絶対役に立つ、カルト宗教の嘘のみやぶり方

安倍さんの事件以降、カルト教団が話題になってます。

人をだましてたぶらかしていいように利用しよう、ってのは宗教だけじゃなくて、いわゆるねずみ講とか、マルチ商法とか、つまりは相手の思考力を奪って、お金を巻き上げよう、って輩ですね。

僕自身、マルチ商法の勧誘を受けたことがあります。その場で断って帰ったけど。

だって、話が長かったんだもん。5分で済む話を30分もかけてたんだぜ。

「すぐに本題に入らない奴の話は信用しない!」、これは僕の嘘を見破るポイントの一つです。

いきなり宗教だ商法だの話を始めると警戒されるから、まずはそれを隠して、「もっといい生活がしたいと思わないか!」「いまの自分を変えたいと思わないか!」みたいなところから入って、次第に本題へとシフトしていく。だから、話が長くなる。

人をだまそう、たぶらかそうとしてるやつは、そのためのワナを会話にちりばめるから、どうしても長くなるんです。長々としゃべってたけど、要約すれば半分以下の長さで済むんじゃないか、ってなった時は、じゃあ半分以上は何の話をしてるのかというと、相手をだますためのワナに時間を使っているわけです。

とまあ、こんな感じで、「話の内容」よりも「話し方」の方に警戒心を向けると、ウソは見破りやすし、カルトまがいに引っかかることも少なくなります。

実際、「話の内容」の方で矛盾を指摘して、ウソを見破って論破するっていうのは難しいんですよ。

ウソを内容から見破るには、かなりの知識が必要です。たとえば、「昨日のお昼は東京にいた」って言われても、「彼は昨日のお昼、大阪で目撃されている」と知っていればウソだとみ破れる。でも、そんな都合のいい情報を知ってることなんてそうそうないわけです。

「この薬にはこんな効果があります」「ウソだ! その薬に使われている○○という成分にそんな効果はない!」とできればかっこいいけど、ふつうは「〇〇なんて物質、聞いたことはあるけどよく知らない」なんて感じです。

内容からウソを見破ろうと思ったら、知識がいくつあったって足りない。

だから、相手の話し方から見破るんです。

人って面白いもので、言葉だったらどんなウソでもつけるけど、話し方やしぐさ・態度はウソをつけない。すくなくとも、言葉に比べるとかなり正直です。

さっきの「すぐに本題に入らない」「やたらと話が長い」もそう。

ほかにも、「イエスかノーで答えられる質問を、イエス/ノーで答えない」というのもあります。これまたやっぱり相手に自分の言うことを何とか信じさせようとあれこれ言葉を足していくから、イエス/ノーという淡泊な答え方ができないんですね。

なかには、話してる本人もそれがホントだと信じ込んでいて、だまそうというつもりが全くないからウソのサインが出ない、って場合もあります。そんな時、僕は過剰な「陶酔」「敵意」「分断」に注目しています。それこそカルトなんて教祖・教団・教義への「陶酔」「敵意」「分断」の典型です。相手の言葉の内容よりも、「陶酔」「敵意」「分断」が含まれていないかの方に注意して耳を傾けます。

あとは、しぐさからウソを見破る。よくあるパターンとしては、

唇をなめる(ウソをつくとのどが渇く)

顔を触る(嘘をつくと汗をかくのでかゆくなる)

やたらと身振りが大きい(相手に話を信じ込ませようとする結果、身振りが大きくなる)

姿勢が傾いている(嘘をついているので、この場から早く離れたいという表れで姿勢が傾く)

手や腕を組む(防御姿勢、内面を見透かされたら困るという表れ)

この辺の合わせ技でも、ウソを見破れます。しぐさは、言葉よりもはるかに正直です。

「口をなめる」なんてのは、マスクをしてしまえばバレません。逆に言うと、「なにかの会見でマスクをしてるやつ」はもうそれだけで信用できません。「あ、口元見られたくないんだな」と。

先日の旧統一教会の会見では、幹部の人が唇をぺろぺろ舐めていたから、「あ、この人たち、真っ黒だ」と判断しましたとさ。

とにかく、その場でウソだとはっきり見抜けなくても、「ウソのサイン」があったら絶対に信じない、警戒心を解くことなく、話半分で聞くべきです。

泣き声を聞いただけで虐待を疑って児童相談所に通報した結果……

児童虐待の問題が連日ワイドショーをにぎわせている。学校や教育委員会、児童相談所の対応も問題になっている。だが、児童相談所ばかり責める前に、ふと考えてみたい。虐待に対して、自分は何ができるんだろう、と。何もできることはないかもしれないが、「通報すること」が何かのきっかけになるのではないかと思い、自分の通報体験談を書くことにした。

 

児童相談所に通報した結果

「素人が虐待問題と向き合うにはどうすればいいんだろう」と考えた結果、「通報することなのではないか」という結論に行き着いた。

むしろ、通報することぐらいしかできないのではないか。

そして、実は僕は児童相談所に通報した経験がある。

児童相談所に通報するとはどういうことなのか。

通報した結果どうなるのか。

通報にデメリットはないのか。

そのことを経験者として書くことが、物書きとしての僕なりの「虐待への向き合い方」なのではないか、と思い、今回筆を執った次第だ。

というわけで、僕の体験談を話そう。

ある昼下がり、家でのんびりしていると、どこからか男の子の泣き声が聞こえてきた。

「ああ、子供が泣いているなぁ」と思ったものの、子供は泣くものだし、と気にも留めなかった。

驚いたのはその子供が泣きながら親に助けや赦しを求めたときである。

ええ、これは尋常じゃないぞ⁉ と驚きつつ、窓を開けて声の出所を探す。だが、我が家は集合住宅。「かなり近い」ということしかわからず、具体的に何階の何号室かなんてさっぱりわからない。隣のアパートかもしれない。

そのうちに泣き声はやんでしまった。「今のってもしかして虐待じゃ……通報したほうがいいのでは?」と思いつつも、「もし違ってたら、相手の家に迷惑をかけることになるし、児童相談所だってそんな暇じゃないだろうし……」と通報するのをためらって、結局何もしなかった。

「いや、その時に通報しろよ! 何ためらってんだよ!」と言われれば、言い訳のしようもない。

そして、二、三日したある日の朝。

まったく同じことがもう一度起きた。

男の子の泣き声に始まり、数日前と全く同じセリフを泣き叫ぶ。

いくら何でも二回目はさすがにアウトだ! と思った僕は、意を決して児童相談所に通報することにした。

……が、相変わらず、どこの家から聞こえてくるのかがわからない。家の外に出て場所を確かめてやろう、と思ったが、靴を履いているうちに泣き声がやんでしまった。

これではどこの家から声が聞こえてきたのかはわからない。このまま通報しても「うちの近所から泣き声が聞こえたんです。いえ、どの家かはわからないんですけど、とりあえずうちの近所です」というクソあいまいな情報しか伝えられない。

そんなクソあいまいな情報だけ通報しても、児童相談所も迷惑なんじゃなかろうか。「その程度で通報すんじゃねぇ! こっちは忙しいんだ!」と怒られるのではないだろうか。

だが、そうやって「通報しない言い訳」を重ねる自分がみっともなくなってきた。何より、男の子の尋常じゃない、泣きながら助けを求める声が頭から離れない。

もしこれを放置して、数日後に「うちの近所の○○君が虐待の末に死亡!」なんてニュースが流れた日には、悔やんでも悔やみきれない。メシものどを通るまい。

あれだけはっきり聞こえたのだから、僕以外にも近所の人が通報しているかもしれない。情報一つ一つはあいまいでも、いくつかの通報をつなぎ合わせれば、家を特定できるかもしれない。

もし、通報して児童相談所から「その程度の情報じゃどうしようもありませんね。その程度でいちいち通報しないでください」と言われても、僕が怒られれば済む話だ。

意を決して、今度こそ意を決して、児童相談所に通報した。

なんのことはない。自分が後悔したくないから通報しただけである。

電話口には若い女性の相談員さんが出た。僕は自分が見聞きしたことと、実際には何が起きているかもどこから声が聞こえたかもわからないことを伝えた。

だが、情報があいまいだからと怒られることもなく、むしろかなりいろいろ細かく聞かれた。何歳ぐらいの子供だったとか、どのあたりから聞こえたのか。

「いや、姿を見たわけじゃないんで、何歳ぐらいかと言われても、僕の想像でしかないんですけど……」と断りを入れても、「それでもかまいませんので」とのことだったので、「声を聴いた感じからすると……」と情報を伝えた。

そうして一通り自分の知っていることを話し、「もしかしたらまた連絡するかもしれません」と言われ、「ええ、かまいませんよ」と言って電話を切った。

3時間ほどして、再び電話がかかってきた。「もう少し詳しい話を聞かせてほしい」とのことだった。「ですよねー。あの程度の情報じゃどうしようもありませんよねー」と思いつつも、「これ以上知ってることないですよ」と思いつつも、何かの力になれれば、と児童相談所からの質問に答えた。

その時の印象を言えば、非常に丁寧な対応をしてもらえたため、好感を抱いている。

その後、児童相談所から連絡が来ることはなかったし、我が家の近所で虐待事件があったという話も聞いていない。あの子の泣き叫ぶ声も聞いていない。虐待ではなかったのかもしれないし、あの情報では家を特定できなかったのかもしれない。

じゃあ、通報に意味はなかったのかというと、そんなことはない。

通報をしたおかげで、僕の心のもやもやはなくなった。とりあえず、現状できることはやったわけなのだから。

「お前の心のもやもやなんかどうでもいいんだよ!」としかられそうだが、さっきも書いたとおり、最初から「自分が後悔しないため」にやったのであって、結果自分が後悔しなかったのであれば、それで目的は果たせている。

おまけに、「児童相談所に通報する」という経験が手に入った。そして、「超あいまいな情報でも、怒られることはない」ということもわかった。

だから、ほったらかしにして心がもやもやするくらいなら、通報して楽になればいいと思うし、逆に言うと、どれだけ気張っても通報することしかできない。

その時、できることがあるのなら、できることのすべてをやるべきだ。自分が後悔しないために。

児童相談所に通報するのは迷惑なことなのか

さあ、みんな、後悔しないために、怖がらずに児童相談所にどんどん通報しよう!

