小説 あしたてんきになぁれ 第34話「モノレールのちブレスレット」

ケンカしたり仲直りしたりのお泊りの翌日、ミチはたまきを外に連れ出すことに。二人でお出かけ、と言ってもミチとたまきの場合は……。あしなれ第34話、お待たせしました!


第33話「柿の実、のち月」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


目覚めると、朝だった。

ミチは昨日の買い物で、朝ごはん用に菓子パンを二つ買っておいた。二人でそれをモチャモチャと食べる。

ミチもたまきも、何もしゃべらない。

朝、目が覚めた時、たまきはふとんを独り占めして寝ていた。ゆうべ、たしかにたまきは、ミチにもふとんがかかるようにとふとんを横にしたのに。

そして、ミチはとっくに起きていて、テレビを見ていた。

つまり、ミチはたまきより早く起きて、またふとんの位置を変えたということである。

ということは、たまきが夜中にふとんの位置を変えたことにミチは気づいたはずだ、ということであり、さらに突っ込んでいえば、「ミチが自分のふとんをたまきに使わせて、自分は腹を出して寝ていたことに、たまきが気づいた」ということに気づいたはずなのだ。

そのことに関して、ミチは何も言わないし、たまきも何も言わない。

男子というのは、女子に柿の実をぶつけて痛がるのを喜ぶような野蛮なサルであり、その中でもミチというサルは、優しくパスを出したつもりで思い切り柿の実をぶつけてくるような奴である。力のさじ加減がわからないようなヤツなのだ。

だからこそ、稀に、そして、急に、やさしく柿の実をパスされると、どうしたらいいのかわからず、困る。

ただでさえおしゃべりが苦手なうえに、こんな時に相手にかける言葉なんてたまきは持ち合わせていないのだ。

むしろ、ミチが何も言わないのは、不自然じゃないか。いつも、大した用もないのに話しかけてくるくせに。「俺がふとんかけてあげたこと気づいた?」って自分から自慢したっておかしくないくらいだ。

なのに、どうして、今朝に限って黙っているんだろう。

たまきはミチの方に目をやった。ミチは二つ目のコロッケパンの袋を開けていた。

「その……」

たまきは、パンの袋をくしゃりと潰しながら言葉をつづけた。

「……なんかないんですか?」

「……なんかって?」

ミチは怪訝な顔をした。

「あ、パン二個じゃ足りなかった?」

「……いえ……別に……」

これ以上考えるとおなかが痛くなるので、たまきは考えるのをやめた。きっとふとんが勝手に動いたんだ。そうにちがいない。「ミチがこっそりふとんをかけてくれた」と考えるより、まだこっちの方が現実的だ。

「それでさ、たまきちゃんはこの後、どうするの?」

「えっと、夕方の六時に『城』に集合、って約束になってます」

「六時まで、どうしてるの?」

今は朝の八時だ。

「えっと……いつもの公園に行って、絵を描いたり、ぼうっとしてたりしようかなと……」

「十時間も?」

「はい」

たまきは、特に深く考えずに返事をしたが、しばらくしてミチの顔を見て、

「……ヘンですか?」

と聞き返した。

「さすがに十時間はおかしいって。そんなに長く公園にいたら、補導されちゃうんじゃないの?」

「……たしかに」

たまきとしてみれば、公園で十時間ぼうっとしてるくらい、たいしたことないのだけれど、フツウの人が見れば、子供が公園で十時間もぼうっとしてたら、やっぱり警察を呼びたくもなるのだろう。社会的にはたまきは、家出中の不良少女なのだ。不良と言っても家出してぼうっとしてるだけなのだけど。

太田ビルの屋上でぼうっとするのはどうだろうか。だけど、万が一、オーナーが屋上にやってきたら面倒だ。たまきみたいな子が屋上でぼうっとしてたら、それこそ、思い詰めて飛び降りようとしているようにしか見えないだろう。

誰にも迷惑をかけずに、ただぼうっとしていたいだけなのに、それすらできないなんて、なんて理不尽な世の中なんだろう。

それにしても困った。困った、困った。これから十時間、どこでぼうっとしたらいいんだろう。

そんなことを考えながら、食べかけのパンをじっと見ていたたまきだったが、そこにミチが口を開いた。

「特に予定ないならさ、今日一日、付き合ってよ。ちょうど行きたい場所があって」

「ほへ?」

不意の申し出に、たまきはパンを落としそうになった。

「予定、ないんでしょ?」

「ないですけど……なんで……わ……」

そう言って、たまきは口を閉じた。しばし、沈黙が流れる。

「……ムリです」

「無理って何が? 俺と一緒に行くのが?」

「あ、そういうんじゃなくて……」

たまきはそういうと再び黙り込んだ。それから、ごくりとつばを飲み込んだ。

「……行きたい場所って、どこですか?」

「オダイバのモール」

だからそれはどこだ、と聞こうとしたけど、やめた。

「……一人で行けばいいじゃないですか」

「いや、一人じゃいけない場所なんだよ」

そんな場所などあるのだろうか。二人で石の上に手を置いて呪文を唱えないと開かないとか、そんな場所なのだろうか。

さっぱり気が進まないが、どうせ他に行く場所もないし、何より、一晩お世話になったんだから、ここは多少気が進まなくても、ミチのいうことを聞くべきなのではないか。

「……じゃあ……行きます」

「よし、行こう」

そういうことになった。

 

写真はイメージです

お昼近くになってから、二人はミチの家を出た。

電車に乗って、東京の東の方に向かうにつれて、たまきは不安になってきた。東京の東側にはいい思い出がない。「オダイバノモール」という所もきっと、おしゃれ警察どころかおしゃれ軍隊が跋扈するような、恐ろしい場所に違いない。

電車の中では、ミチがずっと話しかけてきて、たまきはただただ曖昧な返事をするだけだった。ゆうべもずっと一緒にいたのに、よくもまだ話すネタがあるもんだ、と妙に感心した。

やがて、モノレールの始発駅にやって来た。ここで乗り換えのようだ。

たまきは、モノレールに乗るのは始めてだ。正直、電車との違いがよくわからない。電車はレールが二本で、モノレールは一本だ、なんて話を聞いたことがあるけど、だからなんだというのだろう。

乗り換えで移動している時も、ホームでモノレールを待っている時も、ミチはずっと話しかけてきた。この男が、今朝に限って何も言わずにパンを食べていたことが、本当に不思議でならない。

モノレールがやって来た。モノレールの中は電車に比べると、どことなく未来っぽい。二人は、窓側の席に並んで腰を下ろした。

ドアが閉まり、モノレールは静かに動き出す。ガタンゴトンいわないのも、未来って感じだ。

たまきは、ミチが座っている方とは反対側、モノレールの進行方向に首をねじって、窓の外を見ていた。ミチにはたまきの後頭部が見えているはずなのだけど、かまわずに彼はしゃべり続けている。もしかして、たまきの背後霊にでも話してるんじゃないか、とちょっと不安になった。

モノレールはホームを抜けて、東京の街中へと滑り出す。

窓から見える景色は、たまきが今まで見たことのないものだった。

地面よりも高いところを、モノレールは走っていく。周囲には、さらに高いビルばかり。まるで森の木々の間を飛ぶ鳥のように、モノレールは高層ビルの立ち並ぶ東京を滑走していく。

そう、モノレールから見える景色は、まるで空を飛んでいるかのようだった。「モノレール」なんだから、レールの上を走っているはずなんだけど、窓から見える景色は、「空を飛ぶ不思議な乗り物」のそれだった。ガタンゴトンという音すら聞こえないので、本当にレールの上を走っているのか、疑いたくなる。

飛行機から見える景色というのもこんな感じだろうか。いや、飛行機はこんな低空を、それもビルとビルの間を縫うように飛ぶことなんてできない。

音のない乗り物に乗って、ビルとビルの間を縫うように飛ぶ不思議な乗り物。まるで自分が、鳥か幽霊にでもなったかのようで、たまきにはとても新鮮だった。

やがて、ビルやマンションが立ち並ぶエリアから、物流倉庫が目立つエリアへと入っていった。と同時に、倉庫の後ろには海が広がっているのがわかる。たまきにとって、海を目にするのは久しぶりだった。

さらに進むと、大きな橋が現れる。橋は海の上を渡り、対岸の島へと続いている。島にはこれまた未来っぽい建物。たしか、どこかのテレビ局だったはずだ。

この時、たまきは初めて、ミチが言っていた「オダイバノモール」が「オダイバのなにか」であることに気づいた。

 

写真はイメージです

 

もちろん、たまきがオダイバに来るのは初めてだ。

駅の外に出て振り返ると、高いところにあるレールの上を、モノレールが走っている。なんだか、枝の上をもにょもにょ動くイモムシみたいだった。

オダイバのことなんて、ほとんど知らない。海の上にあるということと、テレビ局があるということぐらいだ。

「オダイバはね、昔、大砲が置かれた場所なんだって。だから『オダイバ』っていうらしいよ」

と、ミチが携帯電話の画面を見ながら言った。なんのことはない。こいつも調べながら話しているだけだ。そうまでしても、おしゃべりのネタが欲しいのだろうか。

オダイバは島のはずなんだけど、ぜんぜん島にいるという感じがしない。道路の上は何かの宣伝カーがワンワンとけたたましく通り過ぎ、おしゃれな人たちが歩道の上を行きかう。周りを見渡すと、どこか直線的で、近未来っぽい無機質なビルが見えた。きっと、ここが「おしゃれ軍隊」の基地に違いない。

ほかには、どこかのお店のロゴマークを多く連ねる巨大な建物がある。ロゴマークも、シンジュクの居酒屋のような主張の強いものではなく、スタイリッシュなものばかり。ビル、というよりは、横に長い。こっちはきっとおしゃれ要塞に違いない。

そうだ、オダイバには大砲がある、とミチが言っていたではないか。きっとたまきみたいな子は、このおしゃれ要塞から大砲を撃たれて死んでしまうのだ。いかに死にたがりのたまきと言えど、「おしゃれ軍隊に殺される」は、「絶対にイヤな死に方ランキング」のトップを狙えるだろう。

ところが、こともあろうにミチはそのおしゃれ要塞に向かって歩き出したのだ。

しばらく歩いてから、たまきがついてこないことに気づいたミチは、立ち止まった。

「どうしたの、たまきちゃん。こっちだよ?」

「その……行きたかった場所というのは……」

「ここだよ。オダイバのモール」

きらびやかなモールに、若者たちが次々と吸い込まれていくのを尻目に、まるでそこに張り付いた貝のように、たまきは動こうとしない。それが、ミチには奇妙に映る。

「どうしたの? 行こうよ」

「……一人で行けばよかったじゃないですか。なんで、二人じゃないといけないんですか……?」

「え、だって、一人で入るのは、なんかイタいじゃん?」

ああ、やっぱり。

場違いな人間が入ってきたら、即座におしゃれ軍隊に囲まれて銃弾の雨を浴びせられ、ハチノスにされてしまうのだろう。さぞかし痛いに違いない。

それならば、たまきみたいな子は、やっぱり入ってはいけない場所じゃないか。たまきみたいな子は一人で入ろうが二人で入ろうが、たとえ団体ツアーでやって来たって、銃殺されるに決まってる。

「ほら、せっかく来たんだから、行くよ」

そういうと、ミチは先に進んでしまった。

おしゃれ要塞の中に入っていくのは嫌だけど、おしゃれ要塞を目の前にして、一人でポツンと待っているのは、心細すぎる。そうだ、シブヤのスクランブル交差点で一人、亜美と志保を待っていた時も、心細かった。あそこだって、おしゃれ戦場ヶ原だったじゃないか。

たまきは意を決して、深くため息をつくと、ミチの後についていった。

 

写真はイメージです

服屋。チョコ屋。服屋。服屋。靴屋。

かばん屋。メガネ屋。服屋。なんかよくわかんない店。

おしゃれ要塞の中は、シブヤで入ったおしゃれ摩天楼によく似ていた。

たまきにとってはなじみ深いメガネ屋ですら、SF映画に出てきそうなつくりだ。たまきみたいに地味メガネの子が入ったら、ビームの出る剣で斬られてしまうに違いない。

だいたいどうしてこんなに服屋さんばっかりなんだろう。シブヤも、シンジュクも、ギンザも、どこへ行っても服、服、服である。服なんてめったやたらには破れたりしないんだから、服屋さんなんて何個もなくたっていいじゃないか。

かばん屋さんもやたらに目立つ。驚いたことに、かばん屋さんの正面に、別のかばん屋さんがあるのだ。ケンカとかにならないのだろうか。

たまきはミチの後ろをとぼとぼとついていく。すれ違う他の若者たちとのおしゃれ勝負にすっかり負けている気がするので、たまきは下を向きながら歩いた。

ミチの靴が見える。たまきの前を歩いている。

ミチの靴を視界の端にとらえながら、たまきは床のタイルを見ていた。

普段はこういうお店に入らないし、入ったとしても床のタイルなんて気にしたことなかったけど、注意して見てみると、意外と模様が色とりどりで面白い。幾何学的な規則にのっとって図形が描かれていたり、不規則に線が走っていたりで、思ったより飽きない。

それでいて、商業施設の床のタイルってやつは、主張しすぎない。それはそうだろう。お店の主役はなんていっても商品なのだ。床のタイルの方が目立ってはいけない。あくまでも、背景でなくてはいけない。

ところが、改めて床のタイルを見てみると、意外と美しいのである。デザインした人間のこだわりと、それでいて目立ち過ぎてはいけないのだという美学を感じる。床のタイル専門の美術館があったっていいくらいだ。

区画ごとに変化していくタイルを目で追っていると、不意に、たまきは何かにぶつかった。

顔を上げてみると、すぐそばにミチがいて、たまきの方を向いている。どうやら、立ち止まったミチに気づかずに、ぶつかってしまったみたいだ。

「ご、ごめんなさい」

「たまきちゃんさ、どうしてとなり歩かないの?」

「……?」

そんなこと言ったって、たまきは行き先もわからず、ミチについてきただけなのだから、ミチの後ろを歩くに決まっているじゃないか。

「となり歩かないと、恋人感が出ないだろ?」

相変わらずこの男は、言ってることがわからない。

「私……、ミチ君の恋人じゃないです」

「いや、そうだけどさ……、ほら、せっかく来たんだし……」

そういうと、ミチはまわりをきょろきょろと見渡す。

「ほら、この店、カップル率高いしさ……。せっかく二人で来たんだしさ、カップルっぽく見えた方が、恥ずかしくなくない?」

「……私は、ミチ君とカップルに見られることの方が、恥ずかしいんですけど」

「いや、でもそれじゃ、なんのためにたまきちゃん連れてきたのか……」

たまきは、半歩、ミチに近づいた。

「なんのために私を連れてきたんですか?」

「え、いや、それは、……たまきちゃんに楽しんでもらおうと……」

「……じゃあ、私のことは、ほっといてください」

そういうと、たまきは、半歩、ミチから離れた。

 

ミチが行きたかったという靴屋に二人は立ち寄った。

あれこれ靴を選ぶミチを、たまきはちょっと離れたところから見ている。

限定のスニーカーがどうのこうのと言っていたが、だいたいどうして、靴なんて欲しいのだろう。靴なら今、履いてるじゃないか。今ある靴の何が不満だというのだろう。

「このモデル、欲しかったんだよねぇ。でも、色で迷っちゃってさ」

買ったばかりの靴の入った紙袋をぶら下げながら、ミチが言う。

靴を履いているのに新しく靴を買うのも不可解だけど、靴を買うためにわざわざオダイバに来るのも意味が分からない。靴屋だったらシンジュクに大きなお店があることぐらい、たまきも知っている。どうして、わざわざオダイバなんだろうか。

「たまきちゃんはさ、なんかほしいものないの?」

前を歩くミチが、たまきの方を振り向きながら言った。

「……特には」

「せっかく来たんだから、なんか買ってあげるよ」

欲しいものなんてない、と言ったのに、どうして「買え」というのだろうか。

そういえば、さっき、大きな本屋さんを見かけた。たまきには興味のない服屋さんばっかりの場所だからか、いつもよりも本屋さんに立ち寄りたいような気がしてくる。

「あの、じゃあ、さっき見かけた本屋さんに……」

「本屋さん? そんなの、どこにでもあるじゃん。そうだ、なんかアクセサリーとか買ってあげるよ」

どうしてこの男は、たまきが欲しいものを勝手に決めるのか。

 

ミチとたまきが訪れたテナントは、アクセサリーをはじめとする小物を売る雑貨店だった。アクセサリーと言っても、宝石をあしらったような高額なものではない。髪飾りとか、ブレスレットとか、数百円か、高くても数千円で買えるような安価なものがそろっている。

「なんかほしいものないの?」

とミチは言うが、とくにはない。

たまきはとりあえず、店の中をうろうろしては見たものの、別にこれと言ってほしいものはなかった。

耳につけるタイプのアクセサリーをぼんやりと眺めていた時だった。

「なにかお探しでしょうか~」

とつぜん背後から声をかけられ、たまきはビクッとなって振り返った。

女性の店員さんがニコニコしながら立っている。おしゃれ戦闘力は明らかに高い。

「イヤーアクセサリーをお探しですか~」

え、えっと、それ、私に話しかけてます?

見れば、店員さんはまっすぐたまきの方を見ている。たまきに話しかけているのだ。

「こちら、今月入荷の新作でして、お客様の髪型でしたらこの辺りのカラーがオススメでして……」

「あ、あの、じ、自分で探すんで、だだだ、だいじょうぶです」

たまきは、殺虫剤でもかけられたかのようにその場を離れた。

黙って買い物させてくれればいいのに、どうして話しかけてくるんだろう。

同じ売り場の、別の場所で、さてどうしたもんかと佇むたまき。

すると背後から

「お客様、なにかお探しでしょうか~」

「ふぁっ!」

まるでお化け屋敷にいるかのような声を出して、たまきは振り返った。

見ると、そこにはさっきとは違う女性店員が、やっぱりニコニコ微笑みながら立っていた。

「こちら、今月入荷の新作になってまして~」

そ、それはさっき、聞きました。

「どういったものをお探しですか~」

「ま、ま、まみむめ……」

もうだめだ。ころされる。

たまきが何かに絶望しかけた時、横からミチが現れた。

「あ、あの今っすね、この子ににあうアクセサリー探してるんっすよ」

そういってミチはたまきの肩に手を置いた。

たまきは身をよじってミチから離れる。

「だから、私は別にいらないって言ってるじゃないですか。ミチ君が勝手に買わせようとしてるだけです」

「でも、アクセサリーつけたら、女子力上がるよ」

「……別にいいです」

「えー、女子力あげて、もっとかわいくなった方がいいと思わない?」

ミチは店員の方を見ると、

「ブレスレットなんてどうっすかね。頭じゃなくて腕とかにつけるようなやつだったら、恥ずかしがりの子でもつけやすいと思うんすよ」

「それでしたら~、こちらの商品などは、色あえいが控えめですので、シャイな方にも良いかと……」

「わ、私、別に恥ずかしいわけじゃありません。ほんとにいらないんです……」

「いいじゃんいいじゃん、買ってあげるって言ってるんだから。じゃあ、これひとつください」

そういうとミチは、緑色の千円そこらのブレスレットをレジに持って行った。

「だから、いらないって言ってるのに……」

というたまきを横目に、レジでミチは財布を開く。

「プレゼントですか~」

店員さんがバーコード片手に尋ねてきた。

「まあ、そういうことになるんすかね。ハハハ」

「後輩さんにプレゼントなんて、素敵な先輩さんですね~」

「センパイ……」

ミチはなぜか、ちょっとがっかりした表情を見せた。

 

二人は、商業施設の中にあるカフェでお昼ご飯を食べることにした。

ご飯をあらまし食べ終え、たまきは残ったアイスカフェラテを飲んでいる。

たまきは買ってもらったブレスレットを手にしていたが、身につけずに、リュックの中にしまった。

「つけないの、それ? せっかくなんだから、つけなよ」

「……いらないって何度も言いましたよね」

そういうとたまきは、アイスカフェラテのストローに口をつけた。

コップの中にはブクブクと茶色い泡が立っては消える。

ミチはそんなたまきを、何か不満げに見ていた。

「……たまきちゃんさ」

「なんですか」

「敬語、やめてみない?」

ミチは、左手で頬杖しながら話し始めた。

「俺らさ、出会ってもうそこそこ経つわけじゃん。昨日から、ずっと一緒にいるわけだし。それに年だって一個しか違わないんだしさ、もうそんな気を使わなくていいっつーか、もっとラクにしていいと思うんだ。亜美さんや志保ちゃんにも敬語なんでしょ? 一緒に暮らしててさ、疲れるでしょ。だからさ、敬語やめてさ、タメで話してみない?」

そういってミチはたまきの反応を見た。いいこと言うもんだと感心しているか、驚いているか、はたまた、照れくさそうにしているのか。

だから、ミチの「タメ口提案」に、たまきが心底嫌そうな顔をしているとは、全くの予想外だった。

たまきは、すごくイヤそうにミチの方を見た後、何も言わずにストローに口をつけた。

「……えっと、タメ口でいいんじゃない、って話んなんだけど……」

「……どうしてそんなこと言うんですか?」

え、えっと、オレ、なんかマズいこと言いました?

「私はこういうしゃべり方がいちばん楽だから、そうしてるんです。なのに敬語をやめてため口で話せとか、なんでそんなひどいことを言うんですか?」

「ひ、ひどくはないでしょ? 俺は別に、たまきちゃんもタメ口で話した方がラクかなって思って……」

「だから、私は今の話し方のほうが、楽なんです。なのに、私が気を使ってるとか、疲れてるとか、なんで勝手に決めつけるんですか? おかしいですよね? おかしくないですか?」

え、オレ、怒られてるの、これ?

「でもさ、俺ら、ほらさ、一夜を共にした仲じゃん」

「ヘンな言い方しないでください。たまたま一緒にいただけです」

そういうとたまきは、ふうっとため息をついた。

「むしろ、私の心に土足で入ってこようとするミチ君こそ、ため口やめて敬語で話すべきです」

……解せぬ。

たまきはストローに口をつける。ブクブクと泡が湧いては消える。なんだか、この場の空気に出したくはない感情を、アイスカフェラテの中に閉じ込めているかのようだ。

「……ミチ君は」

たまきは、ミチの目を見ずに切りだした。

「ほんとは海乃って人と、ここに来たかったんじゃないですか?」

カフェのテラス席への入り口を誰かが開けた。少し冷たい海風が一瞬、店内に入ってきた。

「……あの人の代わりに私をここに連れてきたんですよね」

ミチは何も言わず、目をそらした。

「……なんとなくですけど」

そういうと、たまきはアイスカフェラテを飲み干した。

「……わかりました。いいですよ」

「……えっと、いいっていうのは?」

「今日一日、あの人の代わりをしてもいい、ってことです」

「え?」

きょとんとするミチにたまきは

「そろそろ行きません?」

とミチを促して立ち上がった。

ミチが会計を済ませてカフェを出ると、たまきがその横に立った。

「えっと、横に並んで歩けばいいんですか?」

「え、あ、うん」

「『それだけ』ですからね。それと……」

たまきはリュックの中から、先程しまったブレスレットを取り出すと腕につけた。

「……敬語をやめればいいん……だよね?」

 

つづく


次回 第35話「ねこのちネコ、ところにより猫」

第35話目にして、「タメ口たまき」、爆誕!つづきはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしなれ」第34話のアップが大いに遅れてる言い訳

お待たせしております。

お待たせしすぎているかもしれません。

えー、小説「あしたてんきになぁれ」の第33話をアップしたのが去年の9月。

第34話の公開予定としていたのが12月。

……今、3月です。

つまり、「あしなれ」が中途半端なところで止まったまま、半年たってしまった、と言うわけです。まったく、ふざけてんじゃないよ。

原因は二つありまして。

まず一つは、純粋に書くのに手間取った、ということです。

なにせ、第34話の初稿の段階で2万字を越えてまして。

さすがに長すぎる、ということで、原稿を半分に折りまして、「第34話」の予定だったものを、第34話と第35話に分けて掲載することにした、ってくらい長くなってしまったのです。

ハリポタが4巻目あたりから上下巻に分かれてるようなものです。

そして、もう一つの理由が新型コロナです。

第34話はこれまで「あしなれ」では出てきてない町が舞台なんです。移動距離だけだったら、今までで一番遠いです。

ところが、年明けからのオミクロン株の流行で、その町に僕が行くチャンスがなかなかなかったんですね。

ロケハンもしたいし、写真も撮りたいのに。

まあ、過去に何度か行ったことのある街だったんで、記憶とネットを頼りに原稿を書き上げたんですが、

やっぱり、ロケハンしたいし、写真も撮りたい。で、アップするのをちょっと待ってたんです。

で、感染が少しだけ落ち着いてきて、「いくらオミクロンと言えど、何も電車に乗っちゃいかんということはないんじゃないか。別にお台場でパーティするわけじゃないんやで。一人で写真撮ってくるだけやで」ということで、先日、その街に行ってきたんですね。

正直、「もうロケハンとかしないでアップしちゃっていんじゃね?」と頭をよぎったことがあったのですが、

行ってみて気づきました。「ロケハン、大事」。

「ああ、ここからはこんな風に見えるんだ」

「あれ、こことここ、意外と近いぞ」

「ああ、実際にはこんな風に見えるんだ」

「あれ、ここ、思ったより活気ない……」

「ああ、このシーン、必要だな」

というわけで、無事にロケハンと写真撮影を終えたので、3月15日に「あしたてんきになぁれ」第34話「モノレール、のちブレスレット」を公開します! そうです! 舞台はモノレールが走ってるあの街です!

小説「あしたてんきになぁれ」 第33話「柿の実、のち月」

「城」を1日だけ追い出されることになったたまき。泊まるところを探して街をさまよいあるいった挙句、たどり着いたのはミチの家だった。だけど、ミチの家にはお姉さんがおらず、たまきはミチと二人っきりで夜を過ごすことに。その行く末はラブロマンス化、それとも……。あしなれ第33話、スタート!


「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

第32話「風吹けば、住所録」


ここは志保が通う施設のシェアハウス。女性専用で、定員は6人。現在は4人の女性がここで暮らしている。

『城』が使えない間、志保は一晩ここに泊めてもらうことになっている。施設には「自宅で家族と暮らしている」という設定にしているので、「今夜だけ家族がいない」と言えば、あっさりと宿泊許可が下りた。

その日の夕飯は、ちょっとしたパーティになった。志保ともう一人、普段ここにはいない人間が泊まりに来たからだ。

「カンザキさん、洗い物、手伝おっか?」

志保がキッチンで洗い物をしていると、もう一人の珍客、トクラが声をかけてきた。

「いえ、もうあとちょっとなんで」

普段は実家に住んでいるはずのトクラがここにいるのも、志保と全く同じ「今夜一晩、家族が家にいない」が理由だった。

トクラがそういった時、志保はどこか「ウソくさい」と思ってしまった。だが、よくよく考えれば、ウソくさいのは志保の方ではないか。人は自分が言われたくないことを、他人に投げかけてしまうという。

ふと、志保の携帯電話が鳴った。確認すると、相手は「公衆電話」と表示されている。

普段なら公衆電話からだなんていぶかしむ志保だが、たまきからの電話だとすぐにわかった。たまきは携帯電話を持っていないし、泊まる場所が見つかったら電話するという約束だったのだ。

洗い物はまだ途中だったが、志保は水道を止め、濡れた手をササっと拭くと、流し場を離れて電話を出た。

「もしもし?」

相手はすぐにしゃべらない。聞こえてくるのはそばを通る車の音と、やけに強い風の音。そして、かぼそい息遣い。それだけで志保は誰だかすぐわかった。

「たまきちゃん?」

「あ、あの……」

声と、しゃべり出しからして、間違いなくたまき本人だ。

「志保さん……こんばんは……」

一緒に暮らしていて、さっきも会ったはずなのに、律儀なあいさつから入るところが、いかにもたまきである。

志保は何も言わず、たまきがしゃべり出すのを待った。要件はわかっている。泊まる場所が見つかったか、どうしても見つからないかの、どっちかだ。すくなくとも、緊急事態ではない。以前、本当に緊急事態に電話をくれた時は、もっと慌てていた。

「泊まる場所が……決まりました……」

「そう、よかった。どこ?」

「……ミチ君の家です」

「……え?」

これは、緊急事態だ。

「ミチ君の家って……ミチ君って、ご家族と一緒なんだっけ?」

「お姉さんがいるんですけど……きょうはいなくて……」

「え、じゃあ、ミチ君とたまきちゃんの二人きり……?」

「はい……」

たまきは、志保の不安を察したらしい。

「あ、でも、たぶん大丈夫なの……」

「ダメだよたまきちゃん!」

志保はあたりを気にせずに大声を出した。大声を出してから、口の横に手を当てて、声を潜める。

「いい、たまきちゃん? ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?」

「……知ってます」

「ダメダメ! 危ないって!」

「でも……」

受話器の向こうから再び、風の音が聞こえた。

「風も強いですし……」

言っている意味がよくわからない。風が強いからなんだというのだ。

「たまきちゃん、やっぱり、こっち来なよ。遠慮なんてしなくていいから!」

シェアハウスは実はもう定員オーバーなのだが、今の志保の頭からはもうそのことがすっぽ抜けている。いや、覚えていたとしても、トクラを追い出せばいい話だ。

「いえ……大丈夫……だと思います」

たまきは自信なさげに言った。

「それじゃ……」

「ちょっと待って、たま……」

電話が切れた。

志保は折り返し電話をかけようとしたが、相手が公衆電話ではどうにもならない。

今からミチの家に行って、たまきを引っ張り出そうとも思ったが、残念ながら志保はミチの家を知らない。

「どうしたの、カンザキさん? なんかトラブ……」

トクラの問いかけも耳に入っていないのか、志保はどこかへと電話をかけ始めた。

「……残り、やっとくか」

トクラは流しの方を見て、そうつぶやいた。

 

志保が電話をかけた相手は、亜美だった。

亜美が電話に出る。受話器の向こうはなにやら騒がしく、どうやら、どこかの店にいるらしい。

「はいはーい。どした? シェアハウス、ガス爆発で吹っ飛んだとか?」

「冗談言ってる場合じゃないよ、亜美ちゃん! たいへんだよ! たまきちゃんが、……たまきちゃんが!」

 

たまきは公衆電話の受話器を下ろした。

スナック「そのあと」の隣の隣にあるタバコ屋に、公衆電話が置かれていた。たまきはそれを使って志保に電話したのだ。

たまきが泊まることになって、ミチは

「片づけるから! 5分! 5分だけ外にいて!」

とたまきを部屋の外に出した。たまきも志保に電話をする約束だったので、公衆電話を探して志保に連絡を取ったわけだ。

案の定、志保は驚いていた。そりゃそうだろう。たまき本人だって、こうなってしまったことに内心驚いているのだから。

やっぱり、志保のいるシェアハウスに泊めてもらった方が、志保も安心するだろうし、なにより一番安全なんじゃないか。受話器を置いた直後のたまきはそんなことも考えたが、直後に、行く手を阻む壁のように強烈な風が吹いた。

たまきは軽く身震いすると、スナック『そのあと』の脇にある階段を上って、ミチの部屋へと向かった。

スナックの2階はアパートになっている。屋内に廊下があって、木製のドアが三つ並んでいる。階段から見て一番手前がミチのお姉ちゃんの部屋。真ん中のポスターが貼っていあるのがミチの部屋だ。一番奥の部屋は、空き部屋になっているらしい。

たまきが廊下でぼんやりと待っていると、ドアを開けてミチが顔を出した。

「片づけ、終わったよ。どうぞ~」

「……お邪魔します」

部屋に入って、靴を脱いで、部屋の中を見て、それから、たまきは立ち尽くした。

万年床の布団は丸めて壁際に追いやられている。床の上に散らばっていた衣服も、丸めて壁際へ。テーブルの上に目をやると、卓上カレンダーは、水着のお姉さんの部分が伏せておかれていた。食べ終わった容器はゴミ袋に入っているが、問題はそのゴミ袋がそのままテーブルの上に乗っている点だ。

この男は、これを「片づけ」と呼ぶのか。そもそも、これは5分もかかる作業なのだろうか。

たまきはテーブルの脇に、ちょこんと正座した。ミチも少し離れたところに腰を下ろす。

そのまま、会話もなく3分が過ぎた。

「……夕飯、どうしよっか?」

ミチがたまきの方を見ることなく言う。

「そうだ!」

そう言ってミチが、たまきの方を見た。

「せっかくだから、夕飯、たまきちゃんが作ってよ」

「え? 私が……ですか……」

たまきもミチの方を見る。

「私、料理できませんけど……」

「え? そうなの? 女の子なのに?」

ミチの言い方に、たまきはなんだかカチンときた。

「……女の子は料理できないといけないんですか?」

「え? いや、いけないってわけじゃないけど、でも、女の子だったら……」

「でも、料理が好きとか嫌いとか、できるとかできないとか、そんなの、人それぞれじゃないですか。男の人は料理得意な人も苦手な人もそれぞれいますよね。だったら、女の人にも得意な人と苦手な人がいるのは、当たり前ですよね。なのに、女の子だから料理できて当たり前みたいに言うの、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「お、おっしゃる通りで……」

ミチはバツの悪そうに、たまきから視線を外した。

 

志保からことの顛末を聞いた亜美は、大笑いした。

「マジかよ。やるなぁ、あいつ」

「笑い事じゃないよ亜美ちゃん! ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?」

「いや、知ってるって、それくらい」

「もしなにかあったら……」

「そんなの、のこのことオトコの部屋に泊まりに行った、あいつが悪いんじゃん。いや、あいつもしかして、すっとぼけた顔してそういうの狙っていったのかもしれないぞ」

こいつに電話したのが間違いだった、と志保はため息をつく。

「だいたいさ、おまえはたまきに対して、カホゴなんだよ」

「そんなつもりは……」

ない、と言い切れないところに、志保は歯がゆさを感じる。

「あのたまきが、一人で泊まるところ見つけてきたんだぞ。それも、オトコの部屋を。その努力と勇気を誉めてやれよ」

「でも……、たまきちゃんは女の子で……」

「だからそれ、知ってるって」

そういって亜美は笑った。

 

結局、ミチが夕飯を作ることになり、ミチは近くのスーパーへと買い物に向かった。

「女の子が泊まりに来た」というイベントに心舞い上がっていたミチだったが、さっきの発言でたまきの機嫌を損ねてしまったらしく、今は心がささくれ立っている。

ふと、ミチはむかし施設にいた頃に飼っていた黒猫の「クロ」のことを思い出していた。ミチの姉いわく、たまきはその雰囲気がどことなくクロに似ているらしく、たまきに出会ってから、姉はクロの思い出話をよくするようになった。

クロは十年ほど前、ミチがまだ小学生だったころに、ミチと姉が暮らす施設に迷い込んできた。子供が集まる場所に動物が紛れ込むと、一躍大スターになる。子供たちはその黒猫をかわいがり、誰がつけたか「クロ」などと言うひねりのない名前で呼ぶようになり、えさにお菓子をあげるようになった。施設としても動物との触れ合いは情操教育によいということで、いくつかのマナーを守るという条件の下、えさやりをを許可した。

クロは正確には飼い猫ではない。どこからともなく施設の中に入ってきて、子供たちと遊び、えさを食べ、またどこかへと消えていく。施設の中で寝ていたこともあったが、あくまでも野良猫である。だけど、ミチをはじめ子供たちにとっては「飼っている」という認識だった。

二年ほど、クロは施設の「飼い猫」だったが、いつの間にかいなくなってしまった。施設に現れる頻度が減り、とうとう姿を見せなくなったのだ。ミチの姉は、ネコは死ぬ前に姿を消すんだ、と言っていた。

クロは猫のクセに「にゃあ」と鳴かないネコだった。もちろん、「コケコッコー」と奇抜な鳴き声をしていたわけではない。にゃあどころかうんともすんとも言わない、ただただ黙っている猫だった。

どうも、ミチはこのクロに嫌われていたらしい。ミチが呼んでもクロはそっぽを向いて動かなかったし、頭をなでるとイヤそうに尻尾をばたばたとふった。

ミチには嫌われる理由が思い当たらないのだが、姉によるとミチは猫の扱いが雑なのだという。

「あんたのクロの持ち方は、ゴジラの人形持つ時と、持ち方がいっしょなのよ」

そんなことない、とミチは反論したけど、中学生だったミチの姉は「本質的にいっしょなのだよ」と、当時のミチにはまだ難しいことを言ったのだった。いや、今でもその意味はまだよくわかっていない。

