根性なんてものはない

二度目の緊急事態宣言も、少し終わりが見えてきた。

するとまた街中に人が増えたとの報道が流れる。「自粛疲れ」ってやつらしいね。

たかだか一か月二か月のひきこもりにも耐えらないだなんて、根性が足りない! 人の命にかかわる問題だというのに、 何がひきこもりはストレスがたまる、だ! そんなのは甘えだ! 甘ったれるんじゃない!

……と強い口調で言ってみたのには、わけがある。

だって、これまでは「ひきこもり」の人たちが、こういう「根性警察」みたいな人の餌食になっていたじゃない。

外での社会生活に耐えられないだなんて、根性が足りない! みんな我慢してちゃんと働いてるのに、何がお外はストレスがたまる、だ! そんなのは甘えだ! 甘ったれるんじゃない!

……って。

今まで、「健全な社会人」から「ひきこもり」が言われ続けてきた言葉。その「言われ続けた側」と「言い続けた側」をひっくり返しただけである。

今まで「ひきこもりは根性がない」と言われ続けてきたのに、状況が一変してステイホームが推奨されるようになると途端に、「ずっと家にいるのはストレスが溜まって無理」とか言い出したのだ。おどろきのてのひら返しである。

僕ら「ひきこもり族」にとって、この程度のステイホームなんて苦行のうちには入らない。「気づいたら3日間、全く外出しなかった」など、全くの余裕。そもそも海外のロックダウンとは違い、散歩やジョギングは認められている。それでも耐えられないだなんて根性がないのはどっちだよ、という話なのだ。今まで「ひきこもりは根性がない」と言っていた輩は、頭を丸めて謝罪会見を開くべきじゃないか。

と、ここでふと思う。

かたや根性がないから外の社会に耐えられない。

かたや根性がないからひきこもり生活に耐えられない。

じゃあ、根性があるやつとは一体どんな奴なんだろう。

もしかしたら、根性だなんてものは実はどこにも存在しなかったんじゃないか。

根性があるから外での仕事のストレスとかに耐えられる!と思ってた人たちが、おうちのストレスにあっさりと屈し、じゃあ、おうちのストレスに耐えられるひきこもり族が根性があるのかと言ったら、彼らはおそとでのストレスに耐えられない。

ならば、根性とは何ぞや。根性がある人とは何ぞや。

僕らが今まで「根性があるから耐えられる!」「我慢できないのは根性が足らないからだ!」と思ってたことは実は、「根性」じゃなくて「相性」の問題だったんじゃないか。

人によって耐えられるストレスと耐えられないストレスが違う。ある人にはいくらでも耐えられるようなストレスも、ある人は全く耐え得られない。これは「根性」じゃなく「相性」だ。

僕が子供のころにやっていたゲーム、まあポケモンなんだけど、あのゲームには「相性」があった。みずのポケモンはほのおに強いけどでんきに弱い、くさのポケモンはほのおに弱いけどみずに強い、みたいな。だから状況状況に合わせて最も相性の良いポケモンを選ぶ。

ポケモンに限らず、いろんなゲームに「相性」があって、相手との相性を考えて戦略を立てる。

ゲームと同じで、どんな仕事にも何かしらのストレスがあって、ストレスには人によって相性があるというのなら、それぞれが相性にあった仕事をすればいい。相性の悪いストレスの仕事を無理にするべきじゃない。

ある人には苦痛でしょうがない仕事を、別になんとも思わない相性の良い人がいるのだから、その人に任せればいいじゃない。

ゲームだと子供でもやってることなのに、不思議なことに、現実世界では「人によってストレスには相性がある」という事を、みんなすっかり忘れてしまうらしい。

たいしてヒットしていないアニメを応援する奴

たいしてヒットもしていないアニメをずっと追いかけている。

たいしてヒットしていないのだから、残念だけど、爆発的な人気はない。

でも、「根強い人気」というものはある。

たいしてヒットもしてないけど、大コケしたわけでもないので、ファンの数はそれなりにいて、その一人一人が作品に、結婚指輪を送りかねないくらい熱い思い入れを持っている。

かくいう僕も、その一人。

たいしてヒットもしてないけど、ファン一人一人のマグマのような熱意を集めて、細々と新作がつくられている。

爆発的にヒットしたアニメだったら、ほっといても新作がつくられるだろうけど、たいしてヒットしてないアニメで、細々とでも新作がつくられ続けているのは奇跡である。

そして、ほっとくともう新作がつくられないかもしれないから、必死になって応援するわけだ。

もしかしたらこの「たいしてヒットしていない」「ファンの数はそこまで多くない」というのが重要なのかもしれない。

たとえばすごく面白いアニメがあって、実際に「面白い」という感想を抱いたとして、

そのアニメが爆発的な人気で、誰もかれもが面白いと言ってるのを見ると、僕はかえって興ざめしてしまう。

「なんだよ、僕だけの『面白い』じゃなかったんかい」と。

ラブレターだと思って大切に読んでた手紙が、実はダイレクトメールでした、みたいながっかり感。

むしろ、「みんなに知られている」「みんなが好き」という時点で、なんだか価値が少し下がってしまったような気がするのだ。

もしかしたら、「みんなに人気があるもの」というのは、「ずば抜けて質が高い」というよりは、「とりあえず、ハズさない」ぐらいのものでしかないのかもしれない。

たとえば、ファミレスの料理。みんなに人気のファミレスの料理は、メチャクチャおいしいわけではないけれども、「クソまずい!」という事もない。とりあえず、ハズさない。

一方、「マイナーな名店」探しは骨が折れる。もしかしたら、大ハズレの店に行ってしまい、「これだったらファミレスに行けばよかった」と後悔するかもしれない。

コンビニのお弁当も、チェーンの居酒屋も、駅前のマックも、人気のアニメも、流行の音楽も、高視聴率のドラマも、ずば抜けて優れているのではない。「とりあえず、ハズさない」。

もちろん、「とりあえず、ハズさない」というのも、すごいことだ。「誰にとっても70点の面白さ」というのは、簡単にできることではない。

だけど、それよりもさらに30点面白いものがどこかにまだあるのだ。ほかの人にとっては20点でも、自分にとっては100点の何かが。

そして、それは不思議なことに、本屋の「おすすめです!」と書いてある棚や、CDショップの「今、人気です!」と書かれている棚には、置いていないのである。

自分だけの名作に出会うのは、ほとんど運任せだ。放送されているアニメを全部チェックして、そんなオタク生活を何年も続けてようやく巡り合うこともあれば、何も知らずに深夜にたまたま見たアニメがものすごく面白くて、なんてこともある。いつ、なぜ、どうやって巡り合えるかを私たちは誰も知らない。まるで縦の糸と横の糸が織りなすように……、あ、これ、中島みゆきの「糸」だ。

一つわかることがあるといえば、人気や他人の評価に頼らず、自分で探さなければいけないってことだろう。

願わくば、僕がつくる作品も、誰かにとっての「隠れた名作」でありたい。

小説 あしたてんきになぁれ 第29話「パーカー、ときどきようかん」

田代とよりを戻した志保、花見の準備を進める亜美、そして、春に着る服がないたまき、今回はそんなお話。


第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

勝負服、と言われてたまきが最初に思い浮かんだのは迷彩服だった。自衛隊の人が迷彩服を身にまとい、自動小銃を構える光景だ。勝負する人が誰かと勝負するときに着ているのだ。立派な勝負服のはずだ。

ところが、志保の言う勝負服は、たまきがイメージする勝負服とはずいぶん違っていた。志保の言う勝負服とは「雑誌の表紙に載ってそうなオシャレな服」のことを言うらしい。さっきから衣裳部屋のクローゼットからいくつかの服を取り出しては、首をひねる、その繰り返しだ。どの服もオシャレな服なのだが、たまきの乏しいファッション語彙力では「どれもオシャレ」以上の細かい描写ができない。

「うーん、違うんだよなぁ。もっと優しい感じで、それでいて媚びない強さが欲しいっていうかさぁ」

と志保はなんだか指揮者が演奏者にアドバイスするかのようなことを言っている。

「つーかさ、なんで勝負服が4着もあんだよ? ここぞってときに着る服だろ? 普通1着だろ?」

志保の様子を見ていた亜美が口を出す。最初は志保の服選びに楽しそうに付き合っていたが、志保のあまりの優柔不断さに飽きてきたらしい。

両手に服のかかったハンガーを持つ志保は、くるりと亜美の方を向いた。

「あのね、亜美ちゃん。イマドキね、ウルトラマンだって相手や状況に合わせていくつもの姿を使い分けて戦うんだよ?」

志保の言いたいことはどうやら「勝負服は複数あっていい」ということらしい。

それにしても、とたまきは不思議に思う。

志保はこれからデートに行く予定のはずだ。なのに、なぜ「勝負服」だなんてものが必要なのだろう? たまきの認識では、デートというのは恋人同士が仲良くする行動のはずだ。いったい誰と勝負するのだろう?

でも、たまきたちが住む町は日本最大の歓楽街であり、治安もあまりよくないと聞く。もしかしたら町で悪者に絡まれて、戦うことになるのかもしれない。たまきが一人で街を歩いているときはそんな人に襲われたことはないけれど、一人で歩いているよりデートしている人の方が、なんだか絡まれやすそうな気がする。

でも、それだったらやっぱり迷彩服の方がいいんじゃないだろうか。

ちなみに志保は「勝負下着」なるものも持っているらしい。下着で勝負する人だなんて、たまきはお相撲さんぐらいしか思い浮かばない。あれ? お相撲さんってパンツはいて戦うんだったっけ?

「亜美ちゃんだってさ、こんなかにいくつもあるんじゃないの? 勝負服」

志保はクローゼットの中にずらりと並ぶ亜美の服を見て言う。

「勝負服?」

亜美も自分の服を見るが、

「うーん、ガキの頃の空手大会で、大一番ってときは必ず道着の下に学校の体操着着こんでたけど、勝負服っていうとあれくらいかなぁ」

と亜美は、本当に勝負するときに着ていた服装を挙げた。

「ねえ、亜美ちゃんはどれがいいと思う?」

志保は両手のハンガーをグイっと亜美に押し付けて尋ねる。

「知らねーよ。お前の勝負服なんだから、お前が着たい服を着ればいいだろ?」

亜美の言葉を聞いた志保は、何かはっとしたように目を開いた。

「そうだよね……」

そういうと志保は手に持った二つのハンガーに目を落とすが、すぐさま、

「あー、でも、どっち着よう~?」

とふりだしに戻ってしまった。

そんな志保を横目に、たまきは五日ぶりに出かける準備を始める。とはいえ、化粧をすることもなければ、服で悩むこともない。いつものジャンパーを羽織って、いつものニット帽をかぶって、いつものリュックを背負って……

そこで志保が声をかけた。

「たまきちゃん、そのジャンパー着てくの?」

「……はい」

大しておしゃれでもないジャンパーだけど、これしかないのだから、これを着ていくしかない。

「もう3月なんだし、今日は特にあったかいから、そのジャンパーじゃちょっと暑いんじゃない?」

「そうですか」

そういってたまきはリュックを下すと、ジャンパーを脱いだ。

そのまま再びリュックを背負い、外に出ようとする。

「ちょっと待って。何も羽織っていかないのはさすがに寒いんじゃないかな」

「そうですか」

そういうとたまきは、さっきのジャンパーを羽織った。

「いや、だから、そのジャンパーじゃ暑いんじゃ……」

「そうですか」

たまきは再びジャンパーを脱いだ。

「でも何も羽織らないのは……」

「そうですか」

と言ってたまきが再びジャンパーに手を伸ばした時、亜美が口をはさんだ。

「二択かよ!」

ジャンパーに手を伸ばしたまま、たまきの手が止まる。そのままたまきは、亜美の方を見た。

「そのジャンパーじゃ暑いっつってんだろ!」

「でも、何か羽織った方がいいって……」

「だから、そのジャンパーより薄手のなにか、だろ! なんでそのジャンパーを着るか着ないかの二択なんだよ!」

そんなこと言われても、たまきは「上着」と呼べるものをこのちょっと厚手のジャンパーしか持ってない。

「しょうがないなぁ。じゃあ、あたしの貸してあげる」

そう言って志保は両手のハンガーを放り出すと、クローゼットの中をガサゴソとあさる。

「え……でも……志保さんの服じゃ、サイズが合わないんじゃ……」

「上着だったら別にサイズがぴったりな必要ないって」

そう言って志保はクローゼットの中から何かを選び取った。

「これなんかいいんじゃないかなぁ」

志保が選び取ったのは、鮮やかなピンクのカーディガンだった。

「今日みたいなあったかい日は、これくらいがちょうどいいって」

舞い散る桜のような鮮やかなピンク色を目にしたたまきは、思わず後ずさった。

「あの……えっと……それ、着なきゃダメですか……?」

「なんで? かわいいじゃん。きっと、似合うよ」

志保は保険の外交員のような笑顔だ。

「でも……その……その服、なんか……女の子っぽくないですか……?」

「たまきちゃん、女の子じゃん」

「そうなんですけど……そうなんですけど……」

たまきの中では「生物学的に女性であること」と「女の子っぽい格好をすること」は別なのだ。

誰が決めたか知らないけど、「女の子っぽい」はどういうわけか「華やかであること」らしい。フリフリのナントカとか、ヒラヒラのナニナニとか、ハナガラのアレコレとか、華やかすぎてもういっそ花そのものになりたいんじゃないかと思えるような服が「女の子っぽい」と呼ばれる。

たまきは花になぞなりたくないのだ。あんなに目立って、虫も人もわんさか集まってくるようなものにはなりたくない。

葉っぱでいい。注目されることもなく、ひらりと落ちて、朽ち果てる。そうだ、葉っぱでいい。

そう考えると、やっぱり迷彩服のような「隠れやすい服」の方がたまきには似合っているのかもしれない。

問題は、迷彩服はジャングルとかで隠れるために着るのであって、街中で迷彩服を着たら、むしろ目立つということだ。

あと、今度は男の子っぽくて、たまきには似合わない。

 

写真はイメージです

結局、たまきは何も羽織ることなく外に出たのだが、やっぱり寒い。ニット帽をいつもよりも目深にかぶってみるけれど、寒さの解決にはならなかった。素直に志保のカーディガンを借りればよかったとも思うけど、ピンクのカーディガンを着て街を歩くとなると、今度は心が寒くなる。たまきに暖色は似合わないのだ。

ふと、たまきは足を止めて、人の流れに目を凝らしてみる。こうやって見てみると、実に様々な服装の人が街を歩いているものだ。

ちょっと前までは寒色系のコートを羽織った人が多かった。冬になるとなぜか服の色も落ち着いたものになる。

それから少し暖かくなって、街を行く人のファッションも、少し華やかになり、バリエーションも増えた気がする。

待ちゆく人の一人一人を見ていると、みんなおしゃれだ。それは単に、おしゃれな服を着ているというだけでなく、髪型が凝っていたり、染めていたり、毛先の一本一本に気を使っていたりする。さらには、ピアスだの、ネックレスだの、指輪だの、アクセサリーをつけている人もいる。

サラリーマンと思しき男性がたまきの横を通る。ごく普通のスーツで、こういう真面目そうな人はやっぱりおしゃれとかしないのかな、と思ったけれど、よく見たらネクタイが黄色地にペンギンの絵が描かれたものだった。スーツという限られた中での、精いっぱいのおしゃれなのかもしれない。

なんだかこの町で自分だけおしゃれじゃないような気がしてきた。そもそも、東京というおしゃれな街は、おしゃれじゃない人が歩いていい場所ではないんじゃないだろうか。たまきみたいなおしゃれじゃない子が東京を歩くと、「おしゃれ警察」がやってきて、「こいつ、おしゃれじゃないぞ! 逮捕する!」とどこかへ連行されてしまうのではないだろうか。

学校の授業に「おしゃれ」なんてないのに、なんでみんなおしゃれに服が着れるのだろうか。たまきは、顕微鏡の使い方やリコーダーの吹き方よりも、友達の作り方とか、おしゃれな服の着方を教えてほしかった。どうして学校はいつも、本当に必要なことを教えてくれないんだろう。

 

街ゆくおしゃれな人たちとすれ違い、その都度なんだか肩身の狭い思いをしながら、たまきはあることに気づいた。

「勝負服」というのはもしかして、街を歩く人全員に対して勝負する服なのではないだろうか。

なにせ、デートをするときに着る服なのである。女の子も男の子もひときわおしゃれな服を着たいはずだ。

なのに、街で自分よりもおしゃれな人とすれ違って、恋人がそっちの方に見とれていたら、悔しいじゃないか、たぶん。街ですれ違う誰と比べても勝てるほどのおしゃれな服、それが勝負服なのではないか。

 

写真はイメージです

すれ違う人とのおしゃれ勝負に負けっぱなしのまま、たまきはいつもの公園にやってきた。うつむいたまま歩くが、うつむいているのは別におしゃれ勝負に負けっぱなしだからではない。いつもたまきはこんな感じだ。もしかしたら、前を向いて歩くと自分が負けっぱなしなことに気づいてしまうから、無意識にうつむいているのかもしれない。

いつもの階段までとぼとぼと歩き、腰かけて絵を描き始める。

絵を描き始めると、季節の変化というものにも気づいてくる。この前まで公園の木々は葉を落としていたが、いつしか葉っぱが生えているだけでなく、徐々につぼみや花も芽吹いている。あとしばらくしたら、お花見シーズンになるのだろう。

お花見。たまきには関係のないイベントだ。

しばらくすると、後ろから声が聞こえた。

「お、たまきちゃん、やっと来たな!」

ミチの声である。

「来てますよ」

たまきはミチの方を見ることなく答える。

「たまきちゃん、ここしばらく来なかったでしょ?」

「まあ」

「なんで来なかったんよ」

「……まあ」

数日外出しないことぐらい、たまきにとっては大した問題ではない。ミチのように、用もないのに外をうろちょろしているほうがおかしいのだ。

「寒くないの、それ?」

おそらくミチは、たまきの服装を見ていっているのだろう。

「……まあ」

ミチはいつものようにたまきのすぐ横に腰かける。

たまきもいつものように、すっと横に動いて間隔をあける。

いつものように、たまきの隣でギターケースを地面に置く音が聞こえる。

いつもならここで、ケースをあけてギターを取り出す音が聞こえるのだが、たまきの鼓膜に入り込んでいたのは、紙袋が立てるがさがさという音だった。

たまきはその音を聞いた時、驚いた猫のように、反射的にミチとの間隔をさらにあけた。前にもこの音に聞き覚えがあったからだ。

前にこの紙袋のがさがさという音を聞いたのは、今からひと月ほど前だった。確かバレンタインデーで、ミチから執拗にチョコをねだられた時だ。

今度はなんなんだろう。いったい何をねだられるんだろう。

たまきは毛を逆立てた猫のように、この上ない警戒心をもって、ミチの方を見た。

「たまきちゃん、今日、何日だかわかる?」

「……さあ」

「三月十八日だよ。じゃあ、4日前は何日だったでしょう」

「三月十四日」

「大正解!」

この男はたまきのことをバカにしているのだろうか。いくらたまきが学校に行ってないといっても、引き算くらいできる。

「では、三月十四日は何の日だったでしょうか?」

ミチがにやにやしながら尋ねてくる。

「……誕生日ですか?」

「いや、それ、先月だから!」

「……ですよね」

つい2週間ほど前、ミチの誕生日をなんとかスルーしたのだ。こんなに早く次の誕生日が来るわけない。

「先月、バレンタインデーだったでしょ?」

「……はい」

「じゃあ、今月は何?」

「……ひなまつりですか?」

三月のイベントだなんて、それくらいしか思い浮かばない。

「ホワイトデーだよ、ホワイトデー」

なんだっけ、それ。

ホワイトデーとは、バレンタインデーにチョコをもらった男子が、女子にお返しをする日である。バレンタインデーは古代ローマに起源をもつのだが、ホワイトデーの起源はごく最近の日本にある。歴史の差が表れてしまっているのか、バレンタインデーに比べると、いまひとつパッとしない。

これまでたまきはバレンタインデーというイベントをスルーしてきた。必然的に、ホワイトデーも関係ないことになる。

ところが今年は、何の気の迷いか、ミチに百円のチョコをあげてしまった。

義理チョコだし、何か見返りを期待していたわけではないので、そのまますっかり忘れていたし、ましてやホワイトデーなんてイベントが自分にやってくるだなんて思っていなかったのだ。

