小説:あしたてんきになぁれ 第6話 強盗注意報と自殺警報

ライブハウスでの財布盗難事件も無事解決し、3人の新たな生活が始まった。依存症治療の施設へ通い出した志保。一方、留守番をしていたたまきのもとに、思いもよらない人物が現れて……。

「あしなれ」新章スタート!


第5話 どしゃ降りのちほろ酔い

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

写真はイメージです

まだまだ暑い日が続く。日差しがアスファルトをフライパンのように焼き付け、蝉の声が調味料として降りかかる。立ち上る陽炎は、さながら料理から溢れる湯気のようだ。

少年は公園の階段でギターを奏でながら、オリジナルのラブソングを歌っていた。軽やかなリズムでギターをストロークする。はじける弦の感触がピック越しに伝わる。

少年は仲間内からは「ミチ」と呼ばれていた。

日差しに負けじと、蝉に負けじと、声を張り上げて歌う。

だが、それに耳を傾ける者は誰もいない。階段の下に広がる広場では、若者がスケボーに興じるが、距離からかんがみて、おそらく、ギターの音がかろうじて聞こえるくらいだろう。ミチのわきを通り過ぎる者もいるが、目を向けることはあっても、足を止めることがない。

正直なところ、ミチも何のためにここで歌っているのか、わかっていない。

練習、というわけでもない。かといって、ストリートライブ、というわけでもない。ストリートライブをするには、人通りが少ない。

何のために、誰に向かって自分はここで歌っているのか。

そう考えた時、ミチの頭に、以前、この場所である女の子としたやり取りを思い出した。

一曲終った後、何も考えずに「ありがとうございました」とつぶやいたミチ。その時、彼の隣にいた女の子に、誰に対していったのか問われたことがあった。

その問いかけにミチはすぐに答えを出せなかった。ふと、口をついて出た言葉が「世の中」だった。

それを聞いた女の子は、あきれたような顔をしていた。

あの時、「世の中」なんて言う変な答え方をしたのは、曲を誰かに聞いてほしかったからだと思う。

ただ、それが特定の誰かではないし、「通行人」ですらない。よくわからない「誰か」に聞いてもらいたい。それが「世の中」なのだろう。

「世の中」に聞いてもらいたいから、密室ではなく、かといって聞いてくれる人がいるわけでもない、だだっ広い公園で歌っているのだろう。

いや、たった一人、彼の歌に耳を傾けてくれる女の子がいた。

女の子の名はたまき。ごく最近出会った、同年代の女の子だ。

ミチの中学校の先輩にヒロキという男がいる。そのヒロキの知り合いの女性とたまきは一緒に暮らしている。

たまきは週に一度か二度、この公園にやって来る。彼女は決まってミチの隣に腰を下ろし、絵を描いている。

一度だけ彼女の描く絵を見たことがある。青春真っ只中の年頃の女の子の絵とは思えない、暗い絵だった。鉛筆で公園を描いたものだったのだが、何ともおどろおどろしいものだった。見られたことが恥ずかしいのか、たまきは少し涙目だった。

たまきは変わった少女だ。常に死にたい死にたいとつぶやき、右手首には白い包帯が目立つ。

ミチの周囲にいる女性は、派手な人が多かった。不良仲間を見れば、派手な髪型に派手なメイク、誰を誘惑するつもりなのか谷間を強調するファッション。音楽仲間に至っては、ピンク色の髪をした女性もいる。

おしゃべりが好きで、男に対して警戒心がなく、なれなれしい。そんな女性ばかりだった。

たまきは、それとは真逆だった。黒い服を好み、化粧もしないし髪型も作らない。ほとんどしゃべらず、目を合わせない。極力肌を見せたがらず、触られるのを拒む。彼女が常にかけているメガネ、左目を覆う前髪は、どこか「世の中」を拒絶しているようにも見える。

決して人になつかない黒い猫。それが、ミチがたまきに漠然と抱いた印象だった。

 

太陽をスポットライトにしてミチは歌う。汗がたらたらと流れ、湯気にならないのが不思議なくらいである。「何よりも大切な人」とか「君を守り続ける」とか、どこかで聞いたことがあるようなフレーズを繰り返す。

と、隣に小さな影が歩み寄り、日陰に腰を下ろした。顔は見ていないが、そのたたずまいからたまきで間違いないだろう。

「ありがとうございました。今歌った曲は、『ラブソング』でした。」

誰でもない、「世の中」に対しFMラジオのような曲紹介をする。自分でも呆れかえるほどひねりのないタイトルだが、他に思いつかなかったので仕方ない。

一曲終ったところで、ミチは横にたたずむ影を見た。

やはりたまきだった。

だが、いつもとは様子が違っていた。

いつもなら、たまきの視線はミチをかすりもせず。スケッチブックと前方の景色だけに注がれている。会話を交わすことはあっても、たまきはミチのことをほとんど見ない。目を合わせることもない。

だが、今日は違っていた。ミチの右側の日陰に座ったたまきは、首を九十度左に向け、まっすぐにミチを見つめていた。いつもは貧血気味の肌も、心なしか紅潮している。ミチも思わず見つめ返す。

若い男女が見つめ合う、といえばロマンチックだが、たまきはメガネの奥の大きな瞳を見開き、口をとがらせ、まっすぐに攻撃的な視線を飛ばしてくる。つまり、睨みつけているのだ。

ミチが思わず視線をそらす。心当たりがあるからだ。

「……やっぱり、怒ってる?」

ミチが気まずそうにたまきを見ながら言った。たまきは睨んだままうなづいた。

「どうして助けてくれなかったんですか」

数日前、ミチのバンドのライブ会場で、バンドメンバーの財布が盗まれるという事件が起きた。その時、たまたま楽屋に入ってしまったたまきは疑われたのだ。

その件については今日の午前中にメールが来た。「真犯人」が友人に付き添われて謝罪と返金のためやってきたらしい。誰が犯人かは書かれていなかったが、全額帰ってきたことと、本人が深く反省し、誠心誠意謝罪したことから、警察沙汰にはしないそうだ。これにて一件落着。

だが、ミチにはまだ問題が残っていた。ライブハウスの楽屋でたまきが疑われていた時、ミチは助けを求めるたまきから目をそむけてしまった。

「……もちろん、誰が一番悪いかと聞かれたら、自分の言葉ではっきりと潔白を証明できなかった私です……。きっと誰かが助けてくれるなんて、そんなこと当てにしてません」

たまきはミチから目を離し、うつむきつつ言った。

「でも、ミチ君は私ともバンドの人とも知り合いなんですから、あの時何か言ってくれてもよかったじゃないですか」

たまきはそういうと、再びミチをにらみつけた。

「それとも、ミチ君も私が犯人だと思ってたんですか?」

「ま、まさかぁ」

ミチが取り繕うように笑いながら言った。

「お、おれだって、たまきちゃんがそんなことしたなんて思ってないよ」

「じゃあ、あの時そう言ってくれればよかったじゃないですか」

たまきはずっとミチをにらんでいる。ただでさえ目に生気がないうえに、あどけない顔だけに、睨まれると怖い。

「……俺さ、あのバンドの中では下っ端でさ……。ほとんどサポートメンバーに近いっていうか……」

言い訳にしかならないとわかっていながら、ミチは続けた。

「こういう風に路上で歌いたくて。でも、アカペラだと厳しいんだよ。何ていうか、アカペラで路上で歌ってても、よっぽどうまいやつじゃない限り、イタイじゃん?」

たまきが睨んだまま、こっくりとうなづいた。

「だから、ギターを弾きながら歌えればと思って、知り合いでバンドのリードギターやってる人に教えてくれって頼んだんだよ。そしたら、教える代わりに、バンドメンバー足りないからサイドギターで入れって言われて……」

「私は別に、バンドメンバーに逆らってくれとは言ってないですけど……」

「なんていうか、意見しづらいっていうか……」

たまきの納得できなさそうな顔を見て、ミチは申し訳なさそうに尋ねた。

「俺のこと、ちょっと嫌いになった?」

たまきはミチから顔をそらして答えた。

「もともと嫌いですけど」

「あ、そう……」

その答えは、ミチにとって心の片隅で予想していたものだった。

そのまましばらく二人の間に沈黙が流れる。空気を読まずになくセミの声がうっとうしく感じられる。たまきはスケッチブックをかばんから出すと、いつものごとく黙々と絵を描き始めた。ミチは沈黙に耐えかねるようにギターのチューニングを始める。

「……下っ端だからあんなにつまらなそうにしてたんですか?」

たまきがポツリと発した問いかけに、ミチが振り向く。

「え?」

「この前のライブです」

「俺、つまんなそうだった?」

たまきは無言で、ミチに横顔を向けたまま、こくりとうなづく。

「そうかぁ。やっぱりつまんなそうに見えちゃってたかぁ」

ミチはチューニングをやめ、天を仰ぐ。途端に太陽のまぶしすぎる日差しが、容赦なく視界を襲う。

「確かに、楽しんではねえよ。でも、別に下っ端だからってわけじゃねえよ。たしかに、他の4人より年も下だし、ちょっと気まずいけど、みんないい人だよ」

日差しに目を細めながらミチは続けた。

「つまんなそうに見えたのはギターに必死だったってのもあるけど……」

ミチは下を向いた。

「やっぱ俺、歌いてぇんだよ」

ミチは気づかなかったが、たまきはミチを見つめていた。

「こういうこというとさ、本気でギターやってるやつはふざけんなって思うかもしれないけど、俺は歌を歌いたいんだよ。唄うためにギターを弾きたいんだよ」

そういうとミチは、再びチューニングを始めた。

二人の間を涼しい風がなびく。

 

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都心から車で二十分ほど走れば、閑静な住宅街が広がる。赤土のレンガを用いた洋風のこじゃれた家が立ち並び、街路樹の緑葉がアクセントをつける。お店もカフェや雑貨屋とこじゃれたものばかりだ。

そんな街中にひっそりと、教会が佇んでいた。そんなに大きくはない。面積は家三軒分といったところか。

この教会は、薬物に限らず、アルコールやギャンブルなど、依存症患者への支援が手厚いことで知られている。

教会が主催している支援施設では、多くの人が入所したり通院したりして、あらゆる依存症と戦っている。

その支援施設の中の一室に、志保と京野舞が並んで座っている。二人の前には長机を挟んで、シスターの姿をした年配の女性が微笑んでいた。

「それで……、ドラッグを始めたのはいつ頃になるかしら」

シスターは志保に問いかける。シスターは手に黒いバインダーを持ち、その上には「問診票」と書かれた紙が志保には見えないようにおいてある。それまではドラッグから引き起こされる症状の話が主だったが、そのドラッグに手を出した頃の話に移ってきた。

「……高一の夏休みです」

志保は伏し目で答えた。

「ドラッグは誰からもらったの?」

「当時の彼から……」

少し頭が痛そうに、志保は顔をしかめた。

「ドラッグをやったきっかけは?」

「きっかけ……」

言葉に詰まる志保を見て、シスターは微笑んだ。

「いいわ。今日はここまでにしましょう。だいたい、入会に必要な情報も聞けたことですし」

志保は無言でうなづく。

「それでは京野先生、神崎さんは通院という形でよろしかったですわね」

「ええ」

舞が応答した。

「神崎さんはご自宅から通院する、ということでよろしかったかしら」

自宅……。何て言えばいいんだろう。まさか「不法占拠」なんて言えないし……。

志保は言い淀んだが、すぐに舞が代わりに答えた。

「はい。自宅からの通院です」

その声に志保は目を見開く。

「ご自宅ということはご家族と一緒に暮らしていらっしゃるのかしら」

シスターの問いかけに、またしても舞は毅然として答えた。

「はい、姉が一人に、妹が一人です」

え? あたし、一人っ子……。その言葉を志保は飲み込んだ。おそらく、姉というのは亜美を、妹というのはたまきのことを指すのだろう。

家族……。その言葉はぴんと来ない。

「ご両親とは一緒ではないのね」

シスターの言葉に、志保の眉が不安そうにふるえる。

「両親と同居していなければ、『通院』は認められませんか?」

舞が凛として訪ねた。

「そんなことはありません。患者さんによっては、両親や家族と離れた方がいい、という方もいらっしゃいますから」

「志保は今、わけあって両親と一緒には暮らしていませんが、この子の姉や妹も、まあ、ちょっと頼りないけど、私は信頼しています。両親がいない分は、わたしが主治医として責任を持って、この子をサポートします」

「お医者さんが親代わりなら、心強いわね」

シスターはそう言って志保に微笑みかけた。志保は、あいまいな笑みを返すにとどまった。

 

施設内の食堂でお昼ご飯を食べ、午後は見学ということになった。正直、疲れているので「城(キャッスル)」に帰って寝たいところだが、わがままも言えない。

そもそも、疲れてるのもまた、志保が原因なのだ。

数日前、志保はどうしても今すぐにクスリが欲しくなってしまった。その時、たまたま財布を「城」においてバンドのライブに来ていた志保は、楽屋に忍び込み、バンドメンバーの財布を盗んでクスリを買った。今日は教会に来る前に朝早くから、亜美に連れられてバンドメンバーのアパートを訪れ、謝罪と返金をしてきたのである。

朝だというのに部屋のカーテンは閉め切られていた。

志保が正座し、亜美は体育座り。机を挟んだ反対側に、被害者のバンドメンバーが胡坐をかいている。誰もが黙りこくり、外の大通りを走るトラックのエンジン音だけが聞こえる。

まず、志保が財布を返し、頭を下げて謝罪した。口を真一文字に結んだバンドメンバーが、しゃべりはじめる。

志保はある程度覚悟していたが、バンドメンバーには相当口汚く罵られた。自分が悪いとわかっていても、わかっているからこそ泣きたいぐらいに。

バンドメンバーが、警察を呼ぶと言った時、事件は起きた。

亜美がテーブルを蹴り飛ばしたのだ。軽いプラスチック製のオレンジ色のテーブルは宙を舞い、壁に叩きつけられ、ドンガラガンと音が鳴る。その音よりも大きな声で亜美が怒鳴る。

「てめぇ、志保がこうして恥を忍んで頭下げてんだろうが! 悪かったつってんだろうが! 金は全部帰ってきたんだろうがよ! 丸く収めるってことが出来ねぇのか!」

「何だと、てめぇ!」

「何だとはなんだてめぇ!」

亜美とバンドメンバーが互いに怒鳴りあう。互いに服を掴んで引っ張りあうので、つかみ合う二人はどんどん動き、そのたびに床に積んである雑誌が崩れ、棚の上の小物が落ちる。

志保は、亜美が自分の気持ちを口汚くも代弁してくれたことは嬉しかったし、結局一番悪いのは自分なのもわかっているが、それでも、謝罪の付添人としてこの態度はよくないんじゃないか、という思いを禁じ得なかった。

「てめぇ、ホントにケーサツ呼ぶぞ!」

バンドメンバーが怒鳴る。

「ああ、呼んでみろよ! 全員ぶっ殺してやるよ!」

亜美が社会に挑戦しかねない言葉を吐く。

「亜美ちゃん、とりあえず、落ち着いて!」

志保は亜美の右腕の入れ墨にほほを押し付け、肘を引っ張り、何とか二人を引き離そうと骨のように細い両腕に力を入れる。それとは別に冷静に考えている自分がいた。

謝りに来たのはあたしで、亜美ちゃんはその付添いのはずだったのに。

 

結局、何がどうなったのか、わずか数時間前のはずなのに、よく覚えていない。幸い、暴力沙汰にならなかったことと、亜美が貫録勝ちしてこちらの要求が通ったことは覚えている。

 

施設の中の一室に志保と舞は通された。白い壁で囲まれた部屋の中には長机が円卓のように並べられ、ホワイトボードが一つ置かれていた。そのわきには進行役の職員が立ち、机のまわりには施設の利用者なのであろう人たちが座っていた。志保と同年代であろう少女や、志保の親ぐらいの年齢の男など、まさに老若男女だ。

「これから、ここでミーティングが行われるのよ」

終始優しく微笑むシスターが説明してくれた。

「ミーティング……ですか?」

志保が尋ねる。今ひとつピンとこない。いったい何を話し合うというのだ。

「ミーティング、といっても、一般的な会議とは違うのよ。うちの施設では、毎回テーマを決めて、そのことを話してもらうの。自分の生い立ち、家族、夢、いろんなことを話して、みんなに聞いてもらうの」

「……聞いてもらうだけ、ですか?」

「ええ。」

微笑みシスターが返事をした。

進行役の職員がホワイトボードに、今日の議題を書く。

『依存症になったきっかけ』。それが今日のテーマらしい。

三十歳くらいの男性が話を始める。彼はアルコール依存症らしい。仕事のストレスからアルコールを飲む量が増えていった、という話をしていた。

話を聞きながら、志保は考えていた。

あたしが、クスリを始めたきっかけってなんだろう。なんだか漠然として、はっきりしない。

以前たまきに聞かれた時も、はっきりとは答えられなかった。

ただただ、明日が怖かった。

何であたしは、クスリに手を出したんだろう。

 

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教会の駐車場に停められた、舞の赤い車に、志保と舞は乗り込んだ。エンジンをふかし、静かな住宅街の路に滑り出す。進路を歓楽街に向けてとる。

「シロで降ろすから」

舞はサングラスをかけ、煙草をふかしながらハンドルを握る。「シロ」というのは志保が暮らすつぶれたキャバクラ「城」(キャッスル)のことらしい。

「次からは電車で一人で行けるな? 本当はお前を一人で外出させたくないんだけど、こればっかりはなぁ」

「……はい」

車は住宅街を抜け、大通りを走る。頭上には高速道路が続いている。10分もすれば、歓楽街に着くだろう。

「あの、先生」

助手席の志保が少し顔を舞に向けた。

「どうした?」

「その……、あんな嘘ついてよかったんですか?」

「嘘?」

「自宅通いって言ったり、家族と同居してるって言ったり……」

「ほんとのこというわけにはいかねぇだろう」

舞は右手でハンドルを握りながら、左手でくわえたたばこをつまみ、灰皿の上に軽く押しつけた。そして志保の方を見やって、にっと笑う。

「あの二人はまだ家族とは思えねぇか」

志保は軽くうなづいた。

「まあ、一緒に住み始めて、半月ぐらいか? お前としては、この前の事件の負い目もあるだろうしな」

志保はまた力なくうなづく。

「でもな、志保。お前があいつらのことをどう思ってようが、あいつらがお前のことをどう思ってようが、あの二人は自分たちがお前を支えると決めたんだ」

舞の後ろの車窓に、陽を浴びた街路樹が流れていく。

「だったら、お前のことを家族だと思って扱ってくれなきゃ、困る」

赤い車の側面を、南西から太陽が照らし出す。前方に並ぶ車の列を見て、舞は舌打ちをする。どうやら渋滞にはまったらしい。カーラジオからは、夕方ごろから天気が急変し、ゲリラ豪雨の恐れがあるという予報が流れていた。

 

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「うひゃー!」

亜美が「太田ビル」を出ると、外はものすごい雨だった。雨粒が銃弾のようにアスファルトをたたく。

「んだよ。さっきまで晴れてたのに」

亜美の愚痴も雨音にかき消される。

傘をさすと亜美は小走りに動き出した。たまきにはやむまで待ったらどうかと言われたが、亜美は待つことが苦手な性分だ。

小脇には3人の洗濯物を入れたビニール袋。これよりコインランドリーに洗濯に行くのだ。

今、『城』の中には結構なものがそろっている。テレビやビデオは亜美の稼ぎやごみ捨て場で手に入れたし、元がキャバクラで、夜逃げ同然で使われなくなったので、調理系の家電もそろっている。空調も万全だ。

だが、洗濯機はない。ましてや、風呂場などあるわけがない。なので3人はコインランドリーや、小さな銭湯を利用している。コインランドリーは亜美とたまきの2人でローテーションを組んでやっている。だが、「志保を一人で外に出すな」という舞からの通達があるため、志保は料理専門として洗濯担当から外されているし、外出が苦手なたまきを考慮して、亜美が洗濯に行く場合が多い。

コインランドリーまでは歩いて5分ほど。雨の中、亜美は小走りで駆け抜ける。

途中、背広を着た中年の男とすれ違った。ふと、気になり、足を止める。

なぜ気になったのか、亜美にもよくわからない。すぐにまた、コインランドリーに向けて駆け出した。

昼間の歓楽街に背広の人間はあまりいない。オフィスなんてほとんどない。居酒屋、エッチなお店、ヤクザの事務所……。背広を着て通勤するような場所はあまりない。

お昼時や夜なら食事や飲み会、エッチな目的で来たサラリーマンをよく見るが、午後3時、しかも雨となると、なかなかいないものだ。

 

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「亜美さん、大丈夫かな」

『城』の中で窓をたたく雨粒を見つめながら、たまきがつぶやく。昨日も大雨の中、亜美は洗濯に行った。「今日は私が行きます」と言えなかった自分が情けなくて嫌になる。

一人で「城」の中にいるのは、なんとなく心細い。もともと店として活用されていた広いスペースに一人でいるのだ。空間を持て余してしまう。聞こえるのも空調の音と、ガラスの向こうの雨音だけだ。

たまきはソファの上に横になると、静かに目を閉じ、物思いにふける。

今日、ミチから聞いた話は、たまきをますますわからなくさせた。

世の中には輝いている人間がたくさんいる。ビジネスマン、芸能人、スポーツ選手などなど。特に、芸能人なんて、たまきと同じぐらいの年なのに、太陽のような輝きを放っている人がたくさんいる。

それに比べれると、たまきはちっぽけな月みたいなものだ。太陽の周りを回るちっぽけな地球。その周りを回る、さらに小さな月。

そんなたまきにとって、ミチは「地球」のような存在だった。青く、月より美しい地球。

以前、月から撮影された地球の写真を見たことがある。真っ暗な空に、青く大きく、丸く美しい、そんな地球が浮かぶ。

月から一番近いのに、穴ぼこだらけの月よりもずっと美しく、手を伸ばせば届きそうなのに、背伸びしても飛び跳ねても決して届かない。

月は、いつも地球にあこがれているのだ。その美しさにあこがれているのだ。

たまきは、そんなミチのそばにいれば、もっと正確に言えば、ミチの歌を聞いていれば、自分も少しは輝ける、と思っていた。

宇宙から見れば、月なんてちっぽけな石ころだ。でも、地球から見れば、美しく光り輝いて見える。

地球があるから、月は美しく見てもらえる。

だが、憧れであったはずのミチにも悩みがあった。彼は、もっと輝きたかった。

チャラい風貌は受け入れがたいが、夢に向かって毎日歌うミチは、たまきにとっては十分まぶしい存在だった。

だが、ミチは今よりももっと、太陽のように輝きたいという。

自分よりも友達作りスキルの高い亜美が学校というレールから外れ、自分よりも恵まれているはずの志保がドラッグに手を出し、自分より輝いているはずのミチがもっと輝きたいという。

地球は青く美しい。それで十分じゃないか。でも、彼らはもっと輝きたいと言ったり、輝きを捨てて月に近づこうとする。

一体どこまで行けば、ゴールにたどり着けるのか。友達ができれば、恋人がいれば、夢を持っていれば、たまきはゴールにたどり着けると思っていた。幸せになれると思っていた。

でも、二人の同居人やミチを見ていると、友達がいたって、恋人がいたって、夢があったって、悩みは尽きない。

だったら、きっとたまきみたいな人間は、どれだけ歩けどもゴールにたどり着けないんじゃないだろうか。

一体何がいけないのだろう。誰のせいなのだろう。

それとも、全部自分のせいでしかないのか。

『城』のキッチンの窓ガラスを雨粒が流れ星のように滑る。

雨の日はなんだか憂鬱になる。

 

あまりの大雨に、傘をさしていても、男の足元はどんどん濡れていく。濡れた裾が刺さるように痛い。

男はわきにあったビルを見た。ビルの一階はコンビニで、そのわきには上層へと続く薄暗い階段がある。男は傘をたたむと、階段に入って雨宿りを始めた。

コンビニの方に入らなかった理由は男にもはっきりとしない。明るいところを無意識に拒んだのかもしれないし、ただ誰かに顔を見られるような場所に行きたくなかっただけかもしれない。

男はスーツ姿だったが、薄汚れ、しわだらけで、「正装」とは言い難い。顔だけ見ると四十代半ばといったところだが、薄くなった頭はそれ以上に老け込んだ印象を与える。手には黒い、小さい、くたびれたかばんを持っている。

男は階段の入り口に掲げられた看板を見る。これを見れば何階に何が入っているのかがわかる。

一階はコンビニ。二階が飲食店。その上に雀荘があり、さらにその上にビデオ屋がある。その上にはキャバクラかなんかだろうか、「城」と書かれた看板がある。

人間の抱く、たいていの欲望がこのビルで叶いそうだ。ならば、自分の目的もはたせるかもしれない。男はそう考えた。

5階のキャバクラがいい。この時間なら、まだ人はいないかもしれない。

男はゆっくりと階段を昇って行った。甲高い足音がこだまする。

 

5階に着くと蛍光灯のカバーが割れた看板が男を出迎えた。「城」と一文字漢字で大きく書かれ、そこに「キャッスル」とルビが振ってある。

もしかしたら、この店はもうやっていないのかもしれない。そう思いながら男はドアノブに手をかけ、静かに回して引いた。カチャリ……、と小さな音を立ててドアが開く。

やはり、もうやっていないのか。それとも、ただただ不用心なのか。

中は薄暗い。小さな窓から灯りは差してはいる。だが、外は大雨。もともと外が暗いので、店の中はぼんやりとしか見えない。

男は、誰か来たらどうしよう、ということしか考えていなかった。店の人間に見つかったら、最悪の事態になりかねない、と。だから、ソファの上のぬいぐるみにも気づかなかった。

男は静かにドアを閉めて、歩き出した。レジスターらしきものは見当たらない。奥に行けば金庫ぐらいはあるだろうか。

もし、彼がこの時後ろを振り返れば、ドアにかかった「あみ しほ たまき」と書かれたカラフルなネームプレートが揺れているのに気付いたはずだ。

 

薄暗い店の中を男は探っている。背後には厨房らしきスペースがあり、右手に”PRIVATE”と書かれたドアがある。金庫があるとすればあそこの中だ。

と、ふと左に目をやったとき、ソファの上にクマのぬいぐるみが置かれていることに男は気づいた。

ぬいぐるみ? キャバクラの中に、ぬいぐるみ?