一度だけ、クロがミチのそばに寄ってきたことがある。

ミチが風邪をひいて、一人で部屋に残って寝ている時だった。

半開きになった部屋のドアから、クロが入ってきたのだ。

そのままミチの寝ているベッドにねこねこと歩みより、ベッドに飛び乗ってミチのすぐわきに来ると、丸まって居眠りを始めた。

ふだん、クロの方からミチに近寄ることなんてなかったので、珍しいこともあるもんだとミチは思った。

ミチは手を伸ばし、クロの背中を、そっと撫でた。

その時、クロは珍しく、クロにしては本当に珍しく、みゃあと鳴いた。

そのまま、2時間ほど、クロはベッドの上にいた。しばらくしてミチは眠りこけ、目覚めた時にはもうクロはいなかった。

次にクロを見た時、ミチが呼び掛けても、相変わらずクロはそっぽを向くだけだった。

 

たまきは一人、ミチの部屋にぽつんと佇んでいた。窓が風でガタガタと揺れる音だけが聞こえる。

たまきは一人ため息をついたが、それも窓のガタガタにかき消された。

ミチの言う「女の子だから料理できるはず」は納得いかないけど、だからと言って、泊めてもらうのに料理を何も手伝わない、というのはまずいかもしれない。買い物だって、ミチと一緒に行って、荷物ぐらい持つべきだったんじゃないか。

そんなことを考えていたら、いつの間にか結構な時間がたっていた。さすがにたまきも少しヒマになり、ミチの本棚に目をやる。

そんなに大きくない本棚の半分以上がCDだったが、マンガもいくつか入っていた。いわゆる少年漫画というやつだ。

たまきは少年漫画を読んだことがなかった。マンガの内容には興味がないけど、絵のタッチには興味がある。女の子向けの漫画と男の子向けの漫画では、やっぱり絵のタッチが違う。男の子向けの漫画ではどういう描き方をするのか、それが気になって、たまきは本棚から無造作に一冊取り出した。

マンガを取り出した時、たまきは、棚の奥にもう一冊本があるのに気付いた。正確には本ではなく、何かのケースだった。

何よりもたまきの目を引いたのは、そこに全裸の女性の写真がプリントされていたことだった。

まさか……これが……ウワサに聞く……。

たまきは無意識のうちに、ほとんど無意識のうちに、そのケースに手を伸ばして、取り出してしまった。

一糸まとわぬ女性の姿が大きく映し出されたパッケージがあらわとなる。

裏面をひっくり返すと、たまきにとっては筆舌しがたいハレンチな写真が、一面に所狭しと並べられている。パッケージを持つたまきの左手は、硬直した。

何か音がしたので、本棚の方を見ると、たまきがパッケージを抜き取ったスペースに、別のケースが倒れかけて、顔を出していた。

まさか、とたまきは、マンガを数冊ごっそり取り出した。

案の定、マンガのあったスペースの奥には、ハレンチなパッケージがいくつか隠されていた。そして、同時に悟る。ミチが部屋を片付けるのになぜあれほどの時間がかかっていたのか、を。

見なきゃよかった、という後悔しながらも、たまきは数個のパッケージに一気に取り出した。たぶん、臭い靴下のにおいをあえてかぎたくなった時と同じ心境だろう。

どれもこれも、女性が大きく映し出されていた。学校の制服らしきものを着ている人もいれば、水着の女性、中には何も身にまとっていない女性も多い。たまきはもう、裏面をひっくり返したりはしなかった。

パッケージに書かれた言葉のいくつかは、たまきの乏しいエロ語彙力でも十分にハレンチだとわかるものばかりだった。中には、犯罪行為なんじゃないかと思えるようなことも書いてある。

そして、あることにたまきは気づいてしまった。

女性たちの多くは、比較的地味だ、ということに。

おとなしそうな女子高生だったり、控えめな服装をしていたり。

たまきの頭の中に、いつか聞いた言葉がよみがえり、まるでいま耳元でささやかれているかのように聞こえてくる。それはいつぞやのミチの、地味な女の子は彼にとって恋愛対象ではなくエッチの対象だという言葉だった。壊すだの穢すだの、ひどいことも言っていた気がする。

そして、ミチに言わせればたまきは地味な女の子だという。いや、ミチでなくてもたまきの周りの人はみんなそう思っているはずだ。

それにかぶさるように聞こえてきたのは、ついさっきの志保の言葉だった。

『ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?』

それに対してたまきは「知ってます」と答えたのだが、どうやら事実を知っていることと、その根本を理解していることは別の話だったらしい。

パッケージを手に取り硬直してしまったたまき。そこに、ドアの外から足音が聞こえてきた。誰か来た、というか、ミチが帰ってきたのだ。

慌ててもとの場所にしまおうと、パッケージをいくつかまとめて持ったたまきだったが、硬直した手はうまく動いてくれず、パッケージが床に散らばってしまった。

そのタイミングで、ドアが開き、ミチが顔を出す。

「ただいま。カレーにしようかと……」

と言いかけてミチが見たのは、なんとも気まずそうに硬直するたまき、と、その周りに散らばる、イケナイビデオの数々。

「うわああああ!」

ミチは買い物袋を放り投げ、靴も脱がずに部屋に上がり込むと、散らばったイケナイビデオをものすごいスピードで回収し、一気に本棚へと突っ込んだ。続いて、床に置かれたマンガを無造作に本棚に突っ込む。

「あ、あの……ごめんなさい……。マンガを読みたかっただけだったんですけど……」

顔を赤らめ、申し訳なさそうにするたまき。何か悪いことをしたわけではないはずなのだが、なぜか謝ってしまった。

「い、いや、こっちこそ、ゴメン……」

ミチも思わずたまきから視線を逸らす。ミチの部屋にどんなビデオがあろうがミチの勝手のはずなのだが、なぜか謝ってしまった。

「あ、あの……私……その……」

と言うと、たまきは声のボリュームをキュッと絞って、付け足した。

「ミチ君の、その……そういう期待にはたぶん、その、こたえられないと思うので……」

「わ、わかった。もう期待しないから……」

その言葉に、やや間を開けてから、たまきが反応した。

「……もう?」

たまきがミチを見る目には左目に疑念の色、右目に軽蔑の色が浮かんでいた。

二人の間を沈黙が流れる、と書きたいところだが、風が窓を激しくたたく音だけが部屋に響いている。

 

ミチが買ってきたのは、レトルトのカレーとパックのごはんだった。ミチは鍋でお湯を沸かして、カレーのパックを放り込む。たまきはごはんパックのふたをちょっと開けて、古い電子レンジに突っ込み、言われたとおりにボタンを押す。これで、少しは手伝ったことになるのだろうか。

ご飯を食べ終えると、もう夜の九時を過ぎていた。ミチはテレビをつけた。テレビではなにかのバラエティをやっている。

「あ、この芸人、オレ好きだなぁ。ネタが面白いんよ」

「……そうですか」

「たまきちゃんって、ふだんどんなテレビ見るのさ」

「……あんまり」

「じゃあさ、ふだん家で何してるの?」

「……まあ」

ミチは、チャンネルを変えた。そして、ちらりとたまきの様子を見る。

ミチの隣に間隔をあけて座ったまんま、たまきほとんど動かない。いつにもまして無表情でのたまきはなんだかお地蔵様みたいで、一周回って悟りの境地に達しているようにも見えた。

だが、たまき本人は決して悟りの境地などではない。むしろ逆だ。まさに、「借りてきたネコ」と言ったところか。

血中の酸素濃度が明らかに不足し、口をぎゅっと結んで鼻から何度も空気を吸い込む。

ミチが何か言ってくるので、返事をしようと口を開けると、肺と心臓が空気を吸え吸えと命令してくる。それを押し殺して返事をしようとすると、結局「まあ」みたいな返事になってしまう。

今までだって何度もミチと一緒に話しているのに、今この時に限って、何を話していいのかさっぱりわからないのだ。

きっと、さっきヘンなビデオを見てしまったからだ。あんなの見てしまったから、ヘンに意識してしまうのだ。今までは「性別が違う」ということをあまり意識しないようにしていたのに、さっきのビデオのせいで意識に蓋をするのが難しくなってしまったのだ、たぶん。

『ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?』

志保のあまりにわかりきった言葉が、何度も耳元で繰り返される。

たまきはこの街に来るまで、父親と先生以外の男性とは、ほとんどまともに会話したことがなかった。男子というのは、何が楽しいのかボール遊びに夢中になったり、何がうれしいのか足が速くなる靴を欲しがったりして、たまきみたいに教室の隅でじっとしてる子をバカにする、サルみたいな連中なのだ。高い木によじ登って、木の下にいるたまきに柿の実をぶつけて、痛そうにするたまきを見てけらけら笑ってる。さらに彼らは女子のことをいやらしい目で見て、隙あらばそれこそカニのように貪り食おうとしている。

そんな連中とどう会話すればいいというのだろう。カニみたいに身を固くして、食べられないようにするしかないじゃないか。

だからたまきは、男性の前では妙に緊張してしまうのだ。

たまきには、志保がカレシの話を楽しそうにしたり、亜美が何人もの男と関係を持つのが、やっぱり理解できない。相手はたまきたちとは体の造りも思考回路も違う、まったく別種の生き物なのだ。モンスターなのだ。エイリアンなのだ。サルなのだ。そんなのと一緒にいて、何が楽しいのだろう。緊張と困惑で息苦しいだけじゃないか。あまつさえ、結婚する人なんていうのはもう、頭がおかしいんじゃないだろうか。男子と一緒に暮らしたりなんかしたら、緊張で息が上がって、死んでしまう。

ところが生き物というのは不思議なもので、急激に環境が変わると、本人も知らないうちに、何とかそれに適応しようとする。たまきの場合は、家出して、亜美と一緒に暮らし始めたことがきっかけだった。亜美は「城」に平気で男子を連れてくる。それも、一人や二人ではない。おまけにたまきを、クラブだイベントだと、男子がいっぱいいるところに連れまわす。挙句の果てには、初めて会ったミチといきなり二人きりの状態にする。

こんな環境でいちいち男子の前で緊張していたら、高血圧で死んでしまう。いかに死にたがりのたまきでも、その死に方はさすがに嫌だったらしく、無意識のうちに、相手を「男子だ」と意識することをやめていた。「無意識のうちに、意識しない」とは変な日本語だけど。

具体的には、物理的にも、精神的にも、ある程度距離をとった。たとえばそう、柿の実がとんでこないくらいに。

そうしていつのまにか、ミチがサルであることを忘れてしまっていたのかもしれない。だから今夜、うっかりここにきてしまったのだ。距離をとって接することに慣れてしまい、いつの間にか危機意識が薄れてしまったのだ。

ミチの部屋にあったいやらしいビデオは、ミチもサル山のサルであることをたまきに思い出させ、それと同時に危機意識と恐怖心と緊張を呼び起こすには十分だったのだ。

そんなたまきにとって、ミチの部屋にいて、ミチと会話するというのはなんだか、ルールを知らないのに将棋をやらされているみたいな気分だ。どうやったら勝てるのかも、どうやったら負けてしまうのかも何も知らないのに、駒を手に取って、相手の反応を見ながら一手一手指さなければいけない。指し手を間違えたら、柿の実をぶつけられるかもしれない。

「あ、俺、この映画好きだなぁ」

ミチの言葉でたまきはテレビの画面を注視する。

しばらく見続けて、たまきにもかろうじて映像の内容を認識できた。たまきが生まれたくらいの頃の映画で、たしか船が沈む映画だ。世俗に疎いたまきでも、タイトルを見ればわかるぐらい有名な映画だ。

とはいえ、番組は映画そのものを流しているわけではなく、「名作映画特集」みたいな感じで、「船が沈む映画」の簡単なあらすじを紹介している。

「えっと……どういう映画なんですか?」

たまきの方から話しかけたのはたぶん、この日初めてかもしれない。

「どういう映画って……船が沈む映画だよ」

そんなの見ればわかる、という言葉を、たまきはぐっと飲みこんだ。そもそも、見ればわかるようなことを聞いたのはたまきの方だ。

「それでさ、船の中で、男と女が……出会うんよ」

「……はあ」

「で、恋に落ちるんよ」

「……はあ」

「でも、船沈んじゃうんよ」

そこでミチはたまきの方を見た。

「悲しいだろ?」

今の説明では、全米どころか、ネコ一匹泣かないだろう。

「今のを聞いても、別に悲しくは……」

「ええ~、この映画で世界中の人が泣いたんだよ? 『全米が泣いた』ってやつよ? それで悲しくないって、たまきちゃん、意外と薄情だねぇ」

この男は「自分の説明が悪かった」とは思わないのだろうか。

「深く愛し合う男女が、船が沈んじゃったせいで引き裂かれちゃうんだよ? 悲しくない?」

さっきよりはましな説明になったけど、やっぱりネコ一匹泣きそうにない。

「その……女の人と男の人は……、船に乗ってから出会うんですよね」

たまきは、テレビで流れる映画のあらすじを必死に目で追いかけながら、尋ねた。

「そうそう」

「でも、その船、すぐ沈んじゃうんですよね」

「そうそうそう」

「なのに、深く愛し合ってたんですか?」

たまきはそういってから、ずいぶんこっぱずかしいことを言ってしまったと、ちょっと後悔した。

ミチの返事はない。その沈黙に耐えられなくて、たまきは言葉をつづけた。

「だってだって、出会ってすぐ恋に落ちて、深く愛し合うって、相手のことなんにも知らないじゃないですか。そんなのおかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきなんて、亜美と志保を「友達」と思えるまでに3か月ぐらいかかったというのに、数日で恋に落ちて深く愛し合うだなんて、にわかには信じられない。

たまきはミチの方をちらりと見た。

ミチはあきれたように笑っていた。

「わかってないなぁ、たまきちゃん」

柿の実がとんできた。シブ柿だ。

「恋愛ってさ、そういうもんじゃないんだよ」

ミチから放り投げられたシブ柿は、たまきの頭をとらえ、脳を揺らした。

「……そういうものじゃないとは?」

「だからさあ、そういうもんじゃないんだよ」

「ですから、そういうもんとはどういう……」

「どう、って言われても困るけど」

けっきょくこの男も説明できないんじゃないか。

「こういうのはさ、言葉で説明できるもんじゃないんよ。なんつーかさ、いろいろ経験して初めてわかるっつーか……」

でた、経験マウンティング。

ふたたび、柿の実がとんできた。たまきの頭上から落ちてきた柿の実は、たまきにぶつかるとぐしゃりと音をたててつぶれる。いや、ぐしゃりと音をたてたのは、たまきのなかの何かかもしれない。

「わかんないですよ……私にはどうせ……」

「たまきちゃん、もっと恋愛に関心持ちなよ」

三つ目の柿の実。この柿の実は、昼間にもぶつけられた気がする。

「そういうところがさ……」

「……バカにしてるんですか?」

四つ目の柿の実を、たまきは鋏を振り上げ、ぐしゃっと握りつぶした。

「え?」

ミチはようやく、自分がたて続けに地雷を踏み続けていたことに気づいたらしい。

「……バカにしてますよね?」

たまきは真正面にあるテレビの方を向いて、ミチを見ることはなかった。

「いや……、バカにするとか……そういうつもりは……」

「つもりはなくても、事実として、私のことバカにしてますよね?」

「いや、だから、バカにするつもりは……」

「私はバカにされたと思いました」

いつの間にかテレビはCMに切り替わっていた。

「えっと……、バカにされたっていうのは、具体的にはどういう……」

たまきは、しばらく間をおいてから答えた。

「具体的にと言われても、私がバカにされたと思ったから、バカにされたんです」

「だから、それってどういう……」

「そんなの、言葉で説明できるものじゃないです」

たまきは、間髪入れずに返した。

「ミチ君、私なんかよりいろいろ経験してるんですよね。私が何で怒ってるのか、いろいろ経験してるミチ君だったら、言わなくたってわかりますよね?」

たまきは口をとがらせ、正面のテレビをにらみつけている。そんなたまきの左側に、冷静なたまきが現れて、肩に手を置く。それ以上はいけない、と。

これから一晩、この男の部屋に厄介になるのだ。ミチの物言いには腹が立つけど、これ以上踏み込んだら気まずいまま一晩過ごすことになってしまう。言いたいことがあるなら、あした言えばいいじゃないか。ここはひとつ、振り上げたこぶしを下ろして、穏便に済ませるべきだ。政治的判断というやつだ。

一方で、たまきの右側には革命家のたまきが現れ、旗を振る。攻撃の手を緩めてはいけない、と。

敵はたまきの思わぬ反撃にたじろぎ、戸惑っている。いまこそ、男子なるものにバカにされ、相手にされず、虐げられてきた積年の恨みをぶつけるときだ。そもそも、反撃されて戸惑うということは、どうせ反撃なんてされないと思っていたということだ。そういう態度が、バカにしてるというのだ。たまきの、いや、すべての女子の自由と尊厳のため、この男の首を討ち取って、今こそ勝鬨を上げるとき! えいえいおー!

左側から諭され、右側から煽られ、結果としてたまきは、まっすぐ前を向いたまま、右隣にいるミチのことは見ない。

「えっとさ……、だからその……、バカにするつもりは全然なくてさ……」

「……それは聞きました。でも私は、バカにされたと思ったんです」

「だからそれは……たまきちゃんの考えすぎだよ」

ぐしゃりと音がした。今度は間違いなく、たまきの中の何かがつぶれた音だ。

この男はこともあろうか、バカにされてるというのはたまきの妄想、勘違い、思い込みだとぬかしやがったのだ。

革命家のたまきが、深紅の旗を鮮やかに振り下ろした。

「……私の受け取り方がおかしいってことですか? 私が悪いって言いたいんですか?」

たまきは今度は、ミチの顔を見ながら言った。

「いや、そういう風に言ったつもりは……」

「つもりはなくても、事実として、私の方がおかしいって言ってますよね?」

「いや、そうじゃなくてさ……」

ミチは言葉に窮した。さっきから地雷を踏み続けている。取り繕うつもりの言葉すら、地雷だったらしく、どうすればいいのかわからない。なんだかルールを知らないままチェスをやらされてる気分だ。

「なんつーか、その、ふつうはさ、あのくらいなら別にバカにされてるとは思わな……」

「どうせ! ……どうせ! 私はふつうじゃないです……!」

どうやら、また地雷を踏んでしまったらしい。それも、たぶんさっきまでとは爆弾の種類が違う。

さっきまで借りてきたネコ状態だったたまきは、いまや尻尾を立て、毛を逆立て、ミチを睨みつけているようにミチには見えた。もちろんたまきはネコではないので、実際には睨みつけているだけだけど。

「どうして……、どうしてミチ君は、私を怒らせることばかり言うんですか!? 逆に……! 逆に、どうして私を怒らせるのがそんなに上手いんですか!?」

「う、上手い、そうかなぁ……」

「誉めてません!」

たまきは体ごとミチに向き直った。

「ミチ君は、全っ然上手くなんかないです!」

「え? さっき上手いって……?」

「私の怒らせ方が上手いってことは、私の扱い方は上手くないってことなんですよ!」

たまきがしっぽをばたばた揺らしている、ような気がした。

「ミチ君は、私よりもいろいろ経験してるんですよね! だったらどうして、私の扱い方がこんなに乱暴なんですか!」

なんだか、昔も誰かに、そんなことを言われたような気がする。

「乱暴に扱ってるつもりは……」

「……乱暴です!」

たまきはテレビの方に目をやった。今度は怪獣映画を紹介している。

「ミチ君の私の扱い方は……その……怪獣のおもちゃで遊ぶ時と、一緒なんですよ……!」

「いや、その例え、わかんねぇから……!」

ミチは少し苛立ったように、頭をぼりぼりと掻いた。

そこから数秒、二人は押し黙った。テレビではのんきにタレントが談笑している。テロップで、何秒後かに衝撃映像が出ますよ、というカウントダウンをしていた。

「……海乃って人にも、そういう乱暴な扱い方したんですか?」

「……え?」

ミチがたまきの方を向いたが、たまきは目を合わせない。

「待てよ、なんであの人の名前がここで出てくるんだよ?」

「知りませんよ……! どうしてあの人の名前が出てくるんですか?」

「たまきちゃんが言ったんだろ?」

「そうですけど……だって……」

たまきもだんだん、自分が何を言いたかったのかわからなくなってきた。ただでさえおしゃべりが苦手なのに、勢いに任せてまくしたてるから、こんなことになるのよと、冷静なたまきがなだめるように言うが、時すでに遅し。

……どうして、あんな人の名前を出してしまったんだろう。

だって、

だって、

「だって……私には乱暴なくせに、あの人にはそうじゃなかったら、なんだか……」

ミチに聞こえるか聞こえないくらいかの声でたまきがつぶやきながら、逃げ場を探すように視線をテレビの方へとむけた。

ちょうどその時、画面いっぱいにゾンビが映し出された。どうやらゾンビ映画の特集コーナーらしく、血まみれで頭の中身が飛び出したゾンビが、これまた血で真っ赤な口をバックリと開けて迫ってくる。直後に、映画の主人公らしき女性が絶叫を上げながら、ゾンビに向かって銃を撃ちまくる。

急にゾンビと目が合ってしまったたまきは、びっくりして

「きゃっ!」

と小さく叫ぶと、隣にいるミチの袖に手を伸ばし、ぎゅっとつかんだ。

突然の出来事にミチも驚く。ゾンビに驚いたのではない。さっきまで威嚇するネコ状態だったたまきが、急に袖をつかんできたからだ。

「あ……ああ、この映画? たまきちゃん、ホラーとか苦手なの? 意外と子供っぽ……」

そう言いかけてから、ミチはまた自分が余計なことを言ってるんじゃないかと思い、たまきの方を見た。

たまきは頬を少し赤らめると、ミチの袖をつかんだ右手を力いっぱい引き離した。

「……ホラーは別に苦手じゃないです。ただ、今のは……ちょっとびっくりしただけですから……」

なんだか急に、自分が負けたような気がして、たまきは下を向いた。

 

お風呂は、ミチが先に入り、たまきがその次に入った。

かわいい女の子が泊まりに来て、板子一枚隔てた浴室でお風呂に入っているという状況は、普段のミチなら舞い上がり、よからぬことの一つや二つはちょっと期待するのだが、そんなスケベイベントはもはや望むべくもないようだ。

『どうして、私の扱い方がこんなに乱暴なんですか!』

ミチは部屋で一人たまきの言葉を思い返すが、そんなに乱暴かなぁとミチは首をひねる。これでも、ミチとしては優しく接していたつもりだ。

『海乃って人にも、そういう乱暴な扱い方したんですか?』

また、たまきの声が思い起こされる。

海乃に対してはどうだったろうか。海乃とはケンカしたことがないが、だからと言って海乃の扱い方がもっと丁寧だったかと言うと、そうでもない気がする。というか、丁寧とか乱暴とか、そんなことは全然考えなかった。それは海乃だけでなく、これまでのカノジョに対してもそうだし、女友達にもそうだ。姉にだってそうだ。

たまきに対してもそれは同じで、優しくしようとしてるだけであって、丁寧とか乱暴とかは意識していないのだけれど、たまきに言わせるとミチは乱暴なのだという。

もう、ミチは、たまきにどう接すればいいのかわからなくなってしまった。これまでにミチが触れてきた女性とは、たまきは明らかに別種の生き物なのだ。エイリアンなのだ。ポケットモンスターなのだ。

ふと、ミチは気になった。たまきはいったい、どんなことでときめくのだろうか。ときめきポイントまで、ほかの女の子とはちがうんだろうか。

そういう恋愛がらみの話をたまきとしたことがない。いや、軽く振ってみても「まあ」というあいまいな返事しか返ってこなかった気がする。

もしかしたら、たまきから実はそういう話をしていたにもかかわらず、ミチの方から「たまきちゃんにはまだわかんないよ」と握りつぶしていたような気もする。

ミチにはたまきの地雷がどこにあるのかわからない。わからないうえに、ミチはそれを知らず知らずに踏んでしまうクセがあるらしい。

一方で、たまきには踏まれたくない地雷があるように、思わず心がときめいてしまうようなツボだってあるはずだ。そこを探し出して、そのツボを押してあげれば、この気まずい空気も変えられるんじゃないだろうか。

とはいえ、また正面から「たまきちゃんってさぁ……」と話しかけても、うっかり地雷を踏んでしまいそうな気がする。こういう時は、アレの力に頼るしかない。

ミチはおもむろに立ち上がると、本棚の中のCDをいくつか抜き取った。

本棚の上には、CDプレーヤーがおいてある。ミチは選んだCDのうちの一つを、そこに入れた。

選んだのはミチのお気に入りのロックバンドのアルバムだった。激しいギターサウンドのイントロが流れ、やがて力強い男性ボーカルが聞こえてきた。

2曲目のBメロに差し掛かったあたりで、浴室からたまきが出てきた。

黒髪はドライヤーで乾かしたとはいえ、湯上り特有の湿っぽい光沢があり、乾きかけのせいか、少しまとまりを欠いている。顔はほんのり赤みを帯びていて、いつもよりもさらに幼く感じた。

だけどそれと同じくらいミチの目を引いたのは、たまきの服装であった。

ミチは最初、ドット柄のパジャマだと思った。クリーム色の生地に、ドット柄が描かれているのだ、と。

だが、たまきがミチの近くに寄ってくると、それが間違いであることに気づいた。

ドットに見えたそれは、ネコやイヌの顔の絵だったのだ。

このパジャマは、たまきがリュックに詰めて持ってきたものだ。たまきの着た服の中では、今までミチが見たものの中で、最も明るい印象を受ける。だが、これは小学生が着るパジャマだろう、とミチは思った、がさすがに口にしなかった。たまきの幼さをより引き立てる一方で、どうにも不釣り合いである。

たまきはミチと目があると、恥ずかしそうに一言ぽつりと、

「お風呂どうも……」

とだけ言うと、無言でミチの隣にちょこんと正座した。

たまきがミチの前を横切って、隣に座るまでのほんの一瞬の動作に、ミチは不釣り合いの本当の理由を知った。

小柄な躰に幼すぎるパジャマを纏ったたまきだったけれど、その一連の動作のシルエットは、まぎれもなく女性独特のそれだった。

たまきはしばらく、CDプレイヤーの方を見ていたが、やがて視線を自分の膝へと移したまま、黙っている。

「えっと……なんかないの……?」

もう地雷を踏まないように、ミチは恐る恐る尋ねた。

「……なんかとは……?」

たまきもどこか石橋をたたくように答える。

「音楽かけてみたんだけど……」

「……聞こえてます」

「その……何か感想とか……」

たまきは困ったようにミチを見て、何も答えなかった。

たぶん、ロックはたまきの好みではないのだろう。

次にかけたのは、女性アイドルのCDだった。

A面の曲を流した時、たまきに反応があった。

「あ、この曲……」

「あ、知ってる?」

「まえ、志保さんがカラオケで歌ってました」

それっきり、たまきは再び困ったように黙ってしまった。どうやらただ単に知ってるだけで、これといった感想はないらしい。

思い切って、ミチはたまきに聞いてみることにした。

「たまきちゃんってさ、どういう曲が好きなの?」

たまきがときめくポイントを知りたいのだけれど、直接そう聞いたら、また何か地雷を踏みかねない。

ならば、音楽の力を借りよう。音楽の歌詞やサウンドでたまきが何かしらの反応を見せれば、そこにたまきのときめくポイントがあるはずだ。

ところが、その「たまきの好きな音楽」がわからない。

ならばいっそ本人に聞いてみようと思ったわけだ。好きな音楽の話なら、地雷を踏むこともあるまい。

実際、たまきは嫌そうな顔はしなかった。

ただ一言、

「まあ……」

とだけ言って、黙ってしまった。

「まあ」とだけ言われても困る。とりあえずミチは「マア」という名前のミュージシャンなど知らない。「フー」という名前のバンドならかろうじて知っているのだが。

相変わらず、ルールを知らないままチェスをやっている気分だ。

いや、ルールならわかっているのだ。

ただただ、相手の出方がわからないのだ。

けれど、そんなの、当り前なのかもしれない。

もちろん、相手の出方や戦略が読める方が、勝率はぐっと上がるのだろう。

でも、たぶん、チェスとか将棋とかの醍醐味は、相手の心が読めないときにあるのではないか。

相手の出方がわからない。セオリー通りのことが進まない。そんな時に、計算と経験と、直感を天秤にかけて、運の流れに身を任せ、ほのかに背徳を隠し味に混ぜて指す一手。それに相手がどう反応するのか。待ってましたとばかりにチェックメイトを仕掛けてくるのか、しまったと狼狽えるのか、じっと考え込むのか。

一手を指してから、相手が反応を見せるまでのほんの一瞬、そこが一番楽しいのではないか。

もちろん、ミチはそんなことを頭で理解しているわけではない。ただ、今この瞬間がちょっと楽しい、そう思って、棚の中のCDケースに手を伸ばした。

ちなみに、ミチはボードゲームなんて、オセロしかやったことがない。チェスも将棋も、ルールすらわからない。

 

プレイヤーの中でCDが、まるで指揮者が舞う蝶のごとく指揮棒を振るかのように、軽快にぐるぐるとまわりだす。やがて、ディスクに書き込まれたデータが音楽となって、部屋の中に鳴り響いた。

波のようにゆらゆらと揺れるベースラインの上を、忙しなく跳ね踊る魚のようにドラムが音を響かせる。ドラムの音は中低音で、スネアが叩かれるたびにほど良く空気を跳ね上げる。

官能的でありながらどこか煽動的なリズムに絡みつくように、ピアノとエレキギターがメロディを奏でた。ピアノはまるで少女がくすくすと笑うかのように美しく、ギターはさながら男が何か情念をたたきつけているかのように激しく。

そこに艶っぽくも力強い女性の歌声がかぶさった。

ジャンルで言えばジャズロック、とでもいうべきなのだろうか。

それは、ミチがラジオで聞いて気に入ったバンドのCDだった。ロックの激しさの向こうに、ジャズの持つ大人の深い苦みがあるようで、激しいビートに身をまかせながらも、どこかその苦さの深みに引き込まれていくような感覚を覚え、ミチの好きなバンドとなったのだ。

ミチはたまきの方をちらりと見た。相変わらずの無表情で、その顔から曲の良し悪しを読み取ることなんてできない。

不意に、たまきが足を崩し、正座から体育座りに切り替えた。小さな膝を両手で抱えるとたまきは、ミチの方をちらりと見た。

たまきと、ミチの目が合った。

たまきは目線を自分の膝へと戻し、ミチもたまきから目を離した。

特にどちらもしゃべることなく、二曲目が終わった。

 

三曲目の一番のサビが終わる頃に、たまきはおもむろに立ち上がった。

再びミチの前を横切って、部屋の窓へと向かうと、たまきは窓を開ける。

ミチの部屋は、スナック「それから」の看板がある通りから見ると、入口の方が奥にある。部屋に入って、奥の窓を開ければ表通りが見える。

いつの間にか風はやんでいて、表通りにいくつかあるスナックの看板が、ほのかにきらめいていた。

たまきは夜空を見上げた。つるぎのようにしなやかな三日月が浮かんでいる。たまきは窓から少し身を乗り出して、月を見ている。

その一連の動作を、ミチは背後から見つめていた。

「……どうしたの?」

と、ミチが声をかける。

「その……月が見たくて……」

たまきが振り向くことなく答えた。

「となり……いいかな?」

「……まあ」

ミチは、たまきの左隣へと腰かけた。いつもと違って、たまきは間隔を開けることはしなかった。もっとも、いつもの調子で間隔を開けてしまったら、窓枠から外れて月が見えなくなってしまうのだけど。

三曲目のアウトロのピアノが静かに流れ始めたところで、たまきは口を開いた。

「その……さっきはご……」

そこから、たまきが次の言葉を言おうとする前に、ミチは勢い良く頭を下げ、素早く声を発した。

「さっきはごめん!」

そうしてゆっくり頭を上げると、あっけにとられるたまきを見て、ニコッと笑った。

「よし、今度は俺の方が先に謝ったぞ」

それを聞いて、たまきはあきれたようにため息をつく。

「どっちが先とか、関係なくないですか?」

「でも、男があとから謝った方が、カッコ悪くない?」

「だから、謝るのにかっこいいも悪いもないし、……その、男だとか女だとかも、関係ないじゃないですか」

そういうと、たまきは急に恥ずかしそうに下を向いた。

「……私の方こそ、ごめんなさい」

男とか女とか、そんなことにこだわっていたのは、たまきの方なのだ。ミチに対して腹を立てていたようで、途中からミチのことなんか見ていなかったような気がする。

いつの間にか、四曲目の歌い出しに入っていた。

「でもさ……」

そういうと、ミチは探るようにして言葉をつづけた。

「謝っといてなんだけどさ……俺さ、自分のなにがマズかったのか、イマイチわかってないんだよね」

「なんですか、それ」

たまきは再び、あきれたようにミチを見た。いや、完全にあきれていた。

「じゃあ、なんでさっき謝ったんですか?」

「なんか怒らせるようなこと言っちゃったかなぁ、って」

「じゃあ、なんで私が怒ったと思うんですか?」

「それはわかりません」

再び、たまきのため息。こんなにため息ばかりしてたら、しぼんでしまうのではないだろうか。

「じゃあ、また同じこと繰り返すかもしれないじゃないですか」

「そのときはごめんね」

軽い、たまきはそう思った。

そう、軽いのだ。乱暴だとか雑だとかいろいろ思ったけれど、基本的にはこの男の言動は、軽いのだ。たまきへの接し方も、軽いのだ。考えが浅くて、行き当たりばったりで、そのくせ見栄っ張り。深い考えもなくうっかり人を傷つけるうえに、なにが悪いかもわからずに、カッコつけて謝ろうとする。そんなんだから、クリスマスの時みたいなトラブルを起こすのだ。

なんでこんな人が、いま私の隣にいるんだろう。

なんでこんな人が、いつも私の隣にいるんだろう。

けれども、じゃあミチがたまきに対してもっと慎重で優しかったら、と考えると、そっちの方がなんか違うようにたまきには思えた。

たとえば、志保のカレシの田代のような人。志保が抱える問題についてせっせと勉強したり、志保のことを支えるなんて平気で言ったりできる人。カノジョだけじゃなくて、たまきや亜美のようなカノジョの友達にまで気配りができる人。男であれ女であれ、そんな人が隣にいたら、たまきは腹を立てる前に逃げ出してしまうかもしれない。

優しければ踏み込んでいいわけではないのだ。

五曲目が始まった。歌詞の中に「月」というワードが出てきた。

「月、きれいだね」

とミチが言った。

「……月は、きれいなんかじゃないです」

たまきは、下を向いたままそういった。

「月は穴ぼこだらけだし、自分で光ったりしません。裏側なんてもっと穴ぼこだらけだし……」

「でも、月、きれいじゃん」

「月がきれいに見えるのは……」

たまきはそこで一度言葉を切ってから、続きを言った。

「地球がちょうどいい距離から見てるからなんです……」

そんなことを話しながら、ミチはふと、ネコのクロを思い出した。クロはミチが呼んでも近寄ることなんてなかったけど、その代わり、逃げもしなかった。ミチが近寄ると、ちょっとイヤそうにも見えたけど、逃げずにじっとしていた。

もしかしたら、ミチとの間のあの距離が、クロにとっては心地よかったのかもしれない。

 

急に、何かの糸が切れたかのように、たまきが倒れた。

「え?」

ミチは驚いてたまきの顔を見る。

たまきは、すやすやと寝息を立てて、眠りについていた。倒れた衝撃で、メガネがずれている。

「なんだよ……びっくりした……」

ミチは、幼子のように眠っているたまきを見た。

「メガネは……はずしてあげた方がいいのかな……」

そうつぶやきながら、ミチは割れ物に触れるかのように、たまきのメガネに手を伸ばした。

 

たまきが目を覚ました時、最初に感じたのは、布団の温かみだった。

布団で寝るなんてここ一年でほとんどなかったので、たまきは寝ぼけながらも戸惑った。

自分の状況を確かめようと、左手を伸ばす。いつもならそこにメガネが置いてあるはずなのだけれど、ない。

いよいよもって自分がどんな状況にいるのかわからず、不安になったたまきは今度は右手を伸ばした。右手が、メガネに触れる。

メガネをかける。薄暗い部屋だったが、徐々に物の輪郭が見えてきた。

たまきはパジャマを着て布団で寝ていたらしい。一瞬、実家に戻ってしまったのかと思ったけれど、このパジャマは『城』で暮らすようになってから買ったものだ。

そうだ、ミチ君の家に泊まりに来たんだった。

ミチはどこにいるんだろう、とたまきは狭い部屋の中を見渡した。

たまきから少し離れた場所で、ミチは寝ていた。ただし、布団のようなものは一切ない。この部屋には布団が一人分しかないので、二人のうちのどちらかが布団で寝れば、どちらかは布団がない。

ミチは寝巻としてジャージを着ていたが、チャックを締めていないので、はだけておなかがあらわとなっている。

「風邪ひきますよ……」

たまきは、窓のそばに置いてある、加湿器代わりのバケツを見やり、もう一度、ミチを見た。

「……のどが大事なんじゃなかったんですか?」

さっきは、あんなに扱いが軽かったくせに。

いつもは、穢すだの壊すだのいやらしいこと言うくせに。

私が知らないところで、やさしくしてるなんて。

「……ずるいよ」

たまきは、自分のパジャマを確かめた。とりあえず、寝てる間に変なことはされていないらしい。

たまきは、掛け布団を横にした。半分は自分に、半分はミチにかかるようにすると、布団の中でなるべくミチと距離をとるようにして、横になった。

すぐには寝付けない。

穢されも壊されもしていないのだけれど、たまきの心の奥底の何かが乱されているような気がした。

……なんでこの人は、私なんかにかまってくれるんだろう。

つづく


次回 第34話「モノレールのちブレスレット」

ケンカしたり仲直りしたりのお泊りの翌日、ミチはたまきを外に連れ出すことに。

つづきはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第32話「風吹けば、住所録」

「城」に、特にたまきの身に大事件が勃発! たまき16歳の「ひとりでできるもん」、開幕!


