自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。「あしなれ」30話目、スタート!
「ねえ、これ見て見て! どうしたと思う?」
「城」の中へと戻ったたまきと亜美に、志保はカバンを見せつけた。今まで志保が持っていなかったカバンだが、たまきの乏しいおしゃれ語彙力では「見知らぬカバン」以外の言葉が見つからない。
「えっと、どうしたんですか、このカバン」
たまきの問いかけに、隣にいた亜美が
「聞かねぇ方がいいって」
と忠告したが、それを言い終わるより早く志保は、
「カレからもらったの! やだもう! 言わせないでよ!」
というとたまきの肩を強くたたいた。
亜美の大袈裟な舌打ちが聞こえる。
カバンなんかもらって、何がそんなにうれしいのか、たまきにはわからない。 そもそも、志保はほかにもカバンを持っていたはずだ。そっちのカバンはどうしたんだろう。穴でも開いてしまったのだろうか。
「ウチ、タバコ吸ってくるわ」
すでにたばこのヤニをはらんでいるかのような声で亜美は言うと、部屋を出て行ってしまった。
たまきは「城」の中を見渡す。いつもに比べるとやけに片付いていて、なんだか今まで自分が暮らしてきた場所とは違うところみたいだ。
どことなく、「踏み荒らされた」そんな気がした。片付いているのに「踏み荒らされた」だなんて変な感じがする。
なんとなく居心地が悪いままにたまきがソファに座っていると、志保が正面のソファに腰を掛けた。
「それで、たまきちゃんはそのパーカー、誰からもらったの?」
「ふえ?」
弾丸が心臓に正確に命中した、そんな気がした。
「どど、どうしてもらったって……思うんですか?」
危うく「どうしてもらったってわかったんですか」と言いそうになったたまきだったが、すんでのところで言葉を変えた。
「だってたまきちゃん、自分じゃお洋服買わないじゃん」
「そ、そうなんですけど……」
「それに、自分で買うとしても、たまきちゃんが選ぶ色って大体、ブラックとかグレーとかじゃん。ブルーは選ばないでしょ」
たまきは視線を落とす。自分がいま身に着けている、黒いスカートと灰色の靴下が目に入った。
「その……ミ、ミチ君のお姉さんにもらったんです」
嘘ではない。ミチは「姉ちゃんと一緒に選んだ」といったのだから。
「どうしてミチ君のお姉さんが、たまきちゃんにパーカーをくれるの?」
「さ……さあ……」
「ふーん」
志保の表情からは、志保がたまきの答えをどう判断したのかはうかがい知れない。
「そのパーカーだったらさ、インナーもそれに合わせたやつ着た方がいいよ」
「……はあ、そうなんですか」
「今度、一緒に買いにいこっか」
「は……はい」
よくわからないが、たまきは今度、志保と一緒にウインナーを買いに行くことになったらしい。ソーセージじゃダメなのだろうか。
その日の夜。
亜美はどこかに出かけたまんま帰ってこない。志保はソファの上でタオルを二枚かけて寝ている。
たまきも同じようにして寝ているのだが、この日はなかなか寝付けなかった。
昼間の田代との会話が頭から離れない。面と向かってそう言われたわけではないけれど、たまきたちがこの「城」にいることは間違っている、そんな気がした。
いや、こればかりは「そんな気がした」ではない。たまきたちが「城」で暮らしていることは、事実として「間違っている」のだ。
まず、三人とも家賃を払っていない。不法占拠であり、間違いなく違法行為だ。おしゃれ警察どころか、本物の警察に逮捕されてしまうかもしれない。
おまけに三人とも未成年だ。世間的にはやっぱり、未成年というのは保護者のもとで生活しなければいけないんじゃないか。
亜美はエッチなことをしてお金を稼ぎ、志保は薬物依存で、たまきは自殺未遂を繰り返す。間違っていることだらけである。
間違っていることは、してはいけないのだ。
ところが、間違っているからと言って、家に帰るわけにはいかない。家に帰ってしまったら、たまきはとても生きていける自信がない。
死にたがりでおなじみのたまきだけれども、家で死ぬことだけは嫌だ。家ではないどこか別の場所で死にたいのだ。