ぬいぐるみに気を取られていた男は、足元にあった何か固いものを踏んだ。不意を突かれてバランスを崩し、ソファに頭から突っ込んで鈍い音を立てた。右手から放たれた鞄と、左手から放たれた折り畳み傘が宙を舞い、派手な音と共に床へと落ちた。

幸い、顔から突っ込んだので、大したダメージはない。男はすぐに立ち上がった。と、ほぼ同時に、視界の隅で人影がゆっくりと動いた。

 

何かが倒れたり落ちたりする音で、たまきは目を覚ました。どうやら部屋でぼおっとしているうちに、眠っていたらしい。亜美か志保のどっちかが帰ってきたのか。こういう派手な音を出すのは亜美の方かな、と音のした方を見る。

見たことのない男がそこに立っていた。父親と同年代だろうか。頭の薄い、さえない印象を受ける。

本来、いるはずのない人間を見て、たまきは小さい叫び声をあげた。

だれ? なに? もしかして泥棒? どうやって入ったの?

そういえば、鍵を開けたままにしていたんだった。「城」のカギは、むかし亜美が店内で見つけたという一個しかない。たぶん、「城」のオーナーが夜逃げするときに置いていき、そのままになっていたのだろう。

そのカギは今、たまきの手元にある。亜美も志保も鍵を持たないまま外出したのだ。

もし、鍵を閉めてしまうと、今日のようにたまきがうっかり寝落ちした時に二人は「城」に入れなくなってしまう。

そんなことを刹那のうちに考えていると、男がたまきの方を向いた。

直後、男は

「うわぁ!」

とたまきの悲鳴より数倍大きなボリュームで叫んだ。

 

男は叫んだと同時に、後ろにのけぞり、腰を抜かした。そのままソファの上にばすんと尻を乗せる。

誰? 何? 店の人間? いつからここにいた?

相手の少女は小柄で、まだあどけない顔にメガネをかけている。おそらく、中学生か高校生といったところだろうか。冷静に考えれば、そんな年頃の地味な少女がキャバクラの店員なはずがないのだが、(中には法を犯して、中高生を働かせている店もあるかもしれないが)、この男、何せ生来の小心者。そんなことを落ち着いてかんがみる余裕はない。

どうする? 顔を見られた?

足元に目をやると、ビデオデッキと思われる物体が置いてある。どうやら、これを踏んづけてバランスを崩したらしい。

何で? 店の中にビデオデッキ?

目の前の少女は、怯えているのか、男の顔をじっと見つめている。

駄目だ。確実に顔を覚えられた。

どうする? 逃げるか? でも、顔を見られた!

パニックに陥った男は、あたりを見渡す。自分のかばんを見つけると、中に手を突っ込み、何かを取り出した。

それは包丁だった。店頭で売られていた時のまま、パッケージに入っていたが、男はぶるぶる震える手で乱暴にこじ開け、中の包丁を取り出した。まだ新品で薄暗い中でも、切っ先がほのかに光を放つ。その刃先をふるえる手で少女に向けると、男はあらん限りの声を振り絞って叫んだ。

「こ、殺されたくなかったら、言うことを聞け!」

言ってから、男は後悔した。なんてことを言ってしまったんだ。

いや、そもそも、最初から泥棒をするつもりで店に入ったのだ。もっとも、包丁を買ったのは、誰かに出くわしたときに殺すためではなく、包丁を購入することで、もう後戻りはできないと腹をくくるために、いわば景気づけのために買ったのだ。そのままお守り代わりにかばんに入れておいたのだが、まさか使うことになるなんて。

血の気が引いたのか、男は少し冷静に考えられるようになった。

もしかして、さっき一目散に逃げれば、大事にはならずに済んだのでは?

でも、もう遅い。刃物を女の子に向けて、あんなこと言って、これじゃもう脅迫、強盗、殺人未遂。

こうなったら。男は、悪い方向に腹をくくった。

こうなったら、とことんやってやる!

「か、金を出せ! 大人しくすれば命は助けてやる!」

上ずった声で叫びながら、頭の中で算段を立てる。

相手はたぶん、中学生か高校生。だとしたら、学生証なり身分を証明するものを持ってるはずだ。お金と一緒にそれを取り上げるんだ。そして「これでお前の身元は簡単に調べられる」とか、「しゃべったらおまえや家族を殺す」とか言えば、きっと黙っててくれるはずだ。

そうだ。俺はこの子を殺すために刃物を向けてるんじゃない。お互い、無事に事を収めるために刃物を向けているんだ。男は自分にそう言い聞かせた。

 

たまきは困っていた。

隣の部屋にはいくらあるのか知らないが、亜美がエッチであくどい事をして稼いだお金が入っている。お金を渡したら、きっと亜美に怒られる。

たまきは不思議と恐怖を感じていなかった。

どうも自分は、「恐怖」というものに鈍感なようだ。前に亜美にホラー映画を見せられた時も、あまり怖くなかった。きっと、中学の時、初めてリストカットした後に無理やり学校に行かされ、気分が悪くなって3時間目にさぼって吐いた女子トイレの便器の中に、恐怖心も一緒に吐き出してしまったんだろう。

そもそも、たまきはお金の場所を知らない。

亜美は普段はずかずかしているくせに、そう言ったことに関しては疑り深く、誰にもお金のありかを教えていない。何となく、隣の部屋にあるのだろうといった感じだ。

でも、お金を渡さないと殺されちゃう。男が持っている刃物は、おもちゃではなく本物のようだ。

あれ? でも、殺されたらそれはそれでいいんじゃない?

そうだよ。私、ずっと死にたかったんだから。

それでも、今日まで不本意ながら生き残ってしまったのは、どこかにためらいを感じていたんだろう。

きっと自分は、恐怖を感じていないんじゃなくて、恐怖を感じていることに気付いていないだけなのかもしれない。

たまきの右手首にまかれた包帯の下には、無数の傷の線が走っている。これを「ためらい傷」というらしい。

死ぬことが怖いのか、痛いことが怖いのか、自分でもわからないが、どこか恐怖を感じているのだろう。だからためらい、死にきれない。

だったら、殺してもらえばいいのだ。

奇特にも目の前にいる男は、たまきを殺すという。

たまきのような、毒にも薬にもならない女を殺してくれる人なんて、もうこの先現れないかもしれない。

よし、今度こそ、今日が私の命日だ。

たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、にっこりと笑った。

 

男は戦慄した。刃物を向けて殺すと脅した少女が臆するどころか、嬉しそうに笑ったのだから。

あどけない笑みはこういう状況でなければかわいらしいものだが、今は恐怖しか感じられない。

少女は男の方へ近づいてきた。男は怖くなって喚いた。

「おい! 来るな! 殺すぞ!」

「殺してください」

少女は臆することなく、笑顔で答えた。

「お金はあげられません。だから、殺してください。」

男と少女の距離は30センチぐらいだろうか。包丁の切っ先の、それこそ鼻先に少女の鼻がある。

少女の小さく白い手が男の手を包み込み、男の腕を降ろし、少女は刃先を自分の胸元へ向けた。少女の袖がめくれ、手首の白い包帯があらわになる。少女の指先はつめたかった。

何を考えているんだ、この娘は。

少女はしばらく考えていたが、やがて口を開いた。

「胸よりおなかの方がいいですかね?」

「え? え?」

「心臓を一突きにしてもらおうと思ったんですけど、でも、胸って心臓を守るための肋骨がありますよね。」

「え? あ、あるねぇ」

男は自分が何を聞かれて、何を答えたのかもよくわかっていない。

「だったら、胸よりおなかの方がいいですよね?」

「え? う、うん……」

少女は男の腕をさらに降ろし、刃先を自分のおなかに向けると、手を離した。

沈黙が流れる。

「あの……、まだですか?」

男より一回り背の低い少女が、男を見上げながら言った。

「え……、え?」

「早くしてください」

男の人生で、この先、こんな若い子に何かをせがまれることなど、もうないかもしれない。だからといって、さすがに殺すわけには……。

ちょうどその時、入口のドアが開いた。二人は同時にそっちの方を見る。

「あ、亜美さん」

さっきまでの黒髪の少女がそうつぶやいたのと、新たに入って来た金髪の少女が、

「たまきになにしてんだてめぇ!」

といって駆け出したのはほぼ同時だった。そのまま金髪の少女はテーブルを踏み台に飛び上がった。

男は、反射的に金髪の少女から顔をそらした。男のほほに少女の飛膝蹴りが突き刺さり、男の体は吹っ飛び、鈍く大きな音を立ててソファの上に落下した。


次回 第7話 幸せの濃霧注意報

強盗のおじさんと出会ったことで、「幸せってなんだろう」と考えるたまき。果たして、亜美に蹴り飛ばされたおじさんの運命はいかに?

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第5話 どしゃ降りのちほろ酔い

ミュージシャンを目指す少年・ミチのライブに来た亜美、志保、たまき。ライブ会場で控室から志保が出てくるところを見たたまきは、深く考えずに控室に入ってしまう。しかし、ライブ終了後にある事件が勃発する……。「あしなれ」第一章完結?


第4話 歌声、ところにより寒気

登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち 


写真はイメージです

水曜日。夜。月夜。

「関係者控室」。そう書かれた部屋から志保(しほ)が出てきた。もちろん、志保はライブの関係者ではない。

だが、たまきはあまり深く考えなかった。単純に、「こっちにも出入り口があるのでは?」程度にしか考えなかった。

たまきはドアを開けて中を覗いた。中には机といすと鏡。机の上にはお菓子が散らばっている。

壁にはロッカーが並び、その一つは蓋が開きっぱなしだった。看板に偽りなし。中は本当に控室で、それ以上ではなかった。

たまきはあまり深く考える人間ではない。だから、志保がここから出てきた理由もこの時はあまり深く考えなかった。「間違えて入ったんだろう」ぐらいにしか思わなかった。たまきは部屋を出ると、ライブ会場へと戻っていった。

その後ろ姿を、トイレから帰ってきた女性二人に見られていたことを、たまきは気づいていない。

 

写真はイメージです

水曜日。さっきの少しあと。月夜。

すっかり暗くなった路上で、志保は車を待っていた。

夏だというのに、気のせいか少し寒く感じる。

道行く人は少し、志保を避けてるように思えた。美少女とは言え、いや、美少女だからこそ、少し目がくぼみ、痩せこけた少女が道行く人をにらむように見ている光景は、恐ろしいものだ。

左の角からライトが灰色のアスファルトを照らしながら、黒いワゴン車がゆっくりと曲がってきて、減速し、志保の前で止まった。

「乗れ」

運転手の男は、志保を見るなりそう言った。志保は車の左側に回り込み、ドアを開けて乗り込んだ。志保がシートベルトをしないまま、車は走りだした。

「クスリ」

志保が少し焦ったように聞いた。

「金は?」

男は志保を見ずに尋ね返した。

志保は何も言わずに、黒い財布を出した。男は何も言わずに受け取った。

 

写真はイメージです

水曜日。またまた少しあと。月夜。

ライブ会場の重いドアを開けたとたん、爆音にたまきは突き飛ばされそうになった。

元の位置に戻ると、亜美(あみ)が右手を振り上げて黄金(こがね)色の髪を振り乱し、ぴょんぴょん飛び跳ねている。天井からは赤、青、緑、黄色、白といったライトが雨あられと降り注ぎ、耳にも目にも五月蝿い。

たまきはステージ上の、ライトと爆音のどしゃ降りにあっている黒衣の五人、正確にはその右端の一人、ミチを見た。

相変わらず、つまらなそうにギターを弾いている。

やはり、そこに自分の姿が重なる。

姿が重なると言っても、ミチの姿にたまきの姿がダブって見えるわけではない。ミチの後ろからたまきの雰囲気やオーラといったものが、背後霊のようにまとわりついているというような、煙のように吹き出ているというような、そんな感じだ。

たまきが時間を押し流すための作業として絵を描いているのと同じように、ミチも音を出すために手を動かしている。「演奏」ではなく音を出すための「作業」、そんな風に見えた。

 

水曜日。ライブ終了後。少し曇り。

結局、志保は帰ってこなかった。だが、亜美もたまきもそれほど気にしなかった。理由は簡単だ。何も告げずにフラッといなくなるなど、亜美はよくやることで気にしなかったし、たまきは今現在「何も告げずに家からいなくなる」の真っ最中である。ライブ会場の雰囲気が合わずに、帰りたい帰りたいと思っていたたまきは、志保は先に帰ったんだ程度にしか思っていなかった。

「ただなぁ」

そう亜美は切り出した。さっきまで、殺人的な爆音に満ちていた部屋も、ライブ終了後は嘘のように静かで、殺人的なライトも消え、ごく普通の照明が部屋全体を照らす。

「なんかあいつ、おかしかったような。口数も少なかったし」

「確かに、息も荒かったような気もしますけど……、具合悪かったんじゃないんですか? 今頃『城(キャッスル)』で寝てるんじゃないんですか?」

具合が悪くなって黙って抜け出す、黙って帰る。たまきにしたらよくある話である。

「とりあえず、ミチんところ顔出そうぜ」

そういうことになって、先ほどの「関係者控室」のドアを開けた。

ドアを開けて聞こえてきたのは「どこにあんだよ!」という男の焦った声や、「警察に電話したほうがいいんじゃないの?」という女の心配したような声だった。

バンドメンバーの一人と思われる男が、しきりにあたりを見まわしたり、何度もかばんの中をかき回したりしている。その周りに群がる何人もの人。

二人の姿を見つけたミチがぺこりと頭を下げる。ただならぬ雰囲気を察した亜美が尋ねた。

「……なんかあった?」

「メンバーの一人の財布がなくなってるんです」

さっきまでステージで歌ってた男が、財布を無くした男の前に出た。

「最後にこの部屋出たのはおまえだろ。その時、部屋の鍵もロッカーも閉めなかったお前が悪い」

「そうだけど……、でも、盗まれるなん思ってねぇし……」

「ほんとに泥棒か? もっとよく探してみ」

「何度も探したよ! 黒い財布だよ。誰か見てない?」

そのやり取りをおよそ自分には関係ないことだとみていたたまきだったが、ある一言が、全員の注目を彼女に向けた。

「ちょっといい? あたし、あの子がこの部屋から出てくるのを見てたんだけど……」

そう言ったのは、茶色い長い巻き髪の女だった。彼女が指差した少女、すなわちたまきに注目が集まる。

予期せぬ自分の論壇への登場に驚いたが、それよりも多くの人間に見られて、委縮したたまきは思わず下を向いてしまった。

「おい! どういうことだ!」

怒号を響かせながら、財布を無くしたと騒いでいた男が、まるでたまきが犯人かのように詰め寄った。無理もない。明らかにたまきの挙動は不審なのだ。だが、それはたまきが犯人だからではなく、たまきが苦手な「視線」が向けられているからなのだが。

「違います……。わたしは……、……」

そこまで言って、たまきは「真犯人」に気付いてしまった。

気づいてしまって下を向く。ますます疑われる。

気づけば、バンドメンバーに囲まれていた。「被害者」の男が今にも掴みかかろうとするのを、ボーカルの男が落ち着けと押さえている現状だ。

「おい! なんか言えよ!」

本当のことを言えば、真犯人がわかってしまう。でも、うまくごまかす嘘も思いつかない。結局、黙るしかないという悪循環。

たまきは、少し離れたところにいるミチの方をちらりと見た。たまきとも、バンドメンバーとも顔見知りである彼なら、自分の味方をしてくれるのではないか。

だが、ミチはたまきと目が合うと、困ったように、申し訳ないように、目をそらした。

いよいよどうしよう。そう思った時、亜美のやや低めの声が部屋に響いた。

「たまきじゃねぇよ。ありえない」

今度は視線が亜美に集まった。たまきと違って亜美は視線を浴びても、余裕を見せる。

「あんた、こいつのツレか?」

被害者の男が尋ねる。

「ああ、そうだよ」

亜美は臆しない。

「なんでコイツじゃないって言える」

「こいつはな、欲とか何にもないんだ。食欲もないし、性欲もないし、将来の夢もなんにもない。欲しいものもなんにもない」

悔しいが、たまきもこっくりとうなづくしかない。

「そんなやつが財布盗んでどうするんだよ。何に使う?」

そういうと、亜美はたまきが肩からかけてるかばんを指差した。

「嘘だと思うなら、そいつのかばん見てみな。財布どころか、何にも入ってないぜ。たまき、見せてやれよ」

被害者の男が、たまきのかばんを無理やり奪おうとする。

「……やめてください……」

たまきは小さな声でボソッと言ったが、男はそれを無視して、たまきの肩からかばんをはずすと、ひったくるようにして中を見た。

かばんの中はほぼ空っぽだった。男の財布はおろか、自分の財布すら入っていない。ただ、たった一個、黄色く細長い物体が入っていた。

「何だこれ?」

男はそれをかばんから出した。たまきは恥ずかしくて、下を向いてしまった。

男がかばんから出したのは、カッターナイフであった。

「何だこれ。」

男はもう一度言った。

カッターナイフ。それは、たまきのお守りだった。いつでも速やかにこの世からエスケイプするための。

「財布はあったか?」

亜美が男に近づき尋ねる。

「……ねぇよ。」

「わかったろ。たまきは泥棒なんかする奴じゃない。そうだろ、ミチ」

亜美はミチの方を向いた。ミチは慌てたようにこっくりとうなづいた。

「……コイツが犯人じゃねーってのはわかったよ。じゃ、オレの財布取ったの誰だよ!」

男が怒鳴った。亜美は、何か思いを巡らすように顔をしかめた。

「……知らねーよ」

亜美はそうつぶやいた。

 

写真はイメージです

水曜日。夜道。

亜美とたまきは「城」に向かって帰り路を歩いていた。ビルに額縁のように切り取られた夜空には、月も星も見えない。

二人は無言だった。たまきは下を向いてとぼとぼと歩き、彼女の右を歩く亜美は、右側のやけに明るいネオンや看板を眺めていた。

「……志保なんだろ……」

亜美がポツリと言った。

「……いつ気づいたんですか?」

「一人いなくなりゃ、誰だってそう思うだろ……」

「……見ちゃったんです……。志保さんが、あの部屋から出てくるの……。私、何も考えずに志保さんの出てきた部屋に入っちゃって、たぶん、そこを見られたんだと……」

たまきは下を向いたまま答えた。

「でも……、なんで……」

「なんで?」

亜美が初めてたまきの方を向いた。

「クスリに決まってんだろ。思い返せば、あいつ今日の午後ぐらいから、なんか様子がおかしかった」

その答えにたまきも亜美の方を向いた。もうすでに「太田ビル」の前に着いていた。

二人は階段を昇って「城」の前に来た。扉の前に、長い髪の女が立っていた。

「志保っ! ……?」

長い黒髪の女が振り向いた。

「……帰るの木曜……明日って……」

「仕事が早く終わったんたからさっき東京に戻ったんだ。……一人足りねぇな。志保は? あいつに話があってきたんだが?」

京野(きょうの)舞(まい)は「八ッ橋」と書かれたビニール袋を持ちながら言った。

 

写真はイメージです

水曜日。夜。曇り。

蛍光灯は寿命間近なのか、明滅を繰り返している。

テーブルの上には色とりどりの八ッ橋が置かれている。

「どうした、食わないのか? お前の所望した変わり種八ッ橋だ」

「いや、『何でもいい』って言っただけすけど……」

亜美もたまきも口をつけない。決して、八ッ橋が嫌いなわけではない。

「ここ来るのも久しぶりだ」

舞はあたりを見回した。

「だいぶもの増えたな。これだけ稼いでいるんだったら、アパートぐらい借りれるんじゃないのか?」

「ウチはここ、気に入ってるんですよ。ウチの城すから」

「で、志保はどうした。いないのか?」

急に静かになった。

「……ちょと、お出かけ中です」

たまきが答えた。

「あいつを一人で外に出すなってお前らに行ったはずだぞ。どこに行った」

「さ、さあ」

舞が足を組み替えた。

「電話は? 呼び戻せ」

「でねーよ」

亜美が答えた。

舞はため息をついた。

「お前ら、何隠してる?」

たまきの背中がびくっと動いた。

「アタシはライターだ。取材も仕事のうちだ。人の話を聞き、それがウソかホントか判断して文章にする」

舞はそういうと、二人をにらみつけた。

「お前らのちんけな嘘を見抜くのなんて、朝飯前だ」

「別に嘘も隠しもしてねーよ」

亜美が言った。

「……志保のやつ……、ライブハウスで財布盗んで逃げたんだよ」

「……まだそうと決まったわけじゃ……。たまたまその部屋から出てきたってだけかも……」

「じゃあ、他に誰がいんだよ!」

亜美の突然の大声に、またたまきがびくっとなる。

舞はあまり以外ではなさそうな顔をしていた。

「……たぶん、クスリを買うために盗んだんだろうな……」

「でも……」

たまきが白いラインの入ったピンクの財布を手に取った。

「志保さんの財布はここに……」

「今すぐ欲しかったってことだろうよ」

舞が答えた。

「……あいつの行きそうなところは?」

舞の質問に、たまきは答えが思い浮かばなかった。亜美も無言で首を振る。

「志保が戻ってきたら、すぐ連絡しろ」

それだけ言うと、舞は「城」を出て行った。

 

写真はイメージです

次の日。木曜日。夕方。雨。

志保は帰ってこなかった。

たまきは、「城」に一人でいた。亜美は買い物に出かけている。

夏の雨が窓を激しく叩く。

昨日の光景が頭の中を回る。

財布を盗んでいなくなった志保。

つまらなそうにギターを弾くミチ。

濡れ衣を着せられたたまき本人より腹が立っている亜美に、ため息をつく舞。

たまきのかばんからカッターナイフを取り出したときのみんなの反応。

たまきはお守りであるカッターナイフを手にした。

かちっ。かちっ。かちっ。

カッターの刃先をぼんやりと見つめる。

ぴしゃりという雷の音が部屋の中に響き、青い光に照らされて、たまきの影がくっきりと浮かび上げられる。

たまきは右手首の包帯をするするするとほどいた。

醜い傷跡がくっきりと浮かび上がっている。

たまきは、左手でカッターを握ると、右手首に押し当てた。

ほんの一瞬、痛みが走ったが、それはほんの一瞬だった。

小さな赤い筋が手首に描かれ、そこから赤い血がにじみ出た。

たまきは経験上わかっている。この程度の傷では、天国はまだまだ程遠いということを。

 

写真はイメージです

また次の日。金曜日。夜。大雨。

志保が帰ってきた。雨の中、傘もささずに。

 

志保は何を聞かれても「ごめんなさい」しか言わなかった。志保の声より大きく、雨音がギターのリフレインのように奏でられていた。

 

――志保さん、どこ行ってたの?

 

――ごめんなさい……。

 

――どけ、たまき。おい志保! てめぇ、どこ行ってたんだよ!

 

――ごめんなさい……。

 

――バンドメンバーの財布盗んだのお前か!

 

――ごめんなさい……。

 

――認めるんだな?

 

――ごめんなさい……。

 

――何に使った? クスリか?

 

――ごめんなさい……。

 

――もうやらないんじゃなかったのかよ!

 

――ごめんなさい……。

 

――お前のせいでたまきが犯人だと疑われたんだぞ!

 

――……、ごめんなさい……。

 

――ごめんじゃねぇだろ! 他になんかねぇのかよ!

 

――亜美さん、私ならもういいから……。

 

――たまきもたまきだ。なんでコイツ許してんだよ!

