映画「タイタニック」を船旅経験者が見るとこう映る・後編

世界的に大ヒットした映画「タイタニック」にもし自分がいたら、果たして生き残ることができるのだろうか。前回は映画の前半を検証した。映画「タイタニック」の前半は単なる「船上のロミオとジュリエット」だが、後半部分は一気にパニック映画の様相を呈してくる。もし、この船に自分が乗っていたら、果たして生き残れるのだろうか。


青い海は雄大だ。

陸地から見るのと船の上から見るのでは、海というのは全く違う。

船から見る海は360度、一面の青い海。それ以外何もない。

遥か遠く、何キロも先まで見渡せるのだが、海の青と空の青、あとは波しぶきの白と雲の白。それ以外の色はなく、陸地はおろか船の姿もない。

海は常にうねり続け、そのリズムはまるで地球の鼓動そのものだ。

それは青一色の単調なものであるにもかかわらず、ずっと見ていても飽きることがない。飽きる飽きないという次元を超越した、地球の雄大さそのものである。

海は雄大だ。だが、たまにぞっとすることがある。

もし、この海に投げ出されたら?

まず、足がつかない。よく「足のつかないプール」なんてのがあるが、あんなものの比ではない。場所によっては海底は何キロも下、山すらもすっぽりと飲み込んでしまう深さである。

そして、周りにすがるものは何もない。周囲は何キロにも、何十キロにも渡って陸地は存在しない。誰もいない。

川や浜辺でおぼれたって恐ろしいというのに、見渡す限り水しかないこんな海の真ん中に万が一投げ出されたら?

いくら歴史が流れようとも、海の上の景色は決して変わらない。古代ローマの軍艦も、コロンブスも、カリブの海賊も、ジョン万次郎も、みな同じ景色を見て来たのだ。

そして、あのタイタニック号も。

映画「タイタニック」後半のあらすじ

映画「タイタニック」の後半は、それまでのメロドラマから一転、パニック映画の様相を呈する。

そのきっかけとなったのが氷山との衝突だ。タイタニック号は氷山に衝突したことで船底に穴が開き、そこから水が侵入、沈没する。

映画では海の上にひょっこりと氷の塊が現れ、正面衝突は回避されたものの、かするように衝突してしまう。

氷の塊は見た目こそ大したことないが、氷山の一角とはまさにこのこと。水面下には見た目からは想像のつかない氷の塊が沈んでいるのだ。飲食店でもらうお冷で、氷が水面からちょっとしか出ないのと一緒だ。

どうしてタイタニック号は氷山とぶつかってしまったのか。映画の中でも「氷山の情報はつかんでいたのに何ぜぶつかったんだ?」と疑問を呈している。

wikipediaを見ると、操船ミス説、なにかの陰謀で実はわざとぶつかった説、スピードの記録を狙っていた節、果てには呪いのミイラを積んでいたからだという月刊ムーに書いてありそうな説まである。

映画の中では、タイタニック号の性能を過信し、氷山を発見してから急旋回しても十分避けられると思っていた、とされている。

氷山にぶつかり、すごい衝撃が船内を走ったわけだが、衝突からの最初の十数分はまさか沈没するとは思えない緊迫感のない状況が続く。

しかし、船長たちは実はこの時点ですでに、もはや沈没するとわかっていた。

船内をいくつかの区画に仕切った時、浸水が4区画までなら船は浮いていられるのだが、すでに5区画浸水しているため、もうだめだという。

船長は船体放棄を決意し、乗客は救命胴衣を着て避難を始める。

とはいえ、氷山衝突からあれよあれよあっという間に船が沈んで行ってしまったわけではない。映画の冒頭で、氷山衝突から完全に沈没してしまうまで2時間40分かかったという。

つまり、船室にいたまま取り残されてそのまま沈んでいった、という人は、ゼロではなかったと思うが、少数派のはずだ。

船室から脱出し、上階へと逃げることはそこまで関門ではない。

問題は船から脱出する段階である。

まず、そもそもタイタニック号に積まれていた救命ボートは、乗客の半分しか乗れなかった。しかも、その理由が「ボートが多いと見栄えが良くない」というクソみたいな話だ。

さて、当然ながらオープンデッキに乗客は殺到する。クルーは女性と子供を優先的に救命ボートに乗せる。

さすがレディファーストの国、などと言っている場合ではない。これによって起きてしまうのが家族の分断だ。

船が沈没し、救命ボートで脱出するという状況で、パパと引き離されてしまった子供たち。助かったとしても、なんと心細い状況だろうか。

デッキの上はパニックだ。救命ボートが足りないとなればなおさら。「あっちにはまだボートがあるぞ!」とか「あっちは男性客もボートに乗せているぞ!」とか様々なうわさが飛び交い、人々は右往左往する。

やがて船内の浸水が進み、多くの人が取り残されたまま、とうとう船が前方に向かって大きく傾く。滑り落ちていく人たち。船はどんどん海に沈み、ついに足場がなくなる。

が、水の入った前方の重みに船が耐え切れなくなり、ぼっきりと折れる。一時的に船の後方は浮上し、向きも平らになるが、後方と前方は完全に分離したわけではない。やがて沈む前方の引っ張られて後方も徐々に垂直に傾き始める。

傾く船体にしがみつく人たち。もはやボートは残っていないのか、あっても準備できる状況でないのか。牧師が聖書の言葉を唱えているがその声は震えている。彼もまた、天国の入り口から逃れられないサダメなのだ。

これを悪夢と呼ばずして何と呼ぶ。

そして、船は徐々にスピードをつけて海の中へと沈んでいく。主人公であるジャックとローズは船体の一番上にしがみつく。最後まであきらめないと、海面との衝突に備えるジャックとローズ。「なんか、ディズニーランドのカリブの海賊ってこんな感じだったよなぁ」と不謹慎なことを想う私。

こうして、2時間40分をかけてタイタニック号は完全に沈没してしまう。

だが、それで取り残された乗客がみな死んでしまったわけではない。海中に投げ出されるも、救命胴衣を着ていたおかげで海面に浮かぶ人たち。

だからと言って助かったわけではなかった。彼らは市民プールにいるのではない。カナダに近い北大西洋沖、氷山が浮かぶような冷たい海の中にいるのだ。それも、時刻は真夜中。冷たい海にどっぷりつかって、しがみつくものも何もない。冷たさが徐々に体力を奪っていく。

救助のボートが戻ってくるが、いくらなんでも遅すぎた。死屍累々とはまさにこのこと。冷たい海水に熱を奪われて死んでしまったのだ。

ヒロインであるローズはその中の数少ない生存者だった。彼女の言葉によると、海に投げ出されたのは1500人。そのうち生存者はローズを含めてわずか6人だという(ローズは架空の人物です、念のため)。

