「青」がつく地名は死者を葬る場所だった? 書評「『青』の民俗学」

『青』はもともと墓地や葬送を意味する言葉だった! というのが筒井功氏の2015年の著作「『青』の民俗学 地名と葬制」の趣旨だ。これまで、「青は死の色である」といったイメージはなかったが、もし本当にそうだったらオモシロいぞ、と思って読んでみたのだ。


「青」の民俗学

「青はもともと、墓地や葬送を意味する言葉だった!」というのは、筒井氏の発見ではない。本書ではまず、この主張の歴史を振り返っている。

「青の民俗学」を最初に主張したのは、20世紀初頭の沖縄の民俗学者・仲松弥秀だ。沖縄に「オウ」と呼ばれる死者を葬る島があり、この「オウ」は古くは「アフ」や「アオ」と呼ばれていた。

「アオ」はときに「アワ」「アハ」「オウ」「オオ」と変化する、というのが本書の大きな主張の一つだ。

とはいえ、仲松の説はほとんど注目されなかった。「青=死」をイメージさせる言葉がほとんどないため、沖縄で死者を葬る島が「オウ、かつてはアオと呼ばれていた」と言っても、「それは沖縄だけの話じゃないの?」「沖縄の言葉でいう『アオ』と日本語の『アオ』は別物なんじゃないの?」とスルーされてきたわけだ。

その後、民俗学者の谷川健一が注目するものの、深い論証にいたっていない。

そして2015年、筒井氏が「もう一度、青に注目を」と本書を出版したわけだ。

「青」ってどんな色?

本書の大きな欠陥の一つは、「青がどんな色か」という定義を、後半に持ってきてしまったことだと思う。「青は墓場」というのであれば、まず最初に「青がどんな色か」を定義するべきだと思う。

さて、「青」とはどんな色だろう?

「青がどんな色かって? そんなの、こういう色に決まってんだろ!」

それぞれ色の濃さが違うが、現代で「青」と言ったらこういう「ブルー」を指す。

ところが、昔の「青」はもっと広く、

こういう「グリーン」も青と呼んでいた。

「いやいや、グリーンは緑でしょ?」と思うかもしれない。

だが、われわれが「青信号」と呼んでいるものは実は「グリーン」である。普段「青信号」と呼んでいるから、ついついブルーだと思ってしまうが、街に出て青信号と、ブルーなもの、グリーンなものをよく見比べてみれば、あの信号が実は「グリーン信号」であることがわかるはずだ。

また、野菜のことを「青果」と呼び、野菜を売っている場所を「青果市場」と呼ぶが、青果市場でグリーンな野菜はよく見かけるが、ブルーな野菜はほとんど見ない。そもそも、ブルーな野菜なんてまずそうだ。

さらに、植物が生い茂っていることを「青々と」なんて表現する。もちろん、ブルーな植物が生い茂っているのではなく、グリーンな植物が生い茂っているのである。

本書によると、「青」はブルーだけでなくグリーン、さらに時にはブラックやホワイトを指すこともあったという。「黒と白の中間を指す、幅広い色」という意味だったらしい。

このことから筒井氏は「青はもともと『どちらにも属さない』と言いう意味で、そのためあの世にもこの世にも属さない『墓所』を意味した」と主張している(本書の191ページ)。

だが、「幅広い色」は別に青に限った話ではない。

赤も実は、幅広い。

たとえば、十円玉にも使われている銅を古くは「アカガネ」と言った。だが、現代人の色彩感覚でいえば、十円玉は「ブラウン」だ。

日本各地に生息している狐を「アカギツネ」と呼ぶが、これまたブラウン、もしくはオレンジである。

青だけでなく、「赤」も「幅広い色」だったのである。なのに青だけ「どちらにも属さない=あの世でもこの世でもない」と解釈するのには無理がある。

昔は今のように色の名前が細かく分かれてはいなかった。赤、青、黄、黒、白の五色くらいしかなく、グリーンも「青」と呼ばれ、ブラウンも「赤」と呼ばれた。それしか色の名前がなかったのだからしょうがない。

赤は「明るき」が語源と見て間違いないだろう。黒も「暗き」が語源としか思えない。

白は「白き」が語源で、これは「はっきりしている」という意味があるという。

こうやって見ていくと、色の名前は明度と密接なかかわりがあることがわかる。

では、「青」の語源とは何か。

青の語源ははっきりとわかってはいない。

だが、僕は「青」の語源は「淡い」ではないかと思っている。

「アオ」と「アワ」という言葉は密接なかかわりがある。これは本書で筒井氏が繰り返し述べていることだ。

「淡い色」、すなわち、「はっきりしない色」。

赤が「暖色系の、明るき色」であるのならば、青はその対比として単に「寒色系の、はっきりしない色」を指していたと思われる。

少なくとも「どちらにも属さない色」ではない。青はレッドやイエローに比べれば「薄暗くてはっきりしない色、単に明度の問題だと思う。

「青」のつく地名

さて、本書は「青は葬送を意味していた」という証拠として、「青」がつく地名を上げている。逆に言うと、「地名しか残っていない」と筒井氏も認めている。

筒井氏は「青」がつく地名をいくつか紹介し、それが古墳や墓地、葬送とゆかりのある場所であったと論証していく。

青がつく地名に死者が葬られることが多かった、というのは僕も否定しない。

だが、それって当たり前のことなんじゃないだろうか。

死者をどこに埋葬するかだが、集落のど真ん中に埋葬することはあまりない。古くは死者の埋葬を「野辺送り」と呼んだ。「野辺」つまり、集落から少し離れた原っぱに埋葬していたのだ。

逆に言うと、「木々が青々と生い茂っている場所」は、集落から離れ、人があまり寄り付かない場所である。死者の埋葬地としてうってつけだったともいえる。

また、こういう経験がないだろうか。久々にお墓参りに行ったら雑草が「青々と」生い茂っていて、お墓参りはまず、草をむしって除草剤を撒くことから始まる、なんて経験が。

ふと周りを見渡すと、自分の家の墓の3倍は雑草が「青々と」生い茂っている墓があり、「もう何年もだれも来てないんだろうなぁ。かわいそうに」と思った経験はないだろうか。

そう、お墓は放っておくと雑草が「青々と」生い茂ってしまうのだ。なぜなら、お墓は普段から人が寄り付くような場所ではないから。

さらに、かつての日本は両墓制をとっている場所が多かった。両墓制とは、死者を埋葬した場所と、お参りするお墓が別々の場所に置かれることを言う。お墓参りに行くも実はそのお墓に故人は埋葬されておらず、別の場所にほかの個人とまとめて埋葬されている。

名曲「千の風になって」は「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」という出だしで始まるが、かつての日本はリアルに「墓に私はいません」だったのだ。

墓と埋葬地が別々。墓の方にはお盆やお彼岸になるとお参りに行くが、埋葬地の方は誰かを埋葬するときぐらいしか用はない。当然、草木が「青々と」生い茂っていたと考えられる。

何が言いたいのかというと、筒井氏の言う通り「青は葬送を意味する言葉⇒葬送の場所に『青』という地名が付いた」ではなく、「まず、葬送の場所があった⇒人が寄り付かず、草木が青々と生い茂っていた⇒『青』という地名が付いた」ではないだろうか。

「青は葬送を意味する言葉だった」というのは突飛な説である。何せ、現代の日本語に、それを証明できる証拠がほとんど残っていない。

一方、「死者を青々と草木が生い茂る場所に葬っていた」というのは、自然な発想ではないだろうか。何せ、墓場のことを「草葉の陰」というくらいだ。昔は今よりももっと集落の規模が小さく、集落を出れば、そこは荒れ野原、雑木林、山の中と、木が青々と生い茂る場所だった。そこに死者を葬った。人が寄り付かない場所だから、ますます青々と生い茂ったままとなった。

それだけの話なのではないだろうか。

本書の35ページでは、「青木」という地名に対して、「キ」は「人造の構造物」を表す場所であって、「アオキ」は「墓地」を意味するところであるとしている。筒井氏は「青木の由来について『木が青々と茂っていたところの意』といった説明を見るが、私には馬鹿げた解釈としか思えない」と書いているが、何を持って「馬鹿げた解釈」なのかは書かれていないし、馬鹿げていようが「青木は木が青々と生い茂っていた」という自然な解釈が一番可能性が高いんじゃないかと思う。

死者を葬る島、青島

本書では全国の「青島」と呼ばれる島も検証している。

本書では16個の「青島」が紹介されているが、そのうち葬送と関係があるとはっきりわかるのは4つに過ぎない。

……何とも言えない数字だ。

直接葬送と関係ない島でも、対岸に古墳があるというパターンがいくつかある。

筒井氏はそれを「はじめは葬送の島だった⇒葬送の場所が聖地に変わり、古墳が作られないようになった⇒聖地である『青島』が見える対岸に古墳を作った」と解釈している。

だが、筒井氏は本書の中で「死を穢れと認識するようになったのは中世以降」と述べている。古墳とは一般的に3~7世紀につくられたものだから、多くの古墳は死をケガレだととらえる前に作られたことになる。だとすると、「葬送の地が聖地になったから、古墳を作るのが避けられるようになった」という説明は矛盾している。聖地だとしても、死をケガレととらえる前の時代なのであれば、古墳を聖地に作ろうが問題はないはずだ。

かつては「海上他界」と言って、遥か海の向こうのニライカナイといった別世界に死者の霊は行くものだと考えられていた。

だとすると、古墳が青島の対岸に作られたというよりは、単に異界である海が見える場所につくられただけで、たまたま邪魔なところに「青島」があるだけなんじゃないだろうか。それがまるで「青島を仰ぎ見るために古墳を作った」ように見えているだけではないだろうか。

ちなみに、どの島も木々が青々と生い茂っている。まあ、たいていの島はそうなのだろうが。

「大島」も「青島」?

