小説 あしたてんきになぁれ 第16話「公衆電話、ところによりギター」

10月のある日、たまきは「城」を追い出されるように公園にやってくる。どこに行っても馴染めないと仙人に話すたまき。だが、「城」に帰ってきたたまきの身に、思いもよらない事態が待ち受ける!

「あしなれ」第16話、スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第15話「クラゲときどきハチ公、ところによりネズミ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


十月二十一日 午後三時半 曇り

写真はイメージです

秋が深まってきて日に日に気温が下がっている、らしい。

しかし、シブヤに買い物に行って以降、たまきはほとんど「城(キャッスル)」に引きこもっていたので、天気の変化を実感できない。銭湯に行くのもおっくうで、最近は厨房で頭を洗い、体を洗ってている。

今日もやけに明るいピンクのソファの上でごろごろ寝転がって過ごす。昨日もそうだった気がするし、おとといもそうだった気がする。

このまま自分はごろごろ転がったまま死んでいくのだろうか。

たまきは右手首の包帯に触れる。指で少し触れるだけでじんわりとした痛みが手首に走る。

同居人はというと志保は本を読んでいた。依存症のナントカと表紙には書かれている。志保の通っている施設の図書室から借りてきたものらしい。

一方、亜美は何とも退屈そうに携帯電話を眺めていた。あんなに小さな携帯電話の向こうっていったいどんな世界が広がっているのだろうか。

今日もこうしてごろごろして日が暮れていくのだろう。明日もそうだし、明後日もきっとそうなんだろう。

そんな明日なんか、いらない。

ふと、亜美と目があった。亜美は一回、志保の方を見て、それからもう一回たまきを見ると、立ち上がった。

「たまき」

ちょっと強めの言い方だ。

「お前、いつまでごろごろしてるんだ!」

なんだか、心の中を読まれたような気がする。

「毎日毎日ごろごろして、不健康だと思わないのか!」

たまきも不健康だと思う。だが、健康とは長生きしたい人間が求めるものであり、たまきは別に自分が不健康でも気にしない。

「どっか行って遊んできなさい!」

『きなさい』という口調はいつもの亜美とはちょっと違い、なんだかおかしかった。たまきは口元を緩める。

「笑う元気があるなら、遊んできなさい!」

どうして遊ぶことを強要されなければいけないのか。

「行くところなんかないです……」

たまきは寝っころがりながらそう答えた。

「ミチのところにでも行ってくればいいだろ。あいつ、いつも公園にいるんじゃねぇの?」

「私、あの人、きらいです」

そういうとたまきは亜美に背を向けた。

「じゃあ、前言ってたホームレスのおっさんいるだろ、お前の絵をほめてくれた人。そのおっさんのところに遊びにけばいいじゃねぇか」

そういえば、もうひと月ぐらい仙人にあっていない気がする。

どうしてるだろうか。公園に戻っているのだろうか。これから冬になっていくというのに、寒くないのだろうか。

たまきはのそりと起き上がると、テーブルの上に置いてある肩掛け式のカバンを手に取り、黒いニット帽をかぶった。カバンからはスケッチブックがはみ出ている。

「お前、前から思ってたんだけどさ、スケッチブック、入りきれてねぇじゃん」

「……これしか持ってないんで」

そういうと、たまきは玄関で靴を履き、ドアノブを押して出て行った。

「……行ってきます」

「死なずに帰ってこいよー!」

「死ぬ気分じゃないです……」

ドアが閉まり、内側にかけられたネームプレートが揺れる。

ドアが閉まったことを確認すると、亜美は志保の方を振り向いた。

「ちょっと乱暴だったんじゃないの?」

志保が本を傍らに置いて言う。

「ああでもしねぇと、あいつは外に出ないって」

亜美は志保の方に近づいた。

「っていうか、ほんとに大丈夫なんだろうな。あいつ、いつも通り元気ないぞ?」

「大丈夫だよ。ちゃんと、メモ取ってるもん。間違いないよ」

志保はそう言うと立ち上がった。

「じゃ、はじめようか」

 

 

十月二十一日 午後三時四十五分 曇り

写真はイメージです

秋が深まって日に日に寒くなっているというのは、どうやら本当だったらしい。

たまきはとぼとぼと公園に向かう。道沿いには何人かのホームレスが段ボールを砦のように重ねて家を作っている。彼らに気を配るものは誰もいない。

歩道橋を渡って公園に入った。いつの間にか木々は黄色に染まっている。

冷たい空気をかき分けてたまきは公園の奥の方へと進んだ。

半月ほど前はここで大きなイベントをやっていたのだが、今は跡形もない。もしかしたら、あの時の屋台もステージも全部、砂でできていたのかもしれない。

鬱蒼と繁る木々の向こうにたまきは目を凝らした。

青い何かが見えた。たまきは、落ち葉を踏みしめて林の中へと入っていく。

そこには、青いビニールシートに包まれた、ベニヤ板のお化けのような小屋だった。夏に見たものよりは一回り小さいが、「庵」で間違いない。

「久しぶりだね、お嬢ちゃん」

聞きなじみのあるハスキーな声がして、たまきは振り向いた。

ジャンパーを着て、キャップをかぶった仙人がそこにいた。椅子に腰かけている。

たまきは何も言わず、ただ、ぺこりと頭を下げた。

「うん、その帽子は似合っとるな」

仙人はそう言ってほほ笑んだ。

 

 

十月二十一日 午後四時 曇り

 

たまきは、仙人が差し出した椅子に腰かけた。椅子の上から、小さくなった庵を見る。

「なあに、毎年のことだ」

そう言って仙人は笑った。

「毎年毎年作って、少しずつ大きくして、祭りの時期が来たら取り壊しだ。また一からやり直し」

「せっかく作ったのに……」

「仕方はあるまい。わしらはここにいてはいけないのだからな」

風に吹かれた木の葉がはらはらと舞い落ちる。

「それに、居場所というのはそういうものだ。大切に築き上げたものが、ある日ぷっつりと消えてなくなる」

そういうと仙人はカップ酒を口に運んだ。

「お嬢ちゃんは祭りには行ったのか?」

「……はい」

「どうだった?」

「……まあ」

仙人はそれ以上、祭りについて聞くことはなかった。

「あの……」

そう言ってたまきはスケッチブックを仙人に差し出した。

「お嬢ちゃんの絵を見せてもらうのも久しぶりだ。どれどれ」

仙人はやさしくも真剣な目つきでスケッチブックをめくる。

「これはシブヤだなぁ」

「この前……、友達と一緒に行ったんです。帰った後で思い出しながら描いたんですけど……」

「なるほどなぁ。お前さんにはこういう風に見えとったかぁ……」

そういうと仙人はたまきにスケッチブックを返した。

「大冒険だったな。そんなに怖かったか」

たまきは仙人の言葉にドキッとした。

「怖かったというか……、その……、私はここにいてはいけないんだなって思って……」

たまきは視線を落として答えた。

「昔から……、どこ行ってもなじめなくて……」

「でも、いっしょにシブヤに行ってくれる友達はいるんだろう?」

たまきは地蔵のように動かなかった。

「……友達になれたのかなって思ってたけど……、二人とも私に似たところがあるのかなって思ってたけど……、でも二人とも、やっぱりあっち側の人で……」

「あっちっていうのはどこだい?」

仙人のハスキーな声が優しく尋ねる。

「……どこと言われても……」

あっちはあっちだ。

「お嬢ちゃん。順番が違うんだよ」

仙人は少し身を乗り出し、優しい口調でたまきに言った。

「友達だと思ってた人が実はあっち側の人だったんじゃない。わしはお嬢ちゃんの友達がどんな人かは知らんが、お嬢ちゃんの話を聞くかぎり、『あっち側』の人なんだろう。あっち側の人だったはずの子たちと、お嬢ちゃんは友達になれたんだ。あっち側だったはずの子にも、お嬢ちゃんに似たところがあったんだ」

「でも……二人は私のことをわかってくれません……。今日だって追い出されるような感じでここに来たし……」

「じゃあ、お嬢ちゃんはその友達二人のことをよくわかっているのかい?」

「それは……」

たまきは言葉に詰まった。

「お嬢ちゃん、ちがうから友達になるんだ。わからないから友達になるんだ」

雑木林は少し薄暗くなってきた。たまきは確認するようにあたりを見渡す。

「……ありがとうございます。少し……すっきりしました。……帰ります」

たまきは立ち上がろうとしたが、仙人はそれを制した。

「おお、ちょっと待て。久しぶりにきたんだ。もう少しゆっくりしていったらどうだ。そうだ、お菓子があるぞ」

そう言って仙人は柿ピーの袋を取り出した。

 

 

十月二十一日 同刻

 

「城」の玄関を開けて舞が入ってきた。

「おっす、やってるな」

「城」の中を見渡して舞が言う。舞が来たことを知ると亜美は作業をやめ、舞の元へと駆け寄った。

「お疲れっす。先生、あれ、持ってきてくれた?」

「ああ」

舞は手に提げた二つのビニール袋を見せた。それは、以前に亜美と志保がシブヤで買った本屋の包みと、それより二回り大きな包みだ。

「なんか悪かったっすね。買ったはいいけど、ここに置いとくわけにはいかなくて」

その言葉を聞いて、舞はきょとんとした目で亜美を見た。

「なんか、はじめてお前の口から、『遠慮』を聞いた気がする」

「エンリョ? ウチ今、『エンリョ』なんて言いましたっけ?」

「ああもういい。忘れろ」

そういうと舞は厨房へと向かった。厨房では志保が作業をしている。

「手伝おうか?」

「あ、お願いします」

そこに再びドアの開く音が聞こえた。

「お疲れっす!」

ミチがギターケースを担いで入ってきた。

「いやぁ、めっきり寒くなりましたね。うわぁ、だいぶ進んでるッすね。なんか手伝いましょうか?」

ミチはギターケースを下ろしながらそう言った。亜美はそんなミチの肩に手を置く。

「いや、ミチ、お前には重要な任務を任せたい」

「なんすか?」

亜美の改まった口調にミチも身構える。

「見張りで外に立ってろ」

「え……外……?」

ミチの脳内でさっき彼自身が言った「めっきり寒くなった」がリフレインを始めた。

 

 

十月二十一日 午後四時四十五分 曇り

 

やっぱり、自分はどこに行っても場違いだとたまきは改めて思う。

たまきの前には幾人かのホームレスがいて酒盛りを始めていた。何人かは見覚えもあるが、それでもどこかいたたまれないような気持ちがぬぐえない。

この公園にいてはいけないホームレスたち。彼らの中でさえ、たまきは場違いだった。

学校に行っても場違いで、家に引きこもっていても場違い。あの家にとって、たまきのようなおかしな子は場違いだったのだ。だからと言って家出をしてみても、やっぱりどこへ行っても場違いらしい。

どこへ行ってもなじめないのなら、死ぬしかないじゃないか。

しかし、死んでそれで終わりならいいけど、万が一死後の世界なんてものがあったらたまったもんじゃない。きっとあの世ですらたまきはなじめないのだろう。たまきみたいな手に負えない悪い子はきっと地獄に落ちるのだろうが、もしも天国に行けたとして、天国になじめないかもしれない。天国でたまき一人、地獄のような日々を送るのだ、きっと。

柿ピーをポリポリつまみながらそんなことを考えていると、隣に座わる仙人が優しく笑った。きっと、たまきがどうせまた暗いことを考えているなんて、見透かされているんだろう。

「お嬢ちゃんは、人より繊細なんだよ」

やっぱり見透かされているようだ。

「だから、普通の人が気にしないようなことを気にして、普通の人が怯えないようなことにおびえてしまう。それはとても息苦しいことだ」

自分が繊細なのかどうか、たまきは自分ではよくわからなかった。でも、仙人の言う「息苦しい」はわかる。

「私は……、『生まれてきてよかった』とか、『生きていてよかった』とか、思ったことありません」

三億個もの精子が卵子を目指し、受精できるのはたったの一個。人は生まれて来ただけで奇跡なのだという。

生まれて来ただけで奇跡だというのなら、たまきはきっと生まれて来ただけで運を使い果たしてしまったに違いない。

そんなたまきを見て仙人はまた優しく笑う。

「まあ、『とても幸せだ』なんて鈍感な奴の言うセリフだからな」

仙人の言葉に、たまきは訝しむように仙人を見る。

「世の中には見たくないもの、都合の悪いものもたくさんただよってる。お前さんみたいな子は繊細だから、そういうものに気付いてしまう。『毎日が楽しくて幸せだ』なんて笑顔で言える奴は、鈍感だからそういうマイナスなものに気付いていないだけさ。本物の幸せは、そういうマイナスなこともちゃんと肌で感じていて、それでも自分は幸せだって言えるときのことを言うのさ」

たまきはよくわからない、といった顔で仙人を見る。

「例えば、お嬢ちゃんの年じゃまだ縁がないだろうが、覚醒剤とかに手を出す奴がいるだろう」

友達がそうです、とはたまきは言えなかった。

「ああいった薬は繊細な人間が鈍感になるのにはもってこいだ。余計なことは忘れて快楽を得られるからな。もっとも、あとあとやってくるマイナスがおぞましいわけだが」

仙人はたまきのメガネの奥の瞳をじっと見据える。

「お前さんもそのうち、そういう幸せではなく、ちゃんとした幸せを感じれる時が来るさ。生まれてよかったとは思えないけど、それでも自分は幸せだってな。それは、マイナスなことに目をつむって感じる薬のような幸せじゃない。マイナスをちゃんと肌で感じて、そのうえで幸せを感じとるんだ。自分にはこんなマイナスがある。でもこんなプラスもあるから幸せだってな。お前さんなら大丈夫。あんなにいい絵が描けるんだから」

気づけば、もう太陽はビルの向こうに沈んでいた。

「さあ、そろそろ暗くなる。おうちへおかえり」

 

 

十月二十一日 午後五時 曇り

写真はイメージです

信号が青になった。たまきは大通りを渡り、歓楽街に入っていく。たまきの後ろでトラックのけたたましい音が聞こえる。

「そのうち幸せと思える」なんて、仙人も案外とあいまいなことをいうものだ。たまきはそう感じていた。大人が言う「そのうち」や「いつか」なんてやってきたためしがない。

とぼとぼと歩きながら太田ビルが見えてきた。たまきはふと上を見上げる。

太田ビルの階段から見慣れた顔が見えていることに気付いた。ミチだ。まあ、二階のラーメン屋でアルバイトをしているのだから、いても不思議ではない。

たまきは太田ビルの階段を上る。五階まで昇るのはしんどいのだが、この運動が無かったらたまきみたいな子はいよいよ不健康になるのだろう。

ふと、たまきはあることに気付いた。ミチがいたのは二階のラーメン屋ではなく、もっと上の階だった気がする。まあ、どうでもいいことだ。

5階まで登り切り、たまきは「城」のドアをコンコンとノックすると中に入った。

中は真っ暗だった。ただでさえ日当たりが悪いうえ窓は厨房にしかなく、もうこの時間帯は電気を消せば「城」の中は真っ暗だ。

でも、どうして真っ暗なんだろう。今まで、「城」に戻ってきたら誰もいなかったなんてことは一度もなかった。そもそも、たまきは鍵を持っていないのだから、誰かいないと「城」に入れないし、亜美と志保が開けっ放しにして「城」を離れたことも一度もなかった。

たまきはとりあえず靴を脱いだ。頭の中にこの前見た忠犬ハチ公の銅像を思い出して不安になる。

足元を触ると自分のもの以外の靴があることがわかった。誰かがここで靴を脱いで中にいることは間違いない。もしかしたら、また泥棒が入ったのかも。

たまきは不安で胸が締め付けられていた。強盗に襲われるのが怖いのではない。何が起きているのかがわからないのが怖いのだ。たまきは不安げにか細い声を出す。

「亜美さん……? 志保さん……?」

とりあえず、電気をつけよう。そう思ってスイッチを探そうとしたたまきの目に、オレンジの明かりが映った。

暗闇の中で煌々と輝き、はかなげに揺れ、それでもひときわ明るく輝いている。それが何かが燃えている様だと気付いた時、たまきは反射的に火事だと思った。刹那、仙人の言葉が脳内再生される。

「居場所というのはそういうものだ。大切に築き上げたものが、ある日ぷっつりと消えてなくなる」

自分が焼け死ぬことよりも、この「城」という場所がなくなることの方がたまきには恐ろしいことのように思えた。

ふと、冷静になり、見えている炎が思ったより大きくないということに気付いた時、急に視界が明るくなった。そして何かの破裂音と火薬の匂い。

ああ、いよいよもって死ねるのか。

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

たまきの死への渇望をかき消すかのように、アコースティックギターの音に乗せてミチによく似た男の明るい声が聞こえた。

「はっぴばーすでーとぅーゆー♪」

ギターの伴奏に合わせて何人かの歌声が聞こえる。ほとんどが女性のようだが、さっきのミチのような少年の声も聞こえる。それにしても、この歌、なんの歌だっけ。

「ハッピバースデートゥーユー♪」

ほとんど同じフレーズを繰り返す。たまきはこの歌が、誰かの誕生日を祝うために世界中で歌われている歌であることに気付いた。とはいえ、歌ったことも、生で誰かが歌うのを聞いたこともないので、気づくのが遅れてしまった。気づくのが遅いと言えば、火事だと思っていたのはろうそくの炎で、それがケーキに刺さったろうそくだということにも気づいた。明るい中で改めてみると、普通に安全なろうそくの火だ。

どうやら、今日は誰かの誕生日らしい。誕生日を祝ってもらえるなんて、何ともうらやましい限りだ。

「ハッピバースデーディアたまきちゃ~ん♪」

唐突に自分の名前が出てきてたまきはパニックになった。

え? わたし? なんで? だって、私の誕生日は十月のにじゅういち……、

あれ?

「ハッピバースデートゥーユー♪」

ミチがギターをじゃかじゃかとかき鳴らす。たまきは部屋の中を見渡した。ギターを弾くミチ、ケーキの両脇には亜美と志保がいて、みんな笑顔で歌っている。少し離れたところには舞もいて、軽く口ずさむという感じだが、顔には笑みがこぼれている。

「たまきちゃん、お誕生日、おめでと―!!」

パン! という破裂音とともに紙テープが宙を舞った。再び、火薬のにおいが鼻につく。どうやら、さっき聞いた破裂音とにおいもこのクラッカーだったらしい。

たまきは、空が落っこちてきたかのような戸惑った顔をして、不安げに口を開いた。

「今日って、二十一日ですか?」

「そうだよ」

志保が答える。

「十月の?」

「ずっと十月だったぜ」

亜美がそう言って笑う。

「誕生日でしょ、今日?」

「……はい」

たまきは戸惑っているのが恥ずかしそうにうつむきながら答えた。

十月二十一日。それはたまきにとって最大の黒歴史、つまり何を間違えたのかこの世に生まれ落ちてしまったことを記念する日である。

「な、なんで私の誕生日知ってるんですか?」

「亜美ちゃんの誕生日の時、たまきちゃんの誕生日いつなのか聞いたじゃない」

志保が笑いながら答える。

「覚えてくれてたんですか?」

「あの後すぐ手帳にメモったよ」

志保の言葉に、たまきは心臓がひときわ高鳴るのを感じた。

「お前、いつも通り元気ねぇんだもん。ほんとに今日、誕生日なのかと疑ったよ」

「亜美ちゃん、三回ぐらい疑ってたよね。ほんとに今日なのかって」

そんな話を聞きながら、たまきの頭の中にいつかの仙人の言葉がよみがえる。

「誕生日を祝うということは、生まれてくれてありがとう、出会ってくれてありがとうというメッセージを伝える、ということだ」

ふと、ケーキに目をやると、まだろうそくの火がゆらゆらと燃えている。

「ほら、たまき、お前が吹き消すんだぞ」

亜美が笑いながらたまきの背中をそっと押した。たまきはケーキの前に立つと、少し腰を落として、炎に息を吹きかけた。ふうふうと吹きかけるのだが、16本のろうそくのうち3本の火が消えただけで、あとはたまきの息にゆらりと揺れるだけ。肺活量が足らないらしく、いくら吹きかけても消えやしない。

すると急に亜美が横から顔を出し、一息で10本近く消してしまった。

「あー!」

そう言って声を上げたのは志保だった。

「なんで亜美ちゃんが消しちゃうの!? これ、たまきちゃんのバースデーケーキだよ?」

「こいつにやらせてたらいつまでたってもきえねぇだろ」

「もう……」

そういうと志保は腰をかがめ、残ったろうそくの炎を吹き消した。

「あ……」

今度はたまきが声を上げた。

「お前だって消しちゃったじゃないか」

亜美がそういうと、志保が悪戯っぽく笑った。

ふと、たまきの隣にミチが来る。

「本当はさ、仙人のおっさんも呼ぼうと思ってたんだけどさ」

「仙人て、たまきが言ってたホームレスのおっさんだっけ?」

亜美の言葉にミチがそうそうとうなづく。

「でも、おっさん、『わしのようなフンコロガシが行ったら、お嬢ちゃんの誕生パーティが汚れてしまう』ってどうしても行かないっつって」

ミチは少し低くハスキーな感じで仙人の声を真似した。たいして似てなかったが、真似しようとしていることだけは何となくわかった。

「だから来る代わりに準備ができるまで、たまきちゃんを足止めしてくれるように頼んだんだ」

「じゃあ、今日、遊んでくるように言ったのは……」

「バカ、お前がここにいたら、サプライズパーティの準備ができないだろ?」

たまきは改めて部屋を見渡す。色とりどりの折り紙で飾り付けをしてある。

仙人は今日、たまきが誕生日であることも、誕生日パーティがあることも知っていたのだ。「そのうち幸せと思える」の「そのうち」がすぐ来ることを知っていたのだ。

「じつは、たまきちゃんにプレゼントがありま~す」

志保がそういうと、舞が衣裳部屋から何かの包みを二つ持ってきた。一つは本屋の包み。もう一つはそれより二回り大きな包み。

「みんなでお金出しあったんだよ」

志保が笑顔で言ったが、

「おい、あたしが半分出して、お前ら三人で残り半分だからな」

と舞が付け足した。

「どっち先に渡す?」

「たまきに決めさせようぜ。たまき、どっちがいい?」

舞の問いかけに、たまきは大きい方の包みを指さした。いったい何が入っているのだろうか。

志保から大きい方の包みを手渡される。

「開けてみて」

がさがさと音を立てて、たまきは包みを開けた。

中には布製品が入っていた。灰色の布でできたそれは、リュックサックだった。全体的に洋服を作るのに使いそうな布でできていて、ふにゃっとしている。

たまきは試しに背負ってみた。軽い。

「いつもカバンからスケッチブックが飛び出たまんま外に出てただろ? これなら、スケッチブックも入るぞ」

「……ありがとうございます」

プレゼントそのものよりも、ちゃんと自分のことを見ていてくれていたことの方に、たまきは吐息が熱くなるのを感じた。

「もう一個の方も開けてみて」

志保が本屋の包みを渡す。がさがさと音を立てながら、たまきは中身を取り出した。

案の定、本である。表紙に男の顔が描かれている。油絵だ。

空色の背景に髭の生えた西洋人の男が描かれている。絵筆の後がはっきりとわかる独特のタッチだが、荒々しい画風とは裏腹に、繊細に描かれた男の顔は彼の人間性を深く醸し出している。

その本は「ゴッホコレクション」と題されていた。雑誌ていどの厚さの本で、ぱらぱらとめくるとひまわりの絵だったり、夜景の絵だったり、ゴッホの絵が何枚も収録されていた。

これがゴッホなんだ、とたまきは魅入られたかのようにページをめくる。

「たまきちゃん、絵が好きだし興味あるかな~、と思って」

志保が悪戯っぽく微笑む。

「あ、ありがとうございます」

たまきは一通りページをめくり終えると、4人の方に向いて頭を下げた。そのままうつむきがちにぽつりとしゃべり始める。

「私、生まれてきてよかったとか、生きててよかったとか思ったことないんです。でも、こんな風に祝ってもらえて……」

たまきははっきりと顔を挙げた。

「私、死なないで……よかったです」

たまきの言葉に亜美は明るく笑い、志保はやさしく笑った。

「よかった、喜んでもらえて」

「じゃ、ケーキ食う前に記念写真撮るぞ」

舞がカメラを手にそう言った。

「たまき、お前、今日はちゃんと映れよ。メガネ星人はなしだぜ」

亜美がたまきの肩をバンバンと叩きながら言った。

「今日は……たぶん大丈夫です」

「なんすか、メガネ怪人って?」

ミチが横から口を出す。

ケーキを持って立ったたまきの後ろに、亜美と志保が立つ。たまきの右斜め後ろに志保、左斜め後ろに亜美。志保の隣には舞が立ち、亜美の隣にはミチが立つ。5人は舞が持ってきた三脚の上のカメラを見つめる。

カメラのライトが点滅し、フラッシュが光った。舞はカメラを確認する。

「見てみるか?」

立ち上げたノートパソコンに舞はカメラを繋いだ。写真が画面いっぱいに拡大される。

「たまきちゃん、いい笑顔してるじゃない」

志保が声をあげると、たまきは顔を赤らめた。

「いやぁ、まだ堅いって」

「えー、この前よりいい笑顔じゃん」

「まあ、メガネ星人よりはましだけどさ」

たまきも画面を覗き込む。

……こんな表情、私もできたんだ。

「よし、手作りケーキ食おうぜ! 志保、ケーキ切り分けてよ」

亜美が勢いよく言った。

「えっ! これ、手作りなんですか?」

たまきが驚いたようにケーキを見て、そのあと厨房を見る。いくら何でも、ケーキを焼くような設備なんてあったっけ?

「手作りと言っても、買ってきたスポンジに生クリームぬって、フルーツ乗せただけだよ」

志保が笑いながら傍らのナイフを手に、ケーキを切り分け始める。

「来年はもっと派手にやろうぜ」

亜美が馬鹿みたいに明るく言う。

「ほら、レストランとか言ってさ、よくあるじゃん。お店が急に暗くなって、ケーキが運ばれて、お店みんなで祝うやつ。あれやろうぜ」

「……やめてください。はずかしいです。そうなったら私、逃げます」

たまきが少し目線を落としていった。

 

 

十月二十一日 午後七時 晴れ

バイトがあるから、とミチが「城」を出た。なんだか宴に一区切りがついたかのような雰囲気だ。

ケーキはすっかり平らげられ、テーブルの上には下のコンビニで買ったお菓子やお総菜、ジュースの缶が置かれている。

志保は使い終わった道具を洗い始め、亜美はソファの上にごろごろ転がりながら携帯電話を見ている。洗い物の音を聞きながら、たまきはぼうっとしていた。

私の人生にも、こんなこと、起きるんだな……。

お皿に付いた生クリームを人差し指ですくってぺろりとなめる。舌先に広がる甘い風味の余韻を味わうように息を吸う。

ふと、舞がたまきのすぐ横に腰を下ろした。

「いくつになったんだ、お前」

「……十六です」

「女子の十六つったら、もう結婚できる年だぞ」

「……相手がいません」

たまきが少し笑みを見せる。

「どうだった、今日は」

「たのしかったし……、うれしかったです」

たまきは、そういうと皿に残った生クリームの跡を眺めた。

「そこにパソコンがあるぞ。ネットにつながってる」

舞はテーブルの上のパソコンを指さした。

「ネットに書き込むか? 私はリア充ですって」

「言いません、だれにも」

たまきはやさしく微笑みながら、首を横に振った。

「誰かに言ったら、幸せが逃げちゃう気がするから」

「そうか」

舞は終始笑顔だ。

「でもさ、お前の家族には言ってもいいんじゃないか?」

「え?」

たまきは舞の目を見た。

「まだ、一度も連絡してないんだろ? 心配してるぞ。生きてるってことぐらい教えてやれ」

「……私なんかいなくなったって、どうせ心配なんかしてないです」

「だったら、見せつけてやれよ。あんたらのいないところでそれなりに楽しくやってるって」

たまきはゆっくりと立ち上がると、黒いニット帽をかぶり、もらったばかりのリュックを背負った。さっき、中に財布を入れたばかりだ。

たまきは立ち上がると、玄関のドアを開けた。吊るされたネームプレートが静かに揺れる。

 

十月二十一日 午後七時十分 月夜

写真はイメージです

いつの間にか雲は晴れ、お月様が顔を出している。

夜の歓楽街は多くの人が闊歩している。サラリーマン、学生らしき若者のグループ、客引きなどなど。闇の中でネオンサインが煌々と輝き、むしろ夜の方がきらびやかに感じる。その中を縫うようにたまきはとことこと歩いていく。背中に背負ったグレーのリュックがたまきの歩調に合わせて揺れている。

コンビニの前でたまきは足を止めた。

今どき珍しい、緑の公衆電話がある。誰もが携帯電話を持って当たり前の時代になっても、相変わらずそこにあり続ける。

公衆電話を必要とする人なんて、公衆電話に目を向ける人なんてほとんどいないだろう。

それでも、必要としてくれるほんのわずかな誰かのために、公衆電話はずっとそこにいる。

たまきは受話器を持って十円を入れると、自宅の電話番号を押した。

ぴぴぽ、ぴぽぱぽ。

呼び出し音が鳴るたびに、心臓が少しずつ締め付けられていく。

おそらく、父親はまだ会社のはずだ。高校生の姉も部活でいないだろう。出るとすれば母親だが、最近、お爺ちゃんの介護でたびたび家を空けることがあったから、いないかもしれない。

『ただいま留守にしております。ピーとなったら、ご用件をお願いします』

自宅の留守電音声なんて初めて聞いた。たまきは安堵で胸をなでおろすと、秋空の吐息と一緒にか細い声でしゃべり始めた。

「……私です」

なんだか、オレオレ詐欺みたいな喋り出しになってしまった。

「……とりあえず、生きてます。……十六才になりました。友達に……、祝ってもらいました」

十円で話せる時間には限りがある。たまきは何を言おうかと言葉を詰まらせ、だいぶ時間を使ってしまった。

「まだ……帰らないから」

ぷーっと音が鳴り、通話時間が終わった。

受話器を握りしめたまま、たまきは通りに目をやる。

たまきより少し上の世代の人たちのグループが談笑しながら歩いていく。男女入り乱れ、おしゃれに身を包み、明るく、笑顔で。

笑い声がたまきの耳の奥に響く。

たぶん、たまきは、ああいう風にはなれない。

誕生日を祝ってくれた人が仙人を含めて5人。きっと、ああいう人たちから見れば笑ってしまうくらい少ない数なのだろう。

たまきは友達が少ない。

でも、友達に恵まれている。今、たまきはそう強く感じていた。

それって、もしかしたら幸せなことなのかもしれない。

たまきは公衆電話の受話器をそっと元に戻した。

みんなに必要とされなくなっても、それでも必要としてくれるごくわずかな誰かのために、公衆電話は今日もそこにある。

つづく


次回 第17話「ガトーショコラのち遺影」

たまきの誕生日の写真が破かれるという事件が発生する! こんなひどいことをする犯人はいったい誰だ! まあ、だいたいわかる気もするけど。

犯人はこいつだ!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第15話「クラゲときどきハチ公、ところによりネズミ」

シブヤを訪れた亜美、志保、たまきの三人。ショップ、プリクラ、ハチ公、ランチ、カラオケとめぐるが、たまきはどうしてもシブヤの町になじむことができない。いや、そもそもたまきはこの世界になじむことができない、場違いな存在なのか。そんなことを考えてしまうお話です。

「あしなれ」シブヤ編、どうぞ!


小説 あしたてんきになぁれ 第14話「朝もや、ところにより嘘」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです。

「あ~、かわいい~!」

試着室のカーテンを開けたたまきを見るなり、志保が1オクターブ高い声で叫んだ。この「かわいい」は前にも聞いたことがある。たまきの姉が水族館のクラゲの水槽の前で言っていた「かわいい~」と同じだ。

さながら、たまきもクラゲみたいなものなのだろう。水族館で見るクラゲはさも美しい生き物かのように飾られているが、自然界のクラゲはそこにいるのかいないのかよくわからないくらいぼんやりしていて、何の目的もなさそうにふよふよと漂っている。おまけに無表情だ。それでいて毒針を持っているというのだからタチが悪い。

たまきはカバンの中に入っているカッターナイフを思い出した。クラゲでいうところの毒針に相当するそれは、いつでも速やかにこの世からログアウトするためのたまきのお守りだ。

シブヤへ買い物に行こう、と言い出したのは志保だった。もう1年近く「城(キャッスル)」で暮らす亜美と違い、死ぬつもりで家を出てきたたまきと、トイレで倒れていたのを発見されてそのまま「城」へ転がり込んだ志保には冬服がなかったのだ。亜美はシンジュクで買えばいいと言ったが、志保はどうしてもシブヤがいいと言って譲らなかった。たまきはシンジュクもシブヤも一緒じゃないかと二人の言い争い?を冷めた目で見ていた。

 

シブヤの中でも大通り沿いの象徴的なビルに三人は入った。志保曰く、このビルにはたくさんの「ショップ」が入っているらしい。「お店」ではなく「ショップ」。

館内の中ほどをエスカレーターが貫き、その周りを洋服を売る店ばかりが囲んでいる。冬を前にしてか落ち着いた色の服が多い。鼓膜を打つのは流行っているらしいJ-POP。たまきとしては文房具屋とかのほうが落ち着くのだが、そういったたぐいのものはとんと見当たらない。みんな、そんなに服が欲しいのか。

このビルにとって、たまきは明らかに場違いだ。雪国に夏服で来てしまった、そんな居心地の悪さだ。ビルに入る瞬間は緊張をおぼえた。たまきみたいなおしゃれじゃない子は、屈強でおしゃれなガードマンに「お客様、ちょっと……」と言われて、ビルの外へつまみ出されてしまうのではないだろうか。

志保はお気に入りの店、じゃなかった、ショップがあるらしく、そこへ行くとじっくり30分かけて、自分の冬服を選んだ。顔と体型は変わらないのだからどれを着てもおんなじじゃないかとたまきは思うが、志保には決して同じなんかではないらしく、クリーム色とカーキ色のカーディガンをそれぞれの手にもち、悩んでいた。亜美も服を何着か買い、3人でおそろいのパジャマを買った。

残るはたまきの冬服である。たまきは服にこだわりなどなく、なんなら人に見られたくないと思っている。適当なものを買って終わらせたかったのだが、志保が

「あたしがたまきちゃんの服をコーデしてあげる♡」

と余計なおせっかいを発揮して、現在に至る。

数あるショップのうちの一つにたまきを連れ込むと、ハンガーにぶら下がった色とりどりのセーターを次々と手にとっては、たまきの体に重ねていく。

「ちがうな~」

などと首を傾げてはいるが、なんとも楽しそうだ。きっと、クラゲをライトアップして楽しむ女性というのはこんな感じなんだろう。

最終的に、セーターとベレー帽を手渡されて、たまきは試着室に放り込まれた。

志保に渡されたセーターとベレー帽を身に付けて出てきたところでの志保の「あ~、かわいい~!」である。

たまきは志保の絶叫を聞くとすぐさま試着室のカーテンを閉めて、神話の中の天照大御神のごとく試着室の中へと姿を隠したが、せっかく閉めたカーテンを志保が素早く開けてしまった。

「ほら、くるっと回ってみて」

言われるままにたまきは無表情で、少し辟易しているように見えるかもしれないが、その場でくるりと回った。再び志保が

「ほら~、かわいい~!」

ともだえる。

「やっぱり、たまきちゃんは小柄であどけないから、体のラインが出ないモコモコした服が似合うと思ったんだぁ」

と志保は何ともうっとりした感じでたまきを眺めている。

「でね、たまきちゃんって、暗い色の服ばっかりいつも着てるでしょ。ここは少しイメージを変えてみようと、オレンジを基調にしてみたの」

たまきは振り返ると、改めて鏡で自分を見た。

セーターはオレンジと白の太いスプライト。ベレー帽もオレンジの毛糸で編まれている。

これじゃまるでクマノミだ。

「ちょっとさ、オレンジ、きつすぎない?」

少し後ろで見ていた亜美が口を出す。

「わかってるよ。だからさ、アウターとかでそこを押さえていくんだよ」

志保はロダンの「考える人」みたいなポーズを取りながら答えた。

たまきはもともと来ていた黒っぽい服に着替えると試着室から出てきた。すると今度は亜美がたまきの手を掴んだ。

「ウチに貸してみ。ウチがコーデしてやるよ」

「え……」

たまきは拒否反応を示したが、亜美はたまきの手を引っ張って別のショップへと連れて行った。志保と同じようにハンガーにかかった服をたまきの体に合わせていく。志保同様楽しそうだが、どちらかというと悪だくみをしているような笑顔だ。

十月に入って気温も下がり、亜美の露出もだいぶ減ったが、それでもたまきならば絶対に着ないような服ばかりだ。不安でたまきの額に汗がにじむ。

「よし、これなんてどうだ」

亜美はたまきにジャケットとシャツを渡した。

たまきは不安げに亜美を見たが、亜美はたまきをくるりと回して試着室の方に向かせると、どんと背中を押して試着室に押し込み、何か言いたげなたまきを無視してその扉を閉めた。

二分ほどして出てきたたまきは、血のように真っ赤なシャツに黒いジャケットを羽織っていた。シャツはたまきの体にぴたりとまとわりつき、凹凸をはっきりさせている。ジャケットにはジャラジャラとシルバーの鎖がついている。

なんだかマグロの切り身みたい。鏡に映った自分を見ながらたまきはそう思った。

「え~、たまきちゃんの良さ、残ってないじゃん」

志保は明らかに不満げだ。

「何言ってんだよ。これくらいのイメチェンしないと、こいつはいつまでもうじうじしたままだって」

「ちがうよ。もっと、たまきちゃんの良さを生かしたうえで、イメチェンしてくんだよ。これじゃ、丸っきり亜美ちゃんじゃん。ほら、料理する時も、素材の味を生かさなきゃダメでしょ?」

「ウチ、料理しないもん」

言い争う二人に割って入るようにたまきはおずおずと口を開いた。

「あの……、やっぱり私、こういうのは似合わないかなって……」

たまきの言葉に亜美はじっとたまきを見ていたが、

「やっぱ、メガネがよくないな」

というとたまきにすっと近づき、さっとメガネをはずしてしまった。

「あっ……」

視界が一気にぼやけるとともに、街中に全裸で放り出されたかのような感覚に陥る。もちろん、そんな経験などないのだが。

メガネを取り返そうにも、亜美がどこにいるかわからない。なにしろ、そこかしこに亜美みたいな服が並んでいるのだ。

だが、志保が亜美からメガネを奪い取ると、たまきの目にそっと戻した。

「だーめ。たまきちゃんはメガネが似合うんだから、かけてた方がいいって」

たまきはメガネに指を添えて、ズレを直す。逃げ込むようにたまきは試着室へと入った。

「だいたい、亜美ちゃんは自分の趣味を押し付けすぎなんだよ。これじゃあ、まるでたまきちゃんじゃなくて亜美ちゃんだもん。プチ亜美ちゃん」

「なんだよ、そのプチトマトみたいな言い方は」

「あのシャツの赤は、趣味の悪いプチトマトみたいだったけど」

「お前の方こそ、オレンジにタルタルソースかけたみたいだったじゃねーか」

二人が言い争う中、元のほぼ黒一色の服に身をまとったたまきが出てきた。若干よろけながら店、ではなくショップの外へ出て行く姿は、食卓の上を転がる黒豆のようだ。

「たまき、お前はどういうのがいいんだよ」

「私は……」

たまきは不安げにあたりを見渡すと、目に入ったショップに駆け込んだ。そこで売られていた黒いニット帽を手に取り、

「……こういうのがいいです」

と少し自信なさげに言った。

「お前、また黒かよ」

亜美が少し呆れ気味に言った。

 

写真はイメージです

結局、黒い色の多いいつものコーディネートをたまきは購入し、三人はビルを出た。たまきの頭にはかったばかりの黒いニット帽が耳まですっぽりとかぶさっている。

ビルの外を色とりどりの服を着た人がたくさん歩いている。秋が深まるにつれて服の色は暖色が増えてくる。街行く人は、シンジュクよりも若い人が多い印象だ。

三人は細い路地を歩いている。たまきは二人の背中を追うように、とぼとぼとついていく。

大通りに出て通り沿いに歩くと、白いきれいなビルがある。そのビルの一階を指さして志保が言った。

「せっかくだからさ、あそこでプリクラ撮ってかない?」

「お、いいね~。いこうぜ」

「え……」

またしてもたまきは何か言いたげだったが、亜美に強く腕を引っ張られて、言葉を飲み込んでしまった。

 

プリクラ専門店と銘打ったその店は、白とピンクがほとんどの色を占めていて、秋口だというのにここだけ春のままのようだ。専門店というだけあって、たくさんのプリクラを撮る機械で占められている。

とはいえ機械そのものが見えているわけではなく、機械全体を大きな垂れ幕が覆っていて、どの垂れ幕にもモデルらしき茶髪の美女の写真が描かれている。

さながら無数の巨大な顔が立ち並んでいる状況だ。二次元のはずのそれから目線を感じ、たまきは下を向かずにはいられない。

「おい、コスプレ用の衣装なんてのもあるぜ」

亜美が指さしたが、たまきは反射的に反対方向を向いた。さっきのようにまた着せ替え人形みたいにされたらたまったもんじゃない。

一方、志保は真剣な顔をして、機械を見比べていた。たまきから見るとどれも一緒のような気がするが、何か違いがあるのかもしれない。

「これにしようよ。いろいろ盛れるみたいだよ?」

……何が漏れるのだろう。そんなたまきの疑問を置き去りに、志保と亜美は垂れ幕の向こう側へと入っていく。たまきは少しそこに立ち尽くしていたが、不意に垂れ幕の向こうから細い志保の腕がすっと出てきて、たまきの手首をつかんだ。

「ほら、たまきちゃんも入って」

言われるがままにたまきも垂れ幕の向こうへと入る。

垂れ幕の向こうはまるで宇宙船のコックピットのようだ。

正面にはモニターがあり、その上にカメラのレンズなのだろうか、穴のようなものがある。何となく、たまきは写真館みたいに古いカメラが置いてあるのをイメージしていたため、自分の世間知らずさに少し恥ずかしくなった。

