日本人が政治に無関心な理由は、「お前ら」のせいだ!

「日本人は政治に無関心だ」と言われて久しい。投票率も平成に入ってガクッと落ちている。どうしてこんなに日本人は政治に無関心なのか。偶然見かけたある光景から「もしかして“この人たち”が原因なのでは?」と考えて、筆を執ってみた。なぜ、日本人は政治に無関心なのか。

偶然、首相演説を見たお話

2018年9月19日、私用で秋葉原を訪れた。

夕方、大通り沿いを警察官が警備している。「あれ、歩行者天国は日曜のはず……?」と首をかしげていると、なんだか大きな声が聞こえる。

どうやら、駅前でだれかが演説をしているらしい。そういえば、ニュースでも連日、来たるべき選挙の話をしている。

警察官が警備しているが、別に通行禁止になっているわけではないので近づいてみると、100m先に、総理大臣の名前の書かれたたれ幕があった。どうやら、総理大臣が演説をしているようだ。そういえば、総理大臣は秋葉原では特に人気があるらしく、選挙前の最後の演説はいつも秋葉原に来る、なんて聞いたこともある。

総理大臣の名前を発見した時、最初に思ったのが「え、なんでいるの?」

なぜなら、連日ニュースでやっている来るべき選挙というのは、自民党総裁選だったからだ。

もちろん、僕に選挙権はないし、道ゆく人々の大半が選挙権を持っていない。

わざわざ警察官を動員して街頭演説するよりも、自民党本部で演説をした方が効果的ではないだろうか。

さて、選挙カーの周りには日の丸の旗をもって振っている一団が見える。彼らにも選挙権はないと信じたい。選挙権のある人、つまりは自民党員が選挙カーの周りを囲んでいて旗を振っているのだとしたら、それは「サクラ」である。

この話はニュースにもなっていて、総理に反対する人たちも大勢集まってヤジを飛ばしていたそうだ。

僕はこの日、秋葉原で総理大臣の演説があるなんて全く知らなかった。この日わざわざ日の丸やプラカードを持って行った人は、どう考えても「演説があることを知って秋葉原にやってきた人たち」だろう。つまり、日ごろから総理大臣の動向を気にしている、かなり政治参加への意識の高い層だ。

そして、その100m先には「総理大臣が来ていて、演説している」とわかっていて、「来てるみたいだねー」と話しているにもかかわらず、スルーして歩く大勢の人々。

一国の総理が来ているというのに、みんな関心がなさそうだ。確かに、自民党総裁選の選挙権はないとはいえ、生の総理大臣がいるのだから、もっと集客力があってもよさそうだ。

これが福士蒼汰とか広瀬すずとか、SEXY ZONEとかだったら、もっとパニック状態になっていたのではないか。そういえば、この前テレビで福士蒼汰が秋葉原でロケをしているのを見たが、あの時はどうだったのだろう。

秋葉原という場所柄、もしかしたら水瀬いのりとか上坂すみれとか宮野真守の方が集客力があるかもしれない。しかし、全員一発変換できるとは、人気声優パネェ。

少なくとも、この時は「選挙カーに書かれた文字が見える位置まで、難なく近づけた」程度の混雑だった。めんどくさかったから行かなかったけど、あと半分くらい距離は余裕で詰められたと思う。「一部の熱心な人たち」しか集まっていなかったのが現実だ。

「一強」などと言われているけど、総理は意外と人気がなかった。いや、選挙カーの周りにいた人が「総理をすごく好きな人」と「総理をすごく嫌いな人」だとすると、「みんな意外と総理に興味なかった」の方が正しいのかもしれない。

総理大臣を無視してアニメイトやソフマップに吸い込まれる人たちを見ながら、ふと思った。

今、選挙カーの前で日の丸を振っている人たち、選挙カーの前でプラカードをもって「やめろー!」と声をからしている人たち、

彼らは総理大臣ではなく、その反対側、興味なさそうに演説をスルーする人たちを見るべきなのではないか、と。そうすれば、自分たちがいかに「異常な存在」なのか気づけたのかもしれない。

そう、タイトルにもなった、日本人の政治のへの無関心の理由となった「お前ら」、それは、「政治への関心が強い人たち」のことだ。

そう、お前らのせいだよ。

「政治への無関心は悪」という発想を変えてみよう

おいおい、ひどい言い草ではないか。政治に関心があることが「異常」? ケンカ売ってるのか!

