さらば愛しのRADIO

先月、僕が13年間聴き続けたラジオ番組が終了した。その番組に対する思いをつづるとともに、「ラジオ」という電波空間に現れた不思議な「場」について考えていこう。テレビが廃れてネットが優勢の現代において、リスナーの日常の一部であり、さまざまな点を線で結ぶラジオの魅力を語りたい。

僕とラジオの出会い

2004年、高校1年の夏。当時はアテネオリンピックの真っ最中で、世間では日本の柔道の躍進が話題だった。

その日、普通に勉強してもつまらないと、僕は勉強しながらラジオを聞くことを思い立った。祖父母からもらったラジオで初めて、地元埼玉のFM局NACK5にチューニングを合わせた。

その日の夜の番組では「柔道で反則になることを考えよう」というお題ではがきやFAXを募集していた。当時はまだメールよりもはがきやFAXが全盛の時代だった。

番組ではお題に対して「畳を持って帰る」や、「自分はまだ半人前だからと、2人で戦う」といった、明らかなボケ回答ばかりが寄せられていた。いわゆる、大喜利のような企画がメインの番組だったのだ。

それまで、ラジオというのは日常の些細な小ネタを集めて紹介するものだとばかり思っていた僕は、「ネタを送っていい番組があるのか!」と衝撃を受けた。

翌日、またラジオをつけてみると、しゃべっている人は変わっていたものの、同じ番組をやっていた。

当時、世間ではハンマーを80m投げる室伏広治が注目を集めていた。

その日のお題は「びっくり人間ショーで視聴率が跳ね上がったびっくり人間を考えよう」。

そこで「室伏を80m投げる男」というボケが読まれ、ゲラゲラ笑いながら僕は、「この番組、面白い!」と衝撃を受けた。

それが僕とラジオ、そして、「The nutty radio show 鬼玉」という番組との出会いだった。

あれから毎日、当たり前のように番組を聞き続けて13年。そしてつい先月、この番組は長い歴史に幕を下ろした。

鬼玉、そして、おに魂の概要

The nutty radio show 鬼玉は2003年の4月に始まった。月・水曜日をバカボン鬼塚、火・木曜日を玉川美沙が担当していたので「鬼玉」。「マル決」というネタ募集のコーナーを軸に、全体的にリスナーからネタやボケを募集する番組だ。

この番組の最初の転機は2010年の秋。玉川美沙の産休にともなく降板によりパーソナリティの入れ替えがあり、番組名も「鬼玉」から「おに魂」となった(読み方はいっしょ)。

放送時間は月曜日から木曜日の夜8時半から11時15分まで。その後放送時間は何度か変わり、現在の8時から3時間というスタイルに落ち着いた。

その後、2013年に10周年を迎えるに当たり二度目の大リニューアル。その後も似合いほどパーソナリティの変更があったが、基本はめったやたらにパーソナリティを変える番組ではない。だいたいが産休だの、別の番組に異動だのの影響だ。現在は曜日ごとにパーソナリティが変わる8人体制だ。

14年の歴史の中では様々なことがあった。デビュー当時にコーナーで2年間レギュラー出演していた植村花菜はその後「トイレの神様」で社会現象を巻き起こした。のちに、子供を連れてゲスト出演していた時は「実家か!」とラジオの前で突っ込んだ。

2010年から火曜日を担当していた福田萌は、番組担当期間中にオリエンタルラジオの中田さんと結婚。記者会見後おに魂と中継をつないでいた。彼女は産休に入るまで2年9か月担当していた。

2010年から水曜日を担当している古坂大魔王は、2016年の春に行われたおに魂のイベントで、豹柄に身を包んだ男がテクノに乗せておかしな歌を歌う、という芸を披露した。

イベントに参加した僕は「くだらないけど面白いなぁ」とゲラゲラ笑っていたのを覚えている。

それから数か月後、その歌「PPAP」をyou tubeにアップしたピコ太郎及び古坂大魔王はあれよあれよという間に世界的スターになってしまった。おに魂水曜日もピコ太郎裏話から入るのが恒例となった。

14年の歴史の中では天変地異も起こる。2011年に起きた東日本大震災の影響で、当時テレビもラジオもすべて自粛モード。テレビはニュースばっかりで、ラジオも固い番組ばかり。いい加減、気が滅入ってきていた。

震災から3日後、震災後初のおに魂が放送された。冒頭でバカボン鬼塚は、「散々話し合った結果、こんな時だからこそ、いつも通りの放送をしようということになりました」と話した。

そこからは笑いっぱなしの3時間だった。本当に救われた。そう思ったのは僕だけではなかったらしく、最終回にはこのことに触れて感謝を述べるメールが読まれていた。特に、「福島から避難する車中で聞いて、3時間ゲラゲラ笑った」というメールが印象的だった。

世界を救うのは愛でも涙でも正義でもない、笑いである。

そんなラジオを僕は、2年目から13年間聴き続けられた。地元にこんな番組があったのは、本当に誇らしいし、幸運だと思う。

つまらない受験勉強の最中も聞いていた。

大学から帰る電車の中でも聴いていた。

くそつまらない会社に就職した時も、実は勤務中にこっそり聞いていた。

仕事を辞めてやることがなかった1年間も聞いていた。

ピースボートのポスターを貼って大宮に帰る電車の中でも聴いていた。

地球一周の旅から帰って真っ先に確認したのは「おに魂はまだ続いているか」「パーソナリティは変わっていないか」だった。

フリーライターとなってからの1年間も聞いていた。

鬼玉とおに魂は僕の青春であり、生活の一部であった。

だが、もう一方で残酷な現実も理解していた。人間が作るものである以上、いつか必ず終わる、ということを。

おに魂最後の2か月

その「いつか」がついに訪れた。

2017年1月末の火曜日、14年間番組を引っ張ってきたバカボン鬼塚の口から「2003年に始まりましたこの……」と語られた瞬間に、もうおに魂が終わることを理解した。

ただ、終わることには理由があった。

普通は番組が終わるということはつまらなくなったから、いわゆる打ち切りである。

だが、おに魂が終わる理由は打ち切りではなかった。

バカボン鬼塚がプライベートの事情で、活動拠点を実家のある静岡に移すことになったのだ。

そうなると、平日夜の関東での生放送は厳しい。それで、バカボン鬼塚の方からおに魂からの卒業を申し出たのだった。

おに魂の鬼も玉もいなくなる以上、「おにたま」という看板も下ろさざるを得ない。それが、番組終了の理由だった。

決して打ち切りではない証拠に、新番組はなんと、バカボン鬼塚とその相方、かかしのきっくんの担当していた火曜日以外は、現行メンバーのまま新番組に移行することが発表された。

つまり、新番組とはいえ、パーソナリティは75%一緒、ということだ。終了ではなくリニューアルという見方もできる。しかし、「おにたま」という看板がなくなることに多くのリスナーは寂しさを覚えた。

その後の2か月はすごかった。

2か月に一度、ラジオ聴衆率調査期間に行われていた「おに魂感謝祭」も、2月に「最後の感謝祭」と銘打って行われ、多くのリスナーを笑わせた。

3月にはさいたまスーパーアリーナのイベントスペースに500人を招待した、最後のイベントが行われた。なお、この様子はラジオとツイキャスで生中継された。おに魂のパーソナリティが8人全員そろった初めての場だった。

最終週もリスナーを死ぬんじゃないかってくらいゲラゲラ笑わせた。火曜日には放送の裏で、かつて水曜日を担当していた吉木りさがスタジオを訪問していたことが彼女のツイッターで明かされた。

最後の木曜日には、ツイッターに「#おに魂今までありがとう」というハッシュタグのもと、多くのツイートが投稿された。

木曜日の最後の5分には、8人のパーソナリティが全員そろった。世界的に今大人気の古坂大魔王や、乃木坂46のメンバーで1月に選抜入りした斉藤優里など、よく時間があったなと驚いたが、最後の5分に全員駆けつけ、さらに過去のパーソナリティも勝手に駆けつけ、わちゃわちゃしたまま「おに魂最高!」と叫んで14年の歴史に幕を閉じた。

番組終了後もおに魂に感謝を伝えるツイートがやまなかった。「おに魂は自分の青春だった」との投稿が目立った。僕もその一人だ。

最高の幕引きだった。演者に愛され、スタッフに愛され、リスナーに愛されたおに魂らしい終わり方だった。

ラジオってなんだ?

冷静に考えると、何ともおかしな現象だ。14年続いたとはいえ、一つのラジオ番組にここまで人が熱狂する。「青春」だと言い切り、感謝を述べる。僕のように10年以上聞き続けたリスナーも、ここ2,3年で聞き始めたリスナーも、みな感謝の言葉を述べる。

これはいったいなんだ?

テレビ番組でこんな話はほとんど聞いたことがない。よっぽど歴史が長い番組でも寂しがられることはあっても、青春だの感謝だのはあまり言われないのではないだろうか。

you tubeはどうなんだろう。そもそも、僕はいわゆるユーチューバーの番組を見たことがないので何とも言えないのだが、あれは個人でやっている以上、そもそも最終回があるのかどうかが疑問だ。

それでも、ラジオのようにはいかないのではないだろうか。

なぜなら、ラジオは最高の片手間メディアだから。

実は、この記事自体、ラジオを聞きながら書いている。

勉強しながら、仕事をしながら、車を運転しながら、歩きながら、ラジオは聞ける。何なら、テレビを見ながらでもイケる。

映像の場合そうはいかない。人によっては映像に気を取られて集中できない場合も多いだろう。スマホの発達で歩きながら映像を見れる世の中になったが、それでも歩きながらは危険だし、運転しながらなどもってのほかだ。

ラジオは片手間で聞ける分、生活に、日常に入りやすいのではないだろうか。手や足を止めてまでラジオを聞く必要はなく、ラジオを聞きながら仕事や家事、勉強、移動をすればいい。

そして、後になって人生の思い出を振り返ると、付属してラジオもついてくるのだ。逆に、ラジオの思い出を振り返ると、必ず「その時何をしていたか」も思い出す。「ああ、あの時勉強中だったな」、「あの時、ちょうどあそこへ向かう車の中だったな」といった具合に。

だから皆、口々に「おに魂は青春だった」と答えるのだ。おに魂そのものが青春だったというよりは、青春の1ページのそばに常におに魂があったのだ。

ラジオは聞く場所を選ばない。FMラジオであっても、生活圏にいればだいたい聞こえる。

しかし、ラジオは時間を選ぶ。毎週、もしくは毎日、決まった時間にやっている。

これにより、ラジオは「習慣」となる。「この時間になったらラジオを聞く」というのは、「生活を邪魔しない」どころか「生活の一部」へと変わるのだ。

さらにラジオ、特にFMはマイナーな存在だ。高校のころ、周りに鬼玉を聞いている人は一人もいなかった。それがまた、ラジオへの愛着を生む。

「誰もが知るマクドナルド」より、「地元の人しか知らない居酒屋」の方が愛着がわく理屈だ。

さらに、ラジオはリスナーからのメールが番組の構成上重要な立場を締めている。どの番組も「リスナーからの声を集め、パーソナリティはそれをもとに話を膨らませる」というスタイルだ。パーソナリティが一方的に発信し続ける番組はほとんどない(30分番組とかならあるけど)。

これは、他の媒体ではあまり見られないし、他の媒体でやれば「ラジオっぽい」と言われるであろう、ラジオの専売特許である。これまた、リスナーとの距離を縮める。

もちろん、サイレントリスナーでも楽しめる。僕もどちらかというと、サイレントリスナーだ。たまに投稿もするが。

さらに、ラジオの持つ力に、新たな趣味へとリスナーをつなぐ、というものがある。

例えば、おに魂は2010年から月曜日は乃木坂46の斉藤優里が担当している。これにより、2つの効果が起きた。

まず、おに魂リスナーで乃木坂に興味を持つ人が増えた、という効果だ。

さらに、乃木坂のファンがおに魂を聞くようになった、という効果もある。斉藤優里をきっかけにおに魂を聞き始め、そのままほかの曜日も聞くようになったというリスナーも多い。

他にも、出演したミュージシャンだったりと、おに魂きっかけで始まった趣味も多い。

何とも不思議な空間だ。「講」に似ているかもしれない。

昔は、「講」と呼ばれるサークル活動がどの村でもあった。庚申講は表向きは不動明王の信仰だと言われているが、実質は夜更かしワイワイサークルだったと言われている。この庚申講は60日に一回行われた。祭りよりもよっぽど日常的な光景だった。

庚申講の日にはみんなで集まってワイワイする。ムラの仲間同士が集まる、自分たちだけの宴だ。形は違えど、どこの村にもこのような集まりはあったはずだ。

よっぽど楽しかったのだろう。各地に「庚申塔」という石碑が残っている。わざわざどこかから大きな石を運んできて、庚申講の名前を刻みこむ。

庚申塔には村の入り口の魔よけの意味もある。そのため、不動明王の姿を掘られたものも多いが、魔除けだけなら「庚申講」の名前を刻む必要はない。

やはり、庚申講はかなり楽しかったのではないだろうか。だから、その名前を石に刻んだ。

おに魂の最後の日にハッシュタグが立ったのも、次々とリスナーが自分がもらったノベルティを写真にとって投稿したのも、そして、庚申塔があちこちに立っているのも、「俺たちはここで楽しく青春を過ごした」ということを、どこかに残したかったからではないだろうか。

あと1時間ちょっとで新番組「Nutty radio show THE魂(ザ ソウル)」が始まる。月曜日のメンバーはおに魂と一緒だが、おに魂の核であったマル決はやらないらしく、本当に新番組みたいだ。マル決をやらないというのは、おに魂に幕を引いたけじめの一つの表れなのだろう。

それでも、午後8時になれば僕はラジオを聞くだろう。なぜなら、ラジオは僕の青春であり、生活なのだから。

また、死ぬほど笑わせてくれ。

小説:あしたてんきになぁれ 第5話 どしゃ降りのちほろ酔い

ミュージシャンを目指す少年・ミチのライブに来た亜美、志保、たまき。ライブ会場で控室から志保が出てくるところを見たたまきは、深く考えずに控室に入ってしまう。しかし、ライブ終了後にある事件が勃発する……。「あしなれ」第一章完結?


第4話 歌声、ところにより寒気

登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち 


写真はイメージです

水曜日。夜。月夜。

「関係者控室」。そう書かれた部屋から志保(しほ)が出てきた。もちろん、志保はライブの関係者ではない。

だが、たまきはあまり深く考えなかった。単純に、「こっちにも出入り口があるのでは?」程度にしか考えなかった。

たまきはドアを開けて中を覗いた。中には机といすと鏡。机の上にはお菓子が散らばっている。

壁にはロッカーが並び、その一つは蓋が開きっぱなしだった。看板に偽りなし。中は本当に控室で、それ以上ではなかった。

たまきはあまり深く考える人間ではない。だから、志保がここから出てきた理由もこの時はあまり深く考えなかった。「間違えて入ったんだろう」ぐらいにしか思わなかった。たまきは部屋を出ると、ライブ会場へと戻っていった。

その後ろ姿を、トイレから帰ってきた女性二人に見られていたことを、たまきは気づいていない。

 

写真はイメージです

水曜日。さっきの少しあと。月夜。

すっかり暗くなった路上で、志保は車を待っていた。

夏だというのに、気のせいか少し寒く感じる。

道行く人は少し、志保を避けてるように思えた。美少女とは言え、いや、美少女だからこそ、少し目がくぼみ、痩せこけた少女が道行く人をにらむように見ている光景は、恐ろしいものだ。

左の角からライトが灰色のアスファルトを照らしながら、黒いワゴン車がゆっくりと曲がってきて、減速し、志保の前で止まった。

「乗れ」

運転手の男は、志保を見るなりそう言った。志保は車の左側に回り込み、ドアを開けて乗り込んだ。志保がシートベルトをしないまま、車は走りだした。

「クスリ」

志保が少し焦ったように聞いた。

「金は?」

男は志保を見ずに尋ね返した。

志保は何も言わずに、黒い財布を出した。男は何も言わずに受け取った。

 

写真はイメージです

水曜日。またまた少しあと。月夜。

ライブ会場の重いドアを開けたとたん、爆音にたまきは突き飛ばされそうになった。

元の位置に戻ると、亜美(あみ)が右手を振り上げて黄金(こがね)色の髪を振り乱し、ぴょんぴょん飛び跳ねている。天井からは赤、青、緑、黄色、白といったライトが雨あられと降り注ぎ、耳にも目にも五月蝿い。

たまきはステージ上の、ライトと爆音のどしゃ降りにあっている黒衣の五人、正確にはその右端の一人、ミチを見た。

相変わらず、つまらなそうにギターを弾いている。

やはり、そこに自分の姿が重なる。

姿が重なると言っても、ミチの姿にたまきの姿がダブって見えるわけではない。ミチの後ろからたまきの雰囲気やオーラといったものが、背後霊のようにまとわりついているというような、煙のように吹き出ているというような、そんな感じだ。

たまきが時間を押し流すための作業として絵を描いているのと同じように、ミチも音を出すために手を動かしている。「演奏」ではなく音を出すための「作業」、そんな風に見えた。

 

水曜日。ライブ終了後。少し曇り。

結局、志保は帰ってこなかった。だが、亜美もたまきもそれほど気にしなかった。理由は簡単だ。何も告げずにフラッといなくなるなど、亜美はよくやることで気にしなかったし、たまきは今現在「何も告げずに家からいなくなる」の真っ最中である。ライブ会場の雰囲気が合わずに、帰りたい帰りたいと思っていたたまきは、志保は先に帰ったんだ程度にしか思っていなかった。

「ただなぁ」

そう亜美は切り出した。さっきまで、殺人的な爆音に満ちていた部屋も、ライブ終了後は嘘のように静かで、殺人的なライトも消え、ごく普通の照明が部屋全体を照らす。

「なんかあいつ、おかしかったような。口数も少なかったし」

「確かに、息も荒かったような気もしますけど……、具合悪かったんじゃないんですか? 今頃『城(キャッスル)』で寝てるんじゃないんですか?」

具合が悪くなって黙って抜け出す、黙って帰る。たまきにしたらよくある話である。

「とりあえず、ミチんところ顔出そうぜ」

そういうことになって、先ほどの「関係者控室」のドアを開けた。

ドアを開けて聞こえてきたのは「どこにあんだよ!」という男の焦った声や、「警察に電話したほうがいいんじゃないの?」という女の心配したような声だった。

バンドメンバーの一人と思われる男が、しきりにあたりを見まわしたり、何度もかばんの中をかき回したりしている。その周りに群がる何人もの人。

二人の姿を見つけたミチがぺこりと頭を下げる。ただならぬ雰囲気を察した亜美が尋ねた。

「……なんかあった?」

「メンバーの一人の財布がなくなってるんです」

さっきまでステージで歌ってた男が、財布を無くした男の前に出た。

「最後にこの部屋出たのはおまえだろ。その時、部屋の鍵もロッカーも閉めなかったお前が悪い」

「そうだけど……、でも、盗まれるなん思ってねぇし……」

「ほんとに泥棒か? もっとよく探してみ」

「何度も探したよ! 黒い財布だよ。誰か見てない?」

そのやり取りをおよそ自分には関係ないことだとみていたたまきだったが、ある一言が、全員の注目を彼女に向けた。

「ちょっといい? あたし、あの子がこの部屋から出てくるのを見てたんだけど……」

そう言ったのは、茶色い長い巻き髪の女だった。彼女が指差した少女、すなわちたまきに注目が集まる。

予期せぬ自分の論壇への登場に驚いたが、それよりも多くの人間に見られて、委縮したたまきは思わず下を向いてしまった。

「おい! どういうことだ!」

怒号を響かせながら、財布を無くしたと騒いでいた男が、まるでたまきが犯人かのように詰め寄った。無理もない。明らかにたまきの挙動は不審なのだ。だが、それはたまきが犯人だからではなく、たまきが苦手な「視線」が向けられているからなのだが。

