たまきと亜美が出会ってから約一年、たまき、初めての○○! 「あしなれ」第40話スタート!
歓楽街の神社のところで大通りを渡り、南へ行く。デパートのわきを抜けると、大きな画材屋さんがある。
その画材屋さんのわきの路地裏に、多くのラクガキがひしめいている。
たまきはスケッチブックを買った帰りに、そこをのぞき込んでいた。もっとも、ここにラクガキがいっぱいあると知っててのぞいたのではない。ちょうどここに自販機がいっぱいあるので、なにかペットボトルでも、とのぞいてみたところ、ラクガキをたくさん見つけたのだ。
とたんにたまきは自販機そっちのけで、例の鳥のラクガキを探し始めた。
狭い路地を行ったり来たりして、時にはぴょんぴょん飛び跳ねて、探す。建物と建物の隙間を見つけたら、顔を近づけて探す。
そうやって何分も何分もかけて探したけれど、見つけることはできなかった。
たまきは、ため息をついた。
鳥のラクガキを探し始めてからというもの、一か月でほどでたまきは三十個近くのラクガキを見つけ出した。
こんなに次々と見つけられるなんて、これはもしやギネスも狙えるんじゃないか、などと考えたりもした。ギネスにはたまにすごくくだらない世界記録がある。だったら、「鳥のラクガキ探し世界一」があってもいいだろう。たまきだって人生で一度くらいは何かの世界一になってみたい。
ところが、それからぷっつりと発見が止まってしまったのだ。最後の発見から十日間、全く見つけられていない。
ビルの隙間に顔を突っ込み、屋上に目を凝らし、「立ち入り禁止」と書かれた金網があれば向こう側をのぞき込む。前に探したところでも、新たに描きこまれているかもと、もう一度探してみる。それでもさっぱり見つからない。
見つけたラクガキのうちのいくつかは歓楽街から離れたところにあった。そんなラクガキがほかにもないかと「遠征」することも考えてみたけれど、一人で電車に乗って知らない街に行ったら、帰ってこれる気がしない。誰かを誘おうにも、亜美はこんなこと絶対興味ないだろうし、志保は最近新しくバイトを始めたらしくいろいろ忙しそうだ。
もう一度だけ、ラクガキがないか裏路地を探してみた。ほかのラクガキはいっぱいあるのに、あの鳥のラクガキだけが見つからない。
代わりに張り紙があるのを見つけた。
『落書き厳禁! 迷惑してます!』
志保が言ってた通り、やっぱりラクガキは迷惑なことらしい。ラクガキをきれいに消すのにはうんとお金がかかるという。そんな迷惑なラクガキを探し回っているたまきの行動も、やっぱり迷惑なことなのだろうか。
たまきは『城』に帰るべく歓楽街に向かってとぼとぼと歩き出した。
鳥のラクガキはすべて同じ人が描いた、とたまきは思っている。お絵かき好きのカンだ。そして、お絵かき好きだからこうも思う。
どうして、その人は新作を描かないんだろう。
お絵かき好きだったら、新しい絵を描きたいはずだ。たまきがスケッチブックを新調してでも新しい絵が描きたいように。その人だってお絵かき好きなら新しい絵を描きたいはずだ。
もっとも、このラクガキの場合、絵のデザイン自体はほとんど変化がない。いつも同じ、白い鳥が羽ばたく姿を描いている。
だけど、描かれる場所が毎回違う。作者の人はきっと、「なにを描いたか」よりも「どこに描いたか」の方を重視しているのだろう。作者の人にとって、ビルの壁とか、貯水タンクとか、陸橋の橋げたとかは、絵の背景であり、額縁であり、むしろ主役なのかもしれない。
とにかく、お絵かき好きならば新作を描きたいはずだ。だけど、少なくともたまきの目には、どれも最近描かれたようには見えないのだ。中には劣化がかなり激しく、明らかに何年か経過してるものもある。
帰り道でたまきは、カレー屋さんの隙間の室外機をのぞき込む。だけどやっぱり、鳥のラクガキは見つからない。