……と握った拳をひとまず開いて、話を聞いてもらいたい。

「政治に関心を持たないのはいけないことだ!」、そう思って「みんな政治に関心を持とう!」とか、「みんな選挙に行こう!」と声高に叫び続けて、

……効果があっただろうか。

ない。ないから、みんな総理大臣の生演説をスルーするのだ。

ここは発想の転換が必要だと思う。「政治には関心を持たなければいけない! 関心がないのは悪いことだ!」という今までの考え方をいったんやめて、「政治に関心を持たないのが普通。関心をもって、演説を見に行く方が異常」という発想に変えてみるのだ。

「政治に関心を持つのは当たり前だ! それを『異常』だと!?  ふざけるな!」、と怒りたくなる気持ちをぐっとこらえて、目を閉じて大きく深呼吸して、口に出してみよう、「私は異常」と。

逆に、これくらいの発想の転換もできないような頭の固さでは、何も変わらないぞ。「当たり前だと思っている大前提を疑う」ことが知性への第一歩だ。

日本人が政治に無関心な理由① ハードルが高すぎる

「政治に関心を持たないのが普通。関心を持つのは異常」としたうえで、話を進めていこう。

「選挙カーの前で日の丸を振る」という行為や、「選挙カーの前で批判に声をからす」という行為を客観的に見てみると、これは結構異常な行動だ。

「そんなことはない! 選挙を応援するのは、国民に認められた当然の権利だ!」

「政治家を声高に批判しちゃいけないのか! 言論弾圧だ!」

と言いたくなる気持ちを抑えて話を聞いてもらいたい。

政治家を応援するのも批判するのも、国民に認められた権利である。とくに、「批判」を封じ込めたら、民主主義が成り立たない。それはわかっている。

と、同時に、「こういったことを積極的にやる人は、異常である」ということも理解するべきだ。

「異常」という言葉が納得できないなら、「政治に積極的にかかわる行動はハードルが高いので、普通の人はやらない」という言い方もできる。

本人は気づかないのかもしれないが、「日の丸の旗をもって総理大臣を応援する」も、「プラカードをもって総理大臣を批判する」も、実は人前でやるには意外とハードルの高い行動なのだ。

そして、「本人は気づかない」というのが問題だ。

選挙演説のさなか、「がんばれー!」とか「とっととやめろー!」と声を張り上げるさなか、もし一度でも後ろを振り返って、自分たちを遠巻きに見ながらスルーしていく人たちの姿を見ればきづくはずなのだ。「あれ、僕たち、周りから浮いてる?」「変な目で見られてる?」と。

別に、周りから浮いているからやめろとか、そういうことを言いたいのではない。自分の信念に基づいて、周りに何を言われようと、信じたことを貫く。結構なことだ。

と同時に、「自分が周りからどう見られているか」を把握する俯瞰した視点も必要である。

そして、「自分たちの行動が新規参入を阻んでいるのではないか」と、自分を疑ってみることも大切だ。

人は、いきなりハードルの高いことはしない。

そして、「政治に関心を持つ=選挙カーの前で日の丸を振ったり、声を張り上げて非難すること」というイメージを持たれたら、それはもう「ハードルの高いこと」なのだ。「ふつうの人」は「あの一団の中には入りたくないな……」と敬遠する。

人間は、あまりにも熱心な人を見ると、ちょっとヒクのだ。

こういう経験はないだろうか。自分の好きなものを熱心に進めたけど、相手は「ああ……」と微妙な表情をされたこと。これと同じことが選挙カーの遠くの方で起こっている。

結果、「政治に関心を持つことはハードルが高い」というイメージを持たれ、敬遠される。

より分かりやすく言えば、政治に関心の強い人たちを指さして「ああはなりなくないな」「あれと一緒にされたくないな」と、一緒にされることを避けるようになるのだ。

だからこそ、政治に関心の強い人たち、お前らが日本人が政治に関心を持つのを阻んでいる、となるのだ。

政治に関心を持つこと自体は悪いことではない。立派なことだ。選挙カーの前で応援しようが批判しようが、それは国民に認められた権利で、誰に邪魔されるいわれもない。

一方で、「自分たちが周りからどう見られているか」を考える余裕を持つことも大事だ。「もしかしたら自分たちの存在が、ほかの人が政治に関心を持つのを阻んでいるのではないか」と、自分を疑ってみる頭の柔軟さが必要なのだ。