「違います……。わたしは……、……」

そこまで言って、たまきは「真犯人」に気付いてしまった。

気づいてしまって下を向く。ますます疑われる。

気づけば、バンドメンバーに囲まれていた。「被害者」の男が今にも掴みかかろうとするのを、ボーカルの男が落ち着けと押さえている現状だ。

「おい! なんか言えよ!」

本当のことを言えば、真犯人がわかってしまう。でも、うまくごまかす嘘も思いつかない。結局、黙るしかないという悪循環。

たまきは、少し離れたところにいるミチの方をちらりと見た。たまきとも、バンドメンバーとも顔見知りである彼なら、自分の味方をしてくれるのではないか。

だが、ミチはたまきと目が合うと、困ったように、申し訳ないように、目をそらした。

いよいよどうしよう。そう思った時、亜美のやや低めの声が部屋に響いた。

「たまきじゃねぇよ。ありえない」

今度は視線が亜美に集まった。たまきと違って亜美は視線を浴びても、余裕を見せる。

「あんた、こいつのツレか?」

被害者の男が尋ねる。

「ああ、そうだよ」

亜美は臆しない。

「なんでコイツじゃないって言える」

「こいつはな、欲とか何にもないんだ。食欲もないし、性欲もないし、将来の夢もなんにもない。欲しいものもなんにもない」

悔しいが、たまきもこっくりとうなづくしかない。

「そんなやつが財布盗んでどうするんだよ。何に使う?」

そういうと、亜美はたまきが肩からかけてるかばんを指差した。

「嘘だと思うなら、そいつのかばん見てみな。財布どころか、何にも入ってないぜ。たまき、見せてやれよ」

被害者の男が、たまきのかばんを無理やり奪おうとする。

「……やめてください……」

たまきは小さな声でボソッと言ったが、男はそれを無視して、たまきの肩からかばんをはずすと、ひったくるようにして中を見た。

かばんの中はほぼ空っぽだった。男の財布はおろか、自分の財布すら入っていない。ただ、たった一個、黄色く細長い物体が入っていた。

「何だこれ?」

男はそれをかばんから出した。たまきは恥ずかしくて、下を向いてしまった。

男がかばんから出したのは、カッターナイフであった。

「何だこれ。」

男はもう一度言った。

カッターナイフ。それは、たまきのお守りだった。いつでも速やかにこの世からエスケイプするための。

「財布はあったか?」

亜美が男に近づき尋ねる。

「……ねぇよ。」

「わかったろ。たまきは泥棒なんかする奴じゃない。そうだろ、ミチ」

亜美はミチの方を向いた。ミチは慌てたようにこっくりとうなづいた。

「……コイツが犯人じゃねーってのはわかったよ。じゃ、オレの財布取ったの誰だよ!」

男が怒鳴った。亜美は、何か思いを巡らすように顔をしかめた。

「……知らねーよ」

亜美はそうつぶやいた。

 

写真はイメージです

水曜日。夜道。

亜美とたまきは「城」に向かって帰り路を歩いていた。ビルに額縁のように切り取られた夜空には、月も星も見えない。

二人は無言だった。たまきは下を向いてとぼとぼと歩き、彼女の右を歩く亜美は、右側のやけに明るいネオンや看板を眺めていた。

「……志保なんだろ……」

亜美がポツリと言った。

「……いつ気づいたんですか?」

「一人いなくなりゃ、誰だってそう思うだろ……」

「……見ちゃったんです……。志保さんが、あの部屋から出てくるの……。私、何も考えずに志保さんの出てきた部屋に入っちゃって、たぶん、そこを見られたんだと……」

たまきは下を向いたまま答えた。

「でも……、なんで……」

「なんで?」

亜美が初めてたまきの方を向いた。

「クスリに決まってんだろ。思い返せば、あいつ今日の午後ぐらいから、なんか様子がおかしかった」

その答えにたまきも亜美の方を向いた。もうすでに「太田ビル」の前に着いていた。

二人は階段を昇って「城」の前に来た。扉の前に、長い髪の女が立っていた。

「志保っ! ……?」

長い黒髪の女が振り向いた。

「……帰るの木曜……明日って……」

「仕事が早く終わったんたからさっき東京に戻ったんだ。……一人足りねぇな。志保は? あいつに話があってきたんだが?」

京野(きょうの)舞(まい)は「八ッ橋」と書かれたビニール袋を持ちながら言った。

 

写真はイメージです

水曜日。夜。曇り。

蛍光灯は寿命間近なのか、明滅を繰り返している。

テーブルの上には色とりどりの八ッ橋が置かれている。

「どうした、食わないのか? お前の所望した変わり種八ッ橋だ」

「いや、『何でもいい』って言っただけすけど……」

亜美もたまきも口をつけない。決して、八ッ橋が嫌いなわけではない。

「ここ来るのも久しぶりだ」

舞はあたりを見回した。

「だいぶもの増えたな。これだけ稼いでいるんだったら、アパートぐらい借りれるんじゃないのか?」

「ウチはここ、気に入ってるんですよ。ウチの城すから」

「で、志保はどうした。いないのか?」

急に静かになった。

「……ちょと、お出かけ中です」

たまきが答えた。

「あいつを一人で外に出すなってお前らに行ったはずだぞ。どこに行った」

「さ、さあ」

舞が足を組み替えた。

「電話は? 呼び戻せ」

「でねーよ」

亜美が答えた。

舞はため息をついた。

「お前ら、何隠してる?」

たまきの背中がびくっと動いた。

「アタシはライターだ。取材も仕事のうちだ。人の話を聞き、それがウソかホントか判断して文章にする」

舞はそういうと、二人をにらみつけた。

「お前らのちんけな嘘を見抜くのなんて、朝飯前だ」

「別に嘘も隠しもしてねーよ」

亜美が言った。

「……志保のやつ……、ライブハウスで財布盗んで逃げたんだよ」

「……まだそうと決まったわけじゃ……。たまたまその部屋から出てきたってだけかも……」

「じゃあ、他に誰がいんだよ!」

亜美の突然の大声に、またたまきがびくっとなる。

舞はあまり以外ではなさそうな顔をしていた。

「……たぶん、クスリを買うために盗んだんだろうな……」

「でも……」

たまきが白いラインの入ったピンクの財布を手に取った。

「志保さんの財布はここに……」

「今すぐ欲しかったってことだろうよ」

舞が答えた。

「……あいつの行きそうなところは?」

舞の質問に、たまきは答えが思い浮かばなかった。亜美も無言で首を振る。

「志保が戻ってきたら、すぐ連絡しろ」

それだけ言うと、舞は「城」を出て行った。

 

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次の日。木曜日。夕方。雨。

志保は帰ってこなかった。

たまきは、「城」に一人でいた。亜美は買い物に出かけている。

夏の雨が窓を激しく叩く。

昨日の光景が頭の中を回る。

財布を盗んでいなくなった志保。

つまらなそうにギターを弾くミチ。

濡れ衣を着せられたたまき本人より腹が立っている亜美に、ため息をつく舞。

たまきのかばんからカッターナイフを取り出したときのみんなの反応。

たまきはお守りであるカッターナイフを手にした。

かちっ。かちっ。かちっ。

カッターの刃先をぼんやりと見つめる。

ぴしゃりという雷の音が部屋の中に響き、青い光に照らされて、たまきの影がくっきりと浮かび上げられる。

たまきは右手首の包帯をするするするとほどいた。

醜い傷跡がくっきりと浮かび上がっている。

たまきは、左手でカッターを握ると、右手首に押し当てた。

ほんの一瞬、痛みが走ったが、それはほんの一瞬だった。

小さな赤い筋が手首に描かれ、そこから赤い血がにじみ出た。

たまきは経験上わかっている。この程度の傷では、天国はまだまだ程遠いということを。

 

写真はイメージです

また次の日。金曜日。夜。大雨。

志保が帰ってきた。雨の中、傘もささずに。

 

志保は何を聞かれても「ごめんなさい」しか言わなかった。志保の声より大きく、雨音がギターのリフレインのように奏でられていた。

 

――志保さん、どこ行ってたの?

 

――ごめんなさい……。

 

――どけ、たまき。おい志保! てめぇ、どこ行ってたんだよ!

 

――ごめんなさい……。

 

――バンドメンバーの財布盗んだのお前か!

 

――ごめんなさい……。

 

――認めるんだな?

 

――ごめんなさい……。

 

――何に使った? クスリか?

 

――ごめんなさい……。

 

――もうやらないんじゃなかったのかよ!

 

――ごめんなさい……。

 

――お前のせいでたまきが犯人だと疑われたんだぞ!

 

――……、ごめんなさい……。

 

――ごめんじゃねぇだろ! 他になんかねぇのかよ!

 

――亜美さん、私ならもういいから……。

 

――たまきもたまきだ。なんでコイツ許してんだよ!

 

志保の何度めかの謝罪を、雷の音がかき消した。

 

30分後。まだ金曜日。深夜。まだ大雨。

舞が「城」にやってきた。

蛍光灯の一つが切れ、薄暗い部屋の中にはいつもの三人がいつもと違う様子でいた。

心配そうに志保を見るたまき。

腕を組み、足を投げ出し、志保をにらむ亜美。

そして、バスタオルに包まれ、濡れた長い髪を前に垂らす志保。

髪に隠され、顔はほとんど見えなかったが、さらに痩せたように舞には見えた。

「……アタシの判断ミスだ」

舞はそう切り出した。その声はどこか毅然としていた。

「お前らと一緒にしたら、何か変わるんじゃないか。そう思っちまった、アタシのミスだ。廃業したとはいえ、医者としてあるまじき失態だ……」

そういうと、舞は志保に投げかけた。

「何か言いたいことはあるか」

「……ごめんなさい。」

志保は機械的にも聞こえる謝罪を口にした。

「お前は明日、予定通り、施設の方に連れて行く。ただし、『見学』でも『通院』でもない。『入所』だ。寮に入って、そこで暮らすということだ」

「……ここを出ていくってことですか」

たまきの尋ねに、舞はうなづきもしなかった。

「当然だろう。ここじゃ管理しきれないのだから」

管理。その言葉がたまきの脳に暗く響いた。

「……異論はないな。志保」

「……はい」

志保ははじめて「ごめんなさい」以外の言葉を口にした。

「で、こいつがくすねた金はどうするんだ?」

舞の尋ねに亜美が答えた。

「志保が弁償するみたいだからさ、ウチが返しとくよ。ウチが謝っとく」

「そうか」

そういうと、舞は一歩、真っ黒なドアに近づいた。

「荷物はそのかばんで全部か?」

志保はただうなづいた。

「とりあえず、今晩はうちに泊まれ。ちょうど徹夜で原稿書くつもりだったんだ。ついでに徹夜で監視してやる。ほら、行くぞ」

舞が出口に向けて歩き出した。志保も席を立ち、たまきと亜美に背を向ける。二人の黒い影がくっきりと壁に映し出される。

一瞬だけ見えたその顔は、ほほのくぼみを涙が濡らしていた。だが、それをすぐに長い髪の影が覆い隠す。

志保の背中をたまきは見つめる。『城』で築いた志保との思い出が走馬灯のように……。

……出て来なかった。志保との思い出は、たまきの頭に浮かばなかった。思い出は、まだなかった。

――そうだ。私は志保さんのことを、まだ何も知らない。

なぜ彼女がドラッグに手を出したのか。

彼女は何が好きなのか。

彼女は何が嫌いなのか。

やりたいことは何か。

なにで笑うのか。

なにで怒るのか。

たまきはまだ何も知らない。

なのに、……これで終わり?

そう思ったら、たまきは自然と立ち上がっていた。

「……待ってください」

消え入りそうな声でたまきはつぶやいた。

「……志保さんと、もうちょっと一緒にいちゃだめですか……。……この『城』で一緒に暮らしちゃだめですか?」

舞は振り返ると、あきれたように答えた。

「お前、何言ってるんだ?」

ため息をつきながら、舞は肩をすくめた。

「お前、こいつのせいでどんな目にあった?」

「ごめんね……たまきちゃん」

「……そのことはもういいです。気にしてないので。」

たまきにしてみれば、今まで、一番自分を傷つけたのは自分なのだ。今更他人にどんな目にあわされようが、大概のことは気にしない。志保とて、意図的にたまきに罪をなすりつけようとしたわけではない。

そんなたまきに、舞は冷たく言い放った。

「理解しろ。こいつはお前らの手に負えないんだ」

その一言は、たまきがずっと探していた、漠然とした思いの答えを、彼女に気付かせるものだった。

それと同時に、その言葉がたまきの中の何かに火をつけた。

「……手に負えないっていうのなら……」

たまきは囁くように言った。

そして、叫んだ。

「手に負えないっていうのなら私だって同じです!」

 

薄いガラスを破ったようなその声は、叫びと呼ぶにはちょっと、か細かったかもしれない。しかし、志保が足を止め、舞が目を向き、亜美の口を呆けたように開かせるのには十分だった。

「……た、たまき?」

当の本人だけが、まるで自分が叫んだことに気付いていないようだった。

「……私なんか、学校行っても友達いなくて……」

たまきはいつものようにボソッとしゃべった。

「……そのうち学校に行けなくなって……、家にも居場所がなくなって……。死のうとしてでも死ねなくて、そんなのを何回も繰り返して、挙句の果てには家出して、親からしてみれば、私、きっと、手に負えない娘だったと思います。だから、手に負えないのは、私も一緒なんです!」

たまきと違って志保は友達がいる。彼氏がいる。頭がいい。美人だ。何もかもたまきと違うはずだ。

でも、今は自信を持って言える。

志保はたまきと一緒だ。

だから、見捨てたくない。

自分の体に刃物を当てることができても、自分の命を終わらせることができても、

とどのつまり、人は自分を、自分と同じものを、見捨てることはできない。

たまきが言い終わると、舞がたまきに近づいた。

「……今回わかったはずだ。薬物の恐ろしさが」

舞は続けた。

「最初に志保に会った時、確かにこいつはクスリをやめようとしていた。それは嘘じゃないとアタシは思う。でも……、ダメだったんだよ。本人の意志の強さじゃどうにもならないんだ」

そういうと、舞はたまきにこう言った。

「またこいつがクスリを欲した時、お前に止められるのか?」

たまきの回答は、舞の予想より早かった。

「……止められないと思います」

「だったら……」

「でも……! そばにいるくらいはできます」

「ダメだ。そんなんでクスリがやめられるんなら、誰も苦労はしない」

「でも……! でも……!」

二人のやり取りを、いや、たまきの言葉を、亜美はなんだか真新しい気持ちで聞いていた。

たまきに出会ってまだ間もないが、彼女がこんなにも何かに、「死ぬこと」以外の何かに固執しているのを見るのは初めてだった。

「その施設っていうのは、志保さんみたいな人がいっぱいいるんですよね。そういう人たちの中で、治していくんですよね?」

「ああ」

たまきの質問に舞が答える。

「だったらここにいても……」

「なんでそうなる」

「……一緒だから」

たまきはそういうと、右腕の真っ白な包帯をはずした。無数についた切り傷。そのうち一つはまだかさぶたである。

それを一目見るなり、舞には分かった。

「また切ったのか?」

たまきは答えなかった。その代りにっこりと、たまきにしては珍しく、にっこりと笑った。

「私も志保さんと一緒だから」

たまきはそれだけ言うと、志保の方を向いた。

志保はうつむいていた。もしかしたら、たまきの新しいリストカットも、自分のせいではないかと思っているのかもしれない。

「志保さんはどうしたいんですか? 施設に行きたいんですか? ……こんな終わり方でいいの?」

「……それは、こんな終わり方はやだよ……」

志保は顔を挙げずに震え声で答えた。

「でも……、たまきちゃんにも、ミチ君のバンドにも迷惑かけて、もう、いられないよ……」

「私ならもう気にしてません。わざと罪をなすりつけようとしたわけじゃないんだし」

「でも……。」

「私だって、いっぱいいろんな人に迷惑かけてますし、たぶん、今も家族に迷惑かけてますし」

たまきも志保も似た者同士だから、施設に行くのもここにいるのも一緒。さて、その理屈を認めていいものか。

舞が、どうしようかと考えを巡らしていると、突如、亜美が声を上げた。

「思い出した」

そういうと、亜美は右腕の青い蝶の入れ墨がはばたくかのようにゆっくりと立ち上がった。

「中学のころさ、テレビで『親子間の窃盗は罪になんない』っていうのやってて、ウチ、ラッキーっつって、平気で親の財布から金くすねてたんだ。全部で四万ぐらいかな。あ、一回でじゃねーぞ。5千円ずつ抜き取って、ばれるまでやってたらそん位になったんだ。さすがにばれてさ、そんときウチ、妹のせいにして。でも、妹、ウチと違っていい子だから、そんなウソ通用しなくて、おやじに怒られて、でも、その後も懲りずに二万ぐらい抜き取ってたなぁ。」

亜美は笑いながら続けた。

「万引きもよくしたし。よくよく考えたら、志保なんかより、ウチの方が手に負えないサイテーのガキだったよ」

そういうと、亜美は舞に笑いかけた。

「ねえ、先生。こいついないと、ウチら、カップラーメンしか食うものないんだ。頼む! もうちょっとこいつ、ここに置いといてよ。施設に行くのも、ここにいるのも、手に負えない者同士って意味では、一緒、一緒!」

「お願いします!」

「頼むよ。ね?」

少し間をおいて、志保が口を開いた。

「先生……、お願いします」

舞は、頭を抱えるように抑えた。

「はあ……、なんてこった……。こいつら、三人ともアタシの手に負えねぇ」

舞はしばらく考えていたがやがて、

「……勝手にしろ。医者としての忠告はしたからな」

と言い放った。

それまで一つだけ灯りの灯っていなかった蛍光灯が、突然、ついた。急に部屋の中が明るくなる。

「いいんですか?」

「……とりあえず、志保、明日施設に行くことはかわんねぇぞ。『通院』するために『見学』するんだ。十時にうちに来い」

次に、亜美の方を向く。

「お前はちゃんと月一で性病の検査に来い!」

最後にたまきに向かい、

「次からは一人で傷の処置をするな。必ずあたしのところに来い」

というと、舞は、

「徹夜で仕事しなきゃならねぇから、帰る」

といって、出て行った。ドアを閉めると、つるされた「あみ しほ たまき」と書かれたカラフルなネームプレートが微笑むように揺れた。

 

