夢で逢えたら

ヘンな夢を見ました。

夢の中で僕は、どういうわけか「力士」っていう設定なんですよ。今、標準体重なんだけどなぁ。

そして、引退の手続きをしているんです。

力士の引退というと断髪式を思い浮かべるんですれど、そういうのじゃなくて、なんか書類手続きの準備をしてる、そんな夢でした。

そして目が覚めて、思うのです。

……夢の中でくらい、もっと力士らしいことしろよ!

力士という設定の意味がない! ただの「書類手続する夢」じゃないか!

もっとさぁ、相撲を取るとかさぁ、ちゃんこ鍋を食べるとかさぁ、力士っぽいことあるでしょ。

僕の夢なのに、全く僕の好みがわかってない。プロデューサー出て来い!

そもそも、僕の好みの話をするんだったら、別に相撲好きでも何でもないんだけど。めったに見ないし。

なぜに力士になる夢?

やっぱり今、オリンピックやってるからですかねぇ。連日色んなスポーツをやってるから、ふだん見ないスポーツでも夢に見ることだって……。

……オリンピックで相撲はやってないよ!

っていうかそもそも、オリンピックまったく見てないよ!

深夜にオリンピックのなんかの試合やってたみたいだけど、ふつうにワールドプロレスリング見てたよ。今年も夏のG1クライマックスが始まったんだよ。熱い夏が今年も始まったんだよ。いきなり大波乱だよ。

そうだ! 僕の夢なんだから、僕の好みに合わせてプロレスの夢を見せろ! プロレスラー出て来い!

まったく、一人しか視聴者がいないのに、その視聴者の好みに夢を合わせてこないなんて、一体どうなってるんだ?

ただ、たまには夢さんも僕の好みに合わせた夢を見せてくれるみたいです。

この前見たのは、大量のゾンビ軍団に襲われる夢でした。

いや、ゾンビだけなら全然好みじゃないのよ。むしろ、悪夢だよ。

次々とゾンビが現れ、追っかけまわされ、周りの人もゾンビに噛まれて感染してゾンビになるという恐怖と絶望の悪循環。

おまけに、寝ているリアルの体の方も金縛りにあって、圧迫感がすごくて息苦しい!

ぐわー! 怖い! 苦しい! 助けてー!

と、絶望と苦痛がピークになったその時!

なんと夢の中に、2年前に放送されていた「暴太郎戦隊ドンブラザーズ」のレッド、「ドンモモタロウ」が登場したんです! アバターチェンジ!

ドンモモタロウは名前の通り、桃太郎がモチーフ。そして、劇中でも「とにかく圧倒的に強い」という設定。

ドンモモタロウが来てくれたから、もう大丈夫だ! 祭りだ祭りだ!

実際、ドンモモタロウは強かった! 剣のたった一振りで一度に10体ちかくのゾンビを一気になぎ倒したんです! 必殺、モモタロ斬!(実際、と書いたけど、夢の中のお話です)。

そのあとも、僕が襲われそうになるたびに、「ドンモモタロウ、助けてー!」となると一気にゾンビを蹴散らしてくれる。こ、これが本物のヒーロー……(夢の中のお話です)。

みなさん、ヒーローは本当にいます!(夢の中なら)

空気が澱む

夏です。怪談の季節です。

先日、加門七海さんの「たてもの怪談」という怪談エッセイを読みました。

……怪談エッセイって何だよ。

建物にまつわるエッセイなんですけど、この作者さんは霊感体質らしく、実家でも、引っ越し先でも、旅行先でも、行く先々でおばけに出くわすんです。

で、作者さんも慣れてるから、「家の電球が切れちゃった」ぐらいの感覚で、「ひとり暮らしなのに廊下から足音が聞こえちゃった」という話をするんです。

で、作者さんいわく、ふしぎなことが起こりやすい場所は、空気が澱んでるんだとか。

ああ、わかるわかる。そうそう。空気が澱んでるんだよねぇ。

……わかるんかい。

別におばけを見たことはないんだけど、どうも最近、「空気が澱む」という感覚がわかるようになってきたんです。年なのかな。

いや、子供のころは普通にラップ音が聞こえてたけど、大人になると聞こえなくなったから、当時の感覚が戻ってきた、幼児退行かもしれません。ばぶぅ。

空気の澱みを最初に感じたのは、数年前に友人たちと遠野に行った時。

遠野のデンデラ野だったか、ダンノハナだったか、『遠野物語』にも登場する、村と村との境界、死者の埋葬とかをやってた場所に車で行ったとき、「あ、ここはアカン」と感じたんです。早く車を出してくれぇ、と。

