東大行く前に四の五の言え!

「ドラゴン桜」のドラマをまたやるらしい。あのドラマにはいい思い出がない。

と言っても、実は見たことないのだけれど。

何で見たことないのかというと、僕が通った大嫌いな高校がまさに、「四の五の言わずに東大に行け!」をリアルにやる学校だったからだ。

学校でさんざん先生から「四の五の言わずに東大へ行け!」と言われ続けて、どうして家でもテレビから同じことを言われなければいけないのか! 不条理だ! 納得できない!

というわけで、前回の「ドラゴン桜」は見てない。今回も見ない。高校時代のトラウマがえぐられるからだ。っていうか、番宣のCM見ただけで十分えぐられてる。これは理屈の問題ではない。

そもそも、僕は高校生の時、「四の五の言わずに東大へ行け!」と言われ続けたのに、四の五のどころか六七八九十くらいうだうだ言い続けていた。「学部にこだわらず、つべこべ言わずに、上位の学校に行け」というのがどうしても納得できなかったからだ。その結果、東大じゃほとんどやってない民俗学を学びに、民俗学を専門的に学べる激レア大学に進学することになる。

四の五の言いまくるのは大学卒業後も変わらず、「四の五の言わずに働け!」という社会で今度は八十八から百八ぐらいまでうだうだ言って、地球一周の旅に出る。

そして今、民俗学のZINEを作ってる。四の五の言い続けることに関しては、地球上の誰よりも自信がある。

だいたい、「四の五の言わずに東大へ行け!」と、大人が若者の選択肢を狭めるようなことを言うなんて、ひどいじゃないか。キングギドラだって「公開処刑」と言いつつ、3つも選択肢を用意してくれたっていうのに。

『おめぇに三つの選択肢を与えよう。死ぬか、戦うか、ビッチみてぇに訴えるか』

「公開処刑」とケンカ売った相手にすら三つも選択肢を与えるのに、前途ある若者に「東大に行け」とひとつしか選択肢を与えないのはあんまりだ。若者の可能性を殺しにかかってるとしか思えない。「公開処刑」ならぬ「東大処刑」だ。きっとBOY KENも同意見だと広辞苑に書いてあるはずだ。

ちなみに、ウチのリアルドラゴン桜高校に言わせると、東大に行った方が、そのあといろんな選択肢が生まれる、ということらしい。

だけどそれはあくまでも「学力が大事な世界」での話。「受験勉強して東大に行く」というルートの前にも、いろんな道がいっぱいある。

いや、むしろ、「学力が大事な世界」の方が意外と世の中では少数派かもしれない。

姜尚中の「悩む力」という本の中に、こんな一説がある。姜尚中が韓国の大学を訪問した時、わき目もふらずに勉強している学生を見て違和感を抱いたのだという。それは青春と言えるのか、と。

姜尚中にとっての青春とは、自分は何者なんだろうとか、人生とは何なのだろうとか、そういったあれこれに思いを馳せて、悩み、苦しみ、悶々とする時期のことを言う。そういった青春こそが真に人生を豊かにするのだ、と。つまり、「勉強ばっかりしてないで四の五の言いなさい」ということだ。

姜尚中は東大の名誉教授だ。東大の名誉教授が「若いうちは勉強よりも四の五の言う方が大事」と言っているのだ。

さあ、若者よ、四の五の言おう。勉強は後からいくらでもできるけど、若いときに四の五の言わないと、四の五の言えない大人になってしまうぞ。

ちなみに、「令和版ドラゴン桜」の放送に先駆けて、平成版ドラゴン桜の名言集みたいなのをたまたま見た。なるほど、ドラゴン桜はすばらしい名言がいっぱいあるらしい。人気があるわけだ。

だけど、それはマンガだからだ。「リアルドラゴン桜高校」は名言など残さず、「勉強しろ」しか言わなかった。現実は厳しいのだ。

あしたてんきになぁれ 第31話あとがき

第31話を読んでくれたあなた、ありがとう。いつにもまして長かったでしょ(笑)。

1話目からずっと読んでくれているあなた、本当にありがとう。ここまで長かったでしょ。

この31話目だけ読んだよと言うあなた、ありがとう。……話、ついていけてます?

31話目にして今回初めて「あとがき」なんてものを書いているのですが、なぜかというと、この31話目が「あしなれ」という小説にとって、特別なエピソードだからです。

亜美、志保、たまきの「家出」「不法占拠」という冒険は、まだまだ続きます。

まだまだ続くんだけど、終わりが見えない(笑)。実は最終回の内容と、そこへ向けた展開はもう頭の中にあるんですけど、まだまだ消化したいエピソードがいっぱいあって、いつそこにたどり着くのやら。

もしかしたら、最終回を書く前に、僕の人生の方が先に最終回を迎えてしまうかもしれません。もしそうなったらこの小説は「未完」として放置されることになります。

なので、「本当の最終回」はまだまだ先なのですが、「もし、ここでシリーズが終わるのだとしたら」という「とりあえずの最終回」としてこの第31話を書きました。

この「とりあえずの最終回」は、僕としては「セーブポイント」に近い意味です。ラスボスと戦う前に一応セーブしとこう、と同じノリです。「僕になんかあった時のために一応、現時点での最終回書いとこう」。

もしもこの先、僕がうっかり腐った饅頭でも食べて死んでしまった時は、この第31話が最終回だったんだと思ってください。

もちろん、「あしなれ」のお話はまだまだ続きます。その証拠に、第32話は実はもう書きあがってます。それどころか、「新章突入」です。

あと、「本当の最終回」は、こんなもんじゃないです。

これからも、亜美、志保、たまきの冒険はまだまだ続きます。「城」を飛び出し、街を飛び出し、南へ、西へ、北へ、東への大冒険です。

とりあえず、次回からたまきには少し冒険をさせようと思ってます。ちょっとだけ「南」に行ってもらおうかなぁ、と。

では、第32話「風吹けば、住所録」でお会いしましょう。

小説 あしたてんきになぁれ 第31話「桜、ところにより全力疾走」

お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。あしなれ第31話、スタート!


第30話「間違いと憂欝の桜前線」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


たまきが駅に来るのは久しぶりだった。

駅のそばで暮らしているのだから、駅の近くに来たことは何度もある。だけど、駅そのものを利用したのは、この街に来て以来、ほぼ一年ぶりだ。シブヤに行ったときも、あの時もバスを使ったので、駅には来ていない。

なんだか切符を買って改札をくぐってしまうと、ここではないどこ遠くに行ってしまいそうな気がする。

たまきにとって駅とは、いわば羅生門だ。きっと駅の二階には、恐ろしい顔をした鬼とか、死体から髪の毛を抜く婆とかがいるのだろう。

たまきが駅に来たのは、死体になって婆に毛を抜いてもらうためではない。

志保とともにギンザに行くためだ。

少し前にたまきは、ミチから薄群青のパーカーをもらった。それを見た志保は、パーカーの下に着る服もパーカーに合わせたものがいいといい、たまきと一緒に買いに行くという話になったのだ。

たまきとしては、今持っている服を着て、その上に羽織ればいいじゃないか、と思うのだが、そんなたまきに志保は言った。

「たまきちゃん、おしゃれに手を抜いちゃだめだよ! 自分磨きの第一歩は、おしゃれだよ!」

たまきとしてはちゃんとお風呂でごしごしと自分を磨いて洗っているつもりなのだが、志保から見ると全然足りないらしい。しぶしぶ、たまきは服を買いに行くことにした。

 

たまきは切符の販売機の前に立ち、路線図で「有楽町」という駅を探して、そこまでの運賃分の切符を買った。「楽しいことが有る町」と書いて「有楽町」。

ふと、何日か前に亜美に言った言葉を思い出す。

『私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!』

切符を買い終えて振り返ると、志保が改札の前で手招きをしていた。志保はたまきが来るのを確認すると、

「じゃ、いこっか」

と言うと、パスケースを改札機にかざして、中に入った。

当然、すぐ後ろをたまきがついてきていると思ったのだが、しばらく進んでからたまきがいないことに気づき、振り返ると、たまきはまだ改札の外にいた。ぽかんとした様子で志保を見ている。

「どうしたの?」

「い、今の、どうやったんですか?」

「今のって?」

「だって、切符入れてないのに、改札が開いて……」

たまきはまるで魔法使いにでも出会ったかのように目を丸くしている。

「え、だってこれ、かざすだけで入れるよ?」

「でも……お金は……」

「チャージしてるから……」

今度は志保が目を丸くする番だった。たまきはこういう、改札にすいっと入れるカードの存在を、知らないのだ。たまきがそういうものを持っていないのも、見たことがないのも知ってはいたけど、まさか、どうやって使うのかすら知らなかったとは。なんだか、ジャングルに住む未開の部族に出会った気分だ。

 

写真はイメージです

がたんごとんと緑の電車に揺られ、有楽町にやってきた。そこから歩いてギンザへと向かう。

ギンザを選んだのはもちろん志保だ。志保いわく「せっかくだから、少し背伸びしてみようか」。この「背伸び」というのはどうやらつま先立ちのことではないらしい。

地元の商店街に「銀座」の名がつくものがあるので、たまきはなんとなく商店街のような場所をイメージしていた。だけど、たまきが実際に目にしたギンザは、町全体におしゃれが漂っていた。それもただのおしゃれではない。清潔感・高級感ともに、たまきが今まで訪れたどの町よりも洗練されていた。

周りを見渡しても、入っただけで入場料を取られるんじゃないかと思うくらいおしゃれなお店ばかり。

こんな街を、たまきのような、もらったパーカーを羽織っただけの子が歩いたら、おしゃれ警察、いや、おしゃれポリスに連行されてしまうのではないか。

たまきは不安そうに志保を見た。こんな街に、本当にたまきでも着れるような服なんて売っているのか。

志保はたまきの不安を察したらしく、

「大丈夫。たまきちゃんに似合う服もきっとあるから。自信持って」

と言うと、たまきを前に向かせた。もしかしたら、たまきの服を探すというのを口実に、ただ単に志保がギンザに来てみたかっただけなのかもしれない。

 

高速道路をくぐったところに、車一台が通れる程度の、小さな道があった。横断歩道はあるが信号はない。

この道を渡ろうとして、たまきは横断歩道の右側を見た。そこには、横断歩道を横切るつもりなのであろう、数台の車が列を作って止まっていた。どうやら、横断歩道を渡る歩行者が途切れるのを待っているらしい。

たまきは、道を渡らずに立ち止まった。

「どうしたの? 渡らないの?」

と志保が問いかける。

「……ちょっと待てば、この車が全部行っちゃうと思うんで」

止まっている車は3台か4台ほど。車通りもそんなに多くない。

歩行者がみんな、ほんの十数秒待てば、止まっている車はすべて通り抜けるはずだ。それを待ってから渡ろう。たまきはそう考えたのだ。

 

十五分が過ぎた。

たまきと志保は、ずっと同じ場所に立っていた。

「たまきちゃん、そろそろ……」

と志保がたまきの方を、少し心配そうに見る。

「でも……」

たまきは、右側をちらりと見た。

横断歩道の右側には、5、6台の車が並んでいた。

ほんの十数秒、歩行者全員が道路を渡らずに待ってあげれば、車が全部通過して、渋滞もなくなる。たまきはそう考えていた。そう考えたから、ずっとそこに立っていた。

ところが、ほとんどの歩行者は、立ち止まることなく道路を渡っていった。

多くの車が、ずっと前に進むタイミングを待っているのに、みんな平気な顔して道を渡っていく。ほんの十数秒待てば車は全部通過して渋滞がなくなるはずなのに、我先にと道を渡っていく。

十五分の間、道路を渡る人の流れは、ほとんど途切れることはなかった。

たまに歩行者が途切れるときがあった。先頭の車はその隙を見つけて横断歩道を横切り、先へと進む。

だが、2台目の車がそれに続こうとすると、必ず歩行者が渡り始め、車の行く手を遮るのだ。車は前に進みたそうにゆっくりと動くのだが、歩行者たちはお構いなしにわたっていく。運転手さんが苦笑いしているのを、たまきは何度も目撃した。

先頭の車が抜けてから、2台目の車が抜けるのに、数分かかった。そうこうしている間に、後ろには新しい車が並ぶ。渋滞はいつまでたってもなくならない。

ほんの十数秒、立ち止まってあげるだけで渋滞はなくなるのに、どうしてみんな立ち止まらないんだろう。どうして車の行く手を遮ってまで、ほんの数mほどの道を急いで渡りたいんだろう。

ふとたまきは、中学の時に国語の授業で習ったお話を思い出していた。地獄にたらされた蜘蛛の糸に、罪人が我先にと押し寄せ、自分だけ助かろうとしたばっかりに、蜘蛛の糸がぷっつりと切れて、地獄に逆戻りする、そんなお話だ。

たまきにとって一番驚いたのは、たまきの目の前で我先にと、車の行く手を遮って道を渡る人たちが、地獄に落とされるようなみすぼらしい罪人ではなく、たまきよりもおしゃれな人たちだったという事だ。

亜美の周りにいるような、いかにも悪人という人たちではない。手をつないだカップルだったり、ベビーカーを押す若いママさんだったり、スーツを着たサラリーマンだったり、高級そうな服に身を包んだおばさんだったり、おしゃれに気を遣うおじいさんだったり。皆、人のよさそうな笑顔を浮かべていた。

きっとみんな、家出や不法占拠のような、間違ったことをしているたまきなんかよりも、ずっと立派に人生を生きている人たちなのだろう。

何より、みんなたまきよりもずっと、おしゃれだった。

「たまきちゃん……」

志保がたまきの袖を引っ張る。

「ひきこもりだ……」

たまきがぽつりとつぶやいた。

「……たまきちゃん?」

みんなみんな、ひきこもりだ。

おしゃれというのは、人により良く自分を見せるためにやるはずだ。

なのに、目の前の横断歩道を渡っていく人たちは、おしゃれな人たちばかりなのに、ちっとも周りが見えていない。周りが見えていれば、車がずっと歩行者が途切れるのを待っていることに気づくはずだし、立ち止まるはずじゃないか。

おしゃれをして、人には自分を見てほしいくせに、自分は人を、周りを全く見ていない。自分磨きだなんていうけれど、結局それって、自分のことしか見ていないだけなんじゃないか。

それじゃまるで、ひきこもりじゃないか。外を歩いていても、心の中はひきこもりじゃないか。

しましま模様の横断歩道を、途切れることのない人の流れを、困ったようにハンドルを握る運転手さんの顔を、眺めながら立ち尽くすたまき。そんなたまきを志保は困ったように見ていたが、少し考えると、たまきに声をかけた。

「じゃあさ、車の列の一番後ろに回ろっか。列の一番後ろに回って、そこから渡ろうよ。そうしたら、車の妨げにもならないでしょ?」

たまきは、渋滞の列の一番後ろへと視線を投げかけた。4台目にトラックが止まっていて、その後ろは見えない。

たまきは無言で、車列の一番後ろに向かって、道沿いに歩きだした。志保もそれに続く。

あのまま、意地で横断歩道の前に立ち尽くしていてもよかったのだけれど、さすがにもう疲れたのだ。

立ち尽くすことが疲れたのではない。

自分のことしか見ていない「おしゃれなひきこもり」の顔を見続けることに、疲れたのだ。

ほんの十数メートル歩いただけで、車列の最後尾にたどり着いた。そこから二人は道路を渡る。

十数秒待てば、渋滞はなくなる。

十数メートル歩けば、車を遮ることなく道を渡れる。

どちらも、ほんのちょっとだけ人に優しくなれれば、なんてことのないことのはずなのに、誰もそれをしようとしない。

 

そのあと、志保とたまきはいくつかのお店をまわった。デパートの中のお店だったり、若者向けのお店だったり。

お昼になって二人は、カフェでランチを食べていた。

「ちょっと背伸びしすぎたかなぁ」

と志保は、フォークにパスタを巻き付けながら笑った。

たまきは無言で、フォークにスパゲッティを巻き付ける。

「でも、確かにたまきちゃんは、原宿系って感じじゃないよね。もうちょっと落ち着いた感じの方が似合いそうだし。そのパーカーも落ち着いた感じだから、もうちょっと探してみたら似合うやつが……」

「……もういいです」

たまきは静かにそういった。

「え?」

「もう、おしゃれなんかしなくていいです……」

そういうたまきを、志保はまた困ったように見ていたが、すぐにやさしく笑った。

「そんなことないって。むしろ、たまきちゃんは自分に合ったファッションが見つかれば、すごくかわいくなると思うよ。そうだ、午後はアメ横とか行ってみようか。安くてたまきちゃんに似合いそうなのが……」

「だから……そういうのはもう……いやなんです」

たまきはコップの水に視線を落としたまま、つぶやく。

おしゃれだの、自分磨きだのというけれど、結局は自分のことばかり気にして、それでいて周りのことは全然見ていない。

そう考えたら、おしゃれに気を遣うのが、急にばかばかしくなったのだ。

志保も、立ち尽くしていた十五分の間にたまきに何かがあったことを察したらしい。少し言葉を選ぶように考えあぐねる。

「でもさ……、亜美ちゃんのお花見に、たまきちゃんも行くんでしょ? まあ、亜美ちゃんのファッションに合わせることはないけど、少しぐらいおしゃれしても……」

「……お花見には、行きません」

たまきは視線を上げることなく言った。

「……断ったんです」

「そうなんだ……」

志保にはたまきが、ジャングルの未開の部族ではなく、その部族ですらめったに見つけられないような、密林の奥地に住む色鮮やかな蝶々のように思えた。

「じゃあ、帰ろっか。あ、ごめん。帰る前に、あたしの買い物しちゃっていいかな?」

たまきは、無言で頷いた。

 

写真はイメージです

「ただいまぁ」

「お、お帰り」

志保とたまきが「城」へ戻ると、亜美が一人で、テレビを見ながらハンバーガーをほおばっていた。机の上にはポテトとチキンナゲット、さらにコーラが置かれている。

「服買いに行ったんだろ? どんなの買ってき……」

亜美の言葉が言い終わらないうちに、たまきは衣裳部屋へと飛び込み、スケッチブックの入ったリュックを引っ張り出すと、

「……出かけてきます」

と言ってすぐに外へ出て行ってしまった。たまきが「城」に入ってから外へ出ていくまでにかかった時間としては、最短記録だったかもしれない。

階段を下りながら、たまきはふうっとため息をつく。

亜美からのお花見の誘いを断ってから数日の間、どうにも亜美と顔を合わせるのが気まずいのだ。

別に、ケンカしたわけではない。亜美はたまきがお花見に来ないことを了承してくれた。

なのにあれ以来、たまきは亜美と顔を合わせるのが気まずくなってしまったし、亜美の態度にも何かよそよそしさを感じる。

別に、避けられているわけではない。意地悪をされているわけではない。

なのになぜか、よそよそしいのだ。

まるで、振出しに戻ってしまったかのような感覚だ。1年ほど前、初めて亜美と出会って、まだどんな人なのか全然わからなかった頃のよそよそしさに。

 

たまきが出ていったドアを亜美はなんだかさみしそうに見つめていた。

「結局たまきちゃん、何も買わなかったんだよねぇ。これはあたしの買い物」

そういって志保は洋服の入ったビニール袋を机の上に置いた。

亜美は志保の方を振り向かないし、返事もしない。

「……ねえ、たまきちゃんと何かあった?」

「んあ?」

不意を突かれたように、亜美が振り返る。

「あたしが気付かないと思った? ここしばらく、二人ともなんかヘンだよ。絶対なんかあったでしょ?」

そういうと、志保は亜美の隣に腰掛けた。

「まえにさ、たまきちゃんはあたしと亜美ちゃんの間を取り持つ緩衝材だ、って話したじゃん。なのにさ、そのたまきちゃんと亜美ちゃんがなんか変な感じになっちゃったら、あたしまでピリピリしてくるんですけど」

亜美にしては珍しく、何も言うことなく、自分の膝のあたりを見ていた。

「たまきちゃん、お花見の誘い、断ったんだって? それってなんか関係ある?」

志保は亜美の顔をのぞき込む。

「どうせ亜美ちゃんが、絶対来いよとか、無理強いしたんでしょ?」

「そ、そんなことしてないし……!」

「じゃあなんで、二人が気まずくなってんのよ」

「べ、別に……」

亜美は、隠し事をしている子供のように、志保から目をそらした。

「じゃあ、例えば、嫌がるたまきちゃんに、お花見に来ればなんだかんだで楽しくなるとか言って来させようとしたとか……」

亜美は驚いたように目を見開き、無言で志保の方に振り向いた。

「図星だ……」

志保があきれたようにため息をついた。

「それで、たまきちゃんはなんて言ったの?」

「ウチとあいつじゃ……、楽しいと思うことが違うんだって……」

亜美はポテトを口にくわえたまま、片膝を抱えた。

「それ聞いてからさ、なんか考えるようになっちゃってさ……。ひょっとしたら、ウチが今まであいつに良かれと思ってやってきたことって、もしかしてあいつにとっては楽しくなかったのかも知れないって……」