「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

第31話 「桜、ところにより全力疾走」


桜前線はあっという間に都心を駆け抜けていき、花が散り、若葉が芽吹く。気づけば四月ももう終わりだ。

世の中は入学式だの新学期だのであわただしい季節だが、たまきたちの生活にはこれと言って変化はない。

たまきは相変わらずうじうじとひきこもっている。たまに絵を描きに外に出かけるくらいだ。

亜美は相変わらずふらふらしている。ふらっとどこかに行っては、ふらっと帰ってくる。まあ、大方どこぞのオトコのところに遊びに行っているのだろう。

志保は相変わらず、施設だバイトだデートだと、せかせかと忙しそうだ。

たまきの生活に、これと言って大事件は起こらない。強盗のおじさんに出会ったり、暴力沙汰に巻き込まれたりもしたけど、結局そこまでの大事にはなっていない。ましてや、ラブロマンスのような嬉しいハプニングも起きやしない。

人は生まれてきただけで奇跡なのだというが、たまきみたいな子はきっと生まれてきただけで運の大半を使ってしまい、残ったなけなしの運も、亜美と志保に出会ったことで使い果たしてしまったに違いない。

春になってちょっとだけ変わったことと言えば、ミチが久々に歌を作り始めたことだ。

昨年末の事件以降も、「楽曲」はちょいちょい作っていたのだけれど、それに歌詞をつけることはなく、ずっとラララと口ずさむだけだった。

桜の花が散りだしたころから、ミチはそれに歌詞をつけ始めた。家でノートに書いてきた歌詞を、公園でギター片手にメロディに乗っけて歌ってみる。実際に歌ってみると、単語とメロディの相性が悪いことがあって、その都度歌うのをやめて歌詞を書き直す。ちょっと歌ってはやめて、何か書いて、また歌っては途中でやめて、を繰り返しているので、はたから見るとこの人は公園で何がしたいんだろう、と思われていたかもしれない。

たまにたまきが横にやってきて、腰を掛ける。ミチは作りかけの歌を少し口ずさんでから、ちらりとたまきの反応を見るのだが、十六歳にしてポーカーフェイスを極めた彼女の表情から、歌のよしあしを読み取るのはかなり至難の業だ。たまきと一緒に暮らしている亜美と志保なら、たまきの表情を読み取れるのだろうか。

思えば、彼女が笑っているところを、ミチはあまり見たことがない。

思いっきり怒られたことならある。思いっきり泣かれたこともある。笑った顔もちょっとは見たことある。だけど、たまきと出会って一年弱、思い出のフィルムを紐解いてみると、その8割が無表情のたまきなのであった。

その日も、たまきはミチの横で黙って絵を描いているだけだった。やってきたときに「こんにちは」と言ったっきり、一言もしゃべっていない。

ふいに、ミチは演奏を止め、たまきの方を向いた。

「……なんかないの?」

たまきもミチの方を見る。

「……なんかって、なんですか?」

「曲の感想だよ。今の良かったよとか、もっとこうした方がいいとか」

曲の感想、と言われても、そもそも曲になってないのだからどうしようもない。歌っては止めてのくり返しだ。同じ単語のメロディをちょっとだけ変えて何度も歌う。歌詞になってない。単語、良くて一文である。そんなのに、どう感想を言えというのだ。

たまきは何も言わず、スケッチブックに視線を戻した。それを見たミチは再び声を上げる。

「なんかないの、感想」

「なにもないです」

「たまきちゃん、もっと他人に関心を持った方がいいよ」

……たまきの鉛筆を握る左手が、ぴたと止まった。

「……思ったこと言っていいんですか?」

「お、なんかあるの? どうぞどうぞ。エンリョなく」

ミチはニコニコしていたが、たまきは表情を変えることなく言った。

「私、ミチ君から絵の感想言ってもらったこと、ほとんどありません」

「あれ?」

ミチの表情が少しこわばる。期待していた感想と違う、というか、そもそも球種が違う球がとんできた。

「隣で絵を描いてるのに、ミチ君に絵の感想を言ってもらったこと、ほとんどないです。私からミチ君に感想を求めたこともないです。なのに、ミチ君は当たり前みたいに歌の感想を求めてきて、感想がないと周りに関心を持てとか言うの、おかしいですよね。おかしくないですか」

ミチは答えに詰まった。暖かな南風が吹いてきたが、ミチにはなぜか寒く感じた。

「いや、俺、絵のことなんてわかんないし……」

「私だって、歌のことなんてわかりません」

いよいよもって、ミチは答えに窮する。

「ミチ君のそういう、自分のことしか見てないところ、私、嫌いです」

そういうとたまきは立ち上がり、

「私、帰ります」

と言って、階段を上っていってしまった。空は雲が分厚く重なり、今にも雨が降り出しそうだ。

 

画像はイメージです

公園から駅へと続く地下道の中ほどで、たまきはため息をついた。

どうして思ったことを言うと、人とぶつかってしまうんだろう。

ひと月ほど前に亜美に思ったことを言った時も、さっきミチに思ったことを言った時も、もう少し言い方とかあっただろうに。

「やっぱり、私なんて嫌いだ……いなくなればいいのに……」

たまきはそうつぶやいた。自分に対して思ったことを言ってみたわけだ。つまるところ、たまきは自分に対しても他人に対しても、とことんネガティブなんだろう。

とぼとぼと歩いて「太田ビル」へと帰る。階段を上って、「城」の中へと入る。

「ただいまです……」

入り口のドアを開ける。すると、亜美の声が降りかぶさってきた。

「たまき、こんな時にどこほっつき歩いてたんだ!」

たまきの背筋がびくっとなる。と同時に、理不尽を感じる。普段はもっと外に出ろというくせに、たまに出かけたらどうして怒られなければいけないのか。

だが、亜美の顔を見てみると、語気が強いわりに顔がにやけている。本気で怒っているわけではなく、冗談で言っているようだ。たまきもこれくらい表情が豊かだったら、人とぶつからずに済むのだろうか。

無言のまま立っているたまきを見て、亜美は

「あれ? スベった?」

と始末の悪そうな顔をする。今度は志保が、困ったように言った。

「ほら、亜美ちゃんが大声出すから、たまきちゃん、固まってるじゃん」

たまきは「城」の中を見渡した。

なんだかいつもと少し違う、と思ったが、どうもいつもに比べて片付いているような気がする。ソファにおいてあったぬいぐるみとか、テーブルの上のテレビとか、床のビデオデッキとかが、ない。

「あの、テレビとかは……」

「ああ、衣裳部屋の段ボールに放り込んどいた」

そういえば、衣裳部屋にいつも、からの段ボールがおいてあったような気がする。何に使うのかわからないが。

「こういう時のための段ボールだからな」

「こういう時というのは?」

「とりあえずたまき、そこ座れ」

言われるままにたまきは、椅子に座った。

「さっき、下のビデオ屋の店長がここに来たんだ」

「城」の下の階には、ビデオ屋が入っている。そこの店長は亜美たちが「城」に住み着いていることを黙認している大人の一人だ。

「延滞してるビデオでもあったんですか?」

「あ~もしそうなら背筋が凍る話だけど、そういうんじゃないんだ。たまき、前にこのビルのオーナーが関西に住んでるって話しただろ?」

「しましたっけ?」

「したんだよ。で、たま~に東京にやってきて、ビルの様子を見に来るんだ」

たまきは黙って聞いている。

「それでさっきビデオ屋の店長のところに電話が来てな、何と今夜、東京に来るっていうんだよ。今夜か明日に、このビルの様子を見に来るって」

「じゃあ、私たちもあいさつ……」

「できるかバカ!」

そういえば、たまきたちはこの「城」を、不法占拠してるんだった。

「それでな、ないとは思うけど、もしかしたら、万が一、ここの様子を覗くかもしれないんだ」

「え……まずいんじゃないですか?」

「そう、まずいんだよ」

亜美は少し身を乗り出す。

「だから、今日と明日、ウチらはここにいない、ここには誰もいない、ってことにするんだ」

「それでテレビとか片付いてるんですね」

そこでたまきは不安げに、亜美と志保を見た。

「それで……私たちはどうすれば……」

「だから、ここにはいない、んだよ」

「それって……」

「外泊だよ、ガイハク」

「え……」

たまきの表情がこわばった。

「……今からですか?」

「そういう事だ。早ければ今日の夜にはここに来るかもしれないからな」

「じゃあ、三人でどこかのホテルに……」

「それはちょっと難しいかな」

そう言ったのは志保だった。

「あたしたち三人がどこかのホテルに泊まるのは……怪しまれるよ。春休み中とかならまだしも、若者が泊まるようなシーズンでもないし」

「だけど……、頑張って大学生くらいのフリすれば、それなら別にヘンじゃ……」

「お前がいちばん大人に見えないんだよ!」

とがなる亜美。たしかに、亜美はもうすぐ二十歳だし、志保も頑張れば大学生ぐらいで通用しそうだけど、たまきは十六歳よりも下に見られることが多い。三人だけで泊まりに行った場合、「なんか幼すぎない?」と一番怪しまれそうなのが、たまきなのである。

「それに、ホテルの受付で身分証明書とか求められたら困るでしょ? ……知らないけど」

実は三人とも、「ホテルの正しい泊まり方」というのを、よく知らない。

「じゃあ、どこに泊まるんですか?」

「ウチはとりあえず、テキトーに泊めてくれるオトコ探すわ。志保は結局、どうすんだ?」

「施設のシェアハウスがあるから、さっき電話したら今晩泊めてくれるって」

「なんだよ。ヤサオのところに行くんじゃないのかよ」

「ユウタさんにも都合があるから、そんな今日いきなり電話しても無理だよ。亜美ちゃんの都合のいいメンズと一緒にしないでよ」

「で、たまきはどうする?」

たまきは、表情も体もすっかり硬直している。

「……どういう選択肢があるんですか?」

「そうだな。ウチと一緒に、オトコのとこ泊まるか?」

「絶対に嫌です」

たまきは亜美の提案を固辞した。

「じゃあ、あたしと一緒に来る? 部外者でも一人くらいなら大丈夫だと思うよ」

志保の申し出にたまきは思案した。

亜美と一緒に行くことに比べればだいぶましだが、それでも、「施設のシェアハウス」というからには、たまきにとって初対面の人がいっぱいいるはずだ。

たまきにとって、一番苦手なのが「初対面の人」である。亜美と暮らし始めた時だって、たまきが衣裳部屋にこもったり、亜美の方が出かけてていなかったりで、実はそれほど接触が多くなかったからこそうまくやれた、というのもある。それは相手が亜美一人だったからだ。

「シェアハウスって、何人くらい住んでるんですか……」

「確か、4人だったかな。あ、みんな女性だよ。男性用のハウスは別にあるから」

「4人……」

完全にたまきのキャパオーバーである。たまきにとって、初対面の人と一緒に暮らせる上限は、0.5人である。たぶん亜美は、しょっちゅう出かけたりしてたからたまきにとっては0.5人扱いできたのだろう。

そう考えると、4人はあまりにも多すぎる。

「あ、あの、舞先生のところに泊まるって言うのは……」

たまきにはそこしか泊まるところが思い浮かばない。

「それがさ、先生、今、仕事の取材で海外にいるんだってよ。しばらくは帰ってこないって」

「海外……」

頼りたいときに限って、頼れる人の都合がつかない。つくづく自分は運に見放されてるんだなと、たまきは恨めしく思った。そういえば、お正月のおみくじも凶だった気がするが、細かいところは忘れてしまった。

「たまきちゃん、ほかにどこか泊まれるところある? 友達のところとか……」

友達なんて他にいるわけじゃないじゃないか。

一瞬だけ、ミチの顔が浮かんだ。だが、ミチは友達ではなくて知り合いだし、さっきのことがあるからちょっと気まずいし、そもそも、男子の家に上がり込んで泊まるだなんて考えられない。

「やっぱり、あたしと一緒にシェアハウスに来る?」

たまきはゆっくりと首を横に振った。現状ではそれが一番まともな案なのかもしれないが、やっぱり無理なものは無理なのだ。

「あ、あの……私……」

たまきは立ち上がると、恥ずかしそうに少し下を向いてしゃべった。

「自分で……泊まるところ……探してみます……。その……あてならあるので……」

 

画像はイメージです

たまきは都立公園に向かって駅のそばをととぼとぼと歩いていた。春にしては少し冷たい風が吹いてきた。

「探してみる」「あてならある」といったものの、本当はあてなんてほとんどない。

つまるところ、たまきは意地を張ってしまったのだ。

一晩だけ我慢すれば、知らない人だらけのシェアハウスに泊まることもきっと、できなくはないのだろう。

だけどたまきは、このまま志保の厚意に素直にあやかることはできなかった。

たまきは亜美と志保よりもちょっと年下で、だから志保はいつもたまきの世話を焼いてくれるし、亜美はたまきを引っ張ってくれる。二人にとってたまきは、友達であると同時に、共に暮らす家族であり、妹に近い存在なのかもしれない。

一方で、やっぱり二人はたまきにとっては友達だし、友達ならば対等な関係のはずだ。いや、よしんば血のつながった姉妹だったとしても、十六歳にもなって何から何までお姉ちゃんに世話を焼いてもらうというのはどうなのか。情けないじゃないか。もう十六歳なのに。

亜美と志保に頼らず、自分の寝床は自分で探す。これはたまきにとっての「ひとりでできるもん」「はじめてのおつかい」なのだ。そう考えると、たまきは自分がちょっぴり大人になったような気がした。思い浮かんだ番組名は妙に子供っぽいけど。

駅のそばで線路をくぐり、繁華街の人込みの中を歩き、地下道を通って、都庁の脇を通って、公園に入る。同じ日に一度公園に行って帰って、また公園まで戻ってきた。トータルで一時間近く歩いていることになる。たぶん、もう5キロぐらい歩いているのだろう。疲れて足が痛くなってきた。おまけに、風が強い。

公園内を歩き、仙人たちが暮らす「庵」を目指す。先程、ミチと一緒にいた階段のそばも通ったが、ミチはすでにいなかった。

「庵」とは、仙人たちホームレスが暮らす、いわばベニヤ板の塊だ。たまきの頭の中にある住所録に掲載されている、数少ない「住居」の一つだ。

たまきは少し離れたところから、「庵」を見ていた。複数のベニヤ板が張り合わされ、ところどころでブルーシートをかけて補強されている。

入り口の向こうにはたき火が見える。金属製の缶の中に、枝やはっぱを詰め込んで、火をつけているのだ。オレンジの炎が暗闇をほのかに照らしている。ちなみに、公園内に勝手に家を作ることも、たき火をたくことも、違法である。

ベニヤづくりとはいえ、一晩泊まるには申し分ない。雨も風もしのげるし、たき火をたいているので、室温も実は悪くない。

ただ問題は、ここで暮らすホームレスはみな男性ということだ。しかも、仙人以外のホームレスとはほとんど話したことがない。「知らない女性4人」でも無理なのに、「知らない男性がいっぱい」はもっと無理だ。

そんなことを考えていると、たまきの足が、彼女の無意識のうちに、「庵」から遠ざかり始めた。

すると、「庵」から誰か出てきた。たまきは慌てて引き返した。風がまた、少し強くなってきた。

 

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二十分ほどかけてたまきは、来た道を引き返して繁華街に戻った。足の裏がだいぶ痛くなってきた。こんなことなら、初めに「こっち」に行けばよかった。

「こっち」というのは、舞の家のことである。もちろん、さっき舞は海外に行ったと聞かされてはいたのだが、もしかしたら万が一、家にいるかもしれない、ということもあるかもしれない。

舞が家にいるかいないかは、たまきがピンポンを鳴らして確かめてみるまで分からない。たまきがピンポンを鳴らすまでは、「家にいる舞」と「家にいない舞」が重なり合った状態で存在し、たまきがピンポンを鳴らすことによって、はじめてどちらかに確定するのだ。自分で考えておいて、だんだんたまきにも何が何だか分からなくなってきた。

舞の住むマンションの前に立つ。舞の家には何度か泊ったことがある。ここに泊めてもらえるなら一番ラクだ。

インターフォンで舞の部屋の番号を押し、ピンポンを鳴らす。呼び出し中のランプがついたが、無言のまま、しばらくして消えた。

念のため、もう一度ピンポンしてみたが、やっぱり何の反応もなかった。

舞はいない、そんなことは最初からわかっていたのに、けっきょく自分は何をしたかったのだろうか。

たまきは頭の中の住所録をめくってみたが、うすい住所録にはもう何も書かれていなかった。

風がより一層強く感じた。

 

歓楽街の入り口にあたる、大通りの信号の前で、たまきは一人佇んでいた。

歓楽街前の横断歩道をたくさんの人が行きかう。ここにいる人たちはみな、帰る場所や泊まる場所がちゃんとあるのだろう。

たまきだけ、どこにも行くところがない。周りを見渡せばこんなにも建物があるのに、たまきがいていい場所はどこにもないのだ。なんだか、前にもこんなことを考えたような気がする。

今からでも志保に電話して、シェアハウスというところに泊めてもらおうかとも思ったけれど、さっき断ったのに、いまさらやっぱり泊めてくれなんて迷惑ではないのか。そんなことを考えると、どうしても公衆電話へと足が向かわない。

やっぱり前にもこんなことがあった気がする。つい二、三か月前だ。あの時は確かお金がなくて、「城」に戻れなくて、舞もどこかに行ってていなくて、そのあとどうしたんだっけ……。

そこでたまきは、住所録の最後のページに「スナック『そのあと』」という名前があるのを見つけた。

いや、本当は、最後のページにもう一つ住所が書いてあることに、とっくに気づいていた。気づいていたんだけど、「でも、男の子の家だし」と見なかったことにしていたのだ。

だけど、よくよく思い返してみると、ミチはたしかあのスナックの二階のアパートに住んでいて、同じアパートにはミチのお姉ちゃんも住んでいるという。

ミチのお姉ちゃんの部屋に泊めてもらえばいいのではないか。ミチのお姉ちゃんなら、たまきも知らない人ではない。シェアハウスとやらで知らない人に囲まれて、助けを求めるように志保の顔をちらちら見ながら一晩過ごすよりは、はるかにましだ。ミチのお姉ちゃんがたまきのことをネコ扱いしてくることだけが引っかかるけど、この際いっそネコをかぶってネコのふりして、今夜だけネコってことで泊めてもらうことはできないだろうか。

それがだめなら、閉店後のスナックに泊めてもらう、という手もある。スナックみたいな店で寝泊まりすることに関して、全国の十六歳の中で、たまきより右に出る者はいないだろう。

信号が青になった。たまきは大通りを渡り、駅のはるか南、スナック「そのあと」へと向かって歩き出した。

 

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一度公園に行き、「城」に戻り、再び公園に行き、そこからまた歓楽街に戻り、今またそこからミチの家まで、1キロ以上ある道を歩いている。踏切を渡ったところで、たまきの足がそろそろ限界を迎えてきた。

おまけに、風がやけに強くなってきた。春先なのに、だいぶ肌寒い。

自販機でなけなしのお金でジュースを買って、休憩する。坂道沿いに高架が伸びていて、ミチの家はその高架のそばにある。

実は駅から私鉄に乗れば、この高架沿の上を電車で2分も走ればミチの家のすぐそばにある駅まで行けたのだけれど、たまきはそんなこと知らないし思いつきもしなかった。よしんば、思いついて電車に乗ろうとしても、ミチの家が何駅のそばにあって、どの電車に乗ればいいのかたまきにはわからない。結局、歩いていくしかないのだ。

ジュースを飲み終えると、たまきは再び歩き出した。気が滅入ることに、風は向かい風だ。

 

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「……メシ、なんにしよ」

ミチは部屋の天井を見つめながら、そうつぶやいた。お気に入りのジャケットとジーンズはハンガーにかけられ、ジャージ姿で寝転がりながらマンガを読んでいる。

料理をするのもアリだ。ミチはラーメン屋の厨房で働いているので、料理はそこそこできる。ただ、バイトで料理ばっかりしているので、プライベートで料理するのは逆にめんどくさい。

カップ麺にでもするか。その前に一服するか、とマンガを置いてたばこのケースに手を伸ばした時、

ピン……ポン……

と少し遠慮がちに呼び鈴が部屋に響いた。

「……え、誰?」

立ち上がるまでの間、頭の中の名刺ホルダーを調べて、誰か訪ねてくるような人がいたかどうか探すも、思い当たる節がない。ネットショッピングみたいな宅配の予定も、ない。仕送りしてくれる親もいない。

そもそも、ミチがここに住んでいることを知っている人は、限られている。いつもつるんでいるような人たちには、ここのことは教えていない。何人か女の子を、姉がやっている店に連れて行ったことはある。その時、店の二階に住んでいると話していれば、ここを訪ねることもできるだろう。だが、そういった女の子たちとも皆、すでに縁が切れている。

たった一人だけ、ミチがここに住んでいることを知っていて、なおかつ今も付き合いがある、というか、さっき会ったばっかりの女の子がいるが、その子の顔が浮かんでも、ミチは即座に「ないない」と打ち消した。

その子がときどき、下の店のランチタイムに、焼きそばを食べに来ていることは知っている。だけど、その子が姉の店を訪ねることはあっても、その上にあるミチの部屋を訪ねてくることなど、絶対にない。その子は大の人見知りで、特に異性慣れしてないのか、男性に対する警戒心は強い。

おまけにミチはその子から「キライです」と言われ続けているのだ。わざわざ部屋を訪ねてくることなんて、ありえない。

ピン……ポン……

再び呼び鈴が、申し訳なさそうに鳴った。ミチは前髪だけささっと直すと、ドアを開けた。

ドアの外に、これまた申し訳なさそうにたまきが立っているのを見たミチは、

「ええっ!」

と声を上げた。

一方のたまきは

「あ、あの……」

と自信なさげに言うと、軽く深呼吸してから、しゃべり始めた。

「すいません、その、きゃ、キャッスル、あ、いつもみんなで住んでるお店です、その、すいません、その、いろいろあって今日と明日、お店にいられなくなっちゃって、だから、その、すいません、あの、今夜だけでいいんで、あの、すいません、その、泊めてもらうことってできませんか……すいません」

たぶん、ここに来る途中の道で何度も練習したんじゃないか、そう思えるほど、たまきにしては早口だった一方で、練習したとは到底思えないたどたどしさだった。

一気に言い終えてからたまきは、ミチの目を見ることなく、こう付け足した。

「……ごめんなさい。いきなり来て、迷惑ですよね……。帰ります……」

そのままたまきは、ミチの反応を確かめることなく、ドアの前から立ち去ろうとする。

「いや、迷惑じゃない! 迷惑じゃないよ!」

ミチはたまきの腕を引っ張った。たまきが立ち止まる。

「っていうか、え、ちょっと待って、どういうこと? どういう展開、これ?」

突然の出来事に困惑するミチ。たまきは再び口を開く。

「その、きゃ、キャッスル、あ、いつもみんなで住んでるお店です、その、すいません、その、いろいろあって……」

「いや、それ、さっき聞いたから。つーか、その『いろいろあって』の部分聞きたいんだけど。ま……とりあえず……中入ったら?」

ミチは部屋の中を指さして、たまきを促した。

「え……あの……その……」

たまきは不安そうに部屋の中を見て、次に廊下の右左を見て、最後にミチの顔を見た。ミチもたまきの不安を察したらしい。

「いや、大丈夫だから! 変なこととか嫌なこととか、しないから!」

 

たまきは、生まれて初めて男の子の部屋に入った。

最初の印象は、「なんかにおう」。くさい、とはまた少し違う「なんかにおう」。

たぶん、ミチの部屋の生活臭に慣れてないだけだろう。よその家の麦茶が口に合わないように。

たまきは物珍しげに、部屋の中をきょろきょろと見渡した。全体的には散らかっている印象だ。床は畳張りで、平積みになったマンガが置かれ、脱ぎっぱなしのシャツが放置されている。少し年季の入った布団が敷かれていて、きっと万年床というやつなのだろう。プラスチック製のテーブルの上には、お昼にでも食べたのか、コンビニ弁当の容器が空のまま置かれていた。水着のお姉さんが移った卓上カレンダーもある。広さはたまきの実家の子供部屋に、お風呂やトイレがついた、と言ったところか。

部屋の中で印象的なのは、壁に立てかけられた二本のギターだろう。いつもミチが公園に持ってくる木製のギターと、前にミチがライブで使っていたエレキギター。

ギターの横には本棚があった。ざっと見た感じ、マンガ雑誌となんかの雑誌、マンガ本が入っているが、本棚の半分以上を占めているの本ではなくCDケースである。

そこからキッチンをまわりこんで反対側の壁には、ロックバンドのポスター2枚が貼ってあった。もちろん、何のバンドかはたまきにはわからない。ただ、そこに写っている人がいかにもロックミュージシャンといった感じだし、マイクやギターを持ったり、ドラムセットに座っていたりするので、きっとバンドマンなのだろう。そもそも、たまきが3つ並んだ部屋から、表札もないのにここがミチの部屋だとわかったのも、ドアに似たようなポスターが貼ってあったからだ。

ふと、窓の脇に置いてあるバケツに目が留まった。バケツには、なぜかなみなみと水が溜まっていた。

「……雨漏りでもしたんですか?」

たまきはバケツを見ながら訪ねた。ミチも、たまきの言わんとすることはわかったらしい。

「ああ、これはね、加湿器の代わり」

「加湿器?」

加湿器ならたまきの家にもあった。もちろん、こんなのではなかった。

「乾燥はのどによくないっていうじゃん。ほら、俺、一応、ミュージシャンだし。やっぱ、のどが大事なわけよ」

「……加湿って、これであってるんですか?」

たまきの知っている加湿器は、たしか、霧のようなものを吹いていたはずだ。そもそも、水を置いとくだけでいいんだったら、加湿器なんてメカはいらないではないか。

「……さあ、わかんね」

ミチは少し恥ずかしそうに言った。

 

たまきは、ミチを訪ねることになった経緯を説明した。正確には「ミチのお姉ちゃんを訪ねることになった経緯」だ。下のお店に行ったらまだ「準備中」で、中に誰もいないみたいだったので、仕方なくたまきはビルの二階に上がったら、そこに明らかに「ここにミチが住んでます」といった感じのポスターが貼られたドアがあったので、ピンポンを押してみただけである。ミチではなく、ミチのお姉ちゃんに用があるのだ。

「それで……ミチ君のお姉さんは……どちらに……」

一通り説明を終えた後、たまきはおずおずと尋ねた。

「ああ、姉ちゃんね、今、いないんだ」

「……え?」

「カレシと海外旅行行っちゃって」

え、ここも?

春休みとゴールデンウィークに挟まれた今の時期は、海外旅行シーズンなどではない。なのにどうして、頼りたいときに限って、舞もミチのお姉ちゃんも海外に行ってしまっているのか。

やっぱり自分は不運な星の下に生まれてきたんだ、とたまきは自分を呪った。でも、いくら自分を呪っても死ぬどころかおなかも痛くならないので、たぶん呪いなんてものはないんだろう。

「あ、あの……」

たまきは少し慌てた風に尋ねた。このままでは、今日寝る場所が本当になくなってしまう。

「その、お姉さんの部屋を、一晩貸してもらうことってできませんか? それがだめなら下のお店でも……」

「だから、姉ちゃん、いないんだってば」

「でも、鍵とか……」

「姉ちゃんが俺に、そんな大事なもの預けていくわけないじゃん」

「あ、なるほど……」

「いや、そこ納得しないでよ」

ミチはポリポリと頭をかいた。

たまきは窓ガラスの向こうを見た。太陽はとっくに沈み、ガラスの向こうには暗闇が広がっている。下の方がほのかに明るいが、この辺りはスナックが集まっているので、そこの明かりが漏れているのだろう。

風は依然として強いままで、窓ガラスが大げさにガタガタと揺れている。

志保のところに行く、という案が頭をよぎったが、こんなに時間が遅くなってしまっては、いよいよもって迷惑だろう。そもそも、こんな遅い時間になってしまったのは、たまきが意地を張ったからだ。

たまきは自分の足を軽くさすった。ミチの部屋で腰を下ろして、少し休んだからまた歩けるかと思ったが、むしろ休憩を挟んだことにより、足が限界を超えていることがごまかせなくなってきた。

それでも、たまきは立ち上がった。そのとたんに、少しめまいがしてふらつく。

「ちょっ、大丈夫?」

ミチが軽くたまきの肩を支えた。たまきは急に恥ずかしくなって

「だ、大丈夫です……!」

とミチの手を振り払った。

「私……その……帰ります……」

「帰るって、どこへ?」

「……その辺の公園で寝ます……」

「いやいや、危ないって!」

「でも……」

「だったらさ、ウチに泊まればいいじゃん」

一瞬、時間が止まったような気がした。相変わらず、風は激しく窓をたたいているが、たまきの耳はその音を認識できなかった。

「え?」

たまきは、きょとんとした顔で聞き返す。

「いや、だからさ、ウチに泊まれば……」

ミチは急に、たまきから視線をそらした。

「え?」

たまきはもう一度聞き返した。

「いや、その、エンリョとかしなくていいから。ほら、たまきちゃんって、人に迷惑なんじゃないかとか、すごい気にする子じゃん。だけど、俺のことは全っ全気にしなくていいから」

「いや、エンリョというか、それもあるんですけど……その……」

たまきは、申し訳なさそうに下を向いた。

「危ないんじゃないかと……」

「まあ、普通はそう思うよね……」

ミチはまた、ポリポリと頭をかく。

たまきは頭の中で、「公園で寝る」と「ミチの部屋に泊まる」の危険度を比べた。どちらもそんなに変わらないような気がしてきた。

ただ、公園で寝ていたら、悪い人に襲われるだけでなく、もしかしたらおまわりさんに見つかってしまうかもしれない。そうなったらたまきの場合、「警察署でちょっと怒られる」では済みそうにない。

ミチの部屋に泊まれば、少なくともおまわりさんに見つかることはない。あとは、ミチを信用できるかどうか、だ。

ミチはと言うと、妙に視線を泳がせていた。

「ま……無理だよね……。そうだな、どこかたまきちゃんぐらいの年の子でも泊まれるホテルとか……」

「あ、あの……!」

ミチの言葉に覆いかぶさるように、たまきが言った。

「よろしく……お願いします……!」

たまきはぺこりと頭を下げた。彼女のつやのいい黒髪を見ながら、ミチは言葉を漏らした。

「……え?」

つづく


次回 第33話「柿の実、のち月」

……このままラブロマンスに行くとでも思ったかい?

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

あしたてんきになぁれ 第31話あとがき

第31話を読んでくれたあなた、ありがとう。いつにもまして長かったでしょ(笑)。

1話目からずっと読んでくれているあなた、本当にありがとう。ここまで長かったでしょ。

この31話目だけ読んだよと言うあなた、ありがとう。……話、ついていけてます?

31話目にして今回初めて「あとがき」なんてものを書いているのですが、なぜかというと、この31話目が「あしなれ」という小説にとって、特別なエピソードだからです。

亜美、志保、たまきの「家出」「不法占拠」という冒険は、まだまだ続きます。

まだまだ続くんだけど、終わりが見えない(笑)。実は最終回の内容と、そこへ向けた展開はもう頭の中にあるんですけど、まだまだ消化したいエピソードがいっぱいあって、いつそこにたどり着くのやら。

もしかしたら、最終回を書く前に、僕の人生の方が先に最終回を迎えてしまうかもしれません。もしそうなったらこの小説は「未完」として放置されることになります。

なので、「本当の最終回」はまだまだ先なのですが、「もし、ここでシリーズが終わるのだとしたら」という「とりあえずの最終回」としてこの第31話を書きました。

この「とりあえずの最終回」は、僕としては「セーブポイント」に近い意味です。ラスボスと戦う前に一応セーブしとこう、と同じノリです。「僕になんかあった時のために一応、現時点での最終回書いとこう」。

もしもこの先、僕がうっかり腐った饅頭でも食べて死んでしまった時は、この第31話が最終回だったんだと思ってください。

もちろん、「あしなれ」のお話はまだまだ続きます。その証拠に、第32話は実はもう書きあがってます。それどころか、「新章突入」です。

あと、「本当の最終回」は、こんなもんじゃないです。

これからも、亜美、志保、たまきの冒険はまだまだ続きます。「城」を飛び出し、街を飛び出し、南へ、西へ、北へ、東への大冒険です。

とりあえず、次回からたまきには少し冒険をさせようと思ってます。ちょっとだけ「南」に行ってもらおうかなぁ、と。

では、第32話「風吹けば、住所録」でお会いしましょう。

小説 あしたてんきになぁれ 第31話「桜、ところにより全力疾走」

お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。あしなれ第31話、スタート!


