小説 あしたてんきになぁれ 第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」

前回登場した謎のコワモテおじさんこと「ママ」。はたしてその正体とは? 「あしなれ」第38話、スタート!


第37話「イス、ところにより貯水タンク」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


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「よっ、ただいま」

「おかえりー」

「……おかえりです」

亜美が外出から帰ってきて、志保とたまきが返事をする。「城」のいつもの光景だ。

「今日はどこ行ってきたの?」

と、志保が本を読みながら訪ねる。

「ん? まあ、隣町の床屋だよ」

と、亜美はたまきの方に目をやった。

いつもなら、かなりの高確率でたまきはタオルケットをかぶって寝っ転がっているのだけど、今日はほとんど顔を上げることなく、何かかきものをしてる。テーブルの上にはスケッチブックよりも少し大きめの紙。その上にたまきは鉛筆で、絵というよりはなにか図面を描いている。

「ん? おまえ、なに描いてんだ? スゴロクでも作ってるのか?」

「……まあ」

亜美はたまきの描く図面をのぞき込んだ。改めてみてみると、何かの地図のようだ。ところどころ、地名も書かれている。

「これ、この辺の地図か?」

「……まあ」

たまきは地図を描きながら言った。「城」のある歓楽街とその周辺、半径一キロほどの範囲の地図だ。もちろん、正確な地図ではない。小学生が町探検の授業で作るような、簡素なものである。距離感も適当なのだろう。

亜美はたまきの描く地図をしばらく眺めていたが、やがて、地図の中にところどころバツ印が書かれていることに気づいた。

「へぇ~、おまえもだいぶ、この辺のことわかってきたじゃねぇか」

「どうゆうこと?」

「このバツ印はな、ウチらのグループのナワバリの店を指してんだよ、ちがうか?」

「違うと思うけど」

と答えるのは、描いている当人ではなく、志保だ。

「たまきちゃんがそんな地図作るわけないじゃん。それにさ、歓楽街からだいぶ離れた線路上にもバツ印があるけど、そこもナワバリなの? 違うでしょ?」

「じゃあ、何なんだよ」

志保は読みかけの本を置いて立ち上がった。

「バツ印は全部で七個あるから、この七つのポイントをすべてまわると、何か願いが叶うとか」

「マズいじゃねぇか。コイツの願いなんて、死なせてくださいの一択だろ。却下だ却下」

「じゃあ、印を線で結ぶと図形が現れて、呪文を唱えると封印された恐怖の大王が現れるとか……」

「おまえ、頭いいんだからさ、もっとジョーシキで考えろよ」

常識のない奴に常識を諭されたのが気に食わないのか、志保は黙ってしまった。だが、そこでたまきが突然立ち上がり、

「それ、いいアイデアです」

というと、鉛筆でバツ印同士をつなぐ線を描き始めた。

「ほら、あたしの言った通りじゃん!」

「いや、どっからツッコめばいいんだ、これ……?」

もちろん、たまきはナワバリの地図を作っているわけでも、禁断の魔法陣を描いているわけでもない。地図に描きこまれたバツ印は、ここ数週間でたまきが発見した、「鳥のラクガキ」である。

歓楽街のビルの隙間に一つ。

歓楽街から離れた高架下に一つ。

ビルの屋上に二つ。

そして、歓楽街のそばを通る大通りに一つ。

さらに、大ガード下の天井に一つ。

最後に、線路をまたぐ大きな橋の橋げたに一つ。

ほかにもまだまだまだ未発見のラクガキがあるのかもしれない。

ラクガキの場所に何か意味があるのではないか、と思ったたまきは、地図を書いてそこにバツ印を打ってみたわけだ。さらに印と印をつなげてみたりしたのだけれど、今のところ、特に法則らしきものは見つからない。

共通してることがあるとすれば、どれもこれも、「よりにもよってなんでこんな場所に」と思うような場所にばかりあるということだ。

ラクガキするには狭すぎるビルの隙間だったり。

3メートルあるフェンスの向こう側だったり。

ビルの屋上の、立ち入るのが難しい場所だったり。

そこからさらに十日ほどかけて、たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、毎日外に出てラクガキを探し回った。そして、たまきは3つのラクガキを見つけた。

ひとつは、駅前と歓楽街の間を通る、十車線くらいある大通りだった。地下道に入る階段の壁に描かれてあったのだ。

問題は、その壁がその十車線ぐらいある車道に面していた、ということだ。

車がバンバン通る中で、ラクガキをするのはかなり難しいんじゃないだろうか。

その次に見つけたのは、大ガード下の天井だった。

歓楽街を出てすぐのところに、線路の下をくぐる大きな通路がある。そこの天井を見上げたところに、鳥の絵が描かれていた。

これまた、どうやって描いたのかわからない。もちろん、脚立でも持ち込めば可能だけど、人通りの多いこの通路でそんなことしたら目立ってしまう。

この二つのラクガキは、「不可能ではないけど、描こうとしたら目立つよね」という問題がある。ラクガキは誰にもバレずにこっそり描くものだ。

一番不可解なのが、線路をまたぐ大きな橋の、橋げたに描かれていたものだ。つまり、鉄道会社の完全な敷地内である。高架下のフェンスのむこう側とはわけが違う。そこに誰か入り込んでいるとバレれば、怒られるでは済まない。電車が止まってしまう。電車を止めてしまうと、みんなに迷惑がかかるだけでなく、とんでもない損害賠償を請求される。とくに、ラクガキのあった駅は日本の鉄道の大動脈だ。そこに立ち入って電車を止めたとなると、請求される金額はきっと、目玉が飛び出て帰ってこないくらいのレベルだろう。

世俗に疎いたまきが何で電車事情にだけ詳しいのかというと、もちろん、「線路に飛び込んだらどうなるのか」いろいろと調べてみたことがあるからである。駅のホームに立って電車が来るたびに、「いま、飛び込んだらどうなるんだろう」とぼんやりと考えてみるのだけれど、調べた範囲では、どうやらスマートな死に方ではないようなので、なるべく線路には飛び込まないようにしよう、とたまきは思っている。あと、たまきを跳ね飛ばすことになる運転手さんにも、なんか申し訳ない。

わからないことだらけの「鳥のラクガキ」だけど、わかっていることもある。

それは、すべて同じ人が描いたんじゃないか、ということだ。もっとも、絵のタッチからたまきが何となくそう思っているだけなのだが。根拠は、と聞かれても、お絵かき好きのカン、としか言いようがない。

もうひとつ、たまきはこのラクガキは女性が描いたような気がしているのだけど、それもやっぱり、なんとなくそう思ってるだけである。

 

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喫茶「シャンゼリゼ」の扉が開いた。

「いらっしゃいませー」

と笑顔で応対した志保はすぐに、

「あれ、先生?」

と驚きの声を上げた。扉を開けた客は、舞だったのだ。舞は「よっ」と片手を上げた。カジュアルな格好で、リュックサックを背負っている。

「どうしたんですか?」

「いやなに、仕事で近くに来たついでに、そういやおまえのバイト先はこの辺だったと思い出して、立ち寄ってみたのさ」

「あ、席、案内しますね」

志保は舞を席へと案内する。

舞は席に座る前に、椅子をしげしげと眺めていた。

「あの……椅子がどうかしましたか?」

「あ、いや、イスを片手でぶっ壊した知り合いのことをちょっと思い出してな」

「え?」

「いや、そんなことより、おまえさ、バイト終わるの、何時だ?」

「えっと、あと1時間ほどですけど」

志保は時計を見ながら言った。もう夕方である。

「そのあと、なんか予定ある?」

舞はメニュー表に目を落としながら訪ねた。

「買い物して帰りますけど……」

「じゃあさ、1時間、この店で待ってるからさ、バイト終わったら一緒に買い物行かないか? ちょっと話したいことあるんだよ」

「話?」

「……悪い話じゃないよ。ちょっと頼み事っていうかさ、ま、おまえまだ仕事中だろ。その話はあとで。あ、とりあえず、紅茶よろしく」

志保は怪訝な顔をしながら、キッチンに注文を伝えに行った。悪い話じゃないというけど、用件が見えてこないのはやっぱり不安だ。

「あのお客さん、知り合い?」

と尋ねてきたのは、田代である。

「うん、お世話になってるお医者さんなんだ。なんか、あたしに用事があるみたいで、バイト終わったら一緒に帰らないかって」

「え?」

田代が不安そうな顔をした。志保の事情を知ってるだけに、知り合いの医者が用があってわざわざ訪ねてきたとなると、表情も曇る。それを察した志保は付け加えた。

「お医者さんって言ってもね、体のこととかだけじゃなくて、生活のこととか、メンタルのこととか、いろいろお世話になってるの。あたしだけじゃなくて亜美ちゃんもたまきちゃんも。ここのバイト受けるときも協力してもらったし、ほかにも、まあ、いろいろと。まあ、先生も悪い用事じゃないっていうし」

と言いながら志保は、こんなにお世話になってるんだから、そろそろ舞に何かお返しでもしないとまずいような気がしてきた。

「悪い話じゃなきゃいいんだけどさ……」

と田代。

その様子を、舞は水を飲みながら横目で見ていた。

「ふーん、あれかぁ……」

舞は田代のもじゃもじゃ頭を見つめ、志保の顔に目をやった。

 

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志保たちや舞が暮らす歓楽街は、南北を大きな道路に挟まれている。その北側の大通りに近い場所に、韓国をはじめとしたアジアの食料品を売るスーパーマーケットがある。スーパーと言っても、コンビニより少し大きいくらいなのだけど。

舞はバイトの終わった志保を連れて、その店に来ていた。それぞれの夕食の買い物である。

「このお店、よく来るんですか?」

志保が周りをきょろきょろしながら聞いた。志保にとってこの店は来るのが初めてだ。それどころか、今さっきまでこんな店があることすら知らなかった。

「ああ、近いからな」

確かに、舞の家からは歩いて5分もかかるまい。

「まあ、あたしもそんなしょっちゅうは来ないけどな。でも、何にも献立が思い浮かばないときとかは、ここに来て、なんじゃこりゃ! ってものを買ってみるんだよ」

そう言いながら舞は唐辛子のような木の実が描かれた袋を手に取り、

「なんじゃこりゃ?」

と言いながら、カゴに入れた。

「それ、どんな味がするんですか?」

「さあ、知らない」

「……知らないのに買うんですか?」

「海外のレストランとか行ったら、全く聞いたことのない料理をわざと注文するのが、好きなんだよ。いったいどんな料理が出てくるんだろう、ってな。肉料理だろうと思って頼んでみたらパスタだった、とか、そういうことが起こるしな。あと、日本じゃぜんぜん知られてない家庭料理が出てきたりとか」

「それで口に合わなかったらどうするんですか?」

志保のカゴにはまだ、一つも商品が入っていない。

「それはそれで、海外のいい思い出だ」

そういうと舞は、香辛料らしき瓶を無造作にカゴに放り込んだ。

「先生って、海外によく行くんですか?」

「そうだな、仕事で行くこともあるけど、プライベートでも年に一回は行ってるな。友達と行くことが多いけど、アジアとかだと一人でフラッと行くこともあるな。ああ、そうだ、新婚旅行もドイツだった。そんで、離婚した時の傷心旅行が韓国だ」