 

志保の何度めかの謝罪を、雷の音がかき消した。

 

30分後。まだ金曜日。深夜。まだ大雨。

舞が「城」にやってきた。

蛍光灯の一つが切れ、薄暗い部屋の中にはいつもの三人がいつもと違う様子でいた。

心配そうに志保を見るたまき。

腕を組み、足を投げ出し、志保をにらむ亜美。

そして、バスタオルに包まれ、濡れた長い髪を前に垂らす志保。

髪に隠され、顔はほとんど見えなかったが、さらに痩せたように舞には見えた。

「……アタシの判断ミスだ」

舞はそう切り出した。その声はどこか毅然としていた。

「お前らと一緒にしたら、何か変わるんじゃないか。そう思っちまった、アタシのミスだ。廃業したとはいえ、医者としてあるまじき失態だ……」

そういうと、舞は志保に投げかけた。

「何か言いたいことはあるか」

「……ごめんなさい。」

志保は機械的にも聞こえる謝罪を口にした。

「お前は明日、予定通り、施設の方に連れて行く。ただし、『見学』でも『通院』でもない。『入所』だ。寮に入って、そこで暮らすということだ」

「……ここを出ていくってことですか」

たまきの尋ねに、舞はうなづきもしなかった。

「当然だろう。ここじゃ管理しきれないのだから」

管理。その言葉がたまきの脳に暗く響いた。

「……異論はないな。志保」

「……はい」

志保ははじめて「ごめんなさい」以外の言葉を口にした。

「で、こいつがくすねた金はどうするんだ?」

舞の尋ねに亜美が答えた。

「志保が弁償するみたいだからさ、ウチが返しとくよ。ウチが謝っとく」

「そうか」

そういうと、舞は一歩、真っ黒なドアに近づいた。

「荷物はそのかばんで全部か?」

志保はただうなづいた。

「とりあえず、今晩はうちに泊まれ。ちょうど徹夜で原稿書くつもりだったんだ。ついでに徹夜で監視してやる。ほら、行くぞ」

舞が出口に向けて歩き出した。志保も席を立ち、たまきと亜美に背を向ける。二人の黒い影がくっきりと壁に映し出される。

一瞬だけ見えたその顔は、ほほのくぼみを涙が濡らしていた。だが、それをすぐに長い髪の影が覆い隠す。

志保の背中をたまきは見つめる。『城』で築いた志保との思い出が走馬灯のように……。

……出て来なかった。志保との思い出は、たまきの頭に浮かばなかった。思い出は、まだなかった。

――そうだ。私は志保さんのことを、まだ何も知らない。

なぜ彼女がドラッグに手を出したのか。

彼女は何が好きなのか。

彼女は何が嫌いなのか。

やりたいことは何か。

なにで笑うのか。

なにで怒るのか。

たまきはまだ何も知らない。

なのに、……これで終わり?

そう思ったら、たまきは自然と立ち上がっていた。

「……待ってください」

消え入りそうな声でたまきはつぶやいた。

「……志保さんと、もうちょっと一緒にいちゃだめですか……。……この『城』で一緒に暮らしちゃだめですか?」

舞は振り返ると、あきれたように答えた。

「お前、何言ってるんだ?」

ため息をつきながら、舞は肩をすくめた。

「お前、こいつのせいでどんな目にあった?」

「ごめんね……たまきちゃん」

「……そのことはもういいです。気にしてないので。」

たまきにしてみれば、今まで、一番自分を傷つけたのは自分なのだ。今更他人にどんな目にあわされようが、大概のことは気にしない。志保とて、意図的にたまきに罪をなすりつけようとしたわけではない。

そんなたまきに、舞は冷たく言い放った。

「理解しろ。こいつはお前らの手に負えないんだ」

その一言は、たまきがずっと探していた、漠然とした思いの答えを、彼女に気付かせるものだった。

それと同時に、その言葉がたまきの中の何かに火をつけた。

「……手に負えないっていうのなら……」

たまきは囁くように言った。

そして、叫んだ。

「手に負えないっていうのなら私だって同じです!」

 

薄いガラスを破ったようなその声は、叫びと呼ぶにはちょっと、か細かったかもしれない。しかし、志保が足を止め、舞が目を向き、亜美の口を呆けたように開かせるのには十分だった。

「……た、たまき?」

当の本人だけが、まるで自分が叫んだことに気付いていないようだった。

「……私なんか、学校行っても友達いなくて……」

たまきはいつものようにボソッとしゃべった。

「……そのうち学校に行けなくなって……、家にも居場所がなくなって……。死のうとしてでも死ねなくて、そんなのを何回も繰り返して、挙句の果てには家出して、親からしてみれば、私、きっと、手に負えない娘だったと思います。だから、手に負えないのは、私も一緒なんです!」

たまきと違って志保は友達がいる。彼氏がいる。頭がいい。美人だ。何もかもたまきと違うはずだ。

でも、今は自信を持って言える。

志保はたまきと一緒だ。

だから、見捨てたくない。

自分の体に刃物を当てることができても、自分の命を終わらせることができても、

とどのつまり、人は自分を、自分と同じものを、見捨てることはできない。

たまきが言い終わると、舞がたまきに近づいた。

「……今回わかったはずだ。薬物の恐ろしさが」

舞は続けた。

「最初に志保に会った時、確かにこいつはクスリをやめようとしていた。それは嘘じゃないとアタシは思う。でも……、ダメだったんだよ。本人の意志の強さじゃどうにもならないんだ」

そういうと、舞はたまきにこう言った。

「またこいつがクスリを欲した時、お前に止められるのか?」

たまきの回答は、舞の予想より早かった。

「……止められないと思います」

「だったら……」

「でも……! そばにいるくらいはできます」

「ダメだ。そんなんでクスリがやめられるんなら、誰も苦労はしない」

「でも……! でも……!」

二人のやり取りを、いや、たまきの言葉を、亜美はなんだか真新しい気持ちで聞いていた。

たまきに出会ってまだ間もないが、彼女がこんなにも何かに、「死ぬこと」以外の何かに固執しているのを見るのは初めてだった。

「その施設っていうのは、志保さんみたいな人がいっぱいいるんですよね。そういう人たちの中で、治していくんですよね?」

「ああ」

たまきの質問に舞が答える。

「だったらここにいても……」

「なんでそうなる」

「……一緒だから」

たまきはそういうと、右腕の真っ白な包帯をはずした。無数についた切り傷。そのうち一つはまだかさぶたである。

それを一目見るなり、舞には分かった。

「また切ったのか?」

たまきは答えなかった。その代りにっこりと、たまきにしては珍しく、にっこりと笑った。

「私も志保さんと一緒だから」

たまきはそれだけ言うと、志保の方を向いた。

志保はうつむいていた。もしかしたら、たまきの新しいリストカットも、自分のせいではないかと思っているのかもしれない。

「志保さんはどうしたいんですか? 施設に行きたいんですか? ……こんな終わり方でいいの?」

「……それは、こんな終わり方はやだよ……」

志保は顔を挙げずに震え声で答えた。

「でも……、たまきちゃんにも、ミチ君のバンドにも迷惑かけて、もう、いられないよ……」

「私ならもう気にしてません。わざと罪をなすりつけようとしたわけじゃないんだし」

「でも……。」

「私だって、いっぱいいろんな人に迷惑かけてますし、たぶん、今も家族に迷惑かけてますし」

たまきも志保も似た者同士だから、施設に行くのもここにいるのも一緒。さて、その理屈を認めていいものか。

舞が、どうしようかと考えを巡らしていると、突如、亜美が声を上げた。

「思い出した」

そういうと、亜美は右腕の青い蝶の入れ墨がはばたくかのようにゆっくりと立ち上がった。

「中学のころさ、テレビで『親子間の窃盗は罪になんない』っていうのやってて、ウチ、ラッキーっつって、平気で親の財布から金くすねてたんだ。全部で四万ぐらいかな。あ、一回でじゃねーぞ。5千円ずつ抜き取って、ばれるまでやってたらそん位になったんだ。さすがにばれてさ、そんときウチ、妹のせいにして。でも、妹、ウチと違っていい子だから、そんなウソ通用しなくて、おやじに怒られて、でも、その後も懲りずに二万ぐらい抜き取ってたなぁ。」

亜美は笑いながら続けた。

「万引きもよくしたし。よくよく考えたら、志保なんかより、ウチの方が手に負えないサイテーのガキだったよ」

そういうと、亜美は舞に笑いかけた。

「ねえ、先生。こいついないと、ウチら、カップラーメンしか食うものないんだ。頼む! もうちょっとこいつ、ここに置いといてよ。施設に行くのも、ここにいるのも、手に負えない者同士って意味では、一緒、一緒!」

「お願いします!」

「頼むよ。ね?」

少し間をおいて、志保が口を開いた。

「先生……、お願いします」

舞は、頭を抱えるように抑えた。

「はあ……、なんてこった……。こいつら、三人ともアタシの手に負えねぇ」

舞はしばらく考えていたがやがて、

「……勝手にしろ。医者としての忠告はしたからな」

と言い放った。

それまで一つだけ灯りの灯っていなかった蛍光灯が、突然、ついた。急に部屋の中が明るくなる。

「いいんですか?」

「……とりあえず、志保、明日施設に行くことはかわんねぇぞ。『通院』するために『見学』するんだ。十時にうちに来い」

次に、亜美の方を向く。

「お前はちゃんと月一で性病の検査に来い!」

最後にたまきに向かい、

「次からは一人で傷の処置をするな。必ずあたしのところに来い」

というと、舞は、

「徹夜で仕事しなきゃならねぇから、帰る」

といって、出て行った。ドアを閉めると、つるされた「あみ しほ たまき」と書かれたカラフルなネームプレートが微笑むように揺れた。

 

30分後、日付は変わって土曜日。深夜。雨上がり。

たまきと志保は太田ビルの屋上に上がった。

太田ビルの屋上には、1メートルほどの柵がある。たまきは柵にもたれて、ビルの下の道路を見つめていた。深夜の繁華街はネオンが輝き、屋上から見ると、オレンジの夕日を反射してきらめく海のようだ。

「ごめんね、たまきちゃん」

柵に寄りかかった志保がそう言った。セリフは今までとそう変わらないが、声は心なしか晴れやかだった。いつもの愛くるしい笑顔だ。

「別にいいです。気にしてないんで」

たまきがいつものようにボソッと答える。

「それよりも頭にきてることありますし」

「え?」

「別に志保さんのことじゃないです」

たまきはそういうと、少し微笑んだ。

「お前ら、こんなところにいたのか」

階段を上がって亜美がやってきた。手にはビニール袋がぶら下がっていた。

「亜美ちゃん、それ、どうしたの?」

「貰ってきた」

亜美はビニール袋から、ビールの缶を取り出した。

「亜美ちゃん……、それ、お酒……」

「我らの変わらぬ友情を祝し、乾杯といこうじゃないか」

亜美はすでに酔っぱらってるんじゃないかというようなことを言い出した。

「いや、亜美ちゃん、あたしたち、未成年……」

「私、お酒、飲んだことない……」

「お前ら、不法占拠とか、リスカとかドラッグとかやっといて、いまさら何言ってんだ?」

そういうと亜美は、二人の手に缶を持たせた。

「さあ、乾杯! 乾杯!」

結局、たまきも志保も、缶ビールを持たされてしまった。

「亜美ちゃん、あのさ、あたし、普通のジュースとかがいいな……」

「何だよ、ノリ悪りぃな」

「いや、こういう酔っぱらっちゃう系は、なんていうか……」

「……酒でラリるとは思えねぇけど……、まあ、念のためってやつか」

そういうと亜美は、志保の手にある缶を受け取った。

たまきも缶を返そうとする。

「亜美さん……、私もお酒は……」

「おまえは特に理由ネェだろ」

「いや……、未成年……」

「大丈夫だって。気にすんな」

なにが大丈夫なのかわからなかったが、たまきは言われるがままに、プルタブに指をかけた。しかし、自分じゃ開けることができず、志保に開けてもらった。プシュッと音がする。

ジュースを買いに下のコンビニに行った志保が戻ってくると、三人は、それぞれが持った缶で互いの缶をたたいた。

「かんぱ~い!」

 

二十分後。土曜日。深夜。月夜。

「あははははは」

亜美の笑い声が屋上にこだまする。何が面白いのか志保には全く理解できないが、亜美はとにかく楽しそうに笑っている。いわゆる、笑い上戸というやつであろう。

志保は、横にいるたまきをちらりと見た。柵に顔をうずめるようにもたれかかっている。顔は赤い。

「たまきちゃん、大丈夫?」

「……なんかふわふわします」

たまきはいつになく甘ったるい声で言った。

「ちょっとやばいかも」

「お水あるよ」

ジュースと一緒に用意周到に志保が買っておいた水のペットボトルにたまきは口をつける。

「あははははは。おい、志保ぉ! あれ、この前見た都庁じゃないの?」

亜美が笑いながら志保に話しかけた。志保は亜美が指差す方向を見る。

黒い空に、より濃い黒さのビルが浮かぶ。ちらほらと、星のような窓の明かりがきらめく。

「うーん、どうだろう。方向はあっちの方だと思うけど、結構離れてたからなぁ」

「あっちなんだろ。じゃあ、あれでいいじゃねーか」

そういうと、亜美は歯を見せて、にっ、と笑った。

「青春ごっこしようぜ」

「……何それ?」

ちょっと言ってる意味が分からない。

「よく映画とかであるじゃん。海で夕日に向かって『バカヤロー』って叫ぶやつ」

確かにそういうシーンはよく語られているが、実際に使われている映画を志保は知らない。

「都庁に向かって叫ぼうぜ」

やっぱり言ってる意味が分からない。

志保が理解するよりも早く、亜美は口の横に手を添えて、都庁、らしき建物へ向けて叫んだ。

「バカヤロー!」

亜美の叫びが夏の湿った空気を震わす。

「遠くばっかり見てんじゃねーぞバカヤロー!」

柵にもたれていたたまきがふらりと立ち上がる。そしてふらふら歩きながら亜美の隣に立つと、同じように口に手を添えた。

「ばかやろー。」

たまきにしては精いっぱいの大声を出す。

亜美がさらに続ける。

「そんなところにウチらはいねーぞ!」

亜美は声の限り叫ぶ。

「ここにいるぞバカヤロー!。……ここに生きてんぞバカヤロー!」

亜美はふうっと息をついた。

「悔しかったら、こっち来てみーろ!」

叫ぶ亜美と、その隣のたまきの後ろ姿を、柵にもたれながら志保は眺めていた。

だが、急にたまきがバランスを崩したので慌てて駆け寄る。

バランスを崩したたまきを、亜美が抱き留めた。

「たまき!」

「たまきちゃん!」

亜美の腕の中で、たまきが言う。

「亜美さん、志保さん、あのね、私、今、ちょっと楽しいかも」

そういうとたまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、にっこりと笑った。

 

土曜日。深夜。まん丸お月様の夜。


次回 第6話 強盗注意報、自殺警報発令中

雨の日、たまきが一人で留守番していると、「城」に強盗が入る。包丁を向けて震える声で「お金を出さなきゃ殺す」と脅す強盗に、たまきは「殺してください」と頼む?

「『おい! 来るな! 殺すぞ!」』『殺してください』 」

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第4話 歌声、ところにより寒気

明日がどうでもいい亜美と、明日がいらないたまきの住む「城」に、新たな仲間、明日が怖い志保が加わった。ある日、ミチに彼のバンドのライブに誘われたたまきは、断りきれずにライブに行くと約束してしまう。しかも、その姿を亜美と志保に見られてあらぬ誤解をされてしまう。しかし、ライブ当日、穏やかそうに見えた3人の暮らしにある事件が起こる。正確には、ある事件を起こしてしまう……。

「あしなれ」第4話、スタート!


第3話 病院のち料理

登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


夏の朝。ブラインド越しに日差しが注ぎ込む。「城(キャッスル)」の中には志保が一人。テレビで朝のニュースを見ている。今日のトップニュースは国境の島に、外国の船が近づいたというものである。

ふと、悪寒が走る。何か明るい話題はないかとチャンネルを変える。

志保が「城」で暮らし始めて二週間。何とか、クリーンでやってこれた。

やればできる。きっと大丈夫。

「たっだいまー」

勢いよくドアが開き、日の明かりとともに亜美が帰ってきた。

「いやぁ、朝からあっついねぇ」

「ほんとだねぇ」

志保がふふふと笑った。

「城」の同居人に志保が増えてから、亜美は「仕事」を外で行うようになった。場所はホテルだったり、相手の家だったり。たまき曰く、ようやく亜美も「配慮」という言葉を覚えたらしい。

「あれ?」

亜美は室内を見渡した。いつもなら必ずいる、たまきがいない。

「たまきは?」

「なんかね、公園に行くって言ってたよ」

志保が、テレビを見ながら答える。

亜美は、鞄を床に放り投げると、ソファに座り、テーブルの上に足を投げ出した。

「あいつ、たまに公園に行くけど、一体、何やってるんだ?」

「さあ」

志保が答える。

「ちょっと、見当もつかないなぁ」

 

写真はイメージです

その公園に行く道のりは、たまきにとってはちょっとした旅行だ。

まず、たまきにしてみれば三途の川に等しい、黒いアスファルトの大通りを渡り、歓楽街を出なければならない。

歓楽街を抜けると、線路と電気屋の間の大きな道を歩く。しばらくすると、人でごった返すスクランブル交差点につく。

ここで、線路の反対側へ行ける。

線路をくぐったら今度は左へ。たまきの大嫌いな人ごみの中を歩き、駅についたら、吐き気を抑えながら駅の構内を通り地下へ。そして、駅に背を向けて地下道を歩きだす。

この辺でそろそろ疲れてくる。普段歩かないたまきが歩いているという疲れもあるし、大嫌いな人ごみ、それも、東京随一の人ごみの中を歩いてきた疲れもある。

すれ違う人がほんの一瞬、自分に目を向ける。この、ほんの一瞬が大嫌いだ。

疲れてきたたまきにとって、地下道の動く歩道はありがたい。もたれかかるように乗る。

地下道を抜け、道路を歩道橋で渡ると、緑の木々が見える。公園だ。

公園の林の中を歩くと、広場へとつながる階段がある。

聞こえる音は、広場にある人工の滝の音、やかましいぐらいのセミの鳴き声、そして、若い男の歌声だった。

男は、夏にもかかわらず、日差しの中で歌っていた。午前中とはいえ、気温は二十五度を越し、男も汗を流している。

男は、階段に腰を下ろして、アコースティックギターを腿に乗せて歌っていた。

ハイトーンで、芯のある声。

その男はたまきの顔見知りだった。

しかし、たまきは彼のことをあまり知らない。

まず、名前も知らない。「ミチ」と呼ばれてはいるが、本当の名前は知らない。

年はたまきの一つ上の十六。仕事は知らない。学生ではないらしい。また、プロのミュージシャンを目指しているらしく、ほぼ毎日、ここで歌っているらしい。

たまきは、ミチの座っている段の日陰に腰を下ろした。

肩からかけていた鞄を降ろすと、その中からスケッチブックとペンケースを取り出した。

斜め前にある高層ビルを描き始める。そのため、体の向きが若干ミチの方に動く。

左手に握った黒い鉛筆で一心不乱に、風景の模写をするたまき。その左隣でギターをかき鳴らして歌うミチ。

――さあ、歩いて行こう――

――光あふれる明日へ――

――さあ、手を伸ばそう――

――光あふれる未来へ――

たまきは自分の絵が嫌いだった。

黒い鉛筆ですべてを書くのだが、どうも、暗いのだ。

だったら、色鉛筆を使えばいいじゃないかという気がするが、色鉛筆で書いてもやっぱり暗いし、色を使うのはあまり気分が乗らない。

だから、たまきはミチの歌が好きだった。

はっきり言ってしまえば、どこかで聞いたような歌詞である。目新しいメッセージなんてものはなく、きれいごとと言ってしまえばそれまで。

それでも、たまきはミチの歌が好きだった。彼の歌を聞いていれば、自分の絵も少しは明るくなるんじゃないか、そんな気がした。

断っておくが、たまきは歌っているミチ本人は嫌いである。

ちゃらくてなれなれしいのも嫌なのだが、目つきもいやらしい。確実に、たまきに対してやらしいことを考えている。そういう経験のないたまきでも、本能的に感じ取れる。むしろ、たまきは他人からの目線に敏感だと言えるだろう。

だから、歌声に耳を傾け、体の向きも少しミチに傾けていても、視線を送ることは決してなかった。

公園の方に視線を送ると、日曜日だからか、いろんな人がいる。道路に面した日向の方では、スケボーに興じる若者たち。一方、滝のそばの日陰には、ホームレスと思われるおじさんたちが座っている。彼らに何か、プリントを配っている人はボランティアだろうか。

ビル街の中で緑に囲まれた、都会の喧騒を離れたと表現される公園だが、こう見ると、光と影の都会の象徴の気がした。

今の二人、たまきとミチもそうである。日向で汗をかきながら、希望に満ちた歌を歌うミチ。日陰で鉛筆で、童話の魔女の森みたいな絵を描くたまき。

「ありがとうございました」

ミチが一曲歌い終え、ギターの余韻を右手で止めると、宙を見ながら言った。

「今の、だれに言ったんですか」

たまきが、ミチの方を見ないで尋ねた。

「世の中」

聞かなきゃよかった、とたまきは思った。

「そこ、暑くないですか」

午前中とはいえすでに気温はかなり上がっている。ミチは、ずっと日向で歌っている。

「暑いね」

ミチも、たまきの方を向かずに答える。傍らに置いてあった、水の入ったペットボトルに口をつける。

「ぬるっ!」

当然である。ずっと日向に置いてあったのだから。

「暑いなら、日陰に入ればいいじゃないですか」

たまきはミチの方を見もしない。

「いや、こういうのは見た目も大事なんだよ。太陽の光に照らされてこそ、ロックンロールなんだよ」

言ってる意味が分からない。たまきのイメージでは、ロックと太陽は程遠いものだったし、そもそも、さっきの歌はロックではなく、フォークに近いものではないだろうか。

「今度、ライブがあるんだよ」

「そうですか」

「たまきちゃんもきなよ」

たまきは男にちゃん付されるたびに、背中がぞわっとなる。

しばらく沈黙が二人を包んだ。

「……わかりました。いきます」

「え?」

ミチが初めてたまきの顔を見た。たまきもミチの顔を見る。

「どうしたの突然。今まで、頑なに断り続けてきたのに」

「いい加減、断るのもめんどくさくなったんで。一回くらいなら」

たまきはそういうと、顔の向きを被写体のビルへと戻した。

「さてと」

ミチは立ち上がった。

「バイトの面接に行ってくるか」

そういうと、ミチはたまきの方を向いた。

「何のバイトか聞きたい?」

「どうでもいいです」

「受かったら教えるよ。ぜってーびっくりするから」

なんだかかみ合わない会話を残し、ミチは公園を去った。

一人残ったたまきは、つまらなそうに作業を進める。

びっくりなんてここ何年もしていない。むしろ、トイレでリストカットして、自分が他者をびっくりさせている側だ。

確かに、クラブのトイレで志保が倒れているのを見たときはパニックになった。しかし、それは何をしていいのかわからなかったからで、びっくりとは少し違う。

思うに、びっくりするにはある程度高いテンションが必要だと思うのだ。

そんなことを考えながら、作業を進めていたたまきの肩を誰かがたたいた。

同時にたまきの傍らにしゃがみ込む、金色の長い髪。

ノースリブの腕に見える、青い蝶の入れ墨。

聞きなじんだ声。

「何々、二人いい感じじゃん」

たまきの視界に亜美のにんまり顔が飛び込んできた。

たまきにしては珍しく、本当に珍しく、思わず「キャー!」と仰天の叫び声をあげた。

 

写真は都庁です

「あっついねー」

亜美が手で顔を仰ぐ。

「今日、最高気温、三十二度だからねぇ」

志保が太陽の方に目をやりつつ、タオルで汗を拭きながら、蝉の歌声をかき消すように答える。三人は階段を降り、広場に立っている。スケボーを楽しむ若者も、ホームレスの皆さんもみな男性。女性は三人と、ホームレス集団の中にいる、ボランティアと思われる女性だけだ。

「そうじゃなくて、たまきとミチがさ……」

「あ、そうだね。たしかに熱かったねぇ」

志保が、町で見つけた野良猫をなでるような優しい目つきでたまきの方を見る。

「だから、二人が思ってるような関係じゃないですから!」

たまきは二人に背を向けて立っている。背を向けている理由は一つ、赤くなった顔を二人に見られないためだ。胸の前ではしっかりスケッチブックをホールドしている。ただでさえ恥ずかしいのに、スケッチを見られたら恥の上塗りだ。