第30話「間違いと憂欝の桜前線」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


たまきが駅に来るのは久しぶりだった。

駅のそばで暮らしているのだから、駅の近くに来たことは何度もある。だけど、駅そのものを利用したのは、この街に来て以来、ほぼ一年ぶりだ。シブヤに行ったときも、あの時もバスを使ったので、駅には来ていない。

なんだか切符を買って改札をくぐってしまうと、ここではないどこ遠くに行ってしまいそうな気がする。

たまきにとって駅とは、いわば羅生門だ。きっと駅の二階には、恐ろしい顔をした鬼とか、死体から髪の毛を抜く婆とかがいるのだろう。

たまきが駅に来たのは、死体になって婆に毛を抜いてもらうためではない。

志保とともにギンザに行くためだ。

少し前にたまきは、ミチから薄群青のパーカーをもらった。それを見た志保は、パーカーの下に着る服もパーカーに合わせたものがいいといい、たまきと一緒に買いに行くという話になったのだ。

たまきとしては、今持っている服を着て、その上に羽織ればいいじゃないか、と思うのだが、そんなたまきに志保は言った。

「たまきちゃん、おしゃれに手を抜いちゃだめだよ! 自分磨きの第一歩は、おしゃれだよ!」

たまきとしてはちゃんとお風呂でごしごしと自分を磨いて洗っているつもりなのだが、志保から見ると全然足りないらしい。しぶしぶ、たまきは服を買いに行くことにした。

 

たまきは切符の販売機の前に立ち、路線図で「有楽町」という駅を探して、そこまでの運賃分の切符を買った。「楽しいことが有る町」と書いて「有楽町」。

ふと、何日か前に亜美に言った言葉を思い出す。

『私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!』

切符を買い終えて振り返ると、志保が改札の前で手招きをしていた。志保はたまきが来るのを確認すると、

「じゃ、いこっか」

と言うと、パスケースを改札機にかざして、中に入った。

当然、すぐ後ろをたまきがついてきていると思ったのだが、しばらく進んでからたまきがいないことに気づき、振り返ると、たまきはまだ改札の外にいた。ぽかんとした様子で志保を見ている。

「どうしたの?」

「い、今の、どうやったんですか?」

「今のって?」

「だって、切符入れてないのに、改札が開いて……」

たまきはまるで魔法使いにでも出会ったかのように目を丸くしている。

「え、だってこれ、かざすだけで入れるよ?」

「でも……お金は……」

「チャージしてるから……」

今度は志保が目を丸くする番だった。たまきはこういう、改札にすいっと入れるカードの存在を、知らないのだ。たまきがそういうものを持っていないのも、見たことがないのも知ってはいたけど、まさか、どうやって使うのかすら知らなかったとは。なんだか、ジャングルに住む未開の部族に出会った気分だ。

 

写真はイメージです

がたんごとんと緑の電車に揺られ、有楽町にやってきた。そこから歩いてギンザへと向かう。

ギンザを選んだのはもちろん志保だ。志保いわく「せっかくだから、少し背伸びしてみようか」。この「背伸び」というのはどうやらつま先立ちのことではないらしい。

地元の商店街に「銀座」の名がつくものがあるので、たまきはなんとなく商店街のような場所をイメージしていた。だけど、たまきが実際に目にしたギンザは、町全体におしゃれが漂っていた。それもただのおしゃれではない。清潔感・高級感ともに、たまきが今まで訪れたどの町よりも洗練されていた。

周りを見渡しても、入っただけで入場料を取られるんじゃないかと思うくらいおしゃれなお店ばかり。

こんな街を、たまきのような、もらったパーカーを羽織っただけの子が歩いたら、おしゃれ警察、いや、おしゃれポリスに連行されてしまうのではないか。

たまきは不安そうに志保を見た。こんな街に、本当にたまきでも着れるような服なんて売っているのか。

志保はたまきの不安を察したらしく、

「大丈夫。たまきちゃんに似合う服もきっとあるから。自信持って」

と言うと、たまきを前に向かせた。もしかしたら、たまきの服を探すというのを口実に、ただ単に志保がギンザに来てみたかっただけなのかもしれない。

 

高速道路をくぐったところに、車一台が通れる程度の、小さな道があった。横断歩道はあるが信号はない。

この道を渡ろうとして、たまきは横断歩道の右側を見た。そこには、横断歩道を横切るつもりなのであろう、数台の車が列を作って止まっていた。どうやら、横断歩道を渡る歩行者が途切れるのを待っているらしい。

たまきは、道を渡らずに立ち止まった。

「どうしたの? 渡らないの?」

と志保が問いかける。

「……ちょっと待てば、この車が全部行っちゃうと思うんで」

止まっている車は3台か4台ほど。車通りもそんなに多くない。

歩行者がみんな、ほんの十数秒待てば、止まっている車はすべて通り抜けるはずだ。それを待ってから渡ろう。たまきはそう考えたのだ。

 

十五分が過ぎた。

たまきと志保は、ずっと同じ場所に立っていた。

「たまきちゃん、そろそろ……」

と志保がたまきの方を、少し心配そうに見る。

「でも……」

たまきは、右側をちらりと見た。

横断歩道の右側には、5、6台の車が並んでいた。

ほんの十数秒、歩行者全員が道路を渡らずに待ってあげれば、車が全部通過して、渋滞もなくなる。たまきはそう考えていた。そう考えたから、ずっとそこに立っていた。

ところが、ほとんどの歩行者は、立ち止まることなく道路を渡っていった。

多くの車が、ずっと前に進むタイミングを待っているのに、みんな平気な顔して道を渡っていく。ほんの十数秒待てば車は全部通過して渋滞がなくなるはずなのに、我先にと道を渡っていく。

十五分の間、道路を渡る人の流れは、ほとんど途切れることはなかった。

たまに歩行者が途切れるときがあった。先頭の車はその隙を見つけて横断歩道を横切り、先へと進む。

だが、2台目の車がそれに続こうとすると、必ず歩行者が渡り始め、車の行く手を遮るのだ。車は前に進みたそうにゆっくりと動くのだが、歩行者たちはお構いなしにわたっていく。運転手さんが苦笑いしているのを、たまきは何度も目撃した。

先頭の車が抜けてから、2台目の車が抜けるのに、数分かかった。そうこうしている間に、後ろには新しい車が並ぶ。渋滞はいつまでたってもなくならない。

ほんの十数秒、立ち止まってあげるだけで渋滞はなくなるのに、どうしてみんな立ち止まらないんだろう。どうして車の行く手を遮ってまで、ほんの数mほどの道を急いで渡りたいんだろう。

ふとたまきは、中学の時に国語の授業で習ったお話を思い出していた。地獄にたらされた蜘蛛の糸に、罪人が我先にと押し寄せ、自分だけ助かろうとしたばっかりに、蜘蛛の糸がぷっつりと切れて、地獄に逆戻りする、そんなお話だ。

たまきにとって一番驚いたのは、たまきの目の前で我先にと、車の行く手を遮って道を渡る人たちが、地獄に落とされるようなみすぼらしい罪人ではなく、たまきよりもおしゃれな人たちだったという事だ。

亜美の周りにいるような、いかにも悪人という人たちではない。手をつないだカップルだったり、ベビーカーを押す若いママさんだったり、スーツを着たサラリーマンだったり、高級そうな服に身を包んだおばさんだったり、おしゃれに気を遣うおじいさんだったり。皆、人のよさそうな笑顔を浮かべていた。

きっとみんな、家出や不法占拠のような、間違ったことをしているたまきなんかよりも、ずっと立派に人生を生きている人たちなのだろう。

何より、みんなたまきよりもずっと、おしゃれだった。

「たまきちゃん……」

志保がたまきの袖を引っ張る。

「ひきこもりだ……」

たまきがぽつりとつぶやいた。

「……たまきちゃん?」

みんなみんな、ひきこもりだ。

おしゃれというのは、人により良く自分を見せるためにやるはずだ。

なのに、目の前の横断歩道を渡っていく人たちは、おしゃれな人たちばかりなのに、ちっとも周りが見えていない。周りが見えていれば、車がずっと歩行者が途切れるのを待っていることに気づくはずだし、立ち止まるはずじゃないか。

おしゃれをして、人には自分を見てほしいくせに、自分は人を、周りを全く見ていない。自分磨きだなんていうけれど、結局それって、自分のことしか見ていないだけなんじゃないか。

それじゃまるで、ひきこもりじゃないか。外を歩いていても、心の中はひきこもりじゃないか。

しましま模様の横断歩道を、途切れることのない人の流れを、困ったようにハンドルを握る運転手さんの顔を、眺めながら立ち尽くすたまき。そんなたまきを志保は困ったように見ていたが、少し考えると、たまきに声をかけた。

「じゃあさ、車の列の一番後ろに回ろっか。列の一番後ろに回って、そこから渡ろうよ。そうしたら、車の妨げにもならないでしょ?」

たまきは、渋滞の列の一番後ろへと視線を投げかけた。4台目にトラックが止まっていて、その後ろは見えない。

たまきは無言で、車列の一番後ろに向かって、道沿いに歩きだした。志保もそれに続く。

あのまま、意地で横断歩道の前に立ち尽くしていてもよかったのだけれど、さすがにもう疲れたのだ。

立ち尽くすことが疲れたのではない。

自分のことしか見ていない「おしゃれなひきこもり」の顔を見続けることに、疲れたのだ。

ほんの十数メートル歩いただけで、車列の最後尾にたどり着いた。そこから二人は道路を渡る。

十数秒待てば、渋滞はなくなる。

十数メートル歩けば、車を遮ることなく道を渡れる。

どちらも、ほんのちょっとだけ人に優しくなれれば、なんてことのないことのはずなのに、誰もそれをしようとしない。

 

そのあと、志保とたまきはいくつかのお店をまわった。デパートの中のお店だったり、若者向けのお店だったり。

お昼になって二人は、カフェでランチを食べていた。

「ちょっと背伸びしすぎたかなぁ」

と志保は、フォークにパスタを巻き付けながら笑った。

たまきは無言で、フォークにスパゲッティを巻き付ける。

「でも、確かにたまきちゃんは、原宿系って感じじゃないよね。もうちょっと落ち着いた感じの方が似合いそうだし。そのパーカーも落ち着いた感じだから、もうちょっと探してみたら似合うやつが……」

「……もういいです」

たまきは静かにそういった。

「え?」

「もう、おしゃれなんかしなくていいです……」

そういうたまきを、志保はまた困ったように見ていたが、すぐにやさしく笑った。

「そんなことないって。むしろ、たまきちゃんは自分に合ったファッションが見つかれば、すごくかわいくなると思うよ。そうだ、午後はアメ横とか行ってみようか。安くてたまきちゃんに似合いそうなのが……」

「だから……そういうのはもう……いやなんです」

たまきはコップの水に視線を落としたまま、つぶやく。

おしゃれだの、自分磨きだのというけれど、結局は自分のことばかり気にして、それでいて周りのことは全然見ていない。

そう考えたら、おしゃれに気を遣うのが、急にばかばかしくなったのだ。

志保も、立ち尽くしていた十五分の間にたまきに何かがあったことを察したらしい。少し言葉を選ぶように考えあぐねる。

「でもさ……、亜美ちゃんのお花見に、たまきちゃんも行くんでしょ? まあ、亜美ちゃんのファッションに合わせることはないけど、少しぐらいおしゃれしても……」

「……お花見には、行きません」

たまきは視線を上げることなく言った。

「……断ったんです」

「そうなんだ……」

志保にはたまきが、ジャングルの未開の部族ではなく、その部族ですらめったに見つけられないような、密林の奥地に住む色鮮やかな蝶々のように思えた。

「じゃあ、帰ろっか。あ、ごめん。帰る前に、あたしの買い物しちゃっていいかな?」

たまきは、無言で頷いた。

 

写真はイメージです

「ただいまぁ」

「お、お帰り」

志保とたまきが「城」へ戻ると、亜美が一人で、テレビを見ながらハンバーガーをほおばっていた。机の上にはポテトとチキンナゲット、さらにコーラが置かれている。

「服買いに行ったんだろ? どんなの買ってき……」

亜美の言葉が言い終わらないうちに、たまきは衣裳部屋へと飛び込み、スケッチブックの入ったリュックを引っ張り出すと、

「……出かけてきます」

と言ってすぐに外へ出て行ってしまった。たまきが「城」に入ってから外へ出ていくまでにかかった時間としては、最短記録だったかもしれない。

階段を下りながら、たまきはふうっとため息をつく。

亜美からのお花見の誘いを断ってから数日の間、どうにも亜美と顔を合わせるのが気まずいのだ。

別に、ケンカしたわけではない。亜美はたまきがお花見に来ないことを了承してくれた。

なのにあれ以来、たまきは亜美と顔を合わせるのが気まずくなってしまったし、亜美の態度にも何かよそよそしさを感じる。

別に、避けられているわけではない。意地悪をされているわけではない。

なのになぜか、よそよそしいのだ。

まるで、振出しに戻ってしまったかのような感覚だ。1年ほど前、初めて亜美と出会って、まだどんな人なのか全然わからなかった頃のよそよそしさに。

 

たまきが出ていったドアを亜美はなんだかさみしそうに見つめていた。

「結局たまきちゃん、何も買わなかったんだよねぇ。これはあたしの買い物」

そういって志保は洋服の入ったビニール袋を机の上に置いた。

亜美は志保の方を振り向かないし、返事もしない。

「……ねえ、たまきちゃんと何かあった?」

「んあ?」

不意を突かれたように、亜美が振り返る。

「あたしが気付かないと思った? ここしばらく、二人ともなんかヘンだよ。絶対なんかあったでしょ?」

そういうと、志保は亜美の隣に腰掛けた。

「まえにさ、たまきちゃんはあたしと亜美ちゃんの間を取り持つ緩衝材だ、って話したじゃん。なのにさ、そのたまきちゃんと亜美ちゃんがなんか変な感じになっちゃったら、あたしまでピリピリしてくるんですけど」

亜美にしては珍しく、何も言うことなく、自分の膝のあたりを見ていた。

「たまきちゃん、お花見の誘い、断ったんだって? それってなんか関係ある?」

志保は亜美の顔をのぞき込む。

「どうせ亜美ちゃんが、絶対来いよとか、無理強いしたんでしょ?」

「そ、そんなことしてないし……!」

「じゃあなんで、二人が気まずくなってんのよ」

「べ、別に……」

亜美は、隠し事をしている子供のように、志保から目をそらした。

「じゃあ、例えば、嫌がるたまきちゃんに、お花見に来ればなんだかんだで楽しくなるとか言って来させようとしたとか……」

亜美は驚いたように目を見開き、無言で志保の方に振り向いた。

「図星だ……」

志保があきれたようにため息をついた。

「それで、たまきちゃんはなんて言ったの?」

「ウチとあいつじゃ……、楽しいと思うことが違うんだって……」

亜美はポテトを口にくわえたまま、片膝を抱えた。

「それ聞いてからさ、なんか考えるようになっちゃってさ……。ひょっとしたら、ウチが今まであいつに良かれと思ってやってきたことって、もしかしてあいつにとっては楽しくなかったのかも知れないって……」

そこで亜美は、志保の顔を見た。

今度は、志保が驚いて目を見開いていた。

「え? いまさら?」

「な、なんだよ、いまさらって」

「たまきちゃん楽しんでないかもって、いまさら気づいたの?」

「……は?」

「は、じゃないよ。無理やりクラブに連れてったり、無理やりクリスマスパーティさせたり、ああいうの、たまきちゃんが楽しんでると思ったの?」

「え、あいつ、楽しんでなかったの?」

そこで志保は、また深くため息をついた。

「たとえばさ、去年の暮れにさ、三人でボウリング場に行ったじゃない」

「ああ、行った行った……」

そこで亜美は、大きく身を乗り出した。

「おい、まさかあれもたまき、楽しんでなかったっていうんじゃ……」

去年の暮れ、クリスマスの少し前に、三人は近くのボウリング場に行った。

亜美は持ち前の運動神経の良さを発揮して、好スコアをたたき出した。投げるたびに何か変な掛け声を発していたことを除けば、なかなか様になっていた。

志保もボウリングは何度か経験があり、それなりにできたが、体力が続かず、途中からは見ているだけになった。

たまきは、それまでボウリングを全くやったことがなかった。ボウリングの球も持ったことがないし、ボウリングシューズも履いたことがない。

当然、いきなりうまくいくわけがない。たまきの投げたボウリング玉は、まっすぐ進まずにすぐにガーターへと落ちた。

しばらくすると、亜美の懇切丁寧な指導が入った。

「いいか、この手のスポーツは、まずはフォームをしっかりと覚えることが大事なんだ」

「こういうのはな、全身運動なんだよ。腕の力だけで投げるんじゃなくて、体全体でボールを押し出すんだ」

「投げるときに掛け声を言うと、パワーが3倍になるんだぞ。プロボウラーだってみんなやってるんだからな」

亜美のアドバイスはどこまで信憑性があるのか、志保にはわからなかった。それでもたまきは素直に従っていた。亜美に教わったフォームをまねして、腕だけでなく全身でボールを押し出すようにして、投げるときは小さく「えい」と言っていた。

そんなことを繰り返すうちに、次第にたまきのボールの飛距離が伸びていった。

そして何度目かの投球で、たまきのボールはガーターに落ちるか落ちないかのぎりぎりのところを転がっていった。

「いけ! そこだ! 落ちるな! 行け! 行けー!」

これは、亜美の絶叫である。

そしてとうとう、ボールはガーターに落ちることなく、一番右端のピンを捉えた。ボールに当たって足元をすくわれたピンは跳ねとび、もう一本別のピンを倒した。

「やったぞ、たまき! 2本も倒れたじゃねぇか! 初めてですごいぞ! おい、ハイタッチだハイタッチ! やったやった!」

この時、志保は自分のボールを取りながら見ていた。

大はしゃぎでハイタッチを求めてくる亜美に対し、たまきもハイタッチで返すものの、顔が全くの無表情だったことに。

そのあと、たまきは最高で6本のピンを倒した。だが、たまきの無表情がほころぶところを、ボウリング場内で志保が見ることはなかった。

「マジかよ……」

志保の話を聞いて、亜美は半ば信じられないといった顔をしていた。ボウリングに行って、初心者とはいえそれなりにピンを倒して、楽しくない人間などこの地球上に存在するというのか。

「でも、あいつ、反応薄いだけで内心では楽しんでたんじゃ……」

「いくらたまきちゃんでも、楽しかったらちゃんと笑うでしょ。誕生日の時は、やっぱり楽しそうだったよ」

そう言われると、誕生日の時は、相変わらず表情は硬かったけれど、たまきなりの笑顔をしていたような気がする。

「あたしが覚えてるのはね、投げるたびになんか、首傾げてたなってことかな」

「自分の投球に納得いってなかったんじゃないの? ほら、あいつ、生真面目じゃん」

「そうかな。あたしには、『これ、なにが楽しいんだろ?』って首傾げてるように見えたけど。むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ」

「なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!」

亜美は、ソファのクッションをバシンとたたいた。

「じゃあさ、ウチがあいつ連れてったゲーセンとか、ビリヤードとか、ダーツとか、ああいうのも……」

亜美の問いかけに、志保は少し考えて、

「帰り道の方が楽しそうだったね」

「だからなんで帰り道なんだよ!」

今度は亜美はクッションを手に取って放り投げた。

「他には……えっと……ここで野球の試合見せた時とか、ロックバンドのアルバム借りてきて聞かせたときとか……」

亜美の問いかけに、志保は静かに首を横に振った。

「今年の夏に、あいつをサーフィンに連れて行こうと思ってたんだけど……」

「やめといたほうがいいんじゃないかなぁ」

亜美は背もたれに思いっきり寄りかかる。

「えー……。じゃああいつ、なにしたら『楽しい』って思うんだよ……!」

なんだか、初めてたまきに出会った頃にも、こんなことを言っていたような気がする。

「でも、ほら、たまきちゃんって絵が好きじゃない。今もどこかで絵をかいてるんじゃない? だからさ、例えば美術館に行くとか……」

「そんなの、ウチが楽しくねーよー!」

「ほらね」

そういって志保は微笑む。

「亜美ちゃんとたまきちゃんじゃ、楽しいって思うことが違うんだよ」

そういうと志保は、体ごと亜美に向き直った。

「自分ばっかり楽しんでないで、もっとちゃんと、周りを見なさい」

「……はい」

亜美にしては珍しく、素直にこうべをもたげた。

「話は変わるんだけどさ……」

そういって志保は亜美に尋ねた。

「車が1台ぐらいしか通れない、小さな道があったとするじゃん?」

「……何の話だよ」

「その道をさ、歩行者がひっきりなしに渡っていくの。で、その歩行者が渡り切るのを、何台もの車が待ってる。亜美ちゃんが歩行者で、その道を渡りたいって思ってたら、どうする?」

「は?」

亜美は質問の意図がよくわからない。

「渡るに決まってんだろ。みんな渡ってんだろ?」

「たまきちゃんはね、そこでずっと待ってるの。みんなが道を渡るのをやめて、車が全部いなくなるのを。みんながちょっと立ち止まれば、車は全部進めるはずだから、って」

「はぁ? 暇なのかよ、あいつ」

そういって亜美は腕を組んだ。

「たとえば道の向こうにからあげがあるとするだろ。そうやってのんびり待ってる間にさ、からあげがなくなってるかもしれないだろ? ウチだったら赤信号でも渡るね」

「信号無視はダメでしょ」

そういって志保は笑う。

「ほらね。やっぱり、亜美ちゃんとたまきちゃんは、違うんだよ」

 

写真はイメージです

南風が桜前線を押し上げ、週末になると東京でも桜が花開き、散りゆく花びらが風を、土を、桜色に染め上げた。

金曜日に、たまきはいつもの公園を訪れた。たまきにも多少の風流な心があったらしく、桜色に染め上げられた公園を絵に描きたいと思ったのだが、平日にもかかわらず、多くの花見客でごった返し、なんだか風に舞う花びらよりも、人の数の方が多いような気がして、たまきは引き返してしまった。

それ以来、たまきはひきこもりっぱなしだ。お風呂に入りに行ったり、コインランドリーに行ったり、外出と言えばそれくらい。

志保は木曜日にバイト先の花見に出かけた。もちろん、同じバイトをしている田代も一緒だったはずだ。

亜美はというと、日曜日が近づくにつれ、誰かと電話したり、メールをしてる時間が長くなった。亜美にしては珍しく忙しくしてて、あまり「城」の中にはいない。正直、たまきとしてはその方がありがたかった。いまだに、亜美とどう接すればいいのかがわからない。

一方で、亜美がどこかへ行き、志保がバイトに行って、一人で「城」の中でお留守番をしているのは、どことなく寂しかった。一人ぼっちにはもう慣れっこのはずなのに。

相変わらず、心のどこかがもやもやしたまんま、たまきは日曜日を迎えた。「城」の中に積まれていた、花見用の段ボールたちは、前日の深夜にどこかへと運び出された。

薄暗い部屋の中でたまきが一人ぼんやりしていると、志保が帰ってきた。志保はこの日、午前中はいつもの施設へ、午後はバイトへと、忙しくしていた。

帰ってきた志保は、ソファに座り、足をソファの上に投げ出した。

たまきは、そんな志保の顔をちらりと見る。

「志保さんは……」

たまきは恐る恐る尋ねた。

「お花見……行かないんですか……」

「この前行ってきたよ」

と志保。

「そうじゃなくて、亜美さんのお花見のことです……」

「行かないよ」

志保はきっぱりと言った。

「誘われたけどね。たまきちゃんが行かないのに、あたしだけ行っても、ねぇ」

たまきは、志保の方を向いた。

「そんな……別に私に気を使わなくても……」

「そうじゃないよ。あたしも、亜美ちゃんのお友達はあまり得意なタイプじゃないもん。いったってどうせ楽しめないし、たまきちゃんが行かないんだったら、なおさらだよ」

そういって志保は笑った。そういえば、クリスマスの時もそんなことを言っていたような気がする。

「そういえば、バイト先の人に聞いたんだけど、この辺の川のそばも、なかなかの桜スポットらしいよ」

「この辺の川、ですか?」

「この辺」に川などあっただろうか。

「そう、あっちの方にね」

と言って志保は、北西を指さした。

「有名な川だよ。昔の歌のタイトルにもなっててね」

と言って志保は軽くメロディを口ずさんだが、たまきはその歌を知らなかった。もっとも、志保の音程が正しかったとは限らないが。

「ここからだと歩いて三十分ぐらい。せっかくだからさ、二人でちょっとお花見してこない?」

「二人で……ですか」

「そう、二人で」

たまきはしばらく黙っていたが、静かに頷いた。

 

写真はイメージです

歓楽街を出て、高架に沿って二人は歩いていく。夕焼け空に照らされた漆黒の高架は、まるで強固な城壁のようにも見える。

いつもたまきが公園へ行くよりも、少し長い時間を歩いた。

コリアタウンを抜け、アジアタウンを抜け、昔ながらの商店街を抜け、やがて二人は、川辺に出た。

そこは川と言っても、コンクリートで模られた道に、水を流しているだけのようにも見える。無機質で直線的な河床とは対照的に、川辺に植えられた桜の木々は花開き、その命を以って春を鮮やかに奏でていた。空はすでに紺色に染まっている。

風に吹かれて舞う花びらが、わずかな街灯の明かりに照らされてきらめく。まるで、朝日を反射して輝く波しぶきのようだ。そのまま花びらは川面へと吸い込まれ、桜色に染め上げる。

川には橋が架かっていて、たもとにはコンビニがあった。二人はコンビニでおにぎりやお菓子、飲み物を買うと、橋の上に立った。桜の枝の向こう側にもう一本、橋があって、その上を電車が走り抜けていった。

川沿いの遊歩道には幾人かの花見客がいて、桜を携帯電話で写真に収めていた。それでも、都立公園の花見客に比べればほぼいないに等しい。この場所を狙ってやってきたのではなく、たまたま通りがかった人たちなのだろう。

二人は、遊歩道のベンチに座った。見上げた桜よりも少し高いところに街灯があり、その明かりは花びらを通り抜けて、志保とたまきの足元を照らしていた。

「きれいだねぇ」

「うん……」

たまきは、散りゆく花びらの一つ一つをぼんやりと見つめていた。何も考えずに、ただ花びらを見つめていた。

ふと、たまきが目線を落とすと、志保がたまきにお菓子を差し出していた。

「ふふ。やっと気づいた。食べる?」

「はい……」

たまきはおかしを受け取り、口にくわえた。

「花びらずっと見てて飽きないの?」

「まあ……」

「ヘンなの」

そう言って志保は微笑む。

たまきは志保を見やると、お菓子をほポリポリとほおばりながら、再び花びらへと視線を戻した。

今ごろ亜美は、公園で大勢の友達とともにどんちゃん騒ぎをしているのだろうか。

志保と二人でのお花見はどんちゃん騒ぎをすることもなく、たまきの心の中はだいぶ穏やかだ。

……穏やかなのだが、どこかさみしさをたまきは感じていた。

それも、不思議なことに、今までたまきが感じたことのないさみしさなのだ。

街の喧騒も、電車の音も、風の音も、何か不完全なものに聞こえるような、不思議なさみしさ。

それは、一人ぼっちの時に感じる、空き缶を押しつぶすようなさみしさとは明らかに違う。

まるで、音の鳴らないピアノを弾いているかのような、物足りなさ。

たまきは視線を落として、そのさみしさをゆっくりと噛みしめていた。

志保はお茶を飲みながら、そんなたまきをじっと見ていたが、やがて背もたれによりかかると、言葉を漏らした。

「やっぱり、亜美ちゃんがいないと、さみしいよねぇ」

その言葉に、たまきは思わず志保の方を見た。

志保は、たまきの考えていることがわかったのだろうか。

それとも、志保もたまきと同じことを考えていたのだろうか。

たまきの感じていたさみしさ。それは、亜美がいないことによるものだった。

志保と二人でのお花見も、決して悪くはない。

だけど、いつもいるはずのもう一人がいない。

いつもの三人じゃない。

たったそれだけで、片腕をどこかに置いてきてしまったかのように世界が物足りなく感じる。

一人ぼっちのさみしさだったら、誰でもいいからそばにいてくれれば、紛らわせるけれど、「亜美がいないさみしさ」は、亜美にしか埋められない。

ほかのだれかでは、代わりにはならないのだ。

志保がたまきに何かを差し出した。今度は、お菓子ではないようだ。

「電話してみよっか」

志保がたまきに差し出したのは、携帯電話だった。

「呼んじゃおっか、亜美ちゃん」

「でも……それは……私のわがままです……」

たまきはそういって下を向く。

「亜美さんも向こうで……友達と楽しく過ごしてるかもしれないのに……私のわがままでこっちに来てほしいだなんて……」

「たまきちゃんだけのわがままじゃないよ。あたしのわがままでもあるんだから」

そういって志保は、優しく微笑む。

「いいんじゃない、たまにはわがまま言っても。どんなわがままだって言葉にしなきゃ伝わんないよ。来るか来ないかを決めるのは亜美ちゃんなんだし。それに、もしかしたら、向こうも同じこと考えてるかもよ?」

「え?」

「そしたら、もう、わがままじゃないでしょ?」

 

写真はイメージです

 

日が暮れてすっかり夜になった。都立公園は漆黒の夜空を桜で覆い隠し、ライトが桜を明るく照らし、大勢の笑い声が彩を添えていた。

その中でひときわ、目を引く一角があった。

ブルーシートの上には、動物園に行けば「ヤンキー」や「パリピ」に分類されていそうな連中が集まっていた。髪を派手に染め上げていたり、そうかと思えば坊主頭だったり、刺青を彫ったり、金属ジャラジャラだったり、サングラスをしてたり。「不良の集まり50人セット」と称して、ドン・キホーテで売られていてもおかしくない。

男に比べれば数は少ないが、女もいる。これまた、セクシーを通り越して、破廉恥の領域に片足を突っ込んだような恰好をしている。

少なくとも、こんな場にたまきが来てしまったら、なじめないどころか、泣き出してしまったかもしれない。

さて、亜美はというと、その中でもひときわ、破廉恥の親分みたいな恰好をしていた。

胸の谷間を強調した、緑のタンクトップに、下はダメージジーンズ。それだけだと寒いので、黒い皮のジャンパーを羽織っている。

金髪はいつものポニーテールをほどいてバッサリと下ろし、キャップを被っていた。

亜美はブルーシートから少し離れたところで、なにをするでもなく、集まった群れを見ていた。

笑い声が飛び交い、紙コップには酒が注がれ、反対にゴミ袋の中には潰れたビールの缶が詰め込まれていく。ところどころに、無造作に開けられたスナック菓子や、チョコの包み紙が置かれていた。

「どうだよ。俺がちょっと声かければ、これだけ集まるんだぜ」

ヒロキが酒を片手に笑う。傍らで赤ん坊を抱いている少女は、ヒロキの嫁だ。確か、亜美よりも年下だったはず。

「亜美さん、お疲れっす」

声をかけられて、亜美は振り返った。シンジというひょろ長い男が、女を連れて立っている。

「んあ、来たの」

「そりゃ、亜美さんに来いって言われたら、来るに決まってるじゃないっすか、ねぇ」

確かこいつは最初、来れないとか言ってたはずだった気がするが、なんだか今の亜美にはどうでもよいことに思えた。

亜美がやっていることは援助交際とはいえ、知らないオジサン相手におバカな子ネコちゃんを演じて小遣いをもらうような小娘の遊びとは違う。身一つでこの街に流れ着いた亜美にとって、それは生きていくための稼業に他ならない。

ほぼ無一文だったころは、カネをくれるのであれば「誰とでも」だったが、ある程度金が手に入ると、客を選ぶようになった。

誰とつるめば、どんなグループに身を置けば、この街で自分の座る椅子を確保できるか。

不良がたむろするこの街で、自分と同じ匂いをまとった連中を見つけるのは、そう難しくはない。その中で、どのグループに近づけばいいか。この街の中でそれなりに力があって、亜美のような人間がすんなりと溶け込めそうなグループ。力と言ってもそれは必ずしも暴力を指すとは限らず、経済力だったり、人脈だったり、情報網だったりする。

そうして、自分の居場所となるグループを見つけたら、なるべく、ボス猿の近くへと行く。

そのころにはすでに、亜美が援助交際をしているという事は知られていたので、当然、ボス猿やその取り巻きからもそういう目で見られる。一緒に酒を飲んで話していれば、次第に向こうから誘ってくる。金を出して誘えばノッテくる、「どうせそういうオンナだ」と思われていたのだろうが、亜美としても、自分から誘惑する手間が省けるので好都合だ。どうせ恋愛をするつもりなど最初からないし、相手が自分のことを手頃な玩具程度にしか思わなかったとしても、別に構わない。こっちだって手頃な番犬程度にしか思っていないのだから。

問題は、そのあとである。いかに相手を満足させるか。一夜限りのおもちゃなどで終わらず、いかに深い関係となるか。「情婦」としても、「飲み友達」としても。

ボス猿集団と常日頃から仲良くし、ベッドを共にし、軽いオンナというイメージを持たれる一方で、ボス猿集団よりもランクの劣るサルたちの誘いには応じなかった。

後ろ盾ができたからだ。ランクの劣る男たちの誘いを無碍にしても、「あいつはボスのオンナだから」の一言で許される。

そうすることで、次第にグループの中での亜美の立ち位置も変わってきた。ボスのお気に入りで、ボスやボスに近い連中としか誘いには応じない。それより下の男たちにとっては、亜美は決して手を出すことが許されない、高級娼婦のような高嶺の花。

ブランドのバッグのなにがそんなにすごいのかわからないけど、とりあえずハリウッド女優が持ってたからほしい、でも高くて買えない。でもいつかは欲しい。それと同じ理屈だ。

そうして亜美は、この街に自分の椅子を作ってきた。

花見だの、クリスマスだの、クラブのパーティだのといったイベントごとは亜美にとって、自分のこの街での立ち位置を確認するという側面もあった。自分がどういう立ち位置にいて、どれほどの影響力を持っているのか。

亜美には、王様がピラミッドを作らせたり、マスゲームをさせたりする理由が、ちょっとだけわかった。きっと、お城の中で玉座に座って、王冠をかぶっているだけでは、自分が本当に王様なのか自信がなくなってしまうのだろう。たくさんの人間が、自分の一声で集まり動いているところを見ないと、自分が王様だと信じられないのだ。

そして、今見ている光景はまさに、彼女が楊貴妃であるという事を確かめるには十分なものだった。

なのになぜだろう。何かが足りないと感じてしまうのは。

ここは自分の国で、そして自分は王様なのに、見知らぬ国にいるような気がして仕方がない、そんな物足りなさ。

亜美はどうにも、集まったサル山の中に入って共に騒ぐ意欲が、不思議と涌かなかった。

ふと、視界の端に目を向けると、ミチの姿があった。彼もまた、ヒロキに「絶対に来いよ」と脅され、亜美に「お前、来るよな」と念を押された、哀れな下っぱ猿の一匹だった。

ミチは誰かと話していた。相手はどうも、亜美たちが呼びつけた仲間ではない。

年は六十以上だろうか。煤けた顔には濃いしわが刻まれている。白髪頭にキャップを被っている。どうやら、ホームレスらしい。

「すいませんね、なんか、騒がしくしちゃって」

「なぁに、公園はみんなのものだ、わしらのものじゃない。好きに使うがいいさ」

そういって老人は笑う。話しぶりからして、どうやら二人は知り合いのようだ。

ミチのやつ、ホームレスと一体どういう知り合いだろう、と少しだけ興味を持った亜美は、ミチに近づいてみた。

「よっ、なに、しりあい?」

亜美が声をかけるとミチが振り向く。一方のホームレスは、

「じゃあ、そろそろ出かけるとするか」

と傍らの自転車に手をかけた。

が、ふと動きを止め、亜美の方をじっと見た。

「な、なんだよ」

「あ、いや、亜美さん、この人、別に怪しい人じゃなくて……」

老人は亜美の顔をじっと見ると、

「お前さん、どこかで会ったか?」

と尋ねた。

「あ?」

「いや、会ってはないな。だが、どこかで見た気がする。さて、どこだったか……」

亜美は一時期、お金がないとき、ホームレス相手に「シゴト」をしていたこともあったが、このホームレスとは会っていない。あのとき相手していたのは、もっとだらしなさそうなおっさんばかりだ。

一方の老人は不意に「ああ、そうか」と一人合点したように笑った。そして亜美の方を見ると

「お嬢さん、今日はずいぶんとさみしそうだな」

とだけ言い残すと、自転車をこいで、公園の闇の深い方へと消えて行ってしまった。

「は……」

「あ、あの、ほんとに変な人とかじゃないんで……」

ミチが取り繕うように言葉を添えるが、亜美は無視して歩き出した。

呼びつけた仲間たちのそばへと戻っていく。

ああそうか、自分はさみしかったのか、と亜美は一人で納得した。

自分が一声かければ、これだけの人数が集まる。

なのに、志保とたまきは来なかった。

別に来なくてもよかった連中ばかりが集まって、本当に来てほしかった二人は来なかった。

たまきに「お花見には行きません」と言われて以来、どこかさみしさを抱えていたのは、たまきが「本当に来てほしかった友達」だったからだ。

たまきに「いいから来いよ」なんて言えなかったのは、亜美にとってたまきが、単なる頭数合わせなどではなく、「本当に来てほしかった友達」だからだ。つまらなそうにしててもとりあえず人数がそろえばいい、などと言うのではない。純粋に、一緒にお花見を楽しみたかったから、「嫌々来ている」では意味がないのだ。

たまきに断られた後、たまきとの接し方がわからなくなってしまったのもその「嫌々来ている」をずっとたまきに強いてしまっていたのではないかという、後悔からくるものだった。

ふと、携帯電話が鳴った。

画面を見てみると、志保からだった。

確か、たまきと一緒に「城」にいるはずである。今からでも来るのかと思ったけれど、たまきを置いて一人で来ることはないだろう。

「もしもし?」

「あ、亜美ちゃん? 今、お花見中?」

「そうだけど……」

電話口の志保の向こうに、電車の駆け抜ける音が聞こえた。

「ん? お前、外にいるのか?」

「うん。いま、たまきちゃんと二人でお花見中」

「お花見?」

「そう、二人で」

「そう……」

「それでね、たまきちゃんが亜美ちゃんに言いたいことがあるんだって」

「……たまきが」

「うん。……亜美ちゃん、覚悟して聞いた方がいいよ。それじゃ、代わるね」

しばし、沈黙が流れる。

「あ、あの……亜美さん、こんにちは……」

「……おう」

たまきはなんだか、初めて亜美と話すような口ぶりだ。亜美も、たまきの声を聴いたのは、久しぶりだったような気がする。

「あの、亜美さん……」

たまきはそこで、一呼吸置いた。

「亜美さんも……こっちに来ませんか……」

「え?」

再び、沈黙が流れた。

「こっちで一緒に……お花見しませんか……その……三人で……」

「……バーカ」

亜美は、どこか力なく言った。

「ウチ、これでも幹事だぞ。抜けられるわけねぇだろ」

「そうですよね……。ごめんなさい、わがまま言って……」

「……お前らさ、今、どこいんの?」

「え? えっと……ここ……どこなんでしょう?」

たまきは振り返って、志保に尋ねた。

「あの……、東中野駅の、川のそば、だそうです」

「だそうですって、なんでお前、自分がいる場所、わかってねぇんだよ」

そういって、亜美は笑った。

 