そのあとも、「処刑場跡地」とかに行くと空気が澱んでるという感じを覚えることがあって。体調にも変化があって、そこの住人には申し訳ないけど「よくこんな場所で暮らせるな」と思うくらい、空気が澱んでいる。

別に何かを見たってわけじゃないんだけど、空気が澱んでいるんです。

心霊的なものというよりも、磁場が悪いのか何なのか、その土地の重苦しい記憶がいまなおその場にとどまっている、みたいな。

つい先日もそんなことがあって。

とある「大きな駅」に用事があって行ったんです。

改札を出るとわりと大きめの建物が並んでいて、やっぱり大きな街だなぁ。

ところがところが、線路沿いをちょっと歩くと、「いま、再開発してます」って感じの場所に出たんです。

そこに出た途端に、「あ、ここはマズいな」。

正確に言うと、「この辺はまだ大丈夫だけど、これ以上奥にはいきたくないな」。

空気が澱んでるんですよ。

幸い、目的地は駅からすぐのところだったのでそれ以上奥にはいかずに済んだんだけど、用事を済ませて外に出たらまた空気が澱んでて、だんだん気分が悪くなってくる。

気分が悪いまま駅前の商店街まで戻って、ここまでくればもう大丈夫だぞ、と商店街のマクドナルドに駆け込みました。

さてさて、あれ以上先に進んでたらいったいどこにたどり着いたんだろう、墓場でもあるのかな、とスマートフォンの地図を見てみたところ、進行方向の1km先に有名な心霊スポットがあったことに気づいたのでした。

処刑場跡地の時は、そこがそういう場所だと知ってて行ってるから、先入観とかあるのかもな、と思ってたけど、1km先の心霊スポットを当ててしまうのはさすがに……。そもそも、その方角にその場所があるなんて知らなかったし……。

ついに僕も、見聞色の覇気が使えるようになったか。……あんまり嬉しくないなぁ。1km先までは、わからなくていいよぉ。

あてのない旅

「あてのない旅」ほど難しいものです。

「あてのない旅に出ます」といってはみるものの、実際はある程度の「あて」がないと、ちっとも動けない。

ホントのホントにあてのないまま旅に出たところで、立ちはだかる問題が「今夜、どこに泊まるか」です。

あてのないままふらりとどこかの田舎を旅して、日が暮れたからさあ泊まる場所を探そう、と思っても、空きがなかったり、そもそも近くにホテルがちっともなかったりすると、絶望です。あてのない旅から一転、宿のない旅になっちゃいます。

そうならないためには、事前にホテルを予約しないといけない。

するとその時点でもう、「あて」ができてしまうんですね。

予約する時、チェックインの時間を入力しなければいけません。あてのない旅なんだから何時に到着するかなんて知らねぇよ、と思いつつも、「必須」と書いてあるので仕方なしに時間を入力する。

さらに言えば、せっかく予約したのに万が一にでもたどり着けないとキャンセル料をとられてしまうから、当日の新幹線の席も押さえちゃう。

新幹線のチケットを買うと、現地への到着時間もだいたいわかってきます。そんで、この街だとやっぱここははずせないよね、で、ここの施設の営業がこの時間までで、で、チェックインがこの時間だからそれまでに夕飯をだいたいこのへんで食べ……、

あてだらけじゃないか!

くっそ~。宿を予約しただけなのに、ドミノ倒しのようにほかの予定まで決まってしまった。不条理だ。納得できない。

「あてのない旅」を邪魔するトラップはまだまだあって。

電車に乗るとき、「あてのない旅」なので途中で気になった駅に降りてみることもあります。

だから、料金が前払いの切符よりも、後払いのICカードの方が都合がよい。

そんで、途中で気になった田舎町の良さげな雰囲気あふれる駅でいきなり降りちゃう。これぞまさに、憧れのあてのない旅!

でも、「田舎町の良さげな駅」は、けっこうな確率で無人駅だったりします。

そして、無人駅はけっこうな確率で、ICカードで乗り降りする設備がない!

つまり、ICカードで乗っちゃうと、改札から出られない! おまけに次の電車も全然来ない。

無人駅だから、誰も対応してくれない!

