仙人に出会って少しずつ、自分の絵に対する考え方が変わってきたたまき。絵を描くことが好きだったことを思い出し、暗い絵しか描けないのではなく、自分の感情がそのまま絵に反映されることを知った。しかし、同じ日に仙人に出会い、歌を酷評されたミチはあれ以来公園に姿を見せていない……。
「あしなれ」第10話、スタート!
第9話「憂鬱のち誕生日」

「だから……自販機が怖いんです……」
その男性はうつむきながら言った。志保(しほ)はその男性の右目の下のほくろをじっと見ていた。
部屋の中には十数個の椅子が丸く並べられて、様々な年代の人が座っている。志保はその中でも一番若かった。男性は四十代くらいだろうか。
「自販機が目に入ると、もう条件反射というか……、お酒のことを思い浮かべてしまうんです。スーパーとかはアウトですね……。お酒を買わないように財布は妻が持っていたのですが、どうしても欲しくなって、抑えられなくて……」
男性はそこで言葉を切った。志保にはその続きがわかるような気がした。
「……お酒を万引きしてしまったんです」
志保は一瞬、男性から目をそらしたが、すぐに視線を戻した。
「……お店ではばれなかったんですが……、買ったお酒を何気なく冷蔵庫に入れてしまって……、妻にばれてしまったんです。私が依存症ってわかってから、絶対お酒を買わないようにしていたんで、うちにお酒があること自体がおかしいってことでばれて……、妻に泣きながら責められて……」
志保は右腕をさすりながら、自分の母親のことを思い出した。
男性は話を切るとうつむいて、何も言わなくなった。嗚咽が漏れてくることから察すると、どうやら泣いているようだ。
シスターが男性のそばに立つと、優しく背中をさすった。シスターが何かを囁きかけ、男性が泣きながらうなづく。
誰かがぱちぱちと手をたたいた。それにつられて他の人も拍手を始める。
別に、男性の話が特段素晴らしい内容だったわけではない。話が終わったら拍手をする決まりだ。内容ではなく、自分と向き合うことができたことが素晴らしいのだ。
「よく話してくれました。さて、ほかに話してくれる方はいらっしゃる?」
都心から少し離れた住宅街にその教会はある。依存症患者たちのためのリハビリ施設が教会に併設する形で、多くの依存症患者を受け入れている。
多くの依存症患者はここに入所している。「入所」と言っても教会や施設で暮らしているわけではなく、近くにシェアハウスを作り、そこで共同生活している。
ただ、中には通院という形をとっている患者もいる。そのためには医師のお墨付きが必要だ。
志保は京野(きょうの)舞(まい)という医師の管理のもと、自宅から通院しているということになっている。自宅には姉と妹がいて、親の代わりに舞が保護者代わりという「設定」だ。
実際はだいぶ違う。志保は今「自宅」に住んではいないし、志保に兄弟姉妹はいない。
「城(キャッスル)」という潰れたキャバクラで不法占拠しているなんて知れたら、速攻で強制入所だろう。
本当の住所なんて教えるわけにはいかないから(そもそも「城」の住所なんて知らない)、施設には舞の住所と連絡先を、志保の住所・連絡先として教えている。舞は「まったく、あたしにも危ない橋渡らせやがって」と笑いながら言っていた。
「どなたか、ほかに話しても構わないという人は?」
シスターの問いかけに、志保はゆっくりと手を挙げた。
シスターは志保を見ると、にっこりとほほ笑んだ。
「神崎さん、よく手を挙げてくれました。では、お願いします」
志保はホワイトボードを見やった。そこには今日のテーマである、「依存症と戦うことの難しさ」が青いマジックで書いてあった。
志保は、一度大きく深呼吸をした。
「あたしは、一年ほど前からドラッグを使うようになりました……。……覚せい剤です。最初はやめる気なんてなかった……。でも、学年が上がって成績も体重も一気に落ちて、付き合っていた彼とも別れて、……クスリをやめたいって思いました」
そこで志保は一息ついた。
「でも、『やめたい』と『やめよう』は違うんですよね。『やめたい』て思っているうちはやめられない……。むしろ、彼を失って、どんどんクスリにのめりこんでいったんです……」