「政治に関心を持つのは当たり前のことだ! 政治に関心を持たないなんて、日本がどうなってもいいのか!」という脅迫・恫喝では、人間は動かない。

日本人が政治に無関心な理由② 右と左の罵りあいが口汚すぎる

ネットを見ると、SNSを見ると、右寄りの人は左寄りの人を口汚くののしり、左寄りの人は右寄りの人を口汚くののしる光景をよく見る。

左寄りの人は右寄りの人を「ネトウヨと呼び、右寄りの人は左寄りの人を「パヨク」と呼び、お互いがあいつらは馬鹿だ、あいつらはクズだ、あいつらは悪だと口汚くののしっている。

心当たりがある人は、ここで一歩引いて、さっきと同じように「自分たちを俯瞰して」考えてみてほしい。

この光景を見せつけられて、あの中に加わりたいなどと思う人がいるだろうか、ということに。

たとえば、駅で見知らぬ人がケンカしている。取っ組み合いとまではいかなくても、口汚くののしりあっているとしよう。

普通の人はこんな光景に遭遇したら、関わらないようにと距離を取って、避ける。「なんかアタマのオカシイ人たちがわめいてるぞ」と。よほど義憤にかられた人でないと、見かけた口喧嘩を止めるなんてことはしない。

それと同じだ。右と左が口汚くののしりあっていたら、「あいつらにかかわりたくない」と距離を取られ、避けられるのが「ふつう」なのだ。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前らだ」ということなのだ。

「あんな連中にかかわりたくない」、そう思われているのだ。

日本人が政治に無関心な理由③ 文章が難しい

政治について語った文章、特にネットにある文章を読むと、難しく感じる。

なぜ、難しく感じるのか。

内容が難しいのではない。

ただ単に「漢字が多い」から難しく感じるのだ。

一般的に、文章のなかで漢字の割合は3割程度がのぞましいとされ、それより漢字の量が多いと読みづらく、それより漢字の量が少なくても読みづらい、とされている。

ところが、「政治に関心の強い人の文章」は漢字が多いのだ。

漢字が多いほうが頭がよいと思っているのだろうか。だが、残念ながら今や、変換キーを押せば「薔薇」みたいな難しい漢字も、書けないのに書けてしまう。漢字が多いのはもはや、全然賢くない。

むしろ、かしこい人の文章とは、漢字と仮名の配分に気をつかう文章だ。本を読んでいると、そのことを痛切に感じる。

たとえば、「たとえば」と書くときに「例えば」ではなく「たとえば」と書く。大学教授が文章でこういう工夫をする。「例」という漢字を知らないはずがない。知っていて、あえて読みやすいようにひらがな表記を選択しているのだ。

ここが、「本当に頭が良い人の文章」と、「頭をよく見せたい人の文章」の違いだ。「頭をよく見せたい人の文章」は、なんでもかんでも漢字変換して、結果読みづらくなる。

読みづらい文章は、当然敬遠される。最後まで読んでもらえない。読み飛ばされる。結果、主張がつたわらない。

こうして、「政治に関心の強い人の文章」は「読みづらい」と敬遠される。そして「政治そのもの」が「難しいもの」として敬遠される。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前ら」だということなのだ。頭の良いアピールをしようと漢字を多用した結果、読みづらい文章を作っているのだ。

