知識をむさぼらない

「知的メタボリック」という言葉がある。評論家の外山滋比古の言葉だ。

知識をため込むことは一見、良いことのように思われる。というか、社会では「良いこと」とされ、疑われることがまずない。

ところが、知識をため込みすぎると、知識に頼るようになり、その分自分で考えたりする知性がおろそかになってしまうのだという。

僕はもっと辛らつに「知識デブ」と呼んでいる。

そもそも、検索すればすぐに知識が手に入るような世の中で、知識の量を自慢することなんてもはや意味がない。

それよりも、「どうやったらほしい情報が見つかるか」をしっかりと考えられる力の方が大切だ。

だが、こういう考えには反発する人も多い。気持ちはわかる。学校で知識を詰め込み、知識の量を採点され、知識の量をステータスとして生きてきた人からすれば、いきなり「もはや知識は不要の時代です」と言われても納得できないと思う。ある意味「神は死んだ」と言われるに等しいのかもしれない。

ところが、「知識は重要だ!」と主張する人間に限って、文章が賢くない。語彙力はあるから一見難しい文章に見えるんだけど、よくよく読んでみると全然賢くない。

ある人は僕の質問に対して、ただの知識自慢で終わっていた。あるだけの知識を並べていたが、どれも僕の質問の答えにはかすりもしない。いくら知識を並べ立てたところで、答えにかすりもしないのであれば、なんの意味もない。

ある人は僕の話に対して「知識を軽視するお前の意見は間違っている!」と言ってきた。正鵠を射た意見なら耳を傾ける価値もある、とその意見を読んでみると、まず、論点が違っていた。論点の違う「反論もどき」を読まされた側としては、「そもそもそんな話してない……」と青ざめるしかない。

知識の重要性を説く人間に限って、論点がそもそもずれていたり、答えが出せなかったり。そういう人間に出くわすたびに「ああ、知識デブ、ここに極まれり……」と頭を抱えざるを得ない。

「考える」ということをしないんだろうなぁ。知識を並べるだけ並べても、それがどんな答えにつながるのかを考えない。相手の話の論点が何で、結論が何かを考えない。

以前、ネット上で「辞書を引かない人」が話題になっていた。文章中で知らない単語に出くわしても辞書を引かない人がいて、ネット上で「知らない単語が出てきたらすぐに辞書を引かないと、いつまでたっても知識が増えないだろ、バカ!」と批判されていた。

それを見たとき、「ああ、また知識デブがいる……」と思った。

実は、僕も、辞書をあまりひかない。

高校の時、英語の先生からこう教わったからだ。

「どんなに勉強していても、『知らない単語』は一定量存在する。そういう単語に出くわしても、入試だと辞書を引くわけにはいかない。だから、前後の文脈から『知らない単語』の意味を類推する力が重要だ」。

つまり、『知らない単語に出くわしても、頭を働かせれば、辞書を見なくても意味は類推できる。それだけの知性を身につけなさい」ということだ。これは英語のみならず、日本語でも同じことが言える。

それ以降、知らない単語が出てくると、辞書を見てしまいたい気持ちをぐっと抑えて、前後の文脈から類推している。頭を働かせれば、たいていの単語は類推できる。

そして、「すぐに辞書を引かなきゃ知識が増えないだろバカ!」と罵る意見を見たとき、「ああ、やっぱり知識デブの人って、『考える』ってことをしないんだな」と妙に納得したのだった。

たしかに、辞書を見なかったらずっと「知らないまま」なのかもしれない。

だが、辞書を見てしまったら「考えないまま」で終わってしまう。

ネットに頼らない

僕が主催する「ノンバズル企画」は、作品をネットに頼らず、イベントなどでの対面販売を基本としている。

「ネットに頼らない」がノンバズル企画の基本方針の一つだ。

と書くと、大半の人はこう思うはず。

「……じゃあ、このブログは何だ?」と。

「ネットに頼らない」なんて言いながら、ネットを使っているじゃないか。

さらにばらしてしまうと、僕はSNSもやっているし、何ならネット販売も行っている。

ネットに頼らないと言いつつ、ちゃっかりネットを活用しているのである。

だが、よく言葉を見てほしい。「ネットに頼らない」とは言ったが、「ネットを使わない」とは言っていない。

ノンバズル企画を立ち上げた時は、「バズらないモノづくり」を掲げるのだから、一切ネットは使わない、というのも一瞬頭をよぎった。

でも、たとえば、僕の住む埼玉から遠く離れたところに住む、民俗学に関心がある少年少女が、何かのきっかけで僕のことを知り、「ノックって人が作っている民俗学専門ZINEを読んでみたい!」と思ってくれるかもしれない。

なのに、販売方法が「首都圏での手売りのみ」だったらどうだろう。せっかく民俗学に興味を持ってくれた若者の未来を、一歩遠ざけてしまうかもしれない。

「悪いけど、このZINEは首都圏在住の人用なんだ」なんてスネ夫みたいなこと言えない。

そう思ったので、ネットショップを開設した。

じゃあ「ネットに頼らない」というのはどういうことなのか。

それは、「ネットに力を入れない」「ネットに振り回されない」ということ。

すなわち、「ネットに価値観を支配されない」ということだ。

ネットショップは作ったし、ブログもこうして書いている。

だけど、検索上位に来るためのSEO対策とか、PV数を上げるためのSNSを使った宣伝とかは、やらない。そういう「ネットで人気になること」に価値を置いていないのだ。

なんなら、SNSにブログの全文をアップしちゃう。

SNSでブログの全文が読めてしまうと、当然、ブログの方には来ないので、ブログのPV数にはつながらない(そもそも、SNSにブログへのリンクを貼っていない)。

だが、重要なのは書いた記事を読んでもらうこと。読んでもらえるのであれば、その場所がブログ本文だろうがSNSだろうが関係ない。

逆に、PV 数だのSEOだのと言った数字にこだわると、どんどん記事の中身がなくなる。

WELQ問題なんかがその一例だろう。バズることだけを追い求めた結果、低質な記事が大量に作られてしまったわけだ。

価値があるからバズるのであり、バズるものに価値があるわけではない。

だが、ネットに価値観を支配されると、「バズるものに価値がある」と考えるようになる。その結果、「まず、バズること」が念頭に置かれてしまう。

だけど、まず価値があるものを作るべきだ。バズるバズらないはその後の評価にすぎない。

だから、ノンバズル企画はネットに頼らない。ネットに振り回されない。

ネットはあくまでも「道具」にすぎない。ネットを使って販売したり宣伝したり発信したりしても、あくまでもネットは「道具」。PV数とかフォロワー数とかいいねの数とか、そんなのは追い求めないし気にしない。

まず求めるべきは、作品そのものの価値である。質である。そしてその価値ってやつは、たくさん評価を集めればいいというわけではない。たとえ1000人に批判されようが、たったひとりに「でも、私は救われました」「僕はこれで変わりました」そう言ってもらえれば、それがその作品の「価値」である。

そのたったひとりに出会う場所として、たった一つの価値を見つける場所として、ネットという空間があるにすぎないのだ。

数字に振り回されない

現代人はあまりにも数字に振り回されすぎだと思う。

収入、貯金、偏差値、順位、フォロワー数、閲覧数、再生回数、食べログの点数……。

たしかに、そういったものはひとつの評価であることは間違いないと思う。

でも、評価と価値はイコールじゃない。

ゴッホの絵なんてそうだろう。ゴッホは生前、絵が全く評価されず、たったの1枚しか売れなかった。でも、今では彼の絵は数十億という値がついている。

時代とともにゴッホの絵の評価は大きく変わった。

でも、絵そのものが何か変わったわけではない。むしろ、経年劣化でちょっと色あせてるはずだ。

つまり、絵の価値自体は全く変わっていない。評価だけ変わったのだ。

そして、評価は数字で表される。

だけど、人は数字ばかり見て、肝心の価値を見ていない。数字ばかり見ていも、価値はわからない。

ニュースを見ていたら、「将棋の藤井七段、連勝記録更新!」という話をしていて、キャスターの人が「これだけ勝つなんてすごいですね~」と感心している。

その直後にそのキャスターは将棋の解説の人に向って「ところで藤井七段の将棋は何がそんなにすごいんですか?」と尋ねた。

僕はテレビの前で盛大にずっこけた。

「何がすごいかわからずに感心してたんか~い!」

肝心の価値や本質がわからないのに、数字だけ見て感心してたというわけだ。

テレビやラジオのゲスト紹介で「チャンネル登録者数百万人」とか、「再生回数何万回」とか、「何百万部を売り上げたベストセラー」とか言われると、ついつい「すご~い!」と言いそうになってしまう。

でも、よくよく考えてみると、フォロワー数とか再生回数とか売り上げた数とか言われても、何がそんなに面白いのか、その人の何がそんなに魅力なのか、さっぱり伝わってこない。

それでも、人はこういった数字だけ見て、さっきのキャスターのように「すご~い!」と感心してしまう。

現代人は、数字に振り回されているのだ。

だけど、数字とは、常に揺れ動くものだ。

昨日までうなぎ上りに上がっていたのに、ある日突然、バブルがはじけるかの如くゼロになった、なんてこともありうる。

数字は水物だ。そんなもので、人の価値を測り知ることなどできない。

だから、数字は聞き流す、見なかったことにするのが一番だ。

年収いくらとか、フォロワー数何人とか、すごそうな数字を言われても、「ああ、そう、はいはい」と聞き流すのが一番だ。

実際、すごそうな数字を自慢して、「すご~い」と思わせて、相手の興味を釣るというのは、詐欺の常套手段だ。「一か月で何百万売れる」とか「全国に会員が何十万人」といった数字を巧みに利用して、騙そうとする。痛い目を見たくなかったら、数字は聞き流すことだ。

本を買うと必ず書いてある作者のプロフィールにも、数字は多く書かれている。「23歳で4つのバーを経営し、年収4000万に」みたいな文章だ。

こういった数字の入った文章も、全部読み飛ばした方がいい。こういった文章に書かれているのは、「作者の輝かしい経歴」ではない。「作者の醜い自尊心」だ。

その人がどういう生き方をしているのか、本当の人の価値が現れるのは、数字がない文章の方だ。

(ただ、「西暦」はただの年号にすぎないので読み飛ばさなくても大丈夫)

実際、僕が好きな本の著者を見てみると、こういった数字が全然ない。

一方、あさましいタイプの著者のプロフィールは数字で埋め尽くされている。ひどい時には、数字の入った文章を全部飛ばしてみたら「東京都生まれ。文筆家」という部分しか残らなかったこともある。

数字では人の価値は推し量れない。だから、数字に振り回されてはいけない。

民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」

民俗学専門ZINEは「日本民俗学」をテーマに、3か月に一度のペースで発刊しております。

なぜ、民俗学がテーマなのか?

……好きだからです。

今、ネットなどで「民俗学」と言われているものを見ると、たまに、妖怪とか幽霊とか怪しげの風習、祭りとかに偏ってて、トンデモオカルト学かなにかと勘違いしてるんじゃないか、と思う人を見受けます。

たしかに、民俗学にはそういう側面もあるし、そういうところをとっかかりに民俗学に触れていくことはアリだと思います。僕だってもとをただせば、ただの妖怪オタクです。

でも、民俗学のことをいつまでも「トンデモオカルト学」だと思われるのもどうかと思うのです。

民俗学はもっといろんな側面があります。そういった民俗学が持つ「いろんな側面」を切り取る媒体を作りたい、民俗学が持ついろんな顔に触れてもらいたい。

そう思ってこのZINEを作っています。

「民俗学は好きですか?」は、以下の二つのルールに基づいて作っております。

ルール① 奇をてらわずに、基をねらう

「基をねらう」は僕の造語で、『基本をしっかりと抑える』という意味です。

なにか人目を引くような、奇をてらったことはやらずに、基本をしっかりと抑える。「そもそも、民俗学とは何だろう」「民俗学は何をするんだろう」「柳田國男とは誰だろう」そんな基本的なことをしっかりと抑えてから、その先の面白さを紹介する、そんなZINEづくりを心がけています。

ルール② よりわかりやすく、より面白く、より奥深く

「民俗学は好きですか?」は論文集ではありません。

本格的な論文なら、日本民俗学会が発行する、ちゃんとした冊子があります。

僕は学者ではなくZINE作家です。「これが俺の民俗学だ!」「これが俺の大発見だ!」「これが俺の斬新な説だ!」と学者のまねごとをしても、学会の中で持論を様々な異論と戦わせて切磋琢磨している学者にはかないません。

ですが、「よりわかりやすく、より面白く、より奥深く」、という観点なら、学者よりも僕のようなZINE作家の方が得意なのではないか、そう考えています。

「民俗学は好きですか?」は新たな研究成果を発表する場というよりも、いまある民俗学を、これから民俗学に触れていこうとする人たちに向けて、よりわかりやすく、より面白く、より奥深く伝えていくメディアを目指しています。

民俗学を様々な切り口からわかりやすく紐解き、その面白さ、そして奥深さを伝えるZINEを目指しています。

これから民俗学を学んでいこうと思っている人にとって、このZINEがその扉となれるのであれば、本望です。


さて、そんな「民俗学は好きですか?」は基本的に、僕が直接販売する、という形をとっています。どこに行けば僕に会えるかは、随時SNSをご確認ください。

SNSへのリンクはこちら。

ただ、出没場所はどうしても首都圏に限られてしまうので、「そんなところまで行けないよ」という方のためにネットショップを用意しております。

ノンバズル企画のネットショップ

「民俗学は好きですか?」のバックナンバー

各号の特集記事を無料公開しております。

創刊号 特集記事「ところで、民俗学って何?」(2019年夏発刊)

Vol.2 特集記事「柳田國男 ~民俗学を黎明(プロデュース)した男~」(2020年冬発刊)


来たれ、民俗学を究めんとする同志よ!

集え、フォークロアの御旗のもとに!

「民俗学は好きですか?」では、民俗学に熱い何かを持つキミの参加をいつでも待っている!

論文、エッセイ、小説、イラスト、マンガ、写真……。A5の紙で表現できることなら、どんな形式でも構わない! 条件はただ一つ、「民俗学であること」!

参加の意思を持つ同志は、コメント欄に書くなり、daikumilk@yahoo.co.jpにメールを送るなりして、その意思を表明してくれ!

キミの参加を待っている!

ZINEとは?

ノンバズル企画では、ZINEを作っています。

……お酒を造っているわけではありません(笑)。

ZINEとは「MAGAZINE」の「ZINE」。個人が発行しているお手製の小冊子、すなわち「同人誌」を指します。

ZINEは19世紀末に生まれ、20世紀、特に90年代のアメリカ西海岸でブームを迎えたと言われています。

日本でも、明治時代には文学の同人誌が多くつくられ、文壇になお残す文豪も、こういった同人誌に執筆していました。

ところが、今の日本で同人誌というと、アニメやマンガの二次創作が主流なので、「同人誌作ってます」って言うと、もれなく「何のアニメの?」という質問が帰ってきます。

アニメやマンガの二次創作、いわゆる「薄い本」と区別するために、日本ではあえて「ZINE」という、ちょっとおしゃれな言い方を使っています。

アニメやマンガでないとすれば、じゃあ、ZINEは何が書かれているのかというと、

……何でもいいんです。

自分の好きなこと、自分の過去の話、自分の夢の話、イラスト、写真、小説、何でもいいんです。

もちろん、アニメやマンガの話でも。それこそ、何でもありなのです。

ZINEの魅力

①個人が発行している

ZINEは大きな出版社ではなく、個人が発行しています。そのため、書き手の個性があふれた出版物です。

その人の趣味や経験、アート作品がZINEの中に詰まっています。

そして、出版物を一つ作るというのは大変な手間です。その手間をかけてでも作りたいものがあったという、情熱がZINEにはつまっているのです。

そのため、ZINEを読むという行為は、あたかもその人の個性をのぞき見しているかのような、不思議な感覚に陥るのです。

②低予算・低価格

ZINEは基本的に安価なものです。個人が発行しているものなので、予算は限られますし、フリーペーパーのように広告を乗っけて広告費をとるものでもありません。

個人が低予算で作るものなので、どうしても、本屋に流通するような雑誌のようなクオリティには届きません。

でも、それがいいんです。デザイン、写真、文体、それらがどこか素人っぽい。素人ながらも精いっぱい、情熱をもって作ったZINE。そ素人臭さが実はZINEの魅力の一つなのです。

③少部数発行

ZINEは普通の本屋には流通していません。

そもそも、「普通の本屋」に流通している本は、「取次」と呼ばれる業者を経由しています。取次では、なかなかZINEのような個人、それも素人が作ったものは扱ってくれません。

さらに、ZINEは個人が作っているものなので、作業的にも、予算的にも、そんなに大量には作れません。

ZINEは、基本的には少部数発行です。

だからこそ、作り手と読み手がダイレクトにつながれるのです。

「だれか読んでくれるかな?」と不安を抱えながらも、情熱をこめてZINEを作った人がいる。一方で、「だれが書いたんだろう?」とそのZINEを手に取り、その情熱を受け取る人がいる。

名前も顔も知らない人同士が、ZINEを通じて繋がる瞬間、それは、ネットを介して大量に拡散するコンテンツを通しての交流とは、また少し違うものなのです。

 

ノンバズル企画とは?