そもそも、ミチに「ホワイトデーにお返しをする」という発想があったことに驚きだ。

「あの……その紙袋の中身が……ホワイトデーのその……」

「そうだよ」

たまきはこれまた最大の警戒心をもって紙袋を凝視する。茶色に紙袋に、どこかのお店のロゴが書いてあるが、何のお店なのかたまきにはわからない。

「そんなビビんないでよ。姉ちゃんと二人で選んだんだからさ」

それを聞いてたまきの警戒心が跳ね上がった。さっきのが最大だと思っていたが、まだ上があったとは。

ミチのお姉ちゃんは、たまきのことをネコに似てると言ってからかってくるような人だ。紙袋の中身はもしや、ネコの餌とか、ネコの首輪とかではないのか。

ガサゴソという不安な音とともに、紙袋の中身があらわとなった。

第一印象は「青い布」だ。たたまれた青い布の塊だ。

「薄群青だ……」

そう、たまきはつぶやいた。

「え?」

「これ、薄群青って色ですよね」

「そうなの? ブルーだと思ってた」

たまきは学校にいたころ、美術部にいたので、色にはちょっとだけ詳しい。一口に「青」といっても濃淡いろいろあるが、これは「薄群青」という色に近い。

ミチがたたまれた布を広げ、徐々にその姿があらわとなる。

洋服だ。薄群青の、長袖の洋服だ。

服の真ん中の部分がぱっくりと開いて、チャックがついている。たぶん、ジャンパーと同じように、服の上から羽織るタイプの上着なのだろう。

襟首のところにはフードがついている。

「これって……ジャンパーですか?」

「いやいや、パーカーだよ」

「ぱーかー……?」

「ヘンな色の名前は知ってるのに、パーカーは知らないの? ヘンなの」

そういうとミチはたまきの背後に回り、薄群青のパーカーをたまきの肩にかける。たまきはされるがままにそでを通す。

「姉ちゃんが、たまきちゃんは絶対このサイズだって言ってたんだけど、サイズ大丈夫かな」

たまきはパーカーの袖や裾を見た。たまきには少し大きかったようだが、上着ならちょっとくらい大きくてもよいのかもしれない。

「お、似合う似合う。かわいいじゃん」

そういって、ミチは笑った。

何より、パーカーはあったかい。亜美の言っていた「ジャンパーより薄手の何か」にぴったりだ。

「あの、これっていくらしたんですか……」

「えっと、二千円くらいかな?」

「二千円!?」

たまきにとっては、ずいぶんと大金だ。

「あの……こんな高いの、もらえません……!」

「なんでよ?」

「だって、私があげたチョコ……、百円ですよ……」

「だからさ、来年のバレンタインとか誕生日とかでお返ししてくれればいいから」

「来年……ですか……」

来年なんて生きてるかな、とたまきは首をかしげる。

「これで来年、プレゼントあげる理由がない、なんて言わないでしょ」

たまきはしばらく黙っていた。

「その……とりあえず高いものあげておけば私が喜ぶなんて思ってるんだったら……心外です」

たまきはミチの目を見ることなく言った。だけど、パーカーの暖かさはどうにも否定できなかった。

 

写真はイメージです

かえりみち。

たまきにしてはめずらしく、たまきにしては本当にめずらしく、とぼとぼと下を向くことなく、まっすぐ前を向いて歩いていた。

行きと帰りでたいした違いは無い。もらったパーカーを羽織ってみただけである。薄群青の無地で地味なパーカーだ。

たったそれだけの違いなのだけれど、少しだけ何かのレベルが上がったような気がして、道行くおしゃれさんとすれ違っても気後れしない。それでもおしゃれ警察が来たら、「こいつ、もらったパーカーを羽織ってるだけだぞ!」と逮捕されてしまうのだろうか。

ふと、たまきは立ち止まり、ショーウィンドウに映る自分を見ると、ニット帽を脱いでみた。また何かのレベルがちょっとだけ上がった、様な気がした。

経験値を上げてちょっとだけレベルが上がった勇者の気分で、たまきは太田ビルの階段を登る。5階の「城」のドアの前に立ち、ドアノブに手を伸ばそうとしたときに、少し上から声をかけられた。

「たまき、こっち」

屋上へと続く階段の中ほどから、亜美が手招きしていた。手には黒っぽい何かが握られている。

言われるままに、たまきは屋上へと上がった。洗濯物が干してある。他には紙袋が置いてあるだけで、特段何か変わった様子は無い。

「中、入っちゃだめなんですか?」

たまきは亜美に尋ねてみた。

「今、ヤサオ来てんだよ」

ヤサオというのは、志保のカレシの田代に亜美が勝手に付けたあだ名である。

「志保がどういうところに住んでるのか見ておきたい、だってよ」

そういうと亜美は、紙袋の中から四角い何かを取り出して、たまきのほうに投げてよこした。たまきはあわててキャッチする。

「な、なんですか、これ」

「ヤサオのお土産。ようかんだってさ」

たまきが包み紙をはずすと、黒っぽいようかんが顔を出した。

カノジョの家に来て、お土産を買ってくるだなんて、大人だなぁ、とたまきはぼんやりと思う。

「何で入っちゃだめなんですか?」

「何でって、キマズイだろ」

そういって、亜美は舌打ちをした。

なるほど、とたまきは納得した。

「城」に平気でオトコを連れ込んだり、エッチなことをする亜美でも、「気まずい」と思うことがあるらしい。

だけど、たまきには、それ以上に何かあるような気がした。

「亜美さんは……、えっと、田代って人のことが、苦手なんですか?」

「キライだね」

亜美は屋上の柵のむこうに広がる青空を見ながら言った。

「おもしろくねーじゃん、あいつ」

どういう意味なのか、たまきには今一つよくわからなかった。

亜美は、足元の紙袋を拾う。

「こんなもの買ってきやがってさ」

「……気が利きますよね」

「気が利きすぎて、ヒクわ。ウチと大して年変わんねーのによ」

亜美は紙袋をパンパンとたたいた。

「志保に言わせるとさ、そういう時は素直にもらっておけば相手も喜ぶし、自分もうれしいつーんだけどさ、オトコから高いものもらってキャッキャと喜ぶオンナなんて、オンナはオトコからなんかモノもらって当然、って思ってるってことだろ? そういうオンナがよ、オトコにナメられんだよ。とりあえず、高いものあげとけば喜ぶって感じでな」

ぎくり、とたまきの中から、関節がずれたような音がした。

「で、でも、亜美さんだって、男の人からビールとかもらってるじゃないですか」

「そりゃそうだろ。ウチ、十九だから買えねーんだもんよ」

「デートに財布持ってかない主義だって……」

「これだからお前はおこちゃまなんだよ」

亜美の言葉に、たまきは不服そうにようかんをかじる。

「『おごらせる』と『おごってもらう』は全然違うんだよ」

たまきには、その違いがよくわからない。

「それにしても、このようかん、うまいな」

亜美はそう言ってようかんを頬張った。

「ところでお前、そのパーカー、どうした」

たまきよりもはるかにおしゃれな亜美が、たまきの服装が出かける前と少し変わっていることに気づかないはずがない。

「……まあ」

「ふーん、ウチの好みじゃねぇけど、まあ、いいんじゃね? いくらしたんよ」

「……二千……円……くらい……」

「金、足りなくなったらエンリョなく言えよ。お前は、金使わなさすぎなんだからな」

どうやら亜美は、たまきが適当に買ってきたと思ったらしい。たまきとしても、そのほうがいい。

 

「ああ、ここにいたんだ」

そういって、田代が一人、屋上へと階段を上ってきた。

「ごめんね。気を使わせちゃったね。もう帰るから」

「あっそ」

亜美は田代のほうを見ることなく、何やら携帯電話をいじっている。

亜美がどういう理由で田代のことが嫌いなのか、たまきには今一つよくわからない。でも、いくら嫌いだからってそれを態度に出さなくてもいいんじゃないか。たまきだってよく、ミチに「あなたのことは嫌いです」と言っているけど、だからと言ってあからさまな態度をとったりはしない。

たまきはそう思ったのだが、亜美は良くも悪くも、嘘がつけない性格なのだろう。良くも悪くもごまかせないのだ。

もちろん、亜美だってうそをつくことぐらいあるだろうし、男性の前で猫を被ることがあるのもたまきは知っている。一方で、ああこいつキライだなぁ、と判断したら、そういったことをぱたりとやめてしまうのだろう。おそらく、意識してやっているのではなく、自然とスイッチが入らなくなるのではないか。

そういう時はたまきがフォローに回れればいいのだが、たまきはたまきで、知らない人全般が苦手なのである。

結果、柵にもたれて背中を向けたままの亜美と、目を合わせられないたまきという、なんとも気まずい空気が生み出されてしまった。

そんな空気に気づいているのかいないのか、田代は二人のほうへと近づいてくる。

「えっと、亜美さんでよかったんだよね。で、そっちの子は……」

田代がたまきのほうを見る。そういえば、田代にちゃんと名前を言ったことがなかった。

答えたのは、たまきではなく亜美だった。

「ん? ああ、こっちはたまき。うちのザシキワラシ」

とうとう動物ですらない、妖怪扱いされてしまった。

「二人はここで志保ちゃんと一緒に暮らしてるんだよね?」

「……はい」

事実なのに、たまきはどこか自信なさげに答えた。

「えっと、二人はどれくらい勉強してるの?」

田代の言葉に、亜美とたまきは、きょとんとした感じで互いに顔を見合わせた。

「ベンキョー?」

「……ですか?」

「何の?」

亜美もたまきも、勉強なんてここ何年もしていない。

今度は田代がきょとんとした感じで尋ねた。

「何のって、薬物依存や違法薬物に関する勉強だよ」

そこで二人は、もう一度顔を見合わせた。

「え? おまえ、なんか勉強とかしてる?」

「いえ……別に……」

それからたまきは言い訳するように、特に田代に対して言い訳するように、付け足した。

「その……舞先生……知り合いのお医者さんに難しいことは任せてるので……」

「まあ、基本ウチら、先生に丸投げだよなぁ」

たまきはどこかで、舞の胃がキリキリときしんだような気がした。

「そうなんだ」

田代はあまり納得していないようだ。

「でも、薬物依存の患者と一緒に暮らすんだったら、そういう勉強も必要なんじゃないかな。本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思うし」

勉強だなんてそんなこと、たまきは考えたこともなかった。

それともうひとつ、たまきの心に強く引っかかった言葉があった。

「本来だったらやっぱり、志保ちゃんはちゃんとした施設に入院したほうがいいと思う」

今のたまきたちの生活は間違っている、遠回しにそういわれたような気がした。

「ベンキョーね、まあ、そのうちな。ああ、ようかん、うまかったよ。ありがとな」

田代が帰るまで、けっきょく亜美は、一度も田代を見ることはなかった。

 

「送信……っと」

亜美は携帯電話をぱたりと閉じると、たまきの方を向いた。

「たまきも来るだろ、花見」

「お花見……ですか……?」

「そ、花見。再来週くらいになるかな」

どうやら、携帯電話でやっていたのは、お花見の企画だったらしい。

どうせまた、亜美とつるんでるガラの悪い男たちが集まるのだろう。テレビで見る「お花見で騒ぐ、迷惑な若者たち」の絵面そのままの光景になるに違いない。

正直、そんなお花見、行きたくない。

いや、これがもし、田代みたいな人当たりのよさそうな人ばかりが集まるお花見だったとしても、やっぱりたまきは参加するのをためらうのだろう。

行ったところで、どうせなじめやしないのだから。

それでもたまきは、

「……まあ」

というあいまいな返事しかできない。

たまきも少しは亜美を見習って、嫌なものは嫌だとはっきり示せた方がいいのではないだろうか。

そんなことを考えてみるも、誘ってくれた亜美に悪いとか、断ったら嫌われちゃうんじゃないかとか、いろんなことがよぎってどうしても「行きたくない」とはっきり言えない。

そもそも、たまきのようにずっと友達がいなかった子にとって、友達から誘われる、というのはとてもありがたい、夢のようなことなのだ。断れるはずがないじゃないか。

「ところでさぁ、たまき」

柵にもたれたまま亜美は、たまきのほうを見ていった。

「お前にとって、志保って何よ」

「え、え?」

急になんだか恥ずかしいことを聞かれて、たまきは戸惑いながらも答えた。

「私にとって……志保さんは……志保さんです」

たまきにはそれしか答えが出てこなかった。

「だよなぁ。志保は志保だよなぁ」

「……亜美さん、その、ヘンなこと聞くかもしれないですけど……」

「ん? どした?」

そこから先の言葉がたまきには出てこなかった。

「おい、言えよ。気になるだろが」

亜美は体ごとたまきのほうを向くと、腰をかがめてたまきの目をのぞき込む。

「なんだよ。気にすんなって。どうせおまえの言うことは、いつもヘンなんだから」

「その……」

たまきは、いつもよりさらに自信なさげに言った。

「……私たちがここで暮らしていることは、間違っているんでしょうか」

不法占拠、つまり家賃を払っていない。おまけにそのメンバーが、援助交際娘と、薬物依存患者と、家出少女である。やっぱり、こんなの間違っているんじゃないだろうか。

「そんなの、百人に聞いたら、百人が間違ってるっつーに決まってんだろうが」

「やっぱり……」

亜美は煙草を一本取りだし、火をつけた。

「……だから?」

「え?」

たまきは亜美を見上げる。

「ああ、ウチらがやってることは間違ってるよ。だから? じゃあ、解散するか?」

「そ、そんなの……!」

こまる。ここが解散になったら、たまきはどこに行けばいいというのか。ここにいられなくなったら、いよいよ死ぬしかないじゃないか。

「な、ウチらの生き方が間違ってようが、それでしか生きていけねぇんだったら、そう生きてくしかねぇじゃねぇか」

亜美は携帯灰皿にたばこをぎゅっと押し付けると、灰皿のふたをぱたりと閉じた。蓋に断ち切られた煙が、何か断末魔のようにふわりと漂い、消えた。

つづく


次回 第30話「間違いと憂欝の桜前線」

自分たちのやってることは間違ってる……、遠回しにそういわれた気がしたたまきは思い悩む。間違ったことはしたくない。でも、家に帰りたくない。そして……お花見にはいきたくない。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」

田代に別れを告げた志保はがっつりと落ち込んでしまう。そんな志保の周りで、亜美が、たまきが、舞がそれぞれ動く。「志保編三部作」の最後の「あしなれ」第28話、スタート!


第27話 「ラプンツェルの破滅警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「おい、いいのか?」

亜美の問いかけに志保は小声で

「いいの……」

とだけ答えた。志保は亜美も、そして田代の方も見ることはなく、その場を離れた。

志保が田代に「すべて」を話すのを、少し離れたところから亜美とたまきも聞いていた。亜美とたまきにも聞いてほしかったのと、志保が一人で田代の前に立つ勇気がなかったのがその理由だ。

「ちっ」

亜美はわざと聞こえるように舌打ちをすると、ズボンのポケットに手を突っ込んで志保の後を追った。

たまきは、田代の方を見やった。

事態が飲み込めない、そんな表情だろうか。

まあ、当然だろう。いきなり呼び出されて、あんな話をされて話を飲み込め、というのはいくらなんでも無理がある。

「あ、あの……」

たまきは一歩前に進み出て、田代に声をかけて、それからすぐに、心の底から後悔した。「知らない人に話しかける」というのが、たまきは一番苦手なのだ。

声をかけてしまってから後悔し、たまきは田代から目線を外す。

一方、声をかけられた田代は、たまきの方を見た。

「君は……志保ちゃんの友達……?」

まあ、田代から見て志保の後ろの少し離れたところでずっと話を聞いていれば、いくらたまきのように影の薄い子でもその存在に気付くだろうし、友達なのかな、と思うだろう。

もう引き返せないと悟ったたまきは、

「あ、あの……」

と言ってから一度深呼吸をして、言葉をつづけた。

「志保さん……その……田代……さん……にお話しするまで……すごく悩んでました……。そ、それだけわかってあげてください……」

たまきはほとんど田代の目を見ることなくそれだけ言うと、くるりと背を向け、まるで悪いことでもしたかのように、小走りにその場を立ち去った。人と話すことよりも、その場から逃げ出すことの方が得意なたまきである。

人気のない路地裏で、少し先を歩いていた亜美に追いつき、横を並んで歩きだす。

「ん? ヤサオと何か話してたのか?」

「べ、べつに……」

ニット帽をかぶったたまきは、もうその話題には触れられたくないように下を向いた。

「まさか、志保がヤサオをフッたのをいいことに、ヤサオのことを奪おうとか……」

「そんなわけないです」

たまきは即座に否定した。

たまきは前方に目をやる。亜美とたまきより5mくらい前を離れたところを、志保が歩いていた。右手にはハンカチが握られていて、時おり目元にそれを押し当てている。

「あ、あの……さっきの志保さんの話なんですけど……」

たまきは亜美の横を歩きながらも、亜美と目線を合わせることなく言った。

「私にはよくわからなかったです……」

学校に行けて、友達がいて、カレシがいて、志保はそれが「怖い」という。

でも、結構な話ではないか。

「その……自慢話にしか聞こえなかったというか……」

あんまり志保のことを悪く言いたくはないのだが、たまきからしてみればうらやましい話でしかなかった。なんで志保はわざわざ自分で「壊したい」なんて思ったのか、よくわからない。

それを聞いていた亜美は、最初は黙っていたが、やがて笑い出した。

「はははは。なるほど、自慢話か」

「……やっぱり変ですか?」

亜美は前方を歩く志保と十分に距離をとっていることを確認すると、少し声のボリュームを落とした。

「まあ、自慢話って言ったら、そうだよなぁ」

たまきは黙ったまんま答えない。

「ま、世の中の悩みっていうのは案外、他のヤツが聞いたら自慢話かもしんねぇよな」

亜美はそう言って笑うと、たまきの方を見る。

「だってさ、仕事の愚痴もさ、仕事ないやつが聞いたら自慢話じゃん。恋人の愚痴も、恋人いないやつが聞いたら自慢話じゃん。子育ての愚痴も、子供いないやつが聞いたら自慢話じゃん」

「……まあ」

「でさ、そういう話するやつにさ、『え? なに? 自慢?』って聞き返すじゃんか」

「え……あ……そうなんですか……」

そこでそんな煽るような言い返し、たまきにはできない。

「するとたいていさ、『あんたなんかに何がわかんの!』って逆ギレされんだよ。は?って話じゃんか。ウチに言ってもわかんねぇって思うんだったら、最初っから相談すんじゃねーよ、バーカ!って言うわけよ」

「あ、そう思う、ってわけじゃなくて、ほんとに言っちゃうんですか……」

たぶん、実際は今より十倍くらい辛辣な言い方に違いない。胸ぐらをつかむ程度のことはしているかもしれない。

「で、何の話だっけ?」

亜美は話しているうちに興奮して、何の話をしてるのかわからなくなったらしい。

「その……、悩みってあんがい自慢話だって話です……」

「ああ、そうだった」

亜美は頭の後ろで腕を組んだ。

「だからな、悩みってあんがい自慢話だったりするんだよ」

「そうでしょうか……?」

たまきにはどうも今一つ納得できない。今日は納得できないことが多い日だ。

「そんなもんだって。……お前の悩みだってもしかしたら、うらやましいって思ってるやつがいるかもしんねぇな」

「そんなわけないです」

たまきは間髪入れずに答えた。

学校にいけない。友達がいない。ないないづくしのたまきの悩みをうらやましく思う人などいるわけない。

そう思ってから、たまきはふと、ミチのことを思い出していた。

家族とうまくやれない、家族のことが嫌い、そんなたまきの悩みが、家族のいないミチには「わからない」のだという。

それは「うらやましい」とはまた違うのかもしれない。だけど、自分の悩みが他人にとっては自慢話なのだとしたら、いくら言葉を尽くしても理解されないのは当然のことかもしれない。「お前に何がわかる」と逆ギレしてみたところで、亜美の言うとおり、そもそも最初からどれだけ言葉を尽くして他人の悩みなど理解できるものではないのだ。たぶん、たまきが志保の悩みをいまいち理解できなかったように、志保にはたまきの悩みはわからないし、亜美にもたまきの悩みはきっとわからないのだろう。

ただ一つ、たまきには理解できない理由ではあるけれども、志保は本気で苦しんでいる、ということだけはたまきにもわかった。

 