……無人駅なんだから、勝手に出てもバレないバレない。どうせまたこの駅に戻って電車に乗るんだから、無銭乗車には……。

と思って天井を見上げると、ちゃっかり防犯カメラなんてものがあって、こっちを睨んでいるのです。その予算をさ……ICカードの設備の方に……。

こうして、「あてのない旅」は「出られない駅」、そして「電車来ない時間」へと様変わりするのでした。

街道をゆけ!

少し前から、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読みはじめてます。

きっかけは何げなく見てたNHK BSの番組。そういえば、「舟を編む」もBSだったなぁ。

で、その番組は女優さんが「街道をゆく」を片手に現地を旅する、というものでした。

今まで司馬遼太郎は長編小説のイメージが強くてちょっと手が出せなかったのだけど、紀行文なら読みやすかろう、と手に取ってみることに。

とはいえ、シリーズが始まったのは50年前。本屋さんに行ってもなかなか手に入らないだろうなぁ。ということで地元の図書館に通ってコツコツと読んでいました。

内容は、日本や海外のいろんな場所を司馬遼太郎が歴史ウンチクを交えながら旅するというもの。

いや、「ウンチクを交え」どころじゃないな。7割ウンチク3割現地、といった感じです。「早く現地へ飛べよ!」と思いながら読んでます。

それでも、歴史オタクの知識自慢みたいにならないのがさすが。思うに、司馬遼太郎はただ歴史の知識を並べてるんじゃなくて、その向こうに「人間とは何ぞや」「人の歴史とは何ぞや」という問いかけが見えるのですよ。

さて、そんな図書館通いをしていたある日。

神保町の古本まつりに出かけた時のこと。なんとその「街道をゆく」の50年前に出たハードカバーがずらりと並んでいたのです!

50年前の本なのに、すっごく状態がいい! それも一個200円!

でも、ぱっと見シリーズ十数冊以上が並んでいて、全部買うと本棚が大変なことに……。我が家はワンピースだけで100冊以上あるんや……。

というわけで、最初の1巻と2巻だけ買って帰りましたとさ。もしも神保町で「街道をゆく」の1巻と2巻だけない歯の抜けたコレクションを見かけることがあったら、抜き取った犯人は私です。

そのあとも、久々に椎名誠の紀行文を読んだり。

読みながら、こういう紀行文エッセイを書く人減ったなぁ、としみじみ。

旅に出て、その内容を発信する人はいっぱいいるんだろうけど、発信の仕方はブログだったり、SNSだったり、動画だったりで、一冊の本にまとめる人が昔より減った気がします。映える写真もいいけれど、文章だけでじっくり旅路を書くっていう作家さんで新しい人があんまり出てきてないんじゃないか。時代が求めてないのかしら。

あと、旅情ミステリーを見なくなったなぁ、と思うのです。浅見光彦シリーズの内田康夫とか、十津川警部シリーズの西村京太郎とか、ああいう旅情ミステリーの新しい作家さんっていうのをあまり聞かない。

ミステリー作家はいっぱいいるし、「このミステリーがすごい!」みたいなのもいっぱいあるけど、なんか奇をてらったようなものばっかで、旅と歴史を絡めたストレートな旅情ミステリーを見なくなったなぁ。「みちのく温泉旅殺人事件」とか、「熊野古道殺人事件」とか、「近江琵琶湖殺人事件」とか、みたいな、もうちょっとひねったらどうかねといった感じのタイトルで、「東京~京都~長崎を結ぶ、愛と殺意の逃避行! 八つ橋とカステラが解き明かす親子の愛!」たいなダサいサブタイトルがつく感じのやつ。

あー、でも、いま、乗り換えとかすぐ検索できちゃうから、西村京太郎の時刻表トリックみたいなのはもう使えないのかなぁ。

画像検索なんてしないぞ

少し前にBSでやってたテレビドラマ「舟を編む」にハマって、

ドラマの中で描かれた「辞書作りにかける情熱」にほだされて紙の辞書を本屋さんで買ってきて、

原作小説も買って読んで、

で、今、図書館で原作者の三浦しをんさんのエッセイ本を借りて読む、というところまで来ました。

それにしても、「舟を編む」もだいぶ肩ひじ張らずに読める小説だったけど、エッセイの方はなんというか……文体がぶっ飛んでるなぁ。小説家っていうよりも、芸人さんの文体なんですよ。ゲラゲラ笑いながら読みました。