……とは簡単にはいかないのがこの世の中の常のようだ。

調べてみると、「泣き声を聞いた」だけで通報することを「泣き声通報」と呼ぶらしい。わざわざ名前が付くあたり、こういった通報は多いのだろう。

一方で、こんな記事も見つかった。

「泣き声通報」と児童相談所の訪問が招いた家庭崩壊の悲劇

ある日突然、「虐待」で通報された親子のトラウマ

これらの記事は「虐待なんてしていないのに、虐待を疑われて通報された結果、家庭がめちゃくちゃになった」という内容で、「不用意な通報はしないように」「大事でないなら通報しないように」という結論を暗にほのめかしているように思える。

こういう記事を読むと、「泣き声を聞いた程度で通報しちゃいけないんじゃないか」なんて気にもなってしまう。

だが、これらに記事にはいくつか問題点もある。

二つの記事はいずれも「虐待なんかしていないのに通報された」とされている。

……本当にそうなのだろうか。

もしこの記事に出てくる親が本当に虐待をしていた場合、二つのパターンが考えられる。

パターン1 「虐待していない」と嘘をつく

仮に本当は虐待をしていたとして、「まあ、ぶっちゃけ、本当に虐待してたんですけどね」と正直に答える親がどれだけいるだろうか。

野田市の事件では、父親が虐待の事実を認めなかったという。上の2つの記事の、本当は虐待していたのに正直に言っていない可能性がある。

だが、記事を読む限り、僕は次のパターンのほうが可能性は高そうな気がする。

パターン2 「虐待をしている」という認識がない

暴力をふるってはいたけど、あくまでもしつけの範囲内。そう考えていたら、「虐待をしている」という認識は生まれない。

また、「虐待とは子供に暴力をふるうことのみを指す」と思い込んでいる場合もある。

虐待とは必ずしも子供に暴力をふるうだけではない。子供を精神的に傷つけることも虐待だし、子供を放置・無視することも虐待だ。

だが、「虐待=暴力のみ」と思っていれば、このような「目に見えづらい虐待」をしていても、「虐待をしている」という認識が生まれない可能性がある。

「虐待していないのに、虐待を疑われた」というセリフの信ぴょう性は、意外と薄い。

よしんば、本当に全く虐待をしていないのに虐待を疑われたとして、その後の児童相談所の対応によって不利益が生じたとして、

それは、通報した者の責任なのだろうか。

たとえば、夜中に悲鳴を聞いて警察に通報したとしよう。ところが、警察の捜査がずさんで、冤罪事件を生み出してしまった。

これは、通報した者の責任なのだろうか。ずさんな捜査をした警察の責任であって、通報者に責任はないのではないだろうか(ただし、通報者が虚偽の通報をしていなければ、という前提だが)

そもそも聞いた悲鳴が実はテレビのドラマだったとしたら? 勘違いした通報者にも責任はありそうだが、「悲鳴を聞いた」と正直に通報しただけで、それが通報者の勘違いだと見抜けなかった警察がやはり責任を持つべきだろう。

嘘の通報でもしない限り、通報者が責任を持つ理由などない。

通報した後に起きる問題は、すべて対応に当たった児童相談所の問題のはずだ。児童相談所が、理不尽な対応をしないように改善していくべきであって、「通報するかしないか」で悩む必要など全くない。

ところが、上記の記事の中に出てくる「自称・虐待を疑われたかわいそうな」夫婦はあろうことか「誰が通報したのか」と犯人探しを始める。いじめを先生にチクられて、チクったいじめられっ子をシメるいじめっ子と発想が一緒である。

誰が通報したのか、と言えばこう答えるほかあるまい。

お宅のお子さんだよ、と。

「泣き声通報」の本当の通報者は、泣いている子供本人である。

暴力を振るわれたか、性的虐待を受けたか、精神的苦痛を受けたか、育児放棄をされたか、とにかくその子供にとって「耐えられないこと」があったから、あらん限りの声で泣き叫んだ。助けを求めた。赦しを乞うた。

そして、親はそれを受け止めなかった。

その代わり、近所の人が子供からの「通報」を耳にして、児童相談所に届けた。それだけの話である。

泣き声通報の真の通報者は、ほかでもない、子供本人なのだ。

子供の泣き声を聞いた側も「これは尋常ではない」、そう思ったから、通報したのだ。

そう思わなければ、通報なんてしない。

なぜなら、虐待の相手は近所の人間である。万が一通報したのが自分だとばれたら、どんなご近所トラブルになるかわかりやしない。できれば、厄介ごとにはかかわりたくない。そう思うのが普通ではないだろうか。

それでも、通報せざるを得なかった。それはその人の「これは尋常ではない」というレベルに引っかかるほどの泣き声だったから。

尋常じゃないくらいボリュームがデカかったのかもしれない。尋常じゃないくらい長時間だったのかもしれない。「痛い」や「助けて」「やめて」「赦して」といった、虐待を連想させる言葉を言っていたのかもしれない。

そもそも、この2つの記事の事例はいずれも、複数の通報があって動いている。たった一人のうっかりさんが勘違いで通報したのではない。複数の人間が「これは尋常じゃない」と思って通報したのだ。それを本人たちだけが「虐待じゃない」と言い張っているだけである。何をもって信用しろというのだ。

こういった「当人の言い分」だけを信用して、「安易な通報はしない方がいい」などという記事を書くことは、虐待の片棒を担ぐどころか、担いだ棒を罪のない子供に向けて打ち下ろすような行為である。

安易に「通報しない方がいい」なんて言わない方がいい。

通報することを悩む必要なんて全くない。そもそも、虐待の通告は国民の義務だ。

みっともない言い訳を積み重ねて後悔をするのはほかでもない、あなただ。

尋常じゃない泣き声を聞いた。虐待かもしれないし、勘違いかもしれない。

だが、唯一できることは通報することだけだ。逆に言えば、通報することしか僕たちはできない。

そして、通報しなければ何も始まらない。

どんなに優秀な児童相談所だって、通報がなければ虐待を発見することができないのだ。通報がなければ何もできないのだ。

虐待だと確信が持てないのなら、通報時に正直にそういえばいい。

あいまいな情報しかないのなら、通報時に正直にそういえばいい。

知っていること、知らないこと、聞いたこと、見たこと、想像でしかないこと、すべてを正直に話せば、何も恥じることなんてない。

逆に、通報時に嘘をついたり、想像でしかない部分をさも見てきたように言うと、トラブルとなった時、通報した者の責任になってしまう。正直に、とにかく正直に話すことが大切だ。

いくつか、児童相談所への通報に対して面白い記事のリンクを張る。特に、「反貧困」で知られる活動家の湯浅誠さんの体験記が面白い。僕と同じような事例で、同じように「こんな程度で通報していいのか?」と葛藤している。

児童虐待 はじめての189通報とその後に起こること

近所の家から子どもの激しい泣き声が。これって虐待…? 通報していいの?

すべての子どもを救うだけの枠組みは既にあるのだ。あとはそこに勤めるもの、そして、僕ら一人一人がどれだけ一つの命に向き合えるかである。どれだけシステムがしっかりしていても、どれだけ児童相談所の人たちが頑張っていても、僕ら一人一人が一つ一つの命と向き合うことをおろそかにしていたら、だれ一人救えやしない。

最後に、僕の好きな漫画のセリフを引用して、締めくくりとしよう。

子供に泣いて助けてって言われたら!!! もう背中向けられないじゃない!!!!(ONE PIECE 第658話より)


2020/3/22追記

千葉県野田市で起きた虐待事件の第一審の判決が出た。懲役16年の実刑判決。虐待事件の判決としては極めて重い。

判決文では被告である父親を厳しく断罪しつつも、彼もまた子育ての中で孤立していたのではないかと指摘していた。

この記事に対するコメントの中でもまれに、子育てをしている親の孤立が垣間見れることがある。

周囲のだれにも悩みを語れない。どうしたらいいのかわからない。誰に相談したらいいのかわからない。

そういった方は是非、自分から児童相談所に相談してほしい。

本来、児童相談所とは魔女狩りのように虐待を通報する場所ではない。ましてや、虐待を取り締まる場所でもない。

地域の子育てを支援し、子育ての悩みに対する相談に応じる場所、それが本来の児童相談所の役割である。

また、児童相談所以外でも、各自治体で様々な子育て支援を行っている。児童相談所以外にも子育ての相談に応じてくれる施設もある。

ぜひ、そういった施設や支援を活用してほしい。

もしかしたら、ヘンにプライドが邪魔して、そういった場所に自分から相談しに行くのはなかなか難しいかもしれない。

だが、本来の子育てとは親だけでなく、親せきや地域で行うものだ。親だけに、ともすれば片親だけに重責がのしかかることの多い現代社会の方が、長い歴史の中では異常なのだ。

誰にも相談せずに、誰にも頼らずに、親だけで子育てするというのは、俗な言葉であるが「無理ゲー」なのだ。

助けてほしい時に堂々と助けを求めることができるということ、それは弱さではない。本当に大切なもののためにプライドを捨てられるのは、その人の強さである。

どうか、誰かに通報されるような事態に発展してしまう前に、自分から勇気をもって相談してみてほしい。

知識はあるけど知性がない、そんなやつを「知識デブ」と呼べ!