「いいなぁ。あたしも海外行ってみたいなぁ」

「海外行ったことないのか。意外だな。留学とかホームステイとかしてそうな感じだけど」

「興味はありますけど……」

志保はそこで黙ってしまった。

思い返せば、海外どころか、家族旅行の思い出すらほとんどないのだ。

「あの……先生……それで話って……?」

「ん?」

舞はしばらく、何を聞かれたのかわからないような顔をしていたが、

「そうだった。お前に用があるんだった。すっかり忘れてたよ」

と笑いながら言った。

「忘れるような話題なんですか?」

「まあ、あたしに直接関係のある話じゃないからなぁ」

舞はポリポリと頭をかいた。

「知り合いに頼まれてさ、誰かバイトしてくれる奴いないかって頼まれたんだよ」

「バイト、ですか?」

「そうそう。なんでも、簡単な事務と、簡単な接客と、ちょっとした力仕事。まあ、雑に言えばお手伝いってやつだな」

「あたしに、力仕事……ですか?」

志保は怪訝な顔をしながら、自分の腕を見た。少し骨が浮き出ている細い腕は、一般的な十代の少女よりも明らかに華奢に見える。

「いや、最初はな、男子を何人か紹介してやったんだよ。でもな……」

そこで舞は一度言葉を切った。

「バイトを探してる知り合いってのが、ゲイバーのママやってたやつなんだよ」

「え、ゲ、ゲイバー?」

「おまえさ、『二丁目』って聞いて、何のことだかわかるか?」

「は、はい。聞いたことくらいは……」

歓楽街の中で『二丁目』と呼ばれる区画は、なぜかゲイバーが多い、という話は聞いたことがある。お店にも、『二丁目』にも行ったことはないけれど。志保たちが住むところとは少し離れているのだ。

「ママ、ああ、その知り合いのことな、ママはずっと二丁目で働いてて、まあ、今もそうなんだけどさ、力仕事があるっていうから男子を何人か紹介したんだけど、みんな三日でやめてくんだよ。ママにビビって。別にママが何かしたってわけじゃねぇ。ハナッからゲイとかに偏見持ってるんだ。別にゲイだからって男ならだれでも見境ない、なんてことないのにな」

「……それで、あたしなんですか?」

「だって、男子を紹介しても、三日以内で逃げてくんだもんよ。これがホントの三日坊主ってやつだな!」

そういって舞は笑ったが、志保がぜんぜん笑ってないのを見て、笑うのをやめた。

「で、男子がだめなら女子で、というわけだ。ママに聞いたら、ちょっとした力仕事ってのは、部屋の掃除や片付けの手伝いらしいから、まあ女子でもイケるだろ。ということでおまえら三人を思い浮かべたんだけどさ、亜美に『簡単な事務』が務まるとは思えないし、たまきが『簡単な接客』をしてるのは想像がつかねぇ。それでもう、おまえしか残ってないのよ」

「あ、あの……」

「お、なんか質問か?」

「あたし未成年なんですけど、そのお店ってあたしが働いても大丈夫なんですか……?」

志保は不安げに尋ねたのだが、舞は

「ああ、だいじょーぶだいじょーぶ」

とあっけらかんとして答えた。

「年齢、性別、学歴、前科、一切問わずだ。お仕事ができる体力があればそれでよしだ。宗派も問わねぇってさ」

「しゅうは?」

「キリスト教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、無宗教だろうが、一切不問だ。おまえ教会が主宰する施設に通ってるけど、それでもぜんぜんオッケーだとよ。むしろ、ふだん仏教と関わりのない人ほど来てほしいってさ」

舞はインドの香辛料を手に取りながら言った。

「仏教? え? 宗教施設なんですか?」

「え?」

舞が手に取った香辛料をいったん置いた。パッケージには、ゾウみたいな姿をしたカミサマが描かれている。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「ゲイバーのママだとしか……」

「そうだよ。ゲイバーのママが、店をやめて出家して、寺の住職やってるんだよ。で、お手伝いが欲しいからって」

「お寺? でも、二丁目で働いてるって……」

「そうだよ。二丁目にある寺だよ」

舞は、いったん置いた香辛料を、やっぱりカゴの中に入れた。

「あれ? 最初に言ってなかったっけ?」

 

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駅から大通り沿いに東に向かって十分ほど歩くと、「二丁目」と呼ばれる区画に入る。この一角は、いわゆるゲイバーやオカマバーと呼ばれる店が集まることで知られている。どうしてこの一角にそういうお店が集まるのかについては、志保は何にも知らない。ただ、そういう場所があるということだけは知識として持っている。

舞に連れられて志保が二丁目にやって来たのは、翌日の午後だった。ゲイの人向けの雑誌が置いてあるお店を見かけたときは、なるほど、ここがウワサに名高い二丁目か、とちょっと感心した。

ただ、テレビのバラエティで見るオネェタレントみたいな人たちが街を闊歩している、というわけでもない。怪しげな看板が多いわけでもない。志保の印象としてはいたって「ふつう」の街だ。夜になったら少しは風景が違うのだろうか。

ただ、昼間に訪れるとなんだかこの街はまだ眠っている、そんな印象を受けた。やっぱりいわゆる「夜の街」って奴なのだろう。

それよりも、志保の印象に残ったのは、寺の多さだった。

ビル街の中にいくつかお寺が立っている。東京の都心では、すっかり近代的なビルにお寺の看板がついていて、え、ここが寺?と思うことも多いのだけれど、二丁目には昔ながらのお寺が、狭い区画の中に数軒残っている。墓地も健在だ。

二丁目の中心にある公園に差し掛かった時、志保は少し足を止めて、あたりを見渡してみた。志保の周りを、ビルに囲まれて三軒ほどのお寺が取り囲んでいる。周りをお寺に囲まれるなんて、京都とかに行かないとないことだと思っていたけれど、こんな都心の真ん中で見れるとは。

「おーい、なにしてる。こっちだ」

その中の一つの寺の、裏口らしき門の前に舞が立って、手招きしていた。門の脇には控えめに「行真寺(ぎょうしんじ)」と書かれている。

 

行真寺の裏口から志保は境内に入った。この裏口というのは墓地の脇にあるもので、昼間だけ解放している。基本的には墓参りに来る人用の出入り口なのだけど、中には大通りへの抜け道としてこの裏口から入って墓地を通り抜けていく不届き者もいる。

並ぶ墓石は見たところ、どれもある程度は風化していて、この墓地とお寺の年月の古さを感じさせる。中には、刻まれた文字が完全に風化してしまって読み取れないものもあった。

「昨日も話したけど、おまえの事情であたしが知ってることは、ぜんぶママにきのう電話で話したから」

「あ、はい、わかってます」

昨日の別れ際に、志保は舞から、事情を「ママ」にすべて話すことの許可を求められた。舞いわく、ウソや隠し事が通用する相手ではないので、最初から志保の事情を伝えておいた方がいい、というのだ。

「大丈夫だ。ママはおまえの事情を知ったって、悪いようには扱わないから。むしろ、味方になってくれると思うぞ」

「は……はい」

志保は話題を変えようと、あたりを見回した。墓地の出口が近いのか、墓参りに使う手桶が並んだ台がすぐ横に見える。

「この辺りって、ビルも多いのに、お寺もいっぱいありますよね。なんでなんですか?」

「寺?」

今度は、舞があたりをきょろきょろと見まわした。

「そういや、この辺、やけに寺が多いな。気にしたことなかった。なんでなんだろうな」

その時、前方から下駄の音がした。

「ここはあの世とこの世の境目なのよ」

見ると、そこに袈裟姿の住職が立っていた。舞の言う「ママ」に違いない。

スキンヘッドの頭はいかにも僧侶っぽいのだけれど、なんだかごつごつしていて岩肌みたいだし、顔も眼光鋭く、見る者を威圧する。

「コワモテおじさんだ」と、志保は心の中でつぶやいた。

「ママ」こと住職は、かつかつと下駄を鳴らしながら二人の方へ近づいてくる。そして、舞の方を見ると、

「ヤダー! 舞ちゃん、久しぶりじゃなーい!」

と、さっきよりも1オクターブ高い声で話し出した。

「……先週も会ったじゃねぇかよ」

「そうだったかしら」

「そっちは忘れてても、ママが片手で椅子をぶっ壊した衝撃映像、あたしは一生忘れないからな」

「ああ、そんなことあったわね。そうそう、あれで十万も払ったのよねぇ」

住職はなんだか遠い過去を懐かしむような眼をしている。

「それに、おとといも昨日も、電話で話してるじゃねぇか」

「そうだったわね。それで、その子が話してたバイトの子?」

「そうそう。名前は志保。名字は、ええっと、神林だったっけ?」

「神崎です。神崎志保です」

「志保ちゃんね。アタシ、ここの住職をしてる知念厳造よ、よろしくね」

「すごい名前……」と志保は心の中でつぶやいた。

「まあ、お店やってた時の『キャサリン』って名前で呼ばれることも多いけどね。そっちで呼んでくれてもいいわよ」

「それもまたすごい名前……」と、志保は危うく声に出しそうになった。

「あ、あの、それで、バイトの面接とかは……」

「ああ、いらないいらない」

知念住職がにこやかに答えた。

「舞ちゃんの紹介、っていう時点で、それなりに信用ある子だろうから、面接はパスよ」

「その全員が逃げ出してるけどな」

と舞が笑った。

「あ、あの、舞先生と住職さんは、はどういうお知り合いで……?」

その問いかけに、知念住職がクスリと笑った。

「舞ちゃん、『先生』って呼ばれてるの?」

「別に、おかしくないだろ?」

「ふーん」

と、知念住職は再び、遠い過去を懐かしむような眼をした。

「関係性はカンタンよ。アタシがお店やってた時に、舞ちゃんがお客として通ってた時からよ」

「え?」

志保が舞を見る。

「職場の先輩に連れられてたまに行ってた、だ。通った覚えはない」

と舞は発言を一部否定した。

「あら、何年か前に、仕事も結婚生活もやめちゃったときは、一人で通ってたじゃない」

「そ、それで、仕事内容なんですけど……!」

なんだかそれ以上聞いちゃいけない気がして、志保は話題を変えた。

「週に何回か、お掃除とかしてもらうわ。境内の落ち葉を掃除するだけでも大変なのよ。それと、月に何回か、お葬式とかお通夜とか法事とかあるから。そのお手伝い。弔問客の対応だったり、お香典の管理だったり、葬儀場の設営だったり。頼むのは簡単なお手伝いばかりだから、慣れれば大丈夫よ」

「全員が慣れる前に逃げ出したけどな」

そういって舞が笑う。

「お給料は日給で三千円。お葬式の時は手当とかつけるつもりだけど、あんまり出せなくて、ごめんなさいね。その代わり、短時間だし、日にちも志保ちゃんの都合優先でいいから。ほかにもバイトしてるって聞いてるわよ」