30分後、日付は変わって土曜日。深夜。雨上がり。

たまきと志保は太田ビルの屋上に上がった。

太田ビルの屋上には、1メートルほどの柵がある。たまきは柵にもたれて、ビルの下の道路を見つめていた。深夜の繁華街はネオンが輝き、屋上から見ると、オレンジの夕日を反射してきらめく海のようだ。

「ごめんね、たまきちゃん」

柵に寄りかかった志保がそう言った。セリフは今までとそう変わらないが、声は心なしか晴れやかだった。いつもの愛くるしい笑顔だ。

「別にいいです。気にしてないんで」

たまきがいつものようにボソッと答える。

「それよりも頭にきてることありますし」

「え?」

「別に志保さんのことじゃないです」

たまきはそういうと、少し微笑んだ。

「お前ら、こんなところにいたのか」

階段を上がって亜美がやってきた。手にはビニール袋がぶら下がっていた。

「亜美ちゃん、それ、どうしたの?」

「貰ってきた」

亜美はビニール袋から、ビールの缶を取り出した。

「亜美ちゃん……、それ、お酒……」

「我らの変わらぬ友情を祝し、乾杯といこうじゃないか」

亜美はすでに酔っぱらってるんじゃないかというようなことを言い出した。

「いや、亜美ちゃん、あたしたち、未成年……」

「私、お酒、飲んだことない……」

「お前ら、不法占拠とか、リスカとかドラッグとかやっといて、いまさら何言ってんだ?」

そういうと亜美は、二人の手に缶を持たせた。

「さあ、乾杯! 乾杯!」

結局、たまきも志保も、缶ビールを持たされてしまった。

「亜美ちゃん、あのさ、あたし、普通のジュースとかがいいな……」

「何だよ、ノリ悪りぃな」

「いや、こういう酔っぱらっちゃう系は、なんていうか……」

「……酒でラリるとは思えねぇけど……、まあ、念のためってやつか」

そういうと亜美は、志保の手にある缶を受け取った。

たまきも缶を返そうとする。

「亜美さん……、私もお酒は……」

「おまえは特に理由ネェだろ」

「いや……、未成年……」

「大丈夫だって。気にすんな」

なにが大丈夫なのかわからなかったが、たまきは言われるがままに、プルタブに指をかけた。しかし、自分じゃ開けることができず、志保に開けてもらった。プシュッと音がする。

ジュースを買いに下のコンビニに行った志保が戻ってくると、三人は、それぞれが持った缶で互いの缶をたたいた。

「かんぱ~い!」

 

二十分後。土曜日。深夜。月夜。

「あははははは」

亜美の笑い声が屋上にこだまする。何が面白いのか志保には全く理解できないが、亜美はとにかく楽しそうに笑っている。いわゆる、笑い上戸というやつであろう。

志保は、横にいるたまきをちらりと見た。柵に顔をうずめるようにもたれかかっている。顔は赤い。

「たまきちゃん、大丈夫?」

「……なんかふわふわします」

たまきはいつになく甘ったるい声で言った。

「ちょっとやばいかも」

「お水あるよ」

ジュースと一緒に用意周到に志保が買っておいた水のペットボトルにたまきは口をつける。

「あははははは。おい、志保ぉ! あれ、この前見た都庁じゃないの?」

亜美が笑いながら志保に話しかけた。志保は亜美が指差す方向を見る。

黒い空に、より濃い黒さのビルが浮かぶ。ちらほらと、星のような窓の明かりがきらめく。

「うーん、どうだろう。方向はあっちの方だと思うけど、結構離れてたからなぁ」

「あっちなんだろ。じゃあ、あれでいいじゃねーか」

そういうと、亜美は歯を見せて、にっ、と笑った。

「青春ごっこしようぜ」

「……何それ?」

ちょっと言ってる意味が分からない。

「よく映画とかであるじゃん。海で夕日に向かって『バカヤロー』って叫ぶやつ」

確かにそういうシーンはよく語られているが、実際に使われている映画を志保は知らない。

「都庁に向かって叫ぼうぜ」

やっぱり言ってる意味が分からない。

志保が理解するよりも早く、亜美は口の横に手を添えて、都庁、らしき建物へ向けて叫んだ。

「バカヤロー!」

亜美の叫びが夏の湿った空気を震わす。

「遠くばっかり見てんじゃねーぞバカヤロー!」

柵にもたれていたたまきがふらりと立ち上がる。そしてふらふら歩きながら亜美の隣に立つと、同じように口に手を添えた。

「ばかやろー。」

たまきにしては精いっぱいの大声を出す。

亜美がさらに続ける。

「そんなところにウチらはいねーぞ!」

亜美は声の限り叫ぶ。

「ここにいるぞバカヤロー!。……ここに生きてんぞバカヤロー!」

亜美はふうっと息をついた。

「悔しかったら、こっち来てみーろ!」

叫ぶ亜美と、その隣のたまきの後ろ姿を、柵にもたれながら志保は眺めていた。

だが、急にたまきがバランスを崩したので慌てて駆け寄る。

バランスを崩したたまきを、亜美が抱き留めた。

「たまき!」

「たまきちゃん!」

亜美の腕の中で、たまきが言う。

「亜美さん、志保さん、あのね、私、今、ちょっと楽しいかも」

そういうとたまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、にっこりと笑った。

 

土曜日。深夜。まん丸お月様の夜。


次回 第6話 強盗注意報、自殺警報発令中

雨の日、たまきが一人で留守番していると、「城」に強盗が入る。包丁を向けて震える声で「お金を出さなきゃ殺す」と脅す強盗に、たまきは「殺してください」と頼む?

「『おい! 来るな! 殺すぞ!」』『殺してください』 」

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

民俗学という文学 ~六車由実『驚きの介護民俗学』~

2012年に発表された六車由実さんの『驚きの介護民俗学』。民俗学者から介護士に転職した著者が、介護の現場で老人たちから民俗を聞き取ることをまとめた本だ。発表当時から民俗学界隈で話題となったこの本を読んでみると、これからの民俗学について考えさせられる驚きがあった。


『驚きの介護民俗学』の内容

著者の六車さんは民俗学者。大学で学生たちに民俗学を教える立場だった。

それがどういうわけか、大学を辞めて介護施設で介護士として働くようになる。

そこで出会った老人たちは、ふとした瞬間にそれまでの人生やバックボーンをにじませていた。

例えば、認知症の老人にありがちな「同じ話を繰り返す」。

介護する側からすれば迷惑な話だが、よくよく聞いてみると、人によって繰り返す話が違う。

そこで丹念に聞いてみると、「繰り返す話」の中には、その人が何に重きを置いて生きてきたかが現れていた。

そこで、著者は施設の許可を取って老人たちの話を聞き書きすることにした。それが「介護民俗学」の始まりだ。

通常、民俗学のフィールドワークというと、農村や漁村に入ってそこで生活する人たちにテーマに沿って話を聞く。

だが、介護民俗学では大きく二つの点が異なる。

まず、フィールドが違う。

介護民俗学の舞台は農村でも漁村でもなく、介護施設。文章から察するに、おそらく静岡の地方都市にあるようだ。

だが、そこに通う老人たちは、かつての村で生まれ育った人たちだ。彼らにはかつての村の暮らしの記憶が残っている。

むしろ、「農村から都市に出てきた人たち」というこれまで見逃されがちだった人たちの記憶を持っているのだ。

そしてもう一つが「聞き書きにテーマがない」

通常はフィールドに入る民俗学者には知りたいテーマがある。農具についてだったり、祭りについてだったり、昔話についてだったり。そういうのに詳しい人を探して、話を聞くわけだ。

ところが、介護民俗学では著者は聞きたいテーマを持っていない。相手が話したいことを話してもらうわけだ。

だが、それゆえに著者の想定していなかった話が聞けて、「驚き」をもたらす。この「驚き」が著者にも話す老人側にもいい効果をもたらすのだ。

実は、僕も大学で「自分の聞きたいことではなく、相手の話したいことを話させる」という風に教わった。

僕が教わった先生たちの世代の教訓なのだそうだ。

フィールドに入って話を聞くと、戦争の話をしたがる人が多かった。

しかし、こっちは民俗学の話を聞きに来たのだからと、先生たちの世代は戦争の話をさえぎって、「自分たちが聞きたいテーマ」を話させた。

だが、今になって思うと、当時の話者たちが話したがっていた「戦争の話」をちゃんと聞いてまとめれば、かなり重要な史料になったのではないか。

そんな後悔から、「相手の話したいことを話させなさい」と教えてくれたわけだ。

民俗学とは生きることと見つけたり

さて、「介護民俗学」の本の評判は前から聞いていたが、なかなか読もうとしなかった。

理由は二つ。

まず、「介護」という言葉がよくない。

「介護の本」と聞いて面白そうと思う人がどれだけいるだろうか。介護に携わっていない人じゃないと、まず面白そうとは思わない。

そしてもう一つ、決定的に面白くない単語が入っていた。

その単語とは「民俗学」

大学で民俗学を専攻していた僕すら、「民俗学の本は面白くない!」と認識しているのだ。

何と言うか、無味乾燥なのだ。

そう思ってほとんど期待することなく「驚きの介護民俗学」を読んでみた。

すると、驚いたことに面白かったのだ。

「テーマのない聞き書き」を行っている著者は、細かい「民俗」にとらわれることなく、話者の人生を聞き取り、生き生きと描いている。

これは、僕にとっても発見だった。

祭りだの農具だの信仰だの、個々の民俗自称にフォーカスして書いてしまうとちっとも面白くない。「無味乾燥な学術書」で終わってしまうのだ。

だが、この本では個々の民俗事象にとらわれることなく、相手の人生を描いている。

言い換えれば、個人の人生自体が一つの「民俗」である。

民俗学とは「生きること」、「その人がどうやって生きてきたか」を描くことだともいえるわけだ。

民俗学は文学だ!

個々の老人たちの「生きること」を、著者も実に生き生きと描いている。

この「驚きの介護民俗学」が民俗学の雑誌ではなく、介護・看護に関する雑誌で連載された、というのもこの本を堅苦しいものにしなかった理由の一つだろう。

もしかしたら、民俗学は「学問」という堅苦しいスタイルよりも「文学」というスタイルの方が似合うのかもしれない。

それぞれの「生きること」を文学として描く。

例えば、宮本常一の代表作「忘れられた日本人」は、そこに登場する人たちがどのようにして生きてきたかを文学的に描いている。「土佐源氏」に至っては文学的に高く評価されている。

柳田國男もかつては文学を志していた。

民俗学にとって、「文学のスキル」は重要なことなのかもしれない。

そう思わせるこんな話がある。

大学のころ、口承文芸、すなわち、昔話に関する講義をとっていた。

これが評判だった。

どういう評判かというと、「つまらない」という評判なのだ。

ある先輩が、そのつまらない講義に対してこんな解説をしてくれた。

「あの先生は口承文芸を研究している割には、話し方が下手なんだ」

民俗学の知識を文学的に語るスキルが、その先生にはなかったわけだ。

民俗学とは人の「生きること」を描くことである。それが無味乾燥な学術用語で描けるわけがない。

民俗学はもっと文学的に、「生きること」に向き合い、「生きること」を描くべきなんじゃないだろうか。

そんな驚きの発見を、この本はもたらしてくれた。

海賊警戒水域に行った僕が映画「キャプテン・フィリップス」を見た!

海賊に襲われた船長の実話をもとにした「キャプテン・フィリップス」という映画を見た。以前、僕は「ピースボートの海賊水域で自衛隊護衛の矛盾を参加者がツッコんでみた」という記事で、「どうやってぼろ船が客船を攻略するのか教えてほしい」と書いた。今回はこの映画を見ながら、どうやって海賊が客船を攻略するかを考えてみよう。


貨物船と海賊の戦いを描いた実録映画「キャプテン・フィリップス」

「キャプテン・フィリップス」が公開されたのは、2013年。主演は「ダ・ヴィンチ・コード」のロバート・ラングドン役などで知られるトム・ハンクスだ。

あらすじ

リチャード・フィリップスは貨物船「マークス・アラバマ号」に乗って、ソマリア沖を航海していた。そこは「アフリカの角」と呼ばれる海賊多発地域。マークス・アラバマ号は海賊たちが乗るボートに付け狙われてしまう。

1度は追跡を振り切ったマークス・アラバマ号だったが、海賊たちは翌日も現れる。リチャードたちはホースによる放水などを試みるも、4人の武装した海賊たちは船に接近し、とうとう乗り込んでしまう。果たして、リチャードと船員たちの運命はいかに?

コンテナ船、海賊船、小型ボート、救命ボート、軍艦と、船好きにはたまらない船のオンパレードだ。

ストーリー自体も緊迫感がありとても面白い。また、海賊側も単なる悪者ではなく、貧しいソマリアで暮らす彼らの事情が描かれている。特に、アメリカ海軍が解決に乗り出してからの彼らの追い詰められっぷりにも緊迫したものがあった。

また、トム・ハンクスが名優と謳われるのも納得の演技を見せる。終盤、いよいよ命の危機に瀕して「家族に合わせてくれ!」と叫ぶシーンは鳥肌もので、とても演技を見ているものとは思えない。

一方で、モデルとなったリチャード・フィリップ氏本人が「自分はこんなヒーローではない」と評しているように、あくまでも実話をもとに虚飾織り交ぜた映画であることを忘れたはならない。実際はもっとひどかったらしい。

とはいえ、ここで描かれた内容が海賊対策の参考になるのは間違いないであろう。

海賊警戒水域とは?

世界の海における海賊警戒水域は、実は意外と広い。ピースボート88回クルーズでは、インドのムンバイからスエズ運河に至るまでの約2週間が海賊警戒水域だった。ここにいる間は、夜間は外に一切明かりが漏れないようにする。

このうち、日本の海上自衛隊が護衛してくれるのは、ソマリア沖のアデン湾水域というところだ。距離にして1100㎞。護衛艦がついてくれるのは2日間。意外と短い。

ソマリア沖・アデン湾における海賊対処 防衛省・統合幕僚監部

ところが、この事件が起きたのはソマリア南東沖。自衛隊の護衛のない海域なのだ。

マークス・アラバマ号が最初に海賊と遭遇したのは「北緯2度2分・東経49度19分」の地点。アデン湾水域などとっくに通過し、ソマリア半島を回ってソマリア沿岸からそろそろ抜けようという場所だ。

つまり、よく「ピースボートは海賊が怖くて自衛隊に泣きついた」などという話を聞くが、

自衛隊がいない海域も十分危険であり、ピースボートはそんな海域を護衛なしで航海している。

では、実際に映画の内容から、海賊にピースボートの「オーシャンドリーム号」を占拠できるのか、検証してみよう。

検証① 海賊に襲われるまで

この映画は、船オタクとしても興味深いものだった。舞台が貨物船だからだ。オーシャンドリーム号から世界のいろんな貨物船を見て、一度は乗ってみたいものだと思っていた。

なぜなら、客船と貨物船は、構造が全然違うのだ。

ピースボートのオーシャン・ドリーム号がこちら。

以下にも船といったフォルムである。

一方、実際のマークス・アラバマ号がこちら。

この写真の船からコンテナを消すと、相当平べったい船だということがわかるはずだ。船を操作するところを「ブリッジ」と呼ぶのだが、オーシャンドリーム号のブリッジは船の前方にある。一方、マークス・アラバマ号のような貨物船のブリッジは後方についているのが一般的だ。船の後方に、ブリッジのある白い建物があり、前方の約9割はコンテナを乗せる広大なスペースとなっている。

それは、船の甲板から海面までの距離が、オーシャンドリーム号よりもマークス・アラバマ号の方が圧倒的に短いことを意味している。映画の中でリチャードが甲板を歩くシーンがあるが、それを見た僕の感想が「海が近い」だった。オーシャンドリーム号は8階の甲板から海を見ることが多く、海面ははるか後方に見える。一方、マークス・アラバマ号は、建物の2~3階から地面を眺めるような感覚で海が見えているのである。

さて、最初に海賊船に狙われた際、マークス・アラバマ号は次のような行動をとった。

レーダーで確認⇒目視で確認⇒スピードアップ⇒海軍に通報

おそらく、オーシャンドリーム号も海賊に遭遇したら同じような行動をとるだろう。もっとも、「スピードアップ」したマークス・アラバマ号の速度は17ノットである。これは、普段のオーシャンドリーム号の速度とそんなに変わらない。

一方、映画の中で貨物船の乗組員たちは、「海賊のボートは26ノットも出してた!」と言っている。小型ボートの方がスピードが速いのだ。

その結果、2日目の遭遇でマークス・アラバマ号はとうとう追いつかれてしまう。

検証② 海賊たちはピースボートの船に乗り込めるのか?