そもそも、たまきが死にたかったのは、あの家にいたからなんじゃないか。たまきが死にたい死にたい言いながらも今日まで何となく生きているのは、あの家を離れたからなんじゃないか。
となると、たまきという人間は、「家出して帰らない」という間違ったことをしていかないと、生きていけないということになる。
今までたまきにかかわった大人の多くが、こういってきた。「命を粗末にしてはいけない」と。なぜなら、生きているということはただそれだけで素晴らしいことなのだから。
ところがたまきは、「生きる」という素晴らしいことをするためには、どうしても間違ったことをしなければいけないのだ。
間違ったことをしないと生きていけない。それでも生きることは素晴らしいのだろうか。
たまきは狭いソファの上で器用に寝返りを打つ。
そういえば、前に仙人がこんなことを言っていた。「自分がしたことが間違ってると思うなら、したいようにすればいい」と。
たまきがやっていることは間違っている。
たまきは正しいことをしたい。
なのに、たまきは正しいことであるはずの「家に帰る」を絶対にしたくない。
間違っているとわかっているのに、間違っていることはしたくないのに、間違ったことをするしかない。
やっぱり、たまきみたいな子は死ぬしかないのだろうか。
その時、ドアが急に開いて、部屋の電気がぱちりとついた。
たまきはそっちの方を見る。メガネをかけていないから視界がぼやけているけど、どうやら亜美のようだ。
「なんだ、たまき、起きてたのか」
その声は紛れもなく亜美だった。たまきはメガネをかける。やっぱり亜美だ。
たまきの視界の傍らで、志保が起き上がった。
「何……どうしたの……?」
「わりぃ。起こしちゃったか。いや、今度の花見で使うやつ、ここに置くことになってさ。今運んでもらってるんだよ」
そういうと、「城」の中に段ボール箱を抱えた男たちが入ってきた。
「何入ってるの、これ?」
「レジャーグッズとかだよ。あと、酒類。ああ、シンジ、花火はそっちに置いといて」
シンジと呼ばれた痩せた男が、抱えた段ボールを床に置く。
「花火? その段ボールの中、全部花火なの?」
「そうだよ」
花見で使うにはずいぶんな量である。亜美は爆弾テロでもするつもりなのだろうか。
「お花見って、花火するんですか?」
お花見なんてやったことのないたまきが、志保に尋ねる。
「さあ……、もう、お花を見るつもり、ないよね」
深夜に、雑居ビルの無人のはずの部屋に、人知れず運び込まれた、爆薬入りの段ボール。ここだけ聞くと、やっぱりいつ警察が来てもおかしくない気がしてきた。
「お花見はいつやるの?」
と志保が尋ねる。
「再来週か……早くて来週だな。さっき予報見たら、なんか予定より早く咲くんじゃねぇかって言ってるんだよ」
そういってから亜美は志保に、
「お前は来るか?」
と尋ねた。
「うーん、バイト先のお花見と被るかもしれないし~」
「なんだよ。バイト先なんてそんなのバックレ……」
そういってから亜美は、ふとあることに気づく。
「そうか。バイト先の花見ってことは、ヤサオも来んのか」
「ヤダもう! 亜美ちゃん! 言わせないでよ!」
そういうと志保は亜美にぬいぐるみを投げつけた。
「いや、お前、なんも言ってねぇだろ」
亜美はぬいぐるみを片手でキャッチする。
「そっか。お前こねぇのか」
「まだわかんないけどね。スケジュール次第」
「たまきも来るのに残念だ」
「へ?」
たまきはあいまいな返事をしただけなのだが、亜美の中ではもう、お花見に来ることになっているらしい。
正直、亜美とその「悪そうな友達」がやるお花見なんて、行きたくない。全くなじめずに、お地蔵さまのように固まって、たたずんでいるだけの自分が容易に想像できる。
かといって、きっぱりと断ることもたまきにはできなかった。
たまきみたいな友達のいない子にとって、お花見のようなイベントに誘われるということは、とてもありがたいことなのだ。たとえ、絶対にその場になじめないとわかっていても。だから、どうしても断ることができないのだ。
こういう時、亜美や志保だったら、誘われても行きたくないと、きっぱり断ることができるのだろうか。
朝になった。
結局、たまきはあのあと横になったらすぐに眠ってしまった。
眠って、朝になったからと言って、寝る前の悩みは別に解決してはいない。