写真はイメージです

それから、二日ほどたった。

「城」の中は明かりがついておらず、消防の観点から申し訳なさそうについてる窓から、わずかに外の光が差し込む程度だ。

公園に行って絵でも描こうかと、たまきは起き上がった。ぼさぼさの髪を手櫛で整え、「衣裳部屋」においてあるリュックサックを手に取った。

そこでたまきはふと思い出す。今、この空間にもう一人いるということを。

志保はソファに腰掛け、何をするでもなく、ただそこに座っていた。

亜美は昨夜からいない。どこに行ったかもわからない。まあ、亜美はいつもそんな感じだ。

一方の志保は、いつもとは全然様子が違っていた。目はうつろで焦点が合わず、どこを見ているのかわからない。髪はぼさぼさ。染めた髪の根本は少し黒くなり始めていたが、今の志保にとってはどうでもいいことらしい。

「あ、あの……」

「……なに……」

紙やすりで雑に削り取ったかのようなか細い声で、志保は答える。

「……今日は施設に行く日じゃなかったでしたっけ……」

「……休むって電話したから……」

「……そうですか……アルバイトの方は……」

「……バイトもやめた方がいいよね……。なかなか電話できなくて……」

たまきは手にしたリュックを床に置いた。

これではどっちが引きこもりなのかわからない。

舞からは、志保を一人にするなと言われている。そうでなくても、今の志保を一人置いて出かけるなんて、たまきにはできない。亜美ならするだろうけど。

結局、たまきは黙ったまま座り続けた。志保も黙ったまんまだ。

何の会話もないまま三十分が過ぎたころ、不意に静寂が破られた。

ドアをどんどんと叩く音。次に声が聞こえる。

「おい、不法占拠の野良猫ども。誰かいるんだろ? あたしだ、開けろ」

舞の声だった。

たまきは志保の方を見た。志保はドアをたたく音と声に気付いているのかいないんか、これといった反応はない。

たまきは立ち上がると、「城」のドアを開けた。

「……こんにちは」

たまきはドアから顔を出すと、申し訳なさそうに挨拶をした。

「……おまえひとりか? 志保は?」

「……中にいます」

舞はドアをぐいっと開けると、靴を脱ぐことなくずかずかと「城」の中に入っていった。

入ってきた舞に気付いた志保は、無言で軽くお辞儀をするだけだ。

「よお。聞いたぞ。オトコをフッたんだって?」

「……まあ」

志保はなんだか、たまきみたいな返事の仕方をする。

「なんだよ。なにフッた方がこの世の終わりみたいな顔してんだよ」

「……ですよね」

志保は目線を上げることなく答えた。

「どれ、診察してやっか」

舞は、志保の向かい側にあるソファに座った。それから、後ろにいるたまきの方を向く。

「たまき、悪い。ちょっと席外してくんねぇかな。そんな長居しねぇから。その間……そうだな……古本屋とか、どっかそうだな、お前の好きそうなとこってどこか……」

舞としては引きこもりのたまきに「どこか行け」という残酷なお願いをするのにかなり気を使ったのだが、たまきは意外とあっさりと、

「わかりました」

というと、床に置いてあったリュックを手に取り、「城」の外へと出て行った。

「さて、どれどれ熱は……ないな」

舞は志保のおでこに手を当てる。

「はい……熱は……ないです」

「いや、冗談だってば」

舞は苦笑しながら、志保の額から手を離した。

「熱はないけど……こりゃ重症だな」

舞は志保の顔色をしげしげと見る。

「さて、あたしはお前の主治医だから、お前がまたクスリに手を出しそうになったら、止めにゃあならん義務がある。そんで、今のお前は明らかに精神的にやばい状態だ。よってあたしは、これからお前を診療しようと思う。あ、この場合、あたしの方から来たから、往診っていうのか」

舞はわざと明るく言ったが、志保の表情は変わらない。

「とりあえず、亜美からお前が男をフッたとしか聞いてないから、何があったのか、話してみな」

 

写真はイメージです

小さく舌打ちして、亜美は携帯電話を閉じた。

「余計なことしたかな」

舞に志保のことを話してよかったのかどうか。とはいえ、それ以上の余計なことは言っていない。亜美が舞に話したのは、単に「志保がオトコをフッて、えらく落ち込んでいる」ということだけで、亜美が聞いた志保の過去にまつわる話は一切しゃべっていない。そもそも、亜美は舞から電話で、「志保が前に恋愛相談に来たけど、あの件は結局どうなった」と聞かれたことに答えただけだ。

「シゴト」と用事を済ませた亜美は、どこに向かうでもなく繁華街の街をぶらぶらとしていた。

何気なく、ついこのあいだ志保が田代と会っていた空き地の前を通りかかる。ふと、亜美は空き地の中に、見たことのある姿を見つけた。

田代だった。田代は何をするでもなく、空き地の中に立ちすくんだまま、あたりを見渡している。

「おいおいもしかして……」

その様子を亜美は少し離れたところから見ていた。

(こいつまさか、ここにいればまた志保がやってくるんじゃねぇかって、月9みたいなことしてるんじゃねぇだろうな……)

亜美は半ばあきれた様子で田代を見ていた。

なるほど、確かに田代は優しそうな好青年である。背も高く、柔和な顔立ちだ。

だが、亜美の好みではない。正直、こんなののどこがいいんだろう、と首をかしげる。亜美の付き合うような男たちがお酒で、ミチのようなその取り巻きがジュースだとすると、こいつは水、よくてお茶といったところだろうか。

来るはずもない志保を待っているのがさすがにかわいそうになり、亜美は田代に近づいた。

「おい」

あまりに乱暴な亜美の呼びかけに、田代は自分が呼ばれたと気づかず、亜美の方を向かない。

「いや、ヤサオ、おまえだよおまえ」

ややいら立ちのこもった亜美の呼びかけで、ようやくヤサオこと田代が振り向いた。

「君は……志保ちゃんの友達の……」

田代も亜美のことを覚えていたらしい。いや、髪を金に染め上げ、冬場でも見せれるところを見せようとする亜美の姿を「忘れろ」という方が無理なのかもしれない。

「あのさ、まさかとは思うけど、ここで志保来ねぇかって待ってんの?」

「う、うん……」

田代は、少しぎこちなくうなづいた。

「志保ちゃん、今日バイト休んでて……。最後にあったのここだから、もしかしたらまた会えるかと……」

「おまえバカか」

ほとんど面識はないはずの亜美からいきなり「バカ」と浴びせられ、田代は面食らった。しかし、亜美の方は気にすることなく言葉をつづける。

「バイト休むような奴が、この辺うろついてるわけねぇだろ、バカ。そんな元気あるんだったら、バイト行ってるだろうが、バカ」

まるで語尾につける句読点のように、亜美は「バカ」と言い放つ。そのたびに田代はボクサーにビンタされたかのように、少し顔をゆがめる。

「でも、俺、志保ちゃんの家どこか知らないし……電話しても出ないし……」

「『さよなら』っつったオトコから電話かかってきて、出るわけねぇだろ、バカ。そこで出るようなら、そもそもさよならとか言わねぇつーの、バカ。つーかさ、フッた男から電話かかってきたら、かえって志保が苦しむんじゃねーかとかさ、考えねぇのかよ、バカ」

「す、すいません……」

わずかなあいだでバカの集中砲火を浴びた田代は、うなだれるしかなかった。

「……ま、いきなりあんな話されたら、わけわかんねぇよな。悪ぃ、言いすぎた」

そういうと、亜美は公園内に置かれた、大きな岩を指し示した。

「おい、ここ座れ」

そう言って乱暴に自分の横の岩を蹴っ飛ばす。

「え?」

「んだよ? 別に噛みつきやしねぇから、いいからとりあえず座れ」

 

「なるへそ」

舞はソファに座り、腕を組んで志保の話を聞いていた。

「で、お前は別れたことに納得してんのか?」

「はい……」

志保は吐息のようにつぶやいたあと、無理しているかのような笑顔で、こう付け加えた。

「たまきちゃんに言われたんで」

「ん?」

腕組みをしたままの舞は、何かに引っかかったように、志保を見た。

「たまきに言われたから別れたのか?」

「……はい」

舞は少し身を乗り出す。

「さっきの話じゃ、たまきが言ったのはあくまでも、別れる別れないを決めるのはお前じゃなくて相手だって話だろ? あいつはお前に『別れろ』なんて言ってないだろ? それが何で、『たまきに言われたから別れた』ってことになるんだよ」

「それは……」

志保は少し間を開けてから答えた。

「だって……、本当のことを言ったら、きっと彼はあたしのことを軽蔑し、別れると思うんです。だったら、自分から別れた方がいいって思って……」

「ん?」

舞はまたいぶかしむように顔をしかめる。どうにも話がつながって見えない。

舞は煙草を灰皿に押し付けると、そこから漏れ出た煙を眺めながら、しばらく考えた。

今聞いたばかりの、志保が覚醒剤に手を出した理由。

志保が田代と別れることとなった経緯。

「ふーむ……」

舞は片手でたばこを持ち、もう片手を頬に当てて考え込む。

「なるほど……」

舞は何かを一人で合点したように、再び煙草を口にした。

「おまえの問題点が、やっとわかったよ」

「私の……」

「ああ」

舞はゆっくりと息を吐いた。

「結局おまえは、何一つ自分で決めてないんだよ」

「え……」

志保は虚を突かれたように、ぽかんと口を開ける。

「どういう意味ですか?」

志保は少し、自分のプライドが傷つけられた気がした。

自分の人生を壊す。その選択が、そのやり方が、たとえどんなに愚かなことだったとしても、それを「自分の意志で決めた」、それだけは間違いないと思っていたからだ。

そもそも、「自分でなにも決めてない人生」を変えたくて、人生を壊すと決めたはずだ。「結局なにも自分で決めてない」だなんて、そんなことあるもんか。

「おまえの判断基準はいつだって、『こうしたい』じゃない。『こうした方がいい』なんだよ」

たばこの煙が天井へと延びていき、空気になじんで、消えていく。

「だってお前、ほんとは別れたくなかったんじゃないのか。だから、あたしに相談したり、たまきに相談したりしたんじゃないのか? 別れたかったら、相談なんかしないよな」

「それは……そうですけど……」

「じゃあなんで別れたんだ?」

「だってそれは……別れた方がいいと思って……」

そこで志保ははっとした。自分が今まさに「した方がいい」と口にしていたことに。

「クスリに手を出す前のお前は、自分の意志や欲望を持たずに、常識ってやつに価値判断を任せて生きてきた。お前の言う『空っぽの人生』ってやつだ。お前はそれが嫌だった。さっきおまえが話してくれたことをまとめると、そうなるよな」

志保は無言でうなづく。

「確かに……薬に手を出したこと自体はバカだったと思います……。でも、それからはあたし……、ちゃんと自分の意志を持って……自分で『こうしたい』って考えるように……」

「思ってるだけだ。それを決断にまでは結び付けちゃいない」

舞は志保の目を、まっすぐに見据えて言った。

「現におまえは、はっきり『別れたくない』と思っていたにもかかわらず、『別れた方がいい』と決断したんだ」

「でも……だって……そうじゃないですか。あんな話したら、彼だってあたしのことに嫌い……」

「話を聞いて相手がどう思ったのか、ちゃんと確認したのか?」

志保は少し泣きそうになりながら、首を横に振った。

「なんで確かめない? それこそ、たまきに言われたんじゃないのか? どうするのかを決めるのはお前じゃない、相手だって」

「だって……」

志保の声が少し震え始めた。

「耐えられるわけないじゃないですか……。好きな人から『おまえなんか嫌いだ』なんて言われるのは……。耐えられるわけないじゃないですか……」

「だから自分から『別れた方がいい』と」

舞はソファの背もたれに背中を押し付け、がっしりと腕を組んだ。

「でも、お前の本音は『別れたくない』だったんだろ? それなのに別れちまったら、お前の本音はどこに行くんだろうな?」

その問いかけに、志保は答えなかった。

あたしが。あたしが。あたしが。たまきや亜美に相談するときにさんざん言ってきたのに、最後の最後で「あたし」を黙殺する自分。舞の言うとおり、どんなに「あたしが」と強く思い続けても、志保はそれを決断に結び付けられないのだ。

「どこにも行きやしねぇよな。お前の心の奥底でずっとくすぶり続ける」

舞は少し身を乗り出すと、志保の胸を指さした。

「おまえさっき、別れたことは納得してるって言ってたけど、納得してるんだったらこんなところでひきこもってなんかないよな。本当はこれっぽっちも納得なんかしてないんだよ。『別れたくない』がお前の本音なんだから。そんでもってそれを、たまきのせいにしてる」

「あたし、べつにたまきちゃんのせいだなんて……」

「だってさっき言ったじゃないかよ。『たまきに言われたから』って」

「それは……」

志保は下を向いた。

「別れるって決断をしたのはお前だ。でも、お前の本音じゃない。お前の意志じゃない。決断をしたのはお前だけど、お前じゃない。ややこしいけど、わかるか?」

「……まあ」

「おまえの本音はお前の中でくすぶってるまま。納得なんかしていない。それを『人に言われたから』ってことにして納得しようとしてるだけだ。ほんとはお前が決めたのに」

舞はそういうと、再び煙草に口を付けた。

「いやな、別に『そうした方がいい』って判断したこと自体が悪いわけじゃねぇんだよ。たとえば、ケーキが食べたいけど食べたら太るから食べない方がいい、ってときは、『食べない方がいい』を選んでも全然いいんだよ。ただな……」

舞はそこで一度言葉を切ると、志保をまっすぐに見た。

「おまえの場合は、それが多すぎる。それも、重要な選択の時はほぼ必ず、本音を無視して『した方がいい』の方を選んじまう」

志保は、舞の目を見れなかった。

「おまえが財布盗んだ時だってそうだ。お前の本音は『ここに残りたい』だった。でもお前はあの時、『ここから去った方がいい』を選択したんだ。あんときもお前がここに残れないかと言い出したのはたまきだったよな。そのあと、亜美が言い出して、お前自身が言い出したのは、一番最後だ」

志保は黙ったままうつむいている。

「クスリに手を出したのだってそうだよ」

「そうなんですか……」

「まあ、まず薬物に手を出しちゃいけないって大前提があるけど、それは今更言ってもしょうがねぇ。ちょっと置いとこう。お前は常識に従っちまう人生ってやつを変えたかったんだろ? だったらなんで覚醒剤なんだ? たとえばさ、学校に通いながら、自分でこうしたいって決めて、自分でしっかり進路定めて、周りにどう言われようと自分の意志を貫く、そんな生き方じゃダメだったのか? っていうか、そんな生き方がしたかったんじゃないのか?」

「それは……でも……それじゃ駄目な気がして……」

「何がダメなのさ?」

「……結局、元の場所に戻っちゃうんじゃないかって」

「それだよ、それそれ」

舞は志保を指さす。

「おまえは自分が『こうしたい』って思っても、それを貫けないんだよ。だからお前は、クスリに頼った。覚醒剤はどんなに意志の強いやつでも人生を破滅させる。普通はそれは悪い意味で使われるんだけど、お前はそれに頼ったんだ。お前みたいに、意志を貫くことができないやつでも、確実に人生を破滅させられる」

舞は煙草を灰皿に押し付けると、ふっと笑顔を見せた。

「最初に会ったとき、お前の薬物依存を『病気』だって言っただろ? 治さなきゃいけない病気なんだ。でも、その根本はクスリがどうこうじゃない。なんでクスリに手を出したか、そこだ。治さなけりゃいけないのは、お前のその意志の弱さ、意志を貫けない性格なんだよ。そのままでいいっつうなら別にいいけど、お前はそれを治したいって思ってるんだろ? 第一、本音を押し殺しながら生きてたら、お前自身がいつまでたっても苦しいまんまじゃねぇか」

「そうですよね……」

「で、お前はどうしたかったんだ?」

舞は歯を見せてにっと笑った。

「あたしは……別れたくなかったです……でも……」

「ストップ! そっから先は言うな」

舞は手で志保の言葉の続きを制する。

「別れたくなかったんなら、カレシにしがみついてでも、ヤダヤダ別れたくないって言えばよかったんだよ」

「そんなみっともない……」

「おまえまだ十七だろ? いいじゃんか、みっともなくて」

そういうと舞は優しく笑った。

「あの……」

志保は顔を上げて、少し身を乗り出す。

「あたしはどうすれ……」

そこで志保ははっとして言葉を切った。

「どうすればいいか」ではない。

「どうしたいか」だ。

いいじゃないか、みっともなくて。

自分の過去も、言いたくないことも、全部話したのだ。

だったらさらに醜態さらして、「ヤダヤダ、別れたくない」とみっともなく田代にしがみついてみたらどうだ。

きっと軽蔑されるだろう。でも、どうせフられるならとことん軽蔑されるのも悪くない気がしてきた。

精神的なダメージや体裁を考えたら、もちろん、そんなことは「しない方がいい」。

でも、今の志保は「そうしたい」のだ。

志保は携帯電話を取り出すと、優しくボタンを押した。

 

田代は亜美に促されるがままに、公園の中に置かれた岩に腰掛けた。

だが、亜美の方はどこにも腰掛けずに立ったまんまだ。そのまま腕を組んで田代の方をにらむように見ているから、ずいぶんと亜美の方が偉そうに見える。

「で、お前どうしたいの?」

亜美は尋問、いや、質問をぶつけた。

田代は困ったように周りを見渡してから答えた。

「まず志保ちゃんに会って……」

「そりゃそうだろ、バカ。志保とコンタクトとりてぇからこんなとこうろついてんだろうが」

「ちゃんと話して……」

「あたりまえだ、バカ。あったら話すに決まってんだろうがよ」

「あの……」

田代はかなり困ったように亜美を見た。

「……あんまりバカバカ言わないでくれないかな……?」

「あ? バカじゃねぇの? バカにバカって言って何が悪いんだよ、このバカ!」

亜美は田代にグイっと顔を近づける。

「ウチが聞いてんのは、会って話して、そのあとどうしたいのかってことだ、バカ。会ってしゃべってそれで満足なわけねぇだろ。その先があんだろ?」

「それは……」

田代はいよいよ困ったような顔を見せる。

「ま、ウチはお前があの話聞かされたら、てっきり逃げ出すと思ってたよ。もう一度会って話したいっていうのはほめてやるよ」

「ど、どうも……」

「逃げようとか思わなかったのか? 志保の方からお前に別れ切り出したんだ。お前がこのまま会おうとしなければ、それで縁が切れたのに。そうすれば、厄介ごとからも手を切れるんじゃねぇのか……」

「厄介ごと……」

田代はそこで、少し下を見た。

「一度好きになった人を……、厄介ごとだなんて、思えないよ……」

「そもそもさ、志保のどこがよかったんよ」

「それは……、明るくて……優しくて……一緒にいて楽しいっていうか……」

そこで亜美は、深くため息をついた。

「で、結局どうしたいんだよ?」

「……僕に何ができるかわからないけど、彼女を支えていきたいと思う……」

「あんな話聞かされてもか?」

「……あんな話聞かされたからかもしれない。僕だっていろいろ考えたよ。でも、今の志保ちゃんには、やっぱりだれか支えてあげる人が必要なんじゃないかって思って……」

「……お前の手に負えないかもしれないんだぞ」

亜美は腕組みしたまま、まっすぐに田代を見た。

「……僕もこれから薬物について勉強していきたいと思うし……、たとえ手に負えなくても、僕はまだ志保ちゃんのことが好きだから、僕が守ってあげなくっちゃ……」

「ちっ!」

亜美はわざと聞こえるような大きな舌打ちをした。

「え?」

「ああ、いや、何でもねぇよ」

そういうと亜美はそっぽ背く。そして、心の中で叫んだ。

こいつ、ぜんぜんおもしろくねー!