「ほう、ウチらが思ってる関係じゃないと」

「もっと親密な関係ってこと?」

「オトコとオンナの一線を越えちゃったわけだな。フムフム」

この二人は、何が何でもたまきとミチを「そういう関係」にするつもりだ。

「そもそも、二人とも、何でここにいるんですか」

「いやね、たまきがよく公園に行くっていうからね、何してるのかなって見に来たらねぇ」

「まさか密会してるなんてねぇ。いやぁ、たまきちゃん、若いなぁ。一歳しか違わないけど、若い!」

「だから、密会じゃないですって」

たまきは二人に背を向けたまま、日陰でうつむいて答える。

「階段でねぇ」

「二人より添って、ねぇ」

「寄り添ってないです! かなり間隔開けて座ってましたから!」

「でも、同じ段で、ねぇ」

「ねぇ」

「そういう関係じゃないなら、違う段に座ればいいじゃない、ねぇ」

「ねぇ」

たまきは痛いところを突かれた。たまきが公園に来た時、すでに、ミチは階段に腰掛け歌っていた。たまきは、わざわざ同じ段に座って絵を描き始めた。

理由は、ミチの歌を聴きたかったからだ。ミチのバカみたいに明るい歌を聴きながら書けば、少しは自分の絵も明るくなると思ったのだ。

だから、「なぜ隣にいた」と聞かれれば、「ミチの歌が好きだから」となる。

その言葉をたまきはそのまま言おうとした。だが、もしそんなことを言ったらどうなるだろうか。

「ミチの歌が好きなんだってさ」

「え? それって、ミチ君のことが好きなんじゃないの?」

とちゃかされるに決まってる。

やはり「好き」というワードは威力が強すぎる。別の言葉に言い換える必要がある。

ならば、「嫌いじゃない」が妥当だろう。

「ミチの歌は嫌いじゃない」。まだ、ちょっと威力が強い気がする。セリフをもう一つ付け足して弱める必要がある。

やはり、ミチ本人のことは嫌いであるということは、はっきり伝えた方がいいだろう。

思考を巡らすこと約1秒。たまきは口を開いた。

「あの人は嫌いだけど、あの人の歌は嫌いじゃないんで」

たまきは二人の反応を見るために、ちらりと後ろを振り返った。

そこには、無防備なウサギを見つけたライオンのようににやにや笑う亜美と志保がいた。無防備なウサギを見つけたライオンがどんな表情をするかなど知らないのだが。

「あの人のことは嫌いなんだって」

「でも、あの人の歌は嫌いじゃないんだって」

「あれだよね。第一印象は最悪だけど、なんか惹かれるところがあって気になっちゃうってパターンだよね。うわぁ、マンガみたい」

「あたしもそういう恋愛したいなぁ。いやぁ、たまきちゃん、若い! 一つしか違わないけど若いなぁ」

どうしてこうなるんだろう。穴があったら飛び降りて、埋めてもらって、死んでしまいたい。

 

暑いので、自販機でコーラを三本買った。

「あれが都庁かぁ。東京にずっと住んでるけど、生で見たのは初めて」

志保が、公園と道路を挟んで反対側にそびえたつビルを見上げながら言った。

「あれだろ、竹島買ったじいさんが住んでるビルだろ」

「うーん、亜美ちゃん、どこから訂正すればいいのかな?」

志保が困ったように微笑む。

「まず、竹島じゃなくて尖閣諸島ね。それを買うって言い出したのは知事だけど、実際買ったのは国の政府。で、ここは職場だけど住んでるわけじゃないし。そもそも、前の知事だし。」

二人からちょっと離れたところでコーラを飲んでいたたまきは、ある事実に気付いた。

ミチのライブの時間を聞いていない。

行くと約束してしまった以上、それを反故にはしたくない。

つまり、たまきはもう一度ミチにあって、ライブの日時、場所を聞かなければならない。

思いつく唯一の方法は、またこの公園に来ることだ。たしか、ほぼ毎日この公園にいると言っていた。

しかし、もし今後「公園に出かける」などと言おうものなら、あの二人にあらぬ想像をされることだろう。かといって、嘘をついて外に出たら、万が一ばれた時、いよいよもって逢引き扱いされるであろう。

そうだ。ヒロキならばミチの連絡先を知っているかもしれない。ならばヒロキを通して連絡を取り、こっちで場所と時間を指定して会えばいい。なんなら、ヒロキの携帯電話を借りて、直接電話で話してもいい。

 

写真はイメージです

「城」まで歩いて帰った。時間はちょうどお昼頃だ。

「城」は雑居ビルの5階にある、キャバクラだった部屋だ。1階はコンビニ。2階はラーメン屋。3階は雀荘で、4階はビデオ店である。

お昼ご飯を1階のコンビニで買うことにした。

空から日差しが降り注ぎ、アスファルトから陽炎が立ち上る中、「城」の入っている太田ビルの前についた。

ビルの前には、ビールケースに腰掛けた男が一人いる。

強面のチャラ男。彼の名はヒロキ。亜美の客であり、ミチの「センパイ」である。何の先輩なのかは知らない。

「おっす。ヒロキ、お疲れ!」

亜美がヒロキに声をかけた。ヒロキは、4階の呼び込みをしているため、一日中ここに座っている。

「熱くないんですか?」

志保が尋ねた。

「大丈夫。水、飲んでるから」

ヒロキが答える。

亜美と志保は、コンビニへ入っていった。

たまきは階段を昇らず、ヒロキの前で立ち止まった。

ヒロキなら、ミチの連絡先を知っているはずだ。

ヒロキがたまきの方を見た。

「ん? たまきちゃん、どうした?」

ヒロキとたまきが一瞬目が合った。

たまきはふいっと目をそらした。

ヒロキとは全く知らないわけではない。見かけほど怖い人間ではないこともわかってきた。

それでも、ヒロキと目を合わせるのは怖かった。ヒロキに限らず、他人と目を合わせるのが怖い。

亜美とも志保とも、舞ともミチとも、いまだに目を合わせられない。

もっとさかのぼれば、学校でも誰とも目を合わせずに過ごしていたと思う。両親や姉とも目線を合わせることはなかった。

一体いつからだろう。いつから、人と目を合わせるのが怖くなったんだろう。

たまきは人に見られるのが嫌いだ。顔を見られまいと髪で覆い、素肌を見られまいと袖で隠す。

中でも一番見られたくないのが目なのかもしれない。目を見られると、自分の内面を見られているような気がする。

もっとも、内面を見透かされたからと言って、何が困るというのだろう。内面の何を見られるのをこんなにも恐れているのだろう。

それでも本能的に怖さをぬぐえなかったたまきは、何も言わずにヒロキの前を去ってコンビニへ入っていった。

 

写真はイメージです

午後一時、「城」の中は冷房が効いていて快適だ。今日はお風呂に行くまでもうここから出ない、たまきは決めた。それにしても、この部屋の電気代はいったい誰が払っているんだろう。

たまきはソファの上に横になってタオルケットをかけていた。メガネはかけたままだ。

たまきは一日のほとんどをこうして横になって過ごしている。別に体調が悪いわけではない。問題があるのはフィジカルではなくメンタルだ。メンタルの不調がフィジカルにも不調をきたし、気分が悪い。なんだか、乗り物酔いしているような感覚。乗り物ならば降りればいいのだが、この世界そのものが酔う場合はどうすればいいのだろう。

たまきの隣では、亜美がいびきとも寝息ともつかない音を出して寝ていた。

亜美の生活リズムは普通とは違っている。亜美の場合、深夜に「労働」するので、寝るのはそれが終わってから、明け方近くになる。その時は4時間しか寝ない。

午前中に起きて、朝ごはんを食べ、「城」でゴロゴロして、お昼を食べたら今度は二度目の睡眠に入る。今度は3時間ぐらい寝る。そうして、夕方ごろに起きてきて、そのまま深夜まで起きて、明け方また寝る、という生活サイクルである。体に悪そうだが、実際のところどうなのかは知らない。本人はトータルで7時間も寝ているから問題ないと思っているし、自身の健康にはあまり関心がない。たぶん病気にならないと思っているし、なっても何とかなるだろうと思っている。

志保は起きていた。彼女の生活リズムは二人に比べると、規則正しかった。ただ、たまきから見ると、あまり寝ていないように思えた。

志保はブラインドおろして、電気をつけた部屋の中で、本を読んでいた。ブックカバーをしているので何の本を読んでいるのかはわからないが、マンガの類ではなさそうだ。

そこにチャイム音が鳴り響く。

ピンポーンピンポーンピポピポピンポーン。

亜美がのそのそと起き上がる。

「誰だよ、こんな時間に……」

世間的には、来客が来ても何の迷惑でもない時間なのだが、亜美からしてみれば、眠りを妨げた、大迷惑な奴である。

一番、意識がしっかりしている、志保がドアを開けるため立ち上がる。その間も、ひたすらチャイムは鳴りつづける。

ピンポーンピンポーンピポピポピンポーン。

たまきは迷惑そうにドアの方を見る。どうやら相手は非常識な人のようだ。大方、亜美の「客」だろう。しかし、彼らはたいてい夜中に来る。こんな昼間にいったい誰だろう。

たまきの頭に、亜美の客以外でこの場所を知っている非常識な男の顔が浮かんだのと、志保が開けたドアの向こうから、その本人の声が飛び込んできたのはほぼ同時だった。

「志保さん、ちわーっす」

その声を聴いた瞬間、たまきは背筋が寒くなった。

「ミチ君。」

志保が、目の前にいる、最近知り合ったばかりの少年の名を呼んだ。

 

たまきは、久しぶりに自分の鼓動が高鳴っているのを感じた。

さっき、散々からかわれた相手が自分の部屋を訪ねてきている。そして、部屋の中には、からかった二人もいる。このままだと、ろくなことにならない。

要件はだいたいわかっている。ミチも気付いたのだ。ライブの時間や場所を伝えていないことに。

それを伝えに来てくれたのは別にいい。だが、なぜ今、ここなんだ。ライブに行くことを二人に知られたら、からかわれること請け合いじゃないか。

ただ、ミチは先ほどの公園での三人のやり取りを知らない。なのにそれを責めるのは酷というものだ。

だが、それにしてもタイミングが悪すぎる。なぜ、三人そろっているときに来た。先ほどの非常識なチャイムといい、たまきはますますミチのことが嫌いになった。

ともあれ、まずはミチをここから連れ出すことだ。屋上がいい。話はそこで聞こう。二人には適当にごまかせばいい。

ミチを連れ出そうとたまきが起き上った。それを見たミチは声を上げた。

「あ、たまきちゃん」

ミチが余計なことを言う前に連れ出さねば。たまきは珍しく、たまきにしては本当に珍しく、走り出した。

普段走らない人が走ると、あまりろくなことが起こらない。足をテーブルの脚にぶつけて、たまきはソファの上に転がり込む。

たまきの頭上をのんきな声が響く。

「ライブね、明日の7時! 場所はね……」

ああ、おわった。

「ライブ?」

けだるそうにソファの上に転がっていた亜美が起き出す。

「なになに? 何の話?」

「たまきちゃんがね、今度ライブ来てくれるんですよ」

「うそぉ!」

亜美の大声が響き渡る。

「たまきなんで? どういう風の吹き回し? イベントとか大嫌いじゃん」

「……会うたびにしつこく言ってくるので」

「ああ、男に強く迫られると、断れないタイプか」

「……そういうのとは違うと思うんですが……」

今度は横から志保が口をはさむ。

「若いなぁ、たまきちゃん。ほんとはいきたくないんだけど、しつこく言うから行ってあげるんだからね!ってやつだね」

「ああ、ツンデレか」

「……そういうのとも違うと思うんですが……」

「あ、そうだ!」

ミチが、靴を置くマットを無視して土足で上がりこんできた。

「亜美さんと志保さんも来てくださいよ」

ミチは、亜美と志保に近寄って言った。

「えー。でもねぇ」

「なんかねぇ。悪いよねぇ」

二人はたまきの方をちらちら見ながら、ニヤニヤ笑う。

「何すか、悪いって。来てくれないと、ノルマ達成できないんですよ」

「ノルマ?」

志保が聞き返す。

「一人五人は連れてこないといけないんですよ。招待ってことで、金は俺が払うんで、お願いします」

「ノルマがあるっつーんならしょうがない。行ってやるか」

「あざーっす。これ、チケット三枚。んじゃ、また明日」

ミチは自分の用件だけ済ませ、亜美にチケットを渡すと、さっさと帰ってしまった。たまきはますますミチが嫌いになった。

 

午後三時ごろ。亜美を眠りから叩き起こしたのは、彼女の携帯電話だった。

「誰だよ……こんな時間に……」

亜美は携帯電話を確かめた。

「もしもし?」

「おっす。亜美」

「先生、……何すか?」

電話の相手は「先生」こと、京野舞だった。

「今さ、仕事で京都にいんのよ」

「……オペかなんかっすか?」

亜美がけだるそうに聞く。

「おめー、あたしが医療行為やってんのはボランティアで、本業はライターだってことを忘れてねぇか?」

「ああ、そうでしたね」

「今、取材で来てんだよ。ほら、京都の病院で臓器移植の手術があったろ」

「……何すか、それ」

「お前、ニュース見てないのか? まあいいや。そういうわけで、お土産何がいい?」

「何があるんすか?」

「八ッ橋とね、固い八ッ橋とね、変わり種八ッ橋とね」

「……全部八ッ橋じゃないっすか。何でもいいっすよ、粒あんじゃなきゃ」

「……どうした、元気ないな」

「……寝てたんで」

亜美は眠そうに答えた。

「お前、まだそんな不規則な生活をしてたのか」

「大丈夫っすよ。不規則を規則正しくやってるんで」

「やれやれ。たまきは? あいつは元気か?」

「相変わらず元気ないっすよ」

「そうか、まあ、自殺しなければそれはそれでいいか」

そういうと舞はそこで一呼吸入れ、少し声のトーンを落とした。

「志保は? あいつは、何か変わったことないか?」

「ああ、全然元気っすよ」

「そうか?」

「ほんとっす。心配無用っす」

「ならいいんだけど。木曜に東京帰るから、そん時、あいつを依存症患者用の施設に見学に連れて行こうと思うんだ。あいつにもそう言っといて。じゃ」

そういうと舞は電話を切った。

 

写真はイメージです

一日というのはあっという間に過ぎる。たまきのように、一日中ごろごろしている人間にとってもあっという間に一日は過ぎ去り、もうライブ当日である。

ライブハウスは思ったよりずっと小さかった。少なくとも、以前亜美に連れられたクラブよりずっと小さい。

ステージ上には真ん中にドラムがデンとおかれ、ギターのような楽器が三本ほどおかれている。床の上にはたくさんの配線。

客席は学校の教室ぐらいの広さだ。

もっと込み合っていると思いうんざりしていたのだが、客は十五人から二十人程度で、まばら。

「こんなもんだよ、アマチュアのバンドなんて」

亜美はそういっていた。

ふと、たまきは志保の方を見た。さっきから全くしゃべっていない。少し呼気が荒い気もする。もっとも、志保もあまりおしゃべりというわけではない。それでも、たまきから見れば十分よくしゃべる、「友達作りスキル」の高い人だ。

そろそろライブが始まる。ちらりと出口の方を気にする自分が、たまきはちょっと嫌だった。

 

照明が徐々に暗くなり、非常口の明かりも消え、直後にステージの上に灯りがともされた。

ステージに、黒の衣装で統一した5人の若い男性が入ってきた。各々楽器を取ったりドラムに座ったりマイクを握ったり。

もちろん、その中にミチもいた。ステージの右端で、青いギターを持って立っている。

ライブはいきなり演奏から始まった。ドラマーがまずドラムをどこどこと叩くと、続いてベーシストがブオンブオンと奏で始める。

その後に、ミチがギターをジャカジャカジャンジャンとはじきだす。続いて、左側のギタリストがギュオンギュオンと音を鳴らす。

4つの音が合わさって爆音となり、照明があわただしく明滅しだす。一転、音がぴたりと止まり、左側のギタリストが少しはかなげなアルペジオを奏で始めると、いよいよ真ん中に構えたボーカルが少しハスキーな声で歌い始めた。

マイクスタンドに寄りかかるように歌うボーカル。他の楽器の音も入ってきて、少しずつ盛り上がり、サビでは衝動的に叫ぶかのようなバンド音をバックに、ボーカルもとうとう叫びだす。はっきり言って、歌詞は聞き取れない。

あれ、とたまきは思った。ミチくん、歌わないんだ。歌、うまいのに。

たまきはミチの方を見た。ステージの右端で。ギターのコードを抑える左手の指使いを確認しつつ、右手をひたすら動かしている。

その表情にいつもの人懐っこい笑顔はない。観客が盛り上がるなか、なんだか今、この空間で一番つまらなそうな顔をしているように見えた。

公園で歌っていた時にはあれほど輝いていたミチが、なんだか影のさしているように見える。

ふと、たまきは、彼とどこかであったことがある気がした。

もちろん、たまきとミチは何回か会っている。だが、そうではなく、どこかであった気がするのである。

十五分ほどで3曲を演奏した。たまきには曲の違いがよくわからない。

ボーカルが二言三言喋るとまた同じような曲を演奏し始めた。

少し気分が悪くなってきた。ふと、隣の亜美を見ると、うでをふりあげぴょんぴょんとびはねている。

今度は後ろの志保を見た。が、そこには志保はいなかった。

トイレにでも行ったのかな。とりあえず、少し休もう、そう思い、たまきは会場を出た。

 

呼吸が荒い。鼓動も早い。寒気も感じる。だが、志保はもうそんなことは気にしなかった。

トイレの壁にもたれかかり、ただただ暗い天井を見つめていた。

少し、体が震える。

体が欲している。

志保は、携帯電話を取り出した。アドレス帳からある人物の名前を見つけ出す。

それは覚せい剤の売人の名前であった。

なぜ、彼のアドレスをいつまでも取ってあるのか。クスリをやめようと誓ったあの日、亜美やたまきに出会ったあの日なぜ消さなかったのか。

怖かったのだ。登録を消そうと彼の名前を見たとたんに、消すどころかまた再び彼に連絡を取って薬を手に入れてしまうかもしれなかったからだ。

震える手で携帯電話を支える。

今、アドレスを消せば、もう、クスリを手に入れることはできない。

そう思いつつも、志保は震える指で、「発信ボタン」を押した。

呼び出し音の後、低い男の声が電話から聞こえた。

「志保か。なんか用か?」

用なんてわかりきってるくせに。

「クスリ。欲しいの」

「場所は?」

志保は、自分の居場所を伝えた。しばらくして、男から返答があった。

「金は?」

「お金なら……」

そういって志保はカバンの中の財布に手を伸ばした。

だが、そこには財布はなかった。

志保はそこで初めて、財布を「城」に忘れていることに気付いた。

チケットは前日にミチが持ってきたので、今日、この瞬間まで、財布を忘れていることに気付かなかったのだ。

「……お金は、何とかする。いいから、早く持ってきて」

冷静に考えれば、「城」に戻って、財布を取ってくればいい話である。

 

冷静に考えられるのならば。

 

写真はイメージです

たまきは建物の外に取り付けられた、非常階段にいた。トイレに行くのが億劫になり、近くのあった非常階段に逃げ込んだのだ。

外はすっかり暗くなっていた。東京の夜空は星がなく、吸い込まれそうなくらいに暗い。

ライブスタジオはビルの3階にある。らせん状の非常階段から階下を覗き込み、はあっとため息をつく。

たまきは気づいた。

ミチのことをどこかであったことがあるというのは、ミチにある人物の姿を重ねていたからだと。

ある人物。それは、たまき自身のことだった。

何のやる気もなく、ただ消化試合のように生きている。絵を描くのも、楽しいからでもなく、何かを表現したいからでもない。時間をただ押し流すためだけの作業。

そんな自分の姿が、輝いていると思っていたミチに重なったのが、不思議だった。

そろそろ戻ろう。すっかり日の暮れた都会の空を見ながらたまきは思った。

 

非常階段からライブが行われている部屋へと続く廊下を歩く。と、廊下の右側の部屋から、少女が一人出てきた。茶色い長い髪の少女が誰なのか、たまきにはすぐにわかった。

「志保さん?」

たまきにしては結構大きな声で呼びかけたのだが、志保は見向きもせずに、廊下を横切ると、速足でエレベーターの乗り込んだ。たまきは、志保の出てきたドアを見た。

関係者控室。そう書かれたドアは、志保が本来、立ち入ることのないドアのはずだった。

つづく


次回 第5話 どしゃ降りのちほろ酔い

ライブハウスで財布の盗難事件が起こる。危うく濡れ衣を着せられそうになるたまき、真犯人に気づき苛立つ亜美、そして姿を消した志保。共同生活がピリオドを迎えそうになったその時、たまきが声を上げる……。

「『遠くばっかり見てんじゃねーぞバカヤロー!」』『そんなところにウチらはいねーぞ!」』『ここにいるぞバカヤロー!。……ここに生きてんぞバカヤロー!』」

⇒第5話 どしゃ降りのちほろ酔い


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第3話 病院のち料理

援助交際で稼ぐヤンキーギャル・亜美と、自殺未遂を繰り返す地味な女の子・たまき。二人はクラブのトイレで倒れている少女を見つける。少女の名前は志保。明日がどうでもいい亜美、明日が怖い志保、明日がいらないたまき、3人の物語がいよいよ始まる。

「あしなれ」第3話、スタート!


第2話 夜のち公園、ときどき音楽

登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


たまきはパニックだった。

ただ、パニックだったと言っても、慌てふためくとか、喚き散らすとかそういうのではなく、ただただ目の前の状況を飲み込めずに、ぼうっと見ていた。

トイレのタイルの上に倒れていたのは、白い、透き通るような肌の少女だった。

だが、不思議と、きれいとは思わなかった。

たまきは亜美(あみ)の方を見た。

亜美はというと、あんぐりと口を開けたまま、倒れている少女を眺めていた。亜美もまた状況が呑み込めずにいるらしい。

「亜美さん……どうしよう……」

たまきが不安げに亜美の方を見ながら尋ねた。

「どうしようって……とりあえず、ヒロキ呼んできて」

「うん……」

たまきは頷くと、トイレを出てとぼとぼと歩いて行った。

冷静に考えれば、救急車を呼ぶ状況なのだろうが、それが思い浮かばないくらい、亜美は動揺していた。また、冷静に考えれば、走らなきゃいけない場面なのだろうが、とぼとぼ歩いてしまうくらい、たまきも動揺していた。

亜美は少女の傍らにかがみこんだ。

ふと、少女の横に落ちている何かを亜美は見つけた。

「これって……」

亜美はそれを拾った。

 

ヒロキがトイレに到着した。

ヒロキは無言で、それを見下ろしていた。

「ヒロキ、どうしたらいいと思う?」

亜美が尋ねた。

「どうしたらって、救急車だろ、フツー」

「あっ」

二人は、そこで初めて顔を見合した。

「後、こんなん落ちてたんだけど……」

亜美は、赤いハンドタオルに包んだ拾い物を見せた。

「……なるほど……」

それを見ただけで、ヒロキはすべてを察したようだ。

「しかし、だとすると余計まずいな……」

「何が?」

亜美が尋ねた。

「この店が犯罪の温床だっていうのは聞いたことあるだろ?」

「まあ、噂なら……。」

「だからこういうのとか、救急車とかそういう騒ぎを避けたがると思うんだ。警察に目をつけられたくないからな。救急車を呼ぶことを許してくれるかどうか……。」

「じゃあ、どうするの?」

「……先生に連絡したほうがいいんじゃねぇの?」

「わかった。」

たまきは、二人の会話の内容についていくので必死だった。

そんなに年は変わらないはずなのに、なんだか二人が大人に見えた。人とかかわるのを避けてきたものと、人と交わりあい、群れあってきた者の違いだろうか。

 

亜美は電話を切った。

「先生が車でこっち来るから、通り沿いで待ってろだって」

「救急車は呼ばなくていいんですか?」

「先生の家からなら、救急車より早く来れるんだってさ」

ヒロキの道案内で、店の外までたまきと亜美は少女を運ぶことになった。

亜美が頭を、たまきが足を持つ。たまきの肩には少女のものと思われる白いショルダーバッグ。

二人で運んでいるとはいえ、少女の体は身長にそぐわず軽かった。

店のスタッフに「病人が出た」といって裏口から出してもらう。

ぐるりと回って大通りに出ると、すでに舞(まい)の車が来ていた。黒いワゴン車で6人は乗れるはずだ。

舞はすでに車の前で待ち構えていた。

京野(きょうの)舞(まい)。もともと医者だったのだが、今は医療系専門のライターとして食べている。医者としてたまきや亜美の面倒を見ている。

亜美は舞のところに駆け寄った。

「聞いたぞ亜美、トイレで倒れてたんだって?」

舞は亜美をじろりとにらみつける。

「またトイレかよ。アンタ、トイレの神様でもついてるんじゃないの?」

トイレの神様って、そういう神様だったっけ、とそばで聞いていたたまきは思った。

「アンタ、三か月はトイレに入んない方がいいかもね」

「そんなぁ、無理ですよ」

「そんなことより……」

そこで舞が声のボリュームを落としたので、たまきには二人の会話はよく聞こえなかった。亜美が鞄の中からハンドタオルにくるんだ何かを見せて、舞が難しそうな顔をする。

やがて、亜美が戻ってきた。舞は携帯でどこかに電話していたが、やがて電話を終えると車の中の少女を見た。

「走りながら状況を聞く。お前ら乗れ。1分で病院に行くぞ」

言われるままに亜美とたまきは車に乗った。

「よし、ヒロキ、あんたが運転しろ。あたしはその子を診てる」

ヒロキは無言でうなづき、運転席に乗った。舞は最後尾で横たわる少女に声をかけた。

「大丈夫。もうちょっとだけ頑張れ」

 

