそらした、ようにも見えた。

「そこの階段降りて駐車場の方から見ると、このビルの壁に絵が描いてあるの見えるんだけど、見た?」

「え? あ、はい……」

「あれ描いたのもサキだぜ」

「え?」

たまきは後ろを振り返った。振り返ったところで、あの絵が見えるわけではないのだけれど。

「サキは俺がクラブで皿回してる時によく来てくれる客の一人だったんだよ」

人とは見かけによらないものだ。どうやらライオンさんは大道芸クラブか何かに所属して皿回しの芸を見せているらしい、とたまきは解釈した。

「うちの店にもよく来てくれたし、ラップやってるヤツで共通の知り合いも多くて仲良くなったわけよ」

「……はぁ」

ここで言う「ラップやってるヤツ」というのは、音楽のラップのことだろうか。それともサランラップか何かを使った大道芸のことだろうか。

「俺も昔はグラフィティをやってたからさ、知り合いの中にグラフィティやってるやつは何人かいるけど、サキは飛びぬけてうまかったね。センスが光ってた」

とうとうたまきはライオンさんの言葉についていけなくなって、すがるようにミチを見た。

「ミチ君……、その……、ぐら……ぐら……」

「ぐら? ああ、グラフィティっていうのはね、ヒップホップの言葉で言うラクガキのことだよ」

だからそのひっぷほっぷっていうのは何なんだ、とたまきは聞きたかったけど、うまく言葉にならない。

でもこれで、ライオンさんの話が少しわかった。つまり、ライオンさんの知り合いにもラクガキをやってる人が何人かいて、その中でもサキって人は特にセンスが良かったということだ。だったら最初からそう言えばいいのに。

気づけば、ライオンさんは店の少し奥の、レジが置いてある机の横に座って、パソコンを操作していた。

「あの絵は俺がサキに頼んだんだよ。あの壁にもラクガキされてさ。それも暴走族がやるような、とびっきりセンスねぇやつ。だからサキ呼んでさ、センスねぇラクガキされるくらいなら、おまえがこの壁にラクガキしてやれっつったわけよ。ほかのラクガキをもう寄せ付けないようなラクガキを頼むよって。ああ、あったあった」

ライオンさんはたまきを手招きした。たまきは恐る恐るライオンさんに近づく。

「これがそん時の写真。もう二年も前になるか。このペンキのブラシ持ってるのがサキだ」

たまきは画面をのぞき込んだ。写真はさっきの駐車場でこの建物を背景に撮ったものだ。壁にはさっき見た絵が描かれているが、まだ描きかけのようだ。写真にはライオンさんと、その他に男性が数人。そして一番真ん中で笑顔を浮かべる女性が映っていた。

まず目についたのが、髪が鮮やかなピンク色だということだ。服装はいつも亜美が着ているようなものに近く、露出度の高めな服を着て、頭にはキャップをかぶっている。

左手にはペンキのブラシ。右手はピースサインを作っている。亜美と同い年か年上ぐらいのはずなのだけど、幼さの残る顔立ちは、たまきと同い年と言われても納得してしまうだろう。

「その……この人が……」

「……ああ、サキだ」

ライオンさんは、画面を見ることなく答えた。

「あの、店長、それでそのサキって人はどこに行けば……」

「実際大したもんだったぜ。サキのグラフィティは」

ライオンさんは、ミチの質問を遮るように話し出した。

「ここの壁に描いてもらって以来、ラクガキがぱったりなくなった。このビルだけだ。ほかのビルはけっこうやられてて、たびたび町内で問題になってんだけど、ここだけあの絵ができて以来、全くラクガキがないんだぜ」

「それってやっぱり、それだけあの絵がスゴイってことなんすか?」

と尋ねたのはミチである。

「ミチさ、たとえばさ、おまえがスゴイって思ったバンドのライブに割り込んでさ、無理やり自分がマイク握って歌って、ライブをぶち壊しにしたいなんて思うか?」

「……思わないっすね」

「そういうことだよ。たぶん、気が引けるんだろ。この絵の上にラクガキするのはちょっと……みたいな感じでな」

なんだか今自分がやってるバイトに似ている、とたまきは思った。でも、ラクガキしたくなくなる絵なんてたまきに描けるのだろうか。壁の塗装の段階でさっそくラクガキされてしまっているというのに。

「それでなんスけど、店長、そのサキさんに会えないのかなって思ってきたんすけど……?」

と尋ねたのはミチの方だった。

しばらく、沈黙が流れた。もっとも、店内には爆音で音楽が鳴り響いてるのだけど、ふしぎと静寂しか感じられない時間が数秒つづいた。

ライオンさんは、ふうっと息を吐くと、たまきの方を見た。

たまきは思わず視線をそらそうとしたけれど、思い直して、ライオンさんの視線を受け止めた。

ライオンさんの目に、なにかを決意したかのような兆しを感じたからだ。たまきも、人の目線が苦手だなんて言ってていいような場面ではないような気がした。

ライオンさんはたまきの目をまっすぐ見つめて、告げた。

「……もう会えない」

「え?」

と聞き返したのはミチの方だった。一方のたまきは、ライオンさんの言葉ですべてを察したかのように深くうなだれると、ゆっくりと息を吐き出した。

「え? え? どういうことっすか? なんで会えないんっすか? 引っ越したんすか?」

ライオンさんは無言でミチをにらみつけると、舌打ちをした。ミチはなんでライオンさんが苛立ってるのかわからない。

「あの…」

とたまきは切り出した。

「その……サキって人のこと、質問してもいいですか……。嫌なこと聞いちゃうかもしれないけど……」

「……いいよ」

ライオンさんはたまきの目を見て答えた。

「その……サキって人は……いつ……」

そう言いながらも、たまきはそれ以上聞いてはいけないような、知ってはいけないような気がして、うまく言葉を続けられない。そんな様子を察したのか、ライオンさんの方から話し出した。

「……サキが死んだのは二か月くらい前だ」

「え! 死んだ! サキって人、もう死んでるんすか!」

ミチが驚きのあまり爆音の音楽よりも大きな声を出した。

「え? いつ死んだんすか?」

「いま二か月前っつったろ!」

ライオンさんが噛みつかんばかりにミチをにらんだ。それからライオンさんは、たまきの方に視線を戻す。

「二か月前、歓楽街の路上でサキは倒れて死んでた。たぶん、近くのビルの屋上から飛び降りたんだろうな」

「飛び降り……、ですか……」

たまきがつぶやいた。落っこちたのではなく、自分から飛び降りた。

「現場にいたヤジウマの中にたまたま知り合いがいてな。そいつが言うには、サキの顔は見えなかったっていうんだ。顔は見えなかったけど、サキ、派手な髪してたからすぐわかったって。それってつまり、顔は地面の方を向いていたから見えなかったってことだろ?」

たまきは、頭の中でいつかの鳥のラクガキを探しに屋上に上ったことを思い出した。貯水タンクに描かれたラクガキを見上げながら、もし作業中にうっかり足を滑らせたら、落っこちて死んでしまうとたまきは思った。

でも、もし作業中に足を滑らせて落ちたのなら、きっと背中から落ちることになる。顔は上を向いているはずだ。

サキって人がうつぶせで死んでいたというのなら、いつもたまきが屋上から下をのぞき込むときと同じような体勢で落ちていったことになる。

うっかり落っこちたんじゃない。自分から飛び降りたんだ。

「アンタ、サキがもう死んでるって、最初からわかってたって感じだな」

「……べつに、わかってたってわけじゃないですけど……」

たまきは、手に持ったラクガキの地図に視線を落とした。

鳥のラクガキを追っかけているうちに、なんとなく感じていたことがあった。

鳥のラクガキの中にはビルの屋上の危険な場所など、そこに行く途中や絵を描いている途中で、一歩間違えればケガをしたり死んでしまったりするような危ない場所がいくつかあった。

最初は、すごく勇気のある人なのかと思った。命知らずの無謀な人なのかと思った。

でも、ラクガキを追っかけているうちに、だんだんとたまきは、なんだかこのラクガキを描いた人は自分に近い人のように思えていた。

絵を描いているときに、足を滑らせたり脚立が倒れたりして、うっかり死んでしまっても、それはそれで別にいい。

怖くないわけでもなく、スリルが楽しいわけでもなく、ただただ、自分の命に興味が持てない。

店内に重苦しい空気が流れ、それをごまかすかのようにやけにノリのいい音楽がスピーカーから吐き出されていた。

「あの……店長……聞きたいんすけど……」

ミチが申し訳なさそうに手を挙げた。

「サキって人は……なんで死んだんすか……?」

「だから、ビルから飛び降りたっつっただろ。少しは人の話聞けよ」

「あ、いや、そうじゃなくて、自殺なんすよね? なんで自殺なんかしたんすか?」

ライオンさんは舌打ちをして、ミチをにらみつけた。

「知らね……」

「ダメです、ミチ君!」

ライオンさんの言葉を遮るように、たまきが強く言った。たまきが急に大きな声を出したので、ライオンさんもびっくりしている。

「それは……聞いちゃダメです、ミチ君」

「なんで?」

「なんでって……その……」

さっきの大声で力を使い果たしたかのように、たまきの声はどんどん小さくなっていく。何か言ったような気もするけど、はっきりとは聞き取れない。

「え、なんて? 聞こえない」

ミチがたまきの声を聞きとろうと近づき、たまきは目線をそらす。

ふと、たまきの背後からライオンさんのくっくっくという笑い声が聞こえてきた。

「あの……私、何かヘンなこと言いました……?」

「いや、こういう子がサキの絵を探して回ってるのかと思ってな」

ライオンさんは笑っていたけれど、その目はどこかさみしそうだった。そして

「ほんとは、まだサキの話なんてするつもりはなかったんだ」

と、ぽつりとつぶやいた。

「気持ちの整理がまだついてないってのと、まだ実感がないってのと……、だから正直、あいつの話はまだしたくなかったんだけどな、ただ、あいつの絵を探し回ってる子がどんな奴なのか、会ってみたくもなったんだ。で、会ってみてわかった」

ライオンさんはたまきの目を見つめた。

「アンタ、あいつとよく似た目をしてる」

そういった後、ライオンさんは、

「キャラは全然違うけどな」

と付け足した。

たまきは、仙人に言われた言葉を思い出していた。

『きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ』

鳥のラクガキがたまきのことを選んだわけ、そしてたまきがこの絵を選んだわけが、少しわかった気がした。

そして、ちっとも「新作」が見つからない理由も、わかってしまった。

 

レコード屋を出ると、再び雨が降り出していた。二人は歓楽街の方に向かって歩き出した。ミチは、最初は傘なんかいらないと歩いていたけれど、途中で雨脚が強くなり、しぶしぶ傘を差した。

ふたりに会話は、ほとんどない。

ミチはたまきになんて声をかけていいのかわからなかった。ここしばらくずっと追いかけていた人が、とっくに死んでいたのだ。顔にはあまり出さないけれど、たまきはショックを受けているに違いない。もっとも、ショックが顔に出てないというよりは、普段から身内に不幸があったかのような表情をすることが多いだけかもしれない。

「城」まで残り数分のところだった。たまきは急に

「じゃあ、私はここで。ありがとうございました」

というと、「城」とは違う方向に向かって歩き出した。

「あれ? 帰らないの? 俺もこれからバイトだから、ビルのところまで送るけど……」

「……用事があるので」

そういうたまきの声は、元気がないようにも聞こえるし、いつもこんな感じだったようにも聞こえる。ミチにはよくわからない。

 

雨の中、たまきは行信寺の塀の前に立った。

目の前にはたまきが数日かけて塗装した青い壁がある。幸い、まだラクガキされていないし、雨の中で塗装も剥げてはいない。

たまきは、自分でも思ったほどショックを受けていないと感じていた。

サキって人のこと、驚きがなかったと言えばうそになる。それでも、うすうすなんとなく、そうなんじゃないかという気はしていた。ずっと追いかけていたとはいえ、一度も会ったことのない人のために涙を流して悲しむような情緒も持っていない。

サキって人は、もういない。とっくにいない。

それでも、あのレコード屋の壁に描かれた絵はほかのラクガキを寄せつけず、町中に描かれた鳥のラクガキはたまきのことを振り回し続けた。

そんな絵が、自分に描けるんだろうか。

でも、そんな絵を描いてみたい。挑んでみたい。

サキって人に挑んでみたい。

今まで考えたこともなかったような感情が、たまきの中に芽生えつつあった。

 

つづく


次回 第43話「「雨のち極楽、ところにより『最期のラクガキ』」

たまきが追い続けてきた「鳥のラクガキ」の作者、サキはすでに自ら命を絶っていた……。「死にたがり」のたまきが、はじめて「死んだ人」と向き合う。つづきはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

小説「あしたてんきになぁれ」 第41話「ローラーのちハケ、ところにより筆」

たまきのはじめてのアルバイト。そして「鳥のラクガキ」探しにも新たな展開が……。「あしなれ」第41話、スタート!


第40話「バイト、ときどきファミコン」 

クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」


画像はイメージです

六月も半ばになった。

たまきは、青いジャージを着て、行信寺の塀の前に立っていた。足元には青いペンキの缶と、バケツ。バケツの中には、塗装に必要な用具がいくつか入っている。塀には脚立も立てかけられている。

本格的な梅雨が来る前に、このラクガキだらけの壁を青いペンキで塗りつぶす。それがたまきのバイト初めての大仕事だ。

それと同時に、壁に描く仏像のデザインも進めておかなくてはいけない。

理想のスケジュールとしては、今週中に壁を青いペンキでで塗りつぶし、梅雨が来たらデザインの方を進めていき、梅雨明けには青一色となった壁に仏像を描いていく作業に入れるようにしたい。

デザインの第一案は、この日の午前中に住職に渡していた。たまきは仏教の知識が全くないので、お寺にあった仏像の写真がいっぱい載っている本を借りて、それを見ながらスケッチを描いた。

ラフなスケッチだったけど、自分で思っていたよりもうまく描けた。スケッチを後ろから覗き込んでいた亜美も

「なんだ、ちゃんと描けてんじゃん」

と、若干つまらなそうにぼやいた。もっとおどろおどろしくなるものと期待していたらしい。

そのスケッチを先ほど住職に見せたわけだ。住職は「なるほどなるほど、さすが上手ねぇ」とは言ってくれたが、

「でもたまきちゃん、これってペンキで描けるのかしら?」

と首をかしげた。

確かに、たまきのスケッチは鉛筆で描いたもので、曲線のうねり具合、影のつけ方、模様の細かさ、全てが鉛筆ならではのものだった。

そして今、たまきはペンキ用具一式をもって、本番のキャンバスとなる壁に向かっている。

こうやって見てみると、部屋でスケッチしていたときとはかなり条件が違う。絵を描く壁の材質は紙ではなくブロック。鉛筆ではなくハケや筆を使い、どろりとしたペンキで描く。さらに、部屋でスケッチしていた時は水平なスケッチブックに描いていたのに対して、垂直な壁に重力に逆らって絵を描かなければならない。

下絵のスケッチで上手に描けてもダメなのだ。「硬い壁にペンキで描く」ということを意識しながら、スケッチを描かなければならない。スケッチはそれ自体が作品なのではなく、壁にペンキで描くための設計図なのだ。

そうなると、「そもそも、ペンキで仏像なんて描けるのだろうか?」とたまきは首をかしげてしまう。もっとも、住職も別にどうしても仏像を描いてほしいわけではなく、お寺だからとりあえず仏像でも描いておいたら、ぐらいのものなので、何か他にいいデザインが思い浮かべば、別に無理に仏像にこだわることもなさそうだ。

具体的なデザインはまだ決まっていないけど、「背景は青一色」というオーダーがすでに住職から出ていた。それも何か仏教的な意味があるのかと聞いてみたところ、

「あら、青って爽快感があるじゃない?」

という返事だった。

 

さてと、とたまきは道路の上に新聞紙を敷き、その上に自分の身長の倍近くの高さがある脚立を立てて上った。3メートル近くの高さがある塀の上の部分に目線が来るように座る。右手には青いペンキの缶が握られ、脚立の下の段を使って重さを支えている。

缶の中にはすでに、ローラーが青いペンキの湖に沈められていた。このローラーを使って壁を一気に青一色で塗りつぶす。脚立を上り下りしたり、脚立や新聞紙を動かしたりするのが面倒だけど、まあ今日一日で作業は終わるだろう。

作業に入る前に、たまきは塀をじっと見降ろした。

例の鳥のラクガキはこの塀には見つからなかった。だが、そもそもこの塀はラクガキが多すぎる。たまきが見落としているだけかもしれないし、ほかのラクガキに上書きされて隠れているのかもしれない。ペンキを塗る前に、視点を変えて上から、もう一度ラクガキを探してみることにした。

横幅が十メートル近くある墓地の塀の、一番左の端にたまきはいる。とりあえず、今いる場所から見える範囲には、それらしきラクガキは見つからなかった。

それじゃあ、とたまきはペンキの缶からローラーを取り出すと、ペンキが下に垂れないように余分なペンキを落してから、ブロックの壁にあてがった。

ローラーがコロコロとまわり、ラクガキだらけの薄汚れた塀が、空のようなブルーに染まっていく。

が、ほんの三十センチほど動かしただけで、たまきの手は止まった。

たまきの想像と違い、ところどころペンキが塗れていない部分が目立つのだ。古いブロック塀はところどころ欠けていたり削れていたりでくぼみがあって、ローラーではそのくぼみにペンキが全然届かなかったのである。

たまきは、ジャージの上着のポケットを探った。そこにはハケと筆が入っている。ハケは今回の作業のために住職が買ったもので、筆の方は書道用のものが古くなって使わなくなったとのことで住職がたまきに渡したのだ。

たまきはハケの方を手に取ると、ペンキをちょんちょんとつけた後、ブロック塀のくぼみにあてがった。

だが、ここでもまたたまきの想定外のことが起こる。

ハケを使っても、くぼみの中にペンキが届かないのだ。ハケの横幅に対してくぼみの方が小さい。それでもハケは一本一本の毛のようなものの集まりなのだから器用にくぼみの中に入っていけると思ったのだが、どうやらそういうものでもないらしい。

仕方なしに、たまきはポッケの中の筆を手に取った。ハケに残ったペンキを筆につけて、くぼみの中でちょこちょこと動かす。これでようやく、ひとつのくぼみが青に埋まった。

だが、くぼみは何も一つだけではない。全然くぼみのないブロックもあれば、無数のくぼみがあるブロックもある。この無数のくぼみ一つ一つを、筆で青に塗りつぶさなければいけない。この手間を考えると、どうやら今日一日で終わる作業ではないかもしれない。

ラクガキ探しをするときによく見る「ラクガキするな!」と書かれている看板がたまきの頭の中をかすめた。なぜラクガキをしてはいけないのか、たまきはようやく理解した。ラクガキを上から青一色で塗りつぶすだけで、こんなに大変でめんどくさいんだ。

 

画像はイメージです

結局その日は、壁全体の四分の一ほどしか作業は進まなかった。

くぼみの中を塗る作業に手間取ったうえ、常に重たいペンキの缶を右手に持ったまま、脚立を上ったり、脚立を動かしたり。ペンキを塗るときも、支えはあるとはいえずっと缶の取っ手を握りっぱなし。これがたまきの体力をみるみる奪い、どんどんペースが落ちていった。時間の見積もりが甘く、午後から作業を始めてしまったため、時間がそもそも足りなかったともいえる。

そのうえ、根気よく鳥のラクガキを探しては見たものの、結局見つけることはできなかった。

「まあ、明日から梅雨入りってわけじゃないから、今週いっぱいかけて少しずつ進めていきましょ。作業が増えた分のお給料は、ちゃんと考えとくわ」

と住職は笑いながら言った。今日は火曜日で、天気予報だと梅雨入りは来週のどこか、と言っている。確かに、今週中に終わらせれば問題はなさそうだ。しかし、壁全体を塗るのにあと3日はかかるだろう。3日間をこの重労働に費やすのかと思うと、たまきは憂鬱になってきた。

今日の作業を終えて、たまきはとぼとぼと歩いて『城』へと戻った。

学校にも行けずバイトもしてないたまきが、これならたまきに向いていると太鼓判を押されて始めたバイトだったけど、今のところ、ちっとも自分に向いているとは思えない。

「ただいまです……」

たまきは左手で『城』のドアを押し開けた。今日はもう、右手には何も作業をさせたくない。かといって、左手もローラーを動かしたり筆を動かしたりと使い続けていたので、右手とは別種の疲労がたまっていて、極力動かしたくない。つまりたまきは、今日はもう何もしたくないのだ。

「お、おかえりー」

『城』の中には亜美が一人でいて、相変わらずゲームをしている。

「バイト、どうだった?」

「……疲れました」

「まあ、そうやって働いて、みんな大人になってくんだよ」

と、ろくに働きもしない亜美が言った。そして亜美は立ち上がり、ゲーム機に二つ目のコントローラーをいそいそとつける作業をしながら、

「よし、この前のリベンジしようぜ」

と言った。

「……リベンジ?」

「この前のゲームの続きだよ。ほら」

と、亜美はたまきにコントローラーを差し出す。

リベンジしようと言われても、リベンジしたいのは負けた亜美だけで、たまきにリベンジするつもりは全くないのだが。

今日はもう手を動かしたくないんだけどな、と思いながら、たまきは仕方なくコントローラーを手に取った。

 

翌日、たまきは頑張って早起きして、朝の九時に目覚めた。

頑張って起きたはいいものの、頭がぼうっとして、エンジンのから回った車のように、うんともすんとも言わずにただ座っている。そんな状態が一時間ほど続いた。

十時になって、行信寺にバイトに行く志保にくっついて『城』を出た。まだ頭の半分は眠ったまんま、ゾンビのようにふらふらと志保の後をついていく。

寺までの十数分の移動距離で、まるで氷を溶かすかのように、たまきは少しずつ目が覚めていった。寺につき、倉庫から脚立とペンキをがたがたと出して、昨日の続きの場所にセットする頃には、脳みそは八分咲きと言ったところか。

たまきはペンキの缶をもって脚立の上部に座り、大あくびをして、ローラーを壁にあてがった。頑張って早起きをしたから、昨日より二時間ほど作業時間は増えてるはずだ。

お昼休憩を挟み、午後からもまた壁に向かい合う。

途中で一度、志保が様子を見に来た。壁面を一目見るなり、

「すごい。ちゃんときれいに塗れてるじゃん」

と手を叩いて喜ぶ。たまきが壁にローラーをあてがって転がすと「すごいすごい」、ペンキの届かなかったくぼみを筆で埋めていくと「すごいすごい」、挙句の果てには、脚立を移動させてよじ登っただけで「すごーい」。

志保にそんなつもりはないのだろうけど、ここまで一挙手一投足を誉められると、一周まわってバカにされてるような気がしてくる。

まあ、これまで何もせず、ただ寝転がるかお絵描きするかだった奴が、ろくに面接もなかったとはいえ、一応バイトをしてるとなればそれだけで「すごーい」なのかもしれない、とたまきは思い直した。

 

画像はイメージです

二時間だけ労働時間が増えたのに、なんだか昨日の倍疲れている気がする。たまきはゆっくりゆっくりと、太田ビルの階段を上っていった。手の疲れに加え、脚立の上り下りのせいで足にまで疲れが出ている。

二階のラーメン屋の前まで来た。ここまで、階段を上り始めてから二分かかった。

ふう、っとため息をついてラーメン屋の方を見ると、廊下の奥、従業員が休憩するベンチに、調理服を着たミチが腰かけてタバコを吸っていた。たまきの姿を見るなり

「お、お疲れ」

と声をかける。

たまきは無言でペコリとお辞儀だけして、ミチに背を向けて階段を上るとした。するとミチが

「あれ? 今日、なんかいつもと違くない?」

と言うと、ベンチから立ち上がり、たまきの方へと寄ってきた。

ミチが言う「いつもと違くない?」と言うのは、たまきの態度のことではないだろう。むしろ、ここでミチに会った時のたまきの対応としては、かなりいつも通りだ。ミチが「違くない?」と言うのは、たまきの服装のことだろう。いつも上から下まで黒一色か、ミチからもらった薄群青のパーカーを着るかぐらいのたまきが、住職が用意してくれた上下グレーのジャージを着ているうえ、ところどころ青いペンキが付着している。おまけに、顔にもちょっとペンキがついている。服装に無頓着なたまきの見た目がいつもと違うのは、それだけでとんでもない変化なのだ。

「どしたの、その格好?」

「……まあ……その……」

ミチにあまり詮索されたくない気持ちと、照れくささと、ちょっとだけ自慢したい気持ちがないまぜになったまま、たまきは

「……バイトで」

と答えた。

「……バイトって、あのバイト?」

ほかにどのバイトがあるのだろうか。まさか、メガバイトだのギガバイトだのの話をしてるとでも思ってるのだろうか。

次の瞬間、ミチの口からは

「ウソぉ!!?」

という失礼極まりない言葉が飛び出した。

「え、たまきちゃん、絶対バイトなんかしないと思ってたのに」

ふつうにバイトをしてるだけで、どうしてそんな裏切られたかのようなことを言われなければいけないのか。

「え、何のバイトしてるの?」

「まあ……、その……」

たまきはミチから目線を外した。

「絵を描くバイトを……」

実際のところは、まだ絵を描く段階に至っていない。ひたすらブロック塀を塗装しているだけだ。じゃあ、塗装のバイトだと胸を張って言えるかと言うと、別にそんなにうまく塗装しているわけでもない。

「あ、それでペンキまみれなんだ」

と、ミチはたまきの全身をじろじろ見た。たまきはさらにミチから目線をそらす。

ふいに、ミチの右手がたまきの視界に入ってきた。そして、

「髪にもペンキついちゃってんじゃん」

と、たまきの髪の毛を手に取った。

たまきはとっさに体を激しくよじってミチの手を振りほどいた。

「か、勝手に触らないでください!」

ミチの方を見ることなくそういうと、

「……言いつけますよ」

と付け足した。

そう言ってから、一体誰に言いつけるんだ、とたまきは自分の言葉を反芻した。一方でミチは

「あ、ごめん」

と、バツの悪そうに後ずさった。おそらく、たまきとミチの共通の知り合いの中での「言いつけられたら困る人」の誰かの顔が浮かんだのだろう。どうやら、この文言は割と効果があるようだ。今後も使っていこう、とたまきはひそかに思った。

 

画像はイメージです

ペンキ塗りの作業も三日目に入った。一生終わらないように思えたけれど、昨日までの作業で半分が終わった。この調子で行けば、明日までにはすべての作業が終わるだろう、と思いながら、たまきは今日の仕事の準備を始める。ペンキ塗りはただの下準備であって、本当の仕事はまだ始まってすらいない、ということにたまきが気付くのはもう少し先の話、この日の夕方になってからだ。

お昼過ぎ、たまきは相変わらずペンキのローラーを転がしていた。そこに、

「お、ここか」

と、聞きなれた声がきこえてきた。

声がした方を向くと、亜美が立っていた。右手に火のついたタバコ、左手にはビールの缶を持っている。

亜美はたまきの顔を見るなり、

「マジか! ホントにバイトしてんじゃん! マジウケる!」

といって大爆笑した。

志保には赤ちゃんのように褒められ、ミチには仰天され、亜美には大爆笑される。もしかしたらこの人たちもミチのお姉ちゃんみたいに、たまきをペットのネコか何かだと思っているのだろうか。なるほど、ネコが一丁前にバイトを始めたら、ただそれだけで褒められるし驚かれるし笑われるだろう。いつか何かで見返してやる、とたまきは心に誓った。

たまきは返事をすることなく、黙々と作業を進めた。

「ここ? オカマのボウズがいる寺って?」

「……まあ」

少し間を開けてからたまきは、

「住職さん、今日はお寺にいるけど、会ってきますか?」

と尋ねた。

「いや、パスするわ。そのオカマでガタイのいいボウズってのがいまいちピンとこないんだよなぁ。ホントにいるのか、そんなやつ?」

亜美の言うことは一言一言が甚だ失礼である。こんな人は住職さんには会わせられないな、と思いながら、たまきは黙々と作業を進めた。

「そうそう、おまえに言いたいことがあったんだよ」

「そうですか」

「なんだったっけなぁ~?」

というと、亜美は缶の中のビールを一気にグイッと飲み干した。

「そういや、さっきここ来る前に下のラーメン屋でミチにあったから、あいつにもこの寺のこと教えておいたぞ」

「え?」

たまきは危うくペンキの缶を落としそうになった。

「な、何でミチ君に教えるんですか?」

「あいつが、たまきちゃんのバイト先ってどこっすか~?って聞いてきたから、ケータイで地図見せながら教えといたぞ。なんだよ? 見られて恥ずかしいようなバイトじゃねぇだろ?」