ノンバズル企画とは、「バズらないモノづくり」を掲げ、「バズらないもの」の製作・販売を行うプロジェクトです。

主な活動は民俗学専門ZNE「民俗学は好きですか?」の企画・執筆・編集・印刷・販売です。

「ノンバズル」とは、「バズらない」という意味の、造語です。

なぜ、「ノンバズル企画」では「バズらない」にこだわるのか。

ネット社会でツイートやブログ、動画などが広く拡散し、多くの人に見てもらうことを「バズる」と言います(ちなみに、「バズる」の語源は虫の羽音らしいです)。

ネット社会では多くのクリエイターが「バズること」を目指し、「いいね」やリツイートを集めることや、フォロワーやブログのPV数、動画の再生回数を稼ぐことに力を注いでいます。

バズることができれば、広く名が知られ、多くのフォロワーを獲得できます。自分の活動を多くの人に見てもらうことができ、収入にもつながります。

そんな時代に、なぜあえて「バズらないこと」を掲げるのか。

……だって、「バズる」って、疲れるじゃん。

いろんな数字を気にして、一喜一憂して。

そのうち、本当にやりたいことも見失うようになります。「やりたいこと」よりも「バズること」「注目されること」をやるようになります。

さらに、注目が集まれば何でもいいと、社会的に許されないような行為に手を出したり、人の悪口を言って注目を集めたりするようになってしまいます。炎上商法というやつです。

でも、「数字を気にする」って、実はとても疲れるんです。

数字は常に移り変わるもの。形のないもの。捉えどころのないもの。

そんなものに執着しても、疲れるだけです。

実際、僕自身、ツイッターのフォロワー数や、ブログのPV数を気にすることを一切やめてみたところ、とても気持ちが楽になりました。それだけ、疲弊していた、ということです。

そこで、あえて「バズらないモノづくり」を掲げる「ノンバズル企画」を立ち上げました。ノンバズル企画ではZINEの製作をメインで行っています。

ZINEとは個人が少部数で発行する物なので、基本的にはバズりません。

おまけに、ZINEの内容は「民俗学」を扱ったものなので、これはもう、絶対にバズりません。

ZINEは「バズること」「広く拡散すること」よりも、「ZINEを手に取ってくれたたったひとりと繋がること」に重きを置いたメディアです。「バズること」ではなく、本当に自分がやりたいことをやるメディアです。

ノンバズル企画では、バズるバズらないに関係なく、自分が本当に良いと思ったもの、本当に面白いと思ったものを作っていきます。

そして、作品を多く売ることよりも、作品を手に取ってくれた一人一人と出会うことを大切にしていきたいです。

小説 あしたてんきになぁれ 第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

田代と一緒に映画を見に行く志保。3人はばらばらの行動をとることに。行く当てもなくいつもの公園を訪れたたまきだったが、あるミスを犯したことに気づいてしまう……。そんなあしなれ第23話、スタート!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「じゃ、行ってくるね」

いつもより少しばかりおしゃれした志保が玄関で、玄関と言ってもマットが敷かれ、靴が置いてあるだけの玄関で、靴を履き始めた。

「なあ、その映画、おもしろいの?」

ソファで寝ころびながら亜美が尋ねた。

「まだ見てないんだから、おもしろいかどうかなんてわからないでしょ?」

志保はちょっと高めのおしゃれな靴を履くのに苦戦していた。

「どういう映画?」

「えっとね、高校生の女の子5人組が、学校に、部活に、恋に、青春に駆け抜けてくってお話」

「フツ―!!」

亜美はソファの上で両手両足を大きく伸ばした。

「ふつう……ですね……」

たまきもソファの上で体育すわりをしながら、ぼそっとつぶやく。

「普通が一番だって」

志保はようやく靴をかけたようで、ドアノブに手をかけた。

「というわけで、今日は遅くなります。お夕飯は各自で、ってことで」

「今日帰ってこない、ってこともあるかもな」

亜美は起きやがるとにやにやと白い歯を見せた。

志保はドアを半分開けたが、亜美の言葉にくるりと踵を返すと、靴のまま亜美のもとへと詰め寄った。

「だから、何度も言うけど、私と田代さんはまだそういう関係じゃないんだから!」

「まだ、ねぇ」

亜美は相変わらずにやにやしている。

「よしんば、そういう関係だったとしても、あたしはそんな簡単に外泊したりとかしないから! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」

「よしんば」

亜美は「よしんば」という言葉が面白かったのか、口元を抑えて笑った。

「よしんば、よしんばだよ、よしんばそういう関係だったとしても、デートするたびにエッチするとか、あたしはそういう……」

「よしんば!」

「よしんば」がよっぽど面白かったのか、亜美はソファの上で笑い転げた。

「……とにかく、行ってくるから!」

志保は亜美に勢いよく背中を向けると、「城(キャッスル)」を出て行った。

「よしんばがんばって来いよー!」

志保の背中に向けて亜美が元気に手を振った。

ドアがバタンと閉まる。亜美はよいしょっと立ち上がった。

「オトコと映画なんか見に行って、なにが楽しいんだろ?」

「……楽しいんじゃないですか、たぶん」

たまきが体育座りのまま答えた。

「どのへんが? だって、映画館って真っ暗じゃん。二人で行ったって、相手の顔、見れないじゃん」

「映画館って、真っ暗なんですか?」

たまきはまっすぐに亜美を見上げた。一瞬、会話が途切れる。

「そこ!?」

「……どこですか?」

「いや、そこ引っかかるところか? 映画館は真っ暗に決まってんだろ?」

「そうなんですか?」

「そうなんですかってお前、映画館行ったことねぇの?」

たまきは無言でうなづいた。

「でも、真っ暗だったら、なか、歩けないですよね。トイレとかどうするんですか?」

「ぜんぶ真っ暗じゃねぇよ! 映画始まったら真っ暗にするんだよ!」

「なんでですか?」

「なんでって……」

「だって、テレビ暗くして見てたら、怒られるじゃないですか。なんで映画は真っ暗で見るんですか?」

「……なんでだろう?」

亜美は首をかしげたが、やがて、もうこの話題に飽きてしまったのか、衣裳部屋の方を見ると、

「ウチも出かけてくるわ。お前はどうする?」

とたまきに尋ねた。

「私も……出かけます……。ここに残っても、お夕飯ないし……」

「別に無理して出かけなくても、下のコンビニでなんか買って食えばいいじゃん」

「……そういう気分じゃないんで。ちょっと出かけたいかも……」

「へぇ。お前にしては珍しい」

亜美は笑顔を見せると、衣裳部屋の方に歩き出した。

一方、たまきは、言ってはみたものの出かけるあてもない。

「あ、あの、亜美さんについて行っちゃだめですか?」

衣裳部屋のドアノブに手をかけたまま、亜美の動きが止まった。

亜美が答えたのはしばらくたってからだった。

「……隣町のヘアサロン行くからさ、お前来ても、おもしろくないと思うぞ」

亜美はたまきの方には振り返らなかった。

「ヘアサロン……」

志保に「いつもと同じでお願いします」とだけ言って髪を切ってもらっているたまきにとって、美容室というだけでも十分に敷居が高いのに、「ヘアサロン」だなんてどこかの宮殿みたいな名前を出されたら、それだけで委縮してしまう。高い入場料でも取られるんじゃないだろうか。

おまけに、うわさに聞く美容師という職業の人たちは、黙って髪を切ればいいものを、どういうわけか話しかけてくるという。知らない人に髪を触られたり、顔を見られたりする時点ですでに嫌なのに、おまけに話しかけてくるだなんて。

だが、そんなことを言ってたら、また亜美から「何うじうじしてるんだよ」とか「どうでもいいじゃん、そんなの」とか言われてしまいそうだ。たまきももう十六歳なのだし、いいかげん人並みに美容院くらい行けるようにならないといけないのではないか。

そうだ。美容院に行ったら、ずっと目をつぶっていればいいのだ。そしたら無理に話しかけられることもないだろう。

「あ、あの、私も行きます、ヘアサロン」

そう言ってしまってから、たまきは亜美の反応が怖かった。驚かれるんじゃないか。もしかしたら、笑い飛ばされるかも。

そう思ってドキドキしていたが、しばらくたっても、亜美は何も言わない。

「……その、私も少しおしゃれしたほうがいいかなって……」

心から思っているわけではないセリフを言うと、どうしても言い訳がましく聞こえてしまう。

「あ、あのさ……」

亜美がようやく口を開いた。振り返らないままだが。

「その美容院、予約制なんだよね」

「よやく……ですか……」

「……そ。かなり人気のところでさ、今から予約しても、無理だと思うぞ」

「……わかりました」

たまきの返事を聞くと、亜美はまるで魔法が解けたかのように動きだし、衣裳部屋の中へと入っていった。

「ヘアサロン」に行かなくていいということで、どこかほっとしている自分がいることに、たまきは気づいていた。

あと二つ、たまきが気付いたことがある。

一つは、亜美が「隣町のヘアサロン」から帰ってきても、きっと髪型は変わってないということ。

そして、亜美はきっと今、ほっといてほしいんじゃないかということ。なんとなくだけど。

 

写真はイメージです

志保は映画館の前で一人、田代を待っていた。ベージュのコート、赤いマフラーに身を包み、街路樹のように立っている。

歓楽街の中にある映画館。真冬の風の中を多くの人が行きかう。

自分の吐いた息が白い靄のように立ち込め、消えていくさまを志保は見つめていた。

待つ、という行為を、志保は決して嫌いではない。

時に、恋愛の本質とは相手と一緒にいる時間よりも、相手のことを想いながら待つ時間にあるのではないか、と思えるほどだ。

緊張からか自分の鼓動が少し早いのを感じる。今日の服やメイクはこれでよかったのかと少し不安になる。田代が来たらなんて話しかければいいのか考え始めると答えは尽きない。

不安。

焦燥。

緊張。

それすらも、それすらも心地よい。

古い短歌なんかには、こういう相手を待つ時間のじれったさを歌ったものがいくつかあったはずだ。今も昔も、「相手を待つ」というのは恋の醍醐味なんだと思う。

もっとも、以前にそんなことを亜美に話したら、「ウチは5分待たせるオトコはコロス」と物騒なことを言っていた。

ふと、視線を感じて志保は背後を振り返った。

初詣の時みたいに、またトクラがどこからか見ているんじゃないだろうか。

志保はキョロキョロと周りを見渡す。周囲の建物の窓、さらには屋上にまで目線を送る。屋上からトクラが双眼鏡で覗いているんじゃないだろうか。

結局トクラの姿は見つからなかったが、それでもどこからか感じる視線はぬぐえなかった。

待ち合わせ時間の4分前となった。白い吐息が晴れてくると、そこに田代の姿があった。

黒のジャケットを着こみ、両の手をポケットに突っ込んでいたが、志保と目線が合うと、ポケットから手を出した。

「待った?」

「ううん、今来たとこ」

本当は六分前からここにいた、なんて言うのは野暮というものだ。

「チケットはもう買ったの?」

「ううん、これから」

「じゃ、行こうか。席、どの辺がいいかな」

「うーん、前の方かな」

志保は笑顔で答えていたが、内心では困っていた。事前に用意していた、いくつかの気の利いたセリフが、田代の顔を見たとたんにどこかに飛んで行ってしまったことに。

 

写真はイメージです

赤い薄手のセーターに黒の革ジャンを着て、亜美は駅へと向かって歩いていく。途中、デパートに立ち寄って12個入りのお饅頭の箱を購入した。

デパートを出て再び真冬の街の中を駅に向かって歩いていく。

お饅頭の入った手提げ袋を亜美はぶんぶんと大きく振りながら歩いていた。しかし、ふと立ち止まり、手提げ袋に目をやる。あまり振り回すと中身のお菓子によくないのではないか、そう思い直したのか、手提げ袋を持った右腕をだらんと下げ、なるべく動かさないように歩き出した。

歓楽街から駅までの間は、真ん中に街路樹があるせいか、ほとんど車が通らない。大通りと大通りに挟まれたこの一角は道いっぱいに歩行者が広がっている。

亜美は左に曲がった。このまままっすぐ行けば駅だ。

その時、カップルとすれ違った。

男の方も女の方も割と背が高い。二人ともサングラスをしていたが、すれ違っただけでも美男美女であることは分かった。

今のやつら、どっかで見たことあるぞ。亜美は直感的にそう思って振り返った。別に急いでるわけではないので、後をつけて誰だったか確かめようかとも思ったが、振り返った時には二人はもう雑踏の中に消えていた。二人とも黒っぽい服装をしていた気がするが、冬の大都会にはそんな服装の人は多すぎて、逆に見つけられない。

ま、いっか、と亜美は駅へと向かうスクランブル交差点を渡り始めた。とはいえ、あれが一体誰だったのかちょっと気にはなる。

女の方を思い出したのは、交差点を渡ってすぐだった。

確か、志保と同じ施設に通っている女だ。名前は知らないが、亜美は確か二回会っているはずだ。

一回目は十月に行われた大収穫祭の時。確か、クレープを焼いていた女だ。

まあ、それくらいなら亜美もいちいち覚えちゃいない。

亜美がその女の顔を覚えていたのは、十日ほど前にも見ていたからだ。初詣に行った神社で志保と偶然に会ったらしく、何やら話していた。そう言えば、服装もさっきとほぼ一緒だった気がする。

女の方を思い出せてちょっとすっきりしたが、男の方は思い出せない。

まあ、どうでもいいや。たぶん、志保と同じ施設の人で、大収穫祭の時に見たのをたまたま覚えてたんだろ、と亜美は気にせず、改札を抜けた。

駅構内はまるでゲームに出てくる洞窟やお城のように、広大で、入り組んでいる。その中を溢れんばかりの人が縦横無尽に行きかう。

初めてこの駅を降りたときに、あまりの人の多さに亜美は、その日は何かのお祭りをやっているんだと思った。駅を出ても人の波は収まらず、やっぱりどこかで大きな祭りをやっているんだと思った。それが何でもない木曜日の午後の日常の風景にすぎないと知って、亜美は思わず「ウソだろ」と口にしていた。

あれから一年ぐらいが経った。いつの間にか、この町にもこの駅にも慣れてしまった。

大人になるというのは、そういう風に特別だと思っていたことが当たり前になっていくことなのかもしれない。亜美にだって小学校の頃は男子とちょっと手を握ったくらいでドキドキした時代もあった。今となっては信じられないが。それが今では、手をつなぐどころか、男と夜にベッドを共にすることすら、何でもないことだ。

そのうち、結婚とか出産とか子育てとか、今の亜美には想像もつかないようなことが、日常になり、当たり前になり、何でもないことになるのだろう。

誰かと結婚するなんて想像もつかないし、今の亜美は結婚なんてするつもりはさらさらないのだが、それでもいつか、なにかの手違いで結婚しているかもしれない。だが、エプロンをつけて赤ん坊を抱えて「あなた、行ってらっしゃい」なんて微笑む奥さんに自分がなるとは想像つかない。ダンナに金渡して「めんどくせぇから勝手に外で食え!」ってタイプの鬼嫁にはなれるだろうが。

今の亜美は迷子にならずに人ごみの中をかき分けて、迷路のような駅構内を当たり前のように歩いている。それと同じように、当たり前のように結婚して、子供産んで、孫ができて、「結婚とか想像つかねー」とか言ってた自分が嘘みたいに色あせていくのだろう。

それが大人になる、ということなのであれば、なんかヤだな。

だって、大人になって、いろんなことが当たり前になって、行きつく先はどうせ死である。棺桶である。墓場である。

特別だと思っていたことが一つずつ当たり前になっていく。そして最後には、死ぬことすらも当たり前のことになっていく。周りで家族や友達が死んでいくことが当たり前になっていき、最後には自分が死ぬことも当たり前になるのだ。

亜美は「普通」が嫌いだ。亜美にとって普通は退屈そのものである。だが、このまま生きていれば自分はどんどん大人になっていく。特別だと思っていたことがどんどん普通のことになっていく。どんどん退屈になっていく。

明日のことなんてどうでもいい。今日が楽しければそれでいい。亜美はそう思っているのだが、それでも大人になっていけば今日がどんどん退屈なものになっていく。

だったらたまきみたいに美容院に行くか行かないかでおろおろしたり、志保みたいに映画館に着ていく服を一時間もかけて選ぶ、何でもないようなことを人一倍気にしてしまう、そういう人生の方が案外退屈しなくていいかもしれない。

発車メロディが鳴り、電車のドアが閉まる。亜美を乗せた電車がガタゴトと北へ向かって走り出す。

亜美はドアにもたれかかって、目線をあげた。その途端、「あ」と声を漏らした。

電車の上部に掲げられたビールの広告のポスター。ビール缶を片手に、若い男性が笑みを見せていた。

さっきすれ違ったカップルの男の方だった。名前は知らないが、最近テレビで顔を見る。どこかで見たことがあると思ったら、そういうことだったらしい。

 

「そうやってさ、すごく特別だったことがさ、少しずつ当たり前になっていくんだよ。手をつなぐこととか、キスとか、デートとかさ。そうやって、みんな少しずつ大人になってくんだよ」

「でも、それって、ドキドキすることが一つずつ減ってくってことじゃない? だったら私、大人になんかなりたくない」

「でも、そんなこと言ったってさ、どっかで大人にならなきゃいけないし。それに、周りのみんなはどんどん大人になっていくんだよ?」

スクリーンに映し出された二人のセーラー服の少女が、海岸線の道路を歩きながら話している。一人は青空をバックに堤防の上を歩いている。

志保はそのシーンを、ポップコーンを口に運びながら見ていた。手にしたポップコーンがちょっと多すぎたのか、2つばかり手からこぼれてひざの上に落ちる。志保はその二つを手に取ると、隣の田代を見た。暗いながらも、田代がまっすぐスクリーンの方を見ているのを確認すると、ひざの上の二つを自分の口へと放り込んだ。

映画館が暗くて本当に良かった。こんな、ちょっとはしたないところも見られずに済むのだから。

映画が始まって一時間。Lサイズのコーラはもう空になってしまった。にもかかわらず、のどが渇く。志保はもう一度、田代がこちらを見ていないことを確認すると、紙コップにつけられたプラスチック製のふたを、音をたてないように取り外した。氷を一個つまむと、素早く口の中に放り込む。映画館が暗くて本当に良かった。