検証:なぜこれほどまでの死者を出したのか

タイタニック号がこれほどの死者を出した最大の要因は、やはり絶対的に救命ボートが足りなかったことだろう。最初から半分しか助からなかったのだ。

救命ボートが足らないとなると、必然的に椅子取りゲームが始まる。お遊びの椅子取りゲームですら押し合いへし合いするのに、それが命がけともなればなおさら。パニックが起きるのはもはや必然だろう。

現代の客船では救命ボートが足りないなんてありえない!……と言い切れると信じたい。

だが、それでも気になることがある。

救命ボートは半分しかなかった。

それでも半分は助かったはずである。

タイタニック号の乗客は2200人。半分なら本来1100人は助かったはずだ。

だが、実際ボートに乗れたのは700人。あとの1500人は海に投げ出され、助かったのはわずか6人だ。本来乗れるはずの400人が乗り遅れたことになる。

ちなみに、この数字は映画の中で語られているものだ。今回の記事ではこれをもとに検証する。もしこの数字そのものが間違っているというのなら、文句は僕にではなくジェームズ・キャメロンに言ってくれ。

1100人乗れるはずのボートに700人しか乗っていなかったのだとしたら、もし2200人分のボートがあったとしても、1500人しか助からなかったという計算になる。

なぜ、ボートに定員ぎりぎりまで乗れなかったのだろうか。

映画の中ではクルーが救命ボートの転覆を心配して定員から大幅に少ない人数しか乗せず、船の責任者から「定員65人のボートに70人乗せてテストしてるんだ! 定員ぎりぎりまで乗せろ!」と一括されるシーンもある。

また、デッキの上はパニックを起こしていた。これから船が沈むとなればパニックになるのも当然だが、この混乱が避難を遅らせたのではないか。

おそらく、タイタニック号の乗客は避難訓練を行っていなかったのだろう。

だから、いざ沈没となっても、これからどういう行動をとればいいのかわからない。どこに逃げればいいのかわからない。どのボートに乗って逃げればいいのかわからない。誰から順番にボートに乗り込めばいいのかわからない。

その結果、デッキの上で押し合いへし合い、ボートを求めてあっちこっちを右往左往。乗客はもちろん、クルーも冷静ではいられない。

こうやって考えると、避難訓練って大切なのだなぁ、とつくづく思う。

何が一番大事って、緊急事態が起こった際に「どうすればいいのか」を知っているということだ。

現代社会ではなんでもネットでググればすぐに出てくる時代である。都市で生活する分には知識をため込むことになんてもはや価値がない。

しかし、こういったサバイバル的な状況となれば話は別だ。しっかりとした知識を持っていることが重要になる(そもそも、海上ではネットがほとんど通じない)。

とはいえ、「知っている」だけではだめだ。いかにちゃんとした知識を持っていても、いざ一大事となった時にパニックになって「わー、どうしようどうしよう!」と言って肝心の知識が出てこないのでは意味がない。よくクイズ・タイムショックで「いやぁ、この席に座ると、普段なら答えられる問題も答えが出てきませんねぇ」などという言葉を聞くが、事故だ災害だの時の緊迫感はタイムショックの比ではないだろう。

迅速に、正しい知識を脳みそから引き出さないと、死ぬ。

正しい知識を知っているだけでなく、それを冷静に引き出すことが大切である。

客船の避難訓練

ピースボートの場合、「24時間以上船に乗る場合は乗船後すぐに避難訓練を行う」と義務付けられている。この義務がピースボートのオーシャンドリーム号だけなのか、なにかの条約で決まっているのかは、調べても見つからなかった。

避難訓練は、船に乗って一番最初にやることだ。その後も1か月に一回のペースで避難訓練が行われている。

そもそも、こういう海上の安全対策が重視されたのは、タイタニック号の事故がきっかけと言われている。

避難訓練ではどのようなことをするのか。

まず、船長から「船体放棄を決意しました」との旨のアナウンスが流れる。それを聞いたら救命胴衣を身に着けて避難場所へと向かう。

タイタニックが沈没まで2時間40分かかったように、船に穴が開いて浸水が始まったからと言って、あっという間に沈むわけではない。必要な荷物を準備し、身支度を整え、トイレをすますくらいの余裕はある。決して、走ったりしないこと。

さて、ピースボートのオーシャンドリーム号の場合、船内に3か所の避難場所、というよりは緊急時の集合場所がある。これのどれに行ってもいいわけではなく、よほどのことがない限り原則として船室ごとに割り振られた集合場所へと向かう。

集合場所に向かうとクルーがいて、学校の出欠確認のように一人一人名前を読んで、ちゃんと来ているかどうかを確認する。

そして、外のデッキに出る。目の前には救命ボートがあり、これに乗り込んで逃げるわけだが、訓練ではそこまではしない。デッキに3列になるように並んで「では、この後ボートに乗ります」というところで訓練はおしまいだ。

ちなみに、不真面目に訓練中に友達とぺちゃくちゃしゃべっていても怒られることはない。本人この身で実証済みだ。

不真面目でも避難訓練を受けておけば、映画「タイタニック」の中で描かれた「どう行動したらいいかわからない」や「どこに行けばいいかわからない」といった不安から生じるパニックは回避できるはずだし、客室ごとにボートに乗り込む場所が決まっているので、ボートを求めて右往左往する混乱も避けられるはずだ。


映画「タイタニック」のラストシーンでは、事故から84年たち101歳となったローズが、夢の中でジャックと結ばれるシーンで終わる。傍らにはその後のローズの人生を映したものと思われる写真が飾られている。旅先でだろうか笑顔を見せるローズの姿に、タイタニックの事故に巻き込まれたからと言ってローズの人生は決して悲劇的なものではなく、ジャックとの出会いを機に退屈な上流社会と決別できたローズのその後の人生は幸福なものだったことが示されており、「タイタニック」という悲劇・悪夢の中でそれが救いである。

タイタニック号の悲劇は映画の中で散々語りつくされているが、意外と忘れがちな悲劇の一つが「この惨劇には墓標がない」ということかもしれない。

事故のあった海に行っても、「ここでタイタニック号が沈みました」などという墓標はない。ただただ、青い海が広がっているだけである。

映画「タイタニック」を船旅経験者が見るとこう映る・前編

映画「タイタニック」は1997年に公開された、世界的に大ヒットした映画だ。実際の豪華客船沈没事故を描いている。子供のころにタイタニックは一度見ているが、「船旅を経験した今、この映画を見たらどう映るんだろう?」と興味を持って、ビデオ屋で借りてきた、前編195分とあんまりにも長い映画なので、今回はその前編だ。