「ま、まあ、そうかもしれませんけど……」

たまきにとって、人に見られて恥ずかしくないものの方が少ない。

「い、言いたかったことっていうのは、そ、それですか?」

「いや、それじゃなくて今のはついでで、ほかになんかあったんだよなぁ」

と亜美は煙草を空になったビール缶の中にねじ込む。

「そうそう、思い出した。さっき先生から電話あったんだよ」

「舞先生から……ですか?」

「そうそう。たまきが寺でバイト始めたって聞いたけど、ちゃんとやってんのか? って。そうそう、それでウチが様子を見に来たってわけよ。先生言ってたぞ。しばらくたまきの顔見てないけど、元気なのか、って」

たまきの作業の手がふと止まった。言われてみればここしばらく、舞に会っていない。

「そういやおまえさ、ここんとこリスカしてないんじゃね? だから先生とも会ってないんじゃねぇの?」

「え?」

いよいよたまきの手は完全に止まり、上半身を亜美の方に向けた。

「私、最近リスカしてなかったんですか? いつから?」

「いや、おまえの手首の話だよ。ウチに聞くなよ。まあ、確かにここしばらくないよなぁ」

たまきは作業の手を止めて、右手首の包帯をじっと眺めた。

確かに、言われてみればここ最近はリストカットをしていない。いったい、いつからだろう。

記憶を掘り返してみるけれど、最後にリストカットしたのがいつだったのかあまりはっきりしない。

でも、なんとなく確信の持てることがあった。

たぶん、鳥のラクガキを探し始めてからは、リストカットをしていない、そんな気がするのだ。

それと同時に、急に不安になってきた。ここしばらくは鳥のラクガキを見つけられていない、ということに。

ふと気づくと、たまきの左手からペンキのローラーがなくなっていた。

どこかに落としたかとあたりを見渡してみると、すぐ目の前で亜美がローラーをブロック塀にあてがっていた。いつの間にかたまきの手から奪い取ったらしい。

「な、何してるんですか?」

「見りゃわかんだろ。手伝ってやってんだよ」

そういうと亜美はガーガーとローラーを転がす。

だけど、その塗り跡が地面に対して垂直ではない。微妙に傾いている。そのため、たまきの塗ってきた箇所から次第に離れ、塗り残しが広がっていく。

たまきはその都度ローラーを止めてもう一回塗り直すなり筆で塗り残しをつぶすなりしていたのだけど、亜美は塀の上から下までノンストップで一気にローラーを転がす。そして、あらゆる塗り残しを一切無視して隣の場所からまた上から下までローラーを転がす。

「なんだよ、こんなの、カンタンに終わるじゃん」

仕方がないので、塗り残しの部分はたまきがあとから筆で塗りつぶしていった。どうせ手伝ってくれるのなら、めんどくさい方をやって欲しかった。

亜美は三分ほど作業をした。いや、たまきから見ればただ適当にローラーを転がしていただけで、断じて「作業」と呼べるようなものではない。

亜美は急にぴたりと立ち止まると、

「なんか、飽きた」

というとたまきにローラーを返した。

そして、片手に握っていた空き缶を、全く無造作に放り捨てた。

「じゃあなー。あ、手伝った分のバイト代はいらねーからなー」

たまきは、路面にからころと転がる空き缶を見た。飲み口から中にねじ込んだ吸い殻が顔を出した。

次に、余白だらけのペンキの塗り跡を見ながら、しばらく立ちすくんだ。

やがて脚立によじ登ると、亜美の作った塗り残しをつぶす作業を始めた。

世の中には自分よりもバイトに向いていない人がいる。それがわかっただけでもよかった、ということにしておこう。

 

四日目。前日までに壁の八割を塗り終わった。作業に慣れたこともあってスピードも少し早くなった。この調子なら今日の昼過ぎにはすべての作業が終わる。

はずだった。

午前中、たまきがお寺の裏口につくと、すでに住職が立っていた。

「たまきちゃん、がっかりしないでね」

たまきが住職と一緒に「仕事場」に行ってみると、青いペンキで塗りつぶしてきたスペースの3分の1ほどに、黒いスプレーで新しいラクガキが描かれていた。何かの文字を崩したような形だけど、何なのかは判別できない。

「夜中にやられちゃったみたいねぇ。塗り直しの追加のバイト代はちゃんと考えておくから」

「……はい」

この日の作業は、ラクガキされた箇所の塗り直しから始まった。

壁の大部分を塗りつぶされたわけでなく、スプレーでにょろにょろと黒い線を描かれただけなので、そこまで厄介な作業ではない。しかし、青いペンキをバケツごとぶちまけて消せるのならばどんなにラクか。

ふと、たまきはいつか見た張り紙を思い出した。

『落書き厳禁! 迷惑してます!』

思い返してみると、たまきはこれまで「鳥のラクガキ」探しに、いかに無責任にはしゃいできたことか。じぶんちの壁にラクガキされて嬉しい人などいないのだ。それが、誰のどんなラクガキであっても。たとえ天才画家といわれる人だったとしても、ラクガキはあくまでラクガキなのだ。

よくよく考えてみればたまきは、人の建物に勝手に住んで、壁に勝手に描かれた落書きを探して回ってる。ちっともほめられたことじゃない。

だからこそ、少しでも褒められる人間になりたくて、たまきは今日もローラーをあてがうのだった。

 

一時間ほどで塗り直しを終え、いよいよ最後の作業に入った。余計な時間を使ってしまった分、たまきは作業のスピードアップを図ることにした。

これまでは、ローラーをあてがう前にまず、その一帯をよく確認して、例の鳥のラクガキがないか、ほかのラクガキに潰されていないかをチェックしていた。その時間を削ることにした。

もう、いちいち確認などしないで、さっさと作業を進める。もしも鳥のラクガキがあったとしても、お構いなしに塗りつぶす。それがたまきの仕事なのだ。

 

お昼休憩を終えてさらに作業を進める。

たまきはふと、人が近づいてくる気配を感じて、そっちの方を向いた。

道路の奥から、ミチが近づいてくるのが見えた。そういえば、亜美がここでたまきがバイトをしてると余計なことを教えたのだった。

絶対、笑いに来たに決まってる。

ミチは両手をズボンのポケットに突っ込んで、ガムをくちゃくちゃとかみながら近づいてきた。たまきはギリギリまで知らない人のふりをしようと決めた。

案の定、ミチはたまきに近づくなり、

「うわ、マジでバイトしてんじゃん!」

と大きな声を上げた。亜美のように爆笑しなかったのは少し意外だったけど。

笑わないのはいいことだったけど、こともあろうにミチは、携帯電話を取り出して、カメラをたまきに向けた。

「え……な、何してるんですか?」

「いや、姉ちゃんに見せるだけだからさ」

「や、やめてください」

たまきは右手を精一杯持ち上げて、ペンキの缶でなるべく顔を隠した。

「ちょっとぐらいいいじゃん。ホントに姉ちゃんに見せるだけだって。見せたらすぐ消すから」

そう言って、前にも「消す」と言ってた写真を消さなかった前科がある。信用できない。

「やめてください。言いつけますよ」

たまきは、ペンキの缶越しに、ミチをにらんだ。

「わ、わかったよ。ごめんって」

ミチは携帯電話をしまった。どうやら、魔法の呪文「言いつけますよ」はまだコイツに対して効果があるらしい。

たまきは、顔を隠していた右手を降ろした。でも、相変わらずミチをにらんだままだ。

「用が済んだら帰ってください。その……仕事の邪魔です」

ここでは魔法の呪文は使わない。魔法というものは乱発したら効果が薄れるのだ、きっと。ここぞという時に取っておかないと。

「いや、まだ用事終わってねーし」

これ以上どんな邪魔をするというのか。

「たまきちゃんさ、なんかヘンな鳥のラクガキ、さがしてたじゃん?」

たまきは返事をしなかった。「鳥のラクガキ」なら探してるけど、「ヘンな鳥のラクガキ」を探してる覚えはない。

だいたい、ミチはこの前、鳥のラクガキに興味なさそうだったではないか。

「でさ、知り合いのレコ屋の店長がさ、むかしストリートアートをやってたって話思い出してさ、鳥のラクガキのこと話してみたらさ、描いた人のこと知ってるって言ってさ」

「……え?」

たまきは、うっかりペンキの缶を落としそうになった。

「……あのラクガキ描いた人のこと、知ってるんですか?」

「そうそう。俺もまだ詳しくは聞けてないんだけど」

「知ってるって……、名前とか……」

「えっとね……、セナっつってたな」

「せな……」

たまきはその名前を反芻した。

「女の人……ですか……?」

「そんな名前だったと思うけど。うん、女の人の名前だったなぁ」

やっぱり。なんとなく、そんな気がしていたのだ。

たまきの仕事の手は、完全に止まっていた。仕事どころではない。聞きたいことがいっぱいあるのだ。

「その人って、今、どこにいるんですか?」

「ごめん、俺もそこまでは聞いてないんだ」

「そうですか……何歳ぐらいの人なんですか?」

「それも詳しくは……。ただ、レコ屋の店長は四十才ぐらいなんだけど、それよりも若いんじゃないかな?で、その店長さ、セナって人がラクガキ描くところとかも見ててさ、それこそ、俺らが公園で見つけたラクガキあったじゃん。あれ、どうやって描いたかっていうと……」

「ま、待ってください!」

たまきにしては少し強めの声で、ミチの話を遮った。

「そ……その話は……いいです」

「……え?」

「だから……その……どうやって描いたかって話は……別に……」

「え、だって、気にならない? っていうか、そういうの知りたくて探してたんじゃないの?」

たまきは首を横に振った。

聞きたいことはいっぱいあった。でも、その話だけは聞きたくない。

どのラクガキも、たしかに描くのが難しそうな場所にある。

でも、絶対に不可能というわけではない。

どうやって描いたのか、正直、ある程度の予想はできている。

でも、だからこそ、「どうやって描いたのか」だけは知りたくなかった。あれは魔法か何かで描いたんだ、たまきはそういうことにしておきたかった。

ミチとしては、話を遮られてしまって、釈然としない感じだ。

「ま、まあ、とにかくさ、その店長さんにたまきちゃんのこと話したんよ。その、鳥のラクガキを探して回ってる子がいるって。そしたら、直接セナって人の話をしてもいいっていうんだけどさ」

「……その店長さんが、私に……ですか?」

「そう」

「その……もしかしたら……セナって人にも会えますか?」

「あ、そこまでは聞いてない」

「そうですか……。あの……その……」

「なに?」

「……どうしてミチ君がそこまでしてくれるんですか?」

「……どうして?」

どうしてと聞かれても、困る。

「……とにかくさ、たまきちゃんが話聞きたいって言うなら紹介するけど、どうする?」

「えっと……その……」

たまきはうつむきがちに言った。

「……お願いします」

「オッケー。じゃ、あとで話しとおしとくわ」

「それと……その……」

そのあとにたまきは何かを付け足したが、ミチにはよく聞き取れなかった。

たまきは、ローラーをしっかりと握ると、壁に向き合った。

ラクガキは見つからなかったけど、その代わり、思ってもなかった話が降ってわいてきた。

でもまずは、このバイトをしっかりと終わらせよう。たまきは、壁にローラーをあてがった。

つづく


次回 第42話「ジャングルのちライオン、ところにより鳥」(仮)

ミチに連れられてレコード屋の店長に会いに行くたまき。「鳥のラクガキ探し」もいよいよ佳境か? つづきはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第40話「バイト、ときどきファミコン」

たまきと亜美が出会ってから約一年、たまき、初めての○○! 「あしなれ」第40話スタート!


第39話『お葬式、ところによりバスケ』

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

歓楽街の神社のところで大通りを渡り、南へ行く。デパートのわきを抜けると、大きな画材屋さんがある。

その画材屋さんのわきの路地裏に、多くのラクガキがひしめいている。

たまきはスケッチブックを買った帰りに、そこをのぞき込んでいた。もっとも、ここにラクガキがいっぱいあると知っててのぞいたのではない。ちょうどここに自販機がいっぱいあるので、なにかペットボトルでも、とのぞいてみたところ、ラクガキをたくさん見つけたのだ。

とたんにたまきは自販機そっちのけで、例の鳥のラクガキを探し始めた。

狭い路地を行ったり来たりして、時にはぴょんぴょん飛び跳ねて、探す。建物と建物の隙間を見つけたら、顔を近づけて探す。

そうやって何分も何分もかけて探したけれど、見つけることはできなかった。

たまきは、ため息をついた。

鳥のラクガキを探し始めてからというもの、一か月でほどでたまきは三十個近くのラクガキを見つけ出した。

こんなに次々と見つけられるなんて、これはもしやギネスも狙えるんじゃないか、などと考えたりもした。ギネスにはたまにすごくくだらない世界記録がある。だったら、「鳥のラクガキ探し世界一」があってもいいだろう。たまきだって人生で一度くらいは何かの世界一になってみたい。

ところが、それからぷっつりと発見が止まってしまったのだ。最後の発見から十日間、全く見つけられていない。

ビルの隙間に顔を突っ込み、屋上に目を凝らし、「立ち入り禁止」と書かれた金網があれば向こう側をのぞき込む。前に探したところでも、新たに描きこまれているかもと、もう一度探してみる。それでもさっぱり見つからない。

見つけたラクガキのうちのいくつかは歓楽街から離れたところにあった。そんなラクガキがほかにもないかと「遠征」することも考えてみたけれど、一人で電車に乗って知らない街に行ったら、帰ってこれる気がしない。誰かを誘おうにも、亜美はこんなこと絶対興味ないだろうし、志保は最近新しくバイトを始めたらしくいろいろ忙しそうだ。

もう一度だけ、ラクガキがないか裏路地を探してみた。ほかのラクガキはいっぱいあるのに、あの鳥のラクガキだけが見つからない。

代わりに張り紙があるのを見つけた。

『落書き厳禁! 迷惑してます!』

志保が言ってた通り、やっぱりラクガキは迷惑なことらしい。ラクガキをきれいに消すのにはうんとお金がかかるという。そんな迷惑なラクガキを探し回っているたまきの行動も、やっぱり迷惑なことなのだろうか。

たまきは『城』に帰るべく歓楽街に向かってとぼとぼと歩き出した。

鳥のラクガキはすべて同じ人が描いた、とたまきは思っている。お絵かき好きのカンだ。そして、お絵かき好きだからこうも思う。

どうして、その人は新作を描かないんだろう。

お絵かき好きだったら、新しい絵を描きたいはずだ。たまきがスケッチブックを新調してでも新しい絵が描きたいように。その人だってお絵かき好きなら新しい絵を描きたいはずだ。

もっとも、このラクガキの場合、絵のデザイン自体はほとんど変化がない。いつも同じ、白い鳥が羽ばたく姿を描いている。

だけど、描かれる場所が毎回違う。作者の人はきっと、「なにを描いたか」よりも「どこに描いたか」の方を重視しているのだろう。作者の人にとって、ビルの壁とか、貯水タンクとか、陸橋の橋げたとかは、絵の背景であり、額縁であり、むしろ主役なのかもしれない。

とにかく、お絵かき好きならば新作を描きたいはずだ。だけど、少なくともたまきの目には、どれも最近描かれたようには見えないのだ。中には劣化がかなり激しく、明らかに何年か経過してるものもある。

帰り道でたまきは、カレー屋さんの隙間の室外機をのぞき込む。だけどやっぱり、鳥のラクガキは見つからない。

 

画像はイメージです

「ただいまです……」

たまきが『城』のドアを押し開けた。

部屋の中からは、バンとかドカンとかピコーンといった音が聞こえる。志保はバイトでいないはずだから、おおかた亜美がゲームでもやってるのだろう。

部屋の中に入ってみると、案の定、亜美がソファの上に胡坐をかき、コントローラーを握りしめ、テレビ画面をにらみつけて、ピコピコやっていた。テーブルの上にはゲーム機。亜美が中古で買ってきたやつだ。

「あー、くそっ! 殺す! ぶち殺す! 死ね! 死ね!」

亜美は画面をにらみつけながら、日常生活ではとても言わなそうな過激な言葉を吐き散らかす。いや、亜美なら日ごろから言ってるかもしれない。

「ああ、たまき、おかえり」

亜美は画面から目を離すことなく言った。

「あ、ちょ、ちょっと待て、おい!」

亜美が突如声を張り上げたのでたまきはビクッとなったけど、亜美は相変わらず画面から目を離さない。

「待て待て待て待て、おい、ふざけんなよ! あ~!」

亜美がコントローラーを投げだした。コントローラーは宙を舞ってソファの上に落ちた。

画面にはゲームオーバーの文字。まあ、画面を見なくても何が起きたかさすがのたまきにもわかってはいたが。

どうやら二世代前の格闘ゲームをやっていたらしい。亜美はそういった一昔前のゲームを中古でよく買ってくる。今のゲームと比べるとだいぶ画面は粗いし、できることも限られるけど、その分安くお店で買えるので、万が一「クソゲー」を買ってしまっても、あまり財布は痛くならずに済む。だから、よくわからないゲームでもとりあえず試しで買ってみることができる。万が一つまらなくても、数百円の損でしかない。

画面はいわゆる「セレクト画面」に切り替わり、モニターからは懐かしのファミコン音楽が流れている。亜美は床に無造作の置かれた段ボール箱の中から、ごそごそと何かを取り出した。

ゲームのコントローラーだ。二本目となるコントローラーを、亜美はゲーム機につなげる。

「よし、たまき、おまえもやるか?」

その質問をする前にコントローラーをつなげたということは、暗に「やれ」と言っているようなものだ。

「お前も変なラクガキなんて探して外うろついてないで、たまにはまったりイエでゲームでもしたらどうだ?」

いつもは「ひきこもってないで、外で遊んできなさい!」と言ってるくせに。

まあ、バーだのクラブだのに連れまわされるのに比べれば、ゲームはだいぶ抵抗が少ない。たまきは亜美の隣にちょこんと座ると、コントローラーを握った。

「いいか、必殺技の時はちゃんと技の名前を叫ぶんだぞ。そうすれば……」

「ダメージが三倍になるんですよね」

たぶん、そんなギミックのゲームはまだ開発されていない、とたまきはうすうすわかっていたけど。

 

たまきの操る女性キャラの体力ゲージがじりじりと減っていく。これで三回戦目。ここまでは操作に不慣れなたまきの二連敗だ。操作に不慣れだからと言って亜美が手加減するなんてことはない。

三回戦目にして、だいぶたまきのキャラの動きもスムーズになった。それでもまだ、意味もなくぴょこぴょこ飛び跳ねたりと、無駄なモーションが多い。

「はあっはっはー。小学生の時コイツを極めたウチに挑もうなんて、百年早いんじゃ、ぼけぇ!」

誘ったのはそっちじゃないか、とたまきは思ったけど、特に何も言わない。

「くらえ、爆裂ストレート!」

亜美の叫びとともに、亜美が操る男性キャラの必殺技が発動した。真っ赤な炎を纏うエフェクトで、パンチがたまきのキャラに迫る。ちなみに、技名がホントにそんな名前なのかはたまきには確認する術がない。

たまきのキャラのゲージはもはや三分の一ほど。この必殺技で勝利を確信した亜美。だが、たまきのキャラは絶妙なタイミングでしゃがみ、必殺技は空振りに終わった。

「なにぃ? そんなバカな! おのれぇ!」

亜美がマンガの悪役のようなセリフを吐く。

亜美は技の名前を叫びながら、必殺技に必要なコマンドを入力しているのだ。そのタイミングでよければいいということぐらい、いいかげんたまきでもわかるのだ。

画面をにらみつける亜美を横目に、たまきは頑張って一個だけ覚えた必殺技のコマンドを入力する。もちろん、無言で。

画面に必殺技の発動シーンが現れる。

「させるかぁ!」

回避しようとジャンプの黄色いボタンを亜美は押す。だけど、このゲームの仕様では、必殺技の発動シーンが流れたら、もう何を入力しても受け付けてくれないのだ。回避したかったら発動シーンが流れる直前に動く必要がある。たとえば、相手が技の名前を叫びながらコマンド入力を始めたタイミングで、とか。

たまきのキャラの華麗なるキックが炸裂した。何発も連続して相手に叩き込む技だ。

「おい! ジャンプだっつってんだろ! おい!」

亜美が無意味にボタンを連打するも、技の発動中では受け付けない。そもそも、攻撃されてから回避しようとしたって遅いのだ。亜美はこのゲームを小学生の時に極めたんじゃなかったのか。

亜美のキャラの体力ゲージが、三割ほど吹っ飛んだ。残りは半分ほどだ。これで、勝負はまだわからなくなった。必殺技のゲージはお互いにすっからかん。

「ちっ、なんでこんなにゲージ少ねぇんだよ」

それはもちろん、必殺技を放った直後だからだ。相手に何度か攻撃を当てないとゲージはたまらない。

 

最初に亜美が二連勝するものの、その後たまきが二回連続で勝ち、負けず嫌いの亜美がそのあと一勝した。ここまでで亜美の三勝二敗だ。

そこでやめておけばよかったものの、勝利に気を大きくした亜美が「よし、もっかいやろうぜ」と再戦を申し込んだところ、今度はたまきが勝った。

ここで引き下がればよかったものの、「次はぜってー勝つ!」と往生際の悪い亜美が再戦を申し込む。ところが、これまたたまきの勝利で終わり、これで四勝三敗でたまきの勝ち越し。二度目の二連敗がこたえたらしく、亜美はとうとうコントローラーを投げ捨てた。

「おまえさ」

亜美がゲーム機からカセットを引っこ抜きながら言った。

「もしかしてこのゲーム、やったことある?」

「……まあ、ちょっとだけ。……お姉ちゃんが持ってたんです」

「どーりで、おかしいと思ったよ。操作に慣れるのやけに早いし、足払いとか妙な技知ってるし」

亜美としてはゲームセンターの楽しさを理解しないたまきにゲームで負けたというのが納得いかない。憎らし気な目でたまきをにらみつける。

「なに、笑ってんだよ」

「だって私、勝ちましたから」

「おまえ、ボウリングに行ったときも、ゲーセンに行ったときも、ぜんっぜん笑わなかったのに、なんでウチに格ゲーで勝った時だけ笑ってんだよ!」

「……だって私、勝ちましたから」

「つーかおまえ、ゲームやったことあるんだ」

「……私のこと、何だと思ってたんですか」

別にたまきは江戸時代からタイムスリップしてきたわけではない。れっきとした現代っ子である。まあ、一般的な現代っ子と比べると、ゲームへの関心も、やった回数も少ないんだろうけど、それでもちょっとぐらいやったことはあるのだ。

「え、ほかなんかやったことある? 」

「えっと……」

たまきはおぼろげな記憶をたどる。

「なんかその、お城があって……」

「城が出てくるゲームなんていっぱいあるぞ」

「その、悪いやつが出てきて、戦って……」

「いや、だいたいのゲームがそうだよ」

「えっと……空が青くて……」

「空なんか世界中どこ行っても青いだろ」

「えっとえっと……その……さんディーっていうんですか? 奥行きがあって……、そうだ、お城の中に絵が飾ってあって、そこからいろんな世界に行けるんですよ」

「ははーん」

亜美はようやく、ゲームの見当がついた。

「そりゃ、ロクヨンだな、たぶん」

「ロク……?」

「友達が持ってて、ウチも結構やったよ。あれだろ、ステージの中に隠されたスターを集めて回るんだろ?」

「そうだった気が……」

たまきの記憶の底から、鮮やかなゲーム画面の記憶がよみがえってきた。

「ウチも思い出してきたぞ。タワーの上とかさ、火山の中とか、洞窟の底とか、いろんなとこにスターが隠してあんだよ。でさ、ムズいワザとかマスターしねぇと、そこいけねぇんだよ」

「たぶん、それです」

「ふーん」

亜美はゲーム機を段ボールの中にしまった。

「一年も一緒にいるのに、そんな話したのはじめてだな」

「え……」

たまきは、キッチンにある小さな窓の方を見た。

今は六月の初め。亜美と出会ってこの『城』に棲みつくようになってから、もうすぐ一年が経とうとしている。

「そっかー、もう一年になるかー」

と亜美。「もう一年」なのか「やっと一年」なのか、たまきにはちょっと判断がつかない。

「お前、この一年でさ」

「はい……?」

「カレシできた?」

たまきは答えない。

「沈黙ということは……イエスか」

「ノーですよ」

今度は間髪入れずに返した。

たまきは天井を見上げた。

この一年で、自分は何か変わったのだろうか。たまきを取り巻く環境は少しずつ変わってきているのかもしれない。だけど、たまき自身は何か変わったのだろうか。相変わらず、学校にも仕事にもいかず、ひきこもっているだけではないか。この『城』の中にいれば友達がいる。それはたまきにとってこの上ない進歩だ。だけど、そこから一歩外に出れば、どこにも行くところがない。

たまきには、この街で暮らしているという感覚が、いまだにない。

そんなことを考えていると、玄関のドアが開いた。

「ただいま~」

志保が帰ってきた。今日はどこかで新しいバイトをしていたはずだ。

「おかえりー」

「おかえりです……」

「あ、たまきちゃん、いた」

志保は靴を脱ぐと、まずキッチンによって手を洗ってから、たまきの方に近づいてきた。

「たまきちゃんさ、バイトする気ない?」

「……え?」

天井を見つめていたたまきは、驚いて顔を志保の方に向けた。勢いよく首を動かしたた目にメガネが少しずれてしまっているが、たまきは気づかない。

「お、何だ? たまきにバイト? おもしろそーじゃん」

驚きと戸惑いで固まってしまったたまきの代わりに、亜美が身を乗り出す。

「どんなバイト? ウチもやってみたい!」

「亜美ちゃんはダメ」

「なんでだよ!」

「ダメっていうより、ムリ」

「あ、あの……」

たまきが言葉を挟み込む。

「亜美さんじゃダメだったりムリだったりするバイトを、私に、ですか?」

「そ。たまきちゃんじゃないとダメなの」

そう言って志保は優しく微笑んだ。

 

画像はイメージです

時間を少し戻して二時間ほど前。時間は午後の二時ごろ。場所は志保のバイト先である、行信寺の境内である。

今日はお葬式があるわけではなく、寺の掃除が志保の主な仕事だ。箒でさっさと落ち葉を掃いている。

「志保ちゃん」

住職に声をかけられて、志保は振り向いた。寺の敷地にある墓地の中から、住職が手招きをしている。

「ちょっと来てくれるかしら」

「はい」

志保が近くまで来たのを確認すると、住職は墓地の奥にある裏門にむかって歩き出した。志保も後をついていく。

「志保ちゃんはさ、絵って得意?」

「絵、ですか?」

志保の絵は別に上手くも下手でもない。ノートの片隅にちょっとしたラクガキが描ける程度だ。

「別に、フツーだと思いますけど……」

そうこうしてるうちに、裏門を抜けて道路へと出る。

墓地の周りは高いブロック塀で囲まれている。ふつうの家の塀よりもかなり高い。おそらく、お墓が見えないようにという配慮のためだろう。

ブロック塀は、スプレーなどで描かれた落書きで、ほとんどびっしり埋まっていた。文字なのか、記号なのか、落書きの上に落書きを重ねられているので、何を描いたかもう判別不能というものがほとんどだ。

「うわぁ……、すごいですね……」

「まあ、アタシは別に好きに描けば? って思ってるんだけどねぇ」

住職の方はさほど気にしていないらしい。

「でも、今この町内で落書きに対して厳しく取り締まっていこう、ってことになってるのよ。そうなると、ほかのお店やビルが頑張って落書き対策してる中で、ウチだけ落書きを野放しにしておくわけにはいかないのよ」

「じゃあ、この落書きを消すってことですか?」

「それも考えたんだけどね、消してもどうせまた落書きされるだけみたいなのよ」

「……そうですよね」

「でね、こういうのは落書きを消すんじゃなくて、上から新しくきれいな絵を描くってやり方が効果あるみたいなの」

「あ、わかります。よく線路の下とかに絵が飾ってあったり、ペンキでカワイイ絵が描いてあったりしますよね」

「そうそう。それでね、ウチもせっかくお寺なんだから、なんか仏教画みたいなのでも描いてみたらどうかしら、と思ったのよ。仏様の絵をね、なんかこう、親しみやすい感じで」