画像はイメージです

ネオンきらめく大通りから歓楽街に入る。カーラジオからは、若い男性アイドルの歌。

「ところでたまき、けがの調子はどうだい?」

舞が少女の顔色を見ながら言った。

「……大丈夫です」

たまきがボソッと答えた。

「亜美、お前はちゃんと月に一回検診に来なさい! 今月、まだ来てないでしょ!」

「大丈夫だよ、そんなの」

げ、という顔で亜美が答えた。

「え、亜美さん、どこか具合が悪いんですか?」

たまきが尋ねる。

「性病にかかってないかの検査だよ。セックスワーカーの基本」

舞が答えた。

「ヒロキ、アンタも最近こないね。ケンカ、やめたんだ」

「ちげーよ。けがしねーようになっただけだよ」

ヒロキが笑いながら答えた。

医者がこんなに余裕なら、たぶん大丈夫なんだろうな。

たまきはすぐ後ろの座席で横たわる少女を見ながら思った。

「しかしお前ら、何で救急車じゃなくてあたしに電話した?」

舞の問いに、先ほどのヒロキの考えを述べたのは亜美であった。救急車が着たら、店に迷惑がかかる。

しかし、舞は、「バーカ」と一言いうと、言葉を続けた。

「何も店のすぐそばに呼ばなくたっていいだろ。店から少し離れたところにきてもらえばよかったんだよ」

「あっ」

三人が同時に声を上げた。

「ま、うちから車出した方が早いし、もしかしたら、この子にとってはそれが良かった、なんてことになるかもね。そろそろ着くか」

舞は、後ろの座席で寝ている少女に少し目をやって言った。

 

病院につくと、医者らしき男性が出迎えた。

舞は車を降りると、男性と話し始めた。どうやら知り合いらしく、先ほどの電話の相手は彼のようだ。

やがて看護師たちがストレッチャーを持ってきて、少女をそれに乗せると、病院の中へと消えていった。

舞も男性医師と一緒に治療室へと入っていく。

「さてと」

そういうとヒロキは、踊りたりねぇと言って、来た道を戻っていった。

「……亜美さんは、どうするの?」

たまきは、少し背の高い亜美を見上げながら訊いた。

「残るよ。乗りかかった何とか、ってやつだ。たまきも残りなよ。今の時間、一人で帰るのは物騒だから」

たまきとしては、一刻も早く「城(キャッスル)」に戻りたかったのだが、そういわれると、残るしかない。

何より、ひとりで「城」までたどり着ける自信がない。

 

小田病院は、9階建ての総合病院だ。待合室も昼間なら患者でごった返しているのだが、夜の十時となると、誰もおらず、座っているのはたまきと亜美の二人きり。時折看護師や、パジャマを着た入院患者が点滴しながら歩いていくくらいだ。

静かである。音がすべて、白い壁と黒い影に吸い込まれてしまったみたいだ。

たまきは、壁にかけられた時計を見る。

夜の十時。

ちょうど、昨日、たまきが寝ているところに、亜美がミチを連れてきたのがこのくらいの時間である。

なんだか怒涛の二十四時間だった。実はそのうちの半分以上は、「城」でゴロゴロしていただけなのだが、それでも、たまきにとっては怒涛の二十四時間だった。

もしかしたら生涯で初めてだったかもしれない、「密室で男性と二人きり」。それから自分の過去に触れてしまい、大泣き。そのあと珍しく外出したら、ミチと再び会い、絵を見られる。さらに無理やりクラブに連れて行かれ、トイレで少女を発見する。

薄汚れた背もたれに寄りかかり、ふうっと息を吐いた。隣の亜美を見ると、携帯電話をピコピコいじっている。

 

深夜零時。亜美はゲームのキリのいいところで携帯電話から顔を上げた。隣のたまきはいつの間にか寝息を立てて、亜美の肩に首を預けて寝ている。

足音がした方に顔を向けると、舞が歩いてきた。

「終わったぞ」

舞はそういうと、手に持っていたコーラの缶を開けて飲み始めた。

「助かったの?」

「患者を死なせた直後に、コーラを飲む神経は持ち合わせていない」

亜美の問いに、舞は口からコーラのシーオーツーを吐きながら答える。

「じゃ、助かったんだ」

舞は無言でうなづいた。

「さてと、それじゃ、」

舞は一度言葉を切った後、続けた。

「あの子連れて帰るぞ」

「はーい。……えぇっ!」

亜美は大きく目を見開き、舞の方を見た。

「入院するんじゃないの?」

「医者の家に連れて帰るんだ。問題はないだろう。病院の許可はとってある」

舞はそういうと、コーラの缶に口をつける。

「たまき、帰るよ、起きて」

亜美はたまきの肩をゆすった。たまきは眠気交じりの声を上げた。

 

十二時半。たまきが舞の部屋のドアを開ける。まずたまきが部屋に上がり、電気をつける。白い壁が明かりに照らされる。

半開きになったドアを舞が足でさらに開けると、背中から部屋に入った。舞が少女の肩を持ち、亜美が少女の足を持っている。

寝室のベッドの上に少女を寝かせると、舞は棚の上からカップめんを三つ取り出し、お湯を注いだ。

「食え」

舞はそういうと、二人の前にカップめんを置いた。

「酒とかないんすか?」

亜美はそういうと、まるで自分の家のように冷蔵庫を開けた。

リビングルームにはドアのそばに、長方形のテーブルがあり、最大4人が座って食事ができる。その奥には二人掛けのソファと小さなテーブル、テレビがあり、ドアの反対側にある窓のそばには小さなデスクがある。デスクの上は本やら資料やらで散らかっており、雪のように積もった紙の隙間から、かろうじてノートパソコンが見える。

亜美は食卓の窓に近い方のいすに腰掛け、だらりと背もたれに体を預けている。たまきは、ソファの上で体育座りをしている。

三人はカップめんをすすっていた。テレビからはお笑い芸人の笑い声が聞こえる。

亜美は酒を片手にカップめんをすすっていた。もちろん、いけないことだが、舞は止めても無駄だという感じで亜美を見ている。

 

たまきは麺を食べ終わった。麺を食べ終わっただけで、スープはすべて残してある。同じタイミングで、亜美は麺とスープを完食し、ビールも一缶飲み終えた。

「ところで、あの子、何の病気だったんですか。」

たまきがつぶやいた。

舞は立ち上がると、少女の眠る寝室のドアを開け、中に入った。

茶色い長い髪。長いまつげの伏せられた眼。

眠っていても、たまきには少女が美人であることがわかった。

少女は長袖を着ていた。こんな時期に長袖を着るのは自分くらいと思っていたたまきは少し驚いた。

舞は、少女の右の袖をまくった。

少女の腕には、血のように赤い無数の点があった。。

「何ですか、これ?」

たまきは覗き込んだ。

少しの沈黙の後、舞は口を開いた。

「……注射器の跡だよ。」

薄暗い部屋を、さらに静寂がつつんだ。

「……注射器って……つまり……。」

たまきの疑問を遮るように、舞は答えた。

「検査で、この子の血液中から覚せい剤が検出された」

たまきは絶句した。少女は見たところ、自分とそんなに年が変わらない。自殺未遂を繰り返す自分が言えたことじゃないが、なぜこんな子が覚せい剤なんか……。

「だからここに連れてきた。あの病院にいたら、通報されるからね」

「なんでこんな子が覚せい剤なんか……。だって、覚せい剤って、どっちかっていうと亜美さんみたいな人が……」

「どういう意味だそれは! ウチだってさすがにドラッグは手を出してねーよ!」

ドアの向こうから部屋の中を見ていた亜美が大声を出した。

……快楽第一主義の亜美ですら手を出さないドラッグに、なぜこの子は手を出したのだろう。

「さてと、なんか持ってないかなぁ」

そういうと、亜美は少女のカバンの中をあさり始めた。

「ちょっと、亜美さん、何やってるんですか!」

たまきが亜美をたしなめる。

「別にとりゃしねーよ。何か、身元がわかるもんねーかなーと思って」

たまきは、次に自殺するときは、絶対に所持品のない状態にしようと思った。もし、死体が亜美みたいな人に見つかったら、何を見られるかわかったもんじゃない。

「お! 財布はっけーん」

亜美は人の財布の中身を見始めた。

「お! こいつ、結構持ってるぞ」

「亜美さん!」

「大丈夫。取ったりしねーって」

財布の中からは、数人の福沢諭吉が顔を出していた。

「クスリやるには金が要るからね。自力で稼いだか、犯罪に手を出したか、親からとったか……。確かに、そのくらいの年の子が持つにはおかしな金額だな」

舞が煙草に火をつけながら言った。

「お! 学生証はっけーん!」

亜美は、財布の中の、カードや会員証などを入れるポケットから、少女の写真の入ったカードを出した。たまきも、いけないと思いつつも思わず覗き込む。

学生証に描かれた少女の写真は、やはり美人だった。ぱっちりとした目、高い鼻、茶色く長い髪。そして、笑顔。

たまきには、こんな素敵な笑顔のできる人が、なぜ、覚せい剤などに手を出したのかがわからなかった。昔からほとんど笑わず、無理に笑えば似合わない、不気味だ、気味が悪いと言われてきたたまきには、こんなに美人で、こんなに笑顔が似合う人がなぜ……という思いが消えない。

「神崎(かんざき)志保(しほ)。星桜高校二年。」

亜美が生徒手帳に書かれた文字を読み上げる。たまきは、身分を証明する一切を家に置いてきてよかったと思った。もし、持っていたら、自殺して、亜美みたいな人に見つかった場合……。

「星桜高校? へぇー。進学校じゃん」

舞は灰皿にタバコの火を押し付けながら言った。

「先生、知ってるの?」

亜美が尋ねる。

「知ってるも何も、東京の女子はみんな一度はあこがれるものさ。偏差値高いし、制服はかわいいし」

「ウチ、東京の女子じゃないもん」

「……私も……」

「何だ、お前ら、東京出身じゃないのかい。じゃあ、どこの出身だ?」

とたんに、亜美は舞から目をそらし、たまきは下を向く。

「……言いたくないってか……。」

舞は二本目の煙草に手を伸ばした。

下を向いたたまきは、亜美の足元に転がっていた少女「志保」のカバンが目に入った。

人のカバンの中身を見てはいけないと思いつつも、たまきはカバンの中に手を伸ばした。

たまきの手がつかんだのは、手帳だった。

手帳にはプリクラが貼ってあった。「志保」を含む、たくさんの少女が写ったプリクラ。オレンジ色の字で「ずっとともだち」と書かれている。

別のプリクラは、「志保」と同じくらいの年の少年と映っているものだった。今度はピンク色で「だいすき」と書き込まれている。

「たくさんの友達」、「彼氏」。たまきがどれほど望もうと手に入らなかったこの二つを「志保」は持っているらしかった。なのになぜ、「志保」は覚せい剤なんかに手を出したのだろう。

 

写真はイメージです

頭が痛い。志保の目を覚ましたのは、グワングワンと揺れるように響く頭の痛みだった。

起き上がる。一瞬、痛みは高まったが、少しずつおさまってきた。あたりを見渡す。

知らない部屋だった。志保が寝ていたベッドは右側の白い壁沿いに置かれており、反対側の壁には本棚やCDラックが置かれている。そして、志保自身は覚えのないパジャマを着ていた。

部屋の中を見渡した志保は、ベッドのわきのいすに座り、こちらを見ている人物に気付いた。

黒い髪に黒いメガネ、黒い長袖の服を着た少女だった。メガネの左側のレンズはほとんど前髪に隠されている。メガネの奥の、眠たげに開いた眼はあどけなさが残るが、どことなく、生気というものを感じさせない。右手首の白いのはよく見れば包帯だった。

志保は少女と目があった。少女は、一言、

「あ、起きた」

とやはり生気を感じさせない声でつぶやくと、部屋の外へと出て行った。

「先生、亜美さん、起きました」

やがて、少女と共に女性二人が入ってきた。

一人は、二十歳前後の女性だった。金髪の長い髪。思わず目を背けたくなるほど露出の高い服を着ている。

もう一人は三十代前半と言ったところか。黒髪のストレート。煙草をくわえ、エプロンをしてた。

黒髪ストレートの方が志保へ近づいた。

「おはよう。気分はどうだい」

「え……、ちょっと頭が痛いですけど……」

志保は問われるままに答えた。

「うん、大丈夫だ」

「あの……、ここはいったい……」

志保は周りを見渡しながら尋ねた。

「昨日のことは覚えてる?」

「……なんとなく……」

「アンタはクラブで覚せい剤を打って倒れた。認めるね」

「……はい……」

「クラブで倒れてひっくり返っているところを、ここにいる亜美とたまきが見つけて、アタシのところに連絡してきた」

「あの……、あなたは……」

「京野舞。医者」

黒髪ストレートはそういうと、煙草の煙を吐き出した。

「薬物中毒なんて、さすがにウチじゃどうにもならないから、知り合いの病院に連れてって治療した。そんで、連れて帰って、今に至る。以上!」

志保の心の中には不安が募っていた。この人は自分が薬物中毒であることを知っている。っていうことは……。

「……あたし、これからどうなるんでしょうか……。やはり、警察でしょうか……」

「そんなの……」

医者の女性はそういうとくるりと背を向けた。

「自分で決めな。さあ、メシにするぞ」

 

ドアの向こうはリビングルームとなっており、長方形のテーブルに、湯気と香りが沸き立つ料理が並べられていた。壁の時計は十二時を示している。日差しが窓から差し込む。テレビからは女性タレントの笑い声。舞が最初に腰を下ろし、残りの三人はそれぞれ、舞に支持された場所に座った。黒髪メガネの少女の名はたまき、金髪少女の名は亜美というらしい。

隣には亜美、正面には舞、はす向かいにたまき。

「先生、なんか、ウチとたまきと志保、量ちがくない?」

志保は命の恩人とは言え、初対面の人間に呼び捨てにされるのが何か納得できなかった。

「当然だろ。一人一人、症状が違うんだから」

そういうと舞は、隣に座ったたまきを見た。たまきの前にはご飯とみそ汁、そして中盛りの肉野菜炒めが湯気を立てている。

「お前はまず食べろ。量を食べろ」

次に舞は志保を見る。献立は一緒だが、肉野菜炒めは肉の割合が多い。」

「アンタはやせすぎ! もっと肉を食え!」

「せんせー、うちも肉食いたい!」

亜美が不満を言った。亜美の肉野菜炒めは野菜多めだ。

「お前はどうせろくなもん食ってないんだろ。野菜食え。」

亜美は渋々、箸をつけ始めた。

 

豚肉を頬張りながら、志保は隣の亜美と、はす向かいのたまきを見ていた。

たまきは左手の箸でつつくように食べていた。もやしをピンセットみたいに箸でつまんで、小さな口へと入れている。そのスピードも遅く、料理に手を付けることなく、ぼんやりと皿の上も見ているときもある。

食欲がないんだろう、と志保は思った。志保にもそういうときがある。

一方、亜美はたまきの三倍のスピードで野菜炒めを食べていた。かきこむ、といった感じだ。

ただ、皿の一角にはピーマンがたまっている。わざと残しているようだった。

志保は疑問だった。この二人はいったいどういう関係なんだろう。姉妹? 友人? 先輩後輩?

だが、いずれもしっくりこない。この二人、あまりにも違いすぎるのだ。

たまきは全身黒ずくめ、といった感じだった。たぶん、カラー写真で撮っても、白黒写真で撮っても、そんなに変わらない。上から黒い髪、黒いメガネ。夏には珍しい、黒い長袖の服に黒いロングスカート。さらには黒い靴下。

だが、最も印象的なのは、メガネの奥の目だった。左目は、メガネの前で目を覆うように隠している前髪で見えない。しかし、右目だけで十分印象に残った。

あどけなさを残す目だ。だが、生気というものが感じられず、誰とも目を合わせない。初対面の志保はもちろん、舞、亜美とも目を合わせようとしない。

一方、亜美は正反対だった。金髪の長い髪を後ろで結んでいる。袖がなく、胸の谷間を強調した服。腿まで見えるパンツ。捕まらない範囲で見せられるところはすべて見せている、といった感じだ。右肩には小さな青い蝶の入れ墨が、舞い飛ぶように彫られてある。

よくしゃべり、よく笑い、よく食べる。悩みなどなさそうに笑っている。

 

「で、この後どうするの?」

舞が箸を置き、志保の目を見ながら尋ねた。志保は目を伏せた。

「……警察でしょうか……」

志保は三十分前と同じセリフを口にした。

「アンタがやっているのは、立派な覚せい剤取締法違反。アンタの年なら少年院行きだ。けどね……」

そういうと、舞は目に力を込めた。

「少年院で、あんたの病気が治るとは限らない。っていうか、アタシには思えない」

「病気……」

志保は、舞の言葉をオウムのように繰り返していた。

意外。そんな目をしている。

「少年院に行く女ってのは、薬物中毒者が多いんだ。そんな連中が同じ雑居房で暮らしてみな。確かに、社会と隔離することで、強制的に麻薬に手を出さなくなるかもしれないけれど、横のつながりってのができる可能性は否定できない」

そこまで言うと、舞は、コップの中の水を飲んで、言葉を続けた。

「薬物中毒者に対する対処は、なにも、刑務所だけじゃない。最近は、薬物中毒専門の病院や、施設があるんだ。そういうところに行くって道もある」

舞は、志保に一層近づいた。

「どっちに行くかは、アンタが決めな。警察行くってんなら、付き添ってやる。病院行くっていうなら、紹介してやる」

志保の中では、「病気」という言葉が響いていた。

そんな二人の会話を割るように、亜美が目を輝かせながら尋ねてきた。

「ねえねえ、何でドラッグなんてやったの?」

「えっ?」

志保はたじろいだ。

「……亜美さん……!」

たまきがボソッと声を上げた。

「そういうこと聞いちゃだめですよ」

「別にいいじゃん。ウチら、こいつの命の恩人だよ?」

「恩着せがましいですよ。私、亜美さんの、そういうところ、なんていうか……」

たまきはそこで言葉を切って、しばらく考えてから、言葉を続けた。

「……苦手です……。」

「たまき、はっきり言ってやっていいんだぞ。嫌いなら嫌いって」

食事を終えた舞が、煙草に火をつけながら言った。

「……怖かったんです……」

三人の会話を、志保のかすかな声が遮った。

「え?」

「明日が来るのが……怖かったんです……」

それっきり、志保は下を向いたまま、話さなくなった。

「明日……」

亜美とたまきは、異口同音につぶやいていた。

しばらくして、志保が口を開いた。

「……警察、行かなくていいんですか?」

「医者としてはそっちを勧めるね。法律的にはアウトだとしても。ちゃんと治療を受けるなら、アタシはあんたを通報したりしない」

病気なんだ……。治せるんだ……。そんな思いが志保の中に芽生えていた。

「……よろしくお願いします……」

志保はそう言った。

 

食事も終わり、舞は皿洗いを始めた。

「手伝います」

志保が舞の横に立ち、皿を洗い始めた。

「お、慣れてるねぇ。料理とかするの?」

「まあ、一応……」

「そういえばさ……、アンタ、家はどこ? 親は……?」

その質問に、志保は顔をうつむけた。

「おいおい……コイツもかよ……」

二人の会話を聞きながら、亜美は見ながらぼんやりと煙草を吸っていた。

「……料理か……」

亜美は天井に向かっていく白い煙の帯を見ながらつぶやいた。

「……使えるな」

それを聞いて、たまきはにがそうな顔をした。

「……また悪巧みですか?」

「ウチがいつ、悪だくみをしたよ?」

「……私を助けたのも、悪だくみだと思ってますけど……。で、何、企んだんですか?」

「料理だよ。料理が足りなかったんだよ」

亜美は煙草を灰皿に押し付けた。

「ウチんとこに来る男がみんな『お前は色気があるけど女っ気が足りない』っつってるんだよ」

「……私はどっちもないですけどね……」

「アバウトな言い方だろ? 『色気』と『女っ気』ってどう違うんだよ。で、ずっと考えてたんだけど、『女っ気』っていうのは『女の子らしさ』だと思うんだよ」

「……『色気』と『女の子らしさ』はどう違うんですか……」

「……いや、わかんねーけど……。まあ、で、どうしたら『女っ気』が出てくるか考えてたんだけど、やっぱ、『料理』だと思うのよ」

「……女の子が料理できなきゃいけない、っていう時代はもう古いと思いますよ。現に、私たち二人とも、料理できないじゃないですか」

「わかってないなぁ。要は、オトコがオンナに何を求めてるか! 『オトコの理想のオンナ』をいかに演じるか。それがわかんないから、あんたはモテないんだよ」

「……別にモテたいと思ってないし……」

「てなわけでだ」

亜美は、体ごとたまきに向きなおった。

「ウチはあの子を『城』に迎え入れようと思うんだ」

たまきが「やっぱりね」と言いたげに亜美を見た。

「やっぱり、ビジネスは日々進化させないと」

そう言って亜美は笑うと、首を志保の方に向けた。

「志保―っ! あんた、行くとこないんでしょ? ウチこない?」

「え?」

志保が驚いたように振り返った。

「家出してるんでしょ? ウチらも同じ。ウチんとこきなよ」

「アンタねぇ。薬物中毒者と一緒に暮らすということがどういうことか……」

舞はそこまで言いかけたが、そこでしばらく黙った後、

「フム。まあ、やってみれば?」

と、娘にペットを許可するような口調で言った。

「あ……じゃあ、行くとこないし……、お世話になります……」

志保は、ぺこりと頭を下げた。

 

写真はイメージです

「……ここ……お店だよね?」

ネオンきらめく雑居ビルの5階。白く光る「城(キャッスル)」と書かれた看板を前にした志保が言った。

「ここはね、ウチらの城」

そういうと、亜美はドアを開けた。

ほのかな電灯をつけると、二人暮らしには広い間取りに、壁に沿っておかれたソファと、三つのテーブルが見える。

テーブルの上は雑誌やリモコン、ぬいぐるみなど、生活感にあふれている。誰に説明されなくても、志保はこの店がすでに営業していないことがわかった。

「二人は何の仕事してるの? この部屋、っていうか、店、家賃とか……?」

「ウチ? ああ、援交」

「援交!?」

志保が目を丸くして声を上げた。

「気を付けてください。ここに平気で連れ込みますから」

たまきがボソッと忠告する。

「……たまきちゃんも、そういうことするの?」

たまきは慌てて、「私は全く関係ありません」と言わんばかりに首を振った。

「私は、そういうの興味ありませんから……。結婚する気も、子供作る気もないですし……。……たぶん、そういう年になるころには、この世にいないと思うし……」

「ええっ!?」

たまきが最後にボソッと言った言葉に、志保はまた目を丸くした。

「たまきちゃんって……何かの病気なの!?」

「ああ、そいつはね、死にたがり病なの。志保も気を付けてよ。ちょっと目を離すとそいつ、すぐリストカットしようとしたり、屋上から飛び降りようとしたりするから」

「……そうなんだ……」

志保は亜美の方を向いた。

「じゃあ、ここの家賃は、亜美ちゃんのその、援助交際で払ってるってこと?」

「家賃? ああ、払ってないよ」

「はい!?」

「……まあ、不法占拠というやつです」

たまきがボソッと補足する。

亜美はカウンターの方へと歩いて行った。カウンターの中には、店だった頃はボトルが並んでいたと思われる棚があり、簡単な厨房も見える。

「ここが、志保に腕を振るってもらう厨房」

「あのね、亜美ちゃん、さっきも言ったんだけど、料理はできるけど、そこまで上手ってわけじゃ……。」

「いいんだよ、作れれば。ウチら、どっちも料理できないんだし。たまきも、『城』でおいしいもの食べたいもんなぁ」

「……私は別に食にこだわりはないんで……」

たまきはボソッと訂正した。

 

食事をして、銭湯に行って、そのあとは思い思いの時間を過ごしていた。

たまきはもう寝ると言ってソファの上に横になった。亜美は煙草を吸うと言って屋上に行った。

志保はわずかに開いたキッチンのカーテンから月を見ていた。

昨日の今頃はこんな風になるなんて、考えてもいなかった。

昨日の今頃。確か、ドラッグを打って……。

急に背中から生まれた悪寒が全身をつつむ。志保は、思考を切り替えようと後ろを見た。

たまきがこちらを見ていた。横になっているにもかかわらず、メガネをかけ、じっと志保の方を見据えていた。

 

たまきには分からなかった。志保はなぜ、ドラッグなんかに手を出したのか。

今日一日、志保を見ていたが、志保はいたって普通の女の子だった。受け答えからも、育ちの良さ、頭の良さがうかがえた。

さらに、亜美ともすぐに打ち解けてしまった。

舞の家から「城」への帰り道、たまきは、亜美や志保の少し後ろを歩いていた。

二人は、それこそもう数年来の友人であるかのように話していた。元彼の話、お互いの通っていた学校の話、食べ物の話、etc……。

たまきはその少し後ろを歩く。自ら会話に加わることはないし、話しかけられても、ボソッと、最低限のことしか言わない。

こういう人たちはいるのだ。新学期、クラス替えとかでいきなり友達を作れる連中が。

それができれば、人生はきっと楽しい。たまきはずっとそう思っていた。

今、目の前にいる二人は間違いなく「友達作りスキル」のある人間である。たまきから見れば、勝ち組のはずだった。

だから、わからない。一方は学校というレールから外れ、一方はドラッグに手を出す。

自分がダメなのは、友達を作れないからだ。そう考えてきたたまきにとって、友達作りスキルを持っているにもかかわらず、自分と同じように枠から外れた亜美と志保は不思議でしょうがなかった。

自分がダメなのは、友達がいないからではないのか? それとも、論点が違うのか?