日本人が政治に無関心な理由④ バカは関わるな

先日、女優の吉永小百合がI-CANとともに核廃絶に向けたコメントをした、というニュースが流れた。

このニュースに対して賛否いろいろな意見があった。賛否があること自体は普通のことだ。

気になったのは「女優は政治に口出すな」というコメントがあったことだ。

まったくもって不可解なコメントである。職業にかかわらず、誰にだって政治に参加し、声を上げる権利はあるはずなのに。

それにしても、なぜ女優が政治に参加してはいけないのか。

女優になるのに学歴は必要ない。「バカは政治に参加するな」「声を上げるな」ということなのだろうか。吉永小百合は早稲田大学第二文学部を女優業をしながら次席で卒業しているのだが。

この「バカは政治に参加するな」という姿勢が、人を政治への関心から遠ざけている。

テレビでタレントが政治に関してコメントし、その知識が間違っていると、「政治クラスタ」が一斉に叩く。「こいつは馬鹿だ」「バカが政治を語るな」と。

もちろん、「知識が間違っている」のは問題だ。

だが、「間違っている人を見つけて、叩く」というのもまた問題なのだ。

本当に頭がいい人は、間違った知識の人を見つけたら、「教える」という方法を選ぶはずだ。

一方、実は頭がよくない人、頭が良いと見せかけたい人、頭がよくないことにコンプレックスを持っている人たちは、ため込んだ知識をだれかに教えてあげるなどということはせず、自分の頭の良さをアピールするために、他人を批判するために使う。知識が泣いている。

そうして「バカをたたく」ことによって、「政治にあまり詳しくない層」が関心を持つことを妨げているのだ。「半端な知識で関心を持ったら叩かれる」と。

「バカは政治を語るな」「バカは政治にかかわるな」という姿勢を見せる、こうすることで人は政治にかかわることを委縮してしまう。結果、政治から遠ざかる。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前ら」だというのだ。「バカは政治にかかわるな」という態度をとることで、人々の関心を遠ざけ、結果、政治の話題は「自称頭のいい人たち」が「頭のいいアピール」をするためのおもちゃに成り下がっているのだ。

「お前ら」に告ぐ!

以上、長々と書いたが、要はこういうことだ。

「自分が周りからどう思われているか、俯瞰してみる視点を身に着けよう」

自分の行動が周りから「異常」と思われているかもしれない。

自分の行動が周りから「関わりたくない」と思われているかもしれない。

自分の書いた「ためになる」文章が人が読むと「読みづらい」文章かもしれない。

自分の言動が人を遠ざけているのかもしれない。

日本人の政治への無関心が問題となっている。だが、視点を変えてみると、「政治が『政治クラスタ』だけのおもちゃとなっている」こと、「『政治クラスタ』が、新規参入を阻んでいる」の方が本当の問題かもしれない。

自分を疑おう。自分は異常である。自分は変に思われている。自分は間違っている。

僕は自分で自分をそう疑いながら、この記事を書いている。

立憲民主党のツイッター#選挙に行かなかった理由42人の意外な真実

立憲民主党がツイッターで「#選挙に行かなかった理由」というハッシュタグで意見を募集した。「選挙に無理していかなくてもいい」と主張してきた僕にとっても、この立憲民主党の試みは興味深い(支持するしないとは別に)。なぜ、選挙に行かないのか。このツイッターに寄せられた意見をできる限り(42人分)収集し、分析してみた。


ツイッターでお説教する奴ら

まず、最初に言いたいのが、このハッシュタグをつけて「選挙に行かなかった人たち」にお説教をする奴らがいた、という残念な事実である。

選挙に行かなかった人たちに対して「民主主義に対する理解が低い」、「発想を転換しないとだめだ」、「もっと勉強しろ」、「日本がどうなってもいいのか」、「選挙権を取り上げろ」といった意見を書く輩が数名見受けられた。

まず、彼らの読解力の無さに絶望している。「#選挙に行かなかった理由」であって、「#選挙に行かなければいけない理由」を募集していますとはどこにも書いていない。

せっかく立憲民主党が「選挙に行かなかった理由を教えてください」と言っているのに、そのハッシュタグで頭ごなしに説教を始めたら、彼らは委縮して二度と本音を話してくれなくなるかもしれない。

そんな簡単なことすら想像ができない人間が「日本の将来を考えろ」と偉そうに語っている姿は、実に滑稽である。想像力の乏しい人間が想像する「日本の将来」とやらがどの程度のものなのか、ぜひ何かのハッシュタグをつけて聞かせてほしいものだ。