そこで住職は肩をすくめてみせる。

「思ったんだけどね、アタシ、絵は全然ダメなのよ」

「そうなんですか」

「絵筆をゴシゴシやってるとね、つい力が入りすぎて、絵筆がバキッて折れちゃうの」

それは「絵が下手」というのとは少し話が違う気がする。そもそも、絵筆ってそんな簡単に折れるモノなのだろうか。あと、絵筆を動かす擬音が「ゴシゴシ」と歯ブラシみたいなものであってるのだろうか。

「それでね、志保ちゃんに頼めないかなと思ったんだけど……」

「あたしですか? ム、ムリですよ」

クマさんやウサギさんを描けというなら志保の画力でもなんとかなるかもしれないけど、仏像さんを描くとなるとさすがに無理である。

「志保ちゃんの周りでやってくれそうな人いないかしら。たとえば、いつも通ってる施設の人とか、別のバイト先の喫茶店だっけ?の人とか」

「し、知りませんよ」

志保の通う施設では、絵画を使った治療法は行っていない。施設の人の画力なんて知らない。ましてや、バイト先の人の画力なんてもっとわからない。カレシの田代の画力だって知らないのだ。

「それか、不法占拠してるビルの友達とか……、あらいけない。道端でする話じゃないわね」

そう言って住職は口に手を当てたのだが、志保は

「それだったら……一人……心当たりが……」

と答えていた。

 

「そ、それで……私なんですか?」

「だってたまきちゃん、絵が上手いじゃん」

「好きですけど……上手いかどうかは……」

たまきは志保から目をそらした。

「それに私、仏教画とかわかんないし……」

「そーだよ、たまきにはムリだぜ」

と口を出してきたのは亜美である。

「こいつにホトケサマなんて描けるわけないだろ。そのつもりで描いても、いつの間にか恐怖の大魔王になってしまいました、ってのがオチだろ」

たまきは無言で頷く。悔しいけれど、たぶん、その通りなのだ。

「だいたいさ、大丈夫なのか、その寺って」

「失礼だなぁ。あたしのバイト先だよ?」

と志保が口をとがらせる。

「だってさ、その寺の坊さんってのが、キャラが濃すぎて何が何だか。坊さんで、オネェキャラで、おまけにコワモテの大男って、何個属性あんだよ。多すぎるだろ。ポケモンだってタイプは二つまでだろ。情報多すぎて全然イメージがわかねぇんだよ」

「知らないし」

ふつうは、情報は多い方がイメージがわきやすいのではないだろうか。

志保はたまきの方を向いた。

「仏教画だなんて堅く考えなくていいんだよ。住職さんは親しみやすくって言ってたから、なんかこう、ほにゃーっとした、もにゃーっとした絵の感じで」

志保は両手を広げながら言った。だが、志保の言い方は漠然としていてあまりイメージがわかない。

たまきは志保を見るでもなく、亜美を見るでもなく、テーブルの上に置かれた水色の置時計を見ていた。なんだか、長身が逆回転を始めたかのような錯覚を覚える。それでいて、秒針はいつもより早く動いているような気もする。

「ラクガキの上から……」

たまきは呪文を唱えるようにつぶやいた。

「私……その……やってみます……」

という声は、音楽で言うところのデクレッシエンド、つまり語尾になるほど音が小さく、聞き取りづらかった。

「え?」

「その……バイト……やります」

たまきの答えは亜美にとって、そしてバイトに誘った志保にとっても意外だったらしく、目をぱちくりしている。

「おい、たまき、イヤならイヤってはっきり言っていいんだぜ」

「ちょっと、なんであたしがたまきちゃんに無理強いしてるみたいな言い方するの?」

「あ、あの、私、やります……! やってみたいです……!」

たまきは教室の一年生のように、勢いよく手を挙げた。

「それじゃ、住職さんに電話しておくね」

「でもさおまえ、前に先生に面接の練習してもらった時、ダメダメだったろ。大丈夫なのかよ」

と亜美が、自分は舞にブチギレられて履歴書をゴミ箱に叩き込まれたことを、それこそ記憶ごとゴミ箱に放り込んだかのような口ぶりで言う。

「そ、それは……」

と不安げに志保を見るたまき。

「うーん、面接なんてあるのかなぁ。そもそも、あたしも面接してもらってないし」

「あ、あの、そんなに絵が上手じゃなくてもいいんですよね……」

「大丈夫。ほにゃーっと、もにゃーっと、描けばいいんだよ」

「ほにゃーっと、もにゃーっと……」

たまきはそれこそ念仏のように唱えた。

 

たまきが志保に連れられて行信寺に行ったのは、それから幾日か経ってだった。天気予報では九州が梅雨入りしたとか言ってたけど、東京はまだからりと晴れている。

墓地にある裏口から二人は境内へと入る。

住職からは「履歴書はいらないけど、描いた絵があるなら持ってきてほしい」と言われたので、リュックサックにいつもののスケッチブックが入っている。もっとも、学校に行かず仕事もせず、公園で絵を描いていることしかしてないたまきにとっては、このスケッチブックこそが履歴書なのかもしれない。

墓地を抜けたところで住職が待っていた。なるほど、話に聞く通り、いかつい顔をした大男だ。だけど、住職はニコニコと笑顔で待ってていたため、怖い印象を受けない。

あれっ、とたまきは思った。なんかこの人に見覚えがある。どこかで会ったりしていただろうか。だけど住職が、

「はじめまして」

とあいさつしたので、たまきはそれ以上考えることはやめた。

「住職の知念です。あなたがたまきちゃんね」

たまきは無言で頷く。

「あらあら、かわいい子じゃない」

ここでもまた、クラゲのかわいいだろうか。

たまきの顔に浮かんだ不安の色を察したのか、住職は口に手を当てた。

「あらやだ。最近じゃそういうのってセクハラになっちゃうのよね。ごめんなさいね。嫌だわぁ、アタシったら」

たまきは、志保の半歩後ろに下がり少しだけ志保の体で身を隠すように立つと、志保の服のすそを軽くつかんだ。それを見て住職はまた困ったような笑みを見せる。

「そうよねぇ。こんなデカいおじさんがオカマ口調でしゃべってたら、怖いわよねぇ。いいのよ気にしなくて。アタシは慣れてるし、その反応の方が普通だもの」

違うのだ。たまきはオネェキャラだからだとかコワモテだからだとかではなく、初対面の人間には誰に対してもこうなのだ。そのたまきの態度がどうやらいらぬ誤解を与えてしまったらしい。

「それで、住職さん」

と切り出したのは志保である。

「たまきちゃんのバイトの件なんですけど……」

「そうそう。お仕事の内容はもう聞いてるわよね」

「え、えっと……」

たまきが口をパクパクしながら不安げに志保を見る。

「あ、はい。説明しました。さっき入ってきた裏口の壁に落書きがいっぱいあったでしょ? あの上から新しく絵を描く仕事。大丈夫だよね、たまきちゃん」

たまきは無言でうなずく。

「大丈夫みたいです」

「たまきちゃんは絵が好きなんだって?」

「えっと……その……」

「中学のとき美術部だったんだよね? それで今でも好きでよく描いてて」

志保が代わりに答える。

「これまでにバイトの経験はあるのかしら?」

「その……えっと……」

「今回が初めて、だよね?」

「……です」

腹話術の人形みたいに口をパクパクさせるたまきを住職は微笑みながら見ていた。

「じゃあ、絵を持ってきてくれてるのよね。見せていただこうかしら」

たまきはリュックからスケッチブックを取り出すと、いちど志保を見て、志保が頷くのを見てから、住職に渡した。

住職はスケッチブックをめくると、驚いたように眉を引き上げた。驚きの理由は想像がつく。「まさかこんな画風とは」と言ったところだろうか。

「なるほどなるほど」

と、住職はスケッチブックをめくりながら一人うなずく。

「それでお仕事の内容なんだけどね、まず、どんな絵を描くか簡単なスケッチを作ってもらうわ。そうね、ちょうどこんな感じで、鉛筆で描いてもらう形で。アタシが大まかなイメージを伝えてそれを絵にしてもらう形になるけど、まあ、絵の技術的なこととかはたまきちゃんにお任せするわ。必要な機材はアタシの方で手配しておくけど、アタシも美術には疎いから、そういうことも含めていろいろと打ち合わせしないといけないわね。もうじき梅雨が来るから、その間にそういうことは済ませちゃいましょう。梅雨が明けたら、作業に取り掛かってもらうわ」

「あの……その……えっと……」

たまきはまたしても不安げに口をパクパクさせる。それを見た志保が何かを察したのか口を開いた。

「あ、あの、住職さん。バイト代ってどんな感じですか?」

「そうそう、その話もしなくちゃね」

と住職は話し始めた。たまきは志保の横で

「あの、その、ちがう……」

とごもごも言っていた。

「こんな感じで大丈夫かしら?」

「たまきちゃん、バイト代、今の話で大丈夫?」

「え、えっと、その……」

「うん、初めてだからよくわかんないよね。まあでも、妥当な金額だと思うよ。っていうか、あたしより多いんじゃないかな」

「えっとえっと……」

たまきはそれとは違うことがさっきから聞きたいのに、志保はなかなか翻訳してくれない。そこでたまきは腹をくくった。これは、自分がちゃんと日本語でしゃべるしかないんだ、と。

「あ、あの、私って、採用なんでしょうか……」

住職は最初、きょとんとしていた。なにせ住職はこの時初めて、「あの」とか「えっと」以外の、ちゃんとしたたまきの声を聴いたのである。最初誰がしゃべってるのかわからなかったのだ。

少し間をおいてから、住職は

「もちろんよ。あなた、なかなかいい絵を描くじゃない。声もカワイイし。もっと自信もっていいわよ」

と言ってから、

「あらヤダ、今のもセクハラになっちゃうのよね」

とひとり呟いた。

 

たまきと志保は改めて住職に連れられて、裏の通りのブロック塀の前に立った。スプレーでのラクガキが所せましに描かれて、何が何だかわからない。

「まずはこの壁一面を青いペンキか何かで塗りつぶして、その上から絵を描いてもらおうかと思ってるの」

と住職が言う。

たまきは視線を壁のあちこちに走らせていた。

もちろん、ここに例の鳥のラクガキがないかを探すためだ。だが、あまりに多くのラクガキが入り乱れているので、一瞥しただけではあるかどうかわからない。

それでも、こういう場所に引き寄せられたということは、やっぱりあの鳥のラクガキが自分を呼んでるんじゃないか、たまきにはなんとなくそう思えるのだった。

 

つづく


次回 第41話「ローラーのちハケ、ところにより筆」

ついにたまきのバイト生活が始まる! 続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第39話「お葬式、ところによりバスケ」

 

お寺でバイトを始めた志保、そして、あいかわらずラクガキ探しをするたまき。あのキャラの過去にも少し触れるかも? 「あしなれ」第39話、スタート!

第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです

「それじゃ、今までカレシがいたことないの?」

ミチのお姉さんの問いかけに、たまきは無言で頷いた。

「付き合うまでいかなくてもさ、デートしたりとかさ」

またしてもたまきは無言で、首を横に振った。

「じゃあ、このまえミチヒロと出かけたのが、ほんとに初めてってこと?」

たまきは頼りなさげに、うなずいた。

ここはスナック「そのあと」、いまはランチタイムである。

ランチの焼きそばを食べに来たたまきに、ミチのお姉ちゃんは彼女の恋愛遍歴を聞いていた。まじめでおとなしそうな印象だけれども、同年代の男の子の家にいきなり転がり込んでお泊りする度胸を持っている。見た目に反して、実は意外と男を手玉に取る魔性の女なのではないか……。

と思って聞いてみたのだけれど、さっきからたまきは、申し訳なさそうな返事ばっかり。

「クラスの男子からさ、かわいいとか、言われなかった?」

「とくには……」

「え~? たまきちゃんのクラスの男子、見る目ないなぁ」

見る目があるどころか、たまきが彼らの視界にはたして入っていたのかどうか、疑わしい。

「片思いとか、それくらいあるでしょ?」

「……別に」

「……この人かっこいい、とかさ?」

「かっこいい……?」

「クラスの男子じゃなくてもさ、芸能人とかでさ、いない?」

「かっこいい……」

たまきはしばらく、宙を見つめていたが、

「……ライオン……とか?」

ダメだこりゃ。

「たまきちゃんぐらいの年ごろだったら、ふつうはもっと男子に興味あるんじゃないの?」

「私は……ふつうじゃないので……」

なんだか尋問しているみたいで、ミチのお姉ちゃんは気が引けてきた。

話題を変えようと、たまきの荷物に目を向けてみた。グレーのリュックサックの中から、丸めた白い紙が飛び出している。

「その紙は何? 宝の地図か何か?」

と半ば冗談めいていってみた。それに対してたまきは、

「まあ、それみたいなものです」

と、少し意外な返答をした。

「え、ほんとに宝の地図なの?」

「まあ、地図であることは間違いないんですけど……」

「へえ。見せて見せて」

たまきはカウンターの上に地図を広げた。例の「鳥のラクガキ」の場所を示した地図である。

その横にたまきはスケッチブックを置くと、たまきが模写した鳥のラクガキの絵を見せながら説明した。

「へぇ。こんなところにそんなものあったかなぁ?」

ミチのお姉ちゃんは地図の中の自宅に近い部分を見ながら言った。

そこにドアが開いて

「姉ちゃん、メシ~。あ、たまきちゃん来てるの」

とミチが入ってくる。

「……こ、こんにちは」

「……何してんの? 二人とも」

ミチはカウンターの上の地図を見て、次にたまきと姉を見て、首をかしげる。

「あ、わかった。これ先輩たちのナワバリの地図でしょ?」

なんか前にもそんなことを言われた気がする。

いま、ミチのお姉ちゃんにした説明を、もう一回ミチにするのは面倒だな、とたまきが思った時に、お姉ちゃんのほうがスケッチブックを手に取り、

「なんかね、こういうラクガキ、探してるんだって」

「ラクガキ?」

ミチがスケッチブックの鳥をのぞき込み、もう一度首をかしげる。

「そ。あんた、見たことない?」

「えー、ないけど」

そういうとミチはたまきの方を向いた。

「ラクガキなんて探して、どうするのさ」

「どうする……?」

どうすると聞かれても、困る。

返事のないたまきに、ミチも興味を失ったのか、たまきのすぐ隣のイスに座ると、

「姉ちゃん、メシー」

とだけ言った。

「ちょっと待って」

「待ってるから、メシー」

「イヤそうじゃなくて、この絵、よく見せて」

お姉ちゃんは再びスケッチブックを手に取り、鳥の模写を見つめる。

「姉ちゃん、メシー」

「うるさい。そこら辺の草でも食ってなさい」

お姉ちゃんは弟を軽くあしらうと、たまきの方を向いて、

「もしかしたらこれ、見たことあるかもしれない」

と言った。

「ほんとですか?」

「うん、変なところにラクガキあるなぁ、って思ったやつが、こんな絵だった気がしてきた」

ミチのお姉ちゃんは、今度は地図の方を向く。

「この地図で言うとね~……」

と、地図の下の方を指でなぞっていたが、

「あ、これ、地図の外側だ」

と、お姉ちゃんは、地図からはみ出して外側を指さした。

「このへんの線路沿いにね、線路をまたぐ道があってね、その下に公園があるのよ。そこに階段があってね、そこの天井にこんな絵があった気がするのよ」

説明を受けたけど、たまきにはいまいち、場所の状況がわからない。

「ミチヒロさ、知らない。線路沿いにあっちの方に行くと、橋の下に公園があるの」

「えー。知らねぇけど」

いまだ空腹のミチは口をとがらせながら答える。

「橋はわかるでしょ。線路をまたぐ道路のやつ」

「二つとなりの駅にある、あれ?」

「そーそーそーそー。あんたさ、いまからそこにたまきちゃん連れてってあげなよ」

「え?」

「は?」

ミチとたまきが、同時に互いを見て、それからお姉ちゃんの方を見る。

「やだよ。オレ、これからメシなのに。姉ちゃんが連れてってあげなよ」

「あたし、これから夜の営業に備えて寝るんだもん。そんなとこまで行ってる暇ないって」

「俺のメシ、どうすんのさ」

「だから、そこら辺の草でも食べてなさいって」

「あ、あの、私、迷惑になるんで、もう帰り……」

「いーのいーの気にしないで。どーせこいつ、今日は何の予定もないし、自分の部屋にこもって、エロ本読むくらいしかやることないんだから。だったら、リアルな女の子と一緒にいる方が、まだ健全でしょ」

エロ本読む代わり扱いされるのは、たまきにとってメーワクなのだが。

 

線路沿いにあるんだったら線路沿いに歩いて行けばいいんだから、案内されなくたってわかる。と思っていたたまきだったが、それは少し考えが甘かったようだ。どうやらまず線路沿いに道が続いていないらしく、確かにミチに道案内してもらわないとたどり着けなさそうだった。ミチは家の近くで買ったハンバーガーの包みを抱えて、むしゃむしゃとハンバーガーを食べながら歩いている。たまきはその少し後ろを、うつむきがちにとぼとぼと歩いていた。

「そうだ、もっかい地図見せて」

ハンバーガーを食べ終わったミチが、口のケチャップを拭きながらたまきの方を向く。たまきは少し不服そうに、リュックから地図を取り出して見せた。

「なんかさ、小学校の授業でさ、こういう地図作らなかった?」

たまきの反応はない。

「たまきちゃん、小学生みたいなことやってるよね。かわいい」

こいつケトバしてやろうか、とたまきはミチをにらみつけた。

 

画像はイメージです

行真寺は都心のど真ん中、何車線もの車が走る大通り沿いにある。境内は木々に囲まれ静けさに包まれ、騒がしい都市の中での一つのアジールになっている。

ところが、今日に関しては少々騒がしい。多くの人が出入りしている。どうやら、誰かの葬儀が行われているらしい。

志保がこの寺でバイトを始めてから十日ほどが経った。これまでに三回ほど、簡単な掃除や片付けのバイトをしていたけど、お葬式の対応は今日が初めてだ。

人と接すること自体は、普段の喫茶店のバイトでやっているので問題はない。むしろ、得意分野である。ただ、お葬式となると少し勝手が違う。

喫茶店の時は「明るく笑顔で」が基本中の基本なのだけど、お葬式の受付でニコニコ笑っているのは不謹慎だろう。かといって、仏頂面というのも礼儀に欠ける。住職からは「涼しげな笑みでお願いね」といきなりハードルの高いことを言われた。とりあえず、喫茶店での営業スマイルをかなり水で薄めた、そんな顔をしている、つもりだ。寺の備品にあった女性ものの喪服を借りて、髪を後ろで束ねて、志保は受付の応対をしていた。

お葬式の主役、という表現が正しいのかはわからないけど、遺影で見る故人はけっこうな年のおじいさんらしい。「西山家葬儀」と書かれているので、きっと西山さんなんだろう。参列者は家族以外にも仕事関係と思われる人がかなりいる。

それにしても、ずいぶんこわもての人が多い気がする。もちろんお葬式なのだからにこやかにというわけにはいかないけど、悲しいから神妙な顔をしているというよりも、もともと眼光鋭い人ばかり集まってる、そんな気がするのだ。遺影の中の故人にしても、一応笑っているのだけど目が笑っていない。その眼光の鋭さを隠しきれていない、そんな感じがする。

今は住職の読経も終わり、出棺前の休憩時間、といったところだろうか。志保のもとに住職がやって来た。

「この後の確認、いいかしら?」

「あ、はい」

「このあと出棺したら、お片付けね。祭壇は業者の方が片付けるから、志保ちゃんはイスやテーブルの方をお願いね」

「はい」

「よかったわぁ。やっと3日以上続いてくれるバイトさんが見つかって」

そんな会話をしているとき、寺の入り口に黒い車が横づけるのが見えた。中から喪服姿の男が数人おりてきて、こちらに向かってくる。

もう出棺間近なのに、今ごろ弔問客だろうか、と志保が受付の準備をし始めた時、住職がそれを手で制した。

「ここはもういいから、片付けの準備に入ってちょうだい」

「え、でも、いま参列の方が……」

「いいから」

住職はそれこそ涼しげな笑みでそう言った。わけがわからないが、とりあえず志保はその場を離れる。

だけど、やっぱり気になる。少し歩いてから志保は振り返った。

「住職、久しぶりじゃな」

新たに現れた参列客もまた、眼光の鋭い壮年の男だった。鼻の下の髭がまたなんとも言えない威厳を醸し出している。

「お久しぶりでございます。そろそろ出棺よ?」

「その前に、死んだオヤジさんに最期の挨拶でもと思うてな」

やけに声の大きい男である。その声量だけで相手を威圧する。おまけに、コワモテだ。確かに、志保が受付をしていたら、それだけでビビってテンパってしまったかもしれない。

とその時、寺の事務所の入り口が、ガラガラとけたたましい音をたてて開いた。そして、中にいたはずの参列客が数人、雪崩のように志保の横を通り、受付の方へと押し寄せた。

その中の一人が怒鳴る。

「東野、貴様、どの面下げてきたんだ!」

これまたとんでもない声量で、驚きのあまり志保は数センチ飛び上がった。怒鳴った男は四十代ぐらいだろうか。赤っぽい色付きのメガネをしている。例にもれず、眼光は鋭い。

一方、怒鳴られた方のコワモテヒゲおじさんは、全く臆することなく、メガネの方をにらみ返した。

「なんじゃ、わしかてオヤジさんには世話になったんじゃ。最期にあいさつにっていうのが礼儀じゃろ」

「おんどれ、何が礼儀だ! 貴様が裏切ったせいで、親父は死んだんだ!」

『おんどれ』だなんて日本語が生で使われる場面を、志保は初めて目撃した。

気づけば境内は、コワモテヒゲおじさんの一派と、コワモテメガネおじさんの一派が睨み合う、まさに一触即発という状態になった。戦国時代ならこれから互いに名乗りを上げるところだけど、名乗りどころが銃声が響き渡りそうな雰囲気である。

志保はそばにあった松の木の後ろに隠れて、なるべく自分の気配を消すように努めた。亜美の持つ「トラブルをおもしろがる才能」か、たまきの持つ「気配を完璧に消す才能」のどっちかが欲しいところだ。

そこに響く「パンッ!」という甲高い音。一瞬だけまさか!と思ったけど、それは住職が手をたたいた音だった。

「まあまあみなさん。故人さまもそりゃ生前はいろいろございましたけど、すでに拙僧による読経も終わり、あらゆる煩悩を捨て去り、これから仏様の御元へと旅立たれる時よ。残された方々がこのようにいがみ合っていたら、故人さまも安らかな成仏ができないわ。みなさん、いろいろ遺恨はございましょうけど、故人さまを思う気持ちは一緒ということで、ここはひとつ穏便に……」

「住職、これはわしらの問題じゃ! あんたはひっこんどれ!」

ヒゲおじさんが住職をにらみつけた。

「そうだ、あんたが口出しする問題じゃないんだよ!」

メガネおじさんが同意する。いがみ合ってるわりに、ヘンなところで意見は一致するらしい。

そしてメガネおじさんは住職に一歩詰め寄ると、

「だいたい、オカマのボウズなんて、キモいんだよ! バケモノが!」

と吐き捨てるように、それこそ、噛んでいたガムやたばこをそのままポイ捨てするかのように、言い放った。

志保の立っている場所からは住職の顔は見えなかった。松の陰に隠れているので、その松の木が邪魔してたのだ。だから住職の表情はわからないけど、さすがにこれはマズいんじゃないか、と肝が冷えた。

木の陰から志保はそっと住職の顔をのぞき込む。住職の横顔は最初、志保にはひきつっているように見えた。

だが、次の瞬間、住職は笑い始めた。最初は笑いをかみ殺すように。そして、次第に声を上げて笑い始めた。引きつっていたのはどうやら、笑いを耐えている表情だったようだ。

「な、何がおかしい。男のくせに女みたいにしゃべったり、不自然で気持ち悪いと思うのは当然だろ! みんなそう思ってるんだよ!」

メガネおじさんはさらに悪態をついたけど、それを聞いても住職はますます声を上げて笑うだけだった。

「ごめんなさい。ごめんなさいね。だけど、おかしくて……」

どうして住職が謝るんだろう、と志保は思った。

「だけど、ここまでストレートに言われたのも久しぶりで、まあたしかに、みんな口に出さないだけで心のどこかでは思ってるんだろうけど……」

そう言いながら住職は、メガネおじさんの真正面に立った。

「いいかしらボウヤ。『みんなそう思う』ってことはね、アタシだって自分を客観的に見たらそう思う、ってことなのよ。自分はふつうじゃない、ほかの男子と違う、おかしい、異常だ、バケモノ、キモチワルイ。悪いけどね、あなたが思いつく程度の悪口なんて、アタシがアタシ自身に何千回も自問自答してきたことなの。何度も何度も自分を否定して否定して否定して否定して、それでも答えが出なくて、そういう月日を積み重ねて、アタシは今ここに立ってるわけ。なのにいまさら、レベル1みたいな悪口を、さも会心の一撃みたいな顔してぶつける人がいるんだって思うと、おかしくてね。レベル1なのに」

住職は笑いながらそう言った。意地でも、皮肉でもなく、本当におかしくて笑っているように見えた。

「相手のプライドをへし折りたかったらね、もっとウィットにとんだ悪口を言わないとダメよ。相手が何度も自問自答してきたような言葉じゃなくて、相手がずっと耳を塞いできたような痛烈な一言を、ね」

そういうと住職は、メガネおじさんにそっと耳打ちするように言った。

「だからボウヤはいつまでもボウヤのままなのよ」

メガネおじさんはすでにプライドをへし折られたような顔をしていた。今言った住職の言葉のどれかが、おじさんがずっと耳を塞いできた言葉なのだろう。

「それと、あなたは『不自然で気持ち悪い』っていうけど、この街のどこに自然があるのかしら。地面はアスファルトに覆われて、木よりも高いビルに囲まれて、車が排ガスを撒き散らして走る、こんな不自然な街で暮らしてて、気持ち悪くないのかしら、ボウヤ」

メガネおじさんはもう、言い返す気力はないらしい。

 

やがて棺は霊柩車という排ガスを撒き散らす乗り物に乗せられ、アスファルトの道路の上を走りながら、ビル街の彼方へと消えていった。一触即発状態だった弔問客たちも、少し頭が冷えたのか、出棺と同時にほとんどが無言のまま寺を後にした。

「ふぅ~」

片付けが終わると志保はようやく緊張が解け、本堂の壁によりかかった。

「だいじょうぶかしら?」

と住職が尋ねる。

「ま、まあ、何とか……」

「そう。コワいところに居合わせちゃったから、またバイトさんにやめられちゃうのかと思ったわ」

「まあ、あたしもそれなりに修羅場はくぐってますから……」

志保は去年のクリスマスのことを思い出しながら答えた。

「でも、さすがに本物のヤクザの人たちを見たのは初めてだったから……」

「え?」

とそこで住職がしばらく何も言わなかったが、やがてさっきのように声を上げて笑い始めた。

「え?」

今度は志保が怪訝な顔をする番だ。

「だってあの人たち、歓楽街の暴力団とかじゃ……」

「ちがうちがう。あの人たちは都議会議員よ」

「え?」

「亡くなった西山先生っていうのが5年くらい前まで議員やってて、あそこにいた人のほとんどが、そういう関係の人たちよ」

「え? だって、あのメガネの人が『オヤジ』って……」

「だから息子さんよ。もともと父親の秘書をやってたんだけど、今は後を継いで都の議員をやってるわ。でもまあ、あのくらいの言い争いに勝てないんじゃ、大成しそうにないわねぇ」

志保はてっきり、杯を交わした「オヤジ」だと思っていたのだが、どうやら本当の親子だったらしい。

「でもだって、さっきの人が裏切ったせいで西山さんは亡くなったって……?」

志保の頭の中に、西山とかいう人に東野とかいう人の撃った銃弾が当たって倒れこむ、「仁義なき戦い」みたいなシーンが浮かび上がる。ちなみに、志保は「仁義なき戦い」を見たことは、ない。

「西山先生と東野先生は同じ党に所属していたのよ。それで、どこかの区長選の時に、その党からは西山先生が推薦した人を出馬させることになったの。ところがそこに東野先生も出馬を表明したのよ。つまり、同じ党で票を奪い合うことになったってわけ。結果、有利と思われてたその党は表を分け合う羽目になって、二人とも落選。別の党の人が区長になったわ。そのことで西山先生と東野先生は大揉めして、それから体調が悪くなった、らしいのよ」