翌日、再度現れた海賊たち。銃を撃ってくる海賊に対し、マークス・アラバマ号はホースからの放水で対抗する。

この放水機能がオーシャンドリーム号にあるかどうかは、残念ながら僕は知らない。そんなものを使うような危機に陥らなかったからだ。

しかし、海賊たちは放水にめげず、マークス・アラバマ号の横に船をつける。ああ、海賊侵入の危機……。

この時、僕はあれれと思った。

マークス・アラバマ号が全速力で動いている割には、船の横の波が少ないのだ。

僕の感触では、世界で一番波が穏やかなのが地中海で、一番波が荒いのが日本近海だ。ソマリア沿岸は決して荒くもないが決して穏やかではない。そんな海を航行するとき、オーシャンドリーム号の甲板から海面を見下ろすと、常にひときわ大きな波が上がっていた。

しかし、映画では実際にマークスアラバマ号を走らせているにもかかわらず、ほとんど波が出ていない。船の動いた後に彗星の尾のように現れる「澪」があるので、動いていることは確かなのだ。

もしかして、マークス・アラバマ号って軽い? マークス・アラバマ号の重さがわからないので何とも言えないが、先ほど見せた2隻の写真をよーく見比べてみると、確かにコンテナを積んだ状態でもなお、マークス・アラバマ号の方が小さく見える。

さらに、乗っている人の数も、オーシャンドリーム号が1000人近いのに対し、マークス・アラバマ号は20人。体重の平均が60㎏ぐらいだとすると、この時点で120トン軽いわけだ。

もしかしたら、マークス・アラバマ号はオーシャンドリーム号よりずっと軽かったのかもしれない。

だとしたら、重い方のオーシャンドリーム号の横はマークス・アラバマ号よりも波が強く、近づくのは映画よりもはるかに困難だということになる。

ただ、「撮影用のため、コンテナの中身は全部空っぽだった」ということも考えられる。いずれにしても、「映画よりも波が荒いはず」というのは確かである。

さて、映画ではマークス・アラバマ号に接近した海賊たちが鉄のはしごをかけて侵入してくる。はしご一本では足らず、夜中のうちに溶接して2本のはしごをつなげている。何度かのトライの末はしごが船に引っかかり、一人ずつ乗船してくる。

オーシャンドリーム号に接近することが難しいとはいえ、決して不可能ではない。オーシャンドリーム号もこんな感じで侵略されてしまうのだろうか。

だが、ここでさっき述べた、「甲板までの高さが決定的に違う」という事実が効いてくる。

映画では海面から甲板までの高さは大体、2階建ての家の屋上ぐらいの距離だ。

一方、オーシャンドリームの場合、最も低い甲板でも4階建てビルの屋上ぐらいの高さがある。

すると、海賊たちにとって問題がいくつも発生する。

問題① 小型ボートで「ビル4階建て分の長さ」のはしごを運ぶことは可能か。

そんな長いはしご、ボートのどこに置くのか。うまく置けたとして、かなり邪魔になるはずだし、航海中も不安定でしょうがない。だいたい、そんな重いはしごを乗っけたら船の重心がくるって転覆しかねない。

そもそも、「ビル4階建て分の長さ」のはしごはいったいどのくらいの重さがあるのだろうか。

そこで、いろいろなものの重さを計算できるサイトの力を借りた。

ちょこっと重量計算

これによると、直径30㎜、高さ3mの鉄パイプの重さは16.69㎏。

「はしご」はこの鉄パイプ3本を使って作れるとすると、その重さは約50kg。

十分人一人分の重さであり、よくこんなの持ち上げたな海賊、と感心するが、

これはあくまでも「建物1階分の高さ」である。

ということは、海賊が持ち上げた「建物2階分の長さのはしご」の重さは約100kg! にわかには信じがたいが、世の中400㎏を持ち上げる人もいるからなぁ。

もっとも、映画で見る限り、はしごは2階分の中さより少し短いようだ。

誤差も考えて実際は83㎏ぐらいだったのではないか。

オーシャンドリーム号の壁を昇ろうとしたら、長さはさらに倍近く必要になる。11mとすると計算してみると、約180㎏。これを持ち上げるにはプロレスラーのチャンピオン並みの体力が必要である。

海賊がオーシャンドリーム号を占領するには、長さ11m、重さ180㎏の鉄梯子をボートに乗せて海を渡る必要がある。重さは乗組員3人分以上だ。荒波を渡る中でどっちかの舷にはしごがよれば、船が転覆しかねないし、前後のバランスを間違えれば、やっぱり船が転覆する。本当に厄介な代物だ。

そんな邪魔なはしごを乗せて波をちゃぷちゃぷかき分けてオーシャンドリーム号のわきに来た海賊たち。さあ、はしごをかけるぞ!

ここで新たな問題が浮上する。

問題② どうやって180㎏のはしごを船にかけるのか。

持ってくるだけでも大変なはしごである。これを持ち上げてオーシャンドリーム号にひっかけなければならない。

同じ180㎏でも相手がダンベルだったらまだ楽だった。両手でつかんで垂直に持ち上げれば、常に重心が自分の足元に来るからだ。

しかし、この長さ11mのはしごの端っこを持って持ち上げようとすると、どうしても重心は数m先になる。これを持ち上げるのは大変だ。

そもそも、「はしごの端っこを持つ」ということは、「はしごのもうかたっぽが海に大きく突き出ている」ということであり、相当バランスが悪い。

転覆を防ぐためには、海賊たちが力を合わせる必要がある。映画の中で海賊たちは4人、はしご50㎏だったが、今度のはしごは映画のものより130㎏重いので、乗組員は2人にした方がいいだろう。

2人で力を合わせて重心の調節をして、力を合わせて持ち上げなければならない。何せ、今度のはしごは「重い」だけでなく「長い」のだから。

はしごの真ん中を持って、ぐるっと回して立たせる、という方法もある。それでも、180㎏ある長いはしごを持ち上げ、海の浮力に逆らって90度まわし、さらにはしごをひっかけるため5.5メートル持ち上げる。その間ずっと、はしごは持ち上げたまま。

これはいったい、何の拷問だろうか。

2人で協力すれば少しは楽になるのだろうが、その場合、海賊たちが隙だらけになってしまう。オーシャンドリーム号から海賊めがけて、いらない椅子とかテーブルとか落っことすには絶好の機会だ。

それでもがんばって何とかはしごを垂直に立たせた海賊たち。あとはひっかけるだけなのだが、ここで最後の関門が待ち受ける。

問題点③ どうやって揺れる船にはしごをひっかけるのか。

船は揺れる。海賊たちのボートも揺れるし、オーシャンドリーム号も揺れる。足場も目標物も不安定だ。

さらに、長さ11mにもなるとちょっとの誤差が命取りだ。手元が5度狂っただけで、12m先のはしごの先端は5mもずれるのだ。

これは、手元が5度狂うと、重心が1.4mもずれることを意味する。

どう考えても、はしごをうまくひっかけられるより早く重心が傾き、はしごは倒れる。

はしごが傾き始めたら、なるべく遠くまで180㎏あるはしごを放り投げることをお勧めする。はしごが海に沈む際に端っこが船のヘリに激突したら、船も道ずれにしかねない。

甲板からの侵入はかなり腕力と集中力を使う。

では、窓からの侵入はどうだろうか。窓ならはしごの長さは3m位で済むはずだ。それならば重さは50㎏位で済むだろう。

と考えた人に、この写真を見てもらいたい。

オーシャンドリームの窓には、あまりとっかかりがない!

これでは、ゆらゆら揺れる船に50㎏のはしごをかけても、すぐに外れてしまう!

この場合、5度手元がずれると、40㎝はしごがずれ、10㎝重心がずれる。やっとこさはしごをかけても、すぐ外れる。


これでもまだ、海賊が怖いだろうか。

結論:どうやって海賊がこのオーシャンドリームを攻略するのか、逆に教えてほしい。

ピースボートに洗脳・マインドコントロールは可能か?元乗客が検証!

今回は、以前に書いたピースボートで本当に洗脳されるのか、元参加者が検証してみたの続編である。ピースボートに乗客を洗脳・マインドコントロールする力があるのか、専門書をもとに検証していきたい。前回は「洗脳」という視点のみだったが、今回は「マインドコントロール」の視点からもっピースボートを見ていきたいと思う。


西田公昭『マインド・コントロールとは何か』

今回は、立正大学心理学部教授の西田公昭氏が1995年に出版した『マインド・コントロールとは何か』という本をもとに検証していこう。

洗脳とマインドコントロールは違う!

まず、この本を読んでわかったのが「洗脳とマインドコントロールは別物」ということだ。

「洗脳」とは、相手を長期にわたり拘束し、拷問・暴力・脅迫・薬物などを用いて、相手の思考を支配する方法である。

一方、「マインド・コントロール」はこれらの手段を用いない。そこに違いがあり、両社は別物、むしろ対極の存在だ。

ピースボートは洗脳しているのか?

元乗客という経験から言わせてもらうと、

洗脳に関しては絶対にありえない。

ピースボートのスタッフから拘束されたり、拷問・暴力・脅迫・薬物の類を受けたことはない。

「ピースボート」「洗脳」で検索してみるといろいろ出てくるが、本当に洗脳されていると思うのであれば、それは「ピースボートの船内で拷問・暴力・脅迫・薬物投与が日常的に行われている」と認識しているということである。

本当にそう思うのであれば、ネットでギャースカ言ってないで、物証をつかんで警察に情報提供するというのが良識ある人間のすることだろう。ネットで騒ぐだけの人は、「洗脳とマインドコントロールの区別もつかない」無知な人間の妄言であり、そんなものに耳を貸す必要はない。

問題は、マインドコントロールだ。

ピースボートはマインドコントロールをしてくるのか。これに関しては時間をかけて検証しなければならない。

ちなみに、Twitterで「ピースボート」「マインドコントロール」で検索すると、「洗脳」の時と比べて極端にツイート数が減る。ヘンなの。

マインドコントロールへの道① 情報の偏り

左翼側に偏った情報を刷り込まれる。これがピースボートが洗脳だのマインドコントロールだの言われるゆえんだろう。

マインドコントロールをしようとするときは、その団体の主張に相手を注目させる必要がある。

どのような情報に人は注目するのかというと、

・弁別性のある情報=目立つ情報

・一貫性のある情報=繰り返しだされる情報

・合意性のある情報=みんなが「そうだそうだ」という情報

が挙げられる。

確かにピースボートでその手の話題は目立つし、賛同者も多い。つまり、ピースボートの船内は左翼的な情報に注目しやすい環境だ。

だが、これだけは企業のCMやネット右翼のツイートをを見ているのとそう変わらない。これらの特徴は、僕らが毎日見ているテレビCMとそう変わらないのだ。

マインドコントロールへの道② ようこそ、ピースボートへ

参考文献には、カルト勧誘の手口として次の5つが挙げられていた。いずれも、相手の冷静な判断力を奪う方法だ。

①返報性

人はサービスを受けると、お礼をしたくなる。カルト教団などはこれを利用してターゲットに親切にして、「話くらい聞いてもいいかな」と思わせる。

ピースボートにおいては説明会が考えられる。無料で行われてはいるが、不自然に親切、というわけではない。そもそも、説明会に来ている人は最初から話を聴くつもりで来ているのだ。

②コミットメントと一貫性

いきなりハードルの高いことをさせず、ハードルの低いことからさせて、少しずつ要求のハードルを上げていくことで組織の主張を信じやすくさせる。

ピースボートのボラスタが最初にやる活動と言えばポスター貼りだ。

ぼくは初日から30枚ポスターを持ていき、最初の10枚は「ベテラン」と呼ばれるボラスタと一緒に回ったが、残り20枚は一人で回った。

どこがハードル低いねん! 「ポスター貼りあわない」と言って、ポス貼りをやらずに船に乗った人を何人も知っている。むしろ、「いきなりハードル高いことをさせる団体」とも言えるだろう。

③好意性

相手に親しみやすい人や、相手の好みの人を使う。

スタッフが乗客に近い距離で接したり、容姿端麗な人を使う、というものだ。

スタッフが容姿端麗かどうかは、「人の好みによるだろう」としか答えられない。ただ、おしゃれな人は多い。奇抜なファッションの人も中に入るが。

ただ、スタッフと乗客の距離が近いというのは大いにあてはまる。そこがウリの一つ、と言ってもいいくらいだ。

④希少性

「今だけ!」という限定品で釣る。

僕が乗った88回は当初「30歳未満99万は今だけ!」と言っていたが、後に「好評につきサービス継続」となった。

だが、船は年間3回地球を一周しているので、「今を逃したらもうチャンスはない」という宣伝の仕方は基本していない。

むしろ、この程度の限定品商法は、どこの企業も普通に行っている「企業努力」の一環だ。

⑤権威性

「著名人」や「専門家」の肩書を利用する。

ピースボートクルーズの目玉の一つは、ゲストとして乗船する水先案内人だ。彼らは著名人や専門家が多い。どう見ても権威性に頼っていると言える。

 

「乗船までの手法」はマインドコントロール度40%と言ったところだろうか。まったくその要素がないわけではないが、「カルト的」と断じるにはちょっと無理がある。

マインドコントロールへの道③ 5つのビリーフ

さて、マインドコントロールするには、「入会させる」だけではいくらなんでも不可能なのは自明のことと思う。

そのためには「ビリーフ」を置き換えなければいけない。

ビリーフとは、白い男性用パンツのことである。あ、それはブリーフでした。

ビリーフは、いわば「レッテル」に近い。「〇〇は✕✕だ」という認識のことだ。「ピースボートは素晴らしい団体だ」も、「ピースボートはとんでもねー団体だ」もビリーフだ。あくまでも「認識」であって、事実かどうかは関係ない。

このビリーフを自分たちに都合のいいものに置き換えられれば、マインドコントロールできるというわけだ。

では、どんなビリーフを操ればいいのだろうか。それは次の5つである。

①自己  「僕は誰なんだろう」という認識。

②理想  「自分はこうあるべき」「世界はこうあるべき」という認識。

③目標  「自分はこのように行動しなければならない」という認識

④因果  「世界はこの法則で動いている」「歴史の影にはいつも〇〇がいる」「陰謀だ!」という歴史や世界に対する認識。

⑤権威  「先生の言っていることは正しい!」という認識。

この5つを変えてしまえば、マインドコントロールできるのだ!

マインドコントロールへの道④ さあ、ビリーフを変えよう

さて、どうやってビリーフを変えていくのか。ピースボートの実態に即してみていこう。

STEP.1 ターゲットに接触する

まず、ターゲットとの接触段階である。マインドコントロール団体は、相手に合わせたメッセージを巧みに使って接触してくる。それは、次の4つの欲求に即したものだ。

①自己変革欲求  相手の罪悪感や劣等感をぬぐうようなメッセージを発信する。「君はダメ人間じゃない」といった感じだ。

②自己高揚欲求  相手の価値を認め、目的を与えてあげる。「君は素晴らしい。そんな君の能力なら、世界を変えられる」といった感じだ。

③認知欲求  相手の知らない真実を教える。コンビニ本の陰謀論みたいな感じだ。

④親和欲求  相手の孤独をぬぐう。「君は一人じゃない」「俺たちは仲間だ」といった感じだ。

どれもピースボートで言われたことがあるような気もする。③に関してはピースボートの真骨頂と言ったところだろうか。

ただ、一方でこうも言われたことがある。

「船に乗ったからって何かが変わるわけではない」

これは①②と相反する話だ。

ちなみに、乗船者が船の中でいろんなことを学んだあと、口にする言葉がこうだ。「結局、俺らに何かが変えられるってわけでもないよね」。これまた②とは反する結果だ。

STEP.2 自分たちのビリーフをアピールする。

ターゲットに接触したら、自分たちのビリーフを魅力的に伝える必要がある。

「自分を変えたい」と思っている人には「変われる変われる!」という自己ビリーフを与える。

「世界を変えたい」と思っている人には「世界を変える力が君にはある!」という理想ビリーフを与える。

「目標がない」と思っている人には「ここを目指そう!」という目標ビリーフを与える。

「これからの世界はどうなっていくのだろう?」と思っている人には「世界はこうなっている」という因果ビリーフを与える。

「誰を信じたらいいの?」という場合は「この人を信じなさい!」という権威ビリーフを与える。

どれも思い返せば、ピースボートにあてはまる気がする。

ピースボートでは水先案内人の講演会が行われる。ほとんどが著名人や専門家だ。この時点でもう、権威ビリーフである。いろんな人がゲストでくるが、中には自己ビリーフ理想ビリーフに当たる話が得意な人もいる。

因果ビリーフに関しては、ピースボートで最も取りざたされる話だろう。確かに、「平和」や「国際交流」などに関する話は多く、中には日本の歴史教科書では教えないような話も出てくる。

ただ、「因果ビリーフ」として確立するには、「世界の法則はこうだ!」レベルにまで高める必要がある。ピースボートで提供される情報はばらばらで、それらを関連づけて教えてくれるわけではない。

一方、「目標ビリーフ」に関してはピースボートではあまり当てはまらない。

STEP.3 5つのビリーフを関連付ける

5つのうち4つのビリーフをピースボートは提供する。やっぱり、マインドコントロール団体なのか。

ただ、この5つをバラバラに与えるだけではだめだ。5つをそれぞれ関連付けなければいけない。

つまり、

「自分の良くないところを改善し(①自己ビリーフ)、理想の自分になれる(②理想ビリーフ)。更なる高みを目指し(③目標ビリーフ)、世界の仕組みを知る(④因果ビリーフ)、それができるのはピースボートだけ!(⑤権威ビリーフ)」

という教義に近いものを植え付けなければいけないのだ。5つのビリーフを関連付けた物語を作らなければいけない。

この「教義」や「物語」に相当するものがピースボートには決定的に欠けている。

ピースボートは情報、すなわちビリーフは与えるが、それらを関連付けて物語を作るということを全くしない。特に、自己ビリーフ・理想ビリーフと因果ビリーフの間の関連性が全然ない。

僕自身、ピースボートの主張というものを知らない。8か月ボランティアスタッフをして、108日船に乗り、その後も事務所に顔を出しているが、「現在、公式に主張しているのは①戦争反対と②9条賛成の2つだけ」ということしか知らない。しかも、それ自体1度聞いただけで、正直これであってるかなといううろ覚えのレベルでしかないのだ。

ピースボートが乗客をマインドコントロールするには、ピースボートの思想を中心とした教義を作らねばならない。

STEP.4 ビリーフを受け入れさせる

ビリーフによる教義を作っても、受け入れてもらわなければ話にならない。聖書の内容を知っていても、それを信じるかどうかはまた別な話なのと一緒だ。

その方法としては次のようなことが考えられる。

感動や興奮を利用する方法がある。カルト教団がよく使う手法だ。ピースボートでは運動会などのイベントで感動や興奮をすることはあるが、講演会などで感動・興奮をすることはまれだ。

考えるよりも行動させる、という方法もある。ただ、ピースボートでは船の中にいるので行動がものすごく制限される。考える時間の方が圧倒的に長い。

アイデンティティを攻撃するという方法もある。罪を告白させたり、相手を攻め立てたりして、自尊心を崩壊させるという方法だ。だが、ピースボートでこの手の手法は一切行われていない。

 

このように見ていくと、ピースボートはSTEP.2で止まっていることがわかる。マインドコントロールの要素が全くないわけではないが、ただ単に情報を垂れ流すだけでは人を操ることはできない。それだけなら、相手の欲しいものをちらつかせ、「新しい生活をしよう!」というビリーフを押し付けてくるスマートフォンのCMと大して変わらない。

マインドコントロールへの道⑤ ずっとマインドコントロール!