タイタニック号沈没事故の基礎知識

映画「タイタニック」は貧乏な青年ジャックと、お嬢様のローズの恋を描く映画であるが、その舞台となるタイタニック号は実在した船で、この船が沈没してしまうというのもまた、実際にあった事件である。以前に監督のインタビューを見たときは、「ジャックとローズの恋物語以外はすべて史実に沿っている」と胸を張っていた。

タイタニック号は1912年4月10日に、イギリスのサウサンプトンをアメリカに向けて出航した。今から100年以上前の話だ。

1912年がどういう年かというと、中華民国が誕生し、夏目漱石が存命で、通天閣が完成し、「いだてん」の金栗四三がオリンピックに参加した年である。日本では明治が終わり、大正が始まった。

さて、タイタニック号である。当時は世界最大の豪華客船で、「絶対に沈まない船」と言われていた。それが1週間もたたずに沈んでしまったというのだから、笑えない。

その重さは46328t。ピースボートのオーシャンドリーム号が35000tだから、結構でかい。100年前の船だと思うとなおさらだ。飛鳥Ⅱが50000tだから、あの飛鳥Ⅱとそんなに変わらない。

100年前にこんな船が出てくれば、まさに「夢の船」である。

乗客は1500人ほど。一説には2000人以上が乗っていた、とも言われている。

その速度は23ノット。オーシャンドリームがだいたい17ノットぐらいだったから、かなり早い。

この当時、船こそが国と国とを、大陸と大陸を移動できる唯一の大型の乗り物であり、船会社はどこもそのスピードを競っていた。タイタニック号はその競争から一線を画していたというが、それでも結構早い。

タイタニック号が沈没したのはカナダ沖。オーシャンドリーム号がジブラルタルからメキシコまで2週間近く擁していることに比べると、わずか6日でカナダ沖までたどり着けるのは、結構なスピードである。

タイタニック号はこのカナダ沖の北大西洋で、氷山に衝突して穴が開き、沈没した。

衝突してすぐに沈んだわけではない。徐々に水が入って行って、映画の中では2時間40分で沈没したと語られている。映画「タイタニック」の上映時間とほとんど同じだ。

映画の中の説明では、船の前方に穴が開き、そこから水が入ってくる。おそらく3等の客室があったであろうと思われるフロアは壊滅的なぐらい水に埋まり、その水がどんどん後方へと流れていく。前方が水で満たされてしまったため、重さで前方だけ水に沈み、後方は持ち上がり、タイタニックはまるで水泳選手が飛び込んだその瞬間かのように縦になる。だが、そもそも船は縦になるように作られてなどいないのでその重さに耐えられず、ぽっきりと折れる。もう助からない。

「タイタニック」って何の映画だろう?

さて、では実際に映画「タイタニック」を見てみようとビデオ屋に足を運ぶ。

タイタニックほど有名な映画ならすぐ見つかるだろう、と高をくくっていたが、あることに気づく。

ビデオ屋では古い映画はジャンルごとに分類されている。

「タイタニック」のジャンルってなんだ?

「タイタニックはどんな映画ですか?」と聞いたら10人中8人くらいは「船が沈む映画です」と答えるだろう。

だったら、パニック映画だろうか。と思ったけど、そもそも近所のTSUTAYAには「パニック映画」というジャンルの棚はなかった。

そもそも、「タイタニック」を「お化けトマト大襲撃」みたいな映画と一緒にしてはいけないような気もする。

じゃあ何だろう。アクション映画? いや、船は沈むけど、派手なアクションで乗りり切るとかそういう話じゃなかったと思う。

それでもまさかとは思うけど、と探してみるとなんと、アクション映画の棚に「タイタニック2012」が置いてあるじゃないか!

えー、あれ、アクション映画だったのか⁉ と思ってよく見てみると、「タイタニック2012」。タイタニックは97年の映画のはず。そっくりな名前の別の映画のようだ。

ならばサスペンス映画? 確かにタイタニック号の事故にはいくつか謎はあるけれど、その謎がメインの映画じゃなかったと思う。

恋愛映画? 確かに、ジャックとローズの恋を描いた映画であり、恋愛要素は強い。

実際、恋愛映画の棚にタイタニックはあった。

ただ、タイタニックを「恋愛映画」と認識している人がどれだけいるだろうか。10人中8人はやっぱり「船が沈む映画」だと思ってるんじゃないだろうか。

映画「タイタニック」の前半部分

物語はタイタニック号の沈没から84年後の1996年、海底に沈むタイタニック号から1枚の絵が引き上げられ、それが報道されたことから始まる。

この絵をテレビで見た101歳の老婆が、タイタニック探索チームのもとを訪れる。

なんと、ローズというこの老婆は84年前、17歳の時にタイタニック号に乗っていた生き残りだという。物語は彼女の思い出話として始まる。

1912年4月10日。「世界最大の豪華客船」「不沈船」「夢の船」と様々な称号で呼ばれたタイタニック号がイギリスはサウサンプトンを、ニューヨークに向けて出港する。

その5分前、この映画のもう一人の主人公、貧乏画家のジャックが慌てて船に飛び乗る。

今だったら「5分前に飛び乗る」なんて絶対に無理だろう。新幹線じゃないんだから。

船に乗る前にパスポートの確認とか、手荷物検査とかあって、乗ったら乗ったでまずは避難訓練がある。その後出航の準備が整ってようやく出航するのだ。

ジャックは3等船室に案内される。そこには2段ベッドが二つあるだけ。ちなみに相部屋だ。

この辺はオーシャンドリーム号によく似てる。

オーシャンドリーム号の安い船室は、船室にシャワー室があるぶん、もうちょっと広いが、二段ベッドしかない相部屋、といういいではほとんど変わらない。

3等の乗客が乗るスペースではほかにも、夜に音楽とダンスでバカ騒ぎする描写などが描かれており、どことなくピースボートでの船内生活を思い出させる。

さて、映画を見て気になったのが、

船酔いで苦しむ人の姿が見えない、ということ。

僕が船に乗っていた時は、1日目は船酔いに悩まされた。

僕の感覚では、乗客の3分の1は船酔いに苦しめられていた気がする。

ところが、映画の中ではジャックもローズも、その周りの人たちも、まるで丘の上のホテルにいるかのようにくつろいでいる。

「初日」はそんな生易しいもんじゃないぞ!

