ZINEの表紙の色が決まらない

ZINEの表紙の色が決まりません。

「民俗学は好きですか?」のvol.8の執筆作業もそろそろ終わりを迎えられそうです。

今回の特集は「都市と怪談の四百年(仮)」。怪談がテーマということで、全体的にもおばけ関連の記事が多いです。

その作業も半月遅れで順調に進み(?)、そろそろ表紙について考えなければならないところ。

その表紙の色が決まらないんです。

怪談、ホラーというと、やっぱり黒っぽい表紙にするのが鉄板です。

……黒はvol.3とvol.4で使ってるんですよねー。

シリーズ8冊中、3冊が黒って、どうよ。

ちなみに、かのワンピースの場合、表紙に黒を使っているのは、5回です。102冊中、5回です。5%です。

こちとら、8冊中3回、40%黒ってどうよ。

どうして僕がここまで色かぶりを気にしてるかというと、いざ売ろうって時に、自分のブースに並べることを考えると、「同じ色ばっかり」になることを避けたいからなんですよ。「最新刊です!」つっても、同じ色のZINEがほかにもあったら、気づいてもらえないかもしれない。

何より、僕が整理するときに、同じ色が並んでたらややこしい!

ということで、今回は黒はナシで行きたいんです。

ちなみに、第二候補はミステリアスな紫だったのですが、

……vol.6で使ってるんですよねー。

8冊中2冊、25%紫ってどうよ。

ちなみに、ワンピースだと紫は7回、7%紫です。

で、いま、僕の頭の中にあるのが、グレーを表紙で使う、っていう案。

ただ、これはこれで問題が。

グレーが表紙の本って、売れるのかな。

GLAYが表紙なら売れるけど、グレーが表紙だと売れないんじゃないか。

なぜ、ここまで表紙の色で頭を悩ませているのかというと、色でそのZINEのイメージが決まるし、そうなると手に取る人の数も変わるし、買ってくれる人の数も変わる。

内容は面白いのに、表紙で損をしてる、ってことも当然あるわけです。

なので、どんな本がどんな表紙を使っているか、常にチェックしているんですけど、グレーが表紙の本や雑誌をあんまり見たことないんです。

ちなみに、ワンピースだとグレーはなんと第13巻のたったの1回! 22年前に一度使ったきり!

なんでこんなにワンピの表紙に詳しいかって? ウチに全巻あるからです。

ちなみに、平成ライダーの場合は主人公ではグレーは一人もいません。赤が八人、黒が一人、紫とピンク(マゼンダ)が二人ずつ。

昭和ライダーだとスーパー1がグレー、いや、あれはシルバーか。

とりあえず、やっぱりグレーは人気がないみたいです。GLAYは人気あるのに。

とりあえず、作ってみるしかないかー。

「旅は移動しないといけない」って、誰が決めつけた?

ZINE作りをしていると、自分が旅をしているような感覚に陥ることがあります。

まったく何もないところから、計画を立て、準備を進め、「感性」という目的地にたどり着くように、一歩一歩製作を進める。なんだか旅に似ているような気がしますね。

計画通りに行かないこともしょっちゅう。計画変更もあります。その辺も旅に似てる。

一冊作るのにかかる日数は約100日。ちょうど、船で地球を一周するくらいの時間で、ZINEが一冊出来上がるんですね。

出来上がったZINEを見て、ノートにつらつらと構想を書いただけの状態から、よくぞ形になったと感慨にふける様は、まさに旅路を振り返る感動そのもの。

ZINE作りは、いや、モノ作りは、旅に似ているんです。

何より、旅もZINE作りも楽しいしね。

コロナ禍でさっぱり旅行に行ってないので、「旅行に行きたいよー」という欲はあるんだけど、ここしばらく、「どこかにあてのない旅に行きたいよー」という欲はさっぱりありません。それはきっと、モノ作りが旅と同じような刺激と興奮、そして感動を与えてくれてるからでしょう。

むしろ、「移動しなければ、旅とは呼べない」だなんて、誰が決めつけた?

物理的な移動を伴っていなくても、見ている景色が変わり続けるのなら、もうそれは「旅」と呼んでいいんじゃないか?