つまんねー。なんてつまんねー男。笑点だったら座布団を全部没収して、ステージの下に蹴り落したっていいくらいのつまらなさだ。

原宿の女子高生が好きそうな甘ったるいラブソングに、魔法をかけて体と声を与えたらこの田代ってやつになるんじゃないだろうか。そういえば、前にカラオケに行ったとき、志保はそんな甘ったるいラブソングばかり歌ってた。

こんなヤサオのどこがいいのかと亜美は今まで不思議で仕方なかったが、何となくその理由がわかった気がした。そういえばこいつら、二人そろって青春映画を見に行くようなカップルだった。

なぁにが「支えていきたい」だ。「守ってあげなくちゃ」だ。道徳の教科書みたいな顔しやがって、このやろう。

さて、どうしたものか、と亜美は頭をひねる。

志保が田代に別れを告げて以来がっつり落ち込んでいるのはよく知っている。田代もその気だというのなら、二人の間を取り持ってやるくらいのことはやってもいい。

やってもいいのだけれど、志保をまたこのつまらない男くっつけても、なんだかおもしろくなさそうだ。

とはいえ、と亜美は考えを改める。これは志保と田代の問題である。亜美がつまらないという理由で間を取り持たない、というのは筋が通らないだろう。亜美としては面白みがないが、志保がこのタワーレコードに平積みで置いてありそうな男が好みだというのならば、とやかく言わずにその間を取り持ってやるっていうのが友達ではないだろうか。

なにより、「城」に引きこもりは一人で十分だ。二人もいると、めんどくさいうえに、しんきくさい。

「おい、ヤサオ」

「あの……それって僕のこと……」

「ウチはジヒ深いから、お前と志保の間を取り持ってやる」

「え……?」

田代はにわかには信じがたいという目で亜美を見る。

「ウチが首に鎖つけて絞め殺してでも、志保をお前の前に引きずり出してやるよ。いやだ、会いたくない、って泣きわめいても、お前の前に連れてきてやるから安心しろ」

「え……べ、別にそこまでしなくても……もっと穏便に……」

「いや、今のあいつに必要なのは荒療治だ。何日も何日もうじうじしやがって。こういう時はな、無理やりにでもことを進めた方がいいんだって」

亜美が思いつく解決法というのはだいたいいつも、荒療治とか無理やりとかである。そして、それがうまくいったためしは、ほぼない。

亜美は携帯電話を取り出す。

「でもな、お前がまた志保と付き合ったとしても、ハッピーエンドになるとは限んねぇぞ。バッドエンドかもしんねぇぞ。そのこと、わかってんのか?」

田代は、手を組んで少し下を向いた。

「……バッドエンドにはさせません」

「いや、お前がさせねぇっつったって、バッドエンドになるかも知んねぇだろ? そん時どうすんだよ」

「だから、バッドエンドにするつもりはありません」

「いやだから、つもりがねぇっつっても実際……」

「そもそも、最初から悪い方向になるかもしれないなんて思いながら恋愛なんてしないですよね。恋愛って、幸せな将来を思い浮かべてするものですよね? だから、志保ちゃんとの幸せな未来を思い浮かべて、そこに向かって二人で歩いていく、それが恋愛でしょ? 確かに、志保ちゃんは普通の子とは違うのかもしれないけど、悪いことばかり考えてたら、本当にバッドエンドになっちゃうんじゃないのかな?」

亜美は何か言いたげに田代を見ていたが、

「ま、どうでもいいわな……」

と言うと、携帯電話をいじり始めた。もう、道徳の授業はうんざりだ。

電話帳から志保の名前を探して押す。だが、呼び出し音がいくらなっても志保が出てこない。

「おかしいな。あいつ出ねぇ。誰かと話してんのかな?」

そう言って志保が振り返ると、田代が誰かと電話で話していた。

「……うん、わかった。じゃあ、この前の場所で待ってるから……」

そういうと田代は、電話を切った。

「志保ちゃん、これからこっちに来るみたい」

「おまえと話してたんかい!」

亜美はやるせなさそうに携帯電話をポケットにしまった。

 

写真はイメージです

たまきは公園の「庵」の前に座っていた。

ベニヤ板とブルーシートでできたお化けのような「庵」は、無数のホームレスたちがせわしなさそうに出入りしている。

最初はここに来るたまきのことを物珍しそうに見ていたホームレスたちだったが、いつしかここにたまきがいるのも風景の一部となったらしく、さほど気にしなくなった。

たまきの正面には、仙人が安物の椅子に腰かけて、たまきのスケッチブックに目を通している。

「前よりうまくなったんじゃないか?」

そう言って仙人はたまきにスケッチブックを返した。たまきはぺこりと頭を下げた。

「それで、今度は何に悩んでるのかな?」

「やっぱり、わかりますか……?」

たまきは視線を落としたまま答えた。

「……友達に、えらそうなことを言ってしまったのかもしれません」

「ほう」

仙人は興味深そうにたまきを見た。

「そのせいで、友達がカレシさんと別れてしまったのかも……」

「お嬢ちゃんのせいなのかい」

「それは……わかんないんですけど……」

たまきはずっと下を見たままだ。

「私は、ちゃんと正しいことを言えたのかな……、もしかしたら、私が言ったことは間違ってたんじゃないかなって思って……」

「お嬢ちゃんがその友達に何を言ったのかはわからないが……」

仙人は片手に持ったカップ酒を、人差し指でトンと叩いた。

「それはどこかにはっきりとした正解があることなのかい?」

「え?」

たまきはここで、初めて仙人の目を見た。

「学校のテストみたいに、はっきりとした正解が存在することだったら、何が正解で何が間違いかはっきりしている。裁判なら法律に照らして正解か間違っているかはっきりさせる。だがなお嬢ちゃん、世の中のたいていの問題は実は、はっきりとした正解は存在しないんだ」

そこで仙人は再びカップ酒に口を付けた。

「だから争いが絶えない。俺の方が正しい。いや、私の方が正しいってな。実はどこにも正解がないのに、自分こそが正しいんだお前が間違ってるんだって主張しあうから、人は争う」

仙人はカップ酒を傍らに置くと、たまきの目を見る。

「そして、何が正しいかわからないから、人は悩む。どこにも正解がないから、何が正しいのかわからない。でも、人はやっぱり、自分が正しいと思ったことをしたいもんだし、間違ったことはしたくないもんだ。何が正しいかわからないけど、これが正しいんだって信じなければ、何も決められない。どこにも正解は存在しないのに、それでもどこかに正解があるはずだと信じて動かなければならない。人生ってのは、神様と追いかけっこしてるようなもんだな」

「はあ……」

たまきはぽかんと口を開ける。数週間ぶりに学校の授業に出て、まったくついていけなかった時もこんな顔をしていたのかもしれない。

「それで……私はどうしたらよかったのかなと……」

「そんなの、お嬢ちゃんのしたいようにすればいい」

仙人はそう言って優しく微笑む。

「はっきりとした正解なんてどこにもないんだから、自分がしたいようにすればいい」

「でも、それで間違ってたら……」

「自分が間違ったことをしたと思ったら……」

仙人はにっこり微笑んだ。

「自分のしたいようにすればいい」

 

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「城」に帰ったたまきは、またしても口をぽかんと開けた。

「だから~、またユウタさんとやり直すことになったんだってば~」

志保がこれまでの落ち込みっぷりが嘘のようにニコニコとしている。

たまきは困ったように亜美を見上げた。

「なにか……あったんですか……?」

「しらねー」

亜美はこの上なくつまらなそうにしている。

「その……田代って人は、志保さんの話聞いて、それでもいいって言ってくれたってことですか……」

「うん、私のこと支えるから一緒に頑張ろうって言ってくれたの。なんでだと思う?」

「……なんでなんですか?」

横から亜美が

「聞かねぇ方がいいって」

と忠告するより早く、志保は

「志保ちゃんのことが好きだから、だってさ! ヤダもう、言わせないでよ!」

と言いながら、たまきの肩を強くたたいた。

「というわけで、ご心配おかけしました! もう大丈夫だから! あ、先生にも電話しないと!」

というと志保は、携帯電話片手に外へと出ていった。

……結局、なんだったのだろう。

何か一つの騒動が終わったようで、もしかしたらなにも終わっていないような気もする。

「ちっ」

とたまきの横で、亜美が舌打ちをした。

「一つ……気になるんですけど……」

「なんだ?」

「その……田代って人は……志保さんのことが好きだから支えるって言ったんですよね?」

「んあ? ンなこと言ってたな。あのタワレコヤロウめ」

「たわれこ?」

たまきは不思議そうに亜美を見ていた。

「で、何が気になるって?」

「……志保さんのことが好きだから支えるってことは、もし志保さんのことが好きじゃなくなったら、どうなるんでしょうか?」

亜美はしばらく黙っていたが、

「……んなこと、あいつが志保のこと嫌いになってから考えればいいんじゃね?」

そういうと亜美は、ソファの上に体を投げ出し、寝転がった。

 

何かがおかしいのだけれど、何がおかしいのか、たまきにはまだわからなかった。

 

つづく


次回 第29話「パーカー、ときどきようかん」(仮)

次回、たまきがおしゃれに目覚める!?  続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

webライターはもう夢を見れる仕事じゃない

webライターという仕事はもはや泥船。沈むのも時間の問題だ。

そう判断してwebライターをやめて1年ほどが経った。そんなある日まとめサイトの大手「NAVER」が終了するとのニュースが入った。

こういうまとめサイトというのもwebライターの巣窟の一つであり、その中でも大きなサイトであったNAVERが終わるとなると、いよいよもってwebライターの仕事が危なくなったなぁと感じる。

いずれはAIによってwebライターなんて淘汰されるのだろうか。だが、当のwebライター達はそのことには楽観的だ。「量をこなす」という点で人間はAIにかなわないが、「質の領域」ではまだまだ人間に分があるという論調が目立つ。

だけど、残念なことに、webライターに質など求められてはいない。求められているのは量だ。

僕がwebライターの仕事が泥船だと見切った理由もそこにある。僕は幸いにも取材や執筆にじっくりと時間・お金をかけられる環境にいたが、そんな仕事があるのはほんの一握りの幸運なものだけだ。

webライターが携わる案件のうちのほとんどが、求められているのは質よりも量である。流行りにのっかった記事を、手軽に、大量に作ること。それがwebライターに求められている。

そういう仕事しかないのは末端だけで、トップのライターは質の高い記事を求められている、というのならまだ救いがある。だけど以前、年収ウン百万を自称するwebライターの記事を読んでみたのだが、驚くべきことにそこで語られていたのは、「とにかくスピード勝負。集中して記事をたくさん書く」という、「質より量」の権化みたいな話だった。

トップから末端に至るまで、求められているのは質より量なのだ。

たとえば、「新橋の居酒屋を10件紹介する記事」という案件が、報酬わずか400円で募集されている。当たり前だが、わずか400円の予算で10件の居酒屋を食べ比べしたら、大赤字だ。下手したら、交通費にもならない。取材などせず、ネットで調べて書くしかないのだ。

さらに、400円の記事を1時間かけて書いていたのでは、時給400円となり、ライターの利益にならない。これを時給800円、1200円とするには、このようなお手軽記事を効率よく量産していかなければならない。

手っ取り早く記事を書くにはどうすればいいかとなると、すでにネット上にあるブログなどのサイトをコピペして組み合わせるしかない。

どこのクライアントも一応「コピペは厳禁です」と言っているのだけれども、コピペするしかないような金額しか渡さないのであれば、コピペするしかない。

良識あるライターはここで「こんな仕事できるか」と離れていくのだが、それでもこういった案件がなくならないのは、400円の記事をコピペで短時間で仕上げ、それを大量に作って利益とする悪質なライターが後を絶たないからだ。

それにしてもどうして、ネットでは質よりも量が求められるのだろうか。

ウェブサイトは記事を読んでもらって、広告をクリックしてもらって、初めて収益が発生する。それでも、8割近くが月数万円にしかならないという。

個人ならそれでも良いかもしれないが、webライターなんぞを雇うのはたいていは事業として行われる。事業として考えると、月数万円は到底足りない。

事業の収益を上げるにはどうすればいいのか。

記事の質を上げるのははっきり言ってムダである。どれだけ文学的な記事を書こうとも、どれだけ入念な取材に基づいた記事を書こうとも、広告をクリックしてもらわなければ1円にもならない。サイトの記事の質が向上したからと言って、収益が増えるわけではないのだ。

とにもかくにも量である。流行りに乗っかって検索されやすそうな記事を量産するしかないのだ。

こういう戦略は、ビジネスとしてはまっとうな考え方なのだろう。「こだわりの記事を、じっくり、数を厳選して」なんてことをやっていては、ネットで収益は上げられない。

だけど、ビジネス的な効率だけを優先して、粗悪品を大量生産するようなビジネスは、いずれ行き詰まる。特に「クリエイティブ」や「エンタメ」などと呼ばれる業界は、よその業界よりもそれが顕著に表れる。NAVERやWELQがその証明だ。

「商業主義」と「芸術家肌/職人気質」はビジネスの両輪である。どちらに傾きすぎてもいけない。職人気質に偏りすぎたビジネスは売れないし、商業主義に偏りすぎたビジネスは粗悪品をばらまくようになる。

今のwebライティング業界は商業主義に偏りすぎている。

つまるところ、もうwebライターは夢を見れるような仕事ではなくなったのだ。ここでいう夢とは「お金を稼ぐ」という夢ではない。「良い作品を作る」という夢だ。

数年前、クラウドソーシングという働き方が脚光を浴びたときは、確かにそこに夢はあった。だけど、もはやそこに夢は残っていない。沈むのを待つだけの泥船なのである。

小説 あしたてんきになぁれ 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」第27話にして、ついに主人公の一人、志保の過去が明かされます。なぜ、志保は薬物に手を出したのか。「あしなれ」第27話スタート!


第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


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シブヤの大型家電量販店の中のゲーム売り場、最新のレースゲームのお試しプレイ用コントローラーを、志保は握っていた。

1Pのコントローラーは友人が握っている。志保は2Pのコントローラーを握り、画面の向こうにある緑の車を操っている。

 

神崎志保。星桜高校1年生。

 

画面の中の車は猛スピードで高速道路を走り、何台もの車を追い抜いていく。現実の高速道路と違うのは、いくらスピードを出してもパトカーが現れないこと、いやがらせかと思うくらいに曲がりくねっていること、そして、高速道路にもかかわらず、壁がないことだ。

コントローラーの操作を誤ると、あっという間にコースアウトしてしまう。道路の向こうい広がる暗闇に車が飛び出し、三回繰り返すとそのままゲームオーバーだ。

制服である紺色のブレザーを身にまとった志保は、表情を変えることなく、コントローラーを握りしめていた。

隣では友人の赤い車が、ヘアピンカーブで大きくコースアウトして暗闇を舞った。直後に現れる真っ赤な「GAME OVER」の文字。

「あ~!」

友人がため息にも似た叫びを漏らし、その後ろで別の友人たちが口々に

「惜しかったよ~」

「いや、あれ、ムズいって」

と笑いあっている。

一方の志保は、相変わらず硬い表情を崩すことなく、コースに車を走らせていた。友人たちの視線も志保に注がれる。

「志保っちうまいじゃん。ゲームとかやるイメージなかったけど」

「これは操作がシンプルだから」

志保は画面を凝視したまま答えた。

そう、こういうのは要領を抑えればいいのだ。

そもそも、自動車レースというのは、速く走ればいいわけではない。単に自動車の速さですべてが決まるのであれば、ドライバーなんて誰でもいい。

ドライバーの腕の見せ所はハンドルさばきである。トップスピードで走りつつ、高速で迫りくるコースの変化に対して、的確なハンドル操作をミスすることなく繰り返すことが、トップレーサーの才能だ。

もちろん、志保にそんな才能はない。

だから、志保はスピードを出すことを控えた。

志保たちがプレイする前にこのゲームを体験していた人たちはいずれも、トップ近くまで加速し、コースアウトや激突を繰り返し、ゲームオーバーとなっていた。後ろで並びながらその様子を見ていた志保は理解した。このレースゲームはコースの難易度が高く、トップスピードを出してしまうと、よほど慣れていない限りクリアできない。初心者が完走したければ、スピードを抑えることが重要だ。

スピードを抑えることは、レースとしては邪道かもしれない。

それでも、コースアウトしてゲームオーバーになってしまったら、何にもならないじゃないか。

志保はスピードを捨て、正確さに徹した。

そうなると後はもう、要領の良さの問題である。車をずらしたり、方向を変えたり、必要なタイミングで必要な操作をするだけだ。

志保は無事完走した。画面に「FINISH」の文字が踊り、背後から友人たちの歓声が聞こえる。

「志保っち、すごいじゃん!」

「あ、でも、順位は17位だって」

このゲームは30台もの車でレースを競う、という設定だ。第30位から始まり、一台ずつ車を抜いていく。

志保は早々に順位を捨てた。順位を気にしていたら、完走できない。どれだけ早かろうと、ちゃんとゴールできなかったら意味がない。

「でもさぁ、ミカのあれ、マジウケたよね」

ミカというのは、志保の隣でプレーして、早々にゲームオーバーとなった友人だ。

「あれねぇ。他の車に二回連続でぶつかって、そのままコースアウトってヤバすぎるでしょ」

「しかも、そのあと復活したけど、5秒でまたコースアウトして、ゲームオーバーでしょ? 下手すぎ」

そう言って、友人たちはゲラゲラと笑う。

会話の中心にいるのは、完走した志保ではなく、ゲームオーバーになった友人の方だった。

志保にはその理由がわかっていた。

志保のプレーは、ゲームとして面白くなかったのだ。

なにより、志保自身がプレーしていても、面白くなかった。

完走しても、ちっともうれしくなかった。

ゲームをしていたはずなのに、いつの間かそれが作業となり、楽しめなかった。

いっそコースアウトしてゲームオーバーしてしまった方が、ゲームとしては楽しめたのかもしれない。

 

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焦げ茶色のレンガを積み上げたような巨大なマンションに、志保は入っていった。志保は物心がついた時から、このマンションの9階で家族と暮らしている。

「ただいま……」

薄暗い部屋の中から返事はない。だが、そもそも返事を期待していたわけではないので、志保は表情を変えることなく靴を脱ぐ。

共働きの両親は今日も帰りが遅い。夕食に間に合うのであれば何か連絡があるはずだが、神崎家の食卓に二人以上の人間が並ぶことは稀だ。休日でさえ、志保はひとりで食事をとることが多い。一人っ子なので、志保は家でのほとんどん時間を、一人で過ごしている。

そういえばさっきメールが来ていた。もしかしたら、とチェックする。

メールの主は両親ではなく、違う学校に通うカレシだった。ゴールデンウィークに入る少し前に、友達が開いた合コンのような感じの食事会で出会った相手だ。内容はたわいもないようなこと。志保もたわいのないようなことを打ち込んで返信する。

携帯電話をテーブルの上に置くと、着替えを済ませ、一息つくと、夕食の準備に取り掛かった。

最初は母の手伝いとして料理を始めたのだが、いつの間にか自分一人のために料理をするようになっていた。

料理をし、食事をし、片付ける。ここまでを志保は、まるで機械化された工場のように淡々とこなした。

夕食後はテレビを一時間ほど見る。番組が終わると自室へと向かい、机の上に参考書を置いた。一学期の期末テストもそう遠くない。ちゃんと勉強しておかなくては。

そこで携帯電話が鳴った。母親からのメールだった。

用件は二つ。帰りが終電近くなるということと、ちゃんと勉強しておくようにとのこと。

他にないのか、と志保は少し寂しく思った。

年頃の娘が一人で留守番をしているのである。「戸締りをしっかり」くらい書いてあってもいいんじゃないだろうか。夕飯にちゃんと栄養のあるものを食べてるのかとか、そういうことは気にならないのだろうか。

もっとも、昨日も一昨日も母親からのメールは同じ文面だった。どうせ、前に送ったメールをコピーしているのだろう。

志保も昨日母親に送ったメールをコピーする。ただ、それだけではさすがに物足りないので、絵文字を一つ追加した。「わかった。大丈夫。ちゃんとやってるよ」という味気ない文面も、そのひと工夫でだいぶ印象が変わる。

新しいメールを一から作成するよりも、そういう機能を使う方が、効率が良く、要領がよい。

そう、世の中の大抵のことは要領である。

料理を作るのも、勉強するのも、要領だ。傾向と対策を把握し、あらかじめいくつかのパターンを想定しておいて、状況に合わせて、用意しておいた対処法をこなしていけば、大抵のことはうまくいく。昼間のゲームがそうだったように。

人間関係だって、結局は要領だ。どういう話題を押さえておけば、友達が喜ぶか。どういう返事をメールで送れば、カレシと良好な関係が保てるか。どういう子供を演じておけば、両親が安心するか。

神崎志保という少女のもっとも秀でた部分は、その要領の良さと言える。

そもそも志保は、基本スペックからして高かった。勉強は人並み以上にでき、運動もそこそこできる。おしゃれにも気を使い、わりとモテる部類に入っている。手先も器用で、料理もできる。苦手なことと言えば、歌うことがちょっと苦手なくらい。