「え、じゃあ、あの人たち、政治家だったんですか?」

「だからそう言ってるじゃない。まあ、都議会議員じゃ、若い子は知らないわよねぇ。地盤もこの辺りじゃないし」

「だって……その……、目つきが悪かったというか、顔がコワかったというか……」

住職もコワモテだけど、そういう生まれついてのコワモテと言うよりは、彼らはなんだか銃弾の雨を潜り抜けた末のコワモテ、そんな風に志保には見えていた。

「あら、品性がなくたって選挙には受かるわよ」

住職はさもありなんといった感じで答えた。

「でも、政治家の人にも……ああいう差別的な考え方の人っているんですね」

「逆よ逆。政治家なんて、あんなのばっかりよ」

住職は、もうすっかり慣れた、とでも言いたげな表情をした。

「そうなんですか?」

「そうよー」

住職は後片付けの手を止めることなく答える。

「志保ちゃんはそれなりに勉強ができる子と見たわ。だったら日本で、民主主義の国で政治家になるのに必要な要素って、何だと思う?」

「え、えーと……」

志保は答えあぐねた。質問の答えがわからないのではない。いくつか答えが思いついて、絞り込めないのだ。

「じゃあ、聞き方を変えるわ。政治家になるには、選挙に勝たなければいけない。選挙に勝つためには何が必要かしら?」

「そ、それは、やっぱり一票でも多く票をもらうことじゃ……」

「そうね。より多くの人に、この人の考え方がいいって共鳴してもらうことね」

住職は優しく微笑みながら、志保の方を向いた。

「つまり、多数派であること。これが絶対条件よ」

確かにそうなのかもしれない。志保も政治に詳しいわけではないけど、たぶん、同世代の子よりもニュースを見る方だ。確かに、オネエの総理大臣も、耳の聞こえない官房長官も、見たことがない。

「多数派の人が、私はみんなと同じ多数派です、って宣言して、やっと当選できるの。もちろん、少数派の立場から議員になる人もいるけど、でもよくテレビに出るような有名な先生たちって、だいたいが『多数派のおじさん』なのよ」

それにね、と住職は続けた。

「政治家の仕事なんて、急速に変わってく社会がこれ以上変わらないようにブレーキかけることなんだから。むしろ、頭が固くないとやってけないのよ」

志保には、住職の言ってることがよくわからなかった。社会を変えていくのが政治の仕事だと学校では教わったのだが。

「もしそうだとしたら……、社会はいつまでたっても変わらないってことですか?」

「でもね、社会は変わるわよ。かってにどんどんね」

住職はふと、どこか宙を見るような眼でつぶやいた。

「志保ちゃんは携帯電話持ってるかしら?」

「あ、はい」

「どう?」

「……どう、ってえっと……?」

「携帯電話持ってて、どう?」

「……どう?」

どうと言われても、困る。みんなが持ってるから持ってる。それだけだ。

「あたしが子供の頃は携帯電話なんてなかったわ。でも、いつの間にかみんな持ってるのが当たり前になってる。この世は諸行無常。色即是空。誰か偉い人が変えるわけでも動かすわけでもない。常に水のように移り変わっているのよ。もちろん、携帯電話は誰かが作ったものなんだろうけど、でも、それを持たなきゃいけないって政治に強制されてるわけじゃない。みんながケータイ欲しいなぁ、便利だなぁ、って思ってたら、いつの間にか持ってるのが当たり前になってた。そんなもんよ」

いつの間にか、本堂は葬儀仕様のモードから、普段通りの様子に戻りつつあった。

「いまから十年くらいしたらきっと、アタシみたいな日陰者でももうちょっと住みやすい社会になってるわ。でもそれは、誰か偉い人が変えるんじゃない、みんなが少しずつそうなったらいいなって思って、少しずつ変わっていくのよ。こうやってしゃべりながら作業してる間に、すっかり片付けが終わってるみたいに、ね。さてと、今日のバイト代を渡さなくちゃね」

そういって住職はパンッと手を叩いた。

 

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たまきとミチは十五分ほど歩いていた。下り坂だ。線路から離れたところを歩いていたのだけど、坂の下に再び線路がまた見えてきた。駅舎があるのもわかる。

その駅舎のさらに奥に、線路をまたぐ大きな橋が架かっていた。

「姉ちゃんが言ってたの、あの橋だよ。あの下に公園があるんじゃないかな」

「……そうですか」

ふだんあんまり歩かないたまきはもう疲れ始めていた。そもそも、スナック「そのあと」に行くまでにけっこう歩いているのだ。帰りはお金を払ってでも電車に乗ろう、とたまきは考えていた。

たしかに、橋の真下には金網に囲まれた小さな公園があった。公園の中には階段があって、どうやら橋の上の歩道に出られるらしい。遊具は子供が乗るのかゾウとパンダの置物がある。あとベンチがいくつかと、バスケットのゴールがぽつんと立っているだけ。

「でさ……」

公園の中に足を踏み入れながらミチが言った。

「姉ちゃん、どこにそのラクガキあるっつってた?」

「えっと……」

どこだっけ?

公園にたどり着くことばっかり考えながら歩いていたら、いつの間にか、公園のどこでミチのお姉ちゃんはラクガキを見たと言っていたのか、すっかり忘れてしまっていた。

たまきはとりあえず周りをきょろきょろと見渡したけど、それらしきものは見つからない。だいたい、これまでのラクガキもそんな簡単には見つからないところにばっかりあったのだ。今回だってちょっと見渡して見つかるような場所にあるはずがない。

とはいえ、モノがごちゃごちゃとあるような公園でもない。少し気合を入れて探せば、すぐに見つかるだろう。

たまきはベンチの後ろに回り、下から覗き込み、バスケットのゴールの周りをぐるぐる回り、パンダのおしりを覗いて、ゾウの鼻の下をうかがって、それから階段の周りをぐるぐる回った。一方のミチはたまきよりも背が高いので、もっぱら天井、つまり橋の裏側の部分を注意深く探した。

「ありました?」

たまきがミチのそばによって尋ねる。

「いや。つーか、あそこはさすがに届かねぇよ」

天井はミチの身長のさらに倍以上ある。

「でも、いつもそういう場所にあるんです」

「そんなの、どうやって描くのさ」

たまきは、少しだけ黙った後、答えた。

「魔法でも使ったんじゃないですか?」

半分は冗談のつもりである。

たまきは公園の中をもう一度ぐるぐるとまわる。ミチもそのあとにくっついて歩く。

それから、たまきは階段を上り始めた。足元を注意深く見るけれども特にそれらしきものは見つからない。

やがて橋の上に出た。橋の上はけっこうな大通りらしく、車がバンバン通る。

エンジン音があまり好きではないので、たまきはすぐに引き返した。ミチのお姉ちゃんは「公園」と言っていたのだ。橋の上の大通りは対象外と見ていいだろう。

階段の一番上からもう一度公園全体を見下ろすけど、やっぱり何も見つからない。

そうして今度は天井を見上げる。天井はミチがさっき探していたはず……。

「……あっ」

見つけた。

例の、鳥のラクガキである。

階段の真上にある天井に描かれていた。ミチのいた場所からはちょうど階段そのものの陰になって見えなかったのだろう。

たまきは手を伸ばしてみた。全然届かない。ここにラクガキするにはやはり脚立が必要だろう。

次に足元を見る。階段の中ほどだ。こんなところに脚立を立てて、果たして安定するのだろうか。

たまきはもう一度天井を見上げて、ラクガキを見た。少し煤けていて、ほかのラクガキよりも古い印象を受けた。

「あの、ミチくん、ありました……!」

たまきはそう言いながらミチの姿を探した。

たまきのいる場所から、踊り場を挟んでさらに下の段から、ミチはぼんやりと公園のバスケットがある方を眺めていた。

「あの……、ラクガキ、ありました」

たまきはとててと階段を駆け下りてミチのいる段の近くまで行った。

「あ、そう。見つかったの。よかったね」

ミチはもうすっかりラクガキへの興味を失っているようだった。いや、そもそもミチはここに来ること自体乗り気じゃなかった。もともとラクガキに興味なんてなかったはずだ。一生懸命探してるたまきの方がヘンなのだ。ミチがラクガキに興味を持たないのは別に不思議じゃない。

たまきにとって不思議だったのは、ミチの興味が公園にあるバスケットのゴールへと注がれていたことだった。

「その……バスケのゴールがどうかしたんですか?」

そう言いながらたまきは、どうかしてるのはラクガキなんかを追いかけまわしてる自分のような気がしてきた。

「いやさ……」

そこでミチは少し言葉を切って、一息ついてから続けた。

「姉ちゃん、ここで何してたんだろうなぁ、って思って」

「はぁ」

ミチの言ってる意味がたまきにはいまいちわからない。

「姉ちゃんさ、たまに原付で出かけるんよ。で、三十分ぐらいして帰ってくるんだけどさ、何か買ってくるわけでもねぇし、どこ行ってるんだろう、とは思ってたんよ」

「……はぁ」

「もしかしてさ、ここでバスケの練習とかしてたんじゃないかな、って思って。だって、姉ちゃんがこの辺に来る用事なんて、ほかにないもん。買い物はだいたい家の近くのスーパーで済ませてるし。スクーターの座席の下なら、小さめのボールだったらしまっておけるだろうし。」

たまきは、頭上のラクガキを見やった。たしかに、ちょっと通りがかったぐらいではなかなか見つけられないだろう。バスケの練習をしててみつけた、というのはありえない話ではない。

「そういえば……」

と、たまきは切り出した。

「お姉さんのお店って、バスケットに関するものがけっこう置いてありますよね」

「姉ちゃん、バスケやってたんよ。小中で。けっこうすごくてさ、キャプテンやってて、県大会でベスト4に入ったんだぜ」

「ふ、ふーん」

それがどれだけすごいことなのか、たまきにはピンとこなかったけど、とりあえずわかっているふりをした。

「試合も何回か見に行ったけど、姉ちゃん、めっちゃ活躍してたんよ。あのまま高校に行って続けてたら、もしかしたらいいとこまで行けたんじゃないかなぁって思うんだよ」

「どうしてやめちゃったんですか?」

「だって、高校いかなかったんだもん。中学出てすぐ働き始めたから」

ミチは、バスケのゴールを見つめながら言った。

「俺は高校いきなよって言ったし、施設も高校までの学費は出してくれるんだけどさ、姉ちゃんは早く働いてお金を稼ぎたいからって、就職したんだよ」

ミチは、ゴールから目線を落とした。

「……もしかしたら、俺のせいなのかもしれない」

「え?」

「そん時、オレ、まだ小学生だったから。姉ちゃん一人だけならもしかしたら高校いってバスケ続けてたかもしれないけど……。施設だって金持ちの道楽でやってるわけじゃないからさ、いつ潰れて俺ら放り出されるかもわかんないじゃん。それにさ、スポーツってカネかかるんだよ。部費だ、合宿費だ、遠征費だってさ……。施設のお金をそういうことに使うんだったら、俺や下の世代の子供たちのためにって考えてたのかも……」

ミチは、階段を降りて歩き始めた。たまきもその後ろをついていく。

歩きながらも、ミチの視線はバスケのゴールへと投げかけられていた。

「姉ちゃんはさ、バスケのことはもういいって言ってんだけどさ、店の中にバスケのグッズ置いたりしててさ、もういいっていうふうには俺には見えねぇのよ。……やっぱここでシュート練習とかしてたのかもなぁ」

たまきもゴールに目をやった。バスケットボールが放物線を描きながら、リングの真ん中に吸い込まれていく光景を思い浮かべながら。

でも、ミチのお姉ちゃんが一体どんな顔をしてシュートを打っているのかは、どうしても思い浮かべることができなかった。

 

帰りのたまきは電車に乗った。

ほんの十分ほどでいつもの駅に着いた。

駅の中は色んなキラキラしたものであふれている。

どこかの女優さんを起用したポスター。

映画の宣伝ポスター。

本屋さんに置いてある漫画の最新刊。

これらの後ろで、一体どれだけの「あきらめた人たち」がいるのだろうか。それも、自分ではどうしようもない理由で。そもそも、その人たちは本当にあきらめることができたのだろうか。

つづく


次回 第40話「ファミコン、ときどきバイト」

たまき、初めてバイトに行く!? 続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」

前回登場した謎のコワモテおじさんこと「ママ」。はたしてその正体とは? 「あしなれ」第38話、スタート!


第37話「イス、ところにより貯水タンク」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


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「よっ、ただいま」

「おかえりー」

「……おかえりです」

亜美が外出から帰ってきて、志保とたまきが返事をする。「城」のいつもの光景だ。

「今日はどこ行ってきたの?」

と、志保が本を読みながら訪ねる。

「ん? まあ、隣町の床屋だよ」

と、亜美はたまきの方に目をやった。

いつもなら、かなりの高確率でたまきはタオルケットをかぶって寝っ転がっているのだけど、今日はほとんど顔を上げることなく、何かかきものをしてる。テーブルの上にはスケッチブックよりも少し大きめの紙。その上にたまきは鉛筆で、絵というよりはなにか図面を描いている。

「ん? おまえ、なに描いてんだ? スゴロクでも作ってるのか?」

「……まあ」

亜美はたまきの描く図面をのぞき込んだ。改めてみてみると、何かの地図のようだ。ところどころ、地名も書かれている。

「これ、この辺の地図か?」

「……まあ」

たまきは地図を描きながら言った。「城」のある歓楽街とその周辺、半径一キロほどの範囲の地図だ。もちろん、正確な地図ではない。小学生が町探検の授業で作るような、簡素なものである。距離感も適当なのだろう。

亜美はたまきの描く地図をしばらく眺めていたが、やがて、地図の中にところどころバツ印が書かれていることに気づいた。

「へぇ~、おまえもだいぶ、この辺のことわかってきたじゃねぇか」

「どうゆうこと?」

「このバツ印はな、ウチらのグループのナワバリの店を指してんだよ、ちがうか?」

「違うと思うけど」

と答えるのは、描いている当人ではなく、志保だ。

「たまきちゃんがそんな地図作るわけないじゃん。それにさ、歓楽街からだいぶ離れた線路上にもバツ印があるけど、そこもナワバリなの? 違うでしょ?」

「じゃあ、何なんだよ」

志保は読みかけの本を置いて立ち上がった。

「バツ印は全部で七個あるから、この七つのポイントをすべてまわると、何か願いが叶うとか」

「マズいじゃねぇか。コイツの願いなんて、死なせてくださいの一択だろ。却下だ却下」

「じゃあ、印を線で結ぶと図形が現れて、呪文を唱えると封印された恐怖の大王が現れるとか……」

「おまえ、頭いいんだからさ、もっとジョーシキで考えろよ」

常識のない奴に常識を諭されたのが気に食わないのか、志保は黙ってしまった。だが、そこでたまきが突然立ち上がり、

「それ、いいアイデアです」

というと、鉛筆でバツ印同士をつなぐ線を描き始めた。

「ほら、あたしの言った通りじゃん!」

「いや、どっからツッコめばいいんだ、これ……?」

もちろん、たまきはナワバリの地図を作っているわけでも、禁断の魔法陣を描いているわけでもない。地図に描きこまれたバツ印は、ここ数週間でたまきが発見した、「鳥のラクガキ」である。

歓楽街のビルの隙間に一つ。

歓楽街から離れた高架下に一つ。

ビルの屋上に二つ。

そして、歓楽街のそばを通る大通りに一つ。

さらに、大ガード下の天井に一つ。

最後に、線路をまたぐ大きな橋の橋げたに一つ。

ほかにもまだまだまだ未発見のラクガキがあるのかもしれない。

ラクガキの場所に何か意味があるのではないか、と思ったたまきは、地図を書いてそこにバツ印を打ってみたわけだ。さらに印と印をつなげてみたりしたのだけれど、今のところ、特に法則らしきものは見つからない。

共通してることがあるとすれば、どれもこれも、「よりにもよってなんでこんな場所に」と思うような場所にばかりあるということだ。

ラクガキするには狭すぎるビルの隙間だったり。

3メートルあるフェンスの向こう側だったり。

ビルの屋上の、立ち入るのが難しい場所だったり。

そこからさらに十日ほどかけて、たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、毎日外に出てラクガキを探し回った。そして、たまきは3つのラクガキを見つけた。

ひとつは、駅前と歓楽街の間を通る、十車線くらいある大通りだった。地下道に入る階段の壁に描かれてあったのだ。

問題は、その壁がその十車線ぐらいある車道に面していた、ということだ。

車がバンバン通る中で、ラクガキをするのはかなり難しいんじゃないだろうか。

その次に見つけたのは、大ガード下の天井だった。

歓楽街を出てすぐのところに、線路の下をくぐる大きな通路がある。そこの天井を見上げたところに、鳥の絵が描かれていた。

これまた、どうやって描いたのかわからない。もちろん、脚立でも持ち込めば可能だけど、人通りの多いこの通路でそんなことしたら目立ってしまう。

この二つのラクガキは、「不可能ではないけど、描こうとしたら目立つよね」という問題がある。ラクガキは誰にもバレずにこっそり描くものだ。

一番不可解なのが、線路をまたぐ大きな橋の、橋げたに描かれていたものだ。つまり、鉄道会社の完全な敷地内である。高架下のフェンスのむこう側とはわけが違う。そこに誰か入り込んでいるとバレれば、怒られるでは済まない。電車が止まってしまう。電車を止めてしまうと、みんなに迷惑がかかるだけでなく、とんでもない損害賠償を請求される。とくに、ラクガキのあった駅は日本の鉄道の大動脈だ。そこに立ち入って電車を止めたとなると、請求される金額はきっと、目玉が飛び出て帰ってこないくらいのレベルだろう。

世俗に疎いたまきが何で電車事情にだけ詳しいのかというと、もちろん、「線路に飛び込んだらどうなるのか」いろいろと調べてみたことがあるからである。駅のホームに立って電車が来るたびに、「いま、飛び込んだらどうなるんだろう」とぼんやりと考えてみるのだけれど、調べた範囲では、どうやらスマートな死に方ではないようなので、なるべく線路には飛び込まないようにしよう、とたまきは思っている。あと、たまきを跳ね飛ばすことになる運転手さんにも、なんか申し訳ない。

わからないことだらけの「鳥のラクガキ」だけど、わかっていることもある。

それは、すべて同じ人が描いたんじゃないか、ということだ。もっとも、絵のタッチからたまきが何となくそう思っているだけなのだが。根拠は、と聞かれても、お絵かき好きのカン、としか言いようがない。

もうひとつ、たまきはこのラクガキは女性が描いたような気がしているのだけど、それもやっぱり、なんとなくそう思ってるだけである。

 

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喫茶「シャンゼリゼ」の扉が開いた。

「いらっしゃいませー」

と笑顔で応対した志保はすぐに、

「あれ、先生?」

と驚きの声を上げた。扉を開けた客は、舞だったのだ。舞は「よっ」と片手を上げた。カジュアルな格好で、リュックサックを背負っている。

「どうしたんですか?」

「いやなに、仕事で近くに来たついでに、そういやおまえのバイト先はこの辺だったと思い出して、立ち寄ってみたのさ」

「あ、席、案内しますね」

志保は舞を席へと案内する。

舞は席に座る前に、椅子をしげしげと眺めていた。

「あの……椅子がどうかしましたか?」

「あ、いや、イスを片手でぶっ壊した知り合いのことをちょっと思い出してな」

「え?」

「いや、そんなことより、おまえさ、バイト終わるの、何時だ?」

「えっと、あと1時間ほどですけど」

志保は時計を見ながら言った。もう夕方である。

「そのあと、なんか予定ある?」

舞はメニュー表に目を落としながら訪ねた。

「買い物して帰りますけど……」

「じゃあさ、1時間、この店で待ってるからさ、バイト終わったら一緒に買い物行かないか? ちょっと話したいことあるんだよ」

「話?」

「……悪い話じゃないよ。ちょっと頼み事っていうかさ、ま、おまえまだ仕事中だろ。その話はあとで。あ、とりあえず、紅茶よろしく」

志保は怪訝な顔をしながら、キッチンに注文を伝えに行った。悪い話じゃないというけど、用件が見えてこないのはやっぱり不安だ。

「あのお客さん、知り合い?」

と尋ねてきたのは、田代である。

「うん、お世話になってるお医者さんなんだ。なんか、あたしに用事があるみたいで、バイト終わったら一緒に帰らないかって」

「え?」

田代が不安そうな顔をした。志保の事情を知ってるだけに、知り合いの医者が用があってわざわざ訪ねてきたとなると、表情も曇る。それを察した志保は付け加えた。

「お医者さんって言ってもね、体のこととかだけじゃなくて、生活のこととか、メンタルのこととか、いろいろお世話になってるの。あたしだけじゃなくて亜美ちゃんもたまきちゃんも。ここのバイト受けるときも協力してもらったし、ほかにも、まあ、いろいろと。まあ、先生も悪い用事じゃないっていうし」

と言いながら志保は、こんなにお世話になってるんだから、そろそろ舞に何かお返しでもしないとまずいような気がしてきた。

「悪い話じゃなきゃいいんだけどさ……」

と田代。

その様子を、舞は水を飲みながら横目で見ていた。

「ふーん、あれかぁ……」

舞は田代のもじゃもじゃ頭を見つめ、志保の顔に目をやった。

 

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志保たちや舞が暮らす歓楽街は、南北を大きな道路に挟まれている。その北側の大通りに近い場所に、韓国をはじめとしたアジアの食料品を売るスーパーマーケットがある。スーパーと言っても、コンビニより少し大きいくらいなのだけど。

舞はバイトの終わった志保を連れて、その店に来ていた。それぞれの夕食の買い物である。

「このお店、よく来るんですか?」

志保が周りをきょろきょろしながら聞いた。志保にとってこの店は来るのが初めてだ。それどころか、今さっきまでこんな店があることすら知らなかった。

「ああ、近いからな」

確かに、舞の家からは歩いて5分もかかるまい。

「まあ、あたしもそんなしょっちゅうは来ないけどな。でも、何にも献立が思い浮かばないときとかは、ここに来て、なんじゃこりゃ! ってものを買ってみるんだよ」

そう言いながら舞は唐辛子のような木の実が描かれた袋を手に取り、

「なんじゃこりゃ?」

と言いながら、カゴに入れた。

「それ、どんな味がするんですか?」

「さあ、知らない」

「……知らないのに買うんですか?」

「海外のレストランとか行ったら、全く聞いたことのない料理をわざと注文するのが、好きなんだよ。いったいどんな料理が出てくるんだろう、ってな。肉料理だろうと思って頼んでみたらパスタだった、とか、そういうことが起こるしな。あと、日本じゃぜんぜん知られてない家庭料理が出てきたりとか」

「それで口に合わなかったらどうするんですか?」

志保のカゴにはまだ、一つも商品が入っていない。

「それはそれで、海外のいい思い出だ」

そういうと舞は、香辛料らしき瓶を無造作にカゴに放り込んだ。

「先生って、海外によく行くんですか?」

「そうだな、仕事で行くこともあるけど、プライベートでも年に一回は行ってるな。友達と行くことが多いけど、アジアとかだと一人でフラッと行くこともあるな。ああ、そうだ、新婚旅行もドイツだった。そんで、離婚した時の傷心旅行が韓国だ」

「いいなぁ。あたしも海外行ってみたいなぁ」

「海外行ったことないのか。意外だな。留学とかホームステイとかしてそうな感じだけど」

「興味はありますけど……」

志保はそこで黙ってしまった。

思い返せば、海外どころか、家族旅行の思い出すらほとんどないのだ。

「あの……先生……それで話って……?」

「ん?」

舞はしばらく、何を聞かれたのかわからないような顔をしていたが、

「そうだった。お前に用があるんだった。すっかり忘れてたよ」

と笑いながら言った。

「忘れるような話題なんですか?」

「まあ、あたしに直接関係のある話じゃないからなぁ」

舞はポリポリと頭をかいた。

「知り合いに頼まれてさ、誰かバイトしてくれる奴いないかって頼まれたんだよ」

「バイト、ですか?」

「そうそう。なんでも、簡単な事務と、簡単な接客と、ちょっとした力仕事。まあ、雑に言えばお手伝いってやつだな」

「あたしに、力仕事……ですか?」

志保は怪訝な顔をしながら、自分の腕を見た。少し骨が浮き出ている細い腕は、一般的な十代の少女よりも明らかに華奢に見える。

「いや、最初はな、男子を何人か紹介してやったんだよ。でもな……」

そこで舞は一度言葉を切った。

「バイトを探してる知り合いってのが、ゲイバーのママやってたやつなんだよ」

「え、ゲ、ゲイバー?」

「おまえさ、『二丁目』って聞いて、何のことだかわかるか?」

「は、はい。聞いたことくらいは……」

歓楽街の中で『二丁目』と呼ばれる区画は、なぜかゲイバーが多い、という話は聞いたことがある。お店にも、『二丁目』にも行ったことはないけれど。志保たちが住むところとは少し離れているのだ。

「ママ、ああ、その知り合いのことな、ママはずっと二丁目で働いてて、まあ、今もそうなんだけどさ、力仕事があるっていうから男子を何人か紹介したんだけど、みんな三日でやめてくんだよ。ママにビビって。別にママが何かしたってわけじゃねぇ。ハナッからゲイとかに偏見持ってるんだ。別にゲイだからって男ならだれでも見境ない、なんてことないのにな」

「……それで、あたしなんですか?」

「だって、男子を紹介しても、三日以内で逃げてくんだもんよ。これがホントの三日坊主ってやつだな!」

そういって舞は笑ったが、志保がぜんぜん笑ってないのを見て、笑うのをやめた。

「で、男子がだめなら女子で、というわけだ。ママに聞いたら、ちょっとした力仕事ってのは、部屋の掃除や片付けの手伝いらしいから、まあ女子でもイケるだろ。ということでおまえら三人を思い浮かべたんだけどさ、亜美に『簡単な事務』が務まるとは思えないし、たまきが『簡単な接客』をしてるのは想像がつかねぇ。それでもう、おまえしか残ってないのよ」

「あ、あの……」

「お、なんか質問か?」

「あたし未成年なんですけど、そのお店ってあたしが働いても大丈夫なんですか……?」

志保は不安げに尋ねたのだが、舞は

「ああ、だいじょーぶだいじょーぶ」

とあっけらかんとして答えた。

「年齢、性別、学歴、前科、一切問わずだ。お仕事ができる体力があればそれでよしだ。宗派も問わねぇってさ」

「しゅうは?」

「キリスト教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、無宗教だろうが、一切不問だ。おまえ教会が主宰する施設に通ってるけど、それでもぜんぜんオッケーだとよ。むしろ、ふだん仏教と関わりのない人ほど来てほしいってさ」

舞はインドの香辛料を手に取りながら言った。

「仏教? え? 宗教施設なんですか?」

「え?」

舞が手に取った香辛料をいったん置いた。パッケージには、ゾウみたいな姿をしたカミサマが描かれている。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「ゲイバーのママだとしか……」

「そうだよ。ゲイバーのママが、店をやめて出家して、寺の住職やってるんだよ。で、お手伝いが欲しいからって」

「お寺? でも、二丁目で働いてるって……」

「そうだよ。二丁目にある寺だよ」

舞は、いったん置いた香辛料を、やっぱりカゴの中に入れた。

「あれ? 最初に言ってなかったっけ?」

 

写真はイメージです

駅から大通り沿いに東に向かって十分ほど歩くと、「二丁目」と呼ばれる区画に入る。この一角は、いわゆるゲイバーやオカマバーと呼ばれる店が集まることで知られている。どうしてこの一角にそういうお店が集まるのかについては、志保は何にも知らない。ただ、そういう場所があるということだけは知識として持っている。

舞に連れられて志保が二丁目にやって来たのは、翌日の午後だった。ゲイの人向けの雑誌が置いてあるお店を見かけたときは、なるほど、ここがウワサに名高い二丁目か、とちょっと感心した。

ただ、テレビのバラエティで見るオネェタレントみたいな人たちが街を闊歩している、というわけでもない。怪しげな看板が多いわけでもない。志保の印象としてはいたって「ふつう」の街だ。夜になったら少しは風景が違うのだろうか。