「亜美ちゃん、なんかこうしたい、とかある?」

「プリクラなんて中学以来だもん。ウチがやってた頃よりも、いろいろバージョンアップしてるんじゃねぇの? わかんないよ。志保に任せる」

「オッケー」

志保はモニターをいじっている。

「目元とか盛っとこうか。胸は……盛れないか」

志保が冗談なのかわりと本音なのかよくわからないことを言う。

「立ち位置とかどうしようか」

志保の後ろから亜美が声をかける。

「たまきちゃんが真ん中がいいんじゃない?」

「え?」

志保の提案にたまきが戸惑いの声を上げた。

「な、なんで私が真ん中に……」

「いや、身長的に、その方がバランスとれるかなぁって」

確かに、亜美と志保の身長はほとんど変わらず、一方でたまきは二人よりちょっと小さい。

『レンズの中央を見てください』

モニターがそうしゃべった。

「ほら、たまきちゃん、真ん中」

志保はたまきの右側に立つと、たまきの両肩を掴んでレンズの正面に立たせた。その左側には亜美が立つ。

『5秒前』

たまきは不安そうに志保を見ていたが、

「ほおらぁ、たまきちゃん、前」

と志保は今度はたまきの両頬を手で挟んで、前を向かせた。

もはや逃げ場はない。さながら、まな板の上の鯉だ。いや、まな板の上のクラゲ。

『3・2・1』

パシャッという音が聞こえる少し前にたまきはニット帽を思い切り下に引っ張った。

 

亜美は仕上がったプリクラを見て爆笑していた。

写真の両脇に亜美と志保がたっている。それぞれ目元はいつもより大きく、瞳はやけに光を反射している。色もやけに白っぽく、どこかマネキンのような質感だ。それぞれ、志保の字で「あみ」「しほ」と名前が書かれている。

その真ん中にたまきが移っている。いや、かろうじて「たまき」と名前が書いてあるからたまきだとわかるだけで、顔はほとんど映っていない。口元を残して上は黒いニット帽にすっぽりと覆われている。

その際、ニット帽かたまきの手がメガネに当たり、ずり落ちた。たまきの記憶では、あごにメガネがふれた、そんな感覚が残っている。しかし、つるがニット帽に挟まれていたため、完全に落ちることはなく、そこで静止していた。それが、カウントダウンの「1」という声が聞こえたタイミングだった。

そして、たまきは反射的にメガネを手に取り、かけ直した。間違えてニット帽の上から。あ、っと思ったタイミングでパシャリと音がした。

その結果、黒いニット帽で顔をすっぽりと覆い、その上に黒縁メガネをかけているというシュールな写真ができあがった。

しかも、メガネがプリクラのフラッシュを反射してしまい、そこだけ白く光っている。口は映っているので、顔に見えないこともない。むしろ、別の何かの顔に見える。

亜美は「メガネ星人捕獲!」とタイトルをつけてゲラゲラ笑っていた。

「たまきちゃん、プリクラ、嫌だった?」

志保は少し腰を落として、たまきと同じ目線になるようにして言った。

「写真は……苦手です」

「どうして?」

「……上手く笑えないし……」

「そっか……」

志保はなにか悪いことをしてしまったかのような顔をした。そんな顔をされると、こっちこそ何か悪いことをしたような気分になる。

 

写真はイメージです

「よし、ここでいったん、解散しようぜ」

店を出て少し歩き、渋谷の街のメインストリートに出たときに、亜美がそう言った。

「かいさん?」

亜美の言葉にたまきが首をかしげる。

「それぞれ、買いたいものとかあんだろ。昼飯にはまだ早いし、ここでいったん解散しようぜ」

「集合場所はハチ公でいいよね。何時に集合する?」

志保は腕時計を見ながら言った。現在、十時半だ。

「十一時半にハチ公集合。それじゃ」

そういうと、亜美と志保はもう既に行く店が決まっているかのように歩き出した。

たまきが一人、ぽつんと取り残された。いや、あたりは人だらけで、ぽつんと一人だけそこに残っているわけではないのだが、立ち止まっていると自分だけ時間が止まってしまったかのようだ。

さっきまで亜美と志保と一緒だったのに、急に一人になってしまった。自分だけ白黒になってしまったようで、なんだか心にぽっかり穴が開いたようだ。

たまきは行く当てもなく、仕方なく駅の方へと向かってとぼとぼと歩きだした。

1,2分もしないうちに大きな交差点へとたどり着く。タイヤと地面の擦れる音が地響きのようだ。

ふと、周りの人たちを見渡す。

恋人同士、数人のともだちグループ、小さい子を連れた家族連れ。みんな誰かと一緒にいる。一人ぼっちの人を見つけたかと思えば、携帯電話で誰かと電話していた。

東京のど真ん中の、いちばん人が集まる交差点で、たまきだけ、一人ぼっち。

ちがうの。今日は友達ときたの。私は一人ぼっちなんじゃないの。たまきは交差点に向かってそう叫びたくなった。

数日前の舞の言葉を思い出す。

「だってさみしかったんだもんよ」

信号が青になり、たまきはスクランブル交差点を渡る。交差点の向こうには女優さんが写った看板や、アイドルの歌を世伝する看板があり、実にカラフルだ。

目の前に人の影が迫ってきたり、横切ったり、背後から急に出てきたり。それらにいちいち怯えながらも、たまきは交差点を渡る。

ふと、たまきは「ガリバー旅行記」を思い出していた。漂流していたガリバーが目覚めると小人の国に流れ着いて、地面に固定されていた、というのは有名な話である。そんなガリバーが次に訪れた国は確か、巨人の国だった。

交差点を渡りきっても、そこはたまきにとってはまだまだ巨人の国だった。「場違い」、そんな言葉が頭から離れない。まるで町全体に拒絶されているかのようだ。

こんな思いは学校に通っていた時からずっとだった気がするし、家に引きこもっていた時も感じていた気がする。つい最近、お祭りに行ったときにも強く感じた。

要するに、生まれてからずっと、たまきは場違いなのだ。

たまきみたいな人間が生まれてきたこと自体がこの世界にとって場違いなのだ。どうして自分なんか生まれてきたんだろう。

ふと、たまきの左目に交番が映った。いつもは前髪で隠している左目だが、ニット帽をかぶっているときは不思議と出していても平気だ。

制服のお巡りさんが立っているのが映って、たまきは足早にそこから遠のく。小柄なたまきは中学生に間違えられることもある。そうでなくても家出中の身。声をかけられたら面倒だ。

やっぱり、たまきのような存在は、この町にとって、この社会にとって場違いなのだ。

 

写真はハチ公です

騒々しい人の声と音楽の間を縫って進むと、たまきの目の前に、犬のような形をした銅が現れた。台座には「忠犬ハチ公」と彫られている。

銅像は台座を含めるとたまきの身長より高く、犬はまっすぐ正面を向いていたが、なんだか不思議とたまきは銅像と目があったような気がした。

「さみしいよ……」

誰に聞こえるでもないボリュームで、たまきはそうつぶやいた。

頭の中で舞の言葉が響く。

「もう、我慢するしかないんよ。さみしいまんま生きていくしかないんよ」

なんだか、ハチ公がそう言っているような気がした。

ハチ公の物語はなんとなくしか知らない。昔、この場所で飼い主を犬が待っていたが、飼い主は病気か何かで死んでしまって帰ってこず、犬は死ぬまでその場で待ち続けた、そんな話だったような気がする。

「忠犬」の泣ける物語として語り継がれているが、そうじゃないような気もする。

この犬はきっと、さみしかったんじゃないだろうか。一人ぼっちがさみしいから、飼い主が帰ってくるのをずっと待っていた。たとえその飼い主のことを、そこまで好きじゃなかったとしても。犬にとって場違いな人間の世界で、飼い主しか居場所がないのだから。

たまきはもう一度銅像を見上げた。やっぱり、目が合ったような気がする。

銅像の周りはベンチのように鉄の棒が半円を描いている。たまきはそこに腰かけた。

もしもこのまま亜美も志保も来なかったら、そんなはずはないのだが、ついついそんなことを考える。

それでもきっと、たまきはここで待ち続けてるのだろう。誰かがこっちにおいでと言っても、待ち続けてるのだろう。だって、知らない人は怖いから。

そうして死んで行ったら、「忠犬たま公」とでも呼ばれて銅像でも建てられるのだろうか。「たま公」なんて、どちらかというとネコみたいな名前だ。でも、銅像が作られてじろじろ見られるのは嫌だな。

 

空が落ちてくるんじゃないかと心配することを「杞憂」という。たまきのくだらない心配も杞憂に終わり、まず最初に志保が、次に亜美が待ち合わせ場所にやってきた。志保の手には本屋のの名前が書かれたビニールがぶら下がっていて、亜美はそれより二回りも大きなビニールを持っていた。ビニールは色がついていて、二人が何を買ったかまではわからない。

「たまきちゃんはどこか行ったの?」

「……まあ」

これ以上かわいそうな子だと思われたくなくて、たまきは適当な言葉でごまかす。

「じゃ、メシにしようぜ」

「あ、あたし、美味しいとこ知ってるよ」

 

写真はイメージです

志保が案内してくれたのは、スパゲッティのお店だった。

「ここのパスタ、とってもおいしいんだよ」

パスタとスパゲッティはどう違うのだろうか。そんなことを考えながらたまきは席に付いた。

亜美と志保が向かい合うように座る。たまきは、志保の左隣に座った。亜美の右隣に座ってしまうと、亜美の右腕とたまきの左腕が食事の時にぶつかってしまう。

注文を終えて料理が来るのを待つ。他のテーブルで食器と食器がカチカチとぶつかる音が聞こえる。

「こんな店、誰と来たんだよ」

「……モトカレ」

亜美の問いかけに、志保は少し淡白に答えた。

「それにしても、けっこう買っちゃったね」

志保は話題をずらすかのように、亜美の隣の席を見た。今日一日の買い物が置かれ、まるでもう一人いるかのように存在感を放つ。

「車でもあれば便利なのにね」

「え~、駐車場探すのめんどくさいじゃん」

亜美が不服そうに口をとがらせる。

「……その前に私たち、免許ないじゃないですか」

「いや、ウチは持ってるぞ、メンキョ」

「え!」

亜美の言葉に二人の視線は一気に亜美へと集中した。

「なんだよ。高校辞めてヒマだったし、教習所なら親も金出してくれるっていうし、ウチの地元、車あった方が便利だし……、そんなにおかしいか?」

「だって、ねぇ……」

志保がたまきの方を見る。たまきも志保を見る。

「なんか、スピード出して事故を起こしそうなイメージが……」

「大丈夫だよ。うちの近所、畑ばっかりだから人いないし、ミスっても畑に突っ込むだけだから」

「スピードは出すんだ……」

志保が呆れたところで、注文したパスタがやってきた。

 

スパゲッティはフォークに巻いて食べなければいけないなんて、だれが決めたんだろう。そう思ってはみたものの、ついついフォークに巻きつけたくなってしまう。

「この後、どうする?」

志保がパスタをくるくる巻きながら言う。

「え、カラオケ行くんじゃねぇの?」

「食べてすぐ行く感じ?」

「うん」

「了解」

志保と亜美のやり取りをたまきは巨人の国に迷い込んだガリバーの気分で見ている。

やっぱり二人はこの町に似合う人間なのだ。二人のやり取りはどこか、不文律とでもいうべき、言外の共通理解があるように感じられる。その不文律はこの街の空気に書いてあって、この町の人間じゃないと、この町に溶け込める人間じゃないと、その不文律を読むことができないのだ。

「でも、こんなふうに3人で遊ぶって初めてだねぇ」

志保があさりを口に運びながら言う。

「いつか、3人で旅行に行きたいね」

「いいね、それ」

亜美と志保が盛り上がるなか、たまきは下を向いた。

「レンタカーとか借りようぜ」

「……法定速度、守ってくださいね」

たまきが少し顔をあげて言う。

「大丈夫だって。ちゃんと、制限速度ぐらいのスピードで走るから」

「ぐらい」は若干、制限速度を越えているのではないだろうか。いったい、亜美はどこの教習所に通って、どんな講習を受けていたのだろう。

「それでさ、首都高ぶっとばして、千葉に行くんだ」

「なんで千葉なんですか?」

「千葉に何があるの?」

志保とたまきは少し身を乗り出して尋ねた。

「バカ、千葉には太陽があるんだぜ」

亜美は急にロードムービーみたいなことを言い出した。

「夜中に歓楽街をぬけ出して、朝日めがけて車を飛ばすんだ。海に出れれば一番だけど、まあ、出れなかったらそん時はそん時だ。そこで朝日を見ながら、『バカヤロー!』って叫ぶんだ」

「……亜美さん、そういうの好きですね」

たまきはパスタをくるくるしながら言った。

「リスカとかクスリとか……、いろいろ忘れてさ、サイコーの明日を迎えようぜ」

「亜美ちゃん……、酔ってる?」

志保は念のため、亜美のグラスの中身を確認したが、甘そうなメロンソーダがあるだけだった。

 

写真はイメージです

食事が終わり、カラオケ屋へ向かってセンター街を歩いていく。

途中にもカラオケ屋があったが、志保が会員カードを持っている店が別にあるらしく、その店へ向かって歩いていく。

道の端っこを歩きながら先頭を志保、その後ろを亜美が歩き、一番後ろをたまきがとぼとぼとついていく。

突然、志保が短い悲鳴を上げた。次に声を挙げたのは亜美だった。

「ネズミだ!」

志保の足元から亜美の足元へと、灰色の小さなネズミが駆け抜けていった。たまきはよけようと道のさらに端に身を寄せたが、ネズミは急に方向転換して、道の真ん中へと走っていく。

ネズミを目で追うと、視界にトラックが入ってきた。

「あ……!」

ほんの一瞬、ネズミとトラックのタイヤが重なった。

次の瞬間には、さっきまで活発に走っていたネズミがアスファルトに横たわっていた。ピンクの何かがネズミの体からこぼれていた。

特に何か音がしたわけでもなかった。ネズミの頭がい骨や内臓が潰れた音も聞こえなかったし、ネズミは断末魔一つ上げなかった。もしかしたらトラックに最期まで気づかなかったのかもしれない。

聞こえてくるのはトラックの走り去る音と、志保の「やだ……!」という小さな悲鳴と、亜美の「うわっ……」というため息にも似た声だった。

 

写真はイメージです

「あ~、やなもん見ちゃった……」

カラオケ屋でエレベーターが来るのを待っていると、志保が堰を切ったように言った。何か話さずにはいられない、そんな感じだ。

「まあさ、飯食う前じゃなくてよかったじゃん」

と亜美。

「そうだけどさ……」

「そんな珍しくもないじゃん。よくカエルとか、轢かれて潰れて転がってるじゃん」

「それは轢かれた後のやつでしょ? あたしたち、ちょうど轢かれるところ見ちゃったんだよ?」

「まあ、後味悪いけど、ウチはそれより、東京にネズミがいたことに驚いたよ」

「そう? たまに見るよ。シブヤでネズミ。……もう、この話はおしまい! カラオケで忘れよ?」

エレベーターが昇っていく。ガラス張りになっていて、上に上がるごとにシブヤの町の一角がよく見える。

さっきのネズミ、走らなければ轢かれて死ぬこともなかったのに……。たまきはぼんやりと考える。

きっとネズミにとっても、このシブヤは場違いな町だったのかもしれない。その違和感に耐えきれずに、逃げようとして走り出したら、この町どころかこの世からおさらばする羽目になってしまったのだろう。

 

ショップ、プリクラ、スクランブル交差点、ランチ、どれもたまきにとって場違いな場所だったが、カラオケの個室が一番場違いだと強く感じてしまう。

ドアをくぐると薄暗い部屋にテーブルを囲む形でソファーがあり、大きな画面からは最新のミュージックビデオが流れている。

三人はじゃんけんで順番を決めた。志保がドリンクバーで三人分の飲み物を持ってくると、一番手の亜美が曲を入力した。

画面に曲のタイトルが出てきた。やけに画数の多い女性歌手の曲だ。

「亜美ちゃん、こういうの好きなんだ。もっと、ヒップホップ系かと思ってた」

「そういうのも聞くけど、ロックも好きだぜ。特にこの人の曲は、かっけぇし、歌詞もいいんだ」

画面が切り替わり、カラオケ映像が始まった。出だしはBGMが無く、若干のリズム音が流れた後、ほぼアカペラの状態で亜美はマイクに口づけするかのように歌い出した。

そのままひずんだギターと軽快なドラムとベースのロックサウンドが流れ、亜美は歌う。その歌声は地声より少し低く、力強く、それでいてどこか往年の歌謡曲スターのような妖艶さを兼ね備えている。

と、筆舌を尽くしてみたが、簡単に言えば、うまいのである。

アウトロに合わせて亜美がスキャットをして終わった。志保とたまきは、食べ散らかしたポテチの袋のようにぽかんと口を開けていた。

「ん? どした?」

亜美もぽかんとして尋ねる。

「亜美ちゃん、……上手い。……意外」

志保が半分放心したかのように言った。

「意外、は余計だろ」

「バンドとかやらないの?」

「ヤだよ、めんどくせ―」

そういうと、亜美はマイクをたまきの前に置いた。

「あれ、お前、曲入れてねぇの?」

亜美が不思議そうに画面を見る。画面の中ではどこかのアイドルグループのインタビューが流れている。

「あ、今いれます」

亜美の歌が意外にもうまく、自分の曲を入れるのを忘れていた。たまきは慣れない手つきでリモコンを操作する。

……何を歌えばいいんだろう。ヒット曲なんて全然知らない。かといって「おもちゃのチャチャチャ」でも歌おうものなら、バカにされるに決まってる。

たまきはかろうじて知っている曲を入力した。

「これ、何の曲?」

案の定、志保が聞いてきた。

「……深夜にやってたアニメの歌です」

「たまきちゃん、深夜アニメなんか見るんだ」

「……家族がいないときにしかテレビ見てなかったので……」

何かの冒険の始まりを告げるかのように、ピアノの旋律が鳴り響いた。たまきはマイクを両手でつかむと、口元に運んだ。

小さく息をすって歌い始める。

人前で歌うなんて、たぶん初めてだ。恥ずかしくて消え入りそうになりながら、たまきは必死に文字を追って歌っていく。自分でももうちょっと声を張った方がいいんじゃないかと思うけどこれ以上なんて出せやしないし、音程なんて取れてるのかどうかわかりやしない。

何とか曲終わりにまでたどり着けた。たまきはうつむいたままマイクを志保へと渡す。

「かわいい歌い方だね」

志保はそう言ってほほ笑んだ。またクラゲのかわいいだろうか。

「なんか、透き通るような歌声で、あたしはそういうの好きだよ」

「音とか外れてなかったでしょうか……」

「いや、大丈夫じゃね?」

亜美がソファに片足を乗っけながら答える。

「声ちっさいからたまに聞き取れねぇ所あるけど、無理して張り上げたほうが逆に音外すかもな。うん、あれでいんじゃね?」

たぶん、亜美ほどうまくはないけど、合格点なのだろう。たまきはそう解釈した。

「あたし、大丈夫かなぁ。歌、あまり得意じゃないんだよねぇ」

志保はそういうとマイクを手に取った。画面には、たまきでもかろうじて知っている女性歌手の名前が出ている。

ピアノのイントロが流れた。さっきたまきが歌った曲よりも重苦しい感じだ。志保は右手に握ったマイクを口に近づける。若干痩せているのが気になるが、その姿はなかなか様になっている。

曲はいきなりサビから始まる構成である。志保の声がマイクに乗ってスピーカーから拡張される。その歌詞は、流行りの音楽に疎いたまきでも何となく聞いたことのあるものだった。

そのまま間奏を経てAメロ、そしてBメロへと続く。

亜美とたまきは、思わず顔を見合わせた。

さっきから、音符がほとんど合っていない。

半音、ひどい時は二音、高かったり低かったり、何かしらずれている。

つまりは、本人の申告通り、志保は歌があまり得意ではない。いや、「あまり」という副詞は余計か。

それでも本人は気持ちよさそうに歌っている。英語の部分の歌詞はちょっと発音よく歌ってそれっぽい雰囲気を出そうとしているのだが、いかんせん音符が合っていない。

たまきはこの曲のサビのメロディしか知らない。それでもわかる。全体的に、とにかく音符が合っていない。

時空でも歪んだんじゃないかと思える5分間が終わり、志保の前には一周してきたリモコンが再び置かれていた。

「う~ん、この歌好きなんだけど、やっぱちょっと難しいな」

そういうと志保は、

「次なに歌おうかな~。ほんと、歌、そんなに得意じゃないんだよね。いっそ『おもちゃのチャチャチャ』でも歌おうかな」

と笑いながら言った。

 

写真はイメージです

カラオケにいたのは3時間ほどだっただろうか。

亜美はレパートリーの豊富さが際立っていた。ロック、R&B、ヒップホップ、それもわりと玄人好みの曲が多い。そして、どの曲も抜群の歌唱力で歌いこなしていた。バラードなど圧巻の一言である。

たまきは次第にレパートリーが尽きてきた。終盤は子供のころ見てたアニメの歌などで場を繋いだ気がする。歌うたびに志保から話「かわいい~!」とその歌声を評され、亜美からは「アニソンにはそういう方があってるかも」と評された。

志保はアイドルの歌など、ヒットチャートの上位の曲を多く歌った。マイクを取るたびに磁場がどうにかなってしまったのかと思うような歌を披露したが、あくまでも本人は「歌はちょっと苦手」という程度の認識らしい。

カラオケ屋を出てからの三人は、十月の風を浴びながら無目的にシブヤの街を歩いていた。

亜美と志保が次はどこに行こうかと話しながら歩く後ろを、たまきはとぼとぼとついていく。たまきとしてはこんな場違いな町は早く出たいのだが、シンジュクに帰ったとして、やっぱりそこもたまきにとっては場違いな町なのだろう。

ふと、亜美が立ち止り、片手で志保を制した。後ろからついてきていたたまきも立ち止まる。

「ストップ」

「どうしたの?」

「ケーサツがこっち来る」

「え? どこ?」

志保は目を細めた。数十メートル先から、青い制服の警官が二人、こちらへ向かってくる。

「ほんとだ。亜美ちゃん、よくこんな遠くから気づいたね」

「とりあえず、こっち行くぞ」

亜美はすぐ左にあった狭い路地へと入っていった。志保とたまきもそれに続く。

路地に入って十数メートル歩いたところで、志保が口を開いた。

「……そういえばさ、なんでおまわりさんから逃げるの?」

「だって、見つかったらいろいろと面倒じゃねぇか。特にお前なんか、聞かれたらいろいろと困るだろ?」

亜美は志保を見ながら答えた。

「でも、あたし、もう三カ月ぐらいクスリ使ってないし、クスリも器具も今は持ってないし、調べられて困るようなことなんかないよ?」

「そういえば……、でも、目ぇつけられたら困るだろ。たまきとかはまだ子供に見えるかもしれないし」

「別にいいんじゃない? だって、もう夕方だよ?」

そういう志保のわきを、地元の子どもだろうか、ランドセルを背負った子供が3人ほど、はしゃぎながらすり抜けていく。

「ほら、もう、学校とか終わってる時間だって。だいたい、今のあたしたち見て、不法占拠とかクスリとかエンコーとか、見ただけじゃわかんないって」

「そういやそうか……」

そこで会話は途切れたが、急に亜美が笑いだした。

「え、じゃあ、ウチら、なんでケーサツ気にしてるんだ?」

「そうだよ。まあ、確かにいろいろやましいところあるけど、ちょっと見られたぐらいで目をつけられたりしないって」

「そうだよな。あれ、なんでケーサツ気にしてるんだろ?」

亜美と志保はケラケラ笑った。その後ろで、たまきも少しほっとしたように笑った。

この町にとって、この世界にとって自分が場違いだと思っていたのは、たまきだけではなかったらしい。

 

写真はイメージです

「さっきから、ガキ、多くね?」

亜美がすれ違う小学生たちを見ながら言う。

「近くに学校があるんじゃないの?」

「こんな都会のど真ん中に?」

「あるところはあるって。」

そんな会話をしながら3人は少し人気のない路地を歩いていく。

「ん、学校ってあれのこと?」

亜美が少し先の建物を指さした。塀とフェンスに囲まれ、門から続々と子供たちが出てくる。

「こんな都会にも学校ってあるんですね」

たまきが久しぶりに口を開いた。

「うわっ! 校庭、狭っ! 運動会とか、無理じゃん!」

亜美がフェンスにへばりつきながら、その向こうの校庭をのぞいた。緑色のゴム素材のような地面をしている。

「だいたい、校庭ってフツー、土だろ。なんだよあの、テニスコートの失敗作みたいなの」

「都会の学校なんてどこもそんなんだって。土地が少ないんだから、しょうがないじゃん」

志保が亜美の少し後ろで笑いながら言った。さらにその後ろでたまきがぼんやりと二人を眺めている。

たまきと志保の間を、女子高生が三人通り過ぎた。ワイシャツの上に学校指定のものと思われる紺のセーターを重ね、胸元には真紅の大きなリボンを飾っている。

亜美が校庭を見るのに飽きて振り向くと、志保がその女子高生たちが通り過ぎた後も、彼女たちを目で追い続けているのが視界に入った。その顔は、どこか儚げでもあった。

「なに、どうした? 知り合い?」

「ううん、そうじゃないんだけどね……」

志保は少しため息をつくと、言葉をつづけた。

「あの制服、ウチの高校のなんだ……」

そうさみしそうにつぶやく志保を、たまきはまたさみしそうに見つめていた。

……志保さんは、学校に戻りたいのかな。

そんな志保とたまきの間を、今度はオートバイがエンジン音を響かせて通り過ぎる。

そもそも、たまきのように学校に行きたくない方が少数派なのだろう、きっと。志保は頭もよく、友達も多い、学校でうまくやっていけるタイプだったはずだ。そんな志保がたまきみたいな死にたがりや亜美みたいなヤンキーギャルと一緒にいること自体が、場違いなのかもしれない。

「志保さんは、がっこ……」

たまきがそう言いかけた時、亜美がわざとらしく大きな声で言った。

「しょうがねぇじゃん。もう、こっち来ちゃったんだから」

そう言って亜美はにやりと笑うと、志保の肩に手をポンと置いた。

志保は少し自嘲気味に笑った。

「時々さ、思うんだ。クスリさえ使わなければ、今頃、フツーに学校通ってたのかなぁって」

声は少し震えている。志保は、笑顔を作り直した。

「でも、今ここで二人といることは、後悔してないよ。だから、クスリに手を出したことも、後悔してない」

志保は二、三歩歩いて、亜美とたまき、二人とも視界に入る位置に動いた。

金髪のポニーテールの少女は、どこか安心したかのように笑っている。

黒いニット帽とメガネの小柄な少女は、不思議そうに志保を見ている。

「こんなこと言うとさ、舞先生には怒られそうだけどさ、クスリを使ったことは後悔していない。もちろん、反省はしてるし、二度とやらないって決めてる。でも、後悔はしてない。だってさ……、こうならなかったら、二人に会えなかったんだよ?」

そこで志保は一呼吸おいて、言葉をつづけた。

「しょうがないじゃん。出会っちゃったんだから」

そういうと志保は、駅の方に向かって歩き出した。

「夕飯、どうする?」

「駅前にあっさり系のうまいラーメン屋知ってるぜ。こんどはうちが案内するよ」

「たまきちゃん。ラーメン屋でいい?」

「あ……、大丈夫です」

「メシにはちょっとはえぇな。駅ビル見てこうぜ」

「あ、あたし、コスメ見たい!」

駅の方に向かって三人は歩いていく。二人の背中を追いかけながら、たまきはふと、ハチ公を思い出していた。

もしもあの時、亜美も志保も待ち合わせ場所に来なかったら、それでもたまきは待ち続けていただろうか。

きっと、それでもたまきは待ち続けていたんだろう。

しょうがない。出会ってしまったんだから。

つづく


次回 第16話「公衆電話、ところによりギター」

亜美に「外に出て遊んできなさい!」と言われて、仕方なく公園に向かうたまき。仙人に、どこへ行ってもなじめないと相談する。

その裏で、ある準備が進められていた……。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第14話「朝もや、ところにより嘘」

「わたしはふたりにこっちがわにきてほしかった!」

「東京大収穫祭」で号泣したたまきに優しく微笑む舞。翌朝、たまきはとある場所でミチと海乃に出会う。一方、喫茶店を訪れた志保にも思わぬ再会が……!

「あしなれ」第14話、スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第13話「降水確率25%」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


「かんぱ~い!」

グラスの触れ合う音が部屋に小さく響いた。

テーブルの上にはお菓子とアイス、フルーツが並んでいる。アイスとフルーツはクレープの売れ残りだ。

クレープは完売とはいかなかった。しかし、8割がたを売り上げ、今テーブルの上にのこっているのはわずかなアイスとフルーツだ。

場所は教会のすぐ近くにあるマンションの一室。志保が通う施設は、マンションの二部屋を借りて男女別のシェアハウスにしている。

「おつかれ」

トクラがグラスを志保の前に差し出し、志保はサイダーの入ったグラスでトクラとこつんとやる。口をつけると炭酸の泡が血管中にしみ込んでいくのがわかる。

お菓子をつまみながらワイワイとやりながら携帯電話に目を向けると、着信があったことに気付いた。

電話は主治医の京野舞からだった。

志保は席を立つと廊下に向かった。十月の初めのマンションの廊下は、室内とはいえ足元が少し寒い。フローリングならばなおさらだ。

リダイヤルを押すと電話を耳に当てる。すぐに舞が出た。

「お、打ち上げ中か? 悪いな。メールしようかと思ったんだけどさ、お前の番号だけでメアド知らなくてさ」

「どうしたんですか?」

志保は少し不安げに尋ねた。

「お前、今夜帰ってこないんだろ?」

「はい。出店の打ち上げです」

「今夜、たまき、うちで預かるから」

「あ、そうなんですか。よかった。亜美ちゃんも帰ってこないみたいだし、たまきちゃん、一人になっちゃうけど大丈夫かなって心配してたんです」

「ふうん」

舞の返事はどこか冷たく感じられた。

「で、あのキャバクラ、名前なんだっけ、『シロ』? あそこのカギ、いま、たまきが持ってるって」

「あ、はい、知ってます」

「つーわけだから、明日お前が帰ってきて、鍵開いてなかったら、あたしんとこに電話してくれ」

「はい」

志保の返事の後、舞はしばらく沈黙していたが、

「ま、打ち上げ、楽しみなよ」

と言って電話を切った。

 

写真はイメージです

チン!という音がして、舞はトースターの扉を開けた。鳥かごの檻のような台の上に置かれた二つの食パンには程よく焼き目が付き、チーズが掛布団のようにとろけている。

舞はそれを「あちち」と言いながらそれぞれお皿に載せると、黄色いスープの素が入った二つのマグカップにそれぞれお湯を注ぎ始めた。

「こっちでよかったのか? あたしがお前んとこ泊まりに行ってもよかったんだぞ」

舞はたまきにマグカップを渡しながらそう言ったが、たまきは静かに首を横に振った。

「……先生、お仕事とかありますよね。……そこまで迷惑かけられないです」

「……スープの素、下の方にたまってるからかき混ぜて飲めよ」

そういうと舞はピザトーストにかみついた。チーズがむにーと伸びる。

たまきは小さく「いただきます」というと、ピザトーストにかぷりと口をつけた。スープも飲もうとするが、ふうふうと息を吹きかけ続けるだけで、なかなか飲もうとしない。

本人は気づいてはいないが、舞から見ると泣きはらした目は真っ赤っかだった。

「少しは落ち着いたか?」

舞が優しく問いかけると、たまきはスープに息を吹きかけるのをやめ、こっくりとうなづいた。

「……ご迷惑かけました。ごめんなさい」

「……何で謝んだよ」

舞はビールの缶のプルタブに手をかけながら尋ねた。

「……結局、私のわがままなんです」

たまきはまだ熱いマグカップを手に、しょんぼりしたようにつぶやく。

「ふむ……伸びるな」

舞の口かっらびろ~んとチーズが伸びる。たまきも同じようにピザトーストを口にした。下味にガーリックペーストがまぶしてあって、香ばしい。たまきのチーズもびろんと伸びたが、舞のようにはうまくいかず、すぐ、ちぎれてしまった。

「……私のは、あんまり伸びないみたいです」

「いや、お前は伸びるぞ。あたしなんかよりずっと伸びる。強くなる」

舞は笑いながらそう言った。たまきは意味が分からず、舞の目を見つめる。

「何かあった時『自分のせいだ』って思える奴は、伸びるぞ。成長できる」

舞はそういうと缶をテーブルの上に置いた。

「ま、お前は自分のせいにしすぎだけどな。そこまで自分を責めると、かえってストレスだ。六割は自分のせい。四割は人のせい。それっくらいがちょうどいいんだ」

たまきはまっすぐ舞の目を見ていた。

「でも、やっぱり私はわがままです……」

「なんでそう思うかね?」

「自分が一人ぼっちだからって、亜美さんや志保さんにこっち側に来てほしいだなんて……」

「誰だってそんなもんさ」

そういうと、舞はスープに口をつけた。

「人間は誰しも、さみしさを抱えてるもんさ。それはな、絶対にぬぐえないんだ。ぬぐおうとか紛らわそうとかするんじゃない。『自分は孤独だ』って受け入れて生きていくしかないんだ」

舞は再びビールの缶に口をつけた。

「……孤独を、受け入れる」

「そうだ。人は誰でもいつか死ぬ。それと同じくらい、人は誰でもいつか孤独を感じる。お前みたいに『私は一人ぼっちだ』って泣いている奴ほど、いざ本当に一人になった時に強いのかもしれんぞ。亜美とか志保とかミチとか、みんなでワイワイやってごまかしてる奴よりもずっとな」

「……みんな、さみしいのをごまかしているだけなんですか? 亜美さんも志保さんも、ミチ君も?」

舞の言っていることが今一つ信じられない。誰とでも友達になれる亜美や志保、カノジョが作れるミチが、たまきみたいに『一人ぼっちはさみしい』なんて言って泣いている姿が想像できない

「お前はさ、あたしが結婚してたから自分とは違うんだ、みたいなこと言ってたけどさ、あたしだってさみしさを感じる時ぐらいあるぜ。いまは男いなくてフリーだしさ。仕事も取材とかもあるけど、一人でここで文章書いているときは、ああ、さみしいなって感じるよ。医者つづけてたら、体力的にはしんどいけど、同僚とか上司とか先輩とか患者とかいたんだろうになって考えると余計に」

舞はそういうと、少し身を乗り出した。

「それではここで問題です。あたしが三十何年の生涯の中で、一番さみしかったのはいつでしょうか?」

舞はにっと白い歯を見せた。

「……そんなの、わかんないです。だって、私は舞先生のその、三十何年のうちの何か月かしか知らないし……」

「まあまあ、あたしについて、知ってる情報の中にもう答えはあるはずだから」

たまきは少し下を向いて考えた。

「……離婚したとき?」

たまきは我ながら失礼な回答だと思った。だが、そもそもクイズにしてきたのはむこうだ。

「おしい。それは第二位だな。離婚届出して、じゃあね元気でねって元旦那と別れて、一人になった駅のホーム。たしかにさみしかった。でも、それは第二位だな」

たまきは舞の言っていることに共感できなかった。別れ以前に出会いを経験していない。

「じゃあ、わかりません」

「正解は、結婚パーティの夜でした」

「え?」

たまきのメガネの奥の瞳が大きく見開かれた。

「あたし、結婚式はやってないんだよ。その代り、結婚パーティってのはやったの。本当に親しい友達だけ集めて、ちょっとしたパーティ会場、と言ってもそこまでデカいところじゃないけどさ、そこを貸し切ってパーティを開いたんだよ。パーティって言っても二十五人ぐらいの規模だけど。みんなに祝福されて、人生で一番幸せだったね」

全然さみしくなんかないじゃないか。たまきは少しむくれた。

「でさ、パーティが終わり、家に帰るじゃんか。でさ、旦那は同業者だったんだけどさ、その日は当直だったんよ。他の日にしたかったんだけどさ、二人の共通の知り合いっていうと医療業界のやつばっかでみんな忙しくてその日しかなくてさ。だから、あたしがシャンパンとか飲んでるよこで旦那はジンジャエールで我慢して、夜勤に行ったのよ」

いつになったらさみしくなるんだろう、とたまきはむくれたままじっと話を聞く。

「で、旦那が出かけて一人ぼっちの部屋の中でふと『さみしいなぁ』ってさ、思っちまったわけよ。信じられるか? 結婚パーティの日だぞ? 先まで旦那がいて、友達がいて、祝福されて、それで一人になった途端に『さみしい』て感じちまったらさ、それってもう、何やっても埋められないさみしさ、ってことじゃねえか」

たまきは、以前にあった強盗のおじさんを思い出していた。誰しも「絶対に埋められないさみしさ」というやつを抱えていたとしたら、あの時のおじさんの「さみしいなぁ」もそういうことなのかもしれない。

「それでさあ、そのタイミングでまさかの、モトカレから電話かかってきたんよ」

「……前に付き合ってた人からですか?」

「そう。『結婚したって聞いて、おめでとう』って。どうしても言いたかったんだと。『ごめんね。もうかけてこないから』って」

それを聞いてたまきは困ったように笑った。

「……それは、迷惑ですね」

「……あたしは、あやうく『今から会える?』っていうところだった。結局言わなかったんだけどさ」

「え?」

驚いてたまきの背筋がピンとなった。

「だって、さみしかったんだもんよ」

「さみしかったからって、それはさすがに……」

いくらそういうのに疎いたまきでも、昔付き合っていた男女が再会して、ただ会って終わり、とはならないことぐらい想像がつく。舞がさみしかったというなら、なおさらだろう。

「だからさ、テレビで芸能人とかがよく不倫してこき下ろされてるじゃん。あたし、気持ちがわからんでもないわけよ」

舞はビールの缶をコトリとテーブルの上に置いた。

「だいたい『家族がいるのに……』っていう批判をされるわけだ。でもさぁ、家族がいるのにさみしさを覚えちゃったらさ、それはもう家族じゃ埋められんわけよ。だとしたらさ、家族以外の人で埋めるしかないじゃんか」

たまきは、舞の言っていることが何となく理解できた。理解はできたが、納得できない。

「でも、それを認めちゃったら……」

「だからさ、『さみしさを埋める』っていうのがさ、そもそもの間違いなわけよ」

たまきは、舞の顔がさっきより近くに来ているのに気付いた。こんな風に舞と一対一で話すのは初めてかもしれない。

「このさみしさからは絶対に逃げらんない。そんでもって、絶対に埋められない。もう、我慢するしかないんよ。さみしいまんま生きていくしかないんよ」

だからさ、と舞は続けた。

「お前みたいに、一人ぼっちで寂しいってちゃんとわかってる奴は、ほんとうに独りぼっちになった時に、そのさみしさに耐えられると思うんだ。恋だ友達だっつって紛らわしてるような奴は、いざ孤独を感じても、耐えられないから紛らわそうとする。その結果、不倫みたいなトラブルを起こしちまうんだよ。それに引き換えお前ときたら、友達になじめないって言って泣いてやがる」

「私は……、べつに自分から耐えてるんじゃないんです。……紛らわせてないだけです」

「結果、耐えてるんだよお前は。ちゃんとさみしさを正面から受け止め続けてるんだ」

舞はそういうとにっこりと笑った。

 

写真はイメージです

日はまた昇り夜が明け、、いらなかった明日がまたやってくる。たまきは、少し早めに舞の家を出た。たまきが「城(キャッスル)」の鍵を持っているのだ。二人が帰る前に戻らないと。

舞が志保に電話してくれたおかげで、もし志保が帰っても鍵が開いていなかったら舞のところに連絡が来ることになっている。そうすれば、「城」までたまきの足でも歩いて5分ちょっとだ。電話が来ればすぐに駆け付けられる。

だが、亜美からの連絡はなかった。舞がメールを送ったらしいが返事はなし。そもそもメールを見ているかどうかも疑わしい。

たまきから見て亜美はまるで自由気ままな三毛猫だ。ふらりとどこかに行って、ふらりと帰ってくる。

どこかへ行くときの決まり文句はたいてい、「シゴト」と「隣町の美容院」だ。亜美が「隣町の美容院に行ってくる」と言って、本当は何をしてるのかは考えてもわからないし、「シゴト」と言って出かけて、そこで何をしてるのかは考えたくもない。

そして亜美は突然帰ってくる。朝に帰ってくることもあるし、真夜中に帰ってくることもあるし、次の日の夕方に帰ってくることもある。

つまりは、亜美が一体いつ帰ってくるのかはたまきにも予想がつかないのだ。帰ってきたはいいが鍵の開いていない「城」の前でいらだつ亜美を想像すると……、

なんだか、めんどくさい。

たまきは「城」のある太田ビルに向かってとぼとぼと歩いていた。

舞の住むマンションと太田ビルの間にはホテル街が広がる。たまきはどことなくうつむきがちにそこを通り過ぎていく。たまきのすぐわきをトラックが轟音を立てて通り過ぎていく。うすい朝もやの向こうにはまぶしいばかりの朝日が見える。朝日を見るのは久しぶりだ。

ホテル街の一角に「CASTLE」というホテルがある。名前の読み方は「城」といっしょだが、こっちの方がよっぽどお城っぽい外観だ。

その入り口から誰かが出てきた。案の定、男女のカップルである。道路と自動ドアの間には小さな噴水があり、カップルはたまきから見て噴水の向こう側を歩いている。たまきはなるべくそっちを見ないように歩いたが、ちょうどカップルが道路に出たところでバッティングしてしまった。

たまきはカップルをちらりと見上げると、すぐに目線を足元に落として、二人が通り過ぎるのを待とうとした。しかしカップルに、特に男の方に見覚えがる気がして、たまきはもう一度カップルの方を見た。

相手も同じことを考えていたらしく、たまきの方を見つめている。

たまきは半ばあきれたように言った。

「……おはようです」

「おはよう……、ってか、たまきちゃん、こんなところで何してるの?」

カップルのうち男の方、ミチが少し驚いたように言った。左隣にはミチと同じくらいの身長の、茶髪の女性がいる。たまきにもなんとなく見覚えのある顔だ。たぶん、海乃って人だろう。ミチの左手と海乃の右手がしっかりと恋人つなぎされていた。