さらに、一時的にマインドコントロールに成功しても、その状態を継続させないと意味がない。ピースボートにおいては「船に乗ってる時は平和運動に関心があったけど、船を降りたらもうどうでもいいや」ではマインドコントロール成功とはいえないのだ。

ずっとコントロール状態にするには、情報・感情・行動・生活を管理していく必要がある。

情報の管理

情報を管理するには閉鎖的な場所に置く必要がある。そういう意味では「船」はうってつけだ。

だが、地球を一周したらおろされてしまう。こちらが「まだ乗ってたいよー!」と喚いても、「いいから降りろ!」とおろされてしまうのだ。これは、カルト教団などではありえない。

情報管理の方法として、スケジュールで縛って吟味や意見交換をさせない、というものもある。また、「教義」を受験勉強のごとく勉強させるというものも挙げられる。

だが、ピースボートの船内は自由時間しかないし、勉強時間もない(英語の勉強をしている人たちはいるが)。そもそも、教義が書かれたテキストが存在しないし、何度も言う通り教義自体が存在しない。

感情の管理

感情の管理の方法では、自分たち以外を敵と思わせる方法があるが、「ピースボートの外は敵」!だなんて思ってたら、とてもじゃないがポスター貼りなんかできない。ポスター貼りが終わるころには、貼らせてくれた人たちへの感謝でいっぱいだ。

感情管理の一環で、離脱を認めずに団体に依存させる、という方法もあるが、どれだけ依存しようと地球一周したら強制的におろされるのは先ほど書いた通り。

行動の管理

行動を管理する方法としては、団体の意にあう行動をしたら褒め、意に背く行動をしたら罰する、という方法がある。

積極的に行動する人が褒められるという風土は確かにある。罰に関しては僕は聞いたことがない。

生活の管理

単調な生活を送らせ、生活を管理することで思考能力を奪う方法がある。

しかし、船では常に何らかのイベントがあるし、寄港地は刺激に満ちている。

また、恋愛を制限することで生活を管理しようとする。これも当てはまらない。どこぞのアイドルじゃあるまいし、船内は恋愛自由だ。自由すぎるほどだ。

毎日重労働を課し、肉体疲労を持って管理する方法もあるが、基本、船内生活は疲れない。むしろ、船に乗って運動しないから太る人が多いくらいだ。

 

このように見ていくと、ピースボートはびっくりするくらい教義定着の努力をしていない(そもそも教義がないのだが)。情報は与えるが、あとはほったらかしなのだ。

まとめ

確かにピースボートは左翼的な情報を魅力的に流す。しかし、それを「教義」としてまとめ、相手に受け入れさせ、定着させる要素が決定的に欠けている。これでは、テレビCMの域を出ない。

逆に言うと、この程度であっさり洗脳されて帰ってくる人は、地球上のどこへ行っても洗脳されて帰ってくるだろう。それどころか、テレビCMでも怪しい。新商品や限定品を宣伝されるままにホイホイ買ってしまう危険がある。

一方で、ピースボート側が悪意を持ってマインドコントロールしようとすれば、教義を作り、相手に受け入れさせ、定着させるだけでいいともいえる。その辺、ピースボートは気を引き締めて活動するべきであろう。

それでも「ピースボートはマインドコントロール団体だ!」と主張する人へ

マインドコントロールされている人は表情でわかるという。だから、どうしてもピースボートがマインドコントロール団体だという証拠が欲しいのであれば、船から降りてきた人の表情をチェックすればいい。

とても疲れていたり、何かにおびえていたり、敵意むき出しだったり、バカにしたような態度をとっていれば、マインドコントロールされている可能性がある。

たいていは笑顔で船から降りてくるのだが。

海の上の老人ホーム?ピースボートの高齢者世代に若造が物申す!

以前に「ピースボートで本当に洗脳されるのか、元参加者が検証してみた」と言う記事を発表したところ、「シニア世代には考えが凝り固まった人が多い!」とのご意見をいただきました。反響はうれしい限り。と言うわけで、今回は「ピースボートは高齢者世代に若輩者が一言物申す!


ピースボートの9割はシニア世代

ピースボートの乗客と言うと、若者のイメージが強いだろうか。

実は、9割は高齢者世代である。

僕が乗船した88回クルーズは「30歳未満99万円」だったのもあって若者が多いと言われているが、それでも8割が高齢者世代だ。

船内では高齢者世代を「シニア層」と呼んでいる。明確な定義はないが、だいたい50~60代以上の人を僕らはシニア層と呼んでいた。

そもそも、船の世代構成はどのようになっているのだろうか。

僕の感覚では、若者は18~24歳くらいが多かった気がする。これより下の世代はほとんどいない。

もっとも、クルーズによっては船内保育園がある場合もあり、そういったクルーズならば幼児の姿も多く見かけるだろう。

20代後半以上になると、少しずつ数が減っていく。30代になるとさらに数が減る、40代や50代はほとんど見かけない。この世代は働き盛りで、仕事を休む・退職して船に乗る、と言う決断はなかなかしづらい。しかし、60代以上になると一気に数が増えるのだ。

若者は朝が遅い。そのため、朝のピースボートのフリースペースはほとんどシニア層である。さながら、海の上の老人ホームと言ってもいい。

どうしてピースボートは高齢者世代が多いのか

どうしてこんなに世代に偏りが生まれるのだろうか。

簡単に言えば、原因はお金と時間である。

地球一周のハードルとして大きいのがお金と時間だ。

若者は、時間がある。学生はもちろん、まだ社会で重要な役割を占めているわけでもないし、独身者も多い。

しかし、若者にはお金がない。さらに、「履歴書に穴をあけると復帰しづらい」と言う意味不明な社会の風潮もある。

30~50代になってくるとお金はあるが、責任ある役職に就くうえ、家族もいるのでなかなか会社を休んだりやめたりができなくなる。

そう考えると、シニア世代はお金も時間も存分にある。数が多くなるのは必然なのだ。

実際、シニア層に船旅はお勧めだ。移動に疲れないからだ。船での移動中はじっくり体を休めたり趣味に精を出したりして、寄港地だけ頑張ればいい。寄港地でもバスツアーなどがある。

シニア世代に一言物申す!

分母が大きくなれば、当然その中にはマナーが悪いシニア層もいる。

びっくりしたことがある。

船内の通路は狭く、人二人並べばもう通れない。すれ違うときはちょっと気を使う一方、普段話さないような人とでもすれ違う時ぐらいは「おつかれー」などとあいさつをするので、それきっかけで仲良くなる場合もある。

その通路にシニア層が4人でたむろして通れなかったという経験がある。

ただでさえ狭い通路に4人がたむろして、ぺちゃくちゃしゃべっている。小学校の頃「道路では広がらないようにしましょう」と言う教育を受けた僕は、この光景に唖然とした。

また、友人の自主企画に出席した際、ペチャクチャしゃべっているシニア層を見たこともある。黙って聞いてろよと言う言葉が出かかった。

さらに、ちょっとしたトラブルから、僕が非を認めて謝罪したにもかかわらず「ぶっ飛ばすぞ」と脅されたこともある。僕の勘違いが原因だったのだが、殴られるほどの失態を犯したわけではないし、そもそも僕は自分の非を認めて謝罪した後にもかかわらず、なのだ。「ああ殴れよ。殴ったら困るのはそっちだぞ」と言いたかったが、友人の大切な企画の最中のことで、僕が殴るのはもちろん、殴られるのも邪魔をしてしまうのでぐっとこらえた。

「迷惑」とまで行かなくても、「マナーとしてどうよ」と主たことは何度もある。

ピースボートではいろんな企画があり、参加者にも質問や意見を主張ができるものも少なくない。

不思議なことに、シニア層の人は「自分語り」から入ることが多いのだ。

「え~、私は〇〇県から来た××と申します。長年△△業に携わっていまして~」

人にものを尋ねる前に自分から名乗るというのは大変礼儀正しいことだが、正直、そこまで求めていない。

そして、ここから自分語りが始まる。経歴紹介などをし始めるのだが、はっきり言ってそれがこの企画とどう関係しているのか、どう質問につながるのか、一体何を聞きたいのか、さっぱりわからない。だいたい3分くらいしゃべっていて、イライラがピークに達してもまだしゃべり、ようやく質問に入る。黙って聞いていれば質問だけ言えば言いような内容ばかりである。

不思議である。昔は会社などでプレゼンをやっていた人もいるはずである。どうしてこんなに要領を得ないのか。年を取ってまとめるのが弱くなったというよりは、最初からまとめるつもりがないのだ。

また、考えの凝り固まった人も多い。意見の合わない人に頭ごなしに怒鳴り散らすのを見たこともある。言われた方の人は「あなたたち上の世代のそういう態度は、下の世代から見ると恐怖なんです」と反論していた。

これはピースボートだけの問題ではない

今、ピースボートに限らず、日本中で「キレる老人」が問題となっている。確かに、町中を歩いていても店や駅などで声を荒げているのは高齢者世代が多いように感じる。

また、万引きの高齢かも問題になっている。まったく、最近の年寄はなってない!

と言いたくなるが、どうやらこれは老いからくる生理現象らしい。

人間は年を取ると前頭葉の働きが衰える。そのせいで感情のコントロールが難しくなってしまう。

テレビでそのように解説した後「年寄り笑うな行く道だから、と言うことで大目に見ましょう」などと言っていた。

だが、「迷惑をかけられる」と「被害をこうむる」は全く違う。迷惑をかけてしまうのはお互いさまだが(そもそも僕はADHDという、他人に迷惑をかけることが前提の生き物である)、相手に被害を与えていい理由、相手の気分を損ねていい理由、人を恐喝していい理由には全くならない。そこは声を大にして言いたい。

ピースボートで好かれるシニア世代になるために

ここまで来るとピースボートは希望難民御一行様どころか、単なるマナーの悪い老人ホームのようにも聞こえてしまう。

しかし、もちろん尊敬に値するシニア層も多い。マナーの悪いシニア層と交流することなどないが、尊敬に値するシニア層との交流はとてもためになる。

そんな尊敬すべきシニア層の皆様を思い出して、どう振る舞えば好かれるシニア層になれるかと考えたところ、一つの結論に達した。

それは、年齢など忘れることだ。

好かれるシニア層と言うのは、相手が自分の子供や孫ぐらい離れていても、年齢の差を感じさせず、対等に扱う人が多い。対等に接してもらえると、むしろこちらも敬意を感じるのだ。

また、自分から若者の中に飛び込む人もいる。一緒になってはしゃぐと、多少のことはあっても「どこか憎めない」となるのだ。

あるシニア層の人は「ピースボートは若者が主役で、自分はそれを支えるのが役目」と言っていた。そうやって一歩引いた態度をとれる人は本当に素敵だと思う。

いろいろ言ったけど、お年寄りは大事にしよう!

ここまで、今までほとんど人に言わなかったシニア層への不満をぶちまけた。中には自分の中でもやもやしたままだったものもあり、おかげですっきりした。

とはいえ、どうしてピースボートが若者を安く船に乗せられるのか、と言うのを考えれば、答えは「きちんとお金を払って乗っているシニア層がたくさんいるから」と言えよう。

ただでさえ、船旅をっかく・運営するというのはお金がかかるのだ。おまけにピースボートは安いことで知られている。どういう経営状況なのかは見当もつかないが、とりあえず今日までつぶれずに活動している理由の一つが、お金を払ってくれるシニア層であることは容易に想像できる。「若者だけの船」だったら格安で地球一周は難しいかもしれない。

ただ、金さえ落とせば威張っていい、と言うわけではない。敬われるシニア層はやはりそれなりのふるまいをしているのだ。

これからピースボートに乗ろうというシニア層の人にはぜひ、敬われるシニア層になってもらいたい。そして、若者にはぜひとも、そんな尊敬できるシニア層との交流を楽しんでもらいたい。

小説:あしたてんきになぁれ 第4話 歌声、ところにより寒気

明日がどうでもいい亜美と、明日がいらないたまきの住む「城」に、新たな仲間、明日が怖い志保が加わった。ある日、ミチに彼のバンドのライブに誘われたたまきは、断りきれずにライブに行くと約束してしまう。しかも、その姿を亜美と志保に見られてあらぬ誤解をされてしまう。しかし、ライブ当日、穏やかそうに見えた3人の暮らしにある事件が起こる。正確には、ある事件を起こしてしまう……。

「あしなれ」第4話、スタート!


第3話 病院のち料理

登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


夏の朝。ブラインド越しに日差しが注ぎ込む。「城(キャッスル)」の中には志保が一人。テレビで朝のニュースを見ている。今日のトップニュースは国境の島に、外国の船が近づいたというものである。

ふと、悪寒が走る。何か明るい話題はないかとチャンネルを変える。

志保が「城」で暮らし始めて二週間。何とか、クリーンでやってこれた。

やればできる。きっと大丈夫。

「たっだいまー」

勢いよくドアが開き、日の明かりとともに亜美が帰ってきた。

「いやぁ、朝からあっついねぇ」

「ほんとだねぇ」

志保がふふふと笑った。

「城」の同居人に志保が増えてから、亜美は「仕事」を外で行うようになった。場所はホテルだったり、相手の家だったり。たまき曰く、ようやく亜美も「配慮」という言葉を覚えたらしい。

「あれ?」

亜美は室内を見渡した。いつもなら必ずいる、たまきがいない。

「たまきは?」

「なんかね、公園に行くって言ってたよ」

志保が、テレビを見ながら答える。

亜美は、鞄を床に放り投げると、ソファに座り、テーブルの上に足を投げ出した。

「あいつ、たまに公園に行くけど、一体、何やってるんだ?」

「さあ」

志保が答える。

「ちょっと、見当もつかないなぁ」

 

写真はイメージです

その公園に行く道のりは、たまきにとってはちょっとした旅行だ。

まず、たまきにしてみれば三途の川に等しい、黒いアスファルトの大通りを渡り、歓楽街を出なければならない。

歓楽街を抜けると、線路と電気屋の間の大きな道を歩く。しばらくすると、人でごった返すスクランブル交差点につく。

ここで、線路の反対側へ行ける。

線路をくぐったら今度は左へ。たまきの大嫌いな人ごみの中を歩き、駅についたら、吐き気を抑えながら駅の構内を通り地下へ。そして、駅に背を向けて地下道を歩きだす。

この辺でそろそろ疲れてくる。普段歩かないたまきが歩いているという疲れもあるし、大嫌いな人ごみ、それも、東京随一の人ごみの中を歩いてきた疲れもある。

すれ違う人がほんの一瞬、自分に目を向ける。この、ほんの一瞬が大嫌いだ。

疲れてきたたまきにとって、地下道の動く歩道はありがたい。もたれかかるように乗る。

地下道を抜け、道路を歩道橋で渡ると、緑の木々が見える。公園だ。

公園の林の中を歩くと、広場へとつながる階段がある。

聞こえる音は、広場にある人工の滝の音、やかましいぐらいのセミの鳴き声、そして、若い男の歌声だった。

男は、夏にもかかわらず、日差しの中で歌っていた。午前中とはいえ、気温は二十五度を越し、男も汗を流している。

男は、階段に腰を下ろして、アコースティックギターを腿に乗せて歌っていた。

ハイトーンで、芯のある声。

その男はたまきの顔見知りだった。

しかし、たまきは彼のことをあまり知らない。

まず、名前も知らない。「ミチ」と呼ばれてはいるが、本当の名前は知らない。

年はたまきの一つ上の十六。仕事は知らない。学生ではないらしい。また、プロのミュージシャンを目指しているらしく、ほぼ毎日、ここで歌っているらしい。

たまきは、ミチの座っている段の日陰に腰を下ろした。

肩からかけていた鞄を降ろすと、その中からスケッチブックとペンケースを取り出した。

斜め前にある高層ビルを描き始める。そのため、体の向きが若干ミチの方に動く。

左手に握った黒い鉛筆で一心不乱に、風景の模写をするたまき。その左隣でギターをかき鳴らして歌うミチ。

――さあ、歩いて行こう――

――光あふれる明日へ――

――さあ、手を伸ばそう――

――光あふれる未来へ――

たまきは自分の絵が嫌いだった。

黒い鉛筆ですべてを書くのだが、どうも、暗いのだ。

だったら、色鉛筆を使えばいいじゃないかという気がするが、色鉛筆で書いてもやっぱり暗いし、色を使うのはあまり気分が乗らない。

だから、たまきはミチの歌が好きだった。

はっきり言ってしまえば、どこかで聞いたような歌詞である。目新しいメッセージなんてものはなく、きれいごとと言ってしまえばそれまで。

それでも、たまきはミチの歌が好きだった。彼の歌を聞いていれば、自分の絵も少しは明るくなるんじゃないか、そんな気がした。

断っておくが、たまきは歌っているミチ本人は嫌いである。

ちゃらくてなれなれしいのも嫌なのだが、目つきもいやらしい。確実に、たまきに対してやらしいことを考えている。そういう経験のないたまきでも、本能的に感じ取れる。むしろ、たまきは他人からの目線に敏感だと言えるだろう。

だから、歌声に耳を傾け、体の向きも少しミチに傾けていても、視線を送ることは決してなかった。

公園の方に視線を送ると、日曜日だからか、いろんな人がいる。道路に面した日向の方では、スケボーに興じる若者たち。一方、滝のそばの日陰には、ホームレスと思われるおじさんたちが座っている。彼らに何か、プリントを配っている人はボランティアだろうか。

ビル街の中で緑に囲まれた、都会の喧騒を離れたと表現される公園だが、こう見ると、光と影の都会の象徴の気がした。

今の二人、たまきとミチもそうである。日向で汗をかきながら、希望に満ちた歌を歌うミチ。日陰で鉛筆で、童話の魔女の森みたいな絵を描くたまき。

「ありがとうございました」

ミチが一曲歌い終え、ギターの余韻を右手で止めると、宙を見ながら言った。

「今の、だれに言ったんですか」

たまきが、ミチの方を見ないで尋ねた。

「世の中」

聞かなきゃよかった、とたまきは思った。

「そこ、暑くないですか」

午前中とはいえすでに気温はかなり上がっている。ミチは、ずっと日向で歌っている。

「暑いね」

ミチも、たまきの方を向かずに答える。傍らに置いてあった、水の入ったペットボトルに口をつける。

「ぬるっ!」

当然である。ずっと日向に置いてあったのだから。

「暑いなら、日陰に入ればいいじゃないですか」

たまきはミチの方を見もしない。

「いや、こういうのは見た目も大事なんだよ。太陽の光に照らされてこそ、ロックンロールなんだよ」

言ってる意味が分からない。たまきのイメージでは、ロックと太陽は程遠いものだったし、そもそも、さっきの歌はロックではなく、フォークに近いものではないだろうか。

「今度、ライブがあるんだよ」

「そうですか」

「たまきちゃんもきなよ」

たまきは男にちゃん付されるたびに、背中がぞわっとなる。

しばらく沈黙が二人を包んだ。

「……わかりました。いきます」

「え?」

ミチが初めてたまきの顔を見た。たまきもミチの顔を見る。

「どうしたの突然。今まで、頑なに断り続けてきたのに」

「いい加減、断るのもめんどくさくなったんで。一回くらいなら」

たまきはそういうと、顔の向きを被写体のビルへと戻した。

「さてと」

ミチは立ち上がった。

「バイトの面接に行ってくるか」

そういうと、ミチはたまきの方を向いた。

「何のバイトか聞きたい?」

「どうでもいいです」

「受かったら教えるよ。ぜってーびっくりするから」

なんだかかみ合わない会話を残し、ミチは公園を去った。

一人残ったたまきは、つまらなそうに作業を進める。

びっくりなんてここ何年もしていない。むしろ、トイレでリストカットして、自分が他者をびっくりさせている側だ。

確かに、クラブのトイレで志保が倒れているのを見たときはパニックになった。しかし、それは何をしていいのかわからなかったからで、びっくりとは少し違う。

思うに、びっくりするにはある程度高いテンションが必要だと思うのだ。

そんなことを考えながら、作業を進めていたたまきの肩を誰かがたたいた。

同時にたまきの傍らにしゃがみ込む、金色の長い髪。

ノースリブの腕に見える、青い蝶の入れ墨。

聞きなじんだ声。

「何々、二人いい感じじゃん」

たまきの視界に亜美のにんまり顔が飛び込んできた。

たまきにしては珍しく、本当に珍しく、思わず「キャー!」と仰天の叫び声をあげた。

 