確かに、彼らの言っていることは正しい。

でも、全然やさしくない。

「日本がどうなってもいいのか」というが、こういう「他人の絶望に対する理解が低い」人間がのさばり、さも自分が高尚な存在化のように振る舞い、「意識の高い暴力」を平気でふるう社会はすでにどうかなってしまっていると思う。

一つ言えるとすれば、「選挙に行かなかった理由」をやさしく受け止めようとしない人間がいくら民主主義や日本の将来について語ろうと、そんなものはちっぽけな自尊心を埋めるためのおもちゃにすぎない、ということだ。彼らはさも、自分が大局を見ているかのように語るが、結局、何も見えていない。

長々と語ってしまったが、それでは「#選挙に行かなかった理由」の分析に入ろう。

#選挙に行かなかった理由「投票しても結果は変わらない」

職場の人曰く、「どうせ自民党が勝つんだから選挙に行っても無駄」だそうです。

心理学の用語で「ハロー効果」というものがある。簡単に言えば、「人は周りに流されやすい」という傾向だ。

例えば、事前のニュースで「自民大勝」と出れば本当に自民党は大勝するし、「希望の党、伸び悩む」と出れば本当に希望の党は伸び悩み、「立憲民主党、大躍進」と出れば本当に立憲民主党は躍進する。

事実、そうだったでしょ?

「あなたの投票で事前の予想を覆そう」などというのは、かなり非科学的な発言である。

#選挙に行かなかった理由「どこに投票しても変わらない」

投票して世の仲良くなったか?公約ちゃんと守ってるのか?

いまの投票システムは国民の意志を伝えるものじゃなくて政治家を肥えさせるためのシステムだぞ

公約破ったって何の責任も取らない奴らに国民の意思が伝わるわけがない

 

ママ友さん達は、「誰に入れたらいいか全然分からないし、入れても何か変わる気がしない」という感じでした。

 

どうせよくならない。政治を身近に感じない。

 

職場の9割は非正規、生活苦しいのに変わらないとあきらめムード。

 

私の周りはどうせ変わらないというのが多かった。

 

地方在住に友人の意見です

自分の一票で変わるという実感がわかない

 

どこだって同じ

 

生活にどのようにフィードバックされるのかがわかりづらいんです

 

同じ「変わらない」でも、こちらは「選挙の結果がどうであれ、今の生活はよくならない」という意味、すなわち、政治不信である。

「そんなことないよ! 君の選択で未来を変えられるよ!」……とでも意識高い系の人は言うのだろうか。

だが、「信じていないものを信じてください」と言って信じる奴はいない。

例えば、テレビの占いコーナーで「今日、素敵な出会いがあるかも!」といったところで、占いを信じない人は信じない。「いかにこの占いは当たるか」と説き伏せても効果はない。

そんな人に占いを信じさせる方法はただ一つ、本当に占い通りに素敵な出会いが起きることだ。

一回占い通りの日があってもまだ弱いだろう。3日連続で占い通り、ぐらいじゃないとたぶん効果がない。

すなわち、政治不信の人に政治を信じてもらうには、一票が云々というお説教ではなく、「政治で生活がよくなった」という実感である。

ただ、二度の政権交代を経て「結局何も変わらない」という結論を出したのならば、これを覆すのもまた大変なことである。

#選挙に行かなかった理由「投票制度の問題」

住民票を移動できないため

 

公示日の時点で帰国後3ヶ月たっておらず、投票権がなかった

 

都内に住む親友は、選挙に行かないと言っていました。理由は住民票を実家(千葉)から移してないから面倒とのことでした。

 

制度上投票できないのならばしょうがない。ちなみに、住民票を移す手続きは、ひっこす2週間前と2週間後に2回。それをうっかり忘れたらもう移せない。期限がある意味が分からない。

#選挙に行かなかった理由「仕事の都合」

旦那の話ですけど、内航船とか外航船とかの人は無理ですよね。戦争でもなったら船乗りなんてすぐ巻き込まれるのに!

 

仕事で忙しかったです!♡

 

海外出張のため公示前に出国して、投票日までに帰国できない場合はどうしようもないですよね?

