小説 あしたてんきになぁれ 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。志保、亜美、舞、そしてたまき……、それぞれの恋愛観が激しくぶつかり合う(?)「あしなれ」第26話スタート!


第25話「チョコレートの波浪警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

冬は夜の帳が降りるのが早い。

子供のころはなんだか、「早くおうちに帰りなさい」と空と街灯から諭されているような気がした。もう一日が終わるよ、楽しい時間はおしまいだよ、と。

だが、大人になると、必ずしも夜というのは一日の終わりというだけではない。ほのかなイルミネーションに彩られた町並みは、ともすれば昼間よりも美しく映える。

夜の繁華街の大きな道を、冷たい風をかき分けながら、志保は太田ビルへと向かって歩いていた。

バイト代を奮発して買ったコートとちょっと高めの靴、愛用のお気に入りのバッグ。メイクは薄めではあるが、それでも気合を入れてある。

つまりは、志保は今、デート帰りなのだ。

信号を渡り、いつもの歓楽街へと入っていく。太田ビルが近づくにつれ、「デート帰りの志保ちゃん」の顔から、「不法占拠の志保」へと戻っていく。

太田ビルに着き、コンビニのわきの階段を、息を切らせながら登っていく。

こういうところに不法占拠で住みついてることを、カレシである田代には話していない。いや、志保はもっととんでもない隠し事をしている。打ち明ける機会を逸したまま、一か月もたってしまった。

隠し事は、時に百年の恋も冷めるほどの危険性を秘めている。

そのことは、志保の心臓をいばらのように締め付けているのだが、それでもなかなか打ち明けることができない。

本当のことを知ったら、彼はどんな反応をするだろうか。自分のもとから去ってしまうんじゃないだろうか。

だが、隠し事をしたままでも、いずれ彼は去って行ってしまうかもしれない。

鞭で叩かれるのか、棒で叩かれるのか、どちらか選べ、と迫られているかのようだ。

どっちも嫌だ、と志保は先延ばししているのだが、先に延ばせば延ばすほど、その道の先には鞭か棒かの二択しかないと認めざるを得ない。

そして、鞭にしろ棒にしろ、先延ばしにすればするほど、その威力は強くなる。

なぜならきっと、先延ばしにすればするほど、志保は田代と離れがたくなるに違いないからだ。

離れがたくなればなるほど、「別れ」の傷は深くなる。

なるほど、トクラの言うとおり、それは破滅だ。

トクラはその破滅を楽しめばいい、という。恋の結末は大抵が破滅であり、破滅的で背徳的な恋ほど盛り上がるのだから、と。

人が背徳的なものに惹かれてしまう、というのは志保にも理解できる。

だが、破滅的なものに惹かれてしまう、ましてや、破滅を楽しめなんて、到底納得できない。

破滅したい人なんているわけがないし、ましてや、それを楽しめるはずがない。

 

息を切らせながら、5階にある「城」という名前の、キャバクラ跡地に入る。中にはソファーとイスが営業当時のまま残されているが、いまはそこに小型のテレビとか、ぬいぐるみとか、生活感あふれるものが置いてある。ゴミ捨て場で拾ってきたビデオデッキまである。

「ただいまぁ」

「おかえりー」

亜美が携帯電話の画面をのぞき込みながら言った。たまきは寝ているのか、ソファの上で丸くなって寝っ転がっている。

テーブルの上には、二人分のカップラーメン。時刻はもうすでに、夜の九時半を過ぎていた。

志保が田代と付き合うようになって以来、志保の帰りが遅くなることが増え、その分、亜美とたまきが夕飯をカップ麺やお弁当、ファーストフードですませることも多くなった。志保は申し訳なさを感じていたが、亜美は

「お前はうちの料理担当だけど、家政婦ってわけじゃねぇからな。ま、ウチらのことは気にせず、楽しんでこいや」

と言い、たまきはそもそも、食事なんて食べれればなんでもいいという感じだ。

「お風呂は?」

「いや、まだだ。お前もまだだろ? 十時半ぐらいになったら行こうぜ」

「城」にはさすがに風呂はないので、三人は近くの銭湯を利用している。二十四時間営業しているので、お金さえ払えば、いつでも入れる。もっとも冬場は、湯上りで夜の街を歩くのがちょっとした苦行なので、夕方のうちに入ることも多い。

「たまきちゃん寝てるんじゃない?」

「ん? 起こせばいいだろ」

志保はコートを脱ぎ、カバンをおろしソファに座り込んだ。

「あのさ……」

「ん?」

志保の問いかけに、亜美が返事をする。

「この前の話の続きなんだけどさ……」

「どの話だよ」

「……あたしがユウタさんに、ほんとのこと隠してるって話」

「誰だよ、ユウタって」

亜美はそんな名前、今初めて聞いたようだ。

「田代さんのこと」

「ああ、ヤサオのカレシか。アイツ、そんな名前だったのか」

亜美は携帯電話を閉じ、机の上に置いた。

「……やめようぜ。たまきが寝てる時にケンカしたら、なんか収まる気がしねぇよ」

「いや、そういうんじゃなくてね……」

志保はこの時になって、初めて亜美の方を向いた。

「付き合って一か月くらいになるんだけどさ、その、まだ言えてなくて……」

志保は胸元まで伸びた長い髪をいじりながら言った。

「わかってる……隠し事は良くないって……。でも、ほんとのこと言ったら、何もかも終わっちゃう気がして……」

「ま、フツーは別れるよなぁ」

亜美はあえて他人事のように言った。

「亜美ちゃんだったらどうする? 彼氏に言えないことがあって、でも言わなきゃって時、亜美ちゃんならどうする?」

志保は何かに縋るように亜美を見た。

「隠し事の内容によるなぁ」

亜美は志保の方を向くことなく答えた。

「知られると何となく恥ずかしいとか、そういうタイプの隠し事だったら、言いたくないなら言わなくてもいいと思うし」

「でも、あたしの場合は……」

「まあ、全然違うわな」

亜美は相変わらず、志保を見ない。

「ばれたら確実に驚かれる、ほぼ確実に別れる、ってタイプのやつだろ」

「うん……」

志保は現実から目をそらすように、亜美から視線を外す。

「……ウチだったら言うな」

「そうなんだ……」

「だってさ、どうせ別れるんなら、あとくされない方がいいだろ。隠し続けてバレたら、そのぶん、面倒なことになるだろ」

「うん……」

志保にしては珍しく、亜美の話に素直にうなづいている。

「だったら早い方がいいだろ」

「でもさ…、言ったら、別れるかもしれないんだよ?」。

「んー、そうだな」

「だったらさ、なるべく隠し通してさ、その、少しでも長続きするようにした方が……」

そう言いながら志保は、自分がこの前とは逆のことを言っているような気がした。

「だってさ……バレたら……その……破滅じゃない」

「なんだよ。破滅はヤなのかよ」

この時になって、亜美は初めて志保の方を向いた。

「……当たり前でしょ」

「あのさ、志保。どんな恋愛だって、いつかは必ず終わるんだぜ」

なんだか、この前もそんな話を聞いたような気がする。

「つーことはさ、今別れるのも、来年別れるのも、結婚して何十年かたって死に別れるのも、結局は一緒じゃんか」

「……一緒じゃないでしょ」

「一緒だよ一緒。要はさ、なんでそんな終わることビビってんだ? って話なわけよ」

そう言うと、亜美は煙草を一本取りだした。

「おい、吸っていいか?」

「……どうぞ」

亜美は慣れた手つきでタバコに火をつける。

「例えばさ、からあげがあるだろ? どんなにうまいからあげも、食べればなくなるんだよ。山盛りのからあげでもさ、食べ続ければなくなるんだよ。そんなの当たり前じゃん。からあげ食べながらさ、からあげがなくなるのやだっていう奴いないだろ? からあげがなくなることなんか、考えもしないで食ってるだろ?」

「……その例え話、よくわかんないんだけど」

「だからさ、オトコも一緒だよ。どうせいつか別れるんだよ。なのになんで別れることビビってんのかな? もっと今を、この瞬間を楽しめばいいじゃねぇか」

終わりが来ることを恐れずに今を楽しめ、という意味ではトクラの意見と一緒だ。だが、一方で亜美の意見とトクラの意見は正反対でもある。

トクラは、なるべく終わらないようにして長く楽しめと言う。

亜美は、いつ終わるのも一緒だからとっとと終わらせろという。

どちらが正しいのか、志保にはわからない。どっちも間違ってるのかもしれない。

でもたった一つ、はっきりと言えることがあった。

「あたし、終わらせるつもりないから……。別れるつもりないから……」

志保はソファの上に置いてあるクマのぬいぐるみを手に取ると、ぎゅっと抱きしめる。

「お前にそのつもりがなくても、クスリのこと話したら、別れることになると思うぞ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと黙ってるののか? それでバレたら、修羅場だぜ。百パー別れることになるだろうよ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと隠し通す気か? 隠し通せると思ってんのか?」

亜美は問い詰めるように志保を見る。

「……隠し通せるとは思ってないし、何より……隠し事はしたくない……」

「じゃあ、答えは決まりだろ。覚悟決めて、とっととホントのことを話すしかねぇだろ。まだ付き合って一か月だろ? 今言えば、ヤサオも理解してくれるかもしんねぇぞ。確率は低いけどな。でも、延ばせば延ばすほど、その確率はもっと低くなるぞ。お前、ウチより頭いいんだから、それくらいわかるだろ?」

「……うん」

志保はどこか納得できないようにうなづいた。

「でもさ……」

「でもなんだよ?」

亜美は少しうんざりした口調だ。

「ほんとのこと言ったら別れるかもしれないでしょ……」

志保はクマのぬいぐるみを抱きしめる腕に力を入れる。ぬいぐるみのクマは、少し苦しそうにゆがむ。

「そりゃそうだろ」

「それはイヤ……」

「じゃあどうすんだよ!!」

苛立った亜美は志保の胸からクマのぬいぐるみを強引に奪い取り、壁に向って投げつけた。ドンという鈍い音は、なんだかぬいぐるみがあげた悲鳴のようにも、志保の悲鳴のようにも聞こえた。

志保は立ち上がると、床に転がったクマを拾う。

「わかんないから聞いてるんでしょ!」

「お前、ウチが言ったこと全否定じゃねぇかよ! あれもいや、これもいや。じゃあこうするしかねぇだろって言っても、それもいや。話になんねぇよ!」

志保はクマのぬいぐるみを拾うと、再び胸の前でしっかりと抱きとめ、少し涙でにじんで目で亜美を見た。それを見た亜美はため息をつく。

「……きつい言い方したのは謝るよ。でも、ウチ、間違ったこと言ってっか?」

その時、亜美の視界の端で何かが動いた。亜美の視線がそちらに向き、それを見た志保も同じ方向を向く。

二枚のタオルケットにくるまって寝ていたはずのたまきが、いつの間にかメガネをかけてこちらを見ていた。

「ごめんね、たまきちゃん。起こしちゃった?」

「……いえ」

たまきは少し視線を下に泳がせていたが、やがて志保の方を見た。

「あの……」

「なに? どうしたの?」

「その……」

たまきが何か言いかけたとき、

「やめ! この話はもうやめ! もうラチあかねぇよ。たまきも起きたことだし、風呂入りに行こうぜ」

「……そうだね」

志保は寂しげにそう言うと、たまきの方を向いて

「たまきちゃん、気にしなくていいからね。ちょっと恋愛相談に乗ってもらってただけだから」

と、わざと優しく微笑んだ。

たまきはやっぱりなにか言いたげに下を見ていたが、志保はそれに気づくことなく、気持ちを切り替え、銭湯に行く準備を始めた。

 

写真はイメージです

そうこうしているうちに、暦は3月に入った。まだまだ冬の寒さは残っているが、それも日に日にあたたかくなっている。もうひと月もすれば上着を羽織ることもなくなるし、この公園も桜色に染め上げられる。

日付は三月三日のひな祭り。いつものごとく階段に腰掛けるミチとたまきは、ひな壇に構えるお内裏様とお雛様のようにも見える。

とはいえ、それは二人仲がよさそうだから、という意味ではない。たがいに目を合わすことなく、会話もなく、正面を向いているさまが、ただ人形を置いただけのようにも見える、という話だ。

だが、この日のミチは時折、たまきの方をちらりちらりと見ていた。

やがて、しびれを切らしたように口を開く。

「俺、このまえ誕生日だったんだよねぇ」

それを聞いたたまきは、ふうっとため息を一つはいた。

「……知ってます。四日前ですよね」

「なんだ。俺の誕生日がいつか、ちゃんとわかってんじゃん」

そりゃここ半月ほど、会うたびに「俺、そろそろ誕生日なんだよねー」と言われ続ければ、いやでも意識せざるを得ない。さらにそれが日に日に「来週誕生日なんだよねー」「五日後」「三日後」とカウントダウンまでされれば、さすがのたまきでもミチの誕生日がいつなのか見当がつく。

だから、誕生日当日は、公園にはいかなかった。ミチは「城」と同じビルのラーメン屋でバイトしているので、うっかり出くわさないように、その日のたまきは完全に引きこもった。もともと、ひきこもることに定評のあるたまきだ。「今日は絶対に外に出ない」と決めたら、その徹底ぶりは完璧だ。

さらに念には念を入れて、その後三日も公園で絵を描くことを控えた。

そして今日、さすがに誕生日から四日もたっていればもうそのことを話題にしないだろう、と思って公園に来たのだが、どうやらたまきの認識が甘かったようだ。

「たまきちゃん、プレゼントは?」

ミチがニコニコしながらたまきに尋ねた。

「……ありません」

たまきはミチを見ることなく答える。

「でも、バレンタインの時はチョコくれたじゃん。俺、知ってるぜ。なんだかんだ言ってたまきちゃんはちゃんとプレゼントくれる子だって」

たまきはそこでもう一つ深くため息をつくと、志保と亜美の言葉を思い出した。

『ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!』

『だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが』

たまき本人は認めたくないのだが、亜美と志保に言わせるとたまきは「警戒心が強い割に、実は押し切っちゃえばチョロい女」らしい。

そして、どうやらミチもたまきのことを「押し切っちゃえばチョロい女」だと思っているようだ。

「俺、知ってるぜ。たまきちゃんはなんだかんだいってちゃんとプレゼント考えてくれてるって」

ミチがニコニコを通り越してにやにやしながら言った。

「私……考えたんですけど……」

「うん、なになに?」

「……私がミチ君にプレゼントする理由がないんですけど」

そこで初めて、たまきはミチの方を見た。

「え?」

ミチとしては想定外の回答だったらしい。

「誕生日プレゼントをあげる理由がないのに、プレゼントをあげなきゃいけないなんて、おかしいですよね? おかしくないですか?」

仙人曰く、誕生日はその人と出会えたことを感謝する日だという。

だが、たまきはこの男と出会えてよかったなんて、ちっとも思えない。

「いやいや、理由がないってことないでしょ~」

ミチはわざとおどけたような笑顔で言った。

「ほら、俺、いつもたまきちゃんと仲良くしてるし」

「……私だって、これでもミチ君と仲良くしてるつもりです」

そう言いつつも、たまきの視線はまたミチを外れ、正面を向いている。

「仲良くしてるからって、私ばっかりミチ君になにかあげるのって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「まって! ちょっと待って!」

ミチはたまきの言葉を片手で制した。

「俺、たまきちゃんの誕生日祝ったじゃん!」

「そうですね」

たまきはまたしてもミチを見ることなく答えた。

「そうだろ? だから、俺ばっかりなにかあげてるって言い分はおかしくない?」

「私、あの後、ミチ君のことかばって、嫌な思いしました」

二人の間に、三月にしては少し冷たい風が吹いた。

「私の誕生日の件は、あれでチャラになったと思います。むしろ、マイナスです」

「いや、でもその後、うちに来て飯食ったじゃん! あれ、うちのおごりだぜ?」

「あれでプラスマイナスゼロです」

たまきは絵を描く作業をやめる気配がない。

「それに、あのあと私、ミチ君にチョコあげてます。そのお返し、まだもらってません。なのにまた私がなにかあげるって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「いや……でも……」

ミチは何かを必死に探すように空を見上げる。

「でも……ほら……たまきちゃん、俺の歌が好きだって言ってたじゃん」

「今は嫌いになりました」

そこでたまきは、再びミチの方を向いた。

「そもそもあなたのことも嫌いです」

そう言うとたまきは立ち上がった。

「私、帰ります」

たまきはスケッチブックをリュックにしまうと、そのままミチを見ることなくすたすたと階段を上って行ってしまった。

後にはギターを抱えたミチが残されていた。もはや、風の吹く気配もない。

 

写真はイメージです

「お前、まだ言ってないの?」

手にした包帯の束を伸ばしながら、舞があきれたように言った。

志保とたまきが二人でいるときに、たまきが何週間ぶりかのリストカットをしたので舞が「城」へと呼び出された。「城」に舞の自腹で置かれた救急箱を使って、たまきの傷を処置していく。

そのさなか、志保が舞に、亜美にしたのと同じ相談を持ち掛けたのだ。

「はい……すいません……」

「やれやれ……オトコができたと聞いてたから、どうなるもんかと心配してたらこれだよ……」

舞はため息をつきながら、たまきの右手首に包帯をぐるぐると巻いていく。

たまきは、黙って志保の方を見ていた。

「それで……、先生はどう思いますか……。その……クスリのこと……ちゃんと言った方がいいでしょうか……」

「まず、言うべきか言わないべきかの二択、っつーのが間違ってる」

舞はきっぱりと言い放った。

「正直に言う以外に選択肢はない。言いづらいのや言いたくないのはわかる。でも、言うべきか言わないべきかじゃない。言うしかないんだよ」

舞はたまきの手首の包帯をきつく結び付けると、まっすぐに志保を見た。

「それがお前の果たすべき責任だ」

「でも……その……クスリのこと言ったら、カレはあたしから離れて行っちゃうんじゃ……」

なんだか、毎回同じようなことを言っている気もする。

「そんなの仕方ねぇだろ」

舞は少し呆れるように言った。

「お前が今日まで頑張ってきたのは知ってるからこういう言い方したくはないんだけどさ、自業自得ってやつだよ」

「そうですよね……」

志保はそう言って下を向いたが、やはりどこか納得していないようだ。

「でも……あたし……絶対に別れたくないんです……」

「そもそも、クスリのこと、まだまだ問題は山積みなのに、オトコを作る方が悪い」

舞は犯人に詰め寄る刑事みたいな口調で言った。

「一生オトコを作るなとは言わない。だがな、そういうイロコイは、ちゃんと自分に向き合えるようになってからしろ。何もかも中途半端な状態でオトコ作って、別れたくないなんて、そんなん通るわけねぇだろ」

舞は救急箱を片付けながら言い放った。

「いいか、人として未熟な奴が形だけの幸せを手にしたところで、いつか必ずそのしわ寄せが来るからな。それはお前に来るかもしれないし、相手の男にかもしれないし、周りの人間かもしれない。下手したら、将来生まれてくるお前の子どもにしわ寄せがいく、なんてこともあるかもな」

志保はなんだか、激流に流される人が藁を必死につかむかのように、スカートのすそを握りしめていた。

「そうですよね……。あたしにカレシ作る資格なんてないですよね……」

それを見ていた舞は、額に手を当てる。

「あー、悪い。ちょっと言い方きつかったな。いや、お前ぐらいの年の子がカレシ作りたがるのはわかるよ。ああ、痛いほどわかるさ。だけど、お前は今そういうことする状況ではないよな、って話よ。わかるだろ。カレシ作る資格がないんじゃない。カレシ作る状況じゃないって話だよ」

志保は仏さまがクモの糸を垂らしてくれたかのように、舞の方を見た。

「恋人の存在が薬物依存に立ち向かう力になるってことも、無きにしも非ずだからな。恋をするなとは言わん。だけど、それは相手に理解があってこそだ。クスリのこと聞いた途端にしっぽ撒いて逃げ出すような男と付き合っても、ロクなことにならねぇぞ」

「それは……わかってるんですけど……」

「その、ユウタだっけ、そいつがお前をちゃんと支えてくれる男かどうかを確かめるには、言うしかないんじゃないの?」

「でも……言ったら別れることになるんじゃ……」

「だから、そこで理解してくれないような男と無理して一緒にいても、絶対ハッピーエンドになんてならねぇって」

「でも……」

その後に続く言葉が、舞には予想できた。

「って言うかお前、ここ最近、ずっとそれで悩んでたのか? それで深刻そうな顔してたのか?」

「え? あたし、そんな悩んでる様に見えました?」

さっきまで思いつめたような顔をしていた志保だが、舞の言葉が意外だったのか、少し表情が和らいだ。

「たまきがリスカしたっていうから来てみたら、玄関にいたお前があんまりにも深刻そうな顔してるから、たまきじゃなくて志保がリスカしたのかと思ったくらいだ」

「そうですか……」

志保は再び、それこそ深刻そうにうつむいた。

舞の隣に座っていたたまきは、新しく巻いてもらった右手首の包帯をさすりながらも、切なげに志保を見つめていた。

 

2対1。田代にクスリのことを言うべきか言わないかで人に聞いてみた結果、3人に聞いて二人が「言うべき」、一人が「言わなくていい」。今のところ、2対1で「言うべき派」の勝ち越しだ。

この点差ならまだまだわからない。次の1点が「言わない派」に入れば、2対2の同点である。

でも、そんなに人の意見ばかり集めていったい自分はどうするつもりなのだろうか。舞が帰った後の「城」で、志保はひとりひざを抱えて考え込む。

「言わなくてもいいよ」という一言を誰かに言ってほしいだけなんじゃないだろうか。

そう考えると、トクラの答えが一番志保が望む形に近いと思うのだが、トクラは「どうせいつか破滅するんだから、すぐに言わなくていいよ」という考え方である。そこが志保の求める答えとは違う。

クスリのことは「言わなくていい」、でもこの恋は「きっと結ばれる」、そんな都合のいいことを言ってくれる人を探しているのだ。

でも、いつまでこんなことを続けるんだろう……。

 

写真はイメージです

「あの……」というたまきの呼びかけで、志保は我に返った。

「ん……どうかしたの、たまきちゃん」

反射的に、志保は笑顔と作って答えた。

たまきはソファの上に寝ころんでいた。うつぶせになって志保にお尻を向け、頭からはすっぽりとタオルケットをかぶっている。

「……舞先生も言ってましたけど、最近、志保さん、すごく悩んでいるように見えます……」

「そ、そう? そう見える? そうなんだ、あははは……。大丈夫だよ。大したことないから、心配いらな……」

「そんなわけないです」

たまきは姿勢を変えることなく言った。

「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……。なんだかこのまま、遠くに行ってしまいそうな気がして……怖いです……」

「……そう」

部屋の中は蛍光灯で照らされていいるにもかかわらず、壁から染み出したうすい靄のような影が、じわじわと二人の周りを覆って、闇を作り出しているかのようだった。

しばらく静寂が続いた後、たまきが口を開いた。

「……どうして、私には何も聞いてくれないんですか?」

「え?」

「亜美さんにも、舞先生にも、カレシさんのこと聞いてましたよね。私だって、志保さんが悩んでるなら力になりたいです。でも、どうして私には何も聞いてくれないんですか。」

靄のような影が、たまきの周りにまとわりつく。

「……私に恋愛のこと聞いたって、どうせわかるわけない、そんな風に思ってるんですか?」

「そんなこと……!」

思うはずがない、志保はそう言おうとしたが、言葉が続かなかった。

たまきに恋愛のことを相談してもわかるわけがない、と志保が明確に思っていたわけではない。

それでも、亜美にも舞にも、そしてトクラにもした相談を、たまきにはしなかった。そんな選択肢を思いつきもしなかった。

無意識のうちに「たまきに相談する」という選択肢を外していたのだ。つまり、心のどこかで「たまきに聞いたってわかるわけがない」と、知らず知らずのうちに思ってしまっていたのだ。

「確かに……私は恋愛とかカレシとか、そういうのには疎いのかもしれません……」

たまきは相変わらず、頭からすっぽりとタオルケットをかぶったままだ。なんだか、床に無造作に投げ置かれた雑巾のようにも見える。

「でも……ちゃんと見てますよ。志保さんのことも、亜美さんのことも、ミチ君のことも……」

「うん……」

志保の頭の中に、先ほどたまきが言った「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……」という言葉が響いた。

「たまきちゃん、あたし、どうしたらいいと思う?」

「……志保さんは、『カレシさんに言わなくていいよ』って言って欲しいんですよね」

たまきの言葉に志保は驚きつつも、無言でうなづいた。たまきはそれを見ていないが、空気から察したかのように、言葉をつづけた。

「でも……、私は、ちゃんと言わなきゃいけないって思います」

「うん……わかってる……」

そう、最初からわかっていたのだ。そんなの、人に聞かなくたって最初からわかっていたのだ。「すべてを打ち明けなければいけない」と。

「でも……あたし、ユウタさんと別れたくない……」

何度目だろう、このセリフを言うのは。

「……わかってます」

たまきは静かに告げた。そして、こう続けた。

「でも、それは志保さんのわがままです」

「……わが……まま?」

「はい。クスリのことを知って、志保さんと別れるかどうするかを決めるのは、志保さんじゃなくて、田代って人です。でも、このまま何も言わなったら、何も知らなかったら、田代って人はそれを悩むこともできないんです。それに、言うのがおそくなったり、あとからほかの人に知らされたりすれば、田代って人は余計に傷つくと思います」

たまきはタオルケットをすっぽりとかぶったままだ。だから、志保からたまきの表情をうかがい知ることはできない。

「私には、『人を好きになる』っていうことがどういうことなのか、まだわかりません。でも、もしそれが、自分より相手の方が大切だっていう想いなのだとしたら、どうして相手の人の幸せを一番に考えないんですか? 相手の人の幸せを一番に考えなきゃいけないのに、自分が嫌だから言いたくないとか、自分が嫌だから別れたくないとか、それっておかしいですよね。おかしくないですか?」

そこでたまきはようやく起き上がると、志保の方を向いた。メガネをかけていないその顔は、いつもより少し大人に見えた。

「それとも志保さんは、田代って人より、自分のこと方が好きなんですか?」

そんなことない。志保はそう言い切りたかったが、またしても言葉が出なかった。

志保は、これまでのトクラや亜美、舞との会話を思い返す。

そして気づく。いつだって主語は「あたし」だったということに。

あたしは、言いたくない。

あたしは、別れたくない。

あたしは、あたしは、あたしは。

「志保さんが田代って人にクスリのことを話して、お別れすることになったとしても、田代って人にとってそれが一番幸せなことなら、それは仕方ないことなんだと思います。志保さんにとってそれはつらいことかもしれませんけど……」

そこでたまきは一度、言葉を切った。そして、今までで一番強い口調で続けた。

「……でも、志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!」

そこまで言うとたまきは急に恥ずかしそうに下を向いた。

「……なんかすいません、私なんかがえらそうに……」

「ううん。大丈夫。ありがとう」

志保は何かを観念したかのように息をついた。

三対一。でも、最後の一点は他のどの一点よりも強く、そして、温かかった。

 

歓楽街のちょうどど真ん中に、小さな神社がある。弁天様を祀っているらしく、その周辺はちょっとした空地になっている。

亜美たちは知る由もないが、はるか昔、この歓楽街には川が流れていた。その川も埋め立てられ、今では多くのお店が立ち並び、ホストの看板で彩られ、バスが走っている。水のカミサマである弁天様は、この街にかつて川があったころの名残だ。

その空地の一角で、志保は田代を待っていた。鼓動がいつもよりも早く、そして力強く、それこそ濁流のように血流を押し流す。

少し離れたところで、亜美とたまきが志保の様子を見ていた。たまきは黒いニット帽を、亜美はピンクのニット帽をかぶっている。

亜美は

「ウチら、その辺に隠れてようか?」

と提案したが志保は首を横に振った。

「ううん、近くにいて。二人にも聞いててほしいの」

やがて、路地の奥から田代が姿を現した。バイトの帰りらしく、ラフなジャンパー姿に、リュックを背負っている。

田代は志保を見つけると笑顔で手を挙げた。志保も軽く手を挙げるが、その顔に笑顔はなかった。

「どうしたの、話って」

田代は勤めて笑顔だったが、やはりこれからの会話にどこか不安を感じているかのようだった。

志保は一度大きく息を吸った。頭の中でたまきの言葉を思い出す。

『志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!』

志保は息を吐いた。三月の空気はまだまだ冷たく、志保の吐息を白く変える。

やがて吐息は空に消えたけど、志保の中にある煙のようなさみしさは消えることはなかった。

それでも、志保は話を切り出した。

「……お別れを言いに来たんです」

それが、志保の出した答えだった。

つづく


次回 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

志保ちゃんの過去編です。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第25話「チョコレートの波浪警報」

今回はバレンタインデーのエピソード、バレンタインデーに真剣な志保と、バレンタインデーを含めたあらゆるイベントごとが苦手なたまき、バレンタインデーに興味があるのかないのかよくわからない亜美、それぞれのお話です。それではあしなれ第25話、スタート!


第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

昼間のスナックほどおかしな空間はない。

スナックとは本来、夜に営業するつもりで作られている。だから、窓がない店が多い。窓をつけたって、どうせ日の光は入ってこないのだ。

さらに、店内の照明がうすぼんやりとしている店も多い。都会の夜の闇に溶け込み、夜の闇を楽しむための空間。それがスナックだ。

だからなのか、絵に描いたような青空が広がる昼間にスナックを訪れると、そこが「昼間」という時間から隔絶された空間であるかのように思える。ドアをくぐった瞬間、空間が歪むのだ。

「そのあと」というヘンな名前のスナックも、そんなうすぼんやりとした影をたたえた店だった。

「東京は城のようだ」と誰かが言ったが、東京を代表する大きな駅から坂道を下り、まるで東京という城のお堀のような閑散とした住宅街の中に、スナック「そのあと」はたたずんでいる。

「ランチタイムやってないの? 昼間もママの料理食べたいよ。絶対繁盛するって」という常連のおじさんにそそのかされた若き雇われママさんが、週に二回、ランチタイム営業をやっているのだが、これがさっぱり人が来ない。

やっぱり、周囲にオフィスが全然ないという立地が悪いのかしら、と若きママは考えているのだが、ママの弟に言わせると「全然宣伝とかしてないからじゃねぇの?」。

「だったら、ミチヒロがうちのCMソング作ってよ。で、その辺の路上で歌って宣伝してきてよ」

と若きママは、「プロのミュージシャンになる」と豪語する弟に提案するのだが、弟は「オレ、そういう商業的な歌は歌わないの」とずいぶんと生意気なことを言っていた。

時計は午後一時を回り、店のわきに置かれたテレビの中では、ライオンの着ぐるみがサイコロをぶん投げている。若きママは誰もいない店内で、大きなあくびをした。

その時、ドアがかちゃりと開いて、ちりんちりんとドアのベルが鳴った。

「いらっしゃい」

わずかに開いたドアの隙間から、誰かが中をうかがうようにのぞき込んでいる。

「あ、営業してますよ。大丈夫ですよ」

ドアはきい……と、風に揺らされているかのように開いた。外の光がこぼれてくるのと同時に、中学生くらいに見える、背丈の低い女の子が入ってきた。

「あ、たまきちゃん! いらっしゃい!」

若きママが女の子の名前を呼ぶと、そのたまきという女の子は、ロボットのようなぎこちなさと丁寧さで

「こんにちは……」

と言って頭を下げると、カウンターの一番左端の席を指さして、

「あの……ここ……座って大丈夫ですか?」

と若きママに尋ねた。若きママがにっこりとほほ笑むと、たまきはスカートのすそを引っ張りながら、その椅子に腰かけた。

そのしぐさがどうにも、子どものころにかわいがっていた黒猫にそっくりで、若きママは思わず笑いそうになった。「クロ」と名付けてかわいがっていた黒猫が、若きママが弟と一緒に暮らしてた施設の敷地に初めて迷い込んできた時も、ちょうどこんな感じだった。

たまきは五百円玉をカウンターの上に置いた。

「あの、焼きそばお願いしても大丈夫ですか?」

「焼きそばね、了解。お金は食べ終わってからでいいからね」

若きママの言葉に、たまきは恥ずかしそうに五百円玉を引っ込めた。

若きママは少しからかうように

「お酒は何にする? ハイボール?」

と尋ねる。

「え?」

たまきは困惑して、それこそ猫のように目を丸くした。

「あ、あの、私、その……」

「冗談だってば」

若きママは歯を見せて笑うと、冷蔵庫から焼きそばの袋を取り出した。

ものの数分でほかほかのソース焼きそばがたまきの目の前に置かれた。

たまきは割り箸を手に両手を合わせると、

「いただきます」

とつぶやいた。力を入れて割りばしを割る。たまきは割りばしがしなって割れる瞬間が、本当に苦手だ。どうせ箸を作るなら、割ってから出荷してくれればいいのに。

ソース焼きそばを口へと運ぶ。なんだか、昔、たまきのお姉ちゃんが作ってくれた焼きそばを、数年の時を経てようやく口をつけているような気がした。

ふと、顔をあげてみると、カウンターの中に若きママことミチのお姉ちゃんの姿がなかった。

どこかに行ったのかとあたりを見渡してみると、背後に気配を感じ、たまきは驚いて振り返った。

ミチのお姉ちゃんは、たまきの真後ろにいた。ニコニコしながら、たまきを見ている。

もっと正確に言えば、たまきのお尻あたりをニコニコと眺めていた。

「あ、あの……私の、その、おしりに、なにかついてますか……」

「いや、何もついてないんだよねぇ~」

そう言いながらミチのお姉ちゃんはたまきのお尻、特に尾骶骨あたりをしげしげと眺めた。

「ネコみたいだから、黒いしっぽでもついてるんじゃないか、と思ったんだけどねぇ」

そんなわけない。たまきはそう思った。

「知ってる? ネコって、しっぽで気持ちがわかるんだよ。ピンと立てている時はうれしい時、しっぽを丸めてるときは怖がってる時、しっぽをばたばた振ってるときは嫌がってる時、昔飼ってたクロはねー、なでるとよくしっぽをばたばた振ってたんだよ」

だから、嫌がってる、とわかっているのに、どうしてなでるのだろう。

「ネコってしゃべらないけど、ちゃんと気持ちは表現してるんですね」

「ね、たまきちゃんそっくり」

「え?」

たまきは驚いたように、ミチのお姉ちゃんの目を覗き込んだ。

「ほら、今も、すごい驚いたような顔してる。あんまりしゃべんない子だなって思ったけど、その分、顔にすごい出るよね、たまきちゃん。だから、見てて面白いよ」

そんなわけない。そんなわけない。

たまきは、強くそう思った。

今まで、人からそんな風に言われたことなんてない。

むしろ、「表情が乏しい」といったようなことをよく言われてきた。

親からは「何考えてるかわかんない子」と言われ、亜美からは「それで笑ってるつもりなのか?」と呆れられ、志保にご飯の感想を「おいしいです」と告げれば、「本当に? 無理しておいしいって言わなくていいんだよ?」と疑われる。

ミチに至っては、たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、それを態度に反映させようという姿勢が全くない。たまきが怒っている時にさらに怒らせるようなことを、たまきが恥ずかしがっている時にさらに恥ずかしがるようなことを、たまきが落ち込んでいる時にさらに傷つけるようなことを平気で言う。

それが、たまきの気持ちをわかっていてわざと嫌がらせをしている、というのであれば、もうこんな人とは関わらない、で済むのだが、そうではないから始末が悪い。

あの人はきっと、たまきが何考えているかなんて、これっぽっちもわかっていないのだ。たまきが怒っている時も、恥ずかしい時も、しょんぼりしている時も、全部いつもとおんなじ表情に見えているに違いない。たぶん、ミチはそのクロっていうネコが嫌がっていることをそもそも気づかずに撫でていたんだろう。

そんなだから、そのミチのお姉ちゃんがたまきのことを「顔にすごい出る」と評したのは、意外としか言いようがなかった。

そう言えば、以前にも同じようなことを一度だけ言われた気がする。誰だったっけ。

「私……あんまり顔に出ないって言われます……」

ミチのお姉ちゃんに表情を読み取られたことが少し恥ずかしくなり、たまきはうつむきがちに言った。

「そんな恥ずかしそうに言わなくても」

またしても心を見抜かれ、たまきはますます恥ずかしくなった。もしかしたら、ミチのお姉ちゃんには超能力でもあるんじゃないか。ばかばかしい考えだが、その方が「たまきは顔に出やすい」という説よりも現実味がある気がする。

たまきは五百円玉を差し出し、二十円を受け取って、お店を出た。

空には雲一つない冬の青空が広がる。さっきまでのうすぼんやりとした空間なんて、まるで存在しなかったかのようだ。

たまきは、歓楽街へと帰る坂道を、とぼとぼと登り始めた。

坂道を登りながら、たまきの頭の中で、なにかがぐるぐると回る。

この前は「ネコに似てる」と言われ、今日はさらに「顔に感情が出やすい」と言われた。

あの店に行くと、ミチのお姉ちゃんに合うと、たまきが思ってもいなかったたまきを突きつけられる。

でも、もしかしたら、「自分が思っている自分」の方が間違っているのかもしれない。

何せ、普段は自分で自分の顔を見ることができないのだ。自分が人からどう映っているのか、わからないのだ。

よくよく思い返せば、たまきは自分の「笑顔」を知らない。鏡の前で笑顔の練習をしてみたことならあるが、そこに映っていたのはあくまでも「練習している笑顔」でしかない。

そうではなく、亜美や志保との暮らしの中で、ごく自然に出る笑顔、亜美や志保が見ているであろうたまきの笑顔を、たまき自身は知らないのだ。せいぜい、誕生日の時に撮ってもらった写真に写る、ちょっとカタい笑顔を見たくらいだ。

そんなことを考えながら、一つ思い出したことがあった。

『たまきってすぐ顔に出るから』

昔、たまきにそういったのは、たまきのお姉ちゃんだった。

たまきのお姉ちゃんも、もしかしたら「たまきが思っているたまき」とは全然違うたまきを見ていたのかもしれない。そして、ひょっとしたら、そっちの方が本当のたまきなのかもしれない。

たまきは踏切で足を止める。目の前を列車が轟音をあげながら通過する。クリーム色に近い白の車体に、青いラインが走っている。走り去る列車を見つめながら、ふと思う。

たまきの姉やミチの姉が見ているたまきが実は本当のたまきなのだとしたら、ここにいるたまきはいったい誰なのだろう。

 

写真はイメージです。

たまきは冬が苦手だ。

別に、寒いから苦手なわけではない。むしろ、気候で行ったら冬よりも夏の方が苦手だ。

たまきが冬を苦手とするのは、クリスマス、お正月、バレンタインデーと、たまきの苦手な「イベント」が目白押しだからだ。最近ではハロウィンもある。どうしてみんな、あんなにもイベント好きなんだろう。何も楽しいことなんてないじゃないか。

そして、たまきの嫌いな「イベントの冬」ももうすぐ終わる。最後のイベントであるバレンタインデーが間近に迫っていた。一か月後にはホワイトデーがあると言えばあるが、どういうわけか、そっちはあんまり盛り上がらない。

亜美、志保、たまきの三人は、デパートで行われていた「チョコレートフェア」なるものを見に来ていた。

正直、たまきはチョコに全然興味がない。チョコをあげたい男の子もいない。そもそも、甘いものは別に好きじゃない。

だが、あんまりイベントに背を向けすぎると、かえってみじめになる気がしてついてきたのだが、やっぱり興味がないものは興味がない。

一方、志保は、興味があるを通り越して、もはや切実な問題とでも言いたげにチョコを見て回っている。

数日前、田代とともに映画を見に行った志保は、ものすごい上機嫌で帰ってきた。

「どうした。コクられたのか?」

と茶化す亜美に対して、

「そうなの! 聞いて聞いて!」

と、じゃれつくウサギのように志保ははしゃいだ。

「なに!? マジで!?」

と、亜美もしっぽを振る子犬のように飛びつく。たまきだけが、まるで水槽の中の熱帯魚でも見るかのように、少し離れた場所から二人を見ている。

「映画見終わって、食事して、そのあと街を歩いてたら、田代さんが……」

そこで志保はいったん言葉を切った。

「『なあ、俺たち、付き合わない?』だって!」

と志保は顔を赤らめて、亜美の肩をバンバンと叩いた。

「で、お前はなんつったの?」

「『うん、いいよ』って!」

「で、その後どうしたんだ? ヤッたのか?」

「やだもう! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」

志保は再び、亜美の肩をバンバンと叩いた。

その様子を、たまきは少し離れたところからぼんやりと眺めている。

『付き合わない?』

『いいよ』

お互いに、好きだとは言ってないし、好きということを確かめてもいないけど、それでいいのかな。そんなことをぼんやりと考えながら。

 

時は戻って現在。志保はチョコ売り場の中をウロチョロしながら、チョコを品定めしている。

「なんだ、まだ決めてねぇのか。ま、『本命』チョコだから、仕方ねぇか」

亜美はわざと「本命」を強調した。それから、口の横に手を当てると、

「みなさ~ん! この女、本命チョコえらんでますよ~! おい、リア充がいるぞ~!」

「もう! ちょっと黙っててよ」

と志保が亜美の方に近づいてくる。

「あれ? 亜美ちゃんもチョコ買ったの?」

「あ? ああ、友チョコだよ、友チョコ」

亜美が手にしたお店の袋を無造作に振り回した。

志保は陳列されていた、ハート形のチョコを手に取る。

「これまた、あからさまな本命チョコですなぁ」

と笑う亜美と、口をとがらせる志保。亜美は今度はたまきの方を向いた。

「お前はチョコ買わないの?」

「……別に」

「ミチにあげたりしねぇの?」

「なんでですか?」

たまきは心の底から不思議そうに、亜美の方を見た。

「いや、別に、本命チョコじゃなくても、義理チョコでもあげとけば、あいつ、しっぽ振って喜びそうじゃん」

「……あげる義理がないです」

そう言ってたまきは、視線を志保の方へとむけた。志保はまだチョコを選んでいる。右手と左手、それぞれにハート形のチョコを手に持ち、見比べている。

たまきは正直、どっちでもいいような気がしてきた。

 

写真はイメージです。

それから数日後、たまきは例によって、いつもの公園のいつもの階段に腰を下ろして、絵を描いていた。

ふと、背後に人影を感じる。

「お、たまきちゃん来てるな?」

ミチの声だ。

「来てますよ」

たまきはミチの方を見ることなく答えた。

ミチは階段を降りると、たまきのすぐ横に腰掛ける。たまきはすっと体をスライドさせ、ミチとの距離を開けた。

いつもならミチがギターケースを置き、ギターを取り出す音が聞こえてくるものだが、それが聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、紙袋をがさがさと広げる音。

ちらりとミチの方を見ると、珍しくギターケースを持ってきていない。

「今日は歌わないんですね」

とたまきが言うと、

「この後バイトだし、そのあとは先輩たちと飲みに行くから」

ミチの年齢だと、飲みに行ってはいけないはずなのだが、たまきは面倒くさいのでそこはスルーした。

「じゃあ、何しに来たんですか?」

「何しにって、たまきちゃんからチョコを貰いに来たんだよ」

あれ? とたまきは思った。そんな約束、してたっけ?

