ここがヘンだよ旅人たち

ピースボートなんぞに乗っていると、いろんな旅人と知り合う。世界のあちこちをめぐり、旅に生き、旅を愛し、自由を謳歌する旅人たち。最高である。最高なんだけれど、どうも違和感を感じてしまう時がある。今回はそんなお話。外国に行くのがえらいんですか? 何か国も行くのがえらいんですか?


今年は旅祭に行かなかった

去年、旅祭2017に参加した。2年続けての参加である。

旅祭2017 ~最果ての地、幕張~

この時もそれなりに楽しんだのだが、一方で「祭りになじめない」という思いを切実に感じていた。その当時の記事から抜粋してみた。

さもここまで旅祭を楽しんだかのように書いたが、僕には一つの違和感が付きまとっていた。

どうも、この場になじめない。

CREEPY NUTSの『どっち』という曲がある。「ドン・キホーテにも、ヴィレッジ・バンガードにも、俺たちの居場所はなかった」という出だしで始まる曲で、ドンキをヤンキーのたまり場、ヴィレバンをオシャレな人たちのたまり場とし、サビで「やっぱね やっぱね 俺はどこにもなじめないんだってね」と連呼する。

旅祭の雰囲気はまさにこの歌に出てくる「ヴィレバン」だった。やたらとエスニックで、やたらとカラフルで、やたらとダンサブル。

突然アフリカの太鼓をたたく集団が現れたり、おしゃれな小物を売るテントがあったり、やたらとノリのいい店員さんがいたり、なぜか青空カラオケがあったり。

なんだか、「リア充の確かめ合い」を見せられている気分だ。「私たち、やっぱり旅好きのリア充だったんだね~♡ よかったね~♡」という確かめ合い。

会場で何回かピースボートで一緒だった友人たちに会い、その都度話し込んだが、彼らがいなかったら、とっくに帰っていたような気がする。

とまあ、ひがみ根性丸出しの文章を書いている。

とはいえ、締めの文章では

旅祭2017を振り返って、「来年も旅祭に行きたいか」と問われれば、答えはイエスである。

僕みたいな「旅ボッチ」は旅祭に群がる「旅パリピ」が苦手なだけであって、旅祭そのものは刺激に溢れた祭だ。

と書いているから、この時点では旅祭2018も参加する気満々だったらしい。

そうして1年が過ぎ、5月ぐらいになると「今年も旅祭やるよ!」という告知が回ってくる。

なぜ、今年の旅祭は行かなかったのか。

この5月のときに前回の旅祭を思い返してみても、「全然なじめなかった」という記憶しか出てこなかったからだ。

正直、今回、この記事を書くかどうかは悩んだ。友人の中には旅祭を楽しみにしている人や、旅祭の運営に1枚かんでいる人までいる。「なじめなかったから今年は行かない」なんて書いたら、彼らを傷つけてしまうのではないだろうか、と。

だが、僕に限らず、お祭りやイベントごとになじめない人間というのは一定数必ず存在する。それは、僕自身ピースボートに乗っているときにイベントを運営する側に回ったことで痛切に感じたことだ。

そして、「なじめない人間」というのはあまり自分から声を発することはない。そういうのが苦手な人が多い。

そのため、イベントを運営する側にしてみればそういった「なじめない人たち」は「いないもの」、「存在しないもの」として扱わざるを得ない。

なので、「なじめない!」と声を上げることも必要なんじゃないか、と思って筆を執る次第だ。

旅ボッチと旅パリピ

去年の旅祭に参加して切に思ったのは、「旅人の中には『旅ボッチ』『旅パリピ』がいる」ということである。

旅ボッチと旅パリピ

旅ボッチと旅パリピはどういうことかというと、「旅の好きなボッチ」と「旅の好きなパリピ」である。読んで字のごとくだ。

よく、ピースボートなんかもそうなのだが、旅人の話を聞くと、「世界を旅すると、世界じゅうに友達がいっぱいできます」と語る人を見る。ぼくの身近にもいた気がする。

はっきり言わしてもらうと、

そんなのは嘘だ!