どうして人間には、眠っている間に悩み事を勝手に考えて、起きたら答えが出ている、そんな機能が搭載されていないんだろう。そうしたら、毎日ごろごろしているだけのたまきなんて、今頃お悩み解決の大先生になれたかもしれないのに。
目覚めたからといって、たまきは別にやることもないので、ごろごろしている。
やることがないので、どうしても悩みを考えてしまう。
とはいえ、夜に考えていたことは、朝になっても答えが出ない。そのままお昼になったけど、やっぱり答えが出なかった。
そうだ、仙人に聞いてみよう。仙人だったらきっと、答えを知っているはずだ。
たまきは立ち上がると、何やら携帯電話をいじっている志保を見た。
「あの……ちょっと出かけてきます……」
いつもの道をとぼとぼ歩き、たまきは公園へとたどり着いた。公園の中の仙人が暮らす「庵」へと向かう。
庵の前では、何人かのホームレスたちが行ったり来たりしていた。だけど、仙人の姿は見当たらない。いつもなら庵の前に椅子を出して、カップ酒でも飲んでいるのだが、今日は姿が見えない。
たまきはなけなしの勇気を振り絞って、そばにいたホームレスに話しかけてみた。何度も「庵」に来るうちに顔見知りにはなったが、話したことはほとんどない。
「あ、あの……その……仙人さんはいませんか……」
ホームレスが足を止めて、たまきの方を向く。
「ああ、仙さんね。仙さんなら、シゴトに行ったよ」
仙人の仕事というのは確か、街中を一日中駆けずり回って、空き缶を集めるというものだった。だったら、当分帰ってこないのだろう。
「そうですか……」
当てが外れたたまきは、下を向いた。
「お嬢ちゃんが来たこと、仙さんに伝えておこうか?」
「いえ……いいです……」
そういうとたまきは、軽く頭を下げて、「庵」を後にした。
とぼとぼと歩きながら、いつもの階段に一人腰を下ろす。
考えてみれば、仙人には仙人の生活があり、都合があるのだ。いつもいつもたまきの都合の良いときにいてくれるわけではないし、いつもいつもたまきの相談を聞いてくれるとも限らない。
そもそも、自分は仙人にいったい、何を尋ねるつもりだったんだろうか。
たまきがしていることは間違っている。たまきはどうしたらいいのか、そんなことを聞こうとしていたのだろうか。
でも、もし仙人が、たまきのやっていることは間違っているのだから、今すぐパパとママのところへ帰れと言っても、たまきはかたくなに首を横に振り続けただろう。
そう、「どうしたらいいか」の答えは最初から決まっているのだ。いや、違う。誰に何を言われても、誰に間違いを指摘されても、それでもたまきは家に帰りたくないのだ。そう、仙人に相談したところで、誰に相談したところで、たまきは答えを変えるつもりは全くないのだ。
もしかしたら、ただ単に「お嬢ちゃんは間違ってなんかいないよ」と言ってもらいたかっただけなんじゃないだろうか。志保が田代のことをいろんな人に相談して回ったように。
そんなことを考えてみると、階段の上の方から
「よっ」
と、声がした。見上げてみると、そこにはギターケースを担いだミチの姿があった。
「……こんにちわ」
「今日は絵、描いてないの?」
「……まあ」
「ふーん。あ、そのパーカー、着てくれたんだ」
ミチはたまきが来ている、薄群青のパーカーを指さす。
「……まあ」
ミチはたまきの隣に腰掛ける。たまきはすっと横にずれて、間隔をあけた。
ミチはギターを取り出して、チューニングを始めている。
「あ、あの……」
たまきは少しミチの方へと顔を向けていった。
「ん? どしたの?」
「ミチ君は……自分のやってることが間違ってるって思ったこと……ありますか?」
「また、ヘンなこと聞くね」
そういってミチは笑った。
「もちろん、あるさ」
「それってどんな時ですか……?」
「……まあ、去年のクリスマスに、たまきちゃんに怒られた時かな」
「ああ……、そうでしたね」
たまきは、ミチの方へとむけていた視線を、正面へと戻した。そういえば、そんなこともあった。ミチが人妻と不倫して、相手のダンナにボコボコに殴られて、そのあと……。
そこでたまきは、あることに気づいた。
「……ということは、不倫してた時も、殴られてた時も、間違ったことをしているとは思ってなかった、ってことですか?」