絵を描く手を止め、大急ぎでたまきは頭の中に検索をかける。ミチにチョコをあげるなんて約束をしたかどうかを調べるが、そんな記憶は全くない。念のため、なにか勘違いさせるようなことを言ったのではないかとも考えたが、そちらも全く心当たりがない。

「そんな約束、してないと思うんですけど……」

「え? だって今日、バレンタインデーだよ?」

そこでたまきは初めて、今日が二月十四日であることを知った。なるほど、だから今朝、志保が妙にうきうきしていたのか。

だが、バレンタインデーだからなんだというのだろう。

「バレンタインデーだと、なんで私がミチ君にチョコをあげなければいけないんですか?」

「え? だって、たまきちゃん、女の子じゃん」

もしかして、この男はバレンタインデーのことを「女子が男子を見るや否や、無差別にチョコをばらまく日」とでも勘違いしているのではないだろうか。

「……その紙袋は何ですか?」

まさか、たまき一人から紙袋が埋まるほどのチョコを期待しているとでもいうのだろうか。たまきは二木の菓子ではない。

「いや、この後バイト先でもらって、先輩たちと飲みに行った先でもらうからさ」

「……貰うって、それはもう決まってるんですか?」

「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」

どうも会話がかみ合わない。「バレンタインデーを忘れるほど興味のない女子」と「バレンタインデーに過剰な期待をする男子」が会話をすると、こういうことになるらしい。

たまきは、絵を描く作業に戻った。しばらくの間、沈黙が続く。

「たまきちゃん、チョコは? まだ?」

「……持ってません」

これまでの会話の流れから、たまきがチョコなんか用意してないことくらい、気づかないのかな。

「え? だって、今日、バレンタインデーだよ?」

ミチの返事は、たまきの予想と一言一句同じだった。隣からはあからさまに、紙袋をがさがさと広げる音がする。

「チョコこじき」、そんな言葉がたまきの頭をかすめた。

 

写真はイメージです。

バレンタインデーの起源は、ローマ帝国にあるという。

ローマ帝国では兵士の結婚を禁じていた。故郷に恋人や妻がいれば士気が下がるからだという。確かに、「俺、この戦争が終わったら田舎に帰って結婚するんだ」と語る兵士に限って、戦争が終わるまで生き延びることがない。

だが、キリスト教の司祭だったバレンタインは兵士たちのために隠れて結婚式を執り行っていた。しかし、そのことがばれんた、いや、ばれたために処刑されてしまう。その処刑された日が二月十四日だった。

バレンタインデーの正体は、実はバレンタインさんが処刑された命日だった。そんなことを語るシスターの話を、志保はぼんやりと聞いていた。起源がどうあれ、重要なのはその後の歴史、そして、今日を生きる志保たちがバレンタインデーをどうとらえているからだ。バレンタインさんは恋人たちのために尊い犠牲になったのだ。それは二千年前も今も変わらない。合掌。

シスターによる簡単な講義が終わった後は、チョコレート交換会が始まった。志保が通う施設は、何も四六時中「依存症とは何か」などと暗い顔をしているわけではない。むしろ、イベントごとをみんなで楽しむことを更生への一環として、積極的に取り入れている。

各自それぞれ、箱サイズのチョコを持ち寄ってテーブルの上に置き、みんなでつまみあう。ただし、アルコール依存の人もいるので、ウイスキーボンボンのようなタイプのチョコはNGだ。

「これ、神崎さんの?」

トクラが志保の持ってきたチョコを手に取る。

「はい」

「ふうん」

トクラはそのチョコをしげしげと眺める。

「本命は別にちゃんといる、ってことか」

そう言って、トクラは包みの銀紙からチョコをはぎ取り、口に放り込んだ。

「え、なんでわ……」

そこまで言って、志保は自分の反応がほぼ「イエス」と言っていることに等しいと気づいた。別にカレシがいることを隠すつもりはないが、トクラに知られると、なんだか後々面倒な気がするのだ。

トクラは志保にそっと近づくと、耳打ちするように言った。

「お相手はどこまで知ってるの?」

そう言ってトクラは悪戯っぽく微笑んだ、ような気がした。実際には見てないけど、そんな気がした。

志保は何も答えなかった。答えられなかった。

沈黙。

それだけで、トクラは大体のことを察したかのようだった。

志保は、田代に対して「現在」を何も教えていない。田代の中での志保は、都内の高校に通う女の子、という認識のはずだ。

嘘、とも言い切れない。少なくとも一年ほど前までは、志保は「都内の高校に通う女の子」だったのだから。

そこから先のことを語っていないだけだ。嘘をついているのではない。沈黙を貫いているだけだ。

そうな風に自分に言い聞かせようとする自分自身が、志保は嫌だった。

彼のことを騙してる。

そして、自分のことも騙してる。

そんな自分が嫌だった。

でも、だったら、「自分のことを騙そうとする自分」とはいったい誰なのだろう。騙される方の自分とは、いったい誰なのだろう。

そして、そんな自分が嫌になる自分とは、いったい誰なのだろう。

「ちょっと……いいですか……」

志保はトクラに、部屋の隅に来るように促した。チョコの置かれたテーブルから少し離れる二人。

「トクラさんだったら……どうします……? 付き合ってる人に、自分の『病気』のこととか、正直に言いますか……」

「それ訊いてさ……」

トクラは少しいぶかしむように志保を見た。

「あたしの言ったとおりにしてさ、それでうまくいかなくなったらあたしのせいにする、っていうなら答えないよ?」

「あ、いえ、そういうつもりじゃ……」

「まあ、あたしだったら、言うか言わないかは相手次第だけど、なるべく長持ちする方を選ぶよね」

「長持ち……?」

志保はトクラが言っていることが、ちょっとよくわからなかった。

「だから、相手がクスリとか依存症とかにあまり縁がない人、理解のない人だったら、言わないかな」

「でも、いつかバレるんじゃないですか? そうなったら、なんで言わなかったんだ、嘘ついてたのか、って余計にややこしいことになりませんか?」

志保の言葉は、まるで自分で自分をいさめているかのようだった。だが、そんな自分をいさめる自分とはいったい誰なのだろう。

「まあ、バレたらオワリだよね」

「だったら……」

「あのね神崎さん」

トクラは志保の肩にポンと手を置いた。

「すべての恋はね、いつか必ず終わるんだよ?」

その言葉に、志保は再び沈黙した。だがそれは、さっきの沈黙とはまた少し違ったものだった。

「出逢い、結ばれることが恋の始まりなら、その終わりは等しく『別れ』。結婚したって、離婚する人も多いし、いつかは死に別れる。それが嫌なら心中するしかないけど、心中って破滅だと思わない?」

トクラはもう一度、志保の肩を軽く叩いた。

「未来はコントロールできない。でも、今現在はコントロールできる。どういう終わり方を迎えるかはコントロールできないけど、今、この恋愛をどう楽しむかはコントロールできるの。だったら、今が楽しければそれでいいんじゃない? で、それを少しでも長く引き伸ばすの」

「でも、今が楽しければその後どうなってもいいなんて、そんなの、待ってるのはそれこそ破滅じゃないですか……」

「あら、破滅じゃ嫌?」

トクラは微笑んだ、ような気がした。実際は見ていないのでわからない。

「さっき言ったでしょ。すべての恋は必ず終わる。それは別れるか破滅するか。それに『別れ』も喧嘩したり浮気したり憎しみ合ったり、大半が破滅。多くの恋の結末は破滅なの。神崎さん、なんでだと思う?」

志保はまたしても沈黙した。この沈黙は単に、答えがわからないゆえの沈黙である。

「恋を燃え上がらせるのは、破滅と背徳なの。破滅的で、背徳的な恋ほど盛り上がるの。だから人は、破滅は嫌だ、背徳はいけないと言いながら、知らず知らずのうちに破滅と背徳に向かって突き進む。不倫なんてそのいい例じゃない。明らかな背徳で、その先に待っているのは明らかな破滅。なのに不思議と後を絶たない。なんでだと思う? それは、明らかな背徳で、向かう先が明らかな破滅だから。破滅と背徳、それに勝る快楽はないから」

トクラはテーブルの前に戻ると、チョコの包みに手を伸ばした。

「どうせ恋の行きつく先が破滅なら、何も恐れることなんかないじゃない。いつか破滅するとわかっててなお、今を楽しまないと。太ると知っててついついチョコを食べちゃう。虫歯になると知っててついついチョコを食べちゃう。それとおんなじ。バレンタインさんもそのことを知ってたのかもね。これから戦場に向う兵士の結婚式なんて、すぐに戦死しちゃうかもしれないから、せめて式だけでも、ってことでしょ? 破滅に向かう恋が一番美しい、バレンタインさんはそれがわかってたんじゃないかしら」

そう言って、トクラはチョコを口の中に放り込んだ。

 

写真はイメージです。

「じゃあ、たまきちゃんは結局、チョコを買わなかったの?」

公園から駅へと向かう地下道の途中で、紙袋を手にしたミチがたまきに尋ねた。

「……亜美さんと志保さんとお金を出し合って、三人で食べる用のチョコは買いました」

「でもそれってさ、誰かにあげたわけじゃないじゃん」

「……まあ」

たまきはミチの少し後ろを歩きながら、うつむきがちに答えた。

「誰かにチョコ、あげないの?」

「別に……」

「だって今日、バレンタインデーだよ?」

さっきから、こういう会話の繰り返しである。たまきはいい加減にうんざりしてきた。

「今までだれかにチョコあげたことないの?」

「ありません」

「男友達とかは?」

「そんな人、いません」

「じゃあ、女友達。学校で友チョコあげたりしなかったの?」

「……そんな人、いません」

ミチはそこで少し考えてから

「じゃあ、父親とかは?」

と尋ねた。たまきも少し考えてから

「お姉ちゃんとお金を出しあって……、でも、あれもお姉ちゃんが選んで、渡してたから……」

と答える。

長い地下通路も終わり、タクシーの入るロータリーに差し掛かった。二人は階段を上って地上へと出る。

日本、いや、世界で最も利用者数が多いなどと言われるその駅前は、時間としてはまだ夕方にもかかわらず、すでに夜の帳が降りきったように真っ暗だ。だが、仕事帰りのサラリーマンやOLらしき人でごった返し、むしろ昼間以上の混雑を見せていた。

「じゃあ、私はこっちなんで……」

たまきは駅の北側を指さすと、くるりとミチに背を向けて、歩き出した。

だが、ミチも

「いや、俺もこっちだから」

とついてくる。

「あれ、ミチ君の家あっち……」

とたまきは駅の南の方を指さしたが、

「この後バイトだから」

と、たまきの横に並んで歩きだした。

そうだった。この男は、たまきが暮らす太田ビルの2階のラーメン屋でバイトをしているのだ。

すなわち、たまきが「城」に帰るまで、ずっと一緒なのだ。

「じゃあ、今まで一度もチョコあげたことないの? なんで? 今まで十何回もバレンタインデーあったのに?」

つまり、このうんざりするチョコ尋問も、太田ビルに着くまでの十数分間、ずっと続く。

ちょうど、右手にコンビニが見えてきた。

たまきは、コンビニンの前で立ち止まると、ミチの方を向いて

「ちょっと待っててください」

と言うと、コンビニの中へと入った。

二、三分ほどして、たまきはコンビニから出てきた。手には百円ちょっとで売られている、赤いパッケージのチョコのお菓子を持っていた。

たまきはそのチョコレートを、不機嫌そうに、ミチの前に突き出した。

「これ、あげます」

ミチはぽかんと、たまきが突き付けた赤いパッケージを見る。

「え? いいの?」

たまきは相変わらず不機嫌そうに赤いパッケージを突き出したまま、ミチをにらむ。

この男の口に石ころを詰め込んで黙らせる労力を考えれば、チョコを買って渡すことくらい、大したことない、はずだ。

「……義理チョコです」

一応、たまきは念を押しといた。

ミチはたまきの手から赤いパッケージを受け取ると、待ってましたとばかりに紙袋の中に放り込んだ。

「やった。たまきちゃんの『はじめて』、もらっちゃった」

「そ、そういうヘンな言い方、やめてください!」

たまきは慌てたように、恨めしげに、紙袋の中へと消えた赤いパッケージを見ようとした。それが完全に紙袋の中へと入ったのを確認すると、たまきは再び、「城」の方へと向かって歩き出す。

「ところでさ……」

たまきの横を歩きながらミチが口を開いた。

「今月末、俺の誕生日なんだよねぇ」

「知りません……!」

たまきは深くため息をついた。

 

写真はイメージです。

「来年こそは手づくりしようかなぁ」

志保は「城」のキッチンを見ながら言った。

「まだ手作りチョコって作ったことないんだよねぇ。ここの設備しっかりしてるから、頑張ればイケそうな気がする」

冬の夜、三人は「城」でまったりと過ごしていた。暖房の効いた部屋の中にいると、こういう場所があることにありがたみを感じる。もちろん、家賃は払っていないのだけれど。

「志保さんならできると思います」

ゴッホの画集を読んでいたたまきが、志保の方に目をやって告げた。

「まあ、来年もあたしがここにいれば、だけどね……」

志保はそうやって自嘲気味に笑う。

「そもそも、来年もカレシがいるかどうかわかんねぇもんな。あ、別のオトコに変わってたりして!」

亜美は悪戯っぽく笑いながら、テーブルの上に置かれたチョコの包みに手を伸ばした。3人で千円ずつ出し合って買ったものだ。

「もう……!」

志保は不満げにチョコに手を伸ばす。

「ところで、たまきは誰かにチョコあげなかったのか?」

「え? ま、まあ……」

たまきは、どうとでも解釈できそうな言葉でお茶を濁した。

「そう言えばさ、亜美ちゃん、いっぱいチョコ買ってたじゃん。なんかケースのやつとかさ。あれって男友達にあげたりしたの?」

亜美のチョコを咀嚼する口が止まった。

「いや……あれは……女友達にあげたから。友チョコだよ」

「男友達にはあげなかったの?」

「はっ。アイツらにやるチョコなんてねぇよ。まあ、チョコ代立て替えてくれるっつ―なら、渡してもいいけどな」

「えー、でも、あげようかなって思ったりしないの? バレンタインデーだよ?」

あれ、さっき、どこかでそんなこと言われたぞ、とたまきは思った。

「ほら、ヒロキさんとか、付き合い長いんでしょ?」

そういうと、志保は亜美の方ににじり寄る。ヒロキとは、亜美の客の中で、特に付き合いがある男の名前だ。たまきも、亜美とヒロキが二人で街を歩いているところを見ている。

「ここだけの話、あたし、亜美ちゃんとヒロキさんちょっといいかんじなんじゃないか、なんて思ってるけど、そこんとこどうなの?」

にやにやしながら亜美に尋ねる志保。だが、亜美は眉一つ動かすことなく、あっけらかんと答えた。

「ヒロキ? あーないない。そもそも、あいつヨメもコドモもいるし」

「なんだそうなの。じゃあしょうがないか……」

さらっと受け流してから、志保とたまきは、亜美がとんでもないことを言っていることに気づいた。

「えぇ!!」

志保が、壁が破れるんじゃないかってくらいの大声を出す。たまきは大声こそ出さなかったが、目を丸く見開いて、て亜美を見た。

「ん? どした?」

亜美だけがぽかんとしたように、チョコをポリポリかみ砕きながら、二人を交互に見ている。

「ちょっと待って? ヒロキさんって、奥さんも子供もいるの?」

「ああ、いるいる。それがマジウケることに、ヒロキの嫁って、うちの一個下なんだぜ。それでガキいるって、じゃあ何歳の時に結婚して、何歳の時に産んだんだよ、そもそも、何歳の時に手ぇ出したんだよ、ってハナシじゃん? ウチもそれ聞いた時はさすがに『こいつらやべぇな』って思ったよ」

「ちょっと待って? ちょっと待って?」

志保は頭が追い付いていないのか、亜美の話を制した。たまきは、あまりにも自分とかけ離れた世界の話なので、もう理解することをやめた。

「え? それ、不倫じゃん!」

「それってどれだよ」

「亜美ちゃんとヒロキさんの関係!」

「は?」

亜美は亜美で、いま志保に言われたことが理解できないらしい。

「不倫じゃねぇだろ。お互い、本気じゃないんだし」

「亜美ちゃん、結婚してる人とその……エッチすることは悪いことだ、ってのはわかってる?」

「あのな……」

亜美はまるで人の道でも説いて聞かすかのような顔で話し始めた。

「いくらからあげが好きだからって、毎日からあげ食ってたら、たまにはテンプラが食いたくなるだろ?」

前にもこんな話を聞いた気がする。

「あれ……ちょっと待って……あたし……思い出してきたんだけど……」

志保がより一層戸惑ったような表情になった。

「亜美ちゃんさ、クリスマスの時、『不倫はスジが通んない』って言ってなかった? そうだよ、不倫してた女の人、殴ろうとしてたじゃん! っていうか、ヒロキさんも『不倫した奴が悪い』みたいなこと言ってなかった?」

「そりゃそうだろ。不倫は悪いに決まってんじゃねぇか」

「でも、自分が不倫してんじゃん!」

「だから、お互い本気じゃねぇから不倫じゃねぇってば。っていうか、あんとき、お前の方こそ、不倫するやつの気持ちわかるみたいなこと言ってなかったっけ?」

「『気持ちがわかる』と『不倫してもいい』は別の話でしょ!」

志保は手ごろなクッションをソファにたたきつけた。

「相手の奥さんの気持ちとか考えたことあるの、亜美ちゃん!」

「相手の気持ち? 相手の気持ちねぇ……」

亜美はしばらく考え込むようなしぐさを見せた。

「ヒロキのヨメは何も知らねぇんじゃねぇかな」

「だから……そういうことじゃなくてさ……、相手の奥さんが傷つくんじゃないかとか……」

「何も知らねぇんだから、傷つくわけねぇだろ。そもそも、本気じゃないんだし」

「だから……そうじゃなくて……」

「あのさ……」

亜美はうんざりしたように志保を見た。

「嘘ついてオトコと付き合ってるような奴に、とやかく言われたくねぇんだけど」

亜美の声には、温度がこもっていなかった。

「嘘って……」

「あのヤサオに、なんも言ってねぇんじゃねぇの?」

「それは……」

志保が下を向く。

「自分のカノジョが嘘ついてて、実はクスリやってて、しかもそれずっと黙ってましたって、お前こそ相手の気持ち考えたことあんのかよ。あ、これも相手はなんも知らねぇから、別にいいのか」

「それは……わかってるけど……」

志保は沈黙した。唇が少し震えているようにも見える。

亜美は、「なんか文句あるか」と言いたげに椅子にふんぞり返っている。

たまきは、少し離れたところで画集を膝の上において、それを見ているだけだった。

亜美と志保の周りに、真冬の朝の冷気のように落ち着かない空気が漂っていた。一触即発、というのとはちょっと違う。むしろ、重苦しい何かで押さえつけられたような感じだ。

たまきはなんとなく、ゴッホが描いた、麦畑の上をカラスが飛んでいる絵を思い出した。ゴッホなら、今のこの部屋の空気を何色で書くだろうか。

何か言わなきゃ、たまきはそう思った。

以前、志保はたまきが亜美と志保の間をつないでいる、たまきはそこにいるだけでその役割を果たしてくれる、と言っていた。だったら、不穏な空気が漂う今こそその力を使うときなんじゃないのか。コンド―……、じゃなかった、緩衝材としての役目を果たすときなんじゃないのか。

だがしかし、何を言えばいいのだろう。普段でさえ何をしゃべればいいのかわからないのに、こんなに落ち着かない状態の時に言うべき言葉なんて、思い浮かぶわけがない。

亜美か志保、どっちかのフォローに回ろうかと思ったが、たまきの乏しい会話力では、フォローしきれそうにないし、どっちかの味方をしたらどっちかを怒らせてしまうかもしれない。そして、それをなだめる会話力も、やっぱりたまきは持ってない。

だったらいっそ、全然違うこと、意表を突くようなことを言って、場の空気を変えるという作戦がいいのではないか。だけど、今この状態で、二人が不穏な空気を忘れてノッてくるような話題なんてたまきにあるはずも……。

「あ、あの……」

たまきはそっと立ち上がると、たった今、必死で考えたフレーズを口にした。

「私、チョコレートあげました、ミチ君に……!」

その言葉を聞いた途端、凍り付いた空気が一気に蒸発したかのように、亜美と志保は驚いた様子でたまきの方に振り向いた。

「はぁ!?」

「えぇ!?」

「……義理チョコですけど……」

急に恥ずかしくなって、たまきは下を向く。

「なんで? そういうの興味ないって言ってたじゃん!」

志保がまるで裏切り者を問い詰めるかの如く、たまきに迫る。

「さっき会ったとき、あまりにもチョコをあげないのかとしつこかったから……チョコくらいいいかなと思って……」

「ダメだよたまきちゃん!」

志保がたまきの両肩をつかんだ。

「ダメだったんですか……?」

「ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!」

「でも……別にチョコレートをあげるくらい……」

「そういう小さいことを積み重ねていくと、だんだん押し切られるのが当たり前になっちゃうよ! もしエッチなことをさせてほしいとか言われたらどうするの?」

「それとこれとは話が違うんじゃ……」

「一緒だよ一緒! 亜美ちゃんからも何か言ってよ!」

志保が、さっきまで口論していたはずの亜美に助言を求める。

「志保の言うとおりだぞ、たまき」

亜美は腕を組んでたまきに言った。

「だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが」

そう言われると、そんな気もする。そもそも、たまきがこの「城」で暮らすようになったのだって、亜美に押し切られたからだったような気もする。

「だからいっそのこと、そのまま押し切られてオトナの階段を上るってのもありなんじゃね?」

「何言ってるの亜美ちゃん!」

志保は今度は亜美の肩をつかんだ。

「そうでもしねぇと、こいつは自分からオトナの階段上ったりしねぇって」

「だからってそんなやり方……傷つくのはたまきちゃんなんだよ?」

「お前さっき、そういうこと繰り返してけば、それが当たり前になるっつったじゃねぇか。押し切られるのはこいつにとって当たり前のことなんだから、当たり前のことやってなんで傷つくんだよ?」

「だから……そうじゃなくて……」

 

夜中。太田ビルの屋上で志保は電話をかけていた。街の明かりが志保のブラウンの髪を照らす。

「あ、チョコ、食べてくれたんだ。どうだった? おいしかった?」

そのあと、二言三言言葉を交わす。

「うん、あたしも。大好きだよ」

そう言って志保は電話を切ると、振り返った。

そこには亜美が立っていて、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、にやにや笑っていた。

「熱いねぇ」

「うわっ! 亜美ちゃん、いつからいたの?」

「ん、今来たとこだけど?」

本当はもっと前からいて、黙ってそこに立ってたんじゃないか、そんな気がしてきた。

「じゃ、じゃあ、あたし、部屋ん中戻るから……!」

志保が顔を赤らめて、そそくさと屋上を後にしようとする。志保の背中越しに、亜美が声をかける。

「大好きだよー!」

「やめて~!」

そんな叫びとともに、志保は階段を下りて行った。

「熱いねぇ……」

亜美はポケットから何かを取り出した。

紺色の包装紙に包まれた、ハート形のチョコレート。

亜美は軽くそれを上に向って放り投げ、落ちた来たそれをキャッチする、

そのままチョコを手に、亜美は屋上の柵にもたれかかった。

このまま、屋上から落としてチョコを粉々に砕いてしまおうか、とも思ったけど、怒られそうなのでやめにする。

亜美は無造作にビリビリと包装を破って中のチョコを取り出すと、かじりついた。

ガリッという音がして、チョコがちょこっと砕ける。

チョコは見た目に反して、少し苦かった。

自分で買ったチョコを自分で食べて、誰かに渡したつもりになる。

その「誰か」というのは、一体どこにいるのだろう。

つづく


次回 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」(仮)

田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。5月公開予定!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫」

ミチの家で夕飯をごちそうしてもらうことになったたまき。そこで、たまきは初めて、ミチの家族のことを知り、ある後悔の念に駆られる。「あしなれ」第24話、スタート!


第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


 

駅の南側に行ってみたのは、たまきにとって初めてだった。

駅の西側を南に向って歩いていくと、大きな通りにぶつかる。たまきもミチも知らないが、この道は遠く山の中へと続く街道だ。

その街道は今、大きな橋となっている。たまきは最初、橋の下には大きな川が流れているんだと思った。だが、ミチによると、橋の下にあるのは川ではなく、線路だという。

「こんな太い線路ってあるんですか?」

たまきは驚いてミチに聞き返した。この橋のサイズだったら、下には幅50mほどの大きな川が流れていると思っていたのだが、川ではなく線路だとすると、とてつもなく太い線路が走っていることになる。ということは、その線路の上をこれまた見たこともない巨大な列車が走っているということに……。

「ちがうよ」

たまきの少し前を歩いていたミチが、笑いながら振り向いた。

「何本もの線路がこの下に集まってるんだよ」

ちょっと考えればわかることだった。たまきは自分のバカみたいな妄想が恥ずかしくなってきた。

たまきは今、ミチの家に向って歩いている。生まれて初めて、男の子の家にお邪魔する。

 

夕飯を外ですまさなければいけないのに、財布を忘れてきてしまったたまき。たまきは最初、ミチにお金を借りようとした。

勇気を振り絞って生まれて初めて借金の申し込みをしたのだが、ミチの答えは非常にあっさりとしたものだった。

「あ、ごめん。俺もカネ、持ってない」

ミチは家を出るとき、「まあ、今日はそんなに長くいないし」と、百十円だけポケットに入れて出てきた。途中の自販機にその百十円を入れて、コーラと交換してしまったので、ミチも今、一円も持ってないのだという。

どうしようと途方に暮れるたまき。またしてもぐうとおなかが鳴る。この調子でおなかが鳴り続けたら、あと2時間ぐらいしたら空腹で倒れてしまうんじゃないか。そんな妙な不安が、空腹感と一緒に、たまきの胃の奥から喉元を締め付けてくる。

飢え死には、なんかヤだなぁ。

どうしようかとあたりをきょろきょろと見渡すたまき。だが、いくら見渡したところで都合よくお金や食べ物が落ちているわけでも、また、答えが書いてあるわけでもない。

そんなたまきにミチがかけた言葉は、これまたあっさりとしたものだった。

「あ、じゃあさ、ウチくる?」

「え?」

ミチの思いもかけない提案に、たまきの体は一瞬硬直した。

たまきにとって「初めて会う人」は最大の敵の一つなのだが、同じくらい「初めて行く家」も苦手である。男の子の家ともなればなおさらだ。

そもそも、ミチの家にはミチの家族がいるのではないか。知らない人に囲まれてご飯を食べるなんて。「気まずい」とはまさにこのことだ。

それに、ミチが一人暮らしならそれはそれで、女の子としてちょっと警戒しておかなきゃいけないような気もする。

「あ、あの、ダメです。そんな急に知らない人が行っても……、ミチ君の家族も迷惑だと思いますし……」

「あ、ウチっつっても、家じゃないんだ」

じゃあ、どこだ。

「俺の姉ちゃんが店やっててさ。スナック。まあ、俺が住んでるアパートの一階だから、ウチと言えばウチなんだけどさ。家にいるときはいつもそこで夕飯食ってるんよ。姉ちゃん、どうせ仕事でずっとキッチンにいるんだし、急にもう一人増えたからってそんな困んないよ」

「でも……私、お金持ってないし……」

「いいよいいよそんなの。この前、たまきちゃんに助けてもらったお返し、俺、まだ何にもしてないんだもん。そろそろなんかしねぇと、今度は姉ちゃんにボコボコにされるから」

「でも……」

「でも」といったはいいものの、そのあとに続くセリフがたまきには見つからなかった。セリフの代わりに、再びおなかがぐうと鳴った。

「じゃあ、決まり。ここから歩いてそんなかかんないから」

そういうとミチは歩きだしてしまった。たまきも仕方なしにその後ろをとぼとぼとついて行く。

こんな簡単に男の子に押し切られてしまうのは、女の子としてよくないんじゃないか、そんなことをちょっと思いながら。

 

画像はイメージです。

ミチとたまきは線路沿いのテラスを歩いている。地形からも、古い町並みからも自由なテラスの上は、完全な人口の空間だ。左側を見ると、削りたての鉛筆のようにとんがった建造物が見える。

一歩一歩と歩みを進めるごとに、緊張でたまきの鼓動が少しずつ高まっていく。知らない場所に行き、知らない人に会う。たまきが一番苦手なことだ。

「その……これから行くところって……ミチ君の実家なんですか?」

「ちがうよ。俺、出身、ヨコハマだし」

「……そうなんですか」

二人はテラスの階段を降りていく。すぐに踏切にぶつかるが、ちょうどいいことに、遮断機は上がっている。二人は線路を渡ると、右に曲がって線路沿いを歩いていく。

「姉ちゃんがさ、ちょっと歳はなれてるんだけど、ずっと水商売しててさ。それで、こっちでお店持たないかって話になって。雇われママさんっつーの? オーナーの人が店やってくれる人探してて、姉ちゃん、その人と知り合いだったみたいで、姉ちゃんに店やらないかって話になって」

ミチはたまきの前を歩きながら、ちらちらとたまきを振り返って話を続けた。

「それがちょうど俺の中学卒業の時期と重なっててさ。で、姉ちゃんと一緒にこっち来ないかって話になってさ」

「じゃあ、今、お姉さんと二人暮らしなんですか」

「二人暮らし……、なんつったらいいのかなぁ。そのスナックの二階がアパートになってて、スナックのオーナーがそのアパートの大家でもあるんよ。で、俺と姉ちゃんはそこに住んでんだけど、部屋は別々なんだよね。オーナーのご厚意、ってやつでちょっと安く貸してもらってるんだよ。だから、姉ちゃんには毎日会ってるんだけど、二人暮らし……ってわけじゃないかな」

ミチの話を聞きながら、たまきはひとつ気になっていることがあった。

さっきから、ミチの家族は「姉ちゃん」しか話の中に出てこない。

「じゃあ、お父さんとお母さんは、ヨコハマの実家にいるんですか?」

「お父さん? 誰の?」

「ミチ君のです」

「いや、俺、親いないし」

「え?」

たまきの足が止まった。

東京の家々の間を縫うかのような細い路地は下り坂になっている。空はすっかり暗くなり、いくつかの街灯が足元を照らしている。

ミチは少ししてから、たまきの足が止まっていることに気づいた。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「……初めて聞きました」

たまきは、息をのみ込んだように驚いた顔をしていた。

「……親は二人ともいないってことですか?」

「そうだよ? あれ、ほんとに言ってなかったっけ?」

たまきは無言でうなづく。

「そっか。言ったような気がしてたんだけどな。そういや言ってなかったかもなぁ」

ミチはぼりぼりと頭をかいた。

なんで親がいないんですか、とたまきは聞こうとした。だけど、そんな立ち入ったこと、聞いてもいいのだろうか。

そんなたまきの逡巡を察したのか、口を開いたのはミチの方だった。

「父親は最初からいないんよ。母親も俺がちっちゃいころに、俺と姉ちゃん置いてどっか行っちゃって。俺と姉ちゃんはずっと施設で育ったんだよね」

二人は、再び坂道を下り始めた。

「だから、『家族』ってよくわかんねぇんだよね。特に、『親』って何なのかさ。父親は知らないし、母親のこともほとんど覚えてねぇし。俺にとって家族とか親っていうのは、いねぇのが当たり前だからさ。姉ちゃんいるけど、まあ、姉ちゃんは家族っていうよりは姉ちゃんだし」

ミチは手を頭の後ろで組んだ。

「でもさ、テレビとか見てるとさ、家族の絆がどうとかさ、親の愛がどうとかさ、そういうドラマとか多いじゃん。だから、家族は仲が良くて、子どもは親が好きっていうのが、当たり前なのかなぁ、って思ってたんだけど、たまきちゃんの話聞いてると、そうじゃない人もいるんだね」

そう言ってからミチは最後に付け足した。

「まあ、よくわかんねぇんだけどさ」

ミチの話を聞いて、たまきは夕方に言った自分の言葉を思い出していた。

『ミチ君みたいな人にはわかんないですよ……きっと……』

もしかして自分は、とてつもなく失礼なことを言ってしまったのではないだろうか。

たまきは家族が苦手だ。両親が嫌いだ。

それでも、たまきにとって、それは当たり前にいる存在だった。

でも、ミチにとってはそうではなかった。

「あ、あの……」

たまきは駆け出すと、ミチの横に並んだ。

「さっきはごめんなさい。私、すごい失礼なことを……」

「いいよいいよ。親いないって言ってなかったんだし。普通はみんな、親いるわけだから、言わなきゃ普通わかんねぇって話だよな」

ミチの「普通」という言葉が、たまきにはどこかの別の国の言葉のようにも聞こえた。

「でも、知らなかったとしても、ミチ君は親がいないのに私、すごい失礼な……」

「っていうよりさ、むしろ、『親のいないかわいそうな子』って扱われることの方が嫌なんだよね」

「……ごめんなさい」

「だってかわいそうもなにも俺にとって親は『いない』のが当たり前なんだから。まあ、俺は姉ちゃんがいたから、そう思えるだけなのかもな。施設には荒れてるやつもいたし」

そういうと、ミチはたまきの方を見た。

「俺こそなんかさっき、いやなこと言っちゃったかも。ごめんね。悪気はないんよ。たまきちゃんの言う『家族』の話がさ、俺の聞いてた話と違うなぁ、って思って」

そう言ってから、ミチは少し照れ臭そうに笑う。

「なんか最近、謝ってばっかだな、俺ら」

「……ですね」

たまきも少し寂しそうに下を向いた。

 

写真はイメージです。

坂を下り続け、線路はいつの間にか高架へと変わっていた。高架をくぐる道におろされた柱に、駅名が書かれた看板が取り付けられている。どうやらここは駅らしいが、見たところ、駅舎らしき建物は見当たらない。

あまり大きな駅ではないみたいだが、それでも駅前はちょっとした商店街になっていた。ふと、わきに目をやると、さっきのとんがった建物が目に入る。

その商店街からちょっと路地に入ったところに、スナックが立ち並ぶ一角があった。ミチはその中のビルの一つの前に立った。すすけたビルで、2階はアパートになっているのだろうか、窓がいくつかあって、物干し竿がかかっている。

1階はお店になっていて、路上に看板が置かれていた。

看板にはひらがなで「そのあと」と書かれていた。

なんだろう、と思ってたまきはその看板を見つめていたが、どうやら、お店の名前らしい。

スナック、「そのあと」。

ヘンな名前。たまきはそう思ったが、言葉には出さなかった。

「ヘンな名前だろ? 姉ちゃんが店もらう前から、この名前だったみたいだぜ?」

そういうと、ミチは店の扉を開けた。

「ただいまぁ。姉ちゃん、友達連れて……」

ドアがバタンと閉まった。

たまきは、中に入らずにお店を見つめていた。暗い色の扉はなんだかものものしく、なんだか異世界の門のように来るものを拒んでいる。

再び扉が開いて、ミチが顔を出した。

「たまきちゃん、何やってるの? はいんなよ」

たまきはふうっとため息をつく。同時におなかがぐうっと鳴った。

 

お店の中は薄暗く、やっぱり違う世界に迷い込んでしまったかのようだ。

細長いお店の中にカウンターがあり、口紅のように真っ赤な椅子が並んでいる。カウンターの中のキッチンには、エプロン姿の女性が立っていた。

スナックのママ、という言葉の持つイメージに比べると、幾分か若い。亜美や志保よりも、たまきの姉よりも年上だと思うが、舞に比べるとずいぶんと若い気もする。

鮮やかな長い茶髪で、少しウェーブがかかっている。メイクは少し濃いめだが、厚化粧というわけでもなかった。

たぶんこの人がミチのお姉ちゃんなのだろうが、年が離れているせいか、目もと以外はあんまりミチに似てない気もした。

ミチのお姉ちゃんはたまきの方を見ると、にっこりと笑顔を見せた。

「いらっしゃい」

「こ、こんにちは……」

たまきは、自分がそこにいることそのものが申し訳ないかのように、うつむいてあいさつをした。

「あなたがミチヒロのお友達?」

「ミチヒロ」って誰だろう? とたまきはあたりを見渡したが、どうやら今まで「ミチ君」と呼んできた彼が、「ミチヒロ」らしい。

「ま、とりあえず座って」

 

ミチのお姉ちゃんに促され、たまきとミチはカウンターの前にある椅子に腰かけた。

椅子の上のたまきは、石像のように固まっている。

自分から名乗ったほうがいいのだろうか。いや、自分から名乗るべきなのだろう。

わかっているんだけど、どうしても言葉が出てこない。代わりにおなかがぐうと鳴る。

自己紹介ができずに今にも泣きだしそうなたまきだったが、先に声をかけたのはミチのお姉ちゃんの方だった。

「もしかして、あなたがひきこもりのたまきちゃん?」

どうして初めて会うのに自分の名前を知っているのだろう、という疑問より、どうして引きこもりだってばれたんだろうという疑問の方が、たまきの頭をもたげた。とりあえずたまきは無言でうなずいた。なんだが引きこもりであることも認めたようで少々腑に落ちないが、事実なのだからしょうがない。

「へ~。聞いてたイメージ通りだ~」

ミチのお姉ちゃんはそう言って笑った。たまきは横にいるミチを見ると、「私のこと、どういう話したんですか?」と言いたげににらんだ。

ミチのお姉ちゃんはミチの方を向くと、

「なんか、今までミチヒロが連れてきた女の子たちと比べると、この子、全然雰囲気違うね」

「ちょっ! 姉ちゃん!」

ミチは困ったように姉を見て、そのあとでたまきの顔色を窺った。今度はたまきは「今までに何人の女の子連れてきてるんですか」と言いたげににらんでいた。

「ミチヒロも人妻なんかと不倫してないで、こういう真面目そうな子と付き合いなさいよ」

どうやら、一連の顛末をミチのお姉ちゃんは知っているらしい。

「私は……真面目じゃないです……その……学校行ってないし……」

たまきは渡された原稿をただ読んでいるだけのようなたどたどしさで答えた。

「へぇ~。聞いてた通り、すごい人見知りなんだぁ。ふふ、かわいい~」

そういうとミチのお姉ちゃんはカウンターから手を伸ばし、ニット帽の上からたまきの頭を撫でた。

撫でられる、なんてあまり慣れないことをされて、たまきは身をよじって今すぐ店の外に駆け出したい衝動にかられたが、そうしたい、と思っただけでそれを実行できないのもまたたまきらしさである。椅子に座ったまま、されるがままに撫でられる。

ニット帽越しに撫でられる感触を感じ取りながら、たまきは前にもこんなことされたな、と思い出していた。

「で、ミチヒロ、なんだっけ? お夕飯用意すればいいんだっけ?」

「そうそう、二人分」

「焼きそばでいい?」

「たまきちゃん、それでいい?」

ミチはたまきの方を向き、たまきは無言でこくりとうなづいた。

「じゃ、作るね~」

ミチのお姉ちゃんは冷蔵庫から焼きそばの麺を三袋取り出した。

「ミチヒロは大盛でいいよね?」

「うん、お願い」

ミチとお姉ちゃんのやり取りを見ながら、たまきは自分の姉のことを思い出していた。

 

たまきの姉は、当たり前のことが当たり前にできる人だった。

やさしくて、おしゃれで、友達も多くて、勉強も運動もそこそこできる。人一倍優秀というわけでもないが、何でもそつなくこなせる人だった。

たまきはそんなお姉ちゃんが大好きだった。生来の人見知りだったたまきは、外に出るときはいつもお姉ちゃんの手を握り、お姉ちゃんの後ろを引っ張られるようについて行った。

たまきが学校に行けなくなって以来、父と母は時に腫物のように、時に邪魔もののように、時にわるもののようにたまきを扱った。でも、たまきの姉がたまきに接する態度は変わらなかった。

父も母も出かけたある土曜日、姉がたまきのひきこもる部屋にやってきた。

「お昼に焼きそば作ったよ」

たまきの目の前に焼きそばが盛り付けられたお皿が置かれた。

焼きそばから立ち込める湯気の向こう側に、姉の笑顔があった。

それがたまきにとっては、たまらなくまぶしかった。

どっか行ってくれないかな。

そう思った。

たまきは結局、焼きそばに手を付けなかった。姉はたまきの部屋を去る時、初めて悲しそうな顔をした。

別に、お姉ちゃんのことが嫌いになったわけじゃない。お姉ちゃんがたまきに冷たくしたわけでもない。

ただ、その存在がまぶしかった。

たまきのことを気にかけてくれたお姉ちゃんを、たまきはみずから遠ざけた。

さっきだってそうだったではないか。お金と食べるものがなくて困ってるたまきを、ミチは家まで連れてきて、ご飯を用意してくれた。

そのミチを、たまきは自分から遠ざけようとした。ミチがまぶしかったという理由で。

どうして、自分のことを気にかけてくれる人を、自分に手を差し伸べてくれる人を、自分から遠ざけてしまうんだろう。

どっか行っちゃえばいいのに。

それはミチに向けた言葉でも、お姉ちゃんに向けた言葉でもなかった。

たまきがたまき自身に向けた言葉だった。

つまるところ、たまきはお姉ちゃんのことが嫌いになったわけでも、ミチのことが心底嫌いなわけでもない。

自分のことが嫌いなのだ。

 