旅好きの人の多くは、「旅に出ると、価値観が変わるよ」なんて言います。確かに、僕は地球一周の船旅二日目ぐらいで、それまでの狭い価値観がぶっ壊れました。

旅が価値観が変えるというなら、「旅とは、物理的な移動を伴わなければいけない」という、凝り固まった価値観も、ぶっ壊れるべきです。

たとえ家から一歩も出なくても、目の前の景色が変わり続け、ワクワクし続けているのなら、それは「旅」と呼んでいい!

むしろ、「旅」を体験するのに、長距離移動を伴わなければならない、と考えていることの方が、非効率だろ。電車代だってバカにならないし、電車に座ってるだけでも、疲れるんだぞ。

ちなみに、僕のZINE作りという旅は、ちょっとは移動も伴うんですよ。

作ったZINEを売らなければいけないんで、ZINEを取り扱うお店やイベントは常に探してます。

また、イベントのブースを作るために、ホームセンターや文房具屋、時には都会の専門店や河童橋の道具街に足を運ぶことも。

ZINEを作ってなかったら、絶対行かなかったお店、絶対知らなかったイベント、絶対買わなかったもの、そういった未知の世界にZINE作りが結び付けてくれる。

そして、絶対出会わなかった人、絶対読まなかった本、絶対知らなかったこと、そういった結びつきもあります。

そういったものが、目の前の景色をどんどん変えてくれる。

ZINE作りは旅です。卓上でできる、極上の冒険なのです。

3回目の文学フリマ

僕にとって3回目の文学フリマが終わりました。

目標としていた部数の8割以上を売り上げ、悪くはない結果です。

一方で、足を止めてもらうことの難しさ、立ち読みからの購入へのハードルの高さ、というものを改めて実感しましたね。

自分のブースの前をスルーする人たちに「なんでスルーするんだよー」と思いつつも、いざ自分が客として会場を回った時は、ほぼすべてのブースをスルーするという、まったく同じことをしていました。そりゃ、スルーするよね。何個ブースがあると思ってんだよ。

実は、今回の文フリの収穫はそこにあったんです。「いくつ売れたか」「どんな人が買ったか」だけじゃなくて、「どんな人が足を止めなかったか」「どんな人が立ち読みだけで買わなかったか」までもがよくわかったのです。

そして、「買ってくれた人」「立ち読みだけの人」「スルーした人」の性別・年齢層がはっきりちがうこともよくわかりました。

3時間ぐらいブースに座っていると、「この人は足止めないだろうな~」とか、「この人は立ち読みしてるけど、買ってくれる可能性は30%くらいかな」というのがわかってきます。

となると、「8割」を「完売」にするための道というのも見えてくるわけで「スルーしただけの人」よりも「立ち読みする人」にどうアピールするかを考えていけばいい。

こういうことは、ネットだけでやってたらわからないんだよなぁ。「いくつ売れた」とか「どの層に売れた」はネットでもわかるけど、「どんな人が買わなかった」「どんな風に選ばれなかったか」はネットではわからないんですね。

ネットの売り上げだけだと「画像見ただけでスルーした人」と「他の人のレビューとかも読んで買うのをやめた人」は全部「買わなかった人」と一緒くたにされるし、「PV数」や「再生回数」では「サイトや動画を見たけど、つまらなくて、途中でやめた人」までは反映されない。

たぶん、20年近く続く「出版不況」の原因の一つも、そこにあるんじゃないですかね。

だって、出版って「企画・編集する人」と「書く人」と「売る人」が別々じゃないですか。

編集者は原稿に口を出せるから、出版社と作者は連係がある程度とれるかもしれないけど、出版社が書店での売り方に口を出すわけでも、書店でのお客さんの動向をつぶさに見ているわけでも、ない。だから、書店でお客さんがどう動いているかなんて、把握してない。

マーケティングはやってるんだろうけど、そこには「もう少しで買ってくれそうだったけど、買わなかった人たち」みたいな微妙なポジションの人は反映されない。

でも、今回の文学フリマでお客さんを見ていてよく分かったのは、さらに売り上げを上げようとしたら、「すでに買ってくれる人たち」だけでなく、「もう少しで買いそうだったけど、買わなかった人たち」のような微妙なポジションにもっとアピールしなければいけないな、と実感したのです。

たぶん、世の中の「伸び悩んでる人たち」の多くは、「足を止めなかった人たち」のことを全く考えないから、伸び悩むのではないでしょうか。「足を止めないなんて、あいつらバカだなぁ」ぐらいに思ってるのかもしれない。

選挙演説とかそうじゃない。駅前に人だかりができて「これだけの人が関心を持っています!」ってアピールするけど、実は圧倒的大多数だった「足を止めなかった人たち」の方を全くカウントしてない。

で、次に何を言い出すかと言えば「もっと政治に関心を持とう!」。

それを言うなら「俺たちもっと関心を持たれる努力をしなきゃ」じゃないかしら。

とにかく、「足を止めなかった人たちにもっと注目する頃」が大事だと、痛感した文学フリマだったのでした。

限界を知らないと先に進めない

いよいよ明日、三回目の文学フリマです。

楽しみ、と言うよりも緊張と不安の方がまさってるんですよ。

……ほんとに売れるの?