「あれ? もしかして、たまきちゃんも朝帰り?」

こんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことをたまきは不快に思いながら

「舞先生のところにいました」

とだけ答えた。

「ミチ君こそ、こういうところ泊まっていいんですか?」

「まあまあ、細かいことは気にしないの」

ミチはそう言って笑う。すると、海乃がミチの左手を軽く引っ張った。

「みっくん、お友達?」

厳密にはたまきと海乃は初対面ではないのだが、一度だけ店に訪れた地味な客の顔など、海乃は覚えておるまい。

「そうそう、友達」

「知り合いです……!」

いつもより強めにたまきは否定した。

「へぇ、どういうお友達? 同級生?」

海乃は何か興味を引かれたらしい。

「いや、最近知り合ったんだけどさ。引きこもりのたまきちゃん」

「引きこもり?」

海乃が不思議そうに聞き返した。

たまきはむっとした。「引きこもり」だなんて紹介、あんまりじゃないか。

しかしたまきは学生じゃないし、社会人でもなければ、フリーターですらない。不本意ながら、「引きこもり」以外に自分を表す肩書が見つからない。

「へぇ~、かわいい~」

海乃はたまきを見ながらそう言うと、笑顔をこぼした。

引きこもりのなにをもって「かわいい」なのかわからない。たまきは、昔、家族で水族館に行ったときに姉がクラゲの水槽の前で「かわいい~」と言っていたのを思い出した。いまの海乃の「かわいい」に似ている気がする。きっと、海乃は「ヒキコモリ」をナマコかウミウシの仲間かなんかだと思っているのだろう。

「あれ、でも、この子ヒキコモリなの?」

海乃はたまきを指さすと、不思議そうにミチの方を見た。

「だって、外にいるよ?」

海乃は笑いながらそう言った。それを聞いてミチも

「ほんとだ。確かに、たまきちゃんって引きこもりだと言っている割には、けっこう外にるよね」

と言って笑う。

ミチが「たまきはわりと外にいる」と思っているのは、外でしか会わないからだ。たまきはそのほとんどを「城」の中で具合悪そうにゴロゴロして過ごす。たまに体調がいい時に頑張って都立公園まで行き、そこでミチと出くわすのだ。ミチはその「たまに体調がいい時に頑張っている」たまきしか知らないのだ。

「この子、いくつ?」

海乃は横にいるミチに尋ねた。

「一個下だから、今十五才だよね?」

ミチの言葉に、たまきは無言でうなづいた。

「みっくんの一個下ってことは、高校生?」

海乃はまた隣のミチに尋ねた。なぜ、本人を目の前にしてとなりに尋ねるのだろうか。

「でも、不登校だから、高校は行ってないよ」

「へぇ~」

海乃は奇異なものを見るかのようにほほ笑んだ。きっと、「フトウコウ」もフジツボの仲間ぐらいに思っているのだろう。

ふいに海乃は手を伸ばすと、たまきの黒い髪を撫でた。

「ダメだぞ、ちゃんと学校に行かなきゃ」

たまきは驚いたように、自分の頭をなでる海乃の手首を凝視し、次につながれた二人の手をじっと見ていた。

「海乃さん、俺だって学校行ってないよ?」

ミチが口をとがらせた。

「みっくんはちゃんと働いてるじゃん」

海乃はそう言って笑った。

「じゃあね、たまきちゃん」

海乃はそういうと、ミチと手をつないだまま歩き出した。さっきからずっとつなぎっぱなしである。

海乃は振り返ると、たまきに向かって手を振っていた。たまきは、その手をじっと見ていた。二人の姿が見えなくなるまで、海乃を見つめていた。

 

写真はイメージです

駅と歓楽街の間のにぎやかな通りを志保は歩いていた。

鍵を持っているたまきが舞の家に泊まっているということは、「城」に帰っても中に入れないかもしれない。舞に電話することも考えたが、まだ二人とも寝ているかもしれない。どこかで時間を潰そうと志保は歓楽街へと続くルートを外れて、ふらふらと散策していた。

駅前の繁華街は、「城」がある歓楽街ほど物騒でないとはいえ、やっぱり飲み屋が多く、朝から落ち着ける志保好みのカフェなんていうのはさっぱり見つからない。月曜日の朝はスーツを着た出勤途中のサラリーマンが通りを埋め尽くし、その中をカフェを探して歩くのはなんだか申し訳ないような気分にもなってくる。

駅からだいぶはなれたところを歩いていると、喫茶店を一件見つけた。カフェではなく喫茶店。スタバのような「カフェ」ではなく、昔ながらのレトロな喫茶店だ。昭和のころはきっと、こういうのが最先端のおしゃれだったのだろう。

入口には午前七時から営業中と書いてあった。時間は既に七時半。中にはサラリーマンらしき男性や、オフィスレディが座ってコーヒーを飲んだり、軽食のようなものを食べたりしている。

志保は店の中に入った。ドアは手動で、少しずつ、まるで店の空間の機嫌をうかがうかのようにドアをして、志保は足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ~」

若い男性の店員が志保を席へと案内する。

志保は席に着くと、ミルクティを注文した。カフェオレにしようかと思ったけど、これから帰ったら少し寝たいのでやめておいた。

周りはやはり出勤前のサラリーマンやOLばかりで、志保には少々居心地が悪い。

ふと、志保が視線を感じてそっちの方を見ると、先ほどのウェイターの男性が志保の方を見ていた。

どこかで見た顔だ。どこかで会っただろうか。わりと最近、会ったような……。

あ!という志保の声が店内に響いた。周りの客たちの視線が志保に集まる。志保は声を出してしまったことが恥ずかしいといいたげに顔を赤らめると、ウェイターの方に歩み寄って、声をかけた。

「あの……、この前、助けて下さった方ですよね。ほら、繁華街の前の大通りの信号で……」

志保の言葉を聞いたウェイターは

「やっぱり!」

と声を上げた。背が高く、黒い髪は軽くパーマをかけている。顔だちはこれといった特徴があるわけではないが、ウェイターの制服と相まって、さわやかそうな印象を受ける。

制服の胸ポケットには、「田代」と書かれた名札がついていた。

「やっぱり、この前の子だよね?」

「あ、あの時はありがとうございました」

志保はまだ恥ずかしさが残る中、ぺこりと頭を下げた。

二週間ほど前、幻覚や幻聴のようなものに襲われ、赤信号なのに道路に飛び出してしまった志保。すんでのところで腕を引っ張って助けてくれたのが彼だった。名前も連絡先も知らなかったのだが、また会えるとは。

「いや、元気そうでよかったよ」

田代はほっとしたようにはにかんだ。

「あの時は本当にご迷惑を……」

「いいよ、そんなに気を遣わなくて。具合悪かったんでしょ?」

「は、はい……、まあ」

あの時は確かに具合が悪かった。嘘ではない。

「この辺、よく来るの?」

「……この町にはよく来るけど、このあたりに来るのは初めてです」

これは少し嘘が入っている。「よく来る」のではなく、住んでいるのだ。ただ、家賃を払っていないのだが。

「へぇ~。学生さん? 高校生?」

「……はい」

これは嘘ではない。もう4カ月ほど学校に行っていないが、退学届けを出した覚えはない。

「今日、学校休み?」

「……はい。ぶ、文化祭の振り替え休日で……」

これは嘘である。昨日まで文化祭みたいなことをしていたのは事実だが。

志保は席に戻ると、カバンから読みかけの文庫本を取り出した。女性エッセイストの単行本の続きを読み始める。

数分たって、田代がミルクティーを運んできた。

「お待たせしました。ミルクティになります」

その言葉づかいが志保には少しおかしかった。「ミルクティになります」って、もうミルクティになっているじゃないか。

田代は、志保の読んでいた本に目を落とした。

「その人の本、面白いよね」

「え、こういうの読むんですか?」

意外である。男性がこの著者のエッセイを読んでいるイメージがない。

「まあ、女性向けなんだろうなとは思うけど、その人、視点というか、切り口が面白いから、読んでて楽しいよ」

「ですよね! 私も、そういうところが大好きなんです」

これは本当である。

「それじゃ、ごゆっくり」

田代は軽やかな足取りで離れていった。

カップの中に志保は視線を落とす。「城」を一歩外へ出ると、嘘をつかないと誰かとしゃべれない。クスリのこと、高校のこと、今住んでる場所のこと。同じ施設に通う依存症患者たちに出さえ、「城」のことは嘘をついている。いつからこんな人間になってしまったのだろう。

もっとも、志保の性格が嘘つきになってしまたのではない。隠さなければいけないことが多すぎるのだ。

志保はカップを持ち上げると、ミルクティに口をつける。

レモンは入っていないはずなのに、なんだかレモンみたいな味がした。

信じてもらえないだろうが、本当である。

 

写真はイメージです

太田ビルの4階にはビデオ屋が入っている。もはやビデオテープは置いておらず、全部DVDのディスクなのだが、みんな「ビデオ屋」と呼んでいる。

とはいえ、普通のテレビや映画のビデオは少ないし、子供向けのアニメなんて全くおいていない。そのほとんどがアダルトビデオで、おまけによくビデオ屋のアダルトビデオコーナーの入り口にあるのれんらしきものが見当たらず、たまきのような子供でも簡単に目に入るところにアダルトビデオが置いてある。法律にしっかり基づいたビデオ屋なのかと首をかしげたくなる。

そんなビデオ屋だから、入口には裸一歩手前の女性のポスターがたくさん貼ってある。ここを通るたびに、たまきはそのポスターを見ずにはいられない。

別にいやらしいことを考えているわけではない。ポスターの中の彼女たちの笑顔が気になって仕方ないのだ。

心からの笑顔なのか、自分の美貌に自信があるのか、それとも、巷のうわさ通り無理やりやらされているのか、そもそもそんなことを考えているのはたまきのエゴなのか。

もしかしたら、この人たちもさみしいのかな。そんなことを考えて、たまきは階段を上る。

階段を上るにつれて、水平線から昇る太陽のように金色の髪の毛が見えてくる。

想定していた中でも、割とめんどくさい状況のようだ。

階段を一段上ると、亜美の顔が見えてきた。なんだか小刻みに揺れている。

ドアの方をにらむ目はつりあがり、口はとがっている。たまきには亜美がとても苛立っているように見えた。

想定していた中でも、トップクラスにめんどくさい状況が発生しているらしい。たまきは重い足取りでゆっくりと階段を上った。

亜美が小刻みに揺れていた理由は、脚だった。脚がかくかくと上下に揺れている。苛立ちからくる貧乏ゆすり、と呼ぶにはだいぶ激しい。「メガ貧乏ゆすり」とでも呼べばいいのだろうか。ブーツがコンクリートの床に触れるたびに、タタタンタタタンとリズムよく音が響く。

亜美は、たまきが階段の残り2段のところまで来て初めてたまきに気付いた。「気配の薄さ」ならばたまきはどこのクラスに行ってもトップを取れる自信がある。

亜美は勢い良くたまきの方に振り向くと、がなった。

「お前、どこ行ってたんだよ! 今、八時だぞ、八時! こんな時間までどこほっつき歩いてたんだよ!」

「亜美さんはいつ帰ってきたんですか?」

「あ? 15分前だよ」

亜美の方こそこんな時間までどこをほっつき歩いていたのだろうか。

「メール、見なかったんですか?」

たまきは亜美と視線を合わせることなく尋ねた。

「は? お前、ケータイ持ってないんだから、お前からメールが来るわけないだろ?」

「私じゃないです。舞先生からです」

「先生?」

亜美は自分の携帯電話を開いてピコピコといじった。

「あれ、なんか来てる」

亜美は今初めて、昨日の夜十時ぐらいに舞が送ったメールを見ているらしい。

「なるほど。お前、そういうことは早く言えよ」

「……早く伝えたつもりなんですけど……」

たまきはもうここでこの件は終わらせたかった。「亜美は何をしていてメールに気付かなかったのか」は知りたくなかったからだ。ミチの朝帰りを見てしまったから余計に。

それまでぶすっとしていた亜美だったが、急に顔をほころばせると、

「ま、お前が生きててよかったよ」

と言ってたまきの頭をポンポンと軽くたたいた。さっき、海乃に触られた時よりも、なんだかとってもやさしい触り方だった。

「……心配してたんですか?」

「ま、うちもこの歓楽街にいたからさ、お前がここで自殺してたらパトカーとか救急車のサイレンが聞こえたはずだから、生きてるんだろうなぁ、とは思ったけど」

亜美はバカのくせに、そういったことには頭が回る。

「ウチはむしろ、お前もとうとうナンパされて朝帰りデビューしたのかと思ってたよ」

またこんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことにたまきはがっかりした。

そこに、パタパタと足音を鳴らして、志保が戻ってきた。

「ハァ、ハァ、やっぱり、5階ってキツイ……」

志保はいつも骨のように細い手足を震わせ、息切れしながら昇ってくる。

「あ、たまきちゃん、帰ってる」

「お、志保、おかえり。お前、たまきが今までどこにいたか知ってるか?」

亜美はまた悪巧みしたかのような笑みで志保に問いかけたが、

「え? 先生のところでしょ?」

とあっさりと返した。

「なんだよ! 知らなかったの、ウチだけじゃん!」

「亜美ちゃん、エッチなことに夢中で、ケータイ見なかったんでしょ」

「いや、メール来たときはカラオケしてた。今度、三人でカラオケこうぜ!」

「カラオケ~?」

志保は左手を右肩に置いた。

「あたしはいいや。歌はあまり得意じゃないの」

「……私も、歌うのはあまり……」

「え~、そんなこと言わないでさ、っていうか、たまき、カギ! あと、ウチの財布!」

「……あ、はい」

たまきはカバンから亜美の財布を取り出すと、亜美に返した。

亜美は財布を開けて、鍵をさぐる。ちりんちりんという鈴の音が財布の中から聞こえる。

「……二人も、さみしいんですか?」

たまきの突然の問いかけに、亜美の手が止まった。

「たまきちゃん、どうしたの急に」

志保がやさしく微笑みながら聞き返す。

「……何でもないです。忘れてください」

たまきはばつの悪そうにうつむくとそういった。

亜美は、取り出した鍵をたまきに渡すと、

「ウチ、屋上でたばこ吸ってくるから、先、中入ってて」

というと、そのまま屋上へと続く階段へと向かった。

 

たまきと志保は鍵を開けて中に入る。たまきはふらふらとソファへと向かうと、ころりと横になった。

落ち着く。家族と暮らしていた実家よりも、落ち着く。

「城」がこんなに落ち着く場所になったのはきっと、亜美も志保もたまきには深く干渉しようとしないからだろう。特に亜美は普段ずかずかしているくせに、ほんとうに放っておいてほしい時には放っておいてくれる。

でも、昨日は放っておいてほしくなかったな。一緒にばっくれて欲しかった。

そんなことを考えながら、たまきは眠りにつく。

志保がたまきのことを放っておいてくれるのは、彼女のコミュニケーションスキルの高さによるものだ。たまきのような子はあまり接近しすぎず、少し距離を置いておいた方が相手も楽だということを知っているのだ。

亜美は、そんな風に頭を働かしてたまきのことを放っておいてくれるわけではない。

たまきに放っておいてほしい時があるように、亜美にも放っておいてほしい時があるから、なんとなく相手の放っておいてほしい時がわかってしまう。それだけの話である。

 

つづく


次回 第15話「場違い、ところによりハチ公」

シブヤへと買い物に来た3人。だが、たまきはどうしても自分が場違いな存在だと感じてしまう。そんなほのぼのとした(?)休日。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第13話「降水確率25%」

都立公園で行われる大収穫祭の当日になった。志保は施設の人たちとクレープ屋を開き、ミチはバンド仲間とライブに出演する。そこに客として訪れる亜美とたまき。四者四様の祭りが始まる。

「大収穫編」クライマックス! 「あしなれ」第13話、スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第12話「夕焼けスクランブル」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


プロローグ

「ほら、行くぞ!」

ドアの外にいる亜美のがなるような声が「城(キャッスル)」の中に響く。十月に入り亜美の露出も少しは抑え目になってきたが、それでも胸のふくらみはしっかりと強調されている。

「……行かなきゃ、ダメですか?」

たまきは亜美から数m離れたところで、力なく言った。靴は履いているものの、玄関に置かれたマットの上から動こうとしない。

「志保が祭りで店やるってのに、ウチらが行かなかったら、カワイソウじゃん。ミチのバンドもライブするんだろ? オモシロソウじゃんか。お前、あのバンドの曲好きだって言ってただろ」

「ミチ君の歌は好きですけど……、あのバンドの歌はあんまり……」

たまきは下を向いたままぽつりと言った。

「どっか具合悪いのか?」

「……べつにそういうわけでは……」

「だったら別にいいじゃん。デブショウはよくないって。どうせあれだろ、具合が悪いわけじゃないけど、気分がすぐれないとかいうヤツだろ。大丈夫だって。祭り行ったらなんだかんだ楽しくって忘れるって。ほら、来いよ!」

亜美がたまきの手を強く引っ張った。たまきは特に抵抗するでもなく引っ張り出された。

都立公園に向けて二人は手をつないで歩き出す。手をつなぐ、というよりは、亜美がたまきのことを、キャリーバッグのように引っ張っている、と言った方がいい。たまきは相変わらず抵抗するでもなく、とぼとぼと歩き続ける。

「祭りなんて久しぶりだなぁ。ジモトは大っ嫌いだったけど、祭りだけは好きだったなぁ」

ウキウキと楽しそうな亜美は、下を向いたままのたまきを引きずるように歩いて行った。

 

シーン1 志保

写真はイメージです

二日にわたって行われた「東京大収穫祭」は、小雨が降っていた一日目と違い、二日目は天気に恵まれ、昨日よりも多くの人が訪れ、賑わっていた。フランクフルト、ケバブ、焼きそばと様々な屋台が夜の公園をパレットのように染め上げる中、志保が通う施設の出店したクレープ屋は、混みすぎず空きすぎず、ちょうどいい感じだった。

志保は接客担当だった。客の注文を聞き、横にいるトッピング担当に注文を伝える。注文を渡してお金を受け取り、お釣りを渡す。ブースの奥では、トクラがせっせとクレープの生地を焼いていた。淡い黄色の生地をホットプレートの上に落として広げる様は、何度も練習した甲斐あってか、なかなか様になっている。香ばしいたまごの香りがブース内に充満している。

「カンザキさんって、接客とか向いてるよね」

志保の隣でトッピングをしていた少女がそう声をかけた。

「そうかな。前にちょっと、スーパーの試食のバイトとかしてただけだけど。またそういうのやってみようかな」

志保は少しはにかんだ。そこに

「おっす!」

と聞きなじんだ声が聞こえ、志保は顔を上げた。

「あ、亜美ちゃん! たまきちゃん!」

二人の同居人が店の前に立っていた。

「あら、お友達?」

仕事がひと段落したトクラが声をかける。

「はい。二人とも来てくれたんだ」

「そりゃ、志保ががんばっているところ見ないと、なぁ、たまき」

亜美に言われて、たまきはどこか申し訳なさそうに笑った。相変わらず、堅い笑顔だ。

「えー! せっかく来たんだから、食べていってよ! いろいろメニューあるよ」

メニューは一番シンプルなプレーンと、アイスを追加したもの、さらにそれぞれイチゴ、キウイ、バナナを乗っけたものの全5種類だ。

「たまき、何にする?」

亜美とたまきはメニュー表、と言っても5種類しかないのだが、を見つめながら何やら話している。

ふいに背中をつつかれ志保が振り返ると、そこにはトクラがいた。

「カンザキさんのお友達って、あんまり、カンザキさんっぽくないね」

「……私っぽくないって、どういう意味ですか?」

「ほら、系統が違うっていうか。あの二人、ビッチとぼっちって感じじゃん。どこで出会ったの? 学校?」

この数日で少しトクラのことが志保にもわかってきた。この人は悪気があって言っているのではないのだ。いつだって、ただ思ったことを口にしているだけなのだ。

とはいえ、「ビッチとぼっち」は二人には申し訳ないが、なかなか的を射ているような気がする。「ぼっち」はさすがに言いすぎだとは思うが、確かにたまきの口から、学校や地元の友達の話を聞いたことがない。

「じゃあ、あたしはなにっちですか?」

志保は少しおどけた感じでトクラに尋ねた。

「あんたはね、コッチ」

トクラは、志保の肩に手を置くと、不敵に笑った。

トクラに触られた部分からぞぞぞと悪寒が志保の背中を駆け抜けていく。ふと前を見るとビッチ、じゃなかった、亜美が笑いながら近づいてきた。どうやら、トクラの言葉は二人には聞こえなかったらしい。

「ウチら二人ともアイス乗っけたやつで」

「ありがとうございまーす。四百円になりまーす」

志保はわざと語尾を伸ばしておどけたように言ったが、亜美とたまきは

「は?」

「え?」

とだけ言い、凍りついたように志保を見ていた。

「……二人とも、どうしたの?」

「いや、四百円って高くね?」

亜美がそういうと、隣でたまきが申し訳なさそうにうなずく。

「何言ってるの。クレープなんてこんなもんだよ。むしろうちは利益を求めてるわけじゃないから、安い方だよ」

「はぁ? こんなうっすい生地に生クリームとアイス乗っけて四百円? バカじゃねーの?」

亜美が大声を出すととなりでたまきも不安そうに志保を見ながらつぶやいた。

「クレープって、卵焼きとか目玉焼きの仲間ですよね……」

「そうだよ! こんなうっすい卵焼きが、四百円とかマジであり得ない!」

「二人とも何言ってるの? 卵焼きじゃないし! 小麦粉だよ!」

後ろでトクラがケラケラ笑っているのが聞こえる。三人のやり取りがよっぽど面白いらしい。

「え? 二人とも、クレープ食べたことないの? デートとかでクレープ食べない?」

「ウチ、デートに財布、持ってかない主義だから」

亜美の答えに、またトクラがゲラゲラと笑う。

「たまきちゃんは? デートいってクレープ……」

「……私がデートしたこと、あるわけないじゃないですか」

「あ、ごめん」

「……謝られると、なんか余計に……」

「ごめん……」

いつの間にかトクラの笑い声も収まり、急に静かになる。公園内で流されているJ-POPのBGMがよく聞こえる。

「何言ってんだよ、たまき。お前、いつもミチとデートしてんだろ」

今度は亜美がケラケラ笑いながら言った。とたんにたまきが、ものすごいスピードで振り向く。

「違います。あれは、私の行く先にたまたまあの人がいるだけです。そもそも、私はあの人のこと嫌いだし、あの人はあの人でべつにカノジョさんいるし、そもそもあの人も私のこと恋愛対象じゃないってはっきり言ってるので、デートなんかじゃないです」

「……お前、そんな早口で喋れたんだな」

「え?」

亜美の言葉をたまきは牛のように反芻する。

「たまきちゃん、……ミチ君となんかあった?」

「……べつに、ないですけど」

今度は、いつものたまきのスピードだった。

 

結局二人は四百円払ってクレープを買った。

「あれ? カンザキさんの言ってた、『裏切りたくない友達』って」

トクラが志保の横に立って問いかけた。

「……はい」

「ふーん」

トクラは志保の顔を覗き込む。

「ま、やれるだけ頑張ってみれば?」

トクラはどこか憐れむようにそう言った。

志保は思考を切り替えようと、亜美とたまきに話を振る。

「二人とも、どう? 美味しい?」

志保の問いかけに二人は顔を見合わせた。

「……甘いな」

「はい、甘いです……」

「でしょ? クリームもアイスも、生地にもこだわっているからね」

志保は満足げな顔を浮かべた。二人が、口を真一文字に閉じていることに、志保は気づいていない。

 

シーン2 亜美

写真はイメージです

志保のクレープ屋を離れた二人はほかの屋台を見て回った。そのうちの焼きそば屋で亜美が500円の焼きそばを買ってきた。

「食うか?」

亜美はパックに入った焼きそばをたまきに差し出したが、たまきは静かに首を横に振るだけだった。

亜美は口を使って割り箸を割ると、モリモリと焼きそばを食べ始めた。夜の公園を背景に、湯気が街灯に照らされ、なんだか神々しい。

「やっぱウチ、こういうののほうが好きだわ。あ~、これで呑めたらなぁ~!」

亜美が傍らにある自動販売機を恨めしそうに眺める。

「お前、ほんとにいらないの? さっき、クレープ食べただけだろ」

「……大丈夫です」

たまきは静かにそういった。

「……さっきのクレープさ、どうだった?」

亜美は頬張った麺を飲み込むと、たまきに尋ねた。

「……甘かったです」

「甘すぎじゃねぇ、あれ?」

亜美の言葉に、たまきはこくりとうなづいた。

「志保の味付けじゃねぇよな、あんな甘いの。誰の趣味だ?」

亜美の問いかけに、たまきは首を傾げた。

「たまにいるんだよなぁ。甘ければいいとか、辛ければいいとか、量が多ければいいとか思ってる店。ぜんぜん美味しくねぇんだよ。辛いだけだったり多いだけだったりで、美味しくねぇの。なんなん、あれ?」

「……さぁ」

たまきはまた首を傾げた。

ふと、亜美はたまきの前に来ると、少しかがんで目線を合わせた。

「お前さ……、楽しんでる?」

「え……あ……」

「答えに詰まるなよ、そこで」

亜美はそういうと、箸でつまんだ焼きそばを、たまきの口へと突っ込んだ。

「むぐっ!」

「祭りはな、楽しまないとダメなんだよ」

亜美は残りの焼きそばをかきこむと、傍らのゴミ箱にパックを放り込んだ。ポケットから四つ折りにした大収穫祭のチラシを取り出す。

「……ここ真っ直ぐ行くと、ライブのステージか」

たまきの方を見ると、ようやく焼きそばを飲み込んだところだった。

「よし、ステージの方、行ってみようぜ」

「ミチ君の出番はまだだったと思いますけど……」

たまきも自分の貰ったチラシを見る。ミチのバンドの名前は9時ごろの登場と書かれている。今はまだ8時半。チラシには「DJタイム」と書かれている。

「お前なぁ、そんな、友達が出てるとこだけ見ればいいやって考えだから楽しめねぇんだよ」

たまきは口を真一文字に結んでいたが、亜美はたまきの右手首を掴むと、引っ張るようにステージに向けて歩き出した。

「亜美さん、痛い……」

そんな声が聞こえたような気がしたが、亜美は意に介せず、ずんずん歩いていく。

急に、たまきの足が急ブレーキをかけたかのように重くなった。

亜美も立ち止まって振り向く。

「どした?」

亜美の問いかけに反応することなく、たまきは、林の奥をずっと見ていた。

公園内の道沿いに、10mの間隔で街灯が置かれている。しかし、林の奥にはその光もほとんど届かない。目を凝らせばかろうじて、中の様子がぼんやりと見えるくらいだ。

「なんもないじゃん」

亜美は、たまきの手を引っ張った。

「はい……、何もないです」

たまきはそういうと、また亜美に手を引かれるままにとぼとぼと歩きだした。亜美には心なしかたまきがさっきよりもうつむいているように見えた。

 

二人は階段を駆け降りていく。階段を下りて行った先に大きな広場があって、普段は何にもないのだが、今夜は奥にステージが組まれている。

ステージの上にはDJブースが置かれ、サングラスをした色黒のDJがスポットライトを一身に集めている。ターンテーブルに手を置いて操作したかと思うと、ふたつのターンテーブルの間に置かれたミキサーで、何やら調整している。亜美はよくクラブに行く方だが、DJが機械のなにをいじれば音がどう変わるのか、亜美にはよくわからない。よくわからないんだけど、ステージ上に立つDJの姿は様になっていてかっこいい。

「なんかさ、前にもこういうのあったよな。二人でクラブ行ってさ……」

「……二人じゃなかったです。亜美さんの友達がいっぱいいました」

「そうそう、で、あんとき、志保に会ったんだよな」

「今日は志保さんに会ってから来ましたから、……あの時と逆ですね」

ステージの前には十代の後半から二十代の前半くらいの男女が入り乱れている。踊る、というよりも体を揺らす感じ。クラブに出入りするようなコアな音楽ファンという感じではなく、なんとなく集まってきた祭りの客がほとんどで、流れる曲もJ-POPのヒット曲ばかりだ。

亜美はたまきの手を引っ張ったまま、その群れに入っていこうとした。が、ここにきてたまきの足が、地中に錨でも沈めたかのように動かない。

「……大丈夫だって。ここにいる連中は、クラブにいた連中とは全然違うから。ライトな層だよ。ほら、ダンスのステップとか知らない感じじゃん。大丈夫だって」

亜美はにっと笑いながらたまきにそう言ったが、たまきはむなしく首を横に振るだけだ。

「私は……あそこで……見てます」

たまきは、広場のはしっこに植えられている木の根元を指さした。

「お前……ここまで来て、遠くから見てるってないだろう。ほら、行こうぜ。楽しいから」

亜美はもう一度、たまきの手をグイッと引っ張ったが、たまきはまたしてもむなしく首を横に振るだけだった。

「ったく……、しょうがねぇなぁ。じゃあ、そこで待ってろよ」

そういうと亜美は、たまきの手を放して群れの中へとわけ入っていった。

ステージからは軽快なロックサウンドが流れている。色とりどりの服を着た若者たちがステージの前を雲海のように埋め尽くし、踊るように体を揺らす。

人ごみと言っても、満員電車のように密集しているわけではない。ところどころ隙間が空いていて、空いたスペースを埋める名フットボーラ―よろしく、隙間をぬって亜美は前の方へと進んでく。

軽くステップを踏みながら群集の真ん中あたりまで来ると、右手を振り上げ、ギターのカッティングに合わせて亜美は体を揺らした。亜美が体を揺らすたびに、シャツの胸のところにかかれた英語が、豊満な胸の上下に押されて揺れる。

DJは続いてユーロビート風のナンバーをかけた。前の曲とBPMはほとんど一緒で、アウトロがフェイドアウトしていくと、次の曲が自然に耳に入ってくる。

ふと視線を感じ、右前方に目を向けると亜美の視界に、二十歳ぐらいの男性が映った。三人ぐらいだろうか、何やら話しながら踊っている。ヒップホップ系のファッションに身を包んでいた。

ヒロキのようなならず者、といった感じではない。大学生かフリーターかといったところだろう。

何度か視線を配るが、やはり3人のうちの一人はこっちを見ている。亜美の顔を見た後、ゆっくりと足の付け根まで見下ろし、そこからまた視線を上げて、胸元へ戻る。

金は持っていなさそうだが、遊び相手としてはちょうどいいかもしれない。

亜美は、手を後ろに組んで微笑みながら彼らのもとに近づくと、声色を少し上げて、甘えるように言った。

「なぁに? チラチラ見て」

 

シーン3 ミチ

写真はイメージです

ミチは歌っているときが何より好きだ。特に、ライブのように聞いてくれる人が大勢いる中で歌うのは最高だ。

とはいえ、そんなに何度もライブをして歌っているわけではない。未だに、一番最初にバンドのボーカルとしてステージに立った中学校の文化祭を越える人数の前で歌ったことはない。

あの時は演奏が終わり、ステージから降りて控室となっっているテントで倒れこんだ。

全身から吹き出した汗がその場で蒸発して、客席からの拍手と溶け合っていくのがわかる。

共にステージに上がったメンバーから何か声をかけられたが、ちっとも頭に入ってこなかった。

あの瞬間を何度でも味わいたい。それが、ミチがミュージシャンを志した理由だった。

とはいえ、今のバンドではリズムギターというポジションだ。

少し前まではあまり楽しくなかった。演奏にいっぱいいっぱいであるのもそうだし、ギターをバカにするわけではないが、あくまでもミチは歌を歌いたいのだ。

それでも、最近、音楽に関する考え方が少し変わってきた気がする。二週間ほど音楽から遠ざかっていた時期もあった。

仙人の前で歌って「ヒット曲の切り貼り」とこき下ろされてからはそのことばっかり考えていたが、頭を冷やして考えてみると、「声はよかった」とか「メロディも悪くない」とか、実は意外と褒められていたような気がする。

正直、歌声には自信があった。そもそも、中学のバンドでボーカルをしていたのも、カラオケに行ったときに「ミチって、歌、めっちゃうまくね?」と友人に褒められたのがきっかけだ。

だからミチにとって、声よりもメロディを「悪くない」と言われたのは、少し意外なことだった。

二週間ぶりにギターに触ったとき、鼻歌を歌いながらギターを奏でていた。鼻歌のメロディに合う音を探してギターをいじくる。

すると、いろいろと発見があった。こんな風に弦をはじくと、こんな音がするのか。こんな音が出せるのならば、こんな曲が作れるかも。

ギターを始めたときは間違えないように演奏するので精いっぱいだったが、いつしか、ギターを奏でるのが楽しくなってきた。

 

ギターを弾くのが楽しくなってくると、今までつまらなかったバンドでの練習も楽しくなってきた。

「ミチ、最近なんかあったか?」

バンドのリーダーであり、ミチのギターに師匠でもあるギタリストがそうミチに問いかける。仙人にこき下ろされてふさぎ込んでいたことは言いたくなかったので、

「最近、カノジョできたんスよ」

と答えておいた。

「マジか?」

「マジっす。今度のライブにも来てくれるって」

リーダーは腕を組むと、

「じゃあお前さ、次のライブで、コーラスやってみる?」

とミチに行った。

「マジっすか?」

「ああ、マジで」

さっきから、「マジ」しか言っていないような気がする。

「お前元々、ボーカル志望だろ? これでうまく行ったらさ、ツインボーカルの曲とかやろうと思っててさ」

「マジかよ……」

 

というわけで、今夜のライブはギターだけでなく、コーラスも担当する。ボーカルにハモるだけでなく、リードボーカルの裏で違う歌詞を歌うパートもある。ミチにしてみれば、これまでのこのバンドでの活動で最大の見せ場だ。ずっと正式メンバーなのかサポートメンバーなのか自分でもわからないポジションだったが、これをこなせば胸を張ってメンバーであると言える気がする。それどころか、きっと来てくれているはずの海乃にもかっこいいところが見せられる。

そう思うと、いつもよりも緊張が増す。イベントとということは、普段のこじんまりとしたライブよりも多くのお客さんが来てくれているはずだ。それを考えてしまうと、余計に緊張が増す。

だから、ミチはさっきから掌に「米」の字を書いては、ぺろりと食べる動きをしていた。

「お前、さっきから何やってんだ?」

バンドのボーカルがミチに話しかける。

「緊張しないおまじないっす。手に『米』って書いて……」

「『人』じゃね?」

ボーカルの言葉に、ミチは思わず手の動きを止めた。

「……じゃあ、『米』ってなんの時にやるんすか?」

「さあ? 腹減った時じゃね?」

なんだか、ミチは余計に緊張してきた。そんなタイミングで、舞台袖の方から声が聞こえる。

「そろそろスタンバイしてくださーい」

 

夜の野外ステージから聴衆の方を見下ろす。普段、ライブハウスで歌うときは客席は真っ暗で、ステージ上だけライトが当たっているので客の顔はほとんど見えない。最前列の何人かの顔が見える程度である。しかし、今日のステージでは、観客のスペースの後方から強烈なライトが会場全体を照らしているので、観客たちの様子がよく見える。

ざっと百人たらずといったところだろうか。中学の文化祭のころに比べればまだ少ないが、本格的に音楽を始めてからこれだけの人数の前で演奏するのは初めてな気がする。少なくとも、いつも隣にたまきしかいない、なんて状況に比べれば、だいぶ違う。

ミチは海乃の姿を探した。しかし、真っ先に目に入ったのは、観客スペースの中央で「ミチ―!」と大声を出している金髪ポニーテールの少女、亜美だった。亜美は見覚えのない男と肩を組んでいる。亜美がいるのなら、たまきや志保もいるかもしれないと観客スペースを探したが、それらしき顔は見つからなかった。

一方、海乃は最前列にいた。最前列にいたので、逆にすぐ見つけることができなかった。茶色い髪を結んだツインテールの髪型をしている。ミチと目が合うと、小さく手を振った。

観客スペースの百人のオーディエンスを見渡したときよりも、心拍数がぐっと上がった。

「こんばんは。レイブンスターズです。今日は、盛り上がっていこうぜぇ!」

ボーカルのあいさつに、オーディエンスがわっと沸く。

ベーシストがベースで低音のメロディラインを奏でる。4小節奏でたところで、ドラムが割って入り、ドラムの音を合図にミチもギターを奏で始めた。

ステージの上手から見る客席は、まるで夕方の海のようだ。色とりどりのファッションに身を包むオーディエンスはさながら、夕日を反射して煌めき、うねる海原だ。

跳ねるようなドラムの音に合わせて、ミチはギターを激しくストロークした。「ロック(ゆれて)&ロール(ころがる)」という言葉の通り、体を激しく揺らし、音を譜面の上に転がしていく。互いの楽器は恐竜の咆哮のように爆音を奏で、その音と同調するようにオーディエンスも体を揺らす。

曲の終わりにミチは激しく体を動かして最後の一音を奏でると、右の人差し指を天に付けて突き立てた。

本当にやりたい音楽とは、少し違うのかもしれない。それでも、今、自分は輝いている。そのことが実感できた。

 

3曲目のバラードもいよいよサビに入る。ボーカルの歌声が伸びるところで、ミチがコーラスを入れる。

――I love you baby

歌詞としては簡単なフレーズだが、ファルセットを使った歌唱法で、ただ歌えばいいというものではない。両手でギターを弾きながらスタンドマイクの前に口を持って来て、自分の声を通す。

サビが終わり、ミチはマイクの前をすっと離れた。手元を確認しようと視線を落とすと、海乃が微笑んでいるのが見えた。ミチは、微笑み返すとピックで優しく弦をはじいた。

 

5曲の演奏を終え、ミチたち「レイブンスターズ」はステージを降りた。実行委員のシャツを着た女性に促されるまま、控室のテントへと進む。

しばらくは拍手や歓声が響いていたが、やがて観衆の興味はトリに控える歌手へと移っていった。彼女はレイブンスターズのような一般公募ではなく、メジャーデビューして半年ほどで、実行委員から招待されて出演する、いわばこのイベントの目玉である。知名度はまだまだ低いが、注目度は高い。

中学の文化祭の時に比べると、ミチは落ち着いていた。あの頃に比べると、だいぶ場馴れしてきたらしい。

ギターケースを背負って控室となっていたテントを後にすると、

「みっくん」

と声をかけられた。その方を向くと、海乃が近寄ってきた。

「よかったよ~」

海乃は両の手のひらを見せながらとことこと歩いてきた。ミチも同じポーズで構えると、海乃とハイタッチをした。

「なに、カノジョってその子?」

リーダーの問いかけに、ミチは笑顔で返事する。

「へぇ、かわいいじゃん」

かわいいと評されて、海乃の笑顔はますます明るくなった。そのさまを見ていると、ミチは心臓をきゅっと軽く握られたような感覚を覚えた。

海乃はミチの方に向き直ると、手をぶんぶんさせながら言った。

「ギター、すごいかっこよかったよ~。コーラスもやってたよね。あたし、ぐっときちゃった」

「マジっすか? 最前列にいましたよね」

「うんうん、いたいた。みっくん、手を振ってくれたよね」

海乃の言葉を聞きながら、ミチはふと公園の奥の雑木林の方を見た。

仙人のおっさんは、今日の演奏を聴いてくれたのかな。聴いていたのなら、いったいなんていうのだろうか。

「みっくん」

再び海乃に呼びかけられて、ミチは彼女の方に視線を戻した。

「今日、この後どうするの?」

「……この後はバンドのみんなと打ち上げっす」

「じゃあさ、その後でいいからさ……会えない?」

言葉と言葉の間の空白で、海乃は悪戯っぽく微笑んだ。

「……いいっすけど、十二時過ぎるかもしれないっすよ?」

「……いいよ」

海乃はうつむきがちに、それでいてミチの目をしっかりと見据えながら答えた。ミチはさっきよりも心臓を強くつかまれた気がして、思わず視線を落としたが、シャツの胸のふくらみが目に入り、そこに視線が釘付けとなった。

「……マジっすか」

 

シーン4 たまき

レイブンナントカというバンドの演奏が終わって、スタッフらしき人たちがステージ上の配置転換をした後、着飾った女性が一人、マイクを持ってやってきた。聴衆もどんどん増えていく。

女性はステージ上であいさつをした後、歌い始めた。女性にしては低い声だ。

歌詞は、ミチがよく歌っているような歌に少し似ていた。

ふと、たまきの視界にミチが映った。ステージ横のテントの前で、女の人としゃべっている。女性の方は後ろ姿なので顔はわからないが、あの海乃っていう人だろうか。

「たーまき」

後ろからとつぜん声をかけられて振り向くと、そこには亜美が立っていた。亜美の周りには3人ほど見知らぬ男性がいる。

「ウチ、これからこいつらと飲みに行くから」

「……この人たち、誰ですか?」

「ん? さっきできたトモダチ」

なんで亜美さんはそんなに簡単に友達が作れるんだろう。

「なに、この子? 友達?」

男の内の一人が亜美に尋ねる。いつも亜美の周りにいる男と比べると、だいぶ爽やかだ。

「そうそう、一緒に住んでるの。でさ、ウチはこいつらと飲みに行くけど、たまきはどうする? 来る?」

たまきはぶんぶんとかぶりを横に振った。

「ま、そういうと思ったよ。部屋のカギ、渡しとくから先帰って」

亜美はたまきに鍵の入った財布を渡した。鍵には赤い紐で鈴が結び付けられている。

財布を渡すとき、亜美はたまきの耳元でささやいた。

「預かってて。千円くらいだったら、使っちゃっていいよ。なんか買って食べたら?」

そういえば、さっき亜美は「デートに財布は持っていかない主義」だと言っていた。あの男たちに飲み食い代を払わせるつもりだろう。

「今夜はかえんねぇから」

……ラブホテル代も払わせるに違いない。

 

亜美は男たちに囲まれ、そのままどこかへ行ってしまった。

たまきは、財布の中の鈴のついた鍵をしばらく眺めていた。ステージからはアップテンポなビートに乗って、さっきの歌手の歌声が聞こえてくる。

たまきはとぼとぼと歩き、広場を後にした。志保と合流しようと、クレープ屋のあった方へと歩いていく。

暗い闇の中にそこだけ光のチューブのように道が伸び、その中を色とりどりの服を着た若者たちが歩いている。男子の集団はワイワイはしゃぎながらフランクフルトを頬張り、カップルは恋人つなぎをしながら綿菓子にむしゃぶりつく。