もちろん、個人差があるが、酔う人は酔う。体が船に慣れていない分、症状はよりひどい。

23ノットというハイスピードで進んでいたら、登場人物の25%くらいは船酔いにやられて、死んだ魚のような眼をしていておかしくない。食事ものどを通らない。

大西洋はそんなに揺れないんじゃないか、とも考えたが、決してそんなことはない。

むしろ、大西洋は、揺れる。

ジブラルタル出航の日、地中海から大西洋に出た瞬間にいきなり揺れが大きくなったくらいだ。僕が船に乗っていた108日間の中で一番大きな時化に出会ったのも大西洋だった。船が大きく揺れ、一瞬浮いたんじゃないか、と錯覚したほどだ。

大西洋は揺れるはず。そして、初日はもっとみんな死んだ魚のような眼をしているはず。

ちなみに、僕の船酔い対策は意外にも「動き回ること」である。

じっとしていた方がよさそうな気がするが、じっとしていても船は揺れるのを止めてくれない。

自分の意志とは裏腹にゆらゆら揺れているから気持ち悪くなるのである。こういう時は歩き回ったり、音楽に合わせて踊ったりすると、自分のペースで動くため、次第に酔いが治る。科学的根拠はないが、身をもって実証済みだ。

また、映画の中ではジャックが乗船早々にイルカを発見しているが、そんな簡単にイルカは見つからない。

さて、物語はジャックとローズの出会いへと移っていく。ローズは上流社会の令嬢だったが、家は没落寸前で、そんな家を救うために親の決めた相手と結婚することに。上流社会での数十年先まで見通せる日々は退屈を通り越して絶望的で、ローズは船から身を投げようとするがそこをジャックに救われる。

次第に惹かれていく二人だが、二人の間には身分の違いという越えがたい壁が……。

要は、船上の「ロミオとジュリエット」である。確かに、「身分差のある恋物語」というのは面白いが、少々使いまわされてる感も否めない。

そしてスタートから1時間20分で、あの有名なシーンが訪れる。

セリーヌ・ディオンの歌う主題歌が流れる中、船の一番前で、ローズが両手を広げ、ジャックがそれを支えるという、タイタニックを代表するシーンだ。当時、多くの人が屋上とか遊覧船とかでこれを真似した。

客船に乗るのなら、一度はやってみたいシーンである。

だが、残念ながら、現代の客船ではこれをやることは難しい。

船の一番前には行けないのだ。

僕自身、船の一番前で「野郎ども、島が見えたぞー!」と叫ぶのが夢だったのだが、残念ながら、地球一周の108日間の中で一度もこれをすることはできなかった。

船の前方、特にブリッジ(操縦室)よりも前のスペースに行けるのは、作業員の人だけである。

スエズ運河とかパナマ運河とか、航海の中でも見どころとなるところでは船の前方がちょっとだけ開放されるが、それでも、「一番前」には近づくことすらできない。

ちなみに、この船の一番前というのはブリッジから丸見えなので、「船長にばれないようにこっそりと忍び込む」など絶対に無理だ。一歩足を踏み入れた時点で絶対にばれる。

船長をはじめクルーが居眠りでもしていれば話は別だが、そんな船は早晩沈むので、乗らない方がいい。

よしんば近づけたとして、ここでもう一つ残念なお知らせがある

船は、前方の方が揺れる。

当然、一番揺れるのは、一番前である。

そう、タイタニックのあの名シーンに必要不可欠な「船の一番前」は、船の中で一番揺れるのだ。

穏やかな波の日ならいいが、さっきも書いたように、大西洋は結構揺れる。

おまけに船の先端は波をかき切るため、波しぶきがかかる。

時化の日など、水が地上6階に相当する高さまで跳ね上がる。

これはもう、びしょぬれになる、程度では済まない。下手したら揺れと水で足を滑らせて頭を打ってあの世行きだ。

それでも、タイタニックに乗ってみたい!

さて、かの有名なシーンのところで、映画の時間軸は96年の時点へと戻る。上映時間もちょうど折り返し地点だ。

ローズが船の一番前で両手を広げてからわずか6時間後に、タイタニック号は氷山にぶつかってしまう。ここからが映画の見せ場なのだが、長いので今回はここまで。

最後に、僕のここまでの映画の感想を記そう。

ぶっちゃけ、ここまでの話は「船上のロミオとジュリエット」である。既視感が強く、どうしてこの映画がヒットしたのかいまひとつわからない。

ただ、既視感が強いのだけれど、やはり映画に引き付けられてしまう。「身分差のある恋物語」はやっぱり強い。

そして、船オタクとしてはこうも思う。

タイタニック号に乗ってみたい!

ただでさえ客船というだけで心躍るのに、20世紀初頭のアメリカの空気をたたえた船である。

1等客室はローズでなくても息が詰まってしまいそうだが、3等客室の飲めや歌えやのバカわさぎっぷりは、ピースボートで「船に終電はない!」とバカ騒ぎしていたころにそっくりだ(終電はないけどあまり騒ぎすぎると苦情が来ます)。

ああ、一度でいいから、タイタニック号に乗ってみたい。

たとえその船が6日後に沈む運命だとしても!

さて、次回はいよいよ、船が沈むクライマックスである。「船が沈む」とは一体どういうことなのか、どうすれば助かるのか、船旅経験者の目線で見ていきたい。

新宿と上野が「カオスの街」となった理由

なぜ、外国人街と風俗店街は隣り合ってるのか? これまで新宿と上野を舞台になんと3回に分けてその理由を考察してきたが、ついに最終回である。なぜ、新宿と上野だけが「カオスの街」となったのか。そのカギを握るのは、民俗学で言うところの「境界」なのではないだろうか。


これまでのあらすじ

きっかけは、西川口のチャイナタウンに行った時だった。チャイナタウンと風俗店街が隣り合っている風景を見ているうちに、外国人街と風俗店という組み合わせは多いのではないか、と考えるようになった。

東京では、新宿と上野がそうだろう。

新宿は日本最大の歓楽街・歌舞伎町があり、歌舞伎町から道路を挟んで反対側は、やっぱり東京最大のコリアンタウン、新大久保だ。

上野はアメ横内にアジアの料理を出す屋台が多い。アメ横の周辺には「キムチ横丁」をはじめとした韓国料理屋が多い一方で、風俗店街も多い。

そのすぐ北にはラブホテルが密集する鶯谷がある。さらにその北にはやはり在日コリアンが多く住む三河島がある。

外国人街と、風俗店街は確かに密接な距離にあるのだ。

その歴史をたどると、戦後の闇市の時代に行き着く。

闇市の時代では、テキヤをはじめとするアウトロー集団や、第三国人と呼ばれる在日アジア人たちが力を持っていた。

本来、アウトローはやはり町で大きな力を持つことも、外国人が日本で土地を取得して町を形成することも、難しい。だが、闇市の時代はあらゆる秩序が崩壊し、それが可能だったのだ。