読んでるうちに気になったことがあって。

三浦さんはエッセイの中でちょくちょく自分のことを、身もふたもない言い方をすれば「デブキャラ」扱いしてるんですね。

その頻度がけっこう多いので、こりゃ本当にふくよかな体形なのかな、と思ったり。

いや、ほんとはちょっとぽっちゃり、程度のものを話をおもしろくするために大げさに盛ってる可能性もあるな。

そのへんのことは、たぶん画像検索をすればすぐわかることなんですよ。

でも、そこはちょっと謎にしておきたいので、あえて調べない。

僕はエッセイとかラジオとか、「発信者にシークレットな部分がある媒体」が好きなのです。

you tubeみたいに、発信者がカメラの真正面に立って、何なら自分の部屋の中まで晒して、おまけに家族まで一緒に映って、「はいどーも!」って出てくるのは、どうも慣れない。部屋とか家族とか、その辺は別に「謎なのだ」でいいじゃない。

そうじゃなくて、エッセイみたいに「文章を通して」とか、ラジオみたいに「音だけ」とか、なにかしらの壁がある方が、なんか安心するんです。

そして、その容姿についてはちょっと謎にしておきたい。エッセイにしても、ラジオにしても、声優さんにしても、自分から画像検索をすることはまずないのです。

ただ、「徹底的に姿を隠すアーティスト」に関しては、さすがにちょっとやりすぎでは?と思うこともあります。そりゃ、日本の古来の神様のやり方だ。そこまでやっちゃうとちょっと人間味が……。

別に容姿非公開なわけじゃなくて、たぶんちょっと検索すればすぐわかるんだけど、ただ、僕が無理に検索しない、ってだけです。

今時、好きなラジオとかアニメとかのSNSをフォローしてれば、ラジオDJや声優さんの写真なんてタイムラインにゴロゴロ出てきますからね。それをいちいち「わー! 俺は絶対に見ないんだぁ! スワイプ! スワイプ!」とかそんなことしてないです。「積極的に調べることはしないけど、どこかでお顔を拝見することぐらいあるだろさ。人間だもの」ぐらいの軽い気持ちです。

なんなら、生で会えるイベントにだって行っちゃう。ちょうどこのまえ、ラジオのイベントのチケット申し込みをしたところです。「イベントなんて行かないぞ! 絶対に顔は見ないんだ!」とかそんなめんどくさいこと、しない。

ただ、「気になったから、即、検索!」はしない、それだけのことです。

とりあえず、当分は三浦しをんさんの検索はしないぞ。でも、なんかの本の著者近影とかでうっかり写真見ちゃったら、それはそれでしょうがないか。

ピーマンの日々

ピーマンに生活を左右されてます。

夏野菜を植え付ける時期になって、先週の土曜日、畑にピーマンを一株植えたんです。

農園からの説明だと、ピーマンは水を多めにやらなきゃいけないみたいで、特に植えてからしばらくは週に二回のペースで水やりをしなければいけないとのこと。

週二はなかなかに難しいなぁ、と思いながら天気予報を見ると、水曜木曜と雨の予報。

雨が降るなら、わざわざ水やりに行く必要もないでしょう。むしろ、水のやり過ぎはよくないというものです。「週二回」のうちの一回は自然の雨に任せて、次の水やりは週末にしよう、と、水曜日は畑とは反対方向の駅前でいろいろと仕事をしていたわけです。

……雨なんか降らないじゃないか!

予報では「昼過ぎから大雨」と言っていたから、畑にはいかなくていいやとこっちに来たのに、昼下がりまでカンカン照り。

雨雲レーダーを見てみると、よその地域は土砂降りだというのに、僕の地元だけ巧妙に雨雲が避けているんですよ。

週末まで畑に行かない、ということで予定を立てていたのに、この後も雨が降らなかったら、予定を立て直して木曜日に畑に行かなきゃいけない。木曜日に畑に行くということは、木曜日の予定を他の曜日にずらすということで、木曜日の予定を他の曜日にずらすということは、ほかの曜日の予定をまた別の曜日にずらすということで、中にはずらしようのない予定もあって……。

ピィ~~~~~! ピーマン、ピィ~~~~~~~~!