そこから志保はしばし沈黙した。「設定」上言っていいことと言わない方がいいことを選別していたのもあったが、「言いたくないこと」「思い出したくないこと」を思い出して戸惑っていたのもあった。
再び呼吸を整え、志保はしゃべりだした。
「初めてやめようって思ったのは……、今お世話になっているお医者さんに出会ってです。その人に、病気だから治せるって教えてもらって……、それまではずっと自分を責めてばっかで……」
そこでまた志保は黙った。ここから先は言いたくなかった。
でも、ここは言いたくないことを打ち明ける場だ。何もかも「言いたくない」では、きっと自分は変われない。
……変わらなければいけないのかな。
そんな思いが一瞬、志保の頭をよぎった。
「次にやめようって思ったのは……、ここに来る少し前でした……」
志保は、つばを飲み込んだ。
「あたし、クスリ欲しさに……、財布を盗んじゃたんです……。それも、最初あたしの……友達が疑われて……」
志保は震え声で続けた。
「でも、その友達はあたしのこと許してくれたんです……。こんなあたしのそばにいたいって言ってくれて……。もう一人の友達も、警察沙汰にならないように被害者の人のところにいっしょに謝りに言ってくれて……」
そこで志保はその時起こったすったもんだを思い出して、笑い出しそうになった。少しだけ気が楽になった。
志保は顔を上げると、1人1人の目を見ながら言った。
「この二人や、面倒を見てくれてる先生を裏切らないためにも、今度こそやめようて思っています。『やめたい』ではなく、『やめよう』って思ってます」
にこやかなシスターの笑顔が目に入った。
「……ただ」
そう言って、志保は再びうつむいた。
「毎日毎日、思うんです。どうせ自分は、また裏切っちゃうんじゃないかって。今は大丈夫でも、明日になったら裏切っちゃうんじゃないかって。それが怖いです……」
最後に、志保は震える声でこう言った。
「明日が来るのが……怖いです……」
志保は目線を上げることなく、軽く会釈をして話を終えた。ぱちぱちという拍手がやけに耳障りに聞こえた。
ミーティングが終わり、昼食に入る前にシスターから話があった。
「十月の初めに都立公園で『東京大収穫祭』というイベントが開催されます。もう六回目で、毎年行われているから知っている人もいらっしゃるかもしれませんね。この施設では毎年、依存症への理解を社会に対して啓発する意味で、また、皆さんの社会復帰支援も兼ねて、屋台を出店しています。もちろん、強制ではないので、参加したい方だけで構いません。参加したい人は私に申し出てください。来週の火曜日には、どんなお店を出すのかといた会合を始めたいと思います」
そう言えば、志保が通っていた学校もそろそろ文化祭の季節だった。
出たかったな、文化祭。
みんな、どうしてるんだろ。学校からいなくなったあたしを、どう思ってるんだろ。
そこで志保は思考を切り替える。
マイナスなことを考えると、また、クスリが欲しくなる。
あの事件以来、もうひと月ほど、クスリを使っていない。それが施設に通っているからなのか、「城」でともに暮らすあの二人の影響なのかはわからないが、少なくとも今までで最高記録だ。
やればできる。志保は自分にそう言い聞かせると、思考を切り替えた。
東京大収穫祭には中学校の時、当時の彼氏と一緒に出掛けた。「食べ物に感謝を」をコンセプトに、いろんな屋台が立ち並び、ステージではバンド演奏やお笑いライブなどが行われていた。
屋台もいずれも近くの学校だったり、団体だったりが出店していて、ステージ出演者もアマチュアバンドや駆け出しのお笑い芸人など、予算が少なさを逆手に取った手作り感のウリのイベントだった。
何かやらないときっと変われない、という思いと、もともとイベント好きという性格から、志保はこのイベントに携わるチャンスがあるならば、ぜひやってみたいと思った。

テレビから聞こえる「ポーン」という正午の時報の音でたまきは目を覚ました。別にずっと眠っていたわけではない。朝、志保が出かけるタイミングで目を覚まし、おやつを少し口にした後また眠ってしまった。