人の流れに逆らう形で、たまきはクレープ屋を目指していたが、ふと、歩みを止めた。

ちょうど、店が途切れた一角だ。街灯と街灯の間にあり、その奥には林が広がっている。いや、広がるというよりも、鬱蒼とした茂みに闇を閉じ込めているようだった。

その闇の中にどれだけ目を凝らそうと、何も見出すことができない。

ほんの一週間ほど前には、そこにベニヤづくりの庵があった。椅子に腰かけ、仙人やホームレスのおじさんと一緒にミチの歌を聴いていた。

だが、祭りの間はいなくなるという仙人の言葉通り、庵は跡形もなくなくなり、後には木が生い茂るだけ。いつもたまきの隣で歌っていたミチはステージ上で輝き、今頃カノジョといちゃいちゃしている。志保はたまきの知らない人とクレープを焼き、亜美は知らない男の人たちとどこかへ行ってしまった。たまきがいつも来ていた公園も、見知らぬ人たちが行きかう。

「わしらはここにいてはいけないからな」

そんな仙人の言葉が、たまきの頭の中で響く。

 

クレープ屋の前まで来たが、お客さんはおらず、志保は施設の人たちと談笑していた。そろそろ午後十時になろうとしている。二日にわたって開かれた祭りも、終わる。

志保が談笑する中、たまきはなかなか声をかけられないでいた。なんだか、志保とのあいだに川が流れて風が吹いているかのように冷たさを感じる。

志保がたまきに気付いたのは、たまきが辿り着いてから2分ほどたってからだった。

「あ、たまきちゃん」

志保はクレープ屋の屋台から出てきた。

「もう、お店は終わりだよ。あれ、亜美ちゃんは?」

「……なんか、知らない男の人たちと、どこかへ行きました。……今夜は帰らないみたいです。だから、鍵は今、私が持ってます」

そういうと、たまきは少し声のトーンを落とした。

「志保さんは今日、帰ってきますよね……」

幼い日に、夜中に姉を起こして、一緒にトイレへ行ってほしいと頼んだ時もこんな喋り方だった気がする。

志保は、背後の屋台を見やると

「ごめん。この後、施設のシェアハウスで打ち上げがあって、今夜はそのまま泊まると思う」

「……そうですか」

実は、たまきは、なんとなくそんな気がしていた。風も急に強くなったように感じられる。

「一人で、帰れる?」

「……いつも、ここ来てますから」

たまきは志保の目を見ることなく答えた。

屋台から、志保を呼ぶ声が聞こえた。志保が振り向くと、トクラが立っていた。

「カンザキさん、そろそろ行くよ」

「あ、ちょっと待って」

志保はたまきに向き直ると、少し腰を落として、たまきの目線に合わせて言った。

「この後、パレードに参加するんだけど、たまきちゃんも来る?」

「……ぱれーど?」

たまきは視線を上げて志保に聞き返した。志保はポケットからサイリウムを取り出した。縁日で売っていそうな安物だ。

「これもって音楽かけながらみんなで練り歩くの。広場からメイン通りを抜けて、公園の外を一周するんだ」

なんのためにそんなことを……、という疑問をたまきはぐっと飲み込んだ。もう、そんな余計なことをしゃべる気にもならない。

「たまきちゃんも一緒に、来る?」

志保の誘いに、たまきはむなしく首を横に振った。

「私……、お店とかやってないし……」

「あ、そういう、お店出した人だけとか、そういうんじゃないの。サイリウム買えば、だれでも参加できるんだよ」

志保はやさしく言ったが、それでもたまきは首を横に振る。

「ね? 一緒にいこ? 仮装してる人とかもいるし、楽しいよ、きっと」

それでも首を縦に振らないたまきを見て、声を出したのは志保の後ろにいたトクラだった。

「もう、いいじゃん。その子、行きたくないって言ってるんだから」

そう言ってトクラは志保の肩をたたいた。志保も困ったように笑うと、

「じゃあ、たまきちゃん、一人で帰れる?」

そこでたまきは初めて首を縦に振った。

「それじゃあ、気を付けて帰ってね」

志保はそういうと、微笑みながらたまきに小さく手を振り、くるりと向きを変えると、トクラとともに屋台の方へと戻っていった。しばらくすると、屋台からカラフルなサイリウムを持った一団が出てきて、広場の方へと向かって行った。その中には志保の姿もあった。同い年ぐらいの女の子と、何やら楽しそうに話している。

今度は志保に言われた言葉が頭の中で鳴り響いていた。どこかで聞いた言葉だと思ったら、むかし中学校の先生に言われた言葉に似ていた。

「ね? 学校いこ? クラスの子もいっぱいいるし、楽しいよ、きっと」

 

メイン通りを少し外れた芝生の上をたまきは歩いていた。緑の芝生の上を闇が漂い、たまきはふらふらと、蛾のように街灯の下へ向かって歩いていく。

街灯の下には木製のベンチがあった。このあたりは人気が全くなく、傍らに置かれた青い自動販売機の光が、さびれたホテルのような雰囲気を醸し出している。

たまきはベンチに腰を下ろすと、こうべを垂れた。

亜美や志保、ミチの顔が浮かんでは流れるように消え、また浮かぶ。それらはいずれも色のないモノクロで、なんだか、昔の映画を見ているようだった。

たまきは一人、客席に座ってスクリーンに映る銀幕のスターたちを眺めている。たまきもスクリーンの向こうへ行きたいのだが、どうしてもいけない。近づけば近づくほど、自分とは違う世界の映像を映写機で映しているだけのように思えてならない。

ふと、目の奥が震えるのを感じる。瞳からこぼれた雫がメガネのレンズをぬらし、たまきの視界がゆがんだ。

喉の奥から地響きのような激しい嗚咽が走り、こらえようと思ったが口から洩れてしまった。たまきはメガネをはずすと傍らの、ベンチの空いたスペースにそっと置いた。

そしてたまきは身を大きく前へ乗り出して、突っ伏した。

上半身を折りたたみの携帯電話のように曲げ、たまきは膝をまとうスカートに目頭を押し付ける。

静寂に包まれた夜の公園のベンチ。遠くではテンポの良い音楽がかかり、ほかに聞こえるのは自販機から洩れるなにかの機械音と、たまきの嗚咽と鼻をすする音だけだった。

 

写真はイメージです

ふと、だれかが落ち葉を踏んだ音がした。たまきは顔をあげてそっちを見た。

見たと言っても、メガネをはずしてしまったのでよく見えない。おまけに、涙にぬれて視界はぐちゃぐちゃだ。かろうじて、目の前の影が人かもしれない、ということしかわからない。たまきの身長よりも大きな影が見えるが、都心の真ん中にくまはいないはずなので、人の影で間違いないだろう。ふと、その影が声を発した。

「もしかして、たまき?」

聞き覚えのある声にたまきは傍らのメガネを手に取って装着した。それでもまだ若干視界はなみだで歪んではいたが、目の前にいるのが誰かくらいは識別で来た。

「……舞先生?」

薄手のジャンパーを羽織り、ジーンズをはいた舞がそこにいた。

「やっぱお前か! メガネ外してたから、最初わかんなくてさ。どこかでこの子みたような、って考えてたら目がお前に似てるなってきづいて。いやぁ、メガネ外すと、だいぶ印象変わるな」

「……よく言われます」

たまきは舞から視線をそらすと、袖でメガネを上へと押しやり、残ったなみだの雫をふき取った。泣いてたことなんて、気づかれたくない。

舞はその様子を見て、口元を少し緩めた。ふと横の自販機に視線を移すと、

「自販機あるじゃん。なんか飲むか? おごるぜ」

というとショルダーバッグから財布を取り出した。

「なにがいい? えっとね、リンゴジュースと……」

「……それでいいです」

がこんと缶が落ちる音が二回した後、舞の手には二本の缶が握られていた。舞はそのうちのリンゴジュースをたまきに手渡すと、

「となり失礼」

と言ってたまきの隣に腰を下ろした。コーラの缶のプルタブを開け、グイッとのどに押しやる。

二酸化炭素を吐き出すタイミングで舞がたまきの方を見やると、たまきはまだプルタブと格闘していた。小さな親指をプルタブに引っ掛けるが、何度やっても親指が外れてしまう。

「なんだ、お前、開けられないのか。かしてみ」

舞はたまきから缶を受け取ると、あっさりとプルタブを開けてたまきに返した。たまきは申し訳なさそうに缶に口をつけた。

舞は、再びコーラを飲むと、声帯の、さらに奥から息を絞り出すように言った。

「ああ、やってらんねぇよなぁ」

その言葉にたまきは、水をかけられたかのように驚き、舞を見た。

「そう思わんかね。今、あいつら何やってるか知ってるか? パレードだってよ。遊園地でもないのにパレードなんかして何すんだよ。あんなの、写真うつりがいいからやってるだけだろ」

舞が飲んでいるのは確かにコーラのはずなのだが、もう既に酔っぱらっているかのような口調で舞は続ける。

「だいたい、なんなんだよ、この祭り。『食物に感謝を』? だったら、畑にでも行って農家のおっさんとかに『いつもありがとう』っていやぁいいじゃねぇか。東京のど真ん中の公園でやる必要なんか、一個もねぇだろ。たまき、なんでこんな祭りが毎年毎年開かれてるか知ってっか? みんな自分がリア充だって確かめたいだけなんだよ。企画してるやつらも、店出してる奴らも、ステージでてる奴らも、ワイワイ盛り上がってる客もみんな、自撮り写真とか撮って、『私たち、やっぱりリア充だったんだねぇ~♡ よかったねぇ~♡』って確かめ合って安心したいだけなんだよ。一生ともだち申請でもやってろ、バーカ」

舞はまたコーラを口に含んだ。そして、たまきの顔を見ると少し照れたように、

「なんだよ。何笑ってんだよ」

とぼやいた。

「…笑ってました、私?」

「笑ってるだろ」

「その……、舞先生って、こういうイベントごと、嫌いなんだなぁって」

「志保の頼みじゃなかったら、絶対こなかったね。楽しくねぇもん」

舞は缶から口を話すと、つぶやいた。

「昔っからこういうイベントごとが嫌いでな、こんなんだから、ガキの頃から友達も多くない」

「そうなんですか?」

たまきが今日一番のテンションで聞き返した。街の不良たちに先生と慕われている姿からはちょっと想像できない。

でも、とたまきは視線を落とす。舞は「多くない」といったのだ。たまきのように、友達がいなかったわけではない。だいたい、舞がたまき側の人間なんてことはあり得ない。

「でも、先生、結婚してたじゃないですか……」

「ん? なんだよ。友達少ないのに結婚したのは変だって言いたいのか?」

「カレシだって……、いたわけですよね」

「まあ、何人かとは付き合ったな」

やっぱり。とたまきは肩を落とす。少なかったとはいえ友達がいて、カレシがいて、一度は結婚して、舞はやっぱりたまきとは違う側の人間なんだ。舞だけじゃない。亜美も志保もミチも、少し仲良くなれたように思えたけど、やっぱり私とは違う側の人間なんだ。

「でもなぁ、カレシは何人かいたし、結婚もしたけど、ついぞ恋人はいなかったなぁ」

舞のその言葉に、たまきは半ばあきれたように返した。

「……カレシと恋人ってどう違うんですか?」

「一緒なのか?」

その言葉を聞いてたまきは、舞を見た。舞もたまきを見ている。

「……私には、その違い、わかんないです。だって、私、カレシとか、友達とか、そういうのいなくて……」

「友達ならいるじゃねぇか。亜美とか志保とかミチとかさ」

そして、舞は飲み干したコーラの缶を傍らに置いた。

たまきは言葉を返さなかった。何か言いたかったのだが、「友達」という言葉が鼓膜を打った途端に唇がけいれんして思うように動かせない。舞の耳に聞こえたのは、鼻をすする音と、しゃっくりのような嗚咽だった。

「お前、何泣いてんだよ」

「だって……だって……」

たまきは嗚咽を交えながら、言葉をつづけた。

「亜美さんも志保さんもミチ君もみんな、お、お祭りを楽しんでて、わ、わたしだけ楽しめなくて、い、いろいろ気を遣わせて、『い、いっしょに行こう』って言ってくれて。でも、ち、ちがうの。わ、わたしは、あ、亜美さんと志保さんに……」

たまきは、そこで言葉を切ると、袖で涙をふいた。泣くなんてわかってたら、ハンカチを持ってくればよかった。

声帯がけいれんして嗚咽を繰り返す。そうやって、たまきのことばを喉の奥へ奥へ通し戻そうとする。

でも、今、この気持ちを誰かに伝えなかったら、もう一生誰にもこの気持ちを伝えられないような気がした。この願望にきちんと言葉をつけてあげなければいけないような気がした。

たまきは、大きく息を吸うと、声を上げた。

「わ、わたしは、ふたりに、い、こ、こっち側に来てほしかった!」

小刻みに震えるたまきの背中を、舞がさすった。大粒の涙が頬からぽろぽろこぼれ落ちる。

「わがままなのはわかってるけど……わ、わたしは、『い、いっしょに祭りに行こう』とか、『こ、こ、こっちに来れば楽しいよ』とか、そ、そういうのじゃなくて……、わたしは、ふたりに、いっしょにおまつりをぬけ出してほしかった! ずっといっしょにいてなんてわがままは言わないから、ほんの2,3ふんだけでいいから、二人に、いっしょにこっち側に来てほしかった!」

たまきの嗚咽は止まらない。

「こんなふうに、に、にぎやかなところからはなれていっしょに……。でも、わかってもらえなくて、みんな、お祭りにな、なじめてて、わ、わたしだけなじめなくて、、うまく言えなくて……、いっ、えっ」

あとはもう、言葉にならなかった。言いたかったことはまだまだたくさんあるのに。

舞は、たまきの背中を優しくさすりながら、優しく微笑むと、静かに、囁くように言った。

「たまき……あたし、今夜お前のところ泊まろうか?」

つづく


次回 第14話「朝もや、ところにより嘘」

舞の家に泊まることとなったたまき。そこで舞はたまきに話す。「人はさみしさからは絶対に逃げられない」。翌朝、たまきはミチと海乃に鉢合わせする一方、志保はある人物と再会する。

つづきはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第12話「夕焼けスクランブル」

不法占拠を続ける三人娘のところにも秋の足音が聞こえる。

施設で知り合ったトクラに引っ掻き回される志保。

ミチの思わぬ発言に腹を立てるたまき。

そして、なぜか「城」にいない亜美。

「あしなれ」第12話、三者三様の秋をお楽しみください。


第11話「惚気の長雨、口下手の夕暮れ」

「あしたてんきになぁれ」によくでてくるひとたち


写真はイメージです

屋上から西の空を見て、志保は思わず目を止めた。

つい半月ほど前のこの時間はまだまだ夕焼け空が広がっていたのだが、いつの間にか日は短くなり、空はすっかりすみれ色に染まっている。藍染のようなグラデーションの空の手前には無数のビルが城塞のようにそびえたち、窓の灯りは洞窟にちりばめられた宝石のように煌めいている。

洗濯物を細い腕にかけながら、志保はそこに影法師のように立ち尽くした。

空の色が菫から藍、そして紺へと、水の膜に色素を落としたように移り変わり、志保はそこで何かに気付いたかのように目を見開いた。

「なに見とれちゃってるんだろ」

そう自嘲気味に笑うと、洗濯物を腕にかけたまま、搭屋へと入っていった。

 

写真はイメージです

「確かに迷惑じゃねぇ、とは言ったけどさ」

京野舞は煙草に火を付けながらいった。傍らにはバラのように赤く染まったガーゼが数枚置かれている。

「二週間で三回も呼び出されると、流石にイライラするぞ」

「……ごめんなさい」

たまきは真新しい右手首の包帯をさすりながら言った。

「イライラすると、手元が狂うからヤなんだよ」

「……ごめんなさい」

「そんなうなだれんな。別に、怒ってるわけじゃねぇから」

舞は珍しくにっこりと笑う。

「なんかあったか?」

「……特には……」

たまきは髪をとかして、前髪で左目を隠した。

「で、お前はクレープ屋でもはじめんのか?」

舞は、テーブルの上に積まれたお菓子の本を見ながら、志保に言った。

「そうなんですよ」

志保が笑顔で返す。

「なに、ほんとにやるの?」

志保は、施設の仲間と一緒に「大収穫祭」でクレープ屋をやることを話した。

「へぇ、あの施設、そういうこともやってるんだ。大収穫祭ね……。クレープ屋って、施設に通ってる人全員出るの?」

「……三分の一くらいですかね。有志だけなんで」

「ふーん」

舞がぷはぁと煙を吐き出す。

「イベントは二週間後です。先生もぜひ、来てください!」

志保は目を輝かせていった。舞は、

「……まあ、お前が施設でどんなことに取り組んでるか、見とかなきゃな」

とだけ答えた。たまきには、どこか感情が入っていないようにも聞こえた。

「……ところで、お前ら、メシは食ったのか?」

「これからなんですけど、今日、クレープつくる練習で帰るのおそかったからどうしようかって話してたところなんです」

志保が読みかけのお菓子の本を閉じて答えた。

「あたしが作ろうか?」

「え? いいんですか?」

「コミュニケーションって大事だろ?」

そう言って舞はドアの方を見る。

「この前はこんなタイミングであいつが帰ってきたんだけど、……今日は帰ってこないな」

舞が言う「あいつ」とは、この「城(キャッスル)」の最初の住人、亜美のことである。

「なんか最近……、ちょくちょくいないよね」

志保の問いかけにたまきはこくりとうなづいた。

「どこ行ってるんだ、あいつ? 昼間っから援交か?」

「さあ、隣町のヘアサロンに行くって言ってたけど……」

志保の言葉に、たまきは首をかしげる。

「この前もそんなこと言ってましたよ。隣町の理髪店に行くって。美容院って、そんなに頻繁にいくようなところですか?」

「……その割には、髪型、特に変わってるようには思えないけどなぁ」

「……亜美ちゃん、何やってるんだろ?」

三人の視線が、壁に掛けられた亜美の絵へと向かう。

「私たちに言えない、何か危ないことでもしてるんじゃないでしょうか……」

「援交してるっておおぴろっげに言うやつが、これ以上何を隠すんだよ」

舞が腕組みしながら言う。

「……いけないクスリの売人とか」

「もしそうだとしたら、真っ先にあたしに売りつけてるとおもうよ」

「同居人が売人だったら、お前、即、施設入所だからな」

舞が苦笑いしながら志保を見た。

「じゃあ、ピストルの売人とか……」

「とりあえず、売人から離れようぜ」

舞が呆れたように笑う。

「まったく、どこほっつき歩いてんだか」

舞はそう言いながら亜美の似顔絵を見ると、

「それにしてもこの絵、よく描けてるな」

と言ったので、たまきは思わず下を向いた。

「ほんと、よく亜美ちゃんの特徴捉えてますよねぇ」

「街の似顔絵屋さんにでも描いてもらったのか?」

舞の問いかけに、誇らしげに答えたのは志保の方だった。

「たまきちゃんが描いたんですよ。亜美ちゃんの誕生日プレゼントに」

「マジで?」

舞がたまきの方を振り向く。たまきはピンクのクッションを掴むと、顔全体に押しつけるように抱きしめた。

「はぁ~、たまき、お前にこんな特技があるとはなぁ。あたし、絵ごころ全然ないから、尊敬するよ」

舞はまるで鑑定士のように手に口を当て、描かれた鉛筆の線まで覗き込むように見ていた。こんな風に、絵をじろじろ見られるのが嫌だから、たまきは飾りたくなかったのだ。

「いや、大したもんだよ」

それでも、褒められるのはなれていないので戸惑うが、悪い気はしない。

 

結局、亜美は帰ってこなかった。

舞は、「ちりこんかん」という、たまきの食べたことのない料理を作った。舞の作るちりこんかんという料理は、豆とひき肉に少量のケチャップとスパイスを混ぜて茹でたものだった。

「おいしい~!」

志保が感嘆の声を上げる。

「先生と結婚するだんなさんは幸せ者だよ」

志保は年にちょっと釣り合わない感想を述べた。

「いや、あん時は忙しかったからな、ダンナにつくってやる余裕なんてあまりなかったよ。むしろ、ダンナが作ってくれた方が多かったな」

舞はモリモリとちりこんかんを頬張りながら言ったが、たまきと志保のスプーンを持つ手は完全に止まってしまった。

「えー! 先生、結婚してたの!?」

志保が驚嘆の声を上げる。たまきの左手はスプーンを口元に運んだまま止まり、重力で垂れ下がったスプーンから豆がコロコロとこぼれ落ちる。

だが、驚いたのは舞も同じようだった。

「え、あ、『結婚してたの』か……。『してた』という意味では……、イエスだな。っていうかお前ら、亜美から聞いてなかったのか?」

「全然」

志保とたまきが同時に首を横に振った。

「そうか。あいつには会ったばかりのころに、『ねえねえ、先生ってカレシいないの』って感じでしつこく聞かれて、べつに隠すことでもないから話したんだがな。あいつ、口軽そうだからてっきりお前らにも喋ってるもんだと思ってた」

舞が亜美の口調を真似すると、志保はくすりと吹き出した。

「意外と口が堅いんだね、亜美ちゃん」

「……聞きだすのに興味はあっても、喋ることに興味ないんじゃないですか?」

たまきはようやく思い出したかのようにちりこんかんを口に運んだ。

「あれ? 『結婚してた』ってことは……」

志保はちょっと言いづらそうに舞を見たが、舞はあっけらかんと

「ああ、別れたぞ。まだ、二十代だったころの話だ」

と答えた。志保は

「へぇ~」

と感心したようだったが、

「あれ? じゃあ、もしかして、先生ってお子さんとかいるんですか?」

と目を輝かせた。

「お前、ガキなんていたら、今頃こんなところでおまえらの面倒なんて見てねぇよ」

「……ですよね」

志保はばつの悪そうに笑った。

 

写真はイメージです

「やっぱり、イチゴとバナナはマストでしょ」

トクラはホワイトボードに書かれた「イチゴ」と「バナナ」の文字を赤ペンで丸く囲んだ。

東京大収穫祭まで残り2週間を切った。今日中にメニューの最終決定を決めなければいけない。

「メロンとか、どうですか?」

志保は手を上げて提案してみたが、トクラは

「高い」

と一蹴した。

「色合い的には三色クレープってことでバランスいいと思ったんだけど」

「カンザキさん、メロンが緑なのは外側で、中はオレンジ色だよ。だったら、キウイがいいんじゃないかな」

おじさんが横から提案する。

「で、アイスはどうするの?」

志保の隣に座っていた女の子が訪ねた。アイスをクレープにれるか否かが、ここ数日の焦点だった。コンビニで買ったアイスを混ぜて試作したりしていたのだ。

「あたしはアイス入れたいんだけどな」

トクラは、赤ペンで「アイス」の文字の下に二重の線を引いた。

「でも、祭りは十月でしょ? アイスに需要があるかなぁ」

おじさんは首をかしげるが、トクラは

「真冬じゃないんだし、アイスは絶対喜ばれるって。十月って言ってもまだはじめだし。アイスが入ってるクレープって、よくあるよね、カンザキさん?」

急に名指しで質問をされて、志保は戸惑いつつも答える。

「え、あ、あると思いますよ? っていうか、なんであたし?」

「だって、そういうところ、よく行きそうな雰囲気だもん」

そうかしら、と志保は思いながらも、そういえば、高校の通学途中にクレープ屋があって、トモダチやカレシと行ったな、なんてことを思い出した。

「アイスを入れるとしてさ、どこでアイス買うの? コンビニやスーパーのアイスじゃ、足りないでしょ?」

志保の隣の少女が尋ねる。

「業務用、っていうのがあるんじゃないの? 昔、ヨーロッパに行ったときに、バケツみたいなのに入ったアイス、食べたことあるよ」

トクラがジェスチャーを交えて話した。

「その、業務用アイスっていうのは、どこで売ってるのかな?」

「さあ、問屋とかじゃない?」

トクラがどこか無責任に言った。

話が煮詰まってきた。こんな調子で今日中に決まるのかな、と志保が壁に掛けられた時計に目をやると、そこにはシスターが立っていた。

「ちょっといいかしら」

シスターはいつものように上品にほほ笑みながら歩み寄ってきた。

「この前皆さんにしていただいた検査ですけれども……」

検査というのは検便のことだ。飲食物を扱う屋台をやるということで、検便が行われたのだ。

もしかして、自分だけ薬物とか別の検査もされているんじゃないか。志保は検便の容器を見ながらそんなことを考えていた。もちろん、財布の一件以来もう二か月も薬を絶っているのだから、検査されたところで何も出てこない。何も出てこないはずなんだけど、なんだか不安な自分がいる

だから、これからシスターがどんな話をするのか、不安でしょうがない。「神崎さん、ちょっと別室に来てくださる?」とか言われたらどうしようかと、ありえないはずのことを考えてしまっているのだ。

一度そう考え始めると、どうしてもその考えがぬぐえない。二カ月も薬を絶っているのだから今更検査で何かが出てくるなんてありえないのだが、どうしても何か見つかってしまうような気がしてしまう。

「全員検査は合格でした」

シスターの言葉に志保は胸を締め付けていた鎖が突如消えたかのような解放感に抱かれ、笑みをこぼした。

ため息をついて顔を上げ、トクラの足が視界に入る。ふと気になってトクラの顔を見ると、トクラはにこにこ笑っていた。

……トクラさんもパスしたんだ。

もちろん、今回の検便はばいきんかなにかの検査であって、薬物の検査ではない。冷静に考えれば、教会が抜き打ちで検査をするとも考えられない。

それでも、志保はトクラが検査をパスしたことが、そして何よりも、トクラが何食わぬ顔で検査を受けていたことが引っ掛かった。

 

写真はイメージです

ひと月ぐらい前までは蝉の声がやかましかった公園だが、秋を迎えて少しずつ落ち葉も目立ち、ギターの音がよく通るようになった。

ミチは林の中にビールの空き箱をひっくり返して用意した台の上に立つと、じゃらりとギターを鳴らす。彼の前方にはいくつか椅子が並べられ、ホームレスたちが腰かけている。

「えー、今付き合ってるカノジョを想って作りました、新曲です。タイトルは、あー」

ミチはギターのネックに手をかけたまま、右上を見た。

「『アイラブユー』です」

少し小さめの椅子に腰かけたたまきが、少し微笑んでミチを見上げながら、ぱちぱちと手をたたいた。しかし、その隣の仙人は口を堅く結び、ミチをまっすぐ見据えながら腕組みをしている。

ミチはジャカジャカとギターを軽くストロークして、歌い始めた。

 

――陽炎揺らめく夏の中で

――煌めく小さな光

――まるで海のように

――僕を包み込んでくれた

 

――そうさ君の微笑みは

――まさに天使の笑顔

――まるで空のように

――僕を包み込んでくれた

 

――好きだ好きだ愛してる

――ずっと大事にするからね

――好きだ好きだ愛してる

――ずっと守り続けるよ

 

そんな歌が3番まで続く。ハイトーンな声のキーを少し落として、ミチはゆったりと歌い上げた。

歌終わりに優しくストロークをして曲を終えると、ミチはやりきったという表情で頭を下げた。

「ありがとうございました」

たまきが軽く微笑みながらぱちぱちと拍手をする。だが、仙人は目をつむったまま動かない。とはいえ、背筋がしっかり伸びているので、寝ているわけではなさそうだ。

「……どうでした?」

ミチは仙人の顔を窺うように身をかがめた。

「……歌声はよかった。メロディも悪くない」

前にもそんな感想を聞いたな、とミチは苦笑いする。

「それで、歌詞の方は……」

「今、どこから指摘しようか、考えている」

仙人のその言葉に、ミチは肩を落とした。

「そうだな。好きなのか愛しとるのか、どっちなんだ?」

「え?」

ミチがギターを肩から外しながら、仙人に聞き返した。

「歌の中で『好き』とも『愛してる』とも言っていただろう? 結局、どっちなんだと聞いている」

「そんなの……どっちもですよ」

ミチは困ったように口をとがらせた。

「で、どっちなんだ?」

横で聞いていたたまきは思う。仙人が同じ質問を繰り返すときは、相手の出した答えに納得していないときだ。それは、相手に何かを気付いてほしい時でもある。

「だから……、どっちもですって」

ミチは、もう勘弁してくれというような目で、仙人を見た。

 

写真はイメージです

自動販売機とはよくよく考えると不思議な装置だ。軽い百円玉を入れると、ズシリと重い液体を入れた缶が出てくるのだから。あの百円玉のどこにこれほどの重さがあるのだろうと不思議に思う。

志保は身をかがめ取り出し口に手を突っ込み、黄色い缶の炭酸飲料を取り出した。

プルタブに指を賭けたところで、志保は声を聞いた。

「よかったね。検査、引っかからなくて」

志保は鞭に撃たれたかのように左側を見た。通りの奥から、トクラがこちらに向かって歩いてくる。

教会から駅へと続く住宅街の道は、塀から顔を突き出した木々の緑によって彩られていたが、ところどころ黄色い葉っぱも交じってきた。

志保はトクラをじっと見ていた。

「なに? どしたの、カンザキさん」

トクラが怪訝そうに首をかしげる。

「……いえ」

志保はトクラから目をそらすと、缶のプルタブを開けた。トクラは歩調を速めると志保のそばまで来て、囁くように言った。

「私たちの検便ってさ、やっぱ、クスリの検査までされてるのかな?」

「さ、さあ」

志保は冷たい缶を両手でしっかり包み込むように持つ。

「されてたら、やばいよね」

「それってどういう意味ですか?」

志保は反射的にトクラの方を見た。トクラは右上を見上げたが視線を戻して、言葉を選ぶように言った。

「ほら、施設がプログラムの受講者に黙ってそういう検査してたら、信頼関係ってやつが崩れちゃって、ヤバいよね、って話。まあ、あの施設はそんなことするところじゃないけどさ」

そう言ってトクラは笑う。志保は、炭酸水をのどに流し込むと、駅に向かって歩き出した。

「カンザキさんって、シャブやってたんだよね」

「……あまり大きな声で言わないでもらえますか」

「ああ、ごめんごめん」

トクラはそう言いつつも、悪びれた感じではない。

「売人の番号って残ってるの?」

「……消しました」

財布を返しに行った日の昼に、売人の番号は携帯電話から消去した。一緒にいた亜美にも確認してもらっている。

「なんだ」

「……残ってたらどうするつもりだったんですか」

「教えてもらうに決まってんじゃん」

トクラはケラケラと笑いながら、そう答えた。その言葉に志保は足を止めた。二、三歩進んでトクラが気付き、振り返る。

「どしたの? あ、やっぱり、番号残ってた?」

「……トクラさんは、何のために通っているんですか?」

二種間ほど前にも同じことを訊いた気がする。

同じ質問を繰り返すということは、答えに満足していないからであり、相手に何かを気付いてほしい時でもある。

トクラは笑みを浮かべながら、志保の質問に答えた。

「行かないと、周りがうるさいから」

さっきまでアスファルトを照らしていた太陽が雲の影に隠れる。志保は睨むようにトクラを見ていたが、トクラはひるむ様子もなく言葉をつづけた。

「カンザキさんはさ、あそこのプログラムで、本当にクスリやめられると思ってるの?」

「そのために、私は通っています」

手にもったアルミ缶が少しへこむ。

「もう、周りを裏切りたくないんです」

「裏切るよ、どうせ」

トクラは不敵に笑いながら志保に近づく。

「あの施設に通ってても、クスリの再犯で捕まったやつを何人か知ってるし、実は私自身あそこに通うのは2回目だったりするの。まじめに通ってたんだけどね、逮捕されちゃっていけなくなっちゃった」

「施設のやり方が間違ってる、ってことですか」

施設の職員はみな親切で、志保は上品な感じが少し苦手だが、好感を抱いていた。それを悪く言われるのはいい気分がしない。

何より施設のやり方が間違いだということになると、この二カ月が無駄になってしまう。

「いや、あの施設はよくやってる方だとおもうよ。どこもあんな感じだと思うし、実際、依存症に対する取り組みではあそこはまあまあ有名な方だし」

トクラは志保に最接近すると、囁くように告げた。

「間違ってるのはね、私たち」

志保は自分の呼吸とトクラの呼吸が同期するのを感じた。手にもつ缶がベコベコへこみ、その冷たさがやけに志保の手の熱を奪っていく。

「薬物の再犯率はね、私やカンザキさんくらいの年だったら、40%くらいかな。それに、再犯率っていうのは、逮捕されないとカウントされないからね」

「……トクラさんは、もう治療する気がないってことなんですか」

いつしか志保の声は震えていた。

「ほんっと、カンザキさんって十年ぐらい前の私に似てる。まあ、私はカンザキさんほど真面目じゃなかったけどさ。それでも、本気でクスリをやめたいって思ってたり、自分の努力次第で何とかなるって思ってたり、周りを裏切りたくないってところとか、ホントそっくり」

志保は、自分の息が少し粗くなっているのを感じていた。

「だから、ほっとけないっていうか。ほら、ドラマの結末知ってて再放送見てるときってさ、最後死んじゃうキャラとか出てくると、教えたくなるじゃない、その人の宿命ってやつを」

その言葉に、志保は急に恐怖を感じた。

この人とあたしはちがう。あたしはこの人のようにはならない。

さっきまでそう思っていたのに、急にトクラをそんなふうに見れなくなっていた。

どうあがいたって、あたしはこの人みたいになる。

きっとトクラには、神崎志保という少女が、まるで自分の再放送を見ているかのように映っているんだろう。ドラマの再放送ってやつは、どうあがいたって絶対に過去に見た最終回と同じ結末に行きついてしまうのだ。

上空では雲が流れゆき、再び太陽が顔を出した。秋の澄んだ空気が灯に照らされ、トクラの顔がさっきよりも軽く見える。

まるで、志保とトクラのあいだにへだたりなんてないと言わんばかりに、はっきりとトクラの顔が見える。

志保の指先が小刻みに震える。トクラはそんな志保をからかうように見ると、再び囁くように告げた。

「ねぇ、シャブって、どんな味?」

「……どんなって」

思わず答えそうになった時、志保の頭の中で警報機が鳴り響く。

その質問に答えてはいけない。

思い出してはいけない。

忘れよう忘れようとこの二か月頑張ってきたのに。

心臓の奥から何かが電撃のようにほとばしる。

止まらない震え。

うっすらと滲む汗。

開いた瞳孔。

動悸。

日差しに照らされた緑の木々たちがモノクロになってぐにゃりと歪む。

「どうしたの、カンザキさん?」

トクラが悪戯っぽく微笑む。志保は小刻みに震える手で缶を持ち上げると、再び口の中に液体を流し込んだ。

炭酸水から揮発した二酸化炭素がのどをびりびりと刺激するが、何の解決にもならない。

 

写真はイメージです

夏場ともなるとアスファルトが熱を湛え、たまきは階段以外の場所で絵をかくことも多かったが、九月の終わりが近くなり、再び地べたに腰かけられるようになった。ミチは階段の中ほどに腰かけ、ギターを弾きながら鼻歌を歌っている。たまきは同じ段に腰かけ、公園の絵を描いている。二人の間は人が一人二人通れるくらいに空いている。そうでなくても、広い階段だ。二人ぐらい腰かけたところで、大して邪魔にはならない。

二十分ほど、二人は会話をすることがなかったが、突如ミチが語りかけた。

「なんかないの? 質問とか」

何を聞かれているのかわからず、たまきはミチの方を向いて首をかしげた。たぶん、漫画やアニメだったら、たまきの頭上に「?」とマークが浮かんでいたはずだ。

「『カノジョのどこが好きなの?』とか、『カノジョってどんな人なの?』とか、『デートはどこ行くの』とかさ」

「なんでそんなこと聞かなきゃいけないんですか?」

たまきの頭上の?マークが増えた。

「志保ちゃんはこの前、いろいろ聞いてくれたよ」

「志保さんですから。私、志保さんじゃないんで」

たまきは表情を変えることなく答えた。

「だったら、二人のこと応援してるよ、とかさ」

「なんで応援しなくちゃいけないんですか?」

応援なんて言うのは、自分のことが十分にできている余裕のある人が有り余った力でやるものだと思う。

そもそも、「頑張って学校に行け」という応援なのか脅迫なのかよくわからない言葉を浴び続けてきたたまきにとって、「応援」がはたして良いものなのかよくわからない。

たまきの無表情っぷりに、ミチは不満のようだ。カノジョの話をしたくてしょうがないらしい。

「普通さ、もっと友達の恋愛に関心も……」

「友達じゃないです。知り合いです」

それに、たまきは「ふつう」ではない。そんなことはもう、わかりきっている。

ふと、たまきの頭に亜美の言葉がよぎった。

「あいつ、地味な女がタイプだって言ってたぞ」

だが、この前見た海乃って人は、おしゃれな茶髪に顔はばっちりメイクをし、ミニチャーハンを運んできた手には色とりどりのマニキュアがぬられてことも覚えている。とても「地味」とは思えない。

「地味な女の子がタイプなんじゃなかったんですか?」

たまきはミチの方を見ることなく尋ねた。深い意味はなく、ただ「聞いてた話と違うな」という違和感から来た質問だった。

「え?」

とミチがたまきの方を見る。

「……あの海乃って人、地味には見えなかったので」

地味というのは、露出の少ない黒い服を好み、化粧をせずにメガネをかけ、髪の毛をいじることもなく、口数少なく大きな声も出さない人、つまりたまきみたいな女のことを言うのだ。

「う~ん、恋愛するんだったら、おしゃれで、スタイル良くて、話してて楽しい子がいいかなぁ」

「じゃあ、地味な子が好きっていうのは、なんだったんですか」

これまた、話の流れで出てきた素朴な疑問である。深い意味などない。

「ああ、地味な子が好きっていうのはね、恋愛対象の話じゃなくて……」

たまきは何気なく、ミチの方を見た。ミチとたまきの目があう。

「エッチの対象」

「え?」

たまきの左手から小さな鉛筆がポロリと落ち、階段に当たってカランと音を立てる。そのままカンカラカンと下に転げ落ちていったが、たまきは気づいていないのか、ミチの方を見て目を見開いたまま動かない。

ミチは身を乗り出し、たまきとの距離をぐっと詰める。

「地味な子ってさ、エッチの経験とか、そもそも付き合ったことないって子おおいじゃん」

たまきは呆然としたままうなづく。自分がまさにそうだ。

「そういう子をなんていうかさ、穢してみたいっていうかさ。どんな顔してどんな声出すんだろうって」

たまきは急激に体が下腹部から熱くなるのを感じていた。

「ち、ちなみに……」

いつもの1.5倍の早口でたまきが尋ねる。

「私って、地味ですか?」

「うん」

ミチが、何をわかりきったことをとでも言いたげにうなづく。

「ってことは私も……」

「もちろん、エッチの対象だよ」

ミチがたまきをいやらしい目で見ていることはうすうす気づいていたが、こうも恥ずかしげもなく断言されると、顔が紅潮していく原因が怒りなのか恥ずかしさなのか、自分でもわからなくなってくる。

「たまきちゃんってさ、自分では気づいてないのかもしれないけど、目はわりとパッチリしてるし、ロリっぽいかわいらしさがあるっていうかさ……」

「そうですか……」

この場合、何と返事をしたらいいのだろう。

「それに、亜美さんみたいに巨乳ってわけじゃないけど、そこそこおっぱいあるし」

充血してきた目をたまきは下に向ける。

「バージンでしょ? エッチしたらどうなるんだろうって思うとさ、一回ちょっと壊してみたいなぁ、って」

たまきは蒸気機関車の煙のように早く立ち上がり、赤くなってきた目でミチを見下ろすと、いつもより強い口調で言った。

「私、帰ります!」

「え、ああ。おつかれ。またね」

片手を上げるミチに素早くたまきはお辞儀をすると、たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、階段を一段飛ばしで登っていった。

 

写真はイメージです

「あの子絶対クスリやってるって」

「だって、あのやせかた、おかしいもん」

「うーわ、犯罪者じゃん」

雑踏をすれ違うたびに、そんな声が聞こえる。

そのたびに志保は足を止めて振り返り、声の主を探す。

なんだか、今視界に入っている全員がそう言っていたような気がして、志保は雑踏の中を縫って駆け出す。

すぐに息が切れて立ち止まる。震える手であたりを探るが、手をつないでくれる人は誰もいない。

駅から歓楽街へ戻るには、三途の川のように大きな道路を横切らなければならない。残念なことに歩行者用の信号は赤になったばかりで、色とりどりの車が濁流のように目の前を横切る。

さっきから、様子がおかしい。とってもおかしい。

またしても声が聞こえる。

「ねえ、シャブってどんな味?」

声の主はトクラだった。驚いてあたりを見渡すと、雑踏の中にトクラの姿がちらりと見えたが、すぐに見えなくなった。聞こえるのは車の騒音だけで、頭上の電光掲示板から流れるなんかのCDの宣伝すらもよく聞こえない。

トクラは何であんなことを言ったのか。志保は頭をかきむしりながら考える。いや、無理やりにでも考えないと、クスリ以外のことを考えないと、どうにかなってしまう。

「教えたくなるじゃない、その人の宿命ってやつを」

またトクラの声が聞こえる。記憶の中のトクラかもしれないし、さっき見かけたトクラなのかもしれない。

どうせいつかこうなるのが宿命なのだとしたら、戦うのなんて時間の無駄、ということなのだろうか。だからあの人は志保にクスリを思い出させようとした。どんなに頑張ったって、どうせいつか自分の手でその頑張りを捨ててしまうのだから。だとしたら、早い方がいいじゃない。頑張って頑張って、また亜美ちゃんやたまきちゃんを、舞先生を、そしてあたし自身を裏切って悲しませるくらいだったら、いま裏切った方が、みんなダメージ少なくて済むんじゃないの?