そこで亜美は、志保の顔を見た。

今度は、志保が驚いて目を見開いていた。

「え? いまさら?」

「な、なんだよ、いまさらって」

「たまきちゃん楽しんでないかもって、いまさら気づいたの?」

「……は?」

「は、じゃないよ。無理やりクラブに連れてったり、無理やりクリスマスパーティさせたり、ああいうの、たまきちゃんが楽しんでると思ったの?」

「え、あいつ、楽しんでなかったの?」

そこで志保は、また深くため息をついた。

「たとえばさ、去年の暮れにさ、三人でボウリング場に行ったじゃない」

「ああ、行った行った……」

そこで亜美は、大きく身を乗り出した。

「おい、まさかあれもたまき、楽しんでなかったっていうんじゃ……」

去年の暮れ、クリスマスの少し前に、三人は近くのボウリング場に行った。

亜美は持ち前の運動神経の良さを発揮して、好スコアをたたき出した。投げるたびに何か変な掛け声を発していたことを除けば、なかなか様になっていた。

志保もボウリングは何度か経験があり、それなりにできたが、体力が続かず、途中からは見ているだけになった。

たまきは、それまでボウリングを全くやったことがなかった。ボウリングの球も持ったことがないし、ボウリングシューズも履いたことがない。

当然、いきなりうまくいくわけがない。たまきの投げたボウリング玉は、まっすぐ進まずにすぐにガーターへと落ちた。

しばらくすると、亜美の懇切丁寧な指導が入った。

「いいか、この手のスポーツは、まずはフォームをしっかりと覚えることが大事なんだ」

「こういうのはな、全身運動なんだよ。腕の力だけで投げるんじゃなくて、体全体でボールを押し出すんだ」

「投げるときに掛け声を言うと、パワーが3倍になるんだぞ。プロボウラーだってみんなやってるんだからな」

亜美のアドバイスはどこまで信憑性があるのか、志保にはわからなかった。それでもたまきは素直に従っていた。亜美に教わったフォームをまねして、腕だけでなく全身でボールを押し出すようにして、投げるときは小さく「えい」と言っていた。

そんなことを繰り返すうちに、次第にたまきのボールの飛距離が伸びていった。

そして何度目かの投球で、たまきのボールはガーターに落ちるか落ちないかのぎりぎりのところを転がっていった。

「いけ! そこだ! 落ちるな! 行け! 行けー!」

これは、亜美の絶叫である。

そしてとうとう、ボールはガーターに落ちることなく、一番右端のピンを捉えた。ボールに当たって足元をすくわれたピンは跳ねとび、もう一本別のピンを倒した。

「やったぞ、たまき! 2本も倒れたじゃねぇか! 初めてですごいぞ! おい、ハイタッチだハイタッチ! やったやった!」

この時、志保は自分のボールを取りながら見ていた。

大はしゃぎでハイタッチを求めてくる亜美に対し、たまきもハイタッチで返すものの、顔が全くの無表情だったことに。

そのあと、たまきは最高で6本のピンを倒した。だが、たまきの無表情がほころぶところを、ボウリング場内で志保が見ることはなかった。

「マジかよ……」

志保の話を聞いて、亜美は半ば信じられないといった顔をしていた。ボウリングに行って、初心者とはいえそれなりにピンを倒して、楽しくない人間などこの地球上に存在するというのか。

「でも、あいつ、反応薄いだけで内心では楽しんでたんじゃ……」

「いくらたまきちゃんでも、楽しかったらちゃんと笑うでしょ。誕生日の時は、やっぱり楽しそうだったよ」

そう言われると、誕生日の時は、相変わらず表情は硬かったけれど、たまきなりの笑顔をしていたような気がする。

「あたしが覚えてるのはね、投げるたびになんか、首傾げてたなってことかな」

「自分の投球に納得いってなかったんじゃないの? ほら、あいつ、生真面目じゃん」

「そうかな。あたしには、『これ、なにが楽しいんだろ?』って首傾げてるように見えたけど。むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ」

「なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!」

亜美は、ソファのクッションをバシンとたたいた。

「じゃあさ、ウチがあいつ連れてったゲーセンとか、ビリヤードとか、ダーツとか、ああいうのも……」

亜美の問いかけに、志保は少し考えて、

「帰り道の方が楽しそうだったね」

「だからなんで帰り道なんだよ!」

今度は亜美はクッションを手に取って放り投げた。

「他には……えっと……ここで野球の試合見せた時とか、ロックバンドのアルバム借りてきて聞かせたときとか……」

亜美の問いかけに、志保は静かに首を横に振った。

「今年の夏に、あいつをサーフィンに連れて行こうと思ってたんだけど……」

「やめといたほうがいいんじゃないかなぁ」

亜美は背もたれに思いっきり寄りかかる。

「えー……。じゃああいつ、なにしたら『楽しい』って思うんだよ……!」

なんだか、初めてたまきに出会った頃にも、こんなことを言っていたような気がする。

「でも、ほら、たまきちゃんって絵が好きじゃない。今もどこかで絵をかいてるんじゃない? だからさ、例えば美術館に行くとか……」

「そんなの、ウチが楽しくねーよー!」

「ほらね」

そういって志保は微笑む。

「亜美ちゃんとたまきちゃんじゃ、楽しいって思うことが違うんだよ」

そういうと志保は、体ごと亜美に向き直った。

「自分ばっかり楽しんでないで、もっとちゃんと、周りを見なさい」

「……はい」

亜美にしては珍しく、素直にこうべをもたげた。

「話は変わるんだけどさ……」

そういって志保は亜美に尋ねた。

「車が1台ぐらいしか通れない、小さな道があったとするじゃん?」

「……何の話だよ」

「その道をさ、歩行者がひっきりなしに渡っていくの。で、その歩行者が渡り切るのを、何台もの車が待ってる。亜美ちゃんが歩行者で、その道を渡りたいって思ってたら、どうする?」

「は?」

亜美は質問の意図がよくわからない。

「渡るに決まってんだろ。みんな渡ってんだろ?」

「たまきちゃんはね、そこでずっと待ってるの。みんなが道を渡るのをやめて、車が全部いなくなるのを。みんながちょっと立ち止まれば、車は全部進めるはずだから、って」

「はぁ? 暇なのかよ、あいつ」

そういって亜美は腕を組んだ。

「たとえば道の向こうにからあげがあるとするだろ。そうやってのんびり待ってる間にさ、からあげがなくなってるかもしれないだろ? ウチだったら赤信号でも渡るね」

「信号無視はダメでしょ」

そういって志保は笑う。

「ほらね。やっぱり、亜美ちゃんとたまきちゃんは、違うんだよ」

 

写真はイメージです

南風が桜前線を押し上げ、週末になると東京でも桜が花開き、散りゆく花びらが風を、土を、桜色に染め上げた。

金曜日に、たまきはいつもの公園を訪れた。たまきにも多少の風流な心があったらしく、桜色に染め上げられた公園を絵に描きたいと思ったのだが、平日にもかかわらず、多くの花見客でごった返し、なんだか風に舞う花びらよりも、人の数の方が多いような気がして、たまきは引き返してしまった。

それ以来、たまきはひきこもりっぱなしだ。お風呂に入りに行ったり、コインランドリーに行ったり、外出と言えばそれくらい。

志保は木曜日にバイト先の花見に出かけた。もちろん、同じバイトをしている田代も一緒だったはずだ。

亜美はというと、日曜日が近づくにつれ、誰かと電話したり、メールをしてる時間が長くなった。亜美にしては珍しく忙しくしてて、あまり「城」の中にはいない。正直、たまきとしてはその方がありがたかった。いまだに、亜美とどう接すればいいのかがわからない。

一方で、亜美がどこかへ行き、志保がバイトに行って、一人で「城」の中でお留守番をしているのは、どことなく寂しかった。一人ぼっちにはもう慣れっこのはずなのに。

相変わらず、心のどこかがもやもやしたまんま、たまきは日曜日を迎えた。「城」の中に積まれていた、花見用の段ボールたちは、前日の深夜にどこかへと運び出された。

薄暗い部屋の中でたまきが一人ぼんやりしていると、志保が帰ってきた。志保はこの日、午前中はいつもの施設へ、午後はバイトへと、忙しくしていた。

帰ってきた志保は、ソファに座り、足をソファの上に投げ出した。

たまきは、そんな志保の顔をちらりと見る。

「志保さんは……」

たまきは恐る恐る尋ねた。

「お花見……行かないんですか……」

「この前行ってきたよ」

と志保。

「そうじゃなくて、亜美さんのお花見のことです……」

「行かないよ」

志保はきっぱりと言った。

「誘われたけどね。たまきちゃんが行かないのに、あたしだけ行っても、ねぇ」

たまきは、志保の方を向いた。

「そんな……別に私に気を使わなくても……」

「そうじゃないよ。あたしも、亜美ちゃんのお友達はあまり得意なタイプじゃないもん。いったってどうせ楽しめないし、たまきちゃんが行かないんだったら、なおさらだよ」

そういって志保は笑った。そういえば、クリスマスの時もそんなことを言っていたような気がする。

「そういえば、バイト先の人に聞いたんだけど、この辺の川のそばも、なかなかの桜スポットらしいよ」

「この辺の川、ですか?」

「この辺」に川などあっただろうか。

「そう、あっちの方にね」

と言って志保は、北西を指さした。

「有名な川だよ。昔の歌のタイトルにもなっててね」

と言って志保は軽くメロディを口ずさんだが、たまきはその歌を知らなかった。もっとも、志保の音程が正しかったとは限らないが。

「ここからだと歩いて三十分ぐらい。せっかくだからさ、二人でちょっとお花見してこない?」

「二人で……ですか」

「そう、二人で」

たまきはしばらく黙っていたが、静かに頷いた。

 

写真はイメージです

歓楽街を出て、高架に沿って二人は歩いていく。夕焼け空に照らされた漆黒の高架は、まるで強固な城壁のようにも見える。

いつもたまきが公園へ行くよりも、少し長い時間を歩いた。

コリアタウンを抜け、アジアタウンを抜け、昔ながらの商店街を抜け、やがて二人は、川辺に出た。

そこは川と言っても、コンクリートで模られた道に、水を流しているだけのようにも見える。無機質で直線的な河床とは対照的に、川辺に植えられた桜の木々は花開き、その命を以って春を鮮やかに奏でていた。空はすでに紺色に染まっている。

風に吹かれて舞う花びらが、わずかな街灯の明かりに照らされてきらめく。まるで、朝日を反射して輝く波しぶきのようだ。そのまま花びらは川面へと吸い込まれ、桜色に染め上げる。

川には橋が架かっていて、たもとにはコンビニがあった。二人はコンビニでおにぎりやお菓子、飲み物を買うと、橋の上に立った。桜の枝の向こう側にもう一本、橋があって、その上を電車が走り抜けていった。

川沿いの遊歩道には幾人かの花見客がいて、桜を携帯電話で写真に収めていた。それでも、都立公園の花見客に比べればほぼいないに等しい。この場所を狙ってやってきたのではなく、たまたま通りがかった人たちなのだろう。

二人は、遊歩道のベンチに座った。見上げた桜よりも少し高いところに街灯があり、その明かりは花びらを通り抜けて、志保とたまきの足元を照らしていた。

「きれいだねぇ」

「うん……」

たまきは、散りゆく花びらの一つ一つをぼんやりと見つめていた。何も考えずに、ただ花びらを見つめていた。

ふと、たまきが目線を落とすと、志保がたまきにお菓子を差し出していた。

「ふふ。やっと気づいた。食べる?」

「はい……」

たまきはおかしを受け取り、口にくわえた。

「花びらずっと見てて飽きないの?」

「まあ……」

「ヘンなの」

そう言って志保は微笑む。

たまきは志保を見やると、お菓子をほポリポリとほおばりながら、再び花びらへと視線を戻した。

今ごろ亜美は、公園で大勢の友達とともにどんちゃん騒ぎをしているのだろうか。

志保と二人でのお花見はどんちゃん騒ぎをすることもなく、たまきの心の中はだいぶ穏やかだ。

……穏やかなのだが、どこかさみしさをたまきは感じていた。

それも、不思議なことに、今までたまきが感じたことのないさみしさなのだ。

街の喧騒も、電車の音も、風の音も、何か不完全なものに聞こえるような、不思議なさみしさ。

それは、一人ぼっちの時に感じる、空き缶を押しつぶすようなさみしさとは明らかに違う。

まるで、音の鳴らないピアノを弾いているかのような、物足りなさ。

たまきは視線を落として、そのさみしさをゆっくりと噛みしめていた。

志保はお茶を飲みながら、そんなたまきをじっと見ていたが、やがて背もたれによりかかると、言葉を漏らした。

「やっぱり、亜美ちゃんがいないと、さみしいよねぇ」

その言葉に、たまきは思わず志保の方を見た。

志保は、たまきの考えていることがわかったのだろうか。

それとも、志保もたまきと同じことを考えていたのだろうか。

たまきの感じていたさみしさ。それは、亜美がいないことによるものだった。

志保と二人でのお花見も、決して悪くはない。

だけど、いつもいるはずのもう一人がいない。

いつもの三人じゃない。

たったそれだけで、片腕をどこかに置いてきてしまったかのように世界が物足りなく感じる。

一人ぼっちのさみしさだったら、誰でもいいからそばにいてくれれば、紛らわせるけれど、「亜美がいないさみしさ」は、亜美にしか埋められない。

ほかのだれかでは、代わりにはならないのだ。

志保がたまきに何かを差し出した。今度は、お菓子ではないようだ。

「電話してみよっか」

志保がたまきに差し出したのは、携帯電話だった。

「呼んじゃおっか、亜美ちゃん」

「でも……それは……私のわがままです……」

たまきはそういって下を向く。

「亜美さんも向こうで……友達と楽しく過ごしてるかもしれないのに……私のわがままでこっちに来てほしいだなんて……」

「たまきちゃんだけのわがままじゃないよ。あたしのわがままでもあるんだから」

そういって志保は、優しく微笑む。

「いいんじゃない、たまにはわがまま言っても。どんなわがままだって言葉にしなきゃ伝わんないよ。来るか来ないかを決めるのは亜美ちゃんなんだし。それに、もしかしたら、向こうも同じこと考えてるかもよ?」

「え?」

「そしたら、もう、わがままじゃないでしょ?」

 

写真はイメージです

 

日が暮れてすっかり夜になった。都立公園は漆黒の夜空を桜で覆い隠し、ライトが桜を明るく照らし、大勢の笑い声が彩を添えていた。

その中でひときわ、目を引く一角があった。

ブルーシートの上には、動物園に行けば「ヤンキー」や「パリピ」に分類されていそうな連中が集まっていた。髪を派手に染め上げていたり、そうかと思えば坊主頭だったり、刺青を彫ったり、金属ジャラジャラだったり、サングラスをしてたり。「不良の集まり50人セット」と称して、ドン・キホーテで売られていてもおかしくない。

男に比べれば数は少ないが、女もいる。これまた、セクシーを通り越して、破廉恥の領域に片足を突っ込んだような恰好をしている。

少なくとも、こんな場にたまきが来てしまったら、なじめないどころか、泣き出してしまったかもしれない。

さて、亜美はというと、その中でもひときわ、破廉恥の親分みたいな恰好をしていた。

胸の谷間を強調した、緑のタンクトップに、下はダメージジーンズ。それだけだと寒いので、黒い皮のジャンパーを羽織っている。

金髪はいつものポニーテールをほどいてバッサリと下ろし、キャップを被っていた。

亜美はブルーシートから少し離れたところで、なにをするでもなく、集まった群れを見ていた。

笑い声が飛び交い、紙コップには酒が注がれ、反対にゴミ袋の中には潰れたビールの缶が詰め込まれていく。ところどころに、無造作に開けられたスナック菓子や、チョコの包み紙が置かれていた。

「どうだよ。俺がちょっと声かければ、これだけ集まるんだぜ」

ヒロキが酒を片手に笑う。傍らで赤ん坊を抱いている少女は、ヒロキの嫁だ。確か、亜美よりも年下だったはず。

「亜美さん、お疲れっす」

声をかけられて、亜美は振り返った。シンジというひょろ長い男が、女を連れて立っている。

「んあ、来たの」

「そりゃ、亜美さんに来いって言われたら、来るに決まってるじゃないっすか、ねぇ」

確かこいつは最初、来れないとか言ってたはずだった気がするが、なんだか今の亜美にはどうでもよいことに思えた。

亜美がやっていることは援助交際とはいえ、知らないオジサン相手におバカな子ネコちゃんを演じて小遣いをもらうような小娘の遊びとは違う。身一つでこの街に流れ着いた亜美にとって、それは生きていくための稼業に他ならない。

ほぼ無一文だったころは、カネをくれるのであれば「誰とでも」だったが、ある程度金が手に入ると、客を選ぶようになった。

誰とつるめば、どんなグループに身を置けば、この街で自分の座る椅子を確保できるか。

不良がたむろするこの街で、自分と同じ匂いをまとった連中を見つけるのは、そう難しくはない。その中で、どのグループに近づけばいいか。この街の中でそれなりに力があって、亜美のような人間がすんなりと溶け込めそうなグループ。力と言ってもそれは必ずしも暴力を指すとは限らず、経済力だったり、人脈だったり、情報網だったりする。

そうして、自分の居場所となるグループを見つけたら、なるべく、ボス猿の近くへと行く。

そのころにはすでに、亜美が援助交際をしているという事は知られていたので、当然、ボス猿やその取り巻きからもそういう目で見られる。一緒に酒を飲んで話していれば、次第に向こうから誘ってくる。金を出して誘えばノッテくる、「どうせそういうオンナだ」と思われていたのだろうが、亜美としても、自分から誘惑する手間が省けるので好都合だ。どうせ恋愛をするつもりなど最初からないし、相手が自分のことを手頃な玩具程度にしか思わなかったとしても、別に構わない。こっちだって手頃な番犬程度にしか思っていないのだから。

問題は、そのあとである。いかに相手を満足させるか。一夜限りのおもちゃなどで終わらず、いかに深い関係となるか。「情婦」としても、「飲み友達」としても。

ボス猿集団と常日頃から仲良くし、ベッドを共にし、軽いオンナというイメージを持たれる一方で、ボス猿集団よりもランクの劣るサルたちの誘いには応じなかった。

後ろ盾ができたからだ。ランクの劣る男たちの誘いを無碍にしても、「あいつはボスのオンナだから」の一言で許される。

そうすることで、次第にグループの中での亜美の立ち位置も変わってきた。ボスのお気に入りで、ボスやボスに近い連中としか誘いには応じない。それより下の男たちにとっては、亜美は決して手を出すことが許されない、高級娼婦のような高嶺の花。

ブランドのバッグのなにがそんなにすごいのかわからないけど、とりあえずハリウッド女優が持ってたからほしい、でも高くて買えない。でもいつかは欲しい。それと同じ理屈だ。

そうして亜美は、この街に自分の椅子を作ってきた。

花見だの、クリスマスだの、クラブのパーティだのといったイベントごとは亜美にとって、自分のこの街での立ち位置を確認するという側面もあった。自分がどういう立ち位置にいて、どれほどの影響力を持っているのか。

亜美には、王様がピラミッドを作らせたり、マスゲームをさせたりする理由が、ちょっとだけわかった。きっと、お城の中で玉座に座って、王冠をかぶっているだけでは、自分が本当に王様なのか自信がなくなってしまうのだろう。たくさんの人間が、自分の一声で集まり動いているところを見ないと、自分が王様だと信じられないのだ。

そして、今見ている光景はまさに、彼女が楊貴妃であるという事を確かめるには十分なものだった。

なのになぜだろう。何かが足りないと感じてしまうのは。

ここは自分の国で、そして自分は王様なのに、見知らぬ国にいるような気がして仕方がない、そんな物足りなさ。

亜美はどうにも、集まったサル山の中に入って共に騒ぐ意欲が、不思議と涌かなかった。

ふと、視界の端に目を向けると、ミチの姿があった。彼もまた、ヒロキに「絶対に来いよ」と脅され、亜美に「お前、来るよな」と念を押された、哀れな下っぱ猿の一匹だった。

ミチは誰かと話していた。相手はどうも、亜美たちが呼びつけた仲間ではない。

年は六十以上だろうか。煤けた顔には濃いしわが刻まれている。白髪頭にキャップを被っている。どうやら、ホームレスらしい。

「すいませんね、なんか、騒がしくしちゃって」

「なぁに、公園はみんなのものだ、わしらのものじゃない。好きに使うがいいさ」

そういって老人は笑う。話しぶりからして、どうやら二人は知り合いのようだ。

ミチのやつ、ホームレスと一体どういう知り合いだろう、と少しだけ興味を持った亜美は、ミチに近づいてみた。

「よっ、なに、しりあい?」

亜美が声をかけるとミチが振り向く。一方のホームレスは、

「じゃあ、そろそろ出かけるとするか」

と傍らの自転車に手をかけた。

が、ふと動きを止め、亜美の方をじっと見た。

「な、なんだよ」

「あ、いや、亜美さん、この人、別に怪しい人じゃなくて……」

老人は亜美の顔をじっと見ると、

「お前さん、どこかで会ったか?」

と尋ねた。

「あ?」

「いや、会ってはないな。だが、どこかで見た気がする。さて、どこだったか……」

亜美は一時期、お金がないとき、ホームレス相手に「シゴト」をしていたこともあったが、このホームレスとは会っていない。あのとき相手していたのは、もっとだらしなさそうなおっさんばかりだ。