「ただいまです……」
たまきが『城』のドアを押し開けた。
部屋の中からは、バンとかドカンとかピコーンといった音が聞こえる。志保はバイトでいないはずだから、おおかた亜美がゲームでもやってるのだろう。
部屋の中に入ってみると、案の定、亜美がソファの上に胡坐をかき、コントローラーを握りしめ、テレビ画面をにらみつけて、ピコピコやっていた。テーブルの上にはゲーム機。亜美が中古で買ってきたやつだ。
「あー、くそっ! 殺す! ぶち殺す! 死ね! 死ね!」
亜美は画面をにらみつけながら、日常生活ではとても言わなそうな過激な言葉を吐き散らかす。いや、亜美なら日ごろから言ってるかもしれない。
「ああ、たまき、おかえり」
亜美は画面から目を離すことなく言った。
「あ、ちょ、ちょっと待て、おい!」
亜美が突如声を張り上げたのでたまきはビクッとなったけど、亜美は相変わらず画面から目を離さない。
「待て待て待て待て、おい、ふざけんなよ! あ~!」
亜美がコントローラーを投げだした。コントローラーは宙を舞ってソファの上に落ちた。
画面にはゲームオーバーの文字。まあ、画面を見なくても何が起きたかさすがのたまきにもわかってはいたが。
どうやら二世代前の格闘ゲームをやっていたらしい。亜美はそういった一昔前のゲームを中古でよく買ってくる。今のゲームと比べるとだいぶ画面は粗いし、できることも限られるけど、その分安くお店で買えるので、万が一「クソゲー」を買ってしまっても、あまり財布は痛くならずに済む。だから、よくわからないゲームでもとりあえず試しで買ってみることができる。万が一つまらなくても、数百円の損でしかない。
画面はいわゆる「セレクト画面」に切り替わり、モニターからは懐かしのファミコン音楽が流れている。亜美は床に無造作の置かれた段ボール箱の中から、ごそごそと何かを取り出した。
ゲームのコントローラーだ。二本目となるコントローラーを、亜美はゲーム機につなげる。
「よし、たまき、おまえもやるか?」
その質問をする前にコントローラーをつなげたということは、暗に「やれ」と言っているようなものだ。
「お前も変なラクガキなんて探して外うろついてないで、たまにはまったりイエでゲームでもしたらどうだ?」
いつもは「ひきこもってないで、外で遊んできなさい!」と言ってるくせに。
まあ、バーだのクラブだのに連れまわされるのに比べれば、ゲームはだいぶ抵抗が少ない。たまきは亜美の隣にちょこんと座ると、コントローラーを握った。
「いいか、必殺技の時はちゃんと技の名前を叫ぶんだぞ。そうすれば……」
「ダメージが三倍になるんですよね」
たぶん、そんなギミックのゲームはまだ開発されていない、とたまきはうすうすわかっていたけど。
たまきの操る女性キャラの体力ゲージがじりじりと減っていく。これで三回戦目。ここまでは操作に不慣れなたまきの二連敗だ。操作に不慣れだからと言って亜美が手加減するなんてことはない。
三回戦目にして、だいぶたまきのキャラの動きもスムーズになった。それでもまだ、意味もなくぴょこぴょこ飛び跳ねたりと、無駄なモーションが多い。
「はあっはっはー。小学生の時コイツを極めたウチに挑もうなんて、百年早いんじゃ、ぼけぇ!」
誘ったのはそっちじゃないか、とたまきは思ったけど、特に何も言わない。
「くらえ、爆裂ストレート!」
亜美の叫びとともに、亜美が操る男性キャラの必殺技が発動した。真っ赤な炎を纏うエフェクトで、パンチがたまきのキャラに迫る。ちなみに、技名がホントにそんな名前なのかはたまきには確認する術がない。
たまきのキャラのゲージはもはや三分の一ほど。この必殺技で勝利を確信した亜美。だが、たまきのキャラは絶妙なタイミングでしゃがみ、必殺技は空振りに終わった。
「なにぃ? そんなバカな! おのれぇ!」