ミチとたまきの目の前に、ソース焼きそばの盛り付けられたお皿が置かれた。湯気がたまきの眼鏡を曇らせる。

たまきは割り箸を手に取ると、両手を合わせた。

「い、いただきます」

両手に力を込めて割り箸を割る。しなった割りばしが割れる瞬間が、あまり好きではない。

隣を見ると、ミチがすでに焼きそばにむさぼりついていた。

たまきはふうふうと息を吹きかけると、湯気に絡みつくソースのにおいと一緒に、焼きそばを口の中へと入れた。

空腹の極みに達してからの焼きそばは、無条件においしかった。

ふと、ミチが

「俺ちょっと、トイレ行ってくるわ」

と言って立ち上がる。

「え……?」

店の奥にあるトイレへと立つミチを不安げに見送るたまき。ミチがいなくなったら、今日、初めて会った人と二人きりになってしまう。

「ちょっと、食事中にそういうこと言わないの。黙っていきなさい」

ミチのお姉ちゃんはぶぜんとしたようにミチの背中に向けて投げかけた。トイレのドアがバタンと閉まる。

「全く、我が弟ながらデリカシーのない奴よ」

そういうとミチのお姉ちゃんはたまきの方を見た。

「どう? おいしい?」

たまきは慌てて焼きそばを飲み込んだ。

「は、はい。おいしいです。ありがとうございます。あ、あの、お金は後で必ず……」

「いいって、そんなの」

「でも……」

たまきはカウンターの上に掲げられたメニュー表を見た。焼きそば480円と書いてある。

「いいっていいって。たまきちゃんでしょ、ミチヒロのこと助けてくれたの。そのお礼よ」

ミチのお姉ちゃんは白い歯を見せた。

「こんなにちっちゃいのに、ミチヒロのこと、盾になって守ってくれたんだぁ」

たまきはなんて返事していいのかわからず、下を向いて黙々と焼きそばを食べ続けた。

しばらくして顔をあげると、ミチのお姉ちゃんはまだたまきを見てニコニコしている。

こういう状況が、本当に苦手だ。

どっか行ってくれないかな。

そんな言葉がまたたまきの頭をもたげたが、もうそんな風に考えることはやめよう、そう思った。

いきなり来て、お金も持ってないのに、お夕飯を作ってくれなんてぶしつけなお願いをしたにもかかわらず、ミチのお姉ちゃんはたまきのことを歓迎してくれている。

もう、そういう人を自分から遠ざけるのはやめよう。

たまきは顔をあげると、ミチのお姉ちゃんの目を見て、もう一度、

「おいしいです」

と言って、たまきにしては精いっぱいの笑顔を見せた。

すると、ミチのお姉ちゃんはたまきにグイっと顔を近づけた。たまきは少しひるんだが、逃げることなくこらえた。

「たまきちゃんてさ、ここ来るの初めてだっけ?」

「は……初めてです」

「だよね。いや、なんか見たことあるっていうか、誰かに似てるっていうか……。誰か芸能人とかに似てる、って言われたことない?」

「な、ないです……」

たまきみたいに影の薄い芸能人、いるわけない。

「そっかぁ……誰かに似てるんだよねぇ……」

ミチのお姉ちゃんがそう言ったタイミングで、トイレのドアが開いてミチが戻ってきた。

「あ~、すっきりした」

「ほんとデリカシーのない奴よ」

ミチのお姉ちゃんが弟をぎろりとにらむ。

ミチが帰ってきたことでたまきは少しほっとして、焼きそばをほおばった。焼きそばは少し冷めて、たまきの舌にはちょうどいい温度だ。

ミチのお姉ちゃんはその様子を見ていたが、突然、

「わかった!」

と声をあげた。

「なんだよ、姉ちゃん」

「この子なにかに似てる、って思ってたんだけど、わかった! クロだ! クロに似てるんだ!」

くろって誰だろう? とたまきはミチを見る。ミチも何のことかわからないらしく、

「クロって?」

と姉に聞き返していた。

「ほら、あんたが小学生ぐらいの時だからもう十年前か。施設に黒猫が迷い込んできてさ、みんなで『クロ』って名前つけてエサやってかわいがってたじゃん。この子、そのクロに似てるんだ!」

そんなわけない、とたまきは思った。たまきは人間である。ちょっと小型だけど人間である。いくらなんでも、ネコに似てるわけがない。

たまきはぶぜんとしたまま、焼きそばを口に運んだ。

ミチも、

「うーん、似てはないんじゃない。確かに、たまきちゃん、黒い服着てるけど、さすがにネコに顔が似てるってことは……」

「いやね、顔が似てるっていうんじゃなくて、なんていうのかな、雰囲気が似てるのよ。動き方とか、たたずまいとかさ」

そう言って、ミチのお姉ちゃんはたまきを指さし、

「ほら、この焼きそば食べてる姿もさ、なんかクロに似てるんだよねぇ」

そんなわけない、とたまきは思った。そのクロというネコは左の前足で割り箸を持って、焼きそばを食べていたとでもいうのだろうか。

「クロって最後どうしたんだっけ」

ミチのお姉ちゃんは弟の方を見て尋ねた。

「たしか……急にいなくなっちゃったんだよ。それで、自分の死期を悟って姿を消したんじゃないか、みたいなこと言ってなかったっけ」

「そうだったっけ。じゃあ、もしかしたら、この子、クロの生まれ変わりかも!」

そんなわけない、とたまきは思った。たまきはいま十六歳。そのクロというネコがいなくなったのが十年前なら、たまきはその時すでに六歳だ。生まれ変わりなわけがない。

「いやぁ、見れば見るほど、よく似てるなぁ」

そう言ってミチのお姉ちゃんは再びたまきの頭に手を伸ばして撫でた。

「ほら、この撫でてる時の嫌そうな表情とか、ほんとそっくり」

嫌そうだとわかってるなら、やめてくれればいいのに。

 

焼きそばを食べ終えて少し休憩すると、たまきは立ち上がった。そろそろ帰らないと、たまきみたいな年の女の子がこういう店に夜遅くまでいてはいけない気がする。

「あの、私、帰ります。焼きそば、ごちそうさまでした。おいしかったです」

たまきはぺこりと頭を下げた。

「またご飯食べに来なよ。水曜と金曜は、ランチタイムやってるから」

ミチのお姉ちゃんは、フライパンを洗いながら答えた。

「ああ、あの、あまりお客さんが入らないランチタイム?」

「うるさいな」

ミチのお姉ちゃんは弟をにらみつけた。

「じゃあ、帰ります」

「うん、またね」

そう言ってミチが片手をあげたとき、ミチのお姉ちゃんがフライパンをミチの頭の上に振り下ろした。ガンという鈍い音が聞こえて、たまきも何事かと振り返る。

「いってぇ! 姉ちゃん、何すんだよ!」

「『うんまたね』じゃないでしょ! ちゃんと送ってあげなさい!」

「あ、あの、私、大丈夫です。一本道ですし……」

たまきは申し訳なさそうに言った。

「ダメダメ。もうすっかり暗くなってるし、人通り少ないからあぶないよ。ミチヒロ、送っていきなさい。その不法占拠してるビルまでとは言わないから、駅の近くの明るいところまで」

たまきは「不法占拠とか勝手に話さないでくれますか」と言いたげに、ミチをにらんだ。

 

写真はイメージです。

行きはひたすら下っていたが、その分、帰りは上り坂が続く。ミチのお姉ちゃんが言うとおり、あたりは深夜と見まがうほどに暗くなり、街灯が寂しく灰色のアスファルトを照らしている。行く手には鉛筆みたいなビルがそびえたつ。とんがった先端がやけに明るくライトアップされ、なんだか空に向かってビームでも放ちそうだ。

二人はほとんど会話することなく歩いていたが、たまきの歩く姿を横目に見ていたミチが口を開いた。

「でも、たしかにたまきちゃんって、ネコっぽいかも」

「え?」

「いや、今歩いてる感じも、なんかネコっぽいんだよねぇ」

たまきは自分の足元を確認した。

そんなわけない。たまきはちゃんと、二本足で歩いている。

「なんですか、二人そろって。人のことを動物みたいに」

「え、でも、ネコってかわいいからいいじゃん」

「動物じゃないですか」

たまきは口をとがらせながら言った。

「似てると言えば……」

そう言ってから、たまきはそこから先を言っていいものかどうか、ちょっと迷った。でも、さっき、ミチのお姉ちゃんもその話題を口にしていたので、別にいいかと、たまきは言葉をつづけた。

「ミチ君のお姉さん、誰かに似てるって私も思ってたんですけど……」

「へぇ、だれだれ?」

「……海乃って人に似てる、って思いました」

ミチは何も答えなかった。

「……ミチ君のお姉さんの方が、やさしいかんじでしたけど」

たまきはミチの方を見た。ミチは口を真一文字に固めて、少しこわばったような表情をしていた。

それを見たたまきは珍しく笑みを、それこそ、ネズミを捕まえた子猫のような笑みを浮かべた。

「もしかして、海乃って人が好きだったのは、お姉さんに似てたからですか?」

ミチはしばらく何も言わなかった。やがて、恥ずかしそうに一言だけつぶやいた。

「おかしい……?」

「いいえ」

たまきは少し微笑んでいった。

「私も私のお姉ちゃんのこと、大好きですから」

「あれ? 家族きらいなんじゃなかったっけ?」

「お姉ちゃんは……お姉ちゃんです」

街灯に照らされた二つの影は、つきそうでくっつかない、微妙な隙間を開けながら、坂道を登って行った。

つづく


次回 第25話「チョコレートの波浪警報」

次回はバレンタインのエピソードです。2020年2月14日、バレンタインに公開します! 続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

田代と一緒に映画を見に行く志保。3人はばらばらの行動をとることに。行く当てもなくいつもの公園を訪れたたまきだったが、あるミスを犯したことに気づいてしまう……。そんなあしなれ第23話、スタート!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「じゃ、行ってくるね」

いつもより少しばかりおしゃれした志保が玄関で、玄関と言ってもマットが敷かれ、靴が置いてあるだけの玄関で、靴を履き始めた。

「なあ、その映画、おもしろいの?」

ソファで寝ころびながら亜美が尋ねた。

「まだ見てないんだから、おもしろいかどうかなんてわからないでしょ?」

志保はちょっと高めのおしゃれな靴を履くのに苦戦していた。

「どういう映画?」

「えっとね、高校生の女の子5人組が、学校に、部活に、恋に、青春に駆け抜けてくってお話」

「フツ―!!」

亜美はソファの上で両手両足を大きく伸ばした。

「ふつう……ですね……」

たまきもソファの上で体育すわりをしながら、ぼそっとつぶやく。

「普通が一番だって」

志保はようやく靴をかけたようで、ドアノブに手をかけた。

「というわけで、今日は遅くなります。お夕飯は各自で、ってことで」

「今日帰ってこない、ってこともあるかもな」

亜美は起きやがるとにやにやと白い歯を見せた。

志保はドアを半分開けたが、亜美の言葉にくるりと踵を返すと、靴のまま亜美のもとへと詰め寄った。

「だから、何度も言うけど、私と田代さんはまだそういう関係じゃないんだから!」

「まだ、ねぇ」

亜美は相変わらずにやにやしている。

「よしんば、そういう関係だったとしても、あたしはそんな簡単に外泊したりとかしないから! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」

「よしんば」

亜美は「よしんば」という言葉が面白かったのか、口元を抑えて笑った。

「よしんば、よしんばだよ、よしんばそういう関係だったとしても、デートするたびにエッチするとか、あたしはそういう……」

「よしんば!」

「よしんば」がよっぽど面白かったのか、亜美はソファの上で笑い転げた。

「……とにかく、行ってくるから!」

志保は亜美に勢いよく背中を向けると、「城(キャッスル)」を出て行った。

「よしんばがんばって来いよー!」

志保の背中に向けて亜美が元気に手を振った。

ドアがバタンと閉まる。亜美はよいしょっと立ち上がった。

「オトコと映画なんか見に行って、なにが楽しいんだろ?」

「……楽しいんじゃないですか、たぶん」

たまきが体育座りのまま答えた。

「どのへんが? だって、映画館って真っ暗じゃん。二人で行ったって、相手の顔、見れないじゃん」

「映画館って、真っ暗なんですか?」

たまきはまっすぐに亜美を見上げた。一瞬、会話が途切れる。

「そこ!?」

「……どこですか?」

「いや、そこ引っかかるところか? 映画館は真っ暗に決まってんだろ?」

「そうなんですか?」

「そうなんですかってお前、映画館行ったことねぇの?」

たまきは無言でうなづいた。

「でも、真っ暗だったら、なか、歩けないですよね。トイレとかどうするんですか?」

「ぜんぶ真っ暗じゃねぇよ! 映画始まったら真っ暗にするんだよ!」

「なんでですか?」

「なんでって……」

「だって、テレビ暗くして見てたら、怒られるじゃないですか。なんで映画は真っ暗で見るんですか?」

「……なんでだろう?」

亜美は首をかしげたが、やがて、もうこの話題に飽きてしまったのか、衣裳部屋の方を見ると、

「ウチも出かけてくるわ。お前はどうする?」

とたまきに尋ねた。

「私も……出かけます……。ここに残っても、お夕飯ないし……」

「別に無理して出かけなくても、下のコンビニでなんか買って食えばいいじゃん」

「……そういう気分じゃないんで。ちょっと出かけたいかも……」

「へぇ。お前にしては珍しい」

亜美は笑顔を見せると、衣裳部屋の方に歩き出した。

一方、たまきは、言ってはみたものの出かけるあてもない。

「あ、あの、亜美さんについて行っちゃだめですか?」

衣裳部屋のドアノブに手をかけたまま、亜美の動きが止まった。

亜美が答えたのはしばらくたってからだった。

「……隣町のヘアサロン行くからさ、お前来ても、おもしろくないと思うぞ」

亜美はたまきの方には振り返らなかった。

「ヘアサロン……」

志保に「いつもと同じでお願いします」とだけ言って髪を切ってもらっているたまきにとって、美容室というだけでも十分に敷居が高いのに、「ヘアサロン」だなんてどこかの宮殿みたいな名前を出されたら、それだけで委縮してしまう。高い入場料でも取られるんじゃないだろうか。

おまけに、うわさに聞く美容師という職業の人たちは、黙って髪を切ればいいものを、どういうわけか話しかけてくるという。知らない人に髪を触られたり、顔を見られたりする時点ですでに嫌なのに、おまけに話しかけてくるだなんて。

だが、そんなことを言ってたら、また亜美から「何うじうじしてるんだよ」とか「どうでもいいじゃん、そんなの」とか言われてしまいそうだ。たまきももう十六歳なのだし、いいかげん人並みに美容院くらい行けるようにならないといけないのではないか。

そうだ。美容院に行ったら、ずっと目をつぶっていればいいのだ。そしたら無理に話しかけられることもないだろう。

「あ、あの、私も行きます、ヘアサロン」

そう言ってしまってから、たまきは亜美の反応が怖かった。驚かれるんじゃないか。もしかしたら、笑い飛ばされるかも。

そう思ってドキドキしていたが、しばらくたっても、亜美は何も言わない。

「……その、私も少しおしゃれしたほうがいいかなって……」

心から思っているわけではないセリフを言うと、どうしても言い訳がましく聞こえてしまう。

「あ、あのさ……」

亜美がようやく口を開いた。振り返らないままだが。

「その美容院、予約制なんだよね」

「よやく……ですか……」

「……そ。かなり人気のところでさ、今から予約しても、無理だと思うぞ」

「……わかりました」

たまきの返事を聞くと、亜美はまるで魔法が解けたかのように動きだし、衣裳部屋の中へと入っていった。

「ヘアサロン」に行かなくていいということで、どこかほっとしている自分がいることに、たまきは気づいていた。

あと二つ、たまきが気付いたことがある。

一つは、亜美が「隣町のヘアサロン」から帰ってきても、きっと髪型は変わってないということ。

そして、亜美はきっと今、ほっといてほしいんじゃないかということ。なんとなくだけど。

 

写真はイメージです

志保は映画館の前で一人、田代を待っていた。ベージュのコート、赤いマフラーに身を包み、街路樹のように立っている。

歓楽街の中にある映画館。真冬の風の中を多くの人が行きかう。

自分の吐いた息が白い靄のように立ち込め、消えていくさまを志保は見つめていた。

待つ、という行為を、志保は決して嫌いではない。

時に、恋愛の本質とは相手と一緒にいる時間よりも、相手のことを想いながら待つ時間にあるのではないか、と思えるほどだ。

緊張からか自分の鼓動が少し早いのを感じる。今日の服やメイクはこれでよかったのかと少し不安になる。田代が来たらなんて話しかければいいのか考え始めると答えは尽きない。

不安。

焦燥。

緊張。

それすらも、それすらも心地よい。

古い短歌なんかには、こういう相手を待つ時間のじれったさを歌ったものがいくつかあったはずだ。今も昔も、「相手を待つ」というのは恋の醍醐味なんだと思う。

もっとも、以前にそんなことを亜美に話したら、「ウチは5分待たせるオトコはコロス」と物騒なことを言っていた。

ふと、視線を感じて志保は背後を振り返った。

初詣の時みたいに、またトクラがどこからか見ているんじゃないだろうか。

志保はキョロキョロと周りを見渡す。周囲の建物の窓、さらには屋上にまで目線を送る。屋上からトクラが双眼鏡で覗いているんじゃないだろうか。

結局トクラの姿は見つからなかったが、それでもどこからか感じる視線はぬぐえなかった。

待ち合わせ時間の4分前となった。白い吐息が晴れてくると、そこに田代の姿があった。

黒のジャケットを着こみ、両の手をポケットに突っ込んでいたが、志保と目線が合うと、ポケットから手を出した。

「待った?」

「ううん、今来たとこ」

本当は六分前からここにいた、なんて言うのは野暮というものだ。

「チケットはもう買ったの?」

「ううん、これから」

「じゃ、行こうか。席、どの辺がいいかな」

「うーん、前の方かな」

志保は笑顔で答えていたが、内心では困っていた。事前に用意していた、いくつかの気の利いたセリフが、田代の顔を見たとたんにどこかに飛んで行ってしまったことに。

 

写真はイメージです

赤い薄手のセーターに黒の革ジャンを着て、亜美は駅へと向かって歩いていく。途中、デパートに立ち寄って12個入りのお饅頭の箱を購入した。

デパートを出て再び真冬の街の中を駅に向かって歩いていく。

お饅頭の入った手提げ袋を亜美はぶんぶんと大きく振りながら歩いていた。しかし、ふと立ち止まり、手提げ袋に目をやる。あまり振り回すと中身のお菓子によくないのではないか、そう思い直したのか、手提げ袋を持った右腕をだらんと下げ、なるべく動かさないように歩き出した。

歓楽街から駅までの間は、真ん中に街路樹があるせいか、ほとんど車が通らない。大通りと大通りに挟まれたこの一角は道いっぱいに歩行者が広がっている。

亜美は左に曲がった。このまままっすぐ行けば駅だ。

その時、カップルとすれ違った。

男の方も女の方も割と背が高い。二人ともサングラスをしていたが、すれ違っただけでも美男美女であることは分かった。

今のやつら、どっかで見たことあるぞ。亜美は直感的にそう思って振り返った。別に急いでるわけではないので、後をつけて誰だったか確かめようかとも思ったが、振り返った時には二人はもう雑踏の中に消えていた。二人とも黒っぽい服装をしていた気がするが、冬の大都会にはそんな服装の人は多すぎて、逆に見つけられない。

ま、いっか、と亜美は駅へと向かうスクランブル交差点を渡り始めた。とはいえ、あれが一体誰だったのかちょっと気にはなる。

女の方を思い出したのは、交差点を渡ってすぐだった。

確か、志保と同じ施設に通っている女だ。名前は知らないが、亜美は確か二回会っているはずだ。

一回目は十月に行われた大収穫祭の時。確か、クレープを焼いていた女だ。

まあ、それくらいなら亜美もいちいち覚えちゃいない。

亜美がその女の顔を覚えていたのは、十日ほど前にも見ていたからだ。初詣に行った神社で志保と偶然に会ったらしく、何やら話していた。そう言えば、服装もさっきとほぼ一緒だった気がする。

女の方を思い出せてちょっとすっきりしたが、男の方は思い出せない。

まあ、どうでもいいや。たぶん、志保と同じ施設の人で、大収穫祭の時に見たのをたまたま覚えてたんだろ、と亜美は気にせず、改札を抜けた。

駅構内はまるでゲームに出てくる洞窟やお城のように、広大で、入り組んでいる。その中を溢れんばかりの人が縦横無尽に行きかう。

初めてこの駅を降りたときに、あまりの人の多さに亜美は、その日は何かのお祭りをやっているんだと思った。駅を出ても人の波は収まらず、やっぱりどこかで大きな祭りをやっているんだと思った。それが何でもない木曜日の午後の日常の風景にすぎないと知って、亜美は思わず「ウソだろ」と口にしていた。

あれから一年ぐらいが経った。いつの間にか、この町にもこの駅にも慣れてしまった。

大人になるというのは、そういう風に特別だと思っていたことが当たり前になっていくことなのかもしれない。亜美にだって小学校の頃は男子とちょっと手を握ったくらいでドキドキした時代もあった。今となっては信じられないが。それが今では、手をつなぐどころか、男と夜にベッドを共にすることすら、何でもないことだ。

そのうち、結婚とか出産とか子育てとか、今の亜美には想像もつかないようなことが、日常になり、当たり前になり、何でもないことになるのだろう。

誰かと結婚するなんて想像もつかないし、今の亜美は結婚なんてするつもりはさらさらないのだが、それでもいつか、なにかの手違いで結婚しているかもしれない。だが、エプロンをつけて赤ん坊を抱えて「あなた、行ってらっしゃい」なんて微笑む奥さんに自分がなるとは想像つかない。ダンナに金渡して「めんどくせぇから勝手に外で食え!」ってタイプの鬼嫁にはなれるだろうが。

今の亜美は迷子にならずに人ごみの中をかき分けて、迷路のような駅構内を当たり前のように歩いている。それと同じように、当たり前のように結婚して、子供産んで、孫ができて、「結婚とか想像つかねー」とか言ってた自分が嘘みたいに色あせていくのだろう。

それが大人になる、ということなのであれば、なんかヤだな。

だって、大人になって、いろんなことが当たり前になって、行きつく先はどうせ死である。棺桶である。墓場である。

特別だと思っていたことが一つずつ当たり前になっていく。そして最後には、死ぬことすらも当たり前のことになっていく。周りで家族や友達が死んでいくことが当たり前になっていき、最後には自分が死ぬことも当たり前になるのだ。

亜美は「普通」が嫌いだ。亜美にとって普通は退屈そのものである。だが、このまま生きていれば自分はどんどん大人になっていく。特別だと思っていたことがどんどん普通のことになっていく。どんどん退屈になっていく。

明日のことなんてどうでもいい。今日が楽しければそれでいい。亜美はそう思っているのだが、それでも大人になっていけば今日がどんどん退屈なものになっていく。

だったらたまきみたいに美容院に行くか行かないかでおろおろしたり、志保みたいに映画館に着ていく服を一時間もかけて選ぶ、何でもないようなことを人一倍気にしてしまう、そういう人生の方が案外退屈しなくていいかもしれない。

発車メロディが鳴り、電車のドアが閉まる。亜美を乗せた電車がガタゴトと北へ向かって走り出す。

亜美はドアにもたれかかって、目線をあげた。その途端、「あ」と声を漏らした。

電車の上部に掲げられたビールの広告のポスター。ビール缶を片手に、若い男性が笑みを見せていた。

さっきすれ違ったカップルの男の方だった。名前は知らないが、最近テレビで顔を見る。どこかで見たことがあると思ったら、そういうことだったらしい。

 

「そうやってさ、すごく特別だったことがさ、少しずつ当たり前になっていくんだよ。手をつなぐこととか、キスとか、デートとかさ。そうやって、みんな少しずつ大人になってくんだよ」

「でも、それって、ドキドキすることが一つずつ減ってくってことじゃない? だったら私、大人になんかなりたくない」

「でも、そんなこと言ったってさ、どっかで大人にならなきゃいけないし。それに、周りのみんなはどんどん大人になっていくんだよ?」

スクリーンに映し出された二人のセーラー服の少女が、海岸線の道路を歩きながら話している。一人は青空をバックに堤防の上を歩いている。

志保はそのシーンを、ポップコーンを口に運びながら見ていた。手にしたポップコーンがちょっと多すぎたのか、2つばかり手からこぼれてひざの上に落ちる。志保はその二つを手に取ると、隣の田代を見た。暗いながらも、田代がまっすぐスクリーンの方を見ているのを確認すると、ひざの上の二つを自分の口へと放り込んだ。

映画館が暗くて本当に良かった。こんな、ちょっとはしたないところも見られずに済むのだから。

映画が始まって一時間。Lサイズのコーラはもう空になってしまった。にもかかわらず、のどが渇く。志保はもう一度、田代がこちらを見ていないことを確認すると、紙コップにつけられたプラスチック製のふたを、音をたてないように取り外した。氷を一個つまむと、素早く口の中に放り込む。映画館が暗くて本当に良かった。

当り前じゃなかったことが一個ずつ当たり前になっていく。そうやって、みんな大人になっていく。氷を口の中で溶かしながら、志保は映画の中の言葉を反芻する。

人生とはおおむねそういうものだ。小学生の時は中学生になることにドキドキした。町でかわいい制服や部活のジャージに身を包む、自分よりも背の高い女子中学生に会ったときはあこがれを抱いた。と同時に、自分もあと何年かしたら彼女たちと同じ中学生になる、ということが信じられなかった。

あんなにも信じられなかったのに、いざ中学生になってみると、いつの間にか中学生であることが当たり前になっていった。

あの時、ふと怖さを感じたことを志保は覚えている。

そのうち当たり前のように高校生になり、当たり前のように大学生になり、当たり前のように就職する。当たり前のように彼氏ができて、当たり前のように結婚して、当たり前のように母親になる。

なんだか、自分の人生がすでにゴールまで決まっているような気がした。漫画っぽく言えば「ネタバレ」というヤツだろうか。読んだことはないけれど、要所要所の展開はすでにネタバレされている漫画を、「ああ、ネタバレ通りの展開だな」と確認していく作業。

それは志保にとって、退屈を通り越して、ある種の恐怖だった。

社会のどこかに「理想の人生」っていうのがあって、そのために必要な進学とか就職とか結婚っていうアイテムを一個一個回収していくだけの作業が人生なのだとしたら、自分はいったい何のために生まれて来たのだろう。

志保は人生がそういった作業であることを受け入れることが、たまらなく怖かった。かといって、だったら自分は学校なんか行かない、結婚もしないなどと言い切れるわけでもなかった。現に、今もこうやってデートに来ている。人並みの幸せってやつをただただ回収していくだけの人生に違和感を覚えながらも、人並みの幸せってやつを欲し、満喫しようとしている。クスリの快楽と引き換えに捨てたはずの「人並みの人生」に、どうにかして戻る道はないのかと考えている。

一度過ちを犯した人間が、困難を乗り越えて、人並みの幸せを手に入れる道に戻ってくる。世間的にはそれを「立ち直る」というのだろう。きっと今、志保に関わってくれるほぼすべての人が、志保がそうやって「立ち直る」ことを望んでいるはずだし、志保自身もそれを望んでいるはずだ。いや、立ち直れなければ堕落するだけ。「立ち直る」以外に選択肢なんてないはずだ。

スクリーンの中ではシーンが切り替わる。テニス部に所属する主人公の少女が、コートで練習に励んでいる。演じている女優はこの前まで別の映画で主演していた。その時は確か病気で余命宣告をされたはかなげな少女の役だったが、今はユニフォーム姿で青空のもとでラケットを振っている。

ホイッスルが鳴り、コーチが少女にフォームの指導をする。少女はこのコーチに片想いをしているらしい。コーチ役の俳優は最近出てきた人で、この前電車に乗った時は缶ビールのポスターに映っていた。

スクリーンの中の少女が恋焦がれるコーチに向ってほほ笑む。志保と同年代の女優さんは、誰よりも美しく、誰よりもまぶしく、誰よりも輝いているように見える一方、ただ決められたセリフを読み、求められている演技をこなしているだけのようにも見えた。あの子が急に「やってらんねぇよ!」と叫んで、コーチに馬乗りになってぼこぼこに殴りだしたらもっと面白いのに。

 

いざ外に出たはいいものの、どこか行きたい場所があるわけでもなく、たまきは当てもなく北に向かって歩き出した。

病院と交番のわきを通り過ぎ、公園を抜けて舞のマンションのそばを通る。

舞の家に行こうかとも考えたが、たしか今、舞は正月休みを兼ねて、友人とどこかに旅行に出かけてしまった。「あたしがいない間、絶対にトラブルを起こすな」という脅迫めいた言葉を置き土産に。

さらに北へと進む。韓国料理のお店が立ち並ぶ大通りに出た。これ以上向こうに入ったことがないので、たまきは引き返した。

とぼとぼと来た道を引き返し、再び太田ビルの前に戻ってきたが、カギは亜美が持っているので夜にならないと「城」にも入れない。仕方がないので、今度は南へ、駅へと向かってとぼとぼと歩き出した。

東京のど真ん中、こんなにも人がいっぱいいて、こんなにも建物が、お店がいっぱいあるのに、行きたい場所がどこにもない。

この町で暮らすようになって半年がたったが、やっぱりたまきはこの町にもなじめていないようだ。

道路を渡り、線路をくぐり、地下道に入る。いつも公園に向かう道だ。別に公園に何か用事があるわけでもないし、今日は絵を描く道具など持っていないのだが、ほかに行くところもないので、たまきは公園へと足を向ける。ここでいつもと違う道に入ってみたり、いつもと違うお店に行ってみたり、そういう冒険をたまきはしない。

公園に入るとたまきは仙人の暮らす「庵」へと向かった。赤茶色の落ち葉の向こうにベニヤ板のお化けが、木々に隠れるように立っていた。

少し近づいて覗き込んでみたが、仙人はいないようだ。そう言えば、仙人たちホームレスは空き缶を片手に町中駆けずり回ってお金をもらっていると、前に言っていた。今頃、町中を駆けずり回っているのかもしれない。

たまきはいつもの階段に足を向けると、一番下の段に腰掛けた。

こんなことなら、亜美の言うとおり、「城」でごろごろして、コンビニでおにぎりでも買って食べてればよかった。

それでも何となく一人ぼっちになりたくなくて外に出てきたが、外に出てもやっぱりたまきは一人ぼっちだった。

一人になると余計なことをいろいろと考えてしまう。

志保はデートに出かけてしまった。

亜美はどこに行ったか知らないが、どうせ男がらみだろう。

たまきだけ、ひとりぼっち。デートをすることもなければ、会いに行く友達もいない。そういったこととさっぱり縁がないし、どうしたらみんなと同じことができるようになるのかもわからない。やっぱりたまきは、かわいそうな子なのだ。

周りのみんなは学校に行って、友達を作って、恋をして、仕事をして、階段の上の方へどんどん上がっていく。まるで、それが当たり前のように。そうやってみんな、当たり前のように大人になっていく。

たまきだけ階段の一番下の段にうずくまって、ただ上を見上げているだけ。階段の昇り方なんてわからないし、誰も教えてくれない。みんながたまきのいる段を通り過ぎて、どんどん上に昇っていくのを、恨めしげに見上げるだけだ。

階段なんて昇れるのが当たり前。だから、誰もたまきに昇り方なんて教えてくれない。当たり前のようにできることをどうやって教えろというのだ。

別にたまきはカレシが欲しいわけでも、恋をしたいわけでもない。

ただただ、人並みになりたいだけなのだ。

みんなと同じように階段を昇れるようになりたいだけなのだ。

他の人が当たり前のようにしていることを、当たり前にできるようになりたいだけなのだ。

 

写真はイメージです

「よっ」

たまきが腰かけている階段の上の方で声がした。振り返って見上げると、ギターケースを抱えたミチがいた。グレーのジャンパーを羽織り、手には飲みかけのコーラの缶を持っている。

たまきは、無言で軽くお辞儀をした。

「なんか今日、いつもより下の方にいない?」

ミチは階段の中ほどまでは降りてきたが、そこで足を止めた。

「そんな下の方にいないで、こっちあがって来れば?」

ミチは階段の中ほどに腰掛けると、横にギターケースを置いた。

たまきは背中を丸めて、深く深くため息をつく。白い息がもやもやと怪しげに揺れる。

ミチこそ、たまきから見れば階段の上の方にいる人間である。トラブルになったものの、ついこの前まではカノジョがいた。

それに、ミチには夢がある。プロのミュージシャンになるという夢が。たまきにはない夢がある。

今のたまきにとって、ミチはあまりにもまぶしすぎた。

ミチはギターを弾きながら歌い始めた。まだ歌詞はついていないらしく、ラララと歌っている。軽やかにギターをかき鳴らし、ハイトーンでありながらもちょっとハスキーな声で、のびやかに歌っている。

普段は好きなミチの歌も、こんな時に聞くとなんだか後ろから幾千もの針で心を貫かれたかのようだ。

どっか行ってくれないかな。たまきはそんなことを思った。

思っただけで、それを言葉や態度には表さない。たまきはそこまで子どもではない。ミチのことを嫌いと口にしたり、本人に言ったりすることはあっても、嫌いだ嫌いだと醜く顔を歪めて喚いたり、あからさまな態度に表すようなことはしないのだ。

一曲歌い終わるとミチは「ありがとうございました」と世の中に対してあいさつした。そうして、たまきの方に顔を向ける。

「いつまでもそんな下の方いないで、こっちあがって来ればいいじゃん。何? 下の方、好きなの?」

「……私の勝手です」

こういうミチの妙になれなれしいところが嫌いだ。初めて会った時から、ミチはなれなれしかった。なれなれしいという意味では亜美も同じなのだが、亜美とミチで決定的に違うところが一つある。

亜美はたまきがほっといてほしい時、不思議とほっといてくれるのだ。

一方、ミチはたまきがほっといてほしい時も、ずかずか入り込んでくる。今、まさにそうであるように。

クリスマスの一件で少しはミチも変わったかと思ったが、三つ子の魂百まで、そんなに簡単に人は変わらないようだ。

「そういやさ、今日、絵描いてないじゃん。正月休み?」

「別に……」

ミチの問いかけにたまきは振り向くことなく答える。

「ひきこもりにも正月休みってあんの?」

「知りません」

「そういや、お正月に実家とか帰ったりしたの?」

「……帰ってません」

「なんで?」

ミチの無神経な言葉に、たまきは初めて振り返った。ミチは階段の何段か上の方で、ギターを抱えてたまきを見下ろしている。

「実家帰ったら家族とかいるんでしょ? 会いたいとか思わないの?」

「思いません……!」

「なんで? 家族なんでしょ? 家族と離れてたら会いたいって思うのは当たり前なんじゃないの?」

ミチは、わからない、といった顔でたまきを見る。

「……家族のことが好きだったら、そうなんじゃないですか……?」

「たまきちゃん、家族のこと、嫌いなの?」

「……はい、たぶん」

もうたまきはミチを見ていなかった。ミチに背を向け、背中を丸め、自分のスカートのすそをじっと見ていた。

「なんで? だって、家族でしょ?」

気が付けば時計は午後四時半を回り、すでに日が沈み、西のビルの輪郭線から夜が空を侵食し始めていた。空は薄い藍色に染まり、そこから降りてきた影がたまきの背中をべったりと濡らしたかのようだった。

「ミチ君みたいな人にはわかんないですよ……きっと……」

感情を押し殺した声でそう答えるのが、たまきには精いっぱいだった。

「……かもね」

ミチはどこか寂しそうにその言葉を受け止めた。

「でも、普通はみんな、家族好きなんじゃない?」

「私は……ミチ君みたいに、普通じゃないんです……」

家族が好きだと、普通に言える家庭だったらどんなに良かったか。

わかってる。普通じゃないのは自分の方なんだ、ということを。世間的にはたまきより両親の方がよっぽど普通なんだろう。別に虐待を受けたわけでもないし、意地悪な両親だったわけでもない。

ごく普通の両親と、ごく普通の長女がいる家に、普通じゃない次女が生まれてしまったことが間違いなのだ。両親はたまきを普通の子どもとして、お姉ちゃんと同じように、当たり前のことが当たり前のようにできる子どもとして育てたかったけど、たまきはその期待に応えられなかった。やっぱりたまきが悪いのだ。たまきみたいなかわいそうな子が生まれて来てしまったことが、そもそもの間違いなんだ。

今日は絵をかいていないからか、そんなネガティブな思考がたまきの脳をつかんで離さない。

今日はリュックを持ってきていない。たまきのお守りのカッターナイフもリュックの中に入ったままだ。こんな時こそ、お守りが必要だったのに。

 

午後四時四十五分になった。たまきのおなかがぐうぅと鳴る。

もう、帰ろう。

たまきは立ち上がると、

「私、帰ります……」

とミチの方を見ることなく言った。

「うん、じゃあね」

とミチ。

たまきは公園の出口に向かってとぼとぼと歩きはじめる。

何かを食べたい気分ではないが、空腹感には抗えない。今日は志保がいないから、自分で夕ご飯を調達しないと。

歓楽街の中にハンバーガーやポテトのお店がある。そこへ行こう。そう言えば、この前志保から、そのお店の割引券を分けてもらった。あれはたしか、財布に入ってたはず。なんの割引券だっけ……。

そこでたまきは、自分がとんでもないミスを犯していることに、ようやく気付いた。

たまきは普段、外出するときはリュックを背負っている。誕生日に亜美たちに買ってもらったやつだ。

外出(そのほとんどが公園で絵を描くことなのだが)に必要な道具は全部、リュックの中に入れてある。画用紙。色鉛筆。駅前でもらったティッシュ。

そして、財布も。

たまきは、自分の背中に手をまわした。自分が今、リュックを背負っていないことを再確認する。

今日は絵を描くつもりがなかったので、リュックを「城」に置いてきてしまったのだ。そのリュックの中には画用紙や色鉛筆と一緒に、財布も入っているのだ。

そして今、「城」は鍵がかかっていて入れない。鍵を持っているのは亜美だが、いつ帰ってくるかわからない。

いつ帰ってくるかわからないけど、亜美も夕飯を外で済ませてくるはずなので、つまりは、すぐには帰ってこない。

もしも亜美が帰ってくるのが九時とか十時とかもっと遅かったら。それまでぐうぐうとなるおなかの空腹感を抱えたまま、寒い1月の街に、無一文で立ち尽くすことになってしまう。

たまきは幼き日に読んだ絵本「マッチ売りの少女」のはかなげな絵を思い出していた。

再びおなかがぐうとなった。胃の底から悪魔のような飢餓感が、早く何か口に入れろとたまきに急かす。東京には山ほど食べ物があるのに、お金をもっていないとチョコの1枚だって手に入らない。

たまきはくるりと向きを変えると、「庵」に向って歩き出した。歩きながら考える。

志保は……ダメだ。デート中だ。ジャマしてはいけない。

亜美に連絡を取って、もし可能なら亜美と合流して……。

そこでたまきは、自分が携帯電話などという文明の利器をそもそも持っていないことを思い出す。

亜美に電話するには公衆電話を使わなければいけないが、公衆電話に払うお金がない。そもそも、亜美の携帯電話の番号が書かれたメモも、財布と一緒にリュックの中だ。志保の番号だったら覚えてるのに。

「庵」の前についた。黄昏時の薄い闇が靄のようにかかっていたが、それでも、誰もいないことを確かめるには十分だった。

舞の家は……ダメだ。今、旅行中だった。

たまきは深く深呼吸をすると、さっきまでいた階段の方に、少し早足で歩き始めた。

階段の下の方に戻ると、帰り支度を始めていたミチが目に入った。たまきは、たまきなりの速度で駆け出した。

たまきが声をかける前に、ミチの方が気づいた。

「あれ? 帰ったんじゃなかったの?」

「あ、あの……ミチ君ってこの後、バイトですか?」

「いや、今日休みだけど」

「……これからお夕飯ですか?」

「まあ、家に帰ったら」

ミチはギターをケースにしまい終えると、ギターケースを担ぎ、コーラが入っていた空き缶を片手に立ち上がった。

「あ、あの……」

たまきはミチから目線を外し、恥ずかしそうに下を見た後、ミチに目線を戻すと、再び目線を外し、なんとも申し訳なさそうに言った。

「その……ずうずうしいお願いがあるんですけど……」

たぶん、いつの日か美容院で「髪を切ってくれませんか」という時も、きっとたまきはこんな感じなのだろう。

つづく


次回 第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫(仮)」

ミチの家で夕飯をごちそうしてもらうことになったたまき。そこで、たまきは初めて、ミチの家族のことを知り、ある後悔の念に駆られる。続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第22話「明け方の青春」

初詣に向った亜美と志保。二人はそこである人物に合う。そして翌朝、たまきを加えた三人は「二日目の初日の出」を見るために早起きしたのだが……。「あしなれ」第22話スタート。


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

この町が今のような繁華街として発展し始めたのは、戦後の闇市からだ。何もかもなくなった焼け野原の中、露天商やバラック小屋が駅前に集まり、食べ物や日用品を売っていた。

そういった店のほとんどがいわゆる不法占拠だった。もっとも、地権者にお伺いを立てようにも、地権者は地方に疎開してしまっている。

不法占拠のお店はいけないことだけれども、いちいち取り締まっていたら食べ物が手に入らず、せっかく戦争が終わったのにみんな飢え死にしてしまう。

だから闇市は数年のあいだ見逃されてきたし、時には警察が率先して闇市を用意することすらあった。

そんな歴史がある街だからか、今でも闇市を彷彿とさせるような雑多な街並みがこの町には多い。昭和のノスタルジーを感じさせる飲み屋が集結し、飲みに来る客だけでなく、街並みを楽しみたい、そんな人もこのあたりを訪れる。近年では外国人も多いようだ。

歓楽街を出てそんなレトロな飲み屋街を抜けると、小さな階段と神社の鳥居が見える。

現代の不法占拠者たる亜美と志保はその階段を昇って行った。

階段をのぼり、鳥居をくぐると、神社の裏手に出る。

決して大きい神社ではない。ここからだったら明治神宮にだって歩いて行ける。明治神宮と比べたらこの神社はほんの箱庭程度の広さだ。

それでもそこはその町を代表する神社であり、元旦たるこの日は、多くの初詣客が参拝のために並んでいた。行列のことをよく「アリの行列」などというが、列を短くするために4,5人ごとに並ぶその形は、むしろ巨大な蛇を彷彿とさせる。

「すごいねぇ」

志保は階段で切らせた息を整えながら言った。

「ああ、すげぇな」

亜美はそう答えたが、目線は志保と違い、神社の周囲に向けられていた。

本殿の後ろに、いくつものビルがそびえたつ。

「こんなビルだらけのところにも神社ってあるんだな」

「でも、都内にはそういうところいっぱいあるよ?」

「でも、東京の連中ってあくせくしてるじゃん。なんかさ、ムダがないっつうか。なのにさ、神社ってぶっちゃけムダなスペースじゃん。そんなのつぶしてビルとかマンションとか建てちゃいそうなのにさ、ちゃんと残してんだなぁ、って思ってよ」

「無駄ってことはないんじゃない? こんなに参拝客来てるんだから」

「え、何、お前、カミサマとか信じてんの?」

「いや、信じてないけどさ、でも、一応教会に付属する施設のお世話にはなってるし……」

「ああ、そういやそうだったな。あの施設って讃美歌みたいなの歌うの?」

「それはないけどシスターが聖書を読んでくれる時間はあるよ」

「聖書って何書いてあんのさ?」

「う~ん、あたしも詳しく読んだわけじゃないけど、キリスト教の歴史とかかな」

「歴史?」

「そう。キリストが生まれる前とか……」

「ちょい待って。キリストってカミサマだろ? カミサマが生まれる前に歴史なんかあんの?」

「あるよ。聖書には旧約と新約ってあってね……」

なぜか神社でキリスト教の話をしながら、二人は歩いていく。

神社の本殿は境内よりも高いところに建てられている。二人はその本殿の裏にある階段から入り、いま境内を見下ろしている格好だ。

本殿のわきには何やら透明な箱が置かれている。中を覗き込むと、赤い小さな紙がくるっと丸められて、筒状にしてたくさん入っていた。箱には「おみくじ200円」と書かれている。

「変わってんな、このおみくじ」

亜美がしゃがみこんでおみくじの箱を覗き込む。

「うちの近所の神社は、普通に白い紙が中に入ってたよ」

「そうなんだ。あたしんとこじゃ、筒の中に木の棒が入ってて、そこに書いてある番号のおみくじがもらえたよ」

二人は小銭入れに200円を入れ、それぞれおみくじを引いた。

赤い包み紙を外してそれぞれおみくじを読む。

「なあ、志保、『半吉』ってなんだ?」

「はんきち?」

「そう。半分の吉」

「それって、中吉とどう違うの?」

「知らねーよ。おまえはどうだった?」

「えっと……『ショキチスエキョウ』って読むのかな?」

「は? 今、なんつった?」

亜美が不思議そうに志保を見た。

「だから、『初吉末凶』だってば」

「なにそれ?」

「あたしだってわかんないよ」

志保が難しそうな顔をしておみくじをにらみつける。

「あ、でも、縁談のところ『よき縁あり』だって。やった!」

志保が小さくガッツポーズした。

「旅行もよしって書いてある。東がいいんだってさ」

「お、いいな。東っていうと、千葉じゃん。千葉行こうぜ、千葉」

「なんでそんなに千葉に行きたがるの?」

志保が首をかしげる。

「バカ、言わせんなよ」

亜美はいったん志保に背中を向けると、くるりと振り向いて、

「千葉には太陽があるんだぜ」

と言ってにっと笑う。志保はあきれてため息をついた。

「亜美ちゃんはどんなのだった?」

志保が亜美のおみくじを覗き込む。

「あ、待ち人来ないって書いてあるよ。残念でした~」

「別に誰も待っててねぇし」

亜美が口をとがらせる。

「旅行は北がいいってさ」

「北ねぇ。北……。北海道にでも行くか」

「北海道には何があるの?」

「北海道には雪があるんだぜ」

今度は亜美はたいしてひねりも面白みもないことを言った。

「そうだ。せっかくだから、たまきにもおみやげ持って帰ろうぜ」

そういうと亜美は再び財布から200円を出した。

「ちょっと待って。おみやげって、おみくじのこと?」

「そうだよ」

「たまきちゃんのおみくじを、亜美ちゃんが引いて渡すの?」

「そりゃそうだろ。あいつ、来なかったんだから」

「そのおみくじって……当たるの? だって、本人が引いたものじゃないんだよ?」

志保がそう尋ねると、亜美はあっけらかんとして、

「バカ、こんな紙クズが当たるわけねぇだろ」

と元も子もないことを言い出した。

ふたたび200円を入れて、亜美はおみくじの山の中に手を突っ込む。

それと同時に志保は、自分のおみくじをそっとポケットにしまった。

そこには「病気:油断すべからず。過信すべからず。」と書いてあったのだが、志保はそれを亜美には伝えなかった。

こんな紙屑が当たるわけない、そう自分に言い聞かせて。

 

本殿から境内の入り口の方まで、参拝の行列が伸びている。軽く100人は超えていると思うが、それ以上は数える気にもならない。

「おい、あっちに屋台あるぞ。行こうぜ」

亜美が行列の向こうにあるいくつかの屋台を指さして言った。

「じゃあ、なにか食べ物買ってから並ぶ?」

「並ぶ? どこに?」

「いや、これに」

志保は参拝客の行列を指さした。

「ヤだよ。並ぶわけねぇじゃん。うち、並ぶの嫌いだし」

亜美は行列を一瞥すると、そういって通り過ぎて行った。

「あれ? 参拝しないの?」

「別にカミサマとか信じてないし」

「え? でも、初詣に来たんでしょ?」

志保が本殿の方を指さした。

「そうだよ。初詣に来たんだよ」

亜美は屋台を指さして言った。

「じゃ、あたしもなんか買おうかな……」

志保も参拝客の列を通り過ぎて屋台へと向かう。

「あ、クレープある。じゃ、あたし買ってくるね」

志保がそう言いながら亜美の方を向くと、亜美はフランクフルト屋の前にできた行列に並んでいた。

「おう、じゃ、その辺で待ってて。ウチも買ったら行くから」

「あれ、並ぶの嫌いなんじゃ……」

志保はしばらく亜美を見ていてが、

「ま、いっか……」

とクレープ屋の前に立った。

志保は並ぶことなくクレープを買えた。

クレープを食べながらちらりとフランクフルト屋の行列を見ると、亜美はまだ列の中ほどに並んでいた。

志保が再びクレープに目線を戻した時、

「よっ」

と言いながら誰かが志保の肩をたたいた。

声からして女性だ。だが、亜美はまだ列に並んでいるはずだ。とっさに志保はその列の方を見たが、亜美はまだ列の中で暇そうにしていた。

「カンザキさん、あけおめ」

志保は驚きで硬直しつつも、声のした方を振り返った。

トクラがそこに立っていた。真っ黒なコートを着込み、サングラスをかけていた。服から小物までの一つ一つがいかにもセレブと言わんばかりの高級さを漂わせている。

「ど、どうも、……あけましておめでとうございます……。トクラさんも初詣ですか?」

「ん? まあ、そんなとこ」

トクラはサングラスを外してにっと笑った。

「あっちの金髪の子と一緒? 今日はメガネの子はいないんだ」

「誘ったんですけど、たまきちゃん、こういうの苦手みたいで……」

「ふうん」

トクラは自分で話題を振っておきながら、あまり興味がないようだった。

「カンザキさん、あっちの歓楽街でご飯食べてきたの?」

「え、別にそういうわけじゃないですけど」

「ふうん。駅じゃなくて歓楽街の方から来たから、あっちで遊んでから来たのかなぁって思って」

「今日はお正月だからお店あまりやってませんよ……。あれ、なんであたしたち、あっちから来たってわかるんですか?」

「ああ、だって、ずっとつけて来たから」

「ええ?」

つけてきた?