一方の老人は不意に「ああ、そうか」と一人合点したように笑った。そして亜美の方を見ると

「お嬢さん、今日はずいぶんとさみしそうだな」

とだけ言い残すと、自転車をこいで、公園の闇の深い方へと消えて行ってしまった。

「は……」

「あ、あの、ほんとに変な人とかじゃないんで……」

ミチが取り繕うように言葉を添えるが、亜美は無視して歩き出した。

呼びつけた仲間たちのそばへと戻っていく。

ああそうか、自分はさみしかったのか、と亜美は一人で納得した。

自分が一声かければ、これだけの人数が集まる。

なのに、志保とたまきは来なかった。

別に来なくてもよかった連中ばかりが集まって、本当に来てほしかった二人は来なかった。

たまきに「お花見には行きません」と言われて以来、どこかさみしさを抱えていたのは、たまきが「本当に来てほしかった友達」だったからだ。

たまきに「いいから来いよ」なんて言えなかったのは、亜美にとってたまきが、単なる頭数合わせなどではなく、「本当に来てほしかった友達」だからだ。つまらなそうにしててもとりあえず人数がそろえばいい、などと言うのではない。純粋に、一緒にお花見を楽しみたかったから、「嫌々来ている」では意味がないのだ。

たまきに断られた後、たまきとの接し方がわからなくなってしまったのもその「嫌々来ている」をずっとたまきに強いてしまっていたのではないかという、後悔からくるものだった。

ふと、携帯電話が鳴った。

画面を見てみると、志保からだった。

確か、たまきと一緒に「城」にいるはずである。今からでも来るのかと思ったけれど、たまきを置いて一人で来ることはないだろう。

「もしもし?」

「あ、亜美ちゃん? 今、お花見中?」

「そうだけど……」

電話口の志保の向こうに、電車の駆け抜ける音が聞こえた。

「ん? お前、外にいるのか?」

「うん。いま、たまきちゃんと二人でお花見中」

「お花見?」

「そう、二人で」

「そう……」

「それでね、たまきちゃんが亜美ちゃんに言いたいことがあるんだって」

「……たまきが」

「うん。……亜美ちゃん、覚悟して聞いた方がいいよ。それじゃ、代わるね」

しばし、沈黙が流れる。

「あ、あの……亜美さん、こんにちは……」

「……おう」

たまきはなんだか、初めて亜美と話すような口ぶりだ。亜美も、たまきの声を聴いたのは、久しぶりだったような気がする。

「あの、亜美さん……」

たまきはそこで、一呼吸置いた。

「亜美さんも……こっちに来ませんか……」

「え?」

再び、沈黙が流れた。

「こっちで一緒に……お花見しませんか……その……三人で……」

「……バーカ」

亜美は、どこか力なく言った。

「ウチ、これでも幹事だぞ。抜けられるわけねぇだろ」

「そうですよね……。ごめんなさい、わがまま言って……」

「……お前らさ、今、どこいんの?」

「え? えっと……ここ……どこなんでしょう?」

たまきは振り返って、志保に尋ねた。

「あの……、東中野駅の、川のそば、だそうです」

「だそうですって、なんでお前、自分がいる場所、わかってねぇんだよ」

そういって、亜美は笑った。

 

携帯電話をポケットにしまうと、亜美はブルーシートの上のサル山を見やった。

あちらこちらで笑い声が起きる。全員が同じ方を向いているのではなく、いくつかのグループに分かれ、そのグループもやはり、集団内の序列ごとにまとまっているように見える。まさに、サル山だ。

亜美はサル山を見つめていたが、ふと目線を落とすと、半歩後ずさった。

誰も亜美に声をかけるものはいない。

一歩、二歩、亜美はゆっくりと、路面に丁寧に足跡を刻むようにゆっくりと、集団から離れてみた。

誰も亜美に声をかけない。

三歩、四歩、五歩六歩七歩八歩。

亜美は少しずつ歩調を速めるも、誰も、亜美を引き留めない。そもそも、亜美が少しずつ離れていることに、気づいていない。

「……んだよ」

亜美が声をかけてこんなに集まったのに、亜美がその場を離れようとしても、誰も声をかけない。

九歩、十歩、十一歩十二歩十三歩。

夜の漆黒の周りを桜色が縁どる空に、亜美のスニーカーが砂利を踏みしめる音が響いた。

そのまま砂利を磨り潰すように回れ右をすると、亜美は集まった輩に背を向けて、勢いよく走り出した。

スニーカーが激しく地面をたたく。その度に桜の花びらがわずかながらも地面から舞い上がる。

公園から道路へと向かう坂道を、亜美は一気に駆け抜けた。

道路に出て、横断歩道に差し掛かる。信号は赤。車は、数十メートル先に、一台近づいているだけだった。

亜美は構わず、横断歩道に躍り出た。

横断歩道から少し離れていたところを走っていた車のライトが、亜美の姿をかすめるように捕らえる。亜美と車の間にはかなりの余裕があったが、車はクラクションを鳴らす。

クラクションをかき消すように、亜美は舌打ちをした。

うるせぇな。今すぐぶつかるようなキョリじゃねぇだろ。ちょっとぐらい待ってろ。

こっちはな、今行かなかったら、二度とあいつらとお花見なんかできねぇかもしれねぇんだよ。

横断歩道を渡り切ると、亜美は縁石を飛び越えて歩道へと着地する。背後を先ほどの車が駆け抜けていくが、亜美は目もくれずに、ビルの隙間の路地へと踏み出した。

どうして王様の景色を捨ててまであの二人とお花見がしたいのか、どうして自分は走っているのか、亜美にもその理由はわからなかった。

それでも、胸が高鳴る理由が、走っていることで酸素を欲している、だけでは決してないことはわかった。

たぶん、たまきに何かを誘われたのなんて、初めてかもしれない。

それがなんだか、嬉しかった。

 

写真はイメージです

桜の花開く川沿いは、さすがに川のせせらぎが聞こえるほどではないけれど、それでもすぐ近くの都心に比べれば、静寂に包まれていた。

志保はお菓子の袋を手に持ち、それをたまきの方にも向けていたが、たまきの様子を見て、思わず笑ってしまった。

たまきはしきりに、川下の方に視線を飛ばしていた。

「そんなに亜美ちゃんが来ないか気になる?」

その言葉にたまきは、驚きと気恥ずかしさを隠さなかった。

「べ、別に、そういうわけじゃ……それに、断られましたし……」

「どうかな、あんがい来ちゃうかもよ。でもね」

そういって志保は優しく微笑んだ。

「来るとしたら、そっちじゃないと思う」

「えっ」

たまきはもう一度、「そっちじゃない」と言われた方角を見やった。

「だって、私たち、こっちから来て……」

「でも、亜美ちゃん、公園にいたんでしょ。だったら、来るのはこっちじゃなくてあっち……」

そういって、志保が川上を指さした時、ちょうどその方角から、何者かが

「とうっ!」

と跳び上がった。道路から川沿いの遊歩道へと続く段差を飛び越えたのだ。

そのまま、すたっと着地を決める。

「え?」

「亜美ちゃん?」

志保とたまきが、同時に目を見開いた。

「はあ……はあ……、疲れた……走ったー!」

亜美は肩を落とし、胸で大きく息をしている。

「亜美ちゃん、走ってきたの?」

志保の問いかけに、亜美は無言で頷く。

「ズボンがボロボロですよ? 途中で転んで破けちゃったんですか?」

「バーカ、ダメージジーンズだよ!」

「……え?」

「最初からこういうデザインだっつーの!」

「はあ……」

どうしてわざとぼろぼろのジーンズを作るんだろう、とたまきは疑問に思ったが、それよりももっと気になる疑問があった。

「亜美さん、どうしてこっちに来たんですか?」

「お前が来いって言ったからだろ!」

「でも、幹事だから抜けられないって……」

「あー、思ったほどそうでもなかったわ。はっはっは」

それを聞いたたまきは、志保の方を振り向いて、少し得意げな顔をした。

「どうです、志保さん。私が一声かければ、亜美さんだってきちゃうんですよ?」

「ほんとだね。すごいよ、たまきちゃん」

珍しくどや顔のたまきだったが、不意に背後から亜美の手が伸び、たまきにチョークスリーパーホールドを仕掛ける。

「『亜美さんだって』ってウチ以外お前の一声で誰が来るんだよ!」

「ご、ごめんなさい! 一度言ってみたかったんです!」

「あ、あたし、たまきちゃんの一声で来ちゃうよ」

「二人だけじゃねぇか!」

「でも、舞先生もよく、たまきちゃんの一声で来るじゃない。『また切っちゃいました』で」

「リスカの手当てに来てるだけだろそれ!」

亜美は一通りたまきをいじめると解放した。今度はたまきがハアハアと息をつく。

「でも……二人だけでもうれしいし……二人だけで……十分です……」

そういってたまきは、恥ずかしそうに笑った。

「この三人が……いいです」

「じゃあ、亜美ちゃんも来たことだし、乾杯しよっか」

志保は、傍らのレジ袋の中から、コーラの缶を取り出した。

「なんだよ、酒はねぇのかよ」

「あるわけないでしょ」

亜美は不服そうにコーラを開ける。

「それじゃあ、我らの変わらぬ友情を祝して、乾杯!」

「カンパイ」

「……かんぱい」

缶同士が軽くぶつかり、こすれる音がする。

「変わらぬ友情」というけれど、あの頃よりは何かがちょっと変わってるんじゃないか、そんなことをたまきは考えていた。

 

亜美はコンビニでからあげを買うと、ベンチに腰掛け、もりもりと頬張っていた。そんな亜美を挟むように、右側に志保、左側にたまきが座る。

「ところでさ、たまき」

「はい?」

亜美は隣のたまきを、のぞき込むように顔を向ける。

「お前、年末に行ったボウリング、楽しくなかったってマジか?」

「え……まあ……」

たまきは申し訳なさそうにうつむくと、わずかに首を縦に動かした。

「なんでだよ! ボウリングだぞ! 何がそんなに不満なんだよ」

「え……だって……ボウリングってボール投げるじゃないですか」

「そりゃそうだろ。ボウリングだもんよ」

「転がるじゃないですか」

「あたりまえだろ」

「ピンに当たって、倒れるじゃないですか」

たまきはそこで言葉を切ると、亜美の方を見た。

「……それで、どうすれば……?」

「どうすればってお前、そこで喜ぶんだよ」

「……なんで喜ぶんですか?」

「なんでって、ボールが当たってピンが倒れたら喜ぶだろ!」

たまきは困ったように志保を見た。

亜美も困ったように志保を見る。

志保は困ったようにはにかんだ。

「つまりたまきちゃんが言いたいのは、投げたボールが転がって、当たったピンが倒れるのは当たり前だから、それで喜ぶのはヘンじゃないか、ってこと?」

たまきは無言で、こくりとうなづいた。

「当り前じゃねぇだろ。お前、最初ガーター連発だったじゃねぇか。ピンに当たるようになるまでけっこうかかっただろ」

これまたたまきは、無言でうなづく。

「ボールがまっすぐ転がってるとき、たまきちゃんはどう感じたの?」

「ああ、まっすぐ転がってるなぁって……」

「そのあと、ピンに当たって2本倒れたろ」

「ああ、ピンが倒れたなぁって……」

たまきは二人の目を見た。

「それで……どうすれば……」

「そこで喜ぶんだよ!」

「……なんでですか?」

「それがボウリングだろ!」

たまきは、わからない、といった感じで二人を見る。

「お前、なにしたら楽しいって思うんだよ」

「……昔もそれ、聞かれた気がします」

たまきは下を向いた。前髪がたまきの目を、眼鏡ごと覆い隠す。

「今、こうしてるのは……楽しいですよ」

満月の下でお酒を飲んだ夜、シブヤに行ったときの夕暮れ、誕生日を祝ってもらった夜、真夜中に散歩して、日の出を見た明け方、一年にも満たない日々だけれど、亜美と志保に出会う前よりも、思い出ははるかに増えた。

「私……ちゃんと楽しんでますよ……」

「そっか」

たまきの顔を見てどこかほっとしたように、志保は笑った。

「あたしも、楽しいよ。亜美ちゃんは?」

志保に聞かれた亜美は、恥ずかしそうに笑った。

「これで酒があったら最高だけどな。ま、からあげがあるから、よしとするか」

ふと、亜美は先日のやり取りを思い出していた。

『むしろね、あの日はボウリングしてた時よりも、帰り道の方が楽しそうだったよ』

『なんで帰りの方が楽しそうなんだよ! 十分ぐらい歩いて、途中コンビニ寄ってっただけじゃねぇか!』

特別なことなんて何もしなくていい。

この三人で、同じ時間を過ごすこと。

このなんでもない時間こそが、たまきにとって楽しかったんだ。

「ウチも、まあ、楽しいよ」

そういって亜美は空を見上げた。桜の花びらの向こう側に、いつかの夜のように、まあるい満月が見えた。

つづく


次回 第32話「風吹けば、住所録」

「城」に、特にたまきの身に大事件が勃発! たまき16歳の「ひとりでできるもん」、開幕! 続きはこちら!


第31話あとがき


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

ネットで何と言われようと構わない

ネットやSNSをしていると時々、汚い言葉で噛みついてくる輩がいる。もはや社会問題だ。

だけど、僕はネット上で何言われようが、まったく気にしない。

「言いたい奴には言わせておけ」の境地だ。往々にして向こうがイキってカラ回ってるだけなので、犬が吠えているのと大して変わらない。特にこちらから何かすることはないし、何を言われても気にしない。犬に吠えられたからと言って、いちいちその内容を吟味して落ち込むことなんてない。

もちろん、いくら何でも面と向かって言われればさすがにへこむ。相手が顔見知りであったらなおさらだ。それは真摯に受け止め、本気で反省します。

だが、ネット上で顔も名前もわからない様なやつだったら、別になに言われてもどうでもいいや、と思っている。

すなわち、「言いたい奴には言わせておけ」というわけだ。相手がそれで気が済むなら、好きなだけ言えばいいじゃないか。いちいち耳は貸さないけど。

そして、黙って通報&ブロックである。

こういうのは、「反論しないと負け」「反論できないと負け」ではない。

「ムキになった方が負け」だ。弱い小型犬ほどよく吠え、明らかに強そうな大型犬ほど以外におとなしいものだ。

こっちが相手にしてないのに、やたらとムキになって吠えたてるような奴は、基本的に小型の室内犬だと思うようにしている。

室内犬はよく吠える。でも、室内犬だから広い世界を知らない。野生の力関係もわからない。室内犬がやたらと元気なのは、彼らが室内で飼い主にかわいがられながら暮らしているからだ。

本当に強い大型犬は、やたらに吠えたりはしない。強いから、余裕があるのだ。

「人間にネットで罵詈雑言を吐かれた」と思うから腹が立つのであり、「ガラスの向こうで室内犬がやたらと吠えてる」という風に思えば、途端にかわいく思えてくる。そして3日もすれば、何を言われたかすら思い出せなくなる。

室内犬に吠えられたからと言って、ムキになって本気で蹴っ飛ばしたりしたら、さすがにかわいそうだ。だから特にやり返したりはしない。

だけど室内犬の皆さんはたいてい、「やり返さないと負け」「逃げると負け」「反論しないと負け」と思っている。だからこそ、蹴っ飛ばそうが踏んづけようが、吠えて噛みつくことをやめない。

そんな室内犬にかまってあげるのはめんどくさい上に、時間の無駄だ。蹴っ飛ばそうが踏んづけようが首の骨を折ろうが、彼らはけっして負けを認めない。だからと言って、息の根を止めてしまうのは大人げない。

めんどくさいので、室内犬はブロック&スルーして、勝ち星を譲ってあげよう。何を言われようが「はいはい、その通りですよ、悪かったね」と軽く受け流す。大丈夫。室内犬に勝ち星を譲ってあげたぐらいじゃ、大型犬のプライドは傷つかない。本気で戦えば大型犬の方が強いのは、誰の目にも明らかだからだ。

いくら吠えても怖くないから、気が済むまで好きなだけ吠えなさい。時間がもったいないから、かまってあげないけどね。

小説 あしたてんきになぁれ 第30話「間違いと憂欝の桜前線」

自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。「あしなれ」30話目、スタート!


第29話「パーカー、ときどきようかん」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「ねえ、これ見て見て! どうしたと思う?」

「城」の中へと戻ったたまきと亜美に、志保はカバンを見せつけた。今まで志保が持っていなかったカバンだが、たまきの乏しいおしゃれ語彙力では「見知らぬカバン」以外の言葉が見つからない。

「えっと、どうしたんですか、このカバン」

たまきの問いかけに、隣にいた亜美が

「聞かねぇ方がいいって」

と忠告したが、それを言い終わるより早く志保は、

「カレからもらったの! やだもう! 言わせないでよ!」

というとたまきの肩を強くたたいた。

亜美の大袈裟な舌打ちが聞こえる。

カバンなんかもらって、何がそんなにうれしいのか、たまきにはわからない。 そもそも、志保はほかにもカバンを持っていたはずだ。そっちのカバンはどうしたんだろう。穴でも開いてしまったのだろうか。

「ウチ、タバコ吸ってくるわ」

すでにたばこのヤニをはらんでいるかのような声で亜美は言うと、部屋を出て行ってしまった。

たまきは「城」の中を見渡す。いつもに比べるとやけに片付いていて、なんだか今まで自分が暮らしてきた場所とは違うところみたいだ。

どことなく、「踏み荒らされた」そんな気がした。片付いているのに「踏み荒らされた」だなんて変な感じがする。

なんとなく居心地が悪いままにたまきがソファに座っていると、志保が正面のソファに腰を掛けた。

「それで、たまきちゃんはそのパーカー、誰からもらったの?」

「ふえ?」

弾丸が心臓に正確に命中した、そんな気がした。

「どど、どうしてもらったって……思うんですか?」

危うく「どうしてもらったってわかったんですか」と言いそうになったたまきだったが、すんでのところで言葉を変えた。

「だってたまきちゃん、自分じゃお洋服買わないじゃん」

「そ、そうなんですけど……」

「それに、自分で買うとしても、たまきちゃんが選ぶ色って大体、ブラックとかグレーとかじゃん。ブルーは選ばないでしょ」

たまきは視線を落とす。自分がいま身に着けている、黒いスカートと灰色の靴下が目に入った。

「その……ミ、ミチ君のお姉さんにもらったんです」

嘘ではない。ミチは「姉ちゃんと一緒に選んだ」といったのだから。

「どうしてミチ君のお姉さんが、たまきちゃんにパーカーをくれるの?」

「さ……さあ……」

「ふーん」

志保の表情からは、志保がたまきの答えをどう判断したのかはうかがい知れない。

「そのパーカーだったらさ、インナーもそれに合わせたやつ着た方がいいよ」

「……はあ、そうなんですか」

「今度、一緒に買いにいこっか」

「は……はい」

よくわからないが、たまきは今度、志保と一緒にウインナーを買いに行くことになったらしい。ソーセージじゃダメなのだろうか。

 

その日の夜。

亜美はどこかに出かけたまんま帰ってこない。志保はソファの上でタオルを二枚かけて寝ている。

たまきも同じようにして寝ているのだが、この日はなかなか寝付けなかった。

昼間の田代との会話が頭から離れない。面と向かってそう言われたわけではないけれど、たまきたちがこの「城」にいることは間違っている、そんな気がした。

いや、こればかりは「そんな気がした」ではない。たまきたちが「城」で暮らしていることは、事実として「間違っている」のだ。

まず、三人とも家賃を払っていない。不法占拠であり、間違いなく違法行為だ。おしゃれ警察どころか、本物の警察に逮捕されてしまうかもしれない。

おまけに三人とも未成年だ。世間的にはやっぱり、未成年というのは保護者のもとで生活しなければいけないんじゃないか。

亜美はエッチなことをしてお金を稼ぎ、志保は薬物依存で、たまきは自殺未遂を繰り返す。間違っていることだらけである。

間違っていることは、してはいけないのだ。

ところが、間違っているからと言って、家に帰るわけにはいかない。家に帰ってしまったら、たまきはとても生きていける自信がない。

死にたがりでおなじみのたまきだけれども、家で死ぬことだけは嫌だ。家ではないどこか別の場所で死にたいのだ。

そもそも、たまきが死にたかったのは、あの家にいたからなんじゃないか。たまきが死にたい死にたい言いながらも今日まで何となく生きているのは、あの家を離れたからなんじゃないか。