それは、「旅パリピ」に限った話である。

日本で友達が作れない奴が、旅先で、言葉も文化も宗教も違う奴と友達になれるわけがない。

私がその証明だ(笑)。

 

旅パリピというのは、テンションが高く、声がデカい。

その結果、常に注目を集め、いかにも旅パリピが多数派であるかのような錯覚を周囲に引き起こす。

 

確かに、誰かと行く旅は楽しい。

だが、それが旅のすべてではない。

時には、一人の方が気楽で楽しい。そんな旅だってある。

僕の実感では、やっぱり旅祭は旅パリピを対象にしたイベントであって、旅ボッチにはどうにも居心地が悪い。

いや、もしかしたら日本の「旅業界」全体が、旅パリピ向けなのかもしれない。

それは単にJTBみたいな「旅行業界」だけではない。例えば本屋やこじゃれたカフェにある「旅の本」なんかを見ると、大体カラフルな写真が並び、「絶景」というワードが入っている。

これは旅パリピ向けである。旅ボッチにとってはこういうのはちょっと手を伸ばしにくい。

今のところ、旅ボッチ向けの、白黒写真の「旅の本」はまだ見たことがない。

不思議である。旅パリピは大体口をそろえてこう言う。「世界を回るといろんな価値観に触れ、世界観が広がります。多様性が大事なんです」

ところが、現状「旅人業界」は旅パリピのことしか見ていない。旅パリピは自分たちの価値観が旅人代表であるかのように語り、旅ボッチのことは存在すら知らないらしい。

何が「世界観が広がる」だ。多様性が大事だというのなら、もっと旅ボッチの存在に目を向けるべきである。

ここがヘンだよ旅人たち① 旅人はフレンドリーじゃなきゃいけない?

旅パリピはよく「旅に出ると世界中に友達ができる」と口にする。

それは、旅パリピだけの話だ。

また、旅祭のようなイベントに行くと、顔見知りでも何でもないのにやたらフレンドリーに話しかけてくる関係者の人がいる。

なんだろう。「旅人はみなフレンドリーである。いや、フレンドリーでなければいけない」という不文律でもあるのだろうか。

旅ボッチの視点から言えば、知らない人がなれなれしく話しかけてくるのは、

迷惑である。なるべくやめていただきたい。

断言しよう。別に現地の人と話さなくても、旅は楽しい。旅人はフレンドリーでなければいけない、なんてことはない。

むしろ、人と接触しすぎるとかえってトラブルに巻き込まれる可能性だってある。

ここがヘンだよ旅人たち② みんな高橋歩が好きなのか?

旅好きで高橋歩の名前を知らない人はいないだろう。世界のあちこちを放浪し、若者たちに強く訴えかけるメッセージを発し続ける、旅人のカリスマである。僕の周りにも高橋歩が大好き、影響を受けた、尊敬している、そんな人が多い気がする。

僕自身も旅祭で何度か高橋歩を見ている。「おもろいおっさん」というイメージで、決して嫌いなわけではない。

だが、これだけは言わしてほしい。

全ての旅好きが、高橋歩の著書を後生大事に読んでいる、というわけではないことを。

高橋歩が苦手な旅人だっている、ということを。

どの辺が苦手なのかというと、「距離感が近すぎる」という点である。

旅パリピにとってはそこが魅力に映るのかもしれない。本を読んでいると、まるですぐそばで励ましてくれているような気がする、と。

ところが、同じ本でも旅ボッチが読むと、「距離が近い近い近い近い! 無理無理無理無理! 離れて離れて!」と感じてしまう。あの距離感が苦手なのだ。

だから、僕の本棚には、高橋歩と仲の良い四角大輔さんの本はいっぱいあるのだけれど、高橋歩の本は一冊もない。

ところが、旅人仲間の中では「高橋歩大好き!」「歩さんマジ神!」といった人が結構多い。

そしてそういう人たちはどういうわけか、「ノックも旅が好きなら、当然、高橋歩好きだよね⁉」という前提で話しかけてくることがある。

旅が好きなら当然、高橋歩も好き。

決して、そんなことはない。

そんなことはないんだけれど、話の腰を折るのが嫌で、「いや、俺、あんまり高橋歩好きじゃない」とかいうとなんか相手の尊厳を傷つけてしまう気がして、「ああ、うん……」と適当に話をごまかす。実際に著書に目を通したことはあるけど、それで感動したことは一度もない。だって、距離感が近すぎるんだもん。

多様性が大事だというのであれば、「誰だって本の好き嫌いぐらいある」ということも理解するべきだ。

ここがヘンだよ旅人たち③ 遠くへ行くほうがえらいのか?