当り前じゃなかったことが一個ずつ当たり前になっていく。そうやって、みんな大人になっていく。氷を口の中で溶かしながら、志保は映画の中の言葉を反芻する。

人生とはおおむねそういうものだ。小学生の時は中学生になることにドキドキした。町でかわいい制服や部活のジャージに身を包む、自分よりも背の高い女子中学生に会ったときはあこがれを抱いた。と同時に、自分もあと何年かしたら彼女たちと同じ中学生になる、ということが信じられなかった。

あんなにも信じられなかったのに、いざ中学生になってみると、いつの間にか中学生であることが当たり前になっていった。

あの時、ふと怖さを感じたことを志保は覚えている。

そのうち当たり前のように高校生になり、当たり前のように大学生になり、当たり前のように就職する。当たり前のように彼氏ができて、当たり前のように結婚して、当たり前のように母親になる。

なんだか、自分の人生がすでにゴールまで決まっているような気がした。漫画っぽく言えば「ネタバレ」というヤツだろうか。読んだことはないけれど、要所要所の展開はすでにネタバレされている漫画を、「ああ、ネタバレ通りの展開だな」と確認していく作業。

それは志保にとって、退屈を通り越して、ある種の恐怖だった。

社会のどこかに「理想の人生」っていうのがあって、そのために必要な進学とか就職とか結婚っていうアイテムを一個一個回収していくだけの作業が人生なのだとしたら、自分はいったい何のために生まれて来たのだろう。

志保は人生がそういった作業であることを受け入れることが、たまらなく怖かった。かといって、だったら自分は学校なんか行かない、結婚もしないなどと言い切れるわけでもなかった。現に、今もこうやってデートに来ている。人並みの幸せってやつをただただ回収していくだけの人生に違和感を覚えながらも、人並みの幸せってやつを欲し、満喫しようとしている。クスリの快楽と引き換えに捨てたはずの「人並みの人生」に、どうにかして戻る道はないのかと考えている。

一度過ちを犯した人間が、困難を乗り越えて、人並みの幸せを手に入れる道に戻ってくる。世間的にはそれを「立ち直る」というのだろう。きっと今、志保に関わってくれるほぼすべての人が、志保がそうやって「立ち直る」ことを望んでいるはずだし、志保自身もそれを望んでいるはずだ。いや、立ち直れなければ堕落するだけ。「立ち直る」以外に選択肢なんてないはずだ。

スクリーンの中ではシーンが切り替わる。テニス部に所属する主人公の少女が、コートで練習に励んでいる。演じている女優はこの前まで別の映画で主演していた。その時は確か病気で余命宣告をされたはかなげな少女の役だったが、今はユニフォーム姿で青空のもとでラケットを振っている。

ホイッスルが鳴り、コーチが少女にフォームの指導をする。少女はこのコーチに片想いをしているらしい。コーチ役の俳優は最近出てきた人で、この前電車に乗った時は缶ビールのポスターに映っていた。

スクリーンの中の少女が恋焦がれるコーチに向ってほほ笑む。志保と同年代の女優さんは、誰よりも美しく、誰よりもまぶしく、誰よりも輝いているように見える一方、ただ決められたセリフを読み、求められている演技をこなしているだけのようにも見えた。あの子が急に「やってらんねぇよ!」と叫んで、コーチに馬乗りになってぼこぼこに殴りだしたらもっと面白いのに。

 

いざ外に出たはいいものの、どこか行きたい場所があるわけでもなく、たまきは当てもなく北に向かって歩き出した。

病院と交番のわきを通り過ぎ、公園を抜けて舞のマンションのそばを通る。

舞の家に行こうかとも考えたが、たしか今、舞は正月休みを兼ねて、友人とどこかに旅行に出かけてしまった。「あたしがいない間、絶対にトラブルを起こすな」という脅迫めいた言葉を置き土産に。

さらに北へと進む。韓国料理のお店が立ち並ぶ大通りに出た。これ以上向こうに入ったことがないので、たまきは引き返した。

とぼとぼと来た道を引き返し、再び太田ビルの前に戻ってきたが、カギは亜美が持っているので夜にならないと「城」にも入れない。仕方がないので、今度は南へ、駅へと向かってとぼとぼと歩き出した。

東京のど真ん中、こんなにも人がいっぱいいて、こんなにも建物が、お店がいっぱいあるのに、行きたい場所がどこにもない。

この町で暮らすようになって半年がたったが、やっぱりたまきはこの町にもなじめていないようだ。

道路を渡り、線路をくぐり、地下道に入る。いつも公園に向かう道だ。別に公園に何か用事があるわけでもないし、今日は絵を描く道具など持っていないのだが、ほかに行くところもないので、たまきは公園へと足を向ける。ここでいつもと違う道に入ってみたり、いつもと違うお店に行ってみたり、そういう冒険をたまきはしない。

公園に入るとたまきは仙人の暮らす「庵」へと向かった。赤茶色の落ち葉の向こうにベニヤ板のお化けが、木々に隠れるように立っていた。

少し近づいて覗き込んでみたが、仙人はいないようだ。そう言えば、仙人たちホームレスは空き缶を片手に町中駆けずり回ってお金をもらっていると、前に言っていた。今頃、町中を駆けずり回っているのかもしれない。

たまきはいつもの階段に足を向けると、一番下の段に腰掛けた。

こんなことなら、亜美の言うとおり、「城」でごろごろして、コンビニでおにぎりでも買って食べてればよかった。

それでも何となく一人ぼっちになりたくなくて外に出てきたが、外に出てもやっぱりたまきは一人ぼっちだった。

一人になると余計なことをいろいろと考えてしまう。

志保はデートに出かけてしまった。

亜美はどこに行ったか知らないが、どうせ男がらみだろう。

たまきだけ、ひとりぼっち。デートをすることもなければ、会いに行く友達もいない。そういったこととさっぱり縁がないし、どうしたらみんなと同じことができるようになるのかもわからない。やっぱりたまきは、かわいそうな子なのだ。

周りのみんなは学校に行って、友達を作って、恋をして、仕事をして、階段の上の方へどんどん上がっていく。まるで、それが当たり前のように。そうやってみんな、当たり前のように大人になっていく。

たまきだけ階段の一番下の段にうずくまって、ただ上を見上げているだけ。階段の昇り方なんてわからないし、誰も教えてくれない。みんながたまきのいる段を通り過ぎて、どんどん上に昇っていくのを、恨めしげに見上げるだけだ。

階段なんて昇れるのが当たり前。だから、誰もたまきに昇り方なんて教えてくれない。当たり前のようにできることをどうやって教えろというのだ。

別にたまきはカレシが欲しいわけでも、恋をしたいわけでもない。

ただただ、人並みになりたいだけなのだ。

みんなと同じように階段を昇れるようになりたいだけなのだ。

他の人が当たり前のようにしていることを、当たり前にできるようになりたいだけなのだ。

 

写真はイメージです

「よっ」

たまきが腰かけている階段の上の方で声がした。振り返って見上げると、ギターケースを抱えたミチがいた。グレーのジャンパーを羽織り、手には飲みかけのコーラの缶を持っている。

たまきは、無言で軽くお辞儀をした。

「なんか今日、いつもより下の方にいない?」

ミチは階段の中ほどまでは降りてきたが、そこで足を止めた。

「そんな下の方にいないで、こっちあがって来れば?」

ミチは階段の中ほどに腰掛けると、横にギターケースを置いた。

たまきは背中を丸めて、深く深くため息をつく。白い息がもやもやと怪しげに揺れる。

ミチこそ、たまきから見れば階段の上の方にいる人間である。トラブルになったものの、ついこの前まではカノジョがいた。

それに、ミチには夢がある。プロのミュージシャンになるという夢が。たまきにはない夢がある。

今のたまきにとって、ミチはあまりにもまぶしすぎた。

ミチはギターを弾きながら歌い始めた。まだ歌詞はついていないらしく、ラララと歌っている。軽やかにギターをかき鳴らし、ハイトーンでありながらもちょっとハスキーな声で、のびやかに歌っている。

普段は好きなミチの歌も、こんな時に聞くとなんだか後ろから幾千もの針で心を貫かれたかのようだ。

どっか行ってくれないかな。たまきはそんなことを思った。

思っただけで、それを言葉や態度には表さない。たまきはそこまで子どもではない。ミチのことを嫌いと口にしたり、本人に言ったりすることはあっても、嫌いだ嫌いだと醜く顔を歪めて喚いたり、あからさまな態度に表すようなことはしないのだ。

一曲歌い終わるとミチは「ありがとうございました」と世の中に対してあいさつした。そうして、たまきの方に顔を向ける。

「いつまでもそんな下の方いないで、こっちあがって来ればいいじゃん。何? 下の方、好きなの?」

「……私の勝手です」

こういうミチの妙になれなれしいところが嫌いだ。初めて会った時から、ミチはなれなれしかった。なれなれしいという意味では亜美も同じなのだが、亜美とミチで決定的に違うところが一つある。

亜美はたまきがほっといてほしい時、不思議とほっといてくれるのだ。

一方、ミチはたまきがほっといてほしい時も、ずかずか入り込んでくる。今、まさにそうであるように。

クリスマスの一件で少しはミチも変わったかと思ったが、三つ子の魂百まで、そんなに簡単に人は変わらないようだ。

「そういやさ、今日、絵描いてないじゃん。正月休み?」

「別に……」

ミチの問いかけにたまきは振り向くことなく答える。

「ひきこもりにも正月休みってあんの?」

「知りません」

「そういや、お正月に実家とか帰ったりしたの?」

「……帰ってません」

「なんで?」

ミチの無神経な言葉に、たまきは初めて振り返った。ミチは階段の何段か上の方で、ギターを抱えてたまきを見下ろしている。

「実家帰ったら家族とかいるんでしょ? 会いたいとか思わないの?」

「思いません……!」

「なんで? 家族なんでしょ? 家族と離れてたら会いたいって思うのは当たり前なんじゃないの?」

ミチは、わからない、といった顔でたまきを見る。

「……家族のことが好きだったら、そうなんじゃないですか……?」

「たまきちゃん、家族のこと、嫌いなの?」

「……はい、たぶん」

もうたまきはミチを見ていなかった。ミチに背を向け、背中を丸め、自分のスカートのすそをじっと見ていた。

「なんで? だって、家族でしょ?」

気が付けば時計は午後四時半を回り、すでに日が沈み、西のビルの輪郭線から夜が空を侵食し始めていた。空は薄い藍色に染まり、そこから降りてきた影がたまきの背中をべったりと濡らしたかのようだった。

「ミチ君みたいな人にはわかんないですよ……きっと……」

感情を押し殺した声でそう答えるのが、たまきには精いっぱいだった。

「……かもね」

ミチはどこか寂しそうにその言葉を受け止めた。

「でも、普通はみんな、家族好きなんじゃない?」

「私は……ミチ君みたいに、普通じゃないんです……」

家族が好きだと、普通に言える家庭だったらどんなに良かったか。

わかってる。普通じゃないのは自分の方なんだ、ということを。世間的にはたまきより両親の方がよっぽど普通なんだろう。別に虐待を受けたわけでもないし、意地悪な両親だったわけでもない。

ごく普通の両親と、ごく普通の長女がいる家に、普通じゃない次女が生まれてしまったことが間違いなのだ。両親はたまきを普通の子どもとして、お姉ちゃんと同じように、当たり前のことが当たり前のようにできる子どもとして育てたかったけど、たまきはその期待に応えられなかった。やっぱりたまきが悪いのだ。たまきみたいなかわいそうな子が生まれて来てしまったことが、そもそもの間違いなんだ。

今日は絵をかいていないからか、そんなネガティブな思考がたまきの脳をつかんで離さない。

今日はリュックを持ってきていない。たまきのお守りのカッターナイフもリュックの中に入ったままだ。こんな時こそ、お守りが必要だったのに。

 

午後四時四十五分になった。たまきのおなかがぐうぅと鳴る。

もう、帰ろう。

たまきは立ち上がると、

「私、帰ります……」

とミチの方を見ることなく言った。

「うん、じゃあね」

とミチ。

たまきは公園の出口に向かってとぼとぼと歩きはじめる。

何かを食べたい気分ではないが、空腹感には抗えない。今日は志保がいないから、自分で夕ご飯を調達しないと。

歓楽街の中にハンバーガーやポテトのお店がある。そこへ行こう。そう言えば、この前志保から、そのお店の割引券を分けてもらった。あれはたしか、財布に入ってたはず。なんの割引券だっけ……。

そこでたまきは、自分がとんでもないミスを犯していることに、ようやく気付いた。

たまきは普段、外出するときはリュックを背負っている。誕生日に亜美たちに買ってもらったやつだ。

外出(そのほとんどが公園で絵を描くことなのだが)に必要な道具は全部、リュックの中に入れてある。画用紙。色鉛筆。駅前でもらったティッシュ。

そして、財布も。

たまきは、自分の背中に手をまわした。自分が今、リュックを背負っていないことを再確認する。

今日は絵を描くつもりがなかったので、リュックを「城」に置いてきてしまったのだ。そのリュックの中には画用紙や色鉛筆と一緒に、財布も入っているのだ。

そして今、「城」は鍵がかかっていて入れない。鍵を持っているのは亜美だが、いつ帰ってくるかわからない。

いつ帰ってくるかわからないけど、亜美も夕飯を外で済ませてくるはずなので、つまりは、すぐには帰ってこない。

もしも亜美が帰ってくるのが九時とか十時とかもっと遅かったら。それまでぐうぐうとなるおなかの空腹感を抱えたまま、寒い1月の街に、無一文で立ち尽くすことになってしまう。

たまきは幼き日に読んだ絵本「マッチ売りの少女」のはかなげな絵を思い出していた。

再びおなかがぐうとなった。胃の底から悪魔のような飢餓感が、早く何か口に入れろとたまきに急かす。東京には山ほど食べ物があるのに、お金をもっていないとチョコの1枚だって手に入らない。

たまきはくるりと向きを変えると、「庵」に向って歩き出した。歩きながら考える。

志保は……ダメだ。デート中だ。ジャマしてはいけない。

亜美に連絡を取って、もし可能なら亜美と合流して……。

そこでたまきは、自分が携帯電話などという文明の利器をそもそも持っていないことを思い出す。

亜美に電話するには公衆電話を使わなければいけないが、公衆電話に払うお金がない。そもそも、亜美の携帯電話の番号が書かれたメモも、財布と一緒にリュックの中だ。志保の番号だったら覚えてるのに。

「庵」の前についた。黄昏時の薄い闇が靄のようにかかっていたが、それでも、誰もいないことを確かめるには十分だった。

舞の家は……ダメだ。今、旅行中だった。

たまきは深く深呼吸をすると、さっきまでいた階段の方に、少し早足で歩き始めた。

階段の下の方に戻ると、帰り支度を始めていたミチが目に入った。たまきは、たまきなりの速度で駆け出した。

たまきが声をかける前に、ミチの方が気づいた。

「あれ? 帰ったんじゃなかったの?」

「あ、あの……ミチ君ってこの後、バイトですか?」

「いや、今日休みだけど」

「……これからお夕飯ですか?」

「まあ、家に帰ったら」

ミチはギターをケースにしまい終えると、ギターケースを担ぎ、コーラが入っていた空き缶を片手に立ち上がった。

「あ、あの……」

たまきはミチから目線を外し、恥ずかしそうに下を見た後、ミチに目線を戻すと、再び目線を外し、なんとも申し訳なさそうに言った。

「その……ずうずうしいお願いがあるんですけど……」

たぶん、いつの日か美容院で「髪を切ってくれませんか」という時も、きっとたまきはこんな感じなのだろう。

つづく


次回 第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫(仮)」

ミチの家で夕飯をごちそうしてもらうことになったたまき。そこで、たまきは初めて、ミチの家族のことを知り、ある後悔の念に駆られる。続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第22話「明け方の青春」

初詣に向った亜美と志保。二人はそこである人物に合う。そして翌朝、たまきを加えた三人は「二日目の初日の出」を見るために早起きしたのだが……。「あしなれ」第22話スタート。


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

この町が今のような繁華街として発展し始めたのは、戦後の闇市からだ。何もかもなくなった焼け野原の中、露天商やバラック小屋が駅前に集まり、食べ物や日用品を売っていた。

そういった店のほとんどがいわゆる不法占拠だった。もっとも、地権者にお伺いを立てようにも、地権者は地方に疎開してしまっている。

不法占拠のお店はいけないことだけれども、いちいち取り締まっていたら食べ物が手に入らず、せっかく戦争が終わったのにみんな飢え死にしてしまう。

だから闇市は数年のあいだ見逃されてきたし、時には警察が率先して闇市を用意することすらあった。

そんな歴史がある街だからか、今でも闇市を彷彿とさせるような雑多な街並みがこの町には多い。昭和のノスタルジーを感じさせる飲み屋が集結し、飲みに来る客だけでなく、街並みを楽しみたい、そんな人もこのあたりを訪れる。近年では外国人も多いようだ。

歓楽街を出てそんなレトロな飲み屋街を抜けると、小さな階段と神社の鳥居が見える。

現代の不法占拠者たる亜美と志保はその階段を昇って行った。

階段をのぼり、鳥居をくぐると、神社の裏手に出る。

決して大きい神社ではない。ここからだったら明治神宮にだって歩いて行ける。明治神宮と比べたらこの神社はほんの箱庭程度の広さだ。

それでもそこはその町を代表する神社であり、元旦たるこの日は、多くの初詣客が参拝のために並んでいた。行列のことをよく「アリの行列」などというが、列を短くするために4,5人ごとに並ぶその形は、むしろ巨大な蛇を彷彿とさせる。