「たまきに怒られた時点で、間違ってると思った」という話から解釈すると、そうなってしまう。
「え? ああ、その、えっと……や、やだなぁ、そんなわけね……ははは」
ミチの乾いた笑いを聞いていたら、こんな男からもらったパーカーを着ていることが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。クシャクシャに丸めてこの場でたたきつけて返そうかとも思ったけど、このパーカーはミチからだけではなく、ミチのお姉ちゃんからのプレゼントでもあるのだ。ミチのお姉ちゃんは、たまきをネコ扱いしていることを除いては、たまきのような子にいつも焼きそばを作ってくれるステキな人なのだ。そのような人からもらったものを粗末にしてはいけない。
たまきは、パーカーのチャックをキュッと閉めた。
「そういえば、たまきちゃんもお花見来るんだって?」
「ほえ?」
どうもたまきは、核心を突かれたり、予期しない質問が飛んできたりすると、ヘンな声が出てしまうらしい。多分たまきは、国会議員には向いてはいないだろう。都合の悪い質問をされるたびに、「ほにゃ?」とか言ってしまうに違いない。そもそも、人前で演説すること自体が無理だ。自分の写真が選挙ポスターになって、町中に貼られてるなんて、考えられない。
「……まあ」
いつも通りのあいまいな返事を繰り返すたまき。
「場所って、この公園だよね。ここってお花見スポットで有名だし」
「そう……なんですか……」
たまきは頭上を見上げる。夏ごろからよく来ていたこの公園の木が、実は桜であるということを、たまきは今、初めて知った。
「たまきちゃんさ、亜美さんから、何人ぐらい来るか聞いてない?」
「さ、さあ……」
「そっか。俺、センパイからのまた聞きだから、よくわかってねぇんだよなぁ。日にちもまだ決まってないんだろ。バイトのシフトはもう決まっちゃってるから、かぶったら行けないかもなぁ」
そうか。たまきも何か別の用事があればよかったのだ。志保だって、バイト先の花見と被るかもしれない、なんて言っていたではないか。何か別の用事があれば、亜美の誘いを断ることができるし、先約があるならしょうがない、と亜美に嫌な気持ちをさせることもないはずだ。
問題は、「城」にしか居場所のないたまきにとって、別の用事なんかない、ということである。何か用事を無理やりでっち上げても亜美のことだ、「そんなの別の日にすればいいじゃん」とか言って、強引に花見に連れて行こうとするのではないか。
ミチはギターの弦をいじっていたが、やがて、たまきの方を向いた。
「あれ? もしかしてたまきちゃん、花見行きたくない?」
「ほへ?」
またヘンな声が出てしまった。
「ど、どうして行きたくないって……」
そういってからたまきは少し考え、
「……わかったんですか?」
と言い足した。
「いや……なんとなくだけど……なんかたまきちゃん、乗り気じゃないような気がしたから……」
ミチは、ギターの弦に視線を落としながら言った。
「そもそもたまきちゃんって、なんか大勢と一緒にいるときは、あんまり楽しそうじゃないかなって。っていうかそもそも、人が大勢いるとこには、たまきちゃんってほとんどいないよね」
たしかに、祭りだパーティだの時は、わざわざ人のいないようなところに移動するたまきである。
ミチは、ギターをいじる手を止めた。
「いいんじゃね? 行きたくないなら、行かないで」
たまきは無言のまま、ミチの方を向いた。
「だって、花見って楽しむためにやるんだもん。楽しめないなと思ったら、行かなくていいんじゃね?」
「で、でも、せっかく亜美さんに誘ってもらったのに……、悪いです……」
「ああ、わかるなぁ、それも」
ミチはそう言って、笑った。
「俺もさ、センパイに誘われて、クラブとかに行くのよ。未成年でも入れる、クラブ風のイベント。でもさ、俺、クラブミュージックとか、全然好きじゃねぇんだよ。ダンスとかもやったことねぇし、酒代もやたらかかるし」
一か所、法的にちょっとおかしい部分があったが、たまきはスルーした。今のたまきは、人の間違いを指摘できるような気分ではないのだ。