亜美がマンガの悪役のようなセリフを吐く。
亜美は技の名前を叫びながら、必殺技に必要なコマンドを入力しているのだ。そのタイミングでよければいいということぐらい、いいかげんたまきでもわかるのだ。
画面をにらみつける亜美を横目に、たまきは頑張って一個だけ覚えた必殺技のコマンドを入力する。もちろん、無言で。
画面に必殺技の発動シーンが現れる。
「させるかぁ!」
回避しようとジャンプの黄色いボタンを亜美は押す。だけど、このゲームの仕様では、必殺技の発動シーンが流れたら、もう何を入力しても受け付けてくれないのだ。回避したかったら発動シーンが流れる直前に動く必要がある。たとえば、相手が技の名前を叫びながらコマンド入力を始めたタイミングで、とか。
たまきのキャラの華麗なるキックが炸裂した。何発も連続して相手に叩き込む技だ。
「おい! ジャンプだっつってんだろ! おい!」
亜美が無意味にボタンを連打するも、技の発動中では受け付けない。そもそも、攻撃されてから回避しようとしたって遅いのだ。亜美はこのゲームを小学生の時に極めたんじゃなかったのか。
亜美のキャラの体力ゲージが、三割ほど吹っ飛んだ。残りは半分ほどだ。これで、勝負はまだわからなくなった。必殺技のゲージはお互いにすっからかん。
「ちっ、なんでこんなにゲージ少ねぇんだよ」
それはもちろん、必殺技を放った直後だからだ。相手に何度か攻撃を当てないとゲージはたまらない。
最初に亜美が二連勝するものの、その後たまきが二回連続で勝ち、負けず嫌いの亜美がそのあと一勝した。ここまでで亜美の三勝二敗だ。
そこでやめておけばよかったものの、勝利に気を大きくした亜美が「よし、もっかいやろうぜ」と再戦を申し込んだところ、今度はたまきが勝った。
ここで引き下がればよかったものの、「次はぜってー勝つ!」と往生際の悪い亜美が再戦を申し込む。ところが、これまたたまきの勝利で終わり、これで四勝三敗でたまきの勝ち越し。二度目の二連敗がこたえたらしく、亜美はとうとうコントローラーを投げ捨てた。
「おまえさ」
亜美がゲーム機からカセットを引っこ抜きながら言った。
「もしかしてこのゲーム、やったことある?」
「……まあ、ちょっとだけ。……お姉ちゃんが持ってたんです」
「どーりで、おかしいと思ったよ。操作に慣れるのやけに早いし、足払いとか妙な技知ってるし」
亜美としてはゲームセンターの楽しさを理解しないたまきにゲームで負けたというのが納得いかない。憎らし気な目でたまきをにらみつける。
「なに、笑ってんだよ」
「だって私、勝ちましたから」
「おまえ、ボウリングに行ったときも、ゲーセンに行ったときも、ぜんっぜん笑わなかったのに、なんでウチに格ゲーで勝った時だけ笑ってんだよ!」
「……だって私、勝ちましたから」
「つーかおまえ、ゲームやったことあるんだ」
「……私のこと、何だと思ってたんですか」
別にたまきは江戸時代からタイムスリップしてきたわけではない。れっきとした現代っ子である。まあ、一般的な現代っ子と比べると、ゲームへの関心も、やった回数も少ないんだろうけど、それでもちょっとぐらいやったことはあるのだ。
「え、ほかなんかやったことある? 」
「えっと……」
たまきはおぼろげな記憶をたどる。
「なんかその、お城があって……」
「城が出てくるゲームなんていっぱいあるぞ」
「その、悪いやつが出てきて、戦って……」
「いや、だいたいのゲームがそうだよ」
「えっと……空が青くて……」
「空なんか世界中どこ行っても青いだろ」
「えっとえっと……その……さんディーっていうんですか? 奥行きがあって……、そうだ、お城の中に絵が飾ってあって、そこからいろんな世界に行けるんですよ」
「ははーん」
亜美はようやく、ゲームの見当がついた。
「そりゃ、ロクヨンだな、たぶん」
「ロク……?」