「すごいねぇ」

志保は階段で切らせた息を整えながら言った。

「ああ、すげぇな」

亜美はそう答えたが、目線は志保と違い、神社の周囲に向けられていた。

本殿の後ろに、いくつものビルがそびえたつ。

「こんなビルだらけのところにも神社ってあるんだな」

「でも、都内にはそういうところいっぱいあるよ?」

「でも、東京の連中ってあくせくしてるじゃん。なんかさ、ムダがないっつうか。なのにさ、神社ってぶっちゃけムダなスペースじゃん。そんなのつぶしてビルとかマンションとか建てちゃいそうなのにさ、ちゃんと残してんだなぁ、って思ってよ」

「無駄ってことはないんじゃない? こんなに参拝客来てるんだから」

「え、何、お前、カミサマとか信じてんの?」

「いや、信じてないけどさ、でも、一応教会に付属する施設のお世話にはなってるし……」

「ああ、そういやそうだったな。あの施設って讃美歌みたいなの歌うの?」

「それはないけどシスターが聖書を読んでくれる時間はあるよ」

「聖書って何書いてあんのさ?」

「う~ん、あたしも詳しく読んだわけじゃないけど、キリスト教の歴史とかかな」

「歴史?」

「そう。キリストが生まれる前とか……」

「ちょい待って。キリストってカミサマだろ? カミサマが生まれる前に歴史なんかあんの?」

「あるよ。聖書には旧約と新約ってあってね……」

なぜか神社でキリスト教の話をしながら、二人は歩いていく。

神社の本殿は境内よりも高いところに建てられている。二人はその本殿の裏にある階段から入り、いま境内を見下ろしている格好だ。

本殿のわきには何やら透明な箱が置かれている。中を覗き込むと、赤い小さな紙がくるっと丸められて、筒状にしてたくさん入っていた。箱には「おみくじ200円」と書かれている。

「変わってんな、このおみくじ」

亜美がしゃがみこんでおみくじの箱を覗き込む。

「うちの近所の神社は、普通に白い紙が中に入ってたよ」

「そうなんだ。あたしんとこじゃ、筒の中に木の棒が入ってて、そこに書いてある番号のおみくじがもらえたよ」

二人は小銭入れに200円を入れ、それぞれおみくじを引いた。

赤い包み紙を外してそれぞれおみくじを読む。

「なあ、志保、『半吉』ってなんだ?」

「はんきち?」

「そう。半分の吉」

「それって、中吉とどう違うの?」

「知らねーよ。おまえはどうだった?」

「えっと……『ショキチスエキョウ』って読むのかな?」

「は? 今、なんつった?」

亜美が不思議そうに志保を見た。

「だから、『初吉末凶』だってば」

「なにそれ?」

「あたしだってわかんないよ」

志保が難しそうな顔をしておみくじをにらみつける。

「あ、でも、縁談のところ『よき縁あり』だって。やった!」

志保が小さくガッツポーズした。

「旅行もよしって書いてある。東がいいんだってさ」

「お、いいな。東っていうと、千葉じゃん。千葉行こうぜ、千葉」

「なんでそんなに千葉に行きたがるの?」

志保が首をかしげる。

「バカ、言わせんなよ」

亜美はいったん志保に背中を向けると、くるりと振り向いて、

「千葉には太陽があるんだぜ」

と言ってにっと笑う。志保はあきれてため息をついた。

「亜美ちゃんはどんなのだった?」

志保が亜美のおみくじを覗き込む。

「あ、待ち人来ないって書いてあるよ。残念でした~」

「別に誰も待っててねぇし」

亜美が口をとがらせる。

「旅行は北がいいってさ」

「北ねぇ。北……。北海道にでも行くか」

「北海道には何があるの?」

「北海道には雪があるんだぜ」

今度は亜美はたいしてひねりも面白みもないことを言った。

「そうだ。せっかくだから、たまきにもおみやげ持って帰ろうぜ」

そういうと亜美は再び財布から200円を出した。

「ちょっと待って。おみやげって、おみくじのこと?」

「そうだよ」

「たまきちゃんのおみくじを、亜美ちゃんが引いて渡すの?」

「そりゃそうだろ。あいつ、来なかったんだから」

「そのおみくじって……当たるの? だって、本人が引いたものじゃないんだよ?」

志保がそう尋ねると、亜美はあっけらかんとして、

「バカ、こんな紙クズが当たるわけねぇだろ」

と元も子もないことを言い出した。

ふたたび200円を入れて、亜美はおみくじの山の中に手を突っ込む。

それと同時に志保は、自分のおみくじをそっとポケットにしまった。

そこには「病気:油断すべからず。過信すべからず。」と書いてあったのだが、志保はそれを亜美には伝えなかった。

こんな紙屑が当たるわけない、そう自分に言い聞かせて。

 

本殿から境内の入り口の方まで、参拝の行列が伸びている。軽く100人は超えていると思うが、それ以上は数える気にもならない。

「おい、あっちに屋台あるぞ。行こうぜ」

亜美が行列の向こうにあるいくつかの屋台を指さして言った。

「じゃあ、なにか食べ物買ってから並ぶ?」

「並ぶ? どこに?」

「いや、これに」

志保は参拝客の行列を指さした。

「ヤだよ。並ぶわけねぇじゃん。うち、並ぶの嫌いだし」

亜美は行列を一瞥すると、そういって通り過ぎて行った。

「あれ? 参拝しないの?」

「別にカミサマとか信じてないし」

「え? でも、初詣に来たんでしょ?」

志保が本殿の方を指さした。

「そうだよ。初詣に来たんだよ」

亜美は屋台を指さして言った。

「じゃ、あたしもなんか買おうかな……」

志保も参拝客の列を通り過ぎて屋台へと向かう。

「あ、クレープある。じゃ、あたし買ってくるね」

志保がそう言いながら亜美の方を向くと、亜美はフランクフルト屋の前にできた行列に並んでいた。

「おう、じゃ、その辺で待ってて。ウチも買ったら行くから」

「あれ、並ぶの嫌いなんじゃ……」

志保はしばらく亜美を見ていてが、

「ま、いっか……」

とクレープ屋の前に立った。

志保は並ぶことなくクレープを買えた。

クレープを食べながらちらりとフランクフルト屋の行列を見ると、亜美はまだ列の中ほどに並んでいた。

志保が再びクレープに目線を戻した時、

「よっ」

と言いながら誰かが志保の肩をたたいた。

声からして女性だ。だが、亜美はまだ列に並んでいるはずだ。とっさに志保はその列の方を見たが、亜美はまだ列の中で暇そうにしていた。

「カンザキさん、あけおめ」

志保は驚きで硬直しつつも、声のした方を振り返った。

トクラがそこに立っていた。真っ黒なコートを着込み、サングラスをかけていた。服から小物までの一つ一つがいかにもセレブと言わんばかりの高級さを漂わせている。

「ど、どうも、……あけましておめでとうございます……。トクラさんも初詣ですか?」

「ん? まあ、そんなとこ」

トクラはサングラスを外してにっと笑った。

「あっちの金髪の子と一緒? 今日はメガネの子はいないんだ」

「誘ったんですけど、たまきちゃん、こういうの苦手みたいで……」

「ふうん」

トクラは自分で話題を振っておきながら、あまり興味がないようだった。

「カンザキさん、あっちの歓楽街でご飯食べてきたの?」

「え、別にそういうわけじゃないですけど」

「ふうん。駅じゃなくて歓楽街の方から来たから、あっちで遊んでから来たのかなぁって思って」

「今日はお正月だからお店あまりやってませんよ……。あれ、なんであたしたち、あっちから来たってわかるんですか?」

「ああ、だって、ずっとつけて来たから」

「ええ?」

つけてきた?

あまり聞きなれない言葉に、志保は戸惑う。

つけて来たっていったいどこから? まさか、「城」から? 不法占拠がばれやしないだろうか。

いやいや、雑居ビルから出てきたのを見られたところで、なにかお店に用があったと思うのが普通。よもや不法占拠で暮らしてるなんて思わないだろう。

そもそも、舞のマンションを経由してからここにきている。

いや、気にすべきはそこじゃない。つけてきた、とはいったいどういうことだろうか。

混乱のあまり言葉が出ない志保を見ながら、トクラは志保がなにを聞きたいのか先回りしてわかっているらしく、勝手に答え始めた。

「何分か前に歓楽街の中をカンザキさんがあの金髪の子と歩いているの、たまたま見かけたんよ。で、あとをつけてみた、ってわけ」

そう言うと、トクラは志保の耳に顔を近づけ、囁くように言った。

「カンザキさんさ、自分じゃ気づいてないかもだけど、けっこう挙動不審だったよ」

「え、それどういうことですか?」

志保は意味が分からない、といった風にトクラを見た。

「あっちこっちキョロキョロキョロキョロ、金髪の子と比べても、だいぶ挙動不審だったよ」

「そんなこと……」

そういいながら、志保はふと、思い当たることがあった。

確かに、外を歩いている間、誰かに見られてる、そんな感覚が何度もした。

でもそれって……。

「それって、トクラさんが後をつけて来たからじゃないですか? ずっと誰かに見られてる気がしましたもん」

志保は少しムッとした感じで答えた。

「あ、そう。カンザキさん、気づいてたんだ」

そういうとトクラはクスっと笑う。

「その割には、こっち一回も見なかったけど。全然違うとこ見てたよ。本当に気づいてた?」

「そ、それは……」

志保は言いよどみ、トクラから視線を外した。

「カンザキさんさ、今日以外でも、誰かに見られてるって思う時ない? 町の中とか、家の中とかさ」

志保は答えなかった。

トクラの言うとおり、町の中でも、「城」にいる時でも、誰かに見られてる、そう思うことがよくあった。外はまだしも、屋内にいる時に誰かに見られていると強く感じる、それが志保には不可解だった。もしかして隠しカメラで盗撮されているのではないかと、一人でいる時に「城」の中を大捜索したこともある。何も出てこなかったが。

「あたしもね、誰かに見られてるって思うことよくあるのよ。部屋の中で監視カメラ探したり、盗聴器探したり、あと、窓の向こうから誰か盗撮してるんじゃないかって、窓開けて外に怒鳴ったこともあったよ」

トクラはそう言いながら志保の肩に手を置いた。志保はそれを払いのけようとしたが、なぜかできなかった。

「カンザキさんも聞いたことあるでしょ。ハッパだのクスリだのやってると、そういう妄想抱くようになるって。誰かに見られてる、聞かれてる、つけられてるって」

「あたし、今はクスリなんて使ってません」

志保は体をよじって、トクラの手を振るい落とした。

「使ってなくてもふとしたきっかけでそういう症状が戻ってくることがあるの。フラッシュバックって言ってね。それがひどくなると、またクスリに手を出すようになるの」

トクラは、志保が払いのけた手を再び志保の肩に置いた。そこに、

「お待たせ~」

と亜美がフランクフルトをほおばりながらやってきた。トクラは手を離すと、

「じゃ、カンザキさん、またね」

と言って去って行った。

「ん? 知り合い?」

「……施設の人と、偶然会って……」

「ふうん」

亜美はそれ以上は興味のなさそうにフランクフルトにかぶりつく。

黒いコートを着たトクラの背中を追いながら、志保はふと思った。

トクラは歓楽街の中から、志保たちをつけていたという。

元旦の歓楽街に一体何の用があったのだろう。

 

写真はイメージです

初詣を済ませた亜美と志保は、「城」へと帰ってきた。もっとも、参拝はしていないのだから本当に初詣を済ませたといっていいのか、疑問が残るが。

「城」の中ではたまきはソファに腰掛け、ゴッホの画集を眺めていたが、志保が

「ただいまぁ」

と声をかけると背筋を伸ばし、

「おかえりなさい」

と返事をした。

「おい、たまき、風呂行くぞ。早風呂だ。準備しろ」

亜美の声掛けにも、

「はい」

とはっきりと返事をする。志保はそんなたまきをまじまじと眺めていた。

「たまきちゃん、なんかいいことでもあった?」

「え?」

志保の問いかけにたまきが戸惑いを見せた。

「ど、どうしてそう思うんですか……」

「いや、何となくなんだけど、いつもより元気があるなぁ、って思って」

「……そう見えますか」

たまきは志保から視線を外しながら答えた。

「そういえばさあ」

と亜美がお風呂セットを用意しながら声をかける。

「ウチは早く風呂入って早く寝て、二日目の初日の出も見るつもりだけど、お前らはどうすんだ?」

「だから亜美ちゃん、それ、もう初日の出じゃないって」

志保はそう笑いつつ、

「日の出って何時?」

と亜美に尋ねた。

「う~んと、ちょっと待ってな」

亜美は携帯電話をいじりだした。

「4時半だってさ」

「4時半かぁ。早いなぁ」

志保がけだるそうな声を出す。

「一度起きて初日の出見て、それからまた寝りゃいいじゃねぇか」

「じゃあ、あたしも“二日目の初日の出”見ようかな。たまきちゃんはどうする?」

「あ、じゃあ、私も見たいです。“二日目の初日の出”」

そう言って笑うたまきを見て、志保は再び尋ねた。

「たまきちゃん、やっぱりなんかいいことあった?」

「べ、別に……」

そこで亜美が、

「そうだ、たまきにおみやげがあったんだ」

と言って、買ってきたおみくじを渡した。

「おみやげ、ですか」

たまきはおみくじの中を見た。亜美と志保も後ろからのぞき込む。

運勢は「凶」だった。

「凶だってよ。お前、くじ運ねぇなぁ」

「え、亜美ちゃんが引いたんでしょ?」

たまきはまじまじと「凶」の文字を見つめる。

「凶」というのはあまりよくないやつのはずだ。

死のうとしたけれど死にきれない、とかかな。

「あ、たまきちゃん、縁談よしって書いてあるよ」

「お、旅行悪しだってさ」

年上二人は、たまきが見るより先に見ていってしまう。

「あ、でも、方角は西がいいってさ。だから、西に旅行に行けばいいんじゃない? 亜美ちゃん、西には何があるの?」

「西か? 西にはたこ焼きがあるんだよ」

亜美もだんだん適当になってきた。いや、元から適当だったのかもしれない。

「西ですか……」

たまきはぼんやりと自分の左側を見た。もっとも、そこは北なのだが、たまきには知る由もない。

恋愛運とか旅行運とか、たまきに縁遠そうなことよりも、たまきは「ともだち運」を知りたかったのだが、たまきみたいな友達のいない子のことまでは、カミサマも考えていなかったようだ。

 

その日、たまきは久々にすっきりと眠れた。

別にこれまでも不眠症だったわけではないのだが、寝ようと目を閉じても心がざわざわしてなかなか眠れなかった。そんなことが一週間続いたのだが、その日は久々にすぐに眠りに落ちた。

夢の中で、たまきは森を歩いていた。

木々は複雑に入り組み、奥まで見通すことを拒んでいるかのようだ。

上を見上げても今度は枝がたまきの視界を遮り、太陽の光を細切れにする。

なんだか、たまきの絵に出てくるような木を集めて作った森、そんな印象を受けた。

そんな森の中を歩いていく。たまきは奥へ奥へと向かって行ったつもりだったのだが、いつの間にかアスファルトで舗装された大きな道に出てしまった。

道の上をたくさんの人が歩いている。セーラー服を着た女の子たち、なにやら楽しそうな若者の群れ、スーツを着たサラリーマン。

たまきもしばらく人の流れに沿って歩いていたが、なんだか息苦しくなり、たまきは道を外れて再び森の奥へと向かっていった。

森の奥へ奥へと向かっていくと、今度はどんどん心細くなる。

木の根っこに躓かないようにと下を向いて歩いていたが、頭に何かがぶつかった。顔をあげてみると、スニーカーが見えた。

さらに目線を上に上げる。スニーカーを履いた女の人が、木の枝からぶら下がっているらしい。学校の制服を着ている。女子高生、もしくは、中学生だろうか。

ぶら下がるといっても、鉄棒のように腕からぶら下がっているのではなく、木の枝からロープが伸びていて、それを首に括り付けてぶら下がっている。

要は、首つり自殺の死体だったのだ。

不思議と、怖くはなかった。どこかで、これは夢だと気づいているのかもしれない。

それよりも、スニーカーに何か見覚えがあるのが気になり、たまきは目線の少し上にあるスニーカーをしげしげと眺めた。

見覚えがあるはずだ。そのスニーカーは、たまきが今使っているものだった。

目線をあげてもう一度死んだ女の子を見てみる。

よく見るとその子の制服も、たまきの中学校のものだった。

眼鏡をかけていないが、その女の子はたまきだった。

ぽたっ、と水が生きてる方のたまきの顔に零れ落ちた。死んでる方のたまきのスカートの奥から、足を伝って滴っている。

そういえば、首を吊って死ぬと、お漏らしをすると聞いたことがある。

たまきは急に怖くなって、走り出した。木の根っこが地面の上に複雑に生い茂っているはずなのだが、躓くことなくたまきは走り続ける。夢は変なところでリアルなくせに、変なところで設定がご都合主義だ。

やがて、開けたところに出た。森の中でそこだけぽっかりと公園のように開けて、電話ボックスが置いてある。たまきは電話ボックスの中に入ってドアを閉めると、息を落ち着かせた。

受話器を取って「城」へと電話をかける。よくよく考えると「城」に固定電話などないし、もちろん電話番号もないはずなのだが、夢というのはこういう違和感になぜか気づけない。

呼び出し音を聞きながらふと見上げると、視線の先に大きな山があった。

青い山のてっぺんに白い雪が積もっている。富士山だった。

ああ、富士山だ。そういえば、おみくじに、西に行け、と書いてあったっけ。

そう思ったときに電話の向こうから亜美の声が聞こえてきた。

「おい、たまき、起きろ。二日目の初日の出、見に行くぞ」

そこで、目が覚めた。

 