また、本書では「アオ」と「オオ」は非常に近い言葉であるとし、「青島」だけでなく「大島」も葬送の地ではないかとしている。

とはいえ、本当にバカでかくて「大島」と呼ばれる島もあるだろうからそれは除外し、「小さいのに大島」となっている島のみをピックアップしている。

だが、これにも異論が残る。

「小さいのに大島」というのがあくまでも筒井氏の主観でしかないところだ。

飛行機や新幹線でいろんな島を見比べることができる現代人と、その島しか知らない村人の「大きい島」の基準が同じとは限らない。

また、「アオ」が「オオ」に変わりうるからと言って、「大」ではない「オオ」がじゃあ全部「アオ」だとは言い切れないだろう。別の意味の「オオ」である可能性もあるし、「オウ」が変化した可能性、さらには「オ」が変化した可能性もある。僕は「御島」、すなわち「オシマ」が「オオシマ」に変化した、というのが一番自然だと考えている。


どんなに突飛な説であろうと、それがその現象を説明する唯一の説であるならば、どんなに突飛であっても、それが真実に一番近い。

一方で、もっと単純な説でも、もっと自然な考え方でも十分に説明できる、そういった説を否定できないのであれば、「突飛な説」がどれだけもっともらしいことを言おうとも、残念ながらそれは「突飛な説」の領域を出ないのである。

ちなみに、我が家の近くにも「青」とつく地名がある。実際に足を運んでみたが、住宅街の中に今なお原っぱが残り、草が青々と茂っていた。ちなみに、そこから川を渡って反対側、さらに街道も越えたところ、青とは全然関係ないところに古墳がある。地名としては青とは全然関係ないが、古墳には木々が青々と茂っている。

新宿と上野が「カオスの街」となった理由

なぜ、外国人街と風俗店街は隣り合ってるのか? これまで新宿と上野を舞台になんと3回に分けてその理由を考察してきたが、ついに最終回である。なぜ、新宿と上野だけが「カオスの街」となったのか。そのカギを握るのは、民俗学で言うところの「境界」なのではないだろうか。


これまでのあらすじ

きっかけは、西川口のチャイナタウンに行った時だった。チャイナタウンと風俗店街が隣り合っている風景を見ているうちに、外国人街と風俗店という組み合わせは多いのではないか、と考えるようになった。

東京では、新宿と上野がそうだろう。

新宿は日本最大の歓楽街・歌舞伎町があり、歌舞伎町から道路を挟んで反対側は、やっぱり東京最大のコリアンタウン、新大久保だ。

上野はアメ横内にアジアの料理を出す屋台が多い。アメ横の周辺には「キムチ横丁」をはじめとした韓国料理屋が多い一方で、風俗店街も多い。

そのすぐ北にはラブホテルが密集する鶯谷がある。さらにその北にはやはり在日コリアンが多く住む三河島がある。

外国人街と、風俗店街は確かに密接な距離にあるのだ。

その歴史をたどると、戦後の闇市の時代に行き着く。

闇市の時代では、テキヤをはじめとするアウトロー集団や、第三国人と呼ばれる在日アジア人たちが力を持っていた。

本来、アウトローはやはり町で大きな力を持つことも、外国人が日本で土地を取得して町を形成することも、難しい。だが、闇市の時代はあらゆる秩序が崩壊し、それが可能だったのだ。

こうして、闇市の時代に新宿や上野では外国人街や風俗店街へと移り変わる土壌が出来上がる。それまでの常識や秩序が崩壊し、権力の外にいたアウトローや外国人が、闇市の時代に力を手に入れたのだ。

だが、ここで疑問が一つ残る。

闇市の時代に外国人やアウトローが力を持つ。

これは何も、新宿と上野に限った話ではない。

東京のいたるところに闇市が立ち、どこの闇市でも大体状況は同じだったはずである。

だが、今、東京でも風俗店街や外国人街が密集しているのは、新宿と上野くらいである。

ほかの町では、闇市の時代に一時的に彼らが力を持とうとも、警察機能や地権者が力を取り戻すにつれ、その影響力は失われていったはずである。

だが、新宿と上野はそうはならなかった。形を変えて、外国人街や風俗店街は生き残っていったのだ。

なぜ、新宿と上野だけなのだろうか。ほかの街とは何が違ったのだろうか。

そのカギを握るのが、「境界」という言葉である。

境界がカオスをはぐくんだ

境界。すなわち、どこかとどこかの境目。

身近な境界では、敷地と公道の境目とか、自分の土地とよその土地の境目とか、県境とか、国境とか、とにかく、どこかとどこかの境目である。

民俗学の世界では、この境界はなかなか興味深い場所だ。

いまでこそ、県境はただの「行政区分の変わり目」程度の存在でしかない。

しかし、かつては「村境」というと、「この世とあの世の境」のような扱いだった。

村の外には山や森、人の住まぬ荒れ野原などが広がり、そこには妖怪や幽霊がいると信じられていた。

村の外は人の住まない世界、異界だったのである。

村人たちは、そういった村の外から魔物のようなよくないものがやってくると信じていた。

だから、村境に庚申塚のような魔よけの石仏を置いて、魔物の侵入を防いでいたのだ。

また、神社やお寺は、村と山の境目に作られることが多い。

村は人が住むところ、山は獣や物の怪の住む異界。その境目に、人が神や霊と接する場所である寺や神社を作るのだ。

それは、何も小さな村だけの話ではない。大きな都市も同じである。

たとえば、古都・鎌倉を見てみると、鶴岡八幡宮をはじめとして、多くの寺社仏閣が山沿いに建てられている。

境界から向こう側は、村の常識や秩序が通用しない、カオスな異界なのである。

さて、日本において「外国人街」は異質な存在である。また、都市部においても「風俗店街」は秩序から外れた異質な存在だ。

しかし、こういった街は、客商売をしている店が多く、都市から離れすぎると人が来なくなり、街が成り立たない。

都市の真ん中にあるには異質すぎる。だが、都市の外側では街そのものが成り立たない。

だから、都市の中と外の境界にできる。

境界には、都市の秩序や常識から外れたものをはぐくむ力が、「カオスをはぐくむ力」があるといってもいい。

実際、村境には寺や神社、魔よけなど、村の中の理から外れた、人の世ならざるものと交流できる場所として機能してきた。

怪談話や怪奇現象が起きるのも、決まってこの境界部分である。

では、「東京の境界」とはどこだろうか。

東京の境界はどこだ?

東京の境界? そんなの、東京と他県の県境に決まってるだろう。荒川とか、江戸川とか、多摩川とかを指すのだ。

と思ったあなた、それは「東京都の境界」である。

そうではなく、「都市としての東京の境界」、すなわち、『東京における、都市部と郊外との境界』はどこなのだろうか。

「ここだ!」という明確な答えはないのかもしれない。「ここからこっちが都市部で、ここからこっちが郊外です」という明確なラインはないからだ。

だが、それを探す手がかりがある。

それが「江戸の境界」である。

江戸の町というのは、今の東京都と比べると、かなり小規模だった。東京23区よりも小さい。

その境界は、東は錦糸町のあたり、西は新宿、南は品川、北は千住と言われていた。

南千住には「泪橋」という橋がある。あしたのジョーが丹下段平と出会った場所として有名だが、この泪橋とは処刑場跡地でもある。罪人はこの橋を渡って処刑場へと向かう。そして、この橋が家族との最後の別れの場所でもあり、家族は涙を流して見送ったため、どこの町でも処刑場へと続く橋は「泪橋」というのだ。

死のケガレと密接にかかわる処刑場は都市の真ん中には作れない。かといって、都市から離れすぎたら不便だ。そのため、都市の境界に作られた。

さらに、南千住は江戸最大の遊郭、吉原とも近い。境界がカオスをはぐくむというのなら、江戸の北の境界に、江戸最大のカオス、吉原があるのも納得だ。

一方、品川は江戸の南の玄関口だ。つい最近、品川と田町の間の新駅の名前が「高輪ゲートウェイ」だと発表され、「くそだせぇ!」と話題になったが、この「ゲートウェイ」は江戸の入り口だったことが由来だという。

江戸時代、品川は宿場町だった。日本橋から出発する東海道、最初の宿場町である。

江戸を出ていくものからすればまさしく江戸の出口だったし、江戸に向かうものからすればまさしく江戸の入り口である。

さて、この品川の宿場は飯盛り女がいたことで有名である。

飯盛り女とは、超簡単に言えば、娼婦だ。

品川もまた、境界であるが故のカオスを持っていたのだ。

ちなみに、終戦直後、日本にやってきた米兵を性的な意味で接待するためのRAAという施設が作られたが、その第一号ができたのも品川、大森海岸だった。

西の境界線、新宿も同様である。甲州街道の宿場町であり、やはり新宿にも飯盛り女がいた。今でも墓が残っている。

新宿も境界であるがゆえ、寺が多い。

新宿は世界一の乗降者数を誇る駅である。それは、新宿駅の改札をくぐる人が多いだけでなく、新宿で乗り換える人が多いことも意味する。郊外から都市部へと通勤通学する人たちが新宿駅で乗り換える。都市部から郊外へと出ていく人が新宿駅で乗り換える。今も新宿は東京の境界にある街なのだ。

では、上野はどうなのだろうか。江戸の境界が千住だというのなら、上野は境界ではないことになる。

だが、上野には寛永寺がある。寛永寺は江戸城の鬼門に作られ、江戸を霊的な力で守る役目を背負っている。そのすぐ北には谷中墓地があり、広大な墓場が広がっている。

上野もまた、この世ならざるものと接触できる「境界」だったのだ。

江戸の都市全体としての境界は千住だったが、都市の中でもさらに中心部と下町に分かれる。その境目こそが上野だったのではないか。

江戸が終わり東京になると、上野は境界としてさらなる役目を背負う。上野は、東北方面へと向かう列車の始発駅であり、「北の玄関口」と呼ばれていた。

終戦直後には郊外へ食糧を調達しに行った人が、上野で検閲に引っかかって没収された。この時代もやはり、上野は境界の街だったのである。


境界には、カオスをはぐくむ力がある。

かつては、幽霊や妖怪、神様のような人ならざる者、この世ならざる者との接点が境界だった。

今では「境界の向こうにはお化けが住んでいる」などと信じる人は少ないだろう。

だが、境界には風俗街のようなアウトローな街ができたり、コリアタウンのような外国との接点が生まれたりする。

それは、都市の一部でありながら、都市の常識や秩序に縛られない、境界の持つ「カオスをはぐくむ力」があるが故である。

境界には、カオスをはぐくむ何かがある。

サンカ備忘録

ここ最近、日本のいわゆる「常民」の外にいた人たちに関心があり、特に「サンカ」にまつわる本をいろいろと読んだ。しかし、ネット上にはまだまだ、虚実織り交ぜのサンカ像が書かれている。そこで、今回は自分の備忘録も兼ねて、サンカに関して「確実に言えること」を残しておこうと思う。

サンカとは何ぞや

サンカとは何か。それを今から書こうというわけだが、まずざっくりと書くとこうなる。

日本人は一つのところに住んでいる人が大多数だ。お金がなくてホームレスになる人もいれば、お金がありすぎて別荘を持つ人もいるが、基本は一つの家に住んでいる。「定住」というやつだ。

一方で、一つのところに定住せず、あちこち移動する「漂泊の民」と呼ばれる人がいる。有名なのがモンゴルの遊牧民だろう。ヨーロッパだとジプシー、アラブだとベドウィンと、漂泊の民は世界中にいる。

そして、日本にもいた。それが「サンカ」である。

「山窩」という字を当てられることもあるが、埼玉県中部のような一体どこに山があるのだろうと思われるところにも彼らはいた。

サンカの語源は諸説あるが、僕は「さかのもの」が変化して「さかんもん」、さらには「さんかもん」へと転じていったという説が一番有力かな、と思う。平地に住む者に対して「坂に住むもの」という意味だと考えれば、すごく自然だと思う。

