オリンピックがつまらない

初めてここで、東京五輪の話を書く。

僕はこの手のイベントが苦手だ。大嫌いだ。

紅白歌合戦とか、24時間テレビとか、オリンピックとか、本当に苦手なのだ。

紅白や24時間テレビは、その時間だけテレビをつけない、そのチャンネルに合わせない、その日一日やり過ごす、これでなんとか事なきを得る。

ところがオリンピックは連日やっているうえ、期間も長い。ニュースにもなる。全然違う番組を見てても、話題に上る。

目をそらしたくても、視界に入ってくるのだ。これが一番厄介だ。

おまけに今回は、自分の家のわりと近くで行われているというのだ。何かの嫌がらせだろうか。心の底から思う「よそでやってくれ」と。

いっそ国外逃亡を、と考えても、オリンピックは世界規模の大会なのだ。地球の裏側まで行ったって逃げ場がない。

2021年はコロナ禍だというのに、オリンピックをやるという。逃げ場はない、と言うか、コロナ禍なので、外国どころか他県に逃げることもできない。万策尽きた。押し入れにひきこもろう。そのための押し入れをまず買ってこよう。

ところが、開催直前になり、組織委員会にまつわるスキャンダルが次々と明るみになり、ネットは大荒れである。

開会式前日に演出の担当者が辞任。それも、過去に倫理的に問題のある発言をしていたという理由で、だ。そしてネットは大荒れ。

これは面白いことになって来たぞ、とワクワクする僕。

いや、面白い、なんてものではない。

僕の見たかったオリンピックとは、まさにこれではないか!

いやいや、これはオリンピックそのものではなく、完全な場外乱闘なのであるが、それでも「僕が見たかったものはこれだ!」という想いを禁じ得ないのだ。

「倫理観にかける」というこの上なく醜い理由でトラブルを起こす組織委員会。

いかに相手に落ち度があるといえど、ここぞとばかりに攻撃性をむき出しにして責め立てる人々。

まさに、人間の醜さのモツ鍋煮込みである。

しかし、一番醜いのは、その様子を嬉々として見ているこの僕なのである。

あらゆる人間の醜さが露呈し、さらに、それを喜んで見ている自分が一番醜いことに気づかされる。素晴らしいではないか。まさに極上のアートであり、エンターティメントだ。これこそ僕の見たかったオリンピックである。

そして気づく。オリンピックや紅白、24時間テレビがどうして好きになれないのか。

決定的に、「背徳感」にかけているからだ。

「愛と希望を表現しています」みたいなよくわからない演出、感動を過剰に煽る物語、「さあ、笑ってください」と言わんばかりに差しはさまれる当たり障りのない寸劇、否定的な言葉が一切許されないような空気。愛とか希望とか夢とか感動とか平和とか、並べられた美辞麗句。

すべてが癇に障る。

そこには決定的に、背徳感が欠けているのだ。

すなわち、人間の醜さとか、愚かさとか、傲慢さとか、いやらしさとか、どす黒さとか。

美徳があって、背徳もある。それが人間だ。人は美徳を愛し、美徳を目指し、美徳を重んじる。それと同じくらい、人は背徳に惹かれるのだ。

その背徳をないもののように扱い、美徳だけを並べ立てれば、そこに映っているのは人間じゃない。そこに人間の魅力などない。

ロボットの表情を人間に近づけるほど不気味になるという現象を「不気味の谷」と言うが、背徳を排して美徳だけを並べたテレビやイベントは、この不気味の谷のどん底に落っこちてしまったように僕には見えるのだ。無理して笑っているようにしか見えない。

そういったものを見て感動するというのが、僕はまったく理解できない。

マルセル・デュシャンがただの便器に「泉」という名前を付けて展覧会に出品しようとした理由が、ちょっとわかる気がした。汚いものを排除してキレイなものだけを並べる、不気味の谷のどん底祭りは、まるでトイレのない美術館である。

トイレのない美術館なんておもしろくない。アーティストだって人間であり、オシッコをするのだ。だったら、展示室のど真ん中にトイレがあったっていいではないか。いやむしろ、トイレあっての美術ではないか。

日本の文学なんて、背徳を真正面から描いたものばっかりだ。罪を犯してでも生きる人間を描いた芥川の「羅生門」、親友を出し抜き自殺に追い詰めた男の苦悩を描く漱石の「こころ」、太宰の歪みがにじみ出た「人間失格」、そして三島由紀夫の「金閣寺」……。

このような文学は、ただ人の醜さを見せているわけではない。ひたすらに人間を醜く描き、貶めているのではない。

「このように、人間とは醜い存在なんだけど、それを知ったうえでおまえはどう生きる?」という問いかけをぶつけられているのだ。だからこそ、人は強く引き付けられる。

僕はプロレスが好きだ。大好きだ。

プロレスを見ていてたまらない瞬間がある。

メディアの取材の前ではさわやかで礼儀正しかったレスラーが、相手の攻撃をもろに受け、

「てめぇ、ぶっ殺したる!」

という目に変わるあの瞬間だ。

その時、倫理観は死ぬ。だけど、リングという場所の上で闘争本能をむき出しにする彼を、倫理観に欠けると罰することなどできない。そこに善も悪も超越した、剥き出しの人間の存在そのものがあるだけなのだ。

醜くもあり、美しい。

弱いからこそ、強い。

正しさの中に、悪が潜む。

人間とは本質的に矛盾をはらむ存在であり、その矛盾こそが人間の真の魅力である。金ピカかのメダルなんかより、よっぽど尊いものだ。

そういった矛盾から人間を切り離すような演出をすれば、それは人間、オリンピックの場合ではアスリートを魅力から切り離し、単なる不気味な偶像に落とし込むことでしかない。

肉体美に神秘を求める古代ギリシャならそれでもいいんだろうけど、僕は古代ギリシャ人ではないのだ。

栄光や感動とか希望とか、そんなものはいらない。その背後に潜む狂気とか攻撃性とか、そういうものを見たいのだ。いや、そういった人の醜さを正面から描き、乗り越えた時に始めて感動とか希望とかが生まれるのだ。

オリンピックの背徳感を。そんなに難しいことじゃない。たとえばそう、聖火台を思い切ってトイレの形にして、「泉」って名前を付けてみる、とか。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。