写真はイメージです。

1月2日の午前4時15分、三人は太田ビルの屋上に立った。空は真っ暗だが、屋上から下に目をやれば、街灯の明かりと看板の明かり、店から漏れる明かり、お店から漏れる明かりが街を煌々と照らしていた。

夜のない街、不夜城。確かにそうなのかもしれない。

たまきは眠い目をこすりながら、鉄柵に寄り掛かる。冬の夜の冷気を思いっきり吸い込んだ鉄柵は冷たい。

一番眠そうなのは志保だった。大きなあくびを一つ二つ。

「四時半だっけ? 初日の出」

亜美がうんと答える代わりにうなづいた。

「志保、なんか初夢とか見た?」

「ううん、見てない。亜美ちゃんは?」

「なんか見た気がするんだけど、起きたら忘れちゃった」

「あ~、あるよね~、そういうこと。すごい楽しい夢だったとか、すごい怖い夢だったとか、そういうのは覚えてるのに、肝心の中身を全然覚えてないってこと」

志保が眠そうに眼をこすりながら言う。

「たまきちゃんは初夢見た?」

「はい」

「へぇ。どんなの?」

たまきは、なんて答えるか少し迷った。たまきの場合、見た夢をはっきりと覚えていた。

はっきりと覚えていたから、少し迷った。

「その……森の中を歩いていたら……山が、富士山が見えました」

「富士山? それ、初夢で一番いいやつじゃん!」

「え? そうなんですか?」

「そうだよ。昔から、『一富士二鷹三茄子』って言って、富士山と鷹とナスの夢を初夢で見ると縁起がいい、って言われてるんだよ」

「はあ……」

たまきは初めて聞いた、と言わんばかりにきょとんとしている。

「え? 富士山は日本一だからわかるけど、鷹はなんで?」

亜美が鉄柵にもたれながら口をはさんだ。

「さあ……かっこいいからじゃない?」

志保も適当に答える。

「じゃあ、ナスは?」

「ナスは……」

志保はなんとか答えを探そうとしたが、言葉が出てこなかった。

ただただ、ナスのように真っ黒な空が、三人の頭上に広がっていた。

 

1月2日午前4時25分。依然として空は真っ暗で、空気は刺すように冷たい。

最初に違和感に気づいたのは志保だった。

「ねえ、おかしくない?」

真っ暗な空を見上げながら志保が言う。

「何が?」

「あと5分で日の出のはずでしょ? いくらなんでも、空、暗すぎない?」

亜美とたまきは空を見上げた。相変わらず、宇宙の深淵まで覗けそうな真っ暗な空が広がっている。

「亜美ちゃん、昨日、初日の出見たんでしょ? どうだった? こんなに暗かった?」

「え~、どうだったっけなぁ……」

亜美は額に手を当ててしばらく記憶を探るように目を閉じた。

「そういや、もっと空が青っぽかったような……」

「もしかして、世界はとっくに終わってて、もう二度と太陽は昇ってこないんじゃ……」

志保はそう言ってからほかの二人の顔を見て

「そんなわけないよね……。ごめん、今のは忘れて……」

と恥ずかしそうにうつむいた。

「あの……本当に4時半なんですか?」

たまきが不安そうに亜美を見た。

「えー、4時半って書いてあったよ」

亜美は携帯電話を取り出して操作した。

「ほら、ここ、1月2日の日の入りは4時半って書いてあるじゃん」

「ほんとですね」

たまきは亜美の携帯電話を覗きこんで言った。だが、志保は

「ちょっと待って!」

と大きな声を出すと、亜美の携帯電話をかっさらった。

「日の入りが4時半!?」

「ああ、そう書いてあるだろ?」

「亜美ちゃん、日の入りって、日没、夕方のことだよ!?」

「へぇ、そうなん……」

亜美はぼんやりと携帯電話を見つめていたが、顔を見上げて空を見て、

「は?」

と声をあげた。

「日の入りって、初日の出のことなんじゃねぇの?」

「逆だよ。朝は日の出、夕方は日の入り」

「でもよ、プロレスとかで選手入場っつったら、選手がロープ越えてリングの中に入ってくる事だろ? じゃあ、太陽が地面越えて入ってくるのだって『日の入り』じゃねぇのかよ? 太陽は朝に入ってきて、夜に出ていくもんだろ? なんで夕方が日の入りなんだよ、おかしいだろ!」

「あたしに文句言われても、朝が『日の出』なんだから、夕方は逆に『日の入り』じゃん」

「それがおかしい、つってんだよ。太陽は朝に入ってきて、夜に出てくもんだろ!」

「だからあたしに言われても……」

「あの……」

たまきが申し訳なさそうに口をはさんだ。

「それじゃ、日の入りが4時半っていうのは、今日の夕方4時半に日が沈むってことなんですか?」

「……そうだね。ほら、ちゃんと”PM4:30″って書いてあるよ。亜美ちゃん、見落としてたんでしょ。」

「じゃあ、日の出は結局、何時なんですか?」

亜美と志保は同時に携帯電話を覗き込んだ。

「朝の……7時……」

「なんだよ! 2時間半も先じゃんか! ふざけんなよ!」

「亜美ちゃんが間違えたんでしょ? そもそも亜美ちゃん、昨日、初日の出見たんでしょ? なんで時間違うって気づかないの?」

「起きてテレビつけたら初日の出がどうこう言ってったから見に行っただけで、初日の出見たらすぐまた寝たから、時計なんか見てねぇよ」

気づけば時間は朝の4時33分になっていた。相変わらず空は漆黒の渦がとぐろを巻いている。

「……どうする? 寝る?」

志保が一気に疲れたような顔を見せた。

「いまから戻っても、寝れる気がしねぇよ。体冷えてかえって目がさえちまったよ……」

「たまきちゃんはどうしたい? 寝たい?」

「別に……」

たまきも体が冷えて寝れる気がしない。

「とりあえず寒いし、部屋戻ってそうだな……テレビでも見ようぜ……」

亜美はそういうと、階段に向かって歩き出した。

 

午前4時45分。3人はテレビの通販番組をぼんやりと見ていた。

「なあ、ほかに番組ないのか?」

亜美が志保を見て、志保はチャンネルを回す。

ニュース、ニュース、ニュースとチャンネルを回すもニュース番組が続き、そのたびに志保は亜美の顔を見るが、亜美は顔をしかめて首を振るばかり。

最後にたどり着いたチャンネルはただひたすらとどこかの清流の映像を流し続けていた。

「つまんねー!」

亜美はそういうと勢いよく立ち上がった。

「ちょっと出かけてくるわ」

「え、出かけるってどこへ?」

志保が驚いたように亜美を見る。

「この辺だよこの辺」

亜美はソファの上に無造作に投げ出されていたジャケットを羽織った。

「この辺って言ったって、お店なんかやってないでしょ?」

「でも、寝れねーし、テレビつまんねーし、ここにいたってしょーがねーから、ちょっと散歩してくる」

「でも、朝の5時だよ? もし、おまわりさんとかに見つかって補導されちゃったら……」

「大丈夫だよ。あれじゃね、警察も今日くらいは正月休みなんじゃね?」

「そんわけないでしょ」

志保はあきれたようにため息をついた。どうやら、説得は無駄らしい。

「わかった。じゃあ、あたしも行く」

そう言うと志保は立ち上がった。

「一人で歩いてるより二人で歩いてる方がまだ、不審にみられないかもしれないでしょ。わかんないけど」

志保も外出の準備をする。

「じゃあ、その理屈だと三人の方がいいだろ。たまき、お前も来いよ」

「え……」

たまきは座ったまま、二人の顔を見上げた。

「うーん、どうだろ……、たまきちゃんって背もちっちゃいし、夜中に出歩いてたらかえって怪しいんじゃ……」

「いや、わかんねぇぞ。うちら二人歩いてたら夜遊びっぽく見えるけど、たまき一人増えるだけで、印象変わるかもしれねぇ。たまき、絶対夜遊びしそうじゃねーもん」

「まあ、確かに……」

二人の視線がたまきへとむけられる。

「たまきちゃんはどうしたい?」

志保が優しく問いかける。

「えっと……その……」

「昼間と違って人なんかいねぇから、大丈夫だろ。来いよ」

「あの……そうなんですけど……その……」

たまきは心配そうに、亜美と志保を見つめた。

「この辺って悪い人もいっぱいいるじゃないですか。夜中に歩いてたら、悪い人に撃たれて死んじゃうかも……」

それだけ言ってたまきは、恥ずかしそうに下を向いた。

亜美と志保はいったんお互いに顔を見あい、それからたまきに視線を戻し、大爆笑した。

「いくらなんでも、そこまで治安悪くないよ、たまきちゃん」

「だいたい、いつも死にたい死にたい言ってるやつが、なに『撃たれて死んじゃうかも』って心配してんだよ」

「そうですけど……撃たれるのはなんか……」

たまきはバツの悪そうに、亜美の方を見た。

 

写真はイメージです

コンビニの前の冷たいアスファルトの上に三匹の野良猫がたむろしていた。亜美たちが太田ビルの階段がら降りてくると、驚いたのかネコたちは道を空けてくれた。

亜美たちはコンビニを覗き込む。店員さんが掃除をしているほかには、二人ほどの男性客が雑誌を立ち読みしている。

「……で、どこ行くの?」

「そんなん決めてねぇよ。一人でその辺ぶらぶら歩いてくつもりだったからなぁ。どっち行く?」

亜美は道のあっちとこっちを指さして、志保とたまきに尋ねた。

「そっちは交番が二つもあるから、やめた方がいいんじゃない?」

「じゃあ、駅の方行くか。でも、駅前にも交番あるぞ?」

「そこまでいかなくてもいいでしょ。ほどほどのところで引き返せば」

「じゃあ、行くか。いいかたまき、常に周りを見渡して、警察を見かけたらすぐに知らせるんだぞ」

なんだか、散歩に行くというより、戦争に行くゲリラ部隊みたいだ。たまきはそんなことを考えながら、二人のあとについていった。

 

ものの2~3分で大通りにたどり着く。

昼間は車が絶えず行きかい、途切れることなどないが、真夜中ともなると車はたまに何台か通るくらいで、さながら音のない川のようだ。

「なんか、こういう真夜中のさ、誰もいない東京の大通りを、車でぶっ飛ばしたくねぇ?」

大通り沿いに歩きながら、亜美が口を開いた。昼間は喧騒に飲み込まれてなかなか声が届かないのだが、今はとてもよく聞こえる。

「ちゃんとスピード守ってよ、亜美ちゃん」

「たまきはどうだ?」

「私は別に……」

たまきが少し不安げに道路を見ながら答えた。

 

三人は映画館の前にやってきた。当たり前だが、今は上映時間外で、誰もいない。

海外のアクションもの、日本の恋愛もの、サスペンスもの、シリアスでグロそうなもの、なんだかよくわからないものと、様々な映画のポスターが並んでいる。

「あ、今度これ見に行くんだ」

志保がポスターの中の一つを指さした。

青い空にうっすらと雲がたなびく。それを背景に、セーラー服を着た女の子が一列に並んでいる。何か楽しいことでも語りあっているのか、誰もがはじけんばかりの笑顔だ。

キャッチコピーには「青春、それは誰もが必ず通る道」と書かれていた。

「誰と見に行くんだよ、こんな映画」

亜美が笑みを浮かべながら尋ねる。

「別に誰とでもいいでしょ」

志保が少しそっぽを向いて答えた。

「っていうかこれ、何の映画?」

「青春映画だよ」

「面白いの、それ? こっちの方がおもしろそうじゃね?」

亜美は暗くてグロそうな映画のポスターを指さした。

「あー、でも、デートにはこういうの向かないかぁ」

そう言って亜美はにやっと笑う。

「その映画、マンガ読みましたけど、あまり面白くなかったです」

たまきがぼそりと、それでいてはっきりとつぶやく。

「へぇ。どんな内容?」

「……人が死ぬんです」

「それだけ?」

たまきは小さくうなづいた。

「じゃあ、デートには合わねぇなぁ。やっぱこっちじゃねぇと」

亜美はわざと「デート」を強調し、志保も少し顔を赤らめる。

たまきは「青春映画」のポスターをじっと見た。

どうして、こういう映画のポスターは、青空が背景に使われるんだろう。

まあ、「青春」というくらいだ。青空のようにさわやかで、晴れ渡って、どこまでも突き抜ける。それが「青春」という言葉のイメージなのだろう。

それが青春だというのならば、私は青春なんて知らない。

たまきがそんなことを考えていると、いつの間にか亜美と志保は歩きだしていたらしく、少し離れたところで立ち止まって、たまきを手招きしている。

たまきはとぼとぼと歩きながら、空を見上げた。

ビルとビルの間の地割れのようなスペースに、真っ黒な空が濁流のようにあるだけだ。これで満天の星でも輝いていれば、これはこれで青春だと胸を張れそうだが、ただただ真っ黒な空があるだけだ。

誰か、真っ黒な青春映画や、灰色の青春映画も作ってくれればいいのに。

 

写真はイメージです

お正月の真夜中の歓楽街は、お店がたくさんあるところはしばしば人がいるが、路地裏ともなるとほとんど人がいない。三人は人目につかないようにと道を選んで歩く。でも、あんまり人目につかない場所も怖いので、そういうところは避けて歩く。また、誰かが道端で殴られてるところにでも出くわしたらたまったもんじゃない。

そうこうしているうちに、昼間に亜美と志保が訪れた神社の入り口に来た。

「せっかくだからお参りしてかない?」

と志保が鳥居の奥を指さす。

「昨日来たじゃん」

と口をとがらせる亜美。

「昼間はすごい行列でちゃんとお参りできなかったでしょ? 今ならすいてるって」

「別にいいけど、まだ並んでたりして」

「まさかぁ」

亜美と志保は笑いながら境内へと入り、たまきもそれにとぼとぼとついていく。

昼間の大行列も、今は霞のように消えていた。それでも何人かは人がいて、初詣なのだろうか、お参りをしている。夜の闇の中でうっすらと明かりがついた真っ赤な社は、昼間に見るよりもなんだか神々しかった。

石段を上り、社の前に立つ。志保がお賽銭を入れると、たまきもそれを見てお賽銭を入れた。

柏手を叩く構えを見せて、志保が固まる。

「……どっちだっけ? 叩く? 叩かない?」

「神社は叩く」

そう答えたのは亜美だった。パンパンと二回たたき、志保とたまきもそれに倣う。

両手を合わせて祈りをすますと、亜美は

「行くか」

と言ってきた道を引き返した。

「亜美ちゃん、よく神社のお参りに仕方なんか知ってたね」

「オヤジがうるせぇんだよ、こういうシキタリとか。それよりお前ら、なにお願いしたんだよ」

「え、あたしは……」

志保が口を開きかけたが、亜美は

「ま、どうせお前は色ボケしたこと考えてたんだろ」

と、両手を後ろに組んで言った。

「べ、別に……その……ちゃんとその、治療のこともお願いしたもん」

「治療のことも、ねぇ……」

亜美は「も」をやけに強調してにやりと笑う。

「たまきは何お願いしたんだ。まさかカミサマに『殺してください』とかお願いしてねぇよな」

「してません」

「じゃあ、何お願いしたんだ?」

「別に何も……」

「まさか、お前も色ボケたことを……」

「ほんとに何も……」

たまきはほんとに何もお願いしなかった。亜美の真似をして手を叩いて合わせてみたものの、お願いしたいことは特には思い浮かばなかった。

「そういう亜美ちゃんは何お願いしたの?」

「え? カネだよ、カネ」

「夢がないなぁ」

「何言ってんだよ。カミサマよりカネサマの方が願い叶えてくれんだろ」

亜美は胸の前でパンパンと二回手を叩いた。

 

そのあとも歓楽街を当てもなく三人でうろついた。

酔っ払い以外にほとんど人がいなかったが、次第に車の量も増え、スーツ姿の人もちらほらと目に入るようになった。

太田ビルの前に戻ってきた時には、三人の頭上には、群青の絹を敷いたような空が広がっていた。

三人はコンビニで買い物をしてから、「城」へと戻ったが、亜美は荷物だけ置くと、

「屋上にいるから」

と言った。

「まだ日の出には時間あるよ?」

「いいよ、待ってるよ。4時半からずっと待ってるのに比べたらましだろ」

「じゃあ、あたしも屋上で待ってようかな」

そう言って志保も亜美のあとを続く。たまきは少し眠かったが、せっかくなので屋上に行くことにした。

屋上から見た空は、さっきと同じ群青のようだが、それでいて、さっきからほんの数分しかたっていないにもかかわらず、少し明るくなったような気もする。

4時半の時はまだ空が真っ黒で、屋上から見えるビルも、輪郭も壁の色もわからず、窓の明かりでとりあえずビルがあるとわかる程度だった。だが、今は群青の空を背景に、ビルの輪郭がぼんやりと、壁の色彩がはっきりと見える。

明け方の空の群青は、昼間の青空に近い色なのかもしれない。

だが、青空それ自体が輝きを放つのに対し、明け方の群青の空は深みのある暗さをたたえている。

そのため、群青の空に包まれた町明かりは、その深みのある暗さに引きたてられ、不思議と夜中に見るよりも輝いているように見えた。

その空はとっておきの絵の具で塗りたくったかのようにきれいで、朝と夜の狭間の不安定さを持ち、少しずつその色味を変えていく。町明かりはまるで真珠のようにほのかな輝きを放ち、ちりばめられていた。