「でも、センパイの誘いだから断れねぇんだよな。メールとかには『お前も来る?』って書いてあるんだけど、ほんとは『まさか来ないなんて言わねぇよな』って書いてあるような気がしてさ。おまけにさ、行ったら行ったで、もうこれ以上は飲めねぇよ、ってタイミングでセンパイが肩ガシッとやってさ、『おい、飲んでるか? ちょっと足りないんじゃねぇか? おごってやるから遠慮せずに言えよ』って言われると、『じゃ、じゃあ、もう一杯』って言わなきゃいけないんよ。今度は『後輩に気前よくおごるセンパイ』って演出に付き合わなきゃいけねぇんだよ」
チャラ男の世界で生きていくのも、なんだか大変である。
「でも、たまきちゃんと亜美さんの関係って、そういうんじゃないと思うんだよなぁ」
「そ、そうなんですか?」
「俺なんかはさ、ぶっちゃけ、頭数要員なわけよ」
「……あたまかず、ですか?」
「そ。誰でもいいから、人数が集まればいい、ってわけ。『俺が一声かければ、これだけ集まるんだぜ』みたいな。だから断るとさ、『俺の顔に泥塗りやがって』みたいなこと言われちゃうわけよ。『お前が来ないとつまらない』じゃねぇんだよ。『俺の顔に泥塗りやがって』なんだよ。ま、アクセサリーみたいなもんだね。ジャラジャラいっぱいつけてるヤツがえらい、みたいな」
たまきは無言のまま、ミチを見ていた。
「でも、たまきちゃんと亜美さんって、そういうんじゃない気がする」
「まあ、私は……地味ですから」
たまきなんてアクセサリーとしては、安物のヘアピンみたいなものだろう。目立たなさすぎて、そもそもつけてることに気づかれないようなやつだ。
「そうそう、たまきちゃんはアクセサリーってタイプじゃないよ」
ああ、やっぱり。
「たぶん亜美さんは、本当に来てほしくて誘ったんじゃないかな」
「ふぇえ?」
そういわれて驚いたたまきだったが、よくよく考えてみると、確かにそうかもしれない。
だって、たまきなんか誘って来てもらったところで、何の自慢にもならないのだ。
「ウチが一声かければ、たまきだって来るんだぜ」と亜美が言ったところで、何の自慢にもならない。
そう、たまきがイベントやパーティに来たところで、何の自慢にもならないのだ。学校にいた時、誰からも何の誘いもなかったのは、たまきなんか呼んでも、何の自慢にもならないからだ。
それでもたまきを誘うというのは、少なくとも頭数合わせではない、と考えてみてもいいのではないだろうか。大体、たまきは影が薄すぎて、たまきみたいな子をいくら集めても、頭数にはならない気がする。
「それにさ」
とミチが言葉をつづけた。
「亜美さんの方から誘ったんでしょ? だったら、亜美さんはたまきちゃんが楽しめるようなお花見を企画する、っていうのが筋なんじゃない? 誘われたけど楽しそうじゃないな、と思ったら、断っていいんだよ」
その言葉を聞いたたまきは、ゆっくりと立ち上がった。
「私、帰ります。その……ありがとうございました」
たまきはぺこりと頭を下げると、階段を上っていく。
「ところでさ、たまきちゃんって、俺といるときは楽しいの?」
「……さあ」
たまきは振り返ることなく、答えた。たまきの黒い髪が、風にふわっと揺れた。
たまきはとぼとぼと太田ビルに帰ってきた。
「断ってもいい」と言われて、少し勇んだものの、やっぱりいざ断るとなると、憂欝である。
おまけに、ゆうべからの悩みは、ちっとも解決なんかしていない。
階段を上って「城」の前に立つと、屋上から亜美の声が聞こえてきた。
「ああ、ウチウチ」
一瞬、亜美がどこかのおばあさんに詐欺の電話でもかけてるんじゃないか、とたまきの頭によぎったが、どうやらそういった電話ではないらしい。
「シンジ、花見に来れないって言ってんだって? なんで? あいつ、なんつってる?」
亜美は屋上の中でも階段のそばにいるらしく、階下のたまきにもその声がよく聞こえてくる。たまきは、屋上への階段を上り始めた。踊り場まで行くと、亜美の下半身が視界に入った。
「あ? ウチが来いっつってんのに、こねぇとかあいつ、ふざけんなよ? 先約? しるかよ。その先約のオンナと一緒に来ればいいだろ」
たまきはなんだか、見えない手で背中を引っ張られたような感覚だった。
「んじゃまた。うん。はーい」
亜美は電話を切って、携帯電話をたたんだ。