あまり聞きなれない言葉に、志保は戸惑う。

つけて来たっていったいどこから? まさか、「城」から? 不法占拠がばれやしないだろうか。

いやいや、雑居ビルから出てきたのを見られたところで、なにかお店に用があったと思うのが普通。よもや不法占拠で暮らしてるなんて思わないだろう。

そもそも、舞のマンションを経由してからここにきている。

いや、気にすべきはそこじゃない。つけてきた、とはいったいどういうことだろうか。

混乱のあまり言葉が出ない志保を見ながら、トクラは志保がなにを聞きたいのか先回りしてわかっているらしく、勝手に答え始めた。

「何分か前に歓楽街の中をカンザキさんがあの金髪の子と歩いているの、たまたま見かけたんよ。で、あとをつけてみた、ってわけ」

そう言うと、トクラは志保の耳に顔を近づけ、囁くように言った。

「カンザキさんさ、自分じゃ気づいてないかもだけど、けっこう挙動不審だったよ」

「え、それどういうことですか?」

志保は意味が分からない、といった風にトクラを見た。

「あっちこっちキョロキョロキョロキョロ、金髪の子と比べても、だいぶ挙動不審だったよ」

「そんなこと……」

そういいながら、志保はふと、思い当たることがあった。

確かに、外を歩いている間、誰かに見られてる、そんな感覚が何度もした。

でもそれって……。

「それって、トクラさんが後をつけて来たからじゃないですか? ずっと誰かに見られてる気がしましたもん」

志保は少しムッとした感じで答えた。

「あ、そう。カンザキさん、気づいてたんだ」

そういうとトクラはクスっと笑う。

「その割には、こっち一回も見なかったけど。全然違うとこ見てたよ。本当に気づいてた?」

「そ、それは……」

志保は言いよどみ、トクラから視線を外した。

「カンザキさんさ、今日以外でも、誰かに見られてるって思う時ない? 町の中とか、家の中とかさ」

志保は答えなかった。

トクラの言うとおり、町の中でも、「城」にいる時でも、誰かに見られてる、そう思うことがよくあった。外はまだしも、屋内にいる時に誰かに見られていると強く感じる、それが志保には不可解だった。もしかして隠しカメラで盗撮されているのではないかと、一人でいる時に「城」の中を大捜索したこともある。何も出てこなかったが。

「あたしもね、誰かに見られてるって思うことよくあるのよ。部屋の中で監視カメラ探したり、盗聴器探したり、あと、窓の向こうから誰か盗撮してるんじゃないかって、窓開けて外に怒鳴ったこともあったよ」

トクラはそう言いながら志保の肩に手を置いた。志保はそれを払いのけようとしたが、なぜかできなかった。

「カンザキさんも聞いたことあるでしょ。ハッパだのクスリだのやってると、そういう妄想抱くようになるって。誰かに見られてる、聞かれてる、つけられてるって」

「あたし、今はクスリなんて使ってません」

志保は体をよじって、トクラの手を振るい落とした。

「使ってなくてもふとしたきっかけでそういう症状が戻ってくることがあるの。フラッシュバックって言ってね。それがひどくなると、またクスリに手を出すようになるの」

トクラは、志保が払いのけた手を再び志保の肩に置いた。そこに、

「お待たせ~」

と亜美がフランクフルトをほおばりながらやってきた。トクラは手を離すと、

「じゃ、カンザキさん、またね」

と言って去って行った。

「ん? 知り合い?」

「……施設の人と、偶然会って……」

「ふうん」

亜美はそれ以上は興味のなさそうにフランクフルトにかぶりつく。

黒いコートを着たトクラの背中を追いながら、志保はふと思った。

トクラは歓楽街の中から、志保たちをつけていたという。

元旦の歓楽街に一体何の用があったのだろう。

 

写真はイメージです

初詣を済ませた亜美と志保は、「城」へと帰ってきた。もっとも、参拝はしていないのだから本当に初詣を済ませたといっていいのか、疑問が残るが。

「城」の中ではたまきはソファに腰掛け、ゴッホの画集を眺めていたが、志保が

「ただいまぁ」

と声をかけると背筋を伸ばし、

「おかえりなさい」

と返事をした。

「おい、たまき、風呂行くぞ。早風呂だ。準備しろ」

亜美の声掛けにも、

「はい」

とはっきりと返事をする。志保はそんなたまきをまじまじと眺めていた。

「たまきちゃん、なんかいいことでもあった?」

「え?」

志保の問いかけにたまきが戸惑いを見せた。

「ど、どうしてそう思うんですか……」

「いや、何となくなんだけど、いつもより元気があるなぁ、って思って」

「……そう見えますか」

たまきは志保から視線を外しながら答えた。

「そういえばさあ」

と亜美がお風呂セットを用意しながら声をかける。

「ウチは早く風呂入って早く寝て、二日目の初日の出も見るつもりだけど、お前らはどうすんだ?」

「だから亜美ちゃん、それ、もう初日の出じゃないって」

志保はそう笑いつつ、

「日の出って何時?」

と亜美に尋ねた。

「う~んと、ちょっと待ってな」

亜美は携帯電話をいじりだした。

「4時半だってさ」

「4時半かぁ。早いなぁ」

志保がけだるそうな声を出す。

「一度起きて初日の出見て、それからまた寝りゃいいじゃねぇか」

「じゃあ、あたしも“二日目の初日の出”見ようかな。たまきちゃんはどうする?」

「あ、じゃあ、私も見たいです。“二日目の初日の出”」

そう言って笑うたまきを見て、志保は再び尋ねた。

「たまきちゃん、やっぱりなんかいいことあった?」

「べ、別に……」

そこで亜美が、

「そうだ、たまきにおみやげがあったんだ」

と言って、買ってきたおみくじを渡した。

「おみやげ、ですか」

たまきはおみくじの中を見た。亜美と志保も後ろからのぞき込む。

運勢は「凶」だった。

「凶だってよ。お前、くじ運ねぇなぁ」

「え、亜美ちゃんが引いたんでしょ?」

たまきはまじまじと「凶」の文字を見つめる。

「凶」というのはあまりよくないやつのはずだ。

死のうとしたけれど死にきれない、とかかな。

「あ、たまきちゃん、縁談よしって書いてあるよ」

「お、旅行悪しだってさ」

年上二人は、たまきが見るより先に見ていってしまう。

「あ、でも、方角は西がいいってさ。だから、西に旅行に行けばいいんじゃない? 亜美ちゃん、西には何があるの?」

「西か? 西にはたこ焼きがあるんだよ」

亜美もだんだん適当になってきた。いや、元から適当だったのかもしれない。

「西ですか……」

たまきはぼんやりと自分の左側を見た。もっとも、そこは北なのだが、たまきには知る由もない。

恋愛運とか旅行運とか、たまきに縁遠そうなことよりも、たまきは「ともだち運」を知りたかったのだが、たまきみたいな友達のいない子のことまでは、カミサマも考えていなかったようだ。

 

その日、たまきは久々にすっきりと眠れた。

別にこれまでも不眠症だったわけではないのだが、寝ようと目を閉じても心がざわざわしてなかなか眠れなかった。そんなことが一週間続いたのだが、その日は久々にすぐに眠りに落ちた。

夢の中で、たまきは森を歩いていた。

木々は複雑に入り組み、奥まで見通すことを拒んでいるかのようだ。

上を見上げても今度は枝がたまきの視界を遮り、太陽の光を細切れにする。

なんだか、たまきの絵に出てくるような木を集めて作った森、そんな印象を受けた。

そんな森の中を歩いていく。たまきは奥へ奥へと向かって行ったつもりだったのだが、いつの間にかアスファルトで舗装された大きな道に出てしまった。

道の上をたくさんの人が歩いている。セーラー服を着た女の子たち、なにやら楽しそうな若者の群れ、スーツを着たサラリーマン。

たまきもしばらく人の流れに沿って歩いていたが、なんだか息苦しくなり、たまきは道を外れて再び森の奥へと向かっていった。

森の奥へ奥へと向かっていくと、今度はどんどん心細くなる。

木の根っこに躓かないようにと下を向いて歩いていたが、頭に何かがぶつかった。顔をあげてみると、スニーカーが見えた。

さらに目線を上に上げる。スニーカーを履いた女の人が、木の枝からぶら下がっているらしい。学校の制服を着ている。女子高生、もしくは、中学生だろうか。

ぶら下がるといっても、鉄棒のように腕からぶら下がっているのではなく、木の枝からロープが伸びていて、それを首に括り付けてぶら下がっている。

要は、首つり自殺の死体だったのだ。

不思議と、怖くはなかった。どこかで、これは夢だと気づいているのかもしれない。

それよりも、スニーカーに何か見覚えがあるのが気になり、たまきは目線の少し上にあるスニーカーをしげしげと眺めた。

見覚えがあるはずだ。そのスニーカーは、たまきが今使っているものだった。

目線をあげてもう一度死んだ女の子を見てみる。

よく見るとその子の制服も、たまきの中学校のものだった。

眼鏡をかけていないが、その女の子はたまきだった。

ぽたっ、と水が生きてる方のたまきの顔に零れ落ちた。死んでる方のたまきのスカートの奥から、足を伝って滴っている。

そういえば、首を吊って死ぬと、お漏らしをすると聞いたことがある。

たまきは急に怖くなって、走り出した。木の根っこが地面の上に複雑に生い茂っているはずなのだが、躓くことなくたまきは走り続ける。夢は変なところでリアルなくせに、変なところで設定がご都合主義だ。

やがて、開けたところに出た。森の中でそこだけぽっかりと公園のように開けて、電話ボックスが置いてある。たまきは電話ボックスの中に入ってドアを閉めると、息を落ち着かせた。

受話器を取って「城」へと電話をかける。よくよく考えると「城」に固定電話などないし、もちろん電話番号もないはずなのだが、夢というのはこういう違和感になぜか気づけない。

呼び出し音を聞きながらふと見上げると、視線の先に大きな山があった。

青い山のてっぺんに白い雪が積もっている。富士山だった。

ああ、富士山だ。そういえば、おみくじに、西に行け、と書いてあったっけ。

そう思ったときに電話の向こうから亜美の声が聞こえてきた。

「おい、たまき、起きろ。二日目の初日の出、見に行くぞ」

そこで、目が覚めた。

 

写真はイメージです。

1月2日の午前4時15分、三人は太田ビルの屋上に立った。空は真っ暗だが、屋上から下に目をやれば、街灯の明かりと看板の明かり、店から漏れる明かり、お店から漏れる明かりが街を煌々と照らしていた。

夜のない街、不夜城。確かにそうなのかもしれない。

たまきは眠い目をこすりながら、鉄柵に寄り掛かる。冬の夜の冷気を思いっきり吸い込んだ鉄柵は冷たい。

一番眠そうなのは志保だった。大きなあくびを一つ二つ。

「四時半だっけ? 初日の出」

亜美がうんと答える代わりにうなづいた。

「志保、なんか初夢とか見た?」

「ううん、見てない。亜美ちゃんは?」

「なんか見た気がするんだけど、起きたら忘れちゃった」

「あ~、あるよね~、そういうこと。すごい楽しい夢だったとか、すごい怖い夢だったとか、そういうのは覚えてるのに、肝心の中身を全然覚えてないってこと」

志保が眠そうに眼をこすりながら言う。

「たまきちゃんは初夢見た?」

「はい」

「へぇ。どんなの?」

たまきは、なんて答えるか少し迷った。たまきの場合、見た夢をはっきりと覚えていた。

はっきりと覚えていたから、少し迷った。

「その……森の中を歩いていたら……山が、富士山が見えました」

「富士山? それ、初夢で一番いいやつじゃん!」

「え? そうなんですか?」

「そうだよ。昔から、『一富士二鷹三茄子』って言って、富士山と鷹とナスの夢を初夢で見ると縁起がいい、って言われてるんだよ」

「はあ……」

たまきは初めて聞いた、と言わんばかりにきょとんとしている。

「え? 富士山は日本一だからわかるけど、鷹はなんで?」

亜美が鉄柵にもたれながら口をはさんだ。

「さあ……かっこいいからじゃない?」

志保も適当に答える。

「じゃあ、ナスは?」

「ナスは……」

志保はなんとか答えを探そうとしたが、言葉が出てこなかった。

ただただ、ナスのように真っ黒な空が、三人の頭上に広がっていた。

 

1月2日午前4時25分。依然として空は真っ暗で、空気は刺すように冷たい。

最初に違和感に気づいたのは志保だった。

「ねえ、おかしくない?」

真っ暗な空を見上げながら志保が言う。

「何が?」

「あと5分で日の出のはずでしょ? いくらなんでも、空、暗すぎない?」

亜美とたまきは空を見上げた。相変わらず、宇宙の深淵まで覗けそうな真っ暗な空が広がっている。

「亜美ちゃん、昨日、初日の出見たんでしょ? どうだった? こんなに暗かった?」

「え~、どうだったっけなぁ……」

亜美は額に手を当ててしばらく記憶を探るように目を閉じた。

「そういや、もっと空が青っぽかったような……」

「もしかして、世界はとっくに終わってて、もう二度と太陽は昇ってこないんじゃ……」

志保はそう言ってからほかの二人の顔を見て

「そんなわけないよね……。ごめん、今のは忘れて……」

と恥ずかしそうにうつむいた。

「あの……本当に4時半なんですか?」

たまきが不安そうに亜美を見た。

「えー、4時半って書いてあったよ」

亜美は携帯電話を取り出して操作した。

「ほら、ここ、1月2日の日の入りは4時半って書いてあるじゃん」

「ほんとですね」

たまきは亜美の携帯電話を覗きこんで言った。だが、志保は

「ちょっと待って!」

と大きな声を出すと、亜美の携帯電話をかっさらった。

「日の入りが4時半!?」

「ああ、そう書いてあるだろ?」

「亜美ちゃん、日の入りって、日没、夕方のことだよ!?」

「へぇ、そうなん……」

亜美はぼんやりと携帯電話を見つめていたが、顔を見上げて空を見て、

「は?」

と声をあげた。

「日の入りって、初日の出のことなんじゃねぇの?」

「逆だよ。朝は日の出、夕方は日の入り」

「でもよ、プロレスとかで選手入場っつったら、選手がロープ越えてリングの中に入ってくる事だろ? じゃあ、太陽が地面越えて入ってくるのだって『日の入り』じゃねぇのかよ? 太陽は朝に入ってきて、夜に出ていくもんだろ? なんで夕方が日の入りなんだよ、おかしいだろ!」

「あたしに文句言われても、朝が『日の出』なんだから、夕方は逆に『日の入り』じゃん」

「それがおかしい、つってんだよ。太陽は朝に入ってきて、夜に出てくもんだろ!」

「だからあたしに言われても……」

「あの……」

たまきが申し訳なさそうに口をはさんだ。

「それじゃ、日の入りが4時半っていうのは、今日の夕方4時半に日が沈むってことなんですか?」

「……そうだね。ほら、ちゃんと”PM4:30″って書いてあるよ。亜美ちゃん、見落としてたんでしょ。」

「じゃあ、日の出は結局、何時なんですか?」

亜美と志保は同時に携帯電話を覗き込んだ。

「朝の……7時……」

「なんだよ! 2時間半も先じゃんか! ふざけんなよ!」

「亜美ちゃんが間違えたんでしょ? そもそも亜美ちゃん、昨日、初日の出見たんでしょ? なんで時間違うって気づかないの?」

「起きてテレビつけたら初日の出がどうこう言ってったから見に行っただけで、初日の出見たらすぐまた寝たから、時計なんか見てねぇよ」

気づけば時間は朝の4時33分になっていた。相変わらず空は漆黒の渦がとぐろを巻いている。

「……どうする? 寝る?」

志保が一気に疲れたような顔を見せた。

「いまから戻っても、寝れる気がしねぇよ。体冷えてかえって目がさえちまったよ……」

「たまきちゃんはどうしたい? 寝たい?」

「別に……」

たまきも体が冷えて寝れる気がしない。

「とりあえず寒いし、部屋戻ってそうだな……テレビでも見ようぜ……」

亜美はそういうと、階段に向かって歩き出した。

 

午前4時45分。3人はテレビの通販番組をぼんやりと見ていた。

「なあ、ほかに番組ないのか?」

亜美が志保を見て、志保はチャンネルを回す。

ニュース、ニュース、ニュースとチャンネルを回すもニュース番組が続き、そのたびに志保は亜美の顔を見るが、亜美は顔をしかめて首を振るばかり。

最後にたどり着いたチャンネルはただひたすらとどこかの清流の映像を流し続けていた。

「つまんねー!」

亜美はそういうと勢いよく立ち上がった。

「ちょっと出かけてくるわ」

「え、出かけるってどこへ?」

志保が驚いたように亜美を見る。

「この辺だよこの辺」

亜美はソファの上に無造作に投げ出されていたジャケットを羽織った。

「この辺って言ったって、お店なんかやってないでしょ?」

「でも、寝れねーし、テレビつまんねーし、ここにいたってしょーがねーから、ちょっと散歩してくる」

「でも、朝の5時だよ? もし、おまわりさんとかに見つかって補導されちゃったら……」

「大丈夫だよ。あれじゃね、警察も今日くらいは正月休みなんじゃね?」

「そんわけないでしょ」

志保はあきれたようにため息をついた。どうやら、説得は無駄らしい。

「わかった。じゃあ、あたしも行く」

そう言うと志保は立ち上がった。

「一人で歩いてるより二人で歩いてる方がまだ、不審にみられないかもしれないでしょ。わかんないけど」

志保も外出の準備をする。

「じゃあ、その理屈だと三人の方がいいだろ。たまき、お前も来いよ」

「え……」

たまきは座ったまま、二人の顔を見上げた。

「うーん、どうだろ……、たまきちゃんって背もちっちゃいし、夜中に出歩いてたらかえって怪しいんじゃ……」

「いや、わかんねぇぞ。うちら二人歩いてたら夜遊びっぽく見えるけど、たまき一人増えるだけで、印象変わるかもしれねぇ。たまき、絶対夜遊びしそうじゃねーもん」

「まあ、確かに……」

二人の視線がたまきへとむけられる。

「たまきちゃんはどうしたい?」

志保が優しく問いかける。

「えっと……その……」

「昼間と違って人なんかいねぇから、大丈夫だろ。来いよ」

「あの……そうなんですけど……その……」

たまきは心配そうに、亜美と志保を見つめた。

「この辺って悪い人もいっぱいいるじゃないですか。夜中に歩いてたら、悪い人に撃たれて死んじゃうかも……」

それだけ言ってたまきは、恥ずかしそうに下を向いた。

亜美と志保はいったんお互いに顔を見あい、それからたまきに視線を戻し、大爆笑した。

「いくらなんでも、そこまで治安悪くないよ、たまきちゃん」

「だいたい、いつも死にたい死にたい言ってるやつが、なに『撃たれて死んじゃうかも』って心配してんだよ」

「そうですけど……撃たれるのはなんか……」

たまきはバツの悪そうに、亜美の方を見た。

 

写真はイメージです

コンビニの前の冷たいアスファルトの上に三匹の野良猫がたむろしていた。亜美たちが太田ビルの階段がら降りてくると、驚いたのかネコたちは道を空けてくれた。

亜美たちはコンビニを覗き込む。店員さんが掃除をしているほかには、二人ほどの男性客が雑誌を立ち読みしている。

「……で、どこ行くの?」

「そんなん決めてねぇよ。一人でその辺ぶらぶら歩いてくつもりだったからなぁ。どっち行く?」

亜美は道のあっちとこっちを指さして、志保とたまきに尋ねた。

「そっちは交番が二つもあるから、やめた方がいいんじゃない?」

「じゃあ、駅の方行くか。でも、駅前にも交番あるぞ?」

「そこまでいかなくてもいいでしょ。ほどほどのところで引き返せば」

「じゃあ、行くか。いいかたまき、常に周りを見渡して、警察を見かけたらすぐに知らせるんだぞ」

なんだか、散歩に行くというより、戦争に行くゲリラ部隊みたいだ。たまきはそんなことを考えながら、二人のあとについていった。

 

ものの2~3分で大通りにたどり着く。

昼間は車が絶えず行きかい、途切れることなどないが、真夜中ともなると車はたまに何台か通るくらいで、さながら音のない川のようだ。

「なんか、こういう真夜中のさ、誰もいない東京の大通りを、車でぶっ飛ばしたくねぇ?」

大通り沿いに歩きながら、亜美が口を開いた。昼間は喧騒に飲み込まれてなかなか声が届かないのだが、今はとてもよく聞こえる。

「ちゃんとスピード守ってよ、亜美ちゃん」

「たまきはどうだ?」

「私は別に……」

たまきが少し不安げに道路を見ながら答えた。

 

三人は映画館の前にやってきた。当たり前だが、今は上映時間外で、誰もいない。

海外のアクションもの、日本の恋愛もの、サスペンスもの、シリアスでグロそうなもの、なんだかよくわからないものと、様々な映画のポスターが並んでいる。

「あ、今度これ見に行くんだ」

志保がポスターの中の一つを指さした。

青い空にうっすらと雲がたなびく。それを背景に、セーラー服を着た女の子が一列に並んでいる。何か楽しいことでも語りあっているのか、誰もがはじけんばかりの笑顔だ。

キャッチコピーには「青春、それは誰もが必ず通る道」と書かれていた。

「誰と見に行くんだよ、こんな映画」

亜美が笑みを浮かべながら尋ねる。

「別に誰とでもいいでしょ」

志保が少しそっぽを向いて答えた。

「っていうかこれ、何の映画?」

「青春映画だよ」

「面白いの、それ? こっちの方がおもしろそうじゃね?」

亜美は暗くてグロそうな映画のポスターを指さした。

「あー、でも、デートにはこういうの向かないかぁ」

そう言って亜美はにやっと笑う。

「その映画、マンガ読みましたけど、あまり面白くなかったです」

たまきがぼそりと、それでいてはっきりとつぶやく。

「へぇ。どんな内容?」

「……人が死ぬんです」

「それだけ?」

たまきは小さくうなづいた。

「じゃあ、デートには合わねぇなぁ。やっぱこっちじゃねぇと」

亜美はわざと「デート」を強調し、志保も少し顔を赤らめる。

たまきは「青春映画」のポスターをじっと見た。

どうして、こういう映画のポスターは、青空が背景に使われるんだろう。

まあ、「青春」というくらいだ。青空のようにさわやかで、晴れ渡って、どこまでも突き抜ける。それが「青春」という言葉のイメージなのだろう。

それが青春だというのならば、私は青春なんて知らない。

たまきがそんなことを考えていると、いつの間にか亜美と志保は歩きだしていたらしく、少し離れたところで立ち止まって、たまきを手招きしている。

たまきはとぼとぼと歩きながら、空を見上げた。

ビルとビルの間の地割れのようなスペースに、真っ黒な空が濁流のようにあるだけだ。これで満天の星でも輝いていれば、これはこれで青春だと胸を張れそうだが、ただただ真っ黒な空があるだけだ。

誰か、真っ黒な青春映画や、灰色の青春映画も作ってくれればいいのに。

 

写真はイメージです

お正月の真夜中の歓楽街は、お店がたくさんあるところはしばしば人がいるが、路地裏ともなるとほとんど人がいない。三人は人目につかないようにと道を選んで歩く。でも、あんまり人目につかない場所も怖いので、そういうところは避けて歩く。また、誰かが道端で殴られてるところにでも出くわしたらたまったもんじゃない。

そうこうしているうちに、昼間に亜美と志保が訪れた神社の入り口に来た。

「せっかくだからお参りしてかない?」

と志保が鳥居の奥を指さす。

「昨日来たじゃん」

と口をとがらせる亜美。

「昼間はすごい行列でちゃんとお参りできなかったでしょ? 今ならすいてるって」

「別にいいけど、まだ並んでたりして」

「まさかぁ」

亜美と志保は笑いながら境内へと入り、たまきもそれにとぼとぼとついていく。

昼間の大行列も、今は霞のように消えていた。それでも何人かは人がいて、初詣なのだろうか、お参りをしている。夜の闇の中でうっすらと明かりがついた真っ赤な社は、昼間に見るよりもなんだか神々しかった。

石段を上り、社の前に立つ。志保がお賽銭を入れると、たまきもそれを見てお賽銭を入れた。

柏手を叩く構えを見せて、志保が固まる。

「……どっちだっけ? 叩く? 叩かない?」

「神社は叩く」

そう答えたのは亜美だった。パンパンと二回たたき、志保とたまきもそれに倣う。

両手を合わせて祈りをすますと、亜美は

「行くか」

と言ってきた道を引き返した。

「亜美ちゃん、よく神社のお参りに仕方なんか知ってたね」

「オヤジがうるせぇんだよ、こういうシキタリとか。それよりお前ら、なにお願いしたんだよ」

「え、あたしは……」

志保が口を開きかけたが、亜美は

「ま、どうせお前は色ボケしたこと考えてたんだろ」

と、両手を後ろに組んで言った。

「べ、別に……その……ちゃんとその、治療のこともお願いしたもん」

「治療のことも、ねぇ……」

亜美は「も」をやけに強調してにやりと笑う。

「たまきは何お願いしたんだ。まさかカミサマに『殺してください』とかお願いしてねぇよな」

「してません」

「じゃあ、何お願いしたんだ?」

「別に何も……」

「まさか、お前も色ボケたことを……」

「ほんとに何も……」

たまきはほんとに何もお願いしなかった。亜美の真似をして手を叩いて合わせてみたものの、お願いしたいことは特には思い浮かばなかった。

「そういう亜美ちゃんは何お願いしたの?」

「え? カネだよ、カネ」

「夢がないなぁ」

「何言ってんだよ。カミサマよりカネサマの方が願い叶えてくれんだろ」

亜美は胸の前でパンパンと二回手を叩いた。

 

そのあとも歓楽街を当てもなく三人でうろついた。

酔っ払い以外にほとんど人がいなかったが、次第に車の量も増え、スーツ姿の人もちらほらと目に入るようになった。

太田ビルの前に戻ってきた時には、三人の頭上には、群青の絹を敷いたような空が広がっていた。

三人はコンビニで買い物をしてから、「城」へと戻ったが、亜美は荷物だけ置くと、

「屋上にいるから」

と言った。

「まだ日の出には時間あるよ?」

「いいよ、待ってるよ。4時半からずっと待ってるのに比べたらましだろ」

「じゃあ、あたしも屋上で待ってようかな」

そう言って志保も亜美のあとを続く。たまきは少し眠かったが、せっかくなので屋上に行くことにした。

屋上から見た空は、さっきと同じ群青のようだが、それでいて、さっきからほんの数分しかたっていないにもかかわらず、少し明るくなったような気もする。

4時半の時はまだ空が真っ黒で、屋上から見えるビルも、輪郭も壁の色もわからず、窓の明かりでとりあえずビルがあるとわかる程度だった。だが、今は群青の空を背景に、ビルの輪郭がぼんやりと、壁の色彩がはっきりと見える。

明け方の空の群青は、昼間の青空に近い色なのかもしれない。

だが、青空それ自体が輝きを放つのに対し、明け方の群青の空は深みのある暗さをたたえている。

そのため、群青の空に包まれた町明かりは、その深みのある暗さに引きたてられ、不思議と夜中に見るよりも輝いているように見えた。

その空はとっておきの絵の具で塗りたくったかのようにきれいで、朝と夜の狭間の不安定さを持ち、少しずつその色味を変えていく。町明かりはまるで真珠のようにほのかな輝きを放ち、ちりばめられていた。

「あのビルとビルの間、ちょっと空が明るくなってない?」

「ああ、あそこから初日の出が入ってくるんだよ。二日目の初日の出」

志保が指さした方角から、少しずつ空が白く、明るくなってきている。あと二、三十分もすれば、誰もが知っている青空へと変わるのだろう。

だからこそ、たまきにはこの群青の空が、なんだかいとおしいもののように思えた。

たまきは、青空の青春なんか知らない。

でも、青空のもとで青春を謳歌する人たちは、きっとこの群青の空を知らないのだろう。

群青の空は青空よりもどこか暗く、それでいてきれいで、儚い。

そんな空を、友達と三人で見ている。

それがどれほど奇跡的で、どれほどかけがえなくて、どれほどいとおしい瞬間なのか、きっと青空の下で青春を過ごす人たちには、わからないだろう。

「青春、それは誰もが必ず通る道」、そう書かれた映画のキャッチコピーを思い出す。

誰もが必ず通るはずの青春を、たまきは通っていない。そこを通る前にわき道にそれ、いまだやぶの中だ。

それでも、こんなにきれいな青い空が広がっていた。

たまきは昼間の、青空の青春を知らない。

知らなくていい。

この群青の夜明け前の空が、きっと私の、私だけの青春なんだ。

つづく


次回 第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

田代と一緒に映画を見に行く志保。3人はばらばらの行動をとることに。行く当てもなくいつもの公園を訪れたたまきだったが、あるミスを犯したことに気づいてしまう。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

 

小説「あしたてんきになぁれ」 第21話「もやもやのちごめんね」

クリスマスの一件以降、なぜかたまきの心はもやもやしたまま、晴れない。一方、ミチもまたモヤモヤを抱えていた。そして、お正月がやってくる。「あしなれ」第21話、スタート。


第20話「冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

たまきはまどろむ。

眠りにおける最大の快楽がこのまどろみだ。夢と現のちょうど境目で、まるでヤジロベーのようにゆらゆらとバランスを取るこのまどろみがなんとも心地よい。

たまきはブランケットにくるまり、器用にソファの上に寝転がってまどろむ。

いつもは三人そろってソファで寝てる、と舞に話すと、お前らよくそんな狭いところで寝れるな、と言われた。

だが、たまきは広い場所よりも狭い場所の方が好きだ。

ずっと、狭い場所で生きてきた。

教室よりも狭い自分の部屋に引きこもっていたし、今も大都会の東京にいながら、この「城(キャッスル)」という名のつぶれた小さなキャバクラに引きこもっている。

もしかしたらたまきの心も、狭い狭い籠の中に入っているのかもしれない。

ひとりぼっちはいやだ、ひとりぼっちはさみしい、と言いながら、その心の内に他者が踏み込むことは決して許さない。籠の中から外を恨めしげに見ているが、籠の中に誰かが入ってくるのはけっして認めない。

さながら路地裏の野良猫のようである。甘えたそうにこっちを見ているのに、いざ近づくと、触らにゃいでくれといわんばかりに、一目散に逃げだしてしまう。

そんなたまきのまどろみを邪魔したのは、

「おめでとー!」

という亜美と志保の叫びだった。

夢と現の間でゆらゆら揺れていたたまきのヤジロベーが、バランスを崩して現の方に真っ逆さまに落っこちる。

何か天変地異でも起きたかのようにたまきは飛び起きた。眼鏡をはずしたままだから、視界がぼやける。

とりあえず冷静になる。なにが起きたのかは知らないが、亜美と志保は「おめでとー!」と言ったのだ。とりあえず、マイナスなことが起きているわけではない。火事や地震のように、今すぐここから逃げなくてはいけないわけではないだろう。

「お、たまき、起きたか」

「たまきちゃん、おめでとー!」

どうやら、何かおめでたいことが自分の身に起きたらしい。

だが、全く心当たりがない。宝くじでもあたったのだろうか。いや、買った覚えなんかない。

「あの、何かおめでたいことがあったんですか?」

たまきは裸眼のまま目をぱちくりして尋ねた。亜美と志保の顔もぼやけて、髪の毛の色で何となくこっちが亜美でこっちが志保だろう、とわかる程度だ。もし、声がそっくりな別人と入れ替わっていてもわかるまい。

「バーカ、正月だよ!」

亜美の新年一発目の「バーカ」が聞こえた。

1月1日の、午前零時になったばかりである。

「たまきちゃん、あけましておめでとう」

たまきの目の前で志保がにっこりとほほ笑む。いや、たまきには見えていないのだが、声の調子から微笑んでいる気がする。

「……おやすみです」

たまきはそうとだけ言うと、再びごろりと横になって目を閉じた。

なんだ、おめでたいことなんて、なにも起きてないや。

 

再びまどろみの塀の上に戻ろうとしたたまきだったが、たまきのヤジロベーは現の側に大きく傾いたまま、ピクリとも動きそうにない。

聞こえてくるのは亜美と志保の笑い声。どうやら、テレビを見ているらしい。テレビの向こうからタレントの笑い声も聞こえる。

だが、たまきがまどろめない理由は、どうやら回りがうるさいから、ではないらしい。

うるさいのはたまきの心の中なのだ。

周波数があってないラジオのように、ザザザ、ザザザとノイズが入り、時折、混線でもしたかのように、いつかの自分の言葉が聞こえてくる。

『その時になって初めて、地獄を見ればいいんじゃないですか』

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

そういったセリフはどこかエフェクトがかかっているみたいで、まるで自分の声ではないみたいだ。耳をすませばピーガガピーピーというノイズが聞こえてきそうだ。

いや、自分の声じゃないように聞こえるのは気のせいで、それらの言葉は紛れもなくたまきの言葉なのだ。自分の口ではっきりといった言葉なのだ。

クリスマスイブの夜以降、たまきはずっとこんな感じだった。以前は目を閉じればどこでもすぐに眠れたのに、心がざわついてなかなかすぐに寝付けない。

もっとも、いつもに比べてすぐに寝付けないだけで、別に全然眠れないわけではない。

よしんば不眠症だったとしても、たまきは別に困らない。毎日毎日「城」でごろごろして、たまに思い出したように公園に出かけて絵を描くぐらいの毎日なのだから。いっそ不眠症にでもなったほうがまだ健康的かもしれない。

たまきの心をざわつかせているのは、「なかなか寝れないこと」そのものではなく、「なぜなかなか寝れないのか」、その理由がわからないことだった。

正確にいえば、寝れない原因ははっきりしている。クリスマスイブの夜に起きた騒動のことが心から離れない。それがたまきの安眠を妨げているのだ。

問題は、なぜそれが心から離れないのか、その理由がわからないのだ。

ミチの不倫がばれて、相手の男性に殴られた。それはそれで大事件だったのだが、ミチは助かったし、問題自体はもう解決したはずだし、正直な話、ミチが不倫しようが殴られようが、たまきには直接関係のない話だ。

なのに、どうして、あの日のことが心から離れない。

あの日の自分の言葉が、心から離れない。

耳を澄ませば、またあの日の言葉が聞こえてくる。

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

聞こえてきたのはミチの言葉だった。

いったいなんだというのだろう。

たまきは正しいことを言ったはずだ。

悪いのはミチと海乃って人、あの二人なのだ。間違っていることをしたから、たまきは自分の思ったことを、自分が正しいと思ったことをぶつけた。

なのにどうして、たまきがいつまでももやもやしなければいけないのだろう。

 

寝付けない、寝付けない、そう思いながら気が付くと朝だった。

時計を見ると午前十時。

寝付けない寝付けないと言いつつ、どうやらしっかり眠っていたようだ。

眼鏡をかけて、ぼんやりと部屋を見渡すと、テレビがついていて、「全国の元旦の朝」みたいな映像が流れている。

「たまき、起きたか。あと十五分ぐらいしたら出かけるぞ」

ばっちりメイクをした亜美がそう言った。

「どこか出かけるんですか?」

「先生のとこ。お年玉もらって、おせち食うんだ」

「そのあとは初詣に行くよ」

と志保。

なんだかめんどくさいな、と思いつつもたまきは起き上がった。

たまきは髪の毛を整える程度の支度を済ませる。

「そういえば亜美ちゃん、朝さ、いなかったよね」

「ん? 屋上にいたんだよ」

亜美が答える。

「何してたの?」

「そりゃお前、正月の朝っつったら、初日の出見るために決まってんだろう。やばかったぜ。区役所とビルの隙間からちょうど朝日が昇ってくるんだ。光がこう、パーっとなって、ぴかーっとなって、うわっやべーってなって」

「よくわからないけど、あたしも見たかったなぁ。起こしてくれればよかったのに」

志保が不満げに口を尖らせた。

「じゃあさ、明日の朝見ようぜ」

「え?」

たまきと志保が同じタイミングで亜美を見た。

「明日見るって……何を?」

「何って、明日の初日の出だよ」

「明日って……、一月二日だよ?」

「知ってるよ」

「亜美ちゃん、初日の出の意味、わかってる?」

「その日初めて出てくる太陽の事だろ?」

「それ……ただの日の出です」

たまきがぼそりとつぶやく。

「亜美ちゃん、初日の出って、その年初めての日の出のことだよ?」

亜美は不思議そうな顔して話を聞いていたが、やがて顔をしかめて

「なにそれ?」

と言った。

「正月の朝だけ特別ってわけ?」

「そうだよ。だから亜美ちゃん、わざわざ早起きして見たんでしょ?」

「いや、うちは、テレビつけたら初日の出がどうとか言ってたから見に行っただけだけど、じゃあ、なに、今日の初日の出は初日の出だけど、明日の初日の出は初日の出じゃねぇのか?」

「だからそれ、ただの日の出です」

たまきがまたぼそっと言う。

「なんだよそれ。なんで正月の初日の出だけ特別なんだよ。明日見たっていいじゃねぇか。どうせおんなじところからおんなじ時間に昇ってくるんだから。今日の初日の出と明日の初日の出、クオリティが違うのかよ。んなわけねぇだろ?」

「まあ、クオリティは一緒だと思うけど……」

志保があきれたように言った。

 