ただ、昼間に訪れるとなんだかこの街はまだ眠っている、そんな印象を受けた。やっぱりいわゆる「夜の街」って奴なのだろう。

それよりも、志保の印象に残ったのは、寺の多さだった。

ビル街の中にいくつかお寺が立っている。東京の都心では、すっかり近代的なビルにお寺の看板がついていて、え、ここが寺?と思うことも多いのだけれど、二丁目には昔ながらのお寺が、狭い区画の中に数軒残っている。墓地も健在だ。

二丁目の中心にある公園に差し掛かった時、志保は少し足を止めて、あたりを見渡してみた。志保の周りを、ビルに囲まれて三軒ほどのお寺が取り囲んでいる。周りをお寺に囲まれるなんて、京都とかに行かないとないことだと思っていたけれど、こんな都心の真ん中で見れるとは。

「おーい、なにしてる。こっちだ」

その中の一つの寺の、裏口らしき門の前に舞が立って、手招きしていた。門の脇には控えめに「行真寺(ぎょうしんじ)」と書かれている。

 

行真寺の裏口から志保は境内に入った。この裏口というのは墓地の脇にあるもので、昼間だけ解放している。基本的には墓参りに来る人用の出入り口なのだけど、中には大通りへの抜け道としてこの裏口から入って墓地を通り抜けていく不届き者もいる。

並ぶ墓石は見たところ、どれもある程度は風化していて、この墓地とお寺の年月の古さを感じさせる。中には、刻まれた文字が完全に風化してしまって読み取れないものもあった。

「昨日も話したけど、おまえの事情であたしが知ってることは、ぜんぶママにきのう電話で話したから」

「あ、はい、わかってます」

昨日の別れ際に、志保は舞から、事情を「ママ」にすべて話すことの許可を求められた。舞いわく、ウソや隠し事が通用する相手ではないので、最初から志保の事情を伝えておいた方がいい、というのだ。

「大丈夫だ。ママはおまえの事情を知ったって、悪いようには扱わないから。むしろ、味方になってくれると思うぞ」

「は……はい」

志保は話題を変えようと、あたりを見回した。墓地の出口が近いのか、墓参りに使う手桶が並んだ台がすぐ横に見える。

「この辺りって、ビルも多いのに、お寺もいっぱいありますよね。なんでなんですか?」

「寺?」

今度は、舞があたりをきょろきょろと見まわした。

「そういや、この辺、やけに寺が多いな。気にしたことなかった。なんでなんだろうな」

その時、前方から下駄の音がした。

「ここはあの世とこの世の境目なのよ」

見ると、そこに袈裟姿の住職が立っていた。舞の言う「ママ」に違いない。

スキンヘッドの頭はいかにも僧侶っぽいのだけれど、なんだかごつごつしていて岩肌みたいだし、顔も眼光鋭く、見る者を威圧する。

「コワモテおじさんだ」と、志保は心の中でつぶやいた。

「ママ」こと住職は、かつかつと下駄を鳴らしながら二人の方へ近づいてくる。そして、舞の方を見ると、

「ヤダー! 舞ちゃん、久しぶりじゃなーい!」

と、さっきよりも1オクターブ高い声で話し出した。

「……先週も会ったじゃねぇかよ」

「そうだったかしら」

「そっちは忘れてても、ママが片手で椅子をぶっ壊した衝撃映像、あたしは一生忘れないからな」

「ああ、そんなことあったわね。そうそう、あれで十万も払ったのよねぇ」

住職はなんだか遠い過去を懐かしむような眼をしている。

「それに、おとといも昨日も、電話で話してるじゃねぇか」

「そうだったわね。それで、その子が話してたバイトの子?」

「そうそう。名前は志保。名字は、ええっと、神林だったっけ?」

「神崎です。神崎志保です」

「志保ちゃんね。アタシ、ここの住職をしてる知念厳造よ、よろしくね」

「すごい名前……」と志保は心の中でつぶやいた。

「まあ、お店やってた時の『キャサリン』って名前で呼ばれることも多いけどね。そっちで呼んでくれてもいいわよ」

「それもまたすごい名前……」と、志保は危うく声に出しそうになった。

「あ、あの、それで、バイトの面接とかは……」

「ああ、いらないいらない」

知念住職がにこやかに答えた。

「舞ちゃんの紹介、っていう時点で、それなりに信用ある子だろうから、面接はパスよ」

「その全員が逃げ出してるけどな」

と舞が笑った。

「あ、あの、舞先生と住職さんは、はどういうお知り合いで……?」

その問いかけに、知念住職がクスリと笑った。

「舞ちゃん、『先生』って呼ばれてるの?」

「別に、おかしくないだろ?」

「ふーん」

と、知念住職は再び、遠い過去を懐かしむような眼をした。

「関係性はカンタンよ。アタシがお店やってた時に、舞ちゃんがお客として通ってた時からよ」

「え?」

志保が舞を見る。

「職場の先輩に連れられてたまに行ってた、だ。通った覚えはない」

と舞は発言を一部否定した。

「あら、何年か前に、仕事も結婚生活もやめちゃったときは、一人で通ってたじゃない」

「そ、それで、仕事内容なんですけど……!」

なんだかそれ以上聞いちゃいけない気がして、志保は話題を変えた。

「週に何回か、お掃除とかしてもらうわ。境内の落ち葉を掃除するだけでも大変なのよ。それと、月に何回か、お葬式とかお通夜とか法事とかあるから。そのお手伝い。弔問客の対応だったり、お香典の管理だったり、葬儀場の設営だったり。頼むのは簡単なお手伝いばかりだから、慣れれば大丈夫よ」

「全員が慣れる前に逃げ出したけどな」

そういって舞が笑う。

「お給料は日給で三千円。お葬式の時は手当とかつけるつもりだけど、あんまり出せなくて、ごめんなさいね。その代わり、短時間だし、日にちも志保ちゃんの都合優先でいいから。ほかにもバイトしてるって聞いてるわよ」

「あ、はい、大丈夫です」

「他に質問は?」

「え、えっと……その……」

志保は一瞬ためらったが、続けた。

「さっきの『あの世とこの世の境目』というのはいったい……」

もしかしたら、ここは現実世界と異世界の境界線で、このお寺があることで異世界からの侵略を防いでいるんじゃ……、という考えがほんの一瞬だけ志保の頭をよぎったけど、そんなわけないかとすぐに打ち消した。

「この街はね、江戸の西側の玄関口なのよ」

知念住職は周りを見渡した。境内の木々のむこう側に、少し遠くのビルの色鮮やかな看板が見える。

「江戸の街=今の東京都、というわけじゃないのよ。江戸の町はもっと小さいわ。今の23区よりも小さかったの。だいたい山手線沿線と同じくらいかしら」

「え、そうだったんですか?」

江戸と東京は一緒だとなんとなく思っていた志保にとって、江戸の町の範囲なんて、考えたこともなかった。

「『江戸っ子』なんて江戸城が目で見える範囲で生まれ育ってないと名乗れないのよ。この街よりも西側は、江戸じゃないの。ふつうの農村よ。今では住宅街だったり商店街だったりデパートが建ってたりする場所が、ただの農村だったなんて、想像つかないでしょ?」

「はい……。のどかな場所だったんですね」

志保が生まれ育った町も、位置的にそういう場所だったのだろう。

「昼間はのどかでいいけれど、夜は怖いわよ。街灯とか全くないんだから。家はまばらにしかないし、荒れ地や沼地、雑木林なんかもあるの。そういう場所におばけが出るかもしれない、と昔の人が考えても、全然不思議じゃないわよ」

「確かに……」

「江戸という都市の外側は、自然は豊かだけど、夜になったら怖い場所。だから、江戸の玄関口であるこの場所は、あの世とこの世の境目ってわけ。そういう場所には、お寺や神社が多いのよ。ご先祖さまや神様を祀るには一番いい場所だったんでしょうね。ここに来れば、亡くなった人に会えるかも、って。新しいものばっかりの街だけど、意外とね、昔の人の想いの残滓がどこかに残っているものなのよ」

志保は周りを見渡した。大都会の中で、ここだけ時間が止まっているようにも思える。

 

画像はイメージです

気づけば五月も半ばである。

いつもの都立公園も先月は桜が咲き誇っていたが、すっかり花も散り、地に落ちたハナビラすら姿を隠した。木々の葉っぱは日々その青さを色濃くし、一方で足元に目を向ければ、色とりどりの花々が、桜の次の主役は私たちだと言わんばかりに咲き乱れる。

たまきが「庵」の前を訪れると、仙人が椅子に腰かけてカップ酒を飲んでいるのが見えた。

「あの……」

たまきが声をかけると、仙人もすぐに気づいた。

「おや、お嬢ちゃん」

仙人はたまきを見た後、その背中にあるリュックに目をやる。

「また絵を見せに来たのかい?」

「まあ、そうなんですけど……、今日はちょっと違って……」

たまきは申し訳なさそうに、仙人の横に置かれた椅子に腰かけた。

「あの、この絵なんですけど……」

そういってたまきはスケッチブックの一番最後のページに描いた絵を見せた。

仙人は一瞥して、すぐに口を開いた。

「これは、お嬢ちゃんの絵ではないな」

そこに描かれていたのは鳥の絵だった。たまきが模写したあの鳥のラクガキだ。

「これは、ほかの人が描いた絵を、私が描き写したやつで……、その、仙人さんはこの絵をどこかで見たことはないですか?」

「どこかというのは?」

「……この公園だったり、町の中だったり……壁とか電信柱とか、その……」

「なるほど、ラクガキというわけか」

「……まあ」

たまきの返事を聞くと、仙人は静かにかぶりを振った。

「見たことはないな。すくなくとも、記憶にはない。ラクガキならあちこちで見るが、こういう絵があったかどうかはちょっと思い出せんな」

「そうですか……」

「ところで、そっちの紙は何だい?」

仙人は、たまきのリュックから飛び出した、丸まった紙の筒を指さした。

「これは……」

たまきは紙を広げた。それは「城」の中で描いていた、ラクガキを見つけた場所の地図だった。

「ほう、これは面白い」

と仙人がのぞき込む。

「この辺りはよく通るが、こんなラクガキがあったかどうかは覚えてないな。わしが気付かんかったものをお嬢ちゃんがこんなに見つけたということは、この絵とお嬢ちゃんの間には、何か通じるものがあるのかもしれんな。きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ」

そう言って仙人は笑い、カップ酒に口をつけた。

 

画像はイメージです

とぼとぼと歩いて、たまきは歓楽街に帰ってきた。いつもの薄群青のパーカーを羽織っているけど、だいぶ暖かくなってきたから、そろそろいらなくなるかもしれない。

いつぞやのゲームセンターの脇の道を歩いている時だった。不意に小さななにかが飛び出し、たまきの前を横切った。

ネコだった。白地に黒のぶち猫が、道路の脇で立ち止まり、たまきの方を見ていた。

野良猫だろうか。歓楽街で野良猫を見るのは珍しいことだ。

「こ、こんにちは……」

と、たまきは話しかけてみた。

ネコはじっとたまきを見ていたが、

「みゃお」

と鳴くと、建物と建物のわずかな隙間の間に入ってしまった。

たまきはネコの後を追って、隙間をのぞき込んだ。

人一人がギリギリ通れそうな隙間があり、壁にはラクガキがびっしりと描かれている。

そこは、例のラクガキをたまきが初めて見た場所だった。猫はちょうど、鳥の落書きの真下にたたずんで、たまきの方を向いていた。そうしてたまきの姿を確認すると再び

「みゃお」

と鳴いて、隙間のさらに奥に、ねこねこと歩き出した。

「ついてきな、お嬢さん」

そんな風に言われた気がした。

たまきは、猫の後をついて隙間の奥へと歩き始めた。なんだか、どこかの童話みたいだ。

 

東京の街はまるでお城みたいだ、と言ったのは誰だっただろうか。

でも、たまきにとって東京の街のイメージは、それはシンデレラ城のようにきらびやかなお城ではなく、ジャングルの奥地に取り残された廃墟の城だった。百万の人が住む廃墟、それがたまきにとっての東京だ。

そして、今歩いているような建物の隙間は、まさに人が暮らす廃墟そのものだった。光はわずかだけ。目に映るもののほとんどが灰色だ。空き缶、ポリ袋、何かの配管、室外機。どこかの工事の音。ほんの数十歩引き返せばいつもの場所に戻れるのに、この世の果てに迷い込んだ気分だ。

「みゃお」

ネコの鳴き声が聞こえて、たまきは立ち止まった。

だけど、猫の姿は見れない。

その代わり、たまきの目に映ったのは、あの鳥のラクガキだった。

たまきは思わず息をのみ、ラクガキに軽く触れた。

少しひび割れている。今まで見つけたラクガキの中で一番古いのではないか、なんだかそんな気がする。

もしかしたら、誰かがここにラクガキを描いてから、たまきが見つける今この時まで、誰の目にも触れることがなかったのではないか。それこそ、ジャングルの奥地でひっそりと眠り続ける古城のように。

『きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ』

先ほどの仙人の言葉がふと、たまきの耳の奥をくすぐった。

 

つづく


次回 第39話「お葬式、ところによりバスケ」

お寺でバイトを始めた志保、そして、あいかわらずラクガキ探しをするたまき。あのキャラの過去にも少し触れるかも? 続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第37話「イス、ところにより貯水タンク」

亜美とたまきが、謎のコワモテおじさんに遭遇? 「あしなれ」第37話、スタート!


第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


東京は、外から見るとまるでお城のようだ。だからなのか、歓楽街のビルの5階にあるそのスナックの名前を『城(キャッスル)』という。もっとも、店としてはだいぶ前につぶれていて、今は三人の家出少女が勝手に住みついている。

そのひとり、たまきは屋上に上って、街を眺めていた。『城』のある太田ビルは歓楽街の中でもかなり高い建物のため、屋上に上ると街の様子がよく見える。

とくに、何か用事があるわけでもない。ただぼんやりとたまきは街を眺める。西の空には黒い雲が黙々と広がって、夕日を覆い隠している。あの雲がこっちに来たら、この辺にも雨が降るかもしれない。

「よっ」

声がした方を振り返ると、階段の前に亜美が立っていた。

「……どうかしたんですか?」

「こっちのセリフだよ。屋上で何やってるんだよ。まさか、また飛び降りようってんじゃないだろうな」

「……別に、そういうつもりじゃないです」

そもそも、「また飛び降り」と亜美は言うけれど、たまきがここから飛び降りたことなんて、一度もない。飛び降りようと、思い詰めていたことが何回かあるだけだ。

亜美は、手摺によりかかるたまきの横に来ると、手摺に背中を預けた。

「じゃあさ、おまえ、ここで何やってんのさ」

「別に……特に用事は……」

「屋上なんか来て、何か楽しいわけ?」

「楽しくはないですけど……高いところで風に吹かれてるのは、キライじゃないです」

「おまえ、ゲーセンよりも屋上にいたいって、それはもうビョーキだぞ」

何の病気だというのか。仮に病気だったとして、別に治さなくてもいいような気がする。

かつてのたまきだったら、こんなときは「どっかいってくれないかな」なんて考えたものだけど、今はもう、そんな風には考えない。

ひとりで屋上で風に吹かれてるのは「嫌いじゃない」けど、そこに友達が加わると、少しだけ、気分がいい。

「なに笑ってんだよ」

亜美はそういうと、煙草に火をつけた。

亜美の携帯電話が鳴った。ロック系の着信メロディーが鳴り響く。

「はいはいもしもしー」

亜美は背もたれから離れた。

「なに? 周りうるさくてよく聞こえないんだけど。 そこ、どこ? 近い?」

亜美は電話とは反対側の耳を押さえた。電話のむこうはガヤガヤと騒々しく、声がはっきりと聞き取れない。

「わかったわかった。とりま、これから行くから、ちょい待ってろ」

亜美はそういうと電話を切った。

「たまき、ちょい出かけるから……」

亜美が屋上を見渡すと、たまきの姿はなかった。

まさか、と亜美は手摺から身を乗り出して、下の道路に目をやった。

道路には、特に異変はなかった。その中で、少し足早に遠ざかる姿があった。

たまきだった。とりあえず、生きていて、元気に走っている。

屋上から飛び降りて、そのまま着地して走ってる。というわけではあるまい。たぶん、亜美が電話してる間に階段を下りたのだろう。

亜美に黙ってどこかに出かけるような子じゃなかったのだけど、まあ、屋上でぼおっとしていたひきこもりのたまきが、どこかに出かけていったのはいいことだ。走ってるのはもっといいことだ。ランニングにでも目覚めたのだろうか。

亜美は、携帯電話をとじてポケットに突っ込むと、屋上を下りる階段へと向かった。

 

写真はイメージです

亜美が呼び出されたビルは、区画の角にある。大通りと裏路地が交わるところにあって、バーやキャバクラなどが入っている、焦げ茶色のタイルのビルだ。客向けの入り口が大通り沿いに、従業員向けの鉄扉が裏路地の目立たないところにあった。

亜美は裏路地の鉄扉の前にいた。少し前に到着して、人を待っている。

「亜美」

声がした方を振り向くと、大通りの方から舞が曲がってきたところだった。

「さっきの電話じゃよくわかんなかったんだけど、どういう状況なんだって?」

「さあ、ウチもよくわかんねぇんだよ。なんか、電話のむこうがうるさいし、シンジもテンパってるし」

シンジというのは、亜美に電話してきた男だ。

「とりあえず、ケガ人が出てるみたいなこと言ってたから、ウチから先生に電話したってわけ」

舞は深くため息をついた。

「シンジの方から直接あたしに連絡すれば話早いだろうに……。つまり、そういう冷静で合理的な判断ができないくらい混乱してる状況、ってことだな」

「いや、どうだろう。シンジ、バカだし、本気で先生に直接電話すればいいって思い浮かばなかったのかもよ」

「……どっちみち、頭が痛い案件だな」

舞は頭をかきながら、鉄扉を開けてビルの中に入る。亜美がそのあとにつづく。

目的地は3階にある、ヒロキが経営しているバーである。つまりは、亜美の言う「ナワバリ」の中心地だ。

薄暗い蛍光灯の階段を二人は上り、しゃれた英語の名前が書かれたバーの前に二人は立った。

亜美が電話を受けた時は、ガヤガヤと周囲の音がうるさくて、シンジの声が聴きとれないぐらいだったけど、店の前はそれとは打って変わって静かである。もっとも、店内は防音の造りになっているはずなので中がどうなっているかはわからない。壁にもドアも窓ガラスがないので、視覚的にも、店内の様子は全くわからない。

舞はドアノブに手をかけ、ドアを開けた。

まず最初に飛び込んできたのは、殺気立った男たちの叫び声だった。次に、金髪の男が倒れこむ光景と、テーブルか何かが倒れる音。そして、何かがドアの方へ、つまり、舞の方にめがけて飛んできた。

舞はとっさにドアを閉めた。飛んできたなにかは、舞が慌てて閉めたドアにぶつかり、ガシャンと派手な音をたてて割れた。

舞は、ドアが開かないように背中で押さえつけた。突然何かが飛んできたことと、自分の手が信じられない反射でドアを閉めたことに、二重に驚いているようだ。

「ビビった~。あっはっはっはっは」

そう口を開いたのは亜美の方だった。

「いま飛んできたのって、ワイングラス?」

「……さあ。ガラス製だとは思うけど、音からして、もっと重いやつだろ。ビールジョッキとかじゃないのか?」

「それ、当たってたらヤバいヤツじゃん。先生、いまメッチャいいタイミングでドア閉めなかった?」

「自分でも驚いてる」

「あっはっはっはっは。マジウケる!」

「笑ってる場合じゃないぞ。あたしがドアを閉めるタイミングがあと少し遅かったら、割れたガラスの破片がお前の目に入って、失明してたかもしれないぞ」

「あっはっはっはっは。ナニソレ、ウケる」

亜美は腹筋を押さえて笑っている。

舞は、背中のドアに体重を預けた。

「とにかくだ、これは医者を呼ぶタイミングじゃねぇ。もっと前の段階だ」

「でも、けが人出てるって言ってたよ。治してやんないの?」

「いま飛び込んで行ったら、あたしがケガするだろ、バカ!」

舞の背中越しに、ドアがどしんと揺れた。おそらく、向こう側で誰かがドアに思いきりたたきつけられたのだろう。

「医者は、事件とか事故とかが終わってから呼ぶもんなんだよ。大乱闘の真っ最中に医者を呼ぶんじゃないよ」

「じゃあ、どうすればいいのさ」

「お前には常識がないのか」

舞は亜美の顔を見たが、なさそうだな、と判断して話を進めることにした。

「こういう時は警察を呼ぶんだよ。小学生でも知ってるぞ」

「えー、ケーサツ~?」

亜美は露骨に嫌そうな顔をした。

「なんだその顔は。別に、おまえが警察呼ぶ必要はないだろ。あたしが通報しとくから、おまえは警察来る前にとっととどっか行けばいいだろ」

「だって、ここ、ウチらのナワバリだよ? ナワバリの中にケーサツ入れるとか、ないわ~。 ナワバリで起きたモメゴトは、ナワバリの中でウマくやるってのが、ジョーシキじゃね?」

「勝手に常識を作るな!」

「それにさ、『小学生でも知ってる』っていうけどさ、小学生はこういう時、ケーサツじゃなくて先生を呼んでくるんじゃないの?」

「じゃあ、その先生を呼んで来い! どこの学校の先生を呼んでくるつもりだお前は!」

「だから、先生呼んできたんじゃん」

亜美は舞を指さした。

「だから、医者の先生を呼ぶタイミングじゃねぇっつってん……」

そこで舞は、ふと言葉を切った。ドアから離れると、何かを考えるように顎に手を当てる。

「先生か、先生……ふむ……」

舞はカバンから携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。

「もしもし? あ、ママ? 久しぶり」

「ママ?」

亜美が不思議そうに舞の電話を見る。

「あー、しばらく海外にいたんだよ。いや、ただの友達との旅行だ。またそのうち顔出すから。それよりさママ、今って大丈夫? 今どこいる?」

そういうと、舞はその場の状況を伝えた。

「じゃあ、そこなら十分もかかんないか。とりあえず、あたし、ビルの前で待ってるから……、あ、場所わかるの? うん、じゃあ分かった」

舞は携帯電話を切った。

「え、誰か来んの? 『ママ』ってことは、もしかして、先生の母ちゃん?」

亜美が面白そうに尋ねてくる。

「いや、そういうんじゃねぇんだ。『ママ』ってのはまあ、あだ名みたいなもんだな」

「先生なの、その人?」

「まあ、それに近い感じかな」

舞はドアの方に目をやると、時計の方を見た。店の外には特に怒号も衝撃音も聞こえてこないが、それがかえって不気味だった。

 

写真はイメージです

歓楽街の中で、たまきはきょろきょろとあたりを見渡していた。

屋上から見えたとあるビルに行きたくて、勢いよく飛び出してしまったものの、その目的地がどこにあるのかはわからない。とりあえず、近くまでは来ているはずだ。だけど、屋上から見た時はビルの上の部分しか見えなかったのに、いま、地上から見ると下の部分しか見えないので、どれが目当てのビルかわからなくなってしまったのだ。たしか、こげ茶色のレンガのようなビルだったと思うのだけれど。

ふだん走らないくせに、珍しく走ったものだから、たまきは息が切れてしまった。息を整えながら、目指すビルを探してうろうろしている。

そんなこんなで、飛び出してきてから二十分ほどたっただろうか。そろそろ帰らないと、亜美が心配しているかもしれない。暗くなる前に一度戻って、屋上からもう一度どこのビルだったかじっくりと探した方がいいかもしれない。

裏路地でそんなことを考えていた時、向こうから誰かやってくるのが見えた。何気なくそちらに目をやるたまき。

身の丈2メートル、とまではいかないけれど、かなりの大男が、たまきの方に向かって歩いてくる。

黒いスーツなのだけれど、サラリーマンには見えない。スーツの内側には柄物のシャツ。首には金のネックレス。手にも金のリング。それも、一つや二つではない。たまきからは右手しか見えなかったけど、きっと、左手にもいっぱいアクセサリーをつけてるんだろう。

でも、何よりも目を引いたのが、ひと睨みで相手を気絶させそうないかつい顔と、スキンヘッドだった。うっすらと髪の毛の残る坊主頭ではない。まったくのつるっぱげだ。頭皮がむき出しに、いや、そのごつごつとしたカタチは、頭蓋骨の形状がそのまま剥き出しになっているかのようでもあった。

コワモテおじさんだ……。

たまきは、その男の威圧感に圧倒され、目が釘付けになりながらも、声を出さぬようにして、その男が通り過ぎるのを待った。

ふと、たまきの鼻を、ヘンな匂いがくすぐった。仙人の棲む「庵」に出入りしていて、変な臭いに慣れているたまきだったけど、それとはまた違う「ヘンな匂い」。なにか、強烈な薬品とか、そんな感じの印象を受けた。

コワモテおじさんは、裏路地と大通りが交わるところにあるビルの、鉄の扉を豪快に開けて、中に入っていった。そのビルは、こげ茶色のレンガのような作りだった。

あれ、もしかして、このビルかも。

たまきはビルに近づいてみた。壁の色が、確かに似ている。ビルの高さは四階建て。屋上から見た時の高さにも近いような気もする。

試しに入ってみようと思ったたまきだったけど、コワモテおじさんの入った後についていくのはなんか怖かったし、ドアに「従業員専用口」と書いてあったので、別の入り口を探すことにした。

 

写真はイメージです

舞が電話をしてから、十分が過ぎた。その間、亜美が店の中を覗こうとして、舞が止める、というやり取りが三回繰り返された。

亜美の我慢の限界がいい加減切れそうになった時、階段の方から大きな足音が響いてきた。こっちに近づいてくる。亜美と舞は、自然とそちらに視線を向けた。

最初に見えたのが、スキンヘッドの男が階段を上ってくるところだった。次第に男の全貌が見えてくると、亜美は思わず「げ」と声を漏らした。

身の丈2メートルとまではいかないけれど、亜美の背後にあるドアをくぐれるかギリギリの大男だ。黒のスーツに柄物のシャツ。デザインは、何かの花だろうか。首や指に金のアクセサリーをジャラジャラとつけている。

コワモテおじさん来ちゃった……。

男は仁王像のような仏頂面のまま亜美と舞の方に近づいてくる。近づくにつれ、男が「ヘンな匂い」を放っていることに、亜美は気づいた。

乱闘に加勢しようとする、新手だろうか。

空手とケンカの心得が多少ある亜美だったけど、どう見ても勝てる相手じゃない。どうしようかと考えあぐねていると、男は舞の方を見て、仏頂面をくしゃっと崩した。そして、

「やだー! 舞ちゃん、久しぶりじゃなーい。海外旅行に行ってたなんて、聞いてなかったわよぉ?」

と、亜美が思ってたよりも2オクターブぐらい高い声で話し始めた。

「なんでママにいちいち、旅行先言わなきゃいけないんだよ」

と、舞。

「え? ママ? これが? おっさんじゃん?」

と、戸惑う亜美。

「どこよ、海外ってどこよぉ?」

と、迫るおじさん。

「ヨーロッパだよ。ドイツとか、フランスとか」

「えー、アタシも行きたかったぁ。行ってくれれば、休み合わせられたのにぃ!」

「ヤダよ。ママみたいなバケモノが来たら、アタシの友達が逃げ出すだろ?」

「ちょっと、バケモノはひどくない? まあ、舞ちゃんだから許すけどぉ」

と言いながら、おじさんは舞の肩をバシッとたたいた。

「いたたっ! 力が強いんだよっ!」

「ごめーん。でも、アタシを置いてきぼりにしたことと、バケモノ呼ばわりしたこと、これでおあいこじゃなーい?」

と、おじさんは白い歯を見せて笑った。そして、

「で、どういう状況なんだって?」

と、急に声のトーンを落とした。この感じだと、まだ「ちょっと声の高いおじさん」と言ったところだ。

「あたしにもよくわかんねぇんだ。コイツに呼び出されて、ここに来て、ドア開けたらいきなりビールジョッキ投げつけられたから、あわててドア閉めて、それっきりだ。それが十分前」

「あらぁ、それじゃ今、中でケンカ祭りってわけ?」

「もう全員死んでたりしてな」

舞が医者にあるまじきジョークを飛ばす。

「この店、防音がしっかりしてるから、外からじゃなんもわかんねぇんだ。で、こいつがケーサツはやだっていうから、ママなら何とかしてくれるんじゃないかって思って」

舞が亜美を指さしながら話す。

「ふーん。で、この子は?」

「ママ」が亜美を見て尋ねた。

「こいつは亜美。この辺に棲みついてて、あたしが面倒見てる、野良猫だ」

「ふふ、カワイイ子じゃなぁい」

そういうと、「ママ」は亜美をじっくりと見た。春になってますます露出の高くなり、肩なんて完全に出ている亜美の姿を、上から下まで丁寧に見る。だが、その視線にいやらしさは全く感じない。なんだか検査されてるみたいだ。