「あの……」
たまきはか細い声で話しかけた。
「ん? ああ、たまき。帰ってたのか。花見な、来週の日曜になりそうだわ。ちょうどその頃が見ごろ……」
「あの、私……!」
誰かの言葉をさえぎるように話しかけるのは、たまきにとってもしかしたら初めてのことだったかもしれない。
だが、続く言葉が出てこない。
「どした?」
「私……その……」
たまきは一度、大きく息を吸うと、亜美の目を見た。
「お花見には……行きません……!」
「え?」
空は青く、雲がふんわりと浮かぶ暖かな陽気だったが、たまきはそのことを忘れていたし、亜美は気づいていないようだった。
「私、お花見には、行きません」
「……なんか予定と被っちゃったか? じゃあ、土曜日にしようか? ああ、サイアク月曜でもいいぞ。どうせ暇人ばっかだし、その方がすいて……」
「ですから……『行かない』んです」
そう、ほかに用事があるわけじゃない。「行けない」わけではない。
「行きたく……ないんです……!」
たまきは亜美の目を見れず、目線を落とした。
「誘ってもらったことは、嬉しかったです……。でも、私、やっぱりお祭りとかパーティとか、苦手です……。だから、行きたくないんです……」
正直な話、たまきは殴られることを覚悟の上だった。もちろん、今まで亜美がたまきに暴力をふるったことなどないし、いくら亜美が短気だからと言って決して短絡的に暴力をふるう人間ではないこともわかっていたが、亜美からのせっかくの誘いを断るのだから、それくらいされても仕方ないんじゃないか、とびくびくしていた。
たまきは、恐る恐る亜美の目を見た。
亜美は、少し驚いたようにたまきを見ていた。さっき電話で「ふざけんな」と怒鳴っていた時とは様子が違う。とりあえず、殴るとかそういう感じではなさそうだ。
たまきと目が合うと、亜美は、はあぁとため息をついた。
「お前な、そんなこと言ってたら、いつまでたってもイベントを楽しめないぞ」
亜美の言い方はなんだか、好き嫌いをする幼稚園の娘をたしなめる、若いママのようだった。
「別に……楽しめなくて……いいです……」
「またそんなことを……。だからお前はダメなんだよ。そんなんじゃ、いつまでたってもウジウジしたままだぞ」
「ウジウジしてたら……ダメなんですか……?」
「大丈夫だって。花見に行けば、なんだかんだで楽しくなるって」
「だから……だから……!」
どうしてわかってくれないんだろう。ずっと一緒にいるのに。
「私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!」
空は相変わらずの青空だったが、太陽が雲の影に隠れ、急に少し薄暗くなった。
「亜美さんはいつも、なんだかんだで楽しくなるっていうけど、私はそれで楽しかったことなんて、なかったです……。亜美さんは私がウジウジしてるからだっていうけど、私だって、楽しいって思うことだってあります。だけどそれは、亜美さんの思う『楽しい』とはたぶん、違うんです……」
この時の亜美の様子をなんと表現すればいいのか、たまきにはわからなかった。少なくとも、今までたまきが見たことのないような表情をしていた。
「楽しめない場所に行きたくないっていうのは……ヘンですか……。亜美さんだって、学校辞めて家出してここに来たんですよね。それって、学校も家も、楽しくなかったからですよね。だったら、わかりますよね……。楽しくないところには……行きたくないんです……」
亜美は何も答えなかった。
「……さようなら」
そう言うとたまきは頭を下げて、階段を下りて行った。
「城」のドアノブに手をかけてから、たまきは「しまった」と思った。
「さようなら」だなんて、まるで金輪際あわないような言い方をしてしまった。
もちろんそんなわけなくて、ただ「失礼します」だとなんだか部活の先輩や学校の先生に言っているみたいで、なんか違うなと思ったのだが、「さようなら」は余計に違ったかもしれない。
ただでさえ、亜美の誘いを断ってしまったことに罪悪感を覚えていたのに、「さようなら」だなんて言ってしまって、余計にその気持ちを重苦しく感じてしまうたまきなのであった。