「あ、はい、大丈夫です」

「他に質問は?」

「え、えっと……その……」

志保は一瞬ためらったが、続けた。

「さっきの『あの世とこの世の境目』というのはいったい……」

もしかしたら、ここは現実世界と異世界の境界線で、このお寺があることで異世界からの侵略を防いでいるんじゃ……、という考えがほんの一瞬だけ志保の頭をよぎったけど、そんなわけないかとすぐに打ち消した。

「この街はね、江戸の西側の玄関口なのよ」

知念住職は周りを見渡した。境内の木々のむこう側に、少し遠くのビルの色鮮やかな看板が見える。

「江戸の街=今の東京都、というわけじゃないのよ。江戸の町はもっと小さいわ。今の23区よりも小さかったの。だいたい山手線沿線と同じくらいかしら」

「え、そうだったんですか?」

江戸と東京は一緒だとなんとなく思っていた志保にとって、江戸の町の範囲なんて、考えたこともなかった。

「『江戸っ子』なんて江戸城が目で見える範囲で生まれ育ってないと名乗れないのよ。この街よりも西側は、江戸じゃないの。ふつうの農村よ。今では住宅街だったり商店街だったりデパートが建ってたりする場所が、ただの農村だったなんて、想像つかないでしょ?」

「はい……。のどかな場所だったんですね」

志保が生まれ育った町も、位置的にそういう場所だったのだろう。

「昼間はのどかでいいけれど、夜は怖いわよ。街灯とか全くないんだから。家はまばらにしかないし、荒れ地や沼地、雑木林なんかもあるの。そういう場所におばけが出るかもしれない、と昔の人が考えても、全然不思議じゃないわよ」

「確かに……」

「江戸という都市の外側は、自然は豊かだけど、夜になったら怖い場所。だから、江戸の玄関口であるこの場所は、あの世とこの世の境目ってわけ。そういう場所には、お寺や神社が多いのよ。ご先祖さまや神様を祀るには一番いい場所だったんでしょうね。ここに来れば、亡くなった人に会えるかも、って。新しいものばっかりの街だけど、意外とね、昔の人の想いの残滓がどこかに残っているものなのよ」

志保は周りを見渡した。大都会の中で、ここだけ時間が止まっているようにも思える。

 

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気づけば五月も半ばである。

いつもの都立公園も先月は桜が咲き誇っていたが、すっかり花も散り、地に落ちたハナビラすら姿を隠した。木々の葉っぱは日々その青さを色濃くし、一方で足元に目を向ければ、色とりどりの花々が、桜の次の主役は私たちだと言わんばかりに咲き乱れる。

たまきが「庵」の前を訪れると、仙人が椅子に腰かけてカップ酒を飲んでいるのが見えた。

「あの……」

たまきが声をかけると、仙人もすぐに気づいた。

「おや、お嬢ちゃん」

仙人はたまきを見た後、その背中にあるリュックに目をやる。

「また絵を見せに来たのかい?」

「まあ、そうなんですけど……、今日はちょっと違って……」

たまきは申し訳なさそうに、仙人の横に置かれた椅子に腰かけた。

「あの、この絵なんですけど……」

そういってたまきはスケッチブックの一番最後のページに描いた絵を見せた。

仙人は一瞥して、すぐに口を開いた。

「これは、お嬢ちゃんの絵ではないな」

そこに描かれていたのは鳥の絵だった。たまきが模写したあの鳥のラクガキだ。

「これは、ほかの人が描いた絵を、私が描き写したやつで……、その、仙人さんはこの絵をどこかで見たことはないですか?」

「どこかというのは?」

「……この公園だったり、町の中だったり……壁とか電信柱とか、その……」

「なるほど、ラクガキというわけか」

「……まあ」

たまきの返事を聞くと、仙人は静かにかぶりを振った。

「見たことはないな。すくなくとも、記憶にはない。ラクガキならあちこちで見るが、こういう絵があったかどうかはちょっと思い出せんな」

「そうですか……」

「ところで、そっちの紙は何だい?」

仙人は、たまきのリュックから飛び出した、丸まった紙の筒を指さした。

「これは……」

たまきは紙を広げた。それは「城」の中で描いていた、ラクガキを見つけた場所の地図だった。

「ほう、これは面白い」

と仙人がのぞき込む。

「この辺りはよく通るが、こんなラクガキがあったかどうかは覚えてないな。わしが気付かんかったものをお嬢ちゃんがこんなに見つけたということは、この絵とお嬢ちゃんの間には、何か通じるものがあるのかもしれんな。きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ」

そう言って仙人は笑い、カップ酒に口をつけた。

 

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とぼとぼと歩いて、たまきは歓楽街に帰ってきた。いつもの薄群青のパーカーを羽織っているけど、だいぶ暖かくなってきたから、そろそろいらなくなるかもしれない。

いつぞやのゲームセンターの脇の道を歩いている時だった。不意に小さななにかが飛び出し、たまきの前を横切った。

ネコだった。白地に黒のぶち猫が、道路の脇で立ち止まり、たまきの方を見ていた。

野良猫だろうか。歓楽街で野良猫を見るのは珍しいことだ。

「こ、こんにちは……」

と、たまきは話しかけてみた。

ネコはじっとたまきを見ていたが、

「みゃお」

と鳴くと、建物と建物のわずかな隙間の間に入ってしまった。

たまきはネコの後を追って、隙間をのぞき込んだ。

人一人がギリギリ通れそうな隙間があり、壁にはラクガキがびっしりと描かれている。

そこは、例のラクガキをたまきが初めて見た場所だった。猫はちょうど、鳥の落書きの真下にたたずんで、たまきの方を向いていた。そうしてたまきの姿を確認すると再び

「みゃお」

と鳴いて、隙間のさらに奥に、ねこねこと歩き出した。

「ついてきな、お嬢さん」

そんな風に言われた気がした。

たまきは、猫の後をついて隙間の奥へと歩き始めた。なんだか、どこかの童話みたいだ。

 

東京の街はまるでお城みたいだ、と言ったのは誰だっただろうか。

でも、たまきにとって東京の街のイメージは、それはシンデレラ城のようにきらびやかなお城ではなく、ジャングルの奥地に取り残された廃墟の城だった。百万の人が住む廃墟、それがたまきにとっての東京だ。

そして、今歩いているような建物の隙間は、まさに人が暮らす廃墟そのものだった。光はわずかだけ。目に映るもののほとんどが灰色だ。空き缶、ポリ袋、何かの配管、室外機。どこかの工事の音。ほんの数十歩引き返せばいつもの場所に戻れるのに、この世の果てに迷い込んだ気分だ。

「みゃお」

ネコの鳴き声が聞こえて、たまきは立ち止まった。

だけど、猫の姿は見れない。

その代わり、たまきの目に映ったのは、あの鳥のラクガキだった。

たまきは思わず息をのみ、ラクガキに軽く触れた。

少しひび割れている。今まで見つけたラクガキの中で一番古いのではないか、なんだかそんな気がする。

もしかしたら、誰かがここにラクガキを描いてから、たまきが見つける今この時まで、誰の目にも触れることがなかったのではないか。それこそ、ジャングルの奥地でひっそりと眠り続ける古城のように。

『きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ』

先ほどの仙人の言葉がふと、たまきの耳の奥をくすぐった。

 

つづく


次回 第39話「お葬式、ところによりバスケ」

お寺でバイトを始めた志保、そして、あいかわらずラクガキ探しをするたまき。あのキャラの過去にも少し触れるかも? 続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「買い替える」なんて考えない

どうも僕は「やめる理由が見つかるまで延々と続ける性格」のみたいです。

たとえば、中学生の時に初めて携帯電話を買ってもう20年近くになるんですけど、

これまで持った携帯電話の台数は、3台。つまり、機種変は2回だけ。

今のスマートフォンが使い始めて3年だから、その前の2台は平均して7,8年使った計算になります。

どうしてそんなに機種変しないのかと言うと、「壊れなかったから」「使えたから」、つまり、「機種変しなきゃいけない明確な理由がなかったから」

逆に、じゃあなんで機種変したのか。1回目の時はなんで機種変したのかもう覚えてないけど、2回目はつい3年前なのではっきりと覚えてます。ガラケーの通話機能が使えなくなったからです。電話なのに電話できないのはさすがにマズいと思って変えたんです。

そういえば、小学校の頃は1年生の時に買ってもらったスーパーマリオの筆箱をずっと使ってました。理由はもちろん「まだ使えたから」。

そしてなんと、そもそも今この文章を書くのに使ってるテーブル、これが小学校に入るときに買ってもらった学習机なのです。なんと、もう四半世紀使っているということに、今気づきました。

今使ってるベッドは中学校に入るときに買ってもらったやつだから、これまた20年以上同じベッドで寝起きしていることになります。

どちらも、いまだに立派に原形をとどめてます。買い替えるための明確な理由がないから、買い替えない。それだけ。

趣味はラジオを聴くこと。ラジオを受信できるウォークマンをスピーカーにつないで聞いてます。まさに今も、ラジオを聞きながら書いてます。

10年前に買ったウォークマンなので、あちこち壊れ始めていて、実は移動しながら使うと接触が悪くなって音楽がよく聞こえません。

動かすとまずいんだけど、ずっとテーブルの上に置いていればちゃんと使える、ということでウォークマンなんだけどウォークすることなく使ってます。

いつ買い替えるんだと聞かれればもちろん、「完全に音が出なくなった時」。

新機種が出たとか、新商品が出たとか言われても、「へぇ~」と聞き流してます。

こうやって振り返ってみると、そういえばそもそも買う時に「いつか買い替える」ということを前提にしていないなぁ。

ボールペンや消しゴムのような明らかな消耗品は、さすがにそのうち買い替えるだろうと思って買うのだけれど、そうでなければまず「買い替える」という発想がそもそもない。

とはいえ、別に一生使い倒してやろう、という覚悟があるわけでもない。

本当にただただ、「買い替える」という発想がないだけなのです。

やめる理由が見つからない

ZINE作りを始めて、今月で5年目に入りました。

でも、文学フリマに初めて出店したのは2020年の11月(コロナ禍まっただ中!)だったので、実感としては「デビューしてまだ3年たってない」って感じです。

この一年で、僕のことを知ってくれる人も少し増えたように思います。「縁ができたな!」というやつですね。

ちなみに、去年一番驚いたのは、文学フリマで、ファンだという女性から差し入れでカールをもらったことです。カールはもう、関東では手に入りづらいのよ……。

なんだかんだで4年間、飽きもせずやって来たことで、見えてる景色が少しずつ変わってきてるのかな、とちょっと実感しかけているいるところです。

ホントにちょっとずつですけど。

そしたらこの前、学生時代の友人が僕のことを「続けてることがスゴイ」と言ってくれたんですよ。

なるほど。確かにそうかもしれない。

続けている、続けられる状況にあるっていうのは、確かにそれだけですごいことなのかもしれない。

僕の実感としては「やめる理由がなかった」と言うのが正直なところ。1冊作るたびに「次も作ろう」と思えるし、文学フリマなどのイベントに出ればちゃんと反響がある。売上も、実力と工夫次第でまだまだ伸びていくという実感がある。

なにより、ZINEを置いてるお店や、ZINEを売るイベントをいくつかまわっていくうちに、それまで行かなかった町、知らなかったお店、出会わなかった人に会うようになる。