基本スペックが高いうえに、志保は要領がよいため、大抵のことは何でもこなせた。何でもできる子だったし、できないことがあっても、どうすればできるようになるかはすぐに分かった。そして、少し練習すればすぐにコツをつかみ、うまくなれた。

頭が良くて、かわいくて、何でも要領よくこなせる子。志保は小学校の頃から、そういうポジションだった。

子供の頃はそれでよかったのだ。勉強ができれば、両親や先生が褒めてくれる。おしゃれに気を遣えば、お友達から一目置かれ、男子にもモテる。

進学校に入り、多くの友達を作り、カレシを作る。青春のリア充要素を、その持ち前の容量の良さで志保は次々と揃えていった。

それはそれで、幸福だった。

だが、いつからだろうか。志保の幸福と背中合わせの場所に、得体のしれない恐怖が居座り、無数の見えない針で背中に痛みを与えるようになっていったのは。

勉強も友達もカレシも、要領よくこなしていけば、大抵のものは手が届く。多少の障害やハプニングが起ころうとも、その要領の良さでうまく切り抜けてしまう。

今まで、ずっとそうしてきた。

そして、たぶん、これからも。

進学、就職、出世、結婚、子育てと、たぶん世の多くの人がそうしているように、自分もそつなくこなしていけば、多少の障害はあれど、そう苦労することなく手にできてしまう。そんな予感が志保にはあった。それは驕りでも慢心でもなく、自分を客観的に分析したうえでの答えだ。

その予感が志保に、得体のしれない恐怖を与えていた。なんだかもう自分の人生が数十年先まで決まっているのではないかという得体のしれない恐怖に、志保は感触のない水の中でおぼれているかのような息苦しさを感じていた。

そして行きつく先は、両親と同じような大人になっている自分である。そういう未来が、容易に想像できた。

別に両親の人生を否定しているわけではない。大きな企業で重責を担っている両親のことは、素直に尊敬している。

それでも、結局は両親と同じような人生を歩んでしまうことは、なんだか歪んだ時空の無限ループに陥っているような気がして、それが志保にはとてつもなく怖かった。

たしかに自分の意志で選んでいるはずなのに、何か陰謀めいた力によって自分の意志を操作されているかのような、言いようのない恐怖感。実は自分が人間ではなく、プログラム通りに動くロボットなのだと突きつけられたかのような絶望感。

志保を操る陰謀めいた力。おそらく「常識」と呼ぶものがそれだろう。

その常識に逆らうことなく、淡々と従ってしまう自分と、そこからもたらされるわかりきった明日、未来。それが何より、怖かった。

勉強して、お風呂に入って、気が付いたら夜の十一時を過ぎていた。両親はまだ帰ってこない。

志保は自分の部屋の電気を消すと、ベッドに入った。

昼間とたがわぬ明るさを保っていた部屋だったが、灯りを消すと、部屋は夜本来の暗闇に包まれた。

 

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「変わってんな、お前」

志保のカレシであるタカユキはそう言って笑った。

「やっぱりヘンかなぁ」

志保はパスタをフォークに巻き付けている。

シブヤの商業施設の中にあるパスタの店で、志保はタカユキとともにランチを食べていた。

何でもそつなくこなせてしまうと、先のことが見えてしまい、結局予定通りの人生しか歩めそうになくて、それが怖い。

そんなことをタカユキに話したのだが、返ってきたのは「変わってんな、お前」という言葉だった。

変なやつだと言われることもうすうす予想できていたのだが、志保は普段はそんな風に言われることがないので、改めて他人から変だと言われると、少しイラっとした。

だが、客観的に見ればやっぱり志保の考え方は変なのであろう。それもわかるから、志保は感情のささくれをそっと直して、タカユキの話を聞く。

タカユキはパスタを巻いたフォークを頬張り、メロンソーダを飲んでから、続きを話し始めた。

「だってさ、勉強も、ファッションも、料理も、人間関係も、何でもできるにこしたことないじゃん。その結果さ、欲しいものが手に入って、やりたいことがうまくいく。充実してんじゃん。それが怖いっていうのが、よくわかんねぇんだよなぁ」

もう一口、タカユキはパスタを口にした。

「それってさ、贅沢じゃね?」

そういわれることも、志保は予想していた。むしろ、そういわれることがわかっていたから、今まで誰にもこの話はしていなかった。

「何、ヤなの? 今の学校とか。あ、もしかして、俺と付き合ってるのがヤとかいうなよ?」

「ちがうちがう! そういうんじゃない。今の学校好きだし、そもそも、自分で志望して入ったんだし。タカくんのこともちゃんと好きだって」

そう言ってから志保は、「好き」という前に2秒ほど空白を開けるべきだったかな、と思った。それもやっぱり、持ち前の容量の良さで、恥じらいを演出したほうがタカユキはかわいいと思うだろう、というあざとい計算からくるものであった。

だが、もう一つ理由があった。何の臆面もなく、戸惑いもためらいも恥じらいもなく、「好き」と息を吐くように言ってしまう自分に、何か違和感を感じてしまったのだ。

「でしょ? 俺にとってお前は、かわいくて頭いい自慢のカノジョなんだから、ヘンな心配しなくていいんだよ」

自慢のカノジョと褒められると、やっぱり悪い気がしない。志保は少し顔を赤らめて下を向いた。

だが、またもや志保の左側に、要領が良くて客観的な志保が現れ、問いかける。

「自慢のカノジョ」というが、一体誰に自慢するというのだろうか。

そもそも好きだから付き合うのであって、誰かに自慢したりうらやましがれれるために付き合うのではない、はずである。

「自慢のカノジョ」というけれど、本当に自慢したいのはカノジョのほうじゃない。「自慢のカノジョを持っている俺ってスゲェ」なのではないか。

それは、ブランド物のバッグや高価なアクセサリーを見せびらかすのと大して変わりないのではないか。

でも、その自慢癖は、おそらく志保にもある。

タカユキはおしゃれな方ではあるが、決してギャル男というわけではなく、派手な遊び人でもない。志保の第一印象も「大人びててやさしそうな人」だった。実際、やや軽いところもあるが、一方でやさしくまじめな一面も持っている。

そんなタカユキは志保にとっても「自慢のカレシ」であった。

実際、タカユキの写真を友人たちに見せたときの、「え~! カレシ、かっこいい!」「やさしそー!」「いいなぁ」という羨望の強い驚嘆を浴びたときは、間違いなく優越感を味わっていた。

結局のところ、志保も一番かわいいのは自分ではないか。

要領よく何でも手にしてしまう自分の人生に言いようのない怖さを感じている一方で、そうやって常識的な欲望を満たすことを自ら欲し、手に入れている。

「常識」に従うことに恐怖を感じながらも、結局のところ志保は、「常識」を踏み外して生きることができないのだ。

もしかして、自分は本当の意味でタカユキのことを好きなのではないんじゃないか。ふとそんなことを志保は考えてしまう。

志保が欲しかったのは、「自慢のカレシを演じてくれる誰か」であって、それがたまたまタカユキだっただけなのではないか。

「さて、そろそろ行こうぜ」

タカユキが立ち上がり、志保も後に続く。

「あ、あたしも払うよ」

志保はバッグの中の財布に手をかけたが、タカユキは

「いいよいいよ、おごるって」

と言って一人でレジに行ってしまった。

二人で食事するときは、いつもタカユキがおごってくれる。志保は何度も自分も払うと申し出るのだが、タカユキは財布にかなり余裕があるらしく、いつもその申し出を断る。

そのたびに志保は引き下がる。ここはしおらしく、タカユキに「カノジョにおごるカレシ」を演じさせておけば、すべて丸く収まるという計算のもとに。

「でも、タカ君っていつもお金に余裕あるよね」

タカユキは学年でいえば志保の一個上、高2である。バイトの経験も志保よりあるのだろうが、だからと言って毎回おごってくれるとなると、その財源が気になる。

「販売系のバイトって言ってたよね。何売ってるの?」

店を出た志保は、タカユキの横に並びながら尋ねた。タカユキのバイトについてはこれまで、「販売系」としか聞いていない。服か何かを売ってるのだろうと勝手に思っている。

タカユキは少し何かを考えるようなそぶりを見せてから、口を開いた。

「……アイスだよ。あと、チョコとかかな」

「なにそれ? スイーツ屋さん? なんか似合わない」

志保はそういって笑った。それにしても、よっぽど人気で儲かっているアイス屋さんで働いているに違いない。

 

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この世には、とっくにバランスを失っていて、今にも崩壊しそうであるにもかかわらず、外から見てもとてもそんな風には見えないものがある。

たとえば風船。外から見るとまんまるで愛らしいが、その実態は空気が内部から圧力をかけ、ゴムがはちきれんばかりに膨張したとても不均衡な状態だ。わずかな穴ひとつで簡単に破裂する。

志保の家庭もそのような状態だった。両親は仕事でほとんど帰らず、たまに顔を合わせても会話と言えば「勉強はどうなんだ」くらい。次第に志保もカレシや友達との時間が増え、家に寄り付かなくなった。家族それぞれの時間が、家の外を軸に回り始め、家は、思い出の写真を飾るだけの箱となった。

志保の両親が離婚したのは、高校一年生の夏休みに入ってすぐだった。母親の方が家を出ていき、志保は父と暮らすことになった。名字も父方の「神崎」のまま。

実は、離婚の原因は、志保にもよくわからない。少なくとも、不倫だとか暴力だとか、何か決定的なものがあったわけではない。

一方で、何がきっかけになったのかはわからないが、その根底には「家族が家族でなくなっていた」ことがあるということを、志保は確信していた。

おそらく、きっかけはまるで風船に刺さった針のような小さなものだったのだろう。普通の家庭ならば、日常の小さな棘として見過ごされるようなものだったのかもしれない。

だが、志保の家庭は違った。その何ともわからぬ小さなきっかけで、それまで確実に存在していたにも拘らずまるで存在しないかのように扱われてきた家族のほころびが、一気に破滅へと広がった。ちょうど、風船が何に触れて穴が開いたのかもわからずに破裂するかのように。

そのことは、志保の心にもちろん、影を落とした。

だが、それ以上に志保の心を曇らせたことがあった。

それは、両親が離婚したにもかかわらず、志保の生活も人生も、何も変わらなかったということだった。

両親の離婚が決定的になった時、志保はもちろん悲しかった。だが、その一方で、自分が少し胸躍っていることを否定できなかった。

両親の離婚という大事件で、自分の人生も何か変わるのではないか、と。

レースゲームに例えれば、突然コントローラーが故障してどう操作すればいいのか全く分からない、そんな状況が訪れるのではないかと、少し期待していたのだ。

要領の良さとか、スペックの高さとか、そういうものとは違う、もっと人間的な何かが試される大きな試練が訪れるのではないか、と。

常識通りに生きることに違和感を覚えつつも、けっきょく常識を踏み外せない志保は、何か常識はずれなトラブルが起きて、常識通りの人生を無理やり変えてくれないかということを期待するしかなかった。

だが、離婚後最初の一週間で、そんな試練は訪れないことを志保は悟ってしまう。

家に帰ってもだれもおらず、自分で自分のご飯を作り、夏期講習やデートに出かける、それまでと変わらない日々。

もともと家にいなかった両親が半分になったところで、志保の生活に変化はなかったのだ。ゼロに2分の1をかけてもも、答えはゼロのままである。

おそらく、神崎家の破綻は志保が思っていたような大事件ではなく、とっくの昔に破綻していた家族に、「離婚」という名前がようやく付いた、たったそれだけのことだったのかもしれない。

だが、そのことは、両親が離婚した以上に、志保の心に大きな影を落とす。

家庭が破綻して、両親が離婚しても、自分の人生は何も変わらない。

じゃあ、一体何が起きれば、志保の人生は変えられるというのだろうか。

 

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「志保っちのカレってさ、青柳第二高だっけ?」

八月に入ったある日のことだった。友人たちと四人で、カフェで時間をつぶしていた志保に、友人の一人が尋ねた。

「そうだけど?」

志保は答えたが、そこから先の会話が続かなかった。

尋ねといてなんなんだろう、と友人の顔を見ると、なんとも微妙そうな表情をしている。

「なに? どうかしたの?」

「……塾で聞いた話なんだけどさ……」

そう言って友人は、何か申し訳なさそうに切り出した。

「この前、青柳第二の生徒が二人、覚醒剤で逮捕されたんだって……」

その話を聞いた時、最初の反応として志保は思わず笑ってしまった。

「覚醒剤? あはは、ないない。ガセだよ、そんなの」

評判の悪い不良高校ならいざ知らず、青柳第二高校は偏差値も少し高めの、普通の高校である。

そこの生徒が覚醒剤で捕まるなんて、ありえない。まず、接点がないはずだ。覚醒剤なんて代物、どこから入手するというのだろうか。

「誰から聞いたの、そんな話」

志保は半ば笑いながら尋ねた。

「だから、塾の友達だって。その人の友達の先輩って言うのが、青柳第二の人と付き合ってて……」

つまり、「友達の友達から聞いた怪談話」のようなものだ。取るに足らない、信憑性に欠ける話だ。

「それでね、ママにその話したら、ママが高校の頃にも、そんな噂があったんだって」

志保は友人の話す噂話よりも、「ママとたわいのない話をした」という部分の方が引っかかった。母親とそんな、取るに足らないような噂話をしたなんて、いつが最後だっただろうか。

そこで、別の友人が口をはさんだ。

「あたしもガセだと思うけどなぁ。青柳第二でしょ? ないって」

「でも、ママの話だとね……」

友人はそういうと、ドリンクを一口すすって、話しはじめた。

「ママが高校の頃の青柳第二って、不良高校ってわけではなかったみたいなんだけど、それでも何人かの不良グループがいたんだって。その人たちがやばい大人と繋がってて、校内でクスリとか売りさばいてたんだって」

やはり、どうにも信憑性に欠ける話である。

「それって、三十年くらい前の、うわさ話でしょ?」

志保はドリンクをすすりながら、さほど気にしてないように言った。

「だからママが言うにはね、その時の密売グループみたいなのが今でも校内に裏のパイプみたいなのを持ってて、そこを通じて麻薬を売ってるんじゃないかって」

「それって、ママの想像でしょ? 刑事ドラマかなんかの見過ぎぎじゃないの?」

志保はもはや、気にしないのを通り越して、呆れかえってしまった。

「とにかく、志保っちも気を付けてよ?」

友人は心配そうに志保を見た。

「気をつけるって何を?」

「だから……、ヘンなクスリを売りつけられないように……」

「タカ君はそういうんじゃないし」

「あ、いや、志保っちのカレシがそうだって言うんじゃなくて……」

友人はそういうとバツの悪そうに、ドリンクのストローに口をつけた。

「まあ、志保は大丈夫でしょ」

それまで黙って話を聞いていた別の友人が口を開く。

「志保は頭いいし、しっかりしてるもん。そういうクスリに手を出す人って、『いつでもやめられると思ってた』とか、『自分は大丈夫だと思ってた』とか、そういう風に考えてるんでしょ? 志保はそういうタイプじゃないって」

「でも、もしカレから勧められたりしたら断わりづらいんじゃ……」

「だから、タカ君はそういう人じゃないって」

志保は怒るでもなく、明るく言った。

まったくもってばかばかしい話だ。青柳第二がどうとか、志保のカレシがどうとかいう話もばかばかしいが、仮に噂が事実だったとして、志保のカレシがクスリに関わる人物だったとして、志保がそんなものに手を染めるなどありえない。志保は友人たちとの会話をそう頭の中で片づけ始めた。

薬物の恐ろしさくらい、志保だってわかっている。そういう授業もあったし、テレビでも見たことがある。

一度使ってしまえばやめられなくなる悪魔の薬。意志の強さでどうにかなるレベルではない。

友人が言う通り、『自分はやめられる』『自分は大丈夫』、そんな甘い考えは通用しない。意志の強さや体質などに関係なく、万人に等しく破滅をもたらす薬、それが覚醒剤である。

そう、覚醒剤は、万人に等しく破滅を与える。

……その一言だけが、どうにも志保の心から離れてくれなかった。

 

写真はイメージです

自分の部屋で一人、パソコンの画面をスクロールさせて、志保は文字を追って行った。

「薬物 恐ろしさ」で検索して出てきたのは、警察や市役所などが作った、薬物がいかに恐ろしいかを伝えるホームページなどだった。

薬物がもたらす快楽についても書かれていた。薬物に手を染める人はきっとそういうのに魅かれる人がほとんどなのだろうが、正直、志保はそこには特に興味がない。

志保が知りたかったのは、薬物がいかに人を破滅させるか、という点だった。

勉強の合間の息抜きに調べ始めたのだが、気が付けば読みふけっている自分がいた。

覚醒剤を一度でも使えば、肉体だけでなく、精神も破壊し、さらに依存度が強く、一度使ったら抜け出せない。このサイトを書いた人はきっと、薬物に興味を持った人にその恐ろしさを伝えることで踏みとどまらせようと思って書いたに違いないのだが、志保はその文章に妙な期待感を抱いている自分を否定できなかった。

次に志保は「青柳第二 覚醒剤」で検索をしてみた。

いわゆる掲示板のようなものに、「青柳第二の生徒が覚醒剤で捕まった」とか、「昔もそんな事件があった」とか、友人から聞いた話に近いものが書かれていたが、いかんせん、掲示板というのが嘘くさく、信憑性に欠ける。

その中で一つ、志保がまだ聞いたことのない話があった。どこまでも信憑性に欠ける話ではあったが、覚醒剤の売り子についての話だ。

志保は不良というと髪を金に染め上げ、タバコを吸ってノーヘルでバイクを乗り回す、そんなヤンキー漫画に出てくるようなイメージしかなかったが、今、青柳第二で売り子として暗躍している不良たちは、そんなステレオタイプな連中とは違うのだという。

外見は普通の生徒と変わらない。どちらかと言えばちょっと遊んでいる風ではあるが、校則を逸脱するような派手さはなく、校則の範囲でおしゃれをしているといった感じだという。

「……なんか、タカ君みたい」

思わずそう口にしている志保がいた。

売り子の少年たちは、生活態度も目立った素行不良などはない。

だが、学校にばれないところで悪事を働く。見た目の派手さやケンカの強さではない、狡猾さのある不良なのだという。

つまりは、「いかにもなワル」ではなく、教師から見ても親から見ても友人から見ても、そんな悪人には見えない、それでいて、隠れて悪事を働く狡猾さと、それを罪だと思わない倫理のなさ、そういった子に密売グループは目を付けるのだという。

そんな若者は、わりと多いんじゃないか。そんな風に志保は考えていた。バレなければ多少ズルをしたって構わない。ルールを真面目に守るよりも、どうすれば他人より優位に立てるか、どうすればより多くのお金が手に入るか、そっちの方が大事という若者は。

そして、志保はあることに気づいていた。

クリックをするたびに、画面をスクロールするたびに、志保の中に「自分の人生を壊したい」という、何色ともつかない願望が芽生え、大きくなっているということに。

いや、本当はもっと前から抱いていたものだったのかもしれない。それまでは、人生を「壊す」ための手段など思いもよらず、そんな願望があること自体を自覚していなかった。だが今、その「手段」があることに気づいてしまい、同時におぞましい願望を自分が抱いていたことにも気づいてしまったのだろう。

そんなおぞましい願望を抱いたのは初めてだった。「願望」自体を抱いたことが、志保にとっては初めてだったかもしれない。

それまでの志保は、「常識」に従って生きてきた。

そう、何かを自分で望んだのではない。ただ常識に従い、常識的に有利な方へと自分の駒を進めてきただけだ。

毎日勉強するのも、自分がそう望んだんじゃない。「勉強しないと将来に影響する」という常識に従っているだけだ。

進学校に入ったのも、自分がそう望んだんじゃない。偏差値の高い学校に行けば将来に有利だという常識に従っただけだ。

友達付き合いも、自分で望んだんじゃない。「友達は多い方がいい」という常識に従っただけだ。

タカユキと付き合ったのだって、自分では「彼のことが好きだから」と思っているけれど、本当は自分でそう望んだのではなく、「カレシがいた方が幸せだ」という常識に従っているだけなのかもしれない。