「やっちゃえば? どうせいつか裏切るんだったら、いま裏切った方が、みんなのためだよ」

今度はトクラが耳元でささやいてきた。志保はとっさに振り向いた。

そこにトクラはいなかった。

いたのは、志保だった。

いるはずのない、自分だった。

囁いたのは、志保の声だった。

恐怖に駆られた志保は、踵を返して走り出そうとした。

横断歩道の一番目の黒い空白を踏みしめたとき、志保の目に最初に飛び込んできたのは、赤く光る歩行者用の信号機だった。

次に右側を見た。25mほど向こうに青い乗用車が見える。車の姿と、タイヤが地面にこすれる音が、少しずつ大きくなっていく。

首から下はアスファルトを踏みしめたまま硬直して動かない。志保は、唯一動かせる首だけを後方に向けた。

信号待ちをする人々が鉄柵のように並んでいる。彼らは、まだ自分たちが何を見ているのかを理解できていないようだ。

その人ごみの中から、程よく日焼けした腕が伸びてきて、志保の右腕を掴み、そのまま勢いよく引っ張った。

「危ない!」

知らない誰かの声と、タイヤの摩擦音が響く中、志保は、その知らない誰かの胸に倒れこんだ。

 

信号は赤だ。今、飛び出したら死ねるんじゃないだろうか。

いつもは足元を通り過ぎるタイヤを見ながら、たまきはそんなことを考えてしまうのだが、今日に限って真っ赤に染まる信号をにらみながらじっと待っている。

考えれば考えるほどに頭に来る。もちろん、ミチのことだ。

ミチが時々たまきの胸元や足の付け根あたりを見たりと、たまきのことをいやらしい目で見ているのは察していた。それだけでも嫌だけど、まだ「男の子ってそんなものなのかな」と思うことで納得してきた。

ところが今度は、エッチをしてみたいと言ってきた。それも、「壊す」だの「穢す」だの。

いったいミチは、女の子のことを、たまきのことを、なんだと思っているのだろうか。壊すだけ壊して、穢すだけ穢して、どうせ責任とか取らないんだろう。わかってる。ミチはたまきのことが好きだとか、女として見てるとか、そういうんじゃない。弱そうな女の子を支配して、自分のものにして、遊びたいだけ。つまり、私はミチ君にとって都合のいいおもちゃってわけ。あ~、もう、君付けなんかしなくていいよ、あんな人。あの人にとって私は、あの人がバイト代ためて買ったハーモニカみたいなものなんだ、きっと。自分のものにして、遊ぶ。それだけ。

だいたいさ、あの人はカノジョさんがいるはずなのに、ほかの女の子とそういうことしようっていうのが、許せない。亜美さんみたいに好きでもない人とエッチできる人がいるっていうのは理解しているし、それが亜美さんの生き方なんだから、私はとやかく言わないけど、亜美さんと違って、ミチ君、じゃなかった、あの人には本命のカノジョさんがいるはず。なのに、ほかの女の子にああいうこと言うなんて、私だけじゃなくて、カノジョさんにも傷つけるよ。

カノジョさんがギターで、私がハーモニカ、そういうことなんだろう。あの人は結局、どっちも持って置きたかったんだ。

あ~、むかつく!

 

ぷんすかと腹を立てながらも、たまきは横断歩道を渡り終えた。お店が立ち並ぶ歩行者天国の大きな通りを、すたこらさっさと歩いていく。

1分ほどでまた信号待ちだ。たまきはスケッチブックの入ったカバンを胸の前でしっかりホールドすると、赤信号をにらみつけた。

ふと、聞きなじんだ声が鼓膜を打つ。

「ほんとにもう、大丈夫なんで」

声がしたほうに顔を向けると、志保の姿がそこにはあった。街路樹によりかかり、ペットボトル片手に何やら話している。

話している相手は知らない男性だ。見た感じ大学生くらいだろうか。顔だちにこれといって特徴はないが、服装はおしゃれな感じで背が高い。

「本当に大丈夫? 具合が悪いなら、救急車を呼ぶとか……」

「いえ、もう本当に大丈夫なんで。すいません。お時間お取りしてしまって……」

志保は相手にしきりに頭を下げている。

「そう……。疲れてるみたいだから、帰ったら、ゆっくり休みな」

男性はそういうとその場を立ち去った。たまきは少し時間を空けてから、志保に近づいた。

「……志保さん」

たまきの声掛けに志保は驚いたようにたまきを見た。

「い、いつからそこにいたの?」

「……い、今通りかかったんです」

いつになく早口でたまきが答える。

しばらく静寂が流れる。

「たまきちゃん、顔赤いよ?」

「志保さんこそ……、顔白いです」

信号が青になったタイミングで、どちらが言い出すでもなく、二人は歓楽街へ向けて歩き出した。志保はたまきの左側に立つと、するりと手を伸ばし、たまきの左手を握った。

こんなことは前にもあった。何もないのに、志保が手をつなぐなんてことはない。さっきの男性と何かあったのだろう。

こういう時、亜美さんなら何か聞くのかな。

たまきは結局、志保に何も聞かなかった。優しさから聞かなかったのでも、興味がなかったのでもない。どうしたらいいのかわからなかった。

 

写真はイメージです

手をつなぐ、と言ってもいわゆる恋人つなぎみたいなものではない。志保が差し出した細い左手に、たまきがそっと右手を添える程度のものだ。

志保の手の震えがたまきの手に、たまきの手の温かみが志保の手に、それぞれゆっくりと伝わる。

「手をつなぐ」という行為は互いの手の細菌を移しあう行為である。だが、互いに移しあうのは、細菌だけではないようだ。

「あ!」

たまきより少し前を歩いていた志保が声を上げた。少しうつむきがちだったたまきが顔を上げると、亜美がヒロキと腕を組んで歩いてくるのが見えた。

向こうは志保とたまきに気付いていないようだ。車が何台も並んで通れそうな広大な歩行者天国の斜め前から二人は腕を組んで歩いてくる。視界の端に移っている志保とたまきには気付いていないようだ。

手をつなぐよりも、腕を組んだ方が仲がよさそうに見える。

「よくさ、好きでもない男の人と、ああいう風に腕組んだり、エッチしたりできるよね。あたしは無理だな」

「……私もです」

「亜美ちゃんって、男の人の前だとキャラ変わるよね。甘え上手っていうか……」

「……ビジネスライクなだけだと思いますよ」

二人は、大通りへと出て信号待ちをしている亜美とヒロキの背中を見つめていた。寄り添うようにたたずむ二人の影は、秋の西日に照らされ、心なしか少し隙間があるように映っていた。

 

つづく


次回 第13話「降水確率25%」

10月に入り、ついに大収穫祭が開催される。クレープ屋ではりきる志保、祭りを楽しむ亜美、ステージ上で輝くミチ、そして、たまき。4人それぞれの祭りが始まる。「大収穫祭」編、いよいよクライマックス!

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第11話「惚気の長雨、口下手の夕暮れ」

「明日なんかどうでもいい」と援助交際で生活する少女、亜美。「明日が怖かった」と覚醒剤に手を出し、厚生施設に通い始めた少女、志保。「明日なんかいらない」と自殺未遂を繰り返す少女、たまき。3人は歓楽街のつぶれたキャバクラを不法占拠しながら暮らしている。今回は3人が出会って2か月がたったころのお話。

「あしなれ」第11話、スタート!


第10話「真夏日の犬と猫とフンコロガシ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

長月の長雨はなかなかやまない。

雨の中わざわざ「城(キャッスル)」にやってきた舞は、「迷惑だ」と言いながらも笑いながらたまきの右手首に包帯を巻き始めた。

「ごめんなさい」

というたまきの伏し目がちな謝罪に対して舞は、

「お前が遠慮してあたしを呼ばずに自分で処置して、傷口を化膿させる方がもっと迷惑だから、切ったら必ずあたしを呼べ」

と、笑いながら返す。

「おどろいたよ~。トイレ開けたら、たまきちゃんの手首から血が流れててさ、たまきちゃんがそれ、じっと見てるんだもん」

志保はそういうとソファに深く沈み込み、本を読み始めた。お菓子の作り方に特化した本だ。

「いつぶりだっけ、リスカするの」

舞が、包帯がほどけないようにたまきの手首にしっかりと固定しながら尋ねた。

「……八月の半ばです」

「その前は?」

「……七月の終わりごろ……」

「お前が勝手に一人で処置したやつな。やっぱり、二週間に一回くらいか」

たまきは無言でうなづいた。二週間に一回、無性に死にたくなる時がある。別になにか嫌なことが二週間ごとにやってくるわけではなく、普段の生活の中でため込んだ毒素が限界になるのが、二週間という期間なのだとたまきは解釈している。

「志保、お前はどれくらい経つ?」

急に話を振られて、志保が驚いたような顔をして舞の方を見た。

「え? な、なんの話ですか?」

「クスリやめてからどのくらい経つかって聞いてるんだ」

「……一か月ちょっとですね。自己ベスト更新中です」

「……ほんとに使ってないんだろうな」

その言葉に、志保はさみしそうに下を向いた。

「……あたしのこと、信じてないんですか」

「人としては信じてるし、信じたい」

舞はたまきから手を放し、志保の方に向き合って、言葉をつづけた。

「だが、医者としては信じていない。残念ながらな」

「……ですよね」

志保は視線をとしたまま、左手で右の腕をさすった。

そこに、

「とう!」

という掛け声とともに、亜美が勢いよくドアを開けて帰ってきた。

「たっだいま~! あれ、先生、来てるんだ。さてはたまき、また切ったな?」

たまきが申し訳なさそうにうなづく。

「亜美、お前どこ行ってたんだ?」

「え? 隣町の理髪店」

亜美の答えにたまきは首をかしげたが、舞は

「理髪店? お前もそんなとこ行くんだな、つーか、そんな言葉知ってるんだな」

と言いながら、救急セットをカバンの中にしまった。

「志保~、晩飯は?」

「先生がせっかく来たから、一緒に外で食べないかって」

「マジで? おごり?」

亜美が目を輝かす。一方、たまきは憂鬱そうに体育座りをしている。極力外に出たくないのだ。

「あたしのおごりだ」

勝ち誇るような笑みの舞に向かって亜美は、

「ゴチになります!」

と、勢い良く頭を下げた。

 

写真はイメージです

東京の街並みは遠くから見るとまるでお城みたいだ、と言ったのはいったい誰だっただろうか。城郭のような高層ビルと城壁のような雑居ビルの群れの中に、中庭のように歓楽街が広がっている。

その中の太田ビルというビルの5階にある「城」という潰れたキャバクラに亜美、志保、たまきの三人は住み着いている。不法占拠というやつだ。

一階からコンビニ、ラーメン屋、雀荘、ビデオ屋、そして「城」と積みあがっている。上に行くごとにいかがわしさが増し、3階の雀荘にはガラの悪い人たちが出入りしている。4階のビデオ屋にいたっては、店長が金髪のパンチパーマにサングラスという強面だ。

そんなわけで、まともな人間ならば5階まで昇ろうなどとは思わない。5階まで、ましてや屋上に上る人など、よほど宿に困っているか、お金に困っているか、何が困っているかもわからず死のうとしている人くらいだ。

しとしとと続く雨音の中、コンクリート製の階段を下りて、4人が階下のラーメン屋へと向かう。一列に並ぶ姿は、なんだか某ファンタジーゲームみたいだ。

「へいらっしゃーい!」

自動ドアをくぐると、野菜を炒める音を暖簾のようにくぐった野太い声と甲高い声の大合唱。店内は凸の字型にカウンター席が伸び、奥にはテーブル席が三つほど。夕飯時だが、それほど混んでない。

4人は入口で食券を買うと、カウンターに座った。亜美、志保、そして舞は食券をカウンターの一段高くなったところに置き、それを見てたまきはそっと食券を同じところに置いた。

「いらっしゃい」

カウンターの向こうから顔を出し、ニッと笑顔を見せたミチに最初に気付いたのは亜美だった。

「は?」

続いて志保が

「あれ?」

舞が

「ん?」

最後にたまきが

「あ」

と声を上げた。

「何やってんだお前、こんなところで」

舞の問いかけにミチは笑顔で

「バイトっす」と返す。

そういえば、バイト始まったって言ってたし、飲食店っぽいことも言ってたなぁ、とたまきはぼんやりと考えた。

「なんでこのビルなんだよ」

亜美が半ばあきれたように質問した。

「いや、先輩がこの上のビデオ屋で働いてて、よくこの店連れてってもらってたんすよ。そしたらバイト募集って書いてあっから、応募してみたらすんなり通っちゃって」

ミチがにやにや笑いながら答えた。

たまきは背筋がぞわぞわするのを感じた。自分の生活圏に苦手な男子が入ってくると、なんだか背中がぞわぞわしてたまらない。

ミチはたまきの方に近づくと、

「びっくりした?」

と聞いてきた。たまきは、

「……あんまり」

と返す。

「っていうかたまきちゃん、ミニチャーハンでいいの!?」

とたまきの食券を見てミチがびっくりしたような声を出した。たまきは無言でこくりとうなづいた。

「ハイ、とんこつ醤油、とんこつ醤油大、レバニラ炒め、ミニチャーハン、ギョウザ一丁!」

厨房の奥からほーいと野太い声が聞こえ、ミチも厨房の奥へと向かっていた。あとに残るはなにかを炒める音ばかり。

たまきがぼうっとしていると、亜美が隣のたまきを肘で突っつく。

「あれじゃね? ミチ、お前のことおっかけてここでバイトしてるんじゃないの? あいつ、地味な女が好みだって言ってたぜ?」

にやける亜美の言葉を、たまきはかぶりを振って否定した。

「ないです。ミチ君、バイト先に好きな人いるって言ってました」

そういってからたまきは気づいた。バイト先って、ここじゃないか。

じゃあ、ここにいるのかなと思ったの同時に、たまきの背後からするりと手が伸びてきた。

「お待たせいたしました。ミニチャーハンととんこつ醤油大です」

女性の声に、たまきは声のした方を見る。

二十歳ぐらいだろうか。茶色く柔らかそうな髪を後ろでまとめている。かわいらしい顔立ちはいかにもモテそうだ。

「みっくん」

女性が声をかけると、ミチが厨房の奥から顔を出した。

「休憩入っていいよ」

「はい」

ミチがこれまで見せたこともないくらい顔をほころばせているのがたまきの目に映った。

 

四人が店を出ると、廊下の角でたばこを吸っていたミチが、あわててタバコを傍らのバケツに放り込んだ。灰交じりの黒い水の中にタバコがひとひらポトリと落ちる。ミチは舞の顔を見て、ばつの悪そうに笑った。

「ん~、べつに未成年だからって止めやしないぞ、ミチ。お前の寿命が減るだけだからな」

舞が皮肉めいた笑顔を見せる。

「ねえねえ、ところでさぁ」

と志保が妙ににやにやしながらミチの方に近づいた。

「ミチ君が好きな女の人って、さっきの店員さん?」

「ちょ! 誰から聞いたんすか!」

志保がクルリとたまきの方を振り向き、たまきが申し訳なさそうに下を向く。

「なかなかかわいい人じゃん」

「まあ、お前には高嶺の花だな」

意地悪そうに笑う舞に対し、ミチは

「実はですねぇ……」

と含み笑いで切り出した。

「え? まさか、もう付き合ってるとか?」

「なに? ヤッたの?」

亜美まで身を乗り出してくる。

「いや、そういうわけではないんすけど……」

ミチのその回答に亜美は

「なんだ」

とつまらなそうに背負向けたが、志保は

「なになに? そういうわけではないってどういう関係?」

と目を輝かせてミチに迫る。

「……2回くらいデートしてるっていうか……、今週末も約束してるっていうか……、キスしたっていうか……」

「え―!! なにそれ! つきあってんじゃん!」

志保が、雨粒がはじけ飛ぶんじゃないかというほどの大声を出す。

「いや、ちゃんと、付き合ってくださいとか言ったわけではないんすけど……」

「いやいや、つきあってんじゃん、それ!」

「……やっぱそうなんすかね」

「ガキっぽい顔しといて、やることやってんな」

舞が感心したように言う。

「えー、カノジョ、名前なんて言うの? 学生?」

「海乃(うみの)さんって言います。二十歳の専門学校生っす」

「二十歳? 年上じゃん! 年上カノジョじゃん!」

「ええ、まあ……」

ミチは困ったように笑っているが、本当に困っているわけではないようだ。店の白い外壁に、ミチの薄い影が儚く揺れる。

「えー! よかったじゃん! おめでとう!」

「あ、ありがとうッす。あ、デートの写真見ます?」

「えー! みたいみたい!」

「おっ、カノジョ、なかなかかわいいじゃん」

「先生もそう思うッすか?」

そんなやり取りを見ていたたまきだったが、盛り上がる輪の横をすり抜けると、階段を上っていった。

なんで志保がミチにカノジョができたという話を、あんなに喜べるのかがよくわからない。

ああいう他人の幸せを素直に祝福できる人っていうのは、余裕がある人なんだろう。今現在、志保にカレシはいないはずだが、たぶん、志保はその気になればカレシを作れるのだと思う。その余裕があるから、あんなに素直に他人の祝福が祝えるのだ。

なんだかんだ言って、志保はあっち側の人間なんだと思うと、階段の蛍光灯の灯りよりも、外の暗さの方がより一層強く、ミチや志保の弾んだ声よりも長雨の雨音の方がより一層大きく感じられた。

誰が誰と付き合うとか、たまきには関係ないし、どうでもいい話だ。

 

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「城」のドアに手を書けてガチャリとドアを開ける。右手首の新しい傷がねじれて、また痛む。

鍵は亜美が持っていたはずだから、亜美は先に戻っているらしい。

「城」の中は明かりがついていて、亜美が冷蔵庫の中からビールを出して飲んでいる。亜美の「客」が手土産に持ってくるのだ。

「・・・・・・ただいまです」

たまきは力なくそう言うと、亜美から少し離れたソファに腰を下ろした。

「下、まだ騒いでんの?」

「はい」

二人は特に目を合わせることなく会話をしている。

「よく盛り上がれるよな、志保のやつ。他人のコイバナでさ」

「……亜美さんって、私のことはあれこれずかずか聞いてくるくせに、ミチ君のカノジョさんの話は、興味ないんですね」

「え? だって、あれくらいの男子が付き合うって、フツーじゃん。興味ないし。ヤッたってんなら、また別だけど」

私にとってはその「ふつう」がどれほど手を伸ばそうとも届かないものなのに……。

たまきは下を向きながら考え、ふと気づいた。

そうか。私は普通じゃないから、亜美さんは面白がって私のことをずかずかと聞いてくるんだ。

私が普通じゃないから……。

「何やってた? 下」

「……なんか、ミチ君のデートの写真見てました」

「ナニソレ?」

亜美が半ばあきれたように笑う。

「ヒトのノロケ写真見て何が楽しいの?」

「・・・・・・さあ。『幸せのおすそ分け』じゃないですか?」

「ナニソレ?」

亜美がいよいよあきれ返ったような顔をする。

「そーいや、中学のダチでウザい奴いたなぁ」

エアコンの音がせせらぎのように静かに流れる。その音を背景に亜美は話し出す。

「カレシの話ばっかする奴がいてさ、それこそ、『幸せのおすそ分け』つって。『カレシさえいればもう、何もいらない!』とかほざくんよ」

部屋の中をエアコンの音がノイジーに流れる。

「だからウチ、そいつに『なんもいらないんだったら、財布の中身全部よこせ』つったらよ、そいつ固まって、なんか言いわけ始めてやんの」

「……カツアゲじゃないですか」

今度はたまきが呆れたような顔をする番だった。

「はぁ? 先に『なんもいらない』っつったの、向こうだぞ? いらないんだったらウチが欲しいからよこせっつっただけだぜ?」

亜美はテーブルの上に足を投げ出しながら、半笑いで語気を強める。

「な~にが幸せのすそわけだよ。『すそ』ってズボンの余ったところだろ? すそなんかいらねぇんだよ。現ナマよこせっつーの」

亜美は缶ビールをあおる。

「結局、だれも幸せなんて、他人にはビタ一文渡す気なんてねぇんだよ」

空っぽになったアルミ缶をべこっと潰すと、亜美はテーブルの上に置いた。ふと、そこに置かれたチラシに目が行く。

「……なにこれ」

そこには「東京大収穫祭」と書かれていた。

「なんか、志保さんがそこでクレープ屋やるみたいです」

「クレープ屋? なんで?」

「施設の人たちと一緒にやるそうですよ」

「へ~」

亜美は興味深そうにチラシを眺めている。

「お、ライブステージとかあるじゃん。面白そ~」

「ミチ君のバンドも出るみたいですよ」

「なんだよ。みんな出るじゃん。ウチらもなんかやろうか」

「……何やるんですか」

たまきがソファの上で体育座りをしながら尋ねた。

「お笑いオンステージってのあるぞ。二人でコンビ組んで出ようぜ」

「……嫌です」

「……ツッコミ弱ぇなぁ」

 

写真はイメージです

「あ~、むずかしい~」

トクラがおたまを片手に苛立ちを見せる。

教会の中の小さなキッチンで、志保は数人の人たちとともに、クレープを作る練習をしていた。リーダーのトクラがホットプレートの上のとろりとした生地をおたまで広げるが、なかなかきれいな円形にならない。おまけに、生地の厚さにどうしてもムラができてしまう。

「クレープ屋とか、どうやってるんだろ?」

トクラが長い黒髪をかき分けながらつぶやく。

「なんか、ヘラ使ってるみたいですよ?」

トクラのつぶやきに志保が答える。

「ヘラ?」

「なんか、竹とんぼみたいなの」

「竹とんぼ?」

トクラがホットプレートを覗き込みながら首をかしげた。

「あ~、イライラする」

ホットプレートの上には、いびつなクレープのなりそこないが置かれたまま、キツネ色の焦げ目を作っていた。

 

「トクラさんって、美人だよね~」

二十歳ぐらいの女の子がつぶやく。確か、彼女はギャンブル依存症だと言っていた。

噂のトクラ本人は、トイレに行っている。

すると、中年のおじさんが口を開いた。

「トクラさんのお母さんは女優さんだって聞いたことあるよ」

「女優さん? 誰ですか?」

志保が訪ねた。「トクラ」なんて女優、聞いたことない。

「あくまでもそういう噂。お母さんっていうのも、大物女優らしいけど、普段は芸名で活動しているらしいよ」

「ふ~ん」

「にしても、トクラさん、遅いなぁ。もう一回練習したいのに」

おじさんがトイレの方をちらりと見る。水の流れる音がして、トイレからトクラが出てきた。

「よーし! もう一回、練習やろうよ!」

「トクラさん、みんなと話してたんですけど、専用の道具を買ってきた方がいいのかなってなって、あたし、帰りにちょっとデパート行ってみようかなって……」

志保の申し出をトクラは大声で遮った。

「だいじょーぶだいじょーぶ! ねー、生地、どこどこ?」

「生地はそこにあまりが……」

志保が言い終わらないうちに、トクラは生地の入ったボウルを手に取ると、泡だて器を突っ込み、勢いよくかき回しだした。

「ああ、もうかき回さなくていいんですよ! あまり、空気は入れない方が……」

志保の言葉も無視して、楽しそうにトクラは生地を泡立てる。

 

写真はイメージです

駅までは歩いて5分くらいのところにある。施設のある教会を出た志保は、駅へと向かう道の途中、ふと、視線を感じた。

振り返ると、トクラが歩いているのが見えた。トクラも志保を見つけると、にっこりとほほ笑む。

志保は少し歩くスピードを落とした。トクラも少し歩みを速めたらしく、すぐに志保の横に並んだ。

トクラの年は三十歳前後だろうか。並び立つと、決して小柄ではない志保よりもトクラのほうが背が高い。モデルのような顔立ちで、「女優の娘」とうわさされるのも納得ができる。少なくとも、それなりの風格があるのだ。

だが、その眼にはどこかゾッとさせるものもあった。

彼女は危険ドラッグの常習者だとどこかで耳にしたことがある。……自分もあんな目をしているのだろうか。

「カンザキさんも通いなんだ」

「あ、はい」

「電車? バス?」

「電車です。4駅先の……」

志保は繁華街のある駅の名を口にした。

「へぇ。あそこ住んでるんだ。すごいとこ住んでるね」

「い、いや、それほどでも……」

家賃を払っていないものだから、何とも言えない。

「トクラさんはどこの駅ですか?」

「私はバス」

「近いんですか?」

「まぁね」

志保もはっきりと数字を覚えているわけではないが、このあたりの家賃は高そうなイメージがある。「トクラは女優の娘」という噂の信憑性がまた一つ増した。

駅へと続く大通りはバスがけたたましく地面を揺らして走るが、人通りはあまりない。志保は、トクラの目を見ることなく、ぽつりと言った。

「……トイレの中で何してたんですか?」

「……聞くんだ」

志保はトクラの顔を見ていたわけではないが、声の感じから、トクラが笑っているのはわかった。

アスファルトに二人の影がくっきりと映される。そこだけ、光も熱も拒絶しているかのようだ。

「……トクラさんは、何のために通ってるんですか?」

「真面目だねぇ、カンザキさん」

トクラが歩みを止めたのを察し、志保も足を止める。トクラの方を向くと、相手も視線を落とし、志保の目を覗き込んでいた。

「その真面目さに首を絞められないようにね。じゃ、また」

そういうと、トクラは踵を返して、軽い足取りでバス停へと向かっていた。

 

携帯電話全盛の世の中となったが、駅前やコンビニの前、公園など、公衆電話を探そうと目を凝らせばまだまだ見つかる。

歓楽街のコンビニの前にある公衆電話に、たまきは十円玉を入れた。受話器を耳に当てながら自宅の番号を押すと、パ、ポ、ポ、と音が鳴る。

全部で十個のボタンを押すと、受話器からプルルルルと呼び出し音が流れる。

たまきは電話が大嫌いだ。自分からかけるのも、かかってくるのも大嫌いだ。

呼び出し音が途切れた。誰かの息遣いが聞こえた途端に、たまきは受話器を叩きつけるように戻すと、都立公園に向けて足早に歩きだした。

 

写真はイメージです

「東京大収穫祭」。その言葉を見聞きするのはいったい何度目だろう。

たまきは都立公園の木立の下の掲示板に貼られたチラシを見ていた。

「東京大収穫祭」と書かれたチラシは、志保が「城」に持ってきたものと同じものだった。

そういえば、ミチがイベントが行われる場所を「この公園」と言っていたような気がする。時期は十月の初めごろ。あと一カ月もすれば、この静かな公園が人で埋め尽くされてしまうのだろう。

たまきは下を向いて、とぼとぼと歩きだした。

たまきがよく訪れる公園で開かれる祭りには、志保やミチも参加する。

身近な存在となりつつある大収穫祭だったが、きっとそこに、たまきのような人間が入り込む余地はない。

そんな風に歩きながらおもむろに顔を上げたとき、再びたまきの目に「東京大収穫祭」という画数の多い6文字が飛び込んできた。

ただし、今度はチラシやポスターのような類ではない。それは上下に揺れながら、少しずつたまきから遠ざかっていく。

それは、人の背中に書かれた文字だった。濃いピンクのTシャツの背中に、白い字で例の6文字が書かれていたのだ。

書かれていた文字はそれだけではなかった。あと4文字、「実行委員」という文字が添えられていた。

同じTシャツを着た人2人が、たまきの少し前を歩いている。どういうわけか二人とも右側を見ながら、何か話している。おそらく二十歳くらいであろう女性二人だ。

「でもさ、ここは屋台とかブースとか置く予定じゃないし、べつにいいんじゃない?」

「でも、人が来た時に、あそこが目に入ったらみっともないよ」

二人の女性は林の奥の方を見つめながら何か話している。

あの林の奥には、仙人さんたちの庵があったはず……。

たまきにしては珍しく歩調を速め、女性たちとの距離を少しつめた。

「それに、あんな林の奥だったら目立たない、っていうか見つからないって」

「ダメダメ。イベントの時はああいうところが休憩場所みたいな感じになるんだってば。人目に付きにくいからって誰も来ないとは限らないんだよ」

「でも、去年の大収穫祭の時、あの掘立小屋、あったっけ?」

「……イベントの1週間前には、もうなかったよ。でも、その前の視察ではあったよ。おととしもそうだった」

「毎年、視察の時にはあるけど、本番の時にはなくなってるってこと?」

「ホームレスなりに気を使ってるんじゃない?」

右側の女性はそう言って笑った。

「どうせ毎年いなくなるなら、戻ってこなければいいのに」

もう片方の女性も大声で笑う。

「っていうか、さっきのおっさん見た? 昼間っから酒飲んでなかった?」

「サイテー。どうせどっかいくんだったらさ、酒飲んでないでとっとと出てけばいいのにね」

「っていうか、飲んでないで、働けよ」

「ほんとそれ」

そう言ってまた笑う。笑い声も話し声も、間違いなく庵まで届いているだろう。

たまきはいつしか、彼女たちの後を追うことをやめていた。立ち止まり、その後ろ姿をじっと見ている。

ことし最後かもしれないセミの鳴き声のリズムが、たまきの鼓動と同調して、響く。

笑い声は聞こえても、後ろからでは彼女たちの表情はよくわからなかった。

追いかけていって何か言い返してやりたいが、口下手なたまきにはその「なにか」にあたる言葉が思い浮かばない。

さっき見たイベントのチラシの文字が頭にちらつく。

『みんな、来てね!』

月並みな言葉が残酷に嗤う。

仙人さんは、「みんな」の中に入っていないんだ……。

なんで? 仙人さんは、ここにはいてはいけないの?

たまきはそら豆のおじさんの顔を思い出した。おじさんは仙人にあってから、笑顔が少し明るくなった。仙人にホームレスとしての生き方を教わっていると言っていた。仙人にあっていなかったら、今頃どうしていただろう。

たまきは、カバンからはみ出たスケッチブックを見た。たまきに絵をかくことの楽しさを思い出させてくれたのは、学校の誰かなんかじゃなく、ホームレスの仙人だった。

でも、きっと良識ある大人たちは、仙人がここにいてはいけないというのだろう。初めて仙人にあった時の、どしゃ降りの中でのミチの言葉がたまきの頭の中をぐるぐると廻る。

「ここおっさんたちの家じゃないじゃん。不法占拠だろ?」

……人間は、「ただ、ここにいる」、そんな当たり前のことをするのに、誰かの許可が必要らしい。

 

写真はイメージです

林の中を緑の落ち葉を踏み入って入ると、仙人をはじめとしたホームレスたちが数人いた。ベニヤ板のお化けのような庵の前に、折り畳み式のイスとテーブルを地面の上に置き、カップ酒で酒盛りをしている。

木陰の中をアルコールの幽かなにおいが漂う。

仙人はたまきを見つけると、笑いながら声をかけた。

「やあ、お嬢ちゃん」

「……こんにちは」

たまきはぺこりと頭を下げると、空いている椅子に座った。おじさんばかりのこの空間にも、少し慣れてきた。

「お嬢ちゃん、リンゴジュース飲むか?」

仙人は微笑みながらそう言うと、たまきにリンゴの絵の描かれたアルミ缶を差し出した。たまきはぺこりと頭を下げると、プルタブに親指を引っかける。

だが、何度やってもプルタブを持ち上げることなく、親指が外れてしまう。

「なんだ、開けられないのか。かしてみな」

仙人はたまきの手から感を取ると、ぷしゅっとプルタブを開けた。たまきはお礼にまた頭を下げると、両手で缶を持ち、飲み始めた。

少し飲んで缶を口から話すと、缶をテーブルに置き、たまきは視線を落とした。

「……怒らないんですか?」

「なににだい?」

「……さっきの人たちです」

この距離ならあの二人の会話は間違いなく聞こえていたはずだ。たまきは、自分の知り合いが馬鹿にされているのを聞いて、背筋から湯気のようなものが沸き立つ感覚と、胸の奥あたりが凍てつくような奇妙な感覚を同時に味わっていた。

「あの人たち、仙人さんたちのこと何も知らないのに、ホームレスだからってあんなふうにバカにして……」

だが、仙人はカップ酒をぐびっとあおると、はははと笑った。

「なぁに、百年たてば、歴史に笑われるのはあちらの方さ」

そう言って仙人はまた、はははと笑う。

「それに、『何も知らないのにバカにして』というのは少し違うぞ、お嬢ちゃん。何も知らないからバカにするんだ」

他のホームレスたちもゲラゲラ笑っている。

「絵を見せに来てくれたのかい? それは嬉しいが、お嬢ちゃんもあまりここには来ない方がいいぞ。さっきみたいな連中に、お嬢ちゃんも笑われてしまう」

仙人はハスキーな声で優しく言った。

「……笑われるのは、……慣れてます」

たまきは視線を上げることなく言った。

「仙人さんたちは……、お祭りのときはどうするんですか?」

「出ていくさ。わしらは、ここにはいてはいけないからな。毎年のことだ」

仙人はさも当り前のようにそう言った。カップ酒の最後の一滴をのどに押しやると、じっと自分のつま先を見つめるたまきの頭をぽんっと叩いた。

「なに、祭りが終わったら帰って来るさ。毎年のことだ」

それを聞いてたまきは視線を上げた。

「ただ、それもいつまで続くか、わからんけどな」

「……どういう意味ですか?」

「ここ数年、東京都がオリンピックを誘致しようとしとる。もし本当にオリンピックなんて来たら、わしらみたいなのはどこかに追いやられてしまうだろうさ。まあ、仕方あるまい。公園はみんなできれいに使うもの。その『みんな』の中に、わしらは入っていないのだからな。今から断食して、浮いたお金で都民税でも納めてみるか」

そういうと仙人はにやりと笑い、ほかのホームレスたちもゲラゲラ笑う。

 

林から出たたまきは、都庁を見上げた。ぶ厚い雲が日光を遮り、都庁に影を落としている。

いつかの亜美は都庁に向かって「バカヤロー!」と叫んでいたが、口下手なたまきには、今、自分の中でぐるぐる回っている感情に言葉を付けてあげることができない。

 

写真はイメージです

長月の夕暮はなかなかくれない。不死鳥の翼のように茜に染まった空に黄金色の雲が浮かび、一日の終わりをオーケストラのように彩っている。

亜美は煙草を片手に太田ビルの屋上へと出た。太田ビルはこの歓楽街ではひときわ古く、それでいて、ひときわ高い。東を見れば歓楽街が一望、とまではいかないがとてもよく見える。一方、西の空にはいくつものビルがそれこそ城郭のように立ち並んでいる。

ふと、柵に目をやると、小さな影が東側の策によりかかっている。

その影の正体がたまきだと気付いた時、亜美は初めてたまきとあった時のことを思い出し、汗が頬を伝り胸元へと落ちていったが、よく見るとたまきは柵に背中を預けて絵を描いているだけだと気付き、胸をなでおろした。

「ビビらせんなよ、おい。また死のうとしてるのかと……」

そう言って亜美はたまきに近づいたが、たまきがまるで睨むかのように西のビル群をじっと見据えながら、たまに視線をスケッチブックに落として絵を描いているのがわかり、亜美は何も言わずに横でそれを見ていることにした。

数分してたまきは絵を描きあげた。亜美はそれを少し離れたところから見る。

「相変わらず、お前が描くと魔王の城みたいだな」

そう言った途端、たまきは描かれた紙をスケッチブックから切り離した。たまきはプルタブも一人じゃ開けられない細い腕に力を込め、自分の描いた絵をやぶきはじめた。紙のちぎれる音が雷鳴のように亜美の鼓膜を打つ。まっすぐには破けず、途中で曲がり、結局、最後まで破ききることができなかった。

亜美はあわててたまきの正面へと回り込む。

「ごめん! ウチ、なんか余計なこと言っちゃった? いや、ウチはそういう絵、好きだよ? なんか、へヴィメタのジャケットみたいじゃん?」

亜美の言葉に、たまきはまるで、たった今亜美に気付いたように大きく目を見開いた。

「え? な、何の話ですか?」

「いや、ウチ、余計なこと言ったのかなって」

「え? 何か言いました?」

二人とも、夕焼け雲のように顔を赤くしている。

「だって、せっかく描いた絵を破ってさ、ウチの言ったことが気に入らなかったのかなって」

「え? いや、これは、その……」

たまきが恥ずかしそうに視線を落とす。

「この絵は……、最初から……、やぶくつもりで描いたんです……」

「え? なんで?」

下を向くたまきの顔を覗き込むように、亜美がたまきを見る。たまきは答えない。

「意味わかんない。ねえねえ、なんで最初っからやぶくつもりで、絵なんか描いたの?」

たまきはやぶれていびつな形になった紙を見つめた。描かれている都庁、らしき建物は引き裂かれ、たれ込めている。

「……私、口下手なんで」

そういうとたまきは、紙を手に、口を堅く結んで、搭屋へと入っていった。

つづく


次回 第12話「夕焼けスクランブル」

次回、トクラが志保を、ミチがたまきを、かき乱す!

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第10話「真夏日の犬と猫とフンコロガシ」

仙人に出会って少しずつ、自分の絵に対する考え方が変わってきたたまき。絵を描くことが好きだったことを思い出し、暗い絵しか描けないのではなく、自分の感情がそのまま絵に反映されることを知った。しかし、同じ日に仙人に出会い、歌を酷評されたミチはあれ以来公園に姿を見せていない……。

「あしなれ」第10話、スタート!