となると、たまきという人間は、「家出して帰らない」という間違ったことをしていかないと、生きていけないということになる。

今までたまきにかかわった大人の多くが、こういってきた。「命を粗末にしてはいけない」と。なぜなら、生きているということはただそれだけで素晴らしいことなのだから。

ところがたまきは、「生きる」という素晴らしいことをするためには、どうしても間違ったことをしなければいけないのだ。

間違ったことをしないと生きていけない。それでも生きることは素晴らしいのだろうか。

たまきは狭いソファの上で器用に寝返りを打つ。

そういえば、前に仙人がこんなことを言っていた。「自分がしたことが間違ってると思うなら、したいようにすればいい」と。

たまきがやっていることは間違っている。

たまきは正しいことをしたい。

なのに、たまきは正しいことであるはずの「家に帰る」を絶対にしたくない。

間違っているとわかっているのに、間違っていることはしたくないのに、間違ったことをするしかない。

やっぱり、たまきみたいな子は死ぬしかないのだろうか。

その時、ドアが急に開いて、部屋の電気がぱちりとついた。

たまきはそっちの方を見る。メガネをかけていないから視界がぼやけているけど、どうやら亜美のようだ。

「なんだ、たまき、起きてたのか」

その声は紛れもなく亜美だった。たまきはメガネをかける。やっぱり亜美だ。

たまきの視界の傍らで、志保が起き上がった。

「何……どうしたの……?」

「わりぃ。起こしちゃったか。いや、今度の花見で使うやつ、ここに置くことになってさ。今運んでもらってるんだよ」

そういうと、「城」の中に段ボール箱を抱えた男たちが入ってきた。

「何入ってるの、これ?」

「レジャーグッズとかだよ。あと、酒類。ああ、シンジ、花火はそっちに置いといて」

シンジと呼ばれた痩せた男が、抱えた段ボールを床に置く。

「花火? その段ボールの中、全部花火なの?」

「そうだよ」

花見で使うにはずいぶんな量である。亜美は爆弾テロでもするつもりなのだろうか。

「お花見って、花火するんですか?」

お花見なんてやったことのないたまきが、志保に尋ねる。

「さあ……、もう、お花を見るつもり、ないよね」

深夜に、雑居ビルの無人のはずの部屋に、人知れず運び込まれた、爆薬入りの段ボール。ここだけ聞くと、やっぱりいつ警察が来てもおかしくない気がしてきた。

「お花見はいつやるの?」

と志保が尋ねる。

「再来週か……早くて来週だな。さっき予報見たら、なんか予定より早く咲くんじゃねぇかって言ってるんだよ」

そういってから亜美は志保に、

「お前は来るか?」

と尋ねた。

「うーん、バイト先のお花見と被るかもしれないし~」

「なんだよ。バイト先なんてそんなのバックレ……」

そういってから亜美は、ふとあることに気づく。

「そうか。バイト先の花見ってことは、ヤサオも来んのか」

「ヤダもう! 亜美ちゃん! 言わせないでよ!」

そういうと志保は亜美にぬいぐるみを投げつけた。

「いや、お前、なんも言ってねぇだろ」

亜美はぬいぐるみを片手でキャッチする。

「そっか。お前こねぇのか」

「まだわかんないけどね。スケジュール次第」

「たまきも来るのに残念だ」

「へ?」

たまきはあいまいな返事をしただけなのだが、亜美の中ではもう、お花見に来ることになっているらしい。

正直、亜美とその「悪そうな友達」がやるお花見なんて、行きたくない。全くなじめずに、お地蔵さまのように固まって、たたずんでいるだけの自分が容易に想像できる。

かといって、きっぱりと断ることもたまきにはできなかった。

たまきみたいな友達のいない子にとって、お花見のようなイベントに誘われるということは、とてもありがたいことなのだ。たとえ、絶対にその場になじめないとわかっていても。だから、どうしても断ることができないのだ。

こういう時、亜美や志保だったら、誘われても行きたくないと、きっぱり断ることができるのだろうか。

 

朝になった。

結局、たまきはあのあと横になったらすぐに眠ってしまった。

眠って、朝になったからと言って、寝る前の悩みは別に解決してはいない。

どうして人間には、眠っている間に悩み事を勝手に考えて、起きたら答えが出ている、そんな機能が搭載されていないんだろう。そうしたら、毎日ごろごろしているだけのたまきなんて、今頃お悩み解決の大先生になれたかもしれないのに。

目覚めたからといって、たまきは別にやることもないので、ごろごろしている。

やることがないので、どうしても悩みを考えてしまう。

とはいえ、夜に考えていたことは、朝になっても答えが出ない。そのままお昼になったけど、やっぱり答えが出なかった。

そうだ、仙人に聞いてみよう。仙人だったらきっと、答えを知っているはずだ。

たまきは立ち上がると、何やら携帯電話をいじっている志保を見た。

「あの……ちょっと出かけてきます……」

 

写真はイメージです

いつもの道をとぼとぼ歩き、たまきは公園へとたどり着いた。公園の中の仙人が暮らす「庵」へと向かう。

庵の前では、何人かのホームレスたちが行ったり来たりしていた。だけど、仙人の姿は見当たらない。いつもなら庵の前に椅子を出して、カップ酒でも飲んでいるのだが、今日は姿が見えない。

たまきはなけなしの勇気を振り絞って、そばにいたホームレスに話しかけてみた。何度も「庵」に来るうちに顔見知りにはなったが、話したことはほとんどない。

「あ、あの……その……仙人さんはいませんか……」

ホームレスが足を止めて、たまきの方を向く。

「ああ、仙さんね。仙さんなら、シゴトに行ったよ」

仙人の仕事というのは確か、街中を一日中駆けずり回って、空き缶を集めるというものだった。だったら、当分帰ってこないのだろう。

「そうですか……」

当てが外れたたまきは、下を向いた。

「お嬢ちゃんが来たこと、仙さんに伝えておこうか?」

「いえ……いいです……」

そういうとたまきは、軽く頭を下げて、「庵」を後にした。

とぼとぼと歩きながら、いつもの階段に一人腰を下ろす。

考えてみれば、仙人には仙人の生活があり、都合があるのだ。いつもいつもたまきの都合の良いときにいてくれるわけではないし、いつもいつもたまきの相談を聞いてくれるとも限らない。

そもそも、自分は仙人にいったい、何を尋ねるつもりだったんだろうか。

たまきがしていることは間違っている。たまきはどうしたらいいのか、そんなことを聞こうとしていたのだろうか。

でも、もし仙人が、たまきのやっていることは間違っているのだから、今すぐパパとママのところへ帰れと言っても、たまきはかたくなに首を横に振り続けただろう。

そう、「どうしたらいいか」の答えは最初から決まっているのだ。いや、違う。誰に何を言われても、誰に間違いを指摘されても、それでもたまきは家に帰りたくないのだ。そう、仙人に相談したところで、誰に相談したところで、たまきは答えを変えるつもりは全くないのだ。

もしかしたら、ただ単に「お嬢ちゃんは間違ってなんかいないよ」と言ってもらいたかっただけなんじゃないだろうか。志保が田代のことをいろんな人に相談して回ったように。

そんなことを考えてみると、階段の上の方から

「よっ」

と、声がした。見上げてみると、そこにはギターケースを担いだミチの姿があった。

「……こんにちわ」

「今日は絵、描いてないの?」

「……まあ」

「ふーん。あ、そのパーカー、着てくれたんだ」

ミチはたまきが来ている、薄群青のパーカーを指さす。

「……まあ」

ミチはたまきの隣に腰掛ける。たまきはすっと横にずれて、間隔をあけた。

ミチはギターを取り出して、チューニングを始めている。

「あ、あの……」

たまきは少しミチの方へと顔を向けていった。

「ん? どしたの?」

「ミチ君は……自分のやってることが間違ってるって思ったこと……ありますか?」

「また、ヘンなこと聞くね」

そういってミチは笑った。

「もちろん、あるさ」

「それってどんな時ですか……?」

「……まあ、去年のクリスマスに、たまきちゃんに怒られた時かな」

「ああ……、そうでしたね」

たまきは、ミチの方へとむけていた視線を、正面へと戻した。そういえば、そんなこともあった。ミチが人妻と不倫して、相手のダンナにボコボコに殴られて、そのあと……。

そこでたまきは、あることに気づいた。

「……ということは、不倫してた時も、殴られてた時も、間違ったことをしているとは思ってなかった、ってことですか?」

「たまきに怒られた時点で、間違ってると思った」という話から解釈すると、そうなってしまう。

「え? ああ、その、えっと……や、やだなぁ、そんなわけね……ははは」

ミチの乾いた笑いを聞いていたら、こんな男からもらったパーカーを着ていることが、なんだか急に恥ずかしくなってきた。クシャクシャに丸めてこの場でたたきつけて返そうかとも思ったけど、このパーカーはミチからだけではなく、ミチのお姉ちゃんからのプレゼントでもあるのだ。ミチのお姉ちゃんは、たまきをネコ扱いしていることを除いては、たまきのような子にいつも焼きそばを作ってくれるステキな人なのだ。そのような人からもらったものを粗末にしてはいけない。

たまきは、パーカーのチャックをキュッと閉めた。

「そういえば、たまきちゃんもお花見来るんだって?」

「ほえ?」

どうもたまきは、核心を突かれたり、予期しない質問が飛んできたりすると、ヘンな声が出てしまうらしい。多分たまきは、国会議員には向いてはいないだろう。都合の悪い質問をされるたびに、「ほにゃ?」とか言ってしまうに違いない。そもそも、人前で演説すること自体が無理だ。自分の写真が選挙ポスターになって、町中に貼られてるなんて、考えられない。

「……まあ」

いつも通りのあいまいな返事を繰り返すたまき。

「場所って、この公園だよね。ここってお花見スポットで有名だし」

「そう……なんですか……」

たまきは頭上を見上げる。夏ごろからよく来ていたこの公園の木が、実は桜であるということを、たまきは今、初めて知った。

「たまきちゃんさ、亜美さんから、何人ぐらい来るか聞いてない?」

「さ、さあ……」

「そっか。俺、センパイからのまた聞きだから、よくわかってねぇんだよなぁ。日にちもまだ決まってないんだろ。バイトのシフトはもう決まっちゃってるから、かぶったら行けないかもなぁ」

そうか。たまきも何か別の用事があればよかったのだ。志保だって、バイト先の花見と被るかもしれない、なんて言っていたではないか。何か別の用事があれば、亜美の誘いを断ることができるし、先約があるならしょうがない、と亜美に嫌な気持ちをさせることもないはずだ。

問題は、「城」にしか居場所のないたまきにとって、別の用事なんかない、ということである。何か用事を無理やりでっち上げても亜美のことだ、「そんなの別の日にすればいいじゃん」とか言って、強引に花見に連れて行こうとするのではないか。

ミチはギターの弦をいじっていたが、やがて、たまきの方を向いた。

「あれ? もしかしてたまきちゃん、花見行きたくない?」

「ほへ?」

またヘンな声が出てしまった。

「ど、どうして行きたくないって……」

そういってからたまきは少し考え、

「……わかったんですか?」

と言い足した。

「いや……なんとなくだけど……なんかたまきちゃん、乗り気じゃないような気がしたから……」

ミチは、ギターの弦に視線を落としながら言った。

「そもそもたまきちゃんって、なんか大勢と一緒にいるときは、あんまり楽しそうじゃないかなって。っていうかそもそも、人が大勢いるとこには、たまきちゃんってほとんどいないよね」

たしかに、祭りだパーティだの時は、わざわざ人のいないようなところに移動するたまきである。

ミチは、ギターをいじる手を止めた。

「いいんじゃね? 行きたくないなら、行かないで」

たまきは無言のまま、ミチの方を向いた。

「だって、花見って楽しむためにやるんだもん。楽しめないなと思ったら、行かなくていいんじゃね?」

「で、でも、せっかく亜美さんに誘ってもらったのに……、悪いです……」

「ああ、わかるなぁ、それも」

ミチはそう言って、笑った。

「俺もさ、センパイに誘われて、クラブとかに行くのよ。未成年でも入れる、クラブ風のイベント。でもさ、俺、クラブミュージックとか、全然好きじゃねぇんだよ。ダンスとかもやったことねぇし、酒代もやたらかかるし」

一か所、法的にちょっとおかしい部分があったが、たまきはスルーした。今のたまきは、人の間違いを指摘できるような気分ではないのだ。

「でも、センパイの誘いだから断れねぇんだよな。メールとかには『お前も来る?』って書いてあるんだけど、ほんとは『まさか来ないなんて言わねぇよな』って書いてあるような気がしてさ。おまけにさ、行ったら行ったで、もうこれ以上は飲めねぇよ、ってタイミングでセンパイが肩ガシッとやってさ、『おい、飲んでるか? ちょっと足りないんじゃねぇか? おごってやるから遠慮せずに言えよ』って言われると、『じゃ、じゃあ、もう一杯』って言わなきゃいけないんよ。今度は『後輩に気前よくおごるセンパイ』って演出に付き合わなきゃいけねぇんだよ」

チャラ男の世界で生きていくのも、なんだか大変である。

「でも、たまきちゃんと亜美さんの関係って、そういうんじゃないと思うんだよなぁ」

「そ、そうなんですか?」

「俺なんかはさ、ぶっちゃけ、頭数要員なわけよ」

「……あたまかず、ですか?」

「そ。誰でもいいから、人数が集まればいい、ってわけ。『俺が一声かければ、これだけ集まるんだぜ』みたいな。だから断るとさ、『俺の顔に泥塗りやがって』みたいなこと言われちゃうわけよ。『お前が来ないとつまらない』じゃねぇんだよ。『俺の顔に泥塗りやがって』なんだよ。ま、アクセサリーみたいなもんだね。ジャラジャラいっぱいつけてるヤツがえらい、みたいな」

たまきは無言のまま、ミチを見ていた。

「でも、たまきちゃんと亜美さんって、そういうんじゃない気がする」

「まあ、私は……地味ですから」

たまきなんてアクセサリーとしては、安物のヘアピンみたいなものだろう。目立たなさすぎて、そもそもつけてることに気づかれないようなやつだ。

「そうそう、たまきちゃんはアクセサリーってタイプじゃないよ」

ああ、やっぱり。

「たぶん亜美さんは、本当に来てほしくて誘ったんじゃないかな」

「ふぇえ?」

そういわれて驚いたたまきだったが、よくよく考えてみると、確かにそうかもしれない。

だって、たまきなんか誘って来てもらったところで、何の自慢にもならないのだ。

「ウチが一声かければ、たまきだって来るんだぜ」と亜美が言ったところで、何の自慢にもならない。

そう、たまきがイベントやパーティに来たところで、何の自慢にもならないのだ。学校にいた時、誰からも何の誘いもなかったのは、たまきなんか呼んでも、何の自慢にもならないからだ。

それでもたまきを誘うというのは、少なくとも頭数合わせではない、と考えてみてもいいのではないだろうか。大体、たまきは影が薄すぎて、たまきみたいな子をいくら集めても、頭数にはならない気がする。

「それにさ」

とミチが言葉をつづけた。

「亜美さんの方から誘ったんでしょ? だったら、亜美さんはたまきちゃんが楽しめるようなお花見を企画する、っていうのが筋なんじゃない? 誘われたけど楽しそうじゃないな、と思ったら、断っていいんだよ」

その言葉を聞いたたまきは、ゆっくりと立ち上がった。

「私、帰ります。その……ありがとうございました」

たまきはぺこりと頭を下げると、階段を上っていく。

「ところでさ、たまきちゃんって、俺といるときは楽しいの?」

「……さあ」

たまきは振り返ることなく、答えた。たまきの黒い髪が、風にふわっと揺れた。

 

写真はイメージです

たまきはとぼとぼと太田ビルに帰ってきた。

「断ってもいい」と言われて、少し勇んだものの、やっぱりいざ断るとなると、憂欝である。

おまけに、ゆうべからの悩みは、ちっとも解決なんかしていない。

階段を上って「城」の前に立つと、屋上から亜美の声が聞こえてきた。

「ああ、ウチウチ」

一瞬、亜美がどこかのおばあさんに詐欺の電話でもかけてるんじゃないか、とたまきの頭によぎったが、どうやらそういった電話ではないらしい。

「シンジ、花見に来れないって言ってんだって? なんで? あいつ、なんつってる?」

亜美は屋上の中でも階段のそばにいるらしく、階下のたまきにもその声がよく聞こえてくる。たまきは、屋上への階段を上り始めた。踊り場まで行くと、亜美の下半身が視界に入った。

「あ? ウチが来いっつってんのに、こねぇとかあいつ、ふざけんなよ? 先約? しるかよ。その先約のオンナと一緒に来ればいいだろ」

たまきはなんだか、見えない手で背中を引っ張られたような感覚だった。

「んじゃまた。うん。はーい」

亜美は電話を切って、携帯電話をたたんだ。

「あの……」

たまきはか細い声で話しかけた。

「ん? ああ、たまき。帰ってたのか。花見な、来週の日曜になりそうだわ。ちょうどその頃が見ごろ……」

「あの、私……!」

誰かの言葉をさえぎるように話しかけるのは、たまきにとってもしかしたら初めてのことだったかもしれない。

だが、続く言葉が出てこない。

「どした?」

「私……その……」

たまきは一度、大きく息を吸うと、亜美の目を見た。

「お花見には……行きません……!」

「え?」

空は青く、雲がふんわりと浮かぶ暖かな陽気だったが、たまきはそのことを忘れていたし、亜美は気づいていないようだった。

「私、お花見には、行きません」

「……なんか予定と被っちゃったか? じゃあ、土曜日にしようか? ああ、サイアク月曜でもいいぞ。どうせ暇人ばっかだし、その方がすいて……」

「ですから……『行かない』んです」

そう、ほかに用事があるわけじゃない。「行けない」わけではない。

「行きたく……ないんです……!」

たまきは亜美の目を見れず、目線を落とした。

「誘ってもらったことは、嬉しかったです……。でも、私、やっぱりお祭りとかパーティとか、苦手です……。だから、行きたくないんです……」

正直な話、たまきは殴られることを覚悟の上だった。もちろん、今まで亜美がたまきに暴力をふるったことなどないし、いくら亜美が短気だからと言って決して短絡的に暴力をふるう人間ではないこともわかっていたが、亜美からのせっかくの誘いを断るのだから、それくらいされても仕方ないんじゃないか、とびくびくしていた。

たまきは、恐る恐る亜美の目を見た。

亜美は、少し驚いたようにたまきを見ていた。さっき電話で「ふざけんな」と怒鳴っていた時とは様子が違う。とりあえず、殴るとかそういう感じではなさそうだ。

たまきと目が合うと、亜美は、はあぁとため息をついた。

「お前な、そんなこと言ってたら、いつまでたってもイベントを楽しめないぞ」

亜美の言い方はなんだか、好き嫌いをする幼稚園の娘をたしなめる、若いママのようだった。

「別に……楽しめなくて……いいです……」

「またそんなことを……。だからお前はダメなんだよ。そんなんじゃ、いつまでたってもウジウジしたままだぞ」

「ウジウジしてたら……ダメなんですか……?」

「大丈夫だって。花見に行けば、なんだかんだで楽しくなるって」

「だから……だから……!」

どうしてわかってくれないんだろう。ずっと一緒にいるのに。

「私と亜美さんじゃ、楽しいって思うことが、違うんです……!」

空は相変わらずの青空だったが、太陽が雲の影に隠れ、急に少し薄暗くなった。

「亜美さんはいつも、なんだかんだで楽しくなるっていうけど、私はそれで楽しかったことなんて、なかったです……。亜美さんは私がウジウジしてるからだっていうけど、私だって、楽しいって思うことだってあります。だけどそれは、亜美さんの思う『楽しい』とはたぶん、違うんです……」

この時の亜美の様子をなんと表現すればいいのか、たまきにはわからなかった。少なくとも、今までたまきが見たことのないような表情をしていた。

「楽しめない場所に行きたくないっていうのは……ヘンですか……。亜美さんだって、学校辞めて家出してここに来たんですよね。それって、学校も家も、楽しくなかったからですよね。だったら、わかりますよね……。楽しくないところには……行きたくないんです……」