そう、何一つ自分で望んでなんかいない。何一つ自分で選んでなんかいない。ただ常識に従っていて生きていただけだ。

「常識」と言うとまっとうなものに見えるけど、「どこのだれが決めたかも定かではない価値観」だ。「自分の意志」ではない。

自分の願望を抱かず、自分にとって何が幸せか考えもせず、ただ常識が決めた幸せに向かって駒を進めるだけの人生。

それが「自分の人生」と言えるのか。

そんな人生を歩む自分は、本当に「自分」と言えるのか。

その人生を歩むのは、別に自分じゃなくてもいいんじゃないか。

「神崎家の一人娘」も、「星桜高校の志保っち」も、「タカユキのカノジョ」も、志保じゃない別の誰かが成りすましても、誰も気づかないんじゃないか。

だって、志保がこれまでやってきたことは、「一人娘」や「優等生」、「明るい友人」、「自慢のカノジョ」という役割を常識的に演じることだったのだから。

求められていたのは志保ではない。与えられた役割を、常識ってやつが書いた脚本にしたがって、要領よくこなしてくれる「誰か」。

要領よく役をこなしてくれるのであれば、別にそれは、志保じゃなくてもよかったのだ。

それでも、志保は与えられた役に縋りつき、そつなくこなすことしかできない。

役をうまくこなせば、その先にあるのは銀幕の中のような、誰もがうらやむ幸せな光景だ。キャンパスライフを楽しむ志保。スーツを身にまとい会社で活躍する志保。ウェディングドレスを着て教会で祝福される志保、赤ん坊を抱いて幸せそうな志保、年老いて子供や孫に囲まれる志保……。

でも、そこに写っているのが志保じゃない別の誰かと入れ替わっても、たぶん、誰も気づきやしないのだろう。

誰もがうらやむ幸せを手にする人間が誰かだなんて、本当は別に誰でもよいのだ。

だって、ただ常識に従って生きてきただけで、本当に自分が望んで手にした幸せではないのだから。

同じように、志保の周りの人たちが、違うだれかに入れ替わっても、たぶん志保は気づかないのだろう。母親がいなくなっても、生活が大して変わらなかったように。家族が、友人が、カレシが、別の誰かと入れ替わっても、志保は何事もなく生きていくのだろう。

何一つ実体を伴わない空っぽの人生。誰もがただ役割をそつなくこなしていくだけの人生。まるで自分という存在が顔も名前もない靄でしかないような気がして、志保にとってそれはたまらない恐怖だった。

そんな恐怖が、志保にある願望を抱かせた。

それまで願望を抱かず、常識が求める役割を願望とすり替えて生きてきた志保が、はじめて抱いた願望。

それが「自分のこの人生を壊したい」というものだった。

自分のこの人生を壊して、常識にただ従うだけの人生を変えたい。

親の離婚や家族の崩壊よりもさらに強烈な、今いる場所にはもう二度と戻ってこれないくらいに、何もかも、徹底的に、完膚なきまでに、壊したい。

そうすることでしか、「自分」というものがつかめない。志保はそう思うようになっていた。

ふと、要領の良い志保が、どす黒い破壊願望を抱く志保をいさめるようにささやきかける。そんなことしてもろくな結末にならない。もっとよく考えろ。もっとうまい方法があるはずだ。

志保が最初に壊したのは、そんな要領の良い自分だった。そうやって要領よく最善のやり方を求めても、何かが変わったようで結局今までと何も変わらないような気がしたのだ。

後先考えずに壊す。きっと、それくらいのことしないと、また「ここ」に戻ってしまう。後先考えずに壊すことでしか、この恐怖からは逃れられない。

なにより、はじめて抱いた心の底からの願望、それも、計算高さとは真逆の感情を前に、「要領の良さ」はあまりにも無力だった。

黒い願望を抱いたまま検索を続ける日々が、何日か続いた。

その間も志保の変わりない日常が続いた。夏期講習に行って、家事をして、カレシにメールして、勉強するだけの日々。そこには、志保の人生を変えるなにかは転がっていはいなかった。ブレーキのない列車に乗り続けるかのような恐怖感は、日に日に強くなっていく。いや、元から抱いていた恐怖を、日に日に実感しているのだ。

ただ一つ、ネットの中に書かれた、悪魔の薬についての話だけが、志保が望む破滅をもたらす唯一の扉に見えた。

そして、「壊したい」はいつしか、「壊そう」へと変わった。

 

写真はイメージです

観覧車は志保とタカユキを乗せて回る。上る。

東京から少し遠出しての遊園地デート。志保が最初に乗りたいと言ったのは、絶叫マシーンでもお化け屋敷でもなく、観覧車だった。

タカユキはもっとスリルがあるアトラクションが良かったらしいが、志保がどうしても乗りたいというので、折れた。

「でも、観覧車ってさ、たしかに景色はスゴイいいけど、地味じゃん」

観覧車に乗る前、タカユキはそうつぶやいた。

そう、観覧車は、地味だ。

大騒ぎすることもなく、黙って座っていれば、眺めの良い所へ行ける。

そこから見える景色を見て「きれいだねー」とつぶやく。ほんとは予想通りの景色でしかないことは隠して。

そうして、また同じ所へと戻ってくる。そうしたら、また別の客が乗り込むだけ。

観覧車に誰が乗ってるかなんて、どうでもいいことだ。

だが、観覧車がほかのアトラクションより優れているところを挙げるとすれば、それは気密性の高さだろう。

中でだれがどんな話をしてようと、決して外に漏れることはない。

志保はタカユキの手をぎゅっと握りしめる。高度が増すにつれて少しずつその力は強くなり、志保の鼓動も早くなる。

だが、それは高いところが苦手なわけではない。ましてや、恋のドキドキなんてものではない。

下を歩く人たちが、ピーナッツぐらいの大きさになった時、志保は切り出した。

「……なんかまたおごってもらっちゃって、ごめんね」

「いいって別に。余裕あるし」

「そんなに時給いいの? アイスとかチョコとか売るバイト」

「時給か……。時給で考えたことねぇから、わかんねぇや」

「ふーん」

志保は下を見た。ピーナッツよりさらに小さくなった人影と、自分の膝と、腰まで垂れた自分の髪が同時に見えた。

「それってさ……、今持ってる?」

「……ん?」

タカユキが志保の方を見たが、志保は下を向いたまま、彼を見なかった。

「アイスとか……チョコとか……」

志保とタカユキは、園内に入ってから、何も買うことなくこの観覧車に乗った。もしかしたらタカユキが板チョコを隠し持っててもおかしくはないが、アイスクリームなど持ってるはずがないのは、一目瞭然である。

それでも志保は尋ねた。「アイスかチョコは持っているか」と。

それが、志保が扉を開けるために用意したカギだった。もし、志保の推測が正しければ、タカユキは何かを察するはずだ。それで鍵があく。

志保のような常識を踏み外せない人間でも、ちょっと目をつむっている間に、確実に人生を破壊してくれるクスリの入った宝箱の鍵が。

「そっか……」

タカユキは志保の隣でため息にもつかない息を漏らした。

「ここにはないよ。センパイに電話すれば用意してもらえると思うけど……。でも、高いよ?」

そういってからタカユキは、一度言葉を切る。

「まあ、最初だけなら、俺が金払ってもいいけど……」

「またおごってくれるんだ……」

そういって志保は笑った。

最初はおごっても、どうせ依存から抜け出せず、何度も買い求めるすることになる。最終的には儲かるという計算なのだろう。

もしかしたら、最初から絶好のカモだと目をつけられていたのかもしれない。いや、今はそんなことはどうでもいい。

そうすることを決めたのは、まぎれもない志保自身だ。

青柳第二高校で脈々と、ドラッグの密売が受け継がれているという噂。

売り子の姿にタカユキがぴたりとあてはまるという推測。

そして、「アイス」が覚醒剤を、「チョコ」が大麻を意味する隠語である、というネットで簡単に出てくる事実。

「お菓子」や「スイーツ」ではなく、「アイス」や「チョコ」という言い方をしたタカユキの選択。

それだけでタカユキがそうだと決めつけるには確証が足らなかったが、鍵が開くかどうかを試してみるには十分だった。

なにより、「人生を壊す」という目的において、こんなチャンスはもう訪れないだろう。

そして、鍵は開いた。

志保の胸には、今まで感じたことのない充足感が広がっていた。

親や先生、常識に従うのではなく、はじめて自分の意志で何かを望み、何かを選択したのだという充足感。

それがたとえ「自分の人生を破滅させる」という決断だったとしても。

 

一つ一つを田代の前で言葉にしながら、志保の眼はいつの間にか涙にぬれていた。

なに、泣いてるんだろ。

全部、自分で決めたことなのに。

望み通り、観覧車のようにただ上って降りるだけだった志保の人生は、根元から壊せたのに。

きっと、田代が志保への失望を表情に浮かべるのを、見たくなかったから、目が涙でぬれるんだろう。

いつかのトクラの言葉が蘇る。破滅と背徳は甘美なのだ、と。

破滅を自ら望む人なんているわけない、そんな風に志保は考えていた。

でも、ちがった。クスリがもたらす想像を絶する快楽と絶望の狭間にもまれて、そもそものきっかけを志保は忘れていた。

誰よりも志保が、自分の破滅を望んでいたということを。

観覧車のように高い塔の上で、ラプンツェルが長い髪を垂らして待ち望んでいたのは、すてきな王子様なんかじゃない。

高い塔も、長い髪も、お姫様という役割も、何もかも壊してくれる、破滅そのものである。

「サイテーだよね……。意味わかんないよね……」

涙が志保の目からぽろぽろとこぼれる。おかげで、田代が今どんな顔をしているのか、志保にはわからない。

いい。わからなくていい。どうせ失望と幻滅と軽蔑といったところだろう。

でも、それは仕方ない。

志保はみずから破滅を望み、その道へと進んだのだから。その代償は甘んじて引き受けるべきだ。

そもそも、志保が徹底的な破滅を望んだのは、もう「あそこ」には戻らないようにするためだ。

それなのに、人並みに恋をしようだなんて。

恋をして、結ばれて、幸せになって、そんな甘い夢を描いてしまった自分がいた。

でも、その先にあるのは、きっと志保が恐れていた「常識に従うだけの人生」なのではないか。

そして「そこ」に戻ってしまった志保はきっとまたこう思うだろう。

「これが自分の人生なのか」

「こんなの、自分じゃなくてもいいんじゃないか」

「自分はただ役割を演じているだけなんじゃないか」

「本当に自分で選んで決めたのか」

本当に恐ろしいのは、悪魔のクスリなんかじゃない。

恐ろしいのは、空っぽの人生をまた歩んでしまうこと。

その先にある幸せが空っぽであると気づかずに、流されるままに追い求めてしまうこと。

そして、そんな人生を破壊したいという衝動をまた抱くであろうこと。その甘美な衝動からは逃れられず、どんな背徳的な手段を使っても、また自分の手で壊してしまうということ。

人は時に、自ら望んで手に入れたはずの幸せを、自ら壊してしまう。不倫だったり、DVだったり、虐待だったり、このような悲劇の不可思議なところは、それが望んだ幸せと祝福の延長線上にあるということだ。

幸福になることを望んで、望み通りの幸福を手に入れたはずなのに、なぜか自分の手でそれを壊す選択をしてしまう。

こんなはずじゃなかった。

私が望んだ幸せは、こんな形じゃなかった。

こんな現実が待ってるなんて、思っても見なかった。

それがもし、自分で望んだ幸せだったら、そのための選択と行動の結果だったら、きっとどんな代償にだって人は耐えられる。だって、自分で望んで、自分で選んだのだから。

耐えられなかった、壊したくなったということは、きっとそれは、実は自分で望んだものではなかったということなんだろう。自分で選んだように思えて実は、どこの誰が描いたともわからない「常識的な幸せ」に自分を落とし込み、そこで求められる役割を演じてきただけ。

それが積み重なると人は、「これは私の望んだ幸せではない」と、自ら壊してしまう。

今の志保にはまだ、自分にとって何が幸せなのかを自分で見つけ、自分で選び、自分で手に入れていくことができない。何が自分にとっての幸せなのか、今思い描いている幸せな未来は本当に自分で選んだものなのか、今の志保にはまだわからない。

なのにこのまま田代と一緒にいても、また目先の快楽と常識に引きずられてしまう気がした。そしてまた空っぽの人生を歩めば、きっとまた、自分の手で壊してしまう。

そんな未来が、そんな明日が怖い。

 

湧き上がる何かを押さえつけ、志保は言葉を発した。だが、もうその言葉も志保の耳には届いていない。田代の言葉も、顔も、もう志保には届いていない。

覚えているのは一番最後に「さようなら」と告げ、田代に背を向けたことだけだった。

 

つづく


次回 第28話「こうした方がいい、時々、こうしたい」(仮)

第26話から続く「志保ちゃん三部作」の最後のエピソードです。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

なぜピースボートに若者が集まるのか? ~世界一周と無縁空間~

コロナウイルスの蔓延、さらにダイヤモンドプリンセス号でのクラスター発生で、クルーズ業界はどこもピンチらしい。御多分に漏れず、ピースボートもなかなか厳しい状況だと聞く。しかし、そもそもなぜ若者は船旅に集まるのだろうか。


集団バックパッカーとリセット願望

今に始まったことではないが、ピースボートはアンチも多く、悪評が多い。

ネット右翼が思い込みでしゃべってるだけというのもあるけど、たまにどう言葉を尽くしても擁護できないトラブルを巻き起こすから、悪評が絶えない。「悪意のないトラブルメーカー」である。ある意味、厄介だ。

それでも、ピースボートに若者は集まる。かくいう僕もその一人。

なぜかというと、「ほかに代わりがないから」である、と思う、たぶん。

若者でも払える程度の金額で世界一周ができる。なおかつ、船旅だから一人でチケットや宿を手配して旅するよりは安全性が高い。

安く安全な世界一周を提供しているのがピースボートであり、こと「船旅」という領域において、ピースボートは唯一無二の存在である。

ピースボートに集まる若者というと、国際貢献だの平和活動だのに関心が高い、というイメージが強いのではないか。

だが、決してそんなことはない!

もう一度言う。決してそんなことはない!

少なくとも僕は、世界の貧困とか格差とか戦争とか環境問題とか、どうでもいいと思ってる(こらー!)。

もちろん、そういうことに興味があってピースボートに乗ってる若者も多いけど、僕の実感では、そういうのに興味があるのではなく、ただ単純に旅がしたくて船に乗る若者のほうが多い、気がする。

ピースボートが始まったころは、政治思想的な考えが強かったのかもしれないが、現在のピースボートは、若者に関して言えばいわば、集団バックパッカーだ。「世界を旅てみたい」「世界をこの目で見たい」といった若者が集まって船に乗っている。

そして、集団バックパッカーの中には、必ずしもポジティブな理由とは限らない人もいる。

「今の退屈な人生を変えたい!」「今の自分を変えたい!」「今のままでいることが怖い!」「ここではないどこかに行きたい!」という、ちょっと意地悪な言い方をすれば「現実逃避」にも映りかねない動機で船に乗る若者も多い。

「今の自分が嫌だ!」「今の自分の現状を変えたい!」という強烈な自己否定が、「日本でのつまらない自分」から解放されるであろう旅に対して、強い憧憬を生むのだ。

いわば「リセット願望」である。「人生をやり直したい」というと、何か大失敗でもしたのかと思うが、そうではない。「これと言って不幸というわけでもないけれど、もっと不幸な人もいるんだけど、むしろ恵まれているほうかもしれないんだけど、可もなく不可もなくな今の人生を一度リセットしたい」、そういうリセット願望が人間にはあるのである。一歩間違えたら自殺願望になってしまうのかもしれないけど。

ピースボートが拾い集めているのはそういったリセット願望である、と思う。町中に貼られたピースボートのポスターは、普通の人には「居酒屋でよく見る、なんか写真がきれいなポスター」程度にしか映らないけど、リセット願望を抱えた人間には、不思議と「今の自分を、人生をリセットできる冒険の扉」に見えてしまうのだ。

樹海に行って首をくくるくらいなら、青い海に出てやり直そうか、というわけだ。

そして実際、ピースボートはリセット願望を抱えた人間が、「生きたまま」何かをリセットするのにぴったりな場所なのだ。それを紐解くキーワードが「無縁空間」である。ピースボートとは、現代の無縁空間なのだ。

無縁空間の歴史

もしも、「それまでの自分」と全く関係なく生きていける場所があるとしたら? リセット願望を抱える者にとって、これほど都合の良い場所はないだろう。

そして、日本の歴史の中で、そういった場所は確実に存在した。それが「無縁空間」だ。

中世民衆史の第一人者、網野善彦の有名な論文「無縁・公界・楽」は、そんな無縁空間が日本に存在していたことを説いている。

たとえば、「縁切寺」「駆け込み寺」という言葉がある。昔の夫婦関係は、男性から一方的に離婚を言い渡すことができても、女性のほうから離婚することはできなかった。ところが、駆け込み寺に女性が逃げ込んだ瞬間、男性側が何を言おうとも有無を言わさず離婚が成立したという。その寺に入った瞬間に、男女の縁が切れたのである。

そこに入れば、世俗の縁が切れる。それが無縁空間だ。

そういった場所は寺だけではなく、宿場町や市場、港町にも存在した。

無縁空間で切れる縁というのは、男女の縁だけではない。主従関係の縁、親子の縁、さらにお金の貸し借りの縁まで切れたという。

現代人が思い浮かべる「縁」とは少し違う。現代人が「この度はご縁があって……」などと口にするときの両者は対等な関係であることが多いけど、昔の日本人にとっての「縁」は決して対等な関係ではなかった。主従関係や親子関係、お金の貸し借りが台頭でないのはもちろん、夫婦関係も決して対等ではない。男性側を「主人」「亭主」などと呼ぶのがその名残だし、対等でないから女性側は縁切寺へ逃げ込むわけだ。

人は生きている間にいくつもの縁に結ばれている。いや、縛られている。領主と農民の縁、親と子の縁、亭主と嫁の縁、金の貸し借りの縁、いずれも決して対等な関係ではない。

ところが、無縁空間に逃げ込めば、その縁も切れてしまうというのだ。嫌な上司ももう上司じゃなくなる。顔も見たくないような旦那の顔を、本当に見ずに済むようになる。借金もチャラ。なんて理想的な空間。そこに行けばどんな願いもかなうというのか。おおガンダーラ。

そんな無縁空間には4つの要素がある。これはピースボートにもかかわってくることなので、しっかりと読んでほしい。

要素① 無縁

最初の要素は「無縁」だ。無縁空間なのだから当たり前といえば当たり前。

無縁、つまり、無縁空間にいる人たちはみな、世俗との縁が切れている人ばかりだ。

たとえば宿場町。宿場町を訪れる旅人は、どこの誰ともわからない人ばかり。無縁な状態である。

そして、彼らをもてなす宿場の住人もまた、無縁な人々である。彼らは農村社会からあふれ、はじき出されたものたちなのだ。

そこに住む者も、そこを訪れる者も、関わる人すべてが無縁な状態。それが一つ目の要素だ。

要素② 自由

無縁空間の住人は、出入りが自由だった。無縁空間に入るのも自由であれば、そこから逃げ出すのも自由だった。無縁空間は何者も拒まない。さらに、農民の移動が制限されていた時代でも、無縁空間の住民は移動が自由だった。

要素③ 自治

無縁空間はどこからの支配も受けない。「ここは俺たちの町だ!」という強い帰属意識のもと、自分たちの町を自分たちで治める、すなわち「自治」を行っていたのだ。

要素④ 反抗

無縁空間は何者も拒まないと書いたけど、たった一つ拒むものがある。それが、権力の介入だ。権力者が無縁空間に介入することを、無縁空間の住民は嫌った。介入しようとすれば、徹底的に反抗する。

 

無縁空間はこれら4つの要素を持っていた。そこにいても素性を問われず、出入りも自由。そして、既存の権力による支配を拒む。だからこそ、「無縁」という性質が保たれるのだ。

さて、現代人も多くの縁に縛られている。とりたてて不幸というわけではないんだけれど、見えない縁に縛られて身動きが取れない。そんな時、人はリセット願望を抱く。リセット願望を抱いた人間が、逃げ込む駆け込み寺、それこそが無縁空間である。

そして、ピースボートはまさに、現代の無縁空間なのだ。

ピースボートという無縁空間

ピースボートはまさに、現代の無縁空間である。その性質を紐解いていこう。

まず、無縁空間というのはいつも、社会のはじっこに生まれる。寺、宿場、市場、港、これらは農村を基本とした社会のはじっこに生まれるものだ。はじっこだからこそ、既存の縁が届かないのだろう。