そもそも、罪悪感と言えば、「たまきは間違ったことをしている」というゆうべからの悩みが、ずっとたまきの心にのしかかっているのだった。そこに新たに罪を増やしてしまったから、余計に重く感じる。
昔、たまきがお姉ちゃんと遊んだパズルゲームが、なんかそんな感じだった。相手に攻撃されると、石がずどんと降ってきて、どうやっても消せずにそのまま残り続けるのだ。たて続けに石を落とされると、画面が石で埋まってゲームオーバーになってしまう。そんな気分なのだ。
人は、罪を犯すことでしか生きていけないのだろうか、などと十六歳にしてはちょっと哲学的なことを考えながら、たまきはドアを開けた。
「……ただいまです」
「おかえりー」
と志保の声。
「おー、帰ったか」
と別の声。顔を上げてみると、志保と一緒に舞がお茶を飲んでいた。舞が「城」にいるのはさほど珍しいことではなく、三人の様子を見に、特に用事がなくてもたまにやってきて、お茶を飲んで帰るのだ。
たまきは舞に軽くお辞儀をすると、靴を脱いであがった。
「どうしたの、元気ないね」
と志保が言うが、これはいつもたまきが帰ってくるたびに言われている。もはや英語の授業の「ハウアーユー?」に近い定型文だ。この構文はたまきが、
「まあ」
と返事をするところまでがセットである。たまきがウキウキ気分で帰ってくることなど、三月に一回、あるかないかだ。
ソファに腰掛けたたまきは、テーブルの上にお菓子がおいてあるのを見た。
「広島で買ってきた、変わり種もみじ饅頭だ。チョコとかカスタードとかあるぞ」
「先生ね、仕事で瀬戸内海の方に行ってたんだって」
「瀬戸内の離島をまわって、医療事情を取材して周ってきたんだ」
「そうですか……」
たまきはお菓子には手を付けない。
「……なんか本当に元気ないね?」
「どれどれ?」
と言って舞は、たまきの額に手を当てる。
「うん、熱はないな」
「はい……。熱はないです……」
「いや、だから冗談だってば」
舞はそういうと、志保の方を見て笑った。
「で、若き哲学者殿は、今度はなにで悩んでるんだ?」
舞が冗談めかして言った。
「舞先生は……」
たまきは下を向いたままぽつりと言った。
「……自分のやってることが間違ってる、って思ったことはありますか?」
「なるほど。つまりお前は、自分が間違ったことをやってるって思って、悩んでるんだな」
たまきは無言で頷いた。
「どうしたの? 誰かに何か言われたの?」
志保の問いかけにたまきは答えない。まさか「あなたのカレシに言われました」なんて言えない。
「なるほどなるほど」
と舞は腕組みをした。
「そりゃあたしにだってあるさ。自分は間違ったことしてるなぁ、って思うことは」
「それは……どんな時でしょうか」
たまきはやっと、舞の顔を見た。
「どんな時って、そりゃお前、潰れたキャバクラに勝手に居座ってる野良猫どもの相手してる時だよ。大人として、こいつらを黙認してていいのか、親元に帰してやるのが常識ある大人のやることなんじゃないか、ってな」
それを聞いて、たまきは言葉に詰まってしまった。
「それで……、舞先生は結局どうし……」
「どうもこうもあるかよ。見ての通りだよ。スルーだよ、スルー」
そう言うと、舞は志保とたまきの顔を見る。
「どいつもこいつも、初めて会った時より少し表情が柔らかくなって、そんなの間近で見てたら、『お前ら家に帰れ』なんて言えるかよ」
舞はお菓子の箱から一つ、もみじ饅頭を取り出して、頬張り始めた。
「お前らが家賃払いたくないからここにいたい、ってだけだったら、あたしがとっくに警察呼んでるよ。でも、お前らは『ここにいたい』っていうよりは、『帰りたくない』ってタイプだろ? とにかく家に帰りたくなくて、そんなお前らの居場所がここだけだった、そういう事だろ? そんな奴らに『家に帰れ』とは言えねえぇよ。たとえ、大人として間違ってるといわれてもな」
『帰りたくない』、ふと、その言葉がたまきには引っかかった。
昨日、亜美に「間違ってるなら解散するか」と問われた時、たまきはそれだけは嫌だと思った。それは舞の言うとおり、とにかく家に帰りたくないからだろう。今朝から何度考えても、やっぱり答えは「帰りたくない」だ。
でも、それだけだったのだろうか。確かに、はじめは「家に帰りたくない」という一心で、この「城」にしがみついていたはずなのだが。