亜美は何も答えなかった。

「……さようなら」

そう言うとたまきは頭を下げて、階段を下りて行った。

 

「城」のドアノブに手をかけてから、たまきは「しまった」と思った。

「さようなら」だなんて、まるで金輪際あわないような言い方をしてしまった。

もちろんそんなわけなくて、ただ「失礼します」だとなんだか部活の先輩や学校の先生に言っているみたいで、なんか違うなと思ったのだが、「さようなら」は余計に違ったかもしれない。

ただでさえ、亜美の誘いを断ってしまったことに罪悪感を覚えていたのに、「さようなら」だなんて言ってしまって、余計にその気持ちを重苦しく感じてしまうたまきなのであった。

そもそも、罪悪感と言えば、「たまきは間違ったことをしている」というゆうべからの悩みが、ずっとたまきの心にのしかかっているのだった。そこに新たに罪を増やしてしまったから、余計に重く感じる。

昔、たまきがお姉ちゃんと遊んだパズルゲームが、なんかそんな感じだった。相手に攻撃されると、石がずどんと降ってきて、どうやっても消せずにそのまま残り続けるのだ。たて続けに石を落とされると、画面が石で埋まってゲームオーバーになってしまう。そんな気分なのだ。

人は、罪を犯すことでしか生きていけないのだろうか、などと十六歳にしてはちょっと哲学的なことを考えながら、たまきはドアを開けた。

「……ただいまです」

「おかえりー」

と志保の声。

「おー、帰ったか」

と別の声。顔を上げてみると、志保と一緒に舞がお茶を飲んでいた。舞が「城」にいるのはさほど珍しいことではなく、三人の様子を見に、特に用事がなくてもたまにやってきて、お茶を飲んで帰るのだ。

たまきは舞に軽くお辞儀をすると、靴を脱いであがった。

「どうしたの、元気ないね」

と志保が言うが、これはいつもたまきが帰ってくるたびに言われている。もはや英語の授業の「ハウアーユー?」に近い定型文だ。この構文はたまきが、

「まあ」

と返事をするところまでがセットである。たまきがウキウキ気分で帰ってくることなど、三月に一回、あるかないかだ。

ソファに腰掛けたたまきは、テーブルの上にお菓子がおいてあるのを見た。

「広島で買ってきた、変わり種もみじ饅頭だ。チョコとかカスタードとかあるぞ」

「先生ね、仕事で瀬戸内海の方に行ってたんだって」

「瀬戸内の離島をまわって、医療事情を取材して周ってきたんだ」

「そうですか……」

たまきはお菓子には手を付けない。

「……なんか本当に元気ないね?」

「どれどれ?」

と言って舞は、たまきの額に手を当てる。

「うん、熱はないな」

「はい……。熱はないです……」

「いや、だから冗談だってば」

舞はそういうと、志保の方を見て笑った。

「で、若き哲学者殿は、今度はなにで悩んでるんだ?」

舞が冗談めかして言った。

「舞先生は……」

たまきは下を向いたままぽつりと言った。

「……自分のやってることが間違ってる、って思ったことはありますか?」

「なるほど。つまりお前は、自分が間違ったことをやってるって思って、悩んでるんだな」

たまきは無言で頷いた。

「どうしたの? 誰かに何か言われたの?」

志保の問いかけにたまきは答えない。まさか「あなたのカレシに言われました」なんて言えない。

「なるほどなるほど」

と舞は腕組みをした。

「そりゃあたしにだってあるさ。自分は間違ったことしてるなぁ、って思うことは」

「それは……どんな時でしょうか」

たまきはやっと、舞の顔を見た。

「どんな時って、そりゃお前、潰れたキャバクラに勝手に居座ってる野良猫どもの相手してる時だよ。大人として、こいつらを黙認してていいのか、親元に帰してやるのが常識ある大人のやることなんじゃないか、ってな」

それを聞いて、たまきは言葉に詰まってしまった。

「それで……、舞先生は結局どうし……」

「どうもこうもあるかよ。見ての通りだよ。スルーだよ、スルー」

そう言うと、舞は志保とたまきの顔を見る。

「どいつもこいつも、初めて会った時より少し表情が柔らかくなって、そんなの間近で見てたら、『お前ら家に帰れ』なんて言えるかよ」

舞はお菓子の箱から一つ、もみじ饅頭を取り出して、頬張り始めた。

「お前らが家賃払いたくないからここにいたい、ってだけだったら、あたしがとっくに警察呼んでるよ。でも、お前らは『ここにいたい』っていうよりは、『帰りたくない』ってタイプだろ? とにかく家に帰りたくなくて、そんなお前らの居場所がここだけだった、そういう事だろ? そんな奴らに『家に帰れ』とは言えねえぇよ。たとえ、大人として間違ってるといわれてもな」

『帰りたくない』、ふと、その言葉がたまきには引っかかった。

昨日、亜美に「間違ってるなら解散するか」と問われた時、たまきはそれだけは嫌だと思った。それは舞の言うとおり、とにかく家に帰りたくないからだろう。今朝から何度考えても、やっぱり答えは「帰りたくない」だ。

でも、それだけだったのだろうか。確かに、はじめは「家に帰りたくない」という一心で、この「城」にしがみついていたはずなのだが。

「でも、やっぱり私たちって、間違ってますよね……」

そういったのは志保だった。

「先生はいろんなこと考えて黙認してくれてるんでしょうけど、実際に不法占拠してる私たちって、やっぱりただのわがままなんじゃ……」

「そりゃ、そうだ」

そういいながら、舞は二つ目のまんじゅうを手に取ると、志保とたまきにも食べるように促した。二人もまんじゅうに手を伸ばす。

「でも、家には帰りたくない、だろ。たまきなんか、家に帰ったらすぐ死んじゃいそうだもんなぁ」

舞は冗談めかして言ったが、たまきにはどうにも冗談に聞こえない。

「自分たちが間違ってる、悪いことをしてる、ってわかってるなら、結構だ。その気持ち、忘れるんじゃないぞ」

「でも……」

たまきが口を開いた。

「間違ってることをしてるのに、そのまま何もしないのは、もやもやします……」

「そりゃそうだろ」

舞は手の中で、まんじゅうを包んでいたビニール袋をクシャクシャと丸めた。

「悪いことをしてりゃもやもやするのはしょうがないだろ。悪いことしてるのに、心はすっきりしたいだなんて、都合のいいこと言うんじゃないよ」

そう言って舞は、紅茶の入ったカップに口を付けた。

「ま、『自分は間違ってるんじゃないか』『自分が悪いんじゃないか』ってもやもやは大事にしとけよ。自分が正しんだ、自分は間違ってなんかないんだ、って思いこむ大人に限って、ただ単にそういった感覚を忘れてるだけだったりするからな」

舞はカップをテーブルに置く。

「ほんとはみんな、そんなもやもやを抱えて生きてるはずなのに、気づいてないふりしてるだけさ。お前らは間違ったことをしている。だけど、正しいことをすることができない。だったら、そのもやもやをしっかりと感じながら、生きていくしかないだろ。そしていつか、自分たちの間違いの始末を、きっちり付けられる大人になることだな」

 

そこに、ドアが開いて亜美が入ってきた。

「あれ? 先生来てたんだ?」

亜美の声を聴いた途端、たまきはなんだか自分がそこにいてはいけないような気がして、慌てて立ち上がった。

「あ、あの、私、屋上にいます……!」

そういうとたまきは、亜美とは目を合わせることなく、亜美の脇をすり抜けて、「城」から出ていった。

「たま……」

と亜美が言いかけたが、扉が閉まると、その声も聞こえなくなった。

 

写真はイメージです

屋上からたまきは歓楽街を眺める。ここからは、歓楽街の街並みも、駅前のデパートも、線路の向こうの都庁も見える。ここに立つと、この街のすべてを掌握してるかのような錯覚と、世界中のだれからも見つからないように隠れ住んでいるという実感が、同時に襲ってくるのだから、不思議だ。

結局、たまきの中のもやもやとした罪悪感は、消えることがなかった。

それもそのはずだ。家出とか、不法占拠とかは、どうあがいても正当化できないのだ。そうである以上、「たまきがしていることは間違っている」というのは、動かしがたい事実なのだ。罪悪感を感じない方が、狂っているのだ。

きっとたまきみたいな不良品は、この先もこんなもやもやをいっぱい抱えて生きていくんだろう。それは罪悪感だけじゃない。劣等感、屈辱、嫉妬、焦燥、不安、憂欝、孤独……。他人と自分を比べ、現実に見下され、その度にみじめな思いをして、いろんなもやもやを抱えて生きていくのだろう。積み重なったみじめな思いを、神様がパン祭りのお皿と交換してくれるわけでもない。積み重なったみじめさなんて、何の役にも立たない。

「生きているという事は、ただそれだけで素晴らしい」というけれども、ただただみじめな思いを重ねるだけの人生でも、それでも生きることは素晴らしいのだろうか。

もしかしたら、たまきが今まで言葉には出せずに、手首から血を出して訴えていたのは、このことだったのかもしれない。みじめな思いを積み重ねるだけの人生でも、生きていく意味なんてあるのか、と。

そして、そんなまさに血を吐くような問いかけに、答えてくれた大人はいなかった。

やっぱり学校は、本当に大切なことに限って、教えてくれないのだ。

つづく


次回 第31話「桜、ところにより全力疾走」

お花見を断って以来、どこかぎくしゃくしてしまった亜美とたまき。まるで初めて会った頃に戻ってしまったかのように。そして、春が来て、お花見の日がやってくる。

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

根性なんてものはない

二度目の緊急事態宣言も、少し終わりが見えてきた。

するとまた街中に人が増えたとの報道が流れる。「自粛疲れ」ってやつらしいね。

たかだか一か月二か月のひきこもりにも耐えらないだなんて、根性が足りない! 人の命にかかわる問題だというのに、 何がひきこもりはストレスがたまる、だ! そんなのは甘えだ! 甘ったれるんじゃない!

……と強い口調で言ってみたのには、わけがある。

だって、これまでは「ひきこもり」の人たちが、こういう「根性警察」みたいな人の餌食になっていたじゃない。

外での社会生活に耐えられないだなんて、根性が足りない! みんな我慢してちゃんと働いてるのに、何がお外はストレスがたまる、だ! そんなのは甘えだ! 甘ったれるんじゃない!

……って。

今まで、「健全な社会人」から「ひきこもり」が言われ続けてきた言葉。その「言われ続けた側」と「言い続けた側」をひっくり返しただけである。

今まで「ひきこもりは根性がない」と言われ続けてきたのに、状況が一変してステイホームが推奨されるようになると途端に、「ずっと家にいるのはストレスが溜まって無理」とか言い出したのだ。おどろきのてのひら返しである。

僕ら「ひきこもり族」にとって、この程度のステイホームなんて苦行のうちには入らない。「気づいたら3日間、全く外出しなかった」など、全くの余裕。そもそも海外のロックダウンとは違い、散歩やジョギングは認められている。それでも耐えられないだなんて根性がないのはどっちだよ、という話なのだ。今まで「ひきこもりは根性がない」と言っていた輩は、頭を丸めて謝罪会見を開くべきじゃないか。

と、ここでふと思う。

かたや根性がないから外の社会に耐えられない。

かたや根性がないからひきこもり生活に耐えられない。

じゃあ、根性があるやつとは一体どんな奴なんだろう。

もしかしたら、根性だなんてものは実はどこにも存在しなかったんじゃないか。

根性があるから外での仕事のストレスとかに耐えられる!と思ってた人たちが、おうちのストレスにあっさりと屈し、じゃあ、おうちのストレスに耐えられるひきこもり族が根性があるのかと言ったら、彼らはおそとでのストレスに耐えられない。

ならば、根性とは何ぞや。根性がある人とは何ぞや。

僕らが今まで「根性があるから耐えられる!」「我慢できないのは根性が足らないからだ!」と思ってたことは実は、「根性」じゃなくて「相性」の問題だったんじゃないか。

人によって耐えられるストレスと耐えられないストレスが違う。ある人にはいくらでも耐えられるようなストレスも、ある人は全く耐え得られない。これは「根性」じゃなく「相性」だ。

僕が子供のころにやっていたゲーム、まあポケモンなんだけど、あのゲームには「相性」があった。みずのポケモンはほのおに強いけどでんきに弱い、くさのポケモンはほのおに弱いけどみずに強い、みたいな。だから状況状況に合わせて最も相性の良いポケモンを選ぶ。

ポケモンに限らず、いろんなゲームに「相性」があって、相手との相性を考えて戦略を立てる。

ゲームと同じで、どんな仕事にも何かしらのストレスがあって、ストレスには人によって相性があるというのなら、それぞれが相性にあった仕事をすればいい。相性の悪いストレスの仕事を無理にするべきじゃない。

ある人には苦痛でしょうがない仕事を、別になんとも思わない相性の良い人がいるのだから、その人に任せればいいじゃない。

ゲームだと子供でもやってることなのに、不思議なことに、現実世界では「人によってストレスには相性がある」という事を、みんなすっかり忘れてしまうらしい。

たいしてヒットしていないアニメを応援する奴

たいしてヒットもしていないアニメをずっと追いかけている。

たいしてヒットしていないのだから、残念だけど、爆発的な人気はない。

でも、「根強い人気」というものはある。

たいしてヒットもしてないけど、大コケしたわけでもないので、ファンの数はそれなりにいて、その一人一人が作品に、結婚指輪を送りかねないくらい熱い思い入れを持っている。

かくいう僕も、その一人。

たいしてヒットもしてないけど、ファン一人一人のマグマのような熱意を集めて、細々と新作がつくられている。

爆発的にヒットしたアニメだったら、ほっといても新作がつくられるだろうけど、たいしてヒットしてないアニメで、細々とでも新作がつくられ続けているのは奇跡である。

そして、ほっとくともう新作がつくられないかもしれないから、必死になって応援するわけだ。

もしかしたらこの「たいしてヒットしていない」「ファンの数はそこまで多くない」というのが重要なのかもしれない。

たとえばすごく面白いアニメがあって、実際に「面白い」という感想を抱いたとして、

そのアニメが爆発的な人気で、誰もかれもが面白いと言ってるのを見ると、僕はかえって興ざめしてしまう。

「なんだよ、僕だけの『面白い』じゃなかったんかい」と。

ラブレターだと思って大切に読んでた手紙が、実はダイレクトメールでした、みたいながっかり感。

むしろ、「みんなに知られている」「みんなが好き」という時点で、なんだか価値が少し下がってしまったような気がするのだ。

もしかしたら、「みんなに人気があるもの」というのは、「ずば抜けて質が高い」というよりは、「とりあえず、ハズさない」ぐらいのものでしかないのかもしれない。

たとえば、ファミレスの料理。みんなに人気のファミレスの料理は、メチャクチャおいしいわけではないけれども、「クソまずい!」という事もない。とりあえず、ハズさない。

一方、「マイナーな名店」探しは骨が折れる。もしかしたら、大ハズレの店に行ってしまい、「これだったらファミレスに行けばよかった」と後悔するかもしれない。

コンビニのお弁当も、チェーンの居酒屋も、駅前のマックも、人気のアニメも、流行の音楽も、高視聴率のドラマも、ずば抜けて優れているのではない。「とりあえず、ハズさない」。

もちろん、「とりあえず、ハズさない」というのも、すごいことだ。「誰にとっても70点の面白さ」というのは、簡単にできることではない。

だけど、それよりもさらに30点面白いものがどこかにまだあるのだ。ほかの人にとっては20点でも、自分にとっては100点の何かが。

そして、それは不思議なことに、本屋の「おすすめです!」と書いてある棚や、CDショップの「今、人気です!」と書かれている棚には、置いていないのである。

自分だけの名作に出会うのは、ほとんど運任せだ。放送されているアニメを全部チェックして、そんなオタク生活を何年も続けてようやく巡り合うこともあれば、何も知らずに深夜にたまたま見たアニメがものすごく面白くて、なんてこともある。いつ、なぜ、どうやって巡り合えるかを私たちは誰も知らない。まるで縦の糸と横の糸が織りなすように……、あ、これ、中島みゆきの「糸」だ。

一つわかることがあるといえば、人気や他人の評価に頼らず、自分で探さなければいけないってことだろう。

願わくば、僕がつくる作品も、誰かにとっての「隠れた名作」でありたい。

小説 あしたてんきになぁれ 第29話「パーカー、ときどきようかん」

田代とよりを戻した志保、花見の準備を進める亜美、そして、春に着る服がないたまき、今回はそんなお話。


第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

勝負服、と言われてたまきが最初に思い浮かんだのは迷彩服だった。自衛隊の人が迷彩服を身にまとい、自動小銃を構える光景だ。勝負する人が誰かと勝負するときに着ているのだ。立派な勝負服のはずだ。

ところが、志保の言う勝負服は、たまきがイメージする勝負服とはずいぶん違っていた。志保の言う勝負服とは「雑誌の表紙に載ってそうなオシャレな服」のことを言うらしい。さっきから衣裳部屋のクローゼットからいくつかの服を取り出しては、首をひねる、その繰り返しだ。どの服もオシャレな服なのだが、たまきの乏しいファッション語彙力では「どれもオシャレ」以上の細かい描写ができない。

「うーん、違うんだよなぁ。もっと優しい感じで、それでいて媚びない強さが欲しいっていうかさぁ」

と志保はなんだか指揮者が演奏者にアドバイスするかのようなことを言っている。

「つーかさ、なんで勝負服が4着もあんだよ? ここぞってときに着る服だろ? 普通1着だろ?」

志保の様子を見ていた亜美が口を出す。最初は志保の服選びに楽しそうに付き合っていたが、志保のあまりの優柔不断さに飽きてきたらしい。

両手に服のかかったハンガーを持つ志保は、くるりと亜美の方を向いた。

「あのね、亜美ちゃん。イマドキね、ウルトラマンだって相手や状況に合わせていくつもの姿を使い分けて戦うんだよ?」

志保の言いたいことはどうやら「勝負服は複数あっていい」ということらしい。

それにしても、とたまきは不思議に思う。

志保はこれからデートに行く予定のはずだ。なのに、なぜ「勝負服」だなんてものが必要なのだろう? たまきの認識では、デートというのは恋人同士が仲良くする行動のはずだ。いったい誰と勝負するのだろう?

でも、たまきたちが住む町は日本最大の歓楽街であり、治安もあまりよくないと聞く。もしかしたら町で悪者に絡まれて、戦うことになるのかもしれない。たまきが一人で街を歩いているときはそんな人に襲われたことはないけれど、一人で歩いているよりデートしている人の方が、なんだか絡まれやすそうな気がする。

でも、それだったらやっぱり迷彩服の方がいいんじゃないだろうか。

ちなみに志保は「勝負下着」なるものも持っているらしい。下着で勝負する人だなんて、たまきはお相撲さんぐらいしか思い浮かばない。あれ? お相撲さんってパンツはいて戦うんだったっけ?