この夏、南関東を制覇してきた。

静岡では伊豆に行き、天城山を歩いてきた。

神奈川では鎌倉に行った。帰りにちょこっとだけ横浜に立ち寄った。

東京では高尾山に登った。葛西臨海公園で海も見た。

埼玉では飯能に行き、アニメ『ヤマノススメ』の聖地を巡ってきた。

千葉では館山に行き、海のそばでバーベキューをした。帰りには海ほたるにも立ち寄った。

東京湾に浮かぶ海ほたるまで行ったのだから、「南関東完全制覇」を宣言しても差し支えないのではないか。

そして、思う。

旅をするのに、別に何も「遠くでなければいけない」ということはないんだな、と。

伊豆で見たのどかな田園風景、高尾山から見下ろす東京の街並み、館山の海岸、価値観を揺さぶるには十分だ。

だが、ピースボートなんぞに乗っていると、どうも、「より遠くに行くことが正義」という風潮があるように感じてしまう。

旅祭に関しても、「世界」にばかり目が行って、すぐ足元の「日本」の旅にあまり目を向けていない気がする。

だが、昔の人はいい言葉を残した。「灯台下暗し」。世界ばかり見ていないで、自分の足元にも目を向けるべきだ、ということだ。

大体、近所の景色のすばらしさに気づけないやつが、世界を旅したところで得るものなんて大してない。

ここがヘンだよ旅人たち④ 何か国も行くやつがえらいのか

旅祭2017に参加したとき、こんなイベントがあった。

100か国以上を巡った人たちが、ステージに上がってお話します、というものだった。その時、こう思った。

……何か国も行くやつがえらいのか?

そもそも、行った国の数を自慢している時点で、アウトなのではないだろうか、と。何かを学んだとはちょっと思えない。

プロフィールにはなるべく数字を入れないほうがいい。数字が語るのはその人の自尊心の強さだ。入れていい数字は生年月日ともう一個何かぐらい。だから僕はプロフィールに入れる数字は「地球一周」のみと決めている。これ以上数字を入れてしまうと、ただの自尊心の強い人になってしまうからだ。

そもそも、僕の感覚では世界を10か国ほど旅すれば、そこから先は何か国旅してもそんなに変わらない、と思っている。10か国行っても、20か国行っても、50か国行っても、100か国行っても、300か国行っても、そこまで価値観とか経験値の差は出ないと思っている(ちなみに、世界に300も国はありません)。

量ではない。大事なのは質だ。

僕が尊敬してやまない人物に民俗学者の宮本常一がいる。宮本常一は日本の各地をつぶさに歩いて回ったが、海外に行ったことはあまりなく、初めての海外旅行は還暦を過ぎてからだといわれている。

たぶん、行った国の数だけを比べたら、僕のほうが宮本常一の4倍の数、国を訪れている。さらに、宮本常一は東アフリカと東アジアにしか行っていない。地域にも大きな偏りがある。

じゃあ、僕のほうが宮本常一よりも、行った国の数が多い分見識が深いのかというと、断じてそんなことはない。「僕のほうが4倍多くの国を訪れているから、4倍見識が深い」なんて言ったら、全宮本常一ファンにぼこぼこにされるだろう。ちなみに、その「全宮本常一ファン」の中には当然僕本人もいる。自分で自分をぼこぼこににしたいくらいの、分不相応な問題発言である。

量より質なのだ。「100か国以上旅した」という旅人を46人くらい集めても、ほぼ日本1か国だけを旅し続けた宮本常一1人の見識の深さにはかなわないと思う。

ここがヘンだよ旅人たち

「世界を回ると、様々な価値観に触れ、世界観が広がります。多様性が大事なんです」

旅人は口をそろえてこう言う。

だが、その実態は旅ボッチの存在に目を向けることなく、自分の好きな本はみんな好きだろうと勝手に思い込み、世界ばかりに目を向け日本を、近所を旅する楽しさを知らず、行った国の数を自慢する。

要は、ほとんど何も学んでいないに近い人が多い。

人の価値は何を経験したかでは決まらない。その経験から何を学んだか、どれだけの経験値を得たかで決まる。

どこを旅したとか、何か国行ったとか、地球何周したとか、そんなことはどうでもいい。そこから何を学んだかである。

「地球一周した」とか「100か国以上行った」とかいうと、たいてい「へぇ~、すご~い!」といわれる。

勘違いしてはいけないのが、この場合すごいのは「経験」そのものであって、「経験した本人」がすごいのではない。

もっと言えば、「それだけすごい経験をしているのだから、お前がどんなに馬鹿でも、何かしらのことを学んでいるよね?」という期待値が込められた「へぇ~、すご~い!」である。