お正月なんて何一つ特別なことなんてない。

たまきはそう思っているのだが、それでも年が変わり、1月1日というまっさらな日の空気は、冷たくもどこかすがすがしさを感じずにはいられなかった。

三人は連なって太田ビルの階段を下りていく。

2階まで降りると、ラーメン屋がのれんを出していた。

「この店、正月でもやってるんだ」

「みたいだね。年中無休って書いてあるよ」

「は~、正月早々ご苦労様です」

亜美が感心したように言うと、軽く敬礼をして見せた。

階段を下りた三人は舞の家に向けて歩き出す。

歓楽街に正月休みなんてないらしく、お正月だからと言って特別何かがいつもと違うわけではない。

「ミチってさ、今日もバイトしてんのかな?」

と亜美が切り出した。

「さあ。そもそも、ミチ君ってもうケガ治ってるの?」

「おい、たまき、なんか聞いてねぇか?」

「……なにも知りません。なんで私なんですか……」

「だって、お前が一番、ミチと仲いいだろ」

「……仲良くなんか、ないです」

たまきはわざと亜美から目線を外した。再びラジオのノイズみたいな音が聞こえた気がした。

「でも、たまきちゃん、よく公園でミチ君と一緒になるんでしょ? あの日もたまきちゃんだけ残ってたし、何か聞いてないの?」

「……あれ以来、会ってません」

たまきは、もうその話題に触れてほしくないかのように、歩調を落とした。

「でも、ミチ、もしも骨折とかしてたら、そんなすぐには治んねぇだろ」

「でも、先生は『最悪、亀裂入ってるかも』って言ってたから、逆に骨折してる可能性は低いんじゃない?」

ミチについて会話する亜美と志保の後ろを、たまきはとぼとぼとついていく。彼女の眼鏡に映る景色は、どことなくモノクロに感じた。

 

写真はイメージです

「せんせー、明けましておめでとー!」

「……お前ら、何しに来た」

舞は機嫌が悪そうに、マンションの廊下に並んだ三人をにらんだ。

「とりあえず、お前ら、中に入れ」

舞に促され、三人は部屋の中へと入る。

「先生、振袖とか着ないの?」

「一人で部屋の中で振袖着てたら、イタいだろ」

舞はそういうと、志保のほうを向いた。

「志保、お前、最近どうだ。クスリを断ってもう半年近くなるだろ」

「はい」

「クスリを使いたいって思うことはあるか? 怒らねぇから、正直に言えよ」

舞は灰皿の上に置いてあった煙草をくわえた。

「……あります。でも、一度も使っては……」

「了解。いいんだよ、それで」

舞はそういうと、今度はたまきのほうを向く。

「お前は、三日前のリスカの傷、どうなった」

「……別に何も」

正確にはまだちょっと痛いのだが、傷が開いたわけでもないので、たまきはだまっていた。

舞は何か考えるようなしぐさを見せた後、亜美のほうを向いた。

「亜美、お前、まさか、父親が誰ともわかんないガキを孕んだとか……」

「ないよ」

亜美があっけらかんとして答える。

舞は腕組みして数秒間考えた。

「じゃあ、お前ら、何しに来たんだ!?」

「何って……正月の挨拶ですよ」

「ずいぶん平和な用事だな……」

「何? 先生のとこって、ビョーキとかケガとかニンシンとかしてないと、来ちゃいけないの?」

「お前らが突然やってくるときは、だいたいなんかのトラブルと一緒だろうがよ! トイレで倒れてるとか、道路で殴られてるとか!」

たまきは舞の部屋を見渡した。いつもと何も変わらない。ここにいたら今日がお正月であることも忘れてしまいそうだ。

「せんせー、お年玉ちょーだい」

舞は浅くため息をついた。亜美がお年玉をせびることは想定済みだったらしい。

舞はおもむろにキッチンに向かうと、調理器具の中からお玉を手に取った。そしてリビングのソファの前に立つと、ソファの上にポトリとお玉を落とす。

「なに? いまの」

「おとし玉だよ」

三人はしばらく、ポカンと舞を見ていた。

「……くだらねぇ!」

「うるせぇ!」

亜美の言葉にかぶせるように、舞が吼えるかのように言葉をぶつけた。

「いいかお前ら、あたしはいつもお前らのことをタダ同然で面倒見てやってんだぞ! この前のミチの一件だって、本来の治療代と比べたら激安でやってやったんだからな! むしろ、お前らからもっとお金貰ってもいいくらいだ。なんであたしがお前らにお年玉払わにゃならんのだ!」

ミチの名前が出て、たまきは少し前のめりになるように口を開いた。

「あの、ミチ君、あれからどうなりました?」

「お、なに、心配?」

舞が妙ににやにやする。

「いや、そういうわけじゃ……」

下を向いたたまきを見て、舞はわざとらしく声を上げた。

「へぇ、心配してんだ。この前あんなにおおげん……」

「ま、舞先生…!」

たまきが慌てたように舞を見る。

「わかってるよ。言わないって」

舞はまだにやにやしている。

「おおげん?」

「なんだ、オオゲンって?」

志保と亜美が不思議そうに舞を見る。

「ん? ああ、ミチなら大元気だよ。オオゲンキ。結局、骨もおれてなかったし、頭打ったわけでもないし。年末に一回うちに呼んで様子見たけど、歩くのにちょっと足引きずってる感じだったけど、まあ、若いし、直に治るだろ」

「そうですか……」

たまきはどこか納得していないかのようだった。

「ところで、先生さ、おせち作ってないの?」

亜美がソファに腰掛けながら訪ねた。

「ないよ。一人でおせちなんか作るかよ」

「買ったりしてないの?」

「だからないって。一人でおせち食うかよ」

「なんだ。志保、おせちないってさ」

亜美がつまらなそうに言った。

「あれ? 亜美ちゃん、先生の家におせちあるから食べに行こうって……」

「いや、先生だったらおせちぐらい用意してるかもなぁ、って思ってたんだけどなぁ」

「え、ずいぶん自信ありげに言ってたけど、あれ、ただの予想だったの?」

「ダメじゃん、先生。正月なのにお年玉もおせちも用意してないなんて」

「勝手にあたしを当てにすんな」

舞が亜美を、ぎろりとにらみつけた。

 

結局、4人のお昼ご飯は舞の家にストックされていたカップラーメンという、お正月とは程遠いものとなった。

お昼を食べ終えて、亜美と志保は近くの神社に初もうでに向かった。

たまきも誘われたのだが、人ごみに行きたくなかったので、断った。

だいたい神様なんて信じていない。「早く死にたい」というたまきの願いは、一向にかなわないのだから。

テレビを見るとどこかで事故が起きたの、病気で人が死んだの、殺されたのと悲しいニュースが流れている。

こういうニュースが悲しいのは、死にたくない人が死んでしまうからだ。

どうせなら死にたくてしょうがない自分みたいな人が犠牲になればよかったのに。そうしたら悲しくなんかないのに。

死にたくない人が死んで、死にたい人が新年を迎える。もしも神様がいるなら、きっと悪趣味で残酷な奴に違いない。

 

たまきはソファの上でひざを丸めていた。舞の家にいてもやることがないし、このまま「城」に帰ろうかとも思ったが、帰ったところでやることはない。

何より、一人になったらまた心がもやもやして、あのノイズが聞こえてきそうだ。

眠ろうと思って目をつむった時、トイレに入った時、亜美も志保もいなくてひとりっきりになった時、心がもやもやして、ざわざわして、ノイズとともにイブの夜のことを思い出す。思い出してまたもやもやする。

ノイズが聞こえてくるタイミングはほかにもある。階段を下りてミチの働くラーメン屋の前を通りかかったとき、会話の中でミチの名前が出たとき、心がざわざわとし、あの夜のことが、ミチとのやり取りが頭をよぎる。

なぜあの日のことが頭を離れないのか、心がもやもやしてざわざわするのか。いくら考えても答えが出ない。

いくら考えても答えが出ないのに、それでも考えずにはいられない。もやもやするのが気のせいだなんて思えない。

さっきだってそうだ。ミチの名前が出るたびにもやもやしてるのに、自分からミチの話題を切り出した。ミチの話をすればまたもやもやするってわかっているのに。

そして、ミチのけがは心配ないという答えは、たまきが望むものではなかった。

別にミチのけがが治らなければいいとか、そういう意味ではない。たまきが知りたかったのは、ケガの具合じゃないのだ。それも心配だけれど、知りたかったのはもっと別のことなんだ。それは……。

「ミチ君、大丈夫でした……?」

「ん?」

舞は少し離れた所に立って、コーラを飲んでいたが、たまきの問いかけに怪訝な顔をした。

「さっき言っただろ? 大元気だったって……」

「けがのことじゃないです」

たまきは舞を見ることなく言った。

「そうじゃなくて、その、落ち込んだりしてなかったかなとか……」

舞はコーラを一口飲んでから答えた。

「そういう意味では元気なかったかもな。確かに、声のトーンとか、目線とか……、まあ、あんなことあったんだし、そんなすぐに立ち直れはしないだろうし」

「たぶんそれ、私のせいです……」

まるで冬の冷たい吐息のように、たまきはぽつりとつぶやいた。

「おまえのせい? なんで?」

「私があの時、ミチ君を傷つけるようなこと言ったから……」

たまきの中のノイズが、より一層大きくなった。

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

あの日の言葉が、ノイズがかかった状態で聞こえてくる。

「それでミチが落ち込んでるって思ってるの? いやぁ、考えすぎだろ」

舞はコーラの感をテーブルの上に置くと、笑いながらそう言った。

「でも……」

「前にも言ったろ。お前は何でも自分のせいにしがちだって。ミチがケガしたのも、お前にいろいろ言われたのも、全部ミチの自業自得なんだから。大丈夫。お前は間違ったことは言っちゃいないよ」

「私も、間違ったことを言ったなんて思ってません……」

「だったらそれでいいだろ。まだ納得できないことがあるのか?」

「はい……」

舞はコーラ片手に、たまきの隣に座った。たまきは膝の上に置いた両手を固く結び、その一点を見つめていた。

「心が……もやもやするんです……。ざわざわするんです……。なんであんなこと言っちゃったんだろうって。なんであんな言い方しかできなかったんだろうって。私は間違ってない、間違ったことは言ってない、何度もそう思っても、それでももやもやするんです……」

話ながらたまきは、ノイズの奥にある自分の本音が少し聞こえたような気がした。

「なんでかね、それは」

舞はやさしくほほえみながらそうつぶやいた。

「きっと私は……自分のことが赦せないんだと思います」

たまきは今にも消え入りそうな声で、それでいて力強くそう答えた。

「ああいう言い方しかできなかったことが?」

「はい……」

「でも、あたしから見ても、お前の言ってたことは間違っちゃいないぜ。悪いのは不倫して、嘘ついてたミチだ。そのことをきつく言われて落ち込んだからって、お前が自分を責める必要はないんじゃないか?」

「でも……、もやもやするんです。なんでなんで私はあの時……、って。それが心から離れないんです。自分が……赦せないんです……」

「それは、なんで?」

舞はうつむくたまきの目を覗き込むようにして言った。

「そうまでして自分のことが赦せないのはなんで?」

「それが……わからないんです……」

たまきはじっと一点を見つめたまま答えた。

舞はごくごくとコーラを喉の奥に一気に流し込むと、缶をテーブルの上に置いた。

「確かに、お前の言ってたことは正しかったけど、優しくはなかったかもなぁ」

「え?」

たまきはこの時になって初めて、舞のほうを向いた。

「お前が言ってることはそういう事だろ? 自分は正しいことを言った。でも、優しくなかった。優しくなかった自分が赦せないって」

「そうなんですか?」

「いや、お前のことだよ」

舞は笑った。

自分の言ったことは正しい。

でも、優しくなかった。

舞の言葉を心の中でたまきは何度もつぶやく。

いつしか、たまきの中に聞こえていたノイズは消えていた。もやもやもざわざわも消えていた。

「あの日、私は、やさしくなかった……。ミチ君に対してやさしくできなかった自分が赦せなかった……」

たまきはもう一度舞のほうを向いた。

「そういうことなんですか?」

「だからあたしに聞いても正解なんか知らないって。お前のことなんだから」

そういって舞はまた笑う。

「私は……やさしくない自分が赦せなかったんだ……」

「おまえはヘンなやつだな」

舞は白い歯を見せてにっと笑う。

「ヘン……ですか?」

「だってさ、自分がやさしくなかったから自分を赦せないって、そんなこと考えるのは、やさしいやつだけだよ。おまえは人一倍やさしいんだよ。なのに、自分がやさしくなかったから赦せない、なんて言ってやがる。矛盾してるだろ」

「私は……やさしくなんかないです……だってあの時……ミチ君にきつい言い方を……、海乃って人にも……」

「だから、そんな風に考えること自体、やさしいやつだけなんだよ」

舞はさっきから、ゲラゲラと笑っている。

「あたしがお前ぐらいの時なんか、そんな風には考えなかったぜ。あたしは正しいこと言った、あたしは間違ってない、って。その言い方がやさしくなかったとか、もっと別の言い方があったんじゃないかとか、そんなこと考えなかったよ。いや……、大人になってからもそうだったかもな……」

どこか遠い目をする舞の横で、たまきは突然立ち上がった。

「私、ミチ君に謝らないと」

「おお、どうした、急に」

舞は立ち上がったたまきを見上げた。

「別にお前が謝る必要なんかないんじゃないか? 確かにお前の言い方はやさしくはなかったかもだけど、何度も言うけどさ、悪いのはミチなんだぜ。ミチが悪いことして、その結果なに言われようが、自業自得だと思うけどねぇ」

「でも、私はミチ君にやさしくできなかったんです。やっぱり、そのことをちゃんと謝らないと」

たまきの言葉に舞は、いつになく意志の強さを感じた。

「私、帰ります。舞先生、ありがとうございました」

「おお、まあ、頑張って謝って来いよ」

たまきは舞にぺこりとお辞儀をすると、舞の部屋を出て行った。

たまきが出ていき、部屋の扉がバタンと閉じた。その扉を見ながら、舞はひとり呟いた。

「ほんとうにヘンなやつだ」

 

写真はイメージです

元日の昼過ぎ、ミチはいつもの公園の、いつもの階段にいた。

けがをして、それも足をくじいていたので、この公園に来るのは久しぶりだった。

ギターケースを下すと、階段に腰掛ける。夏場には鉄板のように熱い階段のコンクリートも、今では氷のように冷たい。

腰を下ろしたまま、ミチはただぼおっと前だけを見ていた。

ふいに後ろから声をかけられた。

「あけましておめでとう」

振り返ると、そこには仙人が立っていた。

「……あけおめっす」

ミチは軽く頭を下げる。仙人は笑いながら、

「今の若いもんはそんな風に略すのか。まあ、正月なんて何がおめでたいのかわからんもんな」

と言った。

「今日は歌わんのか?」

ミチは答えなかった。

仙人はミチの横の空いたスペースに目をやった。

「となり、いいかな?」

ミチは無言でうなづく。

「かわいいお嬢ちゃんじゃなくて申し訳ないがな」

「別に……」

仙人はミチの隣に腰掛けた。

仙人は手にカップ酒を持っていて、それを開けるとちびちびと飲みだす。

仙人は、ミチの額に貼られたばんそうこうについては、何も聞かなかった。

仙人がカップ酒を半分ほど飲んだ時だった。

「あの……」

ミチが仙人に話しかけた。

「ちょっと、話を聞いてほしいんす……けど……」

ミチは横目で仙人の表情をうかがう。

「歌ではなくて話を聞いてほしいか。噺家にでもなったのか?」

そういって仙人は、優しく笑った。

 

ミチは仙人にすべてを話した。不倫したこと。ばれたこと。殴られたこと。相手にも、そして友達にも嘘をついたこと。そして、たまきに軽蔑されたこと。

仙人にも軽蔑されるかと思ったが、仙人は時折あいづちを入れるだけで、不倫したことに対して、特に何も言わなかった。

一通り話し終えて、仙人は

「そりゃ、大変だったな」

とだけ言った。

「仙人さんは……その……今の話を聞いて、俺のことどう思います……?」

「別にどうも思わんさ。わしに迷惑をかけたわけではないからな。おまえさん、まだ未成年だろ? だったら、いっぱい道を踏み外して、めいっぱい怒られればいい。おまえさんは今回、自分の行いで傷つく人がいることを知ったんだ。おまえさんぐらいの年だったら、そこから学んで、二度と同じ過ちをしなければそれでよい」

仙人はカップ酒の入った小瓶を地面に置いた。

「経験するだけじゃ何も偉くない。人の価値を決めるのは経験から何を学んだか、だ」

「そうっすか……」

「ところで、どうしてこんな話をわしにしたのかな?」

「……」

「わしはてっきり、お前さんに嫌われていると思っとったんだが」

ミチは答えず、下を見つめた。

「ただ話を聞いて、懺悔したいというのなら、わしなんかよりも寺や教会に行ったほうがよいぞ。悪い宗教家というのは口がうまいが、善い宗教家は話を聞くのがうまい」

「そのっすね……、俺、どう謝ったらいいのかわからなくて……」

仙人は再びカップ酒を口にした。

「さっきの話を聞く限り、お前さんの先輩が、お前さんとその女の人はもう二度と会わないということで話をまとめたんだろ? だったら、下手に謝罪しないほうがいい。かえって話がこじれる。勝手なことをすれば、先輩とやらの顔をつぶすことにもなる」

「その……でも……」

「何か割り切れないことがあるのか?」

「俺、たまきちゃんにどう謝ればいいのかわからなくて……」

「ほう」

仙人は興味深そうにミチを見た。

「俺のせいで巻き込まれて、ケガしちゃったし、あんなに怒ってたし、ちゃんと謝んなきゃなって……。でも、こういう言い方するとあれなんすけど、あの子普通の女の子と違うっていうか……、普通の女の子ならなんかアクセサリーとかあげれば喜ぶかなって思うんすけど、たまきちゃんがアクセサリーとかつけてるの見たことないし、あの子、画集とかそういうの貰って喜ぶ子だから、何あげればいいかなって……」

「ボウズ」

「はい……」

ミチは緊張した面持ちで仙人を見た。

「わしから言えることは二つだ。まず、モノをあげれば謝ったことになると思っとるんなら、それは間違いだぞ」

「そ、それはそうなんすけど……」

ミチは仙人から視線を外し、泳がせた。

「でも、やっぱり、手ぶらっつーのも……」

「それにだ、確かにお嬢ちゃんが、お前さんに巻き込まれてケガしたことに怒っとるんだったら、まあまだお詫びの品を持ってくでもいいが、話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこに怒ったわけではないと思うぞ」

「……というと」

「そもそも、お嬢ちゃんがケガをしたのは、お前さんを助けようとしたからだろ。おまえさんはお嬢ちゃんに助けを求めたのか?」

「……いいえ」

「つまり、お嬢ちゃんは自分の判断でおまえさんを助けようとしたんだ。ケガしたくなかったら、そんな事せんだろ」

「でも、現に、たまきちゃんは俺のせいでケガしちゃったわけで……」

「まあ、お前さんの気が済まんというのなら、謝って来ればいいさ。モノがなきゃどうしても不安だというのなら、お菓子の一つでも買っていくといい。だが、わしにはもっと他に謝らなければならんことがあるような気がするがの」

ミチは何も答えなかった。

「お前さんもそのことをうすうすわかっとるんじゃないのか。だが、それが何なのか、はっきりとは分からない。何をあげたらいいかとかそういうんじゃなく、あの子の前に立った時に何を言えばいいのか、本当は何を謝らなければいけないのか、それがはっきりと自分でもわかっとらんのではないか? だから、とっとと謝りに行けばいいものを、一週間も何もせんでおる。」

「俺は、なにを謝らなければいけないんすか……」

ミチは、仙人をすがるように見た。

「それを自分で気づくところまでが勉強……と言いたいところだが、まあ、『謝らなければいけないことがある』と自分で思っただけでも上出来だろう」

仙人は、再びカップ酒に口をつけた。

「言っておくが、『わしはこう思う』って話であって、これが正解ってわけじゃないぞ。一応、わしの考えは述べるが、それをどう思うかはお前さんが判断することだ」

ミチはいつになく真剣なまなざしで仙人を見据えた。

「お前さんにとって、あのお嬢ちゃんはどういう存在だ?」

「え……友達っすけど?」

「それだけか?」

「それだけって、別にヘンな関係じゃないっすよ?」

ミチは少し顔を赤くしながら言った。

「じゃあ、ほかの友達にはなくて、あの子にだけはあるつながりがあるだろう?」

「え……?」

ミチは数学の問題でも解くかのように難しい顔をしたが、悩みつつも口を開いた。

「歌?」

「お前さんにとって、あの子はどういう存在だ?」

「……ファンっすか?」

「そうだ。それもたった一人の、な」

仙人は、やれやれとでも言いたげにミチを見ている。

「そのたった一人のファンを、お前さんは失望させたんだ。おまえさんの歌は全部嘘だったんだ、とな。おまえさんの話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこにがっかりして、そこに怒っていると思うがな。お嬢ちゃんが好きだったおまえさんの歌を、ほかでもないおまえさん自身が嘘にしてしまったことに」

ミチは何も答えられなかった。

「もちろん、ファンの期待に全部答えることなんてできん。中には、勝手な期待もあるだろう。だが、自分の歌を嘘にしちゃいかん。歌を殺しちゃいかん。おまえさんの歌はお前さんのものだが、聴いてくれる人のものでもあるからだ。おまえさんの歌が嘘になれば、お嬢ちゃんがお前さんの歌を聴いて抱いた想いや、思い出も嘘になってしまう」

仙人の言葉は白い息となって、霞のように空気に溶けていく。

「そこまで責任が持てんというのなら、人前で歌なんぞ歌わぬことだ」

ミチは何も答えない。ただ、傍らに置いたギターケースを見ていた。

やがて、おもむろにミチは立ち上がる。

「俺、そろそろバイトの時間なんで、行きます。……ありがとうございました」

「元旦からバイトか。大変だな」

「いえ……じゃ……」

ミチは軽く会釈をすると、公園の出口へとむかって歩き始めた。

結局開けることのなかったギターケースを担いで、大通りを渡る。

歩きながらミチは仙人の言葉に思いを巡らす。

それは、最初に言われた「正月なんて何がおめでたいかわからない」という言葉。

公園と駅の間にある官庁街は、ほとんど人通りがない。人気のない官庁街を、ミチは速足で歩いていく。

仙人のおっさんのゆうとおりだ。正月なんてちっともめでたくない。

だって俺の中では、去年はまだ、終わっていない。

 

写真はイメージです

ミチに謝ろうと勢いよく舞の家を飛び出したはいいものの、たまきは結局「城」に帰ってきた。

思えば、ミチの家も、連絡先も知らない。

いつもの公園に行けばもしかしたらいるかも、などと考えたが、「城」の鍵は今、たまきが預かっている。亜美と志保がいつ帰ってくるかわからないのに、遠出をするわけにはいかない。

結局、太田ビルに帰ってきたたまき。途中でミチの働くラーメン屋を覗き込んだが、覗いた程度でミチがいるかどうかはわからなかったし、謝罪をするためにわざわざお店に入るのは、お店にとって迷惑だろう。

結局、謝らなくちゃという思いを抱えてまたもやもやしたまま、たまきは『城』へと帰ってきた。

もやもやしたまま「城」でしばらく過ごしていたら、いつの間にか時間は午後4時になっていた。亜美と志保はまだ帰ってきていない。

ふと、おなかの虫がぐうとなった。

誰もいないのに、なぜだか恥ずかしいと思ってしまう。

おやつでも買おうと、たまきは立ち上がる。

下のコンビニ行くため、階段を下りていく。

3階から2階へと降りる階段の、踊り場を過ぎたあたりで、たまきは2階のラーメン屋の前に誰かいるのに気づいた。

階段のすぐそばにラーメン屋の入り口があり、2階の奥にはもう一つ、勝手口がある。勝手口のわきにはパイプ椅子が二つ置かれ、灰皿代わりの水の入ったバケツが置いてある。従業員の喫煙スペースとして使われている場所だ。

そこで一人、調理服を着た少年が、たばこを吸っていた。少年がタバコを吸うのはルール違反だが、吸っているのだからそう書くしかない。

少年の姿を見つけると、

「あっ……」

と、小さく声を漏らし、たまきは階段の上で足を止めた。そのまま次の一歩が踏み出せずに、階段の上に立ち尽くした。

さっきまで、謝ろう謝ろうと思っていたのに、急に本人に会うと、言葉が出てこない。

その少年、ミチもたまきに気づき、やっぱり

「あ……」

と、小さくつぶやくと、気まずそうにたまきを見ていた。

やがて、ミチは煙草をバケツの中に放り込み、やはり気まずそうに、それでも一歩一歩、たまきの方へと近づいて行った。

手を伸ばせば触れるくらいのところでミチは止まると、右上を見たり左上を見たり、視線を忙しく泳がせながら、言葉を探した。

「あ、あのさ……」

ようやく見つかったミチの言葉の出だしだったが、それにかぶせるように、たまきはいつもよりちょっと大きな声で、いつもよりちょっと早口で、

「あの、この前は、ごめんなさい!」

というと、思いっきり頭を下げた。

「……へ?」

ミチの方は出鼻をくじかれ、なおかつ面食らったようにたまきをぽかんと見つめる。

たまきが顔をあげた。いつになくまっすぐにミチを見据えている。

二人の視線が正面衝突した。

気恥ずかしさもあってか、たまきはすぐに次の言葉が言えなかった。

一方、ミチは虚を突かれたようにたまきを見ていた。やがて、絞り出すように言葉を述べる。

「……なんで……たまきちゃんが、謝るの?」

たまきは珍しく、ミチの目を見たまま、目をそらさなかった。

「あの日、ミチ君はケガしてて、傷ついてて、優しくしなきゃいけなかったのに、私、ちゃんと優しくできなくて……」

「でも、あれは、俺が悪いわけで……」

一方のミチは恥ずかしそうに視線を逸らす。

「だとしても、私はあの日、もっとミチ君に優しくしなきゃいけなかったんです。言いたいことがあっても、何もあの日に言うことはなかったんです。ごめんなさい」

たまきはもう一度頭を下げた。

顔をあげるとすぐ目の前にミチの顔があった。今度はミチがたまきをじっと見ると、

「……ずるくね?」

と言った。

「……え?」

「だって、謝らなきゃいけないのは俺の方なのに、そんな風にたまきちゃんから最初に謝られたら、俺、もう、謝れないじゃん。それってずるくね?」

「ずるいってどういうことですか? ミチ君も謝りたいことがあるなら、今、謝ればいいじゃないですか?」

「でも、たまきちゃんから先に謝られたら、もう謝れねぇじゃん。なんか、後出しじゃんけんみたいでさ」

「別にどっちが先だからってそんなの関係ないじゃないですか」

たまきとしても納得いかない。

「だってさ、優しくできなかったからごめんなさいって、そんな理由で先に謝られたらさ、なんか謝りづらいっていうか……」

「私が先に謝ったのがいけないんですか? 私は自分が悪いことしたって思ったから、謝ったんです。なんでそれに文句言われなきゃいけないんですか? おかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきもムキになって言い返す。ミチは何か言いたそうにたまきを見ていたが、

「おかしいっていえばまあ、可笑しいよな……」

と言って、笑い始めた。

「……何がそんなにおかしいんですか!?」

「いや、俺、たまきちゃんに謝るつもりだったのに、なんでまたけんかしてんだろ、って思ってさ」

「……べつにけんかしてるつもりはありません」

たまきは斜め下へと目をそらした。そして、ぽつりと言った。

「……謝りたいことがあるなら、謝ればいいじゃないですか」

「そうやって促されると、余計にダサいっていうか……」

「謝るのはいつだってダサいんです。さっきは、私がダサかったんですから」

そういうと、たまきは再びミチの目を見た。

「謝るのにかっこつけたいなんて、それこそずるくないですか?」

ミチは本当に恥ずかしそうにたまきを見ていた。そして、恥ずかしそうに口を開いた。

「なんかその、いろいろと、ごめんなさい……!」

「『なんかいろいろと』じゃわかりません」

「いや、今のことも謝んなきゃなぁ、って思うし、巻き込んじゃったこともそうだし、その……たまきちゃんがせっかく好きだって言ってくれた俺の歌……、自分で台無しにしちゃって……ごめん……」

ミチはぎこちなく、それでも潔く、頭を下げた。だからたまきが

「……ほんとですよ」

とつぶやいた時、彼女がどんな表情をしていたかミチは見ていない。

「……俺決めた。これまで作った歌は、全部捨てる」

「え?」

たまきは戸惑ったような声を上げ、申し訳なさそうにミチを見た。

「……別にそこまでする必要は……」

「いや、もうさ、あの日以来、歌えないんだよ」

ミチはたまきから視線を外す。

「さっきもギターもって公園に行ったんだけど、歌うどころか、ギターを持つ気にもなれなくてさ……、結局、俺は自分の作った歌の主人公になれなかった。自分で自分の歌を嘘にしちまったんだ。だから、もう、歌えないんだ」

たまきはミチをじっと見ていた。

「だから、全部捨てる。今の俺には歌えないし、だったら、一からやり直すことに決めたんだ。ヒット曲の切り貼りじゃねぇ、俺の身の丈に合った、俺自身の言葉で書いた歌を、一から作り直すって」

「そうですか……」

たまきはどこか寂しそうに、それでいて、どこかほっとしたようにつぶやいた。

「でも……、全部捨てなくてもいいんじゃないですか……。あの……犬の歌とか、私、まだその……」

少し恥ずかしそうにたまきが言った。

「……また歌えるようになったらね」

そういってミチは笑った。たまきも微笑んだ。

「なんだか今日は、ミチ君がいつもと違って見えます」

「違って見えるって?」

「いつもはなんか、もっと遠い感じだったけど、今日は目線が同じに見えるような気が……」

「それ、たまきちゃんがちょっと高いところにいるからだよ」

たまきは足元に目をやった。たまきはミチよりも階段1段分、高い所に立っていた。

たまきはそこからぴょんと飛び降りた。トン、と着地して見上げると、ミチの目が少し高いところにあり、いつもの身長差に戻った。たまきはミチの目を見上げると、

「いつも通り」

と言ってほほ笑んだ。

「そういえば……その……」

たまきはラーメン屋ののれんを見ると、言いづらそうにミチを見た。

「お店で働いてて、あの海乃って人と会わないんですか……」

「……あの人ね、……バイト辞めてた。俺が休んでる間に」

「そうですか……」

「ま、旦那いるんだったら、別に無理してバイトしなくても生活できるだろうしな」

ミチがわざと明るく言っているようにたまきには感じられた。

「じゃあ、私はこれで……」

そういってたまきはミチに背を向け、階段を上り始めた。

「……たまきちゃん!」

たまきの背中に、ミチの言葉が投げかけられる。

「新しい歌ができたらさ、また聞いてくれないかな?」

「……はい」

たまきは振り返ることなく答えた。

そのままたまきは階段を上り続けた。

4階から5階へと向かう階段の踊り場で、再びおなかが、ぐう、と鳴った。

恥ずかしそうにたまきはおなかに手をやる。

そうだった。私はおなかがすいて、下のコンビニにおやつを買いに行く途中だった、とたまきは自分の用事を思い出した。

しかし、いま戻っても、たぶん、まだミチがあそこでタバコを吸っているような気がする。

いま戻ったら絶対、「あれ、どうしたの?」と声を掛けられるに決まってる。

そう思ったらさらに恥ずかしくなって、たまきはおなかに手を当てたまんま、階段を上り続けた。

つづく


次回 第22話「明け方の青春」

近くの神社に初詣に行った亜美と志保。志保はそこで思いがけない人物に出会う。そして、「二日目の初日の出」を見るつもりがふとした手違いで日出より早く起きてしまった3人は、明け方の歓楽街を散歩することに。

続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第20話「冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン」

あしなれ、前回までのあらすじ

ミチのカノジョ、海乃は実は既婚者だった。ミチとの交際が海乃の旦那にばれ、ミチは激しい暴行を受ける。その日の夜、舞の家で治療を受けるミチにたまきは、海乃が既婚者であることをミチは知っていたのではないか、知ってるのに「何も知らなかった」と嘘をついているのではないかとぶつける。


第19話「赤いみぞれのクリスマス」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです。

「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」

たまきはいつになく強い目で、まっすぐにミチを見据えた。

暗い部屋の中、外の明かりに照らされたたまきの顔は、ほんのりと紅潮している。

「え……、知ってるって……」

ミチは半笑いをしながら、窓の外を見た。

「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」

たまきはもう一度同じ言葉を、より語気を強めていった。

ミチはたまきの方を向くと、左手で鼻の下をこすりながら、ひきつった笑顔を見せた。

「し……知ってたわけないじゃん。俺だって今日初めて知って……」

「私は知ってました」

たまきの言葉にミチの指が止まった。そのまま左手はだらりと下がるものの、顔は硬直したまま、たまきを見続ける。

「え……」

「私は海乃っていう人が結婚してるって知ってました」

「いつ……」

ミチはそう言って唇をかんだ。

「……大収穫祭の次の日の朝、その……ホテルから出てきた二人にあった、あの時です」

たまきはミチの方を見ながらも、ときどき記憶をたどるように左上を見ながら、しゃべり始めた。

「あの海乃って人……、『ひきこもりはダメ』みたいなこと言って、私の頭なでたんです……。その時、私、はっきりと見ました。左手の薬指に、指輪してるの……」

たまきは言葉を選ぶように続けた。

「最初は……、見間違いじゃないかと思いました。左手っていうのは私の見間違いかなって……。でも、あの時、海乃っていう人の右手は、ミチ君と手をつないでました。私の頭を撫でたのは、指輪をしてたのは間違いなく左手だったんです……。それでも、ほんとに薬指だったかなって……。でも、あの人、別れ際に私にゆっくりと手を振ったんです。左手で。その時、指輪が見えました……。間違いなく薬指でした……」

ミチは気まずそうに、ドアの方に目をやった。

「私、もしかしてミチ君、このことに気付いてないのかなって思いました。でも、この前、ミチ君の働いてるお店に行った時、ミチ君、海乃って人とハイタッチしてましたよね……。その時も私、はっきりと見ました……指輪」

たまきは、一度下を向き、それから、ミチを再び見据えた。

「私が気付いているのに、お付き合いしてたミチ君が気付いてなかったわけないじゃないですか……!」

ミチは気まずそうに唇をなめると、たまきをちらりと見やったが、すぐにまた目線をそらした。

「知ってましたよね……!」

「……まあ」

ミチは窓の外を見ながら答えた。

「……知ってて付き合ったんですか?」

「俺が知ったのも……たまきちゃんと同じくらいのタイミングだよ」

ミチはようやく、たまきの方を向いた。

「大収穫祭の夜に海乃さんとホテルに泊まって、……そん時、海乃さんが誰かと電話してて、誰って聞いたらダンナって……。そん時まで、海乃さん指輪してるの隠してて……俺、そん時初めて、海乃さんが結婚してるって知って……」

「……じゃあ、その時、お別れすればよかったんじゃないですか?」

たまきは一度ため息をつくと、言葉を続けた。

「その時、海乃って人ときちんとお別れてしていれば、今日、こんなことにはならなかったんじゃないですか?」

ミチは、何かをあきらめたような笑顔を見せた。

「たまきちゃんってさ、誰かを好きになったこととか、ある?」

「……ありませんけど」

「じゃあ、わかんないよ」

ミチは再び窓の外を見ながら言った。

「人を好きになるってさ、なんつーか、そんな単純なことじゃねぇんだよ。そりゃ、確かに浮気はルール違反なのかもしれないけどさ、恋愛ってもっとなんつーか、尊いもんで、一度好きになっちゃったらもう、そういう次元じゃ……」

「……ごまかさないでください」

たまきはいつになく低い声で言った。その喉の奥に何か熱がこもっているのをミチは感じた。

「そんなに、恋愛って大事なんですか……?」

「そりゃ……、まあ……」

「何よりも?」

「……そりゃ、そうじゃない?」

ミチはあいまいにはにかんだ。

「そうですよね。大事ですよね。ミチ君、そういう歌うたってますもんね。志保さんや亜美さん見てても、私とそんなに年が違わないのに、二人とも大人で、やっぱりそういう経験の差なのかなって思います。そういう経験が大切なんだっていうのは、なんとなくわかります。でも……、だったら……」

時刻はすでに夜の十時を回っていた。暖房の風の音が重苦しく響いていた。

「だったら、なんでそれを、言い訳の道具に使うんですか?」

「……」

再び暖房の音。そして、たまきの声。

「そういう経験ないからわかんないとか、そんな単純じゃないとか、結局、ただの言い訳じゃないですか。自分を正当化しているだけじゃないですか。恋愛が、人を好きになることが、そんなに大切なんだったら、どうしてそれを都合のいい言いわけの道具に使うんですか? それって、大事なものの価値を、自分で貶めてるってことですよね?  おかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきは、いつの間にか椅子から立ち上がって、ミチに詰め寄っていた。ミチはたまきから目を反らし、ぐるぐる巻かれた右手の包帯に目を落とした。

「私、ミチ君が不倫してるってわかって、なんだかもやもやして……。でも、不倫はイケナイことだけれど、私がとやかく言う事じゃないし……、それに、ミチ君がそこまであの海乃って人のこと好きなら、もうしょうがないのかなって思ってました……。もし、不倫が相手のダンナさんにばれた時、ミチ君は海乃って人をかばって、それでも、恋を貫き通すくらいの覚悟なんだって勝手に思ってました。だから、今日、ミチ君が殴られて……、『知らなかった』っていったとき……、ショックでした……。ああ、そういう覚悟はなかったんだ、って……」

「……勝手に人を、ラブソングの主人公とかにすんなよ……」

「だってミチ君、そういう歌、歌ってたじゃないですか……!」

たまきはミチの布団をぎゅっとつかんだ。

「ずっと大事にするとか、ずっと守り続けるとか……!」

「よく覚えてんな……」

「結局、そんな覚悟なんてなかったんですよね……」

たまきは、震える唇を前歯で軽く抑えた。

「ミチ君も、海乃って人も、結局、本当に大事なのは自分たちだったんじゃないですか。自分たちだけ楽しければそれでいい。今が楽しければそれでいい。それを恋愛って言葉で包んで、ふたをして……、ひきこもってただけなんじゃないですか?」

たまきはミチの目を強くにらみつけた。

ミチは目をそらしたかった。だが、そらせなかった。

「確かに、あの男の人がミチ君にやったことは、やりすぎだと思います。でも、不倫されれば誰かが傷ついたり、怒ったりするのは、当たり前じゃないですか。あなたたちもわかってましたよね? 私より経験豊富なんだから、当然わかってましたよね? 私、ミチ君も海乃って人も、それでも貫く覚悟があるって思ってました……。そう信じたかった……。でも違った……」

たまきの脳裏に、いつかの海乃の言葉が蘇ってきた。

『引きこもり?へぇ~、かわいい~』

『あれ、でも、この子ヒキコモリなの?だって、外にいるよ?』

『ダメだぞ、ちゃんと学校に行かなきゃ』

声帯がけいれんして嗚咽を繰り返す。そうやって、たまきのことばを喉の奥へ奥へ通し戻そうとする。

それでもたまきは言葉をつづける。前にもこんなことがあったような気がする。

「都合のいい言い訳をして、現実から逃げて、目をそらして、自分たちだけの殻に閉じこもって、ひきこもっているのは、あなたたちの方じゃないですか! そんな人たちに、私がひきこもりだからって、不登校だからって、なんで馬鹿にされなきゃいけないんですか⁉ 本当に逃げてるのは、本当にひきこもってるのは、あなたたちの方じゃないですか‼ なんで私がばかにされなきゃいけないんですか‼」

そこまで言って、たまきの目からポロリとひとしずく零れ落ちた。

「あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!」

 

たまきは飛び出すように、寝室を出た。

蛍光灯が白い壁を照らす。たまきはソファをにらみつけると、クッションを手に取り、勢いよく寝転がった。

部屋の奥にあるキッチンでは舞が何やら作業をしていた。

「もう十時過ぎてるのでー、大声出さないでもらえますかー。近所迷惑でクレーム来ちゃうので―」

舞がわざと語尾を伸ばしていった。その言葉にたまきが飛び起きる。

「ご、ごめんなさい! 私、先生の迷惑とか、周りのこととか、全然考えてなくて……!」

「そんな必死で謝んな。大丈夫だよ、となり、空き部屋だから」

そう言って舞は笑った。

「……聞こえてました?」

「お前の声だけ、ほぼ全部」

たまきはバツが悪そうに下を向いた。

「お前あんな大声で、あんなにしゃべるんだなって、聞いてて結構面白かったぞ。録音して亜美と志保にも聞かせてやりてぇ」

「え?」

「いや、録音してないから、大丈夫だよ」

そういって舞はまた笑った。

ピーッという電子音が舞の後ろから聞こえてきた。舞は振り返ると、電子レンジのドアを開ける。

舞はテーブルの上にどんと、出来立ての冷凍チャーハンを置いた。

「さてと……、夜食のチャーハンができたわけだが、どうする? 気まずいってんなら、あたしが行こうか?」

「私が行きます。そのために、ここに残ってるんで」

たまきはそういうとチャーハンのお皿に手を伸ばしたが、すぐに

「あつっ……!」

といって手を離した。

「おいおい、気をつけろよ」

舞は笑いながら、たまきに鍋つかみを手渡した。

 

寝室のドアがガチャリと開いて、リビングの明かりが漏れこむと同時に、たまきが何かを持って入ってきた。

「お夕飯はチャーハンです」

舞がドアを閉めると、再び部屋は薄暗くなった。

たまきはチャーハンを化粧台の上に置くと、部屋の明かりをつけた。

薄暗かった部屋が一気に明るくなる。お皿からはチャーハンの蒸気が幽かに立ち上っている。

ミチは、何かを避けるかのように窓の外へと目をやった。

「……俺のこと、嫌いなんじゃなかったの?」

「大嫌いです」

たまきは即座に答えた。

「だったら、そんな奴の世話なんか……」

「それとこれとは話が別です」

たまきは椅子に腰を下ろした。

「誰かを見捨てる理由なんて、口にしたくありません」

その言葉から少し間があって、ミチが口を開いた。

「でも、さっき、海乃さんのこと、見捨てるっつーか、突き放すようなこと言ったじゃん……」

たまきはチャーハンにスプーンを突き刺したまま、まるで米粒の数を数えるかのようにじっと下を見ていた。

「……わかってる。あんなこと、言いたくて言ったわけじゃないし……」

「……たまきちゃん?」

「なんであんな冷たいこと言っちゃったんだろ……」

たまきはそのまま、石のように動かなかったが、気を取り直したかのように立ち上がると、チャーハンのお皿をミチの顔へと近づけた。

「だからミチ君は見捨てません。右手、使えないんですよね。ほら、こっち向いて口開けてください」

ミチはたまきの方を向いた。たまきはチャーハンをスプーンですくい、ミチの方に差し出す。

ミチはそれをじっと見ていた。

「食べてください。食べないと、治るものも治りません」

「海乃さんが一度だけ……、まかない作ってくれたことあるんだ……」

ミチはスプーンの先から目線を落とした。

「チャーハンを……」

「そうですか。早く食べてください」

「これ見てたら、そのこと思い出したっていうか……」

「これは違うチャーハンです」

「でも、思い出しちゃうっつーか……」

「じゃあ、牛乳でもかけますか? そうすればチャーハンじゃなくなります」

「……食うよ」

ミチはスプーンの先にかぶりついた。

「……熱っちぃ」

「知りません」

たまきは、無表情のまま、再びスプーンをチャーハンに突っ込んだ。今度は、ミチに差し出す前に、軽く息を吹きかけた。

 