携帯電話をポケットにしまうと、亜美はブルーシートの上のサル山を見やった。

あちらこちらで笑い声が起きる。全員が同じ方を向いているのではなく、いくつかのグループに分かれ、そのグループもやはり、集団内の序列ごとにまとまっているように見える。まさに、サル山だ。

亜美はサル山を見つめていたが、ふと目線を落とすと、半歩後ずさった。

誰も亜美に声をかけるものはいない。

一歩、二歩、亜美はゆっくりと、路面に丁寧に足跡を刻むようにゆっくりと、集団から離れてみた。

誰も亜美に声をかけない。

三歩、四歩、五歩六歩七歩八歩。

亜美は少しずつ歩調を速めるも、誰も、亜美を引き留めない。そもそも、亜美が少しずつ離れていることに、気づいていない。

「……んだよ」

亜美が声をかけてこんなに集まったのに、亜美がその場を離れようとしても、誰も声をかけない。

九歩、十歩、十一歩十二歩十三歩。

夜の漆黒の周りを桜色が縁どる空に、亜美のスニーカーが砂利を踏みしめる音が響いた。

そのまま砂利を磨り潰すように回れ右をすると、亜美は集まった輩に背を向けて、勢いよく走り出した。

スニーカーが激しく地面をたたく。その度に桜の花びらがわずかながらも地面から舞い上がる。

公園から道路へと向かう坂道を、亜美は一気に駆け抜けた。

道路に出て、横断歩道に差し掛かる。信号は赤。車は、数十メートル先に、一台近づいているだけだった。

亜美は構わず、横断歩道に躍り出た。

横断歩道から少し離れていたところを走っていた車のライトが、亜美の姿をかすめるように捕らえる。亜美と車の間にはかなりの余裕があったが、車はクラクションを鳴らす。

クラクションをかき消すように、亜美は舌打ちをした。

うるせぇな。今すぐぶつかるようなキョリじゃねぇだろ。ちょっとぐらい待ってろ。

こっちはな、今行かなかったら、二度とあいつらとお花見なんかできねぇかもしれねぇんだよ。

横断歩道を渡り切ると、亜美は縁石を飛び越えて歩道へと着地する。背後を先ほどの車が駆け抜けていくが、亜美は目もくれずに、ビルの隙間の路地へと踏み出した。

どうして王様の景色を捨ててまであの二人とお花見がしたいのか、どうして自分は走っているのか、亜美にもその理由はわからなかった。

それでも、胸が高鳴る理由が、走っていることで酸素を欲している、だけでは決してないことはわかった。

たぶん、たまきに何かを誘われたのなんて、初めてかもしれない。

それがなんだか、嬉しかった。

 

写真はイメージです

桜の花開く川沿いは、さすがに川のせせらぎが聞こえるほどではないけれど、それでもすぐ近くの都心に比べれば、静寂に包まれていた。

志保はお菓子の袋を手に持ち、それをたまきの方にも向けていたが、たまきの様子を見て、思わず笑ってしまった。

たまきはしきりに、川下の方に視線を飛ばしていた。

「そんなに亜美ちゃんが来ないか気になる?」

その言葉にたまきは、驚きと気恥ずかしさを隠さなかった。

「べ、別に、そういうわけじゃ……それに、断られましたし……」

「どうかな、あんがい来ちゃうかもよ。でもね」

そういって志保は優しく微笑んだ。

「来るとしたら、そっちじゃないと思う」

「えっ」

たまきはもう一度、「そっちじゃない」と言われた方角を見やった。

「だって、私たち、こっちから来て……」

「でも、亜美ちゃん、公園にいたんでしょ。だったら、来るのはこっちじゃなくてあっち……」

そういって、志保が川上を指さした時、ちょうどその方角から、何者かが

「とうっ!」

と跳び上がった。道路から川沿いの遊歩道へと続く段差を飛び越えたのだ。

そのまま、すたっと着地を決める。

「え?」

「亜美ちゃん?」

志保とたまきが、同時に目を見開いた。

「はあ……はあ……、疲れた……走ったー!」

亜美は肩を落とし、胸で大きく息をしている。

「亜美ちゃん、走ってきたの?」

志保の問いかけに、亜美は無言で頷く。

「ズボンがボロボロですよ? 途中で転んで破けちゃったんですか?」

「バーカ、ダメージジーンズだよ!」

「……え?」

「最初からこういうデザインだっつーの!」

「はあ……」

どうしてわざとぼろぼろのジーンズを作るんだろう、とたまきは疑問に思ったが、それよりももっと気になる疑問があった。

「亜美さん、どうしてこっちに来たんですか?」

「お前が来いって言ったからだろ!」

「でも、幹事だから抜けられないって……」

「あー、思ったほどそうでもなかったわ。はっはっは」

それを聞いたたまきは、志保の方を振り向いて、少し得意げな顔をした。

「どうです、志保さん。私が一声かければ、亜美さんだってきちゃうんですよ?」

「ほんとだね。すごいよ、たまきちゃん」

珍しくどや顔のたまきだったが、不意に背後から亜美の手が伸び、たまきにチョークスリーパーホールドを仕掛ける。

「『亜美さんだって』ってウチ以外お前の一声で誰が来るんだよ!」

「ご、ごめんなさい! 一度言ってみたかったんです!」

「あ、あたし、たまきちゃんの一声で来ちゃうよ」

「二人だけじゃねぇか!」

「でも、舞先生もよく、たまきちゃんの一声で来るじゃない。『また切っちゃいました』で」

「リスカの手当てに来てるだけだろそれ!」

亜美は一通りたまきをいじめると解放した。今度はたまきがハアハアと息をつく。

「でも……二人だけでもうれしいし……二人だけで……十分です……」

そういってたまきは、恥ずかしそうに笑った。

「この三人が……いいです」

「じゃあ、亜美ちゃんも来たことだし、乾杯しよっか」

志保は、傍らのレジ袋の中から、コーラの缶を取り出した。

「なんだよ、酒はねぇのかよ」

「あるわけないでしょ」

亜美は不服そうにコーラを開ける。

「それじゃあ、我らの変わらぬ友情を祝して、乾杯!」

「カンパイ」

「……かんぱい」

缶同士が軽くぶつかり、こすれる音がする。

「変わらぬ友情」というけれど、あの頃よりは何かがちょっと変わってるんじゃないか、そんなことをたまきは考えていた。

 

亜美はコンビニでからあげを買うと、ベンチに腰掛け、もりもりと頬張っていた。そんな亜美を挟むように、右側に志保、左側にたまきが座る。

「ところでさ、たまき」

「はい?」

亜美は隣のたまきを、のぞき込むように顔を向ける。

「お前、年末に行ったボウリング、楽しくなかったってマジか?」

「え……まあ……」

たまきは申し訳なさそうにうつむくと、わずかに首を縦に動かした。

「なんでだよ! ボウリングだぞ! 何がそんなに不満なんだよ」

「え……だって……ボウリングってボール投げるじゃないですか」

「そりゃそうだろ。ボウリングだもんよ」

「転がるじゃないですか」

「あたりまえだろ」

「ピンに当たって、倒れるじゃないですか」

たまきはそこで言葉を切ると、亜美の方を見た。

「……それで、どうすれば……?」

「どうすればってお前、そこで喜ぶんだよ」

「……なんで喜ぶんですか?」

「なんでって、ボールが当たってピンが倒れたら喜ぶだろ!」

たまきは困ったように志保を見た。

亜美も困ったように志保を見る。

志保は困ったようにはにかんだ。

「つまりたまきちゃんが言いたいのは、投げたボールが転がって、当たったピンが倒れるのは当たり前だから、それで喜ぶのはヘンじゃないか、ってこと?」

たまきは無言で、こくりとうなづいた。

「当り前じゃねぇだろ。お前、最初ガーター連発だったじゃねぇか。ピンに当たるようになるまでけっこうかかっただろ」

これまたたまきは、無言でうなづく。

「ボールがまっすぐ転がってるとき、たまきちゃんはどう感じたの?」

「ああ、まっすぐ転がってるなぁって……」

「そのあと、ピンに当たって2本倒れたろ」

「ああ、ピンが倒れたなぁって……」

たまきは二人の目を見た。

「それで……どうすれば……」

「そこで喜ぶんだよ!」

「……なんでですか?」

「それがボウリングだろ!」

たまきは、わからない、といった感じで二人を見る。

「お前、なにしたら楽しいって思うんだよ」

「……昔もそれ、聞かれた気がします」

たまきは下を向いた。前髪がたまきの目を、眼鏡ごと覆い隠す。

「今、こうしてるのは……楽しいですよ」

満月の下でお酒を飲んだ夜、シブヤに行ったときの夕暮れ、誕生日を祝ってもらった夜、真夜中に散歩して、日の出を見た明け方、一年にも満たない日々だけれど、亜美と志保に出会う前よりも、思い出ははるかに増えた。

「私……ちゃんと楽しんでますよ……」

「そっか」

たまきの顔を見てどこかほっとしたように、志保は笑った。

「あたしも、楽しいよ。亜美ちゃんは?」

志保に聞かれた亜美は、恥ずかしそうに笑った。

「これで酒があったら最高だけどな。ま、からあげがあるから、よしとするか」

ふと、亜美は先日のやり取りを思い出していた。

『むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ』

『なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!』

特別なことなんて何もしなくていい。

この三人で、同じ時間を過ごすこと。

このなんでもない時間こそが、たまきにとって楽しかったんだ。

「ウチも、まあ、楽しいよ」

そういって亜美は空を見上げた。桜の花びらの向こう側に、いつかの夜のように、まあるい満月が見えた。

つづく


次回 第32話「風吹けば、住所録」

「城」に、特にたまきの身に大事件が勃発! たまき16歳の「ひとりでできるもん」、開幕! 続きはこちら!


第31話あとがき


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第30話「間違いと憂欝の桜前線」

自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。「あしなれ」30話目、スタート!


第29話「パーカー、ときどきようかん」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「ねえ、これ見て見て! どうしたと思う?」

「城」の中へと戻ったたまきと亜美に、志保はカバンを見せつけた。今まで志保が持っていなかったカバンだが、たまきの乏しいおしゃれ語彙力では「見知らぬカバン」以外の言葉が見つからない。

「えっと、どうしたんですか、このカバン」

たまきの問いかけに、隣にいた亜美が

「聞かねぇ方がいいって」

と忠告したが、それを言い終わるより早く志保は、

「カレからもらったの! やだもう! 言わせないでよ!」

というとたまきの肩を強くたたいた。

亜美の大袈裟な舌打ちが聞こえる。

カバンなんかもらって、何がそんなにうれしいのか、たまきにはわからない。 そもそも、志保はほかにもカバンを持っていたはずだ。そっちのカバンはどうしたんだろう。穴でも開いてしまったのだろうか。

「ウチ、タバコ吸ってくるわ」

すでにたばこのヤニをはらんでいるかのような声で亜美は言うと、部屋を出て行ってしまった。

たまきは「城」の中を見渡す。いつもに比べるとやけに片付いていて、なんだか今まで自分が暮らしてきた場所とは違うところみたいだ。

どことなく、「踏み荒らされた」そんな気がした。片付いているのに「踏み荒らされた」だなんて変な感じがする。

なんとなく居心地が悪いままにたまきがソファに座っていると、志保が正面のソファに腰を掛けた。

「それで、たまきちゃんはそのパーカー、誰からもらったの?」

「ふえ?」

弾丸が心臓に正確に命中した、そんな気がした。

「どど、どうしてもらったって……思うんですか?」

危うく「どうしてもらったってわかったんですか」と言いそうになったたまきだったが、すんでのところで言葉を変えた。

「だってたまきちゃん、自分じゃお洋服買わないじゃん」

「そ、そうなんですけど……」

「それに、自分で買うとしても、たまきちゃんが選ぶ色って大体、ブラックとかグレーとかじゃん。ブルーは選ばないでしょ」

たまきは視線を落とす。自分がいま身に着けている、黒いスカートと灰色の靴下が目に入った。

「その……ミ、ミチ君のお姉さんにもらったんです」

嘘ではない。ミチは「姉ちゃんと一緒に選んだ」といったのだから。

「どうしてミチ君のお姉さんが、たまきちゃんにパーカーをくれるの?」

「さ……さあ……」

「ふーん」

志保の表情からは、志保がたまきの答えをどう判断したのかはうかがい知れない。

「そのパーカーだったらさ、インナーもそれに合わせたやつ着た方がいいよ」

「……はあ、そうなんですか」

「今度、一緒に買いにいこっか」

「は……はい」

よくわからないが、たまきは今度、志保と一緒にウインナーを買いに行くことになったらしい。ソーセージじゃダメなのだろうか。

 

その日の夜。

亜美はどこかに出かけたまんま帰ってこない。志保はソファの上でタオルを二枚かけて寝ている。

たまきも同じようにして寝ているのだが、この日はなかなか寝付けなかった。

昼間の田代との会話が頭から離れない。面と向かってそう言われたわけではないけれど、たまきたちがこの「城」にいることは間違っている、そんな気がした。

いや、こればかりは「そんな気がした」ではない。たまきたちが「城」で暮らしていることは、事実として「間違っている」のだ。

まず、三人とも家賃を払っていない。不法占拠であり、間違いなく違法行為だ。おしゃれ警察どころか、本物の警察に逮捕されてしまうかもしれない。

おまけに三人とも未成年だ。世間的にはやっぱり、未成年というのは保護者のもとで生活しなければいけないんじゃないか。

亜美はエッチなことをしてお金を稼ぎ、志保は薬物依存で、たまきは自殺未遂を繰り返す。間違っていることだらけである。

間違っていることは、してはいけないのだ。

ところが、間違っているからと言って、家に帰るわけにはいかない。家に帰ってしまったら、たまきはとても生きていける自信がない。

死にたがりでおなじみのたまきだけれども、家で死ぬことだけは嫌だ。家ではないどこか別の場所で死にたいのだ。

そもそも、たまきが死にたかったのは、あの家にいたからなんじゃないか。たまきが死にたい死にたい言いながらも今日まで何となく生きているのは、あの家を離れたからなんじゃないか。

となると、たまきという人間は、「家出して帰らない」という間違ったことをしていかないと、生きていけないということになる。

今までたまきにかかわった大人の多くが、こういってきた。「命を粗末にしてはいけない」と。なぜなら、生きているということはただそれだけで素晴らしいことなのだから。

ところがたまきは、「生きる」という素晴らしいことをするためには、どうしても間違ったことをしなければいけないのだ。

間違ったことをしないと生きていけない。それでも生きることは素晴らしいのだろうか。

たまきは狭いソファの上で器用に寝返りを打つ。

そういえば、前に仙人がこんなことを言っていた。「自分がしたことが間違ってると思うなら、したいようにすればいい」と。

たまきがやっていることは間違っている。

たまきは正しいことをしたい。

なのに、たまきは正しいことであるはずの「家に帰る」を絶対にしたくない。

間違っているとわかっているのに、間違っていることはしたくないのに、間違ったことをするしかない。

やっぱり、たまきみたいな子は死ぬしかないのだろうか。

その時、ドアが急に開いて、部屋の電気がぱちりとついた。

たまきはそっちの方を見る。メガネをかけていないから視界がぼやけているけど、どうやら亜美のようだ。

「なんだ、たまき、起きてたのか」

その声は紛れもなく亜美だった。たまきはメガネをかける。やっぱり亜美だ。

たまきの視界の傍らで、志保が起き上がった。

「何……どうしたの……?」

「わりぃ。起こしちゃったか。いや、今度の花見で使うやつ、ここに置くことになってさ。今運んでもらってるんだよ」

そういうと、「城」の中に段ボール箱を抱えた男たちが入ってきた。

「何入ってるの、これ?」

「レジャーグッズとかだよ。あと、酒類。ああ、シンジ、花火はそっちに置いといて」

シンジと呼ばれた痩せた男が、抱えた段ボールを床に置く。

「花火? その段ボールの中、全部花火なの?」

「そうだよ」

花見で使うにはずいぶんな量である。亜美は爆弾テロでもするつもりなのだろうか。

「お花見って、花火するんですか?」

お花見なんてやったことのないたまきが、志保に尋ねる。

「さあ……、もう、お花を見るつもり、ないよね」

深夜に、雑居ビルの無人のはずの部屋に、人知れず運び込まれた、爆薬入りの段ボール。ここだけ聞くと、やっぱりいつ警察が来てもおかしくない気がしてきた。

「お花見はいつやるの?」

と志保が尋ねる。

「再来週か……早くて来週だな。さっき予報見たら、なんか予定より早く咲くんじゃねぇかって言ってるんだよ」

そういってから亜美は志保に、

「お前は来るか?」

と尋ねた。

「うーん、バイト先のお花見と被るかもしれないし~」

「なんだよ。バイト先なんてそんなのバックレ……」

そういってから亜美は、ふとあることに気づく。

「そうか。バイト先の花見ってことは、ヤサオも来んのか」

「ヤダもう! 亜美ちゃん! 言わせないでよ!」

そういうと志保は亜美にぬいぐるみを投げつけた。

「いや、お前、なんも言ってねぇだろ」

亜美はぬいぐるみを片手でキャッチする。

「そっか。お前こねぇのか」

「まだわかんないけどね。スケジュール次第」

「たまきも来るのに残念だ」

「へ?」

たまきはあいまいな返事をしただけなのだが、亜美の中ではもう、お花見に来ることになっているらしい。

正直、亜美とその「悪そうな友達」がやるお花見なんて、行きたくない。全くなじめずに、お地蔵さまのように固まって、たたずんでいるだけの自分が容易に想像できる。

かといって、きっぱりと断ることもたまきにはできなかった。

たまきみたいな友達のいない子にとって、お花見のようなイベントに誘われるということは、とてもありがたいことなのだ。たとえ、絶対にその場になじめないとわかっていても。だから、どうしても断ることができないのだ。

こういう時、亜美や志保だったら、誘われても行きたくないと、きっぱり断ることができるのだろうか。

 

朝になった。

結局、たまきはあのあと横になったらすぐに眠ってしまった。

眠って、朝になったからと言って、寝る前の悩みは別に解決してはいない。

どうして人間には、眠っている間に悩み事を勝手に考えて、起きたら答えが出ている、そんな機能が搭載されていないんだろう。そうしたら、毎日ごろごろしているだけのたまきなんて、今頃お悩み解決の大先生になれたかもしれないのに。

目覚めたからといって、たまきは別にやることもないので、ごろごろしている。

やることがないので、どうしても悩みを考えてしまう。

とはいえ、夜に考えていたことは、朝になっても答えが出ない。そのままお昼になったけど、やっぱり答えが出なかった。

そうだ、仙人に聞いてみよう。仙人だったらきっと、答えを知っているはずだ。

たまきは立ち上がると、何やら携帯電話をいじっている志保を見た。

「あの……ちょっと出かけてきます……」

 

写真はイメージです

いつもの道をとぼとぼ歩き、たまきは公園へとたどり着いた。公園の中の仙人が暮らす「庵」へと向かう。

庵の前では、何人かのホームレスたちが行ったり来たりしていた。だけど、仙人の姿は見当たらない。いつもなら庵の前に椅子を出して、カップ酒でも飲んでいるのだが、今日は姿が見えない。

たまきはなけなしの勇気を振り絞って、そばにいたホームレスに話しかけてみた。何度も「庵」に来るうちに顔見知りにはなったが、話したことはほとんどない。

「あ、あの……その……仙人さんはいませんか……」

ホームレスが足を止めて、たまきの方を向く。

「ああ、仙さんね。仙さんなら、シゴトに行ったよ」

仙人の仕事というのは確か、街中を一日中駆けずり回って、空き缶を集めるというものだった。だったら、当分帰ってこないのだろう。

「そうですか……」

当てが外れたたまきは、下を向いた。

「お嬢ちゃんが来たこと、仙さんに伝えておこうか?」

「いえ……いいです……」

そういうとたまきは、軽く頭を下げて、「庵」を後にした。

とぼとぼと歩きながら、いつもの階段に一人腰を下ろす。

考えてみれば、仙人には仙人の生活があり、都合があるのだ。いつもいつもたまきの都合の良いときにいてくれるわけではないし、いつもいつもたまきの相談を聞いてくれるとも限らない。

そもそも、自分は仙人にいったい、何を尋ねるつもりだったんだろうか。

たまきがしていることは間違っている。たまきはどうしたらいいのか、そんなことを聞こうとしていたのだろうか。

でも、もし仙人が、たまきのやっていることは間違っているのだから、今すぐパパとママのところへ帰れと言っても、たまきはかたくなに首を横に振り続けただろう。

そう、「どうしたらいいか」の答えは最初から決まっているのだ。いや、違う。誰に何を言われても、誰に間違いを指摘されても、それでもたまきは家に帰りたくないのだ。そう、仙人に相談したところで、誰に相談したところで、たまきは答えを変えるつもりは全くないのだ。

もしかしたら、ただ単に「お嬢ちゃんは間違ってなんかいないよ」と言ってもらいたかっただけなんじゃないだろうか。志保が田代のことをいろんな人に相談して回ったように。

そんなことを考えてみると、階段の上の方から

「よっ」

と、声がした。見上げてみると、そこにはギターケースを担いだミチの姿があった。

「……こんにちわ」

「今日は絵、描いてないの?」

「……まあ」

「ふーん。あ、そのパーカー、着てくれたんだ」

ミチはたまきが来ている、薄群青のパーカーを指さす。

「……まあ」

ミチはたまきの隣に腰掛ける。たまきはすっと横にずれて、間隔をあけた。

ミチはギターを取り出して、チューニングを始めている。

「あ、あの……」

たまきは少しミチの方へと顔を向けていった。

「ん? どしたの?」

「ミチ君は……自分のやってることが間違ってるって思ったこと……ありますか?」

「また、ヘンなこと聞くね」

そういってミチは笑った。

「もちろん、あるさ」

「それってどんな時ですか……?」

「……まあ、去年のクリスマスに、たまきちゃんに怒られた時かな」

「ああ……、そうでしたね」

たまきは、ミチの方へとむけていた視線を、正面へと戻した。そういえば、そんなこともあった。ミチが人妻と不倫して、相手のダンナにボコボコに殴られて、そのあと……。

そこでたまきは、あることに気づいた。

「……ということは、不倫してた時も、殴られてた時も、間違ったことをしているとは思ってなかった、ってことですか?」

「たまきに怒られた時点で、間違ってると思った」という話から解釈すると、そうなってしまう。

「え? ああ、その、えっと……や、やだなぁ、そんなわけね……ははは」

ミチの乾いた笑いを聞いていたら、こんな男からもらったパーカーを着ていることが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。クシャクシャに丸めてこの場でたたきつけて返そうかとも思ったけど、このパーカーはミチからだけではなく、ミチのお姉ちゃんからのプレゼントでもあるのだ。ミチのお姉ちゃんは、たまきをネコ扱いしていることを除いては、たまきのような子にいつも焼きそばを作ってくれるステキな人なのだ。そのような人からもらったものを粗末にしてはいけない。

たまきは、パーカーのチャックをキュッと閉めた。

「そういえば、たまきちゃんもお花見来るんだって?」

「ほえ?」

どうもたまきは、核心を突かれたり、予期しない質問が飛んできたりすると、ヘンな声が出てしまうらしい。多分たまきは、国会議員には向いてはいないだろう。都合の悪い質問をされるたびに、「ほにゃ?」とか言ってしまうに違いない。そもそも、人前で演説すること自体が無理だ。自分の写真が選挙ポスターになって、町中に貼られてるなんて、考えられない。

「……まあ」

いつも通りのあいまいな返事を繰り返すたまき。

「場所って、この公園だよね。ここってお花見スポットで有名だし」

「そう……なんですか……」

たまきは頭上を見上げる。夏ごろからよく来ていたこの公園の木が、実は桜であるということを、たまきは今、初めて知った。

「たまきちゃんさ、亜美さんから、何人ぐらい来るか聞いてない?」

「さ、さあ……」

「そっか。俺、センパイからのまた聞きだから、よくわかってねぇんだよなぁ。日にちもまだ決まってないんだろ。バイトのシフトはもう決まっちゃってるから、かぶったら行けないかもなぁ」

そうか。たまきも何か別の用事があればよかったのだ。志保だって、バイト先の花見と被るかもしれない、なんて言っていたではないか。何か別の用事があれば、亜美の誘いを断ることができるし、先約があるならしょうがない、と亜美に嫌な気持ちをさせることもないはずだ。

問題は、「城」にしか居場所のないたまきにとって、別の用事なんかない、ということである。何か用事を無理やりでっち上げても亜美のことだ、「そんなの別の日にすればいいじゃん」とか言って、強引に花見に連れて行こうとするのではないか。

ミチはギターの弦をいじっていたが、やがて、たまきの方を向いた。

「あれ? もしかしてたまきちゃん、花見行きたくない?」

「ほへ?」

またヘンな声が出てしまった。

「ど、どうして行きたくないって……」

そういってからたまきは少し考え、

「……わかったんですか?」

と言い足した。

「いや……なんとなくだけど……なんかたまきちゃん、乗り気じゃないような気がしたから……」

ミチは、ギターの弦に視線を落としながら言った。

「そもそもたまきちゃんって、なんか大勢と一緒にいるときは、あんまり楽しそうじゃないかなって。っていうかそもそも、人が大勢いるとこには、たまきちゃんってほとんどいないよね」

たしかに、祭りだパーティだの時は、わざわざ人のいないようなところに移動するたまきである。

ミチは、ギターをいじる手を止めた。

「いいんじゃね? 行きたくないなら、行かないで」

たまきは無言のまま、ミチの方を向いた。

「だって、花見って楽しむためにやるんだもん。楽しめないなと思ったら、行かなくていいんじゃね?」

「で、でも、せっかく亜美さんに誘ってもらったのに……、悪いです……」

「ああ、わかるなぁ、それも」

ミチはそう言って、笑った。

「俺もさ、センパイに誘われて、クラブとかに行くのよ。未成年でも入れる、クラブ風のイベント。でもさ、俺、クラブミュージックとか、全然好きじゃねぇんだよ。ダンスとかもやったことねぇし、酒代もやたらかかるし」

一か所、法的にちょっとおかしい部分があったが、たまきはスルーした。今のたまきは、人の間違いを指摘できるような気分ではないのだ。

「でも、センパイの誘いだから断れねぇんだよな。メールとかには『お前も来る?』って書いてあるんだけど、ほんとは『まさか来ないなんて言わねぇよな』って書いてあるような気がしてさ。おまけにさ、行ったら行ったで、もうこれ以上は飲めねぇよ、ってタイミングでセンパイが肩ガシッとやってさ、『おい、飲んでるか? ちょっと足りないんじゃねぇか? おごってやるから遠慮せずに言えよ』って言われると、『じゃ、じゃあ、もう一杯』って言わなきゃいけないんよ。今度は『後輩に気前よくおごるセンパイ』って演出に付き合わなきゃいけねぇんだよ」

チャラ男の世界で生きていくのも、なんだか大変である。

「でも、たまきちゃんと亜美さんの関係って、そういうんじゃないと思うんだよなぁ」

「そ、そうなんですか?」

「俺なんかはさ、ぶっちゃけ、頭数要員なわけよ」

「……あたまかず、ですか?」

「そ。誰でもいいから、人数が集まればいい、ってわけ。『俺が一声かければ、これだけ集まるんだぜ』みたいな。だから断るとさ、『俺の顔に泥塗りやがって』みたいなこと言われちゃうわけよ。『お前が来ないとつまらない』じゃねぇんだよ。『俺の顔に泥塗りやがって』なんだよ。ま、アクセサリーみたいなもんだね。ジャラジャラいっぱいつけてるヤツがえらい、みたいな」

たまきは無言のまま、ミチを見ていた。

「でも、たまきちゃんと亜美さんって、そういうんじゃない気がする」

「まあ、私は……地味ですから」

たまきなんてアクセサリーとしては、安物のヘアピンみたいなものだろう。目立たなさすぎて、そもそもつけてることに気づかれないようなやつだ。

「そうそう、たまきちゃんはアクセサリーってタイプじゃないよ」

ああ、やっぱり。

「たぶん亜美さんは、本当に来てほしくて誘ったんじゃないかな」

「ふぇえ?」

そういわれて驚いたたまきだったが、よくよく考えてみると、確かにそうかもしれない。

だって、たまきなんか誘って来てもらったところで、何の自慢にもならないのだ。

「ウチが一声かければ、たまきだって来るんだぜ」と亜美が言ったところで、何の自慢にもならない。

そう、たまきがイベントやパーティに来たところで、何の自慢にもならないのだ。学校にいた時、誰からも何の誘いもなかったのは、たまきなんか呼んでも、何の自慢にもならないからだ。

それでもたまきを誘うというのは、少なくとも頭数合わせではない、と考えてみてもいいのではないだろうか。大体、たまきは影が薄すぎて、たまきみたいな子をいくら集めても、頭数にはならない気がする。

「それにさ」

とミチが言葉をつづけた。

「亜美さんの方から誘ったんでしょ? だったら、亜美さんはたまきちゃんが楽しめるようなお花見を企画する、っていうのが筋なんじゃない? 誘われたけど楽しそうじゃないな、と思ったら、断っていいんだよ」

その言葉を聞いたたまきは、ゆっくりと立ち上がった。

「私、帰ります。その……ありがとうございました」

たまきはぺこりと頭を下げると、階段を上っていく。

「ところでさ、たまきちゃんって、俺といるときは楽しいの?」

「……さあ」

たまきは振り返ることなく、答えた。たまきの黒い髪が、風にふわっと揺れた。

 

写真はイメージです

たまきはとぼとぼと太田ビルに帰ってきた。

「断ってもいい」と言われて、少し勇んだものの、やっぱりいざ断るとなると、憂欝である。

おまけに、ゆうべからの悩みは、ちっとも解決なんかしていない。

階段を上って「城」の前に立つと、屋上から亜美の声が聞こえてきた。

「ああ、ウチウチ」

一瞬、亜美がどこかのおばあさんに詐欺の電話でもかけてるんじゃないか、とたまきの頭によぎったが、どうやらそういった電話ではないらしい。

「シンジ、花見に来れないって言ってんだって? なんで? あいつ、なんつってる?」

亜美は屋上の中でも階段のそばにいるらしく、階下のたまきにもその声がよく聞こえてくる。たまきは、屋上への階段を上り始めた。踊り場まで行くと、亜美の下半身が視界に入った。

「あ? ウチが来いっつってんのに、こねぇとかあいつ、ふざけんなよ? 先約? しるかよ。その先約のオンナと一緒に来ればいいだろ」

たまきはなんだか、見えない手で背中を引っ張られたような感覚だった。

「んじゃまた。うん。はーい」

亜美は電話を切って、携帯電話をたたんだ。

「あの……」

たまきはか細い声で話しかけた。

「ん? ああ、たまき。帰ってたのか。花見な、来週の日曜になりそうだわ。ちょうどその頃が見ごろ……」

「あの、私……!」

誰かの言葉をさえぎるように話しかけるのは、たまきにとってもしかしたら初めてのことだったかもしれない。

だが、続く言葉が出てこない。

「どした?」

「私……その……」

たまきは一度、大きく息を吸うと、亜美の目を見た。

「お花見には……行きません……!」

「え?」

空は青く、雲がふんわりと浮かぶ暖かな陽気だったが、たまきはそのことを忘れていたし、亜美は気づいていないようだった。

「私、お花見には、行きません」

「……なんか予定と被っちゃったか? じゃあ、土曜日にしようか? ああ、サイアク月曜でもいいぞ。どうせ暇人ばっかだし、その方がすいて……」

「ですから……『行かない』んです」

そう、ほかに用事があるわけじゃない。「行けない」わけではない。

「行きたく……ないんです……!」

たまきは亜美の目を見れず、目線を落とした。

「誘ってもらったことは、嬉しかったです……。でも、私、やっぱりお祭りとかパーティとか、苦手です……。だから、行きたくないんです……」

正直な話、たまきは殴られることを覚悟の上だった。もちろん、今まで亜美がたまきに暴力をふるったことなどないし、いくら亜美が短気だからと言って決して短絡的に暴力をふるう人間ではないこともわかっていたが、亜美からのせっかくの誘いを断るのだから、それくらいされても仕方ないんじゃないか、とびくびくしていた。

たまきは、恐る恐る亜美の目を見た。

亜美は、少し驚いたようにたまきを見ていた。さっき電話で「ふざけんな」と怒鳴っていた時とは様子が違う。とりあえず、殴るとかそういう感じではなさそうだ。

たまきと目が合うと、亜美は、はあぁとため息をついた。

「お前な、そんなこと言ってたら、いつまでたってもイベントを楽しめないぞ」

亜美の言い方はなんだか、好き嫌いをする幼稚園の娘をたしなめる、若いママのようだった。

「別に……楽しめなくて……いいです……」

「またそんなことを……。だからお前はダメなんだよ。そんなんじゃ、いつまでたってもウジウジしたままだぞ」

「ウジウジしてたら……ダメなんですか……?」

「大丈夫だって。花見に行けば、なんだかんだで楽しくなるって」

「だから……だから……!」

どうしてわかってくれないんだろう。ずっと一緒にいるのに。

「私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!」

空は相変わらずの青空だったが、太陽が雲の影に隠れ、急に少し薄暗くなった。

「亜美さんはいつも、なんだかんだで楽しくなるっていうけど、私はそれで楽しかったことなんて、なかったです……。亜美さんは私がウジウジしてるからだっていうけど、私だって、楽しいって思うことだってあります。だけどそれは、亜美さんの思う『楽しい』とはたぶん、違うんです……」

この時の亜美の様子をなんと表現すればいいのか、たまきにはわからなかった。少なくとも、今までたまきが見たことのないような表情をしていた。

「楽しめない場所に行きたくないっていうのは……ヘンですか……。亜美さんだって、学校辞めて家出してここに来たんですよね。それって、学校も家も、楽しくなかったからですよね。だったら、わかりますよね……。楽しくないところには……行きたくないんです……」

亜美は何も答えなかった。

「……さようなら」

そう言うとたまきは頭を下げて、階段を下りて行った。

 

「城」のドアノブに手をかけてから、たまきは「しまった」と思った。

「さようなら」だなんて、まるで金輪際あわないような言い方をしてしまった。

もちろんそんなわけなくて、ただ「失礼します」だとなんだか部活の先輩や学校の先生に言っているみたいで、なんか違うなと思ったのだが、「さようなら」は余計に違ったかもしれない。

ただでさえ、亜美の誘いを断ってしまったことに罪悪感を覚えていたのに、「さようなら」だなんて言ってしまって、余計にその気持ちを重苦しく感じてしまうたまきなのであった。

そもそも、罪悪感と言えば、「たまきは間違ったことをしている」というゆうべからの悩みが、ずっとたまきの心にのしかかっているのだった。そこに新たに罪を増やしてしまったから、余計に重く感じる。

昔、たまきがお姉ちゃんと遊んだパズルゲームが、なんかそんな感じだった。相手に攻撃されると、石がずどんと降ってきて、どうやっても消せずにそのまま残り続けるのだ。たて続けに石を落とされると、画面が石で埋まってゲームオーバーになってしまう。そんな気分なのだ。

人は、罪を犯すことでしか生きていけないのだろうか、などと十六歳にしてはちょっと哲学的なことを考えながら、たまきはドアを開けた。

「……ただいまです」

「おかえりー」

と志保の声。

「おー、帰ったか」

と別の声。顔を上げてみると、志保と一緒に舞がお茶を飲んでいた。舞が「城」にいるのはさほど珍しいことではなく、三人の様子を見に、特に用事がなくてもたまにやってきて、お茶を飲んで帰るのだ。