ちなみにサンカは「ミナオシ」や「テンバ」、「ポン」とも呼ばれるらしい。

サンカと三角寛

サンカに関しての研究は小説家の三角寛の研究が一番詳しいとされてきた。割と最近までは。

しかし、彼の研究は複数の研究者から「ほぼすべてが捏造」だと批判されている。ためしに、ウィキペディアの「サンカ」のページの三角にまつわる項目を見てみると、

サンカに関する一般的な知識は、三角寛の創作によるところが大きい。

そのほとんどが三角による完全な創作と言うべきものだったことが、現在では確定している。

さらにウィキペディアの「三角寛」のページを見ても

三角による山窩(サンカ)に関する研究は、現在でも多くの研究者が資料とするところだが、実は彼の創作である部分がほとんどであり、小説家としての評価は別として、学問的価値は低い。これはその後、多くの研究者により虚偽であることが証明された。よって、三角によるサンカ資料は、三角自身による創作小説と見るのが適当である。

とまあ、「ほぼすべてが捏造」と書かれている。三角の親族ですらそれを認めるほどだ。

厄介なのが、サンカについて調べれば、必ず三角の捏造にぶち当たらざるを得ない、ということだ。

ネット上を調べても、三角の著作が捏造だということを知らないのか、それとも三角は捏造をしていないと信じているのか、三角の提唱するサンカ観を疑いなく乗っけているページがある。ネイ○ーとか。せめて「彼の研究には批判の声も多い」ぐらい書いておいてほしいものだ。

これまでのサンカのイメージ

というわけで、まずは三角の捏造が明らかになる以前のサンカのイメージについて簡単に記しておこうと思う。もしあなたが抱いているサンカのイメージがこれと合致していたら、ちょっと調べ直した方がいい。

・全国規模の組織を持ち、日本中のサンカを傘下に収める大親分が存在する。

・独自の掟を持ち、逆らったものには処刑をも辞さない

・独自の隠語があり、さらに「サンカ文字」という独自の文字を持つ

・犯罪者集団である。

これらは、現在では「三角による創作の可能性が限りなく高すぎて泣きたいレベル」と言われている。要は、捏造されたイメージだとして扱われている。

最後の「犯罪集団」というのは三角の創作ではなく、戦前の警察機構がサンカに抱いていたイメージだと言われている。

確かに、定住者の世界で犯罪を犯して追われたものがサンカに受け入れられるということはあったと思われる。

ただ、「サンカが犯罪性の高い集団」と断定することはできないだろう。僕は、サンカと定住者の数少ない接点の一つが泥棒や博打などの犯罪行為だったために、そういったイメージがついただけではないかと思う。

以下、三角の研究(捏造?)によらず、他の研究者の研究をもとに、ほぼ確実に事実だと言えるサンカの実態について書いていく。

サンカとは何者か

サンカには大きく2パターンがある。

親の代からサンカだったものと、定住の世界からサンカへと移ったもの。

そう、親がサンカではなく、一般的な定住家庭に育った者でも、サンカに参加できたのだ。

彼らはいわゆる被差別民である。サンカの研究がなかなか難しいのは、彼ら自身がサンカであること、サンカの子孫であることを隠すためである。フィールドワークを行うには、話者との信頼関係が不可欠である。

サンカの家

サンカの家は「セブリ」と呼ばれる布製のテントのようなものだったり、「ワラホウデン」と呼ばれる掘立小屋だったりする。

どうも集団で住んでいたらしい。大阪の天王寺にはサンカと思われる集団がいたと言われているし、そのほかにもサンカのテント集落は存在していた。

サンカの行動範囲

漂泊の民、というと全国を転々としていたようにイメージするかもしれない。

しかし、さすがにそこまで行動範囲は広くないようだ。

おそらく、今の行政区分で言う市町村をいくつか周回する程度だったのではないかと思われる。

というのも、彼らにはそれぞれ仕事のお得意様がいて、そのお得意様のいるところを回って生計を立てていたらしいからである。見知らぬ土地に行くことはあまりなかったのではないだろうか。

行動範囲が全国規模でない以上、全国規模の組織があったとか、全国規模の親分がいたという三角の主張はちょっと考えづらい。

サンカの生業

では、サンカはどのような仕事をしていたのだろうか。

サンカが「ミナオシ」とも呼ばれているように、その多くは蓑や竹細工、箒などを作っていた。「ミナオシ」とは「蓑直し」の意味で、新しく蓑や竹細工を作って売るほかにも、古くなった道具を修理して生計を立てていた。

この技術というのは一朝一夕にできるものではない。定住者が蓑が壊れたからと自分で修理するのは難しい。また、定住者もサンカになれるとは書いたが、ミナオシの技術は元からサンカであるものとあとからサンカになるものではかなり差があったらしい。

こういった工芸のほかには、川で漁をするサンカもいる。また、芸を覚えて見せる者もいる。

さらに、サンカを「乞食」と呼ぶ地域があったことを考えると、いわゆる乞食のようなこともしていたのだろう。

サンカのまとめ

現在、サンカについて断定できることは次の通りだ。

・村には定住せず、移動生活を行っていた。

・いわゆる技術職であるものが多い。川での漁や、芸で生計を立てる者もいる。

・被差別民であった。

現段階で僕に断定できるのはこのくらいである。僕自身もまだまだ勉強中であり、この記事は僕の備忘録の意味合いもある。もし、「これは違うよ」というのがあったら修正したいので遠慮なくいってほしい。

僕の専門は集落や野仏である。そのため、サンカについて本格的に研究するつもりは今のところないが、日本の集落の成り立ちを研究するためにはサンカの存在は考慮しなければいけないだろう。これからもサンカに関する勉強は続けていきたいと思うし、可能ならばサンカの研究に参加していきたいと思う。

参考文献

礫川全次『サンカと説教強盗 闇と漂泊の民俗史』 批評社、1992年

筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』文春新書、2006年

筒井功『日本のアジールを探して -漂泊民の場所-』河出書房新社、2016年

八つ墓村フィールドワーク ~横溝正史も知らなかった民俗誌~

八つ墓村。言わずと知れた、横溝正史の探偵小説の題名であり、その舞台である。その八つ墓村という村を民俗学的に見ていくことで、民俗学の面白さを描く一方で小説「八つ墓村」の世界観がさらに深まるのではないかという試みだ。横溝正史すら知らなかったであろう八つ墓村の真実を、民俗学によって紐解いていこう。


注意!ここから先は、小説「八つ墓村」の結末を知っていることを前提として書いていきます。ネタバレしたくない人はここで引き返してください。

八つ墓村民俗誌

八つ墓村の生業

もちろん「八つ墓村」は横溝正史のフィクションである。

その一方、「八つ墓村」という小説は、寺田辰弥という青年の原稿を横溝正史が入手して世に発表した、という設定になっている。その設定にならい、ここから先は横溝正史を作者ではなく、八つ墓村という村の報告者として扱っていく。また、寺田辰弥も主人公ではなく報告者として扱う。

八つ墓村は岡山県にあり、鳥取県との県境にある山村だ。横溝は1945年から3年間岡山県倉敷市に疎開していたので、もしかしたら八つ墓村の近辺も訪れているかもしれない。

農耕地は少なく、気候の影響で作物が育ちにくいらしい。その一方、古くからナラやカシ、クヌギといった木材を使った炭焼きを生業としてきた。横溝は

この地方の楢炭と言えば、関西地方でも有名である。

と報告している。関西では広範囲に流通しているらしい。

近年では牛を育てている。「千屋牛」と呼ばれる岡山県特有の牛を飼っていることから、八つ墓村は岡山県北西部にあるということが推察できる。横溝の報告に

近所の新見で牛市が立つ

とあることから、新見市の経済圏に属していると推察される。

横溝の報告には「博労」という言葉が多く出てくる。これは「馬喰」とも書き、「バクロウ」と読む。

宮本常一の「土佐源氏」には高知のバクロウが登場する。村から村へと移動し、質の悪い牛を口先三寸で高く売り飛ばすため、あまりいい印象は持たれていなかったらしい。

炭にしろ、牛にしろ、よその村や町と交流を持って初めて生業として成り立つ。八つ墓村は山村であるが、決して孤立した閉鎖的な村ではなかったと言える。寺田の報告では、

麻呂尾寺というのは隣村になるが村境にあって、地形から言うと、むしろ八つ墓村に縁が深く、檀家もこちらの方が多かった。

と書かれているので、近隣との交流も多かったのではないだろうか。

八つ墓村の伝承

横溝は、八つ墓村という村名の由来としてある伝承を記述している。

永禄9年(1566年)、雲州富田譲の尼子義久の家臣である若武者と、七人の近習が山を越えて落ち武者として八つ墓村に逃れてきた。

村人は八人の落ち武者を歓待し、彼らは村人になじんで半年ほど炭焼きをしながら暮らしてい。しかし、彼らの持ち込んだ3千両の財宝に目がくらみ、名主の多治見庄佐衛門を中心とした一団が落ち武者たちを襲撃し、落ち武者たちを殺してしまった。ところが、その後財宝は見つからなかった。

その後、村で不審死が相次ぎ、とうとう多治見庄佐衛門が発狂して、村人を次々と切り殺して自害した。

その時の死者の数は庄左衛門を含めて八人いたことから、これは落ち武者のたたりに違いない、落ち武者が八人のいけにえを求めているのだとおそれられ、村人は落ち武者の墓を作って丁重に供養し、八つ墓明神なる社を作って祀った。

それ以来、この村を「八つ墓村」という。

「八つ墓村」という名前の疑問

奇妙な伝承である。

寺田の報告から、落ち武者の甲冑と、大量の小判が実際に確認されている。八つ墓村に落ち武者が財宝とともに逃れてきたのは事実なのだろう。

ただ、この伝承が本当なら、この事件、つまり1567年頃までこの村には名前がなかったか、別の名前があたたけどわざわざ「八つ墓村」という忌まわしい名前に変えた、ということになる。

一般的に地名とはイメージの良いものに変わっていく。世田谷の「九品仏」という町は、なんとも古臭い町名を捨て、「自由が丘」というきれいな名前になった。

わざわざ「八つ墓村」なんて言う名前に変えるだろうか。しかも、この村にとっては忌まわしい歴史のシンボルである。

人から「デブ」と呼ばれたからと言って、いっそ名前を「デブ」に改名してしまうようなものだ。そんな人はデーブ大久保ぐらいだろう。

デブくらいならまだ笑って「俺、デブだもん」で済ませられるが、村の忌まわしき歴史を示す「八つ墓」をわざわざ村名にするだろうか。

寺田の報告によると、八つ墓村は丘を登り墓地を越え、川沿いに200~300m歩いた先にある。村のシンボルとするには、少々村から外れていないだろうか。

「八つ墓村」という村名の不自然さはこれだけではない。

横溝は「一種異様な名前」と評しているが、「墓」という字はあまり地名では使わない。

もちろん、「墓」という字を使う地名はいくつかある。

「墓」地名:その1

「墓」地名:その2

これが「墓」地名のすべてとは限らないが、これを見る限り、東北から東海地方、京都にかけて多い。一方、瀬戸内海の方ではあまり見られない。

そして、「墓」を意味する言葉は「墓」だけではない。「塚」という字もまた墓を意味している。

なぜ、「八つ塚村」ではいけなかったのだろうか。寺田も実際に見た落ち武者の墓を「八つの塚」と表現している。

結論から言うと、本当にこの村が16世紀から「八つ墓村」と名乗るようになったというのは疑わしい。落ち武者伝説の生まれる以前から「八つ墓村」と名乗っていたのではないだろうか。