「ネタ切れ」とか、「反響がない」「全然売れない」「ここが限界だろう」、みたいなやめる理由がいまのところ見つかってないから続いている、って感じです。

すくなくとも、カネになるならないはあまり関係ないですね。儲かったってやめる人はやめるだろうし。もうやめたいんだけどカネになるから続ける、っていうのもなんだかなぁ。

ZINEにかぎらず、僕の場合なんだってやめる理由が見つからないうちはずっと続ける性格なのですが、その性格が「続ける才能」ってヤツなら、案外そうなのかもしれません。

続けることもまた一つの才能。そういえば、地球一周に向けてポスター貼りをしていた時も、そんなことを言われました。一度は地球一周を志しても、船に乗るまで半年ぐらいある中で、その意思を継続できる人って意外と少ないんだ、と。確かに僕は一度も「やっぱり地球一周はやめよう」と思ったことはなかった。「ポスター貼りもうヤダ!」は何回かあった気がするけど(笑)。

さて、その友人が、この春から海外に出向することになったんです。それも、数年間。

その話を聞いて、思ったのです。

「私も、まだまだ暴れ足りない」と。

もっともっとワクワクすることをしたい。

友人は海外に行く。僕も負けてられない。ワクワクに関しては負けたくない。謎の意地の張り合いです。

きっと僕は、どんな人生を歩んでいたとしても、必ずこう思うのでしょうね。「もっとワクワクすることをしたい」と。

だから、まだまだまだまだ止まんないよ。

スマホを捨てよ、海に潜ろう

ゼンカイのあらすじ

ゼンリョクゼンカイでスマートフォンを忘れたノックさん。気づいた時には時すでに遅し。電車はドンブラコと最寄り駅から離れていく。しかし、スマートフォンがないことで、日常のちょっとした考える時間、すなわちシンキングダイムの重要性に気づくのだった!

「考えること」の大切さを繰り返し説いてきた哲学者で文筆家の池田晶子さんは生前、テレビもネットもやらなかったそうです。インターネットで世界中がつながっても、ガラクタのような情報が増えるだけだ、と。たしかにそうかもしれないですね。

それよりも、思索の世界に入り込めば何時間でも楽しめる。だから彼女にはテレビもネットも必要なかったのだとか。

なーんとなくわかる気がしますね。彼女の場合「自分とは何か」「善悪とは何か」「宇宙はなぜ存在するのか」なんて哲学的なテーマをいくつも持っていて、それについて考えることでいくらでも時間を費やせた。いわば、頭の中に膨大な「思索の海」を抱えていて、どこまでもどこまでも潜っていけた。

問題はこの「思索の海」は日ごろから「考えること」をしていかないと、水が溜まっていかないということ。

ふだんから考えることをしないで、テレビやスマートフォンばっかり覗いていると、水が全然たまりません。プールぐらいの浅さのところを潜って、すぐに底をついておしまいです。

そんなんだから急に「おうち時間」なんて言われると何していいかわからなくなるわけです。

意識的にオフラインの時間を作って、何か考えてみたり、逆に無心になって何も考えなかったり、そういう時間が必要なんです。四六時中スマートフォン片手に、社会情勢やらトレンドやらの最新情報をチェックしてる人が賢くて偉い、なんてことはないんですよ。むしろ、「思索の海」に水が溜まってないのにバカスカ情報だけ取り入れてる人の方がバカなのかもしれないですよ? 水槽に水が全然ないのに魚を放流しまくってるようなものですから。

だいたい、ネットでデマに踊らされてる人ってのは、むしろ普段からスマートフォンをいじくって色んな情報を見てるはず、の人ですから。知識や情報量の多さが人を賢くするわけではないんです。

まあ、テレビやスマートフォンに比べると、読書やラジオはそういうオフライン時間にオススメかもしれません。映像がない分、想像力を働かせる必要があるから、知識や情報を吸収しつつ、ちゃんと考える時間も取れる。

テレビが普及し始めた時に「一億総白痴」なんて言われて、そんなことあるまいと思ってたけど、イヤあんがい、少しずつそうなっていたのかもしれませんね。

スマホを忘れただけなのに

スマートフォンを忘れて家を出てしまった。気づいた時にはもう遅い。駅の改札をくぐってしまったうえ、駐輪場に自転車を入れてしまったから、いまから出すと100円かかってしまう。

仕方ないので、そのまま電車に乗った。夜まで帰れない予定だし、今日はこちらから電話だのLINEだので連絡を取る用事があるのだけれど、いまから取りに帰るとお金も時間もかかるのだから、仕方ない。

それに、令和になった今でも、駅前を中心に意外と公衆電話は残っている。問題ない。

しかしこうやってスマートフォンを手放してみると、その分、スマートフォンをのぞき込む人の姿が目に付く。歩きスマホだったり、スマートフォンで音楽を聴いてたりで、こちらに気づかずにぶつかりそうな人もいる。2台同時に操る猛者まで見た。

それに引き換え、こちとらちょっとのスキマ時間にSNSを見ることもできない。いや、普段からあまりスマートフォンを触らないようにしているのだけど、それでも日ごろけっこう触ってしまっていたんだなぁ、と気づく。

いったい、僕たちは一日にどれほどの時間をあのうっすい板切れごときに費やしているというのだ。ほんの10年前まで存在もしなかったくせに。

スマートフォンに触れないとなると、暇な時間は「考えること」しかできない。作りかけの新作の原稿を考えたり、前に読んだ漫画の内容を思い出したり、保留にしていたことを考え出してみたり……。

けっこう楽しいじゃないか。人間は考えるアシなのである。考えることは楽しいのだ。

もしかして、人類はスマートフォンによって、こうした日常のちょっとした「考える時間」を奪われているんじゃないのか。

ネット検索ができないから、気になったことはずっと気になっている。

グーグルマップが見れないから、自分で道を思い出すしかない。

天気予報が見れないから、空模様から予測するしかない。

ところがスマートフォンがあると、こういう「ちょっとした考える時間」がどんどん奪われていく。

よくない。これはよくない。特に、大人になると、ほかにいろいろ考えなければいけないことが出てきて、ただでさえ「自由に考えられるちょっとした時間」が減っていくというのに、残った時間までも板切れごときに吸い上げられるなんて、時間のピンハネじゃないか。

最近、回転ずしやでの迷惑行為が世間を騒がしていて、「こんなことして動画をネットに挙げれば炎上するって、ちょっと考えればわかるでしょ?」と思うけど、もしかしたら今の子供たちはその「ちょっと考える」ための時間を、大人が作ったスマートフォンに奪われているんじゃないか。大人が子供たちから時間を吸い上げておいて、『よく考えろ』もないもんだ。

そんなことを考えながら、お昼ごはんを買おうとファミリーマートに入る。

するとなんと、レジの上にモニターがあって、そこで映像が延々と流れされていたのだ。

レジを並んでいる十数秒間を退屈しないように、なんだろうけど、冗談じゃない。「レジを並んでいる十数秒間にちょっと考える時間」まで奪うつもりなのか!

実際、映像が流れて、音まで出ていると、どうしても思考を止めてそっちを見てしまう。よくない。これは実によくない。

これからどんどんデバイスが発達してどんどん便利になると、そのぶん、どんどん「ちょっとした時間」が奪われていくんだろうなぁ。

人間は考えるアシだ。だったら、考えなかったら、ただのアシじゃないか。これを俗に「悪しきこと」というのです。

飲み会がしたい

飲み会がしたい。

思い返せば、コロナが始まるよりもさらに前からもう、満足のいく飲み会をやれてないんじゃないか。

別にお酒が飲みたいわけじゃない。そもそも、もう何年もお酒を飲んでない。禁酒しているんじゃなくてお酒に全く興味がないだけ。そんなくだらないものに費やすお金があるなら、僕は一個でも多くのから揚げを食べたい。

どんちゃん騒ぎして記念写真を撮りたいわけでもない。僕はほとんど自分の写真を残さない。過去の写真を全く見返さないから、撮るだけ時間の無駄と思ってる。「記念写真とろーよー」という声がかかったら、僕は確実に逃亡する、っていうか、逃亡したことがある。

思い出話に花を咲かせたいわけでもない。これまた、記念写真を見返すことと同じくらい時間の無駄だと思ってる。せっかく久しぶりに会って、今この時ではなく昔の話をしてるってなんなんだそれは。

恋バナに花を咲かせる、もあんまり興味がない。人のプライベートには首を突っ込まない主義だ。いま目の前にいる本人の話が聞きたいのであって、いま目の前にいない恋人の話なんてどうでもいい。

オタク話はまあ面白いんだけど、ちがうんだ。そういう飲み会をしたいんじゃないんだ。

これから何をやりたいか、何を企んでいるか、何に今ワクワクしているか、そういうお互いの頭の中にある設計図、宝の地図をぶつけ合う、そういう飲み会を、もう何年もやってない。

別に、実現できそうもない夢でもいいの。「宝の地図」なんて、どうせそんなもの。簡単に手に入りそうなら、それはもうお宝じゃない。

どんなに忙しくても、どんなに貧乏でも、余命いくばくもなくても、「宝の地図」を描くだけなら自由です。

ドデカすぎて実現まで10年近くかかりそう、そんな途方もない夢をぶつけ合って笑いあう、そんな飲み会がしたいんだ。いや、飲み会じゃなくていい。酒に興味がないから、食事会でいい。からあげの店でいい。

やっぱり、一番聴いてて楽しいのは、人の愚痴でも、のろけ話でも、思い出話でもなく、

今の冒険の話、次の冒険の計画、やっぱこれに尽きるでしょ。

冒険のさなかの失敗話、冒険のさなかに出会った人、冒険の自慢話。聴いてて楽しいのも、話してて楽しいのも、やっぱりそれだろ。

頭の中の宝の地図をぶつけ合う、そういう飲み会がしたいのです。

ファンタジスタはいらない

サッカーW杯のカタール大会が終わってしばらくたちますけど、今回はなかなか興味深かったです。

結果的にはアルゼンチンが優勝したけど、10年ぐらいたってカタール大会ってどんなだっけと言われた時に、きっと僕が思い出すのは、メッシでもエムバペでもなく

「モロッコ、すごかったなぁ」

だと思います。

日本もドイツとスペインを下して死のリーグを抜け出し、クロアチアとPK戦にもつれこんだ。

まあ正直な話、日本代表なんて勝とうが負けようがどうでもいいんですけど(僕にとっては32か国ある出場国の一つに過ぎない)、ただ、今回の日本代表はなかなか興味深いんですよ。

スターが、いないんですよ。

もちろん、点を取った選手は注目されやすいですけど、誰か中心になって突出して活躍した選手がいるかと考えると、特にいない。

大会後の報道を見てても、メディアによく出るのは、キャプテンの吉田とか、ベテランの長友や権田とか、森保監督とか、要はしかるべきポジションの人が代表して出てるくらいで、それこそメッシやエムバペ、ポルトガルのクリロナみたいな、その国を代表するようなスターやエースは特にいない。