では、ピースボートはどうかというと、船旅はまさに海の上という、現代社会のはじっこで行われる。いつの時代も海の上というのは、社会のはじっこである。

そして、ピースボートは先に挙げた4つの要素を持っている。

まず、無縁の要素。無縁空間に携わる人はすべて社会と無縁でなければならない。

つまり、無縁空間にいる間は、社会の肩書がリセットされなければならない。「〇〇会社の社長」とか「どこそこの店長」とか、「××大学ホニャララ学部1年」みたいな肩書が付きまとったのでは、無縁空間とは言えないし、リセット願望も満たされない。「肩書なんか関係ないよ」という状態になって初めてリセット願望は満たされるのだ。

そして、ピースボートはこの無縁の要素を満たす場所である。

なぜなら、ピースボートはニックネーム文化なのだ。

「ボラスタ」と呼ばれるポスター貼り出身の若者は、たいていがニックネームを持っている。ボラスタ登録後にまずニックネームをつけられる。

そして、ピースボートにいる間、基本的にニックネームでしか呼ばれない。本名を呼ばれるのは、避難訓練で点呼をとるときぐらい。

だから、船にいる間は、相手の本名を知らないまま「友達」として付き合う。

本名すらわからないのだから、その人が陸では何者なのかだなんて、本人がしゃべらない限り、まずわからない。僕の場合だと、本名も肩書も一切が無視され、単に「埼玉から来たノック」としか見られない。まさに無縁だ。

そして、このニックネーム文化は、スタッフ側にも適用される。スタッフもあだ名で呼びあい、あだ名で呼ばれる。もちろん、公式な場では本名を名乗るし、船内ではスタッフの本名が分かるようになっているのだけれど、普段の船内生活の中ではニックネームでしか呼ばれない。

まさに、関わる人すべてが、ニックネームによって無縁となるのだ。

次に自由の要素。来る者は拒まず、去る者は追わず。それが無縁の原理である。

もちろん、船旅は莫大なお金がかかるので、だれでも自由に乗れるとはいかない。だが、ピースボートにはボランティアスタッフ(ボラスタ)として活動すれば船代が割引される「ボラ割り」という制度があり、ボラ割りをためるためのボラスタになるのには、まさに来る者は拒まず、去る者は追わずなのだ。

登録に関しては、面接とか審査とか一切ない。事務所に言って名前さえ書けば、だれでもボラスタになれる。

そして、去る者は追わない。ボラスタをやめたければいつでもやめていいし、船の予約も期間内であれば簡単に取り消せる(まあ、ウイルスが蔓延して、一斉キャンセルとかになったら話は別だけど)。

実際、乗船するまでのモチベーションが保てずに、ボラスタをやめてしまった人も少なくない。

次に自治の要素。誰から支配されるのではなく、自分たちの手で場を運営してこその無縁空間だ。

よく言われるのが、「船は受け身では楽しめない」。ピースボート側から何か提供されるのを待っているのではなく、自分から積極的に参加し、行動しないと、ピースボートの船旅は楽しめない。

船の中では毎日、様々な企画が行われている。ピースボート側で用意した企画もあるが、多くは乗客の自主企画である。大規模なイベントも乗客の手で運営される。また、船内での映像の撮影や、音響、船内新聞づくりも乗客の手で行われる。

完全な自治、とはいかないまでも、自治度はかなり高い。

そして最後の要素は反抗である。無縁空間は権力の介入を許してはならない。

そりゃピースボートなんだから反権力的だろうと思ったそこのあなた、冒頭の文をもう一度読み直してほしい。ピースボートに乗る若者の多くは、政治とかそういうのに興味があるのではなく、ただ旅がしたい集団バックパッカーである。そして、その中にはリセット願望の強いものも多い。

彼らにとって介入してほしくないもの、それは政治権力ではない。「世俗の縁」だ。職場のしがらみとか、家庭のごたごたとか、友達関係の煩わしさとか、そういったものに介入されたくなくて、船に乗るのだ。

そして、船に乗れば、これらの「世俗の縁」から介入されない生活を送れる。

そもそも、物理的に届かないのだ。船に乗れば外界から完全に遮断される。海の上はWi-Fiが弱いので、家族も友達も職場も、めったに連絡が取れない。

 

こうやって見ていくと、ピースボートは強い「無縁の原理」を持つ無縁空間なのだ。そこに行けば、世俗のしがらみは断ち切られ、何者でもない自分として、約100日の間、世界を旅できる。

もちろん、カルト宗教みたいに「絶対に断ち切れます!」なんて断言することはできないけれど、少なくとも一般社会と比べれば、限りなく無縁に近い空間であるといえるだろう。

ピースボートは現代の無縁空間であり、若者が抱く「リセット願望」を生きたままかなえることができる。

だから、ピースボートに若者が集まるのだ。

「どうせお前にはわからない」

「どうせお前にはわからない」

「あんたなんかに私の何がわかる」

拒絶の常套句としてしばしばこのフレーズが使われる。

お前に私の苦しみなどわかるわけがない。

お前のような人間に俺のような境遇が理解できるわけがない。

自分の苦しみを知らないような奴が、自分と境遇の違うやつが、えらそうにアドバイスするんじゃない。

そうやって、他人のアドバイスなどを拒絶するわけだ。

だが、冷静に考えると、このフレーズは変である。

「おまえに何がわかる!」という言葉の裏には、「私の苦しみや境遇をわからない・経験していないやつに、何か言われたところで、私の悩みは解決できないんだから、黙っとれ!」という考えがあるはずだ。

ならば、同じ苦しみを経験していれば悩みを解決できるというのか。同じ境遇の人間なら悩みを解決できるというのか。

もしそうならば、その人の悩みを最も適切に解決できる人間は「その人と全く同じ苦しみを味わったことがある人」や、「その人と全く同じ境遇・経験がある人」ということになる。

だが、自分の苦しみはしょせん他人にはわからない。他人の苦しむさまを見て「苦しそうだなぁ」と思うことはあっても、他人の苦しみは他人にはわからない。

つまり、自分の苦しみを感じ取れるのは自分だけ。自分の苦しみを最もよくわかっている人間は「自分」だけなのだ。

境遇や経験についても同じことが言える。似た境遇や似た経験ならあるだろうが、「まったく同じ境遇」「まったく同じ経験」の人間は存在しない。

兄弟姉妹だったら同じ境遇や経験をしているかもしれないが、人は同じ境遇・経験でもそのとらえ方や考え方で解釈が大きく異なるので、「まったく同じ」ではない。

つまり、自分の境遇や経験を誰よりもよくわかっている人間は「自分」だけなのだ。

さて、話を「おまえに何がわかる!」というフレーズに戻そう。

「おまえに何がわかる!」という言葉の裏には、「自分の苦しみがわからない人間、自分と同じ経験・境遇ではない人間には、自分の悩みが解決できるわけがない」という考えがあるのだった。

ということは、自分の苦しみをよくわかっている人や、自分と同じ経験・境遇の人なら、自分の悩みを解決できるかもしれないということだった。

だが、自分の苦しみを最もわかっているはずの自分が、自分の経験・境遇を最もわかっているはずの自分が、自分の悩みの解決策がわからないから、人は悩む。

ということは、「おまえに何がわかる!」というお決まりのフレーズは、見当違いだった、ということになる。

その人があなたの境遇が違ったり、同じ経験を持たないからと言って、あなたの悩みを解決できない、とは限らないのだ。

僕は、悩みを相談するときは基本的に「真剣に答えてくれる人」を選ぶ。たとえその人が、その悩みを経験していなかったとしても。

逆に、経験豊富でも真剣に答えてくれない人には相談できない。

例えば恋愛相談をするとして、とてつもなく恋愛経験が豊富な人がいたとしても、面白半分で答えたり、相談者の人生を真剣に考えない人間では意味がない。ならば、恋愛経験がなくても、ちゃんと真剣に答えてくれる人に相談したいのだ。

小説 あしたてんきになぁれ 第26話「恋のち破滅、ときどき背徳」

田代と付き合い始めた志保。だが、そこには大きな障害があった。そう、「本当のことを打ち明けるべきか否か」という問題が……。志保、亜美、舞、そしてたまき……、それぞれの恋愛観が激しくぶつかり合う(?)「あしなれ」第26話スタート!


第25話「チョコレートの波浪警報」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

冬は夜の帳が降りるのが早い。

子供のころはなんだか、「早くおうちに帰りなさい」と空と街灯から諭されているような気がした。もう一日が終わるよ、楽しい時間はおしまいだよ、と。

だが、大人になると、必ずしも夜というのは一日の終わりというだけではない。ほのかなイルミネーションに彩られた町並みは、ともすれば昼間よりも美しく映える。

夜の繁華街の大きな道を、冷たい風をかき分けながら、志保は太田ビルへと向かって歩いていた。

バイト代を奮発して買ったコートとちょっと高めの靴、愛用のお気に入りのバッグ。メイクは薄めではあるが、それでも気合を入れてある。

つまりは、志保は今、デート帰りなのだ。

信号を渡り、いつもの歓楽街へと入っていく。太田ビルが近づくにつれ、「デート帰りの志保ちゃん」の顔から、「不法占拠の志保」へと戻っていく。

太田ビルに着き、コンビニのわきの階段を、息を切らせながら登っていく。

こういうところに不法占拠で住みついてることを、カレシである田代には話していない。いや、志保はもっととんでもない隠し事をしている。打ち明ける機会を逸したまま、一か月もたってしまった。

隠し事は、時に百年の恋も冷めるほどの危険性を秘めている。

そのことは、志保の心臓をいばらのように締め付けているのだが、それでもなかなか打ち明けることができない。

本当のことを知ったら、彼はどんな反応をするだろうか。自分のもとから去ってしまうんじゃないだろうか。

だが、隠し事をしたままでも、いずれ彼は去って行ってしまうかもしれない。

鞭で叩かれるのか、棒で叩かれるのか、どちらか選べ、と迫られているかのようだ。

どっちも嫌だ、と志保は先延ばししているのだが、先に延ばせば延ばすほど、その道の先には鞭か棒かの二択しかないと認めざるを得ない。

そして、鞭にしろ棒にしろ、先延ばしにすればするほど、その威力は強くなる。

なぜならきっと、先延ばしにすればするほど、志保は田代と離れがたくなるに違いないからだ。

離れがたくなればなるほど、「別れ」の傷は深くなる。

なるほど、トクラの言うとおり、それは破滅だ。

トクラはその破滅を楽しめばいい、という。恋の結末は大抵が破滅であり、破滅的で背徳的な恋ほど盛り上がるのだから、と。

人が背徳的なものに惹かれてしまう、というのは志保にも理解できる。

だが、破滅的なものに惹かれてしまう、ましてや、破滅を楽しめなんて、到底納得できない。

破滅したい人なんているわけがないし、ましてや、それを楽しめるはずがない。

 

息を切らせながら、5階にある「城」という名前の、キャバクラ跡地に入る。中にはソファーとイスが営業当時のまま残されているが、いまはそこに小型のテレビとか、ぬいぐるみとか、生活感あふれるものが置いてある。ゴミ捨て場で拾ってきたビデオデッキまである。

「ただいまぁ」

「おかえりー」

亜美が携帯電話の画面をのぞき込みながら言った。たまきは寝ているのか、ソファの上で丸くなって寝っ転がっている。

テーブルの上には、二人分のカップラーメン。時刻はもうすでに、夜の九時半を過ぎていた。

志保が田代と付き合うようになって以来、志保の帰りが遅くなることが増え、その分、亜美とたまきが夕飯をカップ麺やお弁当、ファーストフードですませることも多くなった。志保は申し訳なさを感じていたが、亜美は

「お前はうちの料理担当だけど、家政婦ってわけじゃねぇからな。ま、ウチらのことは気にせず、楽しんでこいや」

と言い、たまきはそもそも、食事なんて食べれればなんでもいいという感じだ。

「お風呂は?」

「いや、まだだ。お前もまだだろ? 十時半ぐらいになったら行こうぜ」

「城」にはさすがに風呂はないので、三人は近くの銭湯を利用している。二十四時間営業しているので、お金さえ払えば、いつでも入れる。もっとも冬場は、湯上りで夜の街を歩くのがちょっとした苦行なので、夕方のうちに入ることも多い。

「たまきちゃん寝てるんじゃない?」

「ん? 起こせばいいだろ」

志保はコートを脱ぎ、カバンをおろしソファに座り込んだ。

「あのさ……」

「ん?」

志保の問いかけに、亜美が返事をする。

「この前の話の続きなんだけどさ……」

「どの話だよ」

「……あたしがユウタさんに、ほんとのこと隠してるって話」

「誰だよ、ユウタって」

亜美はそんな名前、今初めて聞いたようだ。

「田代さんのこと」

「ああ、ヤサオのカレシか。アイツ、そんな名前だったのか」

亜美は携帯電話を閉じ、机の上に置いた。

「……やめようぜ。たまきが寝てる時にケンカしたら、なんか収まる気がしねぇよ」

「いや、そういうんじゃなくてね……」

志保はこの時になって、初めて亜美の方を向いた。

「付き合って一か月くらいになるんだけどさ、その、まだ言えてなくて……」

志保は胸元まで伸びた長い髪をいじりながら言った。

「わかってる……隠し事は良くないって……。でも、ほんとのこと言ったら、何もかも終わっちゃう気がして……」

「ま、フツーは別れるよなぁ」

亜美はあえて他人事のように言った。

「亜美ちゃんだったらどうする? 彼氏に言えないことがあって、でも言わなきゃって時、亜美ちゃんならどうする?」

志保は何かに縋るように亜美を見た。

「隠し事の内容によるなぁ」

亜美は志保の方を向くことなく答えた。

「知られると何となく恥ずかしいとか、そういうタイプの隠し事だったら、言いたくないなら言わなくてもいいと思うし」

「でも、あたしの場合は……」

「まあ、全然違うわな」

亜美は相変わらず、志保を見ない。

「ばれたら確実に驚かれる、ほぼ確実に別れる、ってタイプのやつだろ」

「うん……」

志保は現実から目をそらすように、亜美から視線を外す。

「……ウチだったら言うな」

「そうなんだ……」

「だってさ、どうせ別れるんなら、あとくされない方がいいだろ。隠し続けてバレたら、そのぶん、面倒なことになるだろ」

「うん……」

志保にしては珍しく、亜美の話に素直にうなづいている。

「だったら早い方がいいだろ」

「でもさ…、言ったら、別れるかもしれないんだよ?」。

「んー、そうだな」

「だったらさ、なるべく隠し通してさ、その、少しでも長続きするようにした方が……」

そう言いながら志保は、自分がこの前とは逆のことを言っているような気がした。

「だってさ……バレたら……その……破滅じゃない」

「なんだよ。破滅はヤなのかよ」

この時になって、亜美は初めて志保の方を向いた。

「……当たり前でしょ」

「あのさ、志保。どんな恋愛だって、いつかは必ず終わるんだぜ」

なんだか、この前もそんな話を聞いたような気がする。

「つーことはさ、今別れるのも、来年別れるのも、結婚して何十年かたって死に別れるのも、結局は一緒じゃんか」

「……一緒じゃないでしょ」

「一緒だよ一緒。要はさ、なんでそんな終わることビビってんだ? って話なわけよ」

そう言うと、亜美は煙草を一本取りだした。

「おい、吸っていいか?」

「……どうぞ」

亜美は慣れた手つきでタバコに火をつける。

「例えばさ、からあげがあるだろ? どんなにうまいからあげも、食べればなくなるんだよ。山盛りのからあげでもさ、食べ続ければなくなるんだよ。そんなの当たり前じゃん。からあげ食べながらさ、からあげがなくなるのやだっていう奴いないだろ? からあげがなくなることなんか、考えもしないで食ってるだろ?」

「……その例え話、よくわかんないんだけど」

「だからさ、オトコも一緒だよ。どうせいつか別れるんだよ。なのになんで別れることビビってんのかな? もっと今を、この瞬間を楽しめばいいじゃねぇか」

終わりが来ることを恐れずに今を楽しめ、という意味ではトクラの意見と一緒だ。だが、一方で亜美の意見とトクラの意見は正反対でもある。

トクラは、なるべく終わらないようにして長く楽しめと言う。

亜美は、いつ終わるのも一緒だからとっとと終わらせろという。

どちらが正しいのか、志保にはわからない。どっちも間違ってるのかもしれない。

でもたった一つ、はっきりと言えることがあった。

「あたし、終わらせるつもりないから……。別れるつもりないから……」

志保はソファの上に置いてあるクマのぬいぐるみを手に取ると、ぎゅっと抱きしめる。

「お前にそのつもりがなくても、クスリのこと話したら、別れることになると思うぞ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと黙ってるののか? それでバレたら、修羅場だぜ。百パー別れることになるだろうよ」

「イヤ……!」

「じゃあ、ずっと隠し通す気か? 隠し通せると思ってんのか?」

亜美は問い詰めるように志保を見る。

「……隠し通せるとは思ってないし、何より……隠し事はしたくない……」

「じゃあ、答えは決まりだろ。覚悟決めて、とっととホントのことを話すしかねぇだろ。まだ付き合って一か月だろ? 今言えば、ヤサオも理解してくれるかもしんねぇぞ。確率は低いけどな。でも、延ばせば延ばすほど、その確率はもっと低くなるぞ。お前、ウチより頭いいんだから、それくらいわかるだろ?」

「……うん」

志保はどこか納得できないようにうなづいた。

「でもさ……」

「でもなんだよ?」

亜美は少しうんざりした口調だ。

「ほんとのこと言ったら別れるかもしれないでしょ……」

志保はクマのぬいぐるみを抱きしめる腕に力を入れる。ぬいぐるみのクマは、少し苦しそうにゆがむ。

「そりゃそうだろ」

「それはイヤ……」

「じゃあどうすんだよ!!」

苛立った亜美は志保の胸からクマのぬいぐるみを強引に奪い取り、壁に向って投げつけた。ドンという鈍い音は、なんだかぬいぐるみがあげた悲鳴のようにも、志保の悲鳴のようにも聞こえた。

志保は立ち上がると、床に転がったクマを拾う。

「わかんないから聞いてるんでしょ!」

「お前、ウチが言ったこと全否定じゃねぇかよ! あれもいや、これもいや。じゃあこうするしかねぇだろって言っても、それもいや。話になんねぇよ!」

志保はクマのぬいぐるみを拾うと、再び胸の前でしっかりと抱きとめ、少し涙でにじんで目で亜美を見た。それを見た亜美はため息をつく。

「……きつい言い方したのは謝るよ。でも、ウチ、間違ったこと言ってっか?」

その時、亜美の視界の端で何かが動いた。亜美の視線がそちらに向き、それを見た志保も同じ方向を向く。

二枚のタオルケットにくるまって寝ていたはずのたまきが、いつの間にかメガネをかけてこちらを見ていた。

「ごめんね、たまきちゃん。起こしちゃった?」

「……いえ」

たまきは少し視線を下に泳がせていたが、やがて志保の方を見た。

「あの……」

「なに? どうしたの?」

「その……」

たまきが何か言いかけたとき、

「やめ! この話はもうやめ! もうラチあかねぇよ。たまきも起きたことだし、風呂入りに行こうぜ」

「……そうだね」

志保は寂しげにそう言うと、たまきの方を向いて

「たまきちゃん、気にしなくていいからね。ちょっと恋愛相談に乗ってもらってただけだから」

と、わざと優しく微笑んだ。

たまきはやっぱりなにか言いたげに下を見ていたが、志保はそれに気づくことなく、気持ちを切り替え、銭湯に行く準備を始めた。

 

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そうこうしているうちに、暦は3月に入った。まだまだ冬の寒さは残っているが、それも日に日にあたたかくなっている。もうひと月もすれば上着を羽織ることもなくなるし、この公園も桜色に染め上げられる。

日付は三月三日のひな祭り。いつものごとく階段に腰掛けるミチとたまきは、ひな壇に構えるお内裏様とお雛様のようにも見える。

とはいえ、それは二人仲がよさそうだから、という意味ではない。たがいに目を合わすことなく、会話もなく、正面を向いているさまが、ただ人形を置いただけのようにも見える、という話だ。