第9話「憂鬱のち誕生日」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「だから……自販機が怖いんです……」

その男性はうつむきながら言った。志保(しほ)はその男性の右目の下のほくろをじっと見ていた。

部屋の中には十数個の椅子が丸く並べられて、様々な年代の人が座っている。志保はその中でも一番若かった。男性は四十代くらいだろうか。

「自販機が目に入ると、もう条件反射というか……、お酒のことを思い浮かべてしまうんです。スーパーとかはアウトですね……。お酒を買わないように財布は妻が持っていたのですが、どうしても欲しくなって、抑えられなくて……」

男性はそこで言葉を切った。志保にはその続きがわかるような気がした。

「……お酒を万引きしてしまったんです」

志保は一瞬、男性から目をそらしたが、すぐに視線を戻した。

「……お店ではばれなかったんですが……、買ったお酒を何気なく冷蔵庫に入れてしまって……、妻にばれてしまったんです。私が依存症ってわかってから、絶対お酒を買わないようにしていたんで、うちにお酒があること自体がおかしいってことでばれて……、妻に泣きながら責められて……」

志保は右腕をさすりながら、自分の母親のことを思い出した。

男性は話を切るとうつむいて、何も言わなくなった。嗚咽が漏れてくることから察すると、どうやら泣いているようだ。

シスターが男性のそばに立つと、優しく背中をさすった。シスターが何かを囁きかけ、男性が泣きながらうなづく。

誰かがぱちぱちと手をたたいた。それにつられて他の人も拍手を始める。

別に、男性の話が特段素晴らしい内容だったわけではない。話が終わったら拍手をする決まりだ。内容ではなく、自分と向き合うことができたことが素晴らしいのだ。

「よく話してくれました。さて、ほかに話してくれる方はいらっしゃる?」

 

都心から少し離れた住宅街にその教会はある。依存症患者たちのためのリハビリ施設が教会に併設する形で、多くの依存症患者を受け入れている。

多くの依存症患者はここに入所している。「入所」と言っても教会や施設で暮らしているわけではなく、近くにシェアハウスを作り、そこで共同生活している。

ただ、中には通院という形をとっている患者もいる。そのためには医師のお墨付きが必要だ。

志保は京野(きょうの)舞(まい)という医師の管理のもと、自宅から通院しているということになっている。自宅には姉と妹がいて、親の代わりに舞が保護者代わりという「設定」だ。

実際はだいぶ違う。志保は今「自宅」に住んではいないし、志保に兄弟姉妹はいない。

「城(キャッスル)」という潰れたキャバクラで不法占拠しているなんて知れたら、速攻で強制入所だろう。

本当の住所なんて教えるわけにはいかないから(そもそも「城」の住所なんて知らない)、施設には舞の住所と連絡先を、志保の住所・連絡先として教えている。舞は「まったく、あたしにも危ない橋渡らせやがって」と笑いながら言っていた。

 

「どなたか、ほかに話しても構わないという人は?」

シスターの問いかけに、志保はゆっくりと手を挙げた。

シスターは志保を見ると、にっこりとほほ笑んだ。

「神崎さん、よく手を挙げてくれました。では、お願いします」

志保はホワイトボードを見やった。そこには今日のテーマである、「依存症と戦うことの難しさ」が青いマジックで書いてあった。

志保は、一度大きく深呼吸をした。

「あたしは、一年ほど前からドラッグを使うようになりました……。……覚せい剤です。最初はやめる気なんてなかった……。でも、学年が上がって成績も体重も一気に落ちて、付き合っていた彼とも別れて、……クスリをやめたいって思いました」

そこで志保は一息ついた。

「でも、『やめたい』と『やめよう』は違うんですよね。『やめたい』て思っているうちはやめられない……。むしろ、彼を失って、どんどんクスリにのめりこんでいったんです……」

そこから志保はしばし沈黙した。「設定」上言っていいことと言わない方がいいことを選別していたのもあったが、「言いたくないこと」「思い出したくないこと」を思い出して戸惑っていたのもあった。

再び呼吸を整え、志保はしゃべりだした。

「初めてやめようって思ったのは……、今お世話になっているお医者さんに出会ってです。その人に、病気だから治せるって教えてもらって……、それまではずっと自分を責めてばっかで……」

そこでまた志保は黙った。ここから先は言いたくなかった。

でも、ここは言いたくないことを打ち明ける場だ。何もかも「言いたくない」では、きっと自分は変われない。

……変わらなければいけないのかな。

そんな思いが一瞬、志保の頭をよぎった。

「次にやめようって思ったのは……、ここに来る少し前でした……」

志保は、つばを飲み込んだ。

「あたし、クスリ欲しさに……、財布を盗んじゃたんです……。それも、最初あたしの……友達が疑われて……」

志保は震え声で続けた。

「でも、その友達はあたしのこと許してくれたんです……。こんなあたしのそばにいたいって言ってくれて……。もう一人の友達も、警察沙汰にならないように被害者の人のところにいっしょに謝りに言ってくれて……」

そこで志保はその時起こったすったもんだを思い出して、笑い出しそうになった。少しだけ気が楽になった。

志保は顔を上げると、1人1人の目を見ながら言った。

「この二人や、面倒を見てくれてる先生を裏切らないためにも、今度こそやめようて思っています。『やめたい』ではなく、『やめよう』って思ってます」

にこやかなシスターの笑顔が目に入った。

「……ただ」

そう言って、志保は再びうつむいた。

「毎日毎日、思うんです。どうせ自分は、また裏切っちゃうんじゃないかって。今は大丈夫でも、明日になったら裏切っちゃうんじゃないかって。それが怖いです……」

最後に、志保は震える声でこう言った。

「明日が来るのが……怖いです……」

志保は目線を上げることなく、軽く会釈をして話を終えた。ぱちぱちという拍手がやけに耳障りに聞こえた。

 

ミーティングが終わり、昼食に入る前にシスターから話があった。

「十月の初めに都立公園で『東京大収穫祭』というイベントが開催されます。もう六回目で、毎年行われているから知っている人もいらっしゃるかもしれませんね。この施設では毎年、依存症への理解を社会に対して啓発する意味で、また、皆さんの社会復帰支援も兼ねて、屋台を出店しています。もちろん、強制ではないので、参加したい方だけで構いません。参加したい人は私に申し出てください。来週の火曜日には、どんなお店を出すのかといた会合を始めたいと思います」

そう言えば、志保が通っていた学校もそろそろ文化祭の季節だった。

出たかったな、文化祭。

みんな、どうしてるんだろ。学校からいなくなったあたしを、どう思ってるんだろ。

そこで志保は思考を切り替える。

マイナスなことを考えると、また、クスリが欲しくなる。

あの事件以来、もうひと月ほど、クスリを使っていない。それが施設に通っているからなのか、「城」でともに暮らすあの二人の影響なのかはわからないが、少なくとも今までで最高記録だ。

やればできる。志保は自分にそう言い聞かせると、思考を切り替えた。

東京大収穫祭には中学校の時、当時の彼氏と一緒に出掛けた。「食べ物に感謝を」をコンセプトに、いろんな屋台が立ち並び、ステージではバンド演奏やお笑いライブなどが行われていた。

屋台もいずれも近くの学校だったり、団体だったりが出店していて、ステージ出演者もアマチュアバンドや駆け出しのお笑い芸人など、予算が少なさを逆手に取った手作り感のウリのイベントだった。

何かやらないときっと変われない、という思いと、もともとイベント好きという性格から、志保はこのイベントに携わるチャンスがあるならば、ぜひやってみたいと思った。

 

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テレビから聞こえる「ポーン」という正午の時報の音でたまきは目を覚ました。別にずっと眠っていたわけではない。朝、志保が出かけるタイミングで目を覚まし、おやつを少し口にした後また眠ってしまった。

ぼんやりとした頭で、テーブルの上に置かれたメガネを探す。黒縁のメガネをかけても、視界がまだぼやけている。

ぼうっと人の顔が見えた。

次第に輪郭や目鼻立ちがはっきり見えてくる。同居人の亜美だ。満面の笑顔だ。それにしても、色彩が感じられず、白黒に映って見えるのはどういうことか。

それが自分が描いて亜美にプレゼントした絵だとわかり、さらに、それが額縁、というよりはフレームに入れられ、壁に突き刺さった画鋲につるされているのだと分かった時、たまきは仰天のあまり叫び声を上げた。

きゃー!というたまきの叫び声を聞いて、衣裳部屋から亜美が飛び出してきた。

「どうした、たまき! チカンか?」

「な、な、なんであの絵、飾ってあるんですか!」

いつになく慌てふためいたたまきが、顔を真っ赤にしている。眠気はすっかり覚めたようだ。

「ん? ああ、せっかく描いてもらったから、さっき雑貨屋で額縁買ってきたんだよ」

そう言うと、志保は満足げに飾られた絵を眺める。

「キャバクラの指名ナンバーワンみたいで、いいだろ」

「……外してください」

「なんで?」

うつむくたまきを亜美がわけわからんという目で見下ろす。

「だって、ここ、亜美さんの、その……、お客さんとか、友達とか、たくさん来るじゃないですか」

「……で?」

「……いろんな人に見られるじゃないですか……」

「いいじゃん。せっかく描いたんだから、いろんな奴に見せないと」

「……いやです」

たまきは消え入りそうな声を絞り出した。

「なんだよ。なに、おしっこ漏らしたみたいな顔してるんだよ」

「……漏らしてません」

「いや、そういう顔してるって」

亜美はどこかたまきの反応を楽しむように笑っている。

「なに? もしかして、たまき、自分が絵が下手だって思ってる? 大丈夫だって。たまきの絵はプロ並みだって」

何を持ってプロ並みなのか。亜美の適当な言葉をたまきは聞き流した。画力の問題じゃないのだ。

亜美がここに呼ぶ連中はチャラかったり強面だったりの男性ばっかりだ。そんな人たちが寄ってたかってたまきの絵をじろじろ見る。考えただけでも耐えられない。

「……上手い下手の問題じゃないんです。外してください」

「なんで? いいじゃん。ウチの顔描いた絵だよ? 描かれたウチがいいって言ってるんだから、いいじゃん」

「描いた私はいやなんです」

「でも、あの絵、ウチにくれたんだろ? 所有者のウチはあの絵見せたいんだから、いいじゃん」

「でも、描いた私が嫌なんです」

「知らねーよ、描いたやつのことなんか。ウチが持ってる、ウチの顔描いてある、ウチの絵だもん。ウチに決定権があるに決まってんじゃん」

そうなのかな、とたまきは思ったが、もう言い争うのも疲れてきた。たまきはソファの上にころりと転がる。

亜美は満足げに飾られた絵を眺めている。

「ゆくゆくはさ、ここに3人の似顔絵、飾ろうぜ」

「え?」

たまきの上半身が驚いたように跳ね上がった。拍子にメガネが少しずれて、たまきは左手でそれを直した。

「3にんの・・・・・・ですか?」

「そうそう。3人の似顔絵をここにならべんの」

「……亜美さんって、そういうの好きですよね」

たまきはドアにぶら下がるネームプレートを見ながらいった。

「……でも、その似顔絵って、誰が描くんですか?」

「お前に決まってんだろ?」

亜美は何をわかりきったことをとでも言いたげにたまきを見た。

「……いやです」

「なんで?」

亜美が首をかしげる。

「ああ、志保、髪型にウェイブかかってるもんな。やっぱ、描くの難しい?」

「……志保さんを描くのは……、嫌ではないです」

たまきはうつむきがちに返した。

「じゃあ、何が嫌なの?」

たまきは答えない。

亜美は、たまきにぐいと顔を近づけた。たまきは後ずさろうとするが、壁に当たってこれ以上バックできない。両手で壁どんされているため、左右にも逃れられない。

「はは~ん、お前の考えていること、大体わかってきたぞ」

亜美に至近距離で見つめられ、たまきは視線を落とす。

「お前、自分の顔、描きたくないんだろ」

たまきは静かにうなづいた。それを見届けると、亜美は満足げにたまきを壁どんから解放した。

「大丈夫だって。お前、まあまあかわいいから。ああ、でも、もっと自然に笑えるようにならないとダメだな」

「……そういう問題じゃないんです」

たまきは静かにかぶりを振った。

「じゃあ、何が嫌なの?」

「……なにがと言われても……、とにかく嫌です」

「気のせいだって。いいじゃん。描こうよ」

「……いやです」

「いいじゃんいいじゃん」

「……いやです」

「え~、べつにいい……」

「絶対に嫌!!」

いつになく声を張り上げるたまきに、亜美が驚いたように目を見開く。たまきの方は、泣きそうな目で亜美を睨んでいたが、やがて我に返ったのか、自信なさげに視線を落とした。

「……絶対に、嫌です」

「……わかったよ」

亜美は、たまきの肩にポンと手を置くと、ドアの方へと向かって行った。

「じゃあ、ウチ、隣町の美容院に行ってくるから」

「あれ? ついこの前も隣町の美容院に行ってませんでしたっけ?」

「……そうだったな。じゃあ、どうしよう、隣町の床屋いってくる」

首をかしげるたまきを残して、亜美はどこかへ出かけていった。

 

「あ、あの、シスター」

ミーティングが終わり、志保はシスターに声をかけた。シスターは微笑みながら振り向く。

この微笑みが、なんか暖かく、なんか苦手だ。

「どうなさったの、神崎さん」

シスターの上品でよく通る声が、志保の鼓膜を震わせる。

「あの、あたし、大収穫祭、やります」

シスターは静かにほほ笑んだ。

「やってくださるの? 神崎さん、ありがとう」

シスターは後ろを振り向いた。

「トクラさん」

シスターの声に、廊下で談笑していた女性が振り返った。年は三十歳ほど。確か、彼女も薬物依存だったはずだ。いわゆる脱法ドラッグに手を出したと言っていた気がする。

「神崎さんも手伝ってくれるそうよ」

トクラは志保に向かってほほ笑むと、軽く会釈した。志保も、会釈を返した。

 

写真はイメージです

足、足、足。たまきの視界に足ばっかり映って見えるのは、たまきがうつむきながら歩いているからだろう。

「城」から都立公園までの道のりで、たまきは風景よりも地面の模様やマンホールの形の方がよく覚えている。

駅から都立公園の方に向かうにつれ、視界に見える足の数は減ってくる。

うつむき加減でスカートのすそを掴み、とぼとぼとたまきは都立公園に入っていった。

いつもの階段を見下ろすが、誰もいない。

たまきは肩から掛けたカバンをしっかりと胸の前で抱きとめると、とぼとぼと公園を一周した。

演劇の練習をする集団。水彩画を描く老人。コーヒーを飲んで仕事をさぼってるスーツの男性。照りつける日差しの中、いろいろな人が都立公園で思い思いの時間を過ごす。

たまきはまた、元の階段に戻ってきた。階段の中ほどまで下ると踊り場の木陰に腰を下ろす。スケッチブックを取り出すと、いつものように都庁の絵を描き始めた。

蝉の声がやかましい。

絵を描き始めて十五分ほどだろうか。たまきは自分の左横に気配を感じた。

「となり、いい?」

聞き覚えのある声にたまきは勢いよく振り向いた。

「となり、いい?」

そこにはミチの屈託のない笑顔があった。

たまきは無言でうなづいた。

ミチはたまきのすぐ左隣に腰を下ろした。即座に、たまきの腰が右にスライドし、二人の間には、人が一人通れそうなスペースが空く。

それを見てミチは笑うと、担いでいた黒いギターケースをおろした。太陽光を十分に吸ったケースに触れて、「あっつ!」と声を上げる。

ミチはギターを取り出し、チューニングをし始めた。

蝉の声も、なんだか最初の一音を待ちわびているようだ。

「それでは聴いてください。ミチで、『未来』」

まるでラジオのような、誰に聞かせるでもない曲紹介をしたあと、ミチはギターを奏でて歌い始めた。

「未来」。二週間くらい前にミチがホームレスたちの前で歌い、「仙人」に酷評された曲だ。それ以来、ミチはこの公園に姿を見せなかった。

それから約二週間、たまきは2~3日に一回、この公園を訪れた。何枚も何枚も絵を描いた。まるで、自分が絵を描くことが楽しい、絵を描くことが好きだというのを確かめるかのように。

一方で、公園に来るたびに言いようのない不安に襲われ、たまきはため息をついていた。

公園に来るたびに園内をぐるりと一周する。殺意のこもった日差しに照らされ、汗がたまきの頬を伝い、ハンカチでそれをぬぐう。

結局、たまきの不安は晴れることなく、たまきはいつもの階段に戻ってくる。踊り場に腰を下ろすと、なぜだかため息が出てきた。そんなことを二週間続けていた。

 

写真はイメージです

ミチのギターがストロークを奏でると、不思議とたまきの中の言いようのない不安が晴れていることに彼女は気づいた。あるのはいつも通り、「できれば死にたい」という思いと、絵を描くことへの楽しさと、言いようのない安心感である。

ミチのややハスキーなハイトーンが二週間ぶりに、階段の熱せられた空気を震わせている。

――僕の歩く今が未来になる

――夢もいつか「今」に変わる

――明日を変えなければいけないんだ

――未来が僕を待っている

ミチは「未来」を歌い終わると、「ありがとうございました」とだれに言うでもなく口にした。

ミチの歌が終わり、一瞬の静寂が訪れたが、すぐに蝉の声がそれを引き裂く。

蝉のスキャットの合間を縫うように、たまきがポツリとつぶやいた。

「……もう、来ないのかと思ってました」

「え?」

ミチの虚を突かれたかのような返事に、いったい自分は何を言ってるのかとたまきはそっぽを向いた。

「ああ、この前、俺が歌をボロカスに言われたこと?」

ミチは屈託のない笑顔を見せながらいった。

「それで俺がここ来なくなったって思ったんだ」

「だって……、この前、『死にたくなった』って……」

たまき自身、その言葉を本気にしていたわけではないが、この二週間、公園に来るたびにその言葉が頭をよぎった。

「死なねぇよ。『死にたくなった』とは言ったけど、『死のう』なんて言ってねぇし」

ミチはケラケラと笑いながらいった。

「あれ、もしかして、俺がショック受けて引きこもってるとでも思ってた? そんなだせぇことしねぇって」

引きこもり=ダサいという図式は少しショックだったが、たまきは珍しくミチの目を見て話を聞いていた。

「ちょうど、バイトが始まったんだよ。それで、仕事覚えなきゃでしばらく忙しくてさ。すっげぇ、疲れるし。ここに来る余裕なくて」

「そうですか」

たまきはもう興味がないかのように、スケッチブックに視線を戻した。

「なんのバイトか知りたい?」

「別にどうでもいいです」

「まだ教えらんないなぁ。知ったら、ぜってぇびっくりするから」

前にもそんなことを言っていたような気がする。

「ほんと、超大変でさぁ。立ちっぱなしだし、厨房熱いし、メニュー覚えんの大変だし」

何のバイトかは教えてくれないが、飲食店で間違いないようだ。

「でもさ、でもさ」

ミチはやけに嬉しそうにたまきに話しかけた。

「そのバイト先の先輩がさ、めっちゃかわいいんだよ!」

「へえ」

たまきが気のない声を上げる。

「超優しいんだ。『ミチ君、わからないことがあったら、なんでも聞いてね』って」

それは、バイトの先輩として、当たり前のことではないだろうか。そう思いつつもたまきは、自分がその当たり前のことをできる自信がなかった。「わからないことがあっても、絶対話しかけないでください」って言ってしまいそうだ。いや、それすら口にせずに、相手から逃げ回るかも、

そういえば、以前ミチは「地味な子が好み」と言っていた。その「先輩」も地味な人なのだろうか。まあ、どうでもいい話だ。

「ほんともう、厨房の天使って感じ。まあ、その人、厨房入んないんだけどさ」

たまきがぼんやりと考えている間にも、ミチはずっとその「厨房の天使」の先輩の話をしていたらしい。

「芸能人で言うとさぁ……」

と誰かの名前を引き合いに出されたが、たまきはその芸能人の名前を知らなかった。

「ほんと、先輩の笑顔見てるだけで、バイトの疲れ吹き飛ぶよ」

「疲れてないのなら、公園に来ればよかったじゃないですか」

言ってしまってから、たまきはばつの悪そうに顔をそむけた。自分だって、特に疲れてるわけでもないのに、学校に行かなかったくせに。

いや、疲れていたのかもしれない。中学の制服は鎧のように重く感じられたし、教室の扉は鋼鉄のように感じられた。

いざ、教室に入ると、毒ガスでも充満してるんじゃないかと思うくらい息苦しかった。

ふと、ミチが喋るのをやめていることにたまきは気づいた。ゆっくりと顔をミチの方に向けてみる。

ミチは視線を落とし、自分のギターを見つめていた。

「……結局、逃げてたのかもな……」

蝉の喧騒の中に、ミチはそう、ポツリと言葉を置いた。

その言葉にたまきは返事をするでもなく、ミチの方を見続けた。

「バイトはいつも夜からで……、昼間、うちでゴロゴロしてると、ギターが目に入るんだよ……。そのたんび、あのおっさんに言われたこと思い出して、ため息ついてさ。それまではアパートだからあんまり音たてないようにギター弾いて、曲作ってみたりしてたんだけど……、なんか、ギター見ると、嫌なことしか思い出せなくて……」

そう言ってミチは深いため息をついた。さっきまで「先輩」の話をしていた時の笑顔は、すっかり雲の影に隠れた。

「そういや、音楽も聞いてないな……。シャットアウトしてたんだ。途中でこれじゃだめだって思って、古本屋の二階のCDショップ行ったけど、結局何も買わなかったし、何も聞かなかったし。なんか、アーティストのポスターとかジャケットみるたびに、嫌なことしか考えなくてさ」

「……いやなこと、ですか」

たまきの問いかけに、ミチは苦笑いした。

「俺、本当にプロになれるのかなぁって」

ミチは照れるように笑いながら続けた。

「中学の文化祭で友達4人でバンド組んでさ、俺、ボーカルだったんだよ。そん時、めっちゃモテて。カノジョとかできてさ」

「カノジョとか」の「とか」にいったい何が当てはまるのか、たまきには疑問だったが、そのまま聞き流した。

「それでプロのミュージシャンになろうって思って……。かっこいいじゃん?」

炎天下の下でミチは語りながら、どこか肋骨の間を隙間風が通っているのを感じていた。

ミチがたまきの方に目をやると、普段の三割増しで生気を感じられない目でこっちを見ている。こういうのを「ジト目」とでもいうのだろうか。

ミチと目が合ったことに気付くと、たまきはさみしそうに、右手首の包帯に目を落とした。ぐるぐると手首に巻きつけられた包帯は、夏の日差しの下でうっすらと汗ばんでいる。

ミチの話に出てきたのは、「中学」とか、「文化祭」とか、「友達4人」とか、「カノジョ」とか、たまきが望もうと手の届かなかったものばかりだった。

自分がどれほど望もうとも手の届かなかったものを、ミチはあって当たり前のように話している。いや、ミチが当たり前のように抱いている「プロのミュージシャンになりたい」という夢自体、たまきが持っていないものだった。

そんなミチを、たまきは、やっぱり好きにはなれなかった。

他人が当たり前のように手にしているものが、自分がどんなに背伸びをしても決して届かないものだと分かった時、こんなにも死にたくなるものなのか。

だが、たまきがそんなことを考えているなんて、ミチには伝わっていないらしい。当然だ。地球から月を見て、月がどんなに寂しいところかなんて想像もつかないだろう。

「……やっぱり浅いか」

ミチは自嘲するように笑った。

「そんなさ、『モテたいから』とか『かっこいいから』なんて理由で音楽やってる奴が作った曲なんて、人の心打つわけなんてないよな。あのおっさんの言う通り、つぎはぎでしかなかったんだよ……」

「それでも私は……、好きですよ……。ミチ君が作る歌」

たまきはミチの目を見て、珍しくミチの目を見てつづけた。

「確かに、歌詞はどこかで聞いたことあるような言葉ばっかりでしたけど……」

それを聞いてミチが寂しそうにはにかんだ。

「でも、ミチ君が歌うと、不思議と、私でも気持ちが明るくなるというか……。やっぱり、ミチ君の歌には、何か、特別な力があるんじゃないかって……」

そこまで一気にいうと、たまきは視線を落とした。

「……すいません。私、音楽のことなんか何にも知らないのに、……えらそうなこと言って」

「いや……、うれしいよ。1人でも……、その、なんていうか、ファンがいてくれて」

たまきは、お尻を動かしてミチから少し距離を取ると、再びミチの目を見た。

「……なのに、どうしてまた戻ってきたんですか。……どうして、戻ってこれたんですか」

「来月さ、この公園で『大収穫祭』ってイベントやるんよ」

ミチは恥ずかしそうにはにかんだ。

「そのイベントでライブもあって、ウチのバンドがそれに出場することになってさ」

「……それって、すごいことなんですか?」

「いやいや全然。応募して、抽選に当たればだれでも出れるんだぜ?」

ミチはケラケラと笑った。

「で、いつまでもバックれてないで、練習しなきゃなって思って。2週間もサボってたらさ、流石に心の傷っていうの?も癒えるし」

たった2週間でへこんでたのが治った。やっぱり、ミチ君は私とは違う「あっち側」の人なんだと、たまきは街路樹の向こうの都庁を見つめながら思った。

 

ミチはギターおもむろにギターを奏でだした。

いつものミチの曲に比べると、少しスローテンポだ。

8小節イントロを奏で、ミチは歌い始めた。

 

――路地裏を歩く野良犬が一匹

――陽の光を避けるようにビルの影へ

――誰もいない公園で

――ひとり吠え続ける

 

――「僕には夢があるんだ」

――「僕には明日があるんだ」

――「僕には未来があるんだ」

――そんな風に歌ってたら、ゴミ捨て場のフクロウに笑われた

 

――夢の意味も知らないくせに

――自分が誰かも知らないくせに

――ラジオから流れてきた誰かの歌で

――知ったつもりになってただけ

――ただ吠えていただけ

 

声が伸びるところで、ミチのハイトーンな声が少し掠れる。たまきは、絵を描く手を止めてじっとミチの口元を見ていた。

ミチはポケットからハーモニカを取り出すと、吹き始めた。そういえば、前に「ハーモニカが欲しい」と言っていた気がする。

 

――いつの間にか日が暮れる

――黒猫のしっぽがゆらゆら揺れる

 

――あれほど好きだった歌も口ずさむのをためらって

――頭上のポスターを眺めては電柱にピスをかける

――ゴミ捨て場のフクロウの声と

――月の下の黒猫のしっぽと

――いつか抱きしめたウサギのぬくもりが

――潮騒のように響く

 

――夢の意味も知らないくせに

――自分が誰かも知らないくせに

――届きもしないフリスビー追いかけて

――足がもつれ転んだだけ

――ただ遊んでいただけ

 

たまきにはところどころ歌詞の意味が分からなかった。それでも、ただ明るいだけではない。今まで聞いたミチの歌では一番好きだと思った。

 

ミチがギターを弾くのを終え、たまきは、ぱちぱちと小さな拍手をした。

「この歌はいつ作ったんですか?」

「昨日」

ミチがチューニングをしながら答える。

「なんてタイトルなんですか?」

「タイトルかぁ……。そうだなぁ……」

ミチはしばらく黙っていたが、やがてたまきの方を向いて答えた。

「……『犬』」

「……それがタイトルですか……?」

「う、うん」

ミチが決まりの悪そうにたまきを見ている。

「前から思ってたんですけど……」

ミチの不安そうな目からたまきは顔をそらした。

「ミチ君って、名前付けるセンスないですよね……」

「知ってる……」

ミチが自信なさげにうつむく。

「たまきちゃんが名前付けてよ」

「え?」

たまきは目を大きく見開いてミチの顔を見た。

「たまきちゃんだったら、なんてタイトルつける?」

たまきはしばらく黙っていたが、ミチの目を見てこう言った。

「……『犬の歌』?」

ほんの一瞬、時間が止まったかのような静寂が訪れた。

そして、二人はお互いの顔を見て、同時に笑い出した。

ミチはケラケラと笑い、たまきはクスリと吹き出した。

夏の日差しの中、二人は声を出して笑った。

 

一通り笑ったところで、階段の上の方からハスキーな声が聞こえてきた。

「それにしても、『ゴミ捨て場のフクロウ』はちょっとひどいんじゃないか?」

ミチとたまきが振り返ると、そこには仙人がにやりと笑いながら立っていた。

「げ」

「きゃ」

ミチはこの上なくばつが悪そうに顔をこわばらせ、たまきは驚いた拍子に鉛筆を落とした。

「ち、違うんす。あれは、思いついた言葉をそのまま言っただけで、ベ、べつに深い意味は……」

ミチは立ち上がると、仙人に駆け寄った。

「なるほどなぁ。お前さんには、そんな風に見えとったのか」

「いや、ち、違うんす!」

たまきは「ゴミ捨て場のフクロウ」の意味が分からず、二人のやり取りを首をかしげながら見ていた。

仙人は歩みを止めることなく階段を下り続ける。

「声はよかった。メロディも悪くない」

たまきは階段の上の道を見上げる。さっきよりも顔がこわばっているように見えた。

「だがな……」

ミチの顔がますますこわばる。なんだか、たまきまで緊張してきた。

「歌詞がところどころ、なんの例えなのかわからん」

「……はい」

この前と違い、ミチは素直にうなづいた。

「表現し、伝える以上、わかりづらいのはよくないなぁ」

「……おっさんの画家がどうこうっていう話もわかりづらかったっすよ?」

二人の男は、互いに顔を見合わせ、同じタイミングで笑った。

仙人は、ミチの肩に手を置いた。アンモニアの臭いがミチの鼻腔を突いたが、ミチは顔をしかめることなく、むしろ、ほころばせた。

「ま、この前の歌に比べれば、お前さん自身の言葉で書こうとしてるってのは伝わってきた。前より良いんじゃないのか。まだまだ粗いけどな」

ミチが少し、ほっとしたように顔をほころばせた。

「ただなぁ、『ゴミ捨て場のフクロウ』はやっぱりひどいなぁ」

「すんません……」

仙人よりも少し高い位置にいるミチが頭を下げた。

「『年老いたフンコロガシ』じゃだめか?」

「え?」

仙人の言葉に、ミチが眉をひそめる。

「『ゴミ捨て場のフクロウ』の部分を、『年老いたフンコロガシ』にするのではだめか?」

「……べつにいいっすけど、フクロウよりひどくないっすか?」

「好きなんだ。フンコロガシが」

そういうと仙人は笑った。

 

写真はイメージです

「う~ん、一回整理しよ?」

その日の夕方。西日が照らす「城」の屋上で、志保が困ったように笑った。志保は施設から帰って来るなり、亜美から絵を飾る飾らないの論争を聞かされた。

「たまきちゃんは、絵を飾るのが嫌なんだね?」

「いやです」

たまきがきっぱりと言った。

「それに対して、亜美ちゃんは絵を飾りたい」

亜美が無言でうなづく。

「作者の意見を尊重すべきか……、所有者の意見を尊重すべきか……、亜美ちゃんの肖像権を尊重すべきか……」

志保は腕を組んで考えていたが、数秒して笑顔で

「わかんない」

と言った。

「でも、二対一でウチの勝ちだろ?」

「でも、こういうのって、作者に権利があるんじゃないんですか?」

二人の権利者の訴えを志保は裁判長よろしく聞いていたが、「そういえば」と切り出した。

「本で読んだことがあるんだけど、美術館ってホントは絵を展示したくないんだって」

「なんで? あいつら、絵を見せて商売してるんだろ?」

「絵を光にあたると痛んじゃうから、ほんとは人に見せたくないんだってさ」

「なんだそりゃ?」

「絵を百年残すためには、光に当てない方がいいんだよ」

亜美は腑に落ちない感じだったが、たまきはピンとひらめくものがあった。

「それです。絵が痛んじゃうんで、見せないでください」

珍しくたまきが勝ち誇ったように、亜美を見上げてる。

だが、亜美はたじろぐ様子もなくこう返した。

「なに、お前、あの絵、百年残したいの?」

「え?」

ぽかんと口をあけるたまきに、亜美が続ける。

「百年残すつもりなんだったらお前、全身描けよ。ウチのナイスプロポーションが百年後にも残ったのに」

「百年も残ったら、たまきちゃんの絵も歴史的資料として博物館に飾られてるかもね」

「え?」

たまきは、自分の絵が百年後、博物館に展示され、誰とも知らない人にじろじろ見られている光景を想像した。

「いや、もしかしたら、こいつの絵がすごい評価されてて、何億って値段になってるかもしれない」

「ありえるねぇ。それこそ、ゴッホ展みたいに、大行列ができたりして」

「え? え?」

たまきはただただ困惑している。

「そうなると、あの絵は天才画家たまき先生、十五歳の時の貴重な作品、ってことになるな。うん、保存した方がいい。どっか暗いところに大事にしまって、百年残そう」

「わあ、なんか、ロマンがあるね」

盛り上がっている年上二人に向かって、たまきは申し訳なさそうに言った。

「あの……、痛んじゃってもいいんで、今のままでいいです……」

 

つづく


次回 第11話「惚気の長雨、口下手の夕暮れ」

さ~て、次回の「あしなれ」は?

・ミチに新展開!

・志保、クレープを焼く

・たまき、怒る

の三本です。続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第9話「憂鬱のち誕生日」

亜美の誕生日を祝うことになったたまき。たまきにできること言えば、絵を描くことぐらい。たまきは亜美の似顔絵をプレゼントしようと思ったのだが、そこには大きな問題があった。どうしても、暗い絵しか描けず、とても誕生日プレゼントなんかにはできない。たまきは、そんな自分の絵が大っ嫌いだった……。

「あしなれ」第9話スタート!


第8話 ゲリラ豪雨と仙人

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


八月十五日。正午。晴れ。

写真はイメージです

ポーンとお昼の時報がなると、テレビの向こうの黒いスーツの人たちが一斉に目をつぶった。

たまきはソファの上に横になりながら、その映像を見ていた。

テーブルの上には志保(しほ)が握ったおにぎりが置いてある。もっとも、お米を炊いたのではなく、スーパーで売っているパックのご飯を握ったものだ。志保はおにぎりをつまみながら、テーブルの上のタブレットサイズのテレビを見ていた。

志保と一緒に暮らすようになってひと月。少し志保のこともわかってきた。

志保は歴史に関心があるらしい。何日か前も朝から炎天下のもと行われていた式典を見ながら、何か歴史うんちくのようなことを言っていたが、たまきはあまり覚えていない。

正直、戦争と平和みたいなことにたまきは関心がない。

もっとも、それを表だって口にしたことはない。口にすれば「最近の若い子は」だの「平和ボケしてる」だの怒られるのは目に見えている。

まず、「最近の若い子は」と言われるのは納得できない。オトナたちが言う「最近の若い子」というのは、教室でみんなで固まってわちゃわちゃ楽しそうな層を指すのだろう。たまきは間違いなくその層には属していない。小学校のころは、そういった連中から距離を置いて1人で絵を描いていたし、中学校では教室にすら入れなかった。

そして、「平和ボケ」と言われるのはもっと我慢がならない。

生まれてこのかた十五年ちょっと、平和だなんて思ったことがない。

こんなこと言うとまた良識ある大人たちは、自分も行ったことなさそうな国の話をして、戦争がいかに恐ろしいものかとしたり顔で語るのだろう。

確かに、今の日本で銃弾が飛び交うこともなければ、空から爆弾が降ってくることもない。

多くのオトナはそう思い込んでいるみたいだが、たまきにとっては違っていた。

外の空気は毒ガスみたいに息苦しく、教室では銃弾が飛び交うように感じられてまともに顔も上げられなかった。

何より、家族から浴びせられた言葉は爆弾より強烈にたまきの心を焼き尽くした。

たまきが引きこもっていた自分の部屋は、さながらたまきにとって防空壕だった。いや、すぐ近くに家族がいたから、敵地の戦場に掘った塹壕に近かったかもしれない。

ふと、以前に志保が言っていた歴史うんちくを思い出した。

「塹壕のすぐ近くに砲弾とか落ちるでしょ。その轟音が兵士の心をどんどん蝕んでいったんだって。けがせずに戦場から帰れても、心を病んじゃった兵士が多かったみたい」

その気持ちはたまきにも分かる気がした。塹壕はぜんぜん安全じゃないのだ。

でも、塹壕の外はもっと怖い。だから、塹壕からでられない。

 

テレビの向こうでは、総理大臣のおじさんがスピーチをしている。戦後六十年以上たち、日本は平和を守ってきました。これからも平和を守っていきます。そんな感じ。

六十年以上も日本は平和だったそうだが、たまきはいまだその恩恵にあずかれていない。むしろ、爆弾でたまきを中学校や自宅ごと吹き飛ばしてくれたら、今頃どんなに楽だっただろう。

六十年続いた日本の平和なんて、守るべきもののある『しあわせな人』だけの平和だ。たまきには関係ない。

 

ガチャリと奥の部屋のドアが開き、ぼさぼさの髪の亜美(あみ)が出てきた。金髪の根元はすっかりプリンになっている。眠たそうな目で亜美はテレビを見た。

「ああ、今日、戦争記念日か」

「終戦記念日だよ、亜美ちゃん」

志保が訂正する。

「そっか~、今年ももうそんな時期かぁ」

そういうと亜美は冷蔵庫からペットボトルを出してがぶがぶと飲み干した。

亜美が終戦記念日に関心を示したことに、たまきは意外さを感じた。明日のことなんてどうでもいいと言ったはばからない亜美は、同様に過去にも、それも歴史にも関心などないのかと思っていた。

だが、亜美が終戦記念日に関心を示した理由は、どうやら歴史への興味からではなかったらしい。

「ってことは、明後日、うちの誕生日だ」

「えっ?」

志保とたまきが亜美を見た。亜美は眠気覚ましのストレッチをしている。

「そっ、八月十七日。うちの十九回目の誕生日」

そういうと亜美はにっと笑った。

「お祝いよろしく」

「あ……うん」

自分からそれ言っちゃうんだ、と志保は少し戸惑った。

亜美はすっかり着替えを済ませると敬礼をしながら、

「隣町の美容院に特攻してきます」

と言って「城(キャッスル)」を出ていった。「戦没者への敬意」なんてものは全然ないらしい。

 

亜美が出ていった「城」では二人が黙ったままテレビを見ていた。

誕生日を祝う。たまきはあまりピンとこなかった。

生まれてきてよかったなんて、一度も思ったことがない。引きこもる前は誕生日に食事へと連れて行ってもらったが、どこか形式的な印象をぬぐえなかった。

お友達を招いてお誕生会、なんてやったこともないし、呼ばれたこともない。

誕生日にあまりいいイメージはなかったけど、それと亜美の誕生日とは関係ない。日ごろお世話になっているし、たまきが使うスケッチブックも鉛筆も、亜美からもらったお小遣いで買ったものだ。何より、本人からのリクエストである。お祝いしないわけにもいかない。

でも、何をすればいいんだろう。何を買っていいかわからないし、そもそも明後日までに用意できるのか。

まず思いついたのが洋服だった。亜美は洋服が好きで、奥の部屋は半ば亜美の衣裳部屋になっている。

ただ、どんな服を買えばいいのか見当もつかない。何がおしゃれで、何がダサいのかたまきにはわからないのだ。

そもそも、亜美の着るような服が置いてある店に行って買い物ができる自信がない。

5千円。それがたまきの全財産だ。

最初、亜美と暮らし始めたときはもっと多くお小遣いをもらっていた。

だが、一カ月ほどたってわかったのは、そんなにもらっても使わない、ということだった。

食費やお風呂代、洗濯代など3人共通のものは金庫の中のお金を使う。3人共同のお金だ。

それとは別に個人が欲しいものは個人のお小遣いで買うのだが、たまきが買ったものと言えばスケッチブックと鉛筆と消しゴム、公園で絵を描くときに飲む水くらいだ。

全然お金を使わないのに持っていてももったいないので、何週間か前に「お小遣いは5千円まででいいです」と自分から申し出たのだ。

毎月一日になるとお財布の中を確認して、5千円を下回っていれば金庫の中から補充してもらう。それでも多すぎるくらいだ。

確か、財布の中にはまだ四千円以上残っている。これでどれくらいのものが買えるのか、見当もつかない。

たまきは起き上がると不安げに志保を見た。

「志保さんは……、明後日……、どうするんですか?」

「う~ん、どうしよう」

志保は両手を頭の後ろで組んでそういったが、もう答えは出ているような顔をしていた。

「ちょっと豪勢なお夕飯でも作ろうかな。確か、亜美ちゃん、ハンバーグ好きって言ってたし」

やっぱり、料理ができる人は得だ。好きな料理を作ってもらって、喜ばない人はいない。

「志保さんはいいですよね……。料理作れるから……。私なんか、できることなんにもないし」

下を向くたまきに志保が笑いながら言った。

「たまきちゃん、絵がうまいから、亜美ちゃんの似顔絵描いてあげたら?」

それは、たまきが「服を買う」よりも真っ先に思いついたことだった。だが、たまきはぶんぶんとかぶりを振った。

「私の絵……見ましたよね……」

たまきは下をうつむきながらぼそりと言った。

「みたみた!すごいうまいじゃん!」

「……見たならわかりますよね……」

たまきは、足元のくすんだピンクのじゅうたんに映る、幽かな自分の影を見ながら言った。

「私の絵……、暗いんです……」

たまきは絞り出すように声を出した。

「でも、明るく描けばいじゃない」

そのやり方がわからないから、ずっと悩んでいるのだ。

「……私の絵なんて、誕生プレゼントに向いてないんです……」

たまきの頭の中で、数日前に出会った「仙人」と呼ばれるホームレスの、しゃがれた声が再生された。

「お前さんには、世界がこんな風に見えているのか」

仙人は褒めているようだったが、とどのつまり、たまきの絵が暗いのはたまき自身に問題があるからだ。たまきが暗いからいけないのだ。

「そうそう」

そういって、志保はたまきに体ごと向き直った。

「たまきちゃんの誕生日はいつ?」

「えっ?」

たまきは鳩が豆鉄砲を食らったような顔で志保を見た。

「な……、なんで誕生日なんか聞くんですか?」

「前もってわかっていた方が、お祝いしやすいじゃん」

たまきは志保に向けた顔をそらして下を向く。

一年で一番、誕生日が嫌いだ。いい思い出なんて一個もないし、人生で最大の失敗は何かと問われたら、そもそもこの世に生まれ落ちてしまったことだろう。

産んでくれ、なんて頼んでいない。だから、生まれたことを祝ってもらっても、きっとうれしくないだろう。

「いつ? 誕生日」

志保の問いかけに、たまきは聞こえるか聞こえないかギリギリのボリュームで答えた。

「……十月二十一日です……」

「……十月の二十一?」

志保が聞き返すと、たまきはこくりとうなづいた。

 

 

八月十六日。午後。曇り。

 

写真はイメージです

たまきはスケッチブックを持って、都立公園にやってきた。セミの鳴き声がいつもより一層うるさい。たまきはいつもの階段を見るが、誰もいない。

いつもこの公園に来ていたはずのミチの姿を、あれ以来見ていない。

ミチの歌が仙人に「切り貼り」とこき下ろされて以来、たまきはほぼ毎日足を運んでいたのに、ミチの姿が見えないのだ。

ミチは仙人にこき下ろされて、すっかり自信を無くしていたようだった。「なんだか死にたくなってきた」とも言っていた。

まさか。とたまきは首を振る。ミチはたまきと違う。自殺なんてするような人じゃない。

そういえば、バイトが新しく始まるとも言っていた。どんなバイトか知らないけど、きっと忙しいんだろう。

いつもの階段はほとんど影が無く、かなり暑そうだったのでたまきは別の場所を探すことにした。公園内を歩きながら思いを巡らせる。

結局、亜美へのプレゼントを何にするかはまだ決まっていない。明日の夜には、志保がハンバーグを作ってささやかな亜美の誕生パーティが開かれる。それまでに決めなければいけない。

ここに来る途中に、亜美が好みそうなおしゃれな洋服屋があったので覗いてみた。色とりどりの服やジャラジャラ系のアクセサリーが並ぶ店内を窓ガラス越しに店内を覗いていたが、おしゃれな客と目があった瞬間、たまきはくるりと背を向け、小走りにそこから逃げ出した。

なんだか、学校にいたころのことを思い出して、惨めになった。

公園内の木陰にベンチを見つけ、たまきは腰かけた。カバンを左横に下ろすと、スケッチブックとペンケースを取り出す。

左手の小さな指で、鉛筆を柔らかく握ると、真っ白なスケッチブックに向かってたまきは絵を描き始めた。

目の前には街路樹が生い茂り、その向こうから青空へと突き抜けるように都庁がそびえたつ。いつも書いている都庁だが、今日はちょっとアングルが違う。

明るく。なるべく、明るく。そう言い聞かせて鉛筆を走らせる。

なるべく影を付けないように。影はあくまでも立体感を出すため、最小限に。鉛筆に力がこもる。

三十分ほどして書き上げた絵を見て、たまきは愕然とした。

前より暗くなっているような気がする。昨日、テレビで戦争の様子を描いた絵を見たが、まさにあんな感じ。都庁は廃墟のお化け屋敷みたいだし、入道雲は爆炎みたくなってしまった。

たまきは深いため息をつく。昨日から何度も描いているが、こんな絵しか描けない。

あんなに「明るく」を意識して書いたのに、どうして前よりひどいんだろう。

やっぱり、ミチ君の歌がないからかな、とたまきは絵を見ながら思った。ミチの、どこかで聞いたような言葉ばかりを並べた、バカみたいに明るい歌は、多少なりともたまきに影響を与えていたのだろう。

たまきは、再び都庁を描き始めた。今度は「明るく」を強く意識すると同時に、ミチの「未来」という底抜けに明るい歌を脳内で再生しながら描いた。歌詞なんか覚えていないし、メロディも怪しい部分が多いが。

三十分後、たまきは泣きそうな目で自分の絵を見ていた。さっきの絵とほとんど変わらない、暗い絵がそこにあった。

今までたまきがこの公園で描いていた絵は、ミチの歌の影響でちょっとだけ明るくなった絵だったらしい。

再び、仙人の言葉を思い出す。

「お前さんには、世界がこんな風に見えているのか」

つまり、この絵がたまきが本来見ている「世界」というやつなのだろう。この絵を仙人に見せたら、今度はゲルニカを思い出したというに違いない。もちろん、技量は天と地の差という注釈つきで。

仙人に絵をほめられて以来、たまきは自分が絵を描くことが好きだということを思い出した。あれ以来、ほぼ毎日この公園に来ては絵を描いていた。また、「城」のある太田ビルの屋上でも絵を描いていた。

絵を描くことは楽しいし、好きだった。それを思い出せただけでも本当に良かった。

だが、描いた後の自分の絵を見て、その都度死にたくなる。

楽しい気持ちで描いていたはずなのに、たまきの絵は暗くなる一方だった。

絵を描くことは好きだけど、肝心の描いた絵そのものはやっぱり好きになれない。

 

 

八月十六日 夕方 夕焼け

 

 

写真はイメージです

公園からの帰り道、たまきは古本屋に寄った。

マンガが見たかった。「読みたかった」のではなく、「見たかった」。「明るい絵」がどういうものか確認したくなったのだ。

古本屋の中では大勢の人が立ち読みしていた。どちらかというと男性の比率が多いみたいだ。たまきは立ち読みの客が作った林の中を、肩身狭そうに歩いた。服がほかの客とこすれて音を立てる。

小学校のころ好きだった少女漫画が目に入り、たまきは手を伸ばす。たまきの小さな体でも届くところにあった。

ピンク。黄色。水色。

黒く細い線の集合体でしかないはずのその絵は、不思議とたまきの頭の中に次々と色彩を呼び起こす。絵全体が鮮やかなオーラを放ち、白黒の絵に色味を補完しているのだ。

子供のころは、この漫画みたいなかわいい絵が描けると信じていたのに。学校に行って、友達を作って、恋をして、夢を追いかけて。この漫画みたいな日々が当たり前に送れると信じていたのに。

現実のたまきは当たり前のことができず、学校に行けなくなった。

あのころ読んだ漫画は、学校に行けなくなった後のことなんか、描いてなかった。

結局、明るい絵というのは明るい人にしかかけないんだ。たまきはまた深いため息をついて、本を棚に戻した。

ふと、血まみれのナイフを持つ少女の絵が表紙に書かれた漫画が目に入る。

「さつじんぶ」というタイトルのその漫画の帯には、「映画化決定!」と書かれていた。

なんだか暗そうな漫画で、自分の絵に似ている。そう思ったたまきは思わずマンガを手に取っていた。

物語の内容は「さつじんぶ」なる殺人鬼の同好会が無差別に人々を襲っていく、というサスペンスホラーだった。高校生の主人公・トオルの日常は、修学旅行先のホテルで「さつじんぶ」の隣の部屋になってしまったことから一変する。次々と殺されるクラスメート。トオルは他のクラスメートと山の中を逃げるが、極限状態に陥ったクラスの不良が巨乳美少女のヒロインを乱暴してしまう。ヒロインを助けるために不良を殺してしまったトオル。呆然としているトオルのもとに「さつじんぶ」のメンバーが現れ、トオルを「さつじんぶ」にスカウトする……。

一巻はまだ数ページ残っていたが、たまきは気分が悪くなり、本をもとの位置に戻した。

あんなマンガ、読まなきゃよかったと、とぼとぼと自動ドアに向かって歩いて行った。

古本屋の一階は書籍コーナーで、二階はCDやDVDが並ぶ。

ふと、二階へと続く階段から誰か降りてきた。その人はたまきの前にひょいっと躍り出ると、九十度角度を変え、たまきに背を向けて自動ドアへと足早に向かっていった。

一瞬だけ見えた横顔は、たまきがいつも公園の階段で見ていたものだった。

ミチ君。思わずそう呼び止めようとしたたまきだったが、どうしても言うことができなかった。

呼び止めて、私は何を言うつもりなのだろう?