「八つ墓村」ではなく「ヤツハカ」

村名を考えるとき、漢字に囚われてはいけない。

まず、「ヤツハカ」という地名が先にあり、「八つ墓」という漢字を後から当てはめたと考えるべきだ。

この「ヤツハカ」という地名ができたのはいつか。

伝承によれば、落ち武者は村人に歓待されたというから、落ち武者が来る前にはすでに人が住みついていて、炭焼きをしていたと考えられる。

そもそも、農作業がままならない村にわざわざ16世紀になってよそから移住して村ができたとは考えづらい。もっと前からこの地に住んでいたと考えるべきだ。

つまり、もっと前からこの地には人が住んでいた。当然、村の名前ももっと前からあったはずだ。

もともと別の名前があったのにわざわざ「八つ墓」という忌まわしき名前に変えたとは考えづらい。

すなわち、もともとこの地は「ヤツハカ」と名乗り、そう呼ばれていた。落ち武者の八つの墓ができる前から。

じゃあ「ヤツハカ」とはいったい何を指しているのだろう。

「ヤ」は「谷」かもしれないし、「屋」かもしれないし、「矢」かもしれない。もちろん、「八」かもしれない。「ツ」は「ヤ」と「ハカ」をつなぐ音であろう。

問題は「ハカ」である。

もちろん、本当に墓を意味する言葉なのかもしれない。落ち武者の墓よりももっと古い墓があったのかもしれない。

一方で、「ハカ」は「ハク」、すなわち「吐く」が転じたものとも考えられる。

「吐く」という言葉が使われる地名は意外と多い。川の合流地に当たり、水害で濁流があふれ出た場所などにつけられることがある。

こういう地名を「災害地名」という。過去にこういう災害があったから気をつけろと、地名を通して警鐘を鳴らしているわけだ。

そして、八つ墓村には、鍾乳洞がある。

鍾乳洞の中には「鬼火の淵」という水場がある。そもそも鍾乳洞とは地下水が流れて生み出されるものなのだから、水場があるのは当然と言える。

そして、鍾乳洞の水場というのは大雨の際に氾濫して、地上へと流れ出る。近年では、岩手を代表する鍾乳洞・龍泉洞が水害で決壊し、洞窟の入り口から濁流があふれ出た。

さて、八つ墓村の鍾乳洞は村内の「バンカチ」と呼ばれる場所まで続き、そこに出口がある。

水害の時はそこからドクドクと水があふれ出たのではないだろうか。それこそ、水を「吐きだす」ように。それが、ヤツハカの「ハカ」の意味するところなのではないだろうか。

やがてそれが村はずれにある八つの塚と奇妙に符合し、「八つ墓村」という字があてられたのではなかろうか。

八つ墓村落ち武者伝説は事実なのか?

八つ墓村には確かに落ち武者がいた。それは寺田の報告から明らかである。

しかし、「多治見家がその落ち武者を殺した」という伝承は果たして事実なのだろうか。

もし、本当に落ち武者殺しがあったのだとしたら、落ち武者の霊を鎮める祭りがあってしかるべきではなかろうか。だが、寺田も横溝もそういった祭については一切言及していない。

八つ墓村の落ち武者伝説は、全国各地にある「六部殺し」の伝承によく似てる。

「こんな晩」とも呼ばれているこの伝承は、次の通りだ。

ある家の旅の六部がやってくる。家のものは六部を泊めるが、六部の持っていたお金に目がくらみ、六部を殺してしまう。

そのお金で家は裕福になった。子供も生まれたが、子供はどういうわけかいくつになっても口がきけない。

さて、ある晩に子供がむずがるので小便化と父親が子供を連れて外に出た。すると、初めて子供が口をきくのだ。

「おれが殺されたのも、ちょうどこんな晩だったな」

そう言って振り返る子供の顔は、殺された六部そっくりだった……。

これは全国各地にある伝承だ。八つ墓村の伝承と比べると、六部と落ち武者の違いこそあれ、「大金を持っていたために殺されてしまう」「のちに怪奇現象を引き起こす」という点で共通している。

八つ墓村の落ち武者伝説は、この六部殺しが変形したものではないだろうか。

なぜ、六部殺しなどという奇妙な伝承が生まれたのかというと、ねたみが根底にあるという説がある。

村の中で急に裕福になった家が出てくる。すると「あの家は何か悪いことをしてもうけたに違いない」というウワサが出てくる。やがてそれが「旅の六部を殺して……」なんて話になっていくわけだ。

寺田の報告によると、落ち武者殺しの首謀者とされる多治見家は今でも莫大な資産を保有しているらしい。落ち武者伝説はそんな多治見家への妬みから生まれたのかもしれない。普通は「六部殺し」になるところを、たまたま八つ墓村には落ち武者が逃げ延びていたから「落ち武者殺し」になったのだ。

さて、本当に落ち武者殺しはあったのか。ここで一つ、寺田が気になる報告をしている。

多治見家は代々、落ち武者の甲冑をお社に入れてご神体として祀っていたというのだ。

たたりをなす落ち武者の遺品を事件の首謀者がいつまでも取っておくだろうか。八つ墓明神に収めて供養してもらうのが普通だと思う。それをわざわざ屋敷の中で祀っていたというのならば、それは多治見家にとってたたりをなすものではなく、福をもたらすものだったのではないだろうか。

僕の推論はこうだ。八つ墓村に確かに落ち武者は来た。ただ、人数が八人だったかどうかはわからない。もっと少なかったかもしれない。

そして、落ち武者は殺されたのではない。多治見の娘と結婚し、多治見家と同化したのではないだろうか。

そして、多治見家は落ち武者のもたらした財産を使って裕福なった(寺田によると、落ち武者の財産はいくらか持ち出された可能性があるらしい)。

つまり、多治見家にとっては落ち武者は富をもたらした「マレビト」であると同時に、先祖でもある。だから、その甲冑を屋敷の中で祀っていたのではないか。

落ち武者の財産は鍾乳洞の奥に隠されていて、そこへ行くには「鬼火の淵」を渡らなければいけないのだが、八つ墓村には鬼火の淵から先には行ってはいけないという伝承が根強く残っている。

この「鬼火の淵の先に行ってはいけない」という伝承は、財宝を守るために多治見家が流したものではないだろうか。

じゃあ、寺田が確認した八つ墓明神の八つの塚はいったい誰のものなのだろうか。

寺田は墓碑銘に関しては一切言及していない。そのため、八つの塚が一体誰のものなのかはわからない。

本当に落ち武者のものかもしれないし、違う誰かかもしれない。落ち武者のものとして、殺されたのか自然死したのかはわからない。僕は自然死した後、村に富をもたらした者たちということで特別なところに祀られ、社が建てられたと考えている。

八つ墓村の歴史

すなわち、八つ墓村の歴史とは次のようなものだ。

「ヤツハカ」と呼ばれる村に永禄9年に落ち武者たちが逃れてきた。彼らは村に同化し、とくに落ち武者たちのリーダーは多治見家の娘と結婚した。

多治見家は落ち武者の財宝を使って裕福になった。そして、落ち武者に感謝の意味を込めて立派な社を作って祀ったのだ。

やがて時がたち、急速に裕福になった多治見家にも「六部殺し」のような噂が立ち始める。ただし、実際に落ち武者が村に来ていたことから、多治見家の場合は「六部殺し」ではなく「落ち武者殺し」となって、一連の伝承が生まれたのだ。

八つ墓村フィールドワークを終えて

さて、最後に言わなければならないことがある。

「八つ墓村」は横溝正史によるフィクションであり、「八つ墓村」などという村は存在しない!

ただ、民俗学という観点で「八つ墓村」を捕えていくと、世界観が深まるよ、という話だ。

横溝正史は3年間岡山県にいたから、実際に自分で見聞きした岡山の山村のようすが八つ墓村に活かされているのかもしれない。バクロウにまつわる民俗や終戦後の山村の様子なども克明に描かれていて、八つ墓村を終戦直後の民俗誌としてとらえてみてもなかなか面白い。

僕の遠野物語

大学時代の仲間と2泊3日で岩手県遠野市に行ってきた。旅の詳細はプライベートなことなので省くが、今回、「遠野は水害の多い土地だったのではないか?」という疑問の解消も旅の目的の一つだった。実際に遠野の町を回ってみると、水害だけでない様々なことが見えてきた。それは、遠野の人々の「ここで生きていこう」という、強い意志である。


遠野と河童と水害

以前、柳田國男の「遠野物語」について記事を書いた。

河童・天狗・狐…… 「遠野物語」から見えてくるもの

遠野には河童にまつわる話がいくつか伝わっている。カッパ・ザシキワラシ・オシラサマの3つが「遠野三大話」と呼ばれる遠野を代表する民話だ。

馬を水辺に置いておいたら、河童が引きずり込もうとした、という話が多く、どことなく「水の事故」を連想させる。

河童の話だけでなく、「水害がひどいので神様に祈ったら家の前にあった川が、朝になったらコースが変わってた」という民話もある。

だいたいは祈りをささげるときに「もし願いを聞き届けてくれたら、うちの娘をささげます」などと軽はずみに言ってしまい、「本当に願いがかなってしまった。どうしよう」と途方に暮れる話である。

このほかにも「水の事故」や「水害」をイメージさせる話は多く収録されている。

遠野はもしかしたら、水害の多い土地だったのではないか。今回の旅では、その仮説を確かめてみようと思った。

遠野の地名と水

遠野には旅の1日目の夜に入り、3日目の午後にSLに乗って遠野を離れた。今回の話は、いきなり3日目の話から入る。

3日目の午前中に、僕たちは市立博物館を訪れた。

外壁の写真でごめんね

ここで遠野の歴史について展示していた。まあ、どこの町の「市立博物館」も町の歴史についての展示をするのは当たり前だろう。

個々の展示によると、「トオ」という地名はアイヌ語で「湖」を意味していて、その昔、遠野は巨大な湖だったというのだ(諸説あり)。

「このように、遠野には『水』に関わる地名がたくさんあります」と書かれていたので、「あぶない地名 ―災害地名ハンドブック―」を片手に町の地名を見て回ったところ、確かに、水にまつわる地名が多い。

まず、博物館のすぐわきにある鍋倉城跡(まあ、規模的には博物館の方が城跡のわきにあるんだけど)。

鍋倉城跡の神社の石段から。遠野の町がよく見える。

この「ナベクラ」というのが、そもそも、水に関わる地名だ。

『ナベ』は川を意味し、『クラ』は「えぐる」を意味する。

遠野の城下町は早瀬川によって削られて生まれた地形ではないのだろうか。「ハヤセ」という川の名前も、流れが早そうなイメージだ。

ここから話は2日目に戻る。

2日目、僕たちは遠野の名所である「カッパ淵」を観光した。

この当たりの地名は「土淵」。

『ツチ』は「泥」を意味する。『フチ』がそのままの意味であるなら、かなり水が豊富だったのではないかと思われる。

実際、近くを猿ヶ石川が流れ、田んぼの用水路には勢いよく水が流れていた。

本当はカッパ淵の写真を載せたかったのだが、トリミング不可なところに友人が映りこんでしまったため断念。残念!