ぼんやりとした頭で、テーブルの上に置かれたメガネを探す。黒縁のメガネをかけても、視界がまだぼやけている。
ぼうっと人の顔が見えた。
次第に輪郭や目鼻立ちがはっきり見えてくる。同居人の亜美だ。満面の笑顔だ。それにしても、色彩が感じられず、白黒に映って見えるのはどういうことか。
それが自分が描いて亜美にプレゼントした絵だとわかり、さらに、それが額縁、というよりはフレームに入れられ、壁に突き刺さった画鋲につるされているのだと分かった時、たまきは仰天のあまり叫び声を上げた。
きゃー!というたまきの叫び声を聞いて、衣裳部屋から亜美が飛び出してきた。
「どうした、たまき! チカンか?」
「な、な、なんであの絵、飾ってあるんですか!」
いつになく慌てふためいたたまきが、顔を真っ赤にしている。眠気はすっかり覚めたようだ。
「ん? ああ、せっかく描いてもらったから、さっき雑貨屋で額縁買ってきたんだよ」
そう言うと、志保は満足げに飾られた絵を眺める。
「キャバクラの指名ナンバーワンみたいで、いいだろ」
「……外してください」
「なんで?」
うつむくたまきを亜美がわけわからんという目で見下ろす。
「だって、ここ、亜美さんの、その……、お客さんとか、友達とか、たくさん来るじゃないですか」
「……で?」
「……いろんな人に見られるじゃないですか……」
「いいじゃん。せっかく描いたんだから、いろんな奴に見せないと」
「……いやです」
たまきは消え入りそうな声を絞り出した。
「なんだよ。なに、おしっこ漏らしたみたいな顔してるんだよ」
「……漏らしてません」
「いや、そういう顔してるって」
亜美はどこかたまきの反応を楽しむように笑っている。
「なに? もしかして、たまき、自分が絵が下手だって思ってる? 大丈夫だって。たまきの絵はプロ並みだって」
何を持ってプロ並みなのか。亜美の適当な言葉をたまきは聞き流した。画力の問題じゃないのだ。
亜美がここに呼ぶ連中はチャラかったり強面だったりの男性ばっかりだ。そんな人たちが寄ってたかってたまきの絵をじろじろ見る。考えただけでも耐えられない。
「……上手い下手の問題じゃないんです。外してください」
「なんで? いいじゃん。ウチの顔描いた絵だよ? 描かれたウチがいいって言ってるんだから、いいじゃん」
「描いた私はいやなんです」
「でも、あの絵、ウチにくれたんだろ? 所有者のウチはあの絵見せたいんだから、いいじゃん」
「でも、描いた私が嫌なんです」
「知らねーよ、描いたやつのことなんか。ウチが持ってる、ウチの顔描いてある、ウチの絵だもん。ウチに決定権があるに決まってんじゃん」
そうなのかな、とたまきは思ったが、もう言い争うのも疲れてきた。たまきはソファの上にころりと転がる。
亜美は満足げに飾られた絵を眺めている。
「ゆくゆくはさ、ここに3人の似顔絵、飾ろうぜ」
「え?」
たまきの上半身が驚いたように跳ね上がった。拍子にメガネが少しずれて、たまきは左手でそれを直した。
「3にんの・・・・・・ですか?」
「そうそう。3人の似顔絵をここにならべんの」
「……亜美さんって、そういうの好きですよね」
たまきはドアにぶら下がるネームプレートを見ながらいった。
「……でも、その似顔絵って、誰が描くんですか?」
「お前に決まってんだろ?」
亜美は何をわかりきったことをとでも言いたげにたまきを見た。
「……いやです」
「なんで?」
亜美が首をかしげる。
「ああ、志保、髪型にウェイブかかってるもんな。やっぱ、描くの難しい?」
「……志保さんを描くのは……、嫌ではないです」
たまきはうつむきがちに返した。
「じゃあ、何が嫌なの?」
たまきは答えない。
亜美は、たまきにぐいと顔を近づけた。たまきは後ずさろうとするが、壁に当たってこれ以上バックできない。両手で壁どんされているため、左右にも逃れられない。
「はは~ん、お前の考えていること、大体わかってきたぞ」
亜美に至近距離で見つめられ、たまきは視線を落とす。
「お前、自分の顔、描きたくないんだろ」
たまきは静かにうなづいた。それを見届けると、亜美は満足げにたまきを壁どんから解放した。
