感動なんていらない!

よく、スポーツとかで「感動をもらった!」「勇気をもらった!」って言葉を聞くんですけど、あれを聞くたびにいつも首をかしげるんですよ。

他人から「感動をもらう」「勇気をもらう」、そんなことはあり得るのか、って

僕は他人から、感動とか勇気とか元気とやらをもらったことは、一度としてないです。

だって、感動も勇気も、要は感情でしょ?

たしかにそのきっかけとなる出来事は他人にあるのかもしれないけど、感情である以上は、結局は自分の内側から湧き上がってくるものでしょ?

それを「人からもらう」なんてことはあり得るのか?

人からもらえるものなのならば、「いらないよ!」って返すこともできるはずです。捨てることだってできるはずです。

できないということは、それは人からもらったものではなく、自分の中から湧き上がってきたものなんです。

きっかけは確かに他人だったのかもしれない。でも、スポーツや映画を見ただけで感動するんじゃなく、それを自分の経験と照らし合わせて、何かリンクするものがあって、初めて人は感動したり勇気が湧いてきたりするわけです。

【自分が】感動してるんです。

【自分が】元気にしてるんです。

それを人のせいにするんじゃない!

何でもかんでも人のせいにしてるんじゃない! まったくもう!

逆に「見てる人に元気を与えたい」みたいなことを言う人がいると、イライラするわけです。

何様のつもりだ!

逆に俺がお前に元気を送り返してやる!

ワハハハハ! おまえもハイテンションにしてやろうか!!

「元気を与えたい」なんて言っていいのは、オロナミンCを売ってる人だけです。

まあつまり、あんまり自分を卑下するもんじゃないよ、と言う話です。

「感動をありがとう!」

いや、おまえが感動してんねん! おまえがおまえの人生に照らし合わせて感動してんねん! おまえがお前のがんばったこととかを思い出してリンクして、感動してんねん!

もっと自分に自信を持て! あの時の俺よ、感動をありがとう!

「元気をもらいました!」

いや、おまえが元気になってんねん! おまえがおまえの夢とか目標とかに照らし合わせてリンクして、元気になってんねん!

もっと自分に自信を持て! 未来の俺よ、元気をありがとう!

「見てる人に勇気を届けたいです」

「見てる人に夢を分け与えたいです」

施しはいらん! 返す! 着払いで返す!

なぜなら、勇気も夢も、すでに誰しもの心の中に持ってるものだからです。持ってるものを届けられても困ります。

まあつまり、あんまり人間というものを卑下するんじゃないよ、と言う話なんですか?

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。