遠野と金毘羅大権現

このカッパ淵の近くで、こんな野仏を見つけた。

文政9年のもの。足元には庚申塚や、馬頭観音も埋まっている。

僕の地元、埼玉ではあまり見かけない野仏だ。

調べてみると、金毘羅大権現は水の神様で、主に海上交通の安全を祈って祀られるらしい。

当然だが、遠野に海はない。

だが、遠野ではこの「金毘羅大権現」を多く見かけた。遠野における水神信仰の一つの表れかもしれない。

ただ、実はこの金毘羅大権現は天狗の眷属であるとも言われ、天狗信仰の表れとも言われている、というか、遠野ではこっちの説の方が有力だ。「遠野物語」では里と天狗の交流の話も多く残っている。

遠野と災害

気を取り直して、遠野が水害が多かったのはどうやら事実のようだ。博物館の展示でも水害に言及していたし、遠野の社会科副読本WEB版「ふるさと遠野」でも「風水害が多い」と書かれている。

ただ、遠野市立博物館によると、春は水害が多いが、夏は例外で作物が育たず、秋は飢饉が多かったと書かれていた。踏んだり蹴ったりな土地である。

例えば、遠野の西部には五百羅漢がある。

岩に羅漢の絵が刻みつけられている

この五百羅漢は、江戸時代にたび重なった大飢饉の犠牲者を供養するために作られた。

先ほどの金毘羅大権現ももしかしたら、何かの災害の折に建てられたおかもしれない。少なくとも、巨大な意思に文字を刻み、それを縦に起こして地面に置くなど、かなりの労力を有することで、何か天狗に祈りたい理由があったと考えるのが自然だろう。

水害に冷害、飢饉と様々な災害に見舞われてきた遠野だが、「こんなところ嫌じゃ! 引っ越す!」とは簡単にいかない。かつて湖だったと言われる遠野は四方を山に囲まれ、「遠野物語」曰く狼や熊、天狗が現れる人外魔境。そんなに簡単に越えられるような山ではない。

確かに遠野は災害も多いが、平地が広がり、水も豊富。山の中よりもよほど暮らしやすい。

ここに住むしかないのだ。ここで生きていくのだ。

そうして何百年も人が辛抱強く住み続けた結果がこの風景である。

見渡す限りの田んぼである。城下は栄え、市が立てば千人もの人が集まったと言われている。そしてその城下を取り巻く広大な水田。遠野の人たちは災害に負けることなく辛抱強く、この地で生き続けたのだ。その記憶がカッパであり、金毘羅様であり、五百羅漢なのだ。

ムラとは、「ここで生きていこう」という強い意志の表れである。歴史に思いをはせるということは、すなわち、先人の意志に思いを重ねるということなんだと僕は思う。


参考文献

小川豊「あぶない地名 ―災害地名ハンドブック―」2012年 三一書房

河童・天狗・狐…… 「遠野物語」から見えてくるもの

このたび遠野に行くことになり、それに先立ち、柳田國男の「遠野物語」を読んでみた。これまで柳田は難しいからと敬遠していたが、いざ読んでみるとなかなかに面白い。河童で有名な遠野だが、「遠野物語」には河童のほかにもさまざまな民話が書かれていて、その背景にまで思いを巡らせるとさらに面白い。

「遠野物語」とクトゥルフ神話

遠野物語は1910年に出版された。日本民俗学の父・柳田國男が遠野の民俗学者・佐々木喜善から聞いた遠野の民話をまとめたものである。いわゆる昔話というのは意外と少なく、明治になってからの話や、3~4年前の話と前置きされているものも多い。昔話というよりは、学校の怪談のような噂話に近い。

中には、山のカミサマを馬鹿にした男が、四肢をもがれて死んでいた、なんておぞましい話もある。まるで、白昼のバクダッドで見えない怪物に八つ裂きにされて死んだ、アブドゥル・アルハザードだ。

このアルハザードとは、アメリカのホラー小説群「クトゥルフ神話」に出てくる架空の魔術師であるが、このクトゥルフ神話が誕生した時代が1920年代ごろなので、奇遇にも遠野物語と海を隔ててほぼ同時期に生まれたということになる。

ホラー小説家のラヴクラフトが新しい形の恐怖として、神が人間を無慈悲に踏みにじるクトゥルフ神話を創作したころ、日本では古くからある恐怖として同じタイプの話が伝わっていることが明らかになった。ラヴクラフトが想像した「新しい恐怖」とは、西洋では新しいものであったのかもしれないが、東洋では古くから身近なものだったのかもしれない。

柳田國男と、遠野物語と、山人

柳田國男は「山人」の研究に熱心だった。古くから村には住まず、山などで生活する漂泊の民を「サンカ」と呼んでいたが、それとは別に、柳田國男はいわゆる「日本人」とは別の民族が山の中で暮らしていると考えていたようだ。

今日では柳田の数ある功績の中でもこの山人についての研究だけは、「さすがに山人は迷信だろう」というのが一般的な見解だ。しかし、「遠野物語」では里のものとは顔つきが違う山男と遭遇した、はたまた、天狗と遭遇した、なんて話をよく見る。中には山の中で2m近い大男にあった、なんて話もある。

こういう話をいくつも見ると、「山人がいる!」とまではさすがに思わないが、柳田が「山の中には『日本人』とは違う山人がいるんだ」と胸をときめかせたのも不思議ではないな、と思う。

遠野物語の神隠し

遠野物語委は神隠しの話もいくつか収録されている。面白いのが、どれもふとした日常の中でふと若い娘が消えてしまうという話だ。そのまま見つからない話もあれば、山の中で山男の妻となっているのを見つけた、という話もある。

山男の妻の話がホントかどうかはわからないが、急に人が姿を消す、というのはよくある話だったのかもしれない。

昔の遠野は今よりさらに自然が豊かな場所だった。それだけ、足を滑らせて転落したり、獣に襲われたりと、危険も多かったということではないだろうか。

遠野物語と動物

遠野物語には動物にまつわる話も多く収録されている。狐に化かされたという話だったり、狼に襲われたという話だったり。熊の話なんかも多い。

天狗や神隠しに比べるとインパクトは小さいが、遠野の人々がどういう動物と共に暮らしていたかがよくわかる、貴重な史料だ。

遠野物語と河童

遠野と言ったら河童で有名だ。カッパ淵は遠野観光では欠かせない観光スポットだ。

「遠野物語」には河童が馬を川に引き込もうとしたという、水難事故を彷彿とさせる話が収録されている。このほかにも、河童は出てこないものの、水難事故や水害の類を彷彿とさせる話は多い。

遠野の町を地図で見てみると、猿ヶ石川が細かく分岐しているのがわかる。水害の多い土地だったのかもしれない。


民話のように、古から文字に頼らずに伝えられてきたものの背景にはその土地の歴史が隠されている。それを読み解くのが民俗学の役割である。現地に足を運べば、さらに多くのことがわかる。民俗学とは、五感をつかって歴史を紐解く学問なのだ。

線路という異界

最近、痴漢を疑われた人が線路に逃げ込む、というトラブルが多発している。こうも続くと、線路というのはそんなに逃げ込みたくなるのかと不思議に思う。もしや、線路というのは身近な異界なのではないか。そこで「異界」という概念から線路を見直してみたい。


線路とは異界である

地下鉄の駅で電車を待っていると、真っ暗な空間からぬうと電車が現れる。まるで、違う世界からやってきたかのようだ。

線路は街灯なんてものを必要としないので、夜の線路はまるで川のように真っ暗だ。

線路とは身近な異界なのかもしれない。

そう思って調べてみると、線路にまつわる怖い話というのはいくつもある。

とはいえ、パターンは大体一緒。目撃者は電車の運転手だ。

線路内に誰かいる⇒うわぁ、轢いちゃった⇒衝撃を感じる⇒けれども、死体も残っていないし、何の痕跡もない

というのが、線路の怖い話でよくあるパターンだ。

線路というのは、何か不思議なものがいてもおかしくない空間なのかもしれない。

そもそも、線路に限らず道というものは古くから異界とのつながりを示すものだった。三叉路は村の境界を意味し、ひいてはそれが異界との境界を意味した。

バスで遠出をしようと思ってバス停に立つと、見慣れた道が急にどこか遠くとつながる、非日常の場所に見えることがある。

ただ、バスが通る道は、歩行者も立ち入ることができる。車や自転車で走ることもできる。

でも、線路には立ち入れない。

それが、線路の非日常性を高める。

「STAND BY ME」という有名な映画がある。4人の少年が線路わきに死体があるという話を聞き、死体探しの冒険に出かける、という映画だ。線路を歩いて行った挙句、橋で機関車に追いかけられる、というのは有名なシーンだ。

この映画もまた、「線路の上を歩く」という、本来やっちゃいけないことをやっているから冒険心が高まるのかもしれない。

そう、線路には入っちゃいけないのだ。

かつての日本のムラにも、入っちゃいけない場所があった。山の上などは聖域とされ、しめ縄が張られ、神社が作られた。聖域に入っちゃいけない理由としては、「山の資源をとりつくさないため、入っちゃいけない場所を決めた」というものもある。

山には入っちゃいけない。だからこそ、山は聖域であり、異界だった。

同じことが線路にも言えるのではないだろうか。

どこか遠くにつながっている場所。にもかかわらず、入っちゃいけない場所。

線路には魔物が棲む

朝のラッシュ時に男が女性に腕をつかまれ、「この人、痴漢です!」と言われる。

その真偽は定かではない。だが、男がクロだろうがシロだろうが、考えることはいっしょだ。

「捕まるわけにはいかない!」

こうなった場合、「逃げる」というのは最悪の行為だ。逃げ切れずに捕まった際、かなり不利な状況になってしまう。冷静に、当番弁護士を呼ぶのが正しい。

しかし、パニックになった頭で「逃げる」という判断をした時、逃げる方向は大きく二つに分けられる。

すなわち、改札に向かって逃げるか、線路に降りて逃げるか。

普通に考えれば改札に向かって逃げるべきだ。人ごみに紛れられるし、人ごみが追手を阻んでくれることもある。

一方、線路に飛び降りるのは不利だ。とにかくだだっ広く、隠れる場所もない。おまけに、出口がどこにあるのかさっぱりわからない。

それでも多くの人が線路に逃げた、ということはやはり、パニックになった頭の中で、直感的に選んだ答えなのだろう。

追い詰められると、人はいかいに逃げ込みたくなるのではないか。そんな風に問いかけると、僕にも思い当たる節がある。

町中でよく見かけるピースボートのポスターだ。

普通の人から見れば町に無数にあるポスターの一つにすぎないが、閉塞感や絶望感を抱えた人が見ると、「地球一周の船旅」と書かれたポスターが冒険の扉に見えることがある。僕自身がそういう体験をしたし、他にもそんな体験をした人を知っている。