「亜美ちゃんだってさ、こんなかにいくつもあるんじゃないの? 勝負服」

志保はクローゼットの中にずらりと並ぶ亜美の服を見て言う。

「勝負服?」

亜美も自分の服を見るが、

「うーん、ガキの頃の空手大会で、大一番ってときは必ず道着の下に学校の体操着着こんでたけど、勝負服っていうとあれくらいかなぁ」

と亜美は、本当に勝負するときに着ていた服装を挙げた。

「ねえ、亜美ちゃんはどれがいいと思う?」

志保は両手のハンガーをグイっと亜美に押し付けて尋ねる。

「知らねーよ。お前の勝負服なんだから、お前が着たい服を着ればいいだろ?」

亜美の言葉を聞いた志保は、何かはっとしたように目を開いた。

「そうだよね……」

そういうと志保は手に持った二つのハンガーに目を落とすが、すぐさま、

「あー、でも、どっち着よう~?」

とふりだしに戻ってしまった。

そんな志保を横目に、たまきは五日ぶりに出かける準備を始める。とはいえ、化粧をすることもなければ、服で悩むこともない。いつものジャンパーを羽織って、いつものニット帽をかぶって、いつものリュックを背負って……

そこで志保が声をかけた。

「たまきちゃん、そのジャンパー着てくの?」

「……はい」

大しておしゃれでもないジャンパーだけど、これしかないのだから、これを着ていくしかない。

「もう3月なんだし、今日は特にあったかいから、そのジャンパーじゃちょっと暑いんじゃない?」

「そうですか」

そういってたまきはリュックを下すと、ジャンパーを脱いだ。

そのまま再びリュックを背負い、外に出ようとする。

「ちょっと待って。何も羽織っていかないのはさすがに寒いんじゃないかな」

「そうですか」

そういうとたまきは、さっきのジャンパーを羽織った。

「いや、だから、そのジャンパーじゃ暑いんじゃ……」

「そうですか」

たまきは再びジャンパーを脱いだ。

「でも何も羽織らないのは……」

「そうですか」

と言ってたまきが再びジャンパーに手を伸ばした時、亜美が口をはさんだ。

「二択かよ!」

ジャンパーに手を伸ばしたまま、たまきの手が止まる。そのままたまきは、亜美の方を見た。

「そのジャンパーじゃ暑いっつってんだろ!」

「でも、何か羽織った方がいいって……」

「だから、そのジャンパーより薄手のなにか、だろ! なんでそのジャンパーを着るか着ないかの二択なんだよ!」

そんなこと言われても、たまきは「上着」と呼べるものをこのちょっと厚手のジャンパーしか持ってない。

「しょうがないなぁ。じゃあ、あたしの貸してあげる」

そう言って志保は両手のハンガーを放り出すと、クローゼットの中をガサゴソとあさる。

「え……でも……志保さんの服じゃ、サイズが合わないんじゃ……」

「上着だったら別にサイズがぴったりな必要ないって」

そう言って志保はクローゼットの中から何かを選び取った。

「これなんかいいんじゃないかなぁ」

志保が選び取ったのは、鮮やかなピンクのカーディガンだった。

「今日みたいなあったかい日は、これくらいがちょうどいいって」

舞い散る桜のような鮮やかなピンク色を目にしたたまきは、思わず後ずさった。

「あの……えっと……それ、着なきゃダメですか……?」

「なんで? かわいいじゃん。きっと、似合うよ」

志保は保険の外交員のような笑顔だ。

「でも……その……その服、なんか……女の子っぽくないですか……?」

「たまきちゃん、女の子じゃん」

「そうなんですけど……そうなんですけど……」

たまきの中では「生物学的に女性であること」と「女の子っぽい格好をすること」は別なのだ。

誰が決めたか知らないけど、「女の子っぽい」はどういうわけか「華やかであること」らしい。フリフリのナントカとか、ヒラヒラのナニナニとか、ハナガラのアレコレとか、華やかすぎてもういっそ花そのものになりたいんじゃないかと思えるような服が「女の子っぽい」と呼ばれる。

たまきは花になぞなりたくないのだ。あんなに目立って、虫も人もわんさか集まってくるようなものにはなりたくない。

葉っぱでいい。注目されることもなく、ひらりと落ちて、朽ち果てる。そうだ、葉っぱでいい。

そう考えると、やっぱり迷彩服のような「隠れやすい服」の方がたまきには似合っているのかもしれない。

問題は、迷彩服はジャングルとかで隠れるために着るのであって、街中で迷彩服を着たら、むしろ目立つということだ。

あと、今度は男の子っぽくて、たまきには似合わない。

 

写真はイメージです

結局、たまきは何も羽織ることなく外に出たのだが、やっぱり寒い。ニット帽をいつもよりも目深にかぶってみるけれど、寒さの解決にはならなかった。素直に志保のカーディガンを借りればよかったとも思うけど、ピンクのカーディガンを着て街を歩くとなると、今度は心が寒くなる。たまきに暖色は似合わないのだ。

ふと、たまきは足を止めて、人の流れに目を凝らしてみる。こうやって見てみると、実に様々な服装の人が街を歩いているものだ。

ちょっと前までは寒色系のコートを羽織った人が多かった。冬になるとなぜか服の色も落ち着いたものになる。

それから少し暖かくなって、街を行く人のファッションも、少し華やかになり、バリエーションも増えた気がする。

待ちゆく人の一人一人を見ていると、みんなおしゃれだ。それは単に、おしゃれな服を着ているというだけでなく、髪型が凝っていたり、染めていたり、毛先の一本一本に気を使っていたりする。さらには、ピアスだの、ネックレスだの、指輪だの、アクセサリーをつけている人もいる。

サラリーマンと思しき男性がたまきの横を通る。ごく普通のスーツで、こういう真面目そうな人はやっぱりおしゃれとかしないのかな、と思ったけれど、よく見たらネクタイが黄色地にペンギンの絵が描かれたものだった。スーツという限られた中での、精いっぱいのおしゃれなのかもしれない。

なんだかこの町で自分だけおしゃれじゃないような気がしてきた。そもそも、東京というおしゃれな街は、おしゃれじゃない人が歩いていい場所ではないんじゃないだろうか。たまきみたいなおしゃれじゃない子が東京を歩くと、「おしゃれ警察」がやってきて、「こいつ、おしゃれじゃないぞ! 逮捕する!」とどこかへ連行されてしまうのではないだろうか。

学校の授業に「おしゃれ」なんてないのに、なんでみんなおしゃれに服が着れるのだろうか。たまきは、顕微鏡の使い方やリコーダーの吹き方よりも、友達の作り方とか、おしゃれな服の着方を教えてほしかった。どうして学校はいつも、本当に必要なことを教えてくれないんだろう。

 

街ゆくおしゃれな人たちとすれ違い、その都度なんだか肩身の狭い思いをしながら、たまきはあることに気づいた。

「勝負服」というのはもしかして、街を歩く人全員に対して勝負する服なのではないだろうか。

なにせ、デートをするときに着る服なのである。女の子も男の子もひときわおしゃれな服を着たいはずだ。

なのに、街で自分よりもおしゃれな人とすれ違って、恋人がそっちの方に見とれていたら、悔しいじゃないか、たぶん。街ですれ違う誰と比べても勝てるほどのおしゃれな服、それが勝負服なのではないか。

 

写真はイメージです

すれ違う人とのおしゃれ勝負に負けっぱなしのまま、たまきはいつもの公園にやってきた。うつむいたまま歩くが、うつむいているのは別におしゃれ勝負に負けっぱなしだからではない。いつもたまきはこんな感じだ。もしかしたら、前を向いて歩くと自分が負けっぱなしなことに気づいてしまうから、無意識にうつむいているのかもしれない。

いつもの階段までとぼとぼと歩き、腰かけて絵を描き始める。

絵を描き始めると、季節の変化というものにも気づいてくる。この前まで公園の木々は葉を落としていたが、いつしか葉っぱが生えているだけでなく、徐々につぼみや花も芽吹いている。あとしばらくしたら、お花見シーズンになるのだろう。

お花見。たまきには関係のないイベントだ。

しばらくすると、後ろから声が聞こえた。

「お、たまきちゃん、やっと来たな!」

ミチの声である。

「来てますよ」

たまきはミチの方を見ることなく答える。

「たまきちゃん、ここしばらく来なかったでしょ?」

「まあ」

「なんで来なかったんよ」

「……まあ」

数日外出しないことぐらい、たまきにとっては大した問題ではない。ミチのように、用もないのに外をうろちょろしているほうがおかしいのだ。

「寒くないの、それ?」

おそらくミチは、たまきの服装を見ていっているのだろう。

「……まあ」

ミチはいつものようにたまきのすぐ横に腰かける。

たまきもいつものように、すっと横に動いて間隔をあける。

いつものように、たまきの隣でギターケースを地面に置く音が聞こえる。

いつもならここで、ケースをあけてギターを取り出す音が聞こえるのだが、たまきの鼓膜に入り込んでいたのは、紙袋が立てるがさがさという音だった。

たまきはその音を聞いた時、驚いた猫のように、反射的にミチとの間隔をさらにあけた。前にもこの音に聞き覚えがあったからだ。

前にこの紙袋のがさがさという音を聞いたのは、今からひと月ほど前だった。確かバレンタインデーで、ミチから執拗にチョコをねだられた時だ。

今度はなんなんだろう。いったい何をねだられるんだろう。

たまきは毛を逆立てた猫のように、この上ない警戒心をもって、ミチの方を見た。

「たまきちゃん、今日、何日だかわかる?」

「……さあ」

「三月十八日だよ。じゃあ、4日前は何日だったでしょう」

「三月十四日」

「大正解!」

この男はたまきのことをバカにしているのだろうか。いくらたまきが学校に行ってないといっても、引き算くらいできる。

「では、三月十四日は何の日だったでしょうか?」

ミチがにやにやしながら尋ねてくる。

「……誕生日ですか?」

「いや、それ、先月だから!」

「……ですよね」

つい2週間ほど前、ミチの誕生日をなんとかスルーしたのだ。こんなに早く次の誕生日が来るわけない。

「先月、バレンタインデーだったでしょ?」

「……はい」

「じゃあ、今月は何?」

「……ひなまつりですか?」

三月のイベントだなんて、それくらいしか思い浮かばない。

「ホワイトデーだよ、ホワイトデー」

なんだっけ、それ。

ホワイトデーとは、バレンタインデーにチョコをもらった男子が、女子にお返しをする日である。バレンタインデーは古代ローマに起源をもつのだが、ホワイトデーの起源はごく最近の日本にある。歴史の差が表れてしまっているのか、バレンタインデーに比べると、いまひとつパッとしない。

これまでたまきはバレンタインデーというイベントをスルーしてきた。必然的に、ホワイトデーも関係ないことになる。

ところが今年は、何の気の迷いか、ミチに百円のチョコをあげてしまった。

義理チョコだし、何か見返りを期待していたわけではないので、そのまますっかり忘れていたし、ましてやホワイトデーなんてイベントが自分にやってくるだなんて思っていなかったのだ。

そもそも、ミチに「ホワイトデーにお返しをする」という発想があったことに驚きだ。

「あの……その紙袋の中身が……ホワイトデーのその……」

「そうだよ」

たまきはこれまた最大の警戒心をもって紙袋を凝視する。茶色に紙袋に、どこかのお店のロゴが書いてあるが、何のお店なのかたまきにはわからない。

「そんなビビんないでよ。姉ちゃんと二人で選んだんだからさ」

それを聞いてたまきの警戒心が跳ね上がった。さっきのが最大だと思っていたが、まだ上があったとは。

ミチのお姉ちゃんは、たまきのことをネコに似てると言ってからかってくるような人だ。紙袋の中身はもしや、ネコの餌とか、ネコの首輪とかではないのか。

ガサゴソという不安な音とともに、紙袋の中身があらわとなった。

第一印象は「青い布」だ。たたまれた青い布の塊だ。

「薄群青だ……」

そう、たまきはつぶやいた。

「え?」

「これ、薄群青って色ですよね」

「そうなの? ブルーだと思ってた」

たまきは学校にいたころ、美術部にいたので、色にはちょっとだけ詳しい。一口に「青」といっても濃淡いろいろあるが、これは「薄群青」という色に近い。

ミチがたたまれた布を広げ、徐々にその姿があらわとなる。

洋服だ。薄群青の、長袖の洋服だ。

服の真ん中の部分がぱっくりと開いて、チャックがついている。たぶん、ジャンパーと同じように、服の上から羽織るタイプの上着なのだろう。

襟首のところにはフードがついている。

「これって……ジャンパーですか?」

「いやいや、パーカーだよ」

「ぱーかー……?」

「ヘンな色の名前は知ってるのに、パーカーは知らないの? ヘンなの」

そういうとミチはたまきの背後に回り、薄群青のパーカーをたまきの肩にかける。たまきはされるがままにそでを通す。

「姉ちゃんが、たまきちゃんは絶対このサイズだって言ってたんだけど、サイズ大丈夫かな」

たまきはパーカーの袖や裾を見た。たまきには少し大きかったようだが、上着ならちょっとくらい大きくてもよいのかもしれない。

「お、似合う似合う。かわいいじゃん」

そういって、ミチは笑った。

何より、パーカーはあったかい。亜美の言っていた「ジャンパーより薄手の何か」にぴったりだ。

「あの、これっていくらしたんですか……」

「えっと、二千円くらいかな?」

「二千円!?」

たまきにとっては、ずいぶんと大金だ。

「あの……こんな高いの、もらえません……!」

「なんでよ?」

「だって、私があげたチョコ……、百円ですよ……」

「だからさ、来年のバレンタインとか誕生日とかでお返ししてくれればいいから」

「来年……ですか……」

来年なんて生きてるかな、とたまきは首をかしげる。

「これで来年、プレゼントあげる理由がない、なんて言わないでしょ」

たまきはしばらく黙っていた。

「その……とりあえず高いものあげておけば私が喜ぶなんて思ってるんだったら……心外です」

たまきはミチの目を見ることなく言った。だけど、パーカーの暖かさはどうにも否定できなかった。

 

写真はイメージです

かえりみち。

たまきにしてはめずらしく、たまきにしては本当にめずらしく、とぼとぼと下を向くことなく、まっすぐ前を向いて歩いていた。

行きと帰りでたいした違いは無い。もらったパーカーを羽織ってみただけである。薄群青の無地で地味なパーカーだ。

たったそれだけの違いなのだけれど、少しだけ何かのレベルが上がったような気がして、道行くおしゃれさんとすれ違っても気後れしない。それでもおしゃれ警察が来たら、「こいつ、もらったパーカーを羽織ってるだけだぞ!」と逮捕されてしまうのだろうか。

ふと、たまきは立ち止まり、ショーウィンドウに映る自分を見ると、ニット帽を脱いでみた。また何かのレベルがちょっとだけ上がった、様な気がした。

経験値を上げてちょっとだけレベルが上がった勇者の気分で、たまきは太田ビルの階段を登る。5階の「城」のドアの前に立ち、ドアノブに手を伸ばそうとしたときに、少し上から声をかけられた。

「たまき、こっち」

屋上へと続く階段の中ほどから、亜美が手招きしていた。手には黒っぽい何かが握られている。

言われるままに、たまきは屋上へと上がった。洗濯物が干してある。他には紙袋が置いてあるだけで、特段何か変わった様子は無い。

「中、入っちゃだめなんですか?」

たまきは亜美に尋ねてみた。

「今、ヤサオ来てんだよ」

ヤサオというのは、志保のカレシの田代に亜美が勝手に付けたあだ名である。

「志保がどういうところに住んでるのか見ておきたい、だってよ」

そういうと亜美は、紙袋の中から四角い何かを取り出して、たまきのほうに投げてよこした。たまきはあわててキャッチする。

「な、なんですか、これ」

「ヤサオのお土産。ようかんだってさ」

たまきが包み紙をはずすと、黒っぽいようかんが顔を出した。

カノジョの家に来て、お土産を買ってくるだなんて、大人だなぁ、とたまきはぼんやりと思う。

「何で入っちゃだめなんですか?」

「何でって、キマズイだろ」

そういって、亜美は舌打ちをした。

なるほど、とたまきは納得した。

「城」に平気でオトコを連れ込んだり、エッチなことをする亜美でも、「気まずい」と思うことがあるらしい。

だけど、たまきには、それ以上に何かあるような気がした。

「亜美さんは……、えっと、田代って人のことが、苦手なんですか?」

「キライだね」

亜美は屋上の柵のむこうに広がる青空を見ながら言った。

「おもしろくねーじゃん、あいつ」

どういう意味なのか、たまきには今一つよくわからなかった。

亜美は、足元の紙袋を拾う。

「こんなもの買ってきやがってさ」

「……気が利きますよね」

「気が利きすぎて、ヒクわ。ウチと大して年変わんねーのによ」

亜美は紙袋をパンパンとたたいた。

「志保に言わせるとさ、そういう時は素直にもらっておけば相手も喜ぶし、自分もうれしいつーんだけどさ、オトコから高いものもらってキャッキャと喜ぶオンナなんて、オンナはオトコからなんかモノもらって当然、って思ってるってことだろ? そういうオンナがよ、オトコにナメられんだよ。とりあえず、高いものあげとけば喜ぶって感じでな」

ぎくり、とたまきの中から、関節がずれたような音がした。

「で、でも、亜美さんだって、男の人からビールとかもらってるじゃないですか」

「そりゃそうだろ。ウチ、十九だから買えねーんだもんよ」

「デートに財布持ってかない主義だって……」

「これだからお前はおこちゃまなんだよ」

亜美の言葉に、たまきは不服そうにようかんをかじる。

「『おごらせる』と『おごってもらう』は全然違うんだよ」

たまきには、その違いがよくわからない。

「それにしても、このようかん、うまいな」

亜美はそう言ってようかんを頬張った。

「ところでお前、そのパーカー、どうした」

たまきよりもはるかにおしゃれな亜美が、たまきの服装が出かける前と少し変わっていることに気づかないはずがない。

「……まあ」

「ふーん、ウチの好みじゃねぇけど、まあ、いいんじゃね? いくらしたんよ」

「……二千……円……くらい……」

「金、足りなくなったらエンリョなく言えよ。お前は、金使わなさすぎなんだからな」

どうやら亜美は、たまきが適当に買ってきたと思ったらしい。たまきとしても、そのほうがいい。

 

「ああ、ここにいたんだ」

そういって、田代が一人、屋上へと階段を上ってきた。

「ごめんね。気を使わせちゃったね。もう帰るから」

「あっそ」

亜美は田代のほうを見ることなく、何やら携帯電話をいじっている。

亜美がどういう理由で田代のことが嫌いなのか、たまきには今一つよくわからない。でも、いくら嫌いだからってそれを態度に出さなくてもいいんじゃないか。たまきだってよく、ミチに「あなたのことは嫌いです」と言っているけど、だからと言ってあからさまな態度をとったりはしない。

たまきはそう思ったのだが、亜美は良くも悪くも、嘘がつけない性格なのだろう。良くも悪くもごまかせないのだ。

もちろん、亜美だってうそをつくことぐらいあるだろうし、男性の前で猫を被ることがあるのもたまきは知っている。一方で、ああこいつキライだなぁ、と判断したら、そういったことをぱたりとやめてしまうのだろう。おそらく、意識してやっているのではなく、自然とスイッチが入らなくなるのではないか。

そういう時はたまきがフォローに回れればいいのだが、たまきはたまきで、知らない人全般が苦手なのである。

結果、柵にもたれて背中を向けたままの亜美と、目を合わせられないたまきという、なんとも気まずい空気が生み出されてしまった。

そんな空気に気づいているのかいないのか、田代は二人のほうへと近づいてくる。

「えっと、亜美さんでよかったんだよね。で、そっちの子は……」

田代がたまきのほうを見る。そういえば、田代にちゃんと名前を言ったことがなかった。

答えたのは、たまきではなく亜美だった。

「ん? ああ、こっちはたまき。うちのザシキワラシ」

とうとう動物ですらない、妖怪扱いされてしまった。

「二人はここで志保ちゃんと一緒に暮らしてるんだよね?」

「……はい」

事実なのに、たまきはどこか自信なさげに答えた。

「えっと、二人はどれくらい勉強してるの?」

田代の言葉に、亜美とたまきは、きょとんとした感じで互いに顔を見合わせた。

「ベンキョー?」

「……ですか?」

「何の?」

亜美もたまきも、勉強なんてここ何年もしていない。

今度は田代がきょとんとした感じで尋ねた。

「何のって、薬物依存や違法薬物に関する勉強だよ」

そこで二人は、もう一度顔を見合わせた。

「え? おまえ、なんか勉強とかしてる?」

「いえ……別に……」

それからたまきは言い訳するように、特に田代に対して言い訳するように、付け足した。

「その……舞先生……知り合いのお医者さんに難しいことは任せてるので……」

「まあ、基本ウチら、先生に丸投げだよなぁ」

たまきはどこかで、舞の胃がキリキリときしんだような気がした。

「そうなんだ」

田代はあまり納得していないようだ。

「でも、薬物依存の患者と一緒に暮らすんだったら、そういう勉強も必要なんじゃないかな。本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思うし」

勉強だなんてそんなこと、たまきは考えたこともなかった。

それともうひとつ、たまきの心に強く引っかかった言葉があった。

「本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思う」

今のたまきたちの生活は間違っている、遠回しにそういわれたような気がした。

「ベンキョーね、まあ、そのうちな。ああ、ようかん、うまかったよ。ありがとな」

田代が帰るまで、けっきょく亜美は、一度も田代を見ることはなかった。

 

「送信……っと」

亜美は携帯電話をぱたりと閉じると、たまきの方を向いた。

「たまきも来るだろ、花見」

「お花見……ですか……?」

「そ、花見。再来週くらいになるかな」

どうやら、携帯電話でやっていたのは、お花見の企画だったらしい。

どうせまた、亜美とつるんでるガラの悪い男たちが集まるのだろう。テレビで見る「お花見で騒ぐ、迷惑な若者たち」の絵面そのままの光景になるに違いない。

正直、そんなお花見、行きたくない。

いや、これがもし、田代みたいな人当たりのよさそうな人ばかりが集まるお花見だったとしても、やっぱりたまきは参加するのをためらうのだろう。

行ったところで、どうせなじめやしないのだから。

それでもたまきは、

「……まあ」

というあいまいな返事しかできない。

たまきも少しは亜美を見習って、嫌なものは嫌だとはっきり示せた方がいいのではないだろうか。

そんなことを考えてみるも、誘ってくれた亜美に悪いとか、断ったら嫌われちゃうんじゃないかとか、いろんなことがよぎってどうしても「行きたくない」とはっきり言えない。

そもそも、たまきのようにずっと友達がいなかった子にとって、友達から誘われる、というのはとてもありがたい、夢のようなことなのだ。断れるはずがないじゃないか。

「ところでさぁ、たまき」

柵にもたれたまま亜美は、たまきのほうを見ていった。

「お前にとって、志保って何よ」

「え、え?」

急になんだか恥ずかしいことを聞かれて、たまきは戸惑いながらも答えた。

「私にとって……志保さんは……志保さんです」

たまきにはそれしか答えが出てこなかった。

「だよなぁ。志保は志保だよなぁ」

「……亜美さん、その、ヘンなこと聞くかもしれないですけど……」

「ん? どした?」

そこから先の言葉がたまきには出てこなかった。

「おい、言えよ。気になるだろが」

亜美は体ごとたまきのほうを向くと、腰をかがめてたまきの目をのぞき込む。

「なんだよ。気にすんなって。どうせおまえの言うことは、いつもヘンなんだから」

「その……」

たまきは、いつもよりさらに自信なさげに言った。

「……私たちがここで暮らしていることは、間違っているんでしょうか」

不法占拠、つまり家賃を払っていない。おまけにそのメンバーが、援助交際娘と、薬物依存患者と、家出少女である。やっぱり、こんなの間違っているんじゃないだろうか。

「そんなの、百人に聞いたら、百人が間違ってるっつーに決まってんだろうが」

「やっぱり……」

亜美は煙草を一本取りだし、火をつけた。

「……だから?」

「え?」

たまきは亜美を見上げる。

「ああ、ウチらがやってることは間違ってるよ。だから? じゃあ、解散するか?」

「そ、そんなの……!」

こまる。ここが解散になったら、たまきはどこに行けばいいというのか。ここにいられなくなったら、いよいよ死ぬしかないじゃないか。

「な、ウチらの生き方が間違ってようが、それでしか生きていけねぇんだったら、そう生きてくしかねぇじゃねぇか」

亜美は携帯灰皿にたばこをぎゅっと押し付けると、灰皿のふたをぱたりと閉じた。蓋に断ち切られた煙が、何か断末魔のようにふわりと漂い、消えた。

つづく


次回 第30話「間違いと憂欝の桜前線」

自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

田代に別れを告げた志保はがっつりと落ち込んでしまう。そんな志保の周りで、亜美が、たまきが、舞がそれぞれ動く。「志保編三部作」の最後の「あしなれ」第28話、スタート!