「あのビルとビルの間、ちょっと空が明るくなってない?」

「ああ、あそこから初日の出が入ってくるんだよ。二日目の初日の出」

志保が指さした方角から、少しずつ空が白く、明るくなってきている。あと二、三十分もすれば、誰もが知っている青空へと変わるのだろう。

だからこそ、たまきにはこの群青の空が、なんだかいとおしいもののように思えた。

たまきは、青空の青春なんか知らない。

でも、青空のもとで青春を謳歌する人たちは、きっとこの群青の空を知らないのだろう。

群青の空は青空よりもどこか暗く、それでいてきれいで、儚い。

そんな空を、友達と三人で見ている。

それがどれほど奇跡的で、どれほどかけがえなくて、どれほどいとおしい瞬間なのか、きっと青空の下で青春を過ごす人たちには、わからないだろう。

「青春、それは誰もが必ず通る道」、そう書かれた映画のキャッチコピーを思い出す。

誰もが必ず通るはずの青春を、たまきは通っていない。そこを通る前にわき道にそれ、いまだやぶの中だ。

それでも、こんなにきれいな青い空が広がっていた。

たまきは昼間の、青空の青春を知らない。

知らなくていい。

この群青の夜明け前の空が、きっと私の、私だけの青春なんだ。

つづく


次回 第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

田代と一緒に映画を見に行く志保。3人はばらばらの行動をとることに。行く当てもなくいつもの公園を訪れたたまきだったが、あるミスを犯したことに気づいてしまう。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

 

「青」がつく地名は死者を葬る場所だった? 書評「『青』の民俗学」

『青』はもともと墓地や葬送を意味する言葉だった! というのが筒井功氏の2015年の著作「『青』の民俗学 地名と葬制」の趣旨だ。これまで、「青は死の色である」といったイメージはなかったが、もし本当にそうだったらオモシロいぞ、と思って読んでみたのだ。


「青」の民俗学

「青はもともと、墓地や葬送を意味する言葉だった!」というのは、筒井氏の発見ではない。本書ではまず、この主張の歴史を振り返っている。

「青の民俗学」を最初に主張したのは、20世紀初頭の沖縄の民俗学者・仲松弥秀だ。沖縄に「オウ」と呼ばれる死者を葬る島があり、この「オウ」は古くは「アフ」や「アオ」と呼ばれていた。

「アオ」はときに「アワ」「アハ」「オウ」「オオ」と変化する、というのが本書の大きな主張の一つだ。

とはいえ、仲松の説はほとんど注目されなかった。「青=死」をイメージさせる言葉がほとんどないため、沖縄で死者を葬る島が「オウ、かつてはアオと呼ばれていた」と言っても、「それは沖縄だけの話じゃないの?」「沖縄の言葉でいう『アオ』と日本語の『アオ』は別物なんじゃないの?」とスルーされてきたわけだ。

その後、民俗学者の谷川健一が注目するものの、深い論証にいたっていない。

そして2015年、筒井氏が「もう一度、青に注目を」と本書を出版したわけだ。

「青」ってどんな色?

本書の大きな欠陥の一つは、「青がどんな色か」という定義を、後半に持ってきてしまったことだと思う。「青は墓場」というのであれば、まず最初に「青がどんな色か」を定義するべきだと思う。

さて、「青」とはどんな色だろう?

「青がどんな色かって? そんなの、こういう色に決まってんだろ!」

それぞれ色の濃さが違うが、現代で「青」と言ったらこういう「ブルー」を指す。

ところが、昔の「青」はもっと広く、

こういう「グリーン」も青と呼んでいた。

「いやいや、グリーンは緑でしょ?」と思うかもしれない。

だが、われわれが「青信号」と呼んでいるものは実は「グリーン」である。普段「青信号」と呼んでいるから、ついついブルーだと思ってしまうが、街に出て青信号と、ブルーなもの、グリーンなものをよく見比べてみれば、あの信号が実は「グリーン信号」であることがわかるはずだ。

また、野菜のことを「青果」と呼び、野菜を売っている場所を「青果市場」と呼ぶが、青果市場でグリーンな野菜はよく見かけるが、ブルーな野菜はほとんど見ない。そもそも、ブルーな野菜なんてまずそうだ。

さらに、植物が生い茂っていることを「青々と」なんて表現する。もちろん、ブルーな植物が生い茂っているのではなく、グリーンな植物が生い茂っているのである。

本書によると、「青」はブルーだけでなくグリーン、さらに時にはブラックやホワイトを指すこともあったという。「黒と白の中間を指す、幅広い色」という意味だったらしい。

このことから筒井氏は「青はもともと『どちらにも属さない』と言いう意味で、そのためあの世にもこの世にも属さない『墓所』を意味した」と主張している(本書の191ページ)。

だが、「幅広い色」は別に青に限った話ではない。

赤も実は、幅広い。

たとえば、十円玉にも使われている銅を古くは「アカガネ」と言った。だが、現代人の色彩感覚でいえば、十円玉は「ブラウン」だ。

日本各地に生息している狐を「アカギツネ」と呼ぶが、これまたブラウン、もしくはオレンジである。

青だけでなく、「赤」も「幅広い色」だったのである。なのに青だけ「どちらにも属さない=あの世でもこの世でもない」と解釈するのには無理がある。

昔は今のように色の名前が細かく分かれてはいなかった。赤、青、黄、黒、白の五色くらいしかなく、グリーンも「青」と呼ばれ、ブラウンも「赤」と呼ばれた。それしか色の名前がなかったのだからしょうがない。

赤は「明るき」が語源と見て間違いないだろう。黒も「暗き」が語源としか思えない。

白は「白き」が語源で、これは「はっきりしている」という意味があるという。

こうやって見ていくと、色の名前は明度と密接なかかわりがあることがわかる。

では、「青」の語源とは何か。

青の語源ははっきりとわかってはいない。

だが、僕は「青」の語源は「淡い」ではないかと思っている。

「アオ」と「アワ」という言葉は密接なかかわりがある。これは本書で筒井氏が繰り返し述べていることだ。

「淡い色」、すなわち、「はっきりしない色」。

赤が「暖色系の、明るき色」であるのならば、青はその対比として単に「寒色系の、はっきりしない色」を指していたと思われる。

少なくとも「どちらにも属さない色」ではない。青はレッドやイエローに比べれば「薄暗くてはっきりしない色、単に明度の問題だと思う。

「青」のつく地名

さて、本書は「青は葬送を意味していた」という証拠として、「青」がつく地名を上げている。逆に言うと、「地名しか残っていない」と筒井氏も認めている。

筒井氏は「青」がつく地名をいくつか紹介し、それが古墳や墓地、葬送とゆかりのある場所であったと論証していく。

青がつく地名に死者が葬られることが多かった、というのは僕も否定しない。

だが、それって当たり前のことなんじゃないだろうか。

死者をどこに埋葬するかだが、集落のど真ん中に埋葬することはあまりない。古くは死者の埋葬を「野辺送り」と呼んだ。「野辺」つまり、集落から少し離れた原っぱに埋葬していたのだ。

逆に言うと、「木々が青々と生い茂っている場所」は、集落から離れ、人があまり寄り付かない場所である。死者の埋葬地としてうってつけだったともいえる。

また、こういう経験がないだろうか。久々にお墓参りに行ったら雑草が「青々と」生い茂っていて、お墓参りはまず、草をむしって除草剤を撒くことから始まる、なんて経験が。

ふと周りを見渡すと、自分の家の墓の3倍は雑草が「青々と」生い茂っている墓があり、「もう何年もだれも来てないんだろうなぁ。かわいそうに」と思った経験はないだろうか。

そう、お墓は放っておくと雑草が「青々と」生い茂ってしまうのだ。なぜなら、お墓は普段から人が寄り付くような場所ではないから。

さらに、かつての日本は両墓制をとっている場所が多かった。両墓制とは、死者を埋葬した場所と、お参りするお墓が別々の場所に置かれることを言う。お墓参りに行くも実はそのお墓に故人は埋葬されておらず、別の場所にほかの個人とまとめて埋葬されている。

名曲「千の風になって」は「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」という出だしで始まるが、かつての日本はリアルに「墓に私はいません」だったのだ。

墓と埋葬地が別々。墓の方にはお盆やお彼岸になるとお参りに行くが、埋葬地の方は誰かを埋葬するときぐらいしか用はない。当然、草木が「青々と」生い茂っていたと考えられる。

何が言いたいのかというと、筒井氏の言う通り「青は葬送を意味する言葉⇒葬送の場所に『青』という地名が付いた」ではなく、「まず、葬送の場所があった⇒人が寄り付かず、草木が青々と生い茂っていた⇒『青』という地名が付いた」ではないだろうか。

「青は葬送を意味する言葉だった」というのは突飛な説である。何せ、現代の日本語に、それを証明できる証拠がほとんど残っていない。

一方、「死者を青々と草木が生い茂る場所に葬っていた」というのは、自然な発想ではないだろうか。何せ、墓場のことを「草葉の陰」というくらいだ。昔は今よりももっと集落の規模が小さく、集落を出れば、そこは荒れ野原、雑木林、山の中と、木が青々と生い茂る場所だった。そこに死者を葬った。人が寄り付かない場所だから、ますます青々と生い茂ったままとなった。

それだけの話なのではないだろうか。

本書の35ページでは、「青木」という地名に対して、「キ」は「人造の構造物」を表す場所であって、「アオキ」は「墓地」を意味するところであるとしている。筒井氏は「青木の由来について『木が青々と茂っていたところの意』といった説明を見るが、私には馬鹿げた解釈としか思えない」と書いているが、何を持って「馬鹿げた解釈」なのかは書かれていないし、馬鹿げていようが「青木は木が青々と生い茂っていた」という自然な解釈が一番可能性が高いんじゃないかと思う。

死者を葬る島、青島

本書では全国の「青島」と呼ばれる島も検証している。

本書では16個の「青島」が紹介されているが、そのうち葬送と関係があるとはっきりわかるのは4つに過ぎない。

……何とも言えない数字だ。

直接葬送と関係ない島でも、対岸に古墳があるというパターンがいくつかある。

筒井氏はそれを「はじめは葬送の島だった⇒葬送の場所が聖地に変わり、古墳が作られないようになった⇒聖地である『青島』が見える対岸に古墳を作った」と解釈している。

だが、筒井氏は本書の中で「死を穢れと認識するようになったのは中世以降」と述べている。古墳とは一般的に3~7世紀につくられたものだから、多くの古墳は死をケガレだととらえる前に作られたことになる。だとすると、「葬送の地が聖地になったから、古墳を作るのが避けられるようになった」という説明は矛盾している。聖地だとしても、死をケガレととらえる前の時代なのであれば、古墳を聖地に作ろうが問題はないはずだ。

かつては「海上他界」と言って、遥か海の向こうのニライカナイといった別世界に死者の霊は行くものだと考えられていた。

だとすると、古墳が青島の対岸に作られたというよりは、単に異界である海が見える場所につくられただけで、たまたま邪魔なところに「青島」があるだけなんじゃないだろうか。それがまるで「青島を仰ぎ見るために古墳を作った」ように見えているだけではないだろうか。

ちなみに、どの島も木々が青々と生い茂っている。まあ、たいていの島はそうなのだろうが。

「大島」も「青島」?

また、本書では「アオ」と「オオ」は非常に近い言葉であるとし、「青島」だけでなく「大島」も葬送の地ではないかとしている。

とはいえ、本当にバカでかくて「大島」と呼ばれる島もあるだろうからそれは除外し、「小さいのに大島」となっている島のみをピックアップしている。

だが、これにも異論が残る。

「小さいのに大島」というのがあくまでも筒井氏の主観でしかないところだ。

飛行機や新幹線でいろんな島を見比べることができる現代人と、その島しか知らない村人の「大きい島」の基準が同じとは限らない。

また、「アオ」が「オオ」に変わりうるからと言って、「大」ではない「オオ」がじゃあ全部「アオ」だとは言い切れないだろう。別の意味の「オオ」である可能性もあるし、「オウ」が変化した可能性、さらには「オ」が変化した可能性もある。僕は「御島」、すなわち「オシマ」が「オオシマ」に変化した、というのが一番自然だと考えている。


どんなに突飛な説であろうと、それがその現象を説明する唯一の説であるならば、どんなに突飛であっても、それが真実に一番近い。

一方で、もっと単純な説でも、もっと自然な考え方でも十分に説明できる、そういった説を否定できないのであれば、「突飛な説」がどれだけもっともらしいことを言おうとも、残念ながらそれは「突飛な説」の領域を出ないのである。

ちなみに、我が家の近くにも「青」とつく地名がある。実際に足を運んでみたが、住宅街の中に今なお原っぱが残り、草が青々と茂っていた。ちなみに、そこから川を渡って反対側、さらに街道も越えたところ、青とは全然関係ないところに古墳がある。地名としては青とは全然関係ないが、古墳には木々が青々と茂っている。

小説「あしたてんきになぁれ」 第21話「もやもやのちごめんね」

クリスマスの一件以降、なぜかたまきの心はもやもやしたまま、晴れない。一方、ミチもまたモヤモヤを抱えていた。そして、お正月がやってくる。「あしなれ」第21話、スタート。


第20話「冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

たまきはまどろむ。

眠りにおける最大の快楽がこのまどろみだ。夢と現のちょうど境目で、まるでヤジロベーのようにゆらゆらとバランスを取るこのまどろみがなんとも心地よい。

たまきはブランケットにくるまり、器用にソファの上に寝転がってまどろむ。

いつもは三人そろってソファで寝てる、と舞に話すと、お前らよくそんな狭いところで寝れるな、と言われた。

だが、たまきは広い場所よりも狭い場所の方が好きだ。

ずっと、狭い場所で生きてきた。

教室よりも狭い自分の部屋に引きこもっていたし、今も大都会の東京にいながら、この「城(キャッスル)」という名のつぶれた小さなキャバクラに引きこもっている。

もしかしたらたまきの心も、狭い狭い籠の中に入っているのかもしれない。

ひとりぼっちはいやだ、ひとりぼっちはさみしい、と言いながら、その心の内に他者が踏み込むことは決して許さない。籠の中から外を恨めしげに見ているが、籠の中に誰かが入ってくるのはけっして認めない。

さながら路地裏の野良猫のようである。甘えたそうにこっちを見ているのに、いざ近づくと、触らにゃいでくれといわんばかりに、一目散に逃げだしてしまう。

そんなたまきのまどろみを邪魔したのは、

「おめでとー!」

という亜美と志保の叫びだった。

夢と現の間でゆらゆら揺れていたたまきのヤジロベーが、バランスを崩して現の方に真っ逆さまに落っこちる。

何か天変地異でも起きたかのようにたまきは飛び起きた。眼鏡をはずしたままだから、視界がぼやける。

とりあえず冷静になる。なにが起きたのかは知らないが、亜美と志保は「おめでとー!」と言ったのだ。とりあえず、マイナスなことが起きているわけではない。火事や地震のように、今すぐここから逃げなくてはいけないわけではないだろう。

「お、たまき、起きたか」

「たまきちゃん、おめでとー!」

どうやら、何かおめでたいことが自分の身に起きたらしい。

だが、全く心当たりがない。宝くじでもあたったのだろうか。いや、買った覚えなんかない。

「あの、何かおめでたいことがあったんですか?」

たまきは裸眼のまま目をぱちくりして尋ねた。亜美と志保の顔もぼやけて、髪の毛の色で何となくこっちが亜美でこっちが志保だろう、とわかる程度だ。もし、声がそっくりな別人と入れ替わっていてもわかるまい。

「バーカ、正月だよ!」

亜美の新年一発目の「バーカ」が聞こえた。

1月1日の、午前零時になったばかりである。

「たまきちゃん、あけましておめでとう」

たまきの目の前で志保がにっこりとほほ笑む。いや、たまきには見えていないのだが、声の調子から微笑んでいる気がする。

「……おやすみです」

たまきはそうとだけ言うと、再びごろりと横になって目を閉じた。

なんだ、おめでたいことなんて、なにも起きてないや。

 

再びまどろみの塀の上に戻ろうとしたたまきだったが、たまきのヤジロベーは現の側に大きく傾いたまま、ピクリとも動きそうにない。

聞こえてくるのは亜美と志保の笑い声。どうやら、テレビを見ているらしい。テレビの向こうからタレントの笑い声も聞こえる。

だが、たまきがまどろめない理由は、どうやら回りがうるさいから、ではないらしい。

うるさいのはたまきの心の中なのだ。

周波数があってないラジオのように、ザザザ、ザザザとノイズが入り、時折、混線でもしたかのように、いつかの自分の言葉が聞こえてくる。

『その時になって初めて、地獄を見ればいいんじゃないですか』

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

そういったセリフはどこかエフェクトがかかっているみたいで、まるで自分の声ではないみたいだ。耳をすませばピーガガピーピーというノイズが聞こえてきそうだ。

いや、自分の声じゃないように聞こえるのは気のせいで、それらの言葉は紛れもなくたまきの言葉なのだ。自分の口ではっきりといった言葉なのだ。

クリスマスイブの夜以降、たまきはずっとこんな感じだった。以前は目を閉じればどこでもすぐに眠れたのに、心がざわついてなかなかすぐに寝付けない。

もっとも、いつもに比べてすぐに寝付けないだけで、別に全然眠れないわけではない。

よしんば不眠症だったとしても、たまきは別に困らない。毎日毎日「城」でごろごろして、たまに思い出したように公園に出かけて絵を描くぐらいの毎日なのだから。いっそ不眠症にでもなったほうがまだ健康的かもしれない。

たまきの心をざわつかせているのは、「なかなか寝れないこと」そのものではなく、「なぜなかなか寝れないのか」、その理由がわからないことだった。

正確にいえば、寝れない原因ははっきりしている。クリスマスイブの夜に起きた騒動のことが心から離れない。それがたまきの安眠を妨げているのだ。

問題は、なぜそれが心から離れないのか、その理由がわからないのだ。

ミチの不倫がばれて、相手の男性に殴られた。それはそれで大事件だったのだが、ミチは助かったし、問題自体はもう解決したはずだし、正直な話、ミチが不倫しようが殴られようが、たまきには直接関係のない話だ。