「どうして、公園来なくなっちゃったの」?

たまきが言おうとしたそれは、昔、たまきが学校の先生に言われた言葉だった。

 

中学二年の二学期、学校に行けなくなったたまきの家に、先生が訪れたことがあった。テーブルには先生と母親、パジャマ姿のたまきが座った。うつむくたまきに先生が問いかけた言葉が、「どうして、学校来なくなっちゃったの」だった。

そんなの……。そんなの……。

たまきは何も答えられず、ぽろぽろと泣くだけだった。

あの時、自分が傷ついた言葉と同じことを言おうとしていた。そのことに気付いたたまきは、ミチに声をかけることができなかった。

自動ドアを出て、薄暗くなったネオン街の雑踏に消えていくミチを、たまきはただ見送った。

 

 

八月十七日 午後 曇り

 

写真はイメージです

都立公園で暮らすその男の本当の名前を知る者は、公園のホームレスの中には誰もいない。白髪交じりの長髪にもじゃもじゃのひげという風貌からか、「仙人」や「仙さん」と呼ばれている。眼鏡の奥の理知的な目は、仙人というよりは中国の儒家を連想させる。

彼の仕事は廃品回収だ。基本は空き缶を拾っている。山ほど空き缶を集めて収入は千五百円ほど。空き缶でパンパンになったビニール袋を自転車の荷台にくっつけて街を走る様はフンコロガシのようだと自分では思っている。自嘲ではない。フンコロガシが糞を転がすから街はきれいになる。あえて汚れ仕事を請け負う。これは彼の矜持だ。

空き缶以外にも、金になりそうなものが落ちていれば拾う。今日はいわゆるコンビニ本を拾った。

「さつじんぶ」というタイトルのマンガのようで、表紙には「映画化決定!」と書かれている。

酒のつまみにと読んでみたが、半分ほど読んで読むのをやめた。

絵は悪くない。人物の表情もよく描けている。事件が次から次へと起こり、読者を飽きさせない展開だ。

だが、仙人は読むのをやめた。傍らのカップ酒を少し口に含み、ごくりと喉を鳴らしたところで、木立の中をとぼとぼと歩いてこちらに向かってくる少女に気付いた。

 

仙人がその少女と出会ったのは一週間前の大雨の日だ。

もっとも、彼女自身を見たのはそれが初めてではない。週に何日か、公園の中の階段に腰かけ、絵を描いているのを何度も見かけている。いつも隣に同い年ぐらいの少年がいてギターを弾きながら何やら歌っていたが、二人の間は必ず人一人通れそうなスペースが開いていて、二人が会話をしているところも見たことがなかった。

少女が自信なさげに見せたその絵を見たとき、仙人は息を飲み、目を見開き、言葉が出てこなかった。

まず思い出したのは、若かりし頃にアメリカの美術館で見たある絵だった。

夜の闇、渦巻く風、月明かりの揺らめき。色の一つ一つがカンバスに荒々しく、それでいて丁寧に塗りつけられていた。夜の風景が画家の目を通して分解され、データ化され、画家の解釈によって再構築され、卓越した技量でカンバスの上に絵具で表現されている。

「彼には世界がこんな風に見えているのか……」

若かりし日の仙人は、ため息とともに自身の想いを言葉にせずにはいられなかった。

少女の絵を見たとき、仙人は数十年ぶりに同じ言葉を口にした。

もちろん、技量はあの画家とは比べ物にならない。絵心はあるのだろうが、まだまだ繊細さに欠けている。

しかし、その少女には、その瞳に映った世界を独自の解釈で再構築する力があった。

 

その少女は仙人の前に小さな歩幅で近づいてきた。斜め掛けしたカバンからは、スケッチブックがはみ出している。

「……こんにちわ」

少女は今にも消え入りそうな声であいさつした。

「わしになにか用かな?」

仙人はやさしく目を細めた。

 

こんなにも人に自分のことを話したのは、たまきにとっては初めてだった。

とはいえ、言いたくないことは話していない。学校に行けなくなったこと。死のうと思って家を出てきたこと、潰れたキャバクラに勝手に住み着いていること。

たまきは仙人に、2か月くらい前に出会った亜美という人と一緒に暮らしていること、その亜美の誕生日が今日であること、お祝いをしたいのだけれど、何をすればいいのかわからないことなどを話した。

公園の中で花のデッサンを描いてみたが、どう描いても花に生気が見れない。でも、絵を描く以外に亜美にしてあげられることが見当もつかない。途方に暮れていたたまきの足は、自然と「庵」に向かっていた。

話を聞き終えた仙人は、一息つくと、たった一言だけたまきに言った。

「絵を描けばいいじゃないか」

しばらくの沈黙の後、たまきは力なく頭を横に振った。

「お前さんの絵は、フィンセントに通じるものがある」

「……ゴッホのことですか」

「そんな名前だったかな。あまりよく覚えておらんが」

仙人はやさしい目で笑った。

「……仙人さんが私の絵をほめてくれるのは嬉しいんですけど……、でも、私の暗い絵は人にあげるのには向いてないんです……」

たまきは泣きそうな声でそういうと、仙人から視線を逸らした。

たまきが視線を逸らしたその先には、昨日たまきが読んだスプラッタ漫画があった。表紙に描かれた、血まみれのナイフを握った、やけに巨乳の美少女をたまきはじっと見た。

仙人はそんなたまきをしばらく見ていたが、やがてカップ酒をぐびっと飲むと、たまきがじっと見つめている漫画を手に取った。

「こういうマンガを読むやつは、何を思って読むんだろうな」

仙人の言葉にたまきは首をかしげる。

「私は……あまり面白くありませんでした」

「だろうなぁ。お嬢ちゃん、自分のことが嫌いだろう?」

思いがけぬ仙人の言葉に、たまきはびくっと背を震わせ、ぱちくりと瞬きをした。

「わしも若いころはよくこんな映画を見たもんだ。殺人鬼に追いかけられる映画や、ゾンビが街を徘徊する映画……。そういうのを見て映画館を出た後は、自分が狙われたらどうしようだの、向こうからゾンビの大群が来たらどうやって切り抜けようだの、下らんことを考えとった」

仙人は、手に取ったマンガをぱらぱらとめくりながら続けた。

「そうやって、自分が幸せ者だって確認しとったんだ」

「えっ」

どういう意味だろう。たまきは首をかしげる。

「絶望に責め立てられる登場人物を、スクリーンの向こうから眺める。実に悪趣味だとは思わんか。『登場人物に感情移入してハラハラした』? 絶対に自分はその状況にはならないとわかりきっているからそんなことが言えるのだ。そして、映画館を出たらみんなこう思うのさ。私の周りには殺人鬼もゾンビもいない。家族がいて恋人がいて友達がいて、なんてしあわせな自分」

仙人の言う通りなのだとしたら、そういうマンガが楽しめない人は、不幸な人だということになる。たまきは、泣きそうになるのをこらえながら、自分のかけているメガネの黒いふちに視線を落とした。

「人というのはな、みんな自分が世界で一番不幸だとおもっとる」

仙人はぱたんと本を閉じた。

「それでいて、自分が世界で一番不幸だということに耐えられない。めんどくさい生き物だ」

たまきは怪訝な目で仙人を見つめていた。

「だから、こういったマンガを読んで、自分が一番不幸じゃないって確かめようとする。酒を飲んでいるようなもんだ」

仙人はそういうとカップ酒に口を付けた。仙人が酒を飲みこむたびに、のど仏が動くのをたまきはじっと見ていた。

仙人はカップ酒から口を話すと、ぷはぁと息を吐く。

「お嬢ちゃんの絵はそういうのとは違う。そう言う造られた暗さじゃない」

造られた暗さじゃないなら、なお一層ひどいということじゃないか。たまきはうつむいたままじっとしていた。

「その、亜美って子の絵は描いてみたのか?」

たまきはぶんぶんとかぶりを振った。

「描いてみたらいいじゃないか」

「……どうせ、暗い絵になるに決まってます」

「描いてみたらいいじゃないか」

たまきは、うつむいていた顔を上げて仙人の目を見た。

仙人はたまきをじっと見据えていた。

「描いてみたらいい」

仙人はやさしくそう言った。

 

たまきは仙人の隣に腰を下ろすと、スケッチブックを取り出した。

人の顔を描くなんて何年振りだろう。たまきは目を閉じると、亜美の顔を思い出す。

亜美さんっていつもどんな感じだったっけ。明るく描かなきゃ。なるべく明るく、なるべく明るく……。

ポンッと肩をたたかれ、たまきが目を開ける。

「お前さんはいつも都庁を描くとき、そんな風にじっと目をつむるのか?」

「……いえ」

いつもは、漠然と描きたいイメージが浮かんだら描き始める。完全にイメージが決まる前に描き始める、見切り発車だ。ちゃんとイメージが固まる前に書き始めるから、暗い絵しか描けないんじゃないのかというのが、ここ数日たまきが考えていたことだった。だから、できるだけしっかりとイメージをしてから描こうと心がけていた。

「いつもやってるように描いてごらん」

仙人はやさしく笑いながらそう言った。

「……それじゃだめなんです」

「今日の夜までに描きあげればいいんだろう? とりあえず、やってみなさい」

仙人に促され、たまきはぼんやりと亜美の顔を思い浮かべると、左手に握った鉛筆を白い紙の上に置いた。

右手でしっかりと紙を押さえ、左手をさっさっと動かしながら、亜美のことを考える。

亜美と初めて会ったのは大雨の日だった。太田ビルの屋上から飛び降りて死のうとしていたところを亜美に邪魔され、そのまま「城」に泊まることになった。翌日、どうしても家に帰れずにトイレで自殺を図ったたまきだったが、気が付くとベッドに寝かされ、傍らには亜美がいた。

そこからどうして亜美と一緒に暮らすようになったのかははっきりと覚えていない。ただ、家には帰りたくなかった。それに、たまきがどんなに断っても、亜美のずうずうしさの前に結局押し切られていたと思う。いつだって、たまきはそうなのだ。いつかの亜美の声を思い出す。

「ああ、男に強く迫られると、断れないタイプか」

男性に限らず、たまきは強く迫られると、自分の意見を言えず流されてしまうのだ。もっとちゃんと自分の意見が言えたら、家で孤立することもなかったのかな。

そんなたまきに代わって声を挙げてくれたのが亜美だった。ライブハウスで泥棒の疑いをかけられたときは、何も言えなくなってしまったたまきに代わって無実だと訴えてくれた。

ただ、亜美のそういうところはいいのだけれど、ずかずかしすぎるとこがたまきは苦手だった。たまきは「城」でじっとしていたいのにいろんなところに連れまわすし、なんのおせっかいからか、初対面のミチといきなり二人っきりにされたこともあった。

デリカシーというものがないのだ。たまきが言いたくないことをずかずかと聞いてくる。

「ねえねえ、なんで死にたいなんて思うの?」

「ねえ、なんでオトコ作らないの?」

「えー、友達なんてほっといたってできるじゃん? なんで作り方なんか聞くの?」

そのたびにたまきの心はぐさぐさと傷つく。

そんな時、亜美は決まって笑ってる。

亜美は笑っているのだが、たまきは不思議と、バカにされているとは思わなかった。

むしろ、その笑顔になんだか救われた気がして、たまきも笑い返してみるのだが、決まってこう言われる。

「あんたさ、もうちょっと自然に笑えないの?」

「……自然に笑ったつもりなんですが……」

「いやぁ、堅いよ。あんた童顔だから、もっとかわいらしく笑いなよ」

そういって亜美はまた笑う。

そんな亜美だが、たまきがリストカットしたときは、何も言わなかった。

ぽたぽたと血を流し、「またやっちゃった」と珍しく笑うたまきに対し、亜美は困ったように笑いながら、

「そっか」

とだけ言った。たまきを叱るでもなく、避けるでもなく、

「あーあー、けっこう血ぃ流れちゃってるなぁ」

と笑いながら包帯でたまきの右手首をぐるぐる巻きにして、「先生」こと京野舞へと電話をするのだった。

普段、ほっといてほしいときはずかずかと近づいてくるくせに、

一番放っておいてほしいときに、

一番かまってほしいときに、

遠すぎず、近すぎず、そんなところからにこにこ笑ってる。

怒るでもなく、嫌がるでもなく、にこにこ笑ってる。

普段は苦手な亜美との距離感も、この時ばかりはなんだか暖かかった、

 

ふと、たまきは描く手を休めて空を見上げた。

もくもくの入道雲の少し上に、丸く白いものが浮かんでいる。

月だ。たまきは名前を知る由もないが、立待月というやつだ。

たまきは描く手を止めて、月を眺める。

月がどうして生まれたかにはいろんな説があると、むかし本で読んだことがある。

いくつかある説の一つに、宇宙をふらふら飛んでいた月が地球の重力に捕まった、というのがあった。

ちっぽけな月が、青くて美しい地球に捕まり、その周りをぐるぐる回り始めたとき、いったい何を思ったのだろう。

きっと、戸惑ったんだとたまきは思う。星の数ほどある石ころの中で、なぜ自分を選んだのか、と。

それから何億年もの間、月はずぅっと地球の周りをぐるぐる回っている。月は青い地球に憧れながら、ずっとまわっている。

地球は、そんなちっぽけな月の一番近くにいる。一番近くにいて、月がきれいだと言って、笑っている。長い歴史の中では、地球からロケットを飛ばして、月に土足で立ち入っている。

月は片方の面しか地球に見せていないという。数多の隕石が落下し、ぼろぼろになった裏側は絶対に地球には見せないのだ。地球は、そんな月を、一番近いけど少し離れたところから笑ってみている。決して、見られたくない裏側にまわりこんで覗き込むことをしない。

月は、きっと地球の周りをまわることが、居心地がいいんだ。

たまきは、少し口元をゆるませて、再び鉛筆を走らせた。

 

完成した絵を見て、たまきは口を開き、目を見開いた。

仙人が横から覗き込む。

「ほう、その亜美って子は、いい笑顔の娘みたいだな」

風音が去った後、たまきはようやく言葉を発した。

「……嘘です。これ、私の描いた絵じゃないです……」

「何を言っとる」

仙人が笑いながら言った。

「お前さんが今さっき、自分で描いた絵じゃないか」

「だって……私……こんな絵……」

その絵は、亜美の胸から上を描いていた。金髪を後ろに束ね、右腕には蝶の入れ墨が躍るように描かれている。

その顔は、この上ない笑顔だった。

『なにうじうじしてるんだよ。そんなこと、どうでもいいじゃん』

そんな亜美の声が今にも聞こえてきそうな笑顔だった。

たまきは隣でやさしそうに笑う仙人を見上げた。

「仙人さんは……私がこんな絵が描けるってわかってたんですか?」

「お嬢ちゃんはこの亜美って娘の誕生日を祝いたいんだろう?」

たまきは戸惑いつつもこっくりとうなづいた。

「誕生日を祝うということは、生まれてくれてありがとう、出会ってくれてありがとうというメッセージを伝える、ということだ。そういう相手を思って描けば、絵も明るくなる」

信じられないように自分が書いた絵を見つめるたまきに、仙人はそのハスキーな声でやさしく言った。

「お前さんは暗い絵しか描けないんじゃない。見たままに、思ったままにしか描けないんだ。こんな世界嫌いだと思って描けば暗くなる。逆に、大切な友達のことを思って描けば、明るくなる」

雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせた。風に吹かれた木の葉が互いをこすりあい、たまきの頭上でざわざわと音を立てていた。

 

 

八月十八日 午前 晴れ

写真はイメージです

「そうか」

ベンチに押しかけた仙人は、それだけ言うと深くうなづき、右手を差し出した。男も手を差し出し、がっちりと握る。

「行き詰ったら、いつでも帰ってこい」

「はい。いろいろありがとうございました」

そら豆みたいな頭をした中年の男はそう言うと、仙人に深々と頭を下げ、背中を向けて歩き出した。

すると、向こうから見覚えのある少女が歩いてきた。十日ほど前、彼にこの公園に来るきっかけを与えた少女だった。確か、たまきという名前だったはずだ。

たまきはそら豆顔のおじさんの前に来ると、小さな声でこんにちわと言った。おじさんが抱える大きなバッグを不思議そうに見る。

「……この公園を出て独り立ちすることにしたんだ」

おじさんの言葉にたまきは、

「そうですか……」

と少しさびしそうに言った。

「まあ、この街にはいるよ。この公園を出て、駅の周りで暮らすことにしたんだ。いつまでも仙さんに甘えてはいられないからね」

たまきはおじさんに何を言おうか迷っている感じだったが、結局何も言わずにぺこりと頭だけ下げて別れた。

少し歩いてからおじさんが振り向くと、たまきは仙人の前に立っていた。小柄なその体は後ろから見ると肩まで伸びた黒い髪に、かろうじてメガネの端が見える程度だ。

そのシルエットは家に残してきた下の娘に似ていて、おじさんはしばらくたまきを見ていた。

「絵は渡せたのか?」

仙人の言葉にたまきがうなづき、黒い髪がゆらっと揺れた。おじさんの位置からでは、表情までは見えない。

「どうだ? 喜んでくれたか?」

その言葉に、たまきの黒い髪がふわりと揺れた。たまきの顔を見て、仙人は満足そうにつぶやいた。

「お前さんも、そんなかわいらしい笑い方ができるんだな」

 

つづく


次回 第10話 真夏日の犬と猫とフンコロガシ

たまきが仙人と出会って二週間。公園の階段で絵を描いていたたまきの横に、二週間ぶりにミチが現れた。なぜ、道は公園に来なくなったのか。そして、なぜ再び公園に現れたのか。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第8話 ゲリラ豪雨と仙人

「たまきはたまきのままでいいんだよ」

「あしなれ」第8話はそんな話です。


第7話 幸せの濃霧注意報

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


数日前と比べても気温は変わらず、まだまだ天気予報では「熱中症注意」の言葉が躍る。

そんな中、たまきは相変わらず黒っぽい長袖の服を着て、公園で絵を描いていた。使うのは普通の鉛筆一本。白い紙を埋めるように、灰色の線が次々と書き込まれていく。隣には、例のごとくミチ。今日もまた汗だくになりながら、ギターをかき鳴らし歌っている。弦の弾ける音はアスファルトを震わし、ミチのハイトーンな歌声が夏の熱気に融けていく。

たまきは、この時間がどちらかというと好きだ。

絵を描いているときは、作業に集中できるため現実を忘れられる。

正直、絵を描くのは好きでもなければ、楽しくもない。ただただ時間を押し流すための作業。

だから、たまきは同じ題材を何度も描いた。絵にこだわりなどないからだ。斜め向かいに見える都庁を同じアングルから灰色の線で何度も描く。

何度描いても都庁はまるで魔王の城だし、その手前の公園の樹木は夜の樹海。白い雲でさえ、薄気味悪い煙のようにしかかけない。

そんな自分の絵が大嫌いだ。でも、絵を描くこと以外、現実を忘れることができないのだからしょうがない。

自分の絵は嫌い。でも、絵を描くことで時間を忘れることは好きだ。

そして、隣で歌うミチ。

何度も本人に入っているのだが、たまきはミチのことが嫌いだ。チャラいし軽いしいやらしいしめんどくさい。誉めるところが一個も見当たらない。

ただ一つ、彼の歌声は好きだった。ハイトーンで力強い歌声に、底抜けに明るい歌詞がよく映える。ミチの歌を聴きながら絵を描けば、こんな自分でも少しは明るい絵が描けるのではないかと期待してしまう。

歌ってる本人は嫌い。でも、彼が歌う歌とその歌声は好きだ。

プラスマイナス合わせて、どちらかというとたまきはこの時間が好きなのだ。

 

ふと、たまきはミチの方を見た。普段は並んで絵を描くことはあっても、嫌いだからほとんどたまきはミチを見ないのだが。

何とも楽しそうに歌っている。汗が音符のように滴る。大声を出してメロディに乗せることがそんなに楽しいのかな、とたまきは不思議に思う。

自分は隣で好きでもない絵を描き続けているのに、その一方でミチはこんなにも楽しそう。

ミチ君にとっての幸せってなんだろう。やっぱり、歌うことかな。

 

「ありがとうございました。『しあわせな時間』でした」

いつも通り、ミチは歌い終わると「世の中」に向けて挨拶をする。その後、しばらく休憩したら、また次の歌を歌い出す。

「あの・・・・・・」

「ん?」

珍しくたまきの方から声を掛けられ、ミチが振り向く。

「ミチ君にとって……、幸せってなんですか?」

「え?」

ミチは驚いたようにたまきを見た。

「……やっぱり、歌ってる時ですか?」

「うん」

間髪入れずにミチは答えた。

「あ、でも、今までで一番幸せだったのは、やっぱカノジョと一緒にいた時かな」

「カノジョいたんですか」

たまきが冷めた目で尋ねた。

「中学の時だけどな。流れで付き合って、しばらく遊んでたけど、自然消滅かな」

たまきには「流れ」も「遊び」も「自然消滅」もよくわからない。

「中学校、行ってたんですか?」

「え、うん」

ミチは「なんでそんなこと聞くの?」という目でたまきを見る。

「……卒業したんですか?」

「当たり前じゃん」

たまきはうつむいて、スケッチブックを見た。ぽたりと、たまきの遥か頭上の空の上から一滴スケッチブックに落ちてきた。

 

落ちてきた一滴は、すぐに山林のように降り注ぎ、やがて銃弾のように二人を襲った。さっきまで広がっていた青空は重い鈍色に染まっている。雨粒が地面にあたる音だけが二人の鼓膜を震わせる。

二人は公園の中のトイレの軒下で雨宿りをしていた。ここまで百メートルほど走ってきたが、二人ともかなり濡れてしまっていた。

たまきの黒い髪はびしょぬれで顔にぺったりと貼りつき、左目を完全に隠した。毛先から、メガネから、水滴がぽたぽたと胸のふくらみへめがけて落ちていく。たまきは胸の前でカバンをしっかりと抱きとめていた。カバンの中にはスケッチブックが半分むき出しのまま入っている。

ミチはそんなたまきをしばらく見ていたが、やがて目をそらした。茶色い髪はしょんぼりしたかのように濡れそぼっている。背中にはギターケース。Tシャツはびしょぬれで、ミチがそれを雑巾のように絞ると、雨粒と同じくらいの勢いで水が流れ落ちた。

ミチは絞ってよれよれになった裾を見る。裾はだいぶ水気が飛んだが、そこ以外はまだびしょびしょだ。

ミチはギターケースをおろすと、Tシャツを脱いだ。ミチの細くもやや筋肉のついている上半身があらわになり、たまきは顔を赤らめるとあわてて目をそらした。

「な、何脱いでるんですか?」

「だって、このままだと風邪ひくじゃん。明日、バイトの初日なんよ。たまきちゃんも脱いだら?」

ミチが冗談めかして笑い、たまきはますます顔を赤らめる。

「脱ぐわけないじゃないですか」

そう答えつつも、亜美さんだったらためらいもなく脱ぐのかな、などとしょうもないことを考えている。

ふと、雨粒の向こう側に、見覚えのあるシルエットを見つけた。

40代くらいの男が自転車を押しながら二人の前を横切ろうとしていた。荷台には空き缶でパンパンになったゴミ袋が取り付けられている。

深緑色のレインコートを着ているその男のおでこは広く、その輪郭はなんだかそら豆みたいだった。たまきは、男の輪郭に、顔に、見覚えがあった。

「あの……!」

たまきの問いかけに男が足を止めてたまきの方を見た。

数日前、「城(キャッスル)」に強盗に入ったおじさんだった。

そら豆顔のおじさんはたまきを見ると、驚いたように細い目を見開き、そして、どこか懐かしそうな笑みを浮かべ、自転車を止めてたまきの方に歩み寄った。

「……君はこの前の……」

「ん? 知り合い?」

ミチが二人の顔を見比べる。

そら豆顔のおじさんを見たら、たまきはなんだかほっとした。

生きてたんだ。

帰ったら、志保に教えよう。きっと喜ぶ。

「あのときは……迷惑かけたね」

おじさんはやさしく微笑んだ。

「……ここで何してるんですか?」

「君と一緒にいた長い髪の子に教えてもらったとおり、駅の地下に行ったんだ。そこであったホームレスの人に、ここに来ればこれからの生き方を教えてもらえるって聞いてね、お世話になってるんだ」

たまきは、目を赤らめて「さびしい」とつぶやいたおじさんの顔を思い出していた。あの時と比べて、おじさんの笑顔は少し軽くなったように見える。

「あの子にありがとうって伝えおいてよ。あの子の言葉で、だいぶ励まされたんだ」

それもきっと、志保が聞いたら喜ぶ。

おじさんは、ミチの方を見やった。

「お友達?」

一拍置いて、たまきが答える。

「……知り合いです」

こんな上半身半裸男と友達なわけがない。

「彼の方は何回かこの公園で見たことあるよ。知り合いだったんだ」

「私たち、二人とも傘持ってなくて……」

「降るなんて思ってねぇもん」

ミチが少し口をとがらせていった。

おじさんは二人を交互に眺めると、口を開いた。

「2人とも、だいぶ濡れちゃってるね。すぐそこに庵があるから、案内するよ。たき火もしてるし、ここよりはましだよ」

「イオリ?」

たまきの問いに答えることなく、おじさんは「ちょっと待ってね」といって、自転車を置いて小走りに走っていったが、やがて傘を2本持って帰ってきた。

「これ使って。すぐそこだから」

おじさんは二人に傘を渡すと、自転車を押して歩きだした。

たまきは、ミチの方を見た。ミチが不思議そうにたまきに尋ねる。

「どういう知り合い?」

「この前、ちょっと……。それより、どうします?」

「あのおっさん、どこ連れてくって言ってた?」

「イオリだって」

「なにそれ?」

「さあ……」

二人は首をかしげる。ミチはめんどくさそうに顔をしかめながら口を開いた。

「どこだかしんねーけど、あのおっさん、ホームレスだろ? ロクなところ連れていかねーって」

「でも……ここよりはましですよ、たぶん」

ミチは空から降り強いる雨粒を見る。まるで鉄柵のように、二人を公園から逃がすまいとしているようだ。

「まあ、風邪ひいたら困るしな……。たき火あるんだったら、そっち行こうか。でも、この公園、たき火禁止だぞ?」

 

「庵」とかいて「いおり」と読む。隠居や出家をしたものが住む小さな家のことで、たいていは森の中にポツンと、木漏れ日を浴びながら立つ木造の小さな離れのことを指す。

二人が連れてこられた庵は、公園の樹木に囲まれていたし、木造ではあったが、一般的な庵のイメージからはだいぶ違った。

木造は木造でもベニヤ板作り。その上にブルーシートがかけられていて、ベニヤの半分以上はそのシートに覆われている。入口は完全にシートに覆われ、人が通るところだけぽっかりと穴が開いている。その入り口は、昔、まだたまきが学校に行けたころ、教科書で見たモンゴルの遊牧民のテントを思い出させた。

大きさは、大型トラックの荷台くらい。天井はミチより少し高いぐらいか。きれいな立方体、というわけではなく、基盤となる大きな家に、中くらい、もしくはもっと小さい家がいくつもくっついている。

さながら、ベニヤ板のおばけのような風体だが、公園の最深部、木々やオブジェの死角となる場所で、積極的に探そうとしない限り、見つかることはないだろう。

おじさんは二人に少し外で待つように言うと、大きな空き缶の袋を抱えて中に入っていった。二人がどしゃ降りの中で傘を差し、外で1分ほど待っていると、おじさんが顔を出し、手招きをした。

中は薄暗く、意外と暖かかった。全体の四分の1は土間になっていて、残りはブルーシートが敷かれていた。シートの上にはちゃぶ台が置かれ、上にはカップ酒と、おつまみらしきものが置かれていた。ホームレスらしき男性が数人、その周りを囲んでいる。

光源は二つ。

一つは板張りの天井からつるされた電球だった。白熱電球というのだろうか。でも、白というよりはオレンジ色の光を放っているので、また別の名前があるのかもしれない。

そしてもう一つ。土間の奥の方にくず入れぐらいの大きさの四角い缶が置かれていた。缶の中には枝が突っ込まれていて、枝の下の方が赤々と光を放っている。たき火だ。

暖かいのはありがたいのだが、においが鼻につく。町中でホームレスの人とすれ違うとにおってくる、あの匂いだ。たまきは隣のミチの顔を見上げた。ミチは顔を少ししかめていた。

そのにおいのもとは、「イオリ」の奥にいるホームレスたちから漂っているのに間違いなかった。みな、四十歳を超えているだろうか。浅黒い肌と、白髪交じりの長い髪が対照的だった。

彼らはみな、異質なものを見る目で人のことを見ていた。中年のおじさんばかりの小屋の中に。未成年が二人入ってきたのだ。無理もない。人の視線が苦手なたまきは、少し後ずさりした。

そして、たまきはあることに気付いた。

この小屋の中で、女性は自分しかいない。

たまきはミチがわきに抱えていた彼のシャツをぎゅっと握ると、振り返って出口を確認した。

二人を案内したそら豆のおじさんが、ホームレス集団の中央にいる男に声をかけた。

「あっちの女の子の方が、前に話した女の子ですよ、センさん」

センさんと呼ばれた男は、二人をにらむように見ていた。品定めしているようでもある。浅黒い肌に長い白髪交じり、灰色のもじゃもじゃのひげ。キャップをかぶり、丸いメガネをかけている。その視線には、不思議と知性と貫禄を感じた。

ホームレスの一人が、二人によれよれのバスタオルを持ってきた。

「風邪ひくぞ。ふきな」

「ど、どうも……」

たまきはどもりながらもバスタオルを二つ受け取ると、少しきれいな方をミチに渡し、もう一方で自分の頭をわしゃわしゃと拭き始めた。服も濡れてしまっているが、こんな状況で脱ぐわけにもいかず、バスタオルを肩にかけると、たまきは焚火のそばに行き暖を取った。スカートの先からぽたぽたと水滴が地面に落ちる。

そら豆のおじさんが二人に近づくと、優しく微笑みかけた。

「雨が上がるまでここにいなよ」

「……おじさんは今、ここに住んでるんですか?」

「ああ、そうだよ」

おじさんがうなづく。

「今、センさんのところに泊めてもらっているんだ」

「センさん?」

たまきが、さっきセンさんと呼ばれていた眼光鋭い男をちらりと見る。

「そう、あの真ん中の人。『仙人』とか『仙さん』って呼ばれてるんだ」

そう言われてみると、確かに仙人っぽい。

「あの人が、この辺のホームレスのまとめ役なんだ。いろいろ面倒見てくれるんだよ」

舞先生みたいなものかな、たまきはそう思った。

たまきは仙人の方を見ると、「ありがとうございます」といってぺこりと頭を下げた。しかし、仙人は何も反応しない。

「しかし、すごい雨だねぇ」

そら豆のおじさんがテントの外を見ながら言う。その言葉に、ミチが笑いながら返した。

「まあ、よくあるゲリラ豪雨っすよ」

「いや」

重くハスキーな声が響き、たまきは声がしたほうを見た。

「わしらが若いころはこんな降り方はしなかった。地球温暖化の影響か、別に理由があるのか、いずれにしろ、異常気象だ」

声の主は仙人だった。仙人は腕組みしたまま、少し怒ったように続けた。

「異常が何年も続くと、みな異常だと思わんようになる。だが、異常は異常だ」

本当に面倒見がいい人なのかな、とたまきは思ったが、そういえば、舞もあんな突き放した言い方をする気がした。

「お前たち、見覚えがあるぞ。よく階段の上にいっしょにいるな」

仙人が再びハスキーな声で話し始めた。

「ボウズの方はほぼ毎日見るな。ギターでなんか歌っとる。お嬢ちゃんの方はたまに見るな。いつもボウズの隣で、何やら絵をかいとる」

見られていたのが恥ずかしくてたまきは下を向く。

「お前ら、付き合っとるのか?」

「あ、やっぱ、そういう風に見えます?」

「ちがいます! そういうんじゃないんです!」

「・・・・・・だろうなぁ」

仙人は顔を真っ赤にして首を横に振るたまきを見ると、納得したかのように呟いた。

「そういう風には見えんから、聞いてみたんだ」

雨はいまだやむ気配がない。それどころか雨脚は強くなり、傘をさしてもあまり役に立ちそうにない。

「ボウズ」

仙人はミチを見ると、ミチの持っているギターケースに目をやった。

「なんか歌え。いつもこの辺で歌ってるやつだ」

「え、なんで?」

ミチが少しいやそうに答えた。

「お前ら、わしらの家で雨宿りさせてもらってるんだから、わしらに何かお礼をするのが筋ってもんだろう?」

「いや、家ってここおっさんたちの家じゃないじゃん。不法占拠だろ?」

「……ごめんなさい」

謝ったのは仙人でもほかのホームレスでもなく、たまきだった。

「それに、たき火とかこういうのやっちゃいけないんじゃないの?」

どうしてそんな突っかかるような言い方なんだろう、とたまきはミチを見て、その後仙人の方を見た。しかし、仙人は表情を変えることなく口を開いた。

「なるほど。ボウズの言う通りだ。お前さんが正しい。おい、みんな、今すぐこの小屋をばらしてここから出ていこう。たき火は消しておけ。ただし、二人とも、傘は返してもらう。それはわしらの金で買った、正当なわしらの所有物だからな」

そういうと仙人はよいしょと立ち上がった。他のホームレスたちも立ち上がり、壁に手をかけ、ベニヤ板がみしみしと音を立てる。仙人はペットボトルを持ってたき火のもとへ来て、たき火に水をかけようとした。

「ちょ、ちょっと待って!」

あわてたのはミチの方だった。この大雨の中、傘を取り上げられて放り出せれてはたまらない。

「悪かったよ。歌うよ」

ミチがそういうと、ホームレスたちはみな、もといた場所に戻っていった。仙人も、にやりと笑いながら腰を下ろす。

ミチはギターを取り出すとピックを口にくわえてチューニングを始めた。チューニングしながら、隣のたまきに問いかける。

「何歌えばいいと思う? なんかリクエストある?」

たまきは下を向いて考えを巡らせたが、ミチを見上げて、自分の一番好きな曲名を伝えた。

「『未来』って曲が……私は好きです……」

「『未来』ね、オーケー」

ミチは口にくわえたピックを手に取ると、ホームレスたちの方を向いた。

「えー、ミチで『未来』です。聞いてください」

ミチは勢いよくギターをストロークすると、歌い始めた。

――青空の中、飛行機雲がどこまでの伸びていった

――あの先に未来が待っている そう信じ力強く羽ばたくよ

たまきは珍しく、ミチを見ていた。

ミチの声は力強く、ハイトーンながらも、ややハスキーなところもあった。

歌う前は渋っていたミチだが、歌い出すとなんだかんだ楽しそうだ。笑顔が焚火に照らされ、オレンジに輝いている。いつもはたまきしか聞いてくれる人がいないが、今日は他にも何人も聴衆がいる。それがミチのテンションをさらに上げているのかもしれない。

ミチ君は、本当に歌うことが好きなんだ。たまきはそんなミチがとてもうらやましかったが、なぜか口元が緩んでいる自分に気が付いた。

2番のさびが終わり、間奏に入る。間奏と言っても楽器はギターしかなく、ミチが口笛でメロディを奏でるのだが。たまきは、以前ミチが「ハーモニカが欲しい」とぼやいていたことを思い出した。

たまきはホームレスたちの方を見た。たまきより背の高いミチを見上げ続けて首が疲れてきたのもあるが、おじさんたちの反応も気になった。

おじさんたちはみな、つまらなそうにミチを見ていた。そのことにたまきは思わず目を見開いた。

曲調も決して、おじさんには受け入れられないようなジャンルじゃないはずだ。テンポはやや速いけど、ロック系の音楽が苦手なたまきでも好きだと言える曲なのだから。

――僕の歩く今が未来になる

――夢もいつか「今」に変わる

――明日を変えなければいけないんだ

――未来が僕を待っている

最後のサビが終わり、ミチがギターをじゃかじゃかじゃんと弾いて、演奏が終わった。ミチは「ありがとうございました」と言って頭を下げた。

そら豆のおじさんは微笑みながら拍手をしていた。他にもまばらに拍手があったが、大半は無反応だった。

しばらく静寂が流れる。やがて、仙人が口を開いた。

「声はよかった」

仙人は厳しい目つきのまま言った。

「メロディも悪くない。だがな、歌詞はひどい。ラジオでやっとるヒット曲の切り貼りだ」

「切り貼り?」

ミチが少し苛立ったように聞き返した。

「最近の若い者は、『コピペ』というのか?」

「あぁ?」

ミチの声に、たまきが驚きミチを見る。

「ふざけんな! 俺の歌は、パクリじゃねぇよ!」

「ミチ君……!」

たまきはミチのズボンを引っ張ったが、ミチはそれをふりほどいた。

そんなミチに対し、仙人は勤めて穏やかだった。

「別に盗作とは言っとらん」

「さっきコピペって言ったじゃねぇかよ!」

「そういう意味で言ったんじゃない。あの歌詞は、確かにお前さん自身が書いたものなんだろう。だがな、どこかで聞いたような言葉ばっかりだ。まるで、ヒット曲の歌詞を切って貼ったみたいだ。もちろん、お前さんにそんなつもりはないんだろうが、お前さんがこれまで聞いてきた曲の歌詞によく似た言葉で埋め尽くされている。違うか?」

ミチは黙ったまま仙人を見ている。

「お前さんの言葉で書いたんだろうが、本当の意味ではお前さんの言葉になっとらん。そんなんでは多少歌がうまくても、本当に人の心を打つことはできん。ま、売れる売れないはまた別の話だがな」

仙人の言葉を聞いていると、なんだかたまきまで悲しくなってきた。

ミチは肩を震わせながら仙人をにらむように見ていた。やがて、

「ホームレスなんかに何が分かんだよ……」とつぶやいた。

「ああそうだ。所詮はホームレスの戯言だ。社会の最底辺だ」

仙人はミチの言葉にも表情を崩さなかった。むしろ、少し笑っているようにも見える。

「だがな、そういったやつの心に響かないと意味がないんじゃないのか? 特に、さっきお前さんが歌ってたのは、いわゆる『応援歌』ってやつだろう? わしらみたいなものを励ませないと意味がないのではないのか? それとも、CDも買えないようなホームレスを励ますつもりなんかないか?」

仙人が喋っている間、ミチは口を堅く結んでいた。やがて口を開くと

「……おっさんのゆうとーりっす」

と力なくつぶやいた。

「……すんませんでした」

「何を謝る」

仙人は笑いながら言った。

「侮蔑と偏見は、若者だけの特権だ」

そういうと、仙人はたまきの方を見た。

「お嬢ちゃんの絵も見せてもらえんか?」

たまきは困ったように下を見た。

できれば、自分の絵なんて誰にも見せたくない。自分が好きなミチの歌がぼろカスにけなされたのだ。たまきのへたくそで暗い絵なんて、けちょんけちょんにけなされるに決まってる。

そうでなくても、絵を見られるのはとにかく嫌なのだ。何がそんなにいやなのかわからないが、今この場で裸になれと言われているような感覚だ。理由なんかない。恥ずかしいものは恥ずかしいし、嫌なものは嫌なのだ。

だけど、ミチが仙人たちの前で歌って、ぼろカスのけなされたのだ。なのにたまきが絵を見せないというのは、アンフェアである。

たまきは、肩にかけたかばんからスケッチブックを取り出した。スケッチブックの方がかばんより大きく、かばんからはみ出ていたが、たまきが身を挺して守ったおかげで大して濡れていない。

たまきは下を向きながらスケッチブックを仙人に差し出した。仙人は身を乗り出してスケッチブックを受け取ると、中を見始めた。

もういやだ。お願い。見ないで。

たまきは今にも泣きそうな顔で、ぱちぱちと燃えるたき火を見ていた。仙人に絵を渡さないで、たき火の中に突っ込んで燃やしてしまえばよかった。

たまきは、恐る恐る仙人を見た。仙人は目を見開いてたまきの絵を見つめていた。その後ろに群がるように、ほかのホームレスたちが覗き込んでいる。

もうやめて。お願い。そんなに見ないで。

 

小さいころからよく絵を描いていた。学校へ行っても友達があんまりいなかったので、休み時間もいつも絵を描いて過ごしていた。通知表で2と3が並ぶ中、図工だけは4だった。

中学に上がり、たまきは美術部に入った。美術部の仲間とは、クラスメイトよりは仲良くできた。しかし、そこでは新たな問題があった。

みんな、たまきよりも圧倒的に絵がうまかったのだ。たまきはクラスとは違う劣等感を感じざるを得なかった。

おまけにどうしても明るい絵が描けない。たまきの絵が美術部内やコンクールで評価されることなんてなかった。

 

「この絵を、お前さんが描いたのか」

仙人はそういうと顔をあげ、たまきをじっと見据えた。たまきはほんの少しだけ、仙人と目を合わせたが、すぐに下を向いてしまった。

「……はい……」

のどが自転車で轢かれて潰されたかのように声が出ない。

しばらく沈黙が続いた。たまきは、そら豆のおじさんにもう一度殺してほしいと頼みたくなった。

「都庁の絵が多いね。よく描けてるよ」

そら豆のおじさんは微笑みながらそう言った。しかし、

「いや」

という仙人の低いハスキーな声が、たまきのうなだれた頭をハンマーのように撃ちつけた。仙人はスケッチブックに目をやる。

「確かに、都庁を描いたんだろう。都庁に見える。だが、実際の都庁はこうではない。線の書き方、影の付け方、比率、そういうのが実際の都庁と違う」

たまきは、自分の濡れたスカートのすそをぎゅっと握った。水がジワリと指の間からにじみ出て、ぽたっぽたっと地面に落ちる。

「都庁の手前の木の描き方もおかしい。あの階段に腰かけて描いたんだろう。だったら、こういう風にはならない」

そう言うと、仙人はスケッチブックから目を離し、再びたまきを見た。うなだれるたまきの、メガネのふちを、さっきよりもしっかりと見据えた。

「お前さんには、世界がこんな風に見えてるのか……」

仙人の言っている意味がよくわからず、たまきは顔をあげた。仙人が真っ直ぐとたまきを見据えていたが、不思議と怖くなかった。

「……フィンセントを知っているか?」

だれだろう。たまきは首を横に振った。

「フィンセントは十九世紀のオランダの画家だ。フィンセントの絵は、風景画や静物画、自画像を描くくせに、ちっとも写実的ではない。写実的な絵が描けるにもかかわらず、だ」

仙人は、まっすぐたまきの方を見ながら語りかけた。

「絵筆の痕がはっきりとわかる荒々しいタッチだ。勢いに任せて筆を走らせ、その躍動感ごとカンバスに刻み付けている。それでいて、色の配置が絶妙だ。計算して色を置いているのか、直感で色を選んでいるのか、わしにはわからん」

そのフィンセントという画家の絵と私の絵、どう関係があるんだろう。

「きっと、フィンセントには世界がそう見えているんだろう」

そう言うと、仙人は今までで一番優しい目をした。

「お嬢ちゃんの絵を見て、フィンセントを思い出した」

 

たまきは不安げにミチを見上げて、再び仙人に視線を戻した。仙人の言っている言葉の意味が、今一つつかめない。

口を開いたのはミチだった。

「つまり、たまきちゃんの絵がフィンセントって画家の絵に似てるってこと……」

「まったく似てない」

ミチが言い終わる前に仙人が打ち消した。

「画風もタッチも全く違う。そもそも、技術に雲泥の差がある。フィンセントはプロとしての確かな技術があった。お嬢ちゃんのは、せいぜい中学校の美術部員ってところだろう」

正解すぎてぐうの音も出ない。

「だが、フィンセントの絵があそこまで人を惹きつけるのは、単に技術力の問題ではあるまい。素人目には、絵なんてうまいか下手かの二択でしかない」

仙人はたまきを見据えながら続けた。

「そうではなく、フィンセントにはああいう風に世界が見えていた。あの絵は、写実画なんだ。フィンセントは自分が見たままの世界をそのまま描いたんだ。だからこそ、いまなお高い評価を受けている」

そう言うと、仙人はたまきにスケッチブックを返した。たまきは申し訳なさそうに受け取る。

「お嬢ちゃんにも、フィンセントのような感性と表現力がある。画力はこれからあげていけばいい。そんなものよりも大切なものを、お嬢ちゃんは持っている。画力なんて、お嬢ちゃんの見ている世界を描くための道具にすぎない。むしろ、お嬢ちゃんの見ている世界をきちんと表現するために、画力を上げるんだ」

たまきは、この上なく不安げに仙人を見た。そして、ずっと気になっていたことを仙人に尋ねた。

「あの……私は……褒められているんでしょうか……」

「ああ、そうとも」

再び仙人はやさしく微笑んだ。仙人のメガネに、たき火のオレンジの暖かな光が写りこんでいた。

 

そら豆のおじさんが庵の外を見た。さっきまで泣きたいぐらいにどしゃ降りだったのに、いつのまにか雨はしとしと降っていた。これなら、傘を差せば帰れそうだ。

「その傘はお嬢ちゃんにあげよう。その代り、またお嬢ちゃんの絵を見せてくれんかね?」

「え、……は、はい」

たまきは戸惑ったように答えた。

「ボウズにも傘をやろう。新曲ができたら聞かせに来るといい」

「……またぼろくそに言うんでしょ?」

「また切り貼りだったらそうなるな」

仙人はにやりと笑いながらそう言った。

 

小雨がしとしと降る中、都庁のわきの道を二人は駅に向かって歩いていた。紺色のコウモリ傘を差したミチ。その後ろを若草色の折り畳み傘を差したたまきがとことこと歩いている。

たまきは歩きながら、ミチの背中を見ていた。絞ってよれよれになったシャツに、黒いギターケースを担いでいる。

ふと、ミチの方が大きく下がった。

「……自信失くした」

その声に、たまきはうつむいた。ミチは少し歩調を落として、たまきが横に並ぶのを待った。

「いや、実力もねぇのに、自信ばっかあったんだな、って思い知らされたよ。悔しいけどさ、あのおっさんのゆうとーりなんだよ」

二人は地下道に入った。傘をたたむ。休日の夕方近くだからか、ゲリラ豪雨の後だからか、いつもに比べて人が少ない。

「だからさ、たまきちゃんに言ってたことも、たぶん、あのおっさんのゆうとーりなんだと思う。すごいよ、たまきちゃん」

ミチの言葉に、たまきはブンブンとかぶりを横に振った。力強く振ったので、メガネが少しずれる。

「……私の絵なんか、すごくなんかないです」

「……俺さ、絵心ないし、絵の良しあしなんかわかんないけどさ、たまきちゃんはやっぱうまいとおもうよ」

「……中学の美術部レベルです」

「独特で面白いと思うし。あのおっさんみたいに何がいいとか細かく言えないけどさ」

「……中学の先生に『不気味』って言われました」

そう言いながらも、たまきは仙人の言葉を一つ一つ、頭の中で反芻していた。

褒められるなんてだいぶ久しぶりだ。それこそ、「はじめて歩いた」とか「はじめて喋った」時以来かもしれない。つまり、褒められた記憶なんてほとんどない。

中学の美術部では、決してたまきは特別な存在ではなかった。突出した技術も才能もなく、入賞するようなこともなかった。

なのに、なんで美術部に入ったんだろう?