特に、志保はたまきが届かなかったもの、すべてを持つ存在だった。

だから余計にわからない。こんなにも他人に関心を持ったのは初めてではないだろうか。

ふと、志保と目があった。たまきは青いタオルケットを頭からかぶった。

「一つだけ聞かせてください」

タオルケット越しに薄暗い闇を隔ててたまきの声が志保の鼓膜に届く。

「明日が怖いって……どういうことですか……」

答えはきっとそこにある。

たまきの問いかけを聞いた志保は、少し微笑んだ。自嘲の色を帯びながら。

「志保さんは……。」

「もう志保でいいよ。年、そんなに変わんないんでしょ」

「……志保さんは、学校にちゃんと通えて、友達がいて、何で、ドラッグなんかに……。」

何てレベルの低いことを言っているんだろうと、たまきは思った。学校に通い、友達を作る。そんなの、最低ラインじゃないか。それにすら到達できない自分は何てクズなんだ。

そんなことを考えているたまきに、志保は優しく言葉をかけた。

「あたしの通ってる、ううん、もう一月ぐらい行ってないから、通ってた高校か。自分で言うのもなんだけど、結構、頭のいい学校なの。だから、入るのすっごい大変だった。相当勉強した」

志保の長いまつげが、月明かりに照らされる。

「親はすっごい喜んでね。もちろん、あたしもうれしかった。すぐに友達もできたし、夏休み前には彼氏もできた。自分でも、順調な高校生活だと思った……」

たまきにしてみれば、おとぎ話のような話である。

「でもね、順調だと思えば思うほど、ぼんやりと見えてきちゃうんだ、自分の明日が。このまま普通に大学行って、普通に就職して、普通に結婚して、普通に子供産んで育てて、普通に老後を送って、普通に死んでって。そう考えたら、急に怖くなったの」

「……それで……ドラッグに?」

たまきはますますわからない。

「ま、それだけじゃないけどね。でも、きっかけはそうかな」

順調だけど、順調だから、明日が怖い。

でも……。

でも……。

「そんなの……」

贅沢だ。たまきが言えなかった最後の一言を志保は理解したのか、やさしく笑った。そして、志保はさびしそうにつぶやいた。

「……贅沢だよね」

 

亜美は屋上にいた。煙草の煙がネオンに照らされて、紫色に映える。初夏の夜は肌に心地よい。

ここでたまきと会ったのか。あの時はこんな風になるなんて考えもしなかった。

何でたまきを助けたんだろ? いまさらながら考える。

そして、なんであの子を、志保を「城」に招き入れた?

……そりゃ、金になるからでしょ。

……本当に?

ぶっちゃけ、今まで週に二回来てたヒロキが、たまきが来て以降、週三回になったぐらいで、新規開拓なんて全くできてない。

きっと、志保が入っても、これ以上儲けは増えないだろう。

そんなの、最初からわかってた。「金儲け」なんて口実だ。

じゃあ、なんで、二人を招き入れた……。

……自分に似てるから?

……そんな馬鹿な。

右脳で出した答えを左脳で否定する。

あの二人が自分に似ているわけがない。たしかに、「家に帰りたくない」という点では似ている。それは認める。だから、たまきに親近感を覚えた。

しかし、たまきは亜美と違ってうじうじしてるし、志保は亜美と違って頭がいい。

そもそも、あの二人が言っていたことがさっぱり理解できない。たまきは明日なんていらないと言い、志保は明日が怖いと言う。

明日のことなんて考えるから、そんなこと言うのだ。明日なんて来ないかもしれない。

亜美は夜空を見上げる。もしかしたら、今日、宇宙のかなたから突然現れた恐怖の大魔王が、火の玉で地球を焦土と化し、みんな死んでしまうかもしれない。

まあ、今のはさすがに極端だが、明日が来る保証なんて、誰にもない。だったら、明日のことなんて考えたって仕方ない。明日なんてどうでもいい。今を楽しんで、明日が来ちゃったら、その時考えればいいのだ。

ふと、亜美の顔にあたるものがあった。思わず上を見ると、さらにポツッ、ポツッ、と冷たいものが当たる。

雨だ。

「マジかよっ」

亜美は屋上を後にした。

 

写真はイメージです

翌日は土砂降りだった。お昼少し前、亜美は買い物に出かけたので、「城」の中にはたまきと志保の二人がいる。

雨の日のたまきは気分が悪い。機嫌が悪いのではない、気分が悪いのだ。もっとも、はれや曇りでも気分がいいわけではなく、そんなに悪くない、というだけなのだが。

「たまきちゃん、何食べる?」

志保は厨房に立っている。髪を縛って、冷蔵庫の中を覗いている。

「お昼……いらないです……」

その時、雨音とともに、亜美が帰ってきた。

「ただいま。いいもの買ってきたぜ」

亜美は、手に持っていた、少し濡れたビニール袋の中から、何かを取り出した。

コルクでできた楕円型の薄い板。それといくつか、ひらがなの形をした造形物が、袋の中には入っていた。

「ネームプレート?」

志保が尋ねた。

「そう。せっかくだし、これに三人の名前を貼って、玄関につるそうぜ」

「……玄関につるしたら、不法占拠がばれるんじゃないですか……」

たまきの一言で亜美が一瞬止まった。

「……ドアの内側にしよう」

 

「うちはピンクね」

亜美はピンク色の造形物の裏にボンドを塗り、コルクのネームプレートの上の方に張り付けた。造形物は、ひらがなの「あ」と「み」の形をしている。

「たまきは黄色ね」

亜美は黄色い「た」「ま」「き」をたまきの手に渡した。

「……私、黄色ですか……?」

黒か紫が良かった。

「気分だけでも、明るくしなきゃダメなんだよ」

たまきは少し不満そうに、造形物を見ていたが、やがてボンドを手に取ると、ボードの下の方に張り始めた。

「たまき、そんな下でいいの?」

「たまきちゃん、真ん中にしなよ。下は新入りの私が」

「……いいです、私はここで」

そういいながら、たまきは「き」を張り付けた。

「志保は青ね」

亜美は志保に青と水色の間くらいの「し」と「ほ」を渡した。志保は笑顔で、「あみ」と「たまき」の間に張った。

亜美は、完成したネームプレートを、ドアの内側、ちょっと高いところにつるした。

「かんせ~い」

 

あみ

しほ

たまき

 

「へへっ。ちょっと、テンションあがるな」

「そうだね」

「……ちょっとだけ」

雨は激しく降り続いていた。

つづく


次回 第4話 歌声、ところにより寒気

亜美、志保、たまきの3人での生活が始まった。ミチに誘われて、彼のバンドのライブに出かけたたまき。事件はそこで起こる……。

「何のやる気もなく、ただ消化試合のように生きている。絵を描くのも、楽しいからでもなく、何かを表現したいからでもない。時間をただ押し流すためだけの作業。 」

⇒第4話 歌声、ところにより寒気


←第1話から見る

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たちです(第12話時点)。「城(キャッスル)」で暮らすメインの3人はもちろん、彼女らの周囲の人々も基本情報はココで確認できます。これを見ておけば第1話じゃなくても、「あしなれ」をどこからでも楽しむことができます。


亜美

第1話から登場する、「城」で暮らす少女。「明日なんかどうでもいい」と援助交際で生活している。右腕に青い蝶の入れ墨が入っている。

志保

第2話から登場する、「城」で暮らす少女。「明日が怖かった」と覚せい剤に手を出し、薬物依存と戦っている。右腕に無数の注射針の痕がある。

たまき

第1話から登場する、「城」で暮らす少女。「明日はいらない」と自殺未遂を繰り返す。右手首に白い包帯を巻いている。

京野舞

第1話から登場する、元医者の医療ライター。「城」で暮らす少女たちの面倒を見ている。

ヒロキ

第1話から登場する、亜美の「客」。

ミチ

第2話から登場する、ミュージシャン志望の少年。ヒロキの後輩にあたる。

 仙人

第8話から登場する、ホームレス。たまきの絵を絶賛する一方で、ミチの歌に対しては辛辣な評価を下す。

トクラ

第10話から登場する、志保と同じ施設に通う女性。危険ドラッグに手を出したらしい。

海乃

第11話から登場する、ミチと同じラーメン屋で働いている女性。ミチのカノジョだったが、クリスマスの夜に破局。

田代

第12話から登場する、大学生の青年。志保がバイトする喫茶店「シャンゼリゼ」で働いている。

ミチのお姉ちゃん

第24話から登場する、ミチの姉。スナックの雇われママさん。

 

知念厳造

志保がアルバイトする二丁目にある行真寺の住職。前職はゲイバーのママ。

小説:あしたてんきになぁれ 第2話 夜のち公園、ときどき音楽

「明日なんてどうでもいい」と援助交際で生計を立てる亜美と、「明日なんていらない」と自殺未遂を繰り返す少女・たまき。二人の家出少女がつぶれたキャバクラを不法占拠して共同生活を始めた。だが、たまきは人に話しかけられるのも、人に見られるのも大の苦手。そんなたまきに亜美はコミュニケーションをとろうとするが……。

「あしなれ」第2話、スタート!


第1話「命日のち明日」

登場人物はこちら! ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


吸い込まれそうな曇り空。たまきは屋上からビルの下を覗き込んだ。長く息を吸うと、大きく吐いた。そんな呼吸を数回繰り返す。小柄な体に肩まで伸びた黒い髪。メガネをかけているが、レンズの左半分はほぼ前髪に隠れている。右手首には白い包帯が巻きつけられてある。蒸し暑いのにもかかわらず、長袖を着ている。

たまき、十五歳。

「たまき!」

たまきの背後で大声がする。たまきは振り返らなかった。声の主は二週間ほど一緒に暮らしている相手でよくわかっているし、そもそもこの屋上に出入りする人間は自分と彼女を置いてほかにいない。

「なにやってるの!」

長い金髪を後ろで束ねた薄着の少女。胸元は谷間を強調するようにあいている。ノースリーブの右の二の腕には青い蝶の入れ墨が見える。

亜美(あみ)、十八歳。

「大丈夫です」

たまきは亜美に聞こえるギリギリの音量で言った。

「今はそういう気分じゃないので」

たまきは振り返らずに、下を見たまま答えた。亜美はたまきに近づくと、包帯のまかれた方の手首を握った。一週間前、「城(キャッスル)」のトイレで切ったばかりの傷口がちくりと痛む。

亜美はたまきの手を握りながら、一週間前のことを思い出していた。あの日は雨が降っていて、今日のようにたまきは終始具合が悪そうだった。朝からほとんど何も食べず、ソファの上で横になっていたが、ふと立ち上がると、トイレへと入っていった。

一、二分後だっただろうか。トイレから出てきたとき、たまきの手首からは血が流れていた。

「またやっちゃった」

そういうと珍しく、彼女にしては本当に珍しく、にこっと笑ったのだった。

そんな前科があるから、亜美はたまきの腕を強く握った。

「大丈夫ですって。」

たまきは振り向きもせずに答えた。

「ちょっと気分悪いだけですから。乗り物酔いみたいなもんです」

そういうと、たまきは静かに目を閉じた。

 

写真はイメージです

その町はシンデレラ城のようだ、といったのは誰だっただろうか。

なるほど、遠くから見ると、東京の街並みの中に突如として現れる高層ビル群は、西洋の城郭を彷彿とさせる。その中は人々の夢、欲望、怨念が渦巻くまさに魔法の国、歓楽街が広がっている。

食欲、性欲、金銭欲。澄ました顔をしたオトナたちがそこでは獣と変わる。

いや、獣に戻ると言った方がいいのかもしれない。

そんな街にあるからなのか、その店は名前を「城(キャッスル)」という。

正確にはもう店ではない。一年ほど前に潰れ、店としての設備と機能を残したまま、店主はどこかへ消えた。

今、ここには二人の少女が住んでいる。たまきと亜美はともに家出中の身だ。ビルのオーナーはこのことを知らない。いわゆる、不法占拠だ。

部屋の内装はキャバクラそのものだが、亜美が援助交際で稼いだ金で、生活に必要なものを買い足してある。

テレビもその一つである。小さいが、ちゃんと映る。

亜美は今一人でバラエティ番組を見ていた。傍らではたまきがソファの上で丸くなっている。

「見ないの?」

亜美が画面を見たまま訪ねた。

「あまり好きじゃないんでいいです」

亜美はたまきの方を向いた。

「じゃああんたさ、何してれば楽しいの?」

 

この二週間、亜美はいろいろ試してきた。

「城」はビルの5階にあり、すぐ下はビデオ屋である。亜美はそこでDVDを数本借りてきた。どこで買ったのかDVDプレーヤーで再生させる。

何か楽しいことがあれば、死のうなんて気はなくなるだろう。という考えからだった。

最初に見せたのは恋愛もので、名作の呼び声高い。

その映画を見る間、たまきは一言もしゃべらなかった。

そして、映画が終わった後、ポツリと言った。

「彼氏作れる人っていいですよね」

その「いいですよね」は憧れではなく、諦めだった。

それだけ言うとたまきは、毛布を頭からかぶり、ソファの上に丸くなって寝てしまった。

それ以後、亜美はたまきに恋愛ものを見せなくなった。

ならばと借りてきたのがホラーものだった。殺された女の霊が襲い掛かるというものだ。

ホラーの大好きな亜美は、映画の途中にちらりとたまきを見た。口では「問題ないです」といっていたが、実際のところ、大丈夫なのだろうか。

たまきは泣いていた。最初、それが怖さのあまり泣きだしているのかと思った。

だが、違った。それにしては静かなのだ。泣き叫ぶのではなく、泣く。聞こえるのは悲鳴ではなく嗚咽だった。

「どしたの?」

亜美はたまきに尋ねた。

「この人、死んだのに楽になれずに現世をさまよい続けてる。自分が死んでもこうなのかなってふと考えたら、なんだか悲しくなってきて……」

そういうとたまきはメガネをはずし、ハンカチで目頭を押さえた。

それ以来、亜美はたまきにビデオを見せなくなった。

いろいろな場所にも連れ出そうとした。

「たまき、ゲーセン行かない?」

たまきはソファの上でいつものごとく寝っころがっていたが、上体だけ起こすと、

「雨が降ってるんでいいです」

「雨なんていいじゃん。すぐそこじゃん。」

亜美はそういったが、たまきはそのまま毛布を頭からかぶると、

「いいです」

とだけ言った。

この二週間、たまきの外出といえば、買い物と銭湯くらいである。それも、積極的に出かけているというよりは、「居候の身なのだから、買い物ぐらいしなくては」と考えているように見え、自ら積極的に出かけることはなかった。

 

時は戻って今、たまきはぼんやりとテレビの画面を見つめていた。

「楽しい、ですか……」

たまきはうつむいたまま答えた。

「あまり思ったことないですね」

「嘘?」

亜美は驚いたようにたまきを見た。

「え? 友達と話してるときとか」

「友達ですか」

たまきは顔を上げずに答えた。

「あんまりいたことないんで……。人に話しかけられるのが嫌いなんです」

「そう……」

それを言われると、亜美は何も言うことがない。

「……ウチは話しかけても大丈夫……?」

亜美は恐る恐る尋ねた。

「……あまり話しかけて欲しくないんですけど……」

たまきはそう前置きしつつ、

「一緒に住んでるのに話しかけるなっていうのもあれなんで……、ちょっとくらいなら……」

そしてたまきはボソッと付け足した。

「でも、亜美さんのそういうズカズカしてるところ、嫌いじゃないです」

「ウチってそんなにズカズカしてる?」

亜美の問いかけに、たまきは無言で頷いた。

「なんでそんなに、話しかけられるのが嫌いなの?」

たまきは口を閉じたまま、亜美をにらんだ。

「そういうのがズカズカしてるっていうんです」

 

亜美は非常口を兼ねたキッチンの窓のカーテンを開けた。今は、「城」の中に日差しが入り込むわずかな時間だ。日の光が当たったたまきは、ドラキュラよろしく毛布を頭からかぶる。

「たまき、メイクを教えてあげようか」

亜美が日の光を眩しそうに見ながら言った。

「結構です」

たまきは毛布の中から答えた。

「もう!」

亜美はたまきの毛布を掴むと、一気にはがした。

「そんなんだからね、自殺とかするんだよ! 少しはおしゃれしたら!」

亜美はソファの上でにらんでくるたまきを見下ろしながら言った。夏が近いというのに長袖にロングスカート、見せれるところは全部見せてる亜美とは(別にビキニを着ているわけではない)対照的だ。

「ほっといてください」

たまきは上体を起こしながら反論した。

亜美はたまきに近づくと、たまきの髪を真中から分けた。普段は前髪で隠すことが多いたまきの顔があらわになる。

「お、かわいいかわいい。ついでにメガネも取っちゃおうか。」

そういって亜美はたまきのメガネを顔から外した。しかし、ほんの少し放したところで、たまきがひったくるようにメガネを取り返すと、再びかけた。まるで自分にとってメガネはメガネとしての本来の役割以上に、防具だとでも言いたげなように。

そして、髪の毛をくしゃくしゃとやると、前髪を垂らした。メガネの左側のレンズの大半が髪の毛に隠れる。

「……私はこれでいいんです」

そういうとたまきはそっぽを向いた。

亜美はため息をついた。

亜美としてはたまきとコミュニケーションを取りたいし、たまきのことを知りたいのだが、たまきは一定の距離を取ろうとしている。

 

写真はイメージです

雨上がりの夏の日差しは、もう梅雨明けが近いことを知らせている。日の光は濡れたアスファルトで反射し、海原のようにきらめいている。

亜美はファーストフード店の紙袋を片手に、汗を拭きながら「城」のある太田ビルへと向かっていた。

太田ビルの一階、コンビニのわきに「城」へと続く階段がある。そこに、二人の男が椅子を並べて座っていた。彼らは、そばを通る男性を見つけるたびに、

「DVDどうっすか?」

と声をかけている。

「お疲れ」

亜美は二人に声をかけた。

「おう、お疲れ」

二人のうち、年上らしき方が答える。派手なシャツに金髪、髪型は坊主に近い。サングラスにひげ、ビビるなという方が無理な風貌だ。

ヒロキ。亜美の客の一人である。

「何、今日はミチも一緒?」

亜美はもう一人の方を見ながら言った。

「お疲れ様っす」

ミチと呼ばれた茶髪の少年が返事をした。高校生ぐらいだろうか。ワルっぽい恰好をしているが、顔にはまだあどけなさが残る。

「あんたまだ十六でしょ。いいの? こういうバイトやって?」

「お前に言われたくねぇよ、なぁ」

ヒロキが笑いながらミチを見た。

「呼び込みぐらいいいんじゃねぇの?」

「ふーん、ウチんとこに迷惑かけないでよね」

「それはそうと亜美、今晩もよろしく頼むぜ」

ヒロキがにやりと笑った。

亜美とヒロキ、ミチが談笑をしていると、階段を下りる音が聞こえてきた。

階段の入り口から黒い長袖の少女が現れた。たまきである。

「たまき、どこ行くの!」

亜美はたまきに声をかけた。

「買い物です」

たまきはそれだけ言うと、駅の方むかって歩いて行った。

「やれやれ、4日ぶりの外出か」

亜美がたまきを見送りながら言った。

「センパイ、今のがこの前言ってた子っすか」

「ああ」

ヒロキがミチの質問に答えた。

「へぇ、かわいいっすね。ああいうの、タイプっすよ」

「なにミチ、あんた、ああいうのタイプなの?」

亜美がミチの方を向いて言った。

「ああいう地味でおとなしそうな子ってタイプっすよ」

「ふーん」

亜美が何かを思いついた顔をした。

「じゃあさ、あんたに頼みがあるんだけどさ……」

 

写真はイメージです

東京では欲しいものは何でもそろうと誰かが言っていたが、たまきはそれはウソだと思う。

確かに、流行りの洋服や、知る人ぞ知るインディーズバンドのCDとか、東京の方がよその町より手に入りやすいものも多いだろう。

だが、野菜や本など、日用品は東京の都心では手に入りにくい。

文房具などもその一つだ。

たまきは、先週リストカットした時に治療のために会った、元医師の医療ライター京野(きょうの)舞(まい)からもらった、文具屋のチラシを持っていた。これが手に入らなかったら、どこで買い物をすればいいかもわからなかったに違いない。

たまきは鉛筆と画用紙だけ買って店を出た。雨上がりの東京の町には、いろとりどりの服を着た人が歩いている。

この人たちはきっと自分より楽しく生きているのだろう。普通に学校に通い、普通に仕事し、普通に恋をして、友達に囲まれ……、そう考えると吐き気がしてうずくまりたくなる。呼吸は、毒ガスでも吸ってるんじゃないかってぐらい苦しく、なんだかふらふらする。

早く「城」に帰ろう。そして横になろう。そうすれば、楽になれる。

本当につらい時、涙なんて出ない。あるのは吐き気である。

 

「城」へ戻ってからというもの、たまきはずっと横になっていた。

別に、横になったからといって体調が良くなるわけではない。だが、これ以上気分が悪くなっても大丈夫という点では、街中を歩いているよりは楽だ。いくらでも鬱になれる。どんなに鬱になっても、寝床で寝ていれば、これ以上歩いたりする必要もない。

今や、「城」はたまきの小さな世界、「城」の中がたまきのすべてだった。

亜美という同居人がいるが、亜美と共に暮らすのは、家族と暮していた時よりも気が楽だった。亜美はズカズカとたまきに関わってくる。だが。今までの二週間で、亜美に傷つけられたことはなかった。

家族は違った。父も母も姉も、たまきに関心を示さなかった。そのくせ、たまきの心を傷つける。

亜美との生活はそんなころと比べると楽だった。だが、亜美と一緒にいるのが楽なだけで、極度の人見知りが治ったわけではない。

だから、亜美の客に「顔見せ」をするのが非常にいやだった。

この「顔見せ」がたまきの唯一の収入のための手段である。亜美の客が来ているとき、顔を見せる。こんにちわとあいさつする。ただそれだけである。

亜美曰く、たまきが顔見せをするようになってから、仕事の量が増えたそうだ。客の数が増えたわけではなく、同じ客が来る回数が増えたらしい。

「ウチの客ってさ、ウチみたいなタイプの女としか付き合わないんだよ。だからさ、たまきみたいに地味でおとなしくて、オトコとあんま話したことないって子がウケるんだよ」

亜美はそう言っていた。

「いいじゃん、顔見せるだけでお金になるんだから。アイドルみたいだし、楽でいいじゃん」

などと言って亜美は笑っていたが、楽どころか、苦痛以外の何物でもない。たまきは、「人に見られる」というのが大嫌いなのだ。

だが、居候になっている以上、苦痛でもやらねばならない。

現在、亜美は一晩二万円で客を取っているらしい。そのうちの八千円が亜美の取り分、四千円がたまきの小遣い、残りの八千円が食費や、二人で使うお金だ。だが、亜美の八千円なんて、お酒や洋服や美容院などで瞬く間に消えていく。

客は週に一、二回やってくる。一人だけの日もあるし、五、六人を相手にしていた日もあった。不法占拠のため家賃はかからず、光熱費や水道代も払っていないので(ただ、電気や水道が使えるということを考えると、誰かが代わりに払っているのだろうけど、その「誰か」が誰なのかは知らない。ビルのオーナーが気付かないうちに、オーナーの口座から引き落とされているという説が濃厚である。)何とかやっていける。そもそも、たまきは小食で、一日二食(朝は食べない)の上、一回の量も少ないので、かなり安上がりで済む。

 

午後十時。先ほど「顔見せ」に行ったところ、亜美は四、五人の男性とお酒を飲んでいた。「顔見せ」も果たしたし、そろそろ寝ようとたまきはソファの上に横になった。

 

たまきがいる部屋は、亜美が使っている店のスペースとは、ドアを隔てて奥にある。「城」がキャバクラだった時、キャバ嬢たちの控室として使われていたらしい。今は亜美とたまきの衣裳部屋として使われている。亜美の色とりどりの服たちと、たまきの数少ない、地味な服。

部屋の真ん中には白いソファが置かれている。四人ぐらい座れそうだ。たまきの小柄な体なら、十分横になれる。

たまきは真っ暗な部屋でソファーの前のテーブルにメガネを置くと、横になった。少しだけ気分が楽になる。

横になって2,3分ほどだろうか。まだ、寝付くには至らず、たまきはただただ無心で横になっていた。

 

ドアの開く音がし、電気がついた。亜美が入ってきたのだろうか。

「あー、いたいた」

全く予期していなかった男性の声に、たまきは目を開いた。たまきには似合わない素早い動きで起き上がると、メガネをかけ、ドアの方を見た。

ドアの前には、二人立っていた。先ほど、亜美と一緒にいた少年、その奥には亜美がいた。

亜美は男より一歩前に出ると、口を開いた。

「たまき、こいつ、ミチさ、今日、ここで寝るから」

「え?」

亜美はそういうと、今度はミチの方を向いた。

「万が一たまきを泣かせるようなことがあったら、殺すからね」

「やですねぇ。泣かしたりしませんよー」

そういうと亜美は、部屋を出て行ってしまった。

なんだ、このエロ漫画みたいな展開。

まあ、あまり深く考えない亜美のことである。おそらく、たまきも彼氏ができれば自殺など辞めるだろうと考え、しかし、ほっといたら絶対彼氏なんかできないと判断し、このような強引な行動に出たのだろう。