第27話 「ラプンツェルの破滅警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「おい、いいのか?」

亜美の問いかけに志保は小声で

「いいの……」

とだけ答えた。志保は亜美も、そして田代の方も見ることはなく、その場を離れた。

志保が田代に「すべて」を話すのを、少し離れたところから亜美とたまきも聞いていた。亜美とたまきにも聞いてほしかったのと、志保が一人で田代の前に立つ勇気がなかったのがその理由だ。

「ちっ」

亜美はわざと聞こえるように舌打ちをすると、ズボンのポケットに手を突っ込んで志保の後を追った。

たまきは、田代の方を見やった。

事態が飲み込めない、そんな表情だろうか。

まあ、当然だろう。いきなり呼び出されて、あんな話をされて話を飲み込め、というのはいくらなんでも無理がある。

「あ、あの……」

たまきは一歩前に進み出て、田代に声をかけて、それからすぐに、心の底から後悔した。「知らない人に話しかける」というのが、たまきは一番苦手なのだ。

声をかけてしまってから後悔し、たまきは田代から目線を外す。

一方、声をかけられた田代は、たまきの方を見た。

「君は……志保ちゃんの友達……?」

まあ、田代から見て志保の後ろの少し離れたところでずっと話を聞いていれば、いくらたまきのように影の薄い子でもその存在に気付くだろうし、友達なのかな、と思うだろう。

もう引き返せないと悟ったたまきは、

「あ、あの……」

と言ってから一度深呼吸をして、言葉をつづけた。

「志保さん……その……田代……さん……にお話しするまで……すごく悩んでました……。そ、それだけわかってあげてください……」

たまきはほとんど田代の目を見ることなくそれだけ言うと、くるりと背を向け、まるで悪いことでもしたかのように、小走りにその場を立ち去った。人と話すことよりも、その場から逃げ出すことの方が得意なたまきである。

人気のない路地裏で、少し先を歩いていた亜美に追いつき、横を並んで歩きだす。

「ん? ヤサオと何か話してたのか?」

「べ、べつに……」

ニット帽をかぶったたまきは、もうその話題には触れられたくないように下を向いた。

「まさか、志保がヤサオをフッたのをいいことに、ヤサオのことを奪おうとか……」

「そんなわけないです」

たまきは即座に否定した。

たまきは前方に目をやる。亜美とたまきより5mくらい前を離れたところを、志保が歩いていた。右手にはハンカチが握られていて、時おり目元にそれを押し当てている。

「あ、あの……さっきの志保さんの話なんですけど……」

たまきは亜美の横を歩きながらも、亜美と目線を合わせることなく言った。

「私にはよくわからなかったです……」

学校に行けて、友達がいて、カレシがいて、志保はそれが「怖い」という。

でも、結構な話ではないか。

「その……自慢話にしか聞こえなかったというか……」

あんまり志保のことを悪く言いたくはないのだが、たまきからしてみればうらやましい話でしかなかった。なんで志保はわざわざ自分で「壊したい」なんて思ったのか、よくわからない。

それを聞いていた亜美は、最初は黙っていたが、やがて笑い出した。

「はははは。なるほど、自慢話か」

「……やっぱり変ですか?」

亜美は前方を歩く志保と十分に距離をとっていることを確認すると、少し声のボリュームを落とした。

「まあ、自慢話って言ったら、そうだよなぁ」

たまきは黙ったまんま答えない。

「ま、世の中の悩みっていうのは案外、他のヤツが聞いたら自慢話かもしんねぇよな」

亜美はそう言って笑うと、たまきの方を見る。

「だってさ、仕事の愚痴もさ、仕事ないやつが聞いたら自慢話じゃん。恋人の愚痴も、恋人いないやつが聞いたら自慢話じゃん。子育ての愚痴も、子供いないやつが聞いたら自慢話じゃん」

「……まあ」

「でさ、そういう話するやつにさ、『え? なに? 自慢?』って聞き返すじゃんか」

「え……あ……そうなんですか……」

そこでそんな煽るような言い返し、たまきにはできない。

「するとたいていさ、『あんたなんかに何がわかんの!』って逆ギレされんだよ。は?って話じゃんか。ウチに言ってもわかんねぇって思うんだったら、最初っから相談すんじゃねーよ、バーカ!って言うわけよ」

「あ、そう思う、ってわけじゃなくて、ほんとに言っちゃうんですか……」

たぶん、実際は今より十倍くらい辛辣な言い方に違いない。胸ぐらをつかむ程度のことはしているかもしれない。

「で、何の話だっけ?」

亜美は話しているうちに興奮して、何の話をしてるのかわからなくなったらしい。

「その……、悩みってあんがい自慢話だって話です……」

「ああ、そうだった」

亜美は頭の後ろで腕を組んだ。

「だからな、悩みってあんがい自慢話だったりするんだよ」

「そうでしょうか……?」

たまきにはどうも今一つ納得できない。今日は納得できないことが多い日だ。

「そんなもんだって。……お前の悩みだってもしかしたら、うらやましいって思ってるやつがいるかもしんねぇな」

「そんなわけないです」

たまきは間髪入れずに答えた。

学校にいけない。友達がいない。ないないづくしのたまきの悩みをうらやましく思う人などいるわけない。

そう思ってから、たまきはふと、ミチのことを思い出していた。

家族とうまくやれない、家族のことが嫌い、そんなたまきの悩みが、家族のいないミチには「わからない」のだという。

それは「うらやましい」とはまた違うのかもしれない。だけど、自分の悩みが他人にとっては自慢話なのだとしたら、いくら言葉を尽くしても理解されないのは当然のことかもしれない。「お前に何がわかる」と逆ギレしてみたところで、亜美の言うとおり、そもそも最初からどれだけ言葉を尽くして他人の悩みなど理解できるものではないのだ。たぶん、たまきが志保の悩みをいまいち理解できなかったように、志保にはたまきの悩みはわからないし、亜美にもたまきの悩みはきっとわからないのだろう。

ただ一つ、たまきには理解できない理由ではあるけれども、志保は本気で苦しんでいる、ということだけはたまきにもわかった。

 

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それから、二日ほどたった。

「城」の中は明かりがついておらず、消防の観点から申し訳なさそうについてる窓から、わずかに外の光が差し込む程度だ。

公園に行って絵でも描こうかと、たまきは起き上がった。ぼさぼさの髪を手櫛で整え、「衣裳部屋」においてあるリュックサックを手に取った。

そこでたまきはふと思い出す。今、この空間にもう一人いるということを。

志保はソファに腰掛け、何をするでもなく、ただそこに座っていた。

亜美は昨夜からいない。どこに行ったかもわからない。まあ、亜美はいつもそんな感じだ。

一方の志保は、いつもとは全然様子が違っていた。目はうつろで焦点が合わず、どこを見ているのかわからない。髪はぼさぼさ。染めた髪の根本は少し黒くなり始めていたが、今の志保にとってはどうでもいいことらしい。

「あ、あの……」

「……なに……」

紙やすりで雑に削り取ったかのようなか細い声で、志保は答える。

「……今日は施設に行く日じゃなかったでしたっけ……」

「……休むって電話したから……」

「……そうですか……アルバイトの方は……」

「……バイトもやめた方がいいよね……。なかなか電話できなくて……」

たまきは手にしたリュックを床に置いた。

これではどっちが引きこもりなのかわからない。

舞からは、志保を一人にするなと言われている。そうでなくても、今の志保を一人置いて出かけるなんて、たまきにはできない。亜美ならするだろうけど。

結局、たまきは黙ったまま座り続けた。志保も黙ったまんまだ。

何の会話もないまま三十分が過ぎたころ、不意に静寂が破られた。

ドアをどんどんと叩く音。次に声が聞こえる。

「おい、不法占拠の野良猫ども。誰かいるんだろ? あたしだ、開けろ」

舞の声だった。

たまきは志保の方を見た。志保はドアをたたく音と声に気付いているのかいないんか、これといった反応はない。

たまきは立ち上がると、「城」のドアを開けた。

「……こんにちは」

たまきはドアから顔を出すと、申し訳なさそうに挨拶をした。

「……おまえひとりか? 志保は?」

「……中にいます」

舞はドアをぐいっと開けると、靴を脱ぐことなくずかずかと「城」の中に入っていった。

入ってきた舞に気付いた志保は、無言で軽くお辞儀をするだけだ。

「よお。聞いたぞ。オトコをフッたんだって?」

「……まあ」

志保はなんだか、たまきみたいな返事の仕方をする。

「なんだよ。なにフッた方がこの世の終わりみたいな顔してんだよ」

「……ですよね」

志保は目線を上げることなく答えた。

「どれ、診察してやっか」

舞は、志保の向かい側にあるソファに座った。それから、後ろにいるたまきの方を向く。

「たまき、悪い。ちょっと席外してくんねぇかな。そんな長居しねぇから。その間……そうだな……古本屋とか、どっかそうだな、お前の好きそうなとこってどこか……」

舞としては引きこもりのたまきに「どこか行け」という残酷なお願いをするのにかなり気を使ったのだが、たまきは意外とあっさりと、

「わかりました」

というと、床に置いてあったリュックを手に取り、「城」の外へと出て行った。

「さて、どれどれ熱は……ないな」

舞は志保のおでこに手を当てる。

「はい……熱は……ないです」

「いや、冗談だってば」

舞は苦笑しながら、志保の額から手を離した。

「熱はないけど……こりゃ重症だな」

舞は志保の顔色をしげしげと見る。

「さて、あたしはお前の主治医だから、お前がまたクスリに手を出しそうになったら、止めにゃあならん義務がある。そんで、今のお前は明らかに精神的にやばい状態だ。よってあたしは、これからお前を診療しようと思う。あ、この場合、あたしの方から来たから、往診っていうのか」

舞はわざと明るく言ったが、志保の表情は変わらない。

「とりあえず、亜美からお前が男をフッたとしか聞いてないから、何があったのか、話してみな」

 

写真はイメージです

小さく舌打ちして、亜美は携帯電話を閉じた。

「余計なことしたかな」

舞に志保のことを話してよかったのかどうか。とはいえ、それ以上の余計なことは言っていない。亜美が舞に話したのは、単に「志保がオトコをフッて、えらく落ち込んでいる」ということだけで、亜美が聞いた志保の過去にまつわる話は一切しゃべっていない。そもそも、亜美は舞から電話で、「志保が前に恋愛相談に来たけど、あの件は結局どうなった」と聞かれたことに答えただけだ。

「シゴト」と用事を済ませた亜美は、どこに向かうでもなく繁華街の街をぶらぶらとしていた。

何気なく、ついこのあいだ志保が田代と会っていた空き地の前を通りかかる。ふと、亜美は空き地の中に、見たことのある姿を見つけた。

田代だった。田代は何をするでもなく、空き地の中に立ちすくんだまま、あたりを見渡している。

「おいおいもしかして……」

その様子を亜美は少し離れたところから見ていた。

(こいつまさか、ここにいればまた志保がやってくるんじゃねぇかって、月9みたいなことしてるんじゃねぇだろうな……)

亜美は半ばあきれた様子で田代を見ていた。

なるほど、確かに田代は優しそうな好青年である。背も高く、柔和な顔立ちだ。

だが、亜美の好みではない。正直、こんなののどこがいいんだろう、と首をかしげる。亜美の付き合うような男たちがお酒で、ミチのようなその取り巻きがジュースだとすると、こいつは水、よくてお茶といったところだろうか。

来るはずもない志保を待っているのがさすがにかわいそうになり、亜美は田代に近づいた。

「おい」

あまりに乱暴な亜美の呼びかけに、田代は自分が呼ばれたと気づかず、亜美の方を向かない。

「いや、ヤサオ、おまえだよおまえ」

ややいら立ちのこもった亜美の呼びかけで、ようやくヤサオこと田代が振り向いた。

「君は……志保ちゃんの友達の……」

田代も亜美のことを覚えていたらしい。いや、髪を金に染め上げ、冬場でも見せれるところを見せようとする亜美の姿を「忘れろ」という方が無理なのかもしれない。

「あのさ、まさかとは思うけど、ここで志保来ねぇかって待ってんの?」

「う、うん……」

田代は、少しぎこちなくうなづいた。

「志保ちゃん、今日バイト休んでて……。最後にあったのここだから、もしかしたらまた会えるかと……」

「おまえバカか」

ほとんど面識はないはずの亜美からいきなり「バカ」と浴びせられ、田代は面食らった。しかし、亜美の方は気にすることなく言葉をつづける。

「バイト休むような奴が、この辺うろついてるわけねぇだろ、バカ。そんな元気あるんだったら、バイト行ってるだろうが、バカ」

まるで語尾につける句読点のように、亜美は「バカ」と言い放つ。そのたびに田代はボクサーにビンタされたかのように、少し顔をゆがめる。

「でも、俺、志保ちゃんの家どこか知らないし……電話しても出ないし……」

「『さよなら』っつったオトコから電話かかってきて、出るわけねぇだろ、バカ。そこで出るようなら、そもそもさよならとか言わねぇつーの、バカ。つーかさ、フッた男から電話かかってきたら、かえって志保が苦しむんじゃねーかとかさ、考えねぇのかよ、バカ」

「す、すいません……」

わずかなあいだでバカの集中砲火を浴びた田代は、うなだれるしかなかった。

「……ま、いきなりあんな話されたら、わけわかんねぇよな。悪ぃ、言いすぎた」

そういうと、亜美は公園内に置かれた、大きな岩を指し示した。

「おい、ここ座れ」

そう言って乱暴に自分の横の岩を蹴っ飛ばす。

「え?」

「んだよ? 別に噛みつきやしねぇから、いいからとりあえず座れ」

 

「なるへそ」

舞はソファに座り、腕を組んで志保の話を聞いていた。

「で、お前は別れたことに納得してんのか?」

「はい……」

志保は吐息のようにつぶやいたあと、無理しているかのような笑顔で、こう付け加えた。

「たまきちゃんに言われたんで」

「ん?」

腕組みをしたままの舞は、何かに引っかかったように、志保を見た。

「たまきに言われたから別れたのか?」

「……はい」

舞は少し身を乗り出す。

「さっきの話じゃ、たまきが言ったのはあくまでも、別れる別れないを決めるのはお前じゃなくて相手だって話だろ? あいつはお前に『別れろ』なんて言ってないだろ? それが何で、『たまきに言われたから別れた』ってことになるんだよ」

「それは……」

志保は少し間を開けてから答えた。

「だって……、本当のことを言ったら、きっと彼はあたしのことを軽蔑し、別れると思うんです。だったら、自分から別れた方がいいって思って……」

「ん?」

舞はまたいぶかしむように顔をしかめる。どうにも話がつながって見えない。

舞は煙草を灰皿に押し付けると、そこから漏れ出た煙を眺めながら、しばらく考えた。

今聞いたばかりの、志保が覚醒剤に手を出した理由。

志保が田代と別れることとなった経緯。

「ふーむ……」

舞は片手でたばこを持ち、もう片手を頬に当てて考え込む。

「なるほど……」

舞は何かを一人で合点したように、再び煙草を口にした。

「おまえの問題点が、やっとわかったよ」

「私の……」

「ああ」

舞はゆっくりと息を吐いた。

「結局おまえは、何一つ自分で決めてないんだよ」

「え……」

志保は虚を突かれたように、ぽかんと口を開ける。

「どういう意味ですか?」

志保は少し、自分のプライドが傷つけられた気がした。

自分の人生を壊す。その選択が、そのやり方が、たとえどんなに愚かなことだったとしても、それを「自分の意志で決めた」、それだけは間違いないと思っていたからだ。

そもそも、「自分でなにも決めてない人生」を変えたくて、人生を壊すと決めたはずだ。「結局なにも自分で決めてない」だなんて、そんなことあるもんか。

「おまえの判断基準はいつだって、『こうしたい』じゃない。『こうした方がいい』なんだよ」

たばこの煙が天井へと延びていき、空気になじんで、消えていく。

「だってお前、ほんとは別れたくなかったんじゃないのか。だから、あたしに相談したり、たまきに相談したりしたんじゃないのか? 別れたかったら、相談なんかしないよな」

「それは……そうですけど……」

「じゃあなんで別れたんだ?」

「だってそれは……別れた方がいいと思って……」

そこで志保ははっとした。自分が今まさに「した方がいい」と口にしていたことに。

「クスリに手を出す前のお前は、自分の意志や欲望を持たずに、常識ってやつに価値判断を任せて生きてきた。お前の言う『空っぽの人生』ってやつだ。お前はそれが嫌だった。さっきおまえが話してくれたことをまとめると、そうなるよな」

志保は無言でうなづく。

「確かに……薬に手を出したこと自体はバカだったと思います……。でも、それからはあたし……、ちゃんと自分の意志を持って……自分で『こうしたい』って考えるように……」

「思ってるだけだ。それを決断にまでは結び付けちゃいない」

舞は志保の目を、まっすぐに見据えて言った。

「現におまえは、はっきり『別れたくない』と思っていたにもかかわらず、『別れた方がいい』と決断したんだ」

「でも……だって……そうじゃないですか。あんな話したら、彼だってあたしのことに嫌い……」

「話を聞いて相手がどう思ったのか、ちゃんと確認したのか?」

志保は少し泣きそうになりながら、首を横に振った。

「なんで確かめない? それこそ、たまきに言われたんじゃないのか? どうするのかを決めるのはお前じゃない、相手だって」

「だって……」

志保の声が少し震え始めた。

「耐えられるわけないじゃないですか……。好きな人から『おまえなんか嫌いだ』なんて言われるのは……。耐えられるわけないじゃないですか……」

「だから自分から『別れた方がいい』と」

舞はソファの背もたれに背中を押し付け、がっしりと腕を組んだ。

「でも、お前の本音は『別れたくない』だったんだろ? それなのに別れちまったら、お前の本音はどこに行くんだろうな?」

その問いかけに、志保は答えなかった。

あたしが。あたしが。あたしが。たまきや亜美に相談するときにさんざん言ってきたのに、最後の最後で「あたし」を黙殺する自分。舞の言うとおり、どんなに「あたしが」と強く思い続けても、志保はそれを決断に結び付けられないのだ。

「どこにも行きやしねぇよな。お前の心の奥底でずっとくすぶり続ける」

舞は少し身を乗り出すと、志保の胸を指さした。

「おまえさっき、別れたことは納得してるって言ってたけど、納得してるんだったらこんなところでひきこもってなんかないよな。本当はこれっぽっちも納得なんかしてないんだよ。『別れたくない』がお前の本音なんだから。そんでもってそれを、たまきのせいにしてる」