だが、この日のミチは時折、たまきの方をちらりちらりと見ていた。

やがて、しびれを切らしたように口を開く。

「俺、このまえ誕生日だったんだよねぇ」

それを聞いたたまきは、ふうっとため息を一つはいた。

「……知ってます。四日前ですよね」

「なんだ。俺の誕生日がいつか、ちゃんとわかってんじゃん」

そりゃここ半月ほど、会うたびに「俺、そろそろ誕生日なんだよねー」と言われ続ければ、いやでも意識せざるを得ない。さらにそれが日に日に「来週誕生日なんだよねー」「五日後」「三日後」とカウントダウンまでされれば、さすがのたまきでもミチの誕生日がいつなのか見当がつく。

だから、誕生日当日は、公園にはいかなかった。ミチは「城」と同じビルのラーメン屋でバイトしているので、うっかり出くわさないように、その日のたまきは完全に引きこもった。もともと、ひきこもることに定評のあるたまきだ。「今日は絶対に外に出ない」と決めたら、その徹底ぶりは完璧だ。

さらに念には念を入れて、その後三日も公園で絵を描くことを控えた。

そして今日、さすがに誕生日から四日もたっていればもうそのことを話題にしないだろう、と思って公園に来たのだが、どうやらたまきの認識が甘かったようだ。

「たまきちゃん、プレゼントは?」

ミチがニコニコしながらたまきに尋ねた。

「……ありません」

たまきはミチを見ることなく答える。

「でも、バレンタインの時はチョコくれたじゃん。俺、知ってるぜ。なんだかんだ言ってたまきちゃんはちゃんとプレゼントくれる子だって」

たまきはそこでもう一つ深くため息をつくと、志保と亜美の言葉を思い出した。

『ダメだよ、そんな簡単に男の子に押し切られちゃ!』

『だいたいお前は、そういうチョロいところあるからな。いやだいやだ言いながらも、押し切られれば何となく従っちゃうところが』

たまき本人は認めたくないのだが、亜美と志保に言わせるとたまきは「警戒心が強い割に、実は押し切っちゃえばチョロい女」らしい。

そして、どうやらミチもたまきのことを「押し切っちゃえばチョロい女」だと思っているようだ。

「俺、知ってるぜ。たまきちゃんはなんだかんだいってちゃんとプレゼント考えてくれてるって」

ミチがニコニコを通り越してにやにやしながら言った。

「私……考えたんですけど……」

「うん、なになに?」

「……私がミチ君にプレゼントする理由がないんですけど」

そこで初めて、たまきはミチの方を見た。

「え?」

ミチとしては想定外の回答だったらしい。

「誕生日プレゼントをあげる理由がないのに、プレゼントをあげなきゃいけないなんて、おかしいですよね? おかしくないですか?」

仙人曰く、誕生日はその人と出会えたことを感謝する日だという。

だが、たまきはこの男と出会えてよかったなんて、ちっとも思えない。

「いやいや、理由がないってことないでしょ~」

ミチはわざとおどけたような笑顔で言った。

「ほら、俺、いつもたまきちゃんと仲良くしてるし」

「……私だって、これでもミチ君と仲良くしてるつもりです」

そう言いつつも、たまきの視線はまたミチを外れ、正面を向いている。

「仲良くしてるからって、私ばっかりミチ君になにかあげるのって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「まって! ちょっと待って!」

ミチはたまきの言葉を片手で制した。

「俺、たまきちゃんの誕生日祝ったじゃん!」

「そうですね」

たまきはまたしてもミチを見ることなく答えた。

「そうだろ? だから、俺ばっかりなにかあげてるって言い分はおかしくない?」

「私、あの後、ミチ君のことかばって、嫌な思いしました」

二人の間に、三月にしては少し冷たい風が吹いた。

「私の誕生日の件は、あれでチャラになったと思います。むしろ、マイナスです」

「いや、でもその後、うちに来て飯食ったじゃん! あれ、うちのおごりだぜ?」

「あれでプラスマイナスゼロです」

たまきは絵を描く作業をやめる気配がない。

「それに、あのあと私、ミチ君にチョコあげてます。そのお返し、まだもらってません。なのにまた私がなにかあげるって、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「いや……でも……」

ミチは何かを必死に探すように空を見上げる。

「でも……ほら……たまきちゃん、俺の歌が好きだって言ってたじゃん」

「今は嫌いになりました」

そこでたまきは、再びミチの方を向いた。

「そもそもあなたのことも嫌いです」

そう言うとたまきは立ち上がった。

「私、帰ります」

たまきはスケッチブックをリュックにしまうと、そのままミチを見ることなくすたすたと階段を上って行ってしまった。

後にはギターを抱えたミチが残されていた。もはや、風の吹く気配もない。

 

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「お前、まだ言ってないの?」

手にした包帯の束を伸ばしながら、舞があきれたように言った。

志保とたまきが二人でいるときに、たまきが何週間ぶりかのリストカットをしたので舞が「城」へと呼び出された。「城」に舞の自腹で置かれた救急箱を使って、たまきの傷を処置していく。

そのさなか、志保が舞に、亜美にしたのと同じ相談を持ち掛けたのだ。

「はい……すいません……」

「やれやれ……オトコができたと聞いてたから、どうなるもんかと心配してたらこれだよ……」

舞はため息をつきながら、たまきの右手首に包帯をぐるぐると巻いていく。

たまきは、黙って志保の方を見ていた。

「それで……、先生はどう思いますか……。その……クスリのこと……ちゃんと言った方がいいでしょうか……」

「まず、言うべきか言わないべきかの二択、っつーのが間違ってる」

舞はきっぱりと言い放った。

「正直に言う以外に選択肢はない。言いづらいのや言いたくないのはわかる。でも、言うべきか言わないべきかじゃない。言うしかないんだよ」

舞はたまきの手首の包帯をきつく結び付けると、まっすぐに志保を見た。

「それがお前の果たすべき責任だ」

「でも……その……クスリのこと言ったら、カレはあたしから離れて行っちゃうんじゃ……」

なんだか、毎回同じようなことを言っている気もする。

「そんなの仕方ねぇだろ」

舞は少し呆れるように言った。

「お前が今日まで頑張ってきたのは知ってるからこういう言い方したくはないんだけどさ、自業自得ってやつだよ」

「そうですよね……」

志保はそう言って下を向いたが、やはりどこか納得していないようだ。

「でも……あたし……絶対に別れたくないんです……」

「そもそも、クスリのこと、まだまだ問題は山積みなのに、オトコを作る方が悪い」

舞は犯人に詰め寄る刑事みたいな口調で言った。

「一生オトコを作るなとは言わない。だがな、そういうイロコイは、ちゃんと自分に向き合えるようになってからしろ。何もかも中途半端な状態でオトコ作って、別れたくないなんて、そんなん通るわけねぇだろ」

舞は救急箱を片付けながら言い放った。

「いいか、人として未熟な奴が形だけの幸せを手にしたところで、いつか必ずそのしわ寄せが来るからな。それはお前に来るかもしれないし、相手の男にかもしれないし、周りの人間かもしれない。下手したら、将来生まれてくるお前の子どもにしわ寄せがいく、なんてこともあるかもな」

志保はなんだか、激流に流される人が藁を必死につかむかのように、スカートのすそを握りしめていた。

「そうですよね……。あたしにカレシ作る資格なんてないですよね……」

それを見ていた舞は、額に手を当てる。

「あー、悪い。ちょっと言い方きつかったな。いや、お前ぐらいの年の子がカレシ作りたがるのはわかるよ。ああ、痛いほどわかるさ。だけど、お前は今そういうことする状況ではないよな、って話よ。わかるだろ。カレシ作る資格がないんじゃない。カレシ作る状況じゃないって話だよ」

志保は仏さまがクモの糸を垂らしてくれたかのように、舞の方を見た。

「恋人の存在が薬物依存に立ち向かう力になるってことも、無きにしも非ずだからな。恋をするなとは言わん。だけど、それは相手に理解があってこそだ。クスリのこと聞いた途端にしっぽ撒いて逃げ出すような男と付き合っても、ロクなことにならねぇぞ」

「それは……わかってるんですけど……」

「その、ユウタだっけ、そいつがお前をちゃんと支えてくれる男かどうかを確かめるには、言うしかないんじゃないの?」

「でも……言ったら別れることになるんじゃ……」

「だから、そこで理解してくれないような男と無理して一緒にいても、絶対ハッピーエンドになんてならねぇって」

「でも……」

その後に続く言葉が、舞には予想できた。

「って言うかお前、ここ最近、ずっとそれで悩んでたのか? それで深刻そうな顔してたのか?」

「え? あたし、そんな悩んでる様に見えました?」

さっきまで思いつめたような顔をしていた志保だが、舞の言葉が意外だったのか、少し表情が和らいだ。

「たまきがリスカしたっていうから来てみたら、玄関にいたお前があんまりにも深刻そうな顔してるから、たまきじゃなくて志保がリスカしたのかと思ったくらいだ」

「そうですか……」

志保は再び、それこそ深刻そうにうつむいた。

舞の隣に座っていたたまきは、新しく巻いてもらった右手首の包帯をさすりながらも、切なげに志保を見つめていた。

 

2対1。田代にクスリのことを言うべきか言わないかで人に聞いてみた結果、3人に聞いて二人が「言うべき」、一人が「言わなくていい」。今のところ、2対1で「言うべき派」の勝ち越しだ。

この点差ならまだまだわからない。次の1点が「言わない派」に入れば、2対2の同点である。

でも、そんなに人の意見ばかり集めていったい自分はどうするつもりなのだろうか。舞が帰った後の「城」で、志保はひとりひざを抱えて考え込む。

「言わなくてもいいよ」という一言を誰かに言ってほしいだけなんじゃないだろうか。

そう考えると、トクラの答えが一番志保が望む形に近いと思うのだが、トクラは「どうせいつか破滅するんだから、すぐに言わなくていいよ」という考え方である。そこが志保の求める答えとは違う。

クスリのことは「言わなくていい」、でもこの恋は「きっと結ばれる」、そんな都合のいいことを言ってくれる人を探しているのだ。

でも、いつまでこんなことを続けるんだろう……。

 

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「あの……」というたまきの呼びかけで、志保は我に返った。

「ん……どうかしたの、たまきちゃん」

反射的に、志保は笑顔と作って答えた。

たまきはソファの上に寝ころんでいた。うつぶせになって志保にお尻を向け、頭からはすっぽりとタオルケットをかぶっている。

「……舞先生も言ってましたけど、最近、志保さん、すごく悩んでいるように見えます……」

「そ、そう? そう見える? そうなんだ、あははは……。大丈夫だよ。大したことないから、心配いらな……」

「そんなわけないです」

たまきは姿勢を変えることなく言った。

「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……。なんだかこのまま、遠くに行ってしまいそうな気がして……怖いです……」

「……そう」

部屋の中は蛍光灯で照らされていいるにもかかわらず、壁から染み出したうすい靄のような影が、じわじわと二人の周りを覆って、闇を作り出しているかのようだった。

しばらく静寂が続いた後、たまきが口を開いた。

「……どうして、私には何も聞いてくれないんですか?」

「え?」

「亜美さんにも、舞先生にも、カレシさんのこと聞いてましたよね。私だって、志保さんが悩んでるなら力になりたいです。でも、どうして私には何も聞いてくれないんですか。」

靄のような影が、たまきの周りにまとわりつく。

「……私に恋愛のこと聞いたって、どうせわかるわけない、そんな風に思ってるんですか?」

「そんなこと……!」

思うはずがない、志保はそう言おうとしたが、言葉が続かなかった。

たまきに恋愛のことを相談してもわかるわけがない、と志保が明確に思っていたわけではない。

それでも、亜美にも舞にも、そしてトクラにもした相談を、たまきにはしなかった。そんな選択肢を思いつきもしなかった。

無意識のうちに「たまきに相談する」という選択肢を外していたのだ。つまり、心のどこかで「たまきに聞いたってわかるわけがない」と、知らず知らずのうちに思ってしまっていたのだ。

「確かに……私は恋愛とかカレシとか、そういうのには疎いのかもしれません……」

たまきは相変わらず、頭からすっぽりとタオルケットをかぶったままだ。なんだか、床に無造作に投げ置かれた雑巾のようにも見える。

「でも……ちゃんと見てますよ。志保さんのことも、亜美さんのことも、ミチ君のことも……」

「うん……」

志保の頭の中に、先ほどたまきが言った「最近の志保さんは、出会ったころと同じような目をしてます……」という言葉が響いた。

「たまきちゃん、あたし、どうしたらいいと思う?」

「……志保さんは、『カレシさんに言わなくていいよ』って言って欲しいんですよね」

たまきの言葉に志保は驚きつつも、無言でうなづいた。たまきはそれを見ていないが、空気から察したかのように、言葉をつづけた。

「でも……、私は、ちゃんと言わなきゃいけないって思います」

「うん……わかってる……」

そう、最初からわかっていたのだ。そんなの、人に聞かなくたって最初からわかっていたのだ。「すべてを打ち明けなければいけない」と。

「でも……あたし、ユウタさんと別れたくない……」

何度目だろう、このセリフを言うのは。

「……わかってます」

たまきは静かに告げた。そして、こう続けた。

「でも、それは志保さんのわがままです」

「……わが……まま?」

「はい。クスリのことを知って、志保さんと別れるかどうするかを決めるのは、志保さんじゃなくて、田代って人です。でも、このまま何も言わなったら、何も知らなかったら、田代って人はそれを悩むこともできないんです。それに、言うのがおそくなったり、あとからほかの人に知らされたりすれば、田代って人は余計に傷つくと思います」

たまきはタオルケットをすっぽりとかぶったままだ。だから、志保からたまきの表情をうかがい知ることはできない。

「私には、『人を好きになる』っていうことがどういうことなのか、まだわかりません。でも、もしそれが、自分より相手の方が大切だっていう想いなのだとしたら、どうして相手の人の幸せを一番に考えないんですか? 相手の人の幸せを一番に考えなきゃいけないのに、自分が嫌だから言いたくないとか、自分が嫌だから別れたくないとか、それっておかしいですよね。おかしくないですか?」

そこでたまきはようやく起き上がると、志保の方を向いた。メガネをかけていないその顔は、いつもより少し大人に見えた。

「それとも志保さんは、田代って人より、自分のこと方が好きなんですか?」

そんなことない。志保はそう言い切りたかったが、またしても言葉が出なかった。

志保は、これまでのトクラや亜美、舞との会話を思い返す。

そして気づく。いつだって主語は「あたし」だったということに。

あたしは、言いたくない。

あたしは、別れたくない。

あたしは、あたしは、あたしは。

「志保さんが田代って人にクスリのことを話して、お別れすることになったとしても、田代って人にとってそれが一番幸せなことなら、それは仕方ないことなんだと思います。志保さんにとってそれはつらいことかもしれませんけど……」

そこでたまきは一度、言葉を切った。そして、今までで一番強い口調で続けた。

「……でも、志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!」

そこまで言うとたまきは急に恥ずかしそうに下を向いた。

「……なんかすいません、私なんかがえらそうに……」

「ううん。大丈夫。ありがとう」

志保は何かを観念したかのように息をついた。

三対一。でも、最後の一点は他のどの一点よりも強く、そして、温かかった。

 

歓楽街のちょうどど真ん中に、小さな神社がある。弁天様を祀っているらしく、その周辺はちょっとした空地になっている。

亜美たちは知る由もないが、はるか昔、この歓楽街には川が流れていた。その川も埋め立てられ、今では多くのお店が立ち並び、ホストの看板で彩られ、バスが走っている。水のカミサマである弁天様は、この街にかつて川があったころの名残だ。

その空地の一角で、志保は田代を待っていた。鼓動がいつもよりも早く、そして力強く、それこそ濁流のように血流を押し流す。

少し離れたところで、亜美とたまきが志保の様子を見ていた。たまきは黒いニット帽を、亜美はピンクのニット帽をかぶっている。

亜美は

「ウチら、その辺に隠れてようか?」

と提案したが志保は首を横に振った。

「ううん、近くにいて。二人にも聞いててほしいの」

やがて、路地の奥から田代が姿を現した。バイトの帰りらしく、ラフなジャンパー姿に、リュックを背負っている。

田代は志保を見つけると笑顔で手を挙げた。志保も軽く手を挙げるが、その顔に笑顔はなかった。

「どうしたの、話って」

田代は勤めて笑顔だったが、やはりこれからの会話にどこか不安を感じているかのようだった。

志保は一度大きく息を吸った。頭の中でたまきの言葉を思い出す。

『志保さんが田代って人のことを自分より好きだと思っているなら、田代って人が幸せになることが、結局は志保さんを幸せにすることなんだと思います……!』

志保は息を吐いた。三月の空気はまだまだ冷たく、志保の吐息を白く変える。

やがて吐息は空に消えたけど、志保の中にある煙のようなさみしさは消えることはなかった。

それでも、志保は話を切り出した。

「……お別れを言いに来たんです」

それが、志保の出した答えだった。

つづく


次回 第27話「ラプンツェルの破滅警報」

志保ちゃんの過去編です。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

リア充だと確認しないと気が済まない

新型コロナウイルスの影響で、緊急事態宣言が出て、外出自粛要請が出て、半月近くがたった。

都心はすっかり人がいなくなった。正月だってそこそこの数の人がいたのに。

一方で、神奈川の湘南・江の島は、なぜか大勢の観光客でにぎわい、地元の人たちは戦々恐々としているらしい。どうも、神奈川県外からの観光客が多いという噂。

……それにしても、なぜ江の島? 九十九里浜や高尾山じゃダメなのか?

調べてみると、九十九里浜や高尾山に行く人もいるにはいるみたいだが、江の島ほど問題にはなっていない。

なぜ湘南? なぜ江の島?

そもそも、なぜそんなに外出したいんだろう? これほどネット技術が発達した現代、家で引きこもって遊ぶ方法なんていくらでもあるのに(それも、外出するよりはるかに安上がり)。オンライン飲み会なんておもしろいじゃないか。

家にずっといるのがストレスだというなら、歩いて行ける川や公園にでも行けばいい。散歩は自粛を求められていないし、いい運動になる。なのになぜ、わざわざ県外から車に乗って湘南・江の島に行くのか。

ここで一つの仮説を提示したい。

彼らは外出したいのではない。遠出がしたいのではない。旅行がしたいのではない。

「自分はリア充である」と確かめたいだけなのではないか。

なぜ、ずっと引きこもってられないのか。

なぜ、近所の川や公園では満足できないのか。

それでは自分が「リア充である」と確かめられないからだ。

だからわざわざ、家族や友達、恋人と連れ立って、湘南や江ノ島に行って、観光したりサーフィンしたりおいしいモノ食べたり写真撮ったりするのだ。湘南・江の島エリア。関東地方でこれほどリア充のにおいがするスポットがあるだろうか。

……と書くと、なんだか唐突な気もする。なんでいきなりリア充の話やねん、と。

だけど、「人は自分がリア充だと確かめないと生きていけない」というのは、僕にとっては唐突でも何でもなく、数年前から考えていたことだ。

なぜ、あちこちでいろんなイベントが開かれているのか。

なぜ、わざわざお金や時間を費やしてまで、イベントやパーティに参加するのか。

なぜ、自撮り写真や集合写真を撮るのか。

なぜ、自撮り写真や集合写真、食べたランチやディナーの写真をSNSにアップしたくなるのか。

なぜ、他人に「自分はリア充である」とアピールしたくなるのか。

その答えはただ一つ!

彼らは、他人に向かって「私はリア充です」とアピールしているのではない。

自分に向かって「私はリア充なんだ。私はリア充なんだ」と確かめて、言い聞かせているからだ。

どういうわけか人は、自分はリア充であると、自分自身に言い聞かせ、確認しないと気が済まないらしい。

へたしたら、「なぜ友達を作るのか」「なぜ恋人を作るのか」「なぜ結婚するのか」「なぜ家を買うのか」「なぜ車を買うのか」なんて言うことも実は、「自分でそう望んだから」ではなく、「自分はリア充だと確かめたいから」なのかもしれない。少なくとも、「友達を作る」「カレシ・カノジョを作る」というときの「作る」という表現に僕は違和感を感じる。人はプラモじゃねぇぞ。

人は、自分がリア充だと確かめないと気が済まない。自分がリア充ではないという現実に耐えられない。

だから、家でじっとしていることに耐えられない。誰とも会わず、どこにも行かず、週末を家でじっとして過ごす。こんなリア充からかけ離れた生活には耐えられないのだ。

というわけで、人は湘南や江ノ島に殺到するんじゃないか。その根底には「人は自分がリア充であると確かめないと気が済まない」という、どうしようもない性が隠れているのではないか。

あくまでも個人の見解、仮説です。