安直だ。安直すぎる。女と男を一晩ほっといたら、恋愛感情が生まれるなんて、いくらなんでも安直すぎる。

しかも、よりによってチャラい。

たまきはミチの方をちらりと見た。ニヤニヤ笑っている。対して楽しいこともないのに、笑っている人がたまきは嫌いだ。年は同じくらいだろうか。茶髪にピアス。色黒。黒地に、でかでかと銀のドクロが描かれたTシャツを着ている。見ようによってはかっこいいのかもしれないが、自分がじろじろ見られるのが嫌いなたまきは、人の顔を長いこと見ることもないので、正直、どうでもいい。ただただ、チャラそうだという印象だけが残る。

ムリムリムリムリムリムリムリムリ。

ミチはたまきの隣に座った。小さなソファなので、密着度が高い。

「たまきちゃんか。よろしく」

男にちゃん付されると、背中がぞわっとなる。

「俺、バンドやってるんだ」

ミチは、聞いてもいないのに勝手にしゃべりだした。

「今度ライブ来てよ」

バンドのライブなんて、行ったことがない。人ごみも、ロックンロールも大嫌いだ。

今すぐこの部屋を飛び出したいたまきだったが、隣の部屋では亜美が「仕事」を始めているかもしれない。

「たまきちゃんてさ、彼氏いるの?」

ミチのその言葉に、たまきの鼓動がほんの一瞬止まった。

もし彼氏なんて人がいたら、こんな私にならなかったのかな。いや、恋人なんてたいそうなものでなくていい。友達、いや、もっと近い人たち。

家族。そう、家族の一人でも、父でも母でも姉でも、誰か一人でも、たまきのことを好きだと言ってくれたら、こんな自分にならなかったのではないか。

ふと、涙が出てきた。本当につらい時、やっぱり涙が出てくるようだ。

焦ったのはミチの方である。たまきがなんか知らないけど泣いている。このままでは亜美に殺される。

「たまきちゃん、大丈夫?」

声をかけてみるも、涙は止まらない。

ただただ泣き続けるたまきと、ただただオロオロするミチという、密室の中はおかしな構図になった。

 

目を覚ますともうミチはいなかった。泣いたところまでは覚えているのだが、そこから先が覚えてない。すぐに寝てしまったようだ。

たまきはドアを開け、接客スペースに入った。亜美がタオルをかぶって、ソファの上で寝ている。たまきは、机の上に置いてあった、昨日買った画用紙と鉛筆を取った。

「ん~。たまき、どっか行くの?」

亜美が毛布の中から顔をのぞかせた。

「……公園行ってきます」

「公園ってどこの?」

「……都立公園……」

「都立公園! 遠いよ? 十五分くらい歩くよ? 大通り渡るよ? 大丈夫? 飛び込まない?」

「今日は大丈夫です」

そういうとたまきは「城」を出た。

 

写真はイメージです

都立公園は緑にあふれていた、都会のオアシスである。様々な人が思い思いの時間を過ごしている。

昼寝。ジョギング。お絵かき。ホームレス。その中でたまきは絵をかいていた。

別に好きで書いているわけではないし、とりわけ上手いとも思っていない。

ただ、絵を描いているときは、目の前のことに集中できる。たまきは鉛筆で風景を描いているのだが、その時だけは、余計なことを考えず、目の前のことに集中できるのだ。

左手に持った鉛筆を走らせ、三十分ほどで絵を書き上げた。書き上げてしまったのが何か残念だ。また、見たくもない現実と、考えたくもない明日に目を向けなければならない。

たまきは立ち上がると、公園の中を歩き始めた。

公園の中には、たまきと同様に絵を描いている人がいた。小さなスケッチブックに鉛筆で描くたまきと違い、その人は大きなカンバスに、水彩絵の具で描いていた。

とてもきれいな絵だった。同じ風景を描いているのに、どうしてこうも違うんだろう。

たまきは自分の絵を見た。木々の間から見える高層ビルを描いたのだが、なんだかおとぎ話に出てくる魔女の城みたいにおどろおどろしい。見たままに描いているはずなのに不思議だ。いや、そういう風に見えているのか。

たまきは広場に出た。広場は周りとは低いところにあり、四角い。一方は壁。反対側は大通りに面していている。残りの二面には階段があった。

広場へと続く階段を下りていくと、歌声が聞こえた。声のする方を見ると、階段の真ん中あたりで、男性がギターを弾きながら歌っていた。たまきに向けて背を向けて歌っている。

たまきはその歌声の方へ近づいて行った。高めのキーである。芯がしっかりしているというのだろうか。力強い歌声だ。上手い。

歌詞も明るく、力強いものだった。

――僕の歩く今が未来になる

――夢もいつか「今」に変わる

――明日を変えなければいけないんだ

――未来が僕を待っている

どこかで聞いたようなありきたりの歌詞だが、彼の歌声にはどこか希望を感じた。

歌を聴いて、いい歌だと思ったのは久しぶりだった。たまきは階段を下り、彼の横、少し離れたところに立った。

腰を下ろし、彼の顔を見た。

短い茶髪にピアス。どこかあどけなさの残る顔。

ミチだった。昨夜、至近距離で見たのだ。間違いない。

ギターをはじく手が止まり、弦の余韻を指で止めると、ミチは喋り出した。

「ありがとうございました。今の曲は『未来』というタイトルです。」

そういうと、ミチは弦をいじり、チューニングを始めた。

「……こんにちわ」

たまきにしては珍しく、本当に珍しく、声をかけた。

ミチがたまきの方を向いた。

「……たまきちゃん?」

ミチは立ち上がると、たまきの方に歩み寄った。

「昨日は、ほんと、ごめんね」

「……いえ、私の方こそ、失礼しました」

たまきはうつむきながら答えた。ミチも視線を落とす。

ミチはたまきのスケッチブックに目が留まった。

「絵、描いてたんだ。見せて。」

そういうと、ミチはたまきが右手に持っていたスケッチブックを取った。と、同時に、たまきの右手の包帯に目が言った。たまきはあわてて右手を体の後ろに回すと、ミチをにらんだ。

「返してください」

「いいじゃん、減るもんじゃないし。見せてよ」

そういうと、ミチはスケッチブックを開いた。

死ぬほど恥ずかしい。早めに死んどけばよかった。

 

帰るなりたまきは横になり目を閉じ、気が付いたら夕方だった。

公園でスケッチブックをひったくったその足でたまきは「城」へと戻った。途中二、三回、赤信号を無視して道路に飛び出してしまおうかと考えたが、何とか思いとどまって帰ってきた。

一方、亜美は椅子に深く腰掛け、対に置いてある椅子の上に足を投げ出し、携帯電話をいじっていた。やがて、携帯電話を閉じると、死んだように横になっているたまきの方を向いた。

「たまき、今夜、クラブに行くから」

「……行ってらっしゃい……」

「あんたも行くんだよ」

亜美の言葉に、たまきは大して驚かなかった。どうせまた、たまきに楽しいことを教えて、自殺をやめさせようという魂胆だろう。

「……行きません……」

たまきは、亜美に背を向けたまま答えた。

「……行かないなら、ご飯抜きだよ!」

「……構いません……」

餓死か。苦しいだろうけど、死ねるのならば、ちょうどいい。

「もう、そんなこと言わないで、行こうよ! 下に車来てるから!」

亜美は、たまきのかぶっているタオルを引きはがすと、たまきを立たせ、腕を引っ張って、外へ連れ出そうとした。たまきは、されるがままに動く。行きたくはないが、抵抗するのもめんどくさい。

 

写真はイメージです

たまきは生まれて初めてクラブに入った。そして、死ぬ前に来た最後のクラブなんだろうなぁと、次の自殺の予定もまだ立ててないのにぼんやりと考える。

DJブースにはDJが立っていて、そこからドムドムッてビートが流れ出す。その音に合わせて多くの人たちが躍り出す。決まった踊りはなく、思い思いの踊りを踊っている。ブースの反対側はちょっとしたバーになっていて、女の子が数人、椅子に腰かけながらお酒を飲んでいる。未成年を簡単に入れてしまうあたり、たぶん、まともなクラブじゃない。闇営業というやつだろうか。

なんだか子供のころ行った盆踊りの会場に似ている。やぐらがあって、その上には太鼓がある。そこから繰り出されるリズムや、流れる音楽に合わせてみんな踊っている。会場には屋台もある。

そういえば、あの祭り、苦手だったな。浴衣を着せられ、お姉ちゃんといったけど、苦手だった。

亜美は、フロアの真ん中で、知らない男性と一緒に踊っている。亜美曰く、このクラブの場は、楽しいのはもちろん、客の新規開拓の場でもあるらしい。

亜美と一緒に来たヒロキは、バーで酒を飲みながら、やはり、知り合ったばかりの人とトークで盛り上がっている。

どうして、知らない人とあんなに盛り上がれるんだろう。どうして、知らない人の間で踊れるんだろう。

たまきは、集団から少し離れたところからそれを見ていた。一度、亜美に手を引っ張られ、フロアには出たが、踊りのステップもわからず、本日二度目の外出で、かなり体力を消費しているのもあり、2,3分でフロアから出ると、バーでジュースを頼み、集団から離れた。今はジュースも飲み干し、本当にやることがない。

トイレ行って休もう。そう思っていると、タイミングよく、亜美が男とハイタッチを交わして戻ってきた。

「たまき、楽しんでる? そんなところに突っ立ってないで、こっち来たらいいじゃん?」

「……結構です……」

たまきはうつむいたまま答えた。

「……トイレ行ってきます……」

そういうと、たまきは亜美に背を向けて歩き出した。その後ろを、亜美がついてくる。

「あたしも行くよ」

「……場所わかってるんで、大丈夫です」

たまきは、トイレの場所を示す看板を指しながら言った。

「あんたはこのクラブのトイレをなめてる!」

そういうと、亜美はたまきの横に並んだ。

「このクラブはね、ただのクラブじゃないんだよ。このあたりのヤバいやつらのたまり場なんだから!」

「……何でそんなところに連れてきたんですか? どうせ連れてこられるなら、安全でまともなクラブに連れてって欲しかった……」

「ばか! 安全でまともなクラブに十五才連れていけるわけないだろ?」

だれもクラブに連れてってくれなんて頼んでない。

「ここはね、よそのまともなクラブから締め出されたようなやつしか来ないんだから」

亜美はそういうと自嘲的に笑った。

「それに、アブナイ方が楽しいじゃん」

なに言ってるんだろう、この人。

「でね、特に危ないのがここのトイレ。前にトイレ行った時なんか、トイレでセックスしてるやつらいたんだからね。もうね、よそのクラブじゃありえないぜ」

亜美の言葉に、たまきは驚いたように目を見開いて尋ねた。

「それって、どっちのトイレですか?」

「女子トイレに決まってるだろ! 何でウチが男子トイレ入んだよ!」

「でも、セックスってことは、男性が女子トイレにいたってことに……」

「いいんだよ、細かいことは」

そんな話をしながら、二人はトイレの方へ歩いて行った。

「それに、あんたまた自殺するかもしれないし」

亜美はたまきの目を見ずに言った。

「……今日はカッター持ってないので大丈夫です……」

カッターナイフはたまきのお守りだ。これさえあればいつでもこの世からエスケイプできる。基本肌身離さず持ち歩いているのだが、刃物の持ち込みがNGな場所へ行く時は当然持っていかないし、今日のように、急な外出の時も持っていない。

「わかんないよ。蛇口の水がぶ飲みして死ぬかも」

「……そんなテンションの高い死にかたしません……」

「そもそもね、あんたがトイレに行くって、ウチの中ではトラウマなんだからね。ウチが関わった2回とも、トイレで切ってるんだもん。もう、トイレ行くたびに、もしかしたらあんたが倒れてるんじゃないかって……」

そういいながら、亜美はたまきに先立ちトイレのドアを開けた。

 

ドアが奥に開かれるとともに、何かが二人の足元に倒れこんできた。

亜美は最初、それが骸骨だと思った。

だが、よく見ると違った。形状は骨に近かったが、薄い皮膚を纏い、欠陥が浮き出ている。人の腕のようだ。腕の付け根には当然体があり、それは布に覆われている。おそらく、服であろう。その服の上には、茶色く長い毛髪がかぶさっている。

毛髪は頭から伸びている。頭は顔を下にしており、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返していた。

それは、一人の少女だった。

 

続く


次回 第3話「病院のち料理」

倒れていた少女を元医師の舞とともに病院へ連れて行った亜美とたまき。少女は意外な病気に侵されていた。そして、二人の生活に大きな変化が訪れる。

「順調だけど、順調だから、明日が怖い。 」

第3話 病院のち料理


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小説:あしたてんきになぁれ 第1話 命日のち明日

明日なんかどうでもいい。明日が来るのが怖い。明日なんかいらない。そんな3人の少女が、大都会の片隅でそれでも生きていく、そんな小説です。人と出会い、人と話し、共に暮らす。彼女たちにとって、それは都会の片隅の大冒険のはず。なので、「クソ青春冒険小説」と名付けました。伝説の秘宝も、モンスターも、宇宙船も出てこないけど、これは冒険小説なのです。「あしたてんきになぁれ」、略して「あしなれ」!


器用に生きられないすべての人へ。

 

008
写真はイメージです

町が歪んで見える。

アスファルト。ビル。空。雨。みんな灰色だ。

灰色の上を、色とりどりの服を着た人が、傘をさして笑顔を浮かべながら歩いている。

少女は、スクランブル交差点を、傘も差さずに歩いていた。

小柄で、地味な服装に地味なメガネ。右手首には包帯。肩にかかる程度のセミロングで、前髪を垂らしている。まるで、自分の顔を見られたくないかのように。

大通りを渡り、歓楽街に入った。鬱陶しいぐらいにネオンがまぶしい。少女は目的もなく歩き続ける。

彼女は今、死に場所を求めている。

やがて、少女の足は、一つのビルの前で止まった。少女は灰色のビルを見上げる。

一階はコンビニ。二階が飲食店。その上に雀荘があり、さらにその上にビデオ屋がある。その上にはキャバクラかなんかだろうか、「城」と書かれた看板がある。

人間の抱く、たいていの欲望がこのビルで叶いそうだ。ならば、私の欲望もかなうかな、少女はそう考えた。

少女の欲望。速やかにこの世からエスケープすること。

少女はビルの階段を上り始めた。四階のビデオ店のドアには、AV女優たちの写真が並ぶ。

この人たちは、体を売って、性を売り物にして、幸せなのかな。いや、作り笑いでもなんでも、笑顔ができる分、きっと、私より幸せなんだろう。

少女はそう考えながら、さらに階段を昇り、鈍色の空へと近づいた。なんだか、天国への階段を上っている気分だ。あのどんよりとした雲の向こうに、まぶしいほど開けた世界があるのだろう。

五階。だいぶ地上から離れた。ここから飛び降りてもいいんだけど、どうせならより高いところから飛びたい。その方が確実だろう。

五階の「城」というのは、「キャッスル」と読むらしい。看板にルビが振ってあった。キャバレーかなんかのようだが、午後三時にもかかわらず、すでに明かりがともっている。開店準備をしているのかもしれない。

そのさらに上へ行くと、屋上へ通ずる扉があった。さながら、天国の門だ。

扉に手をかけると、ドアノブが回り、開いた。少女は、屋上へと足を踏み入れた。

屋上には、空調関係と思われる機械が置かれていたが、それを差し引いても結構なスペースがあった。ポールが二本立てられ、誰が使うのか、物干し竿がかかっている。その物干し竿には、取り込み忘れの洗濯物がかかっていて、びしょ濡れになっている。色とりどりの洋服に、下着類。いずれもレディースだ。

色とりどりの洗濯物を少女は見つめていた。死を前にしてか彼女の視界はかなり歪んでいて、ぐにゃぐにゃである。色とりどりの洗濯物が、彼女には三途の川のお花畑に見えた。

少女は屋上の道路側のへりまで来た。柵はあるが大した高さではなく、難なく乗り越えられた。少女は屋上のへりに手をかけて、下を覗き込んだ。相変わらず視界は歪んだままで、灰色のなんだかわからないものが広がっている。これなら飛び降りても恐怖を感じずに済みそうだ。

さようなら、私。今日が私の命日。

ぼんやりと下を覗き込んでいると、後ろから声が聞こえた。

「何してんの?」

女の声だった。少女は振り向いた。そこに人らしきものがいるのはわかるが、視界が歪みきってて、顔はよくわからない。かろうじて、金髪らしいというのがわかる。

「いや、ちょっと……」

少女は下を向いた。金髪の女と目を合わせられない。合わせたくない。

「ちょっと、びしょびしょじゃん」

金髪の女が少女に近づいた。

「ほっといてください」

少女は、金髪の女に聞こえるか、聞こえないかぐらいの大きさで行った。

少女は金髪の女に背を向けると、屋上のへりに立った。

「さよなら」

少女は重心を前に、重力に身を預けた。

雨粒と同化する。

その瞬間、少女の腕を、金髪の女がつかんだ。

「ちょっとアンタ、何考えてるの!」

金髪の女は少女の腕を思いっきり引っ張った。

「ここで死なれたらウチ、困るんだけど」

屋上の外に出かかっていた少女の体は、内側へと大きく傾き、屋上に尻もちをついた。

少女は半ば呆然と、雨雲を見つめていた。

 

少女にとって、自殺するにはかなりのエネルギーが必要で、未遂に終わってもそのエネルギーは発散され、また自殺をするには、ある程度の充電期間を要する。

見知らぬ女に手を引っ張られ、少女の飛び降り自殺は未遂に終わった。そこでエネルギーを使い切ったらしく、女の手を振りほどいて自殺するほどの力はなく、雨に濡れた屋上にぺたんと腰を下ろしたまんま、雨雲を、雨粒を見つめて動かなくなった。

また失敗しちゃった。

そのまま、金髪の女性に手を引かれ、下の階の「城(キャッスル)」に連れ込まれた。そこでぬれた服を全部脱がされ、バスタオルが投げ渡された。金髪の女性はどこかに行ってしまい、少女は一人残され、今に至る。

バスタオルで拭こうとメガネをはずすと歪んでた視界がぼやけ、拭いたメガネを再びかけると、視界が正常に戻った。どうやら、視界が歪んでたのは、メガネについた雨粒のせいらしい。

小さな体をバスタオルでくるむと、少女はあたりを見渡した。

やはり「城(キャッスル)」は何かの店のようだ。マンションの一室ぐらいの広さの部屋で、壁に沿うようにして青いソファーが並んでいる。部屋の中央には二つのテーブル。窓はない。部屋の奥にはバーカウンターに似たキッチンがある。いわゆるキャバクラやスナックの類なのだろう。

ただ、その割には散らかっている。いや、もっとおかしいのは、ソファの上にいくつか転がっているぬいぐるみだろう。

少女は今、裸の上にバスタオルでくるんだだけの、決して人前、特に男性の前には出られない格好でソファーに腰かけているのだが、部屋は暖かく、あまり寒くない。

カウンターの左側にあったドアが開いて、金髪の女性が帰ってきた。レインコートを着ていた。

「ひゃーっ。曇りって言ったから洗濯物干してたのに、だまされた!」

金髪の女性はぐしょぐしょに濡れた洗濯物を抱えていた。それを持って少女の方へ向かった。

少女のすぐ背後にドアがあった。金髪の女性はそこを開けて中へ消える。

しばらくして、女性は服を抱えて戻ってきた。

「ちょっと大きいかもしれないけど、これ着な」

金髪の女性は少女に服を投げ渡した。少女は困惑した。渡された服が、少女が着たことのない、派手、かつ、露出が高いものだったからだ。

金髪の女性は、少女が外したブラジャーを眺めていた。

「このサイズは……、持ってないな。買ってこなきゃ」

少女は女性を眺めた。確かに、向こうの方が少女よりずっとスタイルがいい。あの女性の持ってる下着は、少女の体には合わないだろう。

「あたしは亜美。アンタ、名前は?」

金髪の女性こと、亜美はそういうと、少女に笑いかけた。高校三年生ぐらいだろうか。胸元の谷間を強調するかのようなタンクトップ、太ももを見せつけるかのような短パン、異性を誘惑するためのファッション、といった感じである。長い金髪を、後ろで縛っている。今どきのギャルって感じだ。右側の二の腕には、青い蝶の入れ墨がしてある。

「名前は?」

亜美は再び訪ねた。少女は下を向いたまま答えた。

「……たまき……」

「玉置かぁ。玉置なに?」

「え?」

「下の名前だよ」

亜美は少女の向かいのソファーに座り、足を投げ出して、煙草に火をつけながら尋ねた。

「いや、『たまき』が名前なんですけど……」

少女こと、たまきが申し訳なさそうに答えた。

「ああ、たまきって名前なんだ。名字は?」

たまきは下を向いた。

「名字は?」

亜美の繰り返しの問いかけに、たまきは下を向いたままだ。

「まあ、言いたくないんなら、言わなくていいよ。ウチもしばらく名字なんか名乗ってないし」

亜美はテーブルの上の灰皿に吸いかけの煙草を置くと、ごろんと横になった。

「あの」

たまきが謝るかのように尋ねた。

「何? 早く服着ちゃいなよ。ああ、ブラは後で買ってくるから、しばらくノーブラで我慢して。まあ、ウチとあんたしかいないから、平気平気」

たまきはまだ、バスタオルにくるまったままだ。

「ここってなんなんですか? お店?」

「ここ? ここはね、ウチの城」

亜美は立ち上がると、嬉しそうに語り始めた。

「もともとはキャッスルっていうキャバクラだったらしいんだけど、一年くらい前に潰れちゃって、オーナーは椅子とかテーブルとか全部置いたまんま店閉めちゃったのね。そこをウチが今借りてるの」

「借りてるって、家賃、どうしてるんですか」

驚いた目で見つめるたまきを、亜美は笑った。

「こんな店、借りられるわけないでしょ。貸す側だって、店として使ってほしいと思うから、ウチみたいに住みたいってやつに貸すとは思えないね」

「えっ……じゃあ……」

「まあ、いわゆる不法占拠ってやつだね」

亜美は、初対面のたまきに悪びれるでもなく言った。

「このビルのオーナーは関西に住んでいて、関西にもいっぱいビルを持ってるらしいの。そっちで手一杯で、東京なんてめったに来ないの。だからばれないばれない。それに、オーナーが来るときは、ビデオ屋の店長が教えてくれることになってるし。その間だけよそに泊まってればいいの」

そういうと亜美はたまきの座っているソファの前のソファに腰を下ろした。右手の指には、さっき置いた煙草が挟まれている。

「だからさ、ここで飛び降り自殺とかされてさ、オーナーがすっ飛んでくるってことになったら、ウチは困るの。わかる?」

たまきは静かにうなずいた。

「……ごめんなさい」

「まあ、そんなことより……」

亜美は立ち上がると、今度はたまきの隣に座った。

「あんたいくつ?」

「……十五ですけど……」

「中学生?」

「……卒業しました、一応……」

「じゃあ、三つ下か……」

亜美は煙草をくわえ、煙をふうっと吐き出すと、たまきの方を向いた。

「ねぇねぇ、何で死のうとしたの?」

「えっ……」

たまきは戸惑った。自分の内面に迫ろうとする、一番困る、一番答えたくない質問である。

「まだ若いんだからさ、いくらでも楽しいことなんてあるじゃん。友達作ったり、彼氏作ったり」

「はあ」

どちらもたまきには縁遠い話だ。

「ねぇねぇ、何で死のうとしたの?」

「……なんでそんなこと聞くんですか。関係ないじゃないですか」

たまきが迷惑そうに答えた。

「だってさっぱりわかんないんだもん。死にたいって気持ち」

「わかんないほうがいいですよ」

興味本位で聞かれるのも、親切心とやらで聞かれるのもたまきは嫌だ。

というより、誰にも言いたくない。

そもそも、できるだけ、誰とも会話したくない。

「わかんないなぁ。死にたいって気持ち。だって、毎日楽しいじゃん」

亜美はたまきから目を放し、カウンターを眺めている。

「そりゃ楽しいでしょうね。友達たくさんいて、彼氏もいれば」

「いや、ウチだって、彼氏って呼べるオトコはいないし、友達もそんなに多くないよ。それでも毎日楽しいよ。今日も楽しいし、昨日も楽しかったし、明日もきっと楽しいし」

「明日……」

たまきは伏し目がちにボソッと言った。

「明日なんていらない」

「え?」

その言葉に亜美は、驚いたようにたまきの顔を見た。

しばらく沈黙が流れた。

 

一度外に出た亜美が、どこで手に入れたのかたまきにあう下着を買って帰ってきた。

「もう五時か」

六月とは言え、外はだいぶ薄暗くなっている。雨が降っていればなおさらだ。

「もう、帰ったほうがいいよ。おうち、どこ?」

亜美は立ち上がり、煙草を灰皿に押し付けて、消した。

たまきは下を向いて答えない。

「言いたくない、か」

そういうと、亜美は窓の外を見た。

「まあ、この雨の中に放り出すのもあれだな」

そういうと、亜美はたまきの方を向いた。

「今日、泊まってくかぁ」

「え?」

たまきは亜美を見上げた。

「いいんですか?」

「今日だけね。修学旅行みたいでいいじゃん」

そう言って、亜美は笑った。

 

午後八時。外はもう真っ暗だ。

亜美は下のコンビニに食事を買いに行き、たまきは一人、店に残された。亜美が用意したワンピースを着ている。全く袖がないのを着るのは初めてだ。若干、サイズが大きい。

たまきは、「城(キャッスル)」の中を再び見回した。入り口には足ふきマットと靴、そしてスリッパが置かれている。店の中には小さなテレビがある。それだけではない。携帯の充電器、女性ものの雑誌、毛布などなど、生活に困ることはなさそうだ。