たまきは舞に軽くお辞儀をすると、靴を脱いであがった。

「どうしたの、元気ないね」

と志保が言うが、これはいつもたまきが帰ってくるたびに言われている。もはや英語の授業の「ハウアーユー?」に近い定型文だ。この構文はたまきが、

「まあ」

と返事をするところまでがセットである。たまきがウキウキ気分で帰ってくることなど、三月に一回、あるかないかだ。

ソファに腰掛けたたまきは、テーブルの上にお菓子がおいてあるのを見た。

「広島で買ってきた、変わり種もみじ饅頭だ。チョコとかカスタードとかあるぞ」

「先生ね、仕事で瀬戸内海の方に行ってたんだって」

「瀬戸内の離島をまわって、医療事情を取材して周ってきたんだ」

「そうですか……」

たまきはお菓子には手を付けない。

「……なんか本当に元気ないね?」

「どれどれ?」

と言って舞は、たまきの額に手を当てる。

「うん、熱はないな」

「はい……。熱はないです……」

「いや、だから冗談だってば」

舞はそういうと、志保の方を見て笑った。

「で、若き哲学者殿は、今度はなにで悩んでるんだ?」

舞が冗談めかして言った。

「舞先生は……」

たまきは下を向いたままぽつりと言った。

「……自分のやってることが間違ってる、って思ったことはありますか?」

「なるほど。つまりお前は、自分が間違ったことをやってるって思って、悩んでるんだな」

たまきは無言で頷いた。

「どうしたの? 誰かに何か言われたの?」

志保の問いかけにたまきは答えない。まさか「あなたのカレシに言われました」なんて言えない。

「なるほどなるほど」

と舞は腕組みをした。

「そりゃあたしにだってあるさ。自分は間違ったことしてるなぁ、って思うことは」

「それは……どんな時でしょうか」

たまきはやっと、舞の顔を見た。

「どんな時って、そりゃお前、潰れたキャバクラに勝手に居座ってる野良猫どもの相手してる時だよ。大人として、こいつらを黙認してていいのか、親元に帰してやるのが常識ある大人のやることなんじゃないか、ってな」

それを聞いて、たまきは言葉に詰まってしまった。

「それで……、舞先生は結局どうし……」

「どうもこうもあるかよ。見ての通りだよ。スルーだよ、スルー」

そう言うと、舞は志保とたまきの顔を見る。

「どいつもこいつも、初めて会った時より少し表情が柔らかくなって、そんなの間近で見てたら、『お前ら家に帰れ』なんて言えるかよ」

舞はお菓子の箱から一つ、もみじ饅頭を取り出して、頬張り始めた。

「お前らが家賃払いたくないからここにいたい、ってだけだったら、あたしがとっくに警察呼んでるよ。でも、お前らは『ここにいたい』っていうよりは、『帰りたくない』ってタイプだろ? とにかく家に帰りたくなくて、そんなお前らの居場所がここだけだった、そういう事だろ? そんな奴らに『家に帰れ』とは言えねえぇよ。たとえ、大人として間違ってるといわれてもな」

『帰りたくない』、ふと、その言葉がたまきには引っかかった。

昨日、亜美に「間違ってるなら解散するか」と問われた時、たまきはそれだけは嫌だと思った。それは舞の言うとおり、とにかく家に帰りたくないからだろう。今朝から何度考えても、やっぱり答えは「帰りたくない」だ。

でも、それだけだったのだろうか。確かに、はじめは「家に帰りたくない」という一心で、この「城」にしがみついていたはずなのだが。

「でも、やっぱり私たちって、間違ってますよね……」

そういったのは志保だった。

「先生はいろんなこと考えて黙認してくれてるんでしょうけど、実際に不法占拠してる私たちって、やっぱりただのわがままなんじゃ……」

「そりゃ、そうだ」

そういいながら、舞は二つ目のまんじゅうを手に取ると、志保とたまきにも食べるように促した。二人もまんじゅうに手を伸ばす。

「でも、家には帰りたくない、だろ。たまきなんか、家に帰ったらすぐ死んじゃいそうだもんなぁ」

舞は冗談めかして言ったが、たまきにはどうにも冗談に聞こえない。

「自分たちが間違ってる、悪いことをしてる、ってわかってるなら、結構だ。その気持ち、忘れるんじゃないぞ」

「でも……」

たまきが口を開いた。

「間違ってることをしてるのに、そのまま何もしないのは、もやもやします……」

「そりゃそうだろ」

舞は手の中で、まんじゅうを包んでいたビニール袋をクシャクシャと丸めた。

「悪いことをしてりゃもやもやするのはしょうがないだろ。悪いことしてるのに、心はすっきりしたいだなんて、都合のいいこと言うんじゃないよ」

そう言って舞は、紅茶の入ったカップに口を付けた。

「ま、『自分は間違ってるんじゃないか』『自分が悪いんじゃないか』ってもやもやは大事にしとけよ。自分が正しんだ、自分は間違ってなんかないんだ、って思いこむ大人に限って、ただ単にそういった感覚を忘れてるだけだったりするからな」

舞はカップをテーブルに置く。

「ほんとはみんな、そんなもやもやを抱えて生きてるはずなのに、気づいてないふりしてるだけさ。お前らは間違ったことをしている。だけど、正しいことをすることができない。だったら、そのもやもやをしっかりと感じながら、生きていくしかないだろ。そしていつか、自分たちの間違いの始末を、きっちり付けられる大人になることだな」

 

そこに、ドアが開いて亜美が入ってきた。

「あれ? 先生来てたんだ?」

亜美の声を聴いた途端、たまきはなんだか自分がそこにいてはいけないような気がして、慌てて立ち上がった。

「あ、あの、私、屋上にいます……!」

そういうとたまきは、亜美とは目を合わせることなく、亜美の脇をすり抜けて、「城」から出ていった。

「たま……」

と亜美が言いかけたが、扉が閉まると、その声も聞こえなくなった。

 

写真はイメージです

屋上からたまきは歓楽街を眺める。ここからは、歓楽街の街並みも、駅前のデパートも、線路の向こうの都庁も見える。ここに立つと、この街のすべてを掌握してるかのような錯覚と、世界中のだれからも見つからないように隠れ住んでいるという実感が、同時に襲ってくるのだから、不思議だ。

結局、たまきの中のもやもやとした罪悪感は、消えることがなかった。

それもそのはずだ。家出とか、不法占拠とかは、どうあがいても正当化できないのだ。そうである以上、「たまきがしていることは間違っている」というのは、動かしがたい事実なのだ。罪悪感を感じない方が、狂っているのだ。

きっとたまきみたいな不良品は、この先もこんなもやもやをいっぱい抱えて生きていくんだろう。それは罪悪感だけじゃない。劣等感、屈辱、嫉妬、焦燥、不安、憂欝、孤独……。他人と自分を比べ、現実に見下され、その度にみじめな思いをして、いろんなもやもやを抱えて生きていくのだろう。積み重なったみじめな思いを、神様がパン祭りのお皿と交換してくれるわけでもない。積み重なったみじめさなんて、何の役にも立たない。

「生きているという事は、ただそれだけで素晴らしい」というけれども、ただただみじめな思いを重ねるだけの人生でも、それでも生きることは素晴らしいのだろうか。

もしかしたら、たまきが今まで言葉には出せずに、手首から血を出して訴えていたのは、このことだったのかもしれない。みじめな思いを積み重ねるだけの人生でも、生きていく意味なんてあるのか、と。

そして、そんなまさに血を吐くような問いかけに、答えてくれた大人はいなかった。

やっぱり学校は、本当に大切なことに限って、教えてくれないのだ。

つづく


次回 第31話「桜、ところにより全力疾走」

お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第29話「パーカー、ときどきようかん」

田代とよりを戻した志保、花見の準備を進める亜美、そして、春に着る服がないたまき、今回はそんなお話。


第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

勝負服、と言われてたまきが最初に思い浮かんだのは迷彩服だった。自衛隊の人が迷彩服を身にまとい、自動小銃を構える光景だ。勝負する人が誰かと勝負するときに着ているのだ。立派な勝負服のはずだ。

ところが、志保の言う勝負服は、たまきがイメージする勝負服とはずいぶん違っていた。志保の言う勝負服とは「雑誌の表紙に載ってそうなオシャレな服」のことを言うらしい。さっきから衣裳部屋のクローゼットからいくつかの服を取り出しては、首をひねる、その繰り返しだ。どの服もオシャレな服なのだが、たまきの乏しいファッション語彙力では「どれもオシャレ」以上の細かい描写ができない。

「うーん、違うんだよなぁ。もっと優しい感じで、それでいて媚びない強さが欲しいっていうかさぁ」

と志保はなんだか指揮者が演奏者にアドバイスするかのようなことを言っている。

「つーかさ、なんで勝負服が4着もあんだよ? ここぞってときに着る服だろ? 普通1着だろ?」

志保の様子を見ていた亜美が口を出す。最初は志保の服選びに楽しそうに付き合っていたが、志保のあまりの優柔不断さに飽きてきたらしい。

両手に服のかかったハンガーを持つ志保は、くるりと亜美の方を向いた。

「あのね、亜美ちゃん。イマドキね、ウルトラマンだって相手や状況に合わせていくつもの姿を使い分けて戦うんだよ?」

志保の言いたいことはどうやら「勝負服は複数あっていい」ということらしい。

それにしても、とたまきは不思議に思う。

志保はこれからデートに行く予定のはずだ。なのに、なぜ「勝負服」だなんてものが必要なのだろう? たまきの認識では、デートというのは恋人同士が仲良くする行動のはずだ。いったい誰と勝負するのだろう?

でも、たまきたちが住む町は日本最大の歓楽街であり、治安もあまりよくないと聞く。もしかしたら町で悪者に絡まれて、戦うことになるのかもしれない。たまきが一人で街を歩いているときはそんな人に襲われたことはないけれど、一人で歩いているよりデートしている人の方が、なんだか絡まれやすそうな気がする。

でも、それだったらやっぱり迷彩服の方がいいんじゃないだろうか。

ちなみに志保は「勝負下着」なるものも持っているらしい。下着で勝負する人だなんて、たまきはお相撲さんぐらいしか思い浮かばない。あれ? お相撲さんってパンツはいて戦うんだったっけ?

「亜美ちゃんだってさ、こんなかにいくつもあるんじゃないの? 勝負服」

志保はクローゼットの中にずらりと並ぶ亜美の服を見て言う。

「勝負服?」

亜美も自分の服を見るが、

「うーん、ガキの頃の空手大会で、大一番ってときは必ず道着の下に学校の体操着着こんでたけど、勝負服っていうとあれくらいかなぁ」

と亜美は、本当に勝負するときに着ていた服装を挙げた。

「ねえ、亜美ちゃんはどれがいいと思う?」

志保は両手のハンガーをグイっと亜美に押し付けて尋ねる。

「知らねーよ。お前の勝負服なんだから、お前が着たい服を着ればいいだろ?」

亜美の言葉を聞いた志保は、何かはっとしたように目を開いた。

「そうだよね……」

そういうと志保は手に持った二つのハンガーに目を落とすが、すぐさま、

「あー、でも、どっち着よう~?」

とふりだしに戻ってしまった。

そんな志保を横目に、たまきは五日ぶりに出かける準備を始める。とはいえ、化粧をすることもなければ、服で悩むこともない。いつものジャンパーを羽織って、いつものニット帽をかぶって、いつものリュックを背負って……

そこで志保が声をかけた。

「たまきちゃん、そのジャンパー着てくの?」

「……はい」

大しておしゃれでもないジャンパーだけど、これしかないのだから、これを着ていくしかない。

「もう3月なんだし、今日は特にあったかいから、そのジャンパーじゃちょっと暑いんじゃない?」

「そうですか」

そういってたまきはリュックを下すと、ジャンパーを脱いだ。

そのまま再びリュックを背負い、外に出ようとする。

「ちょっと待って。何も羽織っていかないのはさすがに寒いんじゃないかな」

「そうですか」

そういうとたまきは、さっきのジャンパーを羽織った。

「いや、だから、そのジャンパーじゃ暑いんじゃ……」

「そうですか」

たまきは再びジャンパーを脱いだ。

「でも何も羽織らないのは……」

「そうですか」

と言ってたまきが再びジャンパーに手を伸ばした時、亜美が口をはさんだ。

「二択かよ!」

ジャンパーに手を伸ばしたまま、たまきの手が止まる。そのままたまきは、亜美の方を見た。

「そのジャンパーじゃ暑いっつってんだろ!」

「でも、何か羽織った方がいいって……」

「だから、そのジャンパーより薄手のなにか、だろ! なんでそのジャンパーを着るか着ないかの二択なんだよ!」

そんなこと言われても、たまきは「上着」と呼べるものをこのちょっと厚手のジャンパーしか持ってない。

「しょうがないなぁ。じゃあ、あたしの貸してあげる」

そう言って志保は両手のハンガーを放り出すと、クローゼットの中をガサゴソとあさる。

「え……でも……志保さんの服じゃ、サイズが合わないんじゃ……」

「上着だったら別にサイズがぴったりな必要ないって」

そう言って志保はクローゼットの中から何かを選び取った。

「これなんかいいんじゃないかなぁ」

志保が選び取ったのは、鮮やかなピンクのカーディガンだった。

「今日みたいなあったかい日は、これくらいがちょうどいいって」

舞い散る桜のような鮮やかなピンク色を目にしたたまきは、思わず後ずさった。

「あの……えっと……それ、着なきゃダメですか……?」

「なんで? かわいいじゃん。きっと、似合うよ」

志保は保険の外交員のような笑顔だ。

「でも……その……その服、なんか……女の子っぽくないですか……?」

「たまきちゃん、女の子じゃん」

「そうなんですけど……そうなんですけど……」

たまきの中では「生物学的に女性であること」と「女の子っぽい格好をすること」は別なのだ。

誰が決めたか知らないけど、「女の子っぽい」はどういうわけか「華やかであること」らしい。フリフリのナントカとか、ヒラヒラのナニナニとか、ハナガラのアレコレとか、華やかすぎてもういっそ花そのものになりたいんじゃないかと思えるような服が「女の子っぽい」と呼ばれる。

たまきは花になぞなりたくないのだ。あんなに目立って、虫も人もわんさか集まってくるようなものにはなりたくない。

葉っぱでいい。注目されることもなく、ひらりと落ちて、朽ち果てる。そうだ、葉っぱでいい。

そう考えると、やっぱり迷彩服のような「隠れやすい服」の方がたまきには似合っているのかもしれない。

問題は、迷彩服はジャングルとかで隠れるために着るのであって、街中で迷彩服を着たら、むしろ目立つということだ。

あと、今度は男の子っぽくて、たまきには似合わない。

 

写真はイメージです

結局、たまきは何も羽織ることなく外に出たのだが、やっぱり寒い。ニット帽をいつもよりも目深にかぶってみるけれど、寒さの解決にはならなかった。素直に志保のカーディガンを借りればよかったとも思うけど、ピンクのカーディガンを着て街を歩くとなると、今度は心が寒くなる。たまきに暖色は似合わないのだ。

ふと、たまきは足を止めて、人の流れに目を凝らしてみる。こうやって見てみると、実に様々な服装の人が街を歩いているものだ。

ちょっと前までは寒色系のコートを羽織った人が多かった。冬になるとなぜか服の色も落ち着いたものになる。

それから少し暖かくなって、街を行く人のファッションも、少し華やかになり、バリエーションも増えた気がする。

待ちゆく人の一人一人を見ていると、みんなおしゃれだ。それは単に、おしゃれな服を着ているというだけでなく、髪型が凝っていたり、染めていたり、毛先の一本一本に気を使っていたりする。さらには、ピアスだの、ネックレスだの、指輪だの、アクセサリーをつけている人もいる。

サラリーマンと思しき男性がたまきの横を通る。ごく普通のスーツで、こういう真面目そうな人はやっぱりおしゃれとかしないのかな、と思ったけれど、よく見たらネクタイが黄色地にペンギンの絵が描かれたものだった。スーツという限られた中での、精いっぱいのおしゃれなのかもしれない。

なんだかこの町で自分だけおしゃれじゃないような気がしてきた。そもそも、東京というおしゃれな街は、おしゃれじゃない人が歩いていい場所ではないんじゃないだろうか。たまきみたいなおしゃれじゃない子が東京を歩くと、「おしゃれ警察」がやってきて、「こいつ、おしゃれじゃないぞ! 逮捕する!」とどこかへ連行されてしまうのではないだろうか。

学校の授業に「おしゃれ」なんてないのに、なんでみんなおしゃれに服が着れるのだろうか。たまきは、顕微鏡の使い方やリコーダーの吹き方よりも、友達の作り方とか、おしゃれな服の着方を教えてほしかった。どうして学校はいつも、本当に必要なことを教えてくれないんだろう。

 

街ゆくおしゃれな人たちとすれ違い、その都度なんだか肩身の狭い思いをしながら、たまきはあることに気づいた。

「勝負服」というのはもしかして、街を歩く人全員に対して勝負する服なのではないだろうか。

なにせ、デートをするときに着る服なのである。女の子も男の子もひときわおしゃれな服を着たいはずだ。

なのに、街で自分よりもおしゃれな人とすれ違って、恋人がそっちの方に見とれていたら、悔しいじゃないか、たぶん。街ですれ違う誰と比べても勝てるほどのおしゃれな服、それが勝負服なのではないか。

 

写真はイメージです

すれ違う人とのおしゃれ勝負に負けっぱなしのまま、たまきはいつもの公園にやってきた。うつむいたまま歩くが、うつむいているのは別におしゃれ勝負に負けっぱなしだからではない。いつもたまきはこんな感じだ。もしかしたら、前を向いて歩くと自分が負けっぱなしなことに気づいてしまうから、無意識にうつむいているのかもしれない。

いつもの階段までとぼとぼと歩き、腰かけて絵を描き始める。

絵を描き始めると、季節の変化というものにも気づいてくる。この前まで公園の木々は葉を落としていたが、いつしか葉っぱが生えているだけでなく、徐々につぼみや花も芽吹いている。あとしばらくしたら、お花見シーズンになるのだろう。

お花見。たまきには関係のないイベントだ。

しばらくすると、後ろから声が聞こえた。

「お、たまきちゃん、やっと来たな!」

ミチの声である。

「来てますよ」

たまきはミチの方を見ることなく答える。

「たまきちゃん、ここしばらく来なかったでしょ?」

「まあ」

「なんで来なかったんよ」

「……まあ」

数日外出しないことぐらい、たまきにとっては大した問題ではない。ミチのように、用もないのに外をうろちょろしているほうがおかしいのだ。

「寒くないの、それ?」

おそらくミチは、たまきの服装を見ていっているのだろう。

「……まあ」

ミチはいつものようにたまきのすぐ横に腰かける。

たまきもいつものように、すっと横に動いて間隔をあける。

いつものように、たまきの隣でギターケースを地面に置く音が聞こえる。

いつもならここで、ケースをあけてギターを取り出す音が聞こえるのだが、たまきの鼓膜に入り込んでいたのは、紙袋が立てるがさがさという音だった。

たまきはその音を聞いた時、驚いた猫のように、反射的にミチとの間隔をさらにあけた。前にもこの音に聞き覚えがあったからだ。

前にこの紙袋のがさがさという音を聞いたのは、今からひと月ほど前だった。確かバレンタインデーで、ミチから執拗にチョコをねだられた時だ。

今度はなんなんだろう。いったい何をねだられるんだろう。

たまきは毛を逆立てた猫のように、この上ない警戒心をもって、ミチの方を見た。

「たまきちゃん、今日、何日だかわかる?」

「……さあ」

「三月十八日だよ。じゃあ、4日前は何日だったでしょう」

「三月十四日」

「大正解!」

この男はたまきのことをバカにしているのだろうか。いくらたまきが学校に行ってないといっても、引き算くらいできる。

「では、三月十四日は何の日だったでしょうか?」

ミチがにやにやしながら尋ねてくる。

「……誕生日ですか?」

「いや、それ、先月だから!」

「……ですよね」

つい2週間ほど前、ミチの誕生日をなんとかスルーしたのだ。こんなに早く次の誕生日が来るわけない。

「先月、バレンタインデーだったでしょ?」

「……はい」

「じゃあ、今月は何?」

「……ひなまつりですか?」

三月のイベントだなんて、それくらいしか思い浮かばない。

「ホワイトデーだよ、ホワイトデー」

なんだっけ、それ。

ホワイトデーとは、バレンタインデーにチョコをもらった男子が、女子にお返しをする日である。バレンタインデーは古代ローマに起源をもつのだが、ホワイトデーの起源はごく最近の日本にある。歴史の差が表れてしまっているのか、バレンタインデーに比べると、いまひとつパッとしない。

これまでたまきはバレンタインデーというイベントをスルーしてきた。必然的に、ホワイトデーも関係ないことになる。

ところが今年は、何の気の迷いか、ミチに百円のチョコをあげてしまった。

義理チョコだし、何か見返りを期待していたわけではないので、そのまますっかり忘れていたし、ましてやホワイトデーなんてイベントが自分にやってくるだなんて思っていなかったのだ。

そもそも、ミチに「ホワイトデーにお返しをする」という発想があったことに驚きだ。

「あの……その紙袋の中身が……ホワイトデーのその……」

「そうだよ」

たまきはこれまた最大の警戒心をもって紙袋を凝視する。茶色に紙袋に、どこかのお店のロゴが書いてあるが、何のお店なのかたまきにはわからない。

「そんなビビんないでよ。姉ちゃんと二人で選んだんだからさ」

それを聞いてたまきの警戒心が跳ね上がった。さっきのが最大だと思っていたが、まだ上があったとは。

ミチのお姉ちゃんは、たまきのことをネコに似てると言ってからかってくるような人だ。紙袋の中身はもしや、ネコの餌とか、ネコの首輪とかではないのか。

ガサゴソという不安な音とともに、紙袋の中身があらわとなった。

第一印象は「青い布」だ。たたまれた青い布の塊だ。

「薄群青だ……」

そう、たまきはつぶやいた。

「え?」

「これ、薄群青って色ですよね」

「そうなの? ブルーだと思ってた」

たまきは学校にいたころ、美術部にいたので、色にはちょっとだけ詳しい。一口に「青」といっても濃淡いろいろあるが、これは「薄群青」という色に近い。

ミチがたたまれた布を広げ、徐々にその姿があらわとなる。

洋服だ。薄群青の、長袖の洋服だ。

服の真ん中の部分がぱっくりと開いて、チャックがついている。たぶん、ジャンパーと同じように、服の上から羽織るタイプの上着なのだろう。

襟首のところにはフードがついている。

「これって……ジャンパーですか?」

「いやいや、パーカーだよ」

「ぱーかー……?」

「ヘンな色の名前は知ってるのに、パーカーは知らないの? ヘンなの」

そういうとミチはたまきの背後に回り、薄群青のパーカーをたまきの肩にかける。たまきはされるがままにそでを通す。

「姉ちゃんが、たまきちゃんは絶対このサイズだって言ってたんだけど、サイズ大丈夫かな」

たまきはパーカーの袖や裾を見た。たまきには少し大きかったようだが、上着ならちょっとくらい大きくてもよいのかもしれない。

「お、似合う似合う。かわいいじゃん」

そういって、ミチは笑った。

何より、パーカーはあったかい。亜美の言っていた「ジャンパーより薄手の何か」にぴったりだ。

「あの、これっていくらしたんですか……」

「えっと、二千円くらいかな?」

「二千円!?」

たまきにとっては、ずいぶんと大金だ。

「あの……こんな高いの、もらえません……!」

「なんでよ?」

「だって、私があげたチョコ……、百円ですよ……」

「だからさ、来年のバレンタインとか誕生日とかでお返ししてくれればいいから」

「来年……ですか……」

来年なんて生きてるかな、とたまきは首をかしげる。

「これで来年、プレゼントあげる理由がない、なんて言わないでしょ」

たまきはしばらく黙っていた。

「その……とりあえず高いものあげておけば私が喜ぶなんて思ってるんだったら……心外です」

たまきはミチの目を見ることなく言った。だけど、パーカーの暖かさはどうにも否定できなかった。

 

写真はイメージです

かえりみち。

たまきにしてはめずらしく、たまきにしては本当にめずらしく、とぼとぼと下を向くことなく、まっすぐ前を向いて歩いていた。

行きと帰りでたいした違いは無い。もらったパーカーを羽織ってみただけである。薄群青の無地で地味なパーカーだ。

たったそれだけの違いなのだけれど、少しだけ何かのレベルが上がったような気がして、道行くおしゃれさんとすれ違っても気後れしない。それでもおしゃれ警察が来たら、「こいつ、もらったパーカーを羽織ってるだけだぞ!」と逮捕されてしまうのだろうか。

ふと、たまきは立ち止まり、ショーウィンドウに映る自分を見ると、ニット帽を脱いでみた。また何かのレベルがちょっとだけ上がった、様な気がした。

経験値を上げてちょっとだけレベルが上がった勇者の気分で、たまきは太田ビルの階段を登る。5階の「城」のドアの前に立ち、ドアノブに手を伸ばそうとしたときに、少し上から声をかけられた。

「たまき、こっち」

屋上へと続く階段の中ほどから、亜美が手招きしていた。手には黒っぽい何かが握られている。

言われるままに、たまきは屋上へと上がった。洗濯物が干してある。他には紙袋が置いてあるだけで、特段何か変わった様子は無い。

「中、入っちゃだめなんですか?」

たまきは亜美に尋ねてみた。

「今、ヤサオ来てんだよ」

ヤサオというのは、志保のカレシの田代に亜美が勝手に付けたあだ名である。

「志保がどういうところに住んでるのか見ておきたい、だってよ」

そういうと亜美は、紙袋の中から四角い何かを取り出して、たまきのほうに投げてよこした。たまきはあわててキャッチする。

「な、なんですか、これ」

「ヤサオのお土産。ようかんだってさ」

たまきが包み紙をはずすと、黒っぽいようかんが顔を出した。

カノジョの家に来て、お土産を買ってくるだなんて、大人だなぁ、とたまきはぼんやりと思う。

「何で入っちゃだめなんですか?」

「何でって、キマズイだろ」

そういって、亜美は舌打ちをした。

なるほど、とたまきは納得した。

「城」に平気でオトコを連れ込んだり、エッチなことをする亜美でも、「気まずい」と思うことがあるらしい。

だけど、たまきには、それ以上に何かあるような気がした。

「亜美さんは……、えっと、田代って人のことが、苦手なんですか?」

「キライだね」

亜美は屋上の柵のむこうに広がる青空を見ながら言った。

「おもしろくねーじゃん、あいつ」

どういう意味なのか、たまきには今一つよくわからなかった。

亜美は、足元の紙袋を拾う。

「こんなもの買ってきやがってさ」

「……気が利きますよね」

「気が利きすぎて、ヒクわ。ウチと大して年変わんねーのによ」

亜美は紙袋をパンパンとたたいた。

「志保に言わせるとさ、そういう時は素直にもらっておけば相手も喜ぶし、自分もうれしいつーんだけどさ、オトコから高いものもらってキャッキャと喜ぶオンナなんて、オンナはオトコからなんかモノもらって当然、って思ってるってことだろ? そういうオンナがよ、オトコにナメられんだよ。とりあえず、高いものあげとけば喜ぶって感じでな」

ぎくり、とたまきの中から、関節がずれたような音がした。

「で、でも、亜美さんだって、男の人からビールとかもらってるじゃないですか」

「そりゃそうだろ。ウチ、十九だから買えねーんだもんよ」

「デートに財布持ってかない主義だって……」

「これだからお前はおこちゃまなんだよ」

亜美の言葉に、たまきは不服そうにようかんをかじる。

「『おごらせる』と『おごってもらう』は全然違うんだよ」

たまきには、その違いがよくわからない。

「それにしても、このようかん、うまいな」

亜美はそう言ってようかんを頬張った。

「ところでお前、そのパーカー、どうした」

たまきよりもはるかにおしゃれな亜美が、たまきの服装が出かける前と少し変わっていることに気づかないはずがない。

「……まあ」

「ふーん、ウチの好みじゃねぇけど、まあ、いいんじゃね? いくらしたんよ」

「……二千……円……くらい……」

「金、足りなくなったらエンリョなく言えよ。お前は、金使わなさすぎなんだからな」

どうやら亜美は、たまきが適当に買ってきたと思ったらしい。たまきとしても、そのほうがいい。

 

「ああ、ここにいたんだ」

そういって、田代が一人、屋上へと階段を上ってきた。

「ごめんね。気を使わせちゃったね。もう帰るから」

「あっそ」

亜美は田代のほうを見ることなく、何やら携帯電話をいじっている。

亜美がどういう理由で田代のことが嫌いなのか、たまきには今一つよくわからない。でも、いくら嫌いだからってそれを態度に出さなくてもいいんじゃないか。たまきだってよく、ミチに「あなたのことは嫌いです」と言っているけど、だからと言ってあからさまな態度をとったりはしない。

たまきはそう思ったのだが、亜美は良くも悪くも、嘘がつけない性格なのだろう。良くも悪くもごまかせないのだ。

もちろん、亜美だってうそをつくことぐらいあるだろうし、男性の前で猫を被ることがあるのもたまきは知っている。一方で、ああこいつキライだなぁ、と判断したら、そういったことをぱたりとやめてしまうのだろう。おそらく、意識してやっているのではなく、自然とスイッチが入らなくなるのではないか。

そういう時はたまきがフォローに回れればいいのだが、たまきはたまきで、知らない人全般が苦手なのである。

結果、柵にもたれて背中を向けたままの亜美と、目を合わせられないたまきという、なんとも気まずい空気が生み出されてしまった。

そんな空気に気づいているのかいないのか、田代は二人のほうへと近づいてくる。

「えっと、亜美さんでよかったんだよね。で、そっちの子は……」

田代がたまきのほうを見る。そういえば、田代にちゃんと名前を言ったことがなかった。

答えたのは、たまきではなく亜美だった。

「ん? ああ、こっちはたまき。うちのザシキワラシ」

とうとう動物ですらない、妖怪扱いされてしまった。

「二人はここで志保ちゃんと一緒に暮らしてるんだよね?」

「……はい」

事実なのに、たまきはどこか自信なさげに答えた。

「えっと、二人はどれくらい勉強してるの?」

田代の言葉に、亜美とたまきは、きょとんとした感じで互いに顔を見合わせた。

「ベンキョー?」

「……ですか?」

「何の?」

亜美もたまきも、勉強なんてここ何年もしていない。

今度は田代がきょとんとした感じで尋ねた。

「何のって、薬物依存や違法薬物に関する勉強だよ」

そこで二人は、もう一度顔を見合わせた。

「え? おまえ、なんか勉強とかしてる?」

「いえ……別に……」

それからたまきは言い訳するように、特に田代に対して言い訳するように、付け足した。

「その……舞先生……知り合いのお医者さんに難しいことは任せてるので……」

「まあ、基本ウチら、先生に丸投げだよなぁ」

たまきはどこかで、舞の胃がキリキリときしんだような気がした。

「そうなんだ」

田代はあまり納得していないようだ。

「でも、薬物依存の患者と一緒に暮らすんだったら、そういう勉強も必要なんじゃないかな。本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思うし」

勉強だなんてそんなこと、たまきは考えたこともなかった。

それともうひとつ、たまきの心に強く引っかかった言葉があった。

「本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思う」

今のたまきたちの生活は間違っている、遠回しにそういわれたような気がした。

「ベンキョーね、まあ、そのうちな。ああ、ようかん、うまかったよ。ありがとな」

田代が帰るまで、けっきょく亜美は、一度も田代を見ることはなかった。

 

「送信……っと」

亜美は携帯電話をぱたりと閉じると、たまきの方を向いた。

「たまきも来るだろ、花見」

「お花見……ですか……?」

「そ、花見。再来週くらいになるかな」

どうやら、携帯電話でやっていたのは、お花見の企画だったらしい。

どうせまた、亜美とつるんでるガラの悪い男たちが集まるのだろう。テレビで見る「お花見で騒ぐ、迷惑な若者たち」の絵面そのままの光景になるに違いない。

正直、そんなお花見、行きたくない。

いや、これがもし、田代みたいな人当たりのよさそうな人ばかりが集まるお花見だったとしても、やっぱりたまきは参加するのをためらうのだろう。

行ったところで、どうせなじめやしないのだから。

それでもたまきは、

「……まあ」

というあいまいな返事しかできない。

たまきも少しは亜美を見習って、嫌なものは嫌だとはっきり示せた方がいいのではないだろうか。

そんなことを考えてみるも、誘ってくれた亜美に悪いとか、断ったら嫌われちゃうんじゃないかとか、いろんなことがよぎってどうしても「行きたくない」とはっきり言えない。

そもそも、たまきのようにずっと友達がいなかった子にとって、友達から誘われる、というのはとてもありがたい、夢のようなことなのだ。断れるはずがないじゃないか。

「ところでさぁ、たまき」

柵にもたれたまま亜美は、たまきのほうを見ていった。

「お前にとって、志保って何よ」

「え、え?」

急になんだか恥ずかしいことを聞かれて、たまきは戸惑いながらも答えた。

「私にとって……志保さんは……志保さんです」

たまきにはそれしか答えが出てこなかった。

「だよなぁ。志保は志保だよなぁ」

「……亜美さん、その、ヘンなこと聞くかもしれないですけど……」

「ん? どした?」

そこから先の言葉がたまきには出てこなかった。

「おい、言えよ。気になるだろが」

亜美は体ごとたまきのほうを向くと、腰をかがめてたまきの目をのぞき込む。

「なんだよ。気にすんなって。どうせおまえの言うことは、いつもヘンなんだから」

「その……」

たまきは、いつもよりさらに自信なさげに言った。

「……私たちがここで暮らしていることは、間違っているんでしょうか」

不法占拠、つまり家賃を払っていない。おまけにそのメンバーが、援助交際娘と、薬物依存患者と、家出少女である。やっぱり、こんなの間違っているんじゃないだろうか。

「そんなの、百人に聞いたら、百人が間違ってるっつーに決まってんだろうが」

「やっぱり……」

亜美は煙草を一本取りだし、火をつけた。

「……だから?」

「え?」

たまきは亜美を見上げる。

「ああ、ウチらがやってることは間違ってるよ。だから? じゃあ、解散するか?」

「そ、そんなの……!」

こまる。ここが解散になったら、たまきはどこに行けばいいというのか。ここにいられなくなったら、いよいよ死ぬしかないじゃないか。

「な、ウチらの生き方が間違ってようが、それでしか生きていけねぇんだったら、そう生きてくしかねぇじゃねぇか」

亜美は携帯灰皿にたばこをぎゅっと押し付けると、灰皿のふたをぱたりと閉じた。蓋に断ち切られた煙が、何か断末魔のようにふわりと漂い、消えた。

つづく


次回 第30話「間違いと憂欝の桜前線」

自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

田代に別れを告げた志保はがっつりと落ち込んでしまう。そんな志保の周りで、亜美が、たまきが、舞がそれぞれ動く。「志保編三部作」の最後の「あしなれ」第28話、スタート!