「大丈夫だって。お前、まあまあかわいいから。ああ、でも、もっと自然に笑えるようにならないとダメだな」
「……そういう問題じゃないんです」
たまきは静かにかぶりを振った。
「じゃあ、何が嫌なの?」
「……なにがと言われても……、とにかく嫌です」
「気のせいだって。いいじゃん。描こうよ」
「……いやです」
「いいじゃんいいじゃん」
「……いやです」
「え~、べつにいい……」
「絶対に嫌!!」
いつになく声を張り上げるたまきに、亜美が驚いたように目を見開く。たまきの方は、泣きそうな目で亜美を睨んでいたが、やがて我に返ったのか、自信なさげに視線を落とした。
「……絶対に、嫌です」
「……わかったよ」
亜美は、たまきの肩にポンと手を置くと、ドアの方へと向かって行った。
「じゃあ、ウチ、隣町の美容院に行ってくるから」
「あれ? ついこの前も隣町の美容院に行ってませんでしたっけ?」
「……そうだったな。じゃあ、どうしよう、隣町の床屋いってくる」
首をかしげるたまきを残して、亜美はどこかへ出かけていった。
「あ、あの、シスター」
ミーティングが終わり、志保はシスターに声をかけた。シスターは微笑みながら振り向く。
この微笑みが、なんか暖かく、なんか苦手だ。
「どうなさったの、神崎さん」
シスターの上品でよく通る声が、志保の鼓膜を震わせる。
「あの、あたし、大収穫祭、やります」
シスターは静かにほほ笑んだ。
「やってくださるの? 神崎さん、ありがとう」
シスターは後ろを振り向いた。
「トクラさん」
シスターの声に、廊下で談笑していた女性が振り返った。年は三十歳ほど。確か、彼女も薬物依存だったはずだ。いわゆる脱法ドラッグに手を出したと言っていた気がする。
「神崎さんも手伝ってくれるそうよ」
トクラは志保に向かってほほ笑むと、軽く会釈した。志保も、会釈を返した。

足、足、足。たまきの視界に足ばっかり映って見えるのは、たまきがうつむきながら歩いているからだろう。
「城」から都立公園までの道のりで、たまきは風景よりも地面の模様やマンホールの形の方がよく覚えている。
駅から都立公園の方に向かうにつれ、視界に見える足の数は減ってくる。
うつむき加減でスカートのすそを掴み、とぼとぼとたまきは都立公園に入っていった。
いつもの階段を見下ろすが、誰もいない。
たまきは肩から掛けたカバンをしっかりと胸の前で抱きとめると、とぼとぼと公園を一周した。
演劇の練習をする集団。水彩画を描く老人。コーヒーを飲んで仕事をさぼってるスーツの男性。照りつける日差しの中、いろいろな人が都立公園で思い思いの時間を過ごす。
たまきはまた、元の階段に戻ってきた。階段の中ほどまで下ると踊り場の木陰に腰を下ろす。スケッチブックを取り出すと、いつものように都庁の絵を描き始めた。
蝉の声がやかましい。
絵を描き始めて十五分ほどだろうか。たまきは自分の左横に気配を感じた。
「となり、いい?」
聞き覚えのある声にたまきは勢いよく振り向いた。
「となり、いい?」
そこにはミチの屈託のない笑顔があった。
たまきは無言でうなづいた。
ミチはたまきのすぐ左隣に腰を下ろした。即座に、たまきの腰が右にスライドし、二人の間には、人が一人通れそうなスペースが空く。
それを見てミチは笑うと、担いでいた黒いギターケースをおろした。太陽光を十分に吸ったケースに触れて、「あっつ!」と声を上げる。
ミチはギターを取り出し、チューニングをし始めた。
蝉の声も、なんだか最初の一音を待ちわびているようだ。
「それでは聴いてください。ミチで、『未来』」
まるでラジオのような、誰に聞かせるでもない曲紹介をしたあと、ミチはギターを奏でて歌い始めた。
「未来」。二週間くらい前にミチがホームレスたちの前で歌い、「仙人」に酷評された曲だ。それ以来、ミチはこの公園に姿を見せなかった。
それから約二週間、たまきは2~3日に一回、この公園を訪れた。何枚も何枚も絵を描いた。まるで、自分が絵を描くことが楽しい、絵を描くことが好きだというのを確かめるかのように。
一方で、公園に来るたびに言いようのない不安に襲われ、たまきはため息をついていた。