写真はイメージです。

「さあ、バッターボックス、志保選手が入りました。右投げ、右打ち、打率はえーっと……」

「亜美ちゃん、ちょっと静かにしてくれない? 集中できない」

志保はバットを構えた。正面を難しそうににらみつける。

深夜のバッティングセンター。客の入りは上々で、あちこちからボールがネットに突き刺さる音や、バットによって高く打ち上げられる音が聞こえる。

志保と向かい合ったピッチングマシーンからボールが飛んでくる。そのたびに志保はぶんぶんとバットを振るのだが、当たるどころかかすりもしない。

後ろのベンチで亜美はそれを頬杖しながらじっと見ていた。

「あ~、むずかし~」

ヒットはおろか、ファウルすらあきらめた志保がベンチへと戻る。

「お前は腕だけ振ってるからダメなんだよ。こういうのはな、全身運動なんだよ。体全体でボールを前へはじき返すのがコツだ」

亜美がバッターボックスに立つ。ピッチングマシーンから、勢いよくボールが放たれた。

「せいやっ!」

亜美がバットを振ると、カンという心地よい音とともに、ボールが放物線を描いて飛んでいく。

「そいやっ!」

今度の打線は少し低めだった。

「はーい、どっこいしょ―!」

「ねえ、その掛け声、必要?」

ベンチで息を切らしていた志保が尋ねる。

「掛け声のタイミングで、バットにボールを当てるのがコツだ」

そういって亜美は、再びバットを構える。

「よいよい―よっこらせ―!」

今の掛け声は、長すぎて逆にタイミングが合わないんじゃないか。志保はそんなことを考える。一方、亜美は、志保の方を向いた。

「プロ野球選手もみんな打つときに掛け声言ってんだからな」

「うそだよ。聞いたことないよ」

「そりゃお前、スタジアムは客でいっぱいなんだ。歓声で聞こえてねぇだけだよ」

そういうと、亜美はバットをまっすぐに構えた。

「お前、知ってっか? 叫んだ方が力が出るんだぞ」

亜美はバットを持ったままぐるぐる回りだした。

「ハンマー投げの選手とかさ、こう、ハンマー振り回して、で、投げるときに思いっきり『あー!』ってさけん……」

「亜美ちゃん! バット!」

亜美は、志保が指さす方を見た。

斜め上のネットに的のようなものが設置されている。ここにボールが当たればホームラン、という事だ。

亜美が見たのは、その的に、掛け声と同時に亜美の手からすっぽり抜けたバットが、まさに突き刺さる瞬間だった。

「あー!!」

亜美が今日一番の大声を出した。

 

写真はイメージです

ミチが寝たいと言ったので、たまきは部屋の電気を消した。

たまきがカーテンを閉めるといよいよ真っ暗になったが、ミチがちょっと明るい方がいいと言ったので、たまきは再びカーテンを開けた。

薄暗い部屋の中で、イブの夜に10代の男女が二人きり、と書くと何かロマンチックなマチガイでも起きそうだが、包帯ぐるぐる巻きのミチと、毛並みを逆立てた猫のようにイスに座るたまきとでは、マチガイなんて間違っても起きそうにない。

「あのさ……」

ミチが口を開いた。

「寝るんじゃなかったんですか?」

「今日、いろいろあったから……寝付けなくて……」

「全部ミチ君のせいです。ちゃんと反省してください」

たまきはどこか無機質な声で答える。

「よくさ、母親が寝る前に子供に昔話聞かせるっていうじゃん……?」

「……そうですね。私やお姉ちゃんもお母さんに読んでもらいました」

「なんかさ、昔話知らない?」

「……知りません」

たまきはどこかあきれたように言った。

「じゃあさ、たまきちゃんの昔話聞かせてよ。っていうかさ、お姉ちゃんいるんだ? あれ、たまきちゃんってどこ出身だっけ? そういった話……」

ミチはわざと明るい口調で言ったが、それを水をかけて打ち消すようにたまきは、

「絶対に嫌です」

とだけ言った。

ふたたび静寂が部屋を支配する。

「……もしかして、私がいるの、気まずいですか?」

ミチはすぐには答えなかった。しばらく静寂を聞いた後、口を開いた。

「まあね……」

「私は舞先生から、ミチ君に何か異常があったらすぐに知らせるように頼まれてここにいます」

「でも、見られてると寝づらいっていうか……」

たまきは立ち上がると、ミチに背を向けて座りなおした。

「うん……まあ……ありがとう……」

 

電気を消してしばらくの間、ミチは横になっていたが、やがてトイレに行きたいと言い出した。たまきはその旨を舞に知らせ、舞がミチを連れてトイレに行く。

今のミチは一人でトイレに行けない。右手は包帯でぐるぐる巻きだし、満足に歩けない。

ミチはたまきが来る前から踏まれたり蹴られたりしていて、歩くたびに左足が痛いと言っていた。舞は「サイアク骨に亀裂入ってるかもだけど、まあ、しばらくおとなしくしてりゃくっつくから」とテキトーな診断をした。

ミチをトイレに連れて行った舞が戻ってきた。ミチに肩を貸しながら部屋に戻る。

「お前さぁ、いくつだよ?」

「……十七っす」

「何が見られて恥ずかしいだよ。あたしが気にしねぇっつってんだから、別にいいじゃねぇか。お前だってカノジョいんだろ? やることやってんだろ?」

ミチは少しさみしそうに、

「カノジョがいたのは……今日の夕方までっす」

とだけ言った。

「ああ、そうだったな。悪い悪い」

そいうと、舞はミチを投げ飛ばすかのように、ベッドの上に放り投げた。

「いたた……。先生、俺、けが人なんすから、もっと丁寧に……」

「けが人? 不慮の事故に巻き込まれたとかなら同情してやるけど、お前勝手に怪我して、勝手にウチ来て、あたしの仕事邪魔してんだからな。言っとくけど、あとで5000円くらいもらうからな」

「え?」

「バカ! ちゃんとした病院に入院してたら、この3倍くらいかかるからな、お前」

そういうと、舞はドアの方へと向かう。たまきは、申し訳なさそうに舞を見た。

「ごめんなさい。私が、その、おトイレの世話できないから、先生に代わりにやってもらって……」

「お、じゃあ、次はお前がミチのパンツ下ろす?」

「次もよろしくお願いします」

たまきは間髪入れずに頭を下げた。

「じゃ、あたし、隣にいるからなんかあったら言って。たまき、ミチが寝たらこっち来ていいぞ」

そういって舞は部屋を出ようとしたが、振り返ってたまきの方を向くと、

「けんかするなよ」

と言ってニッっと笑った。

「私、けんかなんてしてません」

ドアが閉まった後、たまきが不満そうに、珍しく口を尖らせた。

「先生にも聞こえちゃったのかな、さっきの話」

「全部聞こえたって言ってました」

たまきが淡々と答えた。

「そっか……知られたくなかったなぁ……」

「知りません」

たまきはミチから目をそらしてそういった。やがてミチの方を向き直ると、

「自業自得です」

とだけ付け足した。

ミチはたまきの顔をじっと見ていた。

たまきはミチの視線から逃げるように立ち上がる。

「寝るんですよね。電気、消しますね」

部屋の入り口にあるスイッチへとたまきは向う。

不意に、ミチの声がたまきの背中へと投げかけられた。

「……その目だ」

「え?」

たまきは壁のスイッチに手を触れたまま、押すことなくミチの方へと振り返った。

「海乃さんってさ……、なんつーか、ちょっとのことでは物おじしない人なんだよ……。それが何であの時、引き下がったのか不思議だったんだ……」

「あの時って……いつですか?」

「たまきちゃんが『地獄を見ればいい』っていった時」

スイッチに触れていたたまきの手が、だらりと下がった。

「あの時、海乃さん、何かにおびえるような目をして、逃げるように去ってったんだ」

「……よく覚えてますね」

たまきは下を見ながらつぶやいた。

「海乃さんらしくないなって思って、何がそんなに怖かったんだろうって。でも、わかった。その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……」

「……そうですか」

たまきはそれだけ言うと、電気を消した。

 

写真はイメージです。

「やっぱさ、スジ通んなくね?」

亜美が缶ビールのプルタブを開けながら言った。

「城」で開かれていたクリスマスパーティは、たまきからの緊急通報でお開きになった。志保は「城」に帰ってきてからパーティの片づけを始めたが、亜美はもったいないからと言って、手を付けられることのなかった缶ビールを飲み始めた。

「何が?」

志保がごみ袋に紙コップを放り込みながら聞き返す。

「だってさ、ダンナいるのに不倫したのはあのオンナだろ? やっぱり、あいつが無傷っておかしいだろ」

「まだその話?」

志保があきれたように言う。

「そもそもさ、不倫するんなら結婚すんなよな、って話じゃん」

志保は聞き流すかのようにせっせと片づけを続けていたが、不意に手を止めた。

「……その理屈、ヘンじゃない?」

「は?」

「いやそれだと、最初から不倫するつもりの人が結婚するのがよくない、って言い方じゃない。そんな人いないでしょ? 結婚してるのに不倫するのがいけないんでしょ?」

「いや、どうせ不倫するのに、結婚するのはスジ通んねぇだろ」

「いやだから、『どうせ不倫する』っていうのが変じゃない? 最初から不倫する前提っていうのが。まず結婚して、それから不倫するのであって……」

「だから、どうせ不倫するのに結婚すんなっつってんじゃん」

しばらく、二人は見合っていた。

「……合わねぇなぁ、ウチら」

「合わない」

「たまき、早く帰ってこねぇかなぁ」

「明日にならないと帰ってこないよ。もう夜遅いし」

「誰だよ、たまき、先生の所に置いてきたの」

「亜美ちゃんだよ」

志保は再び片づけを始めた。

「……あたしはちょっぴりわかるけどな」

志保は目線を上げることなくつぶやいた。

「何が?」

「不倫しちゃう人の気持ち」

「へぇ!」

亜美が何か珍しい生き物でも見つけたかのように身を乗り出した。

「お前が? おいおい、優等生の志保ちゃんはどこ行ったんだよ」

「……そんなの、だいぶ前に死んだよ」

志保は相変わらず目線を上げずに、ごみ袋を縛り始めた。

「何? 浮気とか不倫とかしたことあんの?」

「ないけどさ……、でもさ……、『やっちゃだめ』って言われていることってさ、やりたくならない? なんて言うんだろう。背徳は甘美の味っていうか……」

亜美は、志保の話を聞きながら、煙草を灰皿に押し付けた。

「たとえそれが自分の身を亡ぼすとわかっていてもさ、背徳そのものが快楽っていうかさ、いっそ背徳に身をゆだねたくなるっていうか……」

「ハイトクうんぬんはよくわかんねぇんだけどさ」

亜美は缶ビールの残りを喉の奥に押しやる。

「夜中に太るってわかってんのに、カップ麺食いたくなるようなもんか?」

「かもね」

志保は少し寂しげに笑った。

「……もしかしてお前さ」

「ん?」

「……いや、何でもない」

亜美は空き缶をそっとテーブルの上に置いた。

「アー、なんか、マジでカップ麺食いたくなってきた」

「この時間に? 太るよ?」

亜美は立ち上がると、志保の忠告を無視して「城」を出ていく。二、三分でカップ麺の入ったビニール袋を提げて帰ってきた。

「お湯、沸かしてあるよ」

「さすが、気が利くねぇ」

亜美はカップ麺のふたを開け、お湯を注ぐ。

三分後には、湯気とともに醤油スープの刺激的な香りが、ふたを開けたカップ麺から部屋の中へと飛び出した。

この上なく愛おしそうに亜美は持ち上げた麺を眺め、ずるずるとすする。

「あ~、旨い。深夜のカップ麺ってなんでこんなに旨いんだ? 昼間のカップ麺と中身はおんなじはずなのに」

「だから、そういうことだよ。背徳は甘美なの」

「ん?」

亜美は麺をすすりながら曖昧な返事をする。

「昼間のカップ麺も深夜のカップ麺も、味は一緒。なのに深夜のカップ麺の方がおいしそうに感じるのは、背徳だから。『深夜のラーメンは太るから食べちゃだめ』って思うほど、おいしく感じちゃうんだよ。禁忌と背徳。『やっちゃだめ』って言われていることに手を出す、それ自体が快楽なんだよ……」

志保はどこかさみしげに、亜美を見ていた。

「ハイトクの意味は何となくわかったけどよ、カンビってどういう意味だよ」

「甘くておいしい、って意味」

「甘い? バカ、お前、これ、醤油ラーメンだぞ。甘いわけねぇだろ」

「フフッ、そうだね」

と志保は微笑んだ。

 

夜の十二時を回った。舞はメガネをかけ、パソコンに向かっていた。

ドアがガチャリと開いて、誰かが部屋に入ってきた。

クリスマスの夜に部屋に入ってくるのはサンタクロースだと相場が決まっているが、舞が振り向いた先にいたのは白いお髭のおじさんではなく、たまきだった。

「ミチ君、寝ました」

たまきが眠そうな声でつぶやいた。

「そうか、悪かったな。面倒な役割押し付けて」

「いえ、ミチ君を、舞先生のところに連れてきたのは、私たちですから」

「テーブルの上に菓子鉢あるだろ? そこにあるお菓子は食っていいから」

舞はたまきを見ることなく、パソコンに向き合ったまま言った。

だが、たまきはテーブルの方ではなく、舞の傍らにやってきた。

「ん? どうした?」

「あの……」

たまきは、少し下を見てから、舞の方を見た。

「今日、私とミチ君がここでしゃべってたことは、その……、みんなには、ないしょにしてもらえませんか?」

「なんで?」

舞はたまきの目を見たが、すぐにふうっと息を吐いた。

「安心しな。あたしは口が堅いことでこの辺じゃ有名なんだ」

それを着て、たまきもふっと息を吐くと、笑みを浮かべた。

「ちょっと待ってな」

舞は椅子から立ち上がると、ソファのわきへと向かった。

「最近、簡易ベッド買ったんだ」

「簡易ベッドですか?」

たまきの視線が、舞が向かっていった先に、部屋の隅っこに置かれた物体に向けられた。

「ああ、最近、トイレで倒れてたり、ベンチで泣いてたりして、そのままうちに泊まるやつが増えたからな。あたしの寝床を確保しておかないと」

そういって舞は笑った。一方、たまきはテーブルの上にメガネを置くと、ソファの上にころりと横になった。

「おい、お前はこっちだ。あたしがソファで寝るから」

舞が準備した簡易ベッドを指さす。

「いえ、私はこっちでいいです。慣れてるので」

「そんな狭いところで寝てたら、いつまでたっても背が伸びねぇぞ」

「べつにいいです」

たまきは静かに目を閉じた。

 

なかなか寝付けない。目をつむっても、どうにも寝付けない。

心のもやもやは一向に晴れない。

ミチがいつまでも嘘をついているのを見て、たまきは心がもやもやした。

もやもやしたから、思いのたけをぶつけた。

思いのたけをぶつければすっきりすると思ったのに。

なのに、なぜだろう。

さっきよりも、もやもやは深まって、しばらくは眠れそうにない。

つづく


次回 第21話「もやもやのちごめんね」

お正月を迎えたたまき。だが、クリスマスの一件が頭から離れず、もやもやしたままだった。たまきの心を悩ます一番の理由は、「なぜクリスマスの一件が頭から離れないのか、その理由がわからない」ことだった。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第19話「赤いみぞれのクリスマス」

クリスマスイブの夜、「城」ではパーティが開かれていた。だが、ミチが姿を見せない。亜美にせかされてミチを探しに言ったたまきが遭遇した光景とは……?

あしなれ、第19話。衝撃のクリスマスがやってくる!


第18話「労働と疲労のみぞれ雨」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「たまきちゃんはさ、クリスマスに何かするの?」

そう尋ねたミチを、たまきがきょとんとした目で見た。

「くりすますっていつですか?」

「え? クリスマス、知らないの?」

「いや、クリスマスくらい知ってますけど……、そうじゃなくて、クリスマスって今から何日後ですか?」

たまきがあほの子みたいな質問をしたのは、別にくりすますを知らなかったからではない。

たまきには日付の感覚がない。今日が何月何日なのかわからない。なのでクリスマスは今から何日後なんだろう、という意味で「くりすますっていつですか?」と聞いたのだが、ミチにはたまきがクリスマスが何月何日かをを知らない、とんでもなく世俗に疎い子のように映ったようだ。

「今日が十二月十四日だから、ちょうどあと十日後だよ」

「そうですか」

どうやら、いつの間にか十二月になっていたようだ。道理で寒いと思った。しかし、十日後は二十四日、それはクリスマスイブで、あくまでもクリスマスの前日ではないだろうか。それくらい、たまきだって知っている。

たまきはいつもの公園に絵を描きに来ていた。いつものように階段で歌うミチと同じ段に腰を掛ける。木々はいつの間にか葉を落とし、夏場はおしりが焼け付きそうなくらい熱かった地面もすっかり冷たくなっている。

ミチは座布団のようなものを敷いていた。自分もああいうのを買おう、とたまきはひそかに心に思った。

「予定ですか。特にないです」

たまきはミチを見ることなく言った。

「俺はね、海乃さんとデート」

ミチが聞かれてもいないのにしゃべり始めた。口から白い吐息が、蒸気機関車の煙のように現れては、消える。

「二人で映画見た後、食事に行って、で、そのあとは……、まあ、ねぇ?」

「そこまで聞いてないです」

たまきが雪のように真っ白なスケッチブックに、うすい灰色の線を引きながら答えた。

「……まだあの海乃って人とお付き合いしてるんですか?」

たまきは、少しミチを視界に入れながら尋ねた。

「え、なにその、早く別れちまえ、みたいな言い方。あ、もしかしてやきもち焼いてる?」

「そんなわけないです」

たまきがすかさず答える。

クリスマスの予定なんてたまきにはない。これからクリスマス、年末年始、バレンタインと一年の行事の中でも特に浮かれやすいイベントが集中してやってくるが、たまきに何かが関係あったためしがない。せいぜい小学校の頃に父親にバレンタインのチョコレートを渡したぐらいだ。たまきにも父親が好きだった時代があったようだ。

毎年この時期は外に出ることなく、誰かと触れ合うことなく、できるだけ静かに、できるだけ厳かに過ごしたいと思っている。うかつにイベントごとに触れてみても、自分が惨めなのを確認するだけだ。

その一方で、なんだか嫌な予感がする。いつかのお祭りみたいに、無理やりイベントごとに巻き込まれそうな、いやな予感が。

少し鳥肌が立ってきたのは、きっと冬の寒さのせいではないはずだ。

 

写真はイメージです

「田代さんって、クリスマスって何かするんですか?」

喫茶店「シャンゼリゼ」の休憩室。志保が休憩でやってくると、十五分前に休憩に入った田代が何か本を読んでいた。今は志保と田代の二人っきり。

田代は本に目を通しながらも、志保とたわいもない雑談をしていた。その中で、志保が思い切って田代ののクリスマスの予定を尋ねてみた。

もしも「カノジョとデート」なんて言葉が出てきたら、その瞬間、なんだか試合終了のホイッスルが鳴らされたような、絶望的な気分になるだろう。ドーハの悲劇のように立ち上がれない志保がそこにいるはずだ。

「24日は昼間ではシフトに入ってるけど、夜から旅行に行くんだ。北関東に二泊三日でスキー」

「誰と?」という質問を志保は下の上で転がして、ぐっと飲みこんだ。

それを尋ねてしまったら、答え次第ではいよいよもって試合終了のホイッスルかもしれない。そう思って、一度は飲み込んだのにもかかわらず、

「誰と……行くんですか?」

と尋ねてしまった。

志保はこの想いを終わらせたいのかもしれない。

と、同時に、強く思っているのだ。まだ夢を見ていたい、と。

「大学の連中。男7人で行くんだぜ。華がないよね。むさいにもほどがあるでしょ」

クリスマスの日に女性との予定が一切ない、ということは田代は今、いわゆる「フリー」なのだろうか。

いや、もしかしたら遠距離恋愛、というのもあり得る。少なくとも、可能性はゼロではない。

志保の中で、「このまま夢を見続けていたい」という気持ちよりも、「0.1%でも可能性があるなら、つぶしておきたい」という気持ちが天秤にかけられ、そして、一方に大きく傾いた。

「いいんですか? クリスマスにカノジョさん放っておいて」

大きな賭けだ。この答えのイエスかノーかで、田代にカノジョがいるかどうかがはっきりとする。返答次第では試合終了だ。

言ってしまってから、田代が口を開くまでのほんのわずかな間に、志保は激しく後悔をした。ここにきて急に「このまま夢を見続けていたい」という気持ちが強くなり、一度傾いたはずの天秤が再びぐらぐら揺れる。

「そんなのいたら、男同士でスキーなんて行かないよ」

その答えは、志保が望んでいたものだった。望んでいたものだったからこそ、最初、志保は自分が自分に都合の良い聞き間違いをしたのかもしれない、と思った。

その言葉が都合の良い聞き間違いではなく、確かに志保の鼓膜を打った、現実の存在だと確信した時、思わずカズダンスを踊りたくなる自分に志保は気づいた。「カズダンス」なんて言葉の存在しか知らないのだけれど。

「志保ちゃんは、クリスマスなんか予定とかないの?」

「ありません。カレシとか、いないんで!」

クリスマスの予定がないことも、カレシがいないことも、こんなに誇らしく言えることはそうそうないだろう。

どうやら、休憩時間が終わっても立ち上がれそうだ。立ち上がるどころか、走り出したい気分だ。

 

写真はイメージです

 

「お前ら、クリスマスなんか予定あんのか?」

たまきと志保が「城(キャッスル)」でごろごろしていると、どこからか帰ってきた亜美が帰って早々尋ねてきた。

おととい感じたイヤな予感がどうやら的中しそうだ、とたまきはうんざりした思いで顔を上げ、

「あるわけないじゃないですか……」

と力なく答える。

「志保は?」

「ないよー」

志保が小説をを読みながら答えた。

「バイト先のヤサオとどっか行ったりしねぇの?」

「ヤサオって……、田代さんのこと? あのね、まだ亜美ちゃんが思ってるような関係じゃないから。それに、田代さん、クリスマスはスキーに行くからいないよ」

「ふーん、ちゃっかり予定聞いてるんだ」

亜美の言葉に、志保は頬を赤らめて、本で顔を隠した。

「く、クリスマスになんかするの?」

志保が本で顔を隠しながら尋ねた。

「パーティに決まってんだろ」

たまきは嫌な予感が的中して、頭をもたげた。

「トモダチいっぱい呼んで、パーティするからな。そうだ、ミチも呼ぼうぜ。あいつ、ギター持ってるから、たまきの誕生日の時みたいに、また弾いてもらおうぜ」

「ミチ君、カノジョさんとデートするみたいですよ」

たまきが口をはさんだ。

「なんだよ、お前もちゃっかり予定聞いてるんだな」

「……むこうが勝手にしゃべったんです」

「あれ、ミチって今日、下のラーメン屋でバイトしてる?」

「そんなこと知りません」

「まあいいや。ちょっと、ミチんとこ行ってくるわ」

そういうと亜美は「城」を出ていった。

ものの数分して、亜美は戻ってきた。

「ミチ、映画見た後カノジョと一緒に顔出すってさ」

たまきは、亜美がどんな脅しを使って、ミチに承諾させたのかと思うと、ミチがカワイソウに思えてきた。

「ミチ君、休憩中だったの?」

志保が訪ねた。

「いや、元気にバイトしてたぜ」

志保は、亜美がラーメン屋に入って、勤務中のバイトに話しかけただけで何も食べずに出てきたのかと思うと、お店の人がカワイソウに思えてきた。

 

写真はイメージです

そんなこんなでクリスマスイブがやってきた。

「城」の中には亜美の「トモダチ」の男7~8人がやってきて、いつもより賑やか、そして、いつもより男臭い。男たちの何人かは亜美の客でもあるらしい。とにかく、みんなチャラい。

テーブルの上にはだれのものかわわからないがパソコンが置かれ、そこから音楽が流れている。クリスマスソングでも流せば雰囲気が出るのだろうか、どちらかというと夏を想起させるようなダンス音楽がどむっどむっっと流れている。

傍らにはギターが置かれていた。ミチのものだ。ミチが午前中に置いていったのだ。亜美の話では、夜にカノジョと映画を見た後、ここに顔を出すらしい。

テーブルの上には志保が作った簡単な料理や、コンビニで買ってきた小さなケーキや酒のつまみが並べられていた。

一方、亜美はというと、コンビニで買ってきたフライドチキンをほおばりながら、男たちと談笑している。志保が思わずほほを赤らめてしまうような卑猥な言葉も平気で飛びっている。

たまきはどうしているのかというと、この部屋にはいない。

パーティが始まる前から、ドア一つ隔てた衣裳部屋に引きこもって、出てこない。

「ほら、たまき、出て来いよ。楽しいから」

亜美が衣裳部屋のドアに向かって話しかける。いつからか、たまきは返事をしなくなった。

「お前らだって、たまきの顔、見たいよなぁ」

亜美が男たちの方を見てそう言うと、男たちも

「見たい見たい」

とニヤニヤしながら言う。クラスに何人か、ああいった、おとなしい子をからかって楽しむ男子いたなぁ、と志保は思い出していた。

「それ! たーまーき! たーまーき! たーまーき!」

酒の入った亜美が頭の上で両手をたたき、囃し立てる。それに合わせて調子のよさそうな男が数人、亜美に乗っかって囃し立てる。

そんな風にあおったら、ますますたまきは出てこれなくなるんじゃないか、志保はそう感じていた。

思い返せば、大収穫祭の時にたまきをパレードに誘っても、たまきは静かに首を横に振るだけだった。

志保はトレイにケーキを二つのせ、ジンジャーエールの入った紙コップと、いくつかのお菓子を追加すると、衣裳部屋の扉をノックした。

「あたし。そっち行っていい?」

ドアがゆっくりと開き、まるで塹壕から戦場をうかがう兵士のように、たまきが顔を出した。

たまきは無言でうなづくと、志保を中に招き入れた。

「なんだよ、お前までそっち行くのかよ」

亜美が不満そうな声を漏らすと、

「あ~あ、華がなくなる」

と男たちがあからさまにがっかりしたような声を上げる。

「なんだよお前ら! ウチがいるだろ!?」

「てめぇなんか女のうちにカウントしてねぇよ!」

「んだとてめぇ! てめぇだってウチとヤッたことあんだろうがよ!」

「あんときはカノジョに振られたばっかで、どうかしてたんだよ!」

品のないやり取りも、ドアを閉めると静かになった。

「となり、いい?」

またしてもたまきは無言でうなづき、ソファの右端に腰かけた。志保は空いたスペースに腰を下ろす。

「……こっちに来て、よかったんですか?」

たまきが申し訳なさそうに尋ねた。

「ああいう男子、タイプじゃないから」

そういうと、志保はトレイをテーブルの上に置いた。

「たまきちゃんの分のケーキ、持ってきたよ。まだ食べてないでしょ? あたしも」

そういうと、ジンジャーエールの入った紙コップを持った。

「メリークリスマス」

「めりー……、くりすます」

紙コップが触れ合っても、きれいな音は鳴らなかった。

 

午後八時になった。

「ミチの奴、遅くねぇか? 七時半に映画終わったらすぐ来るっつってたのに」

亜美が時計を見ながらイライラしたように言う。

「オンナと一緒なんだろ? そのまま、メシでも食いに言ったんじゃねぇか?」

とヒロキが答える。

「あ? ウチが来いっつってんのに来ないとか、あいつふざけんなよ?」

亜美はそういうと立ち上がった。

「ちょっと、探させてくるわ」

「あ、そこは『探してくる』じゃないんすね」

シンジという痩せてひょろひょろした男が言った。

亜美は衣裳部屋の扉を勢いよく蹴飛ばした。

「たまき! そこにいるのはわかってんだ! 出て来い!」

ドアがゆっくりと開く。顔を出したのは志保だった。

「そんな大声出さなくても聞こえてるって。あと、ドア、乱暴にしないで。壊れるから」

奥ではたまきが、硬直したように志保の背中を見ている。

「たまき、お前、ちょっと映画館まで行って、ミチいねぇか探してこい」

「あたし行こうか?」

と志保が言ったが、亜美は

「いや、たまきに行かせる。こいつ、クリスマスだっていうのに引きこもってうじうじしやがって。ちょっとは外に出て、クリスマスの空気を吸ってきなさい!」

と玄関を指さしながら言った。

「そんなのたまきちゃんの勝手じゃん、ねぇ?」

そういうと志保は後ろを振り返ったが、たまきはおもむろに立ち上がると、ニット帽を頭にすっぽりとかぶって、

「……行ってきます」

と衣裳部屋を出た。

「いいの? 大丈夫?」

「……まあ」

「映画館の場所、わかる?」

「……まあ」

今のたまきには、チャラい男ばかりのこの「城」より、外の方がまだましな気がした。

「たまき」

亜美は靴を履こうとするたまきの肩に手を置くと、

「これで好きなもん買っていいぞ」

と百円玉を三つ手渡した。

たまきはぺこりと頭を下げると、「城」を出ていった。

 

写真はイメージです

外に出てからものの一分で、たまきは三つの間違いに気づいた。

一つは、クリスマス・イブの夜は、薄手のジャンパーではどうにもならないほど寒かった、という事。

一つは、外の方がまだましだろうと思って出てみたけれど、中も外も大して変わらなかった、という事だ。

若いカップルだったり、大学のサークルかなんかの集団だったり、そこかしこにクリスマスを満喫している人だらけだ。

大体、クリスマスに歓楽街に来るなんて、誰かと食事やお酒を楽しむという、素敵なクリスマスの予定がある人なのだ。

たまきは下を向きたくなった。こんな風に下を向いてしまう人も、今の歓楽街ではたまきぐらいなものだ。

そして三つ目の間違いは、クリスマスの歓楽街には、あまりにも人が多すぎるという事だ。

この中から、ミチを探し出すだなんて、絶対に無理だ。

そう思いつつも、たまきはとりあえず映画館へと足を進めた。映画館は「城」のある太田ビルから見て、歓楽街のちょうど反対側にある。

映画館に向けてとぼとぼと歩く。案の定、ミチは見つからないし、海乃っていう人は会ったことはあるはずなんだけれど、顔が思い出せない。

数分経って、映画館に着いてしまった。

映画館には当たり前だが映画のポスターがあった。ポスターには

「愛し合う二人。だが、彼女の命の終わりが近づいていた……。クリスマスに起きた奇跡の実話を感動の実写化!」

と書いてある。

「命の終わり」という文言にひかれて、あらすじを読んでみたが、どうやらヒロインは病魔に侵されていて余命いくばくもない、という設定らしい。

こういった映画で悲劇のヒロインになるのはいつだって病人だ。

たまきは映画に全然詳しくないが、「自殺してしまうヒロイン」というのはあまり見ない気がする。

病気だろうが自殺だろうが、死は死だ。若くして死んでしまうことには変わりない。

病気で死ぬのはカワイソウだけど、自分から死ぬのはカワイソウじゃない。きっと、そういう事なんだろう。

 

写真はイメージです

たまきは3分ほど、そこに立って映画館から出てくる人を見ていた。吐いた息が白いもやとなってメガネをくもらせ、指でこすってそのくもりを取る。そんなことを何度も繰り返すが、一向にメガネのレンズにはミチの姿は映らない。

もしかしたら、こことは違う場所にも出口があるのかもしれない。そう思ったたまきは、映画館の入っているビルの周りをぐるっと回ってみることにした。何より、じっとしていたら凍えてしまう。

映画館があるのは比較的に人通りが多い場所だが、その周りをぐるっと回ろうとすると、映画館のわきにあるとてつもなく狭い道を通ることとなった。いや、道というよりも隙間に近いかもしれない。

そこを抜けると、さっきまでたまきがいた通りとは映画館をはさんで反対側の道路に出る。少し広くなったが、人通りはない。

たまきは右折してその路地を歩き始めた。しかし、ビルとビルのはざまにあるようなこの道は人通りが全くなく、この道沿いに映画館の入り口などないことは明白だった。

室外機のファンの音がたまきの鼓膜を軽く揺らす中、突如、耳慣れない鈍い音が冷たい空気を打つように響いた。

たまきははっとして振り返る。

先ほどたまきが曲がってきたところのもっと奥に、人影が見えた。

立っている人影が二つ。一つはスーツを着ている。もう一つは茶色いロングヘアー。きっと女の人だろう。

スーツを着ている方が足をぶんと振ると、さっきの鈍い音が聞こえた。

人影の足元に何かが転がっていた。

たまきは目を凝らす。どうやら、転がっているのも人間のようだ。

「てめぇ、わかってんのかぁ!」

スーツを着た男か大声を出しながら、うつぶせに転がっている人間を蹴り飛ばす。また鈍い音が響いた。

人がけんかをしているのを見るのはたまきにとって初めてだった。いや、けんかと呼ぶにはあまりに一方的かもしれない。

こんな時、通りすがりの人はどうすればいいんだろう、そんなことを想いながらたまきは遠巻きにけんかを見ていた。

ふと、その様子をわきで見ている女性がこちらを向いた。女性は離れたところから見ているたまきに気付かなかったようだが、たまきはその顔に見覚えがあった。

海乃だった。ほんの一瞬、たまきにその表情を見せただけだったが、たまきに海乃がどんな顔だったかを思い出させるには十分だった。

再び、鈍い音が響く。倒れている方のうめき声も聞こえる。たまきの口からは、真っ白い吐息があふれ出る。

たまきは、気が付いたらけんかの方へと歩みを詰めていた。近づくたびに、革靴が肉を打つ音が、より大きくたまきの鼓膜にを震わす。

蹴られた拍子に、倒れている方がごろりと反転した。

左目は青くうっ血し、右頬は赤く腫れあがっている。それでも、たまきはそれが誰であるのかがわかった。

「ミチ君……」

たまきのつぶやきよりももっと小さい声で、ミチは

「知らなかったんです……」

と、蚊の羽ばたきのように言った。

「てめぇ、知らねぇで済むと思ってんのかよ!」

「ごめん……なさい……」

「ごめんで済むと思ってんのか、ああ!?」

スーツの男がミチの右腕を強く踏みつけたミチは悲鳴を上げる力すらないのか、声帯が石臼にすりつぶされたかのようなうめき声を出すだけだった。

たまきはその様子をじっと見ていた。

そうはいっても、決して傍観していたのではない。

頭の中では、今すぐ飛び出して暴力をやめさせようとする正義感のあるたまきと、男の暴力がやむまで物陰に隠れようとする臆病なたまきと、戻って亜美やヒロキに助けを求めた方がいいと考える冷静なたまきが、目まぐるしく入れ替わっていた。

結局、何をどう決断したのかはたまき自身にもわからない。たまきがわかっていることは、一歩前に進み出て、声を発したことだった。

「あの……、ぼ、暴力はよくないと……思います」

言葉を発した瞬間、冬の冷え切った空気が、いっそう張り詰めるのをたまきは感じた。

最初に反応を見せたのは海乃だった。言葉を発することはなかったが、「なんでこの子がここにいるの?」と言いたげな驚いた表情を見せた。一方、地面に転がっているミチは、たまきに気付いたのか何か声を発したが、よく聞き取れないかすれたうめき声でしかなかった。

一方、男はたまきをにらみつけた。視線がたまきの心臓を貫いたかのような痛みに襲われる。ここまで人から敵意を向けられるのも、初めての経験だった。

「おい、こいつ誰だ。知り合いか?」

男が海乃の方を見た。

「……たまきちゃんっていう、……彼の知り合いの、ひきこもりの子」

海乃が口を開いた。その声にはいつもの張りはなく、どこか震えているようにも聞こえる。

「ひきこもり? ひきこもりが何で外にいるんだよ?」

どうしてこんな時にまでひきこもりがついて回るのかたまきにはわからなかったが、今はそのことを抗議してもしょうがない気がする。

「あ……あの……」

たまきは自分でも心臓が恐怖で高鳴っているのを感じた。

「ミ、ミチ君が何をしたのかは知りませんけど、やっぱり、その、暴力はよくないんじゃないかって……。ちゃんとその……、落ち着いて話し合って……」

けんかの止め方の教科書があるとしたら、きっとたまきのやり方は模範解答なのだろう。だが、そんな教科書があったらこうも書いてあるはずだ。模範解答通りのことを言っても、うまくいかないことの方が多い、と。

「てめぇ、こいつのオンナかなんかか?」

「あ、いえ、そういうわけじゃないんですけど……」

「じゃあ、黙ってろ」

男はミチをつま先で軽く蹴飛ばした。

「こいつはな、年端も行かないくせに、人の嫁に手を出したんだ。だとしたら、何されても文句は言えねぇよな!」

男は再びミチを強く蹴り飛ばした。

「……知らなかったんです」

と再びミチは小さくつぶやいたが、

「知らねぇで済むわけねぇだろ!」

男がさらにミチを強く蹴る。

「海乃って人の旦那さんですか……」

たまきは海乃を見た。海乃は困ったような表情をしているが、だからと言って自分から何かをするような雰囲気はない。

海乃のダンナによる何発目かの蹴りがミチの脇腹に入った時、たまきは自分でも驚いたのだが、駆け出し、ミチと男の間に入るように立った。

「もう、や、やめてください!」

「あ?」

海乃のダンナが背の低いたまきを憎悪のこもった眼でにらむ。

「確かにその、不倫、なのかな、はいけないことだと思います。でも、もう、十分じゃないですか。これ以上はもう……」

「十分? 何が十分なんだよ。どけよてめぇ!」

海乃のダンナはたまきの肩を払いのけた。そのままたまきは地面に倒れこむ。メガネがアスファルトに強くぶつかり、衝撃が走った。

どさっという鈍い音がしたが、その直後に、再びミチが蹴られる音をたまきは聞いた。今度はミチが絞り出すようにうめいた。

たまきは立ち上がると、メガネのずれを直し、ミチに背を向けて走り出した。

突き当りを右に曲がってしばらく走ると、映画館のある通りに戻れた。町全体はネオンやイルミネーションで彩られ、待ちゆく人の顔も笑顔で輝いている。すぐ近くで暴力沙汰が起きているなんて嘘みたいだ。もしかしたら、それこそ映画の世界の出来事だったのかもしれない。

だが、男に突き飛ばされた方の感触と、地面にぶつけたほほの痛みは確かに本物だった。

たまきは「城」に向けて走り出した。

途中、何度も人にぶつかる。そのたびに「ごめんなさい」と小さくつぶやき、再び走り出す。が、クリスマスの夜、多くの人でにぎわう歓楽街は人の波が邪魔して、なかなか思うように走れない。おまけにまじめに走ったのなんか中学2年の体育以来で、息も切れてきた。

ふと、わきを見るとそこにコンビニがあった。

たまきは思い出した。以前にもこのコンビニの公衆電話を使ったことがある、と。

携帯電話全盛の時代になってもなお、緑の公衆電話は、たまにそこを訪れる誰かのために待ち続けていた。

たまきは受話器を手に取り、亜美からもらった百円玉を入れる。

たまきは、志保の携帯電話の番号を思い出す。確か、前に志保が語呂合わせで教えてくれた。最初が090、そのあとは確か……。

ピポパというボタンを押す音が、粉雪のように小さく鼓膜を打つ。

 

たまきが「城」を出て行ってもう十分くらいたつだろうか。

そろそろ帰ってくる頃なんじゃないかと思ったとき、志保の携帯電話が鳴った。

携帯電話を開いて確認してみると、メールが一通届いていた。

差出人は田代。

志保の心臓は驚き、高鳴っていた。少し震える指でメールを開く。

メールの内容は、ゲレンデに雪が降り積もっているというなんてことないメッセージと、辺り一面真っ白な、ゲレンデなのか豆腐なのかよくわからない写真だった。

なんてことのないメッセージなのだけれど、志保は口元を緩ませた。

“スキー楽しんできてくださいね”となんてことのないメッセージを返す。

送信して携帯電話を閉じ、テーブルの上に置こうとした瞬間、着信音が鳴った。

いくらなんでも返事が早すぎると思い携帯電話を開くと、今度はメールではなく電話だった。

「公衆電話」と書かれた着信先を見る。公衆電話からだなんていったい誰だろう。志保は警戒しつつも、通話ボタンを押した。

「もしもし……」

電話の向こうからは激しい息遣いが聞こえる。ほかにも、がやがやと町の喧騒が漏れてくる。

「あの……、どちら様で……」

「……ミチ君が……!」

「え?」

「ミチ君が死んじゃうよー!」

 

写真はイメージです

たまきは受話器を置くと、来た道を引き返した。

白い息が口から御香の煙のように出ては、消える。

十二月の冷たい空気はたまきの肌を引きはがすかのようだったが、たまきは意に介せず走り続けた。

映画館のわきの細い路地に再び入っていく。遠ざかるたびに街の喧騒が小さくなっていく。

再びさっきの裏通りに戻ってきたたまきは、左に曲がった。

そこには、先ほどまでとさして変わらぬ光景があった。地面に転がっているミチと、ミチを蹴り続ける海乃のダンナ。それをただ見ているだけの海乃。違うところがあるとすれば、ミチはもう、うめき声も上げないという点だろうか。

再びたまきはどうしたらいいのかわからなくなって、ただ見ているしかなかった。暴力を止めなきゃという正義感の強いたまきが、何度もたまきの背中を押そうとするが、冷静なたまきがそれを押しとどめる。自分が行ってどうなる、さっきだって何もできなかったじゃないか。

ミチがあまりにも痛々しそうなのと、自分があまりにも無力なのとで、たまきは泣きたくなっていた。

そうこうしているうちに、海乃のダンナはミチを蹴るのをやめ、裏通りのさらに奥へと向かった。

もう終わったのかと思ったたまきはミチのところに向かおうとしたが、海乃のダンナはすぐに戻ってきた。

手にはビール瓶が握られていた。それを海乃のダンナがどう使うつもりなのかは、すぐにわかった。

「ダメ……それは……ダメ」

走って体力をすっかり使い果たしたたまきだったが、余力で何とか駆け出すと、ミチと海乃のダンナの間に割って入った。

海乃のダンナはたまきを一瞥すると、

「なんだよ、まだいたのかよ。どけよ」

とだけ言った。一方、たまきは

「それはダメです……それは……」

と半ばうわごとのように言った。

「ミチ君が悪いことをしたっていうのはわかります。でも、もうこれ以上は……」

いつもより少し早口になっていることに、たまき自身が気が付いていない。

一方、海乃のダンナは、部屋に散らかったゴミでも見るかのようにたまきをにらみつけた。

「うるせーな、てめーにかんけーねーだろ。どけよ。殺すぞ!」

「どうぞ」

間髪入れずにたまきはそういうと、海乃のダンナの方を見た。

海乃のダンナはビール瓶を持った右手を振り上げたが、たまきと目があい、一瞬、腕が硬直したかのように固まった。が、

「どけよ!」

と怒鳴ると、左手でたまきを払いのけた。たまきはよろけて、冷たいアスファルトの上に座り込む。

それでもたまきはすぐに起き上がり、再び、ミチと海乃のダンナの間に割って入った。

たまきは海乃の方に目をやった。海乃は相変わらず困ったような顔をしていたが、たまきと目が合うと、目線をそらした。

「どけっつってんだろ!」

と、海乃のダンナが再びたまきの肩に手を置いたとき、

「たまきに何してんだてめぇ!」

という、たまきには聞きなじみのある声がその鼓膜に飛び込んできた。と同時に、何かがこちらに駆け寄る足音。

声のした方にたまきが目を向けると同時に、足音が消えた。足音が消えたのは、足音の主が地面をけって宙に飛び上がったからだ。

たまきの視界に飛び込んできたのは、スニーカーのつま先だった。それがたまきの視界の右端を掠めた。スニーカーからは、細い足がすらり伸びている。

スニーカーは海乃のダンナの脇腹をほぼ正確にとらえた。海乃のダンナがうめき声をあげて黒い道路に倒れこむ。ほとんど一瞬の出来事だったが、たまきにはなんだかスローモーションに感じられた。