三回目だけど、やっぱりまだまだ不安です。これ、慣れる人いるん?

毎回毎回、テストを受けに行くような感覚ですね。これまでの成果が試されている気分。

今回はかなり時間に余裕をもって、作品作りはもちろん、それを売るための準備もこれまで進めてきました。

でも、その努力が報われなかったら?

特に今回は不安が大きくて、なぜなら、前回の倍の部数を販売するつもりなんです。

すでに、文学フリマの半月ほど前には刷り上がっています。もう逃げられないぞ。ああ、胃液を吐きそう。

まあ、これまでの部数が少なすぎたんですけどね。コロナ禍なんだし、そんなに客は来ないでしょ、と少なめに刷っていたら、瞬く間に売り切れてちゃったので、今回、もっと部数を増やそうと思い立ったんですよ。

なにせ、前回の文学フリマ東京は、2時間で売り切れてちゃったのですから(イベント自体は5時間)。短い文学フリマだったなぁ。ほんとにコロナ禍だったのか?

これは、いくら何でも部数設定が弱気すぎた、というわけで、今回は倍の部数を刷ったのですよ。

ただ、「倍の部数」と決心するまでにもまたいろいろありまして。

「1.6倍」にするか「2倍」にするかで、一週間ぐらい悩みました。

結果、売れ残るのを覚悟で、「2倍」にすると決断。果たして、どうなることやら。

まだ、自分の限界が見えないんですよ。いったい何部売れるのか、という限界が。

「限界は超えるためにある!」

「いや、限界は超えないためにある!」

「限界まで足掻いてみる!」

ヒーローものだったりアニメだったりで、いろんな「限界」の話が出てきます。

そんななか今の僕の心境は

「限界を知らないと、先に進めないじゃないか」

自分の限界がどこにあるのかを把握していなかったら、その先に進みようがないんですよ。

そうです。私、限界の先に進む気、満々です。

限界が見えてるからこそ、その先に進もうと努力する。逆に言うと、限界がわからない状態では、努力できないんですよ。

限界よりもその先へと進むために、まずは自分の限界がどこにあるかを知りたいんです。

だから、「売るための準備」「努力」と書いたけど、それが本当の意味での「努力」になるのは、限界が見えて、その先に進もうとするとき。

……まあ、そもそも「努力」って言葉はあまり好きじゃないんだけど。「オレ、やってますぜ感」が鼻につく。誰に? 僕自身に。

だいたい、いざ当日になって、ブースを設営したら、もうほとんどやることはない。座ってるだけ。努力もへったくれもないのです。過剰な売り込みは逆効果だと思うし。

というわけで、明日はいよいよ文学フリマです。ここにきて、もうやることはなにのないのに、焦りだけを感じています。

でも、まだまだまだまだ止まんないよ。鼓動がまだだって鳴りやまない!

販売ブースのあれこれ

今月末には「文学フリマ東京」があります。3回目の参加ですね。

文学フリマが近づくと、毎回毎回「販売ブース、どうしようかなー」ということを考えてます。

どこのブースも、その世界観にあったブースを設営していて、やっぱりそういうところで負けちゃだめなんです。「こだわったブース」と「手を抜いたブース」だと、やっぱり「こだわったブース」の方が目に留まりやすいんですね。