「友達が持ってて、ウチも結構やったよ。あれだろ、ステージの中に隠されたスターを集めて回るんだろ?」
「そうだった気が……」
たまきの記憶の底から、鮮やかなゲーム画面の記憶がよみがえってきた。
「ウチも思い出してきたぞ。タワーの上とかさ、火山の中とか、洞窟の底とか、いろんなとこにスターが隠してあんだよ。でさ、ムズいワザとかマスターしねぇと、そこいけねぇんだよ」
「たぶん、それです」
「ふーん」
亜美はゲーム機を段ボールの中にしまった。
「一年も一緒にいるのに、そんな話したのはじめてだな」
「え……」
たまきは、キッチンにある小さな窓の方を見た。
今は六月の初め。亜美と出会ってこの『城』に棲みつくようになってから、もうすぐ一年が経とうとしている。
「そっかー、もう一年になるかー」
と亜美。「もう一年」なのか「やっと一年」なのか、たまきにはちょっと判断がつかない。
「お前、この一年でさ」
「はい……?」
「カレシできた?」
たまきは答えない。
「沈黙ということは……イエスか」
「ノーですよ」
今度は間髪入れずに返した。
たまきは天井を見上げた。
この一年で、自分は何か変わったのだろうか。たまきを取り巻く環境は少しずつ変わってきているのかもしれない。だけど、たまき自身は何か変わったのだろうか。相変わらず、学校にも仕事にもいかず、ひきこもっているだけではないか。この『城』の中にいれば友達がいる。それはたまきにとってこの上ない進歩だ。だけど、そこから一歩外に出れば、どこにも行くところがない。
たまきには、この街で暮らしているという感覚が、いまだにない。
そんなことを考えていると、玄関のドアが開いた。
「ただいま~」
志保が帰ってきた。今日はどこかで新しいバイトをしていたはずだ。
「おかえりー」
「おかえりです……」
「あ、たまきちゃん、いた」
志保は靴を脱ぐと、まずキッチンによって手を洗ってから、たまきの方に近づいてきた。
「たまきちゃんさ、バイトする気ない?」
「……え?」
天井を見つめていたたまきは、驚いて顔を志保の方に向けた。勢いよく首を動かしたた目にメガネが少しずれてしまっているが、たまきは気づかない。
「お、何だ? たまきにバイト? おもしろそーじゃん」
驚きと戸惑いで固まってしまったたまきの代わりに、亜美が身を乗り出す。
「どんなバイト? ウチもやってみたい!」
「亜美ちゃんはダメ」
「なんでだよ!」
「ダメっていうより、ムリ」
「あ、あの……」
たまきが言葉を挟み込む。
「亜美さんじゃダメだったりムリだったりするバイトを、私に、ですか?」
「そ。たまきちゃんじゃないとダメなの」
そう言って志保は優しく微笑んだ。
時間を少し戻して二時間ほど前。時間は午後の二時ごろ。場所は志保のバイト先である、行信寺の境内である。
今日はお葬式があるわけではなく、寺の掃除が志保の主な仕事だ。箒でさっさと落ち葉を掃いている。
「志保ちゃん」
住職に声をかけられて、志保は振り向いた。寺の敷地にある墓地の中から、住職が手招きをしている。
「ちょっと来てくれるかしら」
「はい」
志保が近くまで来たのを確認すると、住職は墓地の奥にある裏門にむかって歩き出した。志保も後をついていく。
「志保ちゃんはさ、絵って得意?」
「絵、ですか?」
志保の絵は別に上手くも下手でもない。ノートの片隅にちょっとしたラクガキが描ける程度だ。
「別に、フツーだと思いますけど……」
そうこうしてるうちに、裏門を抜けて道路へと出る。
墓地の周りは高いブロック塀で囲まれている。ふつうの家の塀よりもかなり高い。おそらく、お墓が見えないようにという配慮のためだろう。
ブロック塀は、スプレーなどで描かれた落書きで、ほとんどびっしり埋まっていた。文字なのか、記号なのか、落書きの上に落書きを重ねられているので、何を描いたかもう判別不能というものがほとんどだ。