「たまき、大丈夫か!? お前、血ィ出てるじゃねぇか!」

スニーカーの主、亜美はたまきの肩に手を置いた。亜美に言われて、たまきはさっきから軽い痛みの走る右の頬に手を置いた。手のひらを見てみると、うっすらと血がついている。そういえば、最初に突き飛ばされた時に、地面に顔をぶつけた。その時、擦ったか何かで切ったかしたらしい。

「おい、てめぇ誰だ! なにす……」

海乃のダンナが起き上がりながらそう怒鳴りかけたが、亜美の後ろを見て、口をつぐんだ。

亜美の後ろには、なんともガラの悪い男たちが数人立っていた。「ナントカ組の人たち」と言えばそのまま信じてしまいそうである。

一番最後に路地裏に入ってきたのは志保だった。志保は息を切らせながら、誰かと電話している。

ヒロキがしゃがみこんでミチの様子を見ていたが、しゃがんだまま口を開いた。

「こいつミチって言って、俺の中学の後輩なんすけど、なんか粗相しましたかね?」

口元には営業マンのような笑みを浮かべているが、目は笑っていない。

「……そいつが人の嫁に手を出したから、仕置きしたまでだよ。も、文句あるかよ。悪いのはそいつだろ?」

たまきは海乃のダンナを改めて見た。さっきまで、凶暴な人間のように思えたが、こうしてヒロキたちと見比べてみると、普通のサラリーマンのようにも見える。

「本当なのか?」

ヒロキがミチに尋ねた。

「……知らなかったんです」

ミチが油の切れかかったロボットのように答える。

「……そうか。たとえ知らなかったんだとしても、人の嫁に手を出したんだ。お前が悪いよな」

「……はい」

ミチの言葉を確認すると、ヒロキは立ち上がった。

「とりあえず、ウチの後輩が失礼しました。こいつにはあとで俺からもよく言っておくんで、もうお宅の嫁さんとは会わないってことで、今日のところは勘弁してもらえないっすか?」

相変わらず、ヒロキの目は笑ってなかった。そして、口元も急に引き締まる。目線は海乃のダンナから、彼が手に持つビール瓶の方に向けられる。

「それともあれっすか? これだけボコボコにしといて、まだ足りないっすか? それだと、俺らも態度変えなくちゃいけないんすけど?」

海乃のダンナは半歩後ろに下がると、手にしていたビール瓶をそっと地面に置いた。

「い、いや、そのガキがもう嫁と会わねぇっつーなら、それでいいんだよ。おい、帰るぞっ!」

海乃のダンナは何か焦ったように海乃に言うと、その場から立ち去ろうと路地の奥へと向かった。海乃はヒロキたちを一瞥した後、ミチの方を見ることなく、旦那の後についていこうとした。

だが、海乃がちょうどたまきたちに背を向けた時、

「納得いかねーんだけど」

という亜美の声が路地裏に響き、海乃とその旦那は足を止めた。

「ミチがボコボコにされてる理由はわかったよ。やりすぎなんじゃねぇかって気もすっけど、まあ、今は置いといてやるよ。でもよ……」

そういうと亜美は海乃を指さした。

「不倫はイケナイっていうんだったら、その女も同罪だろ? それに、ミチはこいつが結婚してるだなんて知らなかったっていうなら、一番悪いのはこの女じゃねぇかよ。だったら、こいつをミチと同じくらいかそれ以上にボコすっていうのが、スジなんじゃねぇの? それともなにか? まさか、『自分が結婚してたなんて知らなかったんです~』とかいうつもりか? あ?」

そういうと、亜美は今度は海乃のダンナの方を見た。

「てめぇもおかしいだろ。なんでミチはボコしてんのに、てめぇの嫁には手ぇだしてねぇんだよ」

「うるせぇな、てめぇには関係ねぇだろ!」

「関係ねぇだと?」

ちょうど志保は電話を終えて亜美を見た。亜美の周囲の空気が変わったことが一目でわかった。

「ふざけんじゃねぇぞ、おい! こっちはミチだけじゃなく、たまきまでケガさせられてんだぞ! 関係ねぇっつったら、たまきが一番関係ねぇじゃねえかよ!」

海乃とその旦那につかみかかろうとする亜美を、志保がすんでのところで後ろから抑えた。

「ダメだよ亜美ちゃん! 手を出しちゃ!」

「じゃあお前、納得してんのかよ! なんでこのオンナだけ無傷なんだよ! おかしいだろ!」

「納得してないけど……、でも、いろいろ事情があるんじゃない? 奥さんケガしてたら近所や親戚にDV疑われるとか……、よくわかんないけど……」

「はぁ? くだらねぇ。それだけのことしたんだろ、このオンナは」

「とにかく、こっちから手を出すのはダメだよ。さっき、むこうの通りからこっち見て何か話してる人がいたの。もし、この騒動に気付いて警察に通報されてたら、警察来たとき亜美ちゃんが暴力ふるってたら、もう言い訳できなくなっちゃうよ。あたしたちのうちだれか一人でも問題起こせば、三人ともあそこにはいられなくなっちゃうよ!」

「じゃあお前はたまきがケガさせられたの、赦せんのかよ?」

「それは、……赦せないけど……」

志保の力が少し緩んだ。亜美は志保を振りほどくと、海乃に近づいた。

「おい、なにすんだてめぇ。余計なことすんじゃねぇよ!」

海乃のダンナが怒鳴った。

「何、このオンナ、かばうの? 裏切られてんのに? もしかして、まだこの女に惚れてんの? だから殴れないってわけ? 中学生かよ」

そういうと亜美は指の間接をぱきぱきと鳴らす。

「オンナだから顔は勘弁しといてやるよ。近所が気になるっつーなら、ちゃんと服で隠せるところにしといてやっからよ。ガキの頃に空手で鍛えた中段蹴りを見せてやるよ」

ああ、それで飛び蹴りとか得意なんだ、とたまきは妙に納得した。

一方、志保は焦ったように、亜美の肩に手を置いた。

「ダメだって亜美ちゃん!」

「じゃあ、このままこのオンナ無傷で帰せっていうのか? そんなの、筋が通らねぇじゃねぇかよ!」

亜美が志保の方を見る。その一瞬のスキをついて海乃のダンナは

「おい」

と海乃に声をかけた。二人が、再び亜美に背を向けて路地の奥に消えようとする。

「おい、逃げんのかよてめぇら!」

亜美が叫んだ時、

「いいんじゃないですか?」

という声が、背後から聞こえた。

抑揚のないその声に亜美と志保だけでなく、ヒロキたち、そして立ち去ろうとしていた海乃とその旦那も声の主を見た。

声の主であるたまきは、大勢の人間から注目されるという、苦手な状況にもかかわらず、淡々と話した。

「いいんじゃないですか? このまま帰ってもらっても。もし志保さんの言う通り警察でも来られたら、いろいろ面倒ですし」

「何ってんだよ。お前、こいつらにけがさせられたんだぞ! なのに、無傷で帰るって、そんなスジの通らねぇ話……」

「こんなの、けがのうちに入りません」

たまきは右の手首を左手で軽く握った。

「それに、その人たちが無傷だとも思えませんし」

「何言ってんだよ。どう見てもこいつら、無傷じゃねぇかよ」

「あ、もしかして、すぐに傷にはならないけど、あとでじわじわ効いてくる技を使ったとか……」

と志保が言ったあと周りを見渡して、

「そんなわけないよね……。ごめん、今のは忘れて……」

と恥ずかしそうに下を向いた。

「確かに、その人たちはけがはしてません。でも、その海乃っていう人は、旦那さんを裏切ったんです。その傷って一生残るんじゃないですか?」

たまきは、海乃たちとは、そして誰とも目線を合わせることなく言った。

「このまま帰ったって、もう今まで通りってわけにはいかないと思います。旦那さんは海乃っていう人を疑いながら生きていくことになると思うし、海乃っていう人は疑われながら生きていく。そうなると海乃っていう人はさみしくなって、きっとまた同じことすると思います、どうせ」

たまきの吐息が白く浮かび上がる。

「でも、二回目はこうはいかないと思います。ずっと深く、もっと痛く、決して治らない傷がつくと思います。一生その痛みに苦しみ続ける。もう遅いけど、その時になって初めて……」

その時になって初めて、たまきは海乃の目を見た。

「地獄を見ればいいんじゃないですか?」

冬の空気が凍り付いたかのような静寂が一帯を襲った。

亜美は右手をそっと、ジャンパーのポケットにしまった。志保は目を見開いたまま動かなかった。

亜美が連れてきた男たちは、たまきから少し距離を取った。

海乃のダンナはバツの悪そうにたまきから目をそらした。

海乃はそれまで困ったような表情だったが、たまきの言葉を聞くと急に眼を釣り上げて、小柄なたまきをにらみつけた。

「なに? あんたなんかに何がわか……」

そう言いかけた海乃だったが、ふいにおびえたような目になった。

「やめてよ……そんな目で見ないでよ……」

そう言うと海乃は踵を返して、路地の奥へと足早に歩いて行った。

「おい、待てよ!」

海乃のダンナがそのあとを追いかけていく。

十二月の冷たい風が、夜空の闇と、町明かりの間の隙間を縫うように吹き渡った。

 

ミチはヒロキに背負われて、舞のマンションに担ぎ込まれた。志保が電話をしていた相手は舞だったらしい。地理的に、病院に行くよりもその方が近かった。

舞は手慣れた調子でミチの手当てをする。舞によると、このようなけんかによるけが人の治療をするのは半月に一回くらいあるらしい。ただ、ミチがこんなけがをしてきたのは初めてだという。

舞は、けがの治療に必要な情報をミチや、ヒロキや亜美たちから聞いていたが、どういう経緯でミチがこうなったかについては尋ねなかった。

ミチの治療が一通り済むと、絶対安静という事で、ミチは舞の家に一晩泊ることになった。ミチの治療が終わると、ヒロキたちは「クリスマスの続きをしに行く」と言って出ていった。寝室にミチは寝かされ、リビングルームには女子だけが残った。

「しかし、先生がクリスマスだってのに家で仕事してて助かったよ」

「お前、イヤミか」

舞が亜美をにらみつける。

「でも、電話してきたときのたまきちゃん、いじらしかったなぁ」

志保がソファにもたれながらそう言った。

「いじらしい?」

亜美が首をかしげる。

「電話の向こうからすごい焦った感じで『ミチ君が死んじゃうよー!』って」

「私、そんな子供っぽい言い方してません」

たまきが口を尖らせた。

「いやいや、してたって。いやぁ、あの時のたまきちゃん、いじらしかったなぁ」

たまきは「いじらしい」という言葉の意味がよくわからなかった。よくわからなかったが、きっと今、自分はいじらているのだろう。

「じゃ、ウチらもそろそろ帰ろうぜ」

そういって亜美が立ち上がったが、

「待て待てお前ら」

と舞がそれを制した。

「お前ら、勝手にけが人運び込んできて、あたしに全部押し付けて帰る気か。誰か一人残って、手伝え」

「じゃあ、たまき置いてくよ」

と亜美が言ったので、たまきは驚いて亜美を見た。

「な、なんで私なんですか?」

「だって、ウチらの中じゃお前が一番ミチと仲いいだろ」

「べ、別に仲良くなんかないです」

たまきは顔を赤くして否定した。

「亜美さんの方こそ、私よりも長い知り合いじゃないですか」

「いや、確かにそうだけど、なんかいつもヒロキの後ろついてきてただけで、これと言って深い知り合いでもなかったしな。ちゃんと話すようになったのは、たまきが来てからだぜ」

そう言うと、亜美はたまきの肩に手を置いた。

「というわけで、よろしく」

「……わかりました」

たまきはどこか納得いかないようだ。

「なんだよ、あいつの看病、いやか?」

「いやじゃないですけど……、その……、私が一番ミチ君と仲がいいっていうのが、納得いかないというか……」

「ふふ。そう思ってるの、たまきちゃんだけだよ、きっと」

志保が手を後ろに組んで笑った。

「あの人のこと、嫌いだし……」

「はいはい、わかったわかった。じゃあ、志保、帰るぞ」

そういうと亜美と志保は玄関へと向かった。

「あ~、まだイライラするなぁ。おい、志保、帰りにバッティングセンター寄って乞うぜ」

「バッティングセンターってあそこ? こんな夜中にやってないでしょ」

時計はもうすでに十時を回っていた。

「知らねぇのか。あそこ、朝までやってんだぜ?」

「うそ?」

そういいながら、二人は舞の部屋から出ていった。

「まったく、あたしにも仕事かあるってのに。今度から大けがするときは事前に予約してくれ」

舞がパソコンに向かいながらぼやいた。

舞の部屋に残った、というか、残されたたまきは舞を不安げに見た。

「あの……看病って……私は何をすれば……」

「ん? まあ、そんな難しいことは頼まないさ。そうだな。あたしここで仕事してるから、とりあえずミチのところに行って、夜食くうかどうか聞いてきて。あとは、基本的にはミチのところにいて、あいつの様子になんか変化あったら、例えば、頭痛いとか気分悪いとかいったら教えてくれ。ま、ないと思うけど念のためだな。あたしが見ててもいいんだけど、ちょっと集中して仕事したいんで。頼めるか?」

たまきはこくりとうなずいた。

「あとはトイレか。あいつ、右手今使えないから、たぶん一人でトイレとか無理だな。教えてくれればあたしが世話するから。あ、それともお前やる? 何事もけいけ……」

「舞先生にお願いします」

たまきは即座に頭を下げた。

 

寝室のドアをそろりと開ける。

部屋の中は暗かった。

だが、窓から月明かりなのか歓楽街の明かりが漏れてくるのか、うっすらと光が差し込んでいて、窓際のベッドに寝かされているミチの顔がほのかに青白く照らされていた。

顔の腫れたりうっ血になったりしたところにはガーゼが貼られている。少しはましになったが、痛々しいことに変わりはない。

右手は包帯でぐるぐる巻きにされていた。舞によると、ひねって捻挫をしたあとで踏まれたらしい。ミチは殴られて倒れた時に、手のつき方を誤ってひねってしまったと言っていた。

ミチはたまきが入ってきたのに気づくと、右手を見せて

「……お揃い」

と言って力なく笑った。お揃いと言っても、たまきは手首だけに巻いているのに対し、ミチは右腕の肘から先全体がぐるぐる巻きだ。

たまきはドアの向こうから顔を出したまま尋ねた。

「舞先生が、夜食たべますかって……」

「……食う」

たまきは振り返ると、舞にそのことを伝えた。そうして、たまきは部屋の中に入ってきた。化粧台のいすに腰掛ける。

「……具合はどうですか? 気分が悪いとか……、頭が痛いとか……」

「腕が痛い」

「知ってます」

たまきの言葉にミチは笑ったが、すぐに顔をしかめて、右腕を見た。

「いってぇ……。あのおっさん、やりすぎだろ。確かに、俺もまあ、悪いことしたなと思うけどさ、知らなかったっつってんだからさ、ここまでやることないじゃん、ねぇ」

たまきと話して少し元気が出たのか、ミチは再び笑みを浮かべてたまきを見た。

だが、化粧台のイスに腰かけたたまきは、ミチをまっすぐに見ていた。

それは、いつだったかたまきがミチをにらみつけた時の目に近かったが、にらみつけるというよりは、何かを訴えかける、そんな強い目だった。

「なに……どしたの?」

「……みたいなこと言ってるんですか……」

「え?」

「いつまで被害者みたいなこと言ってるんですか?」

静かだが、それでいてどこか怒りのこもったたまきのこれまでにない口調に、ミチはたじろいだ。

「え、いや、なに言って……、俺、被害者……」

「知ってましたよね?」

たまきの肩と口は、少し震えていた。

「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」

つづく


次回 第20話 冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン

それでは、ここで問題です。たまきはいったいいつ、「海乃は結婚している」と気付いたのでしょうか。

①第11話、初めてたまきが海乃に会ったとき

②第13話 「大収穫祭」の会場で海乃を見かけた時

③第14話 ラブホの入り口で海乃に会ったとき

④第18話 ラーメン屋で海乃を見た時

ヒントはすでに書いてあります。答えこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第18話「労働と疲労のみぞれ雨」

喫茶店「シャンゼリゼ」でバイトを始めた志保。自分一人、お金を稼いでいないたまきは焦りを感じ、仕事についていろんな人に聞いて回る。

クソ青春冒険小説改め、ニート完全肯定小説「あしなれ」第18話スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第17話「ガトーショコラのち遺影」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「じゃーん!」

志保はそういいながら衣裳部屋から出てくると、ソファとテーブルの間の狭いスペースをモデルのようにすました顔で歩く。足先に力を入れながらたまきと亜美の前まで来ると、くるっと回ってみせた。

志保が「シャンゼリゼ」でバイトを始めて4日目。制服を洗濯するために持ち帰ったついでに、「城(キャッスル)」での一人ファッションショーが行われた。

「シャンゼリゼ」のホールスタッフの女性用制服は白いブラウスに黒いズボンという清潔感があふれるいでたちだ。エプロンのような前掛けをスカートのように腰から垂らしている。

「なんかさ、思ったより、フツーだな」

亜美が少しがっかりしたように口をとがらせる。

「もっとメイドっぽいのを想像してたよ」

「いや、シャンゼリゼ、そういう喫茶店じゃないから」

志保が制服のままソファに腰かけた。

「でも、似合うと思います」

たまきがそういうと、亜美と志保の視線がたまきに集中した。

「似合う? メイド服が? あたしに?」

「お、たまき、お前メイド趣味か? 志保、ちょっと『おかえりなさいませ。ご主人様』って言ってみろよ」

そういって二人はけらけらと笑う。

「あ、いや、そういう意味で言ったんじゃなくて、その、今の制服が志保さんに似合ってるっていう意味で……」

たまきは弁明しながら、顔を赤らめて下を向いた。

「ふふ、ありがと」

志保はそう言って優しく微笑むと、

「でも、メイド服はあたしより、たまきちゃんの方が似合うと思うなぁ」

と、たまきにとっては余計な一言を付け足した。

「え? それってどういう……」

たまきが顔を赤くしたまま志保を見る。

「たまきちゃんてさ、いつもどちらかというとふんわりとした、もこもことした服着ること多いじゃん。メイド服もそんな感じだし、小柄で童顔でかわいい系だから、あたしよりもメイド服に合うと思うよ」

「お、確かにそうかもな。ほら、『モエモエキュン』って言ってみろよ」

たまきは今度は、顔を赤めるとそっぽを向いた。そんな何の意味もなさそうな言葉、絶対にいうもんか。

 

十一月の冷たい風がガタガタと窓ガラスを揺らす。それが目覚ましの代わりであるかのように、たまきはのそのそと起き上がった。

とある日のひるすぎ。志保はバイトに行ったらしく、いない。亜美はどこかに行ったらしく、いない。そういえば夕べもいなかったから、「仕事」に出かけたまんま帰ってきてないのかもしれない。

たまきはやることもなく、「城」の中をぼうっと眺める。

そう、たまきはやることがない。

今までは、亜美の「稼ぎ」を三人でやりくりしていた。だが、志保がバイトを始めると、いよいよもって働いていないのはたまきだけになってしまった。まあ、亜美を「労働者」に含めていいのか疑問が残るが、お金を稼いでいるのは間違いない。

志保がバイトの面接に受かった、という話を聞いた日から、たまきはどことなくいたたまれなさを感じていた。シブヤで感じた場違いな思いとはまた違った、自分はここにいてはいけないかのような何とも言えないいたたまれなさ。

自分も何か働かなければ。そんな焦燥感がたまきの心にまとわりつくように離れなかった。

でも、とたまきは遠くを見る。遠くを見るようで、実は自分の眼鏡のレンズを見ているのかもしれない。

たまきにできる仕事なんて、果たしてあるのだろうか。

まだ眠気の残る頭を回転させてみても、「絵を描く」以外にできそうなことが見つからない。

でも、絵を仕事にできる人なんて、きっと一握りだろう。ゴッホも生前は絵が1枚しか売れなかったという。

そもそも、たまきはどうしたらバイトを見つけられるのかを知らない。「ハローワーク」という言葉を何となく聞いたことがあるが、何か関係があるのだろうか。

そんなことをぼんやりと考えていると、ぐぅうとたまきのおなかが鳴った。

たまきは死にたい。

なのにおなかが減る。

だから、ご飯を食べに行く。

たまきに弁証法はまだちょっと早いみたいだ。

 

写真はイメージです

太田ビルの階段をこつこつと下る。2階のラーメン屋のドアを開ける。券売機にお金を入れていると、

「いらっしゃいませー!」

という店員の大声が聞こえ、たまきは帰ろうかと思ったが、もうお金を入れてしまったので、仕方なく「ミニチャーハン」のボタンを押した。

午後二時過ぎのラーメン屋は都心の歓楽街とはいえ人はまばらだ。

食券を持ってカウンターのいすに腰掛ける。カウンターの向こうから見慣れた顔がたまきを覗き込んだ。

「いらっしゃい、たまきちゃん」

ミチがにこっと微笑むと、たまきの前に水の入ったコップを置いた。。

「……こんにちわ」

たまきが目線を合わせることなく答える。

「ひとり? 珍しいね」

「まあ……」

ミチはたまきの食券を手に取ると厨房へと向かっていった。直後に会社員風の男性が入ってくると、ミチは再び、

「いらっしゃいませー!」

と声を張り上げ、笑顔で接客に向かう。

たまきはミチの姿を、羨望とあきらめのまなざしで追いかけた。

あんなの、私には無理だ。

人から見られる場所にずっといて、楽しくないのに笑顔を見せ、知らない人と話す。

それができないからたまきは学校に行けなくなったのに、ミチにとってはきっと何でもないことなんだろう。

世の中にはたまきにとっては苦痛でしかないような仕事を、「楽しい」と言ってのける人がいる。志保も「あたし、接客業好きかも」なんて楽しそうに話していた。

たまきは「接客業」と書かれた紙を、頭の中でごみ箱に捨てた。

ミニチャーハンが運ばれてきた。軽い絶望感をチャーハンの味でごまかすように、たまきはレンゲを口へと運ぶ。

控室らしき扉から女性が一人出てきた。その顔にたまきは見覚えがあった。ミチのカノジョの海乃という人だ。ラーメン屋の制服に身を包み、ウェイブのかかった髪を後ろで結んでいる。海乃はたまきと目が合うとたまきを指さし、

「あ、ひきこもりのたまきちゃん!」

と声を上げた。

どうしてわざわざ「ひきこもり」をつけるのだろう。だったら、「会社員の田中さん」に会ったら、「あ、会社員の田中さん!」というのだろうか。きっと、いや、絶対に言わないだろう。

「みっくん、休憩入っていいよ」

海乃はミチに声をかけると、両手を開いて胸の前で構えた。ミチも同じようにして海乃に近づくと、

「イエーイ!」

と両手をタッチした。その様子をたまきはぼんやりと眺める。

あの二人はいつもあんなことをしているのだろうか。

 

写真はイメージです

「4番テーブルのお客様、コーヒー二つとモンブラン、あとチーズケーキです」

志保はそういうと伝票をキッチンに置こうとした。洗い立ての制服が「シャンゼリゼ」の照明の光の粒子をやさしく反射している。

「志保ちゃん」

そう言って近づいてきたのは田代だった。

「注文、本当に『チーズケーキ』だった? 『レアチーズケーキ』じゃなくて?」

「え……あ……確認してきます……!」

田代に言われて自信がなくなった志保は、もう一度注文を聞きなおしに客のいるテーブルへと戻っていった。

「すいません……! 『チーズケーキ』じゃなくて、『レアチーズケーキ』でした。本当にごめんなさい!」

キッチンへ駆け寄ると志保は深く頭を下げた。

頭を上げようとすると、何かが志保の髪に触れた。それは、志保の頭をやさしくポンポンと叩く。

「気にしなくていいよ。俺もさ、新人の頃よく間違えたからさ」

志保の髪にやさしく触れていたのは、田代の右手だった。志保は田代の腕を見上げる。

色は白く、細く、欠陥が浮き出ている。しかし、細いながらも、筋肉の質感を確かに感じさせる。

優しくも、見た目には表れないたくましさがある、そんな腕だった。

「ん? どうしたの、志保ちゃん?」

いつの間にか田代は腕を引っ込め、ぼうっとしている志保を不思議そうに眺めている。

「あ、いえ、その……、大したことじゃないんです。あ、あたし、ホール戻りますね」

そういうと志保はキッチンとホールの境にあるのれんをくぐってホールへと戻った。戻ったところで、一回、深く深呼吸をする。

チーズケーキとレアチーズケーキ、メニューに紛らわしいのがあるから気を付けること。これは、研修の最初の段階で言われていたことだ。こんなの、かつての志保だったら一回で覚えられたはずだ。志保は暗記、記憶力には絶対の自信を持っていた。

ところが、実際ホールに立ってみると、研修の時に聞いた忠告を忘れて二つのメニューを混同し、指摘されるまでそれに気づかなかった。

まだバイトに入りたてだから、という言い訳も考えたが、実は志保はここ1年ほどで記憶力が徐々に落ちていることを痛感していた。

記憶力だけではない。体力も確実に落ちている。「城」へと続く階段を上がるたびに息が切れている。

これも薬物の影響なんだろうか……、と思考がそっちに切り替わりそうになるのを、志保はすんでのところで食い止める。

今は、バイトに集中! そう自分に言い聞かせた志保だったが、直後、髪の毛に田代の腕が触れた感触が蘇る。

鼓動が高鳴るのを確かに感じた志保は、田代の方をちらりと見る。

田代は若い女性客を接客していた。その姿に、志保は言いようのない嫉妬を覚える。

今はバイトに集中! 集中! そう志保は自分に言い聞かせた。

 

写真はイメージです

次の日、たまきは一人でいつもの公園を訪れていた。

シブヤで買った黒いニット帽をかぶり、同じくシブヤで買った黒いセーターを着こみ、誕生日にもらったリュックサックを背負っている。

いつの間にか公園の木々はすっかり葉を落とし、細い枝のみを空に向かって伸ばしている。

たまきは「庵」の前にやってきた。樹木が葉を落としたことで、前よりも「庵」は外から見やすくなっている。

庵の前に置かれた椅子に仙人が腰かけ、カップ酒を飲んでいる。

たまきはぺこりと頭を下げて仙人にあいさつすると、「庵」の方へと近づいていった。

「やあ、お嬢ちゃん」

仙人がたまきを見て目じりを下げる。

「……こんにちは」

たまきはそういうと、仙人の隣に腰かけた。

リュックサックからスケッチブックを取り出すと、無言で仙人にそれを見せる。

「どれどれ……」

仙人はスケッチブックを眺める。その様子を、たまきは恐る恐る横から見る。仙人は無言のままスケッチブックの絵を眺めているが、表情からしてけっしてつまらないわけではなさそうだ。

仙人は厚手のジャケットを着ている。これからどんどん寒くなるのに、こんなところで生活していて大丈夫なんだろうか。

「よかったよ」

そういって仙人はスケッチブックを返した。

「実にお嬢ちゃんらしい、いい絵だった。技術も初めて会ったころよりは上がっておる」

「でも……、売り物にはならないですよね……」

たまきはスケッチブックをリュックサックにしまいながら、伏し目がちにそう尋ねた。

「まったく売れんわけではないとは思うが……、金もうけをしようと思うんだったら、話は別だな。お嬢ちゃんの絵は、いわゆる商業的な絵とは少し違う」

つまりは、よほどの物好きではないと買おうとは思わないということだろう。

「そうだな……、お嬢ちゃんの絵だけを売るとなると少し難しいかもしれんが……、例えば、本の挿絵とか、お嬢ちゃんの画風を生かせるものと一緒に売るなどという方法はあるかもな」

仙人はそういうと、カップ酒をぐびりとあおる。

「その……、ゴッホみたいに……、ものすごい値段で売れるなんてことは……」

「絵に何万も何億もの金を出すやつなんて、絵の価値がわからん奴だ。価値がわからんから金額に置き換えるんだ。考えてもみなさい。絵なんて、キャンバスに絵の具を塗って、額縁で囲っただけ。原価二万円くらい。だとすれば、どんなに高くても絵の値段なんて10万くらいが本来の値段だ。それが『芸術性』とやらでウン千万にもウン億にも跳ね上がるわけだが、芸術性を金額であらわそうとする時点で、そもそも芸術がわかっとらんということではないのかね」

そういうと、仙人は再びカップ酒を口に含む。

「同じ芸術でも本やレコードは、中にどんなことが書かれていようが、どんな曲が入っていようが、それで値段が変わることはまずない。まあ、中古なら多少の変動はあるかもしれんが、芥川の小説は文庫でも何十万とか、ビートルズのレコードは何千万とか、そんな馬鹿な話はない。誰の作品だろうと、本はみな同じ値段だし、レコードはみな同じ値段だ。要は、『芸術性』に値段なんて最初からついちゃおらんのさ。それを買い手が勝手にやれ希少価値だなんだと、芸術とは関係のないところで値段を釣り上げた結果、フィンセントの絵は何億という値段になってしまった。ばかばかしい」

「あ、あの……」

芸術論を語る仙人に水を差すのはなんだか申し訳ない気がしてきたが、たまきは勇気を振り絞って質問をぶつけた。

「仙人さんは……、普段どうやってお金を稼いでいるのですか……?」

たまきの問いかけに仙人はにやりと笑う。

「はっはっは。『稼いでいる』、か。稼いどったら、こんなとこにはいないなぁ。まあ、それでもいいなら話してやろう。」

仙人は空になったカップ酒の便を傍らに置いた。

「わしは主に空き缶を拾って生活しとる」

「空き缶……ですか?」

「そうだ。道に落ちとるのもそうだし、ごみ箱に捨てられてるものもある。それを拾っておる」

「拾ってどうするんですか?」

「売るのさ。空き缶をつぶしてリサイクルしとる業者にな」

「その……空き缶拾いって……、一人でするんですか?」

「ん? ……ああ、そうだな」

たまきの質問の意図がわかりかねたのか、仙人は少し怪訝そうな顔を見せた。

たまきは、少し体を、仙人の方に傾けた。

「わ、私にもできますか?」

今度は仙人は驚いたようにたまきを見た。

「お嬢ちゃん、空き缶拾いがしたいのか? お嬢ちゃんはまだ若い。そんなホームレスの真似事なんぞしなくても、もっといい仕事はたくさんある。空き缶拾いの話なんか聞いたって、お嬢ちゃんの役に立つとは思えんがなぁ」

「それでも……いいので……」

たまきの言葉に何か切実なものを感じ取ったのか、急にまじめな顔つきになって、あごのひげを触りながら、

「そうだな……」

とつぶやいた。

「まあ、基本は体力勝負だ。丸一日自転車を走らせ、町中のごみ箱をめぐり、ごみ袋がパンパンになるまで拾う。一袋、2キロぐらいかな」

「にきろ……」

「その袋を二つ、三つと一気に運ぶ」

そんな重いもの、持ったことあるかな、とたまきは不安になってきた。

「パンパンになった袋が二個か三個ぐらいになるまで集めるのが普通だな」

「それで、いくらくらいになるんですか……」

「そうだな……、缶の種類によっても違うんだが……、大体1キロ100円以内だな」

重いごみ袋を持って一日中駆けずり回って、千円にもならない。

いや、そもそも、稼げる稼げない以前に、たまきにこういった仕事はできない可能性の方が高そうだ。ジュースの缶を一人じゃ開けられないのに、その缶を何キロも担いで街を回るなんて。

たまきは「力仕事」と書かれた紙も、頭の中のごみ箱に入れた。

 

写真はイメージです

それから何日かして、たまきはまたリストカットをした。前に切った時から十日経っていた。

たまきは亜美に連れられて、舞の家を訪れた。

たまきの手首に包帯を巻きながら、舞は亜美に向かって話しかける。

「どうしてたまきを連れてきた」

「だって先生が、たまきが切ったら必ず見せろって……」

亜美が舞の冷蔵庫から勝手に拝借したチョコを食べながら答える。

「だからって血がどろどろ流れてるのに連れてくる馬鹿がいるかよ。電話すればこっちから行った。傷口から雑菌が入って炎症を起こすことだってあるんだぞ! タオルがガーゼ当てて、傷を高く掲げて、あたしが来るまでおとなしく待ってろ!」

「先生、なんか医者みたい」

「医者だバカ! 今まであたしのことを何だと思ってたんだ!」

舞が亜美をキッとにらみながら言った。

「でも、医師免許はもう捨てちゃったんでしょ?」

「いやいや、病院勤務を辞めただけで、医師免許はちゃんとまだ持ってるぞ」

舞は深いため息をつくと、たまきの腕の包帯をぎゅっと縛った。

「よし、終わりだ」

たまきは舞にぺこりと頭を下げる。

「大体、今回の傷は結構深いぞ。その状態でお前らここまで歩いてきたのか? よく通報されなかったな」

舞が余った包帯を救急箱にしまいながら言った。それに対して、亜美があっけらかんとして答える。

「あ、歩いてきたんじゃなくて、ビデオ屋の店長がビルのわきに自転車止めてたから、それ借りて後ろにたまき乗せて……」

「アウトだバカヤロー!」

救急箱を片付け始めた舞が声を上げた。

「アウト? なんで? あ、さっき言ってた、バイキンがウンタラとかそういうの?」

「二人乗りが普通にアウトだって言ってんだよ!」

「え? なんで?」

「そういう法律だバカ!」

舞が救急箱を乱暴に戸棚に押し込めながら、がなる。

「でも、たまき、血ぃ出してんだよ? ほら、救急車ってそういう時、何でもありじゃん?」

「救急車は何でもありじゃねぇし、そもそもお前は救急車じゃねぇ!」

「じゃあ、走ってくればよかったの?」

「連れてくんなって最初から言ってるだろ!」

舞はソファの上にどさりと体を投げ出すと、深々とため息をついた。

「もうやだ……、疲れた……」

「たまき、先生疲れたってさ。ちゃんと謝んな」

「ごめんなさい」

「たまきにじゃねぇよ! 亜美、お前との会話に疲れたんだよ!」

「え、なんで?」

意味が分からない、と言いたげな亜美の顔を見て、舞はまたため息をつく。

「ねえねえ、なんでウチと話してると疲れるの?」

「たまき……、助けてくれ……」

舞はゾンビにでも襲われたかのようにげっそりとした顔でたまきの方を向いた。急に話を振られてたまきは驚く。

「え、わ、私ですか? た、助けるってどうやって……」

「なんでもいい。話題を変えてくれ。あたしはもう、コイツとの会話に疲れた……」

そんなこと言っても、すぐに思いつく話題なんて……。

「ら、ライターのお仕事ってどういうのなんですか?」

たまきの言葉に、亜美も舞も驚いたような目でたまきを見た。

「お前、急にどうした?」

「え、だって、舞先生が話題変えろって……」

「いや、そうだけど、お前の口から仕事の話が出るとはな……」

「変ですか……?」

たまきは少しうつむきがちに尋ねたが、舞は、

「大丈夫だ。お前はもともとヘンだから」

と、どう解釈したらいいのかわからないことを言った。

「お、たまき、仕事にキョーミがあるのか?」

亜美が身を乗り出して尋ねる。たまきは、

「……いえ……その……」

とこれまたどう解釈したらいいのかわからないことを言った。

「じゃあさ、今度、ウチのシゴトバに社会科ケンガ……」

「絶対に嫌です」

今度はたまきははっきりきっぱり言葉にした。

「ライターの仕事か……、そうだな……」

舞は少し天井を見つめるようなしぐさを見せた。

「少なくとも、病院に勤めていたころよりは気が楽だな。朝、電車乗らなくていいし、あまりに人に会わなくていいし、ある程度の融通は効くし」

「わ、私にもできますか?」

たまきはまた、舞の方に体を傾けて尋ねた。

「なに書くのさ?」

「え……!」

舞の言葉に、たまきの顔が少しこわばる。

「日本は識字率が高いから、『文章を書く』程度だったら、ほとんどの人ができる。だからこそ、何か突出した才能や個性が必要になってくる。あたしの場合は医者だったから医療系に特化した記事を書くようになったけど、お前はどうするつもりだ?」

「どうする……?」

そんなこと言われても、人に話せるような引き出しがたまきには何もない。

やっぱりたまきは何の役にも立たない、「ひきこもりのたまきちゃん」のようだ。

「せんせー、ウチもしつもーん」

「疲れないやつにしてくれ」

舞が亜美を見ることなく言った。

「先生さ、ライターやめようと思った事あんの?」

「ん? 何度もあるぞ」

舞が、亜美が机の上に散らかしたチョコを食べながら言う。

「へぇ、いつ?」

「最近だとおとといくらいだな」

「ついこの前じゃん。なんかあったの?」

亜美もチョコをほおばりながら言う。

「よく仕事もらってた雑誌の廃刊が決まって、そうなると収入面で結構打撃でな、そろそろ廃業して、病院勤務に戻ろうかな、って頭によぎったよ」

「ライター辞めちゃうんですか?」

たまきが心配そうに舞を見た。

「ま、三か月に一回くらい、『廃業』の二文字は頭にちらついてるからな、この程度はよくある話だ。ライターに限らず、あたしみたいなフリーランスの欠点はとにかく不安定なところだな」

そういうと舞はたまきの目をまっすぐに見て、

「ちょっとは参考になったか?」

と言ってほほ笑んだ。

「……まあ」

「たまきにできる仕事はなさそうだ」と結論付けるのには、役に立つ話だった。

そんなたまきの肩を亜美がポンと叩く。

「ま、いきなりライターみたいな働いてんのか働いてないのかよくわかんない仕事よりはさ」

「お前に言われたくねぇよ!」

舞ががなる。

「とにかく、まずは簡単なバイトから始めてみたらいいじゃん」

「……亜美さんは私にアルバイトができると思いますか?」

「さあ、ウチ、やったことないからわかんない」

亜美は白い歯をにっと見せて笑った。その後ろで舞が深くため息をつく。

「何のバイトをやるにしてもたまき、まずは面接に受からんといけないぞ」

「はい……」

たまきがさみしげにつぶやいた。

それが問題なのだ。どんなアルバイトをするにしても、大体が面接で決めるという。

人と話すなんて、たまきが一番苦手なことなのだ。

「自信なさそうな顔してんな」

舞はそういうと微笑んだ。すると亜美が

「じゃあさ、コンビニで履歴書買ってきてさ、先生相手に練習すればいいじゃん」

どこか他人事のように言った。

「なんであたしがやらなきゃいけないんだよ」

「だって、先生、仕事なくなっちゃって暇なんでしょ?」

「……悔しいけど、暇だ!」

舞は本当に悔しそうに言い放った。

 

亜美がコンビニで買ってきた履歴書に、たまきが鉛筆で記入する。

「ほんとはボールペンの方がいいんだけどなぁ」

履歴書に書き込むたまきのつむじを見ながら舞が言った。

「さて、設定どうするかな……。あたしが学生の頃、ドラッグストアでバイトしてたから、それでいいか」

「……はい」

たまきが力なく答えた。

「……できました」

たまきは顔を上げると、自信なさげにそういった。

「じゃあ、はじめっか。えー、次の方どーぞー」

舞は病院の診察室の呼び出しみたいな感じで言った。

「……よろしくお願いします」

たまきはぺこりと頭を下げると、履歴書を舞の方におずおずと差し出した。

「たまき、こういうのは相手の読みやすい方向で渡した方がいいぞ」

舞が履歴書をくるりと上下反転させた。

「あ、ご、ごめんなさい」

たまきが力強く、メガネがずれるんじゃないかという勢いでぶんぶんと頭を下げる。

「ま、本番でやらなければいいから」

そういって舞は履歴書に目を通す。

氏名の記入欄にはひとこと「たまき」。

ご丁寧に、ふりがなの欄も埋めてある。ふりがなももちろん「たまき」。

「お前、名字はどうした?」

たまきは答えない。

「名字はどうした。家に置いてきたのか?」

たまきは下を向いたまま答えない。

「……ま、練習だしな」

舞はそう呟くと次に住所欄を見る。

今度は何も書いてない。

「ま、練習だしな……」

舞は自分に言い聞かせるようにそう言った。

「では、なぜうちのバイトを志望したのですか?」

「……え、えっと、なんて答えれば……」

「まあ、バイトだからな、そんなたいそうな動機じゃなくても大丈夫だよ。お金が欲しいからとかでもいいし、ウチから近かったからでもいいさ。ただし、はっきりと答えること」

「え、えっと、その、お金が欲しくて……、それで……」

たまきはまるで初めて日本語を話すかのような困惑した顔をしている。

「……たまき」

舞は、なるべく威圧しないように、声色を選んで話した。

「お前がそういうの苦手なのはわかるけど、面接の時ぐらいはちゃんと相手の目を見て話さないと、印象が悪くなるぞ」

「……はい」

たまきは申し訳なさそうにうつむくと、

「ありがとうございました……」

と言って履歴書を手に取って下がった。

その時、少し堅苦しい空気を、打ち壊すかのように亜美が手を挙げた。

「せんせー、ウチも履歴書できたから、面接してー」

「は? なんで?」

舞が心底イヤそうな顔をして亜美を見た。深く深くため息をつくと、

「次の方どーぞー……」

とやる気なく言った。

たまきが座って居た席に、今度は亜美が座る。亜美は片手で履歴書を

「ほい」

と舞に差し出した。舞は無言で受け取る。

氏名欄にはただ一言「亜美」。

何を気取っているのか「ふりがな」のところには「ami」と書いてある。

「だから、お前ら、名字を書け!」

舞があきれたように言った。

「えー、名字、必要なくない?」

「本名書かない履歴書なんかあるか、バカ」

「でもさ、ほら、キャバ嬢とかって、本名と違う名前で働いてるじゃん」

「おい、ドラッグストアって設定だろ……。それにな、キャバクラとか風俗だって、履歴書にはさすがに本名書くぞ」

「詳しいじゃん。先生、そういうのやってたの?」

「一般常識だ、バカ!」

舞はだんだんイライラしているかのように顔をしかめていくが、亜美はあっけらかんとにこにこしている。

「でもさ、先生、まだ若いし、スタイルいいし、キャバクラとかまだまだいけるんじゃない? 仕事なくなっちゃったんでしょ? キャバクラだったら稼ぎもいいし、この町だったら通いやすいじゃん。週末とか、シフト入れる?」

「面接してるのはあたしだ! お前は面接される方!」

舞が机の上の履歴書をバンバンと叩いた。

舞は深い深いため息をつきながら、住所の欄に目を通す。

住所欄には「東京都、城」。

もう、これにはツッコまないことにした。いちいちツッコんでいたら、寿命が縮まりそうだ。

舞は脚を組みなおすと、履歴書を見ながら言った。

「大体、お前の方こそ、いまみたいな暮らしをするくらいなら、キャバクラでも風俗でも、どっかの店に入った方が、まだましなんじゃないのか。十九歳が働けるのかどうか知らんけどさ」