知識を自慢したがる人が多い。知識をひけらかし、自分より知識の少ないものを馬鹿にする、そんな人を、特にネット上でよく見かける。しかし、どんな知識もググればすぐに手に入る現代において、知識はそんなに価値がのだろうか。知識だけにかまけて、知性を磨くことをおろそかにしていないだろうか。


知識はあるけど、本質を見通せない人

過去に、このブログのコメント欄にこんな書き込みがあった。「どの記事か」を書いてしまうと、もはや名誉棄損になってしまうので、どの記事かは書かない。

僕の記事に対して、「前提が間違っている」「見当違い」というコメントだった。どうも僕が話題にしたことの専門家、専門の業者の方らしく、「なんでそんなこと詳しいの?」というくらい詳しかった。

批判は真摯に聞くとして、一方でこんな思いが沸き上がってきた。

確かに、僕の記事は前提が間違っていたのかもしれない。

……だから何だというのだろう。

前提に多少の間違いがあったとしても、結論は一緒ではないだろうか。結論部は変わらないのではないだろうか。

僕の前提が正しかったとしても、相手の前提が正しかったとしても、根本の部分は共通していて、結論部は変わらないはずなのだ。

そこのところ、むこうはどう思うのだろう、と考えて、「ずいぶんお詳しいですね。〇〇の原因などについてぜひ、詳しいお話をお聞かせください。」と返信した。「〇〇の原因」こそがズバリ、「結論部」にあたる箇所だ。

すると返事が返ってきた。「ずいぶんとお詳しいですね」という社交辞令に気をよくしたのか、長々と8行に渡って、最初の話題と「似たような事例」がつらつらと書かれている。

……あなたがその話題に詳しいことはわかったけど、僕は「似たような事例」を教えてくれなんて一言も言ってないんだよ。「〇〇の原因」についてどう思うかと聞いているんだよ。僕の導き出した結論と、あなたの思う結論が一緒なのかどうかを知りたいんだよ。

その肝心の部分に関してはたった一言、「〇〇が有名ですが、そこに答えがあるかと思います。」

その答えをあなたがどう考えているかを聞いてるんだよ! 「ここにあるかと思います」じゃなくて。

結局、この人は知識ばっかり豊富だが、「その知識がどのような結論を導き出すのか」「その知識でどうやって問題を解決するか」が全く見えていなかったのだ。

僕が気にしていたのは「前提がずれたら結論もずれるのか?」、その1点である。結論がずれないのであれば、多少の前提のずれは正直な話、どうでもいい。そして僕の考えは、「前提が多少ずれたところで、その根本の部分外れないのだから、結論はずれない」である。僕は相手に、前提がずれたら結論は変わるのか、変わらないのか、どう思うのか、むこうの意見を聞きたかったのだが、相手は全く関係ない知識を並べ立てたあげく、「そこに答えがあるかと思います。」=「私には答えがわかりません」と煙に巻いただけだった。

このように、「知識はあるのに、本質を見通す力のない人」を、僕は「知識デブ」と呼んでいる。必要以上にため込んだ知識が、かえって知性を圧迫している。

 知識はあるけど、教えない

SNSなんかを見ていると、政治問題に関してちょっと間違ったことを言うと、何か罪でも犯したかのように批判が集まる。やれ、バカだのアホだの、勉強してから発言しろだの、人格否定の集中砲火だ。

間違った知識をただすことはよいことだ。間違った知識をSNSに書いて、誰かがそれを信じて、それが広まるのはよくない。

だが、同時にこうも思う。

罵倒する必要なんて全くない、と。

ある程度強い言葉や皮肉を言わなければ伝わらない場合もある。だが、人格否定レベルの罵倒する必要などあるまい。

相手の知識が間違っている、そう思ったら、正しい知識を教えてあげればいいのだ。それこそが、知識を持つ者の責務ではないだろうか。

「教える」というのは、知識があるだけではできない。知性を必要とするものだ。「相手が何を理解していないのか」「何がわかっていないのか」「どう説明すればいいのか」に思いをはせる。これは知識ではなく知性が必要だ。相手の知識・知的レベルを推し量り、思いをはせることが重要だ。

だから、勉強ができる人=いい先生、とは限らない。「知識が豊富である」と「教えるのがうまい」のはまた別なのだ。

知識のない人を罵倒する人を見ると、教えるだけの知性がないのではないか、と思ってしまう。

教えることで有名な人に、池上彰さんがいる。例えば池上さんに、「どうしてアメリカと北朝鮮は仲が悪いんですか?」と質問したとしよう。ここで池上さんが「そんな簡単なことも知らないのか、バカ! 勉強してから発言しろ!」と言った日には、彼の仕事はなくなる。絶対にそんなことは言わないからこそ、池上さんの話は人気なのだ。

そういった初歩的な質問を投げかけられた時、池上さんはこういう。

「いい質問ですねぇ」

そういわれると、質問した側も悪い気はしない。「なんだ、バカみたいな質問でも、臆することなく言っていいんだ」とどんどん質問して、議論は活発化し、どんどん話は深まる。知識も深まる。

これが知性である。どうすれば相手が気持ちよく学習できるかに頭を働かせるのだ。それができない人が、知識のない人を「勉強しろバカ!」と罵倒する。ただ、自分の知識を自慢したいだけである。

これまた、知識デブである。知識ばっかり肥えて、教えるだけの知性が身についていない。

知識デブの知識自慢だなんて、デブの体重自慢のようなものだ。見苦しいことこの上ない。

ちなみに、なぜアメリカと北朝鮮は仲が悪いのか、の答えであるが、

興味がないから知らない。

知的メタボリックについて

「知識のある人」ならばもしかしたら、「知的デブ」が僕のオリジナルの言葉ではないことに気付いていたかもしれない。

「知識デブ」というのは、外山滋比古が提唱している「知的メタボリック」の言いかえである。「知的メタボリック」よりも「知識デブ」の方が、ことの危険性をより分かりやすく伝えられると思って、言い換えてみた。

だが、外山氏の「知的メタボリック」という言葉も、なかなか的を得た言い方だ。過剰な内臓脂肪が内臓や血管を圧迫して健康を害するように、過剰にため込んだ知識が却って知性を損なっている、というのが外山氏の言う「知識メタボリック」の本質だ。

知識があれば思考で苦労することがない。思考の肩代わりをする知識が多くなればなるほど思考は少なくてすむ道理になる。その結果、ものを多く知っている人は一般に思考力がうまく発達しないという困ったことが起こる。(『忘却の整理学」より)

外山氏は大学で教鞭をとっているなかで、日ごろよく勉強をしている学生の卒論よりも、あまり勤勉でない学生の卒論の方がしばしば面白い、ということに気付き、「知識が知性を邪魔しているのではないか」と考えるようになった。

外山氏の論はあくまでも「エッセイ」であり、学術的なものではない。が、知識があるのに知性がない知識デブが多いのは、検証したとおりである。知識の量ばっかりありがたがって、知性を磨くことをおおろそかにしたあげく、本質を見通すことも、他者に教えることもできずに、知識自慢しかできない残念な物知りで終わってしまう。「馬鹿の一つ覚え」とはよく言ったものだ。

いかに優れた名刀を持っていようと、それを握った人間に剣術の心得がなければ意味がないのと一緒である。

そもそも、今や何でも「ググれば一発」の時代である。物知りよりも「検索の早い人」の方が重宝される時代に、物知りであると自慢するなんて、それこそ知性がない証のようなものだ。一方、検索は「どうすれば目的の知識を引き出せるか」と頭を働かせることであり、検索の旨い人というのは、知性がある人だ。

たとえば、以前ラジオのクイズで「丸の内線の駅で、東京と霞が関の間にあるのは何駅だ」という問題が出た。

このクイズの面白いところは「検索クイズ」と言って、パソコンやスマートフォンで検索してもいい、むしろ、検索の早さを競い合う、という趣旨だった。

知性のない人は「東京と霞が関の間」と検索してしまう。ちなみに、これだと乗換案内が出てきてしまう。

知性のある人はここで、「丸の内線 路線図」と検索する。

路線図を出したら、あとは東京駅と霞が関を目で探す。東京の地理がだいたいわかっていれば、路線図のどの辺を探せばいいのかの見当はつく。

知性とは、こういうことだ。別に「答えは銀座駅だ!」と知らなくても、知性をもって正しい答えを導き出せる。

もちろん、知識は0では困る。だが、過剰な知識は知性を損なう。この辺も脂肪とよく似ている。つくづく、外山氏の知性に驚かされる。

まとめ

以前、友人からこんな話を聞いた。

ある学生が、「ググれば何でも調べられる時代なのに、どうして勉強しなければいけないのか」と先生に質問した。

先生は「知識を使えるようにしないと意味がないから」と答えたそうだ。

この「知識を使う」ということが知性の役目なのではないだろうか。

思えば、知識を活用して結論を導き出すことも、知識をわかりやすく他人に教えることも、「知識を使う」ということであり、その「知識の使い方」こそが知性なのかもしれない。

知識はあるけどその使い方を、燃焼の仕方を知らず、知識ばかりが無駄に肥大化し、知性を圧迫している。そんな知識デブは確実に存在する。

使い方を知らないから、せっかくの知識もただの自慢や、他人の罵倒ぐらいしかできることがない。知識が泣いている。

そんな知識デブは、あなたのすぐそばにいるのかもしれない。

いや、あなた自身が、知識に肥え太った、知識デブなのかもしれない……。

「やりたいことができない人」はダメ人間なのか?