「でも、やっぱり私たちって、間違ってますよね……」
そういったのは志保だった。
「先生はいろんなこと考えて黙認してくれてるんでしょうけど、実際に不法占拠してる私たちって、やっぱりただのわがままなんじゃ……」
「そりゃ、そうだ」
そういいながら、舞は二つ目のまんじゅうを手に取ると、志保とたまきにも食べるように促した。二人もまんじゅうに手を伸ばす。
「でも、家には帰りたくない、だろ。たまきなんか、家に帰ったらすぐ死んじゃいそうだもんなぁ」
舞は冗談めかして言ったが、たまきにはどうにも冗談に聞こえない。
「自分たちが間違ってる、悪いことをしてる、ってわかってるなら、結構だ。その気持ち、忘れるんじゃないぞ」
「でも……」
たまきが口を開いた。
「間違ってることをしてるのに、そのまま何もしないのは、もやもやします……」
「そりゃそうだろ」
舞は手の中で、まんじゅうを包んでいたビニール袋をクシャクシャと丸めた。
「悪いことをしてりゃもやもやするのはしょうがないだろ。悪いことしてるのに、心はすっきりしたいだなんて、都合のいいこと言うんじゃないよ」
そう言って舞は、紅茶の入ったカップに口を付けた。
「ま、『自分は間違ってるんじゃないか』『自分が悪いんじゃないか』ってもやもやは大事にしとけよ。自分が正しんだ、自分は間違ってなんかないんだ、って思いこむ大人に限って、ただ単にそういった感覚を忘れてるだけだったりするからな」
舞はカップをテーブルに置く。
「ほんとはみんな、そんなもやもやを抱えて生きてるはずなのに、気づいてないふりしてるだけさ。お前らは間違ったことをしている。だけど、正しいことをすることができない。だったら、そのもやもやをしっかりと感じながら、生きていくしかないだろ。そしていつか、自分たちの間違いの始末を、きっちり付けられる大人になることだな」
そこに、ドアが開いて亜美が入ってきた。
「あれ? 先生来てたんだ?」
亜美の声を聴いた途端、たまきはなんだか自分がそこにいてはいけないような気がして、慌てて立ち上がった。
「あ、あの、私、屋上にいます……!」
そういうとたまきは、亜美とは目を合わせることなく、亜美の脇をすり抜けて、「城」から出ていった。
「たま……」
と亜美が言いかけたが、扉が閉まると、その声も聞こえなくなった。
屋上からたまきは歓楽街を眺める。ここからは、歓楽街の街並みも、駅前のデパートも、線路の向こうの都庁も見える。ここに立つと、この街のすべてを掌握してるかのような錯覚と、世界中のだれからも見つからないように隠れ住んでいるという実感が、同時に襲ってくるのだから、不思議だ。
結局、たまきの中のもやもやとした罪悪感は、消えることがなかった。
それもそのはずだ。家出とか、不法占拠とかは、どうあがいても正当化できないのだ。そうである以上、「たまきがしていることは間違っている」というのは、動かしがたい事実なのだ。罪悪感を感じない方が、狂っているのだ。
きっとたまきみたいな不良品は、この先もこんなもやもやをいっぱい抱えて生きていくんだろう。それは罪悪感だけじゃない。劣等感、屈辱、嫉妬、焦燥、不安、憂欝、孤独……。他人と自分を比べ、現実に見下され、その度にみじめな思いをして、いろんなもやもやを抱えて生きていくのだろう。積み重なったみじめな思いを、神様がパン祭りのお皿と交換してくれるわけでもない。積み重なったみじめさなんて、何の役にも立たない。
「生きているという事は、ただそれだけで素晴らしい」というけれども、ただただみじめな思いを重ねるだけの人生でも、それでも生きることは素晴らしいのだろうか。
もしかしたら、たまきが今まで言葉には出せずに、手首から血を出して訴えていたのは、このことだったのかもしれない。みじめな思いを積み重ねるだけの人生でも、生きていく意味なんてあるのか、と。
そして、そんなまさに血を吐くような問いかけに、答えてくれた大人はいなかった。
やっぱり学校は、本当に大切なことに限って、教えてくれないのだ。
つづく
次回 第31話「桜、ところにより全力疾走」
お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。