温かみはあるけれど、どこか冷徹さを兼ね備えたその視線から、亜美は逃れたい衝動に駆られたが、逃げても無駄と体が悟っているのか、思うように足が動かない。

この時になって亜美は初めて、「ママ」が放つ「ヘンな匂い」の正体が香水であることに気づいた。亜美の嗅ぎ慣れないタイプの香水だ。

「ママ」はやがて、亜美の右肩に彫られた、青い蝶の入れ墨に目を止めた。

「あなた……それ……」

「あ?」

「誰か身近な人、亡くしてるのかしら?」

「……は!?」

そのとき、「ママ」が上ってきたのとは違う階段から、ガンガラガタンと何かが倒れる音がした。音に反応してそっちを向いたのは舞だけだったが、特に人の姿は見えない。おそらく、階段にいる誰かが掃除用具でも倒したのだろう。いくつもの店が入っているビルだ。亜美たち以外に人がいても何ら不思議はない。

割と大きな音がしたにもかかわらず、亜美と「ママ」は微動だにしなかった。「ママ」は亜美の入れ墨をじっと見据え、一方の亜美はまるで心臓を撃ち抜かれたかのような顔をしている。

先に口を開いたのは、「ママ」の方だった。

「あら、ごめんなさい。アタシ、いきなり失礼だったかしら。でも、蝶々ってアタシの業界じゃ死者の魂とか、そういう意味で使われるのよ」

「し、知らねぇよ!」

亜美が少しかすれた声で言った。もしかしたら、さっきからの数秒間、呼吸そのものが止まっていたのかもしれない。

「別にこれ、そういう意味じゃねぇし。っていうか、ウチが選んだデザインじゃねぇし! その……、彫り師がウチのイメージにぴったりだっつって……、だから、全然そういうんじゃねぇし……!」

「あら、そうなの。とにかく、失礼なこと聞いちゃったわね。謝るわ。ごめんなさいね」

そういって、「ママ」は右手を差し出した。亜美は「ママ」から目線をそらして、その手を取って握手した。

「ママ、ママ、本題に戻っていいか?」

舞が少し呆れたように声をかける。

「そうだったわね。えっと、このお店の中の騒動を、とにかく静めてくればいいのね?」

そういうと「ママ」は、ドアノブに手をかけた。舞と亜美は、ドアの隙間から何か飛んできてもいいように、ドアから離れた。

亜美は、「ママ」との握手の感覚がまだ残る右手を、ズボンのすそでこすった。

空手をかじっている亜美は、握手した時に「ママ」がかなり鍛えていることが分かった。

だが、ドアのむこうには、ざっと数えても十人以上はいたはずだ。おまけに彼らはみな殺気立っているから、凶器を使うことすらためらわないかもしれない。いくら「ママ」が強そうだからって、そんな連中相手に何とかなるものだろうか。

「ママ」はドアノブをひねり、ほんの数センチだけ、ドアを開けた。

とたんに廊下に飛び込んでくる、男たちの怒号、何かが倒れる音、何かが割れる音。

どうやら、亜美に電話が来てからの十数分近く、こいつらはずっと暴れ続けていたらしい。なんとも元気な連中である。

ママは少しだけ開いたドアに足をかけた。

そしてそのまま、足を使ってドアを勢いよく開いた。蝶番を中心にドア板が回転し、壁に思いきりたたきつけ、派手な音を出した。

その音で、店の中の動きも音も、一瞬止まった。視線が一気にドアの方に集められる。すると彼らが目にするのはスキンヘッドの大男。状況が呑み込めずにぽかんとしているものもいれば、明らかな敵意を投げつける者もいる。

「なんだァ、てめぇ?」

金髪ロン毛が、「ママ」をにらみつけた。

「ダメよぉ、お痛しちゃ。みんな仲良く、ね。和を以て貴しとなす、聞いたことないかしら?」

しばしの沈黙、そして、一気に笑い声が店の中に溢れた。

「おい、おまえら、見ろよ。オカマがやって来たぞ!」

亜美は廊下の壁に背中をつけ、ドアのむこうをうかがった。

ドアにむこうにいるのは、十人どころではなかった。その三倍はいる。ただし、そのうちの三分の一は、すでにノビて床に転がっているのだけれど。

亜美から3メートル離れたところに、ひょろ長の男がテーブルの下に隠れてガタガタ震えていた。亜美に電話したシンジである。

「シンジ。おい、シンジ」

亜美が小声で手招きすると、シンジも亜美に気づき、

「あ、亜美さーん」

とすがるように亜美のもとに転がり出てきた。殴られたのか目の上にはこぶがあり、服はしわくちゃになってボロボロである。

「おい、何があったんだよ」

「タケシのチームが飲んでたんすよ。そしたら、そこにケイゴが仲間連れてやってきて、はじめは互いに無視してたんすけど、そのうち大げんかになって……」

「待て待て待て待て」

と割って入ったのは舞である。

「話が見えねぇ。タケシもケイゴもあたし知らないんだけど、なんでこの二人が同じ店にいるだけで大げんかになるんだ?」

「もともと仲悪いんだよ、あいつら」

「ナワバリ内の派閥争いってやつです」

「……くだらねえ」

舞は、深いため息をついた。

「ヒロキはどうした。あいつ、ここのオーナーだろ?」

「いま、ヨコハマに行ってて……」

その時、ガラス瓶が割れる音がした。さっきの金髪ロン毛が、テーブルにビール瓶をたたきつけて割ったらしい。

「ケガしたくなかったら、とっとと帰れや、おっさん」

ビール瓶を割ったのは、どうやら威嚇のつもりらしい。が、「ママ」は動じない。

大乱闘はひとまず止まっている。が、それは彼らの敵意が突如現れた謎の大男に向けられているからだ。

「帰れっつってんだろ!」

金髪ロン毛は別のビール瓶を手に取ると、その手を大きく後ろに振りかぶった。

これはさすがにマズいんじゃないか、と亜美が思うまでもなく、金髪ロン毛はビール瓶をテニスラケットのように勢いよく振り、「ママ」の左側頭部を直撃した。ガンッ! と、皮膚よりも骨にあたったんじゃないかという鈍い音とともに、ビール瓶は真ん中から砕け、水しぶきのように飛び散った。

亜美からは、ビンが当たった「ママ」の左側頭部がよく見えた。

少なくとも三か所、赤い筋が鈍く光っている。しばらくすると、そこから血液がこぼれ始めた。

亜美は、「ママ」が左手で両目を覆っているのに気付いた。最初、泣いてるのかと思ったけれど、その本当の意味が分かった時、亜美は鳥肌が立った。

「ママ」は両目にガラスの破片が入らないようにガードしていたのだ。たしかに、目に破片が入れば一大事である。

だけど、それは同時に、「瓶で殴られることそのものについては、特に気にしていない」ということでもあった。ふつうの人間ならばそもそも瓶をよけるか、瓶をガードしようとするか、何もできずに黙って殴られるか、だ。ふつうは、恐怖と動揺で何もできずにただ殴られるだけだろう。

なのに「ママ」は「目をガードする」という選択をした。あの状況でそれを選べるということは、やろうと思えばよけることだって止めることだってできたのに、あえてそれを放棄して、攻撃を受け止めて、急所だけ守ったということなのではないか。

実際、「ママ」が腕を降ろして両目があらわになった時、亜美から見えた横顔は、とても涼しげだった。痛がるようなそぶりは全くない。痛みを感じていない、というよりは、痛いんだけど気にしていない、そんな風に見える。

こういう表情、どこかで見たことあるぞ、と亜美は思った。

男たちがざわつき始めた。ビール瓶で殴られたのにこともなげに立っているというのは完全に想定外。動揺が広がっているのだ。

金髪ロン毛はおびえたような眼をしている。こいつらは、たいていのことは暴力や恫喝で主張を押し通してきたような連中だ。暴力で解決できないとなれば、それはもはや打つ手がないということだ。

「ママ」は金髪ロン毛に近づくと、右手で彼の頭を掴んだ。

「……おいっ! なにするんだ! やめろ! さ、さわんな!」

金髪ロン毛は「ママ」の腕を振りほどこうとするが、頭を振っても、「ママ」の腕をつかんでも、どうあがいても外れない。金髪ロン毛は「ママ」に蹴りを入れるが、ビール瓶で殴られて平気な人間が、いまさら蹴られたところで顔色一つ変わらない。

「ママ」は空いている左手で、近くにあった木製の椅子を掴んだ。見た目、かなり重そうなイスだが、「ママ」はそれを、背もたれの上部を片手でつかんで、やすやすと持ち上げた。その様子を見た男たちにも緊張が走る。

次の瞬間、「ママ」は椅子を床に思いきりたたきつけた。

椅子は四本の足がそれぞれ、てんでバラバラな方向へと飛んでいった。背もたれの部分はバッキリと折れ曲がり、木屑があたりに舞い散る。文字通りの木っ端みじんである。振り下ろした左腕の時計が、店のライトを反射して、何か勝ち誇ったかのように輝いている。

この「ママ」の行動に震え上がったのが、間近でそれを見させられた金髪ロン毛である。

もしも、「ママ」が振り下ろしたのが左腕ではなく右腕だったら、自分の頭が椅子と同じ運命をたどるかもしれないからだ。

「はぁ……はぁあ……」

金髪ロン毛は気の抜けた声を上げた。シルバーのズボンのまたの部分に何やら黒いしみができて、そこから雫がぽたぽたとこぼれ始めた。「ママ」が手を離すと、へなへなとその場に座り込んだ。

一番殺気立っていた男が情けなく床にへたり込んだことで、ほかの男たちも戦意をなくしたかのように亜美には見えた。

「みんな仲良く、ね」

「ママ」はにっこりとほほ笑んだ。

男たちの中の誰かが、ドアに向かって駆けだした。一人が動き出すと、ほかの者たちも一斉にドアをめがけて駆けだす。

「わあああああ!」

男たちは、沈没船から逃げ出す鼠のように、一斉にドアから飛び出していった。そのまま、階段を一気に駆け下りていく。

亜美の耳に、下の階から何か派手な音が聞こえた。誰か慌てて転んだのかもしれない。

最後に金髪ロン毛が、まるで足の使い方をすっかり忘れてしまったかのような動きで、店から這い出し、逃げていった。

「やれやれ、やっとあたしの仕事だよ」

舞は店の中に足を踏み入れると、ノックダウンして逃げることもままならない数人の手当てを始めた。

「あら、お店の責任者の子には残って欲しかったんだけど……」

「ママ」が亜美たちの方を見る。

「あ、あ、オレ、せ、責任者の代理っす」

シンジが恐る恐る手を挙げた。もともと乱闘にすっかりおびえ切っていたシンジだったけど、今はまた違う意味でおびえているようだ。

「ママ」はシンジに近づく。そのまなざしはやっぱり涼しげで、凶暴さなどみじんも感じられない。

「お店の椅子、壊しちゃって悪かったわね。弁償するわ。たぶん、これで足りると思うから。オーナーさんに渡しておいてくれる?」

「ママ」は、分厚い革の財布から、一万円札を十枚ほど取り出すと、シンジに渡した。

亜美は、木っ端みじんになった椅子の残骸に目をやった。

結局、「ママ」はだれ一人殴ることなく、乱闘を終わらせた。自分を殴らせ、イスを壊すことで、「ママ」自身は誰も殴ることなく、その強さを見せつけて事態を収束させたのだ。

「ヤダ、財布の中、空になっちゃったわぁ。オカネ、おろしてこないと」

「ママ」は亜美たちの方を向いて、親指と人差し指で丸を作った。

その姿を見て、亜美は「ママ」が何に似てるのかを思い出した。

子供のころ、祖父に連れられてよく行った地元のお寺の本堂に祀られていた、そこそこ大きな仏像。

「ママ」の涼しげな表情と、なんとも言えない威圧感は、その仏像によく似ていた。

 

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たまきは、傍らで倒れているアルミ製のちりとりをそっと起こした。

こげ茶色のビルに入ったたまきは、屋上へと向かって階段を上り始めた。いかがわしいバーとか、いやらしいキャバクラとかの看板が並ぶビルだったから、入るのに少し勇気がいった。

3階を越えて4階へと続く階段を上っていた時だった。不意に3階あたりから

「は!?」

という大声がきこえた。それが、亜美の声にかなりそっくりで、驚いた拍子にたまきは踊り場にあった掃除用具を倒してしまった。ガンガラガタンと派手な音が階段と廊下に響く。たまきは慌てて倒してしまった掃除用具を起こしたのだった。

亜美の声がきこえた気がしてびっくりしたけど、亜美はさっきまで太田ビルの屋上にいたのだ。こんなところにいるわけない。

たまきは屋上の階までやって来た。塔屋の内側で、外に出るにはドアを開けねばならない。

たまきはドアノブを回した。鍵がかかっている。

だけどたまきは、ドアノブに、カギを回すつまみがついていることに気づいた。どうやら、中から開けられるタイプのようだ。

たまきは鍵を開けて、塔屋の外に出た。

屋上の一角に、大きな貯水タンクがある以外は、特に何もない。周りには同じ高さのビルが多く、あまり視界を遮るものはないけど、中にはもっと大きなビルもあるので、なんだか箱庭の中に入った気分だ。まあ、太田ビルの屋上とそんなに変わらない

たまきはまず、少し遠くに見えるはずの太田ビルを探した。

太田ビルはすぐに見つかった。区画にして二ブロックほど向こうだろうか。五階建てのビルがそんなにないうえ、屋上に洗濯物が干してあるからだ。今日の洗濯物はたまき自ら干したのだ。見ればすぐわかる。

たまきは、太田ビルがよく見えるように屋上のすみに移動した。屋上のヘリは、たまきのおへそぐらいの高さの囲いがある。そして、囲いギリギリのところに貯水槽があった。白い貯水槽だけど少し古いものらしく、汚れでだいぶ黒ずんでいる。太田ビルが見える、屋上の西側の一辺は、3分の2ほどがその貯水槽と接している。たまきは、のこり3分の1の部分に立つと、囲いに背中を預け、左側にある貯水槽を見た。

そこに、白い鳥の絵があった。ペンキで描かれた、ラクガキだ。

それはここ数日、たまきが歓楽街周辺のあちこちで見かけたものと同じ絵だった。太田ビルの屋上から、これが見えたのが、たまきがビルを飛び出した理由だった。

メガネっ子のたまきの視力はメガネをかけていてもそんなにはよくない。これまではそんな絵が二ブロック先のビルの屋上にあることなんて、気づきもしなかった。実際、太田ビルから見えた絵は小さすぎて、たまきもここに来るまで、はっきりと同じ絵だと認識できたわけではない。別の場所でこの絵を見ていて、気になって頭に残っていたからこそ、気づけたのだ。

それにしても、とたまきは首をかしげた。またしても、問題はこの絵が描かれた場所である。

この絵は、貯水槽の西の側面の上部に書かれている。しかし、西の側面というのは、屋上の囲いとわずか数センチの余白を残して接している。たまきはいま、囲いに背中を預け、若干のけぞるようにして、ようやくこの絵が見れているのだ。

どうやってこの絵を描いたのか。

たまきは、左手を伸ばしてみた。小柄なたまきでは、どんなに腕を伸ばしても、絵にはまだ1メートル近く足らない気がする。もっと背の高い人でも、さすがに届かないだろう。

たまきは、囲いを見た。

どう考えても、これに乗るしかない。

たまきぐらいの小柄な人でも、この囲いの上に立てば、ギリギリ手が届くだろう。

ただし、うっかり足を滑らせれば、そのまま十数メートル下の地上まで真っ逆さまである。絵は貯水槽のかなり上のところにあって、一般的な身長の人でも、描こうとすれば目線よりかなり上の部分での作業になる。そうなれば、ずっと見上げっぱなしになり、自然と上体はのけぞる。

囲いは、幅がたまきの靴の縦の長さと同じぐらいだろうか。これでは、ちょっと足を滑らせたら大変なことになる。

実際に囲いの上に立ったらどれくらいの高さなのか、たまきでも絵まで手が届くのか、足元は安定しているのか、実際に囲いの上に立ってみたらわかるのだろうけど、さすがのたまきもそれをする勇気はなかった。いかに死にたがりとはいえ、「自分から飛び降りる」のと、「うっかり足を滑らせて落っこちる」は、似ているようでぜんぜん違うのだ。

これまで見つけた鳥の絵はいずれも、よりによってどうしてこんな場所で描いたんだろう、というものばっかりだった。決して不可能ではないけれど、わざわざこんなところで描かなくても、と思うような場所ばっかりなのだ。

たまきが囲いの上に立つのを諦めて、なにげなく向かいのビルに目をやった時、たまきは息をのんだ。

向かいのグレーのビルの屋上にも、同じ鳥の絵があったのだ。向かいのビルは高さが一階分低い。そこの屋上の塔屋の外壁に、同じ絵があった。

たまきは、再び走り出した。たまきにしてはすごいスピードでビルの屋上を駆け下り、一気に外に出る。そして向かい、つまり道路を挟んで西側にあるビルに飛び込んだ。

そのまま屋上まで一気に駆け上る。息を切らしながら登り切り、塔屋のドアノブに手をかけ、回した。

だが、ドアは開かなかった。鍵がかかっている。そして、今度は中から開けられるような仕組みは、見つからなかった。もっとも、こうやって簡単に屋上へは入れないビルの方が、ふつうなのかもしれない。

でも、だとしたら、いよいよもってどうやって鳥の絵を描いたのかわからなくなる。鍵がかかってたら、入れないじゃないか。

一瞬、隣のビルから入って飛び移る、という危険な方法が思いついた。だけど、そこまでしてラクガキをする理由が思い浮かばない。そもそも、隣のビルには入れたのなら、隣のビルでラクガキすればいいじゃないか。わざわざ別のビルに飛び移る理由がない。

もしかしたら、一連のラクガキは全部、魔法使いが描いているんじゃなかろうか。それならば、全て無茶なところに描かれているというのも納得できるのだけど。

 

たまきが階段を下りてビルから出てきた時だった。向かいのビル、つまり、先程までたまきがいた焦げ茶色のビルの、従業員専用と書かれた鉄扉が開いた。

そこから、まるで亜美の「友達」にいそうないかつい格好の男たちが、次々と飛び出してきた。驚いてたまきはその場に固まってしまったが、どうも様子がおかしい。誰もかれも血の気を失っていて、まるで何かから逃げるようにビルから飛び出し、てんでばらばらの方角に走り去っていった。中には、殴られたかのような跡がある人もいる。

ぽかん、とたまきがその様子を見ていると、

「あれ? たまきちゃん?」

と聞きなれた声がきこえた。

振り返ると、志保が手を振りながらこちらに向かって歩いてきた。

「どうしたの、こんなところで?」

「べ……別に……、散歩です。志保さんは、バイト帰りですか?」

「うん、そう。お夕飯の材料、買ってきたよ」

志保が手に持っていたレジ袋を持ち上げて見せた。

二人はそのまま、「城」に向かって歩き出した。

「めずらしいね、このへんうろついてるのって」

「べ、別に……」

たまきはこれ以上ツッコまれたくないので、視線を落とした。別にやましいことをしていた覚えはないのだけれど。

「そういえばさ」

と志保が切り出した。

「この前さ、このへんにさ、なんか警察の人、いっぱいいたのを見たよ」

「えっ?」

たまきは志保の顔を見た。それから、後ろを振り返る。

例の焦げ茶色のビルがたまきの目に入った。たまきの頭の中に、屋上でラクガキをしていた誰かが、足を滑らせて落っこちるシーンがよぎった。

「だ、だれか落っこちたんですか?」

「え?」

志保が怪訝な顔でたまきを見た。

「警察の人がいただけで、何があったかまではわからなかったけど……、誰か落っこちたの?」

「い、いや……別に……」

たまきは視線を落としたけど、再びまた、焦げ茶色のビルの方を振り返っていた。

つづく


次回 第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」(仮)

はたして、コワモテおじさんこと「ママ」の正体とは? 続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」

街中で落書きを見つけた三人。「ウチらのナワバリで勝手なことしやがって。と憤る亜美に対し、たまきはその落書きに妙に魅かれて……。あしなれ第36話、スタート!


第35話「ねこのちネコ、ところにより猫」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです

「はっ! はっ! おらぁ!」

奇声を発しながら、亜美が太鼓をたたいている。

本物の太鼓ではない。ゲームセンターにある、ゲームの和太鼓だ。

「どどどどーん!」

口でそう叫びながら、亜美は太鼓を連打した。

一曲終わり、亜美はバチを置いてふうとため息をつく。

「亜美ちゃんさ、叫ばないと太鼓叩けないの?」

横で見ていた志保が尋ねた。

「掛け声と一緒に叩くと、パワーが3倍になるんだぞ」

太鼓を叩くのに、3倍ものパワーが必要なのだろうか。そもそも、亜美が叩いていたのは厳密には太鼓ではなく、ゲームのコントローラーである。常人の3倍ものパワーでたたいたら、壊れてしまうのではないだろうか。

「祭りで太鼓叩いてるやつも、全員言ってるんだからな」

「嘘だよ、聞いたことないよ」

「そりゃ、太鼓の音がでかいから、聞こえないだけだよ」

ほかに客はいない。亜美は百円を投入し、再びプレイし始めた。

「よっ! はっ! たっ! たぁ! とんとととん!」

でたらめな掛け声だけど、叩く姿はなかなか様になっていた。

「ほら、たまきもやってみろ」

亜美は次のプレイのための百円を片手に持ちながら、もう片方の手にバチを持つと、たまきに差し出した。

「私は別に……」

「亜美ちゃん、そうやって強要するのはよくないって」

「べつに強要してねぇだろ! な、ボウリングやバッティングセンターみたいなスポーツってわけじゃねぇ。ほんとにただのゲームなんだから、軽い気持ちでやればいいんだよ」

じゃあ、やっぱり3倍のパワーなんて必要ないんじゃないだろうか。

たまきは亜美からバチを受け取ると、太鼓の前に立った。ゲームが始まり、音楽が流れる。

「よっはったったぁとんとととん」

小さな声で亜美の掛け声を忠実に模倣しながら、たまきは太鼓をたたいた。まあ、いちばん簡単なモードなので、ふつうにやればふつうにクリアできる。いかに「ふつうに」が苦手なたまきでも、これくらいの「ふつうに」はこなせる。

「どうだ、たまき。やってみた感想は」

「えっと、棒をもって、太鼓をたたいて、曲が終わって……」

たまきは亜美の方に振り替えると、困ったように言った。

「それで、どうすれば……」

どうすればと聞かれても、困る。

「おまえ、ゲーセンでゲームやっても楽しくないって、それはもうビョーキだぞ」

とうとう病気呼ばわりされてしまった。まあ、ゲームの楽しさがわからないたまきの方がおかしいのだ、ということくらいは、たまきも理解している。

「あ、じゃあ、つぎ、あたしやる!」

志保が手を挙げた。たまきからバチを受け取ると、百円を入れて太鼓の前で構える。

志保は無言で太鼓をたたき続ける。

「お前、掛け声言えよ」

「絶対ヤダ」

画面を凝視しながら、志保はバチを動かした。曲が終わると、かなりの高得点がマークされた。

「どう? すごいでしょ?」

「すごいけどさ……」

亜美は少し言いにくそうに言葉を続けた。

「なんか楽しそうに見えねぇっつーか、ゲームしてるっていうより、そういう作業をこなしてるように見えるっつーか……」

「そ、そんなこと……」

「だいたい、おまえの場合、太鼓の音が小さいんだよ」

「べつに、大きな音を出すゲームじゃないでしょ。本物の太鼓じゃないんだし」

「だから、リズムよく太鼓を叩いてるっつーよりは、黙々と太鼓にバチを当ててる作業してるように見えるんだよ」

「そんなの……き、気のせいだよ……」

それ以上、志保は反論しなかった。

 

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ゲームセンターで少し汗を流した後、銭湯に入ってさっぱりして、帰りにコンビニに寄ってから帰る。3人のいつものルーティンだ。

4月に入り、だいぶ暖かくなったので、日が沈んでからもお風呂に行くようになったし、銭湯帰りにぶらぶら寄り道しても湯冷めしない。

三人は、コンビニで買い物を済ませたものの、すぐには帰らずに、買ったお菓子をつまみながら街をぶらぶらしていた。

少しばかり、冬の時よりも町はにぎわっているように見える。歓楽街にはグループで入れる居酒屋が多い。大学の新歓コンパや、会社の歓迎会が多いのだろう。中には、明らかに羽目を外してしまった姿も見られる。

たまきはいつも、亜美と志保の少し後ろを歩くのだけれど、ちょっと不安になって、その距離を少し詰めた。

ふと、亜美が足を止めたので、思わずぶつかりそうになり、たまきは足を止めた。

「どうしたの?」

志保は亜美の目線の先を追った。

通りの脇にある、ビルとビルの間の隙間。人が一人ギリギリ通れるような間隔しかなく、配管が無数に走り、地面にはポリ袋だの煙草の吸殻だのが散乱している。

そんな隙間の壁の一部に、スプレーのラクガキがあった。緑のスプレーで何やらアルファベットのようなものが書かれている。英単語なのだろうが、文字を崩してあるのか、なんて書いてあるかはわからない。

それがちょうど亜美の顔の高さの場所にあって、その下にもいくつか小さいラクガキがあった。配管にもステッカーが貼ってある。

亜美はしばらくそのラクガキを眺めていたが、

「ちっ」

と舌打ちして、顔をしかめた。

「へー、意外」

様子を見ていた志保が笑う。

「あ?」

「亜美ちゃんもそういう町の美化意識があるんだぁ、って」

「ビカイシキ?」

亜美は、志保の言ってる意味が理解できていない。

「ラクガキ見て顔をしかめるんだから、街をきれいにしたいっていう意識があるんだなぁ、って思って」

「は? ウチがそんな学級委員みたいなこと考えるわけねぇだろ?」

そういえばつい先週、道端に亜美が煙草をポイ捨てして、志保が咎めたばかりだった。

「ここは、ウチらのナワバリなんだよ」

「……どゆこと?」

今度は志保が、亜美の言ってることを理解しかねている。

亜美は、向かいのビルの上階を指さした。

「あそこにヒロキが経営してるバーがあんだろ」

「え? ヒロキさんってバーの経営者だったの?」

志保の驚きを華麗にスルーして、亜美は続ける。

「で、その2号店がこっち。その下がシンジの働いてるホストクラブだ」

志保は「シンジ」とやらの顔が思い浮かばなかった。

「で、あれがケイタの店だろ? そんで、リョウジの働くクラブがあれ」

顔は思い浮かばないけれど、どうやら亜美のクリスマスパーティや花見に集まるような連中のことだろう。亜美はその後も、夜空の星座案内かのように、周りのビルの店を示しては、誰それの店だと解説している。

「『城』の下の階にあるビデオ屋あんだろ? あそこのオーナーもウチらのグループの一人」

「え、あのおじさん?」

「あれは店長。そうじゃなくて、オーナー。ヒロキが、たまにビデオや手伝ったりしてんのも、オーナーがダチだからだぜ」

ほかにも、志保と出会ったクラブとか、ミチがライブをしたライブハウスとか、さっきまでいたゲーセンとか、ぜんぶ亜美のいう「グループ」のメンバーが何らかの形でかかわっているらしい。どうやら、たまきと志保は知らないうちに亜美の「ナワバリ」の中で生活していたようだ。

「つまり、この辺り一帯は、ウチらのナワバリなんだよ」

亜美は証明終了という顔をしているが、たまきはそもそも何の説明をされたのかすらよくわからない。困ったように志保の方を見た。

志保は、頭の中に碁盤を思い浮かべていた。囲碁のルールは確か、自分の石で周りを固めてしまえば、そこが自分の陣地になるはずだ。同じ理屈で、自分たちの仲間の店で囲まれた領域が、亜美の言う「ナワバリ」なのだろう。