「うわぁ……、すごいですね……」
「まあ、アタシは別に好きに描けば? って思ってるんだけどねぇ」
住職の方はさほど気にしていないらしい。
「でも、今この町内で落書きに対して厳しく取り締まっていこう、ってことになってるのよ。そうなると、ほかのお店やビルが頑張って落書き対策してる中で、ウチだけ落書きを野放しにしておくわけにはいかないのよ」
「じゃあ、この落書きを消すってことですか?」
「それも考えたんだけどね、消してもどうせまた落書きされるだけみたいなのよ」
「……そうですよね」
「でね、こういうのは落書きを消すんじゃなくて、上から新しくきれいな絵を描くってやり方が効果あるみたいなの」
「あ、わかります。よく線路の下とかに絵が飾ってあったり、ペンキでカワイイ絵が描いてあったりしますよね」
「そうそう。それでね、ウチもせっかくお寺なんだから、なんか仏教画みたいなのでも描いてみたらどうかしら、と思ったのよ。仏様の絵をね、なんかこう、親しみやすい感じで」
そこで住職は肩をすくめてみせる。
「思ったんだけどね、アタシ、絵は全然ダメなのよ」
「そうなんですか」
「絵筆をゴシゴシやってるとね、つい力が入りすぎて、絵筆がバキッて折れちゃうの」
それは「絵が下手」というのとは少し話が違う気がする。そもそも、絵筆ってそんな簡単に折れるモノなのだろうか。あと、絵筆を動かす擬音が「ゴシゴシ」と歯ブラシみたいなものであってるのだろうか。
「それでね、志保ちゃんに頼めないかなと思ったんだけど……」
「あたしですか? ム、ムリですよ」
クマさんやウサギさんを描けというなら志保の画力でもなんとかなるかもしれないけど、仏像さんを描くとなるとさすがに無理である。
「志保ちゃんの周りでやってくれそうな人いないかしら。たとえば、いつも通ってる施設の人とか、別のバイト先の喫茶店だっけ?の人とか」
「し、知りませんよ」
志保の通う施設では、絵画を使った治療法は行っていない。施設の人の画力なんて知らない。ましてや、バイト先の人の画力なんてもっとわからない。カレシの田代の画力だって知らないのだ。
「それか、不法占拠してるビルの友達とか……、あらいけない。道端でする話じゃないわね」
そう言って住職は口に手を当てたのだが、志保は
「それだったら……一人……心当たりが……」
と答えていた。
「そ、それで……私なんですか?」
「だってたまきちゃん、絵が上手いじゃん」
「好きですけど……上手いかどうかは……」
たまきは志保から目をそらした。
「それに私、仏教画とかわかんないし……」
「そーだよ、たまきにはムリだぜ」
と口を出してきたのは亜美である。
「こいつにホトケサマなんて描けるわけないだろ。そのつもりで描いても、いつの間にか恐怖の大魔王になってしまいました、ってのがオチだろ」
たまきは無言で頷く。悔しいけれど、たぶん、その通りなのだ。
「だいたいさ、大丈夫なのか、その寺って」
「失礼だなぁ。あたしのバイト先だよ?」
と志保が口をとがらせる。
「だってさ、その寺の坊さんってのが、キャラが濃すぎて何が何だか。坊さんで、オネェキャラで、おまけにコワモテの大男って、何個属性あんだよ。多すぎるだろ。ポケモンだってタイプは二つまでだろ。情報多すぎて全然イメージがわかねぇんだよ」
「知らないし」
ふつうは、情報は多い方がイメージがわきやすいのではないだろうか。
志保はたまきの方を向いた。
「仏教画だなんて堅く考えなくていいんだよ。住職さんは親しみやすくって言ってたから、なんかこう、ほにゃーっとした、もにゃーっとした絵の感じで」
志保は両手を広げながら言った。だが、志保の言い方は漠然としていてあまりイメージがわかない。