どこに、これだけのものを買いそろえるお金があるのか。

「ただいまぁ」

亜美が帰ってきた。コンビニの袋をぶら下げている。

「はい、おにぎり。ホントに2個だけでいいの?」

たまきは力なく頷いた。たまきの前におにぎりが2個置かれる。

亜美は、カウンターのテーブルにカップラーメンを置くと、カウンターの中に入り、やかんでお湯を沸かし始めた。

 

午後八時半。亜美はソファの上に転がってテレビを見ていた。たまきも、首はテレビに向けている。亜美はゲラゲラ笑っているが、たまきはちっとも面白くない。

インターホーンが鳴った。

「誰?」

亜美は入口の方へ歩いていくと、大声を出した。

「だーれ?」

「俺だよ」

男の声だった。

亜美は扉を開けた。

ドアの外には、男が二人立っていた。派手な服装に、派手な髪型。品行方正でないことは見ればわかる。

「今日だったっけ」

亜美は二人を見ていぶかしんだ。

「今日だぞ」

男のうちの一人が言った。派手なシャツに金髪にサングラス。あまり関わり合いになりたくないなとたまきは思った。

亜美は店の奥に行くと、カバンの中をあさり始めた。

男の一人がたまきと目があった。

「誰?」

目があったほうの男がたまきを見ながら言った。ヒップホップな格好に強面、ひげにピアス。こちらも関わり合いにはなりたくない。

「今日の昼間にね、屋上で自殺しようとしてたの。雨の中ほっぽり出すわけにもいかないから、泊めてるの」

「自殺?」

男たち二人はたまきの方に近寄ってきた。たまきは、男たちから逃げるかのように後ずさった。いつもなら絶対に着ない、露出の高い服を着させられているので、余計に恥ずかしい。

「かわいいな。怯えてるよ」

ヒップホップの方の男が笑った。

「ああ、今日だったね」

亜美は、カバンの中から引っ張り出したピンクの手帳を見ながら言った。

「ほらほら、いじめない」

亜美は男二人の間に割って入ると、たまきに言った。

「悪い、たまき。今夜、ここで仕事するから、奥の部屋で寝てくれない?」

「……いいですけど……」

こんな夜中に、何の仕事だろう。

 

真夜中、たまきは目を覚ました。

この部屋は、もともとはキャバクラのキャバ嬢たちの控室だったらしい。接客スペースの三分の一ぐらいの広さだろうか。中には白いソファーが並び、テーブルが一個ある。今は、亜美の衣裳部屋と化しているようだ。クローゼットの中にある服の量、派手さ、共ににすごい。どこに、こんなに服を買うお金があるのだろうか。

たまきは喉が渇いた。無駄に生きるつもりがないのに、生きるための欲求がわき、それを満たそうとする自分がいる矛盾。

カウンターに冷蔵庫があったはず。水かなんかをもらおう。

ドアノブに手をかけて、たまきはふと思った。

亜美が仕事をしているんじゃないだろうか。

もう、客は帰ったかもしれない。しかし、たまきは時計を持っていないので、今の時間がわからない。

たまきは、ドアを少しだけ開けて、中を覗いた。もし、仕事中なら我慢すればいい。場合によっては、断りを入れれば、冷蔵庫ぐらい、使わせてくれるかもしれない。

たまきは、ドアを少し開けて、その向こうを見た。

うすぼんやりした部屋の中で最初に見えたのは影だった。次第に、その影の色がわかる。

3つの影は揺れていた。

そういう経験のないたまきでも、そこで何が行われているかは分かった。

たまきはあわててドアを閉めると、自分が寝ていたソファのところまで歩いた。

汗が額を滑る。

「仕事」ってそういうことか。

考えてみれば、いくらでも推測できた。亜美はたまきを「三個下」と言っていた。亜美は十八歳だろう。

二十歳にもいかない女性が、テレビや大量の服を買えるほど稼げる仕事。

夜に訪ねてきた、ガラの悪い男たち。

これらを考えれば、答えはおのずと決まる。

たまきはソファの上に横になった

自分の鼓動と、吐息がやけに耳につく。

 

翌朝。たまきがドアを開けると、「城(キャッスル)」の入り口に、亜美と昨日の男二人がいた。

「ねぇねぇ、次はいつ来るの?」

亜美が甘えるように上目づかいで訪ねた。

「来週の水曜日なんてどうだ?」

「わかった」

そういうと亜美は、金髪の方の男と軽くキスをした。

「じゃあね」

扉が閉まった。亜美の手には、一万円札が複数握られている。

そこでようやく亜美は、たまきが起きてきたことに気付いた。

「あ、おはよう。朝ごはん、買ってくるね」

 

亜美は下のコンビニで菓子パンを二つ買ってきた。

「あの……、お仕事って儲かるんですか?」

たまきが菓子パンを頬張りながら尋ねた。

「ん?」

「……売春ですよね」

たまきは恐る恐る尋ねた。

「なんだ、見たのか」

たまきは無言でうなずいた。

「売春じゃないよ。援助交際」

「一緒です」

亜美は菓子パンの残りを口の中に放り込んだ。

「儲かるか、か……。儲かるどころじゃないよ。お金もらって、気持ちいいことできるんだから」

「でも……、その……、妊娠の危険性とか……」

それを聞いて、亜美はハハハと笑った。

「そんな起こるかどうかもわかんないこと考えたってしょうがないじゃん」

そういうと亜美はたまきの方を向いた。

「今が楽しけりゃ、それでいいじゃん。明日のことなんて、どうでもいいじゃん。何が起こるかわからないんだから、もっと楽しまないと」

亜美は笑いながら立ち上がると、煙草に火をつけた。

 

たまきは「城(キャッスル)」を出た。傘も服も、亜美にもらったものだ。

階段を下りると、ビデオ店の、AV女優のポスターが見える。

「今が楽しけりゃ、それでいいじゃん」

案外、この人たちもそうなのかな。だとしたら、私よりも前向きだ、とたまきは思った。

外はまだ灰色の雨が降っている。階段を下りたたまきは、亜美にもらったビニール傘を指して、駅の方に向かった。

帰ろう、帰りたくもないあの家へ。

 

010
写真はイメージです

「城(キャッスル)」のあったビルを出てしばらく歩くと、大通りにぶつかる。危険な歓楽街と、人気の高い駅前との境目である。たまきにはこの大通りが三途の川に見えた。

渡りたくない。

帰りたくない。

視界が歪む。傘をさしているから、雨粒のせいではない。

吐きそうになって、たまきはその場にうずくまった。

信号が青に変わる。

人々が横断歩道を渡り始めた。うずくまっているたまきからは、人々が地面を踏むたびに舞い上がる雨粒が良く見える。

うずくまっている間に、信号は赤に変わった。

たまきはよろめきながら立ち上がると、大通りに背を向け、再び歓楽街の中へと消えた。

 

亜美は部屋で一人煙草を吸っていた。

雨粒が窓にあたり、ザラザラ音を立てる。

たまきか。ウチと真逆の子だったな。

死にたい、か。

思ったことないや。

たまきは言っていた。明日なんていらない。

先のことなんか考えるから、死にたくなるのだ。人生何が起こるかわからない。計画通りには進まない。どうせ人生、行き当たりばったり。明日のことなんて考えるだけ面倒だ。

亜美はふと思った。

たまきは「仕事」に興味を持っていたのではないか。

儲かるのか、って聞いていた。

亜美はソファに寝転びながら考えを巡らす。

たまきを「仕事」に誘ってはどうだろうか。

何から何まで、亜美とは反対の子である。

地味で、人と目を合わせようとしない。

世の中には、そういう子の方が好みの男性もいるだろう。

たまきを「仕事」に誘うことで、客層が広がる。

帰したのは失敗だったな。

そう考えると亜美は、傘を手に取り、たまきを探しに外へ出た。

 

013
写真はイメージです

たまきは昨日と同じように、歓楽街を徘徊していた。

傘は、気が付いたら、なかった。ふらふらと当てもなくさまよい続ける。

公園がたまきの目に入った。

公園の中には、きれいなトイレがあった。

トイレ。たまきが初めて、自殺未遂をした場所は、自宅のトイレだった。

たまきはふらふらと、トイレの中に入っていった。外見はきれいなトイレだが、雨空もあり、中は薄暗い。

トイレの洗面台の前に立つ。

目が死んでいる、自分でもわかる。

たまきは目を閉じた。

 

昔から、人と話すのが苦手だった。人に見られたくない。学校では常にその思いが付きまとった。

ゆえに友達ができない。学校生活はちっとも楽しくなかった。

中学二年の六月、たまきはついに不登校になった。

その日、朝起きると雨が降っていた。

もういいや。今日は休もう。

その日以来、たまきは学校に行かなくなった。

家の中に閉じこもるのは楽だった。誰とも話さなくて済む。部屋の中の小さな宇宙が、たまきのすべてだった。

しかし、家族がそれを許さない。みっともないから学校へ行けという。

久しぶりに学校へ行っても、そこはもう、たまきのなじめる場所ではなかった。いや、もともと学校はたまきのなじめる場所ではなかった。

そしてまたひきこもりに戻る。何日かひきこもった後、家族にどやされて学校へ行き、吐きそうになりながら帰ってくる。そんな日が続いた。

夏休みを挟んで、完全に学校へは行けなくなった。

夕方、自宅の部屋の窓から外を眺めると、夕焼けに映されて下校途中の生徒たちが見える。

みんな、楽しそう。

どうして自分だけ、うまく生きられないんだろう。

母親が部屋の中に入ってきた。鍵は以前、たまきが学校へ行っている間にはずされてしまったので、締め切ることができなくなった。

そのことがたまきの心を圧迫していた。

母は、窓の外の中学生たちを見た。

次にたまきを見た。恥ずかしいものを見るかのように。

「ただいまぁ」

二歳上の姉が帰ってきた。

「お帰りなさい」

母は嬉しそうな声を出すと、姉を出迎えに下の階へ降りて行った。

たまきはベッドの上に横になった。

めまいがする。ぐるぐる回る。

お姉ちゃんばっかり。もういい。私なんか、いらないんだ。

死のう。

たまきは机の上のカッターナイフを取ると、唯一、完全に閉め切れるところ、トイレに向かった。

トイレのドアを閉め、鍵をかける。

カチカチカチとカッターの刃を出すと、手首でそっと触れた。

ギュッと目をつぶり、刃を手首に押し当てる。

思ったより痛くはなかった。赤い線が流れる。

たまきは、流れるに任せた。

数十分後、いつまでもたまきがトイレにこもるので、不審に思った母親が誰に頼みどうやったかは知らないが、ドアをこじ開け、血に濡れるたまきを発見した。

 

003
写真はイメージです

失敗したな、と亜美は思った。雨が降ってるのだから、何か羽織ってくればよかった。薄着ではさすがに寒い。

大通りを渡り、駅まで歩いたが、たまきには会えなかった。もう、電車に乗ってしまったのかもしれない。そう思って歓楽街に帰ってきた後、亜美はぶらぶらと散歩をしていた。

亜美は、このネオン煌めく欲望にまみれた町が大好きだ。食欲、性欲、人々はこの町では欲望を隠さない。普段は性欲などないかのようにふるまうオトナたちが、この町では獣に変わる。

歓楽街の奥地まで歩いた。色とりどりの、それこそ城のようなラブホテル街を抜けると公園が亜美の目に入った。

公園にはきれいなトイレがあった。

なつかしいな、と亜美は思った。この町に来た時、最初の何週間かは、このトイレで寝泊まりしていた。このトイレで、援助交際をしていた。人気のないトイレは身を隠すと同時に、イケナイことを行うには絶好の場所だった。

 

亜美が勉強をつまらないと感じるようになったのは、中学生のころだった。

こんなこと、何の役に立つんだろう。

そんな亜美にオトナたちは言った。いつか役に立つ時が来る。

いつかっていつ?

亜美は勉強をほとんどしなくなり、仲間や彼氏との遊びに熱中した。

それでも、高校には何とか入れたが、どんどん生活が乱れていった。

彼氏などというものは作らず、不特定多数のオトコと快楽を貪った。家に帰らず、学校をさぼり、朝から晩まで、そして、夜中までゲームセンター、クラブ、ラブホテルに入り浸った。

なまじスタイルが良く、男の性欲を刺激しやすい容姿だったため、遊びの金を男の方が出してくれることが多かった。

やがて、体を売ってお金を得るという発想に行きついたのは、自然のことだった。

この町に流れ着いたのは1年ほど前だ。

最初はこのトイレで寝泊まりした。

やがて、公園の近くにたむろする若いオトコたちや、性欲に飢えたホームレスを相手に、援助交際をするようになった。

「城(キャッスル)」に住むようになったのは、半年近く前のことだ。

その日は大雨だった。亜美は、「城(キャッスル)」のある太田ビルの一階のコンビニで雨宿りをしていた。

雨具が欲しかったのだが、突然の大雨であいにく売り切れだ。仕方なく、ファッション誌などを呼んで時間をつぶしていたが、雨は一向にやみそうになく、立ち読みももう限界だ。

日暮れが近くなっている。亜美は宿を探すことにした。

普段はマンガ喫茶に泊まるのだが、傘なしでそこまで行くのはキツイ。どこか適当な男をひっかけて、ラブホテルに誘い込むというのもあるが(もちろん金は向こう持ち)、この大雨で、外は誰も歩いていない。

このビルの中に何かないだろうか。屋上の物置とかでもいい。

そう考え、亜美はビルの階段を上り始めた。

二階のラーメン屋、三階の雀荘、四階のビデオ店、いずれも泊まるのは無理そうだ。

亜美は五階まで登った。白い看板に「城(キャッスル)」と書かれてあった。看板の右下は割れて、中の蛍光灯がむき出しになっている。

直そうよ、そう考えた時、亜美は思った。

看板を直さないってことは、もしかしたら空き店舗ではないのか。

亜美は、店のドアノブをゆっくりと回した。

鍵はかかっていなかった。薄暗い店内は店としての設備を備えていたが、その散らかり具合から、空き店舗であることは明らかだった。

鍵が開いていたことや、設備がそのまま残されていることを考えると、夜逃げ同然で閉店したに違いない。

とりあえず、今夜はここに泊まろう。亜美はそう考えると、ソファの上に横になった。

しかし、これだけのいすやテーブルが残されているのに、使っていないのはもったいない。

亜美は天井に目をやった。何か機械らしいものが見える。

もしかしてエアコンだろうか。

雨で体がぬれて冷えてるし、時期も冬だし、暖房が欲しいところだ。

あちこち探した結果、空調や照明を調整する操作盤が見つかった。亜美は照明をつけ、暖房を入れる。数分もすれば、部屋は快適になった。

ソファーの上に亜美は寝転ぶ。

「天国じゃぁ~」

寝ころびながら亜美は思う。

ここ、住めるんじゃないか。

女のノラ暮らしは危険が大きい。だが、ここなら鍵がかけられる。

何より、亜美は援助交際で稼いだ金を持て余していた。儲かるのだが、それを預ける場所を亜美は持たない。今、かなりの金額を持ち歩いているのだが(といっても、アパートの部屋を借りれるほどではない)、「鍵のかかった部屋」にお金を置いておけるメリットは大きい。そして、お金をかければ、今よりも住みやすくなるだろう。

決めた、ここをウチの「城」にしよう。

 

時は戻って今、亜美は、なつかしさからトイレの中に入っていった。雨音が背後に響く。

洗面台の前に、一人の少女が倒れていた。少女の手首からは、一筋の赤黒い線が流れていた。

黒く、頭を覆う髪の毛。そばに落ちている、黒いメガネ。何より、彼女の着ている、彼女の体に似合わないサイズの大きな服は、亜美がたまきにあげたものだった。

「たまき……」

亜美は駆け寄り、少女を抱き起した。

眠っているような少女の顔に、亜美は落ちていたメガネを重ねた。

たまきだった。

「たまき!」

亜美の声が、トイレにこだました。

 

たまきは目を開けた。

視界はかなりぼやけている。なんだか白っぽい。

この感覚は覚えがある。

たまきは、左手を横に伸ばした。

台らしきものに触れた。

たまきは、そのあたりを探った。

だいたい、いつもこの辺にある。

たまきの左手が何かに触れる。たまきはそれを目の前にもってくると、両手で触れた。

私のメガネだ。間違いない。

たまきはメガネをかけた。ぼやけた視界が近寄るように鮮明になる。

どこかの部屋らしかった。雑誌の入った本棚や、CDラックが立てかけてある。

たまきは足元を見る。ふとんがある。ふとんが体の上にかけられている。

たまきはベッドの上に寝かされていたのだと自覚した。

深く、ため息をついた。

また失敗しちゃった。

初めて手首を切ったときも、目覚めたらこんな感じだった。だから、うすうす気づいていた。まだ死ねてないということに。

あの時は、周りを家族、すなわち、母と父と姉にかこまれていた。投げかけられる罵声。

恥ずかしい。みっともない。迷惑だ。

だれも本気で心配してない。

だれも本気で叱ってくれない。

その日から、たまきは自宅と病院の往復生活となった。自宅で手首を切っては病院に担ぎ込まれ、しばらく入院し、退院してもしばらくするとまた手首を切る。学校にはほとんど行かなかったが、ギリギリの出席で卒業できた。

何度目かのリストカットの後、たまきは気づいた。

家で自殺するから、失敗するのだ。家族は、あの人たちは、私なんかいてもいなくてもいい、と思っているのに、自殺をすると病院に連れて行く。そして、お説教。その中で一度たりとも、命を粗末にしたことへの叱責はない。救急車が来て恥ずかしいとか、そんなのばっかりだ。

私のことなんてどうでもいいのなら、死なせてくれたらいいのに、本当に死んでしまうとそれこそ世間体が悪いみたいで死なせてくれない。

だからたまきは家を出た。親には出かけてくるとだけ言って。

それが昨日、亜美に出会う少し前の話だ。

 

たまきは部屋の中を見渡した。病室ではなさそうだ。

たまきは部屋のドアを開けて外に出た。

ドアの向こうには机があり、机の上にはパソコン、コーヒー、そして大量の本。

机の前の椅子には白衣の女性が座っている。部屋の奥の窓側の小さなソファには、金髪の少女が座っていた。

「たまき!」

亜美だった。たまきを見た亜美はたまきに近づくと、肩をバンバンたたいた。

「いやー、トイレで倒れてるのを見つけた時は、ほんとびっくりしたよー」

「……亜美さんが見つけたんですか……?」

「感謝しなよ」

「……別に助けなくてよかったのに……」

たまきはぼそっと言った。

「……あの……亜美さん……ここは?」

たまきはあたりを見渡した。テレビにソファ、食器棚。病院でないのは明らかだ。

「あたしんち」

たまきの後ろで声がした。振り返ると、白衣の女性が立っていた。三十歳前半ぐらいだろうか。黒髪のストレート、「姉貴」という言葉が似合いそうな女性だ。モデルのように背が高い。

「家?」

「そ、あたしんち」

そういうと、白衣の女性は椅子に腰を下ろした。

「あの……お医者さんじゃ」

「医者だよ、一応」

そういうと、女性はたまきに名刺を渡した。

 

医療ライター 京野(きょうの)舞(まい)

 

「ライター……? あの……、お医者さんじゃ……?」

不思議そうな目で尋ねるたまきに、舞が答えた。

「もともと医者やっててさ、いろいろあって辞めて今は医療系の記事を専門に書いてるライター」

「へぇ」

「まあ、初めの方は医療系だけじゃ食っていけなくて、いろんな記事書いてたね。ヤクザの記事とか。この町に住んでるのも、そういうのを書いてた時、この町に住んでた方が情報が入りやすかったから。そしたら、そこで知り合ったヤクザが治療をアタシに頼むようになって、気が付いたら副業でわけあり専門の医者やってるってわけ」

「先生、口堅いから」

亜美が口をはさんだ。

「面倒に巻き込まれたくないだけだ」

そういうと、舞はたまきの方に歩みよった。

「出血もたいしたことなかったから、命に別状はないんだけど、とりあえず今夜はここ泊まってきな」

舞はそういうと、壁にあるフックに鍵をかけた。

「あたし、これから出かけるから。合鍵、ここにかけとくから、使ったらここに戻しとくよーに」

「はーい」

亜美の返事を聞くと、舞は部屋を出て行った。

たまきは、亜美の隣に腰掛けた。ソファが少しへこむ。

「あの……治療代ってどうすれば……」

たまきが亜美に訪ねた。

「大丈夫。うちが払っとくから」

「そんな……悪いです……」

「いいのいいの。ウチはあんたに用があるんだから。」

「そういえば……」

たまきは顔を上げた。

「なんで助けてくれたんですか?」

「そりゃあんた、トイレで血ィ流して倒れてたら、普通だったら救急車呼ぶよ。でも、普通の病院だったら、あんたのこと家族に連絡するかもしれないでしょ。あんた、なんか家に帰りたくなさそうだったから、家族呼ばれるのまずいと思って。先生なら口堅いから」

「……どういうご関係なんですか」

「前に、援交でオトコともめたことがあって、ぶん殴られて、アザできて、その時ヒロキ、あ、昨日の金髪のやつね、あいつが教えてくれたの。ヒロキは彼の先輩から教えてもらったって。口堅いから、やんちゃな奴から信頼されてるの」

「……で、なんで助けてくれたんですか?」

「だから、トイレで血ィ流してたら……」

「そうじゃなくて、何であのトイレにいたんですか?」

たまきはうつむき加減で言った。

「あぁ、何であの場にいて助けられたのかって? たまたまだよ。あのトイレには思い入れがあってね。散歩したら目に入って、フラッとよったらあんたが倒れてて」

「雨の日に散歩ですか?」

「いや、あんたを探しに行ったついでだよ」

「……私を? そういえば、私に用があるって言ってましたけど」

たまきは亜美の目を見た。

「そうそう。ねぇねぇ、ウチと組む気ない?」

「はい?」

たまきは亜美の顔を覗き込んだ。

「あんたと組めばさらに儲かると思うんだよねぇ」

「あの……儲かるって……まさか……いっしょに売春をしようってことじゃ……」

「うん」

亜美の返事に、たまきは座ったまま後ずさった。

「たまきってさ、ウチの真逆のタイプじゃん。あんたと組めばうちも客層広げられるかもしれないんだよ」

「あ、あの、お断りさせていただきます……」

「なんで?」

「いや、そういうの、経験ないですし……」

たまきの顔は真っ赤だ。

「何事も経験だよ?」

「いや、結構です」

たまきはぶんぶんと手を振った。

「じゃあさ、やんなくていいから、組もっ」

「や、やんなくていいからって、どういうことですか?」

たまきは怯えるように尋ねた。

「別に、いるだけでいいから」

「なんで私にそんなに固執するんですか?」

「……なんでだろ?」

亜美は上を向いた。

「あんたがウチに似てるからじゃない?」

「……似てる? さっき、真逆だって言ったじゃないですか」

「でも、『家に帰りたくない』っていうのが似てるなぁと。だからほっとけないのかもしれない」

亜美はたまきに詰め寄った。

「どうせどこにも行くとこないんでしょ。自殺するんなら家にも帰せないじゃない。ウチに泊まればいいじゃない。あそこ、一人暮らしには広すぎるんだよ」

「……どうしてこうずかずかと私の中に入ってくるんですか」

たまきは顔をそらした。

「面白いんだよ。だって、死にたいだなんて全然理解できないんだもん」

「面白がらないでください」

「目の前の今を楽しまなきゃ」

「全然楽しくないです」

亜美はくすくすと笑った。

「面白いなあ、たまき」

「私は面白くないです」

「で、どうするの? 帰るの? うち来るの? それとも、自殺するの?」

「帰りたくはないけど……。」

たまきは手首の包帯を見た。また自殺するほどの力は残ってない。

「じゃあ、しばらくお世話になります」

「そう来なくっちゃ。よろしく」

そういうと亜美は笑った。

たまきは自分でも不思議だった。なぜ、亜美の申し出を受け入れたんだろう。

きっと、亜美のずかずかと入ってくるところがうれしかったんだろうとたまきは思った。初めて、人にちゃんと見てもらった気がした。

窓の外からは、夕焼けが差し込んでいた。

これからしばらく、この人と暮らすのか。

窓から差し込む日の光はまぶしかった。たまきは目を細めた。

昨日、屋上に立った時には、こんな展開になるとは思ってもみなかった。

「何が起こるかわからないんだから、もっと楽しまないと。」今朝の亜美の言葉を反芻する。

確かに、何が起こるかわからない。亜美の言う通りだ。

久しぶりかもしれない。明日がちょっとだけ楽しみなのは。

たまきは静かに目を閉じた。

この人と過ごす明日が、いい天気でありますように。たまきは心の中でそっとつぶやいた。

つづく


次回 あしたてんきになぁれ 第2話「夜のち公園、ときどき音楽」

一緒に暮らすことになった、亜美とたまき。しかし、ずかずか入ってくる亜美と、距離をとりたがるたまきの間の溝は埋まりそうにない。そんな中、さまざまな出会いが二人の明日を変えていく……。

「本当につらい時、涙なんて出ない。あるのは吐き気である。 」

第2話「夜のち公園、ときどき音楽」