「やりたいことがあったら、できない言い訳などせずに、やろう!」みたいな論調をよく自己啓発本とかで見る。まるで、やりたいことができない人間はダメ人間である、とでも言いたげである。しかし、本当にそうなのだろうか。「やりたいけどできない」の裏には、その人にとって何か大切なものが隠れているんじゃないだろうか。それを無視して、簡単に排除していいのだろうか。

やりたいことをやろう!

人生は、やりたいことをやるべきである。

なるべくやりたくないことを排除し、やりたいことをやる。

「やりたくないこと」を排除していくと、ストレスがなくなる。

ストレスがなくなるとストレスに対する許容量が増える。余裕が生まれる。

その結果、ちょっとくらいのストレスが気にならなくなる。

たとえば、駅に行ったら人身事故で電車が止まってる。いつ帰れるかわからない。これは結構なストレスだ。ほかの客の舌打ちなんかも聞こえてくる。日ごろからストレスの多い生活を送っていると、もうストレスの許容量がなくなり、結果「電車が止まってる」というストレスに耐えきれずに、いらいらする。ひどい人は駅員にあたる。

だが、ストレスの少ない生活をしていると、ストレスを受け入れる容量がまだたくさんあるので、「まあ、これくらいいいか」で済ますことができる。

こういったことは自分の身で実証済みだ。

人生は、やりたくないことを減らして、やりたいことをバンバンやるべきである。

だから、「やりたいけどできない」というのはよくない。「できない言い訳」は勇気を出してつぶし、やりたいことをばんばんやるべきだ!

……という論調が世の中多い。

実際、「やりたいこと できない」で検索をかけると、そういった論調が多い。

「世の中には、やりたいことをやる人と、やりたいことができない人がいる。お金がない、時間がない、自信がない、そういった理由でやりたいことにブレーキをかけている。でも、それはよくない! やりたいことをやって、人生を豊かにしよう!」

今回は、こういった論調に疑問を呈していきたい。

「くだらない理由」の裏にある大切なもの

以前、こんなことがあった。

友達に地球一周の旅の話をしていた。

一応言っておくと、自分から「オレの旅の話を聞きたいだろ?」と切り出したのではない。むこうから話してくれと言われて話しているのだ。

話し終えるとみんな「いいなぁ」と言う。

なので僕が「だったら行けばいいじゃん。何なら、スタッフとか紹介するよ」というと、友人の人がこう言った。

「履歴書に穴が開くと、社会にカムバックできなくなる」

なんだそのくだらねぇ理由、と正直その時は思った(口に出してはいない)。そんなくだらないことを気にしているのか、と。そういうくだらねぇ理由を考えなくて済む世の中になればいい、そう思った。

それから3年たった今、僕はこう考えている。

あの時「くだらねぇ」と思った理由の中に、友人の大切にしている何かがあったのではないか、と。

それを「くだらねぇ」の一言で斬り捨ててしまうことが、一番くだらないことだったのではないか、と。

「履歴書に穴が開くと、社会にカムバックできなくなる」ということは、その友人は「社会参加」、もっと言えば「働いてお金を稼ぐこと」に対しても価値を見出している、大切に思っている、ということではないだろうか。

それを理解しようともせず、「くだらねぇ」の一言で斬り捨てることが一番くだらないことではなかったのか。

大切だから、失うのが怖い

2017年に放送されていた「宇宙戦隊キュウレンジャー」にこんなシーンがあった。

主題歌の中で「考えてわかんないことは速攻近づこう Space jurney やらない理由など探さずに」という歌詞があるのだが、一方で、最終回直前にこう言ったやり取りがあった。

最終決戦前、ヘビツカイシルバーことナーガ・レイというキャラクターが、「怖い」という感情を口にする。

このナーガというキャラがけっこう変わったキャラで、彼は感情を持たない一族の出身だ。はるか昔、争いの絶えなかったその一族は争わないようにするために感情を捨てたのだ。

その一族の出身であるナーガは「感情を学びたい、手に入れたい」と旅に出て、やがてキュウレンジャーに加入する。そして、物語の中で少しずつ感情を学んでいく。

そのナーガが口にした「怖い」という言葉に、ナーガとずっと一緒に旅をしてきた相棒のバランスというキャラクターがこう答える。

「おめでとう。君は『怖い』という感情を手に入れたんだ。それは『今を失いたくない』という思いなんだよ」

最終決戦で勝てる保証などない。もしかしたら死んでしまうかもしれない。自分は生き残っても、大切な仲間を失ってしまうかもしれない。

それが、怖い。

「できない」という理由の裏にはこの「怖い」という感情が隠れていることが多い。

たとえば好きな人がいるとしよう。

面と向かって「君が好きだ」と叫んだら、振られてしまうかもしれない。

どうして振られるのが怖いのかというと、「今の関係」を失うのが怖いからだ。

「君が好きだ」という思いと同じくらい、「今の関係性を失いたくない、壊したくない」という思いも大切なのである。

それを「勇気を出して告白しよう!」とか、「思いを伝えないと先に進まないよ」と言ってしまうのは簡単。

でも、「君が好きだと言いたいけど、今の関係を失いたくないからできない」、ここまでがワンセットでその人の個性、その人の価値観である。

それを「後半部分だけ斬り捨てろ」というのは、道理が通らないのではないか。

それを「個性の尊重」と言えるのだろうか。「できる自分の価値観」を「できない人」に押し付けているだけではないだろうか。

それでもやりたいことをやりたい人へ

「やりたいけど、お金がないからできない」のは、その人にとってお金が大切だからである。

「やりたいけど、時間がないからできない」のは、その人が別の大切なことに時間を費やしているからである。

「やりたいけど、自信がないからできない」のは、その人が失敗を恐れているからである。失敗したって死にはしない。が、何かを失う。その「何か」がその人が大切にしているものである。

「やりたいけど、家族が反対しているからできない」のは、その人にとって家族も大切だからである。

「できない理由」の裏には、その人が大切にしている何かがある。

そもそも、大切でないものなんか、最初から天秤にかけたりしない。

自分の例になるが、僕が地球一周の船旅を決断できたのは、決して人より行動力があるからでも決断力があるからでもない。

当時僕は仕事をしていなかった。しかし、前の仕事でためたお金がけっこうあった。

天秤にかけるものがな~にもなかった。ただそれだけである。

仕事はしてなかったし、お金も「ある程度は使えるな」と大して重視していなかった。

たいして大切じゃなかったから、天秤にかけなかった。それだけだ。

「やりたい、でも……」と天秤にかけている時点で、それはとても大切なものなのだ。

それを「勇気がない」「行動力がない」「決断力がない」と捨てさせようとする。

それは、その人のことを考えているように見えて、

ただ、自分の「やりたいことができる人」の価値観を押し付けているだけである。

それは、優しさとは言えない。

もちろん、やりたいことはやるべきである。その方が人生は楽しい。

でも、「できない理由」もその人にとっては、失いたくない大切な「何か」である。

「やりたいこと」だけを優先して「できない理由」を「臆病だ!」「勇気を出せ!」と切り捨てさせようとするのは、その人の尊厳を踏みにじっていることに等しい。

しかし、「できない理由」だけを尊重して、「やりたいこと」を我慢するのも、やはり人生を無駄にしている。

ならば、道は一つだ。

本当にその人のことを考えるのであれば、「やりたいこと」と「できない理由」の両方を尊重するべきである。

つまり、「両方が実現できる方法を探す」べきなのではないか。

「好きだといいたいけど、今の関係を失いたくない」というのなら、かけるべき言葉は「勇気を出して告白しろ!」ではなく、「今の関係を維持したまま、好意を伝える方法」なのではないだろうか。

「やりたいけど、お金がないからできない」というのなら、言うべきは「お金を言い訳にするな!」ではなく、お金を稼ぎながらやりたいことを実現する方法ではないだろうか。

「やりたいけど、時間がないからできない」というのなら、言うべきは「仕事なんかやめちゃえ!」ではなく、「仕事をしながら短時間でやりたいことをする方法」か、「仕事の時間を減らす方法」ではないだろうか。」

「やりたいけど、家族が反対しているからできない」というのなら、言うべきは「家族のことなんか忘れろ!」ではなく、家族との関係を崩すことなく、やりたいことを実現する方法なのではないだろうか。

「やりたいこと」と「失いたくないもの」、両方を実現すること、それが一番「その人らしい生き方」のはずだ。

「やりたいことをやりたいなら、『失いたくないもの』を捨てろ!」と言えるのは、所詮は他人であり、その人にとっては相手の「失いたくないもの」なんてどうでもいいからである。むしろ「やりたいことをやれてる自分」に酔っているから相手に押し付けたいだけかもしれない。