何を経験したかではない。そこから何を学んだか、それが人間の、旅人の価値を決めるのだ。

旅ボッチと旅パリピ

「旅人」というとどんなイメージだろうか。高橋歩みたいな、誰に対してもフランクで、世界中のどんな人とも友達になれちゃう人? だが、旅人が全員そんな気さくなわけではない。人見知りだって旅をしていいはずだ。もっと孤独な旅があったっていいじゃないか。


旅ボッチと旅パリピ

先日、「旅祭2017」に参加してきた。

そこで感じたのが、「あれ、僕、この祭り、馴染めない」。

地球一周を経験し、「旅」というジャンルの中では否応なしに自分がもう初心者ではないのだと痛感することが多いのだが、それでも「旅」というジャンルを全面に出した祭になぜかなじめない。

なぜだろう。なんだかやたらフランクな参加者(客としてきた人も、作り手として参加した人も両方含む)を見て、僕はあることに気付いた。

世の中の旅人には、「旅ボッチ」「旅パリピ」がいる、ということに。

要は、「人づきあいが得意か苦手か」であり、僕はそれを「学校の教室の中心と周辺」と呼ぶこともある。

旅祭の参加者の大半は、みんなでワイワイするの大好き、人としゃべるの大好き、国際交流大好きという「旅パリピ」なんじゃないかと思った。これは、そのまま日本の旅人全体の比率に当てはまるかもしれない。

旅祭のステージに上がっていた「旅の達人」の中にも旅パリピはいた。

僕がアニキと尊敬する四角大輔さんなんかはもともと人と話すのが苦手だったというだけあって、大輔さんと伊勢谷友介さんの対談なんかは非常に落ち着いた、身のある者だった。また、グレート・ジャーニーを成し遂げた関野吉晴さんのトークもとても落ち着いていて、おもしろかった。

特に、大輔さんに関しては、ピースボート88回クルーズでとてもお世話になったのでよく知っている。決して旅ボッチではないが、旅パリピでもない。「孤独であること」の大切さをとても理解されている人だ。

だが、その一方で、いわゆる居酒屋トークに終始したトークをステージ上でしていた人たちも無きにしも非ずだった。

大輔さんよりも一回り二回り若い世代だろうか。内輪ネタをステージ上で繰り広げ、芸人の真似事みたいなしゃべり方をする。どうも僕にはピンとこなかった。彼らが旅パリピで、僕が旅ボッチだから、ということなのだろうか。

「旅先で友達が増える!」そんなのは嘘だ!

よく、ピースボートなんかもそうなのだが、旅人の話を聞くと、「世界を旅すると、世界じゅうに友達がいっぱいできます」と語る人を見る。ぼくの身近にもいた気がする。

はっきり言わしてもらうと、

そんなのは嘘だ!

それは、「旅パリピ」に限った話である。

日本で友達が作れない奴が、旅先で、言葉も文化も宗教も違う奴と友達になれるわけがない。

私がその証明だ(笑)。

「旅に出れば世界中に友達が増える」という甘言で旅ボッチを惑わすのは、金輪際やめていただきたい。

旅ボッチと旅パリピ、教室の中心と周辺

とはいえ、そもそも全員を旅ボッチ・旅パリピと分類できるわけではなく、グレーゾーンもたくさんいる。僕の実感では、「旅ボッチ」の域に達しているのは全体の15%ほどだろうか。「旅パリピ」が35%ぐらいだと思っているので、数にして3倍の開きがある。

半分くらいはグレーゾーンに分類される。そういう意味では旅パリピも少数派である。何も、そこまで目の仇にしなくてもいいじゃないか。

しかし、旅パリピというのは、テンションが高く、声がデカい。

その結果、常に注目を集め、いかにも旅パリピが多数派であるかのような錯覚を周囲に引き起こす。

だからさっき「教室の中心と周辺」という言葉を使った。僕はスクールカーストといった階級制よりも、中心と周辺という表現の方が実態に合っていると思う。

学校の教室にはいわゆる「イケてる人たち」と「イケてない人たち」がいる。「イケてる人たち」は常に教室の中心にいる。それは、物理的に中心にいるわけではなく、会話の中心、情報の中心、注目の中心という意味だ。そして、「イケてない人たち」いわゆる会話の輪のようなものの外側にはじかれてしまう。