公園に来るたびに園内をぐるりと一周する。殺意のこもった日差しに照らされ、汗がたまきの頬を伝い、ハンカチでそれをぬぐう。
結局、たまきの不安は晴れることなく、たまきはいつもの階段に戻ってくる。踊り場に腰を下ろすと、なぜだかため息が出てきた。そんなことを二週間続けていた。

ミチのギターがストロークを奏でると、不思議とたまきの中の言いようのない不安が晴れていることに彼女は気づいた。あるのはいつも通り、「できれば死にたい」という思いと、絵を描くことへの楽しさと、言いようのない安心感である。
ミチのややハスキーなハイトーンが二週間ぶりに、階段の熱せられた空気を震わせている。
――僕の歩く今が未来になる
――夢もいつか「今」に変わる
――明日を変えなければいけないんだ
――未来が僕を待っている
ミチは「未来」を歌い終わると、「ありがとうございました」とだれに言うでもなく口にした。
ミチの歌が終わり、一瞬の静寂が訪れたが、すぐに蝉の声がそれを引き裂く。
蝉のスキャットの合間を縫うように、たまきがポツリとつぶやいた。
「……もう、来ないのかと思ってました」
「え?」
ミチの虚を突かれたかのような返事に、いったい自分は何を言ってるのかとたまきはそっぽを向いた。
「ああ、この前、俺が歌をボロカスに言われたこと?」
ミチは屈託のない笑顔を見せながらいった。
「それで俺がここ来なくなったって思ったんだ」
「だって……、この前、『死にたくなった』って……」
たまき自身、その言葉を本気にしていたわけではないが、この二週間、公園に来るたびにその言葉が頭をよぎった。
「死なねぇよ。『死にたくなった』とは言ったけど、『死のう』なんて言ってねぇし」
ミチはケラケラと笑いながらいった。
「あれ、もしかして、俺がショック受けて引きこもってるとでも思ってた? そんなだせぇことしねぇって」
引きこもり=ダサいという図式は少しショックだったが、たまきは珍しくミチの目を見て話を聞いていた。
「ちょうど、バイトが始まったんだよ。それで、仕事覚えなきゃでしばらく忙しくてさ。すっげぇ、疲れるし。ここに来る余裕なくて」
「そうですか」
たまきはもう興味がないかのように、スケッチブックに視線を戻した。
「なんのバイトか知りたい?」
「別にどうでもいいです」
「まだ教えらんないなぁ。知ったら、ぜってぇびっくりするから」
前にもそんなことを言っていたような気がする。
「ほんと、超大変でさぁ。立ちっぱなしだし、厨房熱いし、メニュー覚えんの大変だし」
何のバイトかは教えてくれないが、飲食店で間違いないようだ。
「でもさ、でもさ」
ミチはやけに嬉しそうにたまきに話しかけた。
「そのバイト先の先輩がさ、めっちゃかわいいんだよ!」
「へえ」
たまきが気のない声を上げる。
「超優しいんだ。『ミチ君、わからないことがあったら、なんでも聞いてね』って」
それは、バイトの先輩として、当たり前のことではないだろうか。そう思いつつもたまきは、自分がその当たり前のことをできる自信がなかった。「わからないことがあっても、絶対話しかけないでください」って言ってしまいそうだ。いや、それすら口にせずに、相手から逃げ回るかも、
そういえば、以前ミチは「地味な子が好み」と言っていた。その「先輩」も地味な人なのだろうか。まあ、どうでもいい話だ。
「ほんともう、厨房の天使って感じ。まあ、その人、厨房入んないんだけどさ」
たまきがぼんやりと考えている間にも、ミチはずっとその「厨房の天使」の先輩の話をしていたらしい。
「芸能人で言うとさぁ……」
と誰かの名前を引き合いに出されたが、たまきはその芸能人の名前を知らなかった。
「ほんと、先輩の笑顔見てるだけで、バイトの疲れ吹き飛ぶよ」
「疲れてないのなら、公園に来ればよかったじゃないですか」
言ってしまってから、たまきはばつの悪そうに顔をそむけた。自分だって、特に疲れてるわけでもないのに、学校に行かなかったくせに。
いや、疲れていたのかもしれない。中学の制服は鎧のように重く感じられたし、教室の扉は鋼鉄のように感じられた。
いざ、教室に入ると、毒ガスでも充満してるんじゃないかと思うくらい息苦しかった。