異国。何ともわかりやすい「異界」の例である。

地球一周とまでは行かなくても、通勤通学の駅で、ホームに入ってきた電車のいい先を見てふと、「このまま終点の知らない町まで行っちゃいたいな」と思ったことはないだろうか。「知らない町」というのもまた異界だ。それも、「終点」というのがいい。はるか遠くの知らない町、これはもう完全に「異界」である。

こういう想いを抱くときは大体、絶望的に会社/学校に行きたくないか、何となく行きたくないか。要は、閉塞感と絶望感である。

そういう人間がピースボートのポスターとか、海外青年協力隊のポスターとか、知らない町行きの電車を見た時、魅力とも魔力ともつかない不思議な力に引っ張られるような感覚に陥る。

異界には魔物が潜んでいるのだ。その魔物が、「そこにはいたくないもの」を見つけ、おいでおいでと手招きするのだ。

思うに、痴漢を疑われて線路に逃げ込んだ人々はみな、その魔物に引っ張られたのではないか。線路に潜む魔物に。

痴漢がばれて、もしくは、痴漢に間違われて極限状態の中、線路に目をやると、魔物が手招きするのだ。おいでおいでと。こっちに逃げちゃえよと。

異界には魔物が棲む。そのすべてが悪いものではないのだろう。しかし、線路に住む魔物は、あまり良いものではあるまい。

魔物に引っ張られないようにするには、とにかく冷静になることだ。痴漢に間違われたら弁護士を呼ぶといい。少なくとも、魔物よりは役に立つはずだ。

アニメ「サクラクエスト」から見る、今、町おこしが必要なあの町

我が家のテレビも東京MXが見れることがわかり、久々にいろいろアニメを見ている。その中で今期一番気になっているのが「サクラクエスト」というアニメだ。このサクラクエストは東京の大学生がとある田舎町の町おこしに携わる、というアニメなのだが、このアニメを見ていると今、町おこしが必要な町が見えてきた。


これまでの限界集落論

まずは、これまでの限界集落論について見ていこうと思う。

「限界集落」という言葉を提唱したのは、社会学者の大野晃氏である。定義としては、65歳以上の人が集落の半分を占め、特に一人暮らしの老人が多い。農地は荒れ果て、寄合や祭りなどは行われなくなり、ムラとしての機能を失いつつある集落である。

1980年代に提唱されたこの概念だが、ずいぶん人によって解釈に違いがあるようだ。

例えば、テレビ東京の特番などを見るとたまに、「限界集落の宿でのんびり過ごそう」みたいな企画があり、「限界」の意味わかってますか?と聞き返したくなる。

一方で、社会学者の山下祐介氏は、むしろ「限界集落」という単語が危機を煽る言葉として独り歩きしていると指摘する。「限界集落なんだから、この集落は問題があるに違いない」という論調が席巻しているらしい。

だが、山下氏は、実際の限界集落はメディアが煽るほど危機的状況ではないとしている。

「限界集落論」は「今目の前の危機を煽る」ものではなく、「いつか来るであろう危機への警告」だとしている。

そしてその「いつか来るであろう危機」に対して、集落自体が主体性を持って、②近隣の集落や都市を巻き込むことが大切だとしている。

特に、集落から都市へと移り住んでいった若い世代がカギを握っている。彼らも都市にずうっと住むつもりではなく、どこかに「いつかは帰りたい」という気持ちを抱いている。

そう言えば、僕の友人で地方移住をした人は多いし、地方出身者で大学は東京だったが、卒業後は地元に帰った友人も多い。

なぜだか、東京に人が根付かない。人は来るけど、根付かない。

さて、山下氏は、限界集落が問題なら、都市も問題があるはずと論じている。都市では生活上の問題が起きても、個人ではどうしようもない。東日本大震災の例を挙げて、都市での個人の無力さを描いている。限界集落同様、都市でもコミュニティが喪失していると論じている。

限界集落論で見逃されがちだが、問題があるのは田舎だけではなく、都市も同じなのだ。

東京と「木綿のハンカチーフ」

かつて、東京には人を引き付けて離さない「魔力」があった。

松本隆が作詞し、太田博美の代表曲となった「木綿のハンカチーフ」という歌がある。1975年に発売された歌だ。

構成が面白く、東京へと旅立った「僕」と、故郷に残した恋人の手紙のやり取りのように歌詞が進行していく。

1番では「僕」が進学か何かで東京へと旅立つ、列車の中の胸中がつづられている。都会で何か贈り物を探そうという「僕」に対し、恋人は「僕」が都会に染まらないことだけを願う。

2番では「僕」が東京に移り住み半年がたっている。「僕」は都会で流行りの指輪(都会って指輪が流行ってるの?)を恋人に贈る。それに対し恋人は、指輪よりも「僕」とのキスの方が煌くと返している。

3番では「僕」は見間違うようなスーツを着た写真を恋人に送っている。恋人のあか抜けない様子を懐かしむようでもあり、小ばかにしているようでもある。それに対し恋人は、スーツの「僕」より、田舎の純朴な青年だった「僕」が好きだったと返し、「僕」の体調を気にしている。

そして4番。「僕」こう歌っている。

「恋人よ、君を忘れて変わっていく僕を許して。毎日愉快に過ごす街角。僕は、僕は帰れない」

あまりにも身勝手な別れの言葉に恋人は、いや、元恋人は、最後に初めて贈り物をねだる。涙をふく木綿のハンカチーフをください、と。

はは~ん、女ができたな。

などとゲスな推測をする一方で、すごい引っかかるフレーズがある。

「毎日愉快に過ごす街角」だ。

果たして、今の東京で毎日愉快に過ごしている人など、どれくらいいるだろうか。満員電車に押しつぶされ、都会では四季の移ろいを感じられず、栄養ドリンクを流し込み日々を過ごす。それでもそれなりに楽しいこともあろうが、「毎日愉快」とまではいかないだろう。

そして、「僕」はこうまで言い切るのだ。「僕は帰れない」。

田舎は仕事がないから帰れないのではない。「毎日愉快だから帰れない」。

この歌が大ヒットをしたということは、この「僕」以外にも東京で毎日愉快に過ごしていた人がたくさんいた、ということではないだろうか。70年代の東京にはそれだけ、人を引き付けて離さない魔力があったのだ。しかし、今なお、その魔力はあるのだろうか。

アニメ「サクラクエスト」

さてさておまちかね。やっとこさ、サクラクエストの登場である。

物語のあらすじはこんな感じだ。

主人公は東京の短大に通う木春由之(こはるよしの)。就活で30社落ち、精神的にも落ちていたある日、とある手違いから縁もゆかりもない町「間野山」に1年間住みこんでアピールする「チュパカブラ王国・国王」という役職についてしまう。

「チュパカブラ王国」とは間野山にかつての文化創生事業で作られ、かつては10万人の観光客を集めたが、今は閑古鳥が鳴いている、いわゆる「ハコモノ」である。

はじめは東京に帰りたがっていた由乃だが、間野山の人たちと触れ合うにつれ、次第に真剣に「国王」としての仕事に打ち込むようになる。「町おこしに必要なのは、若者、馬鹿者、よそ者」というが、しかし、所詮はよそ者。そんな簡単にはいかない……。

実にリアルなアニメである。前番組が話題の異能系アニメ、後番組が老舗の魔法系アニメ(再放送)に挟まれいている中、実写でもよかったんじゃないかというくらい、リアル感が溢れている。特殊能力があるわけでもない、大事件が起きるわけでもない、普通の女の子の町おこし奮闘記である。

間野山のモデルは富山県南砺市だと言われている。車のナンバーは「富山」だし、作中では「だんない」という言葉が出てきて(どうやら「構わない」という意味らしい)、これは北陸の方の方言だそうだ。

作中の間野山は、田舎出身であるはずの由乃もびっくりするくらいの田舎である。駅前にはそこそこ大きな町があるが、シャッターが閉まっているお店も多い。郊外に出れば田んぼが無限に広がり、山が周囲を囲む。21時くらいに終電が終わる。

つまり、田舎である。

特産品は蕪(かぶら)。また、木彫り彫刻が文化財に指定されていて、よそからこの町に移りこんで修行する者も多い。

商工会の会長はかなり強引な性格で、「チュパカブラ王国」を使った町おこしに焼になっているが、周囲の反応はどこか冷ややかだ。

東京には何でもある?

このアニメには、東京から間野山に移り住んだ人や、東京から帰ってきた人が登場する。

まずは、主人公の由乃。彼女が間野山に来たのはとある手違いが原因で、当初は国王などやるつもりもなく東京に帰りたがっていた。

なぜそんなに東京に帰りたがるのかと聞かれると、「東京には何でもあります」。彼女自身、間野山と同じような田舎の出身らしく、母親から「就職できないなら帰ってくればいい」と言われても、「普通の田舎のおばさんなるのは嫌だ」と拒んでいる。

だが、「じゃあ、何でもある東京には具体的に何がるのか」という質問には言葉を詰まらせる。

サクラクエストの主要人物でもう一人、東京から移住してきた「よそ者」がいる。

由乃とともに町おこしをすることになった香月早苗(こうづきさなえ)は東京生まれ東京育ち。半年前に間野山に移住し、さも田舎暮らしを満喫しているかのようなブログを書いていたが、実際は誰とも交流がなく、古民家の虫に怯える日々。そんな中訪ねてきた由乃たちと町おこしをするようになる。

第4話では彼女の東京での暮らしが明かされる。残業続きの日々で体調を崩してしまうが、自分がいなくても仕事は代わりの誰かが入って回っていくことを知り、東京から逃げるようにしても間野山にやってきたのだという。

間野山出身で一度は東京に出ていったが、帰ってきたものもいる。

由乃とともに町おこしをする緑川真希(みどりかわまき)は女優を目指して東京に出たが、サスペンスドラマのちょい役しかできず、間野山に帰ってくる。地元ではその時出演した作品「おでん探偵」の名で有名だ(主役ではなくちょい役である)。第4話までではまだ、彼女の身の上はあまり明かされていないが、地元に帰ってきたものの実家には寄りつかず、由乃が止まっている宿舎?に勝手に管理人と名乗って住み着いている。

ここで、さっきの「木綿のハンカチーフ」を思い出してほしい。あのころの東京は、毎日愉快すぎてもう田舎には帰れない、そんな街だったのだ。

だが、サクラクエストで描かれている東京、21世紀の東京は少し違う。

確かに、由乃が言うとおり、東京には何でもある。コンビニ。居酒屋、ゲーセン、大学……。むしろ、多すぎるくらいだ。話題のパンケーキも食べれるし、日本初上陸のハンバーガーも、行列のできるラーメン屋もある。東京に憧れを抱き移り住む人も依然として多いのだろう。

一方で、就職先は決まらず、東京にこだわっていても、その理由がちゃんと答えられない。毎日仕事づめで体調を崩し、それでも社会は問題なく回っている。夢を追いかけるも、叶わない。毎日愉快どころか、出てくるのはため息ばかり。