というわけで、凝りに凝ったブースってやつを考えてみるわけなんですが、ここで一つ問題が。

どんなに凝りに凝った、おしゃれなブースを設計したところで、持ち運ぶことができなかったら意味ないんですよ。

すぐに設営できて、すぐにバラすことができないといけない。僕の場合は電車で移動するので、カバンひとつで持ち運びできないといけない。

となると、素材も、仕組みも、「トランクひとつだけで飛び回る」ということが大前提になるんです。

重い素材、軽くてもかさばる素材は、持ち運びに不便なのでNG。

それでいて、棚とかを作るときは、それなりの強度がないとだめ。おまけに、持ち運びするためにはバラバラにしないといけない。つまり、ばらせる構造じゃないとだめ。

そんな都合のいい素材はないかと、ある時はホームセンターをうろうろ。またある時は合羽橋をうろうろ。さらにある時はカッパのコスプレで街をうろうろ。いや、カッパのコスプレはしてないな。

せっせとZINEだけ作っていればいい、というわけじゃないのです。

いや、せっせとZINEを作っているからこそ、それを売る場所にも手を抜きたくはない。

たとえば、ステージに立って歌う、となると、「衣装はどーでもいい」とはならないでしょう。「演出もセットも、なんでもいい」というわけにはいかないでしょう。「歌さえ上手けりゃ、あとはなんでもいいんだ」とはいかないのです。

たとえば、飲食店をやる、となると、「内装はこだわらなくていい」とはならないでしょう。洋食屋ならヨーロッパっぽく、お寿司屋だったら純和風に、ハンバーガー屋はアメリカンに、喫茶店はアンティークに、内装や雑貨や音楽で世界観を表現する。これ、どこもやっていること。「メシさえ旨けりゃ、あとはなんでもいいんだ」とはやっぱりいかんのです。

それと全く同じです。

せっせとZINEを作っているからこそ、それを売る場所にもこだわりたい。いや、販売ブースまでを含めて、僕の一つの作品なんです。

むしろ、世のライターだ作家だと言われる人たちが、原稿だけ書いて、その販売は完全に本屋まかせ、ということの方が、僕には不可解です。

さらに言えば、出版社ですら販売は書店まかせ、というのが僕には不可解なのです。

製作から販売まで全部やる。大変だけど、正直めんどくさいけど、楽しいです。

ZINE創刊2周年!

ZINE「民俗学は好きですか?」を創刊して2周年を迎えました。

創刊したのは2019年の10月。ちょうど仮面ライダーゼロワンが始まったばかりの頃です。

あの頃は、数か月後にあんなことになるなんて思っても見なかった……。

……お仕事五番勝負があんなにつまらないなんて。

……ゼロワンは後半に入って面白くなったから、もう許してやれよ。

2019年の10月に創刊したということは、半年ほどでコロナ禍に突入したということになります。

その影響はZINEの中にも表れてまして、Vol.3の中にすでに「ケガレとウイルス」という記事を書いてます。文の中に新型コロナの話も出てくるんだけど、去年の2月ごろに書いたので、まだ「海外の出来事」として扱ってます。いやぁ、なつかしい。

つづくvol.4は特集記事として「大都会の民俗学」を書きました。これなんてまさに、コロナ禍で都市が疲弊しているのを受けての企画。vol.4には「異界としての『夜の街』」という記事もあります。これもまた、小池都知事が「夜の街」を名指しした、というところから始まった企画。

vol.5になると、あの「アマビエ」の関する記事が出てきます。「甘エビ」ではありません。「アマビエ」です。

正確に言うと、「アマビエ」のもととなった妖怪、「アマビコ」の話をしています。

そのvol.5の編集後記では「コロナのせいで製作スケジュールが狂いまくりだよ、まったく」とぼやいています。

コロナはZINEの内容にも大きく影響を与えているのですが、コロナの影響が一番大きかったのは、「即売イベントに出店できない!」という点。

何せ、イベントの数そのものが大幅に減ってしまったのですから。

もともと、即売イベントを中心に活動して、ネットにはあまり重点を置かないつもりだったけど、路線変更を余儀なくされます。

なんだか、手錠をしたままハードル走をやらされてる気分です。走りづらいったらありゃしない。

ただ、それでも、走れないことはないんです。

長らくできてないコミケと違い、文学フリマの方は東京での開催がなんとかできているし、オンラインでのイベントもあります。

もちろん、イベントの方でも感染対策はしてるし、僕個人としても無人販売などの形で対策をやってます。

こういった状況でも、何とかイベントは開催されているし、お客さんは来るし、ちゃんと売れてる。

これはちょっとした自信です。

コロナ禍でもなんとか販売できてるんだから、この先、日本がどうなろうが、自分がどうなろうが、地球がどうなろうが、何とか続けられるんじゃないか。

という自信。

……まだまだまだまだ止まんないよ。