小学校のころは、休み時間は絵を描いていてやり過ごしていた。自由帳がたまきの唯一の友達だった。

そう、「絵」はたまきにとって友達だった。誰も友達がいない教室で、絵を描いて世界と対話することがたまきの唯一の救いだった。

その時間だけが、たまきの唯一の楽しみだった。

もっと記憶をさかのぼれば、幼いころの自分が見えた。父と母、そして姉。姉が美少女アニメのお人形で遊んでいる中、たまきはクレヨンでずっと絵を描いていた。動物の絵、町の絵、家族の絵……。ずっと、ずっと、ずうっと。

「……思い出しました」

たまきがそう言って立ち止まった。ミチは2,3歩進んだところでたまきがついてこないことに気付き、振り返った。

「……私、絵を描くことが、好きだったんです」

いたくもない教室での唯一の友達。たまきは絵を描くことで時間を押し流し、なんとか学校に通っていた。でも、たまきよりうまい人なんていっぱいいて、たまきの絵は誰からも褒められない。むしろ、不気味だと顔をしかめられた。いつしか自信を無くし、「絵を描くことが好き」、そんな当たり前のことを忘れてしまっていた。

でも、たまきは絵が好きだった。

絵をほめられたことよりも、そのことを思い出せたことの方がうれしかった。そのきっかけをくれた仙人に、心の中で頭を下げた。

「……今まで、好きでもないのに絵を描いてたの?」

ミチの質問に、たまきはこっくりとうなづいた。

「ずっと忘れてました。むしろ、自分の絵なんて嫌いでした」

そう言うと、たまきはカバンを胸の前でしっかりと抱き止めた。カバンからスケッチブックが飛び出ている。

「……でも、好きになってもいいのかも……」

そう言うとたまきは、少し恥ずかしそうに笑った。

その横で、ミチは大きくため息をつく。

「いいなぁ。たまきちゃんはあんなに褒められて」

人に羨ましがられるなんて、初めての経験だ。たまきは思わず下を向く。自分の鼓動が早くなっているのがわかる。

「それに比べて俺なんて……。なんか、死にたくなってきた」

「簡単にそんなこと言わないでください!」

たまきの珍しくも強い口調に、ミチは半歩後ずさった。

『えぇ~、たまきちゃんがそれ言う?』

と、

『……なんかたまきちゃんが言うと、説得力あるなぁ』

の二つの言葉が声帯のところでぶつかって、言葉にならない。

「……私は、ミチ君の歌は、うまいと思います」

「……ありがとう。でも、うまくても、歌詞が切り貼りなんだってさ……」

そこでまた、ミチは深くため息をつく。

ふと気づくと、またたまきがついてこなかった。ミチは振り返る。

たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、まっすぐにミチの目を見ていた。

「私は……好きです。ミチ君の、バカみたいに前向きで明るい歌が。聞いてる間、何も考えなくていいので、……私は好きです」

「それってさ……俺……、褒められてるの……?」

たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、ミチの目をまっすぐ見つめながら、力強くうなづいた。

 

「はい、どうぞ」

志保がプラスチックのカップに、インスタントのスープを入れてたまきに渡した。

生暖かい風の吹く外とは違い、「城(キャッスル)」の中は冷房が効いていて、たまきは帰ってきてすぐにくしゃみをした。ようやく服を着替えられたが、志保が「風邪ひくといけない」とスープを作ってくれた。たまきはそれをふうふうと冷まして飲む。

「へえ、あのおじさん、元気だったんだ」

「はい」

志保は、たまきがおじさんに再会した話に喜んだ。

「志保さんの言葉に励まされたって言ってました」

「ほんと? よかったぁ! 気になってたんだぁ。亜美ちゃん、あのおじさん、元気だったって!」

志保は部屋の奥でソファに転がっている亜美に声をかけたが、亜美は興味がないらしく、

「ふうん」

とだけ言って携帯電話をいじっていた。

たまきは1つだけ、気になっていることがあった。志保なら知っているかもしれない。

「志保さん、聞きたいことがあるんですけど……」

「なに?」

志保は笑顔で聞き返した。ここしばらく、志保は体調がいいらしい。本当に笑顔が似合う。

志保に聞こうとして、たまきは聞きたかったことの名前をちゃんと覚えていないことに気付いた。何て名前だっけ。

「志保さん、……ピンセットって画家知ってます?」

「ピンセット?」

なんか違う、そう思いながら口にしたのだが、志保の反応を見る限り、やっぱり違うみたいだ。

「……ピンセットじゃなかったかもしれません」

「ごめん。美術史はあんまり詳しくないんだ」

たまきは、必死に仙人の言葉を思い出していた。

「オランダの人で……、十九世紀の人だて言ってました」

それは思い出せるのに、何で名前は出てこないんだろう。志保も頭を悩ませている。

「その画家がどうかしたの?」

「今日あった人が、私の絵を見て、その画家のことを思い出したって……」

「これじゃね?」

そう言ったのは亜美だった。どうやら、携帯電話で検索をかけたらしい。

「十九世紀のオランダ人の画家で、似た名前の奴いたぞ。フィンセント・ファン……」

「あ」

たまきの中で、パズルのピースがピタリとはまった音がした。

「それです。ピンセットじゃなくて、フィンセントです」

「じゃあこれだ。フィンセント・ファン・ゴッホ」

「ゴッホ?」

驚きの声を上げたのは志保の方だった。たまきも自分の耳を疑った。

「ゴッホって、あのゴッホ?」

「じゃねぇの?」

亜美は携帯電話の画面を見せた。画質の荒い「ひまわり」が出てきた。

画面をスクロールさせると、いくつかゴッホの絵が出てきた。夜空を描いた絵、海辺を描いた絵、自分を描いた絵。

絵筆の後がはっきりとわかる荒々しいタッチだ。まるで、絵筆の痕跡をわざと刻み付けたかのようだ。それでいて、計算したのか直感で選んだのかはわからないが、色の配置が絶妙だ。

そうかと思えば、本を描いた絵は細かく写実的だった。

たまきは、仙人の言葉を思い出した。ゴッホは、そういう風に世界が見えていたんだ。

「たまきちゃん、ゴッホの絵に似てるって言われたの? すごいじゃん!」

「……いや、『思い出した』って言われただけで、全然似てはいないそうです」

「それでもすごいよ! ねえ、見せて見せて!」

「あ、うちも見たい!」

たまきは困ったようにスケッチブックを見た。たまきにとって絵を見られるということは、裸を見られるに等しいことで……。

……この二人なら、べつにいいか。一緒にお風呂に入る関係だ。

たまきは少し顔を赤らめながら、スケッチブックを差し出した。二人がスケッチブックを覗き込む。

「へぇ、たまきちゃん、絵、うまいじゃん」

と志保。

「おもしろい絵だな。なんかさ、Ⅴ系のジャケットでこういう絵ない?」

と亜美。

「そういえばさ」

と亜美が切り出した。

「ゴッホって最後、死んじゃったんじゃないっけ」

「……そりゃ、十九世紀の人だもん。もう、死んじゃったよ」

「そうじゃなくてさ……、確か最後……」

「ああ」

志保が何かを思い出したように声を上げた。

「ゴッホって最後、自殺しちゃうんだよね」

そう言ってからしばしの沈黙を置いて、志保はタブーを口にしてしまったのではないかと不安げな顔でたまきを見た。

しかし、たまきは平然とした顔で、

「そこだけ……似てますね」

と言うと、いとおしげにスケッチブックを見つめていた。


次回 第9話 憂鬱のち誕生日(仮)

亜美の誕生日を祝うことになったたまき。祝いたい気持ちはあるんだけど、何をしたらいいのかがわからない。志保は絵を描けばいいじゃないかと勧めるが、たまきの暗い絵は誕生日には向いていない……。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第7話 幸せの濃霧注意報

明日がいらない自殺志願の少女・たまきが一人で留守番をしていると、そこに合同が現れる。強盗に「殺してください」と頼むたまき。そこに帰ってきた亜美は強盗に飛び蹴りを浴びせる。「あしなれ」第7話はドタバタコメディ?


第6話 強盗注意報と自殺警報

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「お城みたい」

志保(しほ)はそうつぶやいた。

夕方ごろから始まった交通渋滞のせいで車はなかなか進まない。舞(まい)と志保は渋滞が解消されるまで、通り沿いのショッピングセンターで一休みすることにした。

買い物を一通り終え、喫茶店で一息つく。薄暗い照明の中で、志保はコーヒーを、舞は紅茶を飲んでいた。ふと、窓の向こうを見ると、土砂降りの向こうにビル群が見える。

都庁を中心とした高層ビル群。このビル群の日陰になるように、志保たちが暮らす繁華街が広がっている。

つやのある石のようなビルの群れだが、どこか志保に雄大さを感じさせるものがあった。

 

「ん?」

志保の言葉に、舞が聞き返した。

「いえ、お城みたいだなぁって思ったんです」

志保は窓の外を見ながら答えた。

「城ってどっちの?」

「え?」

舞の問いかけに、志保は眼を開いて、舞を見た。

「名古屋城とかのほうの城か?」

「あ、いえ、中世ヨーロッパのお城みたいだなって思ったんです」

志保は再び、ビル群の方を見た。

「ヨーロッパのお城って、王様や貴族だけじゃなくて、いろんな身分の人がいたんです。なんか、そういうところ似てません?」

「……そう言われれば、見えないこともないな」

舞が返した。窓の外は雨が降り続ける。

 

写真はイメージです

「これは……どういう状況……?」

「城(キャッスル)」に帰ってきた志保を出迎えたのは、何とも奇妙な光景だった。

最も目を引くのは、面識のないおじさんがビニールひもで縛られて、正座をさせられている、ということだろう。おじさんと向かい合うように亜美(あみ)が立ったまま彼を見下ろし、睨みつけている。その脇ではたまきが正座して、申し訳なさそうに見ている。

「このおっさんが逃げださねぇように、縛っといたんだよ」

亜美がおじさんをにらみながら、志保の方を少しだけ見ていった。

「でも……ビニールひも、痛そうですよ……。ほどいてあげませんか……」

たまきが少し心配そうに亜美を見上げながら言った。

「何言ってんよたまき! このおっさん、たまきのこと殺そうとしたんだぞ!」

「ええっ! ちょっと、それどういうこと?」

驚愕の真実に志保が驚く。そして、おじさんがあわてたように喋り出す。

「違います! その子を殺そうとしてたわけじゃ……」

「どう見たって殺そうとしてたじゃねぇかよ! じゃあ、あれか? おっさんの世代は、若い娘に刃物むけねぇと、コミュニケーションとれねぇってのか? あぁ?」

亜美が傍らに置いてあった包丁片手にがなる。亜美の方がよっぽど強盗っぽい。

「いや……その、確かに最初は殺そうとしたんですけど……」

おじさんは何て説明したらいいのかわからなくなってうつむく。実際、おじさんも自分の身に起きたこと、正確に言うと、目の前の少女が言い出したことがまだよく理解できていない。

おじさんはすがるような目でたまきを見た。たまきは、少し身を乗り出すと、亜美に言った。

「私がこのおじさんに殺してくださいって頼んだんです」

「ええっ!」

「はぁ?」

志保の何度目かの驚きの声と、亜美の呆れた声が「城」の店内に響く。

戸惑うのはおじさんも同じだ。なんだってこの子はそんなこと言いだしたのか。

だが、「アミ」という名の金髪の少女は、ため息をつくと、それですべて納得がいったかのような顔をした。

「……また、いつもの自殺願望か?」

「えっ、いつもこうなんですかこの子?」

おじさんが驚いて尋ねる。

「ああ、いつもこうなんだよ」

「あの……ちょっといい?」

志保が申し訳なさそうに手を挙げた。3人の視線が志保に集中する。

「……このおじさん……誰?」

一番重要な部分が、説明されないままに話が進んでいる。

亜美は身をかがめると、たまきに訪ねた。

「そういやこのおっさん、誰だ?」

「さあ、誰なんでしょうか……」

たまきが申し訳なさそうに答えた。

 

「お、財布はっけーん!」

亜美がおじさんのカバンから、黒い財布を取り出した。

「……亜美さん、その……、あんまり人のカバンとか財布とか見るのって、やっぱりよくないんじゃないかな……」

たまきが申し訳なさそうに言えば、志保も申し訳なさそうに

「あたしがこんなこと言う資格ないんだけどさ……」

と口を開く。

「亜美ちゃん、取っちゃだめだよ」

「とんねーよ! 今朝、わびいれて来たばっかじゃん」

亜美が笑いながら言った。

「ウチ、万引きとか中学で辞めてるから」

「昔やってたんだ……」

「そういえば、親の財布からお金取ってたって……」

「だから、それは罪になんねーんだってば」

亜美は笑顔でおじさんの財布を開ける。

「大体、金に困って強盗するようなおっさんの財布なんてあてにしてねぇし。」

そういうと亜美は、お札入れを指で広げた。中にはわずか3千円。小銭入れにも、わずかな硬貨しか入っていない。

「よし! 推理ゲームしようぜ」

「?」

亜美の提案に二人が首をかしげる。

「このおっさん無理やり脅して名前とか聞きだしてもつまんねーじゃん」

「つまんない以前に……、やっちゃいけないと思います……」

「だから、この財布やカバンの中身から、おっさんの身分とか推理するんだ。面白そうだろ」

「……だから亜美さん、あまり、人の財布覗いちゃだめですよ。……ねえ、志保さん?」

たまきが不安げに志保を見る。志保は、顔を少し赤らめ、申し訳なさそうに笑っていた。

「……ごめん、あたし、今、それ面白そうって思っちゃった」

「・・・・・・」

「よしっ、決まり」

そういうと亜美は財布のポケットから、プラスチックのカードを抜く。

「いきなり社員証とか出てくれば、一発でわかるんだけど、それじゃつまんねーよな~」

こういうのをまな板の鯉というのだろうか。おじさんは下を向いたまま黙っている。これだけおとなしい鯉なら、さぞかし料理しやすそうだ。

亜美は引いたカードを覗き込む。たまきがそれを見て口にする。

「なんですか、これ?」

たまきの言葉に亜美と志保が信じられない、といった目でたまきを見た。注目されることが苦手なたまきは思わず戸惑ってしまう。

「お前、定期券、知らないの?」

亜美の言葉で、たまきはやっとそれがなんなのか理解した。

「あ、これ、JRの定期券なんだ……」

「たまきちゃん、JR使わないんだ?」

「うちの近くの駅、私鉄だし……、私、あまり電車乗ったことないんで……。高校も行ってないから、乗るときはいつもキップだし……あんまり遠出したことなかったし……」

たまきが申し訳なさそうに下を向いた。

「でも、定期券じゃなんもわかんねーなぁ」

「そうでもないよ。ちょっと貸して」

志保が亜美の手から定期券を取った。定期券には、二つの駅名が描かれている。

「左に書いてあるのが、たぶん家の最寄り駅。右に書いてあるのが、勤め先とかの最寄駅だね」

志保は2,3秒考える。

「勤め先があるあたりは……、オフィス街だよ、東京のど真ん中の。一流企業とかあるところ」

「さすが東京人」

亜美が腕を組んで笑う。

「昔行ったことあるから」

志保が少しうつむいて答えた。しばし経って顔をあげると、再び定期券を目の前にかざす。

「家があるところは、まあ、普通の住宅地じゃない?」

「つまり、一流企業に勤める、普通のおっさんってところか」

亜美がおじさんを見下ろしながら言った。

「そいつが、会社をクビになって、金が必要になって強盗した、ってところだな」

亜美がにやりと笑い、志保がうなづく。

「うん、この定期、3カ月前に切れてる。」

「志保さん、探偵みたい」

たまきのつぶやきに、志保は少し照れた。

「さぁて、お次は何かなぁ?」

亜美は躊躇なく財布の中身をあさり始める。

「ん?」

亜美の指が薄い紙を探り当てた。亜美は写真をつまみ出した。

写真には、二人の少女が映っていた。1人は高校生くらいだろうか、茶色い長い髪でセーラー服を着ている。もう一人は中学生くらいで、黒い髪に弦の細いメガネ、学校の制服を着ている。

「お、このおっさん、ロリコンかよ」

「いや、普通に考えて、娘さんじゃない? この二人、顔だち似てるし、姉妹なんじゃないかな」

志保がおじさんを見やりながら言う。

たまきは写真を覗き込んだ。姉妹の妹の方が、少し自分に似ているような気がした。

「あのぅ」

か細い声でおじさんが言った。

「その……、警察だけは……」

「あ?」

亜美が聞き返す。

「警察だけは……、勘弁してください……」

「おっさん、なに、ムシのいいこと言ってんだ?」

亜美が呆れたようにおじさんを見る。

「人の金盗もうとして、警察はやめてくれなんて、おっさん、ふざけてんのか?」

「ごめんなさい……」

謝ったのは、おじさんではなく、志保だった。

おじさんは、じっとうつむいていたが、顔をあげると、少しだけ声を張り上げた。

「お願いします。本当に申し訳ないことをしました。謝ります。ですから、警察だけは勘弁してください」

「ごめんで済むならケーサツはいらねーんだよ!」

亜美の怒号が「城」の中に響いた。

「亜美ちゃん……、今朝と言ってること、違うよ……」

志保が亜美の背中越しにつぶやいた。

「あ? 今朝? ウチ、今朝なんか言ったっけ?」

「それにさ……」

志保が亜美の背中越しに続けた。

「警察ここに呼んで困るのは、あたしたちも一緒だよ」

亜美は、天井を見上げると、「城」の隅に移動した。

「たまき、志保、集合」

言われるままに、たまきと志保が亜美のもとへと移動する。亜美は、おじさんに背を向けると、小声で二人に話しかけた。

「どうする?」

「どうするって……さっきも言ったけど、ここに警察呼んで困るのは……」

「……私たちですよね」

三人は不安そうに顔を見合わせた。

「三人そろって不法占拠」

「私は家出中だから、警察が来たら家に帰されるかも……」

「あたしは、ドラッグで少年院行きかな……」

三人は再び顔を見合わせた。亜美が二人の肩を抱く。

「おい、このことは、絶対あのおっさんにばれたらだめだ」

「なんでですか?」

「なんでって、足元見られて、なめられるだろ?」

亜美の答えに、たまきはおじさんを見やった。うつむいたまま動かない。ビニールひもで縛られた姿は、荷物みたいで、なんだかかわいそうにも思えてきた。

ふと、おじさんと目があった。最初に、たまきに包丁を向けた時と、同じ目をしていた。

あの時、たまきは妙に冷静だったので、おじさんの目をはっきりと覚えていた。

今にして思うと、おじさんの目は、怯えたような目だった。

「亜美さん」

たまきは、亜美の方を見ると、心細そうに言った。

「あのおじさん、逃がしてあげませんか」

「そんな、捕まえた鈴虫じゃねぇんだから……」

そういうと、亜美は少し考えるように宙を見てから、言った。

「っつっても、ここに置いとくわけでも、ケーサツに突き出すわけにもいかねぇしな」

亜美はおじさんに近づき、しゃがみこんだ。

「おっさん」

「はい」

おじさんが上ずったか細い声で答える。

「うちらはジヒ深いから、おっさんを逃がしてやる」

「ありがとうございます」

おじさんは縛られたまま、深々と頭を下げる。

「逃がしてやる代わりに、なんで強盗なんかしたのか、その理由を教えろ」

その言葉に、おじさんはうつむいた。

「あの・・・・・・」

「なんだ?」

「自分、その、強盗に入ったわけじゃないんです……」

「あ?」

亜美が睨みつけると、おじさんはうつむいたまま続けた。

「……自分は、空き巣をするためにここに入ったわけで……」

「は?」

「包丁も、強盗するために買ったんじゃなくて……、お守りとして……」

その言葉に、たまきははっとした。たまきも、お守りとしてカッターナイフを持ち歩いているからだ。

いつでもどこでも、速やかにこの世からエスケープするために。

刹那、亜美が手に取った灰皿を思い切りテーブルに叩きつけ、空気を切り裂き破るような甲高い音が「城」の中にこだまする。たまきは背筋がびくっとなる。

「てめぇ、何ふざけたこと言ってんだ! 強盗するつもりはなかっただぁ? たまきに包丁突きつけてるところ、ウチは見てんだよ! たまき! お前、このおっさんになんて言われた!」

「お、お金を出さなきゃ、殺すって……」

「それみろ」

亜美が勝ち誇ったようにおじさんをにらむ。

「でも、そのあと殺してくださいって頼んだのは、私で……」

「そっから先はどーでもいいんだよ!」

亜美は今度は、志保の方を向いた。

「志保、このおっさん、強盗罪だろ! そうだろ!」

「……計画性はないけど、たまきちゃんに刃物向けて、お金出せって言っちゃったんなら、強盗未遂じゃない?」

「それみろ!」

「でも、その後たまきちゃん、自分から殺してくださいって」

「だから、そっから先はどーでもいいんだよ!」

そういうと、亜美はおじさんにぐいと顔を近づけた。

「とりあえずおっさん、なんで強盗したのかいえ。じゃねーと、この紐、ほどかねーぞ」

「警察に突き出すわけじゃないんだし、動機なんてそれこそどーでもいいんじゃないかな」

「どーでもよくねーよ。なんか、もやもやすんじゃん!」

亜美は、まったく論理的じゃない答えをした。

「要は、亜美ちゃんの楽しみのために、動機を言えってこと?」

「……そういう人なんです、亜美さんは」

たまきと志保はあきれたように顔を見合わせた。

おじさんは思いつめたようにうつむいたまま、話し始めた。

「……会社を、半年前にクビになったんです。」

「いや、それはわかってんだよ」

亜美が呆れたように言った。

「それで、半年ほど家にいて……就職活動したんですけど、見つからなくて」

「で?」

「家にいたら妻や娘たちに疎まれるようになってきて……、先月、家を出たんです。十万持って、ビジネスホテルとかを転々としてたんですけど、お金が底を突いて、それで……」

たまきは亜美の顔を見た。明らかに「ありきたりすぎてつまらん」といった顔をしている。

「あの……、亜美さん、おじさん逃がしてあげませんか……」

たまきはもう一度聞いてみた。亜美の答えはあっさりしたものだった。

「あ、いいよ」

もう、おじさんに興味を失ったらしい。

しかし、ビニールひもはきつく縛られ、結び目はほどけない。

「これつかったら?」

と、亜美がおじさんの包丁を差し出す。志保が驚いたように制する。

「いやいや、危ないでしょ」

「ちょっと待っててください」

たまきは自分のカバンから、黄色いカッターナイフを出した。それで、ビニールひもを1本1本こするように切っていく。

3分ほどかけて、おじさんは自由の身になった。おじさんの持ってきた刃物は危ないので、「城」においていくことになった。

「…ご迷惑をおかけしました」

ドアを背にそう言うと、おじさんは深く頭を下げた。

「これからどうするんですか? お金、ないんですよね?」

たまきの問いにおじさんは、

「さあ……」

と寂しそうに頭を振るだけだった。部屋の中にはかすかに雨音が響く。

たまきは、ドアの横の傘たてからビニール傘を引き抜くと、

「あの……」

とだけ言って、おじさんに差し出した。

おじさんは傘を受け取ると、

「ありがとうございます」

と、小さく頭を下げた。

 

写真はイメージです

おじさんが去り、「城」の中は何とも言えない静寂が漂う。夕飯を済ませ、テレビをつけると、あっという間に午後9時だ。

近所の銭湯は400円で入れる。銭湯と言っても、ビルの一角でそんなに広くない。いつも閑散としていて、ほとんど3人の貸切だ。

「あの……」

湯船の中からの、たまきのつぶやくような声もかすかに反響している。

「幸せってなんですか?」

髪を洗っていた志保と、体を洗っていた亜美が驚いてたまきを見る。

「いきなり、何言ってんだ、お前?」

「なんか、哲学的だね」

「わかんなくなっちゃって……」

風呂という完全無防備な場所で、同居人とはいえ、他人の視線を一気に集めてしまい、恥ずかしくなったたまきは湯船に身をうずめる。

「だって、あのおじさん、結婚して、子供もいて、それでも全然幸せそうじゃなくて……」

「会社クビになっちゃったからねー」

と志保が残念そうに言う。細い体に細い腕で、栗色の髪を泡立てている。

「でもさー、あのおっさん、家族いんだろ? 家族が支えりゃいーじゃん。うっとうしがって見捨てるとか、薄情じゃね?」

亜美がつやのある体を磨くように洗いながら言った。

「そうでもないよ」

そういったのは、志保だった。

「一番最初に裏切るのは、家族だよ」

志保は伏し目がちに言った。

たまきも、湯船の陰でこくりとうなづいた。

「あ~、でも」

と、亜美が浴室にこだまするように言った。

「ウチも、オヤジが仕事クビになって、ずっとうちにいたら『うっとうしいからどっかいけ!』って言っちゃうかもなぁ。おっさんの家族の気持ち、わかるよ」

「亜美ちゃんって、一貫性ないよね……」

志保が呆れたようにつぶやいた。そして、たまきを見ながら言った。

「たまきちゃんにとって、幸せって何?」

「え?」

頭の上にメガネを置いた、たまきの子猫のような目が大きく見開かれる。

「しあわせ・・・・・・?」

「ウチは、男と・・・・・・」

「亜美ちゃん、ちょっと黙ってて」

浴場の外にまで聞こえそうな亜美ののんきな声を、志保が制する。

たまきは困ったように志保を見ながら言った。

「……わかんない……です」

学校に行っても友達などいなく一人ぼっち、家に引きこもっても家族から疎まれ一人ぼっち。

どこに幸せがあるというのか。

「志保は?」

亜美が湯船に足を入れながら尋ねた。

「うーん、初めての彼氏と初めてデートしたのが、今までで一番幸せかな」

「はぁ~、リア充だねぇ」

亜美がたまきの隣にしゃがみ、お湯につかる。

「幸せだったんだはずなんだけどねぇ」

志保はどこか遠い目をして、そういった。細い右腕には、無数の針のあとが目立つ。

たまきは、湯船につかりながら考える。

恋人がいれば、友達がいれば、誰かに認めてもらえれば、幸せになれる。たまきは今まで、どこかでそんな風に考えていた。だから、誰からも認められない自分は、不幸せだ。

でも……、ちがうのかな。

たまきは、もう一度あのおじさんに会いたくなった。話が聞きたくなった。

 

写真はイメージです

都会の片隅に吹く雨上がりの風は生暖かくもあり、風呂上がりの3人には涼しくも感じられる。

繁華街の中に小さな公園があった。小さな神社と一緒になった、小さな公園。

公園の中に小さな岩がゴロゴロと転がっていて、その中に見覚えのある影が腰かけていた。

くすんだ背広に禿げ上がった頭。あのおじさんだった。

「亜美さん、志保さん、あれ……」

たまきはおじさんを指さした。

「ほんとだ、さっきのおじさんだ」

「ここで、一晩過ごすつもりですかね……」

たまきは心配そうにおじさんを見た後、亜美の方を向いた。

「亜美さん、あのおじさん、一晩だけでもウチに……」

「やだ」

亜美は振り向きもせずに答えた。

「なんで……」

「興味がない」

亜美は足を止めることなく答えた。

「普通のおっさんだろ」

「そうですけど……」

普通のおじさんだから……。

「冬なら泊めてもいいけど、今、夏だろ? 野宿したってしなねぇよ」

亜美はおじさんを一瞥することなく答える。

「あの……!」

たまきは少しだけ大きな声を出した。

「先に帰っててください」

「りょーかい」

亜美はたまきと志保を置いて雑踏の中に向かっていった。

志保はたまきをしばし見ていて、口を開いた。

「夜の一人歩きは危ないよ。たまきちゃんみたいな子には」

志保は、繁華街のネオンサインをちらりと見た。口を固く結ぶと、たまきの肩を軽くたたいた。

「あたしも付き合うよ」

たまきは、おじさんに歩み寄った。

「こんばんは……」

おじさんは、背筋をかがめてもそもそとコンビニ弁当を食べていた。たまきの呼びかけにおじさんが振り向く。

「君はさっきの……」

「……ここで一晩過ごすんですか」

おじさんは照れたように笑った。

「お金がないからね」

「……そのお弁当はどうしたんですか?」

「ゴミ捨て場で拾ったんだ。賞味期限が切れたばっかり見たいだからね」

おじさんは、まだ新鮮な鮭の切り身を口に入れた。

たまきはおじさんの右横の石に腰かけた。

おじさんはお弁当をわきに置くと、たまきに向き直った。

「私に、何か用かな」

二人の様子を、志保が少し離れたところで見ている。

「……おじさんは、一流企業に勤めてたんですか?」

「……自分で言うのもなんだけど、食品業界の最大手だったね。X食品って知ってる?」

なんか聞いたことがある気がする、とたまきは志保を見た。志保が口を開く。

「2年くらい前に、産地偽装で話題になったところじゃない?」

おじさんはゆっくりとうなづいた。

「牛肉の産地偽装でね、会社は窮地に追い込まれた」

深夜にぼんやりとしかテレビを見ないたまきはそんな事件知らないが、志保はニュースとかで見たことあるらしい。

「じゃあ、その事件に関わってクビに?」

志保の問いかけに、おじさんは首をむなしく振った。

「私は水産加工品の部署にいたんだ」

「じゃあ、関係ないじゃないですか」

たまきの質問に、またおじさんはむなしく首を振る。

「関係ないけど、同じ会社だからね。もちろん、実際に偽装に関わった社員たちは真っ先にクビになった。でも、一度信用を失った会社の業績は、戻らなかったんだ」

最後におじさんは、ぽつりと付け足した。

「人員整理ってやつさ」

「……おじさんは、大学を卒業したんですよね」

「ああ、そうだよ」

「……学校にちゃんと、行ってたんですよね」

たまきの質問に、おじさんはやさしく笑った。

「ははは。そんなの、当たり前じゃないか」

「……ですよね」

たまきが下を向く。

この人は普通のおじさんだ。当たり前のように学校に行って、当たり前のように卒業し、当たり前のように就職し、当たり前のように結婚して、当たり前のように子供育てて。

きっと、これからも当たり前のように幸せな人生を歩くはずだったのに……。

当たり前の人生を歩けば、幸せになれると思っていたのに……。

「でも、やっぱりおかしいですよ」

そういったのは志保だった。志保は難しそうな顔をしながら、たまきの右隣の石に腰かけた。

「おじさんは悪くないじゃないですか。食品偽装とは関係ないんでしょ?」

志保の問いかけに、おじさんはため息をついた。

「最初はそう思ったさ。妻も娘も言ってくれた。『お父さんは悪くない』って」

でもね、とおじさんは続けた。

「就職先が決まらず、半年ほどたつとだんだん家族から疎まれるようになってね……」

そこでおじさんは言葉を切った。

たまきはおじさんの顔を覗き込んだ。おじさんの目は赤みを帯び、うるんでいた。

おじさんはたった一言だけつぶやいた。

「さみしいなぁ……」

……たまきは、おじさんになにも声をかけられなかった。

なにを言えばいいんだろう。「強く生きてください」?

でも、私は人にそんなことを言えるほど、強く生きてなんかない。

今日だって、おじさんに殺してもらおうとした。

おじさんに、なんて声をかければいいんだろう。「頑張ってください」? 「負けちゃだめです」? 「生きてればいいことがあります」?

そんなきれいごとが、今までたまきの首を絞め続けてきた。

「学校行った方がいいよ」「世界には、学校に行きたくても行けない子もいるんだよ」「将来どうするの?」「みんな辛くても学校にちゃんと行ってるんだよ」

そんなこと、わざわざ言われなくてもわかってる。誰もが思いつきそうな言葉なんて、言われた方もとっくにわかってることなんだ。

たまきは、結局何も言えなかった。何も言えずに、たまきはおじさんの足元を見ていた。

おじさんの足元では群れからはぐれたのか、ありんこが一匹、ふらふらと歩いている。

「あの……」

そういって語り始めたのは志保だった。

「この辺で野宿するのは……危ないですよ。駅の地下道なら、ここよりも安全だと思います」

「駅の地下か……。確かに、そうだね。ありがとう」

「強く……生きてください」

たまきが言えなかった言葉を、志保はさらりと言った。

おじさんは、静かにうなづいた。お弁当の最後の日と口をほおりこむと、ゆっくりと立ち上がった。

「いろいろ、迷惑をおかけしました……」

おじさんはそういうと公園を去っていった。小さく丸まった背中が、ネオンの闇の中に消えていった。

たまきは、おじさんの背中が見えなくなるまで、見ていた。見送るでもなく、見ていた。

志保がポツリと言った言葉が、ふとたまきの耳に入った。

「おかしいよ、こんなの」

 

写真はイメージです

歓楽街の中は、まるで遊園地のようだ。

きらめくネオンサイン。

行き交う人々。

街中に流れるヒットソング。

ほとんど車も通らず、外界から隔絶された空間のようにも思える。

だけど、たまきはこの町が好きじゃない。

人ごみが苦手というのもあるし、行き交う人々がどこか楽しそうなのも嫌だ。

二人は、公園を離れ、帰路についていた。

曲がり角を曲がって、「城」のあるビルまで残り四十メートルほど。黒い空の下をネオンの看板が星のようにきらめいている。

ふと、志保がたまきの左手を、そっと握った。

「え?」

たまきは驚いて、少し背の高い志保を見上げる。

志保の手は、痩せていて、少し骨の感触もある。

志保は少しうつむいていた。

「なんであんなこと言っちゃったんだろう……」

「……さっきのことですか」

志保は力なくうなづいた。

「『強く生きて』なんて、自分が強く生きてなんかいないのに……」

そんなことない。そう言おうとして、たまきはやめた。

誰もが思いつきそうな言葉なんて、言われなくてもとっくにわかってる。

志保の「私は強く生きていない」は、そんな誰もが言いそうな言葉を心の中で何回も否定して生まれたんだ。

結局、私は、何も言えない。

無力だ。

生きてる価値がない。

消えちゃえばいいのに。

たまきが何も言えずにいると、志保が少しかすれた声で言った。

「……自分の偽善が嫌になる」

「……偽善ですか」

「だってさ、あたし……」

志保は、自嘲気味に笑った。

「犯罪者だよ?」

犯罪者。その言葉は、まるで志保とたまきの間に壁が生まれたかのように感じられた。

「さっきだってさ、たまきちゃんを一人で帰すのは危ないとか言っちゃってさ……、でも、一番危ないのは、あたしなんだよね」

「え?」

「……ネオン街、怖いんだ。ちょっと道外したら……、クスリあるから……。一人で帰ったら、あたし……、たぶんまた……」

志保の指先は少し震えていた。

 

たまきは、自分の姉のことを思い出していた。

2つ年の離れたたまきの姉は、志保に少し似ていた。たまきよりずっと勉強ができ、たまきよりずっと友達が多く、たまきよりずっとおしゃれで、たまきよりずっと笑顔が素敵な人だった。

幼いころのたまきは、お姉ちゃんが大好きだった。外出するときは、よく手を繋いでもらっていた。

でも、いつも最初に手を差し出すのは、たまきだった。お姉ちゃんは、しょうがないなと言いたげに手をつなぐ。

たまきはお姉ちゃんと手を繋ぎたかったけど、お姉ちゃんは少し面倒だったらしい。

 

たまきは、志保の軽い右腕を見て、その手をぎゅっと握った。1人じゃジュースも開けられない弱々しい握力だが、それでも、力いっぱいに。

志保はつながれた自分の右腕を見た。注射の針跡が生々しく残る右腕。

「……ありがとう」

志保は、少しかすれた声でつぶやいた。

「なんか最近、誰かに見られてる気もしてたんだけど、なんかほっとした」

志保の言葉に、たまきはくすりと笑った。

「志保さん、美人さんだから、みんな見ちゃうんですよ」

今度は志保がくすりと笑った。

「そうだといいんだけどね」

二人は歩き出した。

たまきは、志保の手を精一杯握りしめた。

こんな私でも、そばにいるだけで、手を握るだけで、誰かの力になれるんだったら、

こんなに幸せなことはない。

 

群れから外れた小さなありんこが二匹、それでもアスファルトの上を力強く歩いていた。


次回 第8話 ゲリラ豪雨と仙人

次回はずばり、「たまきはたまきのままでいいんだよ」そういうお話です。

「『お前さんには世界がこんな風に見えているのか』」

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」