たまきは志保を見るでもなく、亜美を見るでもなく、テーブルの上に置かれた水色の置時計を見ていた。なんだか、長身が逆回転を始めたかのような錯覚を覚える。それでいて、秒針はいつもより早く動いているような気もする。
「ラクガキの上から……」
たまきは呪文を唱えるようにつぶやいた。
「私……その……やってみます……」
という声は、音楽で言うところのデクレッシエンド、つまり語尾になるほど音が小さく、聞き取りづらかった。
「え?」
「その……バイト……やります」
たまきの答えは亜美にとって、そしてバイトに誘った志保にとっても意外だったらしく、目をぱちくりしている。
「おい、たまき、イヤならイヤってはっきり言っていいんだぜ」
「ちょっと、なんであたしがたまきちゃんに無理強いしてるみたいな言い方するの?」
「あ、あの、私、やります……! やってみたいです……!」
たまきは教室の一年生のように、勢いよく手を挙げた。
「それじゃ、住職さんに電話しておくね」
「でもさおまえ、前に先生に面接の練習してもらった時、ダメダメだったろ。大丈夫なのかよ」
と亜美が、自分は舞にブチギレられて履歴書をゴミ箱に叩き込まれたことを、それこそ記憶ごとゴミ箱に放り込んだかのような口ぶりで言う。
「そ、それは……」
と不安げに志保を見るたまき。
「うーん、面接なんてあるのかなぁ。そもそも、あたしも面接してもらってないし」
「あ、あの、そんなに絵が上手じゃなくてもいいんですよね……」
「大丈夫。ほにゃーっと、もにゃーっと、描けばいいんだよ」
「ほにゃーっと、もにゃーっと……」
たまきはそれこそ念仏のように唱えた。
たまきが志保に連れられて行信寺に行ったのは、それから幾日か経ってだった。天気予報では九州が梅雨入りしたとか言ってたけど、東京はまだからりと晴れている。
墓地にある裏口から二人は境内へと入る。
住職からは「履歴書はいらないけど、描いた絵があるなら持ってきてほしい」と言われたので、リュックサックにいつもののスケッチブックが入っている。もっとも、学校に行かず仕事もせず、公園で絵を描いていることしかしてないたまきにとっては、このスケッチブックこそが履歴書なのかもしれない。
墓地を抜けたところで住職が待っていた。なるほど、話に聞く通り、いかつい顔をした大男だ。だけど、住職はニコニコと笑顔で待ってていたため、怖い印象を受けない。
あれっ、とたまきは思った。なんかこの人に見覚えがある。どこかで会ったりしていただろうか。だけど住職が、
「はじめまして」
とあいさつしたので、たまきはそれ以上考えることはやめた。
「住職の知念です。あなたがたまきちゃんね」
たまきは無言で頷く。
「あらあら、かわいい子じゃない」
ここでもまた、クラゲのかわいいだろうか。
たまきの顔に浮かんだ不安の色を察したのか、住職は口に手を当てた。
「あらやだ。最近じゃそういうのってセクハラになっちゃうのよね。ごめんなさいね。嫌だわぁ、アタシったら」
たまきは、志保の半歩後ろに下がり少しだけ志保の体で身を隠すように立つと、志保の服のすそを軽くつかんだ。それを見て住職はまた困ったような笑みを見せる。
「そうよねぇ。こんなデカいおじさんがオカマ口調でしゃべってたら、怖いわよねぇ。いいのよ気にしなくて。アタシは慣れてるし、その反応の方が普通だもの」
違うのだ。たまきはオネェキャラだからだとかコワモテだからだとかではなく、初対面の人間には誰に対してもこうなのだ。そのたまきの態度がどうやらいらぬ誤解を与えてしまったらしい。
「それで、住職さん」
と切り出したのは志保である。
「たまきちゃんのバイトの件なんですけど……」
「そうそう。お仕事の内容はもう聞いてるわよね」
「え、えっと……」
たまきが口をパクパクしながら不安げに志保を見る。