東京に人を呼び寄せる「魅力」はいまだある。しかし、そこに留まらせ続ける「魔力」がもう、東京にはないのではないだろうか。

この記事のタイトルに書いた「今、町おこしが必要な町」。それはほかでもない、東京である。

東京は誰も待っていない。

東京は町である。そんなこと、いちいち言わなくてもわかっている。

わかっているのを承知であえて書くと、東京とは「首都圏」という日本最大の集落の中心部の名前である。

集落はふつう、「ムラ」と呼ばれる人が住む場所があり、その周りを「ノラ」と呼ばれる耕作地が囲んでいる。「ノラ」の周りを「ヤマ」が囲む。別にヤマは「山」である必要はなく、森でも川でも海でもいい。要は人の住まない自然だ。

少し集落が大きくなると、「ムラ」の中心にさらに「マチ」ができる。いわゆる、お店が立ち並ぶ場所だ。

この構図は、首都圏という集落にも面白いようにあてはまる。

まず、東京・横浜という巨大な町があり、その周囲に西東京、埼玉、千葉、神奈川、の住宅地が「ムラ」として存在する。

その周囲、北関東や埼玉北部、千葉頭部や神奈川西部には農村が広がる。これが「ノラ」だ。

そして、関東平野は周囲を「ヤマ」に囲まれている。箱根の山々、秩父、赤城山、日光の山々などなど。

東京は、日本一大きなマチなのだ。

「マチ」の語源は何かと問われたら、やっぱり「待ち」だろう。神社やお寺、宿場や港にお城など、人の集まるところに店を構え、客が来るのを「待ち」続ける場所。それが街であり、それが「僕」に「毎日愉快で帰れない」と言わしめた魔力だったのではないだろうか。

今の東京は、果たして来るものを「待って」いるのだろうか。

30社試験を受けても受からない。

夢を追いかけても叶わない。

体調を崩しても、どうせ代わりがいる。

一体、今の東京はいったい誰を待っているというのか。「日本の首都」という「魅力」にかまけ、ほっといてもどうせ人は東京にやってくると、どこか胡坐をかいているのではないだろうか。

限界集落をはじめとする田舎は、目に見えて人が少ないから問題と思われやすい。一方、東京はなまじ人が多いから、問題が発生していることを見過ごされやすいのではないだろうか。

3年後にはオリンピックだ。東京はいやでも世界中から注目を集め、ほっといても世界中から人はやってくるだろう。どうせ、ある程度経済は潤うはずだ。

世界規模での「呼び込み」には熱心な一方で、食を司る市場はトラブル続きで、保育園は足らない。満員電車は何かの格闘技じゃないかと勘繰るぐらい、体力を消耗する。

毎日愉快どころか、毎日不快だ。住んでいる人に全然やさしくない。だからイケダハヤト氏みたいに「まだ東京で消耗しているの?」などと言われるのだろう。

消耗するだけで、人を引きとどめる魔力がもうないのだ。「東京で生きていこう」と腹をくくらせるほどの力がもうないのだ。

これは、死活問題である、「集落」は「ここで生きていこう」という固い決意のもとに成り立つ。東京に住む人にその決意がないのであれば、やがてはすたれかねない。

それでも、東京は相変わらず莫大な人口を抱え、世界有数の都市なんだから、大丈夫だよ。そんな声もあると思う。

こう例えればわかってもらえるだろうか。行列ができるほど話題のお店で、確かにおいしいんだけど、一度行けばもういいかな、というお店。

それが、今の東京である。こんな店は、遅かれ早かれつぶれる。

また、東京を町おこしする、ということは、限界集落問題にもつながるはずだ。

人を引き付ける東京の魅力は田舎にはまねできない。しかし、人をその地に留まらせる暮らしやすさは、実は東京に限った話ではなく、田舎でも再現可能ではないだろうか。

むしろ、東京が魅力だけでむさぼるように人を呼び続けていたら、東京も地方も共倒れになりかねない。

かつての東京は、都会だから暮らしやすかったのだろう。なんてったって「毎日愉快」だったのだから。都会ならではのにぎわいやきらめきといった魔力が、人を引き付けて離さず、「帰れない」と言わしめた。

しかし、どうやらもう都会ののきらめきやにぎやかさにかつての魔力はないらしい。魔法が解けて見渡してみると、都心なんてスーパーもろくにない。保育園もろくにない。校庭は狭い。地下も家賃も高い。よくよく見れば、結構暮らしづらい。

もう、東京も「大都会」の憧れだけで勝負できる時代ではない。「暮らしやすさ」や、山下氏が東京にないと危惧した「コミュニティ」などが求められているはずだ。そして、それはそっくりそのまま地方にも当てはまる。東京が町おこしに成功すれば、むしろ日本中の良いモデルともなりうる可能性がある。

サクラクエストでは、「町おこしに必要なのは若者・馬鹿者・よそ者」だと言っている。幸い、東京には若者もよそ者もたくさんいる。あとは彼らが馬鹿者になったつもりで東京を変えようと思えば、これからの東京は面白いものになるかもしれない。

リンク:サクラクエスト公式ページ

参考文献:山下祐介『限界集落の真実 ――過疎の村は消えるか?』ちくま書房 2012年

民俗学という文学 ~六車由実『驚きの介護民俗学』~

2012年に発表された六車由実さんの『驚きの介護民俗学』。民俗学者から介護士に転職した著者が、介護の現場で老人たちから民俗を聞き取ることをまとめた本だ。発表当時から民俗学界隈で話題となったこの本を読んでみると、これからの民俗学について考えさせられる驚きがあった。


『驚きの介護民俗学』の内容

著者の六車さんは民俗学者。大学で学生たちに民俗学を教える立場だった。

それがどういうわけか、大学を辞めて介護施設で介護士として働くようになる。

そこで出会った老人たちは、ふとした瞬間にそれまでの人生やバックボーンをにじませていた。

例えば、認知症の老人にありがちな「同じ話を繰り返す」。

介護する側からすれば迷惑な話だが、よくよく聞いてみると、人によって繰り返す話が違う。

そこで丹念に聞いてみると、「繰り返す話」の中には、その人が何に重きを置いて生きてきたかが現れていた。

そこで、著者は施設の許可を取って老人たちの話を聞き書きすることにした。それが「介護民俗学」の始まりだ。

通常、民俗学のフィールドワークというと、農村や漁村に入ってそこで生活する人たちにテーマに沿って話を聞く。

だが、介護民俗学では大きく二つの点が異なる。

まず、フィールドが違う。

介護民俗学の舞台は農村でも漁村でもなく、介護施設。文章から察するに、おそらく静岡の地方都市にあるようだ。

だが、そこに通う老人たちは、かつての村で生まれ育った人たちだ。彼らにはかつての村の暮らしの記憶が残っている。

むしろ、「農村から都市に出てきた人たち」というこれまで見逃されがちだった人たちの記憶を持っているのだ。

そしてもう一つが「聞き書きにテーマがない」

通常はフィールドに入る民俗学者には知りたいテーマがある。農具についてだったり、祭りについてだったり、昔話についてだったり。そういうのに詳しい人を探して、話を聞くわけだ。

ところが、介護民俗学では著者は聞きたいテーマを持っていない。相手が話したいことを話してもらうわけだ。

だが、それゆえに著者の想定していなかった話が聞けて、「驚き」をもたらす。この「驚き」が著者にも話す老人側にもいい効果をもたらすのだ。

実は、僕も大学で「自分の聞きたいことではなく、相手の話したいことを話させる」という風に教わった。

僕が教わった先生たちの世代の教訓なのだそうだ。

フィールドに入って話を聞くと、戦争の話をしたがる人が多かった。

しかし、こっちは民俗学の話を聞きに来たのだからと、先生たちの世代は戦争の話をさえぎって、「自分たちが聞きたいテーマ」を話させた。

だが、今になって思うと、当時の話者たちが話したがっていた「戦争の話」をちゃんと聞いてまとめれば、かなり重要な史料になったのではないか。

そんな後悔から、「相手の話したいことを話させなさい」と教えてくれたわけだ。

民俗学とは生きることと見つけたり

さて、「介護民俗学」の本の評判は前から聞いていたが、なかなか読もうとしなかった。

理由は二つ。

まず、「介護」という言葉がよくない。

「介護の本」と聞いて面白そうと思う人がどれだけいるだろうか。介護に携わっていない人じゃないと、まず面白そうとは思わない。

そしてもう一つ、決定的に面白くない単語が入っていた。

その単語とは「民俗学」

大学で民俗学を専攻していた僕すら、「民俗学の本は面白くない!」と認識しているのだ。

何と言うか、無味乾燥なのだ。

そう思ってほとんど期待することなく「驚きの介護民俗学」を読んでみた。

すると、驚いたことに面白かったのだ。

「テーマのない聞き書き」を行っている著者は、細かい「民俗」にとらわれることなく、話者の人生を聞き取り、生き生きと描いている。

これは、僕にとっても発見だった。

祭りだの農具だの信仰だの、個々の民俗自称にフォーカスして書いてしまうとちっとも面白くない。「無味乾燥な学術書」で終わってしまうのだ。

だが、この本では個々の民俗事象にとらわれることなく、相手の人生を描いている。

言い換えれば、個人の人生自体が一つの「民俗」である。

民俗学とは「生きること」、「その人がどうやって生きてきたか」を描くことだともいえるわけだ。

民俗学は文学だ!

個々の老人たちの「生きること」を、著者も実に生き生きと描いている。

この「驚きの介護民俗学」が民俗学の雑誌ではなく、介護・看護に関する雑誌で連載された、というのもこの本を堅苦しいものにしなかった理由の一つだろう。

もしかしたら、民俗学は「学問」という堅苦しいスタイルよりも「文学」というスタイルの方が似合うのかもしれない。

それぞれの「生きること」を文学として描く。

例えば、宮本常一の代表作「忘れられた日本人」は、そこに登場する人たちがどのようにして生きてきたかを文学的に描いている。「土佐源氏」に至っては文学的に高く評価されている。

柳田國男もかつては文学を志していた。

民俗学にとって、「文学のスキル」は重要なことなのかもしれない。

そう思わせるこんな話がある。

大学のころ、口承文芸、すなわち、昔話に関する講義をとっていた。

これが評判だった。

どういう評判かというと、「つまらない」という評判なのだ。

ある先輩が、そのつまらない講義に対してこんな解説をしてくれた。

「あの先生は口承文芸を研究している割には、話し方が下手なんだ」

民俗学の知識を文学的に語るスキルが、その先生にはなかったわけだ。

民俗学とは人の「生きること」を描くことである。それが無味乾燥な学術用語で描けるわけがない。

民俗学はもっと文学的に、「生きること」に向き合い、「生きること」を描くべきなんじゃないだろうか。

そんな驚きの発見を、この本はもたらしてくれた。

ムラ社会、なめんな!