こうして、闇市の時代に新宿や上野では外国人街や風俗店街へと移り変わる土壌が出来上がる。それまでの常識や秩序が崩壊し、権力の外にいたアウトローや外国人が、闇市の時代に力を手に入れたのだ。

だが、ここで疑問が一つ残る。

闇市の時代に外国人やアウトローが力を持つ。

これは何も、新宿と上野に限った話ではない。

東京のいたるところに闇市が立ち、どこの闇市でも大体状況は同じだったはずである。

だが、今、東京でも風俗店街や外国人街が密集しているのは、新宿と上野くらいである。

ほかの町では、闇市の時代に一時的に彼らが力を持とうとも、警察機能や地権者が力を取り戻すにつれ、その影響力は失われていったはずである。

だが、新宿と上野はそうはならなかった。形を変えて、外国人街や風俗店街は生き残っていったのだ。

なぜ、新宿と上野だけなのだろうか。ほかの街とは何が違ったのだろうか。

そのカギを握るのが、「境界」という言葉である。

境界がカオスをはぐくんだ

境界。すなわち、どこかとどこかの境目。

身近な境界では、敷地と公道の境目とか、自分の土地とよその土地の境目とか、県境とか、国境とか、とにかく、どこかとどこかの境目である。

民俗学の世界では、この境界はなかなか興味深い場所だ。

いまでこそ、県境はただの「行政区分の変わり目」程度の存在でしかない。

しかし、かつては「村境」というと、「この世とあの世の境」のような扱いだった。

村の外には山や森、人の住まぬ荒れ野原などが広がり、そこには妖怪や幽霊がいると信じられていた。

村の外は人の住まない世界、異界だったのである。

村人たちは、そういった村の外から魔物のようなよくないものがやってくると信じていた。

だから、村境に庚申塚のような魔よけの石仏を置いて、魔物の侵入を防いでいたのだ。

また、神社やお寺は、村と山の境目に作られることが多い。

村は人が住むところ、山は獣や物の怪の住む異界。その境目に、人が神や霊と接する場所である寺や神社を作るのだ。

それは、何も小さな村だけの話ではない。大きな都市も同じである。

たとえば、古都・鎌倉を見てみると、鶴岡八幡宮をはじめとして、多くの寺社仏閣が山沿いに建てられている。

境界から向こう側は、村の常識や秩序が通用しない、カオスな異界なのである。

さて、日本において「外国人街」は異質な存在である。また、都市部においても「風俗店街」は秩序から外れた異質な存在だ。

しかし、こういった街は、客商売をしている店が多く、都市から離れすぎると人が来なくなり、街が成り立たない。

都市の真ん中にあるには異質すぎる。だが、都市の外側では街そのものが成り立たない。

だから、都市の中と外の境界にできる。

境界には、都市の秩序や常識から外れたものをはぐくむ力が、「カオスをはぐくむ力」があるといってもいい。

実際、村境には寺や神社、魔よけなど、村の中の理から外れた、人の世ならざるものと交流できる場所として機能してきた。

怪談話や怪奇現象が起きるのも、決まってこの境界部分である。

では、「東京の境界」とはどこだろうか。

東京の境界はどこだ?

東京の境界? そんなの、東京と他県の県境に決まってるだろう。荒川とか、江戸川とか、多摩川とかを指すのだ。

と思ったあなた、それは「東京都の境界」である。

そうではなく、「都市としての東京の境界」、すなわち、『東京における、都市部と郊外との境界』はどこなのだろうか。

「ここだ!」という明確な答えはないのかもしれない。「ここからこっちが都市部で、ここからこっちが郊外です」という明確なラインはないからだ。

だが、それを探す手がかりがある。

それが「江戸の境界」である。

江戸の町というのは、今の東京都と比べると、かなり小規模だった。東京23区よりも小さい。

その境界は、東は錦糸町のあたり、西は新宿、南は品川、北は千住と言われていた。

南千住には「泪橋」という橋がある。あしたのジョーが丹下段平と出会った場所として有名だが、この泪橋とは処刑場跡地でもある。罪人はこの橋を渡って処刑場へと向かう。そして、この橋が家族との最後の別れの場所でもあり、家族は涙を流して見送ったため、どこの町でも処刑場へと続く橋は「泪橋」というのだ。

死のケガレと密接にかかわる処刑場は都市の真ん中には作れない。かといって、都市から離れすぎたら不便だ。そのため、都市の境界に作られた。

さらに、南千住は江戸最大の遊郭、吉原とも近い。境界がカオスをはぐくむというのなら、江戸の北の境界に、江戸最大のカオス、吉原があるのも納得だ。

一方、品川は江戸の南の玄関口だ。つい最近、品川と田町の間の新駅の名前が「高輪ゲートウェイ」だと発表され、「くそだせぇ!」と話題になったが、この「ゲートウェイ」は江戸の入り口だったことが由来だという。

江戸時代、品川は宿場町だった。日本橋から出発する東海道、最初の宿場町である。

江戸を出ていくものからすればまさしく江戸の出口だったし、江戸に向かうものからすればまさしく江戸の入り口である。

さて、この品川の宿場は飯盛り女がいたことで有名である。

飯盛り女とは、超簡単に言えば、娼婦だ。

品川もまた、境界であるが故のカオスを持っていたのだ。

ちなみに、終戦直後、日本にやってきた米兵を性的な意味で接待するためのRAAという施設が作られたが、その第一号ができたのも品川、大森海岸だった。

西の境界線、新宿も同様である。甲州街道の宿場町であり、やはり新宿にも飯盛り女がいた。今でも墓が残っている。

新宿も境界であるがゆえ、寺が多い。

新宿は世界一の乗降者数を誇る駅である。それは、新宿駅の改札をくぐる人が多いだけでなく、新宿で乗り換える人が多いことも意味する。郊外から都市部へと通勤通学する人たちが新宿駅で乗り換える。都市部から郊外へと出ていく人が新宿駅で乗り換える。今も新宿は東京の境界にある街なのだ。