これが何を表しているかというと、「ひとりの天才の力・個の力で勝ったんじゃなくて、チーム全体の力で勝った」、ってことなんですよ。

ドイツ戦もスペイン戦も、相手と対等に渡り合えたかと言ったらそう言うわけじゃない。やっぱり相手の方が上手くて、ボールぜんぜん取れなくて、攻められ続けてるんだけど、なんとか耐え忍んで、1失点で押さえて、少ないチャンスをものにして勝つ。

つまり、守備が決壊していたら絶対にできない勝ち方なんです。守備って一人のスーパースターやファンタジスタにような個の力でどうにかなるものじゃなくて、戦術、約束事、全員が連動する、そういうことが大事なんです。守備が上手くいったということは、チーム力が良かったということ。一人のスーパースターがドリブルで切り裂いてシュートをねじ込んだ、そういう勝ち方じゃなかったはず。

快進撃を見せたモロッコだって、一人で点を取りまくった天才がいたわけじゃない。チームとして強かった。実際、守備はめちゃくちゃ硬かったです。

結局、天才メッシを擁するアルゼンチンが優勝して、「メッシはすべてを手に入れた」って言われてますけど、僕はむしろ「10代のころから天才と言われ続けたメッシですら、ワールドカップを制するのにここまで手間取る、サッカーは一人の天才の力でどうこうなるスポーツじゃない」という風に映りました。

でも、この「一人の天才の力ではどうにもならない」こそチームスポーツの醍醐味じゃないですか。選手それぞれに得意不得意があって、それぞれの選手がそれぞれのポジションでそれぞれの特技を発揮して勝つ。

一人で何でもできるんだったら、そもそもチームスポーツである意味がない。一人でやればいいじゃん。そういう競技もいっぱいあるよ。

オシム監督なんて、「ファンタジスタはいらない」とはっきりと言ってました。実際、オシムサッカーは全員が連動してチームとしてかつ、そういうサッカーでした。

なんだか最近、その辺がおろそかになってる気がします。チームスポーツなのに、個人の力ばっかり注目される。

一人が何本シュートを打とうが何本ホームランを打とうが、チームが勝てなきゃゼロと一緒。チームの勝敗だけが評価のすべて。個人の記録を競うスポーツじゃないんです。

個の力が必要以上に誇示されるようになってきた、そんな時代になってきたと思うのは、僕だけですかね。

そんな時代だからこそ、日本やモロッコのようなチームが健闘したことに意義があると思うのですよ。

小説 あしたてんきになぁれ 第37話「イス、ところにより貯水タンク」

亜美とたまきが、謎のコワモテおじさんに遭遇? 「あしなれ」第37話、スタート!


第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


東京は、外から見るとまるでお城のようだ。だからなのか、歓楽街のビルの5階にあるそのスナックの名前を『城(キャッスル)』という。もっとも、店としてはだいぶ前につぶれていて、今は三人の家出少女が勝手に住みついている。

そのひとり、たまきは屋上に上って、街を眺めていた。『城』のある太田ビルは歓楽街の中でもかなり高い建物のため、屋上に上ると街の様子がよく見える。

とくに、何か用事があるわけでもない。ただぼんやりとたまきは街を眺める。西の空には黒い雲が黙々と広がって、夕日を覆い隠している。あの雲がこっちに来たら、この辺にも雨が降るかもしれない。

「よっ」

声がした方を振り返ると、階段の前に亜美が立っていた。

「……どうかしたんですか?」

「こっちのセリフだよ。屋上で何やってるんだよ。まさか、また飛び降りようってんじゃないだろうな」

「……別に、そういうつもりじゃないです」

そもそも、「また飛び降り」と亜美は言うけれど、たまきがここから飛び降りたことなんて、一度もない。飛び降りようと、思い詰めていたことが何回かあるだけだ。

亜美は、手摺によりかかるたまきの横に来ると、手摺に背中を預けた。

「じゃあさ、おまえ、ここで何やってんのさ」

「別に……特に用事は……」

「屋上なんか来て、何か楽しいわけ?」

「楽しくはないですけど……高いところで風に吹かれてるのは、キライじゃないです」

「おまえ、ゲーセンよりも屋上にいたいって、それはもうビョーキだぞ」

何の病気だというのか。仮に病気だったとして、別に治さなくてもいいような気がする。

かつてのたまきだったら、こんなときは「どっかいってくれないかな」なんて考えたものだけど、今はもう、そんな風には考えない。

ひとりで屋上で風に吹かれてるのは「嫌いじゃない」けど、そこに友達が加わると、少しだけ、気分がいい。

「なに笑ってんだよ」

亜美はそういうと、煙草に火をつけた。

亜美の携帯電話が鳴った。ロック系の着信メロディーが鳴り響く。

「はいはいもしもしー」

亜美は背もたれから離れた。

「なに? 周りうるさくてよく聞こえないんだけど。 そこ、どこ? 近い?」

亜美は電話とは反対側の耳を押さえた。電話のむこうはガヤガヤと騒々しく、声がはっきりと聞き取れない。

「わかったわかった。とりま、これから行くから、ちょい待ってろ」

亜美はそういうと電話を切った。

「たまき、ちょい出かけるから……」

亜美が屋上を見渡すと、たまきの姿はなかった。

まさか、と亜美は手摺から身を乗り出して、下の道路に目をやった。

道路には、特に異変はなかった。その中で、少し足早に遠ざかる姿があった。

たまきだった。とりあえず、生きていて、元気に走っている。

屋上から飛び降りて、そのまま着地して走ってる。というわけではあるまい。たぶん、亜美が電話してる間に階段を下りたのだろう。

亜美に黙ってどこかに出かけるような子じゃなかったのだけど、まあ、屋上でぼおっとしていたひきこもりのたまきが、どこかに出かけていったのはいいことだ。走ってるのはもっといいことだ。ランニングにでも目覚めたのだろうか。

亜美は、携帯電話をとじてポケットに突っ込むと、屋上を下りる階段へと向かった。

 

写真はイメージです

亜美が呼び出されたビルは、区画の角にある。大通りと裏路地が交わるところにあって、バーやキャバクラなどが入っている、焦げ茶色のタイルのビルだ。客向けの入り口が大通り沿いに、従業員向けの鉄扉が裏路地の目立たないところにあった。

亜美は裏路地の鉄扉の前にいた。少し前に到着して、人を待っている。

「亜美」

声がした方を振り向くと、大通りの方から舞が曲がってきたところだった。

「さっきの電話じゃよくわかんなかったんだけど、どういう状況なんだって?」

「さあ、ウチもよくわかんねぇんだよ。なんか、電話のむこうがうるさいし、シンジもテンパってるし」

シンジというのは、亜美に電話してきた男だ。

「とりあえず、ケガ人が出てるみたいなこと言ってたから、ウチから先生に電話したってわけ」

舞は深くため息をついた。

「シンジの方から直接あたしに連絡すれば話早いだろうに……。つまり、そういう冷静で合理的な判断ができないくらい混乱してる状況、ってことだな」

「いや、どうだろう。シンジ、バカだし、本気で先生に直接電話すればいいって思い浮かばなかったのかもよ」

「……どっちみち、頭が痛い案件だな」

舞は頭をかきながら、鉄扉を開けてビルの中に入る。亜美がそのあとにつづく。

目的地は3階にある、ヒロキが経営しているバーである。つまりは、亜美の言う「ナワバリ」の中心地だ。

薄暗い蛍光灯の階段を二人は上り、しゃれた英語の名前が書かれたバーの前に二人は立った。

亜美が電話を受けた時は、ガヤガヤと周囲の音がうるさくて、シンジの声が聴きとれないぐらいだったけど、店の前はそれとは打って変わって静かである。もっとも、店内は防音の造りになっているはずなので中がどうなっているかはわからない。壁にもドアも窓ガラスがないので、視覚的にも、店内の様子は全くわからない。

舞はドアノブに手をかけ、ドアを開けた。

まず最初に飛び込んできたのは、殺気立った男たちの叫び声だった。次に、金髪の男が倒れこむ光景と、テーブルか何かが倒れる音。そして、何かがドアの方へ、つまり、舞の方にめがけて飛んできた。

舞はとっさにドアを閉めた。飛んできたなにかは、舞が慌てて閉めたドアにぶつかり、ガシャンと派手な音をたてて割れた。

舞は、ドアが開かないように背中で押さえつけた。突然何かが飛んできたことと、自分の手が信じられない反射でドアを閉めたことに、二重に驚いているようだ。

「ビビった~。あっはっはっはっは」

そう口を開いたのは亜美の方だった。

「いま飛んできたのって、ワイングラス?」

「……さあ。ガラス製だとは思うけど、音からして、もっと重いやつだろ。ビールジョッキとかじゃないのか?」

「それ、当たってたらヤバいヤツじゃん。先生、いまメッチャいいタイミングでドア閉めなかった?」

「自分でも驚いてる」

「あっはっはっはっは。マジウケる!」

「笑ってる場合じゃないぞ。あたしがドアを閉めるタイミングがあと少し遅かったら、割れたガラスの破片がお前の目に入って、失明してたかもしれないぞ」

「あっはっはっはっは。ナニソレ、ウケる」

亜美は腹筋を押さえて笑っている。

舞は、背中のドアに体重を預けた。

「とにかくだ、これは医者を呼ぶタイミングじゃねぇ。もっと前の段階だ」

「でも、けが人出てるって言ってたよ。治してやんないの?」

「いま飛び込んで行ったら、あたしがケガするだろ、バカ!」

舞の背中越しに、ドアがどしんと揺れた。おそらく、向こう側で誰かがドアに思いきりたたきつけられたのだろう。

「医者は、事件とか事故とかが終わってから呼ぶもんなんだよ。大乱闘の真っ最中に医者を呼ぶんじゃないよ」

「じゃあ、どうすればいいのさ」

「お前には常識がないのか」

舞は亜美の顔を見たが、なさそうだな、と判断して話を進めることにした。

「こういう時は警察を呼ぶんだよ。小学生でも知ってるぞ」

「えー、ケーサツ~?」

亜美は露骨に嫌そうな顔をした。

「なんだその顔は。別に、おまえが警察呼ぶ必要はないだろ。あたしが通報しとくから、おまえは警察来る前にとっととどっか行けばいいだろ」

「だって、ここ、ウチらのナワバリだよ? ナワバリの中にケーサツ入れるとか、ないわ~。 ナワバリで起きたモメゴトは、ナワバリの中でウマくやるってのが、ジョーシキじゃね?」

「勝手に常識を作るな!」

「それにさ、『小学生でも知ってる』っていうけどさ、小学生はこういう時、ケーサツじゃなくて先生を呼んでくるんじゃないの?」

「じゃあ、その先生を呼んで来い! どこの学校の先生を呼んでくるつもりだお前は!」

「だから、先生呼んできたんじゃん」

亜美は舞を指さした。

「だから、医者の先生を呼ぶタイミングじゃねぇっつってん……」

そこで舞は、ふと言葉を切った。ドアから離れると、何かを考えるように顎に手を当てる。

「先生か、先生……ふむ……」

舞はカバンから携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。

「もしもし? あ、ママ? 久しぶり」

「ママ?」

亜美が不思議そうに舞の電話を見る。

「あー、しばらく海外にいたんだよ。いや、ただの友達との旅行だ。またそのうち顔出すから。それよりさママ、今って大丈夫? 今どこいる?」

そういうと、舞はその場の状況を伝えた。

「じゃあ、そこなら十分もかかんないか。とりあえず、あたし、ビルの前で待ってるから……、あ、場所わかるの? うん、じゃあ分かった」

舞は携帯電話を切った。

「え、誰か来んの? 『ママ』ってことは、もしかして、先生の母ちゃん?」

亜美が面白そうに尋ねてくる。

「いや、そういうんじゃねぇんだ。『ママ』ってのはまあ、あだ名みたいなもんだな」

「先生なの、その人?」

「まあ、それに近い感じかな」

舞はドアの方に目をやると、時計の方を見た。店の外には特に怒号も衝撃音も聞こえてこないが、それがかえって不気味だった。

 