ふと、ミチが喋るのをやめていることにたまきは気づいた。ゆっくりと顔をミチの方に向けてみる。
ミチは視線を落とし、自分のギターを見つめていた。
「……結局、逃げてたのかもな……」
蝉の喧騒の中に、ミチはそう、ポツリと言葉を置いた。
その言葉にたまきは返事をするでもなく、ミチの方を見続けた。
「バイトはいつも夜からで……、昼間、うちでゴロゴロしてると、ギターが目に入るんだよ……。そのたんび、あのおっさんに言われたこと思い出して、ため息ついてさ。それまではアパートだからあんまり音たてないようにギター弾いて、曲作ってみたりしてたんだけど……、なんか、ギター見ると、嫌なことしか思い出せなくて……」
そう言ってミチは深いため息をついた。さっきまで「先輩」の話をしていた時の笑顔は、すっかり雲の影に隠れた。
「そういや、音楽も聞いてないな……。シャットアウトしてたんだ。途中でこれじゃだめだって思って、古本屋の二階のCDショップ行ったけど、結局何も買わなかったし、何も聞かなかったし。なんか、アーティストのポスターとかジャケットみるたびに、嫌なことしか考えなくてさ」
「……いやなこと、ですか」
たまきの問いかけに、ミチは苦笑いした。
「俺、本当にプロになれるのかなぁって」
ミチは照れるように笑いながら続けた。
「中学の文化祭で友達4人でバンド組んでさ、俺、ボーカルだったんだよ。そん時、めっちゃモテて。カノジョとかできてさ」
「カノジョとか」の「とか」にいったい何が当てはまるのか、たまきには疑問だったが、そのまま聞き流した。
「それでプロのミュージシャンになろうって思って……。かっこいいじゃん?」
炎天下の下でミチは語りながら、どこか肋骨の間を隙間風が通っているのを感じていた。
ミチがたまきの方に目をやると、普段の三割増しで生気を感じられない目でこっちを見ている。こういうのを「ジト目」とでもいうのだろうか。
ミチと目が合ったことに気付くと、たまきはさみしそうに、右手首の包帯に目を落とした。ぐるぐると手首に巻きつけられた包帯は、夏の日差しの下でうっすらと汗ばんでいる。
ミチの話に出てきたのは、「中学」とか、「文化祭」とか、「友達4人」とか、「カノジョ」とか、たまきが望もうと手の届かなかったものばかりだった。
自分がどれほど望もうとも手の届かなかったものを、ミチはあって当たり前のように話している。いや、ミチが当たり前のように抱いている「プロのミュージシャンになりたい」という夢自体、たまきが持っていないものだった。
そんなミチを、たまきは、やっぱり好きにはなれなかった。
他人が当たり前のように手にしているものが、自分がどんなに背伸びをしても決して届かないものだと分かった時、こんなにも死にたくなるものなのか。
だが、たまきがそんなことを考えているなんて、ミチには伝わっていないらしい。当然だ。地球から月を見て、月がどんなに寂しいところかなんて想像もつかないだろう。
「……やっぱり浅いか」
ミチは自嘲するように笑った。
「そんなさ、『モテたいから』とか『かっこいいから』なんて理由で音楽やってる奴が作った曲なんて、人の心打つわけなんてないよな。あのおっさんの言う通り、つぎはぎでしかなかったんだよ……」
「それでも私は……、好きですよ……。ミチ君が作る歌」
たまきはミチの目を見て、珍しくミチの目を見てつづけた。
「確かに、歌詞はどこかで聞いたことあるような言葉ばっかりでしたけど……」
それを聞いてミチが寂しそうにはにかんだ。
「でも、ミチ君が歌うと、不思議と、私でも気持ちが明るくなるというか……。やっぱり、ミチ君の歌には、何か、特別な力があるんじゃないかって……」
そこまで一気にいうと、たまきは視線を落とした。
「……すいません。私、音楽のことなんか何にも知らないのに、……えらそうなこと言って」
「いや……、うれしいよ。1人でも……、その、なんていうか、ファンがいてくれて」
たまきは、お尻を動かしてミチから少し距離を取ると、再びミチの目を見た。
「……なのに、どうしてまた戻ってきたんですか。……どうして、戻ってこれたんですか」
「来月さ、この公園で『大収穫祭』ってイベントやるんよ」