「ムラ社会」という言葉がある。閉鎖的や排他的な社会・組織の象徴のように使われているこの言葉。まず基本、「悪いもの」として扱われる。……君たち、そんなに日本のムラが嫌いか?ならば、どこまで日本のムラを知っているというのだ?今回は、「本当のムラ社会」について考えていこう。


ムラ社会のイメージ

そもそも、「ムラ社会」という言葉は、普段どんなイメージで使われているのだろう。考えてみると、だいたい次のような感じだと思う。

・閉鎖的……自分たちの中だけで何事も完結し、外の世界を見ようともしない。

・排他的……外から来たものをやたらと拒む。

・差別的……自分たちと異質なものや、自分たちのルールに従わないものを排除しようとする。 例:らい病患者の扱い、村八分

・地元の権力者が強い……代々の有力者が強い力を持っていて、権力構造がなかなか変わらない。

・全体主義……個人の意志よりも、ムラの存続が尊重される

・空気を重視……空気を読むことが何よりも重要視され、古い慣習を壊すことを拒む。

こんな感じだろうか。みんな、よほどムラで嫌な思いをしてきたに違いない。「封建的」も似たような意味合いで使われるのだろう。

今回、僕はこれに一個一個反論したいわけではない。特に、「差別的」は否定のしようがない。らい病(ハンセン病)の患者はムラから不当な扱いを受けてきたし、村八分にされたものが裁判を起こして勝訴したという事例もある。

今回言いたいのは、この「ムラ社会」のイメージだけが日本のムラではない、ということだ。

宮本常一が見た日本のムラ

宮本常一。戦前から戦後にかけて日本中をくまなく歩き、その土地の習俗を研究してきた民俗学者だ。戦前から戦後、高度経済成長期と変わっていった日本のムラを見続けてきた男だ。彼ほどムラを知り尽くした人はいない。今回は彼の著作集の12巻をもとに話を進めていきたい。

第12巻のタイトルは『村の崩壊』。戦前の日本のムラの様子から、戦争が終わり衛材の発展、都市の膨張に伴い、日本のムラの姿が崩壊していく様を記してある。

では、宮本常一が見てきた日本のムラはどのような姿だったのだろう。

ムラは、決して一枚岩ではなかった。一つの事柄に対し、村人それぞれが様々な意見を持っていた。

一方で、彼らは常に助け合って生活していた。田植えや屋根の修理などは「ユイ」と呼ばれ、村人が共同で行った。また、「道普請」と言って、道路の補修も共同で行った。

助け合いはそれだけではない。新しい田畑の開墾などは、貧しいものに優先的に与えられたのだ。ムラは、そこに暮らす民を見捨てようとはしなかった。貧しいものがいたら優先的にチャンスを与えるような仕組みだった。今の日本の社会制度よりも福利厚生はしっかりしているかもしれない。

「隣家に蔵が建つと腹が立つ」という言葉がある。ただのジェラシーのようにも取れるが、よその家に蔵が建つということは、よその家が土地を大きくしたということであり、それは誰かの土地が小さくなったことを意味するからなのだそうだ。

村が出る杭を打つのは嫉妬からではない、それによって弱いものが不利益をこうむることを恐れたのだ。

ムラは決して古い存在ではなかった。栄えた村はいつも若者がその中心にいた。もちろん、長老だの村長だのといった存在はいた。しかし、それ以外の階級はほとんどなかったようだ。

村長がどれほどの権力を持っていたかは村によって違う。豪族が中心になって開いた村ならば、その豪族が権力を握っていただろう。また、同族で構成された村ならば、本家がやはり強かっただろう。

一方で、何かあったらすぐに寄合を開くムラも存在した。一人の権力者ではなく、みなでの話し合いを重視したのだ。ここでは、参加者の意見は対等に扱われていた。

そして、ムラは外との交流も盛んだった。親は子供がある程度の年になると、外へ旅に出すようにしていたムラもある。また、よその村と盛んに交易していたムラもあった。

一方で、外から来たものも受け入れている。嫁入りなどはその典型だろう。ありていな言い方をすれば、嫁入りとはよそのムラとの労働力の交換である。よく姑の嫁いびりが問題になっているが、むしろ昔は嫁が姑をいびっていたそうだ。

また、「マレビト信仰」といって、昔の村では外から来たものをカミとして扱い、盛大にもてなすという習俗があった。善根宿と言って、旅人を積極的に宿泊させる村も家もあった。もちろん、宿代などとらない。

今では数えるほどだそうだが、かつては四国にお遍路さんを積極的に無償で止める家が多かった。そうすることで、その家もお遍路さんと同じご利益に授かれると信じられていたのだ。

ムラとは、弱いものへの意識が強く、階級の意識が弱く、それぞれの意見を尊重して話し合い、外との交流を活発に行っていた場所だったのだ。

ムラは、「全員で生き残る」というのが前提の場所だった。だから、ルールを乱す者は村八分にすることもあったのだ。

一方で、栄えたムラというのはその時その時の状況に合わせて、さまざまな生業にチャレンジし、しなやかにその姿を変えていった。決して旧態依然とした存在ではなかったし、逆に言えば旧態依然としたムラはすたれて残らなかっただろう。

ムラってなんだろう

そもそも、ムラとはいったいどういう存在なんだろうか。なぜ、人はムラを作るのだろうか。

そんなことを考えるようになたのは、意外にも地中海でだった。

ギリシャのサントリーニ島は火山の島が沈み、火口に海水が入り込んでて来た島だ。かつて火口の淵だった断崖の上に白い家々が並ぶ美しい件間で多くの観光客が訪れる。

崖の上の白いのが集落

しかし、サスペンスドラマじゃあるまいし、なんだってわざわざ崖の上に集落をつくったのだろう。

その答えが知りたくて、島の反対側に出て愕然とした。

なだらかな丘が海まで続いていたのだ。しかし、集落はほとんどない。

島の反対側はだだっ広い空き地だった。これが海まで続いている。

日本だったら、このなだらかな丘の海岸線上に集落を築いていただろう。漁村になっていたはずだ。だが、サントリーニの人たちは、わざわざ断崖絶壁の上に街を作った。

サントリーニの後に訪れた「アドリア海の真珠」と呼ばれるクロアチアのドブロブニク旧市街は美しい城壁に囲まれている。城壁からは町が見下ろせる。つまり、城壁は建物よりもはるかに高いのだ。こんな壁、日本ではさっぱり見られない。

灰色の城壁が見える

なぜ、わざわざ崖の上に住むのか。なぜ、わざわざ高い壁を作るのか。

おそらく、戦争や海賊を恐れてのことだったのだろう。

地中海の歴史は戦いの歴史である。また、古くから海賊も横行していた。だから和わざわざ崖に上ったり壁を作ったりしていたのだ。簡単には攻め込まれないように。

その点、日本のムラはのんきだ。まず壁は作らないし、がけにも上らない。

日本のムラが重要視しているのは水源だと思う。以前、奥多摩の村を訪れたことがある。山の斜面にぽつぽつと集落が存在するのだが、見事に水源に沿って村が広がっていた。

敵が攻めてくるかどうかより、水が飲めるか、作物が育てられるかのほうが大事だったわけだ。

そう考えると、ムラの本質が見えてくる。

「ここで生き抜こう」という強い意志、それがムラの本質だ。

この場所で、みんなで生きていこうと腹をくくる。だから崖にも登るし壁も作る。山の中の水源に這いつくばって生きていく。

みんなで生きていくと決めたからには、誰ひとり見捨てない。一方で和を乱す者には容赦しない。それが行き過ぎて差別的なことにまで反転してしまったのだろう。

生きぬくためには知識が必要だ。だから、外の世界と積極的にかかわりを持つ。孤立して生きていくのも難しいだろう。

よそとのかかわりを積極的に持って、生きていくためにしなやかに姿を変えていく。それがムラなのだ。

ムラ社会のイメージはどこから来たのだろうか

さて、そう考えると、一つ疑問が残る。

僕らが思い描いてきた、閉塞感漂うムラ社会のイメージはいったいどこからやってきたのだろうか。

あれだけムラ社会が悪者のように扱われるということは、ムラでひどい目にあった人が少なからずいたはずなのである。この文章を読んでいて「いやいや、ムラってもっとひどいよ?」と思う人もいるだろう。その村のイメージはいったいどこから来たのだろう。

宮本常一は、戦後の発展の中で年が膨張していくにしたがい、ムラから人が出ていき、農業人口が減り、ムラというものが崩壊していったと指摘している。

ムラの性格が変わるターニングポイントがあったのだとすれば、ここしか考えられない。

手元に本がないので正確なことは言えないが(なんで捨てちゃったんだだろう)、戦後の発展の中で東京をはじめとした都市が肥大化し、労働力は都市に吸収されていった。農政の問題などの様々な理由から農業で生計を立てるものが難しくなり、農業は兼業化し、やがて廃業していった。ますます肥大する都市は、ついには近郊の農村を吸収して新興住宅地を作るようになった。工業を支えるため田畑の中に工場が建つようになり、労働力はそこへ吸収される。異常なほどの東京一極集中のため就職先は東京が当たり前になっていった。村に残っても耕す田畑もなければ、他の仕事もない。こうしてムラから労働力が失われ、ムラは疲弊していった。

たまにテレビ東京なんかで「限界集落のおばあちゃんの民宿でのんびり過ごそう」みたいな番組をやっている。とんでもない。限界集落とは陽気な田舎を指す言葉ではない。「限界集落」とは、人口の半分が65歳以上で、田畑の多くが放置されて荒れ地となり、寄合や祭りのような村人の結束を強める機能が停止した集落を指す。

名前からして、限界を迎えている集落のように聞こえるが、これも違う。何年も前に若者たちが「ここで生きていくのは限界だ!」とムラを捨て、年寄りだけが残った集落だ。「だいぶ前に限界を迎えていた集落」であり、失礼を承知で言えば、座して死を待つような状態である。限界点はもっと何十年も前だったはずだ。

つまり、「ここで生き抜いてやろう」というあのギラギラ感がなくなってしまったのだ。もう、何をやっても無駄という諦めなのかもしれない。

僕らが抱く「ムラ社会」のイメージは、この「限界集落」のイメージなのではなかろうか。

何をやっても無駄なら、外の世界から学ぶ意味もない。むしろ、異質なものがやってきてこれ以上ムラを壊されたら、ムラの死期を早められたら大変だ。

何をやっても無駄だから、権威構造も変わらない。むしろ、権威が死に体の村に金を運び、つかの間の夢を見せてくれるかもしれない。

かつての助け合いの精神も何をやっても無駄だとわかればただの「出る杭は打たれる」だ。

なにをや手も無駄だから空気を読むことを強いる。これ以上かき回されたくないわけだ。

ムラの延命をしようとする一方で変化を好まない。下手に手を打って死期が早まったら一大事だからだ。

これじゃ、「ムラ社会」じゃなくて、「限界社会」だ。そっちの方がしっくりくるんじゃなかろうか。

本当の「ムラ社会」には、「ここで生きていこう」という意思があった。だから、ムラを今よりもっと暮らしやすくしようと必死だった。その時代その時代でしなやかに形を変え、全員で生き抜こうという思いがあった。

一方、現代はどうだろう。もう何をやっても無駄だから余計なことはしたくない。だらだらとムラの延命措置を測るだけだ。「生き抜く」と「延命」は似ているようで違う。「延命」は結局もう終わりが見えているのだ。

そして、成長だか再生だか再興だかはお上がやってくれると思っている。もう、自力で生き抜こうとする体力などないのだ。

そんな限界社会では、「ムラ社会」にこそ学ぶべきことがあるのかもしれない。