写真はイメージです

歓楽街の中で、たまきはきょろきょろとあたりを見渡していた。

屋上から見えたとあるビルに行きたくて、勢いよく飛び出してしまったものの、その目的地がどこにあるのかはわからない。とりあえず、近くまでは来ているはずだ。だけど、屋上から見た時はビルの上の部分しか見えなかったのに、いま、地上から見ると下の部分しか見えないので、どれが目当てのビルかわからなくなってしまったのだ。たしか、こげ茶色のレンガのようなビルだったと思うのだけれど。

ふだん走らないくせに、珍しく走ったものだから、たまきは息が切れてしまった。息を整えながら、目指すビルを探してうろうろしている。

そんなこんなで、飛び出してきてから二十分ほどたっただろうか。そろそろ帰らないと、亜美が心配しているかもしれない。暗くなる前に一度戻って、屋上からもう一度どこのビルだったかじっくりと探した方がいいかもしれない。

裏路地でそんなことを考えていた時、向こうから誰かやってくるのが見えた。何気なくそちらに目をやるたまき。

身の丈2メートル、とまではいかないけれど、かなりの大男が、たまきの方に向かって歩いてくる。

黒いスーツなのだけれど、サラリーマンには見えない。スーツの内側には柄物のシャツ。首には金のネックレス。手にも金のリング。それも、一つや二つではない。たまきからは右手しか見えなかったけど、きっと、左手にもいっぱいアクセサリーをつけてるんだろう。

でも、何よりも目を引いたのが、ひと睨みで相手を気絶させそうないかつい顔と、スキンヘッドだった。うっすらと髪の毛の残る坊主頭ではない。まったくのつるっぱげだ。頭皮がむき出しに、いや、そのごつごつとしたカタチは、頭蓋骨の形状がそのまま剥き出しになっているかのようでもあった。

コワモテおじさんだ……。

たまきは、その男の威圧感に圧倒され、目が釘付けになりながらも、声を出さぬようにして、その男が通り過ぎるのを待った。

ふと、たまきの鼻を、ヘンな匂いがくすぐった。仙人の棲む「庵」に出入りしていて、変な臭いに慣れているたまきだったけど、それとはまた違う「ヘンな匂い」。なにか、強烈な薬品とか、そんな感じの印象を受けた。

コワモテおじさんは、裏路地と大通りが交わるところにあるビルの、鉄の扉を豪快に開けて、中に入っていった。そのビルは、こげ茶色のレンガのような作りだった。

あれ、もしかして、このビルかも。

たまきはビルに近づいてみた。壁の色が、確かに似ている。ビルの高さは四階建て。屋上から見た時の高さにも近いような気もする。

試しに入ってみようと思ったたまきだったけど、コワモテおじさんの入った後についていくのはなんか怖かったし、ドアに「従業員専用口」と書いてあったので、別の入り口を探すことにした。

 

写真はイメージです

舞が電話をしてから、十分が過ぎた。その間、亜美が店の中を覗こうとして、舞が止める、というやり取りが三回繰り返された。

亜美の我慢の限界がいい加減切れそうになった時、階段の方から大きな足音が響いてきた。こっちに近づいてくる。亜美と舞は、自然とそちらに視線を向けた。

最初に見えたのが、スキンヘッドの男が階段を上ってくるところだった。次第に男の全貌が見えてくると、亜美は思わず「げ」と声を漏らした。

身の丈2メートルとまではいかないけれど、亜美の背後にあるドアをくぐれるかギリギリの大男だ。黒のスーツに柄物のシャツ。デザインは、何かの花だろうか。首や指に金のアクセサリーをジャラジャラとつけている。

コワモテおじさん来ちゃった……。

男は仁王像のような仏頂面のまま亜美と舞の方に近づいてくる。近づくにつれ、男が「ヘンな匂い」を放っていることに、亜美は気づいた。

乱闘に加勢しようとする、新手だろうか。

空手とケンカの心得が多少ある亜美だったけど、どう見ても勝てる相手じゃない。どうしようかと考えあぐねていると、男は舞の方を見て、仏頂面をくしゃっと崩した。そして、

「やだー! 舞ちゃん、久しぶりじゃなーい。海外旅行に行ってたなんて、聞いてなかったわよぉ?」

と、亜美が思ってたよりも2オクターブぐらい高い声で話し始めた。

「なんでママにいちいち、旅行先言わなきゃいけないんだよ」

と、舞。

「え? ママ? これが? おっさんじゃん?」

と、戸惑う亜美。

「どこよ、海外ってどこよぉ?」

と、迫るおじさん。

「ヨーロッパだよ。ドイツとか、フランスとか」

「えー、アタシも行きたかったぁ。行ってくれれば、休み合わせられたのにぃ!」

「ヤダよ。ママみたいなバケモノが来たら、アタシの友達が逃げ出すだろ?」

「ちょっと、バケモノはひどくない? まあ、舞ちゃんだから許すけどぉ」

と言いながら、おじさんは舞の肩をバシッとたたいた。

「いたたっ! 力が強いんだよっ!」

「ごめーん。でも、アタシを置いてきぼりにしたことと、バケモノ呼ばわりしたこと、これでおあいこじゃなーい?」

と、おじさんは白い歯を見せて笑った。そして、

「で、どういう状況なんだって?」

と、急に声のトーンを落とした。この感じだと、まだ「ちょっと声の高いおじさん」と言ったところだ。

「あたしにもよくわかんねぇんだ。コイツに呼び出されて、ここに来て、ドア開けたらいきなりビールジョッキ投げつけられたから、あわててドア閉めて、それっきりだ。それが十分前」

「あらぁ、それじゃ今、中でケンカ祭りってわけ?」

「もう全員死んでたりしてな」

舞が医者にあるまじきジョークを飛ばす。

「この店、防音がしっかりしてるから、外からじゃなんもわかんねぇんだ。で、こいつがケーサツはやだっていうから、ママなら何とかしてくれるんじゃないかって思って」

舞が亜美を指さしながら話す。

「ふーん。で、この子は?」

「ママ」が亜美を見て尋ねた。

「こいつは亜美。この辺に棲みついてて、あたしが面倒見てる、野良猫だ」

「ふふ、カワイイ子じゃなぁい」

そういうと、「ママ」は亜美をじっくりと見た。春になってますます露出の高くなり、肩なんて完全に出ている亜美の姿を、上から下まで丁寧に見る。だが、その視線にいやらしさは全く感じない。なんだか検査されてるみたいだ。

温かみはあるけれど、どこか冷徹さを兼ね備えたその視線から、亜美は逃れたい衝動に駆られたが、逃げても無駄と体が悟っているのか、思うように足が動かない。

この時になって亜美は初めて、「ママ」が放つ「ヘンな匂い」の正体が香水であることに気づいた。亜美の嗅ぎ慣れないタイプの香水だ。

「ママ」はやがて、亜美の右肩に彫られた、青い蝶の入れ墨に目を止めた。

「あなた……それ……」

「あ?」

「誰か身近な人、亡くしてるのかしら?」

「……は!?」

そのとき、「ママ」が上ってきたのとは違う階段から、ガンガラガタンと何かが倒れる音がした。音に反応してそっちを向いたのは舞だけだったが、特に人の姿は見えない。おそらく、階段にいる誰かが掃除用具でも倒したのだろう。いくつもの店が入っているビルだ。亜美たち以外に人がいても何ら不思議はない。

割と大きな音がしたにもかかわらず、亜美と「ママ」は微動だにしなかった。「ママ」は亜美の入れ墨をじっと見据え、一方の亜美はまるで心臓を撃ち抜かれたかのような顔をしている。

先に口を開いたのは、「ママ」の方だった。

「あら、ごめんなさい。アタシ、いきなり失礼だったかしら。でも、蝶々ってアタシの業界じゃ死者の魂とか、そういう意味で使われるのよ」

「し、知らねぇよ!」

亜美が少しかすれた声で言った。もしかしたら、さっきからの数秒間、呼吸そのものが止まっていたのかもしれない。

「別にこれ、そういう意味じゃねぇし。っていうか、ウチが選んだデザインじゃねぇし! その……、彫り師がウチのイメージにぴったりだっつって……、だから、全然そういうんじゃねぇし……!」

「あら、そうなの。とにかく、失礼なこと聞いちゃったわね。謝るわ。ごめんなさいね」

そういって、「ママ」は右手を差し出した。亜美は「ママ」から目線をそらして、その手を取って握手した。

「ママ、ママ、本題に戻っていいか?」

舞が少し呆れたように声をかける。

「そうだったわね。えっと、このお店の中の騒動を、とにかく静めてくればいいのね?」

そういうと「ママ」は、ドアノブに手をかけた。舞と亜美は、ドアの隙間から何か飛んできてもいいように、ドアから離れた。

亜美は、「ママ」との握手の感覚がまだ残る右手を、ズボンのすそでこすった。

空手をかじっている亜美は、握手した時に「ママ」がかなり鍛えていることが分かった。

だが、ドアのむこうには、ざっと数えても十人以上はいたはずだ。おまけに彼らはみな殺気立っているから、凶器を使うことすらためらわないかもしれない。いくら「ママ」が強そうだからって、そんな連中相手に何とかなるものだろうか。

「ママ」はドアノブをひねり、ほんの数センチだけ、ドアを開けた。

とたんに廊下に飛び込んでくる、男たちの怒号、何かが倒れる音、何かが割れる音。

どうやら、亜美に電話が来てからの十数分近く、こいつらはずっと暴れ続けていたらしい。なんとも元気な連中である。

ママは少しだけ開いたドアに足をかけた。

そしてそのまま、足を使ってドアを勢いよく開いた。蝶番を中心にドア板が回転し、壁に思いきりたたきつけ、派手な音を出した。

その音で、店の中の動きも音も、一瞬止まった。視線が一気にドアの方に集められる。すると彼らが目にするのはスキンヘッドの大男。状況が呑み込めずにぽかんとしているものもいれば、明らかな敵意を投げつける者もいる。