では、上野はどうなのだろうか。江戸の境界が千住だというのなら、上野は境界ではないことになる。

だが、上野には寛永寺がある。寛永寺は江戸城の鬼門に作られ、江戸を霊的な力で守る役目を背負っている。そのすぐ北には谷中墓地があり、広大な墓場が広がっている。

上野もまた、この世ならざるものと接触できる「境界」だったのだ。

江戸の都市全体としての境界は千住だったが、都市の中でもさらに中心部と下町に分かれる。その境目こそが上野だったのではないか。

江戸が終わり東京になると、上野は境界としてさらなる役目を背負う。上野は、東北方面へと向かう列車の始発駅であり、「北の玄関口」と呼ばれていた。

終戦直後には郊外へ食糧を調達しに行った人が、上野で検閲に引っかかって没収された。この時代もやはり、上野は境界の街だったのである。


境界には、カオスをはぐくむ力がある。

かつては、幽霊や妖怪、神様のような人ならざる者、この世ならざる者との接点が境界だった。

今では「境界の向こうにはお化けが住んでいる」などと信じる人は少ないだろう。

だが、境界には風俗街のようなアウトローな街ができたり、コリアタウンのような外国との接点が生まれたりする。

それは、都市の一部でありながら、都市の常識や秩序に縛られない、境界の持つ「カオスをはぐくむ力」があるが故である。

境界には、カオスをはぐくむ何かがある。

新宿の歓楽街も上野のアメ横も、はぐくんだのは戦後の闇市だった

新宿と上野も、アジアンタウンと風俗店街が隣接している。なぜ、アジアンタウンと風俗店街は隣り合うのか。そして、なぜ、新宿と上野なのか。その理由を戦後の闇市という観点から紐解いていきたいと思う。新宿と上野は、いや、東京という町は、戦後の闇市から生まれた街なのだ。


これまで、このブログでは新宿と上野を歩きながら、以下のことを見てきた。

・風俗店街と外国人街が隣接、混在している。

・どちらの町も、江戸において中と外の境界、異界との入り口にあった。

風俗店街と外国人街の奇妙な関係 新宿編

風俗店街と外国人街の奇妙な関係 上野編

なぜ、外国人街と風俗店街が隣り合うのか。それを紐解くには、新宿と上野の歴史を見ていかなければならない。

その始まり、「戦後の闇市」の時代を。

戦後の闇市の姿

「東京の歴史を探る」という話をしたら、江戸時代から始まるのがふつうな気もする。

だが、残念ながら現代の東京に江戸の町並みはほとんど残っていない。江戸時代を彷彿とさせる建物が残っていたら、東京ももっと違った街になったろうに。

江戸時代はおろか、明治・大正の町並みすら残っていない。なぜだろうか。

いろんな要因があるだろうが、その一つが「第二次世界大戦」である。

東京大空襲をはじめとする空襲で、ほとんどの建物が焼けてしまったのだ。

新宿だ上野だといったターミナル駅の周辺も、終戦直後は建物なんてほとんどなかった。

もっとも、こういったターミナル駅の周辺は、火事になるのを防ぐために住民を疎開させて、先に建物をぶっ壊して更地にしておくという「交通疎開空地」と呼ばれる場所も多かった。

まあとにかく、終戦直後の東京は今の東京からは想像もつかない焼野原、「ほぼ更地」だったのだ。

さて、戦争が終わり、一抹の開放感はあったものの、何よりも大事なのは自分や家族の命、今日のご飯と明日のパンツである。なんとしても食糧を手に入れなければいけない。

そういった事情から、東京の駅という駅の周りには闇市が立った。露店やバラック小屋で、食料品や日用品を売っていたのだ。

しかし、なぜ「闇市」というのだろう。

「闇市」の夜「闇」とは、「非合法」という意味だ。

露天商にしてもバラック小屋にしても、不法占拠だった。法的にそこで商売する権利は何もない人たちが、勝手に居座って商売をしていた。

さらに、政府による食料統制もあったため、勝手に食料を売ってはいけないことになっていた。

闇市を取り仕切っていたのも、テキヤというアウトローな集団だった。

闇市は違法行為なんだけれど、それを取り締まっていたら、食糧が手に入らない。東京高校の教授だった亀尾英四郎や、東京地裁の判事だった山口良忠は、闇市での食料購入を拒み、餓死した。山口は日記の中で「食料統制は悪法だ」と断言しつつも、それでも法の順守を貫いた。

逆に言うと、法律を守っていたら食べ物が手に入らずに死んでしまう時代だったのだ。

警察も取り締まりを行っていたが、終戦直後の混乱期ではやはり警察機能の弱体化は否めない。

さらに言えば、警察は黙認どころか、裏で闇市を推奨していた。新宿西口の安田マーケットは、テキヤの「安田組」が取り仕切っていたが、安田組にマーケットを仕切るように依頼したのは、なんと警察署長だった。闇市は違法だが、このままでは第三国人に新宿を乗っ取られかねないと危惧した警察署長が、そうなる前にと安田組の親分に西口のマーケットを仕切るように依頼したのだ。もちろん、西口のマーケットも不法占拠だ。

それにしても、どうしてこうもホイホイ不法占拠ができるのだろうか。

いまの新宿でどこか空地があったとして、そこで勝手に商売を始めれば、必ず地権者がやってきてけんかになるだろう。

つまりは、地権者にばれなければ、不法占拠は継続できるのだ。

終戦直後、地権者はどこへ行ってしまったのかというと、たいていが疎開していた。

終戦直後の東京は誰もかれもが今日を生きるのに精いっぱい。更地になってしまった土地なんてどうでもよかった。そんなことよりも必要なのは今日のご飯、明日のパンツである。実際、新橋でマーケットを仕切っていた中国人が、新橋の土地の地権者に土地を譲ってもらえないかと頼みに地方へ出向いたところ、実にあっさりと譲ってもらえたという。土地を守るよりも、土地を売って食費に変えた方がいい、そういう時代だったのだ。服を売って、家財道具を売って、そうしてあるもの全部売って食費に替えることを「タケノコ」と呼んだ。

だいたい、東京の闇市で売られている食糧は地方から運ばれてきたものである。食事のことを考えると、わざわざ東京へ戻るくらいなら疎開先の地方にとどまったほうが、食糧が手に入りやすい。

そういった事情があるから、東京の地権者たちは戦争が終わってもすぐには帰ってこなかった。そこをこれ幸いとテキヤだの第三国人だの浮浪者だのが占領し、闇市を開いていた。

だが、それは戦後、警察機能が弱体し、地権者が帰ってこれなかった間、それまでの秩序が崩壊したつかの間にしか成立しない。闇市は昭和22年にはほとんど姿を消してしまう。このころになると警察は力を取り戻し、地権者たちも地方から帰ってくる。地権者が帰ってきて闇市を見れば、当然「出てけー!」という話になる。

そこで出ていく者もいれば、土地を買うなり借りるなり、ちょっと場所を移すなりしてそのまま残る者もいた。今の東京の繁華街の多くは、こうした闇市が残り、発展したものだ。

闇市とアメ横

上野のアメ横もそんな街の一つだ。

アメ横には終戦当時、関西からやってきた朝鮮人が多く集まっていた。また、「パンパン」と呼ばれる売春婦も多くいて、彼女たちは桜のマークに「Ueno」と書かれたバッヂを作り、連帯を深めていた。