第27話 「ラプンツェルの破滅警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「おい、いいのか?」

亜美の問いかけに志保は小声で

「いいの……」

とだけ答えた。志保は亜美も、そして田代の方も見ることはなく、その場を離れた。

志保が田代に「すべて」を話すのを、少し離れたところから亜美とたまきも聞いていた。亜美とたまきにも聞いてほしかったのと、志保が一人で田代の前に立つ勇気がなかったのがその理由だ。

「ちっ」

亜美はわざと聞こえるように舌打ちをすると、ズボンのポケットに手を突っ込んで志保の後を追った。

たまきは、田代の方を見やった。

事態が飲み込めない、そんな表情だろうか。

まあ、当然だろう。いきなり呼び出されて、あんな話をされて話を飲み込め、というのはいくらなんでも無理がある。

「あ、あの……」

たまきは一歩前に進み出て、田代に声をかけて、それからすぐに、心の底から後悔した。「知らない人に話しかける」というのが、たまきは一番苦手なのだ。

声をかけてしまってから後悔し、たまきは田代から目線を外す。

一方、声をかけられた田代は、たまきの方を見た。

「君は……志保ちゃんの友達……?」

まあ、田代から見て志保の後ろの少し離れたところでずっと話を聞いていれば、いくらたまきのように影の薄い子でもその存在に気付くだろうし、友達なのかな、と思うだろう。

もう引き返せないと悟ったたまきは、

「あ、あの……」

と言ってから一度深呼吸をして、言葉をつづけた。

「志保さん……その……田代……さん……にお話しするまで……すごく悩んでました……。そ、それだけわかってあげてください……」

たまきはほとんど田代の目を見ることなくそれだけ言うと、くるりと背を向け、まるで悪いことでもしたかのように、小走りにその場を立ち去った。人と話すことよりも、その場から逃げ出すことの方が得意なたまきである。

人気のない路地裏で、少し先を歩いていた亜美に追いつき、横を並んで歩きだす。

「ん? ヤサオと何か話してたのか?」

「べ、べつに……」

ニット帽をかぶったたまきは、もうその話題には触れられたくないように下を向いた。

「まさか、志保がヤサオをフッたのをいいことに、ヤサオのことを奪おうとか……」

「そんなわけないです」

たまきは即座に否定した。

たまきは前方に目をやる。亜美とたまきより5mくらい前を離れたところを、志保が歩いていた。右手にはハンカチが握られていて、時おり目元にそれを押し当てている。

「あ、あの……さっきの志保さんの話なんですけど……」

たまきは亜美の横を歩きながらも、亜美と目線を合わせることなく言った。

「私にはよくわからなかったです……」

学校に行けて、友達がいて、カレシがいて、志保はそれが「怖い」という。

でも、結構な話ではないか。

「その……自慢話にしか聞こえなかったというか……」

あんまり志保のことを悪く言いたくはないのだが、たまきからしてみればうらやましい話でしかなかった。なんで志保はわざわざ自分で「壊したい」なんて思ったのか、よくわからない。

それを聞いていた亜美は、最初は黙っていたが、やがて笑い出した。

「はははは。なるほど、自慢話か」

「……やっぱり変ですか?」

亜美は前方を歩く志保と十分に距離をとっていることを確認すると、少し声のボリュームを落とした。

「まあ、自慢話って言ったら、そうだよなぁ」

たまきは黙ったまんま答えない。

「ま、世の中の悩みっていうのは案外、他のヤツが聞いたら自慢話かもしんねぇよな」

亜美はそう言って笑うと、たまきの方を見る。

「だってさ、仕事の愚痴もさ、仕事ないやつが聞いたら自慢話じゃん。恋人の愚痴も、恋人いないやつが聞いたら自慢話じゃん。子育ての愚痴も、子供いないやつが聞いたら自慢話じゃん」

「……まあ」

「でさ、そういう話するやつにさ、『え? なに? 自慢?』って聞き返すじゃんか」

「え……あ……そうなんですか……」

そこでそんな煽るような言い返し、たまきにはできない。

「するとたいていさ、『あんたなんかに何がわかんの!』って逆ギレされんだよ。は?って話じゃんか。ウチに言ってもわかんねぇって思うんだったら、最初っから相談すんじゃねーよ、バーカ!って言うわけよ」

「あ、そう思う、ってわけじゃなくて、ほんとに言っちゃうんですか……」

たぶん、実際は今より十倍くらい辛辣な言い方に違いない。胸ぐらをつかむ程度のことはしているかもしれない。

「で、何の話だっけ?」

亜美は話しているうちに興奮して、何の話をしてるのかわからなくなったらしい。

「その……、悩みってあんがい自慢話だって話です……」

「ああ、そうだった」

亜美は頭の後ろで腕を組んだ。

「だからな、悩みってあんがい自慢話だったりするんだよ」

「そうでしょうか……?」

たまきにはどうも今一つ納得できない。今日は納得できないことが多い日だ。

「そんなもんだって。……お前の悩みだってもしかしたら、うらやましいって思ってるやつがいるかもしんねぇな」

「そんなわけないです」

たまきは間髪入れずに答えた。

学校にいけない。友達がいない。ないないづくしのたまきの悩みをうらやましく思う人などいるわけない。

そう思ってから、たまきはふと、ミチのことを思い出していた。

家族とうまくやれない、家族のことが嫌い、そんなたまきの悩みが、家族のいないミチには「わからない」のだという。

それは「うらやましい」とはまた違うのかもしれない。だけど、自分の悩みが他人にとっては自慢話なのだとしたら、いくら言葉を尽くしても理解されないのは当然のことかもしれない。「お前に何がわかる」と逆ギレしてみたところで、亜美の言うとおり、そもそも最初からどれだけ言葉を尽くして他人の悩みなど理解できるものではないのだ。たぶん、たまきが志保の悩みをいまいち理解できなかったように、志保にはたまきの悩みはわからないし、亜美にもたまきの悩みはきっとわからないのだろう。

ただ一つ、たまきには理解できない理由ではあるけれども、志保は本気で苦しんでいる、ということだけはたまきにもわかった。

 

写真はイメージです

それから、二日ほどたった。

「城」の中は明かりがついておらず、消防の観点から申し訳なさそうについてる窓から、わずかに外の光が差し込む程度だ。

公園に行って絵でも描こうかと、たまきは起き上がった。ぼさぼさの髪を手櫛で整え、「衣裳部屋」においてあるリュックサックを手に取った。

そこでたまきはふと思い出す。今、この空間にもう一人いるということを。

志保はソファに腰掛け、何をするでもなく、ただそこに座っていた。

亜美は昨夜からいない。どこに行ったかもわからない。まあ、亜美はいつもそんな感じだ。

一方の志保は、いつもとは全然様子が違っていた。目はうつろで焦点が合わず、どこを見ているのかわからない。髪はぼさぼさ。染めた髪の根本は少し黒くなり始めていたが、今の志保にとってはどうでもいいことらしい。

「あ、あの……」

「……なに……」

紙やすりで雑に削り取ったかのようなか細い声で、志保は答える。

「……今日は施設に行く日じゃなかったでしたっけ……」

「……休むって電話したから……」

「……そうですか……アルバイトの方は……」

「……バイトもやめた方がいいよね……。なかなか電話できなくて……」

たまきは手にしたリュックを床に置いた。

これではどっちが引きこもりなのかわからない。

舞からは、志保を一人にするなと言われている。そうでなくても、今の志保を一人置いて出かけるなんて、たまきにはできない。亜美ならするだろうけど。

結局、たまきは黙ったまま座り続けた。志保も黙ったまんまだ。

何の会話もないまま三十分が過ぎたころ、不意に静寂が破られた。

ドアをどんどんと叩く音。次に声が聞こえる。

「おい、不法占拠の野良猫ども。誰かいるんだろ? あたしだ、開けろ」

舞の声だった。

たまきは志保の方を見た。志保はドアをたたく音と声に気付いているのかいないんか、これといった反応はない。

たまきは立ち上がると、「城」のドアを開けた。

「……こんにちは」

たまきはドアから顔を出すと、申し訳なさそうに挨拶をした。

「……おまえひとりか? 志保は?」

「……中にいます」

舞はドアをぐいっと開けると、靴を脱ぐことなくずかずかと「城」の中に入っていった。

入ってきた舞に気付いた志保は、無言で軽くお辞儀をするだけだ。

「よお。聞いたぞ。オトコをフッたんだって?」

「……まあ」

志保はなんだか、たまきみたいな返事の仕方をする。

「なんだよ。なにフッた方がこの世の終わりみたいな顔してんだよ」

「……ですよね」

志保は目線を上げることなく答えた。

「どれ、診察してやっか」

舞は、志保の向かい側にあるソファに座った。それから、後ろにいるたまきの方を向く。

「たまき、悪い。ちょっと席外してくんねぇかな。そんな長居しねぇから。その間……そうだな……古本屋とか、どっかそうだな、お前の好きそうなとこってどこか……」

舞としては引きこもりのたまきに「どこか行け」という残酷なお願いをするのにかなり気を使ったのだが、たまきは意外とあっさりと、

「わかりました」

というと、床に置いてあったリュックを手に取り、「城」の外へと出て行った。

「さて、どれどれ熱は……ないな」

舞は志保のおでこに手を当てる。

「はい……熱は……ないです」

「いや、冗談だってば」

舞は苦笑しながら、志保の額から手を離した。

「熱はないけど……こりゃ重症だな」

舞は志保の顔色をしげしげと見る。

「さて、あたしはお前の主治医だから、お前がまたクスリに手を出しそうになったら、止めにゃあならん義務がある。そんで、今のお前は明らかに精神的にやばい状態だ。よってあたしは、これからお前を診療しようと思う。あ、この場合、あたしの方から来たから、往診っていうのか」

舞はわざと明るく言ったが、志保の表情は変わらない。

「とりあえず、亜美からお前が男をフッたとしか聞いてないから、何があったのか、話してみな」

 

写真はイメージです

小さく舌打ちして、亜美は携帯電話を閉じた。

「余計なことしたかな」

舞に志保のことを話してよかったのかどうか。とはいえ、それ以上の余計なことは言っていない。亜美が舞に話したのは、単に「志保がオトコをフッて、えらく落ち込んでいる」ということだけで、亜美が聞いた志保の過去にまつわる話は一切しゃべっていない。そもそも、亜美は舞から電話で、「志保が前に恋愛相談に来たけど、あの件は結局どうなった」と聞かれたことに答えただけだ。

「シゴト」と用事を済ませた亜美は、どこに向かうでもなく繁華街の街をぶらぶらとしていた。

何気なく、ついこのあいだ志保が田代と会っていた空き地の前を通りかかる。ふと、亜美は空き地の中に、見たことのある姿を見つけた。

田代だった。田代は何をするでもなく、空き地の中に立ちすくんだまま、あたりを見渡している。

「おいおいもしかして……」

その様子を亜美は少し離れたところから見ていた。

(こいつまさか、ここにいればまた志保がやってくるんじゃねぇかって、月9みたいなことしてるんじゃねぇだろうな……)

亜美は半ばあきれた様子で田代を見ていた。

なるほど、確かに田代は優しそうな好青年である。背も高く、柔和な顔立ちだ。

だが、亜美の好みではない。正直、こんなののどこがいいんだろう、と首をかしげる。亜美の付き合うような男たちがお酒で、ミチのようなその取り巻きがジュースだとすると、こいつは水、よくてお茶といったところだろうか。

来るはずもない志保を待っているのがさすがにかわいそうになり、亜美は田代に近づいた。

「おい」

あまりに乱暴な亜美の呼びかけに、田代は自分が呼ばれたと気づかず、亜美の方を向かない。

「いや、ヤサオ、おまえだよおまえ」

ややいら立ちのこもった亜美の呼びかけで、ようやくヤサオこと田代が振り向いた。

「君は……志保ちゃんの友達の……」

田代も亜美のことを覚えていたらしい。いや、髪を金に染め上げ、冬場でも見せれるところを見せようとする亜美の姿を「忘れろ」という方が無理なのかもしれない。

「あのさ、まさかとは思うけど、ここで志保来ねぇかって待ってんの?」

「う、うん……」

田代は、少しぎこちなくうなづいた。

「志保ちゃん、今日バイト休んでて……。最後にあったのここだから、もしかしたらまた会えるかと……」

「おまえバカか」

ほとんど面識はないはずの亜美からいきなり「バカ」と浴びせられ、田代は面食らった。しかし、亜美の方は気にすることなく言葉をつづける。

「バイト休むような奴が、この辺うろついてるわけねぇだろ、バカ。そんな元気あるんだったら、バイト行ってるだろうが、バカ」

まるで語尾につける句読点のように、亜美は「バカ」と言い放つ。そのたびに田代はボクサーにビンタされたかのように、少し顔をゆがめる。

「でも、俺、志保ちゃんの家どこか知らないし……電話しても出ないし……」

「『さよなら』っつったオトコから電話かかってきて、出るわけねぇだろ、バカ。そこで出るようなら、そもそもさよならとか言わねぇつーの、バカ。つーかさ、フッた男から電話かかってきたら、かえって志保が苦しむんじゃねーかとかさ、考えねぇのかよ、バカ」

「す、すいません……」

わずかなあいだでバカの集中砲火を浴びた田代は、うなだれるしかなかった。

「……ま、いきなりあんな話されたら、わけわかんねぇよな。悪ぃ、言いすぎた」

そういうと、亜美は公園内に置かれた、大きな岩を指し示した。

「おい、ここ座れ」

そう言って乱暴に自分の横の岩を蹴っ飛ばす。

「え?」

「んだよ? 別に噛みつきやしねぇから、いいからとりあえず座れ」

 

「なるへそ」

舞はソファに座り、腕を組んで志保の話を聞いていた。

「で、お前は別れたことに納得してんのか?」

「はい……」

志保は吐息のようにつぶやいたあと、無理しているかのような笑顔で、こう付け加えた。

「たまきちゃんに言われたんで」

「ん?」

腕組みをしたままの舞は、何かに引っかかったように、志保を見た。

「たまきに言われたから別れたのか?」

「……はい」

舞は少し身を乗り出す。

「さっきの話じゃ、たまきが言ったのはあくまでも、別れる別れないを決めるのはお前じゃなくて相手だって話だろ? あいつはお前に『別れろ』なんて言ってないだろ? それが何で、『たまきに言われたから別れた』ってことになるんだよ」

「それは……」

志保は少し間を開けてから答えた。

「だって……、本当のことを言ったら、きっと彼はあたしのことを軽蔑し、別れると思うんです。だったら、自分から別れた方がいいって思って……」

「ん?」

舞はまたいぶかしむように顔をしかめる。どうにも話がつながって見えない。

舞は煙草を灰皿に押し付けると、そこから漏れ出た煙を眺めながら、しばらく考えた。

今聞いたばかりの、志保が覚醒剤に手を出した理由。

志保が田代と別れることとなった経緯。

「ふーむ……」

舞は片手でたばこを持ち、もう片手を頬に当てて考え込む。

「なるほど……」

舞は何かを一人で合点したように、再び煙草を口にした。

「おまえの問題点が、やっとわかったよ」

「私の……」

「ああ」

舞はゆっくりと息を吐いた。

「結局おまえは、何一つ自分で決めてないんだよ」

「え……」

志保は虚を突かれたように、ぽかんと口を開ける。

「どういう意味ですか?」

志保は少し、自分のプライドが傷つけられた気がした。

自分の人生を壊す。その選択が、そのやり方が、たとえどんなに愚かなことだったとしても、それを「自分の意志で決めた」、それだけは間違いないと思っていたからだ。

そもそも、「自分でなにも決めてない人生」を変えたくて、人生を壊すと決めたはずだ。「結局なにも自分で決めてない」だなんて、そんなことあるもんか。

「おまえの判断基準はいつだって、『こうしたい』じゃない。『こうした方がいい』なんだよ」

たばこの煙が天井へと延びていき、空気になじんで、消えていく。

「だってお前、ほんとは別れたくなかったんじゃないのか。だから、あたしに相談したり、たまきに相談したりしたんじゃないのか? 別れたかったら、相談なんかしないよな」

「それは……そうですけど……」

「じゃあなんで別れたんだ?」

「だってそれは……別れた方がいいと思って……」

そこで志保ははっとした。自分が今まさに「した方がいい」と口にしていたことに。

「クスリに手を出す前のお前は、自分の意志や欲望を持たずに、常識ってやつに価値判断を任せて生きてきた。お前の言う『空っぽの人生』ってやつだ。お前はそれが嫌だった。さっきおまえが話してくれたことをまとめると、そうなるよな」

志保は無言でうなづく。

「確かに……薬に手を出したこと自体はバカだったと思います……。でも、それからはあたし……、ちゃんと自分の意志を持って……自分で『こうしたい』って考えるように……」

「思ってるだけだ。それを決断にまでは結び付けちゃいない」

舞は志保の目を、まっすぐに見据えて言った。

「現におまえは、はっきり『別れたくない』と思っていたにもかかわらず、『別れた方がいい』と決断したんだ」

「でも……だって……そうじゃないですか。あんな話したら、彼だってあたしのことに嫌い……」

「話を聞いて相手がどう思ったのか、ちゃんと確認したのか?」

志保は少し泣きそうになりながら、首を横に振った。

「なんで確かめない? それこそ、たまきに言われたんじゃないのか? どうするのかを決めるのはお前じゃない、相手だって」

「だって……」

志保の声が少し震え始めた。

「耐えられるわけないじゃないですか……。好きな人から『おまえなんか嫌いだ』なんて言われるのは……。耐えられるわけないじゃないですか……」

「だから自分から『別れた方がいい』と」

舞はソファの背もたれに背中を押し付け、がっしりと腕を組んだ。

「でも、お前の本音は『別れたくない』だったんだろ? それなのに別れちまったら、お前の本音はどこに行くんだろうな?」

その問いかけに、志保は答えなかった。

あたしが。あたしが。あたしが。たまきや亜美に相談するときにさんざん言ってきたのに、最後の最後で「あたし」を黙殺する自分。舞の言うとおり、どんなに「あたしが」と強く思い続けても、志保はそれを決断に結び付けられないのだ。

「どこにも行きやしねぇよな。お前の心の奥底でずっとくすぶり続ける」

舞は少し身を乗り出すと、志保の胸を指さした。

「おまえさっき、別れたことは納得してるって言ってたけど、納得してるんだったらこんなところでひきこもってなんかないよな。本当はこれっぽっちも納得なんかしてないんだよ。『別れたくない』がお前の本音なんだから。そんでもってそれを、たまきのせいにしてる」

「あたし、べつにたまきちゃんのせいだなんて……」

「だってさっき言ったじゃないかよ。『たまきに言われたから』って」

「それは……」

志保は下を向いた。

「別れるって決断をしたのはお前だ。でも、お前の本音じゃない。お前の意志じゃない。決断をしたのはお前だけど、お前じゃない。ややこしいけど、わかるか?」

「……まあ」

「おまえの本音はお前の中でくすぶってるまま。納得なんかしていない。それを『人に言われたから』ってことにして納得しようとしてるだけだ。ほんとはお前が決めたのに」

舞はそういうと、再び煙草に口を付けた。

「いやな、別に『そうした方がいい』って判断したこと自体が悪いわけじゃねぇんだよ。たとえば、ケーキが食べたいけど食べたら太るから食べない方がいい、ってときは、『食べない方がいい』を選んでも全然いいんだよ。ただな……」

舞はそこで一度言葉を切ると、志保をまっすぐに見た。

「おまえの場合は、それが多すぎる。それも、重要な選択の時はほぼ必ず、本音を無視して『した方がいい』の方を選んじまう」

志保は、舞の目を見れなかった。

「おまえが財布盗んだ時だってそうだ。お前の本音は『ここに残りたい』だった。でもお前はあの時、『ここから去った方がいい』を選択したんだ。あんときもお前がここに残れないかと言い出したのはたまきだったよな。そのあと、亜美が言い出して、お前自身が言い出したのは、一番最後だ」

志保は黙ったままうつむいている。

「クスリに手を出したのだってそうだよ」

「そうなんですか……」

「まあ、まず薬物に手を出しちゃいけないって大前提があるけど、それは今更言ってもしょうがねぇ。ちょっと置いとこう。お前は常識に従っちまう人生ってやつを変えたかったんだろ? だったらなんで覚醒剤なんだ? たとえばさ、学校に通いながら、自分でこうしたいって決めて、自分でしっかり進路定めて、周りにどう言われようと自分の意志を貫く、そんな生き方じゃダメだったのか? っていうか、そんな生き方がしたかったんじゃないのか?」

「それは……でも……それじゃ駄目な気がして……」

「何がダメなのさ?」

「……結局、元の場所に戻っちゃうんじゃないかって」

「それだよ、それそれ」

舞は志保を指さす。

「おまえは自分が『こうしたい』って思っても、それを貫けないんだよ。だからお前は、クスリに頼った。覚醒剤はどんなに意志の強いやつでも人生を破滅させる。普通はそれは悪い意味で使われるんだけど、お前はそれに頼ったんだ。お前みたいに、意志を貫くことができないやつでも、確実に人生を破滅させられる」

舞は煙草を灰皿に押し付けると、ふっと笑顔を見せた。

「最初に会ったとき、お前の薬物依存を『病気』だって言っただろ? 治さなきゃいけない病気なんだ。でも、その根本はクスリがどうこうじゃない。なんでクスリに手を出したか、そこだ。治さなけりゃいけないのは、お前のその意志の弱さ、意志を貫けない性格なんだよ。そのままでいいっつうなら別にいいけど、お前はそれを治したいって思ってるんだろ? 第一、本音を押し殺しながら生きてたら、お前自身がいつまでたっても苦しいまんまじゃねぇか」

「そうですよね……」

「で、お前はどうしたかったんだ?」

舞は歯を見せてにっと笑った。

「あたしは……別れたくなかったです……でも……」

「ストップ! そっから先は言うな」

舞は手で志保の言葉の続きを制する。

「別れたくなかったんなら、カレシにしがみついてでも、ヤダヤダ別れたくないって言えばよかったんだよ」

「そんなみっともない……」

「おまえまだ十七だろ? いいじゃんか、みっともなくて」

そういうと舞は優しく笑った。

「あの……」

志保は顔を上げて、少し身を乗り出す。

「あたしはどうすれ……」

そこで志保ははっとして言葉を切った。

「どうすればいいか」ではない。

「どうしたいか」だ。

いいじゃないか、みっともなくて。

自分の過去も、言いたくないことも、全部話したのだ。

だったらさらに醜態さらして、「ヤダヤダ、別れたくない」とみっともなく田代にしがみついてみたらどうだ。

きっと軽蔑されるだろう。でも、どうせフられるならとことん軽蔑されるのも悪くない気がしてきた。

精神的なダメージや体裁を考えたら、もちろん、そんなことは「しない方がいい」。

でも、今の志保は「そうしたい」のだ。

志保は携帯電話を取り出すと、優しくボタンを押した。

 

田代は亜美に促されるがままに、公園の中に置かれた岩に腰掛けた。

だが、亜美の方はどこにも腰掛けずに立ったまんまだ。そのまま腕を組んで田代の方をにらむように見ているから、ずいぶんと亜美の方が偉そうに見える。

「で、お前どうしたいの?」

亜美は尋問、いや、質問をぶつけた。

田代は困ったように周りを見渡してから答えた。

「まず志保ちゃんに会って……」

「そりゃそうだろ、バカ。志保とコンタクトとりてぇからこんなとこうろついてんだろうが」

「ちゃんと話して……」

「あたりまえだ、バカ。あったら話すに決まってんだろうがよ」

「あの……」

田代はかなり困ったように亜美を見た。

「……あんまりバカバカ言わないでくれないかな……?」

「あ? バカじゃねぇの? バカにバカって言って何が悪いんだよ、このバカ!」

亜美は田代にグイっと顔を近づける。

「ウチが聞いてんのは、会って話して、そのあとどうしたいのかってことだ、バカ。会ってしゃべってそれで満足なわけねぇだろ。その先があんだろ?」

「それは……」

田代はいよいよ困ったような顔を見せる。

「ま、ウチはお前があの話聞かされたら、てっきり逃げ出すと思ってたよ。もう一度会って話したいっていうのはほめてやるよ」

「ど、どうも……」

「逃げようとか思わなかったのか? 志保の方からお前に別れ切り出したんだ。お前がこのまま会おうとしなければ、それで縁が切れたのに。そうすれば、厄介ごとからも手を切れるんじゃねぇのか……」

「厄介ごと……」

田代はそこで、少し下を見た。

「一度好きになった人を……、厄介ごとだなんて、思えないよ……」

「そもそもさ、志保のどこがよかったんよ」

「それは……、明るくて……優しくて……一緒にいて楽しいっていうか……」

そこで亜美は、深くため息をついた。

「で、結局どうしたいんだよ?」

「……僕に何ができるかわからないけど、彼女を支えていきたいと思う……」

「あんな話聞かされてもか?」

「……あんな話聞かされたからかもしれない。僕だっていろいろ考えたよ。でも、今の志保ちゃんには、やっぱりだれか支えてあげる人が必要なんじゃないかって思って……」

「……お前の手に負えないかもしれないんだぞ」

亜美は腕組みしたまま、まっすぐに田代を見た。

「……僕もこれから薬物について勉強していきたいと思うし……、たとえ手に負えなくても、僕はまだ志保ちゃんのことが好きだから、僕が守ってあげなくっちゃ……」

「ちっ!」

亜美はわざと聞こえるような大きな舌打ちをした。

「え?」

「ああ、いや、何でもねぇよ」

そういうと亜美はそっぽ背く。そして、心の中で叫んだ。

こいつ、ぜんぜんおもしろくねー!

つまんねー。なんてつまんねー男。笑点だったら座布団を全部没収して、ステージの下に蹴り落したっていいくらいのつまらなさだ。

原宿の女子高生が好きそうな甘ったるいラブソングに、魔法をかけて体と声を与えたらこの田代ってやつになるんじゃないだろうか。そういえば、前にカラオケに行ったとき、志保はそんな甘ったるいラブソングばかり歌ってた。

こんなヤサオのどこがいいのかと亜美は今まで不思議で仕方なかったが、何となくその理由がわかった気がした。そういえばこいつら、二人そろって青春映画を見に行くようなカップルだった。

なぁにが「支えていきたい」だ。「守ってあげなくちゃ」だ。道徳の教科書みたいな顔しやがって、このやろう。

さて、どうしたものか、と亜美は頭をひねる。

志保が田代に別れを告げて以来がっつり落ち込んでいるのはよく知っている。田代もその気だというのなら、二人の間を取り持ってやるくらいのことはやってもいい。

やってもいいのだけれど、志保をまたこのつまらない男くっつけても、なんだかおもしろくなさそうだ。

とはいえ、と亜美は考えを改める。これは志保と田代の問題である。亜美がつまらないという理由で間を取り持たない、というのは筋が通らないだろう。亜美としては面白みがないが、志保がこのタワーレコードに平積みで置いてありそうな男が好みだというのならば、とやかく言わずにその間を取り持ってやるっていうのが友達ではないだろうか。

なにより、「城」に引きこもりは一人で十分だ。二人もいると、めんどくさいうえに、しんきくさい。

「おい、ヤサオ」

「あの……それって僕のこと……」

「ウチはジヒ深いから、お前と志保の間を取り持ってやる」

「え……?」

田代はにわかには信じがたいという目で亜美を見る。

「ウチが首に鎖つけて絞め殺してでも、志保をお前の前に引きずり出してやるよ。いやだ、会いたくない、って泣きわめいても、お前の前に連れてきてやるから安心しろ」

「え……べ、別にそこまでしなくても……もっと穏便に……」

「いや、今のあいつに必要なのは荒療治だ。何日も何日もうじうじしやがって。こういう時はな、無理やりにでもことを進めた方がいいんだって」

亜美が思いつく解決法というのはだいたいいつも、荒療治とか無理やりとかである。そして、それがうまくいったためしは、ほぼない。

亜美は携帯電話を取り出す。

「でもな、お前がまた志保と付き合ったとしても、ハッピーエンドになるとは限んねぇぞ。バッドエンドかもしんねぇぞ。そのこと、わかってんのか?」

田代は、手を組んで少し下を向いた。

「……バッドエンドにはさせません」

「いや、お前がさせねぇっつったって、バッドエンドになるかも知んねぇだろ? そん時どうすんだよ」

「だから、バッドエンドにするつもりはありません」

「いやだから、つもりがねぇっつっても実際……」

「そもそも、最初から悪い方向になるかもしれないなんて思いながら恋愛なんてしないですよね。恋愛って、幸せな将来を思い浮かべてするものですよね? だから、志保ちゃんとの幸せな未来を思い浮かべて、そこに向かって二人で歩いていく、それが恋愛でしょ? 確かに、志保ちゃんは普通の子とは違うのかもしれないけど、悪いことばかり考えてたら、本当にバッドエンドになっちゃうんじゃないのかな?」

亜美は何か言いたげに田代を見ていたが、

「ま、どうでもいいわな……」

と言うと、携帯電話をいじり始めた。もう、道徳の授業はうんざりだ。

電話帳から志保の名前を探して押す。だが、呼び出し音がいくらなっても志保が出てこない。

「おかしいな。あいつ出ねぇ。誰かと話してんのかな?」

そう言って志保が振り返ると、田代が誰かと電話で話していた。

「……うん、わかった。じゃあ、この前の場所で待ってるから……」

そういうと田代は、電話を切った。

「志保ちゃん、これからこっちに来るみたい」

「おまえと話してたんかい!」

亜美はやるせなさそうに携帯電話をポケットにしまった。

 

写真はイメージです

たまきは公園の「庵」の前に座っていた。

ベニヤ板とブルーシートでできたお化けのような「庵」は、無数のホームレスたちがせわしなさそうに出入りしている。

最初はここに来るたまきのことを物珍しそうに見ていたホームレスたちだったが、いつしかここにたまきがいるのも風景の一部となったらしく、さほど気にしなくなった。

たまきの正面には、仙人が安物の椅子に腰かけて、たまきのスケッチブックに目を通している。

「前よりうまくなったんじゃないか?」

そう言って仙人はたまきにスケッチブックを返した。たまきはぺこりと頭を下げた。

「それで、今度は何に悩んでるのかな?」

「やっぱり、わかりますか……?」

たまきは視線を落としたまま答えた。

「……友達に、えらそうなことを言ってしまったのかもしれません」

「ほう」

仙人は興味深そうにたまきを見た。

「そのせいで、友達がカレシさんと別れてしまったのかも……」

「お嬢ちゃんのせいなのかい」

「それは……わかんないんですけど……」

たまきはずっと下を見たままだ。

「私は、ちゃんと正しいことを言えたのかな……、もしかしたら、私が言ったことは間違ってたんじゃないかなって思って……」

「お嬢ちゃんがその友達に何を言ったのかはわからないが……」

仙人は片手に持ったカップ酒を、人差し指でトンと叩いた。

「それはどこかにはっきりとした正解があることなのかい?」

「え?」

たまきはここで、初めて仙人の目を見た。

「学校のテストみたいに、はっきりとした正解が存在することだったら、何が正解で何が間違いかはっきりしている。裁判なら法律に照らして正解か間違っているかはっきりさせる。だがなお嬢ちゃん、世の中のたいていの問題は実は、はっきりとした正解は存在しないんだ」

そこで仙人は再びカップ酒に口を付けた。

「だから争いが絶えない。俺の方が正しい。いや、私の方が正しいってな。実はどこにも正解がないのに、自分こそが正しいんだお前が間違ってるんだって主張しあうから、人は争う」

仙人はカップ酒を傍らに置くと、たまきの目を見る。

「そして、何が正しいかわからないから、人は悩む。どこにも正解がないから、何が正しいのかわからない。でも、人はやっぱり、自分が正しいと思ったことをしたいもんだし、間違ったことはしたくないもんだ。何が正しいかわからないけど、これが正しいんだって信じなければ、何も決められない。どこにも正解は存在しないのに、それでもどこかに正解があるはずだと信じて動かなければならない。人生ってのは、神様と追いかけっこしてるようなもんだな」

「はあ……」

たまきはぽかんと口を開ける。数週間ぶりに学校の授業に出て、まったくついていけなかった時もこんな顔をしていたのかもしれない。

「それで……私はどうしたらよかったのかなと……」

「そんなの、お嬢ちゃんのしたいようにすればいい」

仙人はそう言って優しく微笑む。

「はっきりとした正解なんてどこにもないんだから、自分がしたいようにすればいい」

「でも、それで間違ってたら……」

「自分が間違ったことをしたと思ったら……」

仙人はにっこり微笑んだ。

「自分のしたいようにすればいい」

 

写真はイメージです

「城」に帰ったたまきは、またしても口をぽかんと開けた。

「だから~、またユウタさんとやり直すことになったんだってば~」

志保がこれまでの落ち込みっぷりが嘘のようにニコニコとしている。

たまきは困ったように亜美を見上げた。

「なにか……あったんですか……?」

「しらねー」

亜美はこの上なくつまらなそうにしている。

「その……田代って人は、志保さんの話聞いて、それでもいいって言ってくれたってことですか……」

「うん、私のこと支えるから一緒に頑張ろうって言ってくれたの。なんでだと思う?」

「……なんでなんですか?」

横から亜美が

「聞かねぇ方がいいって」

と忠告するより早く、志保は

「志保ちゃんのことが好きだから、だってさ! ヤダもう、言わせないでよ!」

と言いながら、たまきの肩を強くたたいた。

「というわけで、ご心配おかけしました! もう大丈夫だから! あ、先生にも電話しないと!」

というと志保は、携帯電話片手に外へと出ていった。

……結局、なんだったのだろう。

何か一つの騒動が終わったようで、もしかしたらなにも終わっていないような気もする。

「ちっ」

とたまきの横で、亜美が舌打ちをした。

「一つ……気になるんですけど……」

「なんだ?」

「その……田代って人は……志保さんのことが好きだから支えるって言ったんですよね?」

「んあ? ンなこと言ってたな。あのタワレコヤロウめ」

「たわれこ?」

たまきは不思議そうに亜美を見ていた。

「で、何が気になるって?」

「……志保さんのことが好きだから支えるってことは、もし志保さんのことが好きじゃなくなったら、どうなるんでしょうか?」

亜美はしばらく黙っていたが、

「……んなこと、あいつが志保のこと嫌いになってから考えればいいんじゃね?」

そういうと亜美は、ソファの上に体を投げ出し、寝転がった。

 

何かがおかしいのだけれど、何がおかしいのか、たまきにはまだわからなかった。

 

つづく


次回 第29話「パーカー、ときどきようかん」(仮)

次回、たまきがおしゃれに目覚める!?  続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」第27話にして、ついに主人公の一人、志保の過去が明かされます。なぜ、志保は薬物に手を出したのか。「あしなれ」第27話スタート!