例えば、同窓会とかでこんな経験をしたことはないだろうか。

A君「あの時、BとCが付き合ってたよね」

Dさん「そうそう、あったあった」

僕「なにそれ! 今、初めて聞いた……」

このように、教室の周辺部にいる人間にはあまりクラスの情報が入ってこない。情報も会話も、このA,B,C,Dのような「クラスの中心の人たち」で回されて、注目も「クラスの中心の人たち」に集まる。周辺の人たちに会話や情報が回ってくることもなければ、周辺の人たちが話題に上ることもない。

そして、この構造が、教室を飛び出して「旅」というフィールドでも同じことが起こっているのだ。

旅人同士の情報は声の大きい旅パリピ内で回ってしまい、注目も旅パリピが独占する。

結果、旅パリピの「旅とはこういうものだ!」「旅人とはこういう人たちだ!」という、一方的な視点だけが流布することになる。

その結果、旅パリピの価値観に基づいて、旅の本が作られたり、旅のイベントが作られたりする。

そうやって、気づけば「旅」に関する情報や空間がどんどん旅パリピ色に染められている。

その結果、旅ボッチは大好きな「旅」の世界の中でも、中心には行けず周辺にはじかれてしまう。

よく「旅はどこに行くかではない、誰と行くかだ」なんて言葉を聞く。これこそ、旅パリピの極みではないだろうか。

確かに、誰かと行く旅は楽しい。

だが、それが旅のすべてではない。

時には、一人の方が気楽で楽しい。そんな旅だってある。

誰かと一緒にいたって、目を奪われるような絶景を目にした時、隣に誰かがいるなんてことを忘れてしまう瞬間だってあるだろう。

だいたい、隣にいる人間が、必ずしも同じ景色を見て、同じことを感じているとは限らないのだ。

もっと、旅ボッチを、孤独な旅を、認めたっていいじゃないか。

細野晴臣の足跡 狭山アメリカ村の旅・完結(はっぴいえんど)編

かつて、細野晴臣をはじめとした多くのミュージシャンが住んだという埼玉県狭山市。細野晴臣が住んでいたという1970年代の香りを求めて、僕は再び埼玉県狭山市へと向かった。細野晴臣の時代から40年以上。国道16号が通り、風景はだいぶ変わったが、当時の雰囲気はいまだに残っていた。細野晴臣の足跡を求めるたび、これにてはっぴいえんど?


細野晴臣の足跡を求める旅 前回の3つの出来事

1.自由堂ノックは、かつて細野晴臣をはじめとしたミュージシャンの多くが住んでいたという、埼玉の「アメリカ村」へと向かった。

2.入間市駅から歩いて15分のところにあるアメリカ村、「ジョンソンタウン」を訪れた。

埼玉・入間の住宅街にアメリカの町が!~ジョンソンタウンの旅~

3.ところが、細野晴臣たちが住んでいたのは、「入間市駅」の隣の「稲荷山公園駅」だった!

というわけで、今回、僕は西武鉄道の稲荷山公園駅を訪れた。

埼玉県狭山市、稲荷山公園駅の旅

 

駅前には「ポプラ」というコンビニがあるだけ。南は自衛隊基地、北は稲荷山公園である。

 

ここが稲荷山公園。またの名をハイドパーク。90年代まではアメリカ風の住居が並んでいたらしい。10年前には、細野晴臣が中心となって、「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」というイベントも行われた。

 

坂を下りて町へと抜ける。

 

稲荷山のふもとにある愛宕神社。愛宕信仰は火防の神様。自衛隊や米軍の基地のある町にはピッタリかもしれない。

 

一方で、19世紀初頭からここではお稲荷様を祀っているらしい。お稲荷様は農業の神様だ。この当たりも耕作地として田畑が多かったのだろう。

 

すぐそばには、こんなのもある。

 

馬頭観音だ。年代は大正13年。このころまで、この当たりは馬での往来がされていたのだろう。

 

また、野仏があるということはそこが古い道であることも表している。稲荷山をぐるっと回るこの道は古くから存在していたらしい。おそらく、入間基地ができる前はもっと遠くまで伸びていたのだろう。

 

この駅の近くで、洋風の家を見つけた。

 

これは前回訪れたジョンソンタウンの写真。見比べてみると、白く長い板で作られた壁がよく似ている。

 

「鵜ノ木」。それがこの当たりの地名らしい。

 