朝鮮人たちを中心とする第三国人は、仲御徒町の線路沿いで石鹸を売っていて、その一帯は石鹸町と呼ばれていた。

この第三国人は日本人とのいざこざが多かった。上野一帯の第三国人は7割が学生だったという。

やがて、復員軍人や中国からの引揚者からなる近藤マーケットが第三国人をアメ横から追い出す。この近藤マーケットが、今のアメ横へと発展していった。

追い出された第三国人はどこに行ったのかというと、アメ横から大通りを挟んだ反対側にキムチ横丁という街を作った。

ここで重要なのは、終戦後の上野には外国人、特に朝鮮人が多かったこと、そして、彼らはアメ横から追い出されても、上野にとどまり続けたことである。

すなわち、上野は闇市の時代から、朝鮮人をはじめとするアジア人の集まる街になったのである。

闇市と新宿、歌舞伎町の始まり

「光は新宿から」。新宿の尾津マーケットを取り仕切ったテキヤの親分、尾津喜之助が掲げたスローガンだ。

新宿駅前では尾津組や安田組と言ったテキヤ集団が闇市を取り仕切っていた。

だが、戦後1~2年もすると、地権者たちが帰ってきて、闇市の時代は終わりを告げる。

さらに、小田急電鉄が新宿の開発に乗り出す。新宿は小田急の始発駅。始発駅のブランド価値を高めることによって、新宿発の小田急のブランド価値も高まる。こうした開発の波に小さな店は飲み込まれていった。

新宿西口線路沿いの思い出横丁は、レトロな雰囲気を残す場所として、連日多くの人が狭い路地に集まる。ここは、闇市の店が戦後、地権者から正式に土地を購入して残ったという、新宿でも非常にレアなケースだ。

さて、新宿、いや、東京最大の歓楽街と言えば歌舞伎町である。歌舞伎町もそうして闇市が発展したものだ。

……と言いたいところだが、実は違う。

もともと、今の歌舞伎町の一帯は武家屋敷の跡地、「大村の森」と言われる森だった。今の大久保病院の前には、池があり、花道通りは川だったという。なるほど、確かに花道通りは、まるで川のように蛇行しているし、歌舞伎町内には水の神様である弁天様が祭られている。

大久保病院自体がそもそも、コレラや伝染病を専門とする、隔離病院だった。歌舞伎町は、そういう病院を作るような、町はずれの場所だったのだ。

終戦後、この「大村の森」は駅から遠すぎて、闇市は立たなかった。一方、町会長だった鈴木喜兵衛は劇場や映画館を中心とした、浅草のような演劇の街をこの地に作ることを構想する。その中心となるのが、歌舞伎座の誘致だった。ゆえにこの地は歌舞伎町と名付けられ、開発が行われた。

だが、この計画は思うようにはいかなかった。歌舞伎座の誘致に失敗したのもあるが、やはり駅から遠すぎたというのが一番の難点だった。

一方、新宿駅前では地権者たちや警察の力がよみがえり、闇市の時代が終わった。そこであぶれた商売人たちが、新宿の北に新しい街ができたと聞きつけ、歌舞伎町で商売を始めるようになった。

やがて、1950年になると朝鮮戦争がはじまり、日本は戦争特需といって朝鮮半島で戦うアメリカ軍に物資やサービスを提供することで、景気が向上する。歌舞伎町もその影響でにぎわいを見せ始めた。

1951年には歌舞伎町内に東京スケートリンクが開業し、これがヒットする。

1952年には歌舞伎町のすぐわきに西武新宿駅が開業。さらに都電の停留所も二つ作られ、最大のネックだった「交通量のなさ」が解消された。

そして1956年には歌舞伎町の中心となる新宿コマ劇場(現在の東方の映画館)がオープン。

こうして、歌舞伎町は発展していくが、昭和30年代はまだ、今のような歌舞伎町とは違い、風俗店だやくざの事務所だといったものはなく、むしろとんかつ屋だ、お茶屋さんだ、パーマやさんだ、工務店だ、パン屋だ不動産だと、どこの町の商店街にもあるような店が並ぶ、庶民的な街だった。「ロボットレストラン」がある桜通など、職人街だったという。今でも歌舞伎町にはこういった店がまだ残っている。

このころは喫茶店ブームで、歌舞伎町にも多くの喫茶店があった。

この喫茶店の経営者には台湾人をはじめとする第三国人が多かった。彼らはもともと、西口の安田マーケットで店を構えていた人たちだ。

歌舞伎町の中では特に台湾人の果たした役割が大きく、花道通りには今でも「台湾同郷協同組合」のビルが建つ。

さて、昭和40年代になると、歌舞伎町の北側にホテルが建つようになったこの一帯は今でもラブホ街となっている。

どうしてホテルなのかというと、商品や技術がなくても、建物さえあれば商売できるから、らしい。

このころになると暴力団が歌舞伎町に増え、犯罪も増加する。ソープランドやストリップ劇場と言った、いわゆるいかがわしいお店も増えてきた。

1980年ごろになるとノーパン喫茶だののぞき劇場だのといった、もはやいかがわしさしかないお店が増える。こうして今の歌舞伎町になっていった。

歌舞伎町は鈴木喜平の想像を超える規模に発展したと思うが、たぶん、方向性は彼の想像とは全然違うと思う。

関東最大のコリアンタウン・新大久保

その歌舞伎町のすぐ来たのは新大久保のコリアンタウンがある。平日でも韓流大好き女子が集まり、遊園地のような賑わいを見せている。チーズダッカルビをはじめとした最新の韓国グルメがウリだ。

さて、どうして新大久保がコリアタウンになったのかについては、諸説ある。

そう、諸説あるのだ。東京のど真ん中、しかもここ数十年のことなのに、どうして諸説あってしまうのかわからないが、とりあえず諸説ある。

諸説その①

新大久保駅のすぐ北には1950年から2017年までロッテの工場があった。今では住宅展示場になっている。

ロッテの創業者は韓国人でロッテの工場にも多くの韓国人が集まっていた。彼らは工場の近くに住み、それがコリアンタウンのもととなった。

諸説その②

歌舞伎町には多くの韓国人が住んでいた。闇市からの流れを考えれば、歌舞伎町に多くの第三国人がいたことは不思議ではない。彼らが90年代になって新大久保に店を出すようになった。