船に乗っていたら投票できない、というのは船で地球一周した経験のある僕にはとてもよくわかる話だ。

ネット投票を実施すれば、これらの問題もある程度解消できると思う。憲法改正よりもネット選挙の是非の方を議論するのが先だと思うのだが。

#選挙に行かなかった理由「体力的/距離的な問題」

私の母は今まで投票していましたが、今回は高齢(87)で体がきつくて歩いて投票所へ行けませんでした。

 

足腰の悪い80代の両親、電動車椅子で投票所へついても、体育館の中が自力で歩けない。選管に問い合わせたら「どうにもなりません」との回答。こんなことで選挙を諦めさせられているのはおかしいと思います。

 

金曜日に職場で大怪我をしました。日曜日はなんとしてでも投票所へ行こうと、上下のカッパと長靴を用意して雨脚が弱まるのを待っていましたが、終日大雨の中、慣れない松葉杖で出かけるのは危険と判断し、結果棄権となりました。

ネット投票ができたらと悔しかったです。

 

 

行きたかったのに行けませんでした。投票区から離れた病院に入院していると、選管の指定医院でない限り、不在者投票ができないそうです。総務省などにも確認しましたが、どうにもならないと言われ、郵送による投票も身障者手帳がないと不可能だそうです。

 

毎日のように寝込んで過ごし投票所にも行けない

 

投票所まで行くのが遠くて、交通手段もないし歩いて30分以上かかる。

……なぜネット投票の議論を国会でしない。憲法改正とかモリカケ問題とかよりも、明らかに優先度が高い気がする。これだけ実際に困っている人がいるのだから。

これらの意見をまとめてつぶさに思うのは、「本当は行きたかったんだけど、体力的な問題で行けなかった」ということである。「這ってでも行く」なんて口でいうのは簡単だが、実際はかなり大変なのだ。僕は、本当に這っていっている人を見たことがない。

以前、「選挙に行かないなら意志の示しようがないから、そんなやつの意見は聞く必要がない」と言われたことがあるが、その言葉がいかに視野の狭いものであるかが、これらの意見を見ると切に思う。

#選挙に行かなかった理由「選挙という制度が嫌い/無意味」

選挙自体が嫌い

自分の母がこれでした。

よくわからないから人に聞くとご近所トラブルになると言ってました。田舎なので…

 

日本の選挙は、安倍政権のような暴走政権が生まれやすく、その政権を国民が止めることが難しい制度になっている。

こんな制度の選挙では意味がない。

 

主人は現在の選挙制度に不満だから行かないのだそうです。

 

大別すれば『どこに投票しても変わらない』と同じ政治不信なのだろうが、こちらは「今の選挙のやり方では国民の意思を反映できない」という考え方だ。

こんな言葉がある。

「民主主義は最悪の方法だ。ただし、これまでの歴史の中のどの制度よりも優れた方法である」

つまり、「民主主義/選挙より優れた制度は今のところないけど、決して完璧じゃないってことを肝に銘じてね」という話だ。

選挙は最善ではあるが完璧な方法ではない。必ず、選挙では拾い切れない声が存在する。

例えば、自分の投じた一票が毎回結果に影響を及ぼさなかったとしたら、「今の選挙のシステムじゃ自分の意思は反映できないから、投票する意味がない」と考えるのも至極当然の発想ではないだろうか。

#選挙に行かなかった理由「興味がない/わからない」

都内で日本語を教えています。帰化して日本国籍を取得している人も複数いるので聞きましたが、「わからない」からでした。

 

今の私の周りの人たちが選挙に行かないのは、よくわからないから、ただただ無関心層、危機を知らない。

 

政策が多すぎるんですよ。イメージしやすい政策を掲げてほしかったです。(学生時代、選挙に行かなかった理由です)

 

勉強していないからどこがいいかわからない

 

選挙推進派が批判の槍玉にあげていたのは彼らのような人たちだろう。ここまで読んでいただければわかると思うが、「政治に無関心」という層は、どうやら選挙に行かない人たちの主流派ではないようだ。選挙推進派が「大局を見ているようで、実は何も見えていない」というのがあるていど証明できたのではないだろうか。