写真は都庁です

「あっついねー」

亜美が手で顔を仰ぐ。

「今日、最高気温、三十二度だからねぇ」

志保が太陽の方に目をやりつつ、タオルで汗を拭きながら、蝉の歌声をかき消すように答える。三人は階段を降り、広場に立っている。スケボーを楽しむ若者も、ホームレスの皆さんもみな男性。女性は三人と、ホームレス集団の中にいる、ボランティアと思われる女性だけだ。

「そうじゃなくて、たまきとミチがさ……」

「あ、そうだね。たしかに熱かったねぇ」

志保が、町で見つけた野良猫をなでるような優しい目つきでたまきの方を見る。

「だから、二人が思ってるような関係じゃないですから!」

たまきは二人に背を向けて立っている。背を向けている理由は一つ、赤くなった顔を二人に見られないためだ。胸の前ではしっかりスケッチブックをホールドしている。ただでさえ恥ずかしいのに、スケッチを見られたら恥の上塗りだ。

「ほう、ウチらが思ってる関係じゃないと」

「もっと親密な関係ってこと?」

「オトコとオンナの一線を越えちゃったわけだな。フムフム」

この二人は、何が何でもたまきとミチを「そういう関係」にするつもりだ。

「そもそも、二人とも、何でここにいるんですか」

「いやね、たまきがよく公園に行くっていうからね、何してるのかなって見に来たらねぇ」

「まさか密会してるなんてねぇ。いやぁ、たまきちゃん、若いなぁ。一歳しか違わないけど、若い!」

「だから、密会じゃないですって」

たまきは二人に背を向けたまま、日陰でうつむいて答える。

「階段でねぇ」

「二人より添って、ねぇ」

「寄り添ってないです! かなり間隔開けて座ってましたから!」

「でも、同じ段で、ねぇ」

「ねぇ」

「そういう関係じゃないなら、違う段に座ればいいじゃない、ねぇ」

「ねぇ」

たまきは痛いところを突かれた。たまきが公園に来た時、すでに、ミチは階段に腰掛け歌っていた。たまきは、わざわざ同じ段に座って絵を描き始めた。

理由は、ミチの歌を聴きたかったからだ。ミチのバカみたいに明るい歌を聴きながら書けば、少しは自分の絵も明るくなると思ったのだ。

だから、「なぜ隣にいた」と聞かれれば、「ミチの歌が好きだから」となる。

その言葉をたまきはそのまま言おうとした。だが、もしそんなことを言ったらどうなるだろうか。

「ミチの歌が好きなんだってさ」

「え? それって、ミチ君のことが好きなんじゃないの?」

とちゃかされるに決まってる。

やはり「好き」というワードは威力が強すぎる。別の言葉に言い換える必要がある。

ならば、「嫌いじゃない」が妥当だろう。

「ミチの歌は嫌いじゃない」。まだ、ちょっと威力が強い気がする。セリフをもう一つ付け足して弱める必要がある。

やはり、ミチ本人のことは嫌いであるということは、はっきり伝えた方がいいだろう。

思考を巡らすこと約1秒。たまきは口を開いた。

「あの人は嫌いだけど、あの人の歌は嫌いじゃないんで」

たまきは二人の反応を見るために、ちらりと後ろを振り返った。

そこには、無防備なウサギを見つけたライオンのようににやにや笑う亜美と志保がいた。無防備なウサギを見つけたライオンがどんな表情をするかなど知らないのだが。

「あの人のことは嫌いなんだって」

「でも、あの人の歌は嫌いじゃないんだって」

「あれだよね。第一印象は最悪だけど、なんか惹かれるところがあって気になっちゃうってパターンだよね。うわぁ、マンガみたい」

「あたしもそういう恋愛したいなぁ。いやぁ、たまきちゃん、若い! 一つしか違わないけど若いなぁ」

どうしてこうなるんだろう。穴があったら飛び降りて、埋めてもらって、死んでしまいたい。

 

暑いので、自販機でコーラを三本買った。

「あれが都庁かぁ。東京にずっと住んでるけど、生で見たのは初めて」

志保が、公園と道路を挟んで反対側にそびえたつビルを見上げながら言った。

「あれだろ、竹島買ったじいさんが住んでるビルだろ」

「うーん、亜美ちゃん、どこから訂正すればいいのかな?」

志保が困ったように微笑む。

「まず、竹島じゃなくて尖閣諸島ね。それを買うって言い出したのは知事だけど、実際買ったのは国の政府。で、ここは職場だけど住んでるわけじゃないし。そもそも、前の知事だし。」

二人からちょっと離れたところでコーラを飲んでいたたまきは、ある事実に気付いた。

ミチのライブの時間を聞いていない。

行くと約束してしまった以上、それを反故にはしたくない。

つまり、たまきはもう一度ミチにあって、ライブの日時、場所を聞かなければならない。

思いつく唯一の方法は、またこの公園に来ることだ。たしか、ほぼ毎日この公園にいると言っていた。

しかし、もし今後「公園に出かける」などと言おうものなら、あの二人にあらぬ想像をされることだろう。かといって、嘘をついて外に出たら、万が一ばれた時、いよいよもって逢引き扱いされるであろう。

そうだ。ヒロキならばミチの連絡先を知っているかもしれない。ならばヒロキを通して連絡を取り、こっちで場所と時間を指定して会えばいい。なんなら、ヒロキの携帯電話を借りて、直接電話で話してもいい。

 

写真はイメージです

「城」まで歩いて帰った。時間はちょうどお昼頃だ。

「城」は雑居ビルの5階にある、キャバクラだった部屋だ。1階はコンビニ。2階はラーメン屋。3階は雀荘で、4階はビデオ店である。

お昼ご飯を1階のコンビニで買うことにした。

空から日差しが降り注ぎ、アスファルトから陽炎が立ち上る中、「城」の入っている太田ビルの前についた。

ビルの前には、ビールケースに腰掛けた男が一人いる。

強面のチャラ男。彼の名はヒロキ。亜美の客であり、ミチの「センパイ」である。何の先輩なのかは知らない。

「おっす。ヒロキ、お疲れ!」

亜美がヒロキに声をかけた。ヒロキは、4階の呼び込みをしているため、一日中ここに座っている。

「熱くないんですか?」

志保が尋ねた。

「大丈夫。水、飲んでるから」

ヒロキが答える。

亜美と志保は、コンビニへ入っていった。

たまきは階段を昇らず、ヒロキの前で立ち止まった。

ヒロキなら、ミチの連絡先を知っているはずだ。

ヒロキがたまきの方を見た。

「ん? たまきちゃん、どうした?」

ヒロキとたまきが一瞬目が合った。

たまきはふいっと目をそらした。

ヒロキとは全く知らないわけではない。見かけほど怖い人間ではないこともわかってきた。

それでも、ヒロキと目を合わせるのは怖かった。ヒロキに限らず、他人と目を合わせるのが怖い。

亜美とも志保とも、舞ともミチとも、いまだに目を合わせられない。

もっとさかのぼれば、学校でも誰とも目を合わせずに過ごしていたと思う。両親や姉とも目線を合わせることはなかった。

一体いつからだろう。いつから、人と目を合わせるのが怖くなったんだろう。

たまきは人に見られるのが嫌いだ。顔を見られまいと髪で覆い、素肌を見られまいと袖で隠す。

中でも一番見られたくないのが目なのかもしれない。目を見られると、自分の内面を見られているような気がする。

もっとも、内面を見透かされたからと言って、何が困るというのだろう。内面の何を見られるのをこんなにも恐れているのだろう。

それでも本能的に怖さをぬぐえなかったたまきは、何も言わずにヒロキの前を去ってコンビニへ入っていった。

 

写真はイメージです

午後一時、「城」の中は冷房が効いていて快適だ。今日はお風呂に行くまでもうここから出ない、たまきは決めた。それにしても、この部屋の電気代はいったい誰が払っているんだろう。

たまきはソファの上に横になってタオルケットをかけていた。メガネはかけたままだ。

たまきは一日のほとんどをこうして横になって過ごしている。別に体調が悪いわけではない。問題があるのはフィジカルではなくメンタルだ。メンタルの不調がフィジカルにも不調をきたし、気分が悪い。なんだか、乗り物酔いしているような感覚。乗り物ならば降りればいいのだが、この世界そのものが酔う場合はどうすればいいのだろう。

たまきの隣では、亜美がいびきとも寝息ともつかない音を出して寝ていた。

亜美の生活リズムは普通とは違っている。亜美の場合、深夜に「労働」するので、寝るのはそれが終わってから、明け方近くになる。その時は4時間しか寝ない。

午前中に起きて、朝ごはんを食べ、「城」でゴロゴロして、お昼を食べたら今度は二度目の睡眠に入る。今度は3時間ぐらい寝る。そうして、夕方ごろに起きてきて、そのまま深夜まで起きて、明け方また寝る、という生活サイクルである。体に悪そうだが、実際のところどうなのかは知らない。本人はトータルで7時間も寝ているから問題ないと思っているし、自身の健康にはあまり関心がない。たぶん病気にならないと思っているし、なっても何とかなるだろうと思っている。

志保は起きていた。彼女の生活リズムは二人に比べると、規則正しかった。ただ、たまきから見ると、あまり寝ていないように思えた。

志保はブラインドおろして、電気をつけた部屋の中で、本を読んでいた。ブックカバーをしているので何の本を読んでいるのかはわからないが、マンガの類ではなさそうだ。

そこにチャイム音が鳴り響く。

ピンポーンピンポーンピポピポピンポーン。

亜美がのそのそと起き上がる。

「誰だよ、こんな時間に……」

世間的には、来客が来ても何の迷惑でもない時間なのだが、亜美からしてみれば、眠りを妨げた、大迷惑な奴である。

一番、意識がしっかりしている、志保がドアを開けるため立ち上がる。その間も、ひたすらチャイムは鳴りつづける。

ピンポーンピンポーンピポピポピンポーン。

たまきは迷惑そうにドアの方を見る。どうやら相手は非常識な人のようだ。大方、亜美の「客」だろう。しかし、彼らはたいてい夜中に来る。こんな昼間にいったい誰だろう。

たまきの頭に、亜美の客以外でこの場所を知っている非常識な男の顔が浮かんだのと、志保が開けたドアの向こうから、その本人の声が飛び込んできたのはほぼ同時だった。

「志保さん、ちわーっす」

その声を聴いた瞬間、たまきは背筋が寒くなった。

「ミチ君。」

志保が、目の前にいる、最近知り合ったばかりの少年の名を呼んだ。

 

たまきは、久しぶりに自分の鼓動が高鳴っているのを感じた。

さっき、散々からかわれた相手が自分の部屋を訪ねてきている。そして、部屋の中には、からかった二人もいる。このままだと、ろくなことにならない。

要件はだいたいわかっている。ミチも気付いたのだ。ライブの時間や場所を伝えていないことに。

それを伝えに来てくれたのは別にいい。だが、なぜ今、ここなんだ。ライブに行くことを二人に知られたら、からかわれること請け合いじゃないか。

ただ、ミチは先ほどの公園での三人のやり取りを知らない。なのにそれを責めるのは酷というものだ。

だが、それにしてもタイミングが悪すぎる。なぜ、三人そろっているときに来た。先ほどの非常識なチャイムといい、たまきはますますミチのことが嫌いになった。

ともあれ、まずはミチをここから連れ出すことだ。屋上がいい。話はそこで聞こう。二人には適当にごまかせばいい。

ミチを連れ出そうとたまきが起き上った。それを見たミチは声を上げた。

「あ、たまきちゃん」

ミチが余計なことを言う前に連れ出さねば。たまきは珍しく、たまきにしては本当に珍しく、走り出した。

普段走らない人が走ると、あまりろくなことが起こらない。足をテーブルの脚にぶつけて、たまきはソファの上に転がり込む。

たまきの頭上をのんきな声が響く。

「ライブね、明日の7時! 場所はね……」

ああ、おわった。

「ライブ?」

けだるそうにソファの上に転がっていた亜美が起き出す。

「なになに? 何の話?」

「たまきちゃんがね、今度ライブ来てくれるんですよ」

「うそぉ!」

亜美の大声が響き渡る。

「たまきなんで? どういう風の吹き回し? イベントとか大嫌いじゃん」

「……会うたびにしつこく言ってくるので」

「ああ、男に強く迫られると、断れないタイプか」

「……そういうのとは違うと思うんですが……」

今度は横から志保が口をはさむ。

「若いなぁ、たまきちゃん。ほんとはいきたくないんだけど、しつこく言うから行ってあげるんだからね!ってやつだね」

「ああ、ツンデレか」

「……そういうのとも違うと思うんですが……」

「あ、そうだ!」

ミチが、靴を置くマットを無視して土足で上がりこんできた。

「亜美さんと志保さんも来てくださいよ」

ミチは、亜美と志保に近寄って言った。

「えー。でもねぇ」

「なんかねぇ。悪いよねぇ」

二人はたまきの方をちらちら見ながら、ニヤニヤ笑う。

「何すか、悪いって。来てくれないと、ノルマ達成できないんですよ」

「ノルマ?」

志保が聞き返す。

「一人五人は連れてこないといけないんですよ。招待ってことで、金は俺が払うんで、お願いします」

「ノルマがあるっつーんならしょうがない。行ってやるか」

「あざーっす。これ、チケット三枚。んじゃ、また明日」

ミチは自分の用件だけ済ませ、亜美にチケットを渡すと、さっさと帰ってしまった。たまきはますますミチが嫌いになった。

 

午後三時ごろ。亜美を眠りから叩き起こしたのは、彼女の携帯電話だった。

「誰だよ……こんな時間に……」

亜美は携帯電話を確かめた。

「もしもし?」

「おっす。亜美」

「先生、……何すか?」

電話の相手は「先生」こと、京野舞だった。

「今さ、仕事で京都にいんのよ」

「……オペかなんかっすか?」

亜美がけだるそうに聞く。

「おめー、あたしが医療行為やってんのはボランティアで、本業はライターだってことを忘れてねぇか?」

「ああ、そうでしたね」

「今、取材で来てんだよ。ほら、京都の病院で臓器移植の手術があったろ」

「……何すか、それ」

「お前、ニュース見てないのか? まあいいや。そういうわけで、お土産何がいい?」

「何があるんすか?」

「八ッ橋とね、固い八ッ橋とね、変わり種八ッ橋とね」

「……全部八ッ橋じゃないっすか。何でもいいっすよ、粒あんじゃなきゃ」

「……どうした、元気ないな」

「……寝てたんで」

亜美は眠そうに答えた。

「お前、まだそんな不規則な生活をしてたのか」

「大丈夫っすよ。不規則を規則正しくやってるんで」

「やれやれ。たまきは? あいつは元気か?」

「相変わらず元気ないっすよ」

「そうか、まあ、自殺しなければそれはそれでいいか」

そういうと舞はそこで一呼吸入れ、少し声のトーンを落とした。

「志保は? あいつは、何か変わったことないか?」

「ああ、全然元気っすよ」

「そうか?」

「ほんとっす。心配無用っす」

「ならいいんだけど。木曜に東京帰るから、そん時、あいつを依存症患者用の施設に見学に連れて行こうと思うんだ。あいつにもそう言っといて。じゃ」

そういうと舞は電話を切った。

 

写真はイメージです

一日というのはあっという間に過ぎる。たまきのように、一日中ごろごろしている人間にとってもあっという間に一日は過ぎ去り、もうライブ当日である。

ライブハウスは思ったよりずっと小さかった。少なくとも、以前亜美に連れられたクラブよりずっと小さい。

ステージ上には真ん中にドラムがデンとおかれ、ギターのような楽器が三本ほどおかれている。床の上にはたくさんの配線。

客席は学校の教室ぐらいの広さだ。

もっと込み合っていると思いうんざりしていたのだが、客は十五人から二十人程度で、まばら。

「こんなもんだよ、アマチュアのバンドなんて」

亜美はそういっていた。

ふと、たまきは志保の方を見た。さっきから全くしゃべっていない。少し呼気が荒い気もする。もっとも、志保もあまりおしゃべりというわけではない。それでも、たまきから見れば十分よくしゃべる、「友達作りスキル」の高い人だ。

そろそろライブが始まる。ちらりと出口の方を気にする自分が、たまきはちょっと嫌だった。

 

照明が徐々に暗くなり、非常口の明かりも消え、直後にステージの上に灯りがともされた。

ステージに、黒の衣装で統一した5人の若い男性が入ってきた。各々楽器を取ったりドラムに座ったりマイクを握ったり。

もちろん、その中にミチもいた。ステージの右端で、青いギターを持って立っている。

ライブはいきなり演奏から始まった。ドラマーがまずドラムをどこどこと叩くと、続いてベーシストがブオンブオンと奏で始める。

その後に、ミチがギターをジャカジャカジャンジャンとはじきだす。続いて、左側のギタリストがギュオンギュオンと音を鳴らす。

4つの音が合わさって爆音となり、照明があわただしく明滅しだす。一転、音がぴたりと止まり、左側のギタリストが少しはかなげなアルペジオを奏で始めると、いよいよ真ん中に構えたボーカルが少しハスキーな声で歌い始めた。

マイクスタンドに寄りかかるように歌うボーカル。他の楽器の音も入ってきて、少しずつ盛り上がり、サビでは衝動的に叫ぶかのようなバンド音をバックに、ボーカルもとうとう叫びだす。はっきり言って、歌詞は聞き取れない。

あれ、とたまきは思った。ミチくん、歌わないんだ。歌、うまいのに。

たまきはミチの方を見た。ステージの右端で。ギターのコードを抑える左手の指使いを確認しつつ、右手をひたすら動かしている。

その表情にいつもの人懐っこい笑顔はない。観客が盛り上がるなか、なんだか今、この空間で一番つまらなそうな顔をしているように見えた。

公園で歌っていた時にはあれほど輝いていたミチが、なんだか影のさしているように見える。

ふと、たまきは、彼とどこかであったことがある気がした。

もちろん、たまきとミチは何回か会っている。だが、そうではなく、どこかであった気がするのである。

十五分ほどで3曲を演奏した。たまきには曲の違いがよくわからない。

ボーカルが二言三言喋るとまた同じような曲を演奏し始めた。

少し気分が悪くなってきた。ふと、隣の亜美を見ると、うでをふりあげぴょんぴょんとびはねている。

今度は後ろの志保を見た。が、そこには志保はいなかった。

トイレにでも行ったのかな。とりあえず、少し休もう、そう思い、たまきは会場を出た。

 