やりたいことがあるけどできない人へ

できない理由はいろいろあると思うが、やっぱり何かを恐れているからだろう。

何を恐れているのかと言えば、リスク、つまりは、何かを失うことを恐れているのだ。

あなたが失うことを恐れているそれは、あなたにとってとても大切なもののはずだ。

でなければ、最初から天秤にかけて悩んだりしない。

「リスクを恐れずに!」「勇気を出せ!」「後先考えるな!」と他人に口で言うのは簡単。

でも、『失いたくないもの』を失って、傷つくのは自分である。

やりたいことをかなえたい。

でも、大切なものを失いたくない。

ならば、道は一つだ。

失いたくないものを守りつつ、やりたいことをかなえる。

両方を取りに行く。それしか道はない。

そして、それが一番「自分らしい生き方」である。

欲張り? 何を言っているのか。

天秤にかけている時点で、最初から欲張りなのである。

本当は両方手に入れたいのである。

やりたいけれどできない。そんなことを言うと、「自分の気持ちに素直になって」と「やりたいこと」だけを取らせようとする人が多い。

でも、自分の気持ちに素直になるのなら、

両方取りに行け。

平和や多様性の重要性について考えさせられる平成仮面ライダー5選

平成仮面ライダー20作目を記念する「仮面ライダージオウ」の放送が始まった。そこで、今回は趣向を変えて、「平和」とか「多様性」といったテーマにフォーカスした仮面ライダーについて5作品を紹介していこうと思う。「仮面ライダーって子供番組でしょ?」と思っている人も、この5作品のうち一つでも見れば、きっと考えが変わるはずだ。


仮面ライダークウガ(2000年)

「こんな奴らのために、誰かの流す涙は見たくない! みんなに笑顔でいてほしいんです! だから、見ててください! 俺の、変身!」

作品概要

2000年に放送された、記念すべき平成仮面ライダー第1作。主演はオダギリジョー。昭和のテイストを残しつつも、「改造人間ではない仮面ライダー」、「二話完結のエピソード」、「強化フォームの登場」などの新たな試みに挑み、のちの平成仮面ライダーシリーズの礎となった。

あらすじ

長野県の遺跡からグロンギ族と呼ばれる殺戮集団が蘇った。次々と人々を虐殺し、恐怖に陥れるグロンギを警察は「未確認生命体」と呼び対抗するが、その力の前に歯が立たない。しかし、遺跡から蘇ったのはグロンギだけではなかった。未確認生命体第1号が暴れる現場に遭遇した冒険家の青年、五代雄介は遺跡から発掘されたベルトを手にした瞬間、戦士のイメージが頭の中に流れ込む。イメージに従いベルトを身に巻いた雄介は、仮面ライダークウガに変身し、グロンギに立ち向かう。

チェックポイント

この作品で見てほしいのは「暴力への向き合い方」である。仮面ライダーに限らず、ヒーロー番組は「暴力」をもって悪を排除することが前提である(たまにまず保護から入ろうとするウルトラマンコスモスみたいなのもいるけど)。

御多分に漏れず、クウガもグロンギを暴力をもって排除するのだけれど、クウガに変身する五代雄介自体は、実は暴力をふるうことが嫌いな人間であり、第2話ではヒロインの桜子に変身して戦った感想を求められて「あまりい気分のものじゃない」と答えている。

そんな雄介だったが、グロンギのボスであるン・ダグバ・ゼバによって殺された人の葬式に居合わせ、遺族の女の子の涙を見て、グロンギと戦う決意を固める。

それでも、雄介はやっぱり暴力を好きになれない。物語の終盤には「俺は、いつもこれ(暴力)で嫌な思いをしている」と吐露している。

一方で、グロンギ族が人々を虐殺する理由も明らかになる。

それは、ゲーム。彼らは「誰が一番人間を狩れるか」を競って、遊んでいたのだ。

あまりにも身勝手な理由に、雄介の相棒である一条刑事は「彼らとは価値観が違いすぎて、対話は不可能」と結論付ける。

暴力をふるいたくないのに、暴力をふるうことでしか平和を守れないジレンマを抱えたヒーロー、それが仮面ライダークウガなのだ。

そのスタンスは最後まで変わることはなかった。ダグバとの最終決戦で、互いに変身が解け人間の姿のまま殴り合う。暴力をふるって相手を壊すことを楽しむように笑みを浮かべるダグバに対し、泣きそうな顔で拳をふるう雄介。いや、すでに泣いていたのかもしれない。「ああ、雄介は本当に暴力をふるいたくないんだな」ということがよく伝わってくるシーンだ。

正義のために暴力をふるっていいのか。暴力でしか正義は守れないのか。

たとえ暴力でしか正義を守れないのだとしても、それでも暴力を否定する。否定しながら、泣きながら拳をふるう。それが仮面ライダークウガである。

その他の見どころ

クウガは徹底したリアル志向である。実在の地名を使い、「もしも、現実社会に怪人が現れたら」「もしも、現実社会に仮面ライダーがいたら」どうなるかを詳細に描いている。クウガは警察と協力してグロンギと戦う。警察は毎週のようにグロンギ対策の会議を行い、クウガである雄介は一条刑事から情報をもらってグロンギと戦う。一方で、警察も初めからクウガに協力的だったわけではなく、クウガを「未確認生命体第4号」と呼び、一条刑事以外はクウガの正体を知らず、「未確認同士の仲間割れ」ではないかと議論する。

そして、クウガは被害が平成仮面ライダーの中でもひときわ重いのも特徴だ。毎回の犠牲者は数十人規模。ラスボスのダグバに至っては3万人近くが殺されている。もはや大災害である。

殺し方も朝からグロく、空から脳天めがけて針を打ち込んだり、トラックで壁際に追い込んでつぶしたり、すれ違いざまに首を斬り落としたり、飛行機という逃げ場のない空間で虐殺したり、犠牲になるのはその場に居合わせただけの罪もない人々。まるでテロだ。いや、グロンギにはテロリストのような「信じる正義」などなく、ただ虐殺を楽しむだけ。当時も番組に苦情が来たという。

ちなみに、僕が一番怖かったのはハリネズミ怪人、ゴ・ジャラジ・ダだ。標的の脳に小さな針を打ち込み、相手にタイムリミットを予告。そのリミットが来ると……、ああ、思い出しただけで背筋が寒くなる。標的の選び方も含めて、本当に怖い。

徹底したリアルな描写は、なにもグロ描写だけではない。被害者遺族の感情、雄介の周りの人たちの想い、そして、雄介の想いなど、人間の描写もリアルで繊細だ。

このリアルさがクウガの魅力であり、「平成仮面ライダーシリーズ」の根幹をなすものである。

仮面ライダー龍騎(2002年)

「そこに正義などない。あるのはただ純粋な“願い”である」

作品概要

名前の通り、ドラゴンと騎士をデザインのモチーフにした仮面ライダー。仮面ライダー同士が戦いあう「ライダーバトル」を主軸とした作劇や、10人近くの仮面ライダーが登場する作風など、その後の平成仮面ライダーシリーズに与えた影響は大きい。特に、トレーディングカードのようにカードをを使って戦うというスタイルは、のちに仮面ライダー剣、仮面ライダーディケイド、さらには仮面ライダーだけでなく天装戦隊ゴセイジャーに受け継がれた。さらに、収集系の変身アイテムを使って変身する仮面ライダーへと繋がっていく。まさに、平成仮面ライダー初期の、伝説の作品だ。

あらすじ

OLEジャーナルの新米記者、城戸真司はある日、鏡の向こうから現れるモンスターと、鏡の中で戦う戦士、仮面ライダーの存在を知る。最後の一人になるまで戦いあう仮面ライダーたち。仮面ライダー龍騎の力を手に入れた真司は、ライダー同士の戦いを止めるため自らも戦いの中へ、鏡の世界へと身を投じていく。

チェックポイント

この作品で見てほしいのは「人によって正義は変わる」ということ、さらに、「戦いを止めることは本当に正義なのか」という点だ。

龍騎が放送されたのは2002年。企画段階だった2001年9月にニューヨークで同時多発テロが起きた。企画会議では「こんな時代だからこそ、子供たちが最初に正義に触れる仮面ライダーだからこそ、『真の正義』を示すべきだ」という意見と、「こんな時代だからこそ、子供たちが最初に正義に触れる仮面ライダーだからこそ、『正義は一つじゃない』ということを伝えるべきだ」と二つの意見に分かれた。

結果、仮面ライダー龍騎は「正義は一つじゃない」を描く。

仮面ライダー同士が最後の一人になるため戦いあうということを知った城戸真司は、ライダー同士の戦いを止めるために仮面ライダー龍騎に変身する。

だが、ほかのライダーからは「余計なことをするな!」と邪見にされ、時には殴られる。それでも真司は「戦いあうなんて間違ってる! 戦いを止める!」と自ら信じた正義のために龍騎に変身する。

ところが、物語の中盤で真司は、ほかのライダーが「なぜ戦うのか」を知って愕然とする。

最後の一人になった仮面ライダーには、どんな願いもかなえられる力が授けられる。

仮面ライダーナイトに変身する秋山蓮は、事故で眠り続ける恋人を目覚めさせるために戦っていた。

仮面ライダーゾルダに変身する北岡秀一は、不治の病で余命いくばくもなく、永遠の命を手に入れるために戦っていた。

それぞれにそれぞれの戦う理由があった、ということを知った真司は、「戦いを止めることが正義」と言い切れなくなって、考え込んでしまうのだ。

これはまだ中盤の展開であり、その後、さらに真司を悩ませる事態が待ち受けるのだが、それは是非本編を見てほしい。平成仮面ライダーを見るなら絶対に抑えてほしい作品の一つだ。

最終回ではライダーバトルをこんな言葉で締めくくる。

「そこに正義なんてない。あるのはただ純粋な”願い”である」

その他の見どころ

「カードを使って戦う」というのは前述の通り、その後の作品に大きな影響を与えた。カードからモンスターを召喚したり、武器を取り出したり、トレカをモチーフとしたアニメが実写化されたらこんな感じなのかな、などと考えると興奮する。