「なんだァ、てめぇ?」

金髪ロン毛が、「ママ」をにらみつけた。

「ダメよぉ、お痛しちゃ。みんな仲良く、ね。和を以て貴しとなす、聞いたことないかしら?」

しばしの沈黙、そして、一気に笑い声が店の中に溢れた。

「おい、おまえら、見ろよ。オカマがやって来たぞ!」

亜美は廊下の壁に背中をつけ、ドアのむこうをうかがった。

ドアにむこうにいるのは、十人どころではなかった。その三倍はいる。ただし、そのうちの三分の一は、すでにノビて床に転がっているのだけれど。

亜美から3メートル離れたところに、ひょろ長の男がテーブルの下に隠れてガタガタ震えていた。亜美に電話したシンジである。

「シンジ。おい、シンジ」

亜美が小声で手招きすると、シンジも亜美に気づき、

「あ、亜美さーん」

とすがるように亜美のもとに転がり出てきた。殴られたのか目の上にはこぶがあり、服はしわくちゃになってボロボロである。

「おい、何があったんだよ」

「タケシのチームが飲んでたんすよ。そしたら、そこにケイゴが仲間連れてやってきて、はじめは互いに無視してたんすけど、そのうち大げんかになって……」

「待て待て待て待て」

と割って入ったのは舞である。

「話が見えねぇ。タケシもケイゴもあたし知らないんだけど、なんでこの二人が同じ店にいるだけで大げんかになるんだ?」

「もともと仲悪いんだよ、あいつら」

「ナワバリ内の派閥争いってやつです」

「……くだらねえ」

舞は、深いため息をついた。

「ヒロキはどうした。あいつ、ここのオーナーだろ?」

「いま、ヨコハマに行ってて……」

その時、ガラス瓶が割れる音がした。さっきの金髪ロン毛が、テーブルにビール瓶をたたきつけて割ったらしい。

「ケガしたくなかったら、とっとと帰れや、おっさん」

ビール瓶を割ったのは、どうやら威嚇のつもりらしい。が、「ママ」は動じない。

大乱闘はひとまず止まっている。が、それは彼らの敵意が突如現れた謎の大男に向けられているからだ。

「帰れっつってんだろ!」

金髪ロン毛は別のビール瓶を手に取ると、その手を大きく後ろに振りかぶった。

これはさすがにマズいんじゃないか、と亜美が思うまでもなく、金髪ロン毛はビール瓶をテニスラケットのように勢いよく振り、「ママ」の左側頭部を直撃した。ガンッ! と、皮膚よりも骨にあたったんじゃないかという鈍い音とともに、ビール瓶は真ん中から砕け、水しぶきのように飛び散った。

亜美からは、ビンが当たった「ママ」の左側頭部がよく見えた。

少なくとも三か所、赤い筋が鈍く光っている。しばらくすると、そこから血液がこぼれ始めた。

亜美は、「ママ」が左手で両目を覆っているのに気付いた。最初、泣いてるのかと思ったけれど、その本当の意味が分かった時、亜美は鳥肌が立った。

「ママ」は両目にガラスの破片が入らないようにガードしていたのだ。たしかに、目に破片が入れば一大事である。

だけど、それは同時に、「瓶で殴られることそのものについては、特に気にしていない」ということでもあった。ふつうの人間ならばそもそも瓶をよけるか、瓶をガードしようとするか、何もできずに黙って殴られるか、だ。ふつうは、恐怖と動揺で何もできずにただ殴られるだけだろう。

なのに「ママ」は「目をガードする」という選択をした。あの状況でそれを選べるということは、やろうと思えばよけることだって止めることだってできたのに、あえてそれを放棄して、攻撃を受け止めて、急所だけ守ったということなのではないか。

実際、「ママ」が腕を降ろして両目があらわになった時、亜美から見えた横顔は、とても涼しげだった。痛がるようなそぶりは全くない。痛みを感じていない、というよりは、痛いんだけど気にしていない、そんな風に見える。

こういう表情、どこかで見たことあるぞ、と亜美は思った。

男たちがざわつき始めた。ビール瓶で殴られたのにこともなげに立っているというのは完全に想定外。動揺が広がっているのだ。

金髪ロン毛はおびえたような眼をしている。こいつらは、たいていのことは暴力や恫喝で主張を押し通してきたような連中だ。暴力で解決できないとなれば、それはもはや打つ手がないということだ。

「ママ」は金髪ロン毛に近づくと、右手で彼の頭を掴んだ。

「……おいっ! なにするんだ! やめろ! さ、さわんな!」

金髪ロン毛は「ママ」の腕を振りほどこうとするが、頭を振っても、「ママ」の腕をつかんでも、どうあがいても外れない。金髪ロン毛は「ママ」に蹴りを入れるが、ビール瓶で殴られて平気な人間が、いまさら蹴られたところで顔色一つ変わらない。

「ママ」は空いている左手で、近くにあった木製の椅子を掴んだ。見た目、かなり重そうなイスだが、「ママ」はそれを、背もたれの上部を片手でつかんで、やすやすと持ち上げた。その様子を見た男たちにも緊張が走る。

次の瞬間、「ママ」は椅子を床に思いきりたたきつけた。

椅子は四本の足がそれぞれ、てんでバラバラな方向へと飛んでいった。背もたれの部分はバッキリと折れ曲がり、木屑があたりに舞い散る。文字通りの木っ端みじんである。振り下ろした左腕の時計が、店のライトを反射して、何か勝ち誇ったかのように輝いている。

この「ママ」の行動に震え上がったのが、間近でそれを見させられた金髪ロン毛である。

もしも、「ママ」が振り下ろしたのが左腕ではなく右腕だったら、自分の頭が椅子と同じ運命をたどるかもしれないからだ。

「はぁ……はぁあ……」

金髪ロン毛は気の抜けた声を上げた。シルバーのズボンのまたの部分に何やら黒いしみができて、そこから雫がぽたぽたとこぼれ始めた。「ママ」が手を離すと、へなへなとその場に座り込んだ。

一番殺気立っていた男が情けなく床にへたり込んだことで、ほかの男たちも戦意をなくしたかのように亜美には見えた。

「みんな仲良く、ね」

「ママ」はにっこりとほほ笑んだ。

男たちの中の誰かが、ドアに向かって駆けだした。一人が動き出すと、ほかの者たちも一斉にドアをめがけて駆けだす。

「わあああああ!」

男たちは、沈没船から逃げ出す鼠のように、一斉にドアから飛び出していった。そのまま、階段を一気に駆け下りていく。

亜美の耳に、下の階から何か派手な音が聞こえた。誰か慌てて転んだのかもしれない。

最後に金髪ロン毛が、まるで足の使い方をすっかり忘れてしまったかのような動きで、店から這い出し、逃げていった。

「やれやれ、やっとあたしの仕事だよ」

舞は店の中に足を踏み入れると、ノックダウンして逃げることもままならない数人の手当てを始めた。

「あら、お店の責任者の子には残って欲しかったんだけど……」

「ママ」が亜美たちの方を見る。

「あ、あ、オレ、せ、責任者の代理っす」

シンジが恐る恐る手を挙げた。もともと乱闘にすっかりおびえ切っていたシンジだったけど、今はまた違う意味でおびえているようだ。

「ママ」はシンジに近づく。そのまなざしはやっぱり涼しげで、凶暴さなどみじんも感じられない。

「お店の椅子、壊しちゃって悪かったわね。弁償するわ。たぶん、これで足りると思うから。オーナーさんに渡しておいてくれる?」

「ママ」は、分厚い革の財布から、一万円札を十枚ほど取り出すと、シンジに渡した。

亜美は、木っ端みじんになった椅子の残骸に目をやった。

結局、「ママ」はだれ一人殴ることなく、乱闘を終わらせた。自分を殴らせ、イスを壊すことで、「ママ」自身は誰も殴ることなく、その強さを見せつけて事態を収束させたのだ。

「ヤダ、財布の中、空になっちゃったわぁ。オカネ、おろしてこないと」

「ママ」は亜美たちの方を向いて、親指と人差し指で丸を作った。

その姿を見て、亜美は「ママ」が何に似てるのかを思い出した。

子供のころ、祖父に連れられてよく行った地元のお寺の本堂に祀られていた、そこそこ大きな仏像。

「ママ」の涼しげな表情と、なんとも言えない威圧感は、その仏像によく似ていた。

 

写真はイメージです

たまきは、傍らで倒れているアルミ製のちりとりをそっと起こした。

こげ茶色のビルに入ったたまきは、屋上へと向かって階段を上り始めた。いかがわしいバーとか、いやらしいキャバクラとかの看板が並ぶビルだったから、入るのに少し勇気がいった。

3階を越えて4階へと続く階段を上っていた時だった。不意に3階あたりから

「は!?」

という大声がきこえた。それが、亜美の声にかなりそっくりで、驚いた拍子にたまきは踊り場にあった掃除用具を倒してしまった。ガンガラガタンと派手な音が階段と廊下に響く。たまきは慌てて倒してしまった掃除用具を起こしたのだった。

亜美の声がきこえた気がしてびっくりしたけど、亜美はさっきまで太田ビルの屋上にいたのだ。こんなところにいるわけない。

たまきは屋上の階までやって来た。塔屋の内側で、外に出るにはドアを開けねばならない。

たまきはドアノブを回した。鍵がかかっている。

だけどたまきは、ドアノブに、カギを回すつまみがついていることに気づいた。どうやら、中から開けられるタイプのようだ。

たまきは鍵を開けて、塔屋の外に出た。

屋上の一角に、大きな貯水タンクがある以外は、特に何もない。周りには同じ高さのビルが多く、あまり視界を遮るものはないけど、中にはもっと大きなビルもあるので、なんだか箱庭の中に入った気分だ。まあ、太田ビルの屋上とそんなに変わらない

たまきはまず、少し遠くに見えるはずの太田ビルを探した。

太田ビルはすぐに見つかった。区画にして二ブロックほど向こうだろうか。五階建てのビルがそんなにないうえ、屋上に洗濯物が干してあるからだ。今日の洗濯物はたまき自ら干したのだ。見ればすぐわかる。

たまきは、太田ビルがよく見えるように屋上のすみに移動した。屋上のヘリは、たまきのおへそぐらいの高さの囲いがある。そして、囲いギリギリのところに貯水槽があった。白い貯水槽だけど少し古いものらしく、汚れでだいぶ黒ずんでいる。太田ビルが見える、屋上の西側の一辺は、3分の2ほどがその貯水槽と接している。たまきは、のこり3分の1の部分に立つと、囲いに背中を預け、左側にある貯水槽を見た。

そこに、白い鳥の絵があった。ペンキで描かれた、ラクガキだ。

それはここ数日、たまきが歓楽街周辺のあちこちで見かけたものと同じ絵だった。太田ビルの屋上から、これが見えたのが、たまきがビルを飛び出した理由だった。

メガネっ子のたまきの視力はメガネをかけていてもそんなにはよくない。これまではそんな絵が二ブロック先のビルの屋上にあることなんて、気づきもしなかった。実際、太田ビルから見えた絵は小さすぎて、たまきもここに来るまで、はっきりと同じ絵だと認識できたわけではない。別の場所でこの絵を見ていて、気になって頭に残っていたからこそ、気づけたのだ。

それにしても、とたまきは首をかしげた。またしても、問題はこの絵が描かれた場所である。

この絵は、貯水槽の西の側面の上部に書かれている。しかし、西の側面というのは、屋上の囲いとわずか数センチの余白を残して接している。たまきはいま、囲いに背中を預け、若干のけぞるようにして、ようやくこの絵が見れているのだ。