そんなことを考えながら、水曜日の空模様を見つめていると、次第に水墨画のように黒い雲がモクモクと沸き立ち、世界の終わりかと思わんばかりに空は雲に覆われ、夕方から一気に土砂降りになりました。

良かったよかった。これで予定を立て直ししなくて済む。土砂降り土砂降り、ランランラン♪

畑には他にも、ナス、ミニトマト、エダマメ、バジル、サンチュ、マリーゴールドを植えています。わずか二畝だけど、野菜と葉っぱとお花でいっぱいです。

ミニトマトを植えるのは二回目で、わきにはバジルを植えています。これはミニトマトが水を嫌う一方で、バジルが水を好むので、近くに植えておけばバジルが余分な水を吸ってくれるからだそうで。

それでもなお、ミニトマトはデリケートです。去年もいくつかひび割れたミニトマトがあって、どうやら水の与え過ぎが原因ではないかと……。

さっき、土砂降りが降ったがね。そこまで降らなくてもいいよってくらいに。

ピィ~~~~~~! ミニトマト、ピィ~~~~~~~~~~!

「舟を編む」を見る

久々に連ドラを見てます。

NHK BSで日曜日に放送しているドラマ「舟を編む」

小説を原作とした、出版社の辞書編集部を舞台とする物語です。

前から興味はあったんだけど、小説も映画もなかなか手を出すのはおっくうで。

で、今度連ドラでやるというので、とりあえず初回だけでも見てみようかなと。見続けるかどうかはそれから考えるということで見始めたんですけど、一話目がしっかり面白くて、見続けてます。

辞書作りに没頭する馬締さんの役を、RAD WIMPSの野田洋次郎が演じてるっていうのがいいです。

稀代の作詞家である野田さんが、言葉を探求する辞書編集者を演じるというのは、説得力があります。

RADの時の野田さんはどこかクールな印象があったので、その野田さんがさえないけどキマジメで、言葉と真摯に向き合う辞書編集者を演じてるというのはなかなか面白い。RADの曲を聴いてても、「この歌を歌ってる人が、『舟を編む』の馬締さんを演じてるんだっけ?」と、どうしても頭の中でつながらない。

キャスト的には、かっこいい刑事役のイメージが強い柴田恭兵さんが、紳士的な国語学者を演じているというのも、なかなか面白いです。

キャストだけでなく、ストーリーももちろん面白い。「SHIROBAKO」もそうだけど、僕はこういうモノづくりをテーマにしたお話が好きみたいです。

特に面白いのが、辞書のソフト面である「言葉」だけじゃなくて、ハード面である「紙」へのこだわりも描かれているところ。他社よりも軽い辞書にしたいと考える馬締さん。だけどそのオーダーを受けて製紙会社の人が持ってきたサンプルをチェックした馬締さんは首を横に振る。

「ぬめり感がなくなっています」

以前のサンプルにはあった「ページをめくるときに手に吸い付いてめくりやすくなる感覚」が新しいサンプルにはないのだそうで。おまけに、紙を軽くするということはつまり薄くするということで、そのぶん強度が弱くなることでもあるのです。

本当に、モノづくりを始めると、ソフトだけでなく、ハードの部分にもこだわり始めます。沼です。

ここで言う「沼」とは辞書的に言えば「俗用」というやつで、「一度はまると奥が深くて抜け出せなくなる状態」というやつですね。

でも、僕はこの言葉はあんまり好きじゃなくて。

だって、沼にはまったらもう死ぬしかないじゃないですか。ヤダよ、そんなの。

「沼にハマる」よりも「森に迷い込む」の方が僕はしっくりきます。森なら生きていけるし、沼よりも視界は開けてるし。

イヤぁ、言葉って面白い。

そして、言葉を詰め込んだ辞書作りを描く「舟を編む」も面白い。

ただ、ひとつ心配事があって。

今回のドラマ、原作にかなり変更を入れているらしいんですよ。

ドラマと原作の関係が何かと言われている昨今、原作にだいぶ手を加えているみたいだけど、大丈夫なのかな。

と思ったけど、番組のホームページで原作者・三浦しをんさんのコメントがあって、「脚本を笑いながら読ませていただきました」と書いてあったので、大丈夫なのかな。

まあ、『舟を編む』は2011年の作品で、これまで映画化されたりアニメ化されたりしている小説ですから、それをいま改めてドラマ化するとなると、「原作とは少し違う形で」というのがベストなのかもしれません。

8年前のドカ雪

この前は久々のドカ雪でした。畑仕事をはじめて、はじめて、はじめての冬です。あれ? はじめて一個多いかな?