呼吸が荒い。鼓動も早い。寒気も感じる。だが、志保はもうそんなことは気にしなかった。

トイレの壁にもたれかかり、ただただ暗い天井を見つめていた。

少し、体が震える。

体が欲している。

志保は、携帯電話を取り出した。アドレス帳からある人物の名前を見つけ出す。

それは覚せい剤の売人の名前であった。

なぜ、彼のアドレスをいつまでも取ってあるのか。クスリをやめようと誓ったあの日、亜美やたまきに出会ったあの日なぜ消さなかったのか。

怖かったのだ。登録を消そうと彼の名前を見たとたんに、消すどころかまた再び彼に連絡を取って薬を手に入れてしまうかもしれなかったからだ。

震える手で携帯電話を支える。

今、アドレスを消せば、もう、クスリを手に入れることはできない。

そう思いつつも、志保は震える指で、「発信ボタン」を押した。

呼び出し音の後、低い男の声が電話から聞こえた。

「志保か。なんか用か?」

用なんてわかりきってるくせに。

「クスリ。欲しいの」

「場所は?」

志保は、自分の居場所を伝えた。しばらくして、男から返答があった。

「金は?」

「お金なら……」

そういって志保はカバンの中の財布に手を伸ばした。

だが、そこには財布はなかった。

志保はそこで初めて、財布を「城」に忘れていることに気付いた。

チケットは前日にミチが持ってきたので、今日、この瞬間まで、財布を忘れていることに気付かなかったのだ。

「……お金は、何とかする。いいから、早く持ってきて」

冷静に考えれば、「城」に戻って、財布を取ってくればいい話である。

 

冷静に考えられるのならば。

 

写真はイメージです

たまきは建物の外に取り付けられた、非常階段にいた。トイレに行くのが億劫になり、近くのあった非常階段に逃げ込んだのだ。

外はすっかり暗くなっていた。東京の夜空は星がなく、吸い込まれそうなくらいに暗い。

ライブスタジオはビルの3階にある。らせん状の非常階段から階下を覗き込み、はあっとため息をつく。

たまきは気づいた。

ミチのことをどこかであったことがあるというのは、ミチにある人物の姿を重ねていたからだと。

ある人物。それは、たまき自身のことだった。

何のやる気もなく、ただ消化試合のように生きている。絵を描くのも、楽しいからでもなく、何かを表現したいからでもない。時間をただ押し流すためだけの作業。

そんな自分の姿が、輝いていると思っていたミチに重なったのが、不思議だった。

そろそろ戻ろう。すっかり日の暮れた都会の空を見ながらたまきは思った。

 

非常階段からライブが行われている部屋へと続く廊下を歩く。と、廊下の右側の部屋から、少女が一人出てきた。茶色い長い髪の少女が誰なのか、たまきにはすぐにわかった。

「志保さん?」

たまきにしては結構大きな声で呼びかけたのだが、志保は見向きもせずに、廊下を横切ると、速足でエレベーターの乗り込んだ。たまきは、志保の出てきたドアを見た。

関係者控室。そう書かれたドアは、志保が本来、立ち入ることのないドアのはずだった。

つづく


次回 第5話 どしゃ降りのちほろ酔い

ライブハウスで財布の盗難事件が起こる。危うく濡れ衣を着せられそうになるたまき、真犯人に気づき苛立つ亜美、そして姿を消した志保。共同生活がピリオドを迎えそうになったその時、たまきが声を上げる……。

「『遠くばっかり見てんじゃねーぞバカヤロー!」』『そんなところにウチらはいねーぞ!」』『ここにいるぞバカヤロー!。……ここに生きてんぞバカヤロー!』」

⇒第5話 どしゃ降りのちほろ酔い


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

細野晴臣の足跡 狭山アメリカ村の旅・完結(はっぴいえんど)編

かつて、細野晴臣をはじめとした多くのミュージシャンが住んだという埼玉県狭山市。細野晴臣が住んでいたという1970年代の香りを求めて、僕は再び埼玉県狭山市へと向かった。細野晴臣の時代から40年以上。国道16号が通り、風景はだいぶ変わったが、当時の雰囲気はいまだに残っていた。細野晴臣の足跡を求めるたび、これにてはっぴいえんど?


細野晴臣の足跡を求める旅 前回の3つの出来事

1.自由堂ノックは、かつて細野晴臣をはじめとしたミュージシャンの多くが住んでいたという、埼玉の「アメリカ村」へと向かった。

2.入間市駅から歩いて15分のところにあるアメリカ村、「ジョンソンタウン」を訪れた。

埼玉・入間の住宅街にアメリカの町が!~ジョンソンタウンの旅~

3.ところが、細野晴臣たちが住んでいたのは、「入間市駅」の隣の「稲荷山公園駅」だった!

というわけで、今回、僕は西武鉄道の稲荷山公園駅を訪れた。

埼玉県狭山市、稲荷山公園駅の旅

 

駅前には「ポプラ」というコンビニがあるだけ。南は自衛隊基地、北は稲荷山公園である。

 

ここが稲荷山公園。またの名をハイドパーク。90年代まではアメリカ風の住居が並んでいたらしい。10年前には、細野晴臣が中心となって、「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」というイベントも行われた。

 

坂を下りて町へと抜ける。

 

稲荷山のふもとにある愛宕神社。愛宕信仰は火防の神様。自衛隊や米軍の基地のある町にはピッタリかもしれない。

 

一方で、19世紀初頭からここではお稲荷様を祀っているらしい。お稲荷様は農業の神様だ。この当たりも耕作地として田畑が多かったのだろう。

 

すぐそばには、こんなのもある。

 

馬頭観音だ。年代は大正13年。このころまで、この当たりは馬での往来がされていたのだろう。

 

また、野仏があるということはそこが古い道であることも表している。稲荷山をぐるっと回るこの道は古くから存在していたらしい。おそらく、入間基地ができる前はもっと遠くまで伸びていたのだろう。

 

この駅の近くで、洋風の家を見つけた。

 

これは前回訪れたジョンソンタウンの写真。見比べてみると、白く長い板で作られた壁がよく似ている。

 

「鵜ノ木」。それがこの当たりの地名らしい。

 

こんな感じの平屋住宅に細野たちも住んでいたのだろうか。おそらく、この当たりがアメリカ村だったのだろう。

 

こんな感じの団地などもある。

 

すぐ近くを国道16号線が入間川と並行して走っている。

 

16号沿いに建てられていた。これも馬頭観音だろうか。

 

自動車屋さんにアメリカの星条旗。

 

国道を渡ると、国道に並行して伸びる商店街があった。

この道を狭山方面へと進むと、途中で県道340号線に合流する。この道は宿場町だった入間から狭山へと続くものだった。この町で細野たちミュージシャンも買い物をしていたのだろうか。

 

道沿いには長栄寺というお寺がある。

 

釣鐘もあり、町の中心として時を告げる役割も担っていたのだろう。

 

19世紀中ごろの馬頭観音だ。やはり、入間と狭山の間を、馬を使って往来していたのだろうか。

 

狭山と言えば狭山茶だ。商店街より北には茶畑がある。

狭山茶を生んだのは京都の宇治だった。宇治で取れたお茶が壺に入れられて江戸へ運ばれる。

お茶は美味しく飲まれるからいいが、問題は壺である。狭山茶が来るたびに壺が増えて、余る。

この増えていく壺をどうしようかとなった時に考え出されたのが、「江戸でもお茶を作って京都に送ればい」というものだった。

そうして、「壺に入れて送り返すためのお茶」として作られたのが狭山茶だったのだ。

 

入間川から水をとっている用水路。この当たりが肥沃な農地であったことの名残だろうか。

 

入間川だ。まっすぐ歩けば、細野たちが住んだアメリカ村から10分ぐらいでつく。彼らもこの入間川を見ていたのだろう。

入間川には個人的な思い出がある。ピースボートのポスターを貼り続け、乗船代99万円分の最後の1枚を張った町が狭山市だった。最後の1枚を張り終えた僕は、入間川を眺めながら、植村花菜の「猪名川」という曲を聞いていた。

 

川と音楽というと、井上陽水を思い出す。細野晴臣の一つ年下にあたる彼は、細野がこの町に移り住んだ73年に「夢の中へ」が初めてのヒットを飛ばしていた。

その年の暮れに出したアルバム『氷の世界』に「桜三月散歩道」という曲がある。歌の主人公が恋人に、町を離れて川のある土地に行こうと語りかける歌なのだが、町を離れる理由がすごい。

なんと、「町へ行けば人が死ぬ」というのだ。

73年という時代は、高度経済成長のしわ寄せがすでに顕在化していた。いわゆる四大公害病は既に裁判が始まっていたし、71年には公害に対する警鐘を鳴らした映画「ゴジラ対ヘドラ」が放映された。また、コインロッカーに乳児を置き去りする事件が問題となっていた。都市の肥大化により、人々のライフスタイルに変容をきたしてきていた。

「人が死ぬ」は大げさだが、急速に発展した都市生活は、どこか閉塞感があるものだったのではないだろうか。

だから、細野晴臣は東京を脱出し、井上陽水は川を目指した。

川は自然の中にあっても都市の中にあっても、大雨で増水でもしない限り、常にゆったりと流れている。川に集う人々も散歩やジョギング、サイクリングなどどこかゆったりしている。

川のそばにはマイナスイオンだけではなく、常に「自然のリズム」が流れているのだ。そして、人は川に来ることで「都市のリズム」から「自然のリズム」に、自分のリズムを戻すことができる。

古来から日本では川が異界との境界だった。現在でも地方においても都市においても、川の上に家が建つことはなく、埋め立てて家が建ったらそこはもう川ではない。川は特別な空間だ。そこに来ることで、人は自然のリズムに戻れる。

細野晴臣が住んだ73年当時、この一帯はおそらく入間川に並行して伸びる小さな街道沿いの農村だったに違いない。そこに稲荷山を背にぽっとあらわれたアメリカ村。細野たちがこの町で暮らした時の景色はそんな感じだったのだろう。

 

そのまま、この街が音楽の聖地、ボヘミアンの町となっていたらどんなに面白かっただろう。入間市のジョンソンタウンとつながり、この一帯の景色もだいぶ変わっていただろう。

ただ、逆に下手に都市化することなく、街道沿いには小さな町が続き、まだ川に行けば「自然のリズム」を思いっきり感じられる環境だ。

細野晴臣の足跡をたどる旅は、この辺ではっぴいえんどにしようと思う。

 

 

では、ばいにゃら。

 

ピースボートで本当に洗脳されるのか、元参加者が検証してみた

「ピースボートに乗ると左翼団体に洗脳される」。これはネットでまことしやかに飛び交う噂だ。その噂が本当かどうか今回は検証する。いったいどういう人が洗脳されやすいのか。どういう風に人は洗脳されるのか。ピースボートでそれは当てはまるのか。ぜひ、自分の目で確かめてほしい。


ピースボートに乗る人は洗脳されやすいのか?

まず、一体どういう人が洗脳されやすいのかを検証していく。ネットで調べてみると、「洗脳されやすい人の特徴」というのはいろいろあるらしいが、いくつかのサイトに共通して書かれていたのが次の6つだ。

・日々の生活に強いストレスを感じている

・まじめ

・人を疑うことを知らない

・自信過剰

・一人で結論を出せない

・スピリチュアル好き

この6つがピースボートの参加者に当てはまるか検証していこう。

日々の生活にストレスを感じている?

いきなりだが、これは結構当てはまる人が多いと思う。学校だったり、仕事で行き詰ってしまい、ピースボートに参加するという人は僕個人の実感としては結構多い。

まじめ?

みないい人である。約束はちゃんと守るし、頼まれた仕事はちゃんとやる。

しかし、「社会のレールを疑わない」という意味でまじめかどうかと聞かれたら、「不真面目」と答えざるを得ないだろう。

アートだったり、芸能活動だったり、海外留学だったりと、世間の常識などなんのその、ぶっ飛んだ生き方をする人が多い。だいたい、「仕事辞めて船に乗りました」なんて言ってる時点でぶっ飛んでいるのだ。

一方で、国際情勢や社会問題に強い関心を持つ人も多いのもまた事実。「真面目」という観点では「人それぞれ」という答えになるだろう。

人を疑うことを知らない?

これはあまり当てはまらない。ピースボートに乗ろうとする人は、だいたいが「左翼団体がどうとか、評判悪いけど、この団体、大丈夫かな?」という思いを抱いて説明会に行く。

ボランティアスタッフとして活動していればなおさら。ポスター貼りで心無い言葉を浴びせられ、人間不信になるなど一度や二度の話ではない。

おまけに、寄港地に乗ったらタクシーでぼったくられ、常にすりに警戒する。特に、女の子と一緒にタクシーに乗った時の警戒心はMAXに達する。

人を疑うことを知らない人間は、寄港地で間違いなく死ぬ。運が良ければ、財布を無くして帰ってくるだろう。

自信過剰?

『俺が騙されるわけないだろ』と思っている人ほど騙されるらしい。これは、本当に人それぞれだと思う。

一人で結論を出せない?

これに関しては全く当てはまらない。「地球一周したい」というと、だいたい家族も友人もひっくり返る。

むしろ、「家族の説得」がどうやら地球一周の壁の一つらしい。

つまり、多くの人が一人で地球一周を決めるのだ。

僕に関していうと、家族には全くないしょで資料を取り寄せた。

ピースボートの参加者は、行動力の塊みたいない人が多い。自分の意志でズバズバ決めて、行動していく人ばかりである。

スピリチュアル好き?

これもまた人それぞれ。少なくとも、船内で宗教の勧誘などの活動をすることは禁じられている。

こうやって見ていくと、「ピースボートに乗る人は洗脳されやすいか」の答えは、「人それぞれ」だと思う。むしろ、一般社会よりやや騙されにくい人たちのような気もする。

ピースボートは洗脳しようとしているのか?

では、ピースボートの団体の方はどうだろうか。

これまた調べてみると、洗脳のプロセスとして次の6つが挙げられるらしい。

・寝不足にして思考を鈍らせる

・怒鳴って人格を否定される

・不安にさせる

・依存させる

・日常から切り離す

・刷り込む

この6つがピースボートに当てはまるか検証していこう。

寝不足に追い込む?

これは完全に当てはまらない。何時に起きて何時に寝ようが個人の自由だ。僕はよく昼寝をしていた。

深夜12時くらいになると、居酒屋を除き、もうみんな寝ている。夜更かししてても楽しいことなどない。深夜アニメも深夜ラジオもないのだ。

起きるのは人それぞれ。朝日を拝もうと早起きする人もいれば、10~12時台に起きてくる人もいる。

ただし、船内チームによっては寝不足になるチームもある。

怒鳴って人格を否定する?

ピースボートの関係者から怒鳴られたことはない(怒られたことならあるけど)。もし、怒鳴られた人がいるとすれば、それは何か事件を起こした時くらいだろう。

人格を否定するどころか、何か特技がある人は一般社会よりも褒められやすい環境だと思う。

不安にさせる?

これは当てはまるだろう。社会問題系の企画やツアーに行った場合、不安どころか、打ちひしがれて帰ってくる人もいる。

ただ、それを消化する時間は山ほどある。

依存させる?

船を降りる日が近づくと、「終わってほしくない~!」となる。これを依存と呼ぶなら、学校の卒業間際の「卒業したくない~」も立派な依存と言えるだろう。

だが、現実は船を降りた後、皆それぞれの道を進んでいく。「船の生活に依存して抜け出せない」や「左翼団体の活動に依存して抜け出せない」といった事例は、まだ聞いたことがない。

だいたい、ピースボートで働いている人たちも、一生の仕事としているよりは、他にやりたいことが見つかったらそっちへ行くというスタンスの人が多いようにみられる。実際、ピースボートをやめて別の活動を始めたという元スタッフの話はかなり聞く。「依存」という観点からは当てはまらないだろう。

日常から切り離す?

これに関しては、ピースボートほど人を日常から切り離す団体などあるまい。日常はおろか陸上から切り離して、テレビもネットも見れない。「見せてくれない」のはなく、「そもそも電波が届かない」のだ。外部との連絡も取れない。これまた「連絡させてもらえない」のではなく、「そもそも電波が届かない」。カルト教団や変な左翼団体がかわいく見えるほどの隔離っぷりだ。

刷り込む?

確かに、社会問題を扱った企画は多いし、左翼的な人の方が圧倒的に多いのも事実だ。

だが、何らかの答えを押し付けるようなことはほとんどない。

「情報は与えたから、あとは自分で考えて答えを出せ」というスタンスだ。

考える時間も、議論を戦わせる相手もいっぱいいる。

「刷り込む」という観点からは、「グレー」という答えが適切だろう。

こうやって見ていくと、「不安にさせるような情報をたくさん提示する」という意味では洗脳の条件を満たしている。

しかし、「相手の思考力を奪う」という意味では全く満たしていない。

確かに、日常と地上から隔離されてはいるが、その分、参加者がバラエティに富んでいる。むしろ、多様な価値観、考え方に触れるいい機会だろう。

ピースボート程度で洗脳されるような人間は、おそらく地球上のどんな団体・会社・宗教に行ってもあっさり洗脳されて帰ってくるだろう。

むしろ、ブラック企業の方がよっぽど怖い。寝不足の頭に怒鳴って、刷り込んでくるのだから。まず、思考力を奪ってから、じわじわと会社色に染めていくわけだ。

ピースボートにおいて、洗脳よりよっぽど注意しなければいけないこと

ピースボートに興味がある人に僕から言いたいのは、洗脳よりもよっぽど注意すべきことがある、ということ。

それは、船を降りた後の「ポジティブシンキング」。

船に乗ると、ピースボートという団体うんぬんの前に、360度どこまでも広がる青い海を見た時点で価値観が吹っ飛ぶ。寄港地に降り立つたびに、「日本の常識」がいかに狭いものなのかを思い知らされる。

ピースボートが与えてくる情報よりも、船内生活や寄港地での自由行動中の体験の方がよっぽど強烈だろう。要は「船旅」のインパクトが強いのだ。

また、船の中ではイベント運営、ミュージカル、音楽活動、映像作りなど、さまざまなことにチャレンジできる。

「日本の常識がぶっ壊れる体験」と「いろんなことにチャレンジした体験」が合わさると、「世間の常識にとらわれず、何でもできる!」、「いっそ、日本を、世界を変えられるんじゃないか?」という、自己啓発本のようなポジティブ全能感を抱く人が多いようにみられる(ただし、思考能力を奪うほどではないので、安心してほしい)。

かくいう私も、その一人だった(笑)。

それは決して悪いことではない。特に、それまで自己評価が低かったり、目標が持てなかったりした人の場合はむしろ、「前向きになった」『明るくなった』と評されることもある。

だが、程度の問題である。何事も「ほどほどに」が大事なのだ。

前向きになるのは大事だが、卑屈だったころの自分を忘れてはいけない。

僕はこれを、「過去の自分が背中から銃を突き付けている」と表現している。根拠もなくポジティブなことを言ったりして、「輝いている自分」や「今、幸せな自分」をアピールしようとすると、かつての自分が背中から銃を突き付けて、「なんかかっこいいこと言ってるけど、もしかして俺のこと忘れちゃった? 卑屈で、嫉妬深くて、死にたがり。それがおまえだろ?」とブレーキをかけてくれる感覚。

だから、僕は「昔はダメダメだったけど、今はこんなに輝いています」という人があんまり好きじゃない。ブレーキのない自転車みたいなものだと思っている。

人間である以上、ダメダメな部分が残らないわけがない。むしろなくなったら、「悟りを開いたぞ!」と言って、「阿闍梨」「如来」を名乗ってもいいと思う。

実際は、ダメダメな部分が残っておるにもかかわらず、気づかない、隠している、という人が、この手のタイプには多いと思う。

それよりも、「昔はダメダメだったけど、今は昔より前向きです。でも3日に1日ぐらいは落ち込んで死にたくなります」という人の方が好きだ。

ただ、「ピースボートのに乗れば、みんなめちゃくちゃ前向きになるのか?」と聞かれれば、答えは「程度による」だ。「少し前向きになった」人もいるし、「めちゃくちゃ前向きになった」人もいる。当然だ。同じ船に乗っていても、人によって見える景色は全然違うのだから。

全員が全員、「ポジティブバカ」になれるほど、世の中は、船旅は甘くない。

まとめ

・ピースボートに乗る人は、どちらかというと洗脳されにくい。

・ピースボートは確かに左翼的な情報は与えてくるが、思考力を奪うようなことはしないので、これで洗脳される人はよっぽどである。

・むしろ、前向きになりすぎることに注意した方がいい。

とりあえず、僕の周囲で「船を降りた後、憑りつかれたように左翼団体の活動に邁進している人」はまだ見たことがない。

小説:あしたてんきになぁれ 第3話 病院のち料理

援助交際で稼ぐヤンキーギャル・亜美と、自殺未遂を繰り返す地味な女の子・たまき。二人はクラブのトイレで倒れている少女を見つける。少女の名前は志保。明日がどうでもいい亜美、明日が怖い志保、明日がいらないたまき、3人の物語がいよいよ始まる。

「あしなれ」第3話、スタート!