「あたし、べつにたまきちゃんのせいだなんて……」

「だってさっき言ったじゃないかよ。『たまきに言われたから』って」

「それは……」

志保は下を向いた。

「別れるって決断をしたのはお前だ。でも、お前の本音じゃない。お前の意志じゃない。決断をしたのはお前だけど、お前じゃない。ややこしいけど、わかるか?」

「……まあ」

「おまえの本音はお前の中でくすぶってるまま。納得なんかしていない。それを『人に言われたから』ってことにして納得しようとしてるだけだ。ほんとはお前が決めたのに」

舞はそういうと、再び煙草に口を付けた。

「いやな、別に『そうした方がいい』って判断したこと自体が悪いわけじゃねぇんだよ。たとえば、ケーキが食べたいけど食べたら太るから食べない方がいい、ってときは、『食べない方がいい』を選んでも全然いいんだよ。ただな……」

舞はそこで一度言葉を切ると、志保をまっすぐに見た。

「おまえの場合は、それが多すぎる。それも、重要な選択の時はほぼ必ず、本音を無視して『した方がいい』の方を選んじまう」

志保は、舞の目を見れなかった。

「おまえが財布盗んだ時だってそうだ。お前の本音は『ここに残りたい』だった。でもお前はあの時、『ここから去った方がいい』を選択したんだ。あんときもお前がここに残れないかと言い出したのはたまきだったよな。そのあと、亜美が言い出して、お前自身が言い出したのは、一番最後だ」

志保は黙ったままうつむいている。

「クスリに手を出したのだってそうだよ」

「そうなんですか……」

「まあ、まず薬物に手を出しちゃいけないって大前提があるけど、それは今更言ってもしょうがねぇ。ちょっと置いとこう。お前は常識に従っちまう人生ってやつを変えたかったんだろ? だったらなんで覚醒剤なんだ? たとえばさ、学校に通いながら、自分でこうしたいって決めて、自分でしっかり進路定めて、周りにどう言われようと自分の意志を貫く、そんな生き方じゃダメだったのか? っていうか、そんな生き方がしたかったんじゃないのか?」

「それは……でも……それじゃ駄目な気がして……」

「何がダメなのさ?」

「……結局、元の場所に戻っちゃうんじゃないかって」

「それだよ、それそれ」

舞は志保を指さす。

「おまえは自分が『こうしたい』って思っても、それを貫けないんだよ。だからお前は、クスリに頼った。覚醒剤はどんなに意志の強いやつでも人生を破滅させる。普通はそれは悪い意味で使われるんだけど、お前はそれに頼ったんだ。お前みたいに、意志を貫くことができないやつでも、確実に人生を破滅させられる」

舞は煙草を灰皿に押し付けると、ふっと笑顔を見せた。

「最初に会ったとき、お前の薬物依存を『病気』だって言っただろ? 治さなきゃいけない病気なんだ。でも、その根本はクスリがどうこうじゃない。なんでクスリに手を出したか、そこだ。治さなけりゃいけないのは、お前のその意志の弱さ、意志を貫けない性格なんだよ。そのままでいいっつうなら別にいいけど、お前はそれを治したいって思ってるんだろ? 第一、本音を押し殺しながら生きてたら、お前自身がいつまでたっても苦しいまんまじゃねぇか」

「そうですよね……」

「で、お前はどうしたかったんだ?」

舞は歯を見せてにっと笑った。

「あたしは……別れたくなかったです……でも……」

「ストップ! そっから先は言うな」

舞は手で志保の言葉の続きを制する。

「別れたくなかったんなら、カレシにしがみついてでも、ヤダヤダ別れたくないって言えばよかったんだよ」

「そんなみっともない……」

「おまえまだ十七だろ? いいじゃんか、みっともなくて」

そういうと舞は優しく笑った。

「あの……」

志保は顔を上げて、少し身を乗り出す。

「あたしはどうすれ……」

そこで志保ははっとして言葉を切った。

「どうすればいいか」ではない。

「どうしたいか」だ。

いいじゃないか、みっともなくて。

自分の過去も、言いたくないことも、全部話したのだ。

だったらさらに醜態さらして、「ヤダヤダ、別れたくない」とみっともなく田代にしがみついてみたらどうだ。

きっと軽蔑されるだろう。でも、どうせフられるならとことん軽蔑されるのも悪くない気がしてきた。

精神的なダメージや体裁を考えたら、もちろん、そんなことは「しない方がいい」。

でも、今の志保は「そうしたい」のだ。

志保は携帯電話を取り出すと、優しくボタンを押した。

 

田代は亜美に促されるがままに、公園の中に置かれた岩に腰掛けた。

だが、亜美の方はどこにも腰掛けずに立ったまんまだ。そのまま腕を組んで田代の方をにらむように見ているから、ずいぶんと亜美の方が偉そうに見える。

「で、お前どうしたいの?」

亜美は尋問、いや、質問をぶつけた。

田代は困ったように周りを見渡してから答えた。

「まず志保ちゃんに会って……」

「そりゃそうだろ、バカ。志保とコンタクトとりてぇからこんなとこうろついてんだろうが」

「ちゃんと話して……」

「あたりまえだ、バカ。あったら話すに決まってんだろうがよ」

「あの……」

田代はかなり困ったように亜美を見た。

「……あんまりバカバカ言わないでくれないかな……?」

「あ? バカじゃねぇの? バカにバカって言って何が悪いんだよ、このバカ!」

亜美は田代にグイっと顔を近づける。

「ウチが聞いてんのは、会って話して、そのあとどうしたいのかってことだ、バカ。会ってしゃべってそれで満足なわけねぇだろ。その先があんだろ?」

「それは……」

田代はいよいよ困ったような顔を見せる。

「ま、ウチはお前があの話聞かされたら、てっきり逃げ出すと思ってたよ。もう一度会って話したいっていうのはほめてやるよ」

「ど、どうも……」

「逃げようとか思わなかったのか? 志保の方からお前に別れ切り出したんだ。お前がこのまま会おうとしなければ、それで縁が切れたのに。そうすれば、厄介ごとからも手を切れるんじゃねぇのか……」

「厄介ごと……」

田代はそこで、少し下を見た。

「一度好きになった人を……、厄介ごとだなんて、思えないよ……」

「そもそもさ、志保のどこがよかったんよ」

「それは……、明るくて……優しくて……一緒にいて楽しいっていうか……」

そこで亜美は、深くため息をついた。

「で、結局どうしたいんだよ?」

「……僕に何ができるかわからないけど、彼女を支えていきたいと思う……」

「あんな話聞かされてもか?」

「……あんな話聞かされたからかもしれない。僕だっていろいろ考えたよ。でも、今の志保ちゃんには、やっぱりだれか支えてあげる人が必要なんじゃないかって思って……」

「……お前の手に負えないかもしれないんだぞ」

亜美は腕組みしたまま、まっすぐに田代を見た。

「……僕もこれから薬物について勉強していきたいと思うし……、たとえ手に負えなくても、僕はまだ志保ちゃんのことが好きだから、僕が守ってあげなくっちゃ……」

「ちっ!」

亜美はわざと聞こえるような大きな舌打ちをした。

「え?」

「ああ、いや、何でもねぇよ」

そういうと亜美はそっぽ背く。そして、心の中で叫んだ。

こいつ、ぜんぜんおもしろくねー!

つまんねー。なんてつまんねー男。笑点だったら座布団を全部没収して、ステージの下に蹴り落したっていいくらいのつまらなさだ。

原宿の女子高生が好きそうな甘ったるいラブソングに、魔法をかけて体と声を与えたらこの田代ってやつになるんじゃないだろうか。そういえば、前にカラオケに行ったとき、志保はそんな甘ったるいラブソングばかり歌ってた。

こんなヤサオのどこがいいのかと亜美は今まで不思議で仕方なかったが、何となくその理由がわかった気がした。そういえばこいつら、二人そろって青春映画を見に行くようなカップルだった。

なぁにが「支えていきたい」だ。「守ってあげなくちゃ」だ。道徳の教科書みたいな顔しやがって、このやろう。

さて、どうしたものか、と亜美は頭をひねる。

志保が田代に別れを告げて以来がっつり落ち込んでいるのはよく知っている。田代もその気だというのなら、二人の間を取り持ってやるくらいのことはやってもいい。

やってもいいのだけれど、志保をまたこのつまらない男くっつけても、なんだかおもしろくなさそうだ。

とはいえ、と亜美は考えを改める。これは志保と田代の問題である。亜美がつまらないという理由で間を取り持たない、というのは筋が通らないだろう。亜美としては面白みがないが、志保がこのタワーレコードに平積みで置いてありそうな男が好みだというのならば、とやかく言わずにその間を取り持ってやるっていうのが友達ではないだろうか。

なにより、「城」に引きこもりは一人で十分だ。二人もいると、めんどくさいうえに、しんきくさい。

「おい、ヤサオ」

「あの……それって僕のこと……」

「ウチはジヒ深いから、お前と志保の間を取り持ってやる」

「え……?」

田代はにわかには信じがたいという目で亜美を見る。

「ウチが首に鎖つけて絞め殺してでも、志保をお前の前に引きずり出してやるよ。いやだ、会いたくない、って泣きわめいても、お前の前に連れてきてやるから安心しろ」

「え……べ、別にそこまでしなくても……もっと穏便に……」

「いや、今のあいつに必要なのは荒療治だ。何日も何日もうじうじしやがって。こういう時はな、無理やりにでもことを進めた方がいいんだって」

亜美が思いつく解決法というのはだいたいいつも、荒療治とか無理やりとかである。そして、それがうまくいったためしは、ほぼない。

亜美は携帯電話を取り出す。

「でもな、お前がまた志保と付き合ったとしても、ハッピーエンドになるとは限んねぇぞ。バッドエンドかもしんねぇぞ。そのこと、わかってんのか?」

田代は、手を組んで少し下を向いた。

「……バッドエンドにはさせません」

「いや、お前がさせねぇっつったって、バッドエンドになるかも知んねぇだろ? そん時どうすんだよ」

「だから、バッドエンドにするつもりはありません」

「いやだから、つもりがねぇっつっても実際……」

「そもそも、最初から悪い方向になるかもしれないなんて思いながら恋愛なんてしないですよね。恋愛って、幸せな将来を思い浮かべてするものですよね? だから、志保ちゃんとの幸せな未来を思い浮かべて、そこに向かって二人で歩いていく、それが恋愛でしょ? 確かに、志保ちゃんは普通の子とは違うのかもしれないけど、悪いことばかり考えてたら、本当にバッドエンドになっちゃうんじゃないのかな?」

亜美は何か言いたげに田代を見ていたが、

「ま、どうでもいいわな……」

と言うと、携帯電話をいじり始めた。もう、道徳の授業はうんざりだ。

電話帳から志保の名前を探して押す。だが、呼び出し音がいくらなっても志保が出てこない。

「おかしいな。あいつ出ねぇ。誰かと話してんのかな?」

そう言って志保が振り返ると、田代が誰かと電話で話していた。

「……うん、わかった。じゃあ、この前の場所で待ってるから……」

そういうと田代は、電話を切った。

「志保ちゃん、これからこっちに来るみたい」

「おまえと話してたんかい!」

亜美はやるせなさそうに携帯電話をポケットにしまった。

 

写真はイメージです

たまきは公園の「庵」の前に座っていた。

ベニヤ板とブルーシートでできたお化けのような「庵」は、無数のホームレスたちがせわしなさそうに出入りしている。

最初はここに来るたまきのことを物珍しそうに見ていたホームレスたちだったが、いつしかここにたまきがいるのも風景の一部となったらしく、さほど気にしなくなった。

たまきの正面には、仙人が安物の椅子に腰かけて、たまきのスケッチブックに目を通している。

「前よりうまくなったんじゃないか?」

そう言って仙人はたまきにスケッチブックを返した。たまきはぺこりと頭を下げた。

「それで、今度は何に悩んでるのかな?」

「やっぱり、わかりますか……?」

たまきは視線を落としたまま答えた。

「……友達に、えらそうなことを言ってしまったのかもしれません」

「ほう」

仙人は興味深そうにたまきを見た。

「そのせいで、友達がカレシさんと別れてしまったのかも……」

「お嬢ちゃんのせいなのかい」

「それは……わかんないんですけど……」

たまきはずっと下を見たままだ。

「私は、ちゃんと正しいことを言えたのかな……、もしかしたら、私が言ったことは間違ってたんじゃないかなって思って……」

「お嬢ちゃんがその友達に何を言ったのかはわからないが……」

仙人は片手に持ったカップ酒を、人差し指でトンと叩いた。

「それはどこかにはっきりとした正解があることなのかい?」

「え?」

たまきはここで、初めて仙人の目を見た。

「学校のテストみたいに、はっきりとした正解が存在することだったら、何が正解で何が間違いかはっきりしている。裁判なら法律に照らして正解か間違っているかはっきりさせる。だがなお嬢ちゃん、世の中のたいていの問題は実は、はっきりとした正解は存在しないんだ」

そこで仙人は再びカップ酒に口を付けた。

「だから争いが絶えない。俺の方が正しい。いや、私の方が正しいってな。実はどこにも正解がないのに、自分こそが正しいんだお前が間違ってるんだって主張しあうから、人は争う」

仙人はカップ酒を傍らに置くと、たまきの目を見る。

「そして、何が正しいかわからないから、人は悩む。どこにも正解がないから、何が正しいのかわからない。でも、人はやっぱり、自分が正しいと思ったことをしたいもんだし、間違ったことはしたくないもんだ。何が正しいかわからないけど、これが正しいんだって信じなければ、何も決められない。どこにも正解は存在しないのに、それでもどこかに正解があるはずだと信じて動かなければならない。人生ってのは、神様と追いかけっこしてるようなもんだな」

「はあ……」

たまきはぽかんと口を開ける。数週間ぶりに学校の授業に出て、まったくついていけなかった時もこんな顔をしていたのかもしれない。

「それで……私はどうしたらよかったのかなと……」

「そんなの、お嬢ちゃんのしたいようにすればいい」

仙人はそう言って優しく微笑む。

「はっきりとした正解なんてどこにもないんだから、自分がしたいようにすればいい」

「でも、それで間違ってたら……」

「自分が間違ったことをしたと思ったら……」

仙人はにっこり微笑んだ。

「自分のしたいようにすればいい」

 

写真はイメージです

「城」に帰ったたまきは、またしても口をぽかんと開けた。

「だから~、またユウタさんとやり直すことになったんだってば~」

志保がこれまでの落ち込みっぷりが嘘のようにニコニコとしている。

たまきは困ったように亜美を見上げた。

「なにか……あったんですか……?」

「しらねー」

亜美はこの上なくつまらなそうにしている。

「その……田代って人は、志保さんの話聞いて、それでもいいって言ってくれたってことですか……」

「うん、私のこと支えるから一緒に頑張ろうって言ってくれたの。なんでだと思う?」

「……なんでなんですか?」

横から亜美が

「聞かねぇ方がいいって」

と忠告するより早く、志保は

「志保ちゃんのことが好きだから、だってさ! ヤダもう、言わせないでよ!」

と言いながら、たまきの肩を強くたたいた。

「というわけで、ご心配おかけしました! もう大丈夫だから! あ、先生にも電話しないと!」

というと志保は、携帯電話片手に外へと出ていった。

……結局、なんだったのだろう。

何か一つの騒動が終わったようで、もしかしたらなにも終わっていないような気もする。

「ちっ」

とたまきの横で、亜美が舌打ちをした。

「一つ……気になるんですけど……」

「なんだ?」

「その……田代って人は……志保さんのことが好きだから支えるって言ったんですよね?」

「んあ? ンなこと言ってたな。あのタワレコヤロウめ」

「たわれこ?」

たまきは不思議そうに亜美を見ていた。

「で、何が気になるって?」

「……志保さんのことが好きだから支えるってことは、もし志保さんのことが好きじゃなくなったら、どうなるんでしょうか?」

亜美はしばらく黙っていたが、

「……んなこと、あいつが志保のこと嫌いになってから考えればいいんじゃね?」

そういうと亜美は、ソファの上に体を投げ出し、寝転がった。

 

何かがおかしいのだけれど、何がおかしいのか、たまきにはまだわからなかった。

 

つづく


次回 第29話「パーカー、ときどきようかん」(仮)

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

webライターはもう夢を見れる仕事じゃない

webライターという仕事はもはや泥船。沈むのも時間の問題だ。

そう判断してwebライターをやめて1年ほどが経った。そんなある日まとめサイトの大手「NAVER」が終了するとのニュースが入った。

こういうまとめサイトというのもwebライターの巣窟の一つであり、その中でも大きなサイトであったNAVERが終わるとなると、いよいよもってwebライターの仕事が危なくなったなぁと感じる。

いずれはAIによってwebライターなんて淘汰されるのだろうか。だが、当のwebライター達はそのことには楽観的だ。「量をこなす」という点で人間はAIにかなわないが、「質の領域」ではまだまだ人間に分があるという論調が目立つ。

だけど、残念なことに、webライターに質など求められてはいない。求められているのは量だ。

僕がwebライターの仕事が泥船だと見切った理由もそこにある。僕は幸いにも取材や執筆にじっくりと時間・お金をかけられる環境にいたが、そんな仕事があるのはほんの一握りの幸運なものだけだ。

webライターが携わる案件のうちのほとんどが、求められているのは質よりも量である。流行りにのっかった記事を、手軽に、大量に作ること。それがwebライターに求められている。

そういう仕事しかないのは末端だけで、トップのライターは質の高い記事を求められている、というのならまだ救いがある。だけど以前、年収ウン百万を自称するwebライターの記事を読んでみたのだが、驚くべきことにそこで語られていたのは、「とにかくスピード勝負。集中して記事をたくさん書く」という、「質より量」の権化みたいな話だった。

トップから末端に至るまで、求められているのは質より量なのだ。

たとえば、「新橋の居酒屋を10件紹介する記事」という案件が、報酬わずか400円で募集されている。当たり前だが、わずか400円の予算で10件の居酒屋を食べ比べしたら、大赤字だ。下手したら、交通費にもならない。取材などせず、ネットで調べて書くしかないのだ。

さらに、400円の記事を1時間かけて書いていたのでは、時給400円となり、ライターの利益にならない。これを時給800円、1200円とするには、このようなお手軽記事を効率よく量産していかなければならない。

手っ取り早く記事を書くにはどうすればいいかとなると、すでにネット上にあるブログなどのサイトをコピペして組み合わせるしかない。

どこのクライアントも一応「コピペは厳禁です」と言っているのだけれども、コピペするしかないような金額しか渡さないのであれば、コピペするしかない。

良識あるライターはここで「こんな仕事できるか」と離れていくのだが、それでもこういった案件がなくならないのは、400円の記事をコピペで短時間で仕上げ、それを大量に作って利益とする悪質なライターが後を絶たないからだ。

それにしてもどうして、ネットでは質よりも量が求められるのだろうか。

ウェブサイトは記事を読んでもらって、広告をクリックしてもらって、初めて収益が発生する。それでも、8割近くが月数万円にしかならないという。

個人ならそれでも良いかもしれないが、webライターなんぞを雇うのはたいていは事業として行われる。事業として考えると、月数万円は到底足りない。

事業の収益を上げるにはどうすればいいのか。

記事の質を上げるのははっきり言ってムダである。どれだけ文学的な記事を書こうとも、どれだけ入念な取材に基づいた記事を書こうとも、広告をクリックしてもらわなければ1円にもならない。サイトの記事の質が向上したからと言って、収益が増えるわけではないのだ。

とにもかくにも量である。流行りに乗っかって検索されやすそうな記事を量産するしかないのだ。

こういう戦略は、ビジネスとしてはまっとうな考え方なのだろう。「こだわりの記事を、じっくり、数を厳選して」なんてことをやっていては、ネットで収益は上げられない。

だけど、ビジネス的な効率だけを優先して、粗悪品を大量生産するようなビジネスは、いずれ行き詰まる。特に「クリエイティブ」や「エンタメ」などと呼ばれる業界は、よその業界よりもそれが顕著に表れる。NAVERやWELQがその証明だ。

「商業主義」と「芸術家肌/職人気質」はビジネスの両輪である。どちらに傾きすぎてもいけない。職人気質に偏りすぎたビジネスは売れないし、商業主義に偏りすぎたビジネスは粗悪品をばらまくようになる。

今のwebライティング業界は商業主義に偏りすぎている。

つまるところ、もうwebライターは夢を見れるような仕事ではなくなったのだ。ここでいう夢とは「お金を稼ぐ」という夢ではない。「良い作品を作る」という夢だ。

数年前、クラウドソーシングという働き方が脚光を浴びたときは、確かにそこに夢はあった。だけど、もはやそこに夢は残っていない。沈むのを待つだけの泥船なのである。