ミチは恥ずかしそうにはにかんだ。
「そのイベントでライブもあって、ウチのバンドがそれに出場することになってさ」
「……それって、すごいことなんですか?」
「いやいや全然。応募して、抽選に当たればだれでも出れるんだぜ?」
ミチはケラケラと笑った。
「で、いつまでもバックれてないで、練習しなきゃなって思って。2週間もサボってたらさ、流石に心の傷っていうの?も癒えるし」
たった2週間でへこんでたのが治った。やっぱり、ミチ君は私とは違う「あっち側」の人なんだと、たまきは街路樹の向こうの都庁を見つめながら思った。
ミチはギターおもむろにギターを奏でだした。
いつものミチの曲に比べると、少しスローテンポだ。
8小節イントロを奏で、ミチは歌い始めた。
――路地裏を歩く野良犬が一匹
――陽の光を避けるようにビルの影へ
――誰もいない公園で
――ひとり吠え続ける
――「僕には夢があるんだ」
――「僕には明日があるんだ」
――「僕には未来があるんだ」
――そんな風に歌ってたら、ゴミ捨て場のフクロウに笑われた
――夢の意味も知らないくせに
――自分が誰かも知らないくせに
――ラジオから流れてきた誰かの歌で
――知ったつもりになってただけ
――ただ吠えていただけ
声が伸びるところで、ミチのハイトーンな声が少し掠れる。たまきは、絵を描く手を止めてじっとミチの口元を見ていた。
ミチはポケットからハーモニカを取り出すと、吹き始めた。そういえば、前に「ハーモニカが欲しい」と言っていた気がする。
――いつの間にか日が暮れる
――黒猫のしっぽがゆらゆら揺れる
――あれほど好きだった歌も口ずさむのをためらって
――頭上のポスターを眺めては電柱にピスをかける
――ゴミ捨て場のフクロウの声と
――月の下の黒猫のしっぽと
――いつか抱きしめたウサギのぬくもりが
――潮騒のように響く
――夢の意味も知らないくせに
――自分が誰かも知らないくせに
――届きもしないフリスビー追いかけて
――足がもつれ転んだだけ
――ただ遊んでいただけ
たまきにはところどころ歌詞の意味が分からなかった。それでも、ただ明るいだけではない。今まで聞いたミチの歌では一番好きだと思った。
ミチがギターを弾くのを終え、たまきは、ぱちぱちと小さな拍手をした。
「この歌はいつ作ったんですか?」
「昨日」
ミチがチューニングをしながら答える。
「なんてタイトルなんですか?」
「タイトルかぁ……。そうだなぁ……」
ミチはしばらく黙っていたが、やがてたまきの方を向いて答えた。
「……『犬』」
「……それがタイトルですか……?」
「う、うん」
ミチが決まりの悪そうにたまきを見ている。
「前から思ってたんですけど……」
ミチの不安そうな目からたまきは顔をそらした。
「ミチ君って、名前付けるセンスないですよね……」
「知ってる……」
ミチが自信なさげにうつむく。
「たまきちゃんが名前付けてよ」
「え?」
たまきは目を大きく見開いてミチの顔を見た。
「たまきちゃんだったら、なんてタイトルつける?」
たまきはしばらく黙っていたが、ミチの目を見てこう言った。
「……『犬の歌』?」
ほんの一瞬、時間が止まったかのような静寂が訪れた。
そして、二人はお互いの顔を見て、同時に笑い出した。
ミチはケラケラと笑い、たまきはクスリと吹き出した。
夏の日差しの中、二人は声を出して笑った。
一通り笑ったところで、階段の上の方からハスキーな声が聞こえてきた。
「それにしても、『ゴミ捨て場のフクロウ』はちょっとひどいんじゃないか?」
ミチとたまきが振り返ると、そこには仙人がにやりと笑いながら立っていた。
「げ」
「きゃ」
ミチはこの上なくばつが悪そうに顔をこわばらせ、たまきは驚いた拍子に鉛筆を落とした。
「ち、違うんす。あれは、思いついた言葉をそのまま言っただけで、ベ、べつに深い意味は……」
ミチは立ち上がると、仙人に駆け寄った。
「なるほどなぁ。お前さんには、そんな風に見えとったのか」
「いや、ち、違うんす!」
たまきは「ゴミ捨て場のフクロウ」の意味が分からず、二人のやり取りを首をかしげながら見ていた。
仙人は歩みを止めることなく階段を下り続ける。