人や車が往来する道路には雪は残らなくても、畑にはしっかり雪が残ってました。

屋外の流し場にも雪が積もって泡風呂みたいになってました。

雪の中で野菜の様子をチェックしようと「トンネル」と呼ばれる装備を外そうとするけど、雪解けの泥でぐちゃぐちゃ。ただ野菜の様子を見たかっただけなのに泥遊びをする羽目に。

ニュースを見てると参考までにと、8年前の大雪の映像を流してました。

ああ、懐かしいなぁ。

2015年2月14日。あの日のことはいまだに忘れない。血のバレンタインならぬ、ドカ雪のバレンタイン。

その日、大好きなHOME MADE 家族のライブが、さいたま新都心のライブハウスであったんです。

ところが、異例の大雪。電車は動くのか、ライブは開催されるのか、そもそもHOME MADE 家族は会場に来れるのか。不安は尽きません。

ただ幸いなことに、さいたま新都心はぎりぎり徒歩圏内だったので、交通機関が止まっても会場に行ける。大雪の中をひいひい言いながらライブハウスまで歩きました。

無事ライブも始まり、HOME MADE 家族はステージに立つなり、「今日は本当によく来たな!」。ふつうのライブの10倍くらい歓迎されました。

会場はいつものライブより若干すきまがあって、ああ大雪で諦めて来れなかった人もいっぱいいたんだろうなぁ、と。

そして始まるライブ。「アイコトバ」「少年ハート」などの定番の名曲から、新曲まで、ライブパフォーマンスがすぐ目の前で繰り広げられます。その曲で飛び跳ねたり踊ったりするぼくたちオーディエンス。

武道館で一万人を前に歌ったり、テレビで電波に乗せて歌ったり、ラジオで何度も流れたりして、大勢の人が聞いてる曲たちを、今日このライブハウスに大雪のなか必死でたどり着いた数百人のためだけに今歌ってくれてる、これはライブの究極の醍醐味だなぁ。たぶんアーティスト側の視点でも、「大雪の中で必死で来てくれた限られた人たちのためだけに歌う」ということはなかなかないんじゃないかな。

それから半月ほどして、毎週見ていた深夜の番組「さまぁず×さまぁず」を見ていた時です。

「さまさま」はさまぁずの二人がお客さんの前でトークをする、というだけのシンプルな番組。でも、毎週録画するほど好きでした。

さまぁずの二人がお客さんの前に出てきて、あいさつをしてからトークが始まるのですが、その回は出てくるなりお客さんに向かって、「今日は本当によく来てくれた!」といつもの10倍の大歓迎。

ああ、あの日だ。あの日の収録だ。

きっと、さまぁずの二人も、お客さんも、ひいひい言いながらテレ朝のスタジオに行ったんだろうなぁ。

君たちはどう疲れをとるか

最近、「いかに疲れをリカバリーするか」に力を入れています。

一流のアスリートは「どれだけ練習するか」よりも、「いかに体をケアして、いつも通りの実力を発揮するか」に力を注ぐって言います。

僕も一流の市民なので、「いかに疲れをとって、次の日も元気に動けるか」を考えねばなりません。

たとえば、マッサージチェア。近所のイオンに100円200円でできるマッサージチェアがあって、たまに使うのですが、凝りがほぐれてホニャホニャになります。

よし! マッサージチェを買おう!

と思ったけど、いくつか問題が。

まず、シンプルに値段が高い! 旅館に泊まって温泉に浸かった方がマシじゃ! ってくらいの値段がします。

おまけにデカくて場所をとる。

マッサージチェアを買ってしまったら、今ある椅子は邪魔なので捨てなきゃいけません。壊れてもいないのにマッサージができないただの椅子だから捨てられるとは、なんて不憫な子。

あと、マッサージチェアではいつも全身コースでやってるんだけど、

よくよく考えると、別に全身やってもらう必要はなくて、腰だけだったり、背中だけだったり、肩だけだったりでいいような……。

でも、せっかくだしもったいないからと全身コースで10分15分ほどやってみるんだけど、終わってからやっぱり思う、「腰だけでよかったな……。肩とか腕とか、いらんかったな……。そのぶん腰を重点的にやってもらえばよかったな……」