さらに、鏡の中で人知れず戦いあうライダーたち、というのも従来の作風と異なり、なんだか深夜アニメの異能力ものを見ているかのようだ。

当時も、そして今も、異色の作風であると同時に、もう一度言うが絶対に抑えておかなくてはいけない作品の一つだ。

そして、仮面ライダー王蛇に変身する浅倉威。「脱獄した連続殺人犯」という、ガチの悪者である。「悪のライダー」のほぼ元祖にしていまだに最高峰に君臨する。悪にして今なお多くのファンを持つそのいかれっぷりもぜひ見てほしい。

仮面ライダー555(2003年)

「たっくん、オルフェノクがぁ!」

作品概要

「555」と書いて「ファイズ」と読む。携帯電話が一般に普及し始めた2003年に登場した、携帯電話を変身アイテムとして使う仮面ライダーだ。ファイズのベルトはそれまでのベルトと比べると変身へのハードルが割と低いほうで、そのため変身者がコロコロ入れ替わる。もちろん、メインで変身するのは主人公の乾巧なのだが、ここまで変身者が入れ替わる作品は他にはない。前50話の脚本は井上敏樹一人で書かれており(平成仮面ライダーで一人の脚本が全話を執筆したのは、555、エグゼイド、ビルドの3作品だけ)、緻密に伏線が張り巡らせ、謎が謎を呼ぶ、平成1期王道の展開が人気だ。

あらすじ

九州を旅していた青年、乾巧はある日、オルフェノクという怪物に襲われるが、その場に居合わせた少女、園田真理から渡されたベルトで仮面ライダー555に変身してこれを撃破する。真理とともに旅をしながらオルフェノクと戦う巧。一方、2年前に事故で眠り続けていた青年、木場勇治は死後に蘇り、オルフェノクとして覚醒してしまう。彼は、同じく死後にオルフェノクとなった仲間たちとともに共同生活を送るようになる。そして、巧と木場が邂逅する。

チェックポイント

この作品で見てほしいのは「異なるものとの共生」という点だ。このテーマを描いた作品は平成仮面ライダーシリーズに多いが、一番最初にそれを描き、なおかつ深く描いた、という意味では555を紹介しようと思う。

これより前の平成仮面ライダーシリーズの怪人はみな人間とは違う存在であり、言葉も通じない。クウガに出てくるグロンギは元は人間なのかもしれないけれど、価値観が違いすぎて対話ができない。

ところが、555の怪人、オルフェノクは死んだ人間が蘇生し、「進化した人間」として覚醒したもの。つまりは、元は普通の人間だったのである。

オルフェノクたちはあるものはその超人的な力で生前の復讐を果たして、あるものは人間からの迫害を受けて、人の道を踏み外していく。また、オルフェノクに殺された人間もまれにオルフェノクに覚醒することがあるので、オルフェノクの中には仲間を増やすために積極的に人間を襲う者たちもいる。

オルフェノクは「元人間」でありながら「人外の存在」でもある、非常に微妙な立場なのだ。

人間側にもオルフェノクは敵だ、悪だというスタンスを崩さないものもいる。オルフェノク側にも人間として生きようとして、人間を信じようとして、人間に裏切られてと、事態は一筋縄ではいかない。

555では主人公、乾巧とその仲間たちのほかにもう一つ、木場勇治を中心としたオルフェノク側からの視点で話が描かれている。「人間ではなくなってしまった悲しみ」を抱えながら、それでも人間らしく生きることはできないのかと模索する勇治。そして、互いが555とオルフェノクだと知らずに出会ってしまう巧と勇治。「異なるアイデンティティのものと共存できるのか」というテーマにおいて、やはり555が一番適任だろう。

その他の見どころ

作劇面に関してはもう十分語った気がするので、ここではCGの観点から。

実は、僕が平成仮面ライダーを見始めたきっかけは555である。たまたま見た555のライダーキック「クリムゾンスマッシュ」がかっこよすぎて、それがきっかけで平成仮面ライダーを見るようになった。

さらにバイクもかっこいい。555には3人のライダーが出てくるのだが、彼らのバイクがロボットに変形して、ミサイルをバカスカ打ち込む。まるで、戦争映画を見ているかのようだ。

仮面ライダーオーズ(2010~2011年)

「いけますって! ちょっとの小銭と、明日のパンツがあれば!」

作品概要

動物の力を宿した3枚のメダルで変身する仮面ライダーオーズ。タカの視力、トラの爪、バッタの跳躍力を持つタカ・トラ・バッタのタトバコンボを基本フォームとし、クワガタの頭部、カマキリの刃、バッタの跳躍力を持つ昆虫系のガタキリバコンボ、サイの角、ゴリラの剛腕、象の脚を持つ重量系のサゴーゾコンボ、タカの視力、クジャクの羽、コンドルの爪をもつ鳥系のタジャドルコンボと、様々な動物の力を組み合わせて戦う。それぞれの変身時には、クシダアキラによる謎の歌が流れ、耳から離れない。

あらすじ

ちょっとの小銭と明日のパンツしか持っていない無欲な青年、火野映司。今風に言うとミニマリストといったところか。ある日彼は800年の封印から解き放たれたグリードという怪人と、彼らグリードが生み出す怪物ヤミーの起こした事件に巻き込まれる。絶体絶命の状況に陥る映司を救ったのは、グリードの一人であるアンクだった。右腕だけしか復活できなかったアンクは、自身の体を取り戻すために必要なアイテム・コアメダルを集めさせるために、映司に仮面ライダーオーズの力を授ける。映司は人々を守るため、アンクは自分の欲望をかなえるため、時に利用し、時に協力し合う奇妙なコンビが誕生する。

チェックポイント

実は映司は「世界放浪中に内戦に巻き込まれた」という過去の持ち主。そんな映司だからか、オーズには戦争と平和、そして正義について考えさせられるエピソードが多い。

オーズの敵であるヤミーは人間の欲望から生まれてくる。ある回で登場したバッタヤミー(これが見た目がクソ気持ち悪い)は、「悪いやつを懲らしめたい」という欲望から生まれたヤミーだ。その欲望に従い、ひったくり犯を懲らしめて奪われたかばんを被害者の返してあげるヤミー。果たして、こいつは倒さなければいけないのか? 何も悪いことしていないじゃないか。っていうか、むしろ良いことをしているじゃないか。と悩む仲間に対し映司は「倒さなきゃ」と口にする。その理由を問われた映司はこう返している。

「正義のためなら、人間はどこまでも残酷になれるんだ」

その映司の言葉通り、ヤミーの行動はエスカレート。やくざの事務所や悪徳政治家のところに乗り込むまではよいものの、悪人とはいえ悲鳴を上げて逃げ惑う無抵抗な人間を捕まえて、ボコボコにぶちのめしていく。

「正義のためなら、人間はどこまでも残酷になれるんだ」

なるほど。だからきっと、世界から戦争がなくならないのだろう。

こんなエピソードもある。ある青年の「人の役に立つことをしたい」という欲望から生まれたクロアゲハヤミー。こいつが何をしたかというと、空から大量のお金をばらまくという行為。

そのお金がどこから来たのかというと、何のことはない、直前に銀行を襲って手に入れただけだった。

ただ、人の役に立ちたかっただけなのに、どうしてこんなことに……、と落ち込む青年に映司は自分の体験談を語る。

実は、映司は政治家の家に生まれ、親も兄弟も政治家というおぼっちゃま育ち。望めば何でも買ってもらえるというお金持ちだった。

そして、映司は「自分の力で世界をよくしたい」という大きな欲望を抱き、海外の貧しい国に多額の寄付を送った。

ところが、そのお金は映司の知らないところで戦争の資金に使われていたのだという。

この経験から映司は青年に向かって両手を広げて見せ、「正義感だとしてもこれくらい。これくらいなら、悪いやつに利用されることもなくなります」と語った。

要は、自分の手の届かないところにまで、目の届かないところにまで正義感を伸ばそうとすると、それがどう転ぶかわからず、責任が取れないから危険だよ、ということである。

世の中には、行ったことのない国のために一生懸命になる人、一生いかなそうな辺境の島のために声をからす人、あったこともない人を執拗にたたく人など、手の届かないところにまで正義感をふるおうとする人が結構いる。

その志自体は決して悪いことなのではないのだろうが、問題はやっぱり「手の届かないところに正義漢を伸ばそうとする」というところ、そして、「人間は正義のためならどこまでも残酷になれる」というところなのだろう。

その他の見どころ

オーズの敵は欲望から生まれた怪人グリードと、彼らが使役する怪物ヤミーだ。

しかし、欲望そのものを否定しない、むしろ「欲望は人間が生きるために必要なエネルギーだ! 素晴らしい!」と肯定するのがこの作品の大きな特徴だろう。

欲望そのものは決して悪くない。むしろ、必要な存在だ。問題は、それとどう向き合っていくか、である。

そして、先ほど触れた映司の「金持ちの家に生まれた」「内戦に巻き込まれた」という過去は、実はオーズの物語に大きくかかわってくる。

「世界を自分の手でよくしたい」という大きな欲望を抱いた映司は、旅先で内戦に巻き込まれる。そして、この時起きたある出来事が原因で、彼は「世界を変えたい」という欲望を失くし、無欲な人間になってしまう。

欲望がない。何も欲しがらない。何も持たない。聖人君子のようにも思えるがとんでもない、それは「生きるエネルギーを持っていない」ということで、終盤では映司の欲望を持たないが故の危うさがどんどんと浮き彫りにのなっていく。