「あ、はい。説明しました。さっき入ってきた裏口の壁に落書きがいっぱいあったでしょ? あの上から新しく絵を描く仕事。大丈夫だよね、たまきちゃん」
たまきは無言でうなずく。
「大丈夫みたいです」
「たまきちゃんは絵が好きなんだって?」
「えっと……その……」
「中学のとき美術部だったんだよね? それで今でも好きでよく描いてて」
志保が代わりに答える。
「これまでにバイトの経験はあるのかしら?」
「その……えっと……」
「今回が初めて、だよね?」
「……です」
腹話術の人形みたいに口をパクパクさせるたまきを住職は微笑みながら見ていた。
「じゃあ、絵を持ってきてくれてるのよね。見せていただこうかしら」
たまきはリュックからスケッチブックを取り出すと、いちど志保を見て、志保が頷くのを見てから、住職に渡した。
住職はスケッチブックをめくると、驚いたように眉を引き上げた。驚きの理由は想像がつく。「まさかこんな画風とは」と言ったところだろうか。
「なるほどなるほど」
と、住職はスケッチブックをめくりながら一人うなずく。
「それでお仕事の内容なんだけどね、まず、どんな絵を描くか簡単なスケッチを作ってもらうわ。そうね、ちょうどこんな感じで、鉛筆で描いてもらう形で。アタシが大まかなイメージを伝えてそれを絵にしてもらう形になるけど、まあ、絵の技術的なこととかはたまきちゃんにお任せするわ。必要な機材はアタシの方で手配しておくけど、アタシも美術には疎いから、そういうことも含めていろいろと打ち合わせしないといけないわね。もうじき梅雨が来るから、その間にそういうことは済ませちゃいましょう。梅雨が明けたら、作業に取り掛かってもらうわ」
「あの……その……えっと……」
たまきはまたしても不安げに口をパクパクさせる。それを見た志保が何かを察したのか口を開いた。
「あ、あの、住職さん。バイト代ってどんな感じですか?」
「そうそう、その話もしなくちゃね」
と住職は話し始めた。たまきは志保の横で
「あの、その、ちがう……」
とごもごも言っていた。
「こんな感じで大丈夫かしら?」
「たまきちゃん、バイト代、今の話で大丈夫?」
「え、えっと、その……」
「うん、初めてだからよくわかんないよね。まあでも、妥当な金額だと思うよ。っていうか、あたしより多いんじゃないかな」
「えっとえっと……」
たまきはそれとは違うことがさっきから聞きたいのに、志保はなかなか翻訳してくれない。そこでたまきは腹をくくった。これは、自分がちゃんと日本語でしゃべるしかないんだ、と。
「あ、あの、私って、採用なんでしょうか……」
住職は最初、きょとんとしていた。なにせ住職はこの時初めて、「あの」とか「えっと」以外の、ちゃんとしたたまきの声を聴いたのである。最初誰がしゃべってるのかわからなかったのだ。
少し間をおいてから、住職は
「もちろんよ。あなた、なかなかいい絵を描くじゃない。声もカワイイし。もっと自信もっていいわよ」
と言ってから、
「あらヤダ、今のもセクハラになっちゃうのよね」
とひとり呟いた。
たまきと志保は改めて住職に連れられて、裏の通りのブロック塀の前に立った。スプレーでのラクガキが所せましに描かれて、何が何だかわからない。
「まずはこの壁一面を青いペンキか何かで塗りつぶして、その上から絵を描いてもらおうかと思ってるの」
と住職が言う。
たまきは視線を壁のあちこちに走らせていた。
もちろん、ここに例の鳥のラクガキがないかを探すためだ。だが、あまりに多くのラクガキが入り乱れているので、一瞥しただけではあるかどうかわからない。
それでも、こういう場所に引き寄せられたということは、やっぱりあの鳥のラクガキが自分を呼んでるんじゃないか、たまきにはなんとなくそう思えるのだった。
つづく
次回 第41話「ローラーのちハケ、ところにより筆」
ついにたまきのバイト生活が始まる! 続きはこちら!