とすると、亜美がラクガキひとつで怒っているのも何となく理解できた。自分の陣地にどんと相手の石を置かれた、そういうことなんじゃないか。

「つまり、亜美ちゃんたちのナワバリに、知らない誰かが勝手にラクガキしたから、怒ってるってこと?」

「さっすが! よくわかってんじゃねぇか!」

こんなことでホメられてもうれしくない。

「最近、これとおんなじラクガキが、歓楽街のあちこちで見つかってんだよ。ウチらのナワバリの、中でも外でも。誰かが、ここは自分のナワバリだって言ってやがんだよ。クソ腹立つ」

なるほど。どうやら、碁石の代わりにお店とラクガキで囲碁をしているようなものらしい。囲碁というより、犬のマーキングに近いのかもしれない。

だけど、そもそも亜美の言う「ナワバリ」も、別に土地を買い占めているわけでも、法律で決まっているわけでもない。自分たちの行動範囲を「ナワバリ」と言い張っているだけだ。要は、町を丸ごと不法占拠しているようなものである。

そんな志保の考えを見透かしたのか、亜美は不満そうに口を尖らせた。

「なんだよ、そのキョーミなさそうな顔は」

「興味ないもん。あたしに関係ないし」

「なに言ってんだ? おまえらも、ウチらのグループのメンバーに入ってんだからな」

「え?」

「ええ!」

志保もたまきも、そんな不良グループと契約書や杯を交わした記憶なんて、ない。

「あたりまえだろ。ウチと一緒につるんでるんだから」

たまきが「そういうものなんですか?」と言いたげに志保を見上げ、志保は「そんなルールない」と言いたげに首を横に振る。

「そんなグループに入ったおぼえ、ないんだけど? 勝手に入れないでよ」

「は? おまえら、どうして今までウチらの不法占拠がばれなかったか、わかんないのか?」

「え?」

志保は亜美の説明を思い返してみた。『城』の下の階のビデオ屋のオーナーは、亜美の「グループ」のメンバーだという。

つまり、その真上にある『城』も、すっぽりと「ナワバリ」に入ってしまっている、ということだ。

亜美はそれ以上説明しなかったが、不法占拠が今日までバレていない理由は、きっとそういうことなんだろう。

そもそも、野良猫同然の暮らしをしていた亜美が、太田ビルの『城』と言うキャバクラの廃墟に転がりこめたのも、もともとそこがナワバリの中だからではないか。

つまり、志保もたまきも全く無自覚のうちに、亜美の「グループ」と「ナワバリ」に守られていた、ということではないか。なんだか、非核三原則を持ちながらもアメリカの核の傘下で守られてる日本みたいだ。

亜美は、もう説明は終わったという感じで志保に背を向け、再びラクガキをにらみつけていた。

「たまき」

「は、はい」

「おまえさ、この辺で絵を描く道具が買える店、知ってる?」

「ま、まあ」

「ソコ行ったらさ、こういうスプレーも売ってっかな?」

亜美はスプレーで書かれたラクガキを指さして言った。

「さ、さあ。見たことないですけど、あるかもしれないです」

「そんなの買ってどうするの、亜美ちゃん」

「いや、このラクガキの上から、スプレーで別のマークでも書いて、ここはうちらのナワバリだって示そうかなって」

「ええ?」

どうやら亜美は、ラクガキの上に新たにラクガキを塗り重ねるつもりらしい。

「なんでもいいんだけどさ、そうだな、うちのイニシャルの『A』を赤ででっかく書く、ってのどうだ。ナワバリのほかの場所も、ラクガキされる前になんか書いとくか」

「なに言ってるの亜美ちゃん!」

志保はラクガキをのぞき込む亜美に近寄った。

「落書きは犯罪なんだよ?」

だが亜美は、ハハハと笑うだけだった。

「お前、不法占拠とかいろいろやっといて、いまさらラクガキぐらいでなにいってんだ?」

「いや、そうなんだけど……、だからって何やってもいいってことにはならないでしょ! むしろ、そういう目立つようなこと、やめてよ!」

「だってお前、ウチらのナワバリに知らないヤツがなんか描いてんだぜ? 悔しくないのか?」

「ない!」

志保はきっぱりそう言うと、たまきの方を見た。たまき本人にその自覚はないけれど、こういう時に落としどころを作れるのがたまきである。

たまきも自覚はないなりに、このタイミングで志保がこっちを見るということは、何か言ってほしいんだな、と察する。

とはいえ、何を言ったらいいかなんて、わかるわけがない。そもそも、何を言ったらいいかがわからないからこそ、黙っていたのだ。そんな急に、今この場をうまく収める言葉なんて、思い浮かぶわけがない。

ただ、さっきの亜美と志保の会話の中で、一つだけ気になっていたことがあった。他に何も思い浮かばないので、それを口にしてみることにした。

「えっと、ラクガキって、やっちゃダメなんですか?」

しばしの沈黙。そして、

「え? そこから? 落書きはダメって知らなかったの?」

たまきは無言で頷く。

「そうか、このラクガキ、おまえが描いて回ってるって可能性あったな。おまえ、絵が好きだもんな」

「え? まさかたまきちゃん、外で落書きしてないよね?」

たまきはプルプルと首を横に振る。

「でも、ラクガキしてるのがたまきだったらよかったのにな。お前もグループのメンバーだから、おまえがウチらのナワバリでラクガキしてるってなら別にいいもんな」

「メンバーじゃないし、メンバーでもダメなものはダメだから!」

そこでまた、しばらく沈黙があった後、亜美はふーっ吐息をついた。

「ま、上から書くにしても、このラクガキよりセンスあるもん描かないと意味ないしな。ウチが描いても、センスねぇなって笑われるだけか。……帰っか」

亜美は太田ビルの方に向かって歩き出した。とりあえず、明日にでもスプレーを買ってラクガキするようなことはなくなったらしい。

ただ、一度立ち止まり、たまきの方を見て、

「おまえ、センスあるやつ描けるんだったら、描いていいんだぞ?」

「だからダメだって!」

亜美は再び歩き出し、志保が後に続く。

だが、しばらくして、志保はたまきがついてこないことに気づいた。

振り返ると、たまきはまださっきの場所で、ラクガキを見つめていた。

「たまきちゃん?」

志保の呼びかけにも反応しない。「たまきちゃん、行くよ?」

「は、はい!」

ようやくたまきは呼びかけに気づき、二人の後を追った。

 

写真はイメージです

「まったく、我が弟ながら情けないよ」

ミチのお姉ちゃんが呆れたようにつぶやいた。

「で、そのままたまきちゃんを帰しちゃったわけ?」

ミチのお姉ちゃんが十日ぶりに海外旅行から帰ってきたのが昨日の昼。「そのあと」というヘンな名前のスナックは、今日の夜から営業再開である。

今は営業前の肩慣らしにと、店で弟に昼飯を作ろうと準備していたところだった。そこで「なんか変わったことはなかった?」という質問に明らかに言いよどんだ弟に、たまきとのことの顛末を洗いざらい白状させたところである。

「そういうのをね、『据え膳食わぬは武士の恥』っていうの」

ミチには意味がさっぱり分からないが、姉が言わんとしていることはなんとなくわかった。

「女の子がわざわざ泊りに来たのよ? 向こうだってそういう展開を期待してたってことでしょ?」

お姉ちゃんは、ミチの携帯電話に保存されている、猫と戯れるたまきの写真を見ながら言った。

「いや、俺も最初はそうかもって思ったりもしたんだけどさ、とにかくさ、その、たまきちゃんはなんつうか、ちがうんだよ」

「なにがちがうのさ」

「その、姉ちゃんとは違うんだよ」

「ちょっと! 実の姉を尻軽女みたいに言うとは、許さないよ!」

ミチはしまったと、心の中で軽く舌打ちをした。

だが、とにかく姉の想像しているようなパリピな女子にたまきは当てはまらないのだ。ズレているどころか、重なるところが見つからない。

おまけに、ミチはたまきからはっきりと宣言されているのだ。「期待にはこたえられない」と。それこそ、たまきが姉の言うようなことを何一つ期待していなかったということではないか。

なんとかそのことを姉に理解してもらわないと、このままふぬけ呼ばわりされたのでは、昼飯がマズくなる。

「そのさ、姉ちゃんはまだたまきちゃんと何回かしか会ってないんでしょ? だから、まだあの子のことをよくわかってないんだよ」

「ほーう、まるで自分はたまきちゃんのよくわかってる、みたいな言い方ですな」

お姉ちゃんはちょっと茶化すように言ったが、ミチはそこで黙り込んでしまった。

はたして、自分はたまきのことを理解しているのだろうか。

正直、泊まりに来た夜、なぜ怒られたのか、どこに地雷があったのか、今でもよくわかっていない。

オダイバでのあれこれも、いまだにわからないことだらけだ。

ただでさえ女心はわかりづらいというのに、たまきの思考と感性は一般的な女心とは外れたところにあって、輪をかけて理解できないのだ。

ふいに、店のドアが開き、ドアの上につけられたベルが鳴った。

「すいません、今日はランチやってなくて……」

と言いかけたお姉ちゃんだったが、入ってきた人物の顔を見て、

「あら、ウワサをすれば。いらっしゃい」

と笑顔を見せた。その言葉で、ミチも誰が来たのかがわかり、ドアの方に振り返った。

「あの……ミチ君、いま……すよね」

ミチと目が合ったたまきは、軽く会釈をした。

「なに、今日はどうしたの? もしかして、またデートのお誘い?」

お姉ちゃんの言葉にたまきは一瞬、背中をビクッと震わせた。

「ち、ちがいます別に……」

と言い淀みながらたまきはミチの方を見た。

いかにミチがたまきのことをわかっていない、といっても、さすがに今のたまきが睨むようにミチを見て、何を言おうとしているかぐらいは察しが付く。おおかた「この前のこと、勝手にしゃべったんですか?」って感じだろう。ミチも、「だってしょうがないじゃん」と言いたげに、たまきから視線を逸らす。

「あ、あの……この前の写真を見せてもらおうと思って……」

「この前のって、猫をなでたりしてるやつ?」

お姉ちゃんが聞き返す。

「えっと……そっちじゃなくて……」

たまきが見たいのは、アキハバラの駅で見た夕日の写真だ。

「ああ、あれね。せっかくだから、プリントアウトしてあげるよ。姉ちゃん、ケータイの写真って、プリントできる?」

「パソコンに転送すればできるんじゃない? あたしのパソコンに添付してメールを送ればいいんじゃないの? あとで印刷しとくから」

「あ、ありがとうございます」

たまきはぺこりと頭を下げた。

そして、そのまま動かない。

しばらくしてたまきが顔を上げると、お姉ちゃんに尋ねた。

「……お姉さんは、私が猫と遊んでる時の写真を、見たんですか?」

「うん、見た見た。かわいく撮れてたよ」

「……何枚ですか?」

あの時、十枚くらい写真を撮られた気がするが、たまきはミチに、「猫を抱っこしている写真」一枚を残して、あとは消すように頼んだはずなのだ。

それなのに、お姉ちゃんは「猫をなでたりしてるやつ」の写真を見たというのだ。これはおかしい。おかしくないですか?

「うーん、十枚くらい?」

お姉ちゃんの答えを聞くやいなや、たまきの目線はミチの方にぶつけられた。それが何を意味するか、ミチにもはっきりとわかる。間違いなく、睨んでいるし、怒っている。

「見せてください」

「え、えっと……」

「携帯電話のその写真、見せてください」

ミチが携帯電話を操作し、件の写真の画像を出す。たまきは、ひったくるようにそれを奪い取ると、慣れない手つきで操作しながら、ほかの画像も確認した。

「……私、消してくださいって言いましたよね。ちっとも消してないじゃないですか」

「……いや、だって、もったいないなぁ、って思って。せっかく撮ったのに」

「消してください、って言いましたよね」

「いや、でも、俺のケータイのデータをどうしようが、俺の勝手じゃん?」

「写ってるのは、私です」

まっすぐにミチをにらみつけるたまきと、目線を合わせようとしないミチ。お姉ちゃんはその様子を、何やら楽しそうににやにやと見つめながら、

「いいじゃない。かわいく撮れてるんだから」

と口をはさんだ。

「……そういう問題じゃないです。……そもそも、私はかわいくはないです」

「そんなことないって~」

とお姉ちゃんは、たまきの手にある携帯電話の画像をのぞき込む。

「ほら、このしっぽをピンと立ててる姿、なかなか様になってるよ」

「それは私じゃなくて、ねこです」

「ああ、ごめん。似てるから間違えちゃった」

そんなわけない。ツッコミどころがありすぎるが、絶対にまちがえるわけない。

「……ほら、姉ちゃんのパソコンに写真送るから、ケータイ返して」

ミチが携帯電話を取り戻す。

「余計な写真も消しておいてください」

「わかったわかった、消しておくから!」

ミチが送信を終え、お姉ちゃんは印刷のために、いったん自分の部屋へと戻った。

お店の中にはミチとたまきの二人だけ。しかし、たまきはまだ怒っているのか、ミチと目を合わせようとせず、店の中を見渡している。

ふと、たまきは店の中にバスケットボールにまつわるものがいくつか置いてあることに気づいた。アメリカ人(たぶん)のバスケの選手の写真がテーブルの上の写立てにあり、壁の高いところにはバスケのユニフォームが飾られている。バスケットのゴールをかたどった小さな置物もみつけた。

お姉さんはバスケが好きなのだろうか。しかし、お店の雰囲気とは何だか合っていない気もする。こういうのはスナックよりも、ハンバーガー屋さんとかステーキ屋さんとかの方が似合いそうだ。

そんな風にきょろきょろと店の中を見渡していたら、ミチと目が合ってしまった。たまきは慌てて視線を外す。

「たまきちゃんさ」

ミチは不満げに口を開いた。

「どうして、今日は笑わないの?」

「べ、別に……」

「なんかさ、この前よりもよそよそしくない?」

「き……気のせいです」

「俺ら、一夜を共にした仲じゃん」

「たまたま同じ部屋にいただけです……」

そのまま、たまきはうつむきがちに言った。

「笑顔が見たいんだったら……」

そこに、ミチのお姉ちゃんが戻ってきた。手には写真が握られている。

「プリント終わったよ~」

たまきはイスから立ち上がると、たまきとは思えないほどしなやかな動きでお姉ちゃんの方に駆け寄った。そのまま写真を奪い取るかのように手にすると、

「私、帰ります。ありがとうございました」

と早口に告げ、たまきとしては信じられないスピードで店を出ていった。一連の動きはまるで、一流のバスケプレイヤーが相手選手からボールをかっさらい、そのままコートを駆け抜けて、鮮やかにダンクシュートを決めたかのようだった。

「ミチヒロ、あんたまたなんか怒らせたんじゃないの?」

「……わっかんねぇなぁ」

ミチは、ドアの上にあるベルが揺れるのをただ見ていた。

 

写真はイメージです

たまきは、スナックのドアを閉めると立ち止まり、ふうっと大きなため息をついた。

一息つくと、ゆっくりと歩き出す。

高架沿いの坂道をたまきは、とぼとぼと上っていった。

長い坂道の中ほどあたりで、ふと、たまきは足を止めた。

高架下の一角。フェンスで区切られ、中に入ることはできない。フェンスのむこうには2メートルほど先にコンクリートの壁があり、それ以外には何もない。

フェンスには「不法投棄禁止」という看板が貼り付けられていた。コンクリートの壁はそこだけ「コ」の字型にくぼんでいて、きっと、ポイ捨てにちょうどいい場所で、ほっといたらゴミがたまってしまうから、フェンスをつけてポイ捨てできないようにしたのだろう。

そのフェンスのむこう側の壁に、鳥の絵がラクガキされていた。

おそらく、ペンキで書いたのだろう。だけど、絵のサイズは普通の写真くらいでしかない。ハケではなく絵筆にペンキをつけて描いたのではないか。

白い鳥が、羽ばたくポーズを描いたものだ。くっきりとした黒い輪郭線と、どこか灰色が混じったような白。翼は特に細かく描きこまれている。

たまきがこのラクガキに気づいて足を止めたのは、これと同じものを前にも見ていたからだ。

つい昨日、銭湯帰りに亜美が見つけたスプレーのラクガキ。あのラクガキの周りには他にも、小さなマークが描かれていたり、ステッカーが貼られていたりしたのだけど、その中にこれと同じ鳥の絵があった。

ぼんやりとその絵を見ているうちに、たまきはあることに気づいた。

この絵、どうやって描いたんだろう?

鳥の絵は、フェンスのむこう側にあるのだ。

フェンスにドアのようなものはない。となると、フェンスのむこう側に行くには、フェンスをよじ登り、乗り越えなければならないはずだ。

たまきは視線を上へと投げた。フェンスはたまきの背よりもはるかに高く、3メートル以上の長さだ。ちょうど同じくらいの高さでコンクリ壁のへっこみも終わり、コンクリ壁が道路のそばまで大きくせり出す。せり出したコンクリ壁はフェンスとぴったりっついているわけではなく、隙間が空いている。やっぱりフェンスを乗り越えればむこう側に行けそうだ。

でも、それは「不可能ではない」というくらいの話でしかない。実際にむこう側に行くのは、かなり難しそうだ。

まず、3メートル以上あるフェンスをよじ登らなければいけない。まあ、たまきには無理だけど、世の中にはそういうのが得意な人もいるだろう。

問題は、フェンスを乗り越えるとき、フェンスとせり出したコンクリ壁の、わずかな隙間を通り抜けなければならないことだ。

たまきはその隙間に目をやる。これまた、通り抜けることは不可能ではない。だけど、やっぱり狭い。小柄なたまきですら、どこかをすりむかないと抜けられないのではないか。

そうやって苦労して通り抜けたら、今度は3メートル以上の高さを安全に降りていかなければならない。

しかも、手ぶらでフェンスを登ればいいのではない。ペンキをはじめとした絵を描く道具も持っていかなければならないのだ。

そんな苦労を重ねて、フェンスのむこうにたどり着き、ラクガキをしたら今度は全く同じ苦労をして、フェンスを上って道路に戻らなければいけない。

その間、もしもお巡りさんなどに見つかったら、とてもめんどくさいことになる。

……何のためにそこまでしてラクガキするのか?

ラクガキするだけなら、何もそんな手間と危険を冒す必要はない。この近くなら、高架の下を抜ける、人目につかない通路なんていくらでもある。そこでいいじゃないか。だいたい、フェンスのむこう側にラクガキしても、気づく人はかなり少ないのではないか。

そんな風に考えると、昨日みつけたラクガキも、ラクガキするには適していない場所だったのではないかと思えてくる。

ビルとビルの間の隙間は、かなり狭い。一人くらいなら入ることはできるけど、そこで細かい作業をするのは、無理ではないけど、かなり面倒である。人通りも多い場所だ。通りかかれば誰かが気付くだろうし、やっぱりおまわりさんに見つかったらひどく怒られるだろう。

たまきの目には、スプレーの落書きの方は、少し歪んでいるように見えた。おそらく、描いた人はビルの隙間に入ったわけではない。隙間の外から、スプレーを吹き付けて描いたのだ。壁面に対して斜めに吹き付けたので、少し歪んでしまったのだろう。

あの壁にはステッカーもたくさん貼られていたけど、それなら人目を忍んで隙間に入って、貼り付けたらすぐに出ればいい。

だけど、鳥のラクガキは筆で書かれているように見える。となると、スプレーやステッカーと違い、何分かのあいだ狭い隙間に入って、肘を満足に動かせないような状況で器用に描かなければならない。

……何のためにそんなことを?

たまきは、フェンスのむこうの鳥の絵をふしぎに見つめていた。それはさながら鳥かごの中の鳥のようでもあり、一方で、実は鳥かごに囚われているのはたまきの方なのではないかという、奇妙な錯覚を起こさせる、そんな絵だった。

つづく


次回 第37話「イス、ところにより貯水タンク」

次回、新キャラ登場?続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第35話「ねこのちネコ、ところにより猫」

ミチと共にオダイバへと来たたまき。たまきとの間に隔たりを感じるミチは、たまきに「タメ口で話さない?」と提案してみたところ……。あしなれ第35話、始まるぜ。

第34話「モノレール、のちブレスレット」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです

「で、このあと、どうするの?」

「え、じゃあ、テレビ局見に行かない?」

「……さっき見た」

「そうなんだけど、せっかくお台場に来たんだから、もっと間近で見てみない? 芸能人とかいるかもよ」

「……別に、芸能人とか興味ない」

と、たまきが言った。いつもと口調が違うけど、これはたまきである。

そうしてたまきは、

「まあ、ミチ君がそうしたいなら」

と言うと、ミチの横を並んで歩きだした。

商業施設、もとい、モールの中の大通りを、出口に向けて歩いていく。

しばらく、二人は無言だった。

話を切り出したのは、意外にもたまきの方だった。

「こういうお店のタイルって、見てるとおもしろいよね」

「え? タイル? ……床の?」

「……うん、床の」

「床の……タイル……」

たまきに言われて、ミチは初めて、床のタイルに目を向けた。

「タイルだけの美術館とかあったら、行ってもいいと思う」

「美術館?」

「……ミチ君は、美術館にはいかないの? その……デートとか」

「行かないよ。たまきちゃんは行くの?」

「……デートに行ったことがないんだけど」

「そうじゃなくて、美術館に」

「……一応、美術部だったから、部活で何回か行った」

そこで会話は途切れてしまった。

なんだか気まずくなり、ミチは何か会話のとっかかりはないかと、あたりを見渡す。

ミチのすぐ横には日常雑貨のお店があった。目立つところに、マグカップがいくつか並べられていた。コラボ商品らしく、絵本やアニメのキャラクターが描かれている。

「こういうのとかさ、かわいいとか思わないの?」

ミチはたまきの肩をたたいて呼び止めた。

たまきは足を止めた。そして、何か吸い込まれるかのように、マグカップに視線を投げた。

やっぱりたまきだって、女の子なのだ。床のタイルばっかり見てないで、こういうものにも心惹かれるのだ。

……だけど、たまきの口から出てきた言葉は、ミチの想像していたものとは違っていた。

「……マグカップは……キライ」

「……え?」

ミチは、たまきの言っている意味が分からなかった。マグカップが嫌いだなんて、そんな人間いるのか。特に害なんてないじゃないか。

「家に……マグカップがあったの……。お父さんとお母さんと、お姉ちゃんと私の、四人分。同じお店で買ったもので、それぞれ動物の絵が描いてあったの」

「……ああ、家族でおそろい、ってやつ?」

「……それがリビングにある戸棚の、いちばん見えるところに飾ってあって……」

たまきは、そこでうつむいた。

「……いやだった」

そういうと、たまきはその場を離れてしまった。

 

二人は、モールの外へと出た。テレビ局は大通りを挟んで反対側にあり、道路の上はモノレールが走っている。

再び、話しかけたのはたまきの方だった。

「モノレールって、かわいいよね」

「は? モノレールが?」

「うん。なんだか、枝の上をもにょもにょ動いてるイモムシみたいで、かわいいと思う」

「い、いもむし……」

「私、今日初めてモノレールに乗ったんだけど、なんか自分が幽霊になったみたいで、……ちょっと、面白かった」

「あ……うん……」

「人って死んだらあんな感じかな」

「……そうなんじゃないかな」

そういいながらも、ミチは頭の中でたまきの話を整理してみる。「あんな感じ」の「あんな」とはどんなだ。幽霊のことだろうか。モノレールのことだろうか。いもむしのことだろうか。もしかしたら、さっきのタイルのことを言っているのか。

そもそも、さっきのモールの中でかわいい洋服やアクセサリーを見ても一言も「かわいい」とは言わなかったのに、ここにきて「モノレールがイモムシみたいでかわいい」とはどういうことだ。

信号が変わり、二人は道路を渡って、テレビ局の前にある広場へとっやって来た。

ミチの横をぴったり歩くたまきだったが、テレビ局を仰ぎ見ながら、ぴたりと立ち止まった。

「ん? どしたの?」

「……テレビ局、見た」

そういうと、たまきはミチの方を向いた。

「……それで、どうすれば……?」

「……どうすればっていうのは……?」

「ミチ君がテレビ局見ようって言って、ここにきて、テレビ局を見て、それで、どうすれば……」

「え、えっと、なにか感想とか……」

そう言われて、たまきは黙ってしまった。

しばらくして、たまきの方から質問してきた。

「……なんて感想言えばいいの?」

「え、えっと、例えば、『わ~、本物だ~!』とか……」

「……ニセモノのテレビ局があるの?」

「いや、ないけど……」

「ニセモノがないのに、本物だって感動するの、おかしいよね? おかしくない?」

ミチは何も答えなかった。

「それで……この後どうすれば……」

そう言われて、またミチは黙り込む。

正直、モールに行った後のことなんて、全く考えていなかったのだ。

モールに行った後は、「次、どこ行く~」「ここ行ってみようよ~」という流れに、「ごく自然に」なると思っていたので、「この後どうすれば」と一方的に指示を待たれると、それこそ部活の先輩が後輩に指示しているみたいで、面白くない。

「えっと、じゃあ、海行ってみようよ」

とっさの思い付きだった。モールにも、テレビ局にも、たまきは食いつかない。これ以上「施設」を巡っても、何の反応もないような気がする。

たまきは無言で頷いた。

だが、一分ほどたった時だった。

海に行くにはもう一度道路を渡らなければいけない。モノレールの駅が道路をまたぐようにして作られているので、そこを通路として使うことにした。その階段でたまきは立ち止まった。

「……どうしたの?」

「……海を見たら、私は何て言えばいいの?」

 

モノレールは海を渡り、倉庫街の上を泳ぎ、マンションの合間をすり抜けていく。

たまきとミチは、オダイバから帰るモノレールに乗っていた。

時刻はランチタイムを少し過ぎたあたり。オダイバから帰る方向のモノレールは、比較的すいている。

結局、二人は海には行かずに、そのまま帰りのモノレールに乗った。

帰る、と決まってからの二人は、必要最低限の会話しかなかった。

たまきがしゃべらないのはいつものこととして、ミチが黙ってしまったのは、考え事をしているからだ。

たまきとさっぱり会話がかみ合わない。モールに行ってもお店ではなくタイルを見てる。マグカップはなぜか嫌い。モノレールをかわいいという。テレビ局を見ても何の感想もない。本当にミチと同じ場所を巡っていたのだろうか。

ミチは隣に座るたまきの方を見た。たまきはじっと正面を見据えたまま、ミチの方など見ようともしない。

ミチはたまきに対して、どこか隔たりを感じていた。隔たっているうえに、間に壁を築かれてしまっている、そんな感じだ。

もちろん、ミチはたまきに対して、距離をとっているつもりも、壁を作っているつもりも、ない。むしろ、積極的に近づこうとしているのだ。だから、喜ぶだろうと思ってオダイバのモールに連れてきたのだ。良かれと思って、アクセサリーを買ってあげたのだ。

だけど、その様もはたから見ると、部活の先輩後輩程度のものにしか見えなかったらしい。思えば、この時からすでに隔たりを感じていた。

だからミチはたまきに、「敬語をやめてみないか」と言ったわけだ。それに対してたまきは、心底嫌そうな顔をしたけれど、一応は応じてくれた。

なぜだろう。ため口になった時の方が、隔たりの上に壁まで築かれていると感じてしまうのは。

もしかして、たまきが言っていた「敬語の方がラクだ」という言葉は、あれは本当だったんじゃないか。

ミチとしては、敬語は堅苦しくて疲れるだろう、友達なんだし、ため口の方が気が楽だろう、と思って言ってみたわけだが、今日わかったことは、たまきはミチの感覚とは大幅にずれている、ということだ。ミチが考える一般論はたまきには通用しない。

ミチは、施設で飼っていたクロを思い出した。クロは頭をなでてやると、しっぽをばたばたとふっていた。それはネコにとっては嫌がっているサインなのだそうだ。

今にして思えば、クロは騒がしい人間のガキンチョなんかに、近寄って欲しくなかったのかもしれない。

じゃあ、クロはミチたちのことが嫌いだったのかと言うと、そうも言いきれない。餌を食べ終わった後も、クロは施設の中をうろうろしてたし、ミチたちが遊んでいるところにやってきて、近づきはしないけど、少し離れたところからその様子をぼおっと眺めていたことならよくあった。誤ってクロのそばにサッカーボールが飛んで行っても、逃げずにミチたちの遊びを眺めていた。

やっぱりあの距離が、クロにとっては理想の距離だったのかもしれない。それ以上近づいたり、ましてや触ってきたりすると、嫌がる。

ただ、嫌がるわりには、頭をなでられたクロが逃げ出したり、引っかいたりするようなことは一度もなかった。じっとしたまま、だまって、しっぽをばたばた振っていただけだ。ミチが抱っこをした時だって、なんだかぶぜんとした表情だった気がするけど、やっぱりじっとしていた。