映司と対照的なのがアンクの存在だ。まさに欲望の塊、自分の目的のためなら他人がどうなろうと「知ったことか!」と気にしない。オーズの相棒でありながら、実はかなりの悪党である。

しかし、アンクは腕しか復活できず、オーズの力がないと完全復活に必要なメダルを集められない。映司はアンクからメダルをもらわないと変身できない。これが、真逆な二人がコンビを組む理由だ。

欲望を失った映司はどこへ流れつくのか、映司の欲望はかなうのか、そして、映司とアンクのコンビはどんな結末を迎えるのか。ぜひ、本編を見て確認してほしい。

仮面ライダードライブ(2014~2015年)

「どうにも怒りが収まんねぇ! ひとっ走り付き合えよ!!」

作品概要

「仮面ライダードライブ」というタイトルを聞いた時、誰もが目を疑った。「ドライブって、ライダーなのに車乗るの? まさかぁ。CDドライブとかの『ドライブ』じゃないの?」と。だが、実際お披露目たなったドライブは真っ赤なスーパーカーとともに登場し、胸には駅伝のたすきのようにタイヤが収まっていたという、バイクに乗らずに車に乗る仮面ライダーである。ドライブは一度もバイクに乗ったことがない。一方で、主人公に刑事を据えた刑事ドラマでもあり、主人公である泊進ノ介は、仮面ライダーである前に警察官としての誇りを胸に戦う。また、主演の竹内涼真、ヒロインの内田理央、敵幹部役の馬場ふみかと、人気の俳優・女優を多く輩出した作品でもある。

あらすじ

機械生命体ロイミュードによる世界一斉蜂起が起きた。周囲の物の動きを極端に遅くすることができる「重加速現象」を引き起こせるロイミュードによって世界は崩壊の危機に陥ったが、ある戦士の活躍で世界は救われた。この事件は「グローバルフリーズ」と呼ばれた。

それから半年後、グローバルフリーズの時に相棒を誤射し、重傷を負わせてしまった刑事・泊進ノ介は、ロイミュード犯罪の専門部署「特殊状況犯罪捜査課」、通称「特状課」に異動になった。相棒を再起不能に追い込んでしまった事件以降やる気を失ってサボり魔となっていた進ノ介だったが、そんな彼のもとに謎のしゃべるベルトが現れ、彼に仮面ライダードライブの力を授ける。重加速の中唯一動くことのできる戦士、仮面ライダードライブとして、そして、刑事として、進ノ介は再起をかけて、ロイミュードによる犯罪に立ち向かっていく。

チェックポイント

ドライブで見てほしいのも555と同様、「違うものとの共生」だ。このテーマを描いた作品にはほかにも仮面ライダー剣、カブト、キバなど良作が多いが、平成2期からもう一つ挙げたかったので、今回はドライブを紹介する。

555のオルフェノクと違い、ドライブの敵ロイミュードは機械生命体。人間とは完全な別物である。しかし、人間の容姿をコピーし、知能も感情も人間と変わらない。

彼らの目的は人間の支配だ。ロイミュードを作った人間を支配することで、ロイミュードが人間よりも優れた種であることを認めさせる。

その中心となるのが「ハート」と呼ばれる彼らのリーダーなのだが、このハートがとにかく仲間思いなのだ。

仲間のロイミュードを「友達」と呼び、何よりも大切にする。ハートの知らないところでほかのロイミュードを捨て駒のように扱う作戦が実行されたときは、そのことを知ったハートは激高し、作戦を実行した幹部に制裁を加えた。仲間を捨て駒に使うなど絶対に許さないのだ。

極めつけは、ドライブに仲間の命を救われた時だ。ハートは宿敵であるドライブに頭を下げ、素直に感謝の礼の述べた。

ハート以外にも人間との静かな暮らしを望むロイミュードや、人間に協力するロイミュードなどが登場する。

「こいつらは本当に倒すべき悪なのか?」、回を重ねるごとに、見る者の胸にそんな思いが込み上げる。

そう思ったのは主人公・泊進ノ介も同じだったらしく、ある時、彼はハートに対して「お前ら本当に悪者なのかよ」とこぼす。

それに対してハートは「だろうな。もともとこっちは悪であるつもりがない」と返す。ほかにも、ロイミュード側の戦士を「悪の戦士」と呼ぶ人間に対して、「その考えこそが人間の驕りだよ」と鋭く指摘している。ハートとしてみれば悪事を働いているつもりはなく、ロイミュード側の正義に基づいて行動しているだけなのだ。

やがて、視聴者の「こいつらと戦わなくてもいいんじゃないか?」という思いがはち切れそうなタイミングで、進ノ介は再びハートに問いかける。「戦わずに済む方法はないのか?」と。

だが、これもハートは「ないね」と一蹴する。人間と戦って勝ち、支配し、ロイミュードを地球の新たな種であることを認めさせる。そのプロセスで「戦い」は必然なのだ、と。

どうしてハートはここまで戦って勝つことにこだわるのか。実は、ハートはロイミュード開発時期に実験と称して開発者から虐待されていた過去があった。「絶対に人間を見返してやる」という強い思いが彼の胸にはあったのだ。

やがて、終盤に人間・ロイミュード共通の敵が現れ、ドライブはハートと手を組み、これを撃破する。そして最終回で、ハートはともに戦ったドライブに、人類とロイミュードの運命を決める最終決戦を挑んでくる。

仮面ライダーの最終回というと、普通は「戦え! そして、勝て! 仮面ライダー!」とテレビの前で応援するものだが、仮面ライダードライブの最終回、僕はテレビの前でこう祈った。

「変身しないでくれ! 戦わないでくれ! 仮面ライダードライブ!」と。

進ノ介、お前だってハートと戦うことを望んでなんかいないはずだ! 戦い以外の決着を見せてくれ!と。

しかし、変身せずに一方的に殴られたら、進ノ介が死んでしまう。

果たして、進ノ介はドライブに変身してしまうのか? 戦ってしまうのか? 人間とロイミュードはどのような決着を見せるのか……?

ドライブの中でロイミュードは従来の怪人たちよりもより人間的に描かれている。だからこそ、期待してしまう。姿形が異なれど、価値観が異なれど、心を通わせることはできるのではないかと。戦う以外の道があるのではないかと。

その他の見どころ

ハートがらみでもう一つ。

ロイミュードの幹部の一人が、ドライブの変身者が特状課にいることを割り出す。変身者を特定しようとハートに持ち掛けるのだが、ハートはこう答える。

「変身前を暴いて叩くような、無粋な真似はしたくない」

仮面ライダーは人間の守護者であると同時に、人間の科学の叡智、強さの結晶。その仮面ライダーに変身した状態で戦って、勝つことに意味がある。だから、変身する前に倒してしまえなんてことはしたくないのだ。

このプライドの高さこそがハートの魅力である。

仮面ライダー側の魅力としては、自らの意思を持ちしゃべるベルト、ドライブドライバー、通称「ベルトさん」であろう。

なぜ「ベルトさん」と呼ぶのかというと、第1話でロイミュードに遭遇し「どうすりゃいいんだ、ベルト!」と問いかける進ノ介に対しベルトから帰ってきた答えがただ一言、

「呼び捨ては失礼だねぇ」

以後、「ベルトさん」である。

このベルトさんの声を担当していたのが、J-WAVEを、いや、日本のラジオを代表するラジオDJ、クリス・ペプラーである。あの渋く、セクシーな低音ボイスでベルトさんに声を当てていた。

ベルトさんはドライブの相棒として、作戦を指示したり、ドライブの能力を解説したり、ロイミュードの能力を分析したりと、よくしゃべる。開発者の意識をデータ化してダウンロードしたものであり、人間的な感情を持っているので、時に進ノ介の行動を心配したり、叱責したりする。

さらに、変身するときもベルトさんの「ドライブ! タイプ・スピード!」という音声が流れ、ライダーキックを放つときも「ヒッサーツ! フルスロットル!」の音声が流れる。

ドライブは胸部のタイヤを換装することで様々な能力が使えるのだが、このタイヤを換装するときの音声が「タイヤコウカーン!」。もちろん、クリス・ペプラーの声だ。

オープニングもクリス・ペプラーの「Start your engine!」の声で始まり、番組終わりもクリス・ペプラーのナレーション。さらに、玩具のCMのナレーションもクリスペプラーと、とにかくクリス・ペプラーづくしの30分だ。

さあ、平成仮面ライダーを見よう

今回は紹介しきれなかったが(この調子で全作品紹介していたら、1日あっても終わらない)、残り15作品もよい作品ばかりだ。

たとえば、仮面ライダービルドでは作中に戦争が勃発する。平和や多様性といったテーマで見てみるのも面白いだろう。

この記事を読んでもらえれば、平成仮面ライダー番組が単なる子供向け番組ではないことをわかってもらえたと思う。

それでもまだわからないというのであれば……、

もうひとっ走り付き合えよ!