第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

シブヤの大型家電量販店の中のゲーム売り場、最新のレースゲームのお試しプレイ用コントローラーを、志保は握っていた。

1Pのコントローラーは友人が握っている。志保は2Pのコントローラーを握り、画面の向こうにある緑の車を操っている。

 

神崎志保。星桜高校1年生。

 

画面の中の車は猛スピードで高速道路を走り、何台もの車を追い抜いていく。現実の高速道路と違うのは、いくらスピードを出してもパトカーが現れないこと、いやがらせかと思うくらいに曲がりくねっていること、そして、高速道路にもかかわらず、壁がないことだ。

コントローラーの操作を誤ると、あっという間にコースアウトしてしまう。道路の向こうい広がる暗闇に車が飛び出し、三回繰り返すとそのままゲームオーバーだ。

制服である紺色のブレザーを身にまとった志保は、表情を変えることなく、コントローラーを握りしめていた。

隣では友人の赤い車が、ヘアピンカーブで大きくコースアウトして暗闇を舞った。直後に現れる真っ赤な「GAME OVER」の文字。

「あ~!」

友人がため息にも似た叫びを漏らし、その後ろで別の友人たちが口々に

「惜しかったよ~」

「いや、あれ、ムズいって」

と笑いあっている。

一方の志保は、相変わらず硬い表情を崩すことなく、コースに車を走らせていた。友人たちの視線も志保に注がれる。

「志保っちうまいじゃん。ゲームとかやるイメージなかったけど」

「これは操作がシンプルだから」

志保は画面を凝視したまま答えた。

そう、こういうのは要領を抑えればいいのだ。

そもそも、自動車レースというのは、速く走ればいいわけではない。単に自動車の速さですべてが決まるのであれば、ドライバーなんて誰でもいい。

ドライバーの腕の見せ所はハンドルさばきである。トップスピードで走りつつ、高速で迫りくるコースの変化に対して、的確なハンドル操作をミスすることなく繰り返すことが、トップレーサーの才能だ。

もちろん、志保にそんな才能はない。

だから、志保はスピードを出すことを控えた。

志保たちがプレイする前にこのゲームを体験していた人たちはいずれも、トップ近くまで加速し、コースアウトや激突を繰り返し、ゲームオーバーとなっていた。後ろで並びながらその様子を見ていた志保は理解した。このレースゲームはコースの難易度が高く、トップスピードを出してしまうと、よほど慣れていない限りクリアできない。初心者が完走したければ、スピードを抑えることが重要だ。

スピードを抑えることは、レースとしては邪道かもしれない。

それでも、コースアウトしてゲームオーバーになってしまったら、何にもならないじゃないか。

志保はスピードを捨て、正確さに徹した。

そうなると後はもう、要領の良さの問題である。車をずらしたり、方向を変えたり、必要なタイミングで必要な操作をするだけだ。

志保は無事完走した。画面に「FINISH」の文字が踊り、背後から友人たちの歓声が聞こえる。

「志保っち、すごいじゃん!」

「あ、でも、順位は17位だって」

このゲームは30台もの車でレースを競う、という設定だ。第30位から始まり、一台ずつ車を抜いていく。

志保は早々に順位を捨てた。順位を気にしていたら、完走できない。どれだけ早かろうと、ちゃんとゴールできなかったら意味がない。

「でもさぁ、ミカのあれ、マジウケたよね」

ミカというのは、志保の隣でプレーして、早々にゲームオーバーとなった友人だ。

「あれねぇ。他の車に二回連続でぶつかって、そのままコースアウトってヤバすぎるでしょ」

「しかも、そのあと復活したけど、5秒でまたコースアウトして、ゲームオーバーでしょ? 下手すぎ」

そう言って、友人たちはゲラゲラと笑う。

会話の中心にいるのは、完走した志保ではなく、ゲームオーバーになった友人の方だった。

志保にはその理由がわかっていた。

志保のプレーは、ゲームとして面白くなかったのだ。

なにより、志保自身がプレーしていても、面白くなかった。

完走しても、ちっともうれしくなかった。

ゲームをしていたはずなのに、いつの間かそれが作業となり、楽しめなかった。

いっそコースアウトしてゲームオーバーしてしまった方が、ゲームとしては楽しめたのかもしれない。

 

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焦げ茶色のレンガを積み上げたような巨大なマンションに、志保は入っていった。志保は物心がついた時から、このマンションの9階で家族と暮らしている。

「ただいま……」

薄暗い部屋の中から返事はない。だが、そもそも返事を期待していたわけではないので、志保は表情を変えることなく靴を脱ぐ。

共働きの両親は今日も帰りが遅い。夕食に間に合うのであれば何か連絡があるはずだが、神崎家の食卓に二人以上の人間が並ぶことは稀だ。休日でさえ、志保はひとりで食事をとることが多い。一人っ子なので、志保は家でのほとんどん時間を、一人で過ごしている。

そういえばさっきメールが来ていた。もしかしたら、とチェックする。

メールの主は両親ではなく、違う学校に通うカレシだった。ゴールデンウィークに入る少し前に、友達が開いた合コンのような感じの食事会で出会った相手だ。内容はたわいもないようなこと。志保もたわいのないようなことを打ち込んで返信する。

携帯電話をテーブルの上に置くと、着替えを済ませ、一息つくと、夕食の準備に取り掛かった。

最初は母の手伝いとして料理を始めたのだが、いつの間にか自分一人のために料理をするようになっていた。

料理をし、食事をし、片付ける。ここまでを志保は、まるで機械化された工場のように淡々とこなした。

夕食後はテレビを一時間ほど見る。番組が終わると自室へと向かい、机の上に参考書を置いた。一学期の期末テストもそう遠くない。ちゃんと勉強しておかなくては。

そこで携帯電話が鳴った。母親からのメールだった。

用件は二つ。帰りが終電近くなるということと、ちゃんと勉強しておくようにとのこと。

他にないのか、と志保は少し寂しく思った。

年頃の娘が一人で留守番をしているのである。「戸締りをしっかり」くらい書いてあってもいいんじゃないだろうか。夕飯にちゃんと栄養のあるものを食べてるのかとか、そういうことは気にならないのだろうか。

もっとも、昨日も一昨日も母親からのメールは同じ文面だった。どうせ、前に送ったメールをコピーしているのだろう。

志保も昨日母親に送ったメールをコピーする。ただ、それだけではさすがに物足りないので、絵文字を一つ追加した。「わかった。大丈夫。ちゃんとやってるよ」という味気ない文面も、そのひと工夫でだいぶ印象が変わる。

新しいメールを一から作成するよりも、そういう機能を使う方が、効率が良く、要領がよい。

そう、世の中の大抵のことは要領である。

料理を作るのも、勉強するのも、要領だ。傾向と対策を把握し、あらかじめいくつかのパターンを想定しておいて、状況に合わせて、用意しておいた対処法をこなしていけば、大抵のことはうまくいく。昼間のゲームがそうだったように。

人間関係だって、結局は要領だ。どういう話題を押さえておけば、友達が喜ぶか。どういう返事をメールで送れば、カレシと良好な関係が保てるか。どういう子供を演じておけば、両親が安心するか。

神崎志保という少女のもっとも秀でた部分は、その要領の良さと言える。

そもそも志保は、基本スペックからして高かった。勉強は人並み以上にでき、運動もそこそこできる。おしゃれにも気を使い、わりとモテる部類に入っている。手先も器用で、料理もできる。苦手なことと言えば、歌うことがちょっと苦手なくらい。

基本スペックが高いうえに、志保は要領がよいため、大抵のことは何でもこなせた。何でもできる子だったし、できないことがあっても、どうすればできるようになるかはすぐに分かった。そして、少し練習すればすぐにコツをつかみ、うまくなれた。

頭が良くて、かわいくて、何でも要領よくこなせる子。志保は小学校の頃から、そういうポジションだった。

子供の頃はそれでよかったのだ。勉強ができれば、両親や先生が褒めてくれる。おしゃれに気を遣えば、お友達から一目置かれ、男子にもモテる。

進学校に入り、多くの友達を作り、カレシを作る。青春のリア充要素を、その持ち前の容量の良さで志保は次々と揃えていった。

それはそれで、幸福だった。

だが、いつからだろうか。志保の幸福と背中合わせの場所に、得体のしれない恐怖が居座り、無数の見えない針で背中に痛みを与えるようになっていったのは。

勉強も友達もカレシも、要領よくこなしていけば、大抵のものは手が届く。多少の障害やハプニングが起ころうとも、その要領の良さでうまく切り抜けてしまう。

今まで、ずっとそうしてきた。

そして、たぶん、これからも。

進学、就職、出世、結婚、子育てと、たぶん世の多くの人がそうしているように、自分もそつなくこなしていけば、多少の障害はあれど、そう苦労することなく手にできてしまう。そんな予感が志保にはあった。それは驕りでも慢心でもなく、自分を客観的に分析したうえでの答えだ。

その予感が志保に、得体のしれない恐怖を与えていた。なんだかもう自分の人生が数十年先まで決まっているのではないかという得体のしれない恐怖に、志保は感触のない水の中でおぼれているかのような息苦しさを感じていた。

そして行きつく先は、両親と同じような大人になっている自分である。そういう未来が、容易に想像できた。

別に両親の人生を否定しているわけではない。大きな企業で重責を担っている両親のことは、素直に尊敬している。

それでも、結局は両親と同じような人生を歩んでしまうことは、なんだか歪んだ時空の無限ループに陥っているような気がして、それが志保にはとてつもなく怖かった。

たしかに自分の意志で選んでいるはずなのに、何か陰謀めいた力によって自分の意志を操作されているかのような、言いようのない恐怖感。実は自分が人間ではなく、プログラム通りに動くロボットなのだと突きつけられたかのような絶望感。

志保を操る陰謀めいた力。おそらく「常識」と呼ぶものがそれだろう。

その常識に逆らうことなく、淡々と従ってしまう自分と、そこからもたらされるわかりきった明日、未来。それが何より、怖かった。

勉強して、お風呂に入って、気が付いたら夜の十一時を過ぎていた。両親はまだ帰ってこない。

志保は自分の部屋の電気を消すと、ベッドに入った。

昼間とたがわぬ明るさを保っていた部屋だったが、灯りを消すと、部屋は夜本来の暗闇に包まれた。

 

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「変わってんな、お前」

志保のカレシであるタカユキはそう言って笑った。

「やっぱりヘンかなぁ」

志保はパスタをフォークに巻き付けている。

シブヤの商業施設の中にあるパスタの店で、志保はタカユキとともにランチを食べていた。

何でもそつなくこなせてしまうと、先のことが見えてしまい、結局予定通りの人生しか歩めそうになくて、それが怖い。

そんなことをタカユキに話したのだが、返ってきたのは「変わってんな、お前」という言葉だった。

変なやつだと言われることもうすうす予想できていたのだが、志保は普段はそんな風に言われることがないので、改めて他人から変だと言われると、少しイラっとした。

だが、客観的に見ればやっぱり志保の考え方は変なのであろう。それもわかるから、志保は感情のささくれをそっと直して、タカユキの話を聞く。

タカユキはパスタを巻いたフォークを頬張り、メロンソーダを飲んでから、続きを話し始めた。

「だってさ、勉強も、ファッションも、料理も、人間関係も、何でもできるにこしたことないじゃん。その結果さ、欲しいものが手に入って、やりたいことがうまくいく。充実してんじゃん。それが怖いっていうのが、よくわかんねぇんだよなぁ」

もう一口、タカユキはパスタを口にした。

「それってさ、贅沢じゃね?」

そういわれることも、志保は予想していた。むしろ、そういわれることがわかっていたから、今まで誰にもこの話はしていなかった。

「何、ヤなの? 今の学校とか。あ、もしかして、俺と付き合ってるのがヤとかいうなよ?」

「ちがうちがう! そういうんじゃない。今の学校好きだし、そもそも、自分で志望して入ったんだし。タカくんのこともちゃんと好きだって」

そう言ってから志保は、「好き」という前に2秒ほど空白を開けるべきだったかな、と思った。それもやっぱり、持ち前の容量の良さで、恥じらいを演出したほうがタカユキはかわいいと思うだろう、というあざとい計算からくるものであった。

だが、もう一つ理由があった。何の臆面もなく、戸惑いもためらいも恥じらいもなく、「好き」と息を吐くように言ってしまう自分に、何か違和感を感じてしまったのだ。

「でしょ? 俺にとってお前は、かわいくて頭いい自慢のカノジョなんだから、ヘンな心配しなくていいんだよ」

自慢のカノジョと褒められると、やっぱり悪い気がしない。志保は少し顔を赤らめて下を向いた。

だが、またもや志保の左側に、要領が良くて客観的な志保が現れ、問いかける。

「自慢のカノジョ」というが、一体誰に自慢するというのだろうか。

そもそも好きだから付き合うのであって、誰かに自慢したりうらやましがれれるために付き合うのではない、はずである。

「自慢のカノジョ」というけれど、本当に自慢したいのはカノジョのほうじゃない。「自慢のカノジョを持っている俺ってスゲェ」なのではないか。

それは、ブランド物のバッグや高価なアクセサリーを見せびらかすのと大して変わりないのではないか。

でも、その自慢癖は、おそらく志保にもある。

タカユキはおしゃれな方ではあるが、決してギャル男というわけではなく、派手な遊び人でもない。志保の第一印象も「大人びててやさしそうな人」だった。実際、やや軽いところもあるが、一方でやさしくまじめな一面も持っている。

そんなタカユキは志保にとっても「自慢のカレシ」であった。

実際、タカユキの写真を友人たちに見せたときの、「え~! カレシ、かっこいい!」「やさしそー!」「いいなぁ」という羨望の強い驚嘆を浴びたときは、間違いなく優越感を味わっていた。

結局のところ、志保も一番かわいいのは自分ではないか。

要領よく何でも手にしてしまう自分の人生に言いようのない怖さを感じている一方で、そうやって常識的な欲望を満たすことを自ら欲し、手に入れている。

「常識」に従うことに恐怖を感じながらも、結局のところ志保は、「常識」を踏み外して生きることができないのだ。

もしかして、自分は本当の意味でタカユキのことを好きなのではないんじゃないか。ふとそんなことを志保は考えてしまう。

志保が欲しかったのは、「自慢のカレシを演じてくれる誰か」であって、それがたまたまタカユキだっただけなのではないか。

「さて、そろそろ行こうぜ」

タカユキが立ち上がり、志保も後に続く。

「あ、あたしも払うよ」

志保はバッグの中の財布に手をかけたが、タカユキは

「いいよいいよ、おごるって」

と言って一人でレジに行ってしまった。

二人で食事するときは、いつもタカユキがおごってくれる。志保は何度も自分も払うと申し出るのだが、タカユキは財布にかなり余裕があるらしく、いつもその申し出を断る。

そのたびに志保は引き下がる。ここはしおらしく、タカユキに「カノジョにおごるカレシ」を演じさせておけば、すべて丸く収まるという計算のもとに。

「でも、タカ君っていつもお金に余裕あるよね」

タカユキは学年でいえば志保の一個上、高2である。バイトの経験も志保よりあるのだろうが、だからと言って毎回おごってくれるとなると、その財源が気になる。

「販売系のバイトって言ってたよね。何売ってるの?」

店を出た志保は、タカユキの横に並びながら尋ねた。タカユキのバイトについてはこれまで、「販売系」としか聞いていない。服か何かを売ってるのだろうと勝手に思っている。

タカユキは少し何かを考えるようなそぶりを見せてから、口を開いた。

「……アイスだよ。あと、チョコとかかな」

「なにそれ? スイーツ屋さん? なんか似合わない」

志保はそういって笑った。それにしても、よっぽど人気で儲かっているアイス屋さんで働いているに違いない。

 

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この世には、とっくにバランスを失っていて、今にも崩壊しそうであるにもかかわらず、外から見てもとてもそんな風には見えないものがある。

たとえば風船。外から見るとまんまるで愛らしいが、その実態は空気が内部から圧力をかけ、ゴムがはちきれんばかりに膨張したとても不均衡な状態だ。わずかな穴ひとつで簡単に破裂する。

志保の家庭もそのような状態だった。両親は仕事でほとんど帰らず、たまに顔を合わせても会話と言えば「勉強はどうなんだ」くらい。次第に志保もカレシや友達との時間が増え、家に寄り付かなくなった。家族それぞれの時間が、家の外を軸に回り始め、家は、思い出の写真を飾るだけの箱となった。

志保の両親が離婚したのは、高校一年生の夏休みに入ってすぐだった。母親の方が家を出ていき、志保は父と暮らすことになった。名字も父方の「神崎」のまま。

実は、離婚の原因は、志保にもよくわからない。少なくとも、不倫だとか暴力だとか、何か決定的なものがあったわけではない。

一方で、何がきっかけになったのかはわからないが、その根底には「家族が家族でなくなっていた」ことがあるということを、志保は確信していた。

おそらく、きっかけはまるで風船に刺さった針のような小さなものだったのだろう。普通の家庭ならば、日常の小さな棘として見過ごされるようなものだったのかもしれない。

だが、志保の家庭は違った。その何ともわからぬ小さなきっかけで、それまで確実に存在していたにも拘らずまるで存在しないかのように扱われてきた家族のほころびが、一気に破滅へと広がった。ちょうど、風船が何に触れて穴が開いたのかもわからずに破裂するかのように。

そのことは、志保の心にもちろん、影を落とした。

だが、それ以上に志保の心を曇らせたことがあった。

それは、両親が離婚したにもかかわらず、志保の生活も人生も、何も変わらなかったということだった。

両親の離婚が決定的になった時、志保はもちろん悲しかった。だが、その一方で、自分が少し胸躍っていることを否定できなかった。

両親の離婚という大事件で、自分の人生も何か変わるのではないか、と。

レースゲームに例えれば、突然コントローラーが故障してどう操作すればいいのか全く分からない、そんな状況が訪れるのではないかと、少し期待していたのだ。

要領の良さとか、スペックの高さとか、そういうものとは違う、もっと人間的な何かが試される大きな試練が訪れるのではないか、と。

常識通りに生きることに違和感を覚えつつも、けっきょく常識を踏み外せない志保は、何か常識はずれなトラブルが起きて、常識通りの人生を無理やり変えてくれないかということを期待するしかなかった。

だが、離婚後最初の一週間で、そんな試練は訪れないことを志保は悟ってしまう。

家に帰ってもだれもおらず、自分で自分のご飯を作り、夏期講習やデートに出かける、それまでと変わらない日々。

もともと家にいなかった両親が半分になったところで、志保の生活に変化はなかったのだ。ゼロに2分の1をかけてもも、答えはゼロのままである。

おそらく、神崎家の破綻は志保が思っていたような大事件ではなく、とっくの昔に破綻していた家族に、「離婚」という名前がようやく付いた、たったそれだけのことだったのかもしれない。

だが、そのことは、両親が離婚した以上に、志保の心に大きな影を落とす。

家庭が破綻して、両親が離婚しても、自分の人生は何も変わらない。

じゃあ、一体何が起きれば、志保の人生は変えられるというのだろうか。

 

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「志保っちのカレってさ、青柳第二高だっけ?」

八月に入ったある日のことだった。友人たちと四人で、カフェで時間をつぶしていた志保に、友人の一人が尋ねた。

「そうだけど?」

志保は答えたが、そこから先の会話が続かなかった。

尋ねといてなんなんだろう、と友人の顔を見ると、なんとも微妙そうな表情をしている。

「なに? どうかしたの?」

「……塾で聞いた話なんだけどさ……」

そう言って友人は、何か申し訳なさそうに切り出した。

「この前、青柳第二の生徒が二人、覚醒剤で逮捕されたんだって……」

その話を聞いた時、最初の反応として志保は思わず笑ってしまった。

「覚醒剤? あはは、ないない。ガセだよ、そんなの」

評判の悪い不良高校ならいざ知らず、青柳第二高校は偏差値も少し高めの、普通の高校である。

そこの生徒が覚醒剤で捕まるなんて、ありえない。まず、接点がないはずだ。覚醒剤なんて代物、どこから入手するというのだろうか。

「誰から聞いたの、そんな話」

志保は半ば笑いながら尋ねた。

「だから、塾の友達だって。その人の友達の先輩って言うのが、青柳第二の人と付き合ってて……」

つまり、「友達の友達から聞いた怪談話」のようなものだ。取るに足らない、信憑性に欠ける話だ。

「それでね、ママにその話したら、ママが高校の頃にも、そんな噂があったんだって」

志保は友人の話す噂話よりも、「ママとたわいのない話をした」という部分の方が引っかかった。母親とそんな、取るに足らないような噂話をしたなんて、いつが最後だっただろうか。

そこで、別の友人が口をはさんだ。

「あたしもガセだと思うけどなぁ。青柳第二でしょ? ないって」

「でも、ママの話だとね……」

友人はそういうと、ドリンクを一口すすって、話しはじめた。

「ママが高校の頃の青柳第二って、不良高校ってわけではなかったみたいなんだけど、それでも何人かの不良グループがいたんだって。その人たちがやばい大人と繋がってて、校内でクスリとか売りさばいてたんだって」

やはり、どうにも信憑性に欠ける話である。

「それって、三十年くらい前の、うわさ話でしょ?」

志保はドリンクをすすりながら、さほど気にしてないように言った。

「だからママが言うにはね、その時の密売グループみたいなのが今でも校内に裏のパイプみたいなのを持ってて、そこを通じて麻薬を売ってるんじゃないかって」

「それって、ママの想像でしょ? 刑事ドラマかなんかの見過ぎぎじゃないの?」

志保はもはや、気にしないのを通り越して、呆れかえってしまった。

「とにかく、志保っちも気を付けてよ?」

友人は心配そうに志保を見た。

「気をつけるって何を?」

「だから……、ヘンなクスリを売りつけられないように……」

「タカ君はそういうんじゃないし」

「あ、いや、志保っちのカレシがそうだって言うんじゃなくて……」

友人はそういうとバツの悪そうに、ドリンクのストローに口をつけた。

「まあ、志保は大丈夫でしょ」

それまで黙って話を聞いていた別の友人が口を開く。

「志保は頭いいし、しっかりしてるもん。そういうクスリに手を出す人って、『いつでもやめられると思ってた』とか、『自分は大丈夫だと思ってた』とか、そういう風に考えてるんでしょ? 志保はそういうタイプじゃないって」

「でも、もしカレから勧められたりしたら断わりづらいんじゃ……」

「だから、タカ君はそういう人じゃないって」

志保は怒るでもなく、明るく言った。

まったくもってばかばかしい話だ。青柳第二がどうとか、志保のカレシがどうとかいう話もばかばかしいが、仮に噂が事実だったとして、志保のカレシがクスリに関わる人物だったとして、志保がそんなものに手を染めるなどありえない。志保は友人たちとの会話をそう頭の中で片づけ始めた。

薬物の恐ろしさくらい、志保だってわかっている。そういう授業もあったし、テレビでも見たことがある。

一度使ってしまえばやめられなくなる悪魔の薬。意志の強さでどうにかなるレベルではない。

友人が言う通り、『自分はやめられる』『自分は大丈夫』、そんな甘い考えは通用しない。意志の強さや体質などに関係なく、万人に等しく破滅をもたらす薬、それが覚醒剤である。

そう、覚醒剤は、万人に等しく破滅を与える。

……その一言だけが、どうにも志保の心から離れてくれなかった。

 

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自分の部屋で一人、パソコンの画面をスクロールさせて、志保は文字を追って行った。

「薬物 恐ろしさ」で検索して出てきたのは、警察や市役所などが作った、薬物がいかに恐ろしいかを伝えるホームページなどだった。

薬物がもたらす快楽についても書かれていた。薬物に手を染める人はきっとそういうのに魅かれる人がほとんどなのだろうが、正直、志保はそこには特に興味がない。

志保が知りたかったのは、薬物がいかに人を破滅させるか、という点だった。

勉強の合間の息抜きに調べ始めたのだが、気が付けば読みふけっている自分がいた。

覚醒剤を一度でも使えば、肉体だけでなく、精神も破壊し、さらに依存度が強く、一度使ったら抜け出せない。このサイトを書いた人はきっと、薬物に興味を持った人にその恐ろしさを伝えることで踏みとどまらせようと思って書いたに違いないのだが、志保はその文章に妙な期待感を抱いている自分を否定できなかった。

次に志保は「青柳第二 覚醒剤」で検索をしてみた。

いわゆる掲示板のようなものに、「青柳第二の生徒が覚醒剤で捕まった」とか、「昔もそんな事件があった」とか、友人から聞いた話に近いものが書かれていたが、いかんせん、掲示板というのが嘘くさく、信憑性に欠ける。

その中で一つ、志保がまだ聞いたことのない話があった。どこまでも信憑性に欠ける話ではあったが、覚醒剤の売り子についての話だ。

志保は不良というと髪を金に染め上げ、タバコを吸ってノーヘルでバイクを乗り回す、そんなヤンキー漫画に出てくるようなイメージしかなかったが、今、青柳第二で売り子として暗躍している不良たちは、そんなステレオタイプな連中とは違うのだという。

外見は普通の生徒と変わらない。どちらかと言えばちょっと遊んでいる風ではあるが、校則を逸脱するような派手さはなく、校則の範囲でおしゃれをしているといった感じだという。

「……なんか、タカ君みたい」

思わずそう口にしている志保がいた。

売り子の少年たちは、生活態度も目立った素行不良などはない。

だが、学校にばれないところで悪事を働く。見た目の派手さやケンカの強さではない、狡猾さのある不良なのだという。

つまりは、「いかにもなワル」ではなく、教師から見ても親から見ても友人から見ても、そんな悪人には見えない、それでいて、隠れて悪事を働く狡猾さと、それを罪だと思わない倫理のなさ、そういった子に密売グループは目を付けるのだという。

そんな若者は、わりと多いんじゃないか。そんな風に志保は考えていた。バレなければ多少ズルをしたって構わない。ルールを真面目に守るよりも、どうすれば他人より優位に立てるか、どうすればより多くのお金が手に入るか、そっちの方が大事という若者は。

そして、志保はあることに気づいていた。

クリックをするたびに、画面をスクロールするたびに、志保の中に「自分の人生を壊したい」という、何色ともつかない願望が芽生え、大きくなっているということに。

いや、本当はもっと前から抱いていたものだったのかもしれない。それまでは、人生を「壊す」ための手段など思いもよらず、そんな願望があること自体を自覚していなかった。だが今、その「手段」があることに気づいてしまい、同時におぞましい願望を自分が抱いていたことにも気づいてしまったのだろう。

そんなおぞましい願望を抱いたのは初めてだった。「願望」自体を抱いたことが、志保にとっては初めてだったかもしれない。

それまでの志保は、「常識」に従って生きてきた。

そう、何かを自分で望んだのではない。ただ常識に従い、常識的に有利な方へと自分の駒を進めてきただけだ。

毎日勉強するのも、自分がそう望んだんじゃない。「勉強しないと将来に影響する」という常識に従っているだけだ。

進学校に入ったのも、自分がそう望んだんじゃない。偏差値の高い学校に行けば将来に有利だという常識に従っただけだ。

友達付き合いも、自分で望んだんじゃない。「友達は多い方がいい」という常識に従っただけだ。

タカユキと付き合ったのだって、自分では「彼のことが好きだから」と思っているけれど、本当は自分でそう望んだのではなく、「カレシがいた方が幸せだ」という常識に従っているだけなのかもしれない。

そう、何一つ自分で望んでなんかいない。何一つ自分で選んでなんかいない。ただ常識に従っていて生きていただけだ。

「常識」と言うとまっとうなものに見えるけど、「どこのだれが決めたかも定かではない価値観」だ。「自分の意志」ではない。

自分の願望を抱かず、自分にとって何が幸せか考えもせず、ただ常識が決めた幸せに向かって駒を進めるだけの人生。

それが「自分の人生」と言えるのか。

そんな人生を歩む自分は、本当に「自分」と言えるのか。

その人生を歩むのは、別に自分じゃなくてもいいんじゃないか。

「神崎家の一人娘」も、「星桜高校の志保っち」も、「タカユキのカノジョ」も、志保じゃない別の誰かが成りすましても、誰も気づかないんじゃないか。

だって、志保がこれまでやってきたことは、「一人娘」や「優等生」、「明るい友人」、「自慢のカノジョ」という役割を常識的に演じることだったのだから。

求められていたのは志保ではない。与えられた役割を、常識ってやつが書いた脚本にしたがって、要領よくこなしてくれる「誰か」。

要領よく役をこなしてくれるのであれば、別にそれは、志保じゃなくてもよかったのだ。

それでも、志保は与えられた役に縋りつき、そつなくこなすことしかできない。

役をうまくこなせば、その先にあるのは銀幕の中のような、誰もがうらやむ幸せな光景だ。キャンパスライフを楽しむ志保。スーツを身にまとい会社で活躍する志保。ウェディングドレスを着て教会で祝福される志保、赤ん坊を抱いて幸せそうな志保、年老いて子供や孫に囲まれる志保……。

でも、そこに写っているのが志保じゃない別の誰かと入れ替わっても、たぶん、誰も気づきやしないのだろう。

誰もがうらやむ幸せを手にする人間が誰かだなんて、本当は別に誰でもよいのだ。

だって、ただ常識に従って生きてきただけで、本当に自分が望んで手にした幸せではないのだから。

同じように、志保の周りの人たちが、違うだれかに入れ替わっても、たぶん志保は気づかないのだろう。母親がいなくなっても、生活が大して変わらなかったように。家族が、友人が、カレシが、別の誰かと入れ替わっても、志保は何事もなく生きていくのだろう。

何一つ実体を伴わない空っぽの人生。誰もがただ役割をそつなくこなしていくだけの人生。まるで自分という存在が顔も名前もない靄でしかないような気がして、志保にとってそれはたまらない恐怖だった。

そんな恐怖が、志保にある願望を抱かせた。

それまで願望を抱かず、常識が求める役割を願望とすり替えて生きてきた志保が、はじめて抱いた願望。

それが「自分のこの人生を壊したい」というものだった。

自分のこの人生を壊して、常識にただ従うだけの人生を変えたい。

親の離婚や家族の崩壊よりもさらに強烈な、今いる場所にはもう二度と戻ってこれないくらいに、何もかも、徹底的に、完膚なきまでに、壊したい。

そうすることでしか、「自分」というものがつかめない。志保はそう思うようになっていた。

ふと、要領の良い志保が、どす黒い破壊願望を抱く志保をいさめるようにささやきかける。そんなことしてもろくな結末にならない。もっとよく考えろ。もっとうまい方法があるはずだ。

志保が最初に壊したのは、そんな要領の良い自分だった。そうやって要領よく最善のやり方を求めても、何かが変わったようで結局今までと何も変わらないような気がしたのだ。

後先考えずに壊す。きっと、それくらいのことしないと、また「ここ」に戻ってしまう。後先考えずに壊すことでしか、この恐怖からは逃れられない。

なにより、はじめて抱いた心の底からの願望、それも、計算高さとは真逆の感情を前に、「要領の良さ」はあまりにも無力だった。

黒い願望を抱いたまま検索を続ける日々が、何日か続いた。

その間も志保の変わりない日常が続いた。夏期講習に行って、家事をして、カレシにメールして、勉強するだけの日々。そこには、志保の人生を変えるなにかは転がっていはいなかった。ブレーキのない列車に乗り続けるかのような恐怖感は、日に日に強くなっていく。いや、元から抱いていた恐怖を、日に日に実感しているのだ。

ただ一つ、ネットの中に書かれた、悪魔の薬についての話だけが、志保が望む破滅をもたらす唯一の扉に見えた。

そして、「壊したい」はいつしか、「壊そう」へと変わった。

 

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観覧車は志保とタカユキを乗せて回る。上る。

東京から少し遠出しての遊園地デート。志保が最初に乗りたいと言ったのは、絶叫マシーンでもお化け屋敷でもなく、観覧車だった。

タカユキはもっとスリルがあるアトラクションが良かったらしいが、志保がどうしても乗りたいというので、折れた。

「でも、観覧車ってさ、たしかに景色はスゴイいいけど、地味じゃん」

観覧車に乗る前、タカユキはそうつぶやいた。

そう、観覧車は、地味だ。

大騒ぎすることもなく、黙って座っていれば、眺めの良い所へ行ける。

そこから見える景色を見て「きれいだねー」とつぶやく。ほんとは予想通りの景色でしかないことは隠して。

そうして、また同じ所へと戻ってくる。そうしたら、また別の客が乗り込むだけ。

観覧車に誰が乗ってるかなんて、どうでもいいことだ。

だが、観覧車がほかのアトラクションより優れているところを挙げるとすれば、それは気密性の高さだろう。

中でだれがどんな話をしてようと、決して外に漏れることはない。

志保はタカユキの手をぎゅっと握りしめる。高度が増すにつれて少しずつその力は強くなり、志保の鼓動も早くなる。

だが、それは高いところが苦手なわけではない。ましてや、恋のドキドキなんてものではない。

下を歩く人たちが、ピーナッツぐらいの大きさになった時、志保は切り出した。

「……なんかまたおごってもらっちゃって、ごめんね」

「いいって別に。余裕あるし」

「そんなに時給いいの? アイスとかチョコとか売るバイト」

「時給か……。時給で考えたことねぇから、わかんねぇや」

「ふーん」

志保は下を見た。ピーナッツよりさらに小さくなった人影と、自分の膝と、腰まで垂れた自分の髪が同時に見えた。

「それってさ……、今持ってる?」

「……ん?」

タカユキが志保の方を見たが、志保は下を向いたまま、彼を見なかった。

「アイスとか……チョコとか……」

志保とタカユキは、園内に入ってから、何も買うことなくこの観覧車に乗った。もしかしたらタカユキが板チョコを隠し持っててもおかしくはないが、アイスクリームなど持ってるはずがないのは、一目瞭然である。

それでも志保は尋ねた。「アイスかチョコは持っているか」と。

それが、志保が扉を開けるために用意したカギだった。もし、志保の推測が正しければ、タカユキは何かを察するはずだ。それで鍵があく。

志保のような常識を踏み外せない人間でも、ちょっと目をつむっている間に、確実に人生を破壊してくれるクスリの入った宝箱の鍵が。

「そっか……」

タカユキは志保の隣でため息にもつかない息を漏らした。

「ここにはないよ。センパイに電話すれば用意してもらえると思うけど……。でも、高いよ?」

そういってからタカユキは、一度言葉を切る。

「まあ、最初だけなら、俺が金払ってもいいけど……」

「またおごってくれるんだ……」

そういって志保は笑った。

最初はおごっても、どうせ依存から抜け出せず、何度も買い求めるすることになる。最終的には儲かるという計算なのだろう。

もしかしたら、最初から絶好のカモだと目をつけられていたのかもしれない。いや、今はそんなことはどうでもいい。

そうすることを決めたのは、まぎれもない志保自身だ。

青柳第二高校で脈々と、ドラッグの密売が受け継がれているという噂。

売り子の姿にタカユキがぴたりとあてはまるという推測。

そして、「アイス」が覚醒剤を、「チョコ」が大麻を意味する隠語である、というネットで簡単に出てくる事実。

「お菓子」や「スイーツ」ではなく、「アイス」や「チョコ」という言い方をしたタカユキの選択。

それだけでタカユキがそうだと決めつけるには確証が足らなかったが、鍵が開くかどうかを試してみるには十分だった。

なにより、「人生を壊す」という目的において、こんなチャンスはもう訪れないだろう。

そして、鍵は開いた。

志保の胸には、今まで感じたことのない充足感が広がっていた。

親や先生、常識に従うのではなく、はじめて自分の意志で何かを望み、何かを選択したのだという充足感。

それがたとえ「自分の人生を破滅させる」という決断だったとしても。

 

一つ一つを田代の前で言葉にしながら、志保の眼はいつの間にか涙にぬれていた。

なに、泣いてるんだろ。

全部、自分で決めたことなのに。

望み通り、観覧車のようにただ上って降りるだけだった志保の人生は、根元から壊せたのに。

きっと、田代が志保への失望を表情に浮かべるのを、見たくなかったから、目が涙でぬれるんだろう。

いつかのトクラの言葉が蘇る。破滅と背徳は甘美なのだ、と。

破滅を自ら望む人なんているわけない、そんな風に志保は考えていた。

でも、ちがった。クスリがもたらす想像を絶する快楽と絶望の狭間にもまれて、そもそものきっかけを志保は忘れていた。

誰よりも志保が、自分の破滅を望んでいたということを。

観覧車のように高い塔の上で、ラプンツェルが長い髪を垂らして待ち望んでいたのは、すてきな王子様なんかじゃない。

高い塔も、長い髪も、お姫様という役割も、何もかも壊してくれる、破滅そのものである。

「サイテーだよね……。意味わかんないよね……」

涙が志保の目からぽろぽろとこぼれる。おかげで、田代が今どんな顔をしているのか、志保にはわからない。

いい。わからなくていい。どうせ失望と幻滅と軽蔑といったところだろう。

でも、それは仕方ない。

志保はみずから破滅を望み、その道へと進んだのだから。その代償は甘んじて引き受けるべきだ。

そもそも、志保が徹底的な破滅を望んだのは、もう「あそこ」には戻らないようにするためだ。

それなのに、人並みに恋をしようだなんて。

恋をして、結ばれて、幸せになって、そんな甘い夢を描いてしまった自分がいた。

でも、その先にあるのは、きっと志保が恐れていた「常識に従うだけの人生」なのではないか。

そして「そこ」に戻ってしまった志保はきっとまたこう思うだろう。

「これが自分の人生なのか」

「こんなの、自分じゃなくてもいいんじゃないか」

「自分はただ役割を演じているだけなんじゃないか」

「本当に自分で選んで決めたのか」

本当に恐ろしいのは、悪魔のクスリなんかじゃない。

恐ろしいのは、空っぽの人生をまた歩んでしまうこと。

その先にある幸せが空っぽであると気づかずに、流されるままに追い求めてしまうこと。

そして、そんな人生を破壊したいという衝動をまた抱くであろうこと。その甘美な衝動からは逃れられず、どんな背徳的な手段を使っても、また自分の手で壊してしまうということ。

人は時に、自ら望んで手に入れたはずの幸せを、自ら壊してしまう。不倫だったり、DVだったり、虐待だったり、このような悲劇の不可思議なところは、それが望んだ幸せと祝福の延長線上にあるということだ。

幸福になることを望んで、望み通りの幸福を手に入れたはずなのに、なぜか自分の手でそれを壊す選択をしてしまう。

こんなはずじゃなかった。

私が望んだ幸せは、こんな形じゃなかった。

こんな現実が待ってるなんて、思っても見なかった。

それがもし、自分で望んだ幸せだったら、そのための選択と行動の結果だったら、きっとどんな代償にだって人は耐えられる。だって、自分で望んで、自分で選んだのだから。

耐えられなかった、壊したくなったということは、きっとそれは、実は自分で望んだものではなかったということなんだろう。自分で選んだように思えて実は、どこの誰が描いたともわからない「常識的な幸せ」に自分を落とし込み、そこで求められる役割を演じてきただけ。

それが積み重なると人は、「これは私の望んだ幸せではない」と、自ら壊してしまう。

今の志保にはまだ、自分にとって何が幸せなのかを自分で見つけ、自分で選び、自分で手に入れていくことができない。何が自分にとっての幸せなのか、今思い描いている幸せな未来は本当に自分で選んだものなのか、今の志保にはまだわからない。

なのにこのまま田代と一緒にいても、また目先の快楽と常識に引きずられてしまう気がした。そしてまた空っぽの人生を歩めば、きっとまた、自分の手で壊してしまう。

そんな未来が、そんな明日が怖い。

 

湧き上がる何かを押さえつけ、志保は言葉を発した。だが、もうその言葉も志保の耳には届いていない。田代の言葉も、顔も、もう志保には届いていない。

覚えているのは一番最後に「さようなら」と告げ、田代に背を向けたことだけだった。

 

つづく


次回 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」(仮)

第26話から続く「志保ちゃん三部作」の最後のエピソードです。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」