さて、どっちの説が本当だろうか。

たぶん、どっちも本当なのだと思う。新大久保にロッテの工場があったのは事実だし、ロッテの創業者は韓国人だ。韓国人が始めた工場に韓国人が集まるのも自然なことだろう。

そして、彼らが工場の周りに住むのも自然なことだ。これが1950年代の話。

この時点で多くの韓国人が新大久保に住んでいたはずだが、今のようなコリアンタウンの姿とは程遠かったはずだ。

何せ彼らは工場の労働者であり、韓国料理屋をやっていたわけではないのだ。

そこに90年代になって、歌舞伎町内にいた韓国人たちが合流した。90年代の歌舞伎町と言えばすでに一大歓楽街となっていた。そこにいた韓国人たちは接客のプロだった可能性が高い。

彼らは新大久保に移り住み、そこに住む韓国人を呼び込むために、韓国料理の店を始めた。こうしてコリアンタウン・新大久保が完成したのだろう。

第三国人とは何か

さて、ここまで、わざと解説しなかったのだが、さかんに「第三国人」という言葉を使ってきた。

今日では耳慣れない言葉だが、これは終戦直後の在日朝鮮人・在日中国人・在日台湾人のことを指す。

彼らの大部分は強制連行で連れてこられた者たちだ。日本兵として出征した者もいる。

だが、必ずしも全員が無理やり連れてこられたのではなく、中には自分の意志で日本の学校に留学している学生もいた。アメ横の第三国人の7割は学生だったという。

さて、戦争が終わって日本人たちは、戦争は終わったけれど食べモノがない、と途方に暮れたわけだが、同じように途方にくれたのは第三国人も同じだ。

植民地支配が終わり、「祖国に帰る」という選択肢も出てきたが、そんなに話は簡単ではない。

何せ、羽田からソウルや北京に直行便が出ているような時代ではないのだ。国に帰るには船に乗らなければならない。船に乗るには汽車に乗って港に行かなかければいけない。そこまでの交通費や船代も、決してタダではない。

そうまでして祖国に帰っても、そこで楽に暮らせるという保証は何もない。終戦直後の韓国や中国も混乱していたのだ。そもそも、植民地が裕福だったら、日本はこんなに困っていない。日本が疲弊すれば、植民地も疲弊する。

加えて、第三国民は当時、日本で特権的な立ち位置にいた。GHQは第三国人を解放国民として扱った。これは、日本の法の外に置く、すなわち、「まあ、ある程度の無茶は目をつぶりますよ」ということだ。

無理して祖国に帰っても、まともに生活できる保障はない。ならばこのまま東京にとどまって、せっかく得た特権をフルに使おうじゃないか。

こうして、第三国人は一気に勢力を強めた。GHQの横流し品も優先的に手に入れられたので、商売でも日本人より有利な立場になった。特に数が多かったのが朝鮮人で、闇市の時代、日本には90万人もの朝鮮人がいたという(それでも、140万人は帰国している)。

混沌の時代、ヤミイチ

いまここで第三国人の話を詳しくしているのは、こういうことを言いたいからだ。

アジア系の外国人が日本で土地を持ち、店を構え、街を形成できる唯一タイミング、それが、あらゆる秩序が崩壊した闇市の時代である。

闇市の時代でなければ、こんなことはあり得ない。どの町にも古くからの住民がいる。そこに割って入って、あれだけの規模のコリアンタウンを造るのは不可能だ。

終戦直後、警察の力が衰え、違法である闇市が公然と開かれていた。すりやかっぱらい、強盗が横行し、町角にはパンパンと呼ばれる街娼が立っていた。そこでは、それまで虐げられていた第三国人が力を持っていた。

法律、国籍、常識、道徳、そういったあらゆる秩序が崩壊した、「生きるためなら何でもあり」のカオスな時代。

こういった時代だからこそ、本来ならよそ者であるはずの外国人たちが異国の地である東京で力を持つことができ、その後の「外国人街の形成」につながっていったのではないだろうか。

それはいわゆるアウトローたちも同様である。本来ならば警察に取り締まられるべき立場のはずが、この時代に力を持った。闇市のマーケットはテキヤの親分たちが取り仕切った。何せ、警察署長がテキヤの親分に「不法占拠で違法な品を売るマーケットをやらないか」と持ち掛けるような時代である。法律も警察も何もあったもんじゃない、しっちゃかめっちゃかだ。

こういったアウトローたちは、上野に根付き、歌舞伎町に流れ込み、やがて町が発展していくにつれて人が集まると、やくざの事務所や風俗店の経営などに乗り出していったのではないだろうか。

もともと、この記事は「なぜ、西川口に中華料理屋が増えているのか」から始まった。

西川口駅周辺に中華料理店が増えたのはなぜだ‼?

西川口に中華料理屋が増えたのも、「そこにカオスがあったから」という叙事的なセリフで説明がつく。

もともと、西葛西は風俗街として有名だった。だが、一斉摘発で多くの店が廃業に追い込まれた。その跡地に中華街ができた。

人口が多い街なら、駅周辺もにぎわうのが自然というものだ。人口が多いにもかかわらず、駅前に空き店舗、ゴーストタウンが生まれるというカオスな状況。このカオスがあったからこそ、西川口はチャイナタウンになったのだ。

……とまあ、まるでまとめみたいに話をシメにかかっているが、実はまだ、大きな謎が残っている。

それは、「なぜ、上野と新宿だけなのか」という謎だ。

何せ、闇市はそこら中にあったのだ。新橋にも、秋葉原にも、錦糸町にも、池袋にも渋谷にも、中野にも、高円寺にも、何ならとんで埼玉にも。

そして、第三国人がいたのも、アウトローだのパンパンだのがいたのも、どこも同じである。新橋のマーケットは中国人が仕切っていたし、有楽町はパンパンガ多くいた。

だが、アジアンタウンや風俗街で有名なのは、新宿を中心とする一帯と、上野を中心とする一帯ぐらいである。

数ある闇市の中で、この二つが最もカオスを色濃く残したまま現在に至っている。

なぜ、新宿と上野なのか。秋葉原や錦糸町じゃダメだったのか。

これには、「境界」が絡んでくるのだが、その答えはまた次回。

参考文献

猪野健治編『東京闇市興亡史』

戦後の闇市に関する資料として現存し広く流通した者の中には、もうこれ以上の資料は存在しないのではないかという代物。今回、なんと神保町で昭和53年に出版された初版本を発見するというミラクルに恵まれた。

七尾和晃『闇市の帝王』

新橋のマーケットを取り仕切ったある中国人を取材したもの。新橋に限らず東京全域の闇市の様子が描かれている。

石榑督和『戦後東京都闇市』

新宿・池袋・渋谷の闇市の攻防が描かれている。論文なので内容は堅め。

稲葉佳子・青池憲司「台湾人の歌舞伎町-新宿、もう一つの戦後史』

歌舞伎町の歴史と、街を支えてきた台湾人たちを取材した本。