全身やってもらう必要がないんだったら、あんなにバカでかい必要もないわけで。もっとコンパクトなものにして、その時その時で必要な個所を重点的にマッサージすればいいのでは……。

というわけで、マッサージ器具があるお店をいろいろとまわってみました。

で、この前2000円ぐらいで買ったのがのが、このイボイボ付き鉄アレイみたいなやつ。樹脂なので鉄よりずっと軽いけど。

これを椅子と背中・肩の間に挟んだり、足で挟んだり、布団においてこれの上に直接寝たり、

これだけで硬くなった筋肉がほぐれて、ホニャホニャになります。

あと、こいつを枕元に置いておけば、朝起きれないときにこれを背中と敷布団の間に挟めば、「痛い! 痛い! 起きる! 起きます!」ってこともできます。

痛いということは、それだけ筋肉が凝り固まってるということ。どうやら寝てるだけでもそれなりに筋肉が固まってしまうようです。だから朝がだるいのか。

80㎏まで耐えられるので、僕が全力で踏んづけなければ大丈夫。

いま、さらに5000円の「超電動ブルブルボール」、と僕が勝手に呼んでるやつを買おうかどうかを考えています。イボイボと電力、二つの力を使いこなせれば、さらなるホニャホニャの境地に達することができるんじゃないか、と。

あと、イボイボは加減を間違えるとかえって体を痛めるし。

理想は、疲れを残さず、翌日も元気に動き回ること。

今のところ、イボイボのおかげで翌日に疲れが残らなくなりましたとさ。

これは発明だ!

引き続きですね、大人数の飲み会には参加したくない、っていう話です。

思えば、そもそも居酒屋の机自体が、20人、30人という大所帯の飲み会に向いてないんじゃないですかね。

どこのお店に行っても、お客さんが大所帯となると、机をくっつけて、テトリスの長~い棒みたいな形にしてます。

これだと、何十人で来ようが結局、隣と正面とはす向かいの5人ぐらいしか会話できません。遠く離れた席で会話が盛り上がってても、聞こえやしない。だったら最初から四、五人で来るのとそんなに変わらないじゃないか。

そういえばあのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に描かれているのも、長~い机でした(しかもなぜか、全員が同じ方を向いている)。これだと端っこの人は、イエス・キリストの話が聞けていなかったかもしれません。

イエス「この中に裏切り者がいる……」

弟子「え、なになに? よく聞こえない」

絵をよく見てみると、一番左端の弟子はイエスの方に向けて身を乗り出しています。やっぱりよく聞こえてないじゃないか。

右端の3人は話に夢中でイエスの方を見ていません。やっぱり聞こえてないじゃないか。

なにが「最後の晩餐」。これじゃまるで「よくある飲み会」です。最後の晩餐なんだから、もっと配慮した机を用意してあげてよ……。

そういや、イエスはもともと大工じゃないか。だったら、その場で机をのこぎりで半分に切るとかさ、色々と工夫が……。

なんの話だっけ?

やっぱり、細長い机っていうのがよくない。

特に、僕は左利きなので、僕の左側に右利きの人が来ると、高い確率で食事の時に肘がぶつかっちゃう。

つまり、細長~いテーブルの場合、僕が座れる席は列の一番左端の二か所しかないんです。

だからいつも、しゃべれる相手は、正面、横、はす向かいの4人だけ。

どーりで大人数の飲み会が楽しくないわけだ。

そう考えると、中華料理屋の丸テーブル、あれこそ、大勢で食事する時にうってつけの机なんじゃないのか?

細長いテーブルだと、テーブルをどう並べようが「一番遠い人」はめちゃくちゃ遠くなります。

でも、丸テーブルなら「一番遠い人」はなんと真正面に来る!

これは、発明だ!

しかも、中華の丸テーブルなら真ん中が料理を乗せてぐるぐる回るから、後輩が料理を取り分けるみたいな気づかいもいらない!

これは、発明だ!

そうなんですよ。「円」という図形は、数学的には「中心から同じ距離の場所を線で引いたら浮かび上がる図形」なので、丸テーブルの真ん中に料理を置けば、全員から等しく同じ距離になるのです。

これは発明だ!

そのうえ、丸テーブルに左端なんてない!

これは発明だ!

よし、特許をとろう!