こんな感じの平屋住宅に細野たちも住んでいたのだろうか。おそらく、この当たりがアメリカ村だったのだろう。

 

こんな感じの団地などもある。

 

すぐ近くを国道16号線が入間川と並行して走っている。

 

16号沿いに建てられていた。これも馬頭観音だろうか。

 

自動車屋さんにアメリカの星条旗。

 

国道を渡ると、国道に並行して伸びる商店街があった。

この道を狭山方面へと進むと、途中で県道340号線に合流する。この道は宿場町だった入間から狭山へと続くものだった。この町で細野たちミュージシャンも買い物をしていたのだろうか。

 

道沿いには長栄寺というお寺がある。

 

釣鐘もあり、町の中心として時を告げる役割も担っていたのだろう。

 

19世紀中ごろの馬頭観音だ。やはり、入間と狭山の間を、馬を使って往来していたのだろうか。

 

狭山と言えば狭山茶だ。商店街より北には茶畑がある。

狭山茶を生んだのは京都の宇治だった。宇治で取れたお茶が壺に入れられて江戸へ運ばれる。

お茶は美味しく飲まれるからいいが、問題は壺である。狭山茶が来るたびに壺が増えて、余る。

この増えていく壺をどうしようかとなった時に考え出されたのが、「江戸でもお茶を作って京都に送ればい」というものだった。

そうして、「壺に入れて送り返すためのお茶」として作られたのが狭山茶だったのだ。

 

入間川から水をとっている用水路。この当たりが肥沃な農地であったことの名残だろうか。

 

入間川だ。まっすぐ歩けば、細野たちが住んだアメリカ村から10分ぐらいでつく。彼らもこの入間川を見ていたのだろう。

入間川には個人的な思い出がある。ピースボートのポスターを貼り続け、乗船代99万円分の最後の1枚を張った町が狭山市だった。最後の1枚を張り終えた僕は、入間川を眺めながら、植村花菜の「猪名川」という曲を聞いていた。

 

川と音楽というと、井上陽水を思い出す。細野晴臣の一つ年下にあたる彼は、細野がこの町に移り住んだ73年に「夢の中へ」が初めてのヒットを飛ばしていた。

その年の暮れに出したアルバム『氷の世界』に「桜三月散歩道」という曲がある。歌の主人公が恋人に、町を離れて川のある土地に行こうと語りかける歌なのだが、町を離れる理由がすごい。

なんと、「町へ行けば人が死ぬ」というのだ。

73年という時代は、高度経済成長のしわ寄せがすでに顕在化していた。いわゆる四大公害病は既に裁判が始まっていたし、71年には公害に対する警鐘を鳴らした映画「ゴジラ対ヘドラ」が放映された。また、コインロッカーに乳児を置き去りする事件が問題となっていた。都市の肥大化により、人々のライフスタイルに変容をきたしてきていた。

「人が死ぬ」は大げさだが、急速に発展した都市生活は、どこか閉塞感があるものだったのではないだろうか。

だから、細野晴臣は東京を脱出し、井上陽水は川を目指した。

川は自然の中にあっても都市の中にあっても、大雨で増水でもしない限り、常にゆったりと流れている。川に集う人々も散歩やジョギング、サイクリングなどどこかゆったりしている。

川のそばにはマイナスイオンだけではなく、常に「自然のリズム」が流れているのだ。そして、人は川に来ることで「都市のリズム」から「自然のリズム」に、自分のリズムを戻すことができる。

古来から日本では川が異界との境界だった。現在でも地方においても都市においても、川の上に家が建つことはなく、埋め立てて家が建ったらそこはもう川ではない。川は特別な空間だ。そこに来ることで、人は自然のリズムに戻れる。

細野晴臣が住んだ73年当時、この一帯はおそらく入間川に並行して伸びる小さな街道沿いの農村だったに違いない。そこに稲荷山を背にぽっとあらわれたアメリカ村。細野たちがこの町で暮らした時の景色はそんな感じだったのだろう。

 

そのまま、この街が音楽の聖地、ボヘミアンの町となっていたらどんなに面白かっただろう。入間市のジョンソンタウンとつながり、この一帯の景色もだいぶ変わっていただろう。

ただ、逆に下手に都市化することなく、街道沿いには小さな町が続き、まだ川に行けば「自然のリズム」を思いっきり感じられる環境だ。

細野晴臣の足跡をたどる旅は、この辺ではっぴいえんどにしようと思う。

 

 

では、ばいにゃら。

 