なのに、どうして、あの日のことが心から離れない。

あの日の自分の言葉が、心から離れない。

耳を澄ませば、またあの日の言葉が聞こえてくる。

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

聞こえてきたのはミチの言葉だった。

いったいなんだというのだろう。

たまきは正しいことを言ったはずだ。

悪いのはミチと海乃って人、あの二人なのだ。間違っていることをしたから、たまきは自分の思ったことを、自分が正しいと思ったことをぶつけた。

なのにどうして、たまきがいつまでももやもやしなければいけないのだろう。

 

寝付けない、寝付けない、そう思いながら気が付くと朝だった。

時計を見ると午前十時。

寝付けない寝付けないと言いつつ、どうやらしっかり眠っていたようだ。

眼鏡をかけて、ぼんやりと部屋を見渡すと、テレビがついていて、「全国の元旦の朝」みたいな映像が流れている。

「たまき、起きたか。あと十五分ぐらいしたら出かけるぞ」

ばっちりメイクをした亜美がそう言った。

「どこか出かけるんですか?」

「先生のとこ。お年玉もらって、おせち食うんだ」

「そのあとは初詣に行くよ」

と志保。

なんだかめんどくさいな、と思いつつもたまきは起き上がった。

たまきは髪の毛を整える程度の支度を済ませる。

「そういえば亜美ちゃん、朝さ、いなかったよね」

「ん? 屋上にいたんだよ」

亜美が答える。

「何してたの?」

「そりゃお前、正月の朝っつったら、初日の出見るために決まってんだろう。やばかったぜ。区役所とビルの隙間からちょうど朝日が昇ってくるんだ。光がこう、パーっとなって、ぴかーっとなって、うわっやべーってなって」

「よくわからないけど、あたしも見たかったなぁ。起こしてくれればよかったのに」

志保が不満げに口を尖らせた。

「じゃあさ、明日の朝見ようぜ」

「え?」

たまきと志保が同じタイミングで亜美を見た。

「明日見るって……何を?」

「何って、明日の初日の出だよ」

「明日って……、一月二日だよ?」

「知ってるよ」

「亜美ちゃん、初日の出の意味、わかってる?」

「その日初めて出てくる太陽の事だろ?」

「それ……ただの日の出です」

たまきがぼそりとつぶやく。

「亜美ちゃん、初日の出って、その年初めての日の出のことだよ?」

亜美は不思議そうな顔して話を聞いていたが、やがて顔をしかめて

「なにそれ?」

と言った。

「正月の朝だけ特別ってわけ?」

「そうだよ。だから亜美ちゃん、わざわざ早起きして見たんでしょ?」

「いや、うちは、テレビつけたら初日の出がどうとか言ってたから見に行っただけだけど、じゃあ、なに、今日の初日の出は初日の出だけど、明日の初日の出は初日の出じゃねぇのか?」

「だからそれ、ただの日の出です」

たまきがまたぼそっと言う。

「なんだよそれ。なんで正月の初日の出だけ特別なんだよ。明日見たっていいじゃねぇか。どうせおんなじところからおんなじ時間に昇ってくるんだから。今日の初日の出と明日の初日の出、クオリティが違うのかよ。んなわけねぇだろ?」

「まあ、クオリティは一緒だと思うけど……」

志保があきれたように言った。

 

お正月なんて何一つ特別なことなんてない。

たまきはそう思っているのだが、それでも年が変わり、1月1日というまっさらな日の空気は、冷たくもどこかすがすがしさを感じずにはいられなかった。

三人は連なって太田ビルの階段を下りていく。

2階まで降りると、ラーメン屋がのれんを出していた。

「この店、正月でもやってるんだ」

「みたいだね。年中無休って書いてあるよ」

「は~、正月早々ご苦労様です」

亜美が感心したように言うと、軽く敬礼をして見せた。

階段を下りた三人は舞の家に向けて歩き出す。

歓楽街に正月休みなんてないらしく、お正月だからと言って特別何かがいつもと違うわけではない。

「ミチってさ、今日もバイトしてんのかな?」

と亜美が切り出した。

「さあ。そもそも、ミチ君ってもうケガ治ってるの?」

「おい、たまき、なんか聞いてねぇか?」

「……なにも知りません。なんで私なんですか……」

「だって、お前が一番、ミチと仲いいだろ」

「……仲良くなんか、ないです」

たまきはわざと亜美から目線を外した。再びラジオのノイズみたいな音が聞こえた気がした。

「でも、たまきちゃん、よく公園でミチ君と一緒になるんでしょ? あの日もたまきちゃんだけ残ってたし、何か聞いてないの?」

「……あれ以来、会ってません」

たまきは、もうその話題に触れてほしくないかのように、歩調を落とした。

「でも、ミチ、もしも骨折とかしてたら、そんなすぐには治んねぇだろ」

「でも、先生は『最悪、亀裂入ってるかも』って言ってたから、逆に骨折してる可能性は低いんじゃない?」

ミチについて会話する亜美と志保の後ろを、たまきはとぼとぼとついていく。彼女の眼鏡に映る景色は、どことなくモノクロに感じた。

 

写真はイメージです

「せんせー、明けましておめでとー!」

「……お前ら、何しに来た」

舞は機嫌が悪そうに、マンションの廊下に並んだ三人をにらんだ。

「とりあえず、お前ら、中に入れ」

舞に促され、三人は部屋の中へと入る。

「先生、振袖とか着ないの?」

「一人で部屋の中で振袖着てたら、イタいだろ」

舞はそういうと、志保のほうを向いた。

「志保、お前、最近どうだ。クスリを断ってもう半年近くなるだろ」

「はい」

「クスリを使いたいって思うことはあるか? 怒らねぇから、正直に言えよ」

舞は灰皿の上に置いてあった煙草をくわえた。

「……あります。でも、一度も使っては……」

「了解。いいんだよ、それで」

舞はそういうと、今度はたまきのほうを向く。

「お前は、三日前のリスカの傷、どうなった」

「……別に何も」

正確にはまだちょっと痛いのだが、傷が開いたわけでもないので、たまきはだまっていた。

舞は何か考えるようなしぐさを見せた後、亜美のほうを向いた。

「亜美、お前、まさか、父親が誰ともわかんないガキを孕んだとか……」

「ないよ」

亜美があっけらかんとして答える。

舞は腕組みして数秒間考えた。

「じゃあ、お前ら、何しに来たんだ!?」

「何って……正月の挨拶ですよ」

「ずいぶん平和な用事だな……」

「何? 先生のとこって、ビョーキとかケガとかニンシンとかしてないと、来ちゃいけないの?」

「お前らが突然やってくるときは、だいたいなんかのトラブルと一緒だろうがよ! トイレで倒れてるとか、道路で殴られてるとか!」

たまきは舞の部屋を見渡した。いつもと何も変わらない。ここにいたら今日がお正月であることも忘れてしまいそうだ。

「せんせー、お年玉ちょーだい」

舞は浅くため息をついた。亜美がお年玉をせびることは想定済みだったらしい。

舞はおもむろにキッチンに向かうと、調理器具の中からお玉を手に取った。そしてリビングのソファの前に立つと、ソファの上にポトリとお玉を落とす。

「なに? いまの」

「おとし玉だよ」

三人はしばらく、ポカンと舞を見ていた。

「……くだらねぇ!」

「うるせぇ!」

亜美の言葉にかぶせるように、舞が吼えるかのように言葉をぶつけた。

「いいかお前ら、あたしはいつもお前らのことをタダ同然で面倒見てやってんだぞ! この前のミチの一件だって、本来の治療代と比べたら激安でやってやったんだからな! むしろ、お前らからもっとお金貰ってもいいくらいだ。なんであたしがお前らにお年玉払わにゃならんのだ!」

ミチの名前が出て、たまきは少し前のめりになるように口を開いた。

「あの、ミチ君、あれからどうなりました?」

「お、なに、心配?」

舞が妙ににやにやする。

「いや、そういうわけじゃ……」

下を向いたたまきを見て、舞はわざとらしく声を上げた。

「へぇ、心配してんだ。この前あんなにおおげん……」

「ま、舞先生…!」

たまきが慌てたように舞を見る。

「わかってるよ。言わないって」

舞はまだにやにやしている。

「おおげん?」

「なんだ、オオゲンって?」

志保と亜美が不思議そうに舞を見る。

「ん? ああ、ミチなら大元気だよ。オオゲンキ。結局、骨もおれてなかったし、頭打ったわけでもないし。年末に一回うちに呼んで様子見たけど、歩くのにちょっと足引きずってる感じだったけど、まあ、若いし、直に治るだろ」

「そうですか……」

たまきはどこか納得していないかのようだった。

「ところで、先生さ、おせち作ってないの?」

亜美がソファに腰掛けながら訪ねた。

「ないよ。一人でおせちなんか作るかよ」

「買ったりしてないの?」

「だからないって。一人でおせち食うかよ」

「なんだ。志保、おせちないってさ」

亜美がつまらなそうに言った。

「あれ? 亜美ちゃん、先生の家におせちあるから食べに行こうって……」

「いや、先生だったらおせちぐらい用意してるかもなぁ、って思ってたんだけどなぁ」

「え、ずいぶん自信ありげに言ってたけど、あれ、ただの予想だったの?」

「ダメじゃん、先生。正月なのにお年玉もおせちも用意してないなんて」

「勝手にあたしを当てにすんな」

舞が亜美を、ぎろりとにらみつけた。

 

結局、4人のお昼ご飯は舞の家にストックされていたカップラーメンという、お正月とは程遠いものとなった。

お昼を食べ終えて、亜美と志保は近くの神社に初もうでに向かった。

たまきも誘われたのだが、人ごみに行きたくなかったので、断った。

だいたい神様なんて信じていない。「早く死にたい」というたまきの願いは、一向にかなわないのだから。

テレビを見るとどこかで事故が起きたの、病気で人が死んだの、殺されたのと悲しいニュースが流れている。

こういうニュースが悲しいのは、死にたくない人が死んでしまうからだ。

どうせなら死にたくてしょうがない自分みたいな人が犠牲になればよかったのに。そうしたら悲しくなんかないのに。

死にたくない人が死んで、死にたい人が新年を迎える。もしも神様がいるなら、きっと悪趣味で残酷な奴に違いない。

 

たまきはソファの上でひざを丸めていた。舞の家にいてもやることがないし、このまま「城」に帰ろうかとも思ったが、帰ったところでやることはない。

何より、一人になったらまた心がもやもやして、あのノイズが聞こえてきそうだ。

眠ろうと思って目をつむった時、トイレに入った時、亜美も志保もいなくてひとりっきりになった時、心がもやもやして、ざわざわして、ノイズとともにイブの夜のことを思い出す。思い出してまたもやもやする。

ノイズが聞こえてくるタイミングはほかにもある。階段を下りてミチの働くラーメン屋の前を通りかかったとき、会話の中でミチの名前が出たとき、心がざわざわとし、あの夜のことが、ミチとのやり取りが頭をよぎる。

なぜあの日のことが頭を離れないのか、心がもやもやしてざわざわするのか。いくら考えても答えが出ない。

いくら考えても答えが出ないのに、それでも考えずにはいられない。もやもやするのが気のせいだなんて思えない。

さっきだってそうだ。ミチの名前が出るたびにもやもやしてるのに、自分からミチの話題を切り出した。ミチの話をすればまたもやもやするってわかっているのに。

そして、ミチのけがは心配ないという答えは、たまきが望むものではなかった。

別にミチのけがが治らなければいいとか、そういう意味ではない。たまきが知りたかったのは、ケガの具合じゃないのだ。それも心配だけれど、知りたかったのはもっと別のことなんだ。それは……。

「ミチ君、大丈夫でした……?」

「ん?」

舞は少し離れた所に立って、コーラを飲んでいたが、たまきの問いかけに怪訝な顔をした。

「さっき言っただろ? 大元気だったって……」

「けがのことじゃないです」

たまきは舞を見ることなく言った。

「そうじゃなくて、その、落ち込んだりしてなかったかなとか……」

舞はコーラを一口飲んでから答えた。

「そういう意味では元気なかったかもな。確かに、声のトーンとか、目線とか……、まあ、あんなことあったんだし、そんなすぐに立ち直れはしないだろうし」

「たぶんそれ、私のせいです……」

まるで冬の冷たい吐息のように、たまきはぽつりとつぶやいた。

「おまえのせい? なんで?」

「私があの時、ミチ君を傷つけるようなこと言ったから……」

たまきの中のノイズが、より一層大きくなった。

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

あの日の言葉が、ノイズがかかった状態で聞こえてくる。

「それでミチが落ち込んでるって思ってるの? いやぁ、考えすぎだろ」

舞はコーラの感をテーブルの上に置くと、笑いながらそう言った。

「でも……」

「前にも言ったろ。お前は何でも自分のせいにしがちだって。ミチがケガしたのも、お前にいろいろ言われたのも、全部ミチの自業自得なんだから。大丈夫。お前は間違ったことは言っちゃいないよ」

「私も、間違ったことを言ったなんて思ってません……」

「だったらそれでいいだろ。まだ納得できないことがあるのか?」

「はい……」

舞はコーラ片手に、たまきの隣に座った。たまきは膝の上に置いた両手を固く結び、その一点を見つめていた。

「心が……もやもやするんです……。ざわざわするんです……。なんであんなこと言っちゃったんだろうって。なんであんな言い方しかできなかったんだろうって。私は間違ってない、間違ったことは言ってない、何度もそう思っても、それでももやもやするんです……」

話ながらたまきは、ノイズの奥にある自分の本音が少し聞こえたような気がした。

「なんでかね、それは」

舞はやさしくほほえみながらそうつぶやいた。

「きっと私は……自分のことが赦せないんだと思います」

たまきは今にも消え入りそうな声で、それでいて力強くそう答えた。

「ああいう言い方しかできなかったことが?」

「はい……」

「でも、あたしから見ても、お前の言ってたことは間違っちゃいないぜ。悪いのは不倫して、嘘ついてたミチだ。そのことをきつく言われて落ち込んだからって、お前が自分を責める必要はないんじゃないか?」

「でも……、もやもやするんです。なんでなんで私はあの時……、って。それが心から離れないんです。自分が……赦せないんです……」

「それは、なんで?」

舞はうつむくたまきの目を覗き込むようにして言った。

「そうまでして自分のことが赦せないのはなんで?」

「それが……わからないんです……」

たまきはじっと一点を見つめたまま答えた。

舞はごくごくとコーラを喉の奥に一気に流し込むと、缶をテーブルの上に置いた。

「確かに、お前の言ってたことは正しかったけど、優しくはなかったかもなぁ」

「え?」

たまきはこの時になって初めて、舞のほうを向いた。

「お前が言ってることはそういう事だろ? 自分は正しいことを言った。でも、優しくなかった。優しくなかった自分が赦せないって」

「そうなんですか?」

「いや、お前のことだよ」

舞は笑った。

自分の言ったことは正しい。

でも、優しくなかった。

舞の言葉を心の中でたまきは何度もつぶやく。

いつしか、たまきの中に聞こえていたノイズは消えていた。もやもやもざわざわも消えていた。

「あの日、私は、やさしくなかった……。ミチ君に対してやさしくできなかった自分が赦せなかった……」

たまきはもう一度舞のほうを向いた。

「そういうことなんですか?」

「だからあたしに聞いても正解なんか知らないって。お前のことなんだから」

そういって舞はまた笑う。

「私は……やさしくない自分が赦せなかったんだ……」

「おまえはヘンなやつだな」

舞は白い歯を見せてにっと笑う。

「ヘン……ですか?」

「だってさ、自分がやさしくなかったから自分を赦せないって、そんなこと考えるのは、やさしいやつだけだよ。おまえは人一倍やさしいんだよ。なのに、自分がやさしくなかったから赦せない、なんて言ってやがる。矛盾してるだろ」

「私は……やさしくなんかないです……だってあの時……ミチ君にきつい言い方を……、海乃って人にも……」

「だから、そんな風に考えること自体、やさしいやつだけなんだよ」

舞はさっきから、ゲラゲラと笑っている。

「あたしがお前ぐらいの時なんか、そんな風には考えなかったぜ。あたしは正しいこと言った、あたしは間違ってない、って。その言い方がやさしくなかったとか、もっと別の言い方があったんじゃないかとか、そんなこと考えなかったよ。いや……、大人になってからもそうだったかもな……」

どこか遠い目をする舞の横で、たまきは突然立ち上がった。

「私、ミチ君に謝らないと」

「おお、どうした、急に」

舞は立ち上がったたまきを見上げた。

「別にお前が謝る必要なんかないんじゃないか? 確かにお前の言い方はやさしくはなかったかもだけど、何度も言うけどさ、悪いのはミチなんだぜ。ミチが悪いことして、その結果なに言われようが、自業自得だと思うけどねぇ」

「でも、私はミチ君にやさしくできなかったんです。やっぱり、そのことをちゃんと謝らないと」

たまきの言葉に舞は、いつになく意志の強さを感じた。

「私、帰ります。舞先生、ありがとうございました」

「おお、まあ、頑張って謝って来いよ」

たまきは舞にぺこりとお辞儀をすると、舞の部屋を出て行った。

たまきが出ていき、部屋の扉がバタンと閉じた。その扉を見ながら、舞はひとり呟いた。

「ほんとうにヘンなやつだ」

 