すると亜美はあっけらかんとして、

「ウチ、人に雇われるの嫌いなんだよねー」

「じゃあ面接なんかやめちまえ!」

舞は亜美の履歴書をぐしゃりとつかむと、ごみ箱にたたきつける。

「ちょっと、捨てることないじゃん!」

亜美がごみ箱からしわしわになった履歴書を拾う。一方、舞はソファの上にごろりと横になった。

「もうやだー! 疲れたー!」

「たまき、先生疲れたってさ。カワイソウだから帰ってあげようぜ」

「は、はい。お、お邪魔しました」

「またねー」

「とっとと帰れー!」

舞がソファに寝転がったまま怒鳴った。

部屋のドアがばたりと閉じた。

 

写真はイメージです

志保が息を切らせて階段をのぼり、「城」へと帰ってきた。ドアの前で呼吸を整えると、軽くノックしてから中に入った。

中では亜美がソファに腰かけて、携帯電話をいじくっている。一方、たまきはその反対側のソファの上で、ひざを抱えて横になっていた。

「ただいまー」

「お、おかえり」

と亜美が反応した。少し遅れて、

「……おかえりです」

とたまきが力なく答えた。

「どうしたの? 元気ないね」

と志保が、いつものように声をかける。

たまきは返事をしなかった。その代わり、答えたのは亜美だった。

「たまきは今、仕事について悩んでるんだってさ」

「しごと?」

「ああ、自分にできる仕事がないつって」

志保がたまきの方を見る。たまきも志保の方をちらりと見ると、目線を下の方に外して、

「けっきょく私は、何の役にも立たない『ひきこもりのたまきちゃん』なんです……」

とつぶやいた。

「ちゃん?」

「あ……、いえ……、その……、ひきこもりちゃんなんです」

なんだか、言い直さない方がよかったような気もする。

「何の役にも立たないなら、私は何のために生まれてきたのでしょうか……」

「……なんだか哲学的だね」

「ウチらは何のために生まれてきたのだろうか。ウチらはなぜ生きてるのだろうか。ウチらはどこへ向かって歩いていくのだろうか」

と亜美がガラにもなく哲学的なことを言った。

「亜美ちゃんまでどうしたの?」

「たまにはテツガクしたくなる夜だってあるさ」

今はまだ夕方である。

「たまきちゃんが何の役にも立ってないなんて、あたしは思わないけどなぁ」

志保はそう言ってほほ笑むと、たまきのすぐ隣に腰を下ろした。

「でも、私は亜美さんみたいにお金稼いでないし、志保さんみたいに働いているわけでもないし……、料理ができるわけでもないのに……、本当にここにいてもいのかなって……」

まるで亜美はお金は稼いでいるけど働いていないかのような言い方だが、幸いにも、亜美はそのことに気付かなかったらしい。

一方、実は志保は「その言い方じゃ、亜美ちゃん働いてはいないみたい……」ということに気付いていたが、あえて気づかないふりをして話を進めた。

「わすれちゃった? たまきちゃんがいなかったら、今頃あたしは、ここにはいないんだよ?」

「え?」

たまきがうつむいた顔を上げて、志保を見る。

「あたしがライブハウスで財布盗んだとき、たまきちゃんが引き留めてくれなかったら、あたしは今頃ここにいないんだよ。みんなでシブヤでカラオケすることもなかったし、たまきちゃんの誕生日を祝うこともなかった。全部、あの時たまきちゃんが引き留めてくれたからだよ。本当に感謝してる」

たまきは、言葉が出なかった。

「だから、たまきちゃんが何の役にも立っていないなんて、そんなことないんだよ。ただ、ここにいる。それだけでたまきちゃんは十分あたしの、ううん、みんなの役に立ってるんだよ。ただ、ここにいる、それだけでいいんだよ」

「……そうなんですか?」

何もしなくても、そこにいるだけでだれかの役に立つ。本当にそんなことあるのだろうか。

「だいたいなぁ」

そういって亜美が携帯電話を置いて立ち上がった。

「役に立たないからここにいちゃいけない、生きてちゃいけないなんて考えてるのがそもそものマチガイなんだよ。『ただ、ここにいる、生きている』って当たり前のことしてんのに、どうして誰かの役に立ったり、誰かの許可を得なければいけないんだよ。役に立たなくたって、許可が下りなくたって、生きてくしかないじゃん。生きてんだから」

そういうと亜美は胸の前で腕を組んだ。

「だから、ウチらが家賃を払わなくたって、ただ、ここにいるだけなんだから、誰かの許可なんて必要ない!」

「それ言いたいだけでしょ、亜美ちゃんは~」

志保が苦笑した。

「でも……」

とたまきはまたうつむきがちに言った。

「やっぱり、私はいつも役に立っているわけじゃないし……」

志保はまだどこか不安げなたまきを見ると、少したまきの方に詰め寄った。

「たまきちゃんは、いまでもちゃんと役に立ってるよ。言ったでしょ? たまきちゃんがいるから、あたしは今、ここにいるんだって」

「でも、ただここにいるだけでいいっていうのはさすがに……」

「そんなことないよ。たまきちゃんはここにいるだけで、十分なんだから。例えば……」

そういうと、志保は亜美の方をちらりと見て、

「前々から思ってたんだけどさ、あたし、あの人と合わないんだよねぇ。たまきちゃんがいなかったら、今頃、自分から出て行ってるかも」

と言ったので、たまきは驚いて、志保と亜美の顔を交互に見比べた。

志保と亜美が合わないなんて、そんなことないだろう。だっていつも、二人で話してて、たまきはいつも話に入るタイミングを見計らって、結局は入れない。話題も学校の友達の話とか、恋愛話とか、メイク道具の話とか、テレビの話とか、たまきには縁遠いことを二人で話している。二人が性格合わないなんてそんなこと……、

「同感だね」

亜美がそういったので、たまきはますます驚く。

「ウチも前々から思ってたんだけどさ、ウチら、合わないよ」

「え? そうなんですか?」

たまきが大きく目を見開いて、志保の方を見た。

「だってさ、たまきちゃん、信じられる? あの人、誰とでもエッチできるんだよ?」

「おい! 今の言い方はゴヘイがあるぞ! 別に『誰とでも』ってわけじゃねーよ。ウチにだってオトコの好みぐらいあるわ!」

「でも、別にカレシ以外の人とも平気でエッチできるでしょ? そういうのを『誰とでも』っていうんです!」

「だってさ、毎回おんなじオトコとヤッてたらさ、飽きない?」

「飽きないよ! 何言ってるの⁉」

「でもさ、いくらカラアゲ好きでも、毎日カラアゲ食ってたら飽きるだろ? それと一緒だよ」

「恋愛とから揚げは一緒じゃないよ!」

そういうと、志保はたまきの方に向き直り、詰め寄った。

「わかったでしょ? あたし、あの人と合わないの。たまきちゃんが一緒にいてくれるから、何とかやっていけてるんだよ」

「そ、そうだったんですか……」

そんなに自分の存在が大事なのか、とたまきは不思議に思う。

「確かに、たまきの存在は大きいかもなぁ」

そういって亜美が、すぐ近くのソファに腰を下ろした。

「たまきの存在は何つーか、ウチら二人の間に入れる……ほら……」

「緩衝材?」

志保が亜美の方を見て尋ねる。

「そうそう、それ。コンドームみたいなもんだよ」

「え⁉」

たまきの表情がこわばり、志保が

「全然違うよ!」

と素っ頓狂な声を上げた。

「え? ちがうの? 似たようなもんだろ? だって、コンドームって、アレとアソコの間に……」

「もう、この人やだー! 疲れたー!」

志保はたまきの方を向くと、ぬいぐるみでも抱くかのように、勢いよくたまきに飛びついた。

「ふええ!」

慣れないことをされて、たまきが変な声を上げる。

「ねえねえ、なんでみんな、ウチと話してると疲れるの?」

「たまきちゃん助けてぇ!」

亜美が志保の体を揺さぶる。同時に、志保が抱きついているたまきの体も揺れる。

ゆっさゆっさと揺れながら、たまきは考えた。

こんな私でも、誰かのそばにいるだけで、抱きつかれるだけで役に立つのなら、

こんなに幸せなことはない。

……のかな?


次回 第19話「赤いみぞれのクリスマス」

クリスマス、何も起きないわけがない。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第17話「ガトーショコラのち遺影」

前回、たまきは16歳の誕生日を祝ってもらい、人生で一番楽しい誕生日となった……。

で終わらないところが「あしなれ」である。その誕生日パーティの写真が破かれてしまうという事件が発生する。果たして、犯人は誰?

「あしなれ」第17話スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第16話「公衆電話、ところによりギター」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


「誕生日の写真? 写真だったら、このまえ渡したじゃねえか」

舞は振り返りざまにそう言った。

「ええ……、まあ……、そうなんですけど……」

志保は少し申し訳なさそうにはにかむ。

十月二十一日に行われたたまきの誕生日パーティ。その時の写真は舞のカメラで撮影し、そのデータは舞のパソコンに入っている。パーティーの翌日、舞はプリントアウトした写真を「城」に持っていったはずだった。

志保が再びその写真をプリントしてくれないかと頼みに来たのは、十一月に入ってからだ。志保は買ったばかりのベージュのコートと赤いマフラーに身を包んでいた。冬着に身を包むと、志保の細い手足も隠れ、健康そうに見える。

「パーティの次の日に渡した写真の画像しかないぞ? 同じ写真が欲しいのか?」

「……はい」

「前の写真はどうした」

またしても、志保はごまかすように笑う。しかし、そんなはにかみでごまかされる舞ではない。

「別に、お前らを監視したいわけじゃないんだけどさ……」

舞はエンターキーを勢いよくはじくと、パソコンの置かれたデスクから立ち上がった。仕事途中なので、今日はメガネをかけている。

「お前らがあの『シロ』ってキャバクラに勝手に住み着いていることを黙認している身としては、些細なトラブルでも把握しておきたいんだよ。わかるか?」

「……はい」

「一応聞いておくけど、……クスリがらみじゃねぇよな」

「それは違います」

志保はきっぱりと否定する。それを聞いて舞は安心したように微笑んだ。

「別に怒りゃしねぇから。言ってみな」

 

 

十月下旬 今から二週間ほど前

写真はイメージです

「シゴト」から帰った亜美が「城(キャッスル)」へ戻ると、たまきが一人でいた。志保は施設の集会に向かったらしい。

たまきはソファの上に寝転がりながら、本を読んでいた。誕生日プレゼントにもらったゴッホの本である。

雑誌ていどのサイズの本にゴッホの絵が掲載されている。

十六才になって最初の一週間を、たまきはこの本を繰り返し読むことで費やしていた。

見れば見るほど、ゴッホという画家は面白い。そして、知れば知るほど、なんだか自分と重なる。たまきはそんな気がしている。

驚くべきことに、ゴッホはたまきと同じで中学校を途中でやめている。そして美術商の会社に就職する十六歳までの間、何もしていない。たまきと同じように、部屋でごろごろしていたのだろうか。

その後、美術商の会社に勤めるが、7年後にクビになる。その後は父親と同じキリスト教の聖職者になるが、これまたクビになる。そうして本格的に絵を描き始めたのが27歳のころだった。

この頃のゴッホの絵は何というか、暗い。黒を使うことが多く、絵はどこかくすんでいる。こういったところも、たまきはなんだか他人の気がしない。

その後、ゴッホは故郷オランダを離れ、パリへと移る。そこで出会ったのが印象派と浮世絵だった。

特に、印象派の影響が強く、この頃、画風ががらりと変わる。青や白といった色が増え、画風が急に明るくなる。明らかに印象派の影響だろう。

もう一つ、ゴッホに影響を与えたものがある。浮世絵だ。浮世絵を通して日本に強い憧れを抱いたゴッホは、アルルという街に日本の面影を求めて移住する。アルルのどの辺が日本っぽいのかはわからない。移住の理由はそれだけではなく、どうもゴッホは都会になじめなかったらしい。

アルルに移住したゴッホの絵は、今度は黄色くなる。有名なひまわりの連作もこの頃にかかれたものだ。住んでいた家も「黄色い家」というらしい。

だが、同居人のゴーギャンとはケンカ別れをし、自分の耳を切り落とし、挙句の果てにアルルから追い出されるように精神病棟に強制入院となる。退院後もアルルに居場所はなく、サン=レミの療養院へと入院することになった。

療養院に移ってからのゴッホの絵は青くなる。一方、彼は死に魅入られたかのように発作を繰り返す。

そして退院からわずか二か月後にピストル自殺をするのだった。

死ぬ間際の作品として有名なのが「烏の群飛ぶ麦畑」だ。

麦畑の上を無数のカラスがはばたく。空は青空にもみえるし、漆黒の夜空にもみえる。黒、青、黄色、ゴッホが特にこだわってきた色が使われている。

カラスはまるでアルファベットの「M」の字のような形をしている。「線」と言い換えてもい。こんなの、美術の時間に描いたら「ふざけるな」と怒られてしまうだろう。ゴッホの絵は生前は1枚しか売れなかったというから、当時もふざけてると思われていたのかもしれない。

それでも、不思議とカラスにしか見えない。畑も正直な話、子供が黄色い絵の具をこすり付けただけのようにしか見えないが、それでも不思議と麦畑に見える。耳を澄ませば風になびく麦のざわめきの中に、カァカァというカラスの鳴き声が聞こえてきそうだ。仙人の言っていた「直感でやっているのか計算してやっているのかわからない」というのはこういうことを指していたんだろう。

そして、この絵は「極度の孤独」を表現したものらしい。麦畑とカラスのどの辺が孤独なのかよくわからないが、それでも、確かにこの絵からは孤独とか絶望とか死とか、そういったものが伝わってくる。

なんだかどこかでこの絵を見たことがある。そう思ってたまきは眺めていたが、一週間眺めてやっとわかった。

たまきが初めてこの太田ビルに来て亜美と会った日、雨にもかかわらず傘も差さずに歩いてたためメガネのレンズはぬれ、視界はぐにゃぐにゃに曲がっていた。そうだ、あの時に似ているのだ。

最近もどこかで見たと思ったら、「東京大収穫祭」の時に一人ベンチに座って泣いていた時に舞が目の前に立っていた、あの時に似ている。メガネをはずしていたうえ、目はなみだで滲んでいた、あの時に見た景色に。

死ぬ間際のゴッホには世界がこんな風に見えていたのか。ゴッホも泣いていたのかな。

ゴッホという画家はその絵1枚1枚もさることながら、時系列順にその絵を並べてみることで彼の人生そのものを表現している、「ゴッホ」という一つの作品らしい。

死にたがりなところとかどことなく自分に似ている。たまきはゴッホに親近感を沸くと同時に、自分とは違うところもいくつか見つけていた。

ゴッホもコミュニケーションが苦手だったらしいが、たまきのように喋らないのではなく、むしろすぐに人と口論になって嫌われてしまうタイプだったらしい。ゴッホが残した手紙にも、そんな自分に対して自分で嫌気がさしているかのような言葉が目立つ。

それでいて、ゴッホは自画像を多く描いた。

自分が嫌いでしょうがないたまきは自画像なんて描きたいと思わない。ゴッホは実は自分が好きだったのだろうか。

それとも、自分を好きになりたくて自画像を描いていたのだろうか。

たまきはのそりと起き上がると、厨房の方へと移動した。厨房の手前はちょっとしたカウンターになっていて、そこに安っぽい写真立てに収まった、誕生日の日の写真が飾られている。

写っているのは5人。後列は右からミチ、亜美、志保、舞。みな笑顔だ。

写真の中央、4人より少し前にたまきは座っていた。満面の笑み、とまでは行かなかったが、十分笑顔だった。

もし私が……、ふとそんなことを考えたとき、亜美が口を開いた。もちろん、写真の中の亜美ではなく、すぐそばにいる実物のほうの亜美だ。

「誕生日プレゼントを気に行ってもらえたのは嬉しいんだけどさ」

亜美は半ばあきれたように言う。

「お前、ずっとそれ読んで一歩も外出てないだろ」

「……お風呂と洗濯に行きました」

「それだけだろ。とにかく、ここ一週間ほとんど外出してないじゃないか」

と、声を張り上げた。

「そうですね」

「どっか行って遊んできなさい!」

先週もそんな風に言われた気がする。

「おそとに出るのがえらいんですか?」

「……べつにえらかねぇけどさ」

亜美はまだ何か言い足りなさそうにたまきを見ていたが、やがて、ふうっと息を吐くと、あきらめたかのようにたまきの頭を軽く、ポンポンと叩いた。

「ま、無理に外に出して、車道に飛びこんで死なれてもアレだからな」

「……アレってなんですか?」

「……アレはアレだよ」

たまきは怪訝そうに亜美を見上げていたが、やがてぽつりと、

「亜美さんは……、私が死んだら悲しいですか?」

と言った。

「は? そりゃ、カナシイに決まってるだろ。何か月一緒にいると思ってんだ」

「そうですか」

たまきは、亜美ではなく写真立ての方を見ながら、そう返事した。

 

 

十一月上旬 今から一週間ほど前

写真はイメージです

たまきの約十日ぶりの本格的な外出は、駅前の喫茶店に行くことだった。

志保が最近よく足を運ぶ喫茶店があるらしく、そこに行こうと誘われたのだ。

亜美もたまきも最初は断った。亜美は

「喫茶店ってジジイがコーヒー入れてババアがケーキ運んで、おばさんがベチャクチャしゃべりながら飲むところだろ?」

と随分凝り固まったイメージを喫茶店に持っているらしく、行くのを渋った。たまきはたまきで

「お茶なら下のコンビニで買えます……」

とだけ言ってそのまま昼寝しようとしたが、志保が

「友達連れてくって約束しちゃったの!」

と懇願したのだ。

最初にじゃあ行きますと言ったのはたまきの方だった。これまで友達らしい友達がいなかったから、「友達」という言葉を出されると、どうもむげに断れない。

たまきが行くというのを聞いて、だったらウチもと亜美が言い出して、三人で行くことになった。

十一月に入ったばかりの東京の町は、まだ午後二時だというのに空っ風が吹いて寒い。

これからどんどん寒くなっていくのだろう。あと2カ月もすれば、クリスマスに大晦日、お正月と世間が浮かれる1週間がやってくる。

それまで生きてられるかな、と漠然とたまきは考える。

歓楽街を出て大通りを渡ると、駅へと続く大きな歩道だ。色とりどりの看板が、客が来るのを首を長くして待っている。

足音。話し声。車の音。何かの音楽。

この町はシブヤと違って、たまきはあまり場違いな感じがしない。何が違うのかと考えてみたが、4カ月この町にいる、ということしか思い浮かばなかった。

「志保さ、一個聞きたいんだけど」

「なに?」

志保が振り返って、後ろを歩く亜美に返事をした。

「友達連れてくって約束したって言ってたじゃん」

「うん」

「誰と?」

志保の時間が一瞬止まった、ような気がした。

「だ、誰とって?」

「誰とそんな約束したんだよ」

「え……店員さんだけ……ど」

志保は亜美を見ることなく答えた。

「喫茶店の店員とそんな約束するか、フツー?」

「でも、施設行くときとか帰りにいつも寄ってるから、仲良くなっちゃって」

そう答える志保の後姿を、たまきはぼんやりと眺めていた。

喫茶店の店員と仲良くなれるだなんて、たまきには想像がつかない。いったいどうやったらそんなことができるのだろう。

仙人はいろいろとたまきに言ってくれたが、やっぱり志保は「あっち側」の人なんだ、そうあらためて思う。

「いつから通ってんの?」

亜美は振り返らない志保の背中越しに問いかけた。

「え~っと……、8月の半ばくらいかな……」

これは嘘である。本当は店に初めて行ったのは10月の頭、大収穫祭の翌朝である。

おそらくそのことを正直に言ったら亜美は「1か月で喫茶店の店員とそんな仲良くなれんの?」と聞き返してくるだろう。そう考えたら、とっさに嘘をついていた。

「亜美ちゃんってさ……」

志保は振り返ってそう言いかけたが、

「ごめん。やっぱ、なんでもない」

と言って再び前を向いた。

「なんだよ。気になるな。言えよ」

「なんでもないって。あ、ここ、左だから」

志保は袖でそっと額の汗を拭く。「亜美ちゃんってさ、おバカなのに、勘がいいよね」なんて失礼なセリフ、言えるわけがない。

 

写真はイメージです

「シャンゼリゼ」というおしゃれな店名から連想することは人それぞれ違う。

志保は、この看板を見るたびにレコードの時代のおしゃれな音楽が頭の中に流れだす。

一方たまきは、ゴッホもパリにいたころシャンゼリゼ通りを歩いたのかな、なんてことを考える。ゴッホがパリにいたのは確か、絵が青と白だったころだ。

亜美は「シャンゼリゼ」という看板を見たら、カップルのうちの男の方が壁にかけられた変な顔の彫刻の口に手を突っ込む、白黒の映画のシーンが頭に浮かぶ。ちなみに、その映画の舞台がパリではなくローマ、フランスではなくイタリアであることを亜美は知らない。

「シャンゼリゼ」の店内はなんだかレトロな蒸気機関車の座席みたいだ。とはいえ、三人のうちだれも機関車に乗ったことなんてないのだけれど。

「なんだか、ウチの知ってる喫茶店と違うなぁ」

亜美がはきょろきょろと店の中を見渡していたが、やがて興味を失った亀のように首をひっこめた。一方、たまきはふだんの猫背をさらにねこのしっぽのように丸めている。

店内はスーツを着たサラリーマンや、学生らしき若い男女で込み合っていた。曲名も知らないクラシック音楽の上に、食器の音や話し声が、ベートーヴェンの音楽のように流れていく。

「いらっしゃい、志保ちゃん」

ウェイターの青年が水の入ったコップを持って、三人のテーブルにやってきた。長身だがこれといった特徴のない顔をしている。どちらかというと、パーマのかかったもじゃもじゃの髪の方が印象に残る。胸には「田代」と書かれた名札がついている。

田代を見て、志保の顔に笑顔がこぼれる。

「田代さん、こんにちわ」

「……この子たちがこの前言ってた友達?」

「そうそう。こっちが亜美ちゃんで、その隣がたまきちゃん」

「どうも」

亜美が軽くあいさつし、たまきも無言で頭を下げる。

「なんか、二人とも、志保ちゃんと雰囲気ちがうね」

「よく言われる」

志保が笑いながら返す。

「どういう知り合い? 学校?」

「……そうじゃなくて、家が近いんだよね?」

志保は亜美とたまきの方を向く。たまきはどう話を合わせればいいのかわからなかったが、亜美は

「そうそう、家が近くて、昔からよくつるんでんの」

と話を合わせる。

「じゃ、オーダー決まったらまた呼んで」

そういうと田代は厨房の方へと向かって行った。

「なに飲む? あたしはもう決まってるから」

志保はメニュー表を広げて、亜美とたまきの方に渡した。

「酒とかないの?」

「ないよ」

「だろうな」

そう言いながら亜美はメニュー表を覗き込む。

「お、このナポリタンうまそうじゃん」

「え? 食べるの?」

「なんだよ。悪いかよ」

亜美が怪訝な顔をして聞き返す。

「だって、お昼、食べたじゃん」

志保も怪訝な顔をする。

「食えるって、これくらい。飲み物は……コーヒーでいいや」

「たまきちゃんは飲み物どうする?」

「え?」

たまきは戸惑った。飲み物ならすでにお水があるじゃないか。

もしかして、こういった店はたまきの知らない不文律があって、「お水は飲み物のうちに入らない」とか、「お水以外の飲み物を頼まなければいけない」とか、たまきにはわからないルールがあるのかもしれない。

たまきは無言で「リンゴジュース」と書かれた文字を指さした。

「ジュースだけ? ケーキとかは頼む?」

「おい、ナポリタン、食うか?」

二人の問いかけに、たまきは無言で首を横に振った。

「田代さぁん、注文お願いします」

志保の呼びかけに田代がやってくる。

「ミルクティーとガトーショコラとモンブラン」

「うん、いつものやつね」

「それからナポリタンとコーヒーとリンゴジュース」

「ハイ、かしこまりました」

田代は伝票にメニューを記入すると、再び厨房の方へと向かった。ミチがバイトしているラーメン屋のように、大声で注文を叫んだりはしない。

「お前、ケーキ二つも食うのかよ」

「ナポリタン注文した人に言われたくない」

志保は少しむっとしたように答えた。そして、壁の張り紙に目をやった。

そこには「バイト募集」と書かれていた。「女性大歓迎」とも書いてある。そういえば、この店には若い女性の店員がいない。

「今度、この店の面接受けようと思うんだ」

「面接ってバイトの?」

「うん」

志保は張り紙を見ながら答えた。

「いつまでも亜美ちゃんの……稼ぎにお世話になるわけにもいかないじゃない。この前のイベントも無事こなせたし、あたしもバイトしようかなって。まあ、先生に相談してみてだけど」

「ふうん」

亜美は厨房の方に目をやる。

ほどなくして、ナポリタン以外の注文の品が運ばれてきた。ナポリタンはやはり少し時間がかかるようだ。

志保の持つ銀のフォークが黒みを帯びたガトーショコラの中に沈みゆく。濃厚なチョコの香りが志保の鼻孔を刺激する。

「最近はどんな本読んでるの?」

田代は志保のわきに立つと、トレイを片手に話しかけた。

「これ読んでます」

志保はカバンから文庫本を出した。

「ああ、映画になったやつね。見たよ」

「原作読みました?」

「いや、原作はまだ……」

「読んだ方がいいですよ。ヒロインの細かい感情表現がとてもきれいなんです。あ、読み終わったら貸しましょうか?」

そんな話をしているうちにナポリタンが出来上がった。

 

たまきにはわからない。ごく普通のリンゴジュースである。コンビニや自販機で買えるものとそんなに違わない。いや、むしろ自販機のリンゴジュースの方がたまきの舌にあっている気がする。

店内を見渡すと、コーヒーや紅茶だけを注文している客もちらほらいる。

そんなの、わざわざこんなお店に来て飲まなくても、その辺で買って、帰ってゆっくり飲めばいいじゃないか。

それとも、すぐに帰りたがるたまきの方がおかしいのか。亜美が「どっか言って遊んできなさい!」というように、お外へ出たがる方が普通のなのかも。

そんなことを考えていたら、ナポリタンを食べ終わった亜美が口を開いた。

「志保、ウチら、さき帰るから」

亜美も帰りたがることがあるんだなぁと、ぼんやりと亜美のコーヒーカップをのぞきながらたまきは思う。カップにはまだ3分の1ほどコーヒーが残されていた。

あれ? 「ウチら」?

「ほら、たまき、帰るぞ」

そう言って、亜美はたまきの肩をたたく。

「あれ? 帰るの? だったらあたしも」

そう言って志保は立ち上がろうとしたが、

「いや、お前は残ってていいよ。もう一杯紅茶飲んだらどうだ?」

そういうと再びたまきの肩をたたく。

「ほら、たまき」

たまきは何が何だかわからない。

「え……帰るんですか?」

「なに、お前、残ってたいの?」

「いえ……」

帰りたいか帰りたくないかと聞かれれば、帰りたい。

志保は何かを怪しむように亜美を見る。心なしか、顔が紅潮している。

「亜美ちゃんってさ……」

「ん?」

「なんでもない! じゃあ、お言葉に甘えてもう一杯もらおうかな」

「あ、たてかえといて。あとで払うから」

そういうと、亜美はたまきの手をグイッと引っ張って店を出た。たまきも、なんだか無理やり散歩させられてる子犬のような足取りで外へ出る。

 

写真はイメージです

「フツーの味だったな」

亜美が口の周りのトマトソースをなめながら言う。すれ違うトラックのエンジン音が響く。

「……リンゴジュースも普通の味でした」

たまきが亜美の後ろをとぼとぼとついてくる。歩くたびに雑踏の中で黒いニット帽が揺れる。

「あれだったら別に、わざわざ行かなくてもよかったなぁって……。志保さん、なんでわざわざ通ってるのかなって……」

おしゃれ女子の考えていることはわからない。

「ま、そういうことだろ」

亜美は振り返ってにやりと笑う。

「紅茶なんてどこで飲んでも一緒だし、ケーキなんてもっとうまい店この辺だったらいっぱいあるだろ。それでも志保はあの店に通う。そういうことだよ」

「……どういうことなんですか?」

たまきはけげんな顔をして亜美を見つめた。

「いや、あの二人、デキてるだろ」

「……あの二人って?」

「志保とあの店員だよ」

「できてるって何が……?」

しばらくたまきは考えたが、そういうのに疎いたまきでも、流石にわかってきた。

「え? え?」

「まあ、お互い意識している段階っていうのが60パー、もう付き合ってるっていうのが20パー、まあ、どっちかは確実に意識してんだろ」

「なんで? なんでわかるんですか?」

珍しく食いついてくるたまきに気をよくしたのか、亜美は名探偵よろしく語り始める。

「フツーさ、喫茶店の店員と仲良くなるか? どっちかが意識して声かけたか、そうじゃなかったら、実は別の場所で知り合って、ていうのもあるな」

「でも、志保さん、施設行くときはいつもあの店寄るって言ってたから、それで仲良くなったのかも……」

「施設っつったって、毎日行ってるわけじゃねぇだろ。週に2回か3回だろ。それも、あいつの話がホントなら2か月ちょっと通ってるわけだけど、それでも仲良くなるかよ。結構混んでるぜ、あの店」

「確かに……」

「そもそも、志保の話もどこまでほんとかわかんねぇしな」

「え?」

たまきがまたまた驚いたように目を見開く。

「店に行く前にウチが質問したとき、明らかにキョドってたよ、あいつ。どの辺がウソなのかまではわかんねぇけどさ。とにかく、あいつには隠しておきたい何かがある。でもさ、そこにウチラ連れてくんだから、別に後ろめたいことしてるわけじゃねぇ」

「はぁ」

たまきは話についていくのに精いっぱいだ。

「そういうのは大抵オトコがらみだよ。あいつ、読んでる本を店員に見せてただろ。自分はこういうの読んでるって知ってもらいたいんだよ。ウチらが連れてかれたのもその延長。こういう友達がいます~って知ってもらうことで、志保について知ってもらいたいってことよ。だからウチラを連れて行った。でも、恥ずかしいからウチラにほんとのことは言わない。そんでもって、バイトしようかな~、だろ? 客としてじゃ満足できねぇってことよ」

「じゃあ、志保さんは、あの店員さんが……、その……、好きなんですか?」

「たぶんな。そんなはっきり意識してはねぇかもだけどな。そうか、あいつ、ああいうヤサオがタイプか」

「ヤサオ」の意味がたまきにはわからなかった。「野菜みたいな男」という意味だろうか。そういえば、あの店員のもじゃもじゃした髪は、どことなくキャベツっぽい。

それにしても、全然気づかなかった。自分の鈍感さにたまきはショックを通り越して半ばあきれてしまった。

「亜美さんって、おバカだけど、そういうとこ鋭いですよね……」

その言葉に亜美は足を止めた。呆れたように笑っている。

「お前、けっこう、失礼なこと言うな」

「え? ごめんなさい。褒めてるつもりなんですけど……」

「いや、『おバカだけど』は褒めてねーよ」

「でも、私、そういうの全然気づかなかったから、亜美さんすごいなぁって……」

「いや、だから、『おバカだけど』は余計だって。まあ、否定はしねぇけどさ」

そう言いつつも、亜美は笑顔だった。

 

 

十一月中旬 志保が舞の家を訪れる前日

写真はイメージです

志保が「城」で暮らすようになって気づけば4カ月がたっていた。

だいぶ慣れてきたな、志保は自分でもそう感じる。最初こそは異様に距離感の近い同居人と、全然しゃべらない同居人に戸惑うこともあったが、4か月一緒にいると、どう扱えばいいのかもなんとなくわかってくる。

ただ、ビルの5階にある、というのはいつまでたっても慣れない。毎回、階段を上ると息が切れてしまう。

やっぱり体力が落ちてるんだな。骨が浮き出るかのように細い自分の手を見つめながら志保は息を飲み込んだ。

それでも何とか登りきり、ドアの前で呼吸を整える。ビルの影に沈む直前の西日が志保の髪を照らす。

息が整い、志保は「城」へと入った。

「ただいまぁ」

特に返事はない。電気もついていない。

ただ、ドアが開いていたからには、誰かしらいるはずだ。

志保は電気をつけて、奥へと進んでいく。

ソファの上に、黄色い毛布にくるまったたまきがいた。もっとも、頭を向こうに向けているので顔までは見えないが、黒髪と、テーブルの上に置かれたメガネからして、たまきと見て間違いない。

「ただいまぁ」

ともう一度言ってみた。

「……おかえりです」

たまきがか細い声で答える。もしかしたら、さっきも返事をしていて、単に聞き取れなかっただけかもしれない。

「どうしたの。元気ないね」

たまきに向かって何回このセリフを言ったことか。志保にとっては英語で言うところの”How are you?”に相当するあいさつの定型句だ。

「……別に」

これまた、たまきにとってはお決まりの返事である。

だが、心なしかいつもよりも元気がないような気がする。

志保は、カバンをソファの上に置いた。片手には下のコンビニで買った履歴書を持っていて、厨房の手前のカウンターに置こうとする。

履歴書がカウンターに置かれたのと、志保が写真の異変に気づいたのはほぼ同時だった。

先月行われたたまきの誕生日会の写真。たまきたち5人が笑顔で写った写真。

その写真が引き裂かれていた。中央にいるたまきの顔は、真っ二つに裂けている。

「なにこれ?」

志保は息をのみ、目を見開いた。

写真を手に取った志保は、下腹部から何か熱いものが湧きあがってくるのを感じていた。その一方で、手先は熱を失ったかのように震えている。

写真たてに入っていた写真が、勝手に破けるはずがない。誰かが取り出して破かなかったらこんなことにはならない。

たまきがいつもより元気がない理由も、おそらくこれだろう。誰が一体、こんなひどいことを。そして、なんのために。

志保は厨房に入ると、水道水をコップに入れ、一気に飲み干した。

そのタイミングで、再びドアが開く。

「たっだいま~」

亜美ののんきな声が「城」の中にひびた。

「……亜美ちゃん」

志保はいつもよりも低い声を発した。

「これなに?」

志保は二つに裂けてしまった写真を亜美の目の前に付きだす。

亜美はしばらくその写真を見つめていたが、突如、

「はぁ!?」

と声を張り上げた。

「これ、たまきの誕生日会の時の写真だろ? なんで破けてんだよ。たまきのところ、真っ二つじゃねぇか。誰だよ、こんなひどいことするの。たまきがカワイソウじゃんか」

「……白々しい」

志保が、泥棒でも見るかのように亜美をにらむ。

「亜美ちゃんがやったんじゃないの?」

「はぁ!?」

亜美は、さっきよりも語気を強めた。一方、志保は亜美を睨んだままだ。

「イミわかんない。何でウチが写真破かなきゃいけねぇんだよ?」

「たまきちゃんばっかり注目されて、自分が主役じゃなかったのが面白くなかったんでしょ!?」

志保は糾弾するように亜美に詰め寄った。

「は? たまきの誕生日だったんだから、たまきが主役になるのは当たり前だろ? ウチが嫉妬? ばかばかしい。証拠あんのかよ、証拠!」

亜美は、写真をカウンターの上に乱暴に叩きつけると、尋問のように志保を睨みつけた。叩きつけたときの音が「城」の中で反響する。

「だって、あたしじゃないもん。そしたら、亜美ちゃんしかいないでしょ。誕生日の写真、こんなことされて、たまきちゃんがかわいそうだよ! たまきちゃんに謝りなよ!」

「なんだよその理屈。自分じゃないからうちが犯人だって、お前が犯人じゃないって証拠あんのかよ?」

「証拠はないけど……、でも、あたしには動機もないもん。たまきちゃんの写真にあんなことする動機ないもん」

「ハッ、どうだか。隠れてクスリやって、ラリって破いたんじゃないの?」

その言葉に、志保が目を大きく見開いた。少し充血気味だ。

「訂正して、亜美ちゃん」

明らかに言葉に怒りがこもている。

「あたしは7月にみんなに迷惑をかけた一件以来、クスリ一回もやってない! 正直、使っちゃえば楽になるかなって思った日もあった。でも、一回もやってない! 訂正して!」

志保は亜美に詰め寄ると、亜美の肩を強くつかんだ。

「触んじゃねぇよ!」

亜美は志保の手を勢いよく払いのける。

「訂正すんのはてめぇだろ? 何でウチが疑われてんだよ! 濡れ衣もいいとこだろ。ウチが今まで、誰かの写真破ったことあるかよ。てめぇ、前にクスリやって財布盗んでる前科者だろうがよ! てめぇの方こそ、よっぽど怪しいじゃねぇかよ!」

亜美は、志保の肩に手を当て、突き飛ばした。志保がよろけて、壁に背中を強打する。骨がぶつかる鈍い音が「城」の中にこだました。

「いったぁ……」

志保も負けじと、亜美を親の仇かのように睨みつける。

志保はソファの上に置いてあったクッションを手に取ると。亜美に向かって投げつけた。クッションは勢いよく宙を舞うが、亜美が片手で払いのける。

「お、やんのか? お前みたいなガリガリに負けねぇぞ? それとも、とっとと罪を認めて楽になるか?」

「……そんなこと言ったって、そんなこと言ったってあたしじゃないもん!」

志保が叫ぶ。その振動で窓ガラスが震える。

「あたしじゃなかったら、亜美ちゃんしかいないじゃない! 他に誰がいるの!? だったら何? たまきちゃんが自分で破ったとでもい……」

そこまで言って、志保ははっとしたように言葉を止めた。亜美の方も何かに気付いたのか、少し顔色が冷めてきたように見える。

そういえば、もう一人の同居人は、自分で自分の手首を切るような女だ。

それに比べれば、自分の写真を引き裂くぐらい、たぶんなんでもないことだろう。

志保は、カウンターに上に置かれた写真をもう一度見た。

縦に真っ二つに引き裂かれている。たまきの顔は左右に泣き別れだ。

一方で、たまきのすぐ後ろにいた亜美と志保の顔には傷がない。まるで、亜美と志保の間のわずかな隙間をうまく破くように、細心の注意を払ったかのように。

二人はゆっくりと、ソファの上に寝転がっていたまきを見た。

いつの間にかたまきは立ち上がり、二人のすぐそばにいた。小柄な体を小刻みに震わせて、目も少し赤い。

言い争いが収まり、「城」にはかりそめの静寂が訪れた。静寂の中でたまきは幽かに、それでいてはっきりと、ぽつりと言った。

「……ごめんなさい」

今にも泣きそうなたまきは、言葉を続ける。

「ちゃんと言わなきゃって思って……、でも、二人とも、声かけられるような雰囲気じゃなくなって……。私、怖くて本当のこと言えなくて……。ごめんなさい……。私が早く本当のことを言えば……」

「本当にこれ、たまきちゃんが破いたの?」

たまきは、うつむいたまま、ゆっくりとうなづいた。

「お前、なんでそんなこと……」

「たまきちゃん、誕生日パーティ、嫌だった? 楽しくなかった?」

志保は腰を落として、たまきに目線を合わせて尋ねた。たまきはぶんぶんとかぶりを横に振った。

「……楽しかったです。嬉しかったです……」

「だったらなんで……」

たまきは、ゆっくりと顔をあげた。

「誕生日の日は、……とても楽しかったです。でも、その時の写真を見るたびに、思うんです。いつか私が死んじゃった時に、こんな写真が残ってたら、あの時はこんなに楽しそうにしてたのに、結局、最期はあんな死に方をしてって、みんな悲しくなると思って……」

まるで自分がどういう死に方をするかわかっている、もしくは決めているかのような言い方だ。

亜美はおもむろに身をかがめ、たまきに目線を合わせると、

「バーカ」

と言ってたまきのメガネをデコピンではじいた。

「いたっ」

「ちょっと亜美ちゃん、メガネは危ないって」

「お騒がせした罰だよ」

亜美は呆れたように笑っている。

「写真があろうがなかろうが、お前が死んだらカナシイに決まってんだろうが、バカ。だいたいな、そんな自分が死んだ後のことなんかどーでもいいんだよ。どうせ自分はいないんだから、そんなんいちいち気にしてんじゃないよ」

そういうと、亜美は破れた写真を手に志保の方を向いた。

「……どうする? 先生に頼めば、写真くらいまた印刷してくれるだろうけど、どうせこいつ、また破るぞ?」

志保は天井の方を見上げてしばらく何か考えていたが、何かを思いついたのか、たまきの方を向いた。

「じゃあさ、こうしようよ。この写真は、たまきちゃんの遺影にしよう?」

「遺影?」

たまきがきょとんとして目で聞き返す。

「いつかたまきちゃんがその……死んじゃったら、この写真を遺影にするの。この子は最期は……結局死んじゃったけど、こんな楽しそうに笑ったこともあったんだよって。ならいいでしょ?」

「遺影……」

たまきはぽつりと同じ言葉を繰り返した。そして、

「悪くないです」

と言って珍しく、たまきにしては本当に珍しく、微笑んだ。

「お前、さっきたまきが言ってたこと、ひっくり返しただけじゃねぇかよ」

亜美が志保のそばに行き、小声でつぶやく。

「そんなもんだって。こういうのは、考え方次第だってば」

志保はそう言って笑った。が、急に真面目な顔つきになった。

「さっきは……ごめんね。根拠もないのに疑って」

「まったくだよ……。まあ、ウチも、言っちゃいけないこと言っちゃったかもなぁって……、思ってます……。すいませんでした……!」

亜美は志保から顔をそらして言った。だから、志保は亜美が顔を少し赤くしていることに気付かなかったし、亜美も志保が亜美のことばを聞いて呆れたように笑っているのを知らない。

「……ごめんなさい。そもそも、私が写真を破らなければこんなことに……」

「お前はもう、この件で謝んな! なんかもう、死ぬまで毎日謝ってそうだから」

亜美はたまきの方を向くと、笑いながらそう言った。

「でも、今思うと……、二人が私のために怒ってくれたのは、ちょっとうれしかったです」

たまきはぽつりとそういったが、その言葉に志保がおかしそうに笑う。

「今の言葉、なんか、魔性の女っぽいね」

「え?」

たまきは意味が分からず、志保の顔を見つめる。

「『やめて! 私のために争わないで!』って言いながら、本心では男子に自分を取り合わせて、優越感に浸る、みたいな」

「お、たまきの中の魔性がついに目覚めたか」

「ち、違います! わざとやったわけじゃないし、そもそも、二人が争っている間は、もうどうしていいかわかんなくて、あとになって少し落ち着いてから、そういえば二人とも、私のために怒ってくれてたんだなぁって思って、けっしてそういう争わせようとか……」

「わかってる、わかってるって。じょうだんだってば」

志保は笑顔で、たまきの方を優しくたたいた。

つづく


次回 第18話「労働と疲労のみぞれ雨」

シャンゼリゼでバイトをすることになった志保。一方、たまきは自分も何かバイトをしなければと焦り、周りの人に仕事について尋ねていく。

続きはこちら! 半分くらい、ギャグ回です。


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」