埼玉・入間の住宅街にアメリカの町が!~ジョンソンタウンの旅~

埼玉県入間市に「ジョンソンタウン」という町がある。かつてアメリカ軍基地があったこの場所には、今でもアメリカ風の建物が残っていて、雑貨屋やカフェなど、おしゃれな店が立ち並んでいる。そんな埼玉のアメリカ、ジョンソンタウンに行ってみた。とんでもない誤解をしていたとも知らずに……。


きっかけはHOSONO HOUSE

おしゃれな店は、全部東京にある。

本を読んでいても、テレビを見ていても、ちょっと行ってみたいと思った店は、全部東京。

埼玉はすぐ隣なのに、みんな馬鹿の一つ覚えのように、東京に店を構える。

「住みたいまちナンバーワン」として知られる吉祥寺にみんなが住みたがる理由が、「都心に近いけど自然もあるから」と聞いて、以前マツコ・デラックスが「埼玉とどう違うんだ!」と吠えていたが、全くその通りだと思う。

そんな中、埼玉に「ジョンソンタウン」というおしゃれな町があることを知った。

ジョンソンタウンのことを知ったのは、『ドロップアウトのえらいひと』を読んでいた時のこと。

誰の項目を読んでいたのか忘れたが、こんな文章があった。

その昔、狭山には「アメリカ村」と呼ばれるアメリカンな町があった。その町は、返還された米軍基地跡地にあった、米軍の兵士が家族と暮らした家々を使っているらしい。

基地の名前は「ジョンソン基地」。

そしてそこには「Y.M.O」や「はっぴぃえんど」で有名な細野晴臣をはじめ、多くのミュージシャンが集まって暮らしていたという。

そんなアメリカ村の、細野晴臣の家で録音されたアルバムが「HOSONO HOUSE」という音源なのだとか。

つまり、ボヘミアンが集まる街が、埼玉にあったというのだ。

しかも、場所が狭山。狭山という場所は「となりのトトロ」のモデルにもなった場所で、要は田舎だ。

僕はトトロの森の中に忽然と現れたアメリカチックな町を想像した。

調べてみると、狭山に隣接する入間市に「ジョンソンタウン」という町があり、そこは今でも当時の雰囲気を残しているのだとか。

というわけで、ジョンソンタウンに行ってみた。

埼玉のアメリカ村、ジョンソンタウンの旅

西武池袋線に乗って入間市駅を目指す。所沢から電車で15分。少しずつ、少しずつ畑が増えていき、やがて冬の森の中を電車は疾走する。

そこを抜けると入間市だ。駅は結構大きく、ちょっとした駅ビルもある。

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入間市は以前ピースボートのポスター貼りで訪れていたのでだいたいわかる。駅前にはお店が多く、大きなショッピングビルもある。道路も整備されているという印象だ。

団地の中を突っ切って真っ直ぐ南へ

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入間市役所を抜けてそのまんま東へ

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すると、大通り沿いにジョンソンタウンが現れた。

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中にはおしゃれな雑貨屋がいっぱい。こちらのお店はアメリカンな雑貨が所狭しと並んでいた。

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こちらのお店は雑貨屋とカフェをやっている。なんだか、海外の寄港地を巡っているかのような雰囲気だ。

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町の広さはちょっとしたショッピングモールくらい。ジョンソンタウンのお店のほとんどが雑貨、カフェ、洋服屋などの原宿にも負けないくらいのおしゃれなお店なのだけれども、中には整骨院や歯医者、不動産屋、ダンススタジオなどもあり、この街はテーマパークではなく、れっきとした町なんだということを思わされる。現に、この町に住んでいる人もいるのだ。

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クロアチアの旧市街地に行った時を思い出した。あの町もとても美しい城塞都市で、テーマパークのようだったが、路地へ入ると家からパラボラアンテナが伸びていたり洗濯物がつるしてあったり、れっきとした町であることを思い知らされた。

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いくつかのお店を巡っていると、面白い店を見つけた。

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中では、独特なバッジやポストカードなどを売っていた。ふと、二階を見上げると、若い男性が壁に青いペンキを塗っている。

なにこれ? 改装中? それとも、アート?