写真はイメージです

元日の昼過ぎ、ミチはいつもの公園の、いつもの階段にいた。

けがをして、それも足をくじいていたので、この公園に来るのは久しぶりだった。

ギターケースを下すと、階段に腰掛ける。夏場には鉄板のように熱い階段のコンクリートも、今では氷のように冷たい。

腰を下ろしたまま、ミチはただぼおっと前だけを見ていた。

ふいに後ろから声をかけられた。

「あけましておめでとう」

振り返ると、そこには仙人が立っていた。

「……あけおめっす」

ミチは軽く頭を下げる。仙人は笑いながら、

「今の若いもんはそんな風に略すのか。まあ、正月なんて何がおめでたいのかわからんもんな」

と言った。

「今日は歌わんのか?」

ミチは答えなかった。

仙人はミチの横の空いたスペースに目をやった。

「となり、いいかな?」

ミチは無言でうなづく。

「かわいいお嬢ちゃんじゃなくて申し訳ないがな」

「別に……」

仙人はミチの隣に腰掛けた。

仙人は手にカップ酒を持っていて、それを開けるとちびちびと飲みだす。

仙人は、ミチの額に貼られたばんそうこうについては、何も聞かなかった。

仙人がカップ酒を半分ほど飲んだ時だった。

「あの……」

ミチが仙人に話しかけた。

「ちょっと、話を聞いてほしいんす……けど……」

ミチは横目で仙人の表情をうかがう。

「歌ではなくて話を聞いてほしいか。噺家にでもなったのか?」

そういって仙人は、優しく笑った。

 

ミチは仙人にすべてを話した。不倫したこと。ばれたこと。殴られたこと。相手にも、そして友達にも嘘をついたこと。そして、たまきに軽蔑されたこと。

仙人にも軽蔑されるかと思ったが、仙人は時折あいづちを入れるだけで、不倫したことに対して、特に何も言わなかった。

一通り話し終えて、仙人は

「そりゃ、大変だったな」

とだけ言った。

「仙人さんは……その……今の話を聞いて、俺のことどう思います……?」

「別にどうも思わんさ。わしに迷惑をかけたわけではないからな。おまえさん、まだ未成年だろ? だったら、いっぱい道を踏み外して、めいっぱい怒られればいい。おまえさんは今回、自分の行いで傷つく人がいることを知ったんだ。おまえさんぐらいの年だったら、そこから学んで、二度と同じ過ちをしなければそれでよい」

仙人はカップ酒の入った小瓶を地面に置いた。

「経験するだけじゃ何も偉くない。人の価値を決めるのは経験から何を学んだか、だ」

「そうっすか……」

「ところで、どうしてこんな話をわしにしたのかな?」

「……」

「わしはてっきり、お前さんに嫌われていると思っとったんだが」

ミチは答えず、下を見つめた。

「ただ話を聞いて、懺悔したいというのなら、わしなんかよりも寺や教会に行ったほうがよいぞ。悪い宗教家というのは口がうまいが、善い宗教家は話を聞くのがうまい」

「そのっすね……、俺、どう謝ったらいいのかわからなくて……」

仙人は再びカップ酒を口にした。

「さっきの話を聞く限り、お前さんの先輩が、お前さんとその女の人はもう二度と会わないということで話をまとめたんだろ? だったら、下手に謝罪しないほうがいい。かえって話がこじれる。勝手なことをすれば、先輩とやらの顔をつぶすことにもなる」

「その……でも……」

「何か割り切れないことがあるのか?」

「俺、たまきちゃんにどう謝ればいいのかわからなくて……」

「ほう」

仙人は興味深そうにミチを見た。

「俺のせいで巻き込まれて、ケガしちゃったし、あんなに怒ってたし、ちゃんと謝んなきゃなって……。でも、こういう言い方するとあれなんすけど、あの子普通の女の子と違うっていうか……、普通の女の子ならなんかアクセサリーとかあげれば喜ぶかなって思うんすけど、たまきちゃんがアクセサリーとかつけてるの見たことないし、あの子、画集とかそういうの貰って喜ぶ子だから、何あげればいいかなって……」

「ボウズ」

「はい……」

ミチは緊張した面持ちで仙人を見た。

「わしから言えることは二つだ。まず、モノをあげれば謝ったことになると思っとるんなら、それは間違いだぞ」

「そ、それはそうなんすけど……」

ミチは仙人から視線を外し、泳がせた。

「でも、やっぱり、手ぶらっつーのも……」

「それにだ、確かにお嬢ちゃんが、お前さんに巻き込まれてケガしたことに怒っとるんだったら、まあまだお詫びの品を持ってくでもいいが、話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこに怒ったわけではないと思うぞ」

「……というと」

「そもそも、お嬢ちゃんがケガをしたのは、お前さんを助けようとしたからだろ。おまえさんはお嬢ちゃんに助けを求めたのか?」

「……いいえ」

「つまり、お嬢ちゃんは自分の判断でおまえさんを助けようとしたんだ。ケガしたくなかったら、そんな事せんだろ」

「でも、現に、たまきちゃんは俺のせいでケガしちゃったわけで……」

「まあ、お前さんの気が済まんというのなら、謝って来ればいいさ。モノがなきゃどうしても不安だというのなら、お菓子の一つでも買っていくといい。だが、わしにはもっと他に謝らなければならんことがあるような気がするがの」

ミチは何も答えなかった。

「お前さんもそのことをうすうすわかっとるんじゃないのか。だが、それが何なのか、はっきりとは分からない。何をあげたらいいかとかそういうんじゃなく、あの子の前に立った時に何を言えばいいのか、本当は何を謝らなければいけないのか、それがはっきりと自分でもわかっとらんのではないか? だから、とっとと謝りに行けばいいものを、一週間も何もせんでおる。」

「俺は、なにを謝らなければいけないんすか……」

ミチは、仙人をすがるように見た。

「それを自分で気づくところまでが勉強……と言いたいところだが、まあ、『謝らなければいけないことがある』と自分で思っただけでも上出来だろう」

仙人は、再びカップ酒に口をつけた。

「言っておくが、『わしはこう思う』って話であって、これが正解ってわけじゃないぞ。一応、わしの考えは述べるが、それをどう思うかはお前さんが判断することだ」

ミチはいつになく真剣なまなざしで仙人を見据えた。

「お前さんにとって、あのお嬢ちゃんはどういう存在だ?」

「え……友達っすけど?」

「それだけか?」

「それだけって、別にヘンな関係じゃないっすよ?」

ミチは少し顔を赤くしながら言った。

「じゃあ、ほかの友達にはなくて、あの子にだけはあるつながりがあるだろう?」

「え……?」

ミチは数学の問題でも解くかのように難しい顔をしたが、悩みつつも口を開いた。

「歌?」

「お前さんにとって、あの子はどういう存在だ?」

「……ファンっすか?」

「そうだ。それもたった一人の、な」

仙人は、やれやれとでも言いたげにミチを見ている。

「そのたった一人のファンを、お前さんは失望させたんだ。おまえさんの歌は全部嘘だったんだ、とな。おまえさんの話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこにがっかりして、そこに怒っていると思うがな。お嬢ちゃんが好きだったおまえさんの歌を、ほかでもないおまえさん自身が嘘にしてしまったことに」

ミチは何も答えられなかった。

「もちろん、ファンの期待に全部答えることなんてできん。中には、勝手な期待もあるだろう。だが、自分の歌を嘘にしちゃいかん。歌を殺しちゃいかん。おまえさんの歌はお前さんのものだが、聴いてくれる人のものでもあるからだ。おまえさんの歌が嘘になれば、お嬢ちゃんがお前さんの歌を聴いて抱いた想いや、思い出も嘘になってしまう」

仙人の言葉は白い息となって、霞のように空気に溶けていく。

「そこまで責任が持てんというのなら、人前で歌なんぞ歌わぬことだ」

ミチは何も答えない。ただ、傍らに置いたギターケースを見ていた。

やがて、おもむろにミチは立ち上がる。

「俺、そろそろバイトの時間なんで、行きます。……ありがとうございました」

「元旦からバイトか。大変だな」

「いえ……じゃ……」

ミチは軽く会釈をすると、公園の出口へとむかって歩き始めた。

結局開けることのなかったギターケースを担いで、大通りを渡る。

歩きながらミチは仙人の言葉に思いを巡らす。

それは、最初に言われた「正月なんて何がおめでたいかわからない」という言葉。

公園と駅の間にある官庁街は、ほとんど人通りがない。人気のない官庁街を、ミチは速足で歩いていく。

仙人のおっさんのゆうとおりだ。正月なんてちっともめでたくない。

だって俺の中では、去年はまだ、終わっていない。

 

写真はイメージです

ミチに謝ろうと勢いよく舞の家を飛び出したはいいものの、たまきは結局「城」に帰ってきた。

思えば、ミチの家も、連絡先も知らない。

いつもの公園に行けばもしかしたらいるかも、などと考えたが、「城」の鍵は今、たまきが預かっている。亜美と志保がいつ帰ってくるかわからないのに、遠出をするわけにはいかない。

結局、太田ビルに帰ってきたたまき。途中でミチの働くラーメン屋を覗き込んだが、覗いた程度でミチがいるかどうかはわからなかったし、謝罪をするためにわざわざお店に入るのは、お店にとって迷惑だろう。

結局、謝らなくちゃという思いを抱えてまたもやもやしたまま、たまきは『城』へと帰ってきた。

もやもやしたまま「城」でしばらく過ごしていたら、いつの間にか時間は午後4時になっていた。亜美と志保はまだ帰ってきていない。

ふと、おなかの虫がぐうとなった。

誰もいないのに、なぜだか恥ずかしいと思ってしまう。

おやつでも買おうと、たまきは立ち上がる。

下のコンビニ行くため、階段を下りていく。

3階から2階へと降りる階段の、踊り場を過ぎたあたりで、たまきは2階のラーメン屋の前に誰かいるのに気づいた。

階段のすぐそばにラーメン屋の入り口があり、2階の奥にはもう一つ、勝手口がある。勝手口のわきにはパイプ椅子が二つ置かれ、灰皿代わりの水の入ったバケツが置いてある。従業員の喫煙スペースとして使われている場所だ。

そこで一人、調理服を着た少年が、たばこを吸っていた。少年がタバコを吸うのはルール違反だが、吸っているのだからそう書くしかない。

少年の姿を見つけると、

「あっ……」

と、小さく声を漏らし、たまきは階段の上で足を止めた。そのまま次の一歩が踏み出せずに、階段の上に立ち尽くした。

さっきまで、謝ろう謝ろうと思っていたのに、急に本人に会うと、言葉が出てこない。

その少年、ミチもたまきに気づき、やっぱり

「あ……」

と、小さくつぶやくと、気まずそうにたまきを見ていた。

やがて、ミチは煙草をバケツの中に放り込み、やはり気まずそうに、それでも一歩一歩、たまきの方へと近づいて行った。

手を伸ばせば触れるくらいのところでミチは止まると、右上を見たり左上を見たり、視線を忙しく泳がせながら、言葉を探した。

「あ、あのさ……」

ようやく見つかったミチの言葉の出だしだったが、それにかぶせるように、たまきはいつもよりちょっと大きな声で、いつもよりちょっと早口で、

「あの、この前は、ごめんなさい!」

というと、思いっきり頭を下げた。

「……へ?」

ミチの方は出鼻をくじかれ、なおかつ面食らったようにたまきをぽかんと見つめる。

たまきが顔をあげた。いつになくまっすぐにミチを見据えている。

二人の視線が正面衝突した。

気恥ずかしさもあってか、たまきはすぐに次の言葉が言えなかった。

一方、ミチは虚を突かれたようにたまきを見ていた。やがて、絞り出すように言葉を述べる。

「……なんで……たまきちゃんが、謝るの?」

たまきは珍しく、ミチの目を見たまま、目をそらさなかった。

「あの日、ミチ君はケガしてて、傷ついてて、優しくしなきゃいけなかったのに、私、ちゃんと優しくできなくて……」

「でも、あれは、俺が悪いわけで……」

一方のミチは恥ずかしそうに視線を逸らす。

「だとしても、私はあの日、もっとミチ君に優しくしなきゃいけなかったんです。言いたいことがあっても、何もあの日に言うことはなかったんです。ごめんなさい」

たまきはもう一度頭を下げた。

顔をあげるとすぐ目の前にミチの顔があった。今度はミチがたまきをじっと見ると、

「……ずるくね?」

と言った。

「……え?」

「だって、謝らなきゃいけないのは俺の方なのに、そんな風にたまきちゃんから最初に謝られたら、俺、もう、謝れないじゃん。それってずるくね?」

「ずるいってどういうことですか? ミチ君も謝りたいことがあるなら、今、謝ればいいじゃないですか?」

「でも、たまきちゃんから先に謝られたら、もう謝れねぇじゃん。なんか、後出しじゃんけんみたいでさ」

「別にどっちが先だからってそんなの関係ないじゃないですか」

たまきとしても納得いかない。

「だってさ、優しくできなかったからごめんなさいって、そんな理由で先に謝られたらさ、なんか謝りづらいっていうか……」

「私が先に謝ったのがいけないんですか? 私は自分が悪いことしたって思ったから、謝ったんです。なんでそれに文句言われなきゃいけないんですか? おかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきもムキになって言い返す。ミチは何か言いたそうにたまきを見ていたが、

「おかしいっていえばまあ、可笑しいよな……」

と言って、笑い始めた。

「……何がそんなにおかしいんですか!?」

「いや、俺、たまきちゃんに謝るつもりだったのに、なんでまたけんかしてんだろ、って思ってさ」

「……べつにけんかしてるつもりはありません」

たまきは斜め下へと目をそらした。そして、ぽつりと言った。

「……謝りたいことがあるなら、謝ればいいじゃないですか」

「そうやって促されると、余計にダサいっていうか……」

「謝るのはいつだってダサいんです。さっきは、私がダサかったんですから」

そういうと、たまきは再びミチの目を見た。

「謝るのにかっこつけたいなんて、それこそずるくないですか?」

ミチは本当に恥ずかしそうにたまきを見ていた。そして、恥ずかしそうに口を開いた。

「なんかその、いろいろと、ごめんなさい……!」

「『なんかいろいろと』じゃわかりません」

「いや、今のことも謝んなきゃなぁ、って思うし、巻き込んじゃったこともそうだし、その……たまきちゃんがせっかく好きだって言ってくれた俺の歌……、自分で台無しにしちゃって……ごめん……」

ミチはぎこちなく、それでも潔く、頭を下げた。だからたまきが

「……ほんとですよ」

とつぶやいた時、彼女がどんな表情をしていたかミチは見ていない。

「……俺決めた。これまで作った歌は、全部捨てる」

「え?」

たまきは戸惑ったような声を上げ、申し訳なさそうにミチを見た。

「……別にそこまでする必要は……」

「いや、もうさ、あの日以来、歌えないんだよ」

ミチはたまきから視線を外す。

「さっきもギターもって公園に行ったんだけど、歌うどころか、ギターを持つ気にもなれなくてさ……、結局、俺は自分の作った歌の主人公になれなかった。自分で自分の歌を嘘にしちまったんだ。だから、もう、歌えないんだ」

たまきはミチをじっと見ていた。

「だから、全部捨てる。今の俺には歌えないし、だったら、一からやり直すことに決めたんだ。ヒット曲の切り貼りじゃねぇ、俺の身の丈に合った、俺自身の言葉で書いた歌を、一から作り直すって」

「そうですか……」

たまきはどこか寂しそうに、それでいて、どこかほっとしたようにつぶやいた。

「でも……、全部捨てなくてもいいんじゃないですか……。あの……犬の歌とか、私、まだその……」

少し恥ずかしそうにたまきが言った。

「……また歌えるようになったらね」

そういってミチは笑った。たまきも微笑んだ。

「なんだか今日は、ミチ君がいつもと違って見えます」

「違って見えるって?」

「いつもはなんか、もっと遠い感じだったけど、今日は目線が同じに見えるような気が……」

「それ、たまきちゃんがちょっと高いところにいるからだよ」

たまきは足元に目をやった。たまきはミチよりも階段1段分、高い所に立っていた。

たまきはそこからぴょんと飛び降りた。トン、と着地して見上げると、ミチの目が少し高いところにあり、いつもの身長差に戻った。たまきはミチの目を見上げると、

「いつも通り」

と言ってほほ笑んだ。

「そういえば……その……」

たまきはラーメン屋ののれんを見ると、言いづらそうにミチを見た。

「お店で働いてて、あの海乃って人と会わないんですか……」

「……あの人ね、……バイト辞めてた。俺が休んでる間に」

「そうですか……」

「ま、旦那いるんだったら、別に無理してバイトしなくても生活できるだろうしな」

ミチがわざと明るく言っているようにたまきには感じられた。

「じゃあ、私はこれで……」

そういってたまきはミチに背を向け、階段を上り始めた。

「……たまきちゃん!」

たまきの背中に、ミチの言葉が投げかけられる。

「新しい歌ができたらさ、また聞いてくれないかな?」

「……はい」

たまきは振り返ることなく答えた。

そのままたまきは階段を上り続けた。

4階から5階へと向かう階段の踊り場で、再びおなかが、ぐう、と鳴った。

恥ずかしそうにたまきはおなかに手をやる。

そうだった。私はおなかがすいて、下のコンビニにおやつを買いに行く途中だった、とたまきは自分の用事を思い出した。

しかし、いま戻っても、たぶん、まだミチがあそこでタバコを吸っているような気がする。

いま戻ったら絶対、「あれ、どうしたの?」と声を掛けられるに決まってる。

そう思ったらさらに恥ずかしくなって、たまきはおなかに手を当てたまんま、階段を上り続けた。

つづく


次回 第22話「明け方の青春」

近くの神社に初詣に行った亜美と志保。志保はそこで思いがけない人物に出会う。そして、「二日目の初日の出」を見るつもりがふとした手違いで日出より早く起きてしまった3人は、明け方の歓楽街を散歩することに。

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」