もしかしたらクロは、子供たちが思う「理想のネコ」を演じていたのかもしれない。

エサをもらっている身だし、寝床を借りることもある。ガキンチョどものこともそこまでキライじゃない。ここはおとなしく「人間になついている、かわいい野良猫」のフリでもして、なでられておいてやるか。そうすれば、ガキどもも満足だろう。

「たまきちゃん」

ミチは、隣に座るたまきに声をかける。

「……何?」

「……しゃべり方なんだけどさ、たまきちゃんがラクな方でいいと思うんだ。だから、その、無理して俺に合わせなくても……」

そこでたまきは一度、深いため息をつくと、ミチの目を見た。

「……だから、私はこういうしゃべり方のほうが楽なんですって、最初に言いましたよね」

なんだか、久しぶりにたまきと目が合った気がする。オダイバにいる間、たまきがミチの方を見ることはあっても、目線は合わなかったんじゃないか。

「ミチ君って、自分がしゃべりたいことだけしゃべって、私が言ってることは、全然聞いてないですよね」

「そ、そうかもしれません……」

なぜか、ミチまで敬語になってしまった。

「私、あんまりしゃべらない方ですよ」

「……知ってます」

「なのに、たまにしゃべった内容も聞いてなかったってなると、……怒りますよ」

「ごめんなさい」

「ミチ君のそういうところ、私、キライです」

“素”に戻ったたまきは、いつもより饒舌だ。

「その……さ……、たまきちゃんさ、俺が、海乃さんの代わりにたまきちゃんをオダイバに連れてきたんじゃないかって言ったじゃん?」

「……はい」

「それって……やっぱり……いや?」

そこでたまきは再び、深いため息をつく。

「……いやじゃない人って、いるんですか?」

「……おっしゃる通りです」

「……わかってますよ」

「……え?」

「ミチ君が、別にわざとそういうことしてたわけじゃないってことくらい、わかってますよ。もしかしたら、私に言われるまで、自分でもはっきりとは気づいてなかったんじゃないですか?」

ミチは答えられなかった。

「……まあ、いいですけど」

ミチは、たまきが一瞬微笑んだようにも見えたが、気のせいだったかもしれない。

「でも、私、ゆうべ言いましたよね。『期待にはこたえられない』って」

たまきは、わざとミチから視線を外した。

「ミチ君って、本当に私の話、聞いてないんですね」

 

がたん、ごとん。がたん、ごとん。

モノレールから電車へと乗り換えて、東京駅でさらに乗り換えて、二人はシンジュクへと帰ろうとしていた。

「……たまきちゃんさ」

「……はい」

「六時までまだだいぶ時間あるけど、もうこのまま帰る?」

たまきは、何も答えなかった。

電車がどこかの駅に停まり、ドアが開いた。

突然、ミチは立ち上がった。

「たまきちゃん、降りよう!」

「え……?」

ミチは、たまきの手を引っ張った。つられてたまきも立ち上がる。

そのまま二人は、電車を降りてしまった。たまきの後ろでドアの閉まる音がした。

「待ってください……! 何か用事でもあるんですか?」

「……別に」

「この街って、何があるんですか?」

「知らねー」

そのままミチは、たまきの手を引っ張ってぐいぐい進む。

改札を出たところで、たまきはミチの手を振り払った。

やっぱり、ちょっと強引すぎたかな。また文句を言われてしまう。

ミチがそう思った時、たまきが口を開いた。

「……まあ、ミチ君がそうしたいなら」

 

画像はイメージです

改札の外には、商店街があった。とはいえ、周囲に住宅はほとんどなく、灰色のビルがあたりを囲んでいる。

ふりむくと、二人が出てきた駅があった。線路は高架の上を走り、駅舎には焼けたような色をしたレンガが、外壁にあしらわれていた。

周りを歩くのは、スーツ姿のサラリーマンが多い。すくなくとも、オダイバよりは安心できる、とたまきは感じた。

「……それで、この後どうすれば……」

「そうだなぁ。シンジュクは西の方だからあっちか……。」

ミチは商店街の奥の方を指さした。

「とりあえず、あっちのほう行ってみようか」

「え……、ここからシンジュクまで歩くんですか……?」

たまきは不安そうにミチを見た。

「いや、それはさすがに無理だけどさ、ま、とりあえず、いけるとこまで行ってみようよ」

「……とりあえず」

とりあえず、たまきとミチは歩きだした。ミチはサッサカと歩き、そのななめ後ろをたまきは黙ってとぼとぼとついていった。

午前中に比べればだいぶ口数は減ったが、時折ミチはたまきに話しかけ、その都度、たまきは「まあ」とか「さあ」みたいな返事を返した。

大通りを渡ると、あたりはオフィス街になっていた。何十年も前からあるような、コンクリートでできた古いビルが並ぶ。地面も灰色のアスファルト。なんだかモノクロ写真の中に迷い込んだみたいで、空だけがやけに青い。

ミチが立ち止まった。たまきも立ち止まる。

「悪い、トイレ行ってきていい? さっきのコンビニにあると思うからさ」

一、二分前に渡った大通りにコンビニがあったのを、たまきも記憶していた。

たまきは無言で頷き、ミチは来たミチを駆け足で戻っていった。

ふうっとたまきはため息をついた。

周りにあるのは、何かの会社が入ったビルばかり。あとは、駐車場。駐車場に止まっている車まで、グレーとブラックばっかりだった。特に暇をつぶせそうなものは見当たらない。

駐車場の脇にある、赤い自動販売機が目に入った。グレーばっかりの世界では、それなりに鮮やかに見える。

自販機でも見ながら、ぼおっと待ってようとたまきが近づくと、駐車場の車と車の間で何かが動いた。

のぞき込んでみると、何かが飛び出して、車のボンネットの上に飛び乗った。

「わっ」

飛び出してきたのは、三毛猫だった。

「ねこ……」

続けてさらに二匹、車の隙間から飛び出して、ボンネットへと飛び乗った。白猫と黒猫だ。白猫は三毛猫の隣に座り、二匹の間に隠れるようにして、黒猫がたまきを見ている。

三匹は、たまきのことをじっと見ていた。

とりあえず歩いていたら、トリにあわずに、ネコにあった。

たまきは、ねこに近づいてみた。ねこたちは逃げるそぶりを見せない。

三毛猫がにゃあと鳴いた。

たまきは、左手を伸ばしてみる。

三毛猫の毛先に手が触れた。

三毛猫はボンネットの上に寝そべった。

たまきの左手が、おそるおそる動き、三毛猫の背中をなでる。ねこの肌の感触が手に伝わる。なんだかゴムの風船みたいで、力を入れたら壊れてしまうんじゃないかと思うと、急に怖くなった。

「……あなたたち、野良猫ですか?」

三毛猫がもう一度、にゃあと鳴いた。

ふふっ、とたまきは笑った。

「私はあなたたちに似てるそうです」

たまきはねこに話しかけた。

「でも、そんなわけないと思うんですよ。私の方が大きいですし、私は二本足で歩きますし、しっぽだってありません。全然似てませんよ、ねぇ。ほら、毛の色だって違う」

たまきは、奥にいる黒猫の方を見た。

「……あなたは、私と毛の色がいっしょですね。……あと、そうやって前に出てこないのも、なんだか似てる気がします。そうですね、この三匹の中だったら、あなたが一番似てるかもしれませんね」

たまきの左手が三毛猫を優しくなでる。

「ここでみんなで一緒に暮らしてるんですか? 仲良しなんですね」

今度は、白猫がにゃあと鳴いた。たまきの少し後ろの方を見ている。

「どうしたんですか? ……自販機のジュース飲みたいんですか? まさかそんなわけ」

振り向くと、ミチがレジ袋をぶら下げて立っていた。にやにやと笑っている。

たまきは、気まずそうにミチを見た。左手は三毛猫の背中に当てたまま、固まっている。

「なんか誰かとしゃべってるなぁ、と思ったら、ネコに話しかけてたの? っていうかたまきちゃん、なんでネコにまで敬語なのよ」

「べ、別に……」

「なんかさ、人間と話す時より、ネコに話しかけてる時の方が、饒舌じゃない?」

「そ、そんなわけ……」

ボンネットから白猫が飛び降りて、たまきの足元に寄ってきた。

「よし、そのまま、そのまま」

そういうとミチは、携帯電話のカメラを起動した。

「……何やってるんですか」

「せっかくだから、撮ってあげるよ」

「……やめてください」

たまきは、ミチから目線をそらした。

「一枚くらいいいじゃん」

「……ヘンなことに使わないでくださいよ」

「ヘンなことってどんな?」

たまきは口をとがらせて、ほおを赤らめた。わかってるくせに、たまきが恥ずかしがるだろうと思ってわざと聞いてくるのだ。柿の実をぶつけて楽しんでいるのだ。

「大丈夫だって。姉ちゃんに見せるだけだから」

「……そうやってまた、私がねこに似てるとか言って、二人でからかうんですね」

そういいながらも、ヘンなことに使われるよりかはましだとたまきは考えていた。ミチやミチのお姉ちゃんが、たまきのことを本気でバカにしてるわけではないこともわかっている。

ゆうべの布団のこともある。あまり気は進まないが、ちょっとぐらい被写体になってもいいか。

「それで、私はどうすれば……」

「ん? さっきみたいに、ネコと戯れてればいいよ」

たまきはしゃがむと、白猫の頭をなで始めた。白猫は気持ちよさそうににゃおと鳴く。

「よーし、そのままネコを抱っこしてみようか」

「一枚だけ」と言いながら、すでに3枚は撮影されている。たまきは憮然としながら、白猫を抱え上げた。人に慣れたねこなのか、身動きをしない。一方で、黒猫は相変わらず、ボンネットの上からたまきを見ているだけだ。

「ほら、たまきちゃんこっち向いて」

たまきは首だけカメラの方に向けた。

「ほら、笑って」

たまきの表情は変わらない。

「機嫌悪そうに見えるよ。ほら、笑って」

たまきは笑いはしなかったが、表情筋が緩んだのか、さっきよりは柔和な顔つきになった。

ミチは、携帯電話を下ろした。

「笑ってよ~。さっきネコに話しかけてた時は、笑ってたじゃん」

「……気のせいです」

「ねえ、俺も抱っこしたい」

「……落とさないでくださいよ」

「大丈夫だよ。オレ、施設でネコ飼ってたことあるし」

たまきは白猫をミチに渡した。

そして目線を、黒猫の方に向けた。

この黒猫は、触られたり抱えられたりするのは好きではなさそうだ、たまきはなぜかそんな風に思った。三毛猫が黒猫を守るかのように、たまきと黒猫の間に陣取っていた。

たまきは振り返って、白猫を抱いているミチを見た。

「……なんか、ミチ君のネコの持ち方、雑ですね」

「……いや、そんなことないっしょ」

「……携帯電話をいじってる時と、触り方がいっしょです」

「そんなわけないっしょ」

「本質的には、一緒です」

ミチは、納得いかないといった感じで、白猫を降ろした。白猫は仲間のもとへと走って行った。

「それとミチ君、一枚だけって言ってたのに、何枚か撮ってましたよね」

「ん? ああ、そういえば気づいたら」

「一枚だけにしてください」

「えー、いいじゃん。だから、姉ちゃんに見せるだけだって」

「見せてください。私が残す写真を決めますから」

ミチは渋々、画像フォルダをたまきに見せた。

「……これ以外全部消してください」

「これ? ああ、いちばん最後のやつね。わかったよ」

「……最後のやつが、一番かわいく撮れてたんで」

「自分が?」

「……ねこの方です」

たまきは頬をちょっぴり赤くして、そっぽを向いた。

「あ、そうだ。コンビニでおかしかったんよ」

「なにかおもしろいことでもあったんですか」

「いや、これこれ」

ミチはレジ袋の中から、ポッキーの箱を出した。どうやら「おかしかった」は「可笑しかった」ではなく、「おかし買った」だったみたいだ。

ミチは箱から一本ポッキーを出すと、腰をかがめて、たまきの目線の前に差し出した。

「ほら、おたべ」

「……もらいます」

たまきはポッキーを口にくわえた。

 

オフィス街からいつの間にか、お店がちらほらと増えてきた。

ミチが前を歩き、その少し後ろをたまきがついていく。

「だからさ、雑っていうのが納得できないんよ。オレ、こう見えてもネコ好きだよ。丁寧に扱ってるつもりよ」

「でも、私には雑に見えました」

「だから、もっと具体的に言ってよ。『雑』なんて漢字一文字じゃわかんないって」

「そんなの、言葉で説明できるものじゃないです」

「そっちの方が雑じゃね? たまきちゃんさ、『雑』って言葉に逃げてない?」

ミチはたまきの前を歩いているので、たまきの表情は見えない。見えないんだけど、カチンと音が聞こえたような気がした。

「……私が逃げる必要、なくないですか? 私は私が感じたままに言ってるだけで逃げる必要とかないですよね。なのに私が逃げてるって、おかしいですよね。おかしくないですか?」

「まあ、そうなんだけど」

「そもそも、ミチ君、ねこ飼ってたことあるんですよね。私よりねこについていろいろ経験してるんですよね。だったら逆に、説明しなくたってわかりますよね、いろいろ経験してるんだから」

「またその話か……」

「はい、またその話です。だってミチ君、ゆうべ、私が恋愛のことわからないのは、経験してないからだ、経験すれば言葉で説明しなくてもわかるって言ってたじゃないですか。だったら、ねこの扱い方を私より経験しているミチ君が、具体的に言われないとわからないのって、おかしいですよね。おかしくないですか?」

ああ、また怒られるのね、とミチは振り返って、たまきを見た。そして、あれっと思って足を止めた。

「……今、笑ってたでしょ」

「……気のせいです」

たまきはミチから視線をそらした。

ほどなくして、周りに大きなビルが増えてきた。二人は裏路地を出て、大通りを歩き始めた。

そのあたりから、ミチがしきりに首を傾げ始めた。

「どうしたんですか」

後ろを歩くたまきが声をかける。

「いや、思ってた場所と、ちがうところに来てる気が……」

ミチは正面に見える、商業ビルの群れを見ながら言った。

「あれ、アキバじゃね?」

「……アキハバラじゃダメなんですか」

「いや、全然方角ちがうよ。だってアキバだと……」

二人は川にかかる橋を渡ろうとしていた。ミチは道路わきにある地図を見ていたが、やがて

「え、なんで!」

と声を上げた。

「どうしたんですか」

「やっぱりここ、アキバだよ!」

「……アキハバラじゃダメなんですか?」

「だって俺ら、西に向かって歩いてるつもりだったのに、いつの間にか北に向かって歩いてたってことになるんだぜ」

西と北。たまきは指であっちを指したりこっちを指したりしながら、その位置を頭に思い浮かべた。北が上で、西が左。

……ぜんぜん違うじゃないか。

「え?」

たまきも地図をのぞき込んだ。

「私たち、西に向かって歩いてるつもりが、北に向かって歩いてたってことですか? 最初から?」

「いや、そんなわけねぇって。駅を出た時は、確かに西に向かって歩いてたんだから」

「じゃあ、どこかで間違えた?」

「どこで間違えるんだよ。ずっとほぼまっすぐに歩いてきたんだぜ」

二人は、駅から歩いてきた道のりを思い出した。どこか間違えるポイントがあったとすれば……。

ミチがトイレに行って、たまきが猫と遊んでた、あの駐車場しか思い浮かばない。

二人は地図を見ていたが、やがて、お互いの顔を見合わせた。

そして、どちらからというでもなく、笑い始めた。

はじめは、くすくすと。やがてミチが耐えきれなくなったかのようにゲラゲラと笑い出すと、つられてたまきからも笑い声が漏れてきた。

「じゃ、じゃあ、俺ら、あの後ぜんぜん違う方角に歩き出してたってこと?」

「そ、そうなりますね」

「たまきちゃん、気づいてよ」

「ミチ君こそ」

「二人とも気づかなかったって、あ、ありえる?」

通りがかった人が、この二人はなにがそんなに面白いのだろうと、不思議そうに眺めていく。だけど、気づいていないのか、気にしてないのか、二人は笑うことをやめない。

「い、いま、笑ってるでしょ?」

ミチが肩で息をしながら言った。

「だって、二人ともぜんぜん違う方角に歩き出してるのに、二人とも気づかなかったって、おかしいですよね。おかしくないですか」

たまきはだんだん、道端でバカみたいに笑っているのが恥ずかしくなってきたのか、顔が赤くなってきた。

「いや、ウケるし」

そういうとミチは大きく呼吸し、息を整えた。

「まあ、電車乗っちまえばすぐ帰れるから、別に西に行こうが南に行こうが、どっちでもいいんだけどさ」

「ですよね。どっちでもいいですよね」

「じゃ、アキバにでも寄って帰ろうか。アキバからだったら、たぶん乗り換えなしで帰れるんじゃないかな」

そういうとミチは歩き始めた。そのあとをたまきがついていく。

ミチの後ろを歩きながら、たまきは思い出したのか、一回、くすっと笑った。

 

画像はイメージです

アキバの人混みは、オダイバのおしゃれさんとはまた違った感じだった。ごく普通の人たちの中にたまに、それこそマンガやゲームから抜け出してきたような恰好の人たちがいる。

それでも、たまきにとってはまだ居心地がよかった。「おしゃれ」にくらべたらまだ「奇抜」の方が幾分かましである。

「メイドカフェいかがですか~」

やけにフリフリの格好をした女性がたまきに近づいて、声をかけた。おそらく、何かのお店の勧誘なのだろうけど、それにしても「冥土カフェ」とはどういう場所か、ちょっとだけ気になった。きっと、えらく陰気なカフェなのだろう。

大通りに出ると、よりいっそうアキハバラという街の特異性が見えてきた。

右も左もアニメやマンガ、ゲームの広告ばかり。オダイバにはあんなにあった洋服屋なんてほとんどなく、マンガのお店、ゲームのお店、家電のお店、何かよくわかんないお店と、いろんなお店が並んでいる。

もちろん、おしゃれ警察も、おしゃれ軍隊もいない。いや、おしゃれな人はいるのだ。だけど、「女子とはこうあるべきよ!」みたいな、圧力をそこに感じない、その意味では、たまきは幾分ラクだった。

ふと、目に入ったアニメの広告に目が留まる。主人公なのかヒロインなのか、美少女がでかでかと描かれていた。露出が大胆だが、奇抜なデザインの服を着ている。

「そのアニメ、好きなの?」

ミチが声をかけた。

「いや、別に……。ただ、私もこんな絵が描けたらな、って思って……」

亜美の似顔絵のように、実在する人物に似せて描いたことはある。だけど、アニメのキャラクターみたいに、実在しない人物を想像だけでデザインして描くということは、今までやったことがなかった。いつも描いているのも風景画ばっかりで、おまけに、実物にちっとも似やしない。存在しないものを描くなんて、よくよく考えると、すごいことじゃないか。

たまきはミチの方に視線を向けた。次にミチの視線の先にあるアニメ少女の方を見て、もう一回ミチの方を見た。

「……いやらしいところ、見てますよね」

「み、みてないし」

ミチは広告から目線をそらした。

 

二人は、アキハバラの街をしばらくうろついた。どこかのお店に入ることはなかったけれど、変わったお店が多くて、看板を見ているだけでも、まあまあおもしろい。

「お、このビル、3階にミリタリーショップあるって」

「みり……」

「バンドやってる先輩にミリオタがいてさぁ。サバゲーとかするんだって。」

「さば……え……なんですか?」

「こっちにはボドゲカフェあるってさ」

「ぼど毛……」

「知らない? ボドゲ。ボードゲームのことだよ。人生ゲームとか……」

「ああ……」

たまきは、わかったようなわからないような顔をした。

相変わらず、ミチが一方的にしゃべり、たまきがそれにハイとかマアみたいな返事をする。

そんな風にしながら町をまわっていろいろ見ていたが、ミチがふと、足を止めた。

「たまきちゃんさ……」

「なんですか?」

「……疲れてる?」

「……まあ」

図星だった。電車を降りてから、普段のたまきでは決して歩かないようなキョリを歩いているのだ。

「どっかお店入ろうか」

ミチは、周りを見渡した。二人はいま大通り沿いにいて、見渡せばいろんな看板が見える。飲食店も見えるが、多すぎてむしろ選べないぐらいだ。

その中の一角を、ミチは指さした。

「たまきちゃん、カラオケ行こうぜ」

「……え?」

ミチがさしていたのは、カラオケ屋だった。

「私、歌うのはちょっと……」

たまきの不安を察したのか、ミチが言葉をつづける。

「俺、勝手に歌ってるから、たまきちゃん、座ってゆっくりしてるといいよ」

たまきは、答えない。

「……こういうことできるの、たまきちゃんとだけだし」

「……と言いますと」

「いつもさ、俺の歌、隣で聞いてくれてるじゃん」

「……まあ」

「一人でカラオケ行ってもいいんだけどさ、やっぱ、聞いてくれる人がいる方が、楽しいし……」

たまきはしばらく黙っていたが、無言で頷いた。

 

宇宙船を彷彿とさせる近未来的なデザインのカラオケボックスの一室で、たまきは、ミチが歌うのをずっと聞いていた。人の歌を歌っている時のミチは、迷いがないのか、いつもよりものびのびとうたっているような気がする。

ロックバンドの歌から、ダンスナンバー、しっとりとしたバラード、ちょっとジャズっぽい曲、さらにはラップの曲と、ミチは色んな歌を知っていた。もともと男性にしては高いキーで歌うミチは、女性の曲も器用にこなしていた。

その横で、たまきはメロンソーダを飲みながら、歌うことなく座っていた。ミチがずっとマイクを握っている状態だけど、たまきは歌うつもりがなかったので、問題ない。

また「なんか感想とかないの」と聞かれたらどうしようと思ったけど、特にミチは何も聞いてこなかった。

一時間ほどたった時、たまきはメロンソーダのおかわりをもらうために、部屋を出た。

おかわりをもらって部屋に戻るとき、制服を着た女子高生数人とすれ違った。

これがウワサに聞く「高校の放課後でカラオケに行く」というやつか。

もし、たまきが普通に高校に通っていたら、そんな青春を送っていただろうか。学校に行けば友達ができる、なんて思えるのは、たまきにしてみればそれだけで幸運なことなのだ。

たまきは学校に通っていても友達はできなかった。

そして、学校に行けなくなった。

だけど、いまこうして、男の子とカラオケに来ている。

そう考えると、自分でも少しおかしかった。

たまきは、みんなが知っているようなキラキラした青春をしていないのかもしれない。

でも、みんなが知らない冒険をしている。

部屋のドアを開けると、ミチは歌わずに座っていた。

「歌わないんですか」

たまきが元居た席へ腰かけると、正面のテーブルの上に、マイクが置いてあった。

いくらたまきでも、それが何を意味するのかぐらいわかる。

「……歌わないって言いましたよね」

「あと三十分しかないんだし、一曲ぐらい歌ってよ」

そういうとミチは、少し身を乗り出した。

「亜美さんから聞いたぜ。けっこうかわいい歌い方するって」

またよけいなことを……。

カラオケに入力する機械をミチが手に取り、何やら操作した。たまきがマイクをもってどうしようかと迷っていると、いきなり音楽が流れ始めた。女性アイドルグループの歌だった。

「ちょっと……」

「だってこの曲、知ってるんでしょ」

昨日の夜、ミチが部屋で流した音楽で、確かに、とりあえず知ってる曲だった。

「でも、歌詞、知らないし……」

「いや、カラオケだから歌詞でるって」

たまきはじっとマイクを見つめていた。

「ほら、イントロ終わるよ」

ミチにそう促され、たまきはすうっと息を吸うと、マイクの電源をオンにした。

 

アキハバラの改札を抜け、シンジュクへと帰る電車のホームに二人はやって来た。人込みを避け、ホームの一番端っこで電車を待つ。あと数分でやってくるらしい。

「アキバってあんまきたことなかったけど、意外と楽しめたなぁ」

相変わらずミチは一方的に話しかけていた。

ふと、たまきの方を見ると、たまきは首を左に向け、ホームの先のさらにむこう側を見ていた。

西日が、ちょうどビルの中に吸い込まれて沈もうとしていた。

背負っていたリュックを体の前に持ってきていて、リュックの袋口に手をかけていた。

「夕日、めっちゃキレイじゃん」

「……はい」

「……もしかして、絵に描きたいとか思ってる?」

たまきは答えなかった。

「……俺のわがままに付き合ってもらったんだし、いいよ。描いたら?」

「……でも、時間かかりますし、もう電車来ちゃいますし、……いいです」

そういってたまきは、リュックを背負いなおした。

ふと、音がしたのでミチの方を見ると、ミチが携帯電話のカメラを構えて、西日の写真を撮っていた。

「じゃ、あとでこの写真見て描けばいいじゃん」

ミチはたまきに携帯電話の画像を見せた。眼前の光景が、小さなモニターの中に刻み込まれていた。

たまきは、何かを言いたそうに、ミチの方を見た。

「……どしたん?」

「……べつに」

ちょうど、電車がやって来た。

 

帰宅ラッシュの時間、それもシンジュク行きとあって混むのを覚悟していたが、幸運にも二人並んで座ることができた。

さすがに疲れたのか、電車に乗ってからはミチは黙っていた。

ふと、右肩に暖かな重みを感じた。

隣に座るたまきが、疲れて眠ってしまい、その頭がミチの肩に触れていた。

「なんだよ……」

いつもは、近寄りもしないくせに。

 

画像はイメージです

シンジュクの改札を抜けると、時刻はもう六時を回っていた。駅前の広場を、大勢の人が行きかう。

ミチはここで、私鉄に乗り換える。

「じゃあ、私、帰ります」

少し眠ってちょっとだけ元気になったのか、たまきの声に少し張りが戻ったようだった。

「じゃ、またね」

そういってミチは片手を上げた。

「その、いろいろとお世話になりました」

「ごめんね。いろいろ連れまわしちゃって」

「いえ……私……その……」

たまきはミチから視線をそらした。

「……楽しかったですよ」

「そ、そう。ならいいけど……」

「その……」

たまきは、少しためらいがちに、ミチの目を見た。

「……ありがと」

そういうとたまきは、回れ右をして、少し小走りに、雑踏の中へと消えていった。

ミチはその様子を見送り、ひとり呟いた。

「……ずるくね?」

 

「……絶対おかしい!」

志保は時計を見るなり、そういった。

「六時に帰ってくる、って話なのに、たまきちゃん、まだ帰ってこないなんて、絶対おかしいよ」

「いや、まだ六時十分じゃねぇか」

ソファの上に寝そべった亜美が、飽きれたように言った。

もう二人とも『城』に帰ってきている。ビルのオーナーが大阪に帰ったことも、ビデオ屋の店長に確認済みだ。

「だって、今までたまきちゃんが待ち合わせに遅れたことなんて、なかったよ?」

「いや、それ、あいつ最初から待ち合わせ場所にいて、一歩も動いてないってだけじゃね?」

亜美は夕飯代わりのフライドポテトをつまみながら答える。

「そもそもさ、たまきは時計もケータイも持ってないんだぜ。そのたまきが時間ぴったりに帰ってくる方がむしろおかしいだろ」

「やっぱり、ミチ君と何かあったんじゃ……」

「ひょっとしたら、もう一泊するとかあるかもしれねぇな」

その時、入り口のドアが開いた。

「ただいまです……」

「お、おかえりー」

たまきが靴を脱ごうとすると、志保が駆け寄ってきた。

「大丈夫だった、たまきちゃん? ひどいことされなかった?」

「おい、正直に言えよ。どこまでヤッた?」

たまきは、疲れたようにため息をついた。

「志保さんが心配するようなことも、亜美さんが期待するようなことも、別になかったですよ」

「そう……ならいいけど」

「なんだ、つまんねぇな」

「ただ……」

そういうと、たまきはソファの上に寝転がった。

「私の人生にも、こういうことって起こるんですね」

「え?」

亜美と志保はたまきの顔を覗き見たが、たまきはすでに、まるで電池が切れたかのように眠りに落ちていた。

「え、なに? どういう意味?」

「おい! ×××ぐらいはやったんだよな?」

二人の声を子守唄代わりに、たまきは夢の中へと落ちていった。

つづく


次回 第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」

街中で落書きを見つけた三人。「ウチらのナワバリで勝手なことしやがって。と憤る亜美に対し、たまきはその落書きに妙に魅かれて……。

つづきはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」