矛盾を愛せ! ~矛盾と葛藤に意味をもとめよう~

矛盾することはよくない。言っていることとやっていることが違う、思っていることに行動がともなわない。とくもかくにも矛盾は嫌われる。だが、人とはそもそも、矛盾をはらんだ生き物なのではないのか。矛盾を抱えてこその人間なのではないだろうか。


村上春樹の矛盾を許せない人々

先日、こんな記事を読んだ。

村上春樹氏、オウム13人死刑執行に「『反対です』とは公言できない」

この記事の内容をまとめると、「村上春樹は死刑に反対しているが、オウム事件の被害者や遺族に会った経験から、オウム事件の死刑執行について、『反対です』とは簡単には言えない」とのことだった。

この記事に探するコメントで特に「いいね」を集めていたのはこんな感じ。

死刑執行の政治的な利用は困るけど、今回の件だけは死刑反対派でも容認するってこと?ダブルスタンダードだね。

 

ちょっとなに言ってるかわからない

 

それがダブルスタンダードって言うんです。
自分が関係を持った件では反対と公言できず、関係が無いところでは反対をする。
常に遺族の立場で考えられないなら、反対すべきでは無い。

要は、「村上春樹の言っていることには、一貫性がない!」ということだ。

こういった意見を読んで、僕は「あれあれ?」と思った。

死刑に対して、理屈としては反対だけれど、感情的には反対と言い切れない。確かに、村上春樹のこの発言は大いに矛盾している。

だが、こういった矛盾は人間としてはむしろよくあるもの、いたって普通のことなのではないだろうか。

理屈としては理解できる。だが、感情としては納得できない。

理屈としては理解できない。だが、感情としては納得できる。

当然である。人間は右脳と左脳があり、それぞれがある程度の独立性を持っているのだから。理屈と感情で違う答えが出てしまうのは、人としていたって自然なことであり、その矛盾に悩むのも実に人間らしい行為である。

村上春樹の「理屈の上では反対だけれど、感情的には反対しきれない」というのは、大いに人間的なことではないだろうか。

それを村上春樹は隠すことなく吐露している。「死刑反対なんて言ってませーん」などとごまかしたりせず、「自分は死刑に対しては反対なんだけど」と明かしたうえで、その矛盾とジレンマを正直に話している。

逆に、こういった人間の矛盾を認めず批判する人というのはいったいなんなんだろうか。確かに、言動は一貫している方が良い。しかし、人間はやはり矛盾を内包してしまう存在なのだと思う。そして、そのジレンマを村上春樹は正直に告白しているのだ。むしろ、じゃあ彼ら自身は矛盾をすることはないのだろうか、と首をかしげてしまう。

こういった「人間的な矛盾」を理解せず、許せない人たちはきっと、村上春樹の作品なんて読んだことないのだろう。

……と偉そうに語ってみる。僕も読んだことないのだけれど(ないんかい)。

人は矛盾する生きものである

人は矛盾する生きものである。思い返してみるだけでも、矛盾した人間の言動はたくさんある。

好きな女の子についつい嫌がらせをしてしまう。

かわいさ余って憎さ百倍

いやよいやよも好きのうち

心にもないことを言う

好きだと言いたいのに言えない

行きたくないのに会社や学校に行く

永遠の愛をを誓って離婚(日本の離婚率は約3割)

結婚してるのに不倫する

かわいい子に限って自分に自信がない

「全然勉強してな~い」と言って高得点を取る

ダイエット中なのに焼肉

暑い日にあえてのラーメン

「つまらない」と言いながらテレビを見ている

「韓国も中国も嫌いだ!」というくせに、やけに韓国や中国に詳しい。嫌いなものの情報ばっかり集めてストレスにならないのか?

好きでもない奴とエッチをする

……途中から大喜利やマル決みたいになってしまった。

人間の感情を描き出す歌の世界には、もっと激しい矛盾が描かれている。

 

別れても好きな人/ロス・インディオス&シルビア「別れても好きな人」

好きだったら別れなければいいじゃないか、などというのは野暮というものだ。「別れても好きな人」「好きなのに別れる」という矛盾に情緒があるのだ。

 

わかっちゃいるけどやめられない/植木等「スーダラ節」

ハイ!スース―スーダララッタスラスラスースース―!アソーレ!スース―スーダララッタスラスラスースース―!

「わかっているからやめました」でもなければ、「わかってないからやめられない」でもない。「わかっちゃいるけどやめられない」という矛盾に人々は人間性を感じた。だからこそこの歌は後世にまで残るのだろう。

「天下一の適当男」として知られた植木等だが、お寺で生まれ育った彼の素顔はとてもまじめで、テレビで演じているタレントとしてのイメージとのギャップに悩んでいたという。この「矛盾」もまた、大いに人間味のあるエピソードだ。

 

会いたくて会いたくて震える/西野カナ「会いたくて会いたくて」

震えるくらいなら会いに行け! っていうか、病院に行って検査して来い!

などと思ってしまうが、これもまた野暮というものだろう。

 

わかってる、きっと会うことないって だから言います「マタアイマショウ」 僕なりのサヨナラの言葉よ/SEAMO「マタアイマショウ」

会うことないとわかっていて、別れのあいさつに「マタアイマショウ」。これまた大いに矛盾した歌だ。だが、これがそのまま「サヨナラ」だったら、なんてことない歌になってしまう。二度と会わないと覚悟しての「マタアイマショウ」という矛盾がより一層失恋の悲しみを感じさせる。

 

もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対/牧原敬之「もう恋なんてしない」

これはちょっと解釈が難しい。「もう、恋なんてしないなんて言わない」のか「もう恋なんてしない、なんて言わない」なのか。前者の場合、一度は「恋なんてしない!」と言った、ということになる。

ただどちらにせよ、僕はこの歌の主人公は実は心の中で「もう恋なんてしない」と思っているんじゃないか、と思う。半分くらいはそう思ってるんじゃないだろうか。歌詞の中にも「もし君に一つだけ強がりを言えるのなら」と書かれている。

そう、「強がり」なのだ。矛盾なのだ。「もう恋なんてしないなんて言わない」と言いつつ、心の中では半分くらい「もう恋なんてしない!」と思っちゃってるのだ。

それでいて、残り半分は「もう一度恋をしたい」なんて思っている。だからこそこの歌は奥が深い。

これらの歌が人々を引き付けるのは、単に矛盾をはらんでいるだけではない。そのジレンマ、葛藤までもが透けて見えてくるからだろう。

例えば西野カナの「会いたくて会いたくて」。「会いたくて会いたくて会いに行った」だと、「あーそうなの、それで?」となってしまう。これじゃただの報告だ。「会いたくて会いたかって、でも会わなかった」だけだと、「いや、会いに行けよ!」となってしまう。

そうではなく、会いたくて会いたくて、でも会いに行かず、震えている」のである。「会いたい」と「会いたくない」の葛藤として震えているわけだ。ちょっと怖いけど。

二回も「会いたくて」というからにはよっぽど会いたいのだろう。

でも、会ってしまったら、何かが決定的に終わってしまうかもしれない。だから会いたくない。

でも、会いたい。

結果、震えているわけである。この「矛盾」と「葛藤」が人を惹きつけるのだ。

矛盾と葛藤に意味がある

映画の中で何か例はないかと考え、真っ先に思い浮かんだのが、「ルパン三世 カリオストロの城」のラストである。

「奴はとんでもないものを盗んでいきました。……あなたの心です!」

という日本アニメ映画師屈指のセリフのちょっと前のシーン。

ルパンの大活躍でカリオストロ公国のお姫様、クラリスは自由の身となった。クラリスはルパンに、そばに置いてほしい、泥棒の仕事もきっと覚えると懇願する。しかし、ルパンは「バカ言っちゃいけねぇよ」と、優しくクラリスの申し出を断る。クラリスは未来ある純粋なお姫様。一方、ルパンは泥棒、日陰の身だ。可憐な少女を闇の道に引きずり込むわけにはいかない。

ルパンとの別れを悟ったクラリスはルパンに抱き着く。ルパンもクラリスを抱きしめようとするが、苦悶の表情を浮かべながらそれをこらえ、クラリスのおでこに優しくキスをするのだった。

なんだよ! 男ならドンと行け! ドンと! チューくらいやっちゃえよ!

……などと言うのは野暮というものだ。

クラリスを抱きしめようとするルパンと、抱きしめてはいけないとこらえるルパン。矛盾する二人のルパン。その葛藤で苦悶の表情を浮かべる。この時のルパンが何を思っていたのかは見る側の想像に任されているが、矛盾と葛藤を見る側が推測することで、印象的なラストシーンになるのだ。

しかも、このシーにはもう一つ矛盾が隠されている。

クラリスのおでこに優しくキスをする紳士が、ルパン三世である、ということだ。

ハードボイルドな次元大介でもなければ、不器用な石川五ェ門でもない。ましてや、まじめな銭形のとっつぁんですらない。

かわいい女の子を見るとすぐ鼻の下を伸ばし、「不二子ちゃあん」と峰不二子の色香にやられていつも出し抜かれている、生まれついての女ったらし、あのルパン三世がとった行動なのだ。

あの女ったらしのルパン三世が、クラリスを抱きしめるのをこらえ、おでこにキスをした。

大いなる矛盾である。だからこそ、余計にこのシーンは印象深い。

そして、ルパンの矛盾と葛藤は相棒の次元にあっさりと見抜かれ、「お前、残ってもいいんだぜ」とルパンをからかっている。

そもそも、「ルパン三世」という物語自体、「泥棒なのにカッコいい」と、大いに矛盾した存在なのだ。

 

人は矛盾する生きものだ。仕方がない。頭の中に右脳と左脳があるのだから。

人は矛盾し、それゆえに葛藤する。矛盾と葛藤こそが人間らしさと言える。

矛盾し、葛藤し、それを吐露する。それを「一貫性がない」などと鬼の首を取ったかのようにあげつらうのは、野暮というものだ。人の性ってやつをわかっていない。人間はそんな完璧な存在ではない。

矛盾と葛藤には意味がある。

矛盾と葛藤は人生のスパイスなのだ。

だからもっと、矛盾を愛せ。