さて、彼らを選挙に向かわせるにはどうすればいいのだろうか。「政治に関心を持ってもらおう!」と考えたそこのあなた、ぜひ、次の項目も読んでほしい。

#選挙に行かなかった理由「軽い気持ちで行きたくない」

友達の話したことだけど、「ちゃんと勉強していないのに行けといわれて、軽い気持ちで投票したくない

 

政治の知識のないままに浅い知識で投票するのもどうかと…

 

初めての選挙の時に政治に関心がなく適当に書いたが、その党に入れたことをすぐに後悔したから。

 

政治そのものに関心があっても、正しい判断材料がなければ責任を持って投票できない。至極真っ当な意見だと思う。

各党のマニフェストを見比べるだけでひと手間である。昔、予備校の世界史の先生が「長い歴史の中で、勉強とは裕福な暇人がするものだ」と語っていた。裕福な暇人でなければマニフェストを読もうとも思わないのかもしれない。

かつて、民主党が政権を取った時にテレビのインタビューで「今まで自民党に入れていたけど、今回は民主党に入れた」とのんきに語るおじさんを見たことがある。「過去の投票に対して反省はないのか」と唖然としたのを覚えている。

同様のことは自民党が政権を奪還した時にもあった。「やっぱり、民主党じゃダメだ」。投票した責任というやつを感じないのか。

一票の重みを感じて投票に行かないのと、一票の重みを感じずに投票するのと、どちらが大罪なのだろうか。

#選挙に行かなかった理由「日本に興味がない」

日本に興味ないし

 

「まったく興味がないから」だそうです

 

「日本がどうなってもいいのか」と息巻いていた誰かさん、これが答えです。

たぶん、多くの人が「こんな無関心ではいけない/よくない」と思うことだろう。

考えてみてほしい。例えば、自分を愛してくれているとはとうてい思えない人間から「僕のことを/私のことを、愛してくれ!」と言われたら、どう思うだろうか。

たぶん、多くの人が警察にストーカーの相談に行くはずだ。

つまりは、そういうことである。自分への愛を感じられないものに愛を与える人はそうそういない。彼らが「日本に興味がない」というのは、日本が、政治や彼らの周りの人間が、彼らに関心を払わなかったことの裏返しではないだろうか。

「この国を変えたい」と思うには、「この国に自分の居場所がある」という実感が必要だ。

#選挙に行かなかった理由「生活に不満がなかった」

行かなくても生活に困らなかったから

 

「どうせ変わらない」と対極にあるようで似ている意見だ。「変える必要がない」、なるほど、それも確かに行かない理由だろう。

#選挙に行かなかった理由「政権争いにあきれている/信用できない」

「野党内でもめる」ことも理由です。

 

立候補者の演説がよいことしか言わないため、信用できない」

 

センセイと呼ばれ高そうだけどセンスの悪いスーツ着て普段は地主や業界団体としか付き合っていない脂ぎったオッサンが選挙の時だけ朝駅前で頭下げられても白ける。

 

90歳越えの祖母曰く、

昔の議員はいつも地元にいて、どんな人でどんな考えか分かっていた。常に口に出し発信していた。

それがだんだん選挙時しか町で見なくなり、見ても当たり障りのない挨拶化敵陣の批判しか言わない。

……だそうです、立憲民主党さん。

「どこに入れても変わらない」と同じ政治不信ではあるけれど、あちらが「政治は信頼できない」なのに対し、こちらは「政治家が信用できない」。要は、人としての政治家に不信感が強いわけである。

#選挙に行かなかった理由「入れたい候補がいない」

初めて選挙を棄権しました。

小選挙区は、携帯電話にNHKの受信料を付加するという自民党。政治塾に1日いっただけで立候補した地元で無名の希望。あとは共産・・・

比例は、ビラ配りしているのにもかかわらず私だけ配らない、立件の比例候補。こんな選挙は、初めてでした。

 

立候補者がいない

 

入れたい候補がいないから選挙に行かない。これまた、当たり前の話だ。

それでも白票でいいから選挙に行くべき、という意見をたまに見るが、白票にどんな効果があるのだろうか。無効票、すなわち、書き損じと一緒にされてしまうだけだ。だったら、投票に行かずに投票率を下げて社会問題にした方が効果的ではないだろうか。