どうやってこの絵を描いたのか。

たまきは、左手を伸ばしてみた。小柄なたまきでは、どんなに腕を伸ばしても、絵にはまだ1メートル近く足らない気がする。もっと背の高い人でも、さすがに届かないだろう。

たまきは、囲いを見た。

どう考えても、これに乗るしかない。

たまきぐらいの小柄な人でも、この囲いの上に立てば、ギリギリ手が届くだろう。

ただし、うっかり足を滑らせれば、そのまま十数メートル下の地上まで真っ逆さまである。絵は貯水槽のかなり上のところにあって、一般的な身長の人でも、描こうとすれば目線よりかなり上の部分での作業になる。そうなれば、ずっと見上げっぱなしになり、自然と上体はのけぞる。

囲いは、幅がたまきの靴の縦の長さと同じぐらいだろうか。これでは、ちょっと足を滑らせたら大変なことになる。

実際に囲いの上に立ったらどれくらいの高さなのか、たまきでも絵まで手が届くのか、足元は安定しているのか、実際に囲いの上に立ってみたらわかるのだろうけど、さすがのたまきもそれをする勇気はなかった。いかに死にたがりとはいえ、「自分から飛び降りる」のと、「うっかり足を滑らせて落っこちる」は、似ているようでぜんぜん違うのだ。

これまで見つけた鳥の絵はいずれも、よりによってどうしてこんな場所で描いたんだろう、というものばっかりだった。決して不可能ではないけれど、わざわざこんなところで描かなくても、と思うような場所ばっかりなのだ。

たまきが囲いの上に立つのを諦めて、なにげなく向かいのビルに目をやった時、たまきは息をのんだ。

向かいのグレーのビルの屋上にも、同じ鳥の絵があったのだ。向かいのビルは高さが一階分低い。そこの屋上の塔屋の外壁に、同じ絵があった。

たまきは、再び走り出した。たまきにしてはすごいスピードでビルの屋上を駆け下り、一気に外に出る。そして向かい、つまり道路を挟んで西側にあるビルに飛び込んだ。

そのまま屋上まで一気に駆け上る。息を切らしながら登り切り、塔屋のドアノブに手をかけ、回した。

だが、ドアは開かなかった。鍵がかかっている。そして、今度は中から開けられるような仕組みは、見つからなかった。もっとも、こうやって簡単に屋上へは入れないビルの方が、ふつうなのかもしれない。

でも、だとしたら、いよいよもってどうやって鳥の絵を描いたのかわからなくなる。鍵がかかってたら、入れないじゃないか。

一瞬、隣のビルから入って飛び移る、という危険な方法が思いついた。だけど、そこまでしてラクガキをする理由が思い浮かばない。そもそも、隣のビルには入れたのなら、隣のビルでラクガキすればいいじゃないか。わざわざ別のビルに飛び移る理由がない。

もしかしたら、一連のラクガキは全部、魔法使いが描いているんじゃなかろうか。それならば、全て無茶なところに描かれているというのも納得できるのだけど。

 

たまきが階段を下りてビルから出てきた時だった。向かいのビル、つまり、先程までたまきがいた焦げ茶色のビルの、従業員専用と書かれた鉄扉が開いた。

そこから、まるで亜美の「友達」にいそうないかつい格好の男たちが、次々と飛び出してきた。驚いてたまきはその場に固まってしまったが、どうも様子がおかしい。誰もかれも血の気を失っていて、まるで何かから逃げるようにビルから飛び出し、てんでばらばらの方角に走り去っていった。中には、殴られたかのような跡がある人もいる。

ぽかん、とたまきがその様子を見ていると、

「あれ? たまきちゃん?」

と聞きなれた声がきこえた。

振り返ると、志保が手を振りながらこちらに向かって歩いてきた。

「どうしたの、こんなところで?」

「べ……別に……、散歩です。志保さんは、バイト帰りですか?」

「うん、そう。お夕飯の材料、買ってきたよ」

志保が手に持っていたレジ袋を持ち上げて見せた。

二人はそのまま、「城」に向かって歩き出した。

「めずらしいね、このへんうろついてるのって」

「べ、別に……」

たまきはこれ以上ツッコまれたくないので、視線を落とした。別にやましいことをしていた覚えはないのだけれど。

「そういえばさ」

と志保が切り出した。

「この前さ、このへんにさ、なんか警察の人、いっぱいいたのを見たよ」

「えっ?」

たまきは志保の顔を見た。それから、後ろを振り返る。

例の焦げ茶色のビルがたまきの目に入った。たまきの頭の中に、屋上でラクガキをしていた誰かが、足を滑らせて落っこちるシーンがよぎった。

「だ、だれか落っこちたんですか?」

「え?」

志保が怪訝な顔でたまきを見た。

「警察の人がいただけで、何があったかまではわからなかったけど……、誰か落っこちたの?」

「い、いや……別に……」

たまきは視線を落としたけど、再びまた、焦げ茶色のビルの方を振り返っていた。

つづく


次回 第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」(仮)

はたして、コワモテおじさんこと「ママ」の正体とは? 続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

奇跡の連続

ほんとは文学フリマで100冊完売を達成して、高らかに言いたかったんですよ。「ZINE作家ノックのシーズン2がここから始まります! おたのしみに!」と。

それを言うには、やっぱり「100冊」って数字がないと説得力がないじゃないですか。

ところが、現実の売り上げは86冊だったんですよ。これが「86冊も」なのか、「86冊しか」なのか、まだわかんないんですけど、いずれにしても、シーズン2の幕開けを高らかに宣言するには、ちょっと弱い。

文学フリマが終わって二三日は、実は「100冊に届かなかった……」という残念な気持ちの方が強かったのも事実です。

なにせ、半年間この「100冊」という壁を目標に、いろいろと準備してきたわけですから。半年もかけていろいろやったけど届かなかった、となると自分の力不足を感じざるを得ないわけで。

ところが、これが一週間たつとまた気持ちが少し変わってきていて。

売り上げの数字とはまた別の「反響」ってやつを、少しずつ感じているんですよ。

それはSNSだったり、生の声だったり。文学フリマとはまた別の場所でZINEが売れてたり。

ZINEを取り巻く環境も少しずつ、面白い方向に変わっていってる気がしますし。

文学フリマの次の週末は、紙を買いに行ったり、納品に行ったり、印刷したり、新作を作り始めたりと、かなりの時間をZINEにまつわることに当ててました。

それも、「また来月のイベントが迫ってるから」という、やらなきゃいけない理由がちゃんとあって、そこで収益を出せるだけの実績もある。

「前にもこのイベントに出て、これだけ売れてるから、このくらいの収益にはなるだろう。そのためには、これだけの部数を用意しないといけない」と、ある程度ソロバンもはじけるようになってきました。

材料の紙を買いに行くのも、表紙を印刷しに行くのも、電車に乗って納品しに行くのも、「この出費は後で利益として取り返せる」という自信があるから。

ZINE作りを始めた3年前には考えられなかったことです。あの頃は、自分の作品が売れる姿なんて想像できなかった。そんなことは奇跡だと思ってた。

いや、今でも奇跡なんですよ。自分の作ったZINEが1冊でも売れる、自分の作ったものに誰かが価値を見出して、お金を払ってでも買ってくれる、そのことは奇跡でしかないんですよ。奇跡の連続なんですよ。売れて当たり前、なんてことはないんです。

あのゴッホだって、生前は絵がたった1枚しか売れなかった。ゴッホのとってその絵は「奇跡の1枚」だったはず。

そう考えると、そもそも、3年以上もZINE作りを続けていること自体が奇跡なのかもしれません。

この前、友人と話していたら「続けていることがスゴイ」と言われまして。

たしかに、少なくとも「こんなこと、もうやめよう」って状況ではないことは確か。

自分が起こしたアクションに対して、それに見合う程度の結果は出ていて、それなりに反響もあって、応援してくれる人もちらほらいる。すくなくとも、「誰にも相手にされていないんだから、もうおやめなさい」という段階ではもう、ない。

まだ続けたいと思うし、まだ続けていいとも思う。もちろん、ものすごい追い風が吹いているわけじゃないんだけど、風が全然吹いていないわけでも、ましてや向かい風なわけでもない。

「まだ続けられる」っていうのは、それだけで大したものだし、それだけで奇跡なのかもしれません。

まだまだまだまだ止まんないよ

缶バッジとサムズアップ

コンビニに行くと目立つところに、ワンピースとか仮面ライダーとかの一番くじがあるじゃないですか。

僕はワンピもライダーも大好きなんですけどね、フィギュアには全く興味がないので、スルーしちゃってます。

「かさばるグッズ」に興味がないんですよ。

場所をとるうえに、ホコリとか掃除するのめんどそうだし。

おまけに、実用性が全然ないじゃん。

渋谷のワンピースショップに行ったときも、かさばらないうえに実用性がある、そんなグッズは意外と少なくて困りました。せっかく来たのに、買うもんないじゃん。

マグカップとか売ってたんですけど、かさばる上にね、別に食器には困ってないし。新しいのいらんのよ。

そんな僕にとって重宝するグッズがあるんです。それが、「コースター」

小さく平べったくてからかさばらないうえに、実用的! あと、紙製のコースターは意外と消耗品だから、なんぼあっても困らない。

「コラボカフェ」みたいなイベントに行くともらえます。

あとは、やっぱり缶バッジですね。

実用的じゃないけど、かさばらないし、安いからついつい買っちゃいます。

こういうのは開封するまでどのキャラが出るかわからない、ってギャンブル性もあるんですよ。

まあ、僕はこの手の運には強くて、結構な確率で推しキャラを引いちゃうんですけど。

「プリンセス・プリンシパル」の缶バッジを2個買った時は、なんと推しキャラの「ベアトリス」がダブってました。缶バッジってけっこう落としやすいから、ダブりは助かりますね。

そんな缶バッジにまみれた生活を送っているある日、こんな出来事があったんですよ。

道を歩いていると、背後からバイクで追い越していったピザ屋のお兄さんが、突然僕にむかってサムズアップをして走り去ったんです。

はてな。ピザ屋さんにサムズアップされる覚えなんてないし。

知り合いかな、って思ったけど、一瞬見えた横顔は知らない顔。

なにより、向こうは僕を後ろから追い越していったんで、僕の顔は見てないはずなんですよ。見えたのと言えば、背中にしょってるリュックぐらい。そして、リュックには最推しアニメ「刀使ノ巫女」の缶バッジがいっぱい……。

……まさか、彼は同じ刀使ノ巫女を愛する同志だったというのか? それで、僕の缶バッジを見てサムズアップを?

たしかに、いくつかある缶バッジの中でも、遠目からでもわかるくらいデカいやつがあって、しかも、それは主人公のキャラが描かれているもの。わかる人にはすぐピンと来るはずです。

刀使ノ巫女のゲームは、去年サービス終了しちゃったんだけど、500万ダウンロードを突破していたはずなので、プレイヤーは町中に結構いるはず。

こんなふうに、町で自分の好きなアニメのグッズを持ってる人を見ると、嬉しくなるけど、声をかけるのはさすがに、という場面が何度かあったんだけど、そうか、さりげなくサムズアップすればいいんだ。