「声はよかった。メロディも悪くない」
たまきは階段の上の道を見上げる。さっきよりも顔がこわばっているように見えた。
「だがな……」
ミチの顔がますますこわばる。なんだか、たまきまで緊張してきた。
「歌詞がところどころ、なんの例えなのかわからん」
「……はい」
この前と違い、ミチは素直にうなづいた。
「表現し、伝える以上、わかりづらいのはよくないなぁ」
「……おっさんの画家がどうこうっていう話もわかりづらかったっすよ?」
二人の男は、互いに顔を見合わせ、同じタイミングで笑った。
仙人は、ミチの肩に手を置いた。アンモニアの臭いがミチの鼻腔を突いたが、ミチは顔をしかめることなく、むしろ、ほころばせた。
「ま、この前の歌に比べれば、お前さん自身の言葉で書こうとしてるってのは伝わってきた。前より良いんじゃないのか。まだまだ粗いけどな」
ミチが少し、ほっとしたように顔をほころばせた。
「ただなぁ、『ゴミ捨て場のフクロウ』はやっぱりひどいなぁ」
「すんません……」
仙人よりも少し高い位置にいるミチが頭を下げた。
「『年老いたフンコロガシ』じゃだめか?」
「え?」
仙人の言葉に、ミチが眉をひそめる。
「『ゴミ捨て場のフクロウ』の部分を、『年老いたフンコロガシ』にするのではだめか?」
「……べつにいいっすけど、フクロウよりひどくないっすか?」
「好きなんだ。フンコロガシが」
そういうと仙人は笑った。

「う~ん、一回整理しよ?」
その日の夕方。西日が照らす「城」の屋上で、志保が困ったように笑った。志保は施設から帰って来るなり、亜美から絵を飾る飾らないの論争を聞かされた。
「たまきちゃんは、絵を飾るのが嫌なんだね?」
「いやです」
たまきがきっぱりと言った。
「それに対して、亜美ちゃんは絵を飾りたい」
亜美が無言でうなづく。
「作者の意見を尊重すべきか……、所有者の意見を尊重すべきか……、亜美ちゃんの肖像権を尊重すべきか……」
志保は腕を組んで考えていたが、数秒して笑顔で
「わかんない」
と言った。
「でも、二対一でウチの勝ちだろ?」
「でも、こういうのって、作者に権利があるんじゃないんですか?」
二人の権利者の訴えを志保は裁判長よろしく聞いていたが、「そういえば」と切り出した。
「本で読んだことがあるんだけど、美術館ってホントは絵を展示したくないんだって」
「なんで? あいつら、絵を見せて商売してるんだろ?」
「絵を光にあたると痛んじゃうから、ほんとは人に見せたくないんだってさ」
「なんだそりゃ?」
「絵を百年残すためには、光に当てない方がいいんだよ」
亜美は腑に落ちない感じだったが、たまきはピンとひらめくものがあった。
「それです。絵が痛んじゃうんで、見せないでください」
珍しくたまきが勝ち誇ったように、亜美を見上げてる。
だが、亜美はたじろぐ様子もなくこう返した。
「なに、お前、あの絵、百年残したいの?」
「え?」
ぽかんと口をあけるたまきに、亜美が続ける。
「百年残すつもりなんだったらお前、全身描けよ。ウチのナイスプロポーションが百年後にも残ったのに」
「百年も残ったら、たまきちゃんの絵も歴史的資料として博物館に飾られてるかもね」
「え?」
たまきは、自分の絵が百年後、博物館に展示され、誰とも知らない人にじろじろ見られている光景を想像した。
「いや、もしかしたら、こいつの絵がすごい評価されてて、何億って値段になってるかもしれない」
「ありえるねぇ。それこそ、ゴッホ展みたいに、大行列ができたりして」
「え? え?」
たまきはただただ困惑している。
「そうなると、あの絵は天才画家たまき先生、十五歳の時の貴重な作品、ってことになるな。うん、保存した方がいい。どっか暗いところに大事にしまって、百年残そう」
「わあ、なんか、ロマンがあるね」
盛り上がっている年上二人に向かって、たまきは申し訳なさそうに言った。
「あの……、痛んじゃってもいいんで、今のままでいいです……」
つづく
次回 第11話「惚気の長雨、口下手の夕暮れ」
さ~て、次回の「あしなれ」は?
・ミチに新展開!
・志保、クレープを焼く
・たまき、怒る
の三本です。続きはこちら!