#選挙に行かなかった理由「子連れの投票が難しい」

これだけ雨が続くと赤ちゃんを連れて投票所に行くのは困難

 

こういった意見がある一方、「子供を投票所に連れて行くべき」という意見もあった。

大人の投票する姿を見て育った子供は自然に投票に行くようになるのかなと思います。

 

残念ながら、この推測は的外れである。理由は簡単。子供の頃、毎回親の投票についていき、大人の投票する姿を見て育った人間がいま、この記事を書いている、ということだ。

#選挙に行かなかった理由「地域社会の問題」

ご近所の方は「町内の婦人会の人が受け付けをやっているのが嫌、プライバシーをのぞかれるのが嫌」という理由で行かないそうです。

 

たぶん、この婦人会の人たちは人のうわさをぺらぺらと喋り散らすのではないだろうか。「〇〇さんち、日曜日の昼間に投票に来てたわよ。日曜日だっていうのにどこにも行かないなんて、あれじゃお子さんがかわいそうよね~」なんて噂が立ってしまったら、もうその町では生きていけないのかもしれない。

#選挙に行かなかった理由「時間がなかった」

期日前は、朝7時に自宅を出て、大学の授業が終わって、バイトが終わると夜10時。選挙当日は、朝7時に遊びに行って、帰宅が夜21時。

月曜から土曜まで毎日15時間学業とアルバイトに励み、週に一度の休日を惜しむかのように遊び倒す。そんな彼/彼女に「遊びに行かずに投票に来い」なんて残酷なセリフは僕には言えない。

#選挙に行かなかった理由「深い絶望から」

病んでた頃はとにかく死ぬことしか頭になくて、投票に行く気など全く起こらなかった。一緒に行こうと言われるのも苦痛だった。

 

人生を諦めているから

 

社会への不満は投票へとつながるが、社会への絶望は投票にはつながらない。

立憲民主党さん、これが答えのようです

以上、42人分の声である。

巷で言われがちな「政治への無関心」というのは意外と少数、全体の15%ほどだった。

それよりも目立ったのが「政治を信頼できない、政治家を信用できない」という声だ。全体の4割ほどを占めていた。

しかも、これらの意見は「僕個人がそう思っています」というよりも「私の周りの何人かがそう言っていました」というパターンが多い。だとすると、選挙に行かなかった人の半分以上がそう感じている可能性があるということだ。

今回の選挙の「不投票率」は47.3%。この半分、つまり国民の4人にひとりが「政治は信用/信頼できない」と言っているわけだ。これは深刻である。

また、選挙のシステムの都合上、投票したくてもできなかったという声も多い。住民票の問題だったり、仕事の都合だったり、体力的な問題だったり。

こちらは全体の三分の一を占めていた。「不投票率」から考えると、国民の15%は行きたくても行けなかったということになる。

今の選挙のシステムは、どうやらやさしくないらしい。

選挙に行かなかった理由をまとめてみると、みんなちゃんと考えたうえでの結論だった、ということをひしひしと感じる。もちろん、その考え方自体が間違っている可能性はある。しかし、それでもちゃんと考えに考えた結果出した答えが「選挙に行かない」である場合が実は結構多いのだ。

選挙に行くのが面倒な奴らは選挙に行かなかった理由を考えるのもめんどくさいんだろう

 

というツイートがあったが、僕から言わせれば、選挙に行かなかった理由を考えるのを面倒くさがっているのは、こんな風に意識高い系のお説教を垂れている連中の方ではないのか。大局を見ているかのようで、実際ははなに一つ見ていないのだ。むしろ、自分の頭で考え、「選挙に行く」という常識を疑い、答えを出せる人間の方がまだ、視野が広いのかもしれない。

最後に、SEKAI NO OWARIの「Hey Ho」という楽曲の歌詞の一節を引用して終わりたい。

「君が誰かに手を差し伸べるときは今じゃないかもしれない。いつかその時が来るまで……それでいい」

無理して投票に行かなければいけない理由なんて、どこにもない。