などと思っていると、別の店員さんが声をかけてきた。

この店は、ここで働く二人を含め、いろんなアーティストさんの作品を販売しているらしい。ただ販売しているだけでなく、それぞれのアーティストを紹介するような形になっている。

アメコミみたいな絵の雑貨や、ソフトなタッチなんだけどなかなかインパクトのあるのポストカード。もこもこしたペンケース、などなど。

後で調べてみると、メインは服屋さんだったみたい。

ANANSE TONTAN

せっかくなので、ノートを購入。

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作ったのはイマイサトミというアーティストらしい。

東京ではなく埼玉にボヘミアンな町はは確かにあったのだ。

このジョンソンタウン、立地もなかなか面白い。

道路から入って反対側に抜けると、広い公園である。

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さらに、その周囲も普通の住宅街である。

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面白いのが、ジョンソンタウンには明確な境界線がないのだ。普通の住宅街を歩いていたら、突如アメリカンな街並みがあらわれた、そんな感覚。

さらに、アメリカンな町の中にふつうのおうちが紛れ込んだりもしている。

これが何の写真か、おわかりいただけるだろうか。

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ジョンソンタウンに紛れ込んだ小料理屋を撮った写真である。

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隣はもう、アメリカンな建物である。

休日なのもあってか、昼間のジョンソンタウンは多くの人でごった返していた。しかし、夜になったらここはどうなるんだろうか。公園もあるし、案外静かなのかもしれない。

さて、細野晴臣たちはこのジョンソンタウンから1kmほど離れた稲荷山公園で10年ほど前に音楽フェスを開いていた。僕も稲荷山公園に向かって歩き出した。

ジョンソンタウンの向かいにあるこの公園も、米軍基地の跡地を使って作られた。多くの人でにぎわっている。

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基地の町に栄えたミュージシャンの村。そう考えると、J-POPはつくづく米軍基地とは切り離せない関係なのだから不思議だ。

J-POPの担い手となったミュージシャンたちは、戦後間もなく、進駐軍のクラブでアメリカ人兵士たちのためにジャズを演奏していた。この時学んだジャズの要素が日本の音楽に変化をもたらし、今日のJ-POPに発展していったと言われている。

また、この時、ミュージシャンを集めて進駐軍のクラブに送る仕事をしていた人たちが、後の芸能プロダクションである。

その辺の歴史は、荻原聖人やオダギリジョーなどが出演している2004年の映画「この世の外へ クラブ進駐軍」で詳しく書かれている。5人のジャズバンドマンの物語だが、ほとんど楽器が弾けないのに、食うために「ドラム経験がある」とウソついてバンドに入ったメンバーがいたり、家族が共産主義者で警察に睨まれているメンバーがいたり、ヒロポン中毒に陥ったメンバーがいたりと、当時の世相がよくわかる。

公園を抜けると自衛隊の入間基地。基地沿いに歩いていると、敷地内に古い戦闘機が止まっているのが見える。たぶん、展示用だろう。

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入間川方面。奥に見えるのは秩父の山々だろうか。

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稲荷山公園。名前の通り小高い山の上にあり、周囲は森に囲まれている。

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稲荷山公園駅から帰路についた。

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とんでもない誤解をしていた……

さて、こうしてジョンソンタウンを訪れ、HOSONO HOUSEの雰囲気に浸ってきたのだが、

どうやら僕が味わったのは、本当に「当時の雰囲気」だけだったらしい。

実は、この記事を書くに当たり最後の調査を行ったところ、とんでもない誤解をしていたことが分かったのだ。

ズバリ、細野晴臣はジョンソンタウンには住んでいない!

彼らが住んでいた「狭山のアメリカ村」は、確かにジョンソン基地跡地ではあるのだが、入間市の「ジョンソンタウン」ではなかったのだ!

どうやら、かつての狭山・入間地方にはジョンソンタウンのような街がほかにもあったらしい。

どおりでジョンソンタウンは入間市なのに、「HOSONO HOUSEは細野晴臣が狭山のアメリカ村に住んでいたころ……」という書き方をされていると思った。

雰囲気はジョンソンタウンと一緒だということで間違いないと思う。当時の「雰囲気」を知りたければ、ジョンソンタウンへ行くべきだろう。

だが、HOSONO HOUSEはココではなかった。

では、一体どこにあったのかというと……。

どうやら、稲荷山公園駅の近くだったらしい。

つまり、

こことか、

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こことか、

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この近くだったのである!

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……もっと時間をかけて探索すればよかった。

これは、また行かねばならないようだ。今度は稲荷山公園駅を中心に……。

細野晴臣の足跡 狭山アメリカ村の旅・完結(はっぴいえんど)編

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