第2話 夜のち公園、ときどき音楽

登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


たまきはパニックだった。

ただ、パニックだったと言っても、慌てふためくとか、喚き散らすとかそういうのではなく、ただただ目の前の状況を飲み込めずに、ぼうっと見ていた。

トイレのタイルの上に倒れていたのは、白い、透き通るような肌の少女だった。

だが、不思議と、きれいとは思わなかった。

たまきは亜美(あみ)の方を見た。

亜美はというと、あんぐりと口を開けたまま、倒れている少女を眺めていた。亜美もまた状況が呑み込めずにいるらしい。

「亜美さん……どうしよう……」

たまきが不安げに亜美の方を見ながら尋ねた。

「どうしようって……とりあえず、ヒロキ呼んできて」

「うん……」

たまきは頷くと、トイレを出てとぼとぼと歩いて行った。

冷静に考えれば、救急車を呼ぶ状況なのだろうが、それが思い浮かばないくらい、亜美は動揺していた。また、冷静に考えれば、走らなきゃいけない場面なのだろうが、とぼとぼ歩いてしまうくらい、たまきも動揺していた。

亜美は少女の傍らにかがみこんだ。

ふと、少女の横に落ちている何かを亜美は見つけた。

「これって……」

亜美はそれを拾った。

 

ヒロキがトイレに到着した。

ヒロキは無言で、それを見下ろしていた。

「ヒロキ、どうしたらいいと思う?」

亜美が尋ねた。

「どうしたらって、救急車だろ、フツー」

「あっ」

二人は、そこで初めて顔を見合した。

「後、こんなん落ちてたんだけど……」

亜美は、赤いハンドタオルに包んだ拾い物を見せた。

「……なるほど……」

それを見ただけで、ヒロキはすべてを察したようだ。

「しかし、だとすると余計まずいな……」

「何が?」

亜美が尋ねた。

「この店が犯罪の温床だっていうのは聞いたことあるだろ?」

「まあ、噂なら……。」

「だからこういうのとか、救急車とかそういう騒ぎを避けたがると思うんだ。警察に目をつけられたくないからな。救急車を呼ぶことを許してくれるかどうか……。」

「じゃあ、どうするの?」

「……先生に連絡したほうがいいんじゃねぇの?」

「わかった。」

たまきは、二人の会話の内容についていくので必死だった。

そんなに年は変わらないはずなのに、なんだか二人が大人に見えた。人とかかわるのを避けてきたものと、人と交わりあい、群れあってきた者の違いだろうか。

 

亜美は電話を切った。

「先生が車でこっち来るから、通り沿いで待ってろだって」

「救急車は呼ばなくていいんですか?」

「先生の家からなら、救急車より早く来れるんだってさ」

ヒロキの道案内で、店の外までたまきと亜美は少女を運ぶことになった。

亜美が頭を、たまきが足を持つ。たまきの肩には少女のものと思われる白いショルダーバッグ。

二人で運んでいるとはいえ、少女の体は身長にそぐわず軽かった。

店のスタッフに「病人が出た」といって裏口から出してもらう。

ぐるりと回って大通りに出ると、すでに舞(まい)の車が来ていた。黒いワゴン車で6人は乗れるはずだ。

舞はすでに車の前で待ち構えていた。

京野(きょうの)舞(まい)。もともと医者だったのだが、今は医療系専門のライターとして食べている。医者としてたまきや亜美の面倒を見ている。

亜美は舞のところに駆け寄った。

「聞いたぞ亜美、トイレで倒れてたんだって?」

舞は亜美をじろりとにらみつける。

「またトイレかよ。アンタ、トイレの神様でもついてるんじゃないの?」

トイレの神様って、そういう神様だったっけ、とそばで聞いていたたまきは思った。

「アンタ、三か月はトイレに入んない方がいいかもね」

「そんなぁ、無理ですよ」

「そんなことより……」

そこで舞が声のボリュームを落としたので、たまきには二人の会話はよく聞こえなかった。亜美が鞄の中からハンドタオルにくるんだ何かを見せて、舞が難しそうな顔をする。

やがて、亜美が戻ってきた。舞は携帯でどこかに電話していたが、やがて電話を終えると車の中の少女を見た。

「走りながら状況を聞く。お前ら乗れ。1分で病院に行くぞ」

言われるままに亜美とたまきは車に乗った。

「よし、ヒロキ、あんたが運転しろ。あたしはその子を診てる」

ヒロキは無言でうなづき、運転席に乗った。舞は最後尾で横たわる少女に声をかけた。

「大丈夫。もうちょっとだけ頑張れ」

 

画像はイメージです

ネオンきらめく大通りから歓楽街に入る。カーラジオからは、若い男性アイドルの歌。

「ところでたまき、けがの調子はどうだい?」

舞が少女の顔色を見ながら言った。

「……大丈夫です」

たまきがボソッと答えた。

「亜美、お前はちゃんと月に一回検診に来なさい! 今月、まだ来てないでしょ!」

「大丈夫だよ、そんなの」

げ、という顔で亜美が答えた。

「え、亜美さん、どこか具合が悪いんですか?」

たまきが尋ねる。

「性病にかかってないかの検査だよ。セックスワーカーの基本」

舞が答えた。

「ヒロキ、アンタも最近こないね。ケンカ、やめたんだ」

「ちげーよ。けがしねーようになっただけだよ」

ヒロキが笑いながら答えた。

医者がこんなに余裕なら、たぶん大丈夫なんだろうな。

たまきはすぐ後ろの座席で横たわる少女を見ながら思った。

「しかしお前ら、何で救急車じゃなくてあたしに電話した?」

舞の問いに、先ほどのヒロキの考えを述べたのは亜美であった。救急車が着たら、店に迷惑がかかる。

しかし、舞は、「バーカ」と一言いうと、言葉を続けた。

「何も店のすぐそばに呼ばなくたっていいだろ。店から少し離れたところにきてもらえばよかったんだよ」

「あっ」

三人が同時に声を上げた。

「ま、うちから車出した方が早いし、もしかしたら、この子にとってはそれが良かった、なんてことになるかもね。そろそろ着くか」

舞は、後ろの座席で寝ている少女に少し目をやって言った。

 

病院につくと、医者らしき男性が出迎えた。

舞は車を降りると、男性と話し始めた。どうやら知り合いらしく、先ほどの電話の相手は彼のようだ。

やがて看護師たちがストレッチャーを持ってきて、少女をそれに乗せると、病院の中へと消えていった。

舞も男性医師と一緒に治療室へと入っていく。

「さてと」

そういうとヒロキは、踊りたりねぇと言って、来た道を戻っていった。

「……亜美さんは、どうするの?」

たまきは、少し背の高い亜美を見上げながら訊いた。

「残るよ。乗りかかった何とか、ってやつだ。たまきも残りなよ。今の時間、一人で帰るのは物騒だから」

たまきとしては、一刻も早く「城(キャッスル)」に戻りたかったのだが、そういわれると、残るしかない。

何より、ひとりで「城」までたどり着ける自信がない。

 

小田病院は、9階建ての総合病院だ。待合室も昼間なら患者でごった返しているのだが、夜の十時となると、誰もおらず、座っているのはたまきと亜美の二人きり。時折看護師や、パジャマを着た入院患者が点滴しながら歩いていくくらいだ。

静かである。音がすべて、白い壁と黒い影に吸い込まれてしまったみたいだ。

たまきは、壁にかけられた時計を見る。

夜の十時。

ちょうど、昨日、たまきが寝ているところに、亜美がミチを連れてきたのがこのくらいの時間である。

なんだか怒涛の二十四時間だった。実はそのうちの半分以上は、「城」でゴロゴロしていただけなのだが、それでも、たまきにとっては怒涛の二十四時間だった。

もしかしたら生涯で初めてだったかもしれない、「密室で男性と二人きり」。それから自分の過去に触れてしまい、大泣き。そのあと珍しく外出したら、ミチと再び会い、絵を見られる。さらに無理やりクラブに連れて行かれ、トイレで少女を発見する。

薄汚れた背もたれに寄りかかり、ふうっと息を吐いた。隣の亜美を見ると、携帯電話をピコピコいじっている。

 

深夜零時。亜美はゲームのキリのいいところで携帯電話から顔を上げた。隣のたまきはいつの間にか寝息を立てて、亜美の肩に首を預けて寝ている。

足音がした方に顔を向けると、舞が歩いてきた。

「終わったぞ」

舞はそういうと、手に持っていたコーラの缶を開けて飲み始めた。

「助かったの?」

「患者を死なせた直後に、コーラを飲む神経は持ち合わせていない」

亜美の問いに、舞は口からコーラのシーオーツーを吐きながら答える。

「じゃ、助かったんだ」

舞は無言でうなづいた。

「さてと、それじゃ、」

舞は一度言葉を切った後、続けた。

「あの子連れて帰るぞ」

「はーい。……えぇっ!」

亜美は大きく目を見開き、舞の方を見た。

「入院するんじゃないの?」

「医者の家に連れて帰るんだ。問題はないだろう。病院の許可はとってある」

舞はそういうと、コーラの缶に口をつける。

「たまき、帰るよ、起きて」

亜美はたまきの肩をゆすった。たまきは眠気交じりの声を上げた。

 

十二時半。たまきが舞の部屋のドアを開ける。まずたまきが部屋に上がり、電気をつける。白い壁が明かりに照らされる。

半開きになったドアを舞が足でさらに開けると、背中から部屋に入った。舞が少女の肩を持ち、亜美が少女の足を持っている。

寝室のベッドの上に少女を寝かせると、舞は棚の上からカップめんを三つ取り出し、お湯を注いだ。

「食え」

舞はそういうと、二人の前にカップめんを置いた。

「酒とかないんすか?」

亜美はそういうと、まるで自分の家のように冷蔵庫を開けた。

リビングルームにはドアのそばに、長方形のテーブルがあり、最大4人が座って食事ができる。その奥には二人掛けのソファと小さなテーブル、テレビがあり、ドアの反対側にある窓のそばには小さなデスクがある。デスクの上は本やら資料やらで散らかっており、雪のように積もった紙の隙間から、かろうじてノートパソコンが見える。

亜美は食卓の窓に近い方のいすに腰掛け、だらりと背もたれに体を預けている。たまきは、ソファの上で体育座りをしている。

三人はカップめんをすすっていた。テレビからはお笑い芸人の笑い声が聞こえる。

亜美は酒を片手にカップめんをすすっていた。もちろん、いけないことだが、舞は止めても無駄だという感じで亜美を見ている。

 

たまきは麺を食べ終わった。麺を食べ終わっただけで、スープはすべて残してある。同じタイミングで、亜美は麺とスープを完食し、ビールも一缶飲み終えた。

「ところで、あの子、何の病気だったんですか。」

たまきがつぶやいた。

舞は立ち上がると、少女の眠る寝室のドアを開け、中に入った。

茶色い長い髪。長いまつげの伏せられた眼。

眠っていても、たまきには少女が美人であることがわかった。

少女は長袖を着ていた。こんな時期に長袖を着るのは自分くらいと思っていたたまきは少し驚いた。

舞は、少女の右の袖をまくった。

少女の腕には、血のように赤い無数の点があった。。

「何ですか、これ?」

たまきは覗き込んだ。

少しの沈黙の後、舞は口を開いた。

「……注射器の跡だよ。」

薄暗い部屋を、さらに静寂がつつんだ。

「……注射器って……つまり……。」

たまきの疑問を遮るように、舞は答えた。

「検査で、この子の血液中から覚せい剤が検出された」

たまきは絶句した。少女は見たところ、自分とそんなに年が変わらない。自殺未遂を繰り返す自分が言えたことじゃないが、なぜこんな子が覚せい剤なんか……。

「だからここに連れてきた。あの病院にいたら、通報されるからね」

「なんでこんな子が覚せい剤なんか……。だって、覚せい剤って、どっちかっていうと亜美さんみたいな人が……」

「どういう意味だそれは! ウチだってさすがにドラッグは手を出してねーよ!」

ドアの向こうから部屋の中を見ていた亜美が大声を出した。

……快楽第一主義の亜美ですら手を出さないドラッグに、なぜこの子は手を出したのだろう。

「さてと、なんか持ってないかなぁ」

そういうと、亜美は少女のカバンの中をあさり始めた。

「ちょっと、亜美さん、何やってるんですか!」

たまきが亜美をたしなめる。

「別にとりゃしねーよ。何か、身元がわかるもんねーかなーと思って」

たまきは、次に自殺するときは、絶対に所持品のない状態にしようと思った。もし、死体が亜美みたいな人に見つかったら、何を見られるかわかったもんじゃない。

「お! 財布はっけーん」

亜美は人の財布の中身を見始めた。

「お! こいつ、結構持ってるぞ」

「亜美さん!」

「大丈夫。取ったりしねーって」

財布の中からは、数人の福沢諭吉が顔を出していた。

「クスリやるには金が要るからね。自力で稼いだか、犯罪に手を出したか、親からとったか……。確かに、そのくらいの年の子が持つにはおかしな金額だな」

舞が煙草に火をつけながら言った。

「お! 学生証はっけーん!」

亜美は、財布の中の、カードや会員証などを入れるポケットから、少女の写真の入ったカードを出した。たまきも、いけないと思いつつも思わず覗き込む。

学生証に描かれた少女の写真は、やはり美人だった。ぱっちりとした目、高い鼻、茶色く長い髪。そして、笑顔。

たまきには、こんな素敵な笑顔のできる人が、なぜ、覚せい剤などに手を出したのかがわからなかった。昔からほとんど笑わず、無理に笑えば似合わない、不気味だ、気味が悪いと言われてきたたまきには、こんなに美人で、こんなに笑顔が似合う人がなぜ……という思いが消えない。

「神崎(かんざき)志保(しほ)。星桜高校二年。」

亜美が生徒手帳に書かれた文字を読み上げる。たまきは、身分を証明する一切を家に置いてきてよかったと思った。もし、持っていたら、自殺して、亜美みたいな人に見つかった場合……。

「星桜高校? へぇー。進学校じゃん」

舞は灰皿にタバコの火を押し付けながら言った。

「先生、知ってるの?」

亜美が尋ねる。

「知ってるも何も、東京の女子はみんな一度はあこがれるものさ。偏差値高いし、制服はかわいいし」

「ウチ、東京の女子じゃないもん」

「……私も……」

「何だ、お前ら、東京出身じゃないのかい。じゃあ、どこの出身だ?」

とたんに、亜美は舞から目をそらし、たまきは下を向く。

「……言いたくないってか……。」

舞は二本目の煙草に手を伸ばした。

下を向いたたまきは、亜美の足元に転がっていた少女「志保」のカバンが目に入った。

人のカバンの中身を見てはいけないと思いつつも、たまきはカバンの中に手を伸ばした。

たまきの手がつかんだのは、手帳だった。

手帳にはプリクラが貼ってあった。「志保」を含む、たくさんの少女が写ったプリクラ。オレンジ色の字で「ずっとともだち」と書かれている。

別のプリクラは、「志保」と同じくらいの年の少年と映っているものだった。今度はピンク色で「だいすき」と書き込まれている。

「たくさんの友達」、「彼氏」。たまきがどれほど望もうと手に入らなかったこの二つを「志保」は持っているらしかった。なのになぜ、「志保」は覚せい剤なんかに手を出したのだろう。

 

写真はイメージです

頭が痛い。志保の目を覚ましたのは、グワングワンと揺れるように響く頭の痛みだった。

起き上がる。一瞬、痛みは高まったが、少しずつおさまってきた。あたりを見渡す。

知らない部屋だった。志保が寝ていたベッドは右側の白い壁沿いに置かれており、反対側の壁には本棚やCDラックが置かれている。そして、志保自身は覚えのないパジャマを着ていた。

部屋の中を見渡した志保は、ベッドのわきのいすに座り、こちらを見ている人物に気付いた。

黒い髪に黒いメガネ、黒い長袖の服を着た少女だった。メガネの左側のレンズはほとんど前髪に隠されている。メガネの奥の、眠たげに開いた眼はあどけなさが残るが、どことなく、生気というものを感じさせない。右手首の白いのはよく見れば包帯だった。

志保は少女と目があった。少女は、一言、

「あ、起きた」

とやはり生気を感じさせない声でつぶやくと、部屋の外へと出て行った。

「先生、亜美さん、起きました」

やがて、少女と共に女性二人が入ってきた。

一人は、二十歳前後の女性だった。金髪の長い髪。思わず目を背けたくなるほど露出の高い服を着ている。

もう一人は三十代前半と言ったところか。黒髪のストレート。煙草をくわえ、エプロンをしてた。

黒髪ストレートの方が志保へ近づいた。

「おはよう。気分はどうだい」

「え……、ちょっと頭が痛いですけど……」

志保は問われるままに答えた。

「うん、大丈夫だ」

「あの……、ここはいったい……」

志保は周りを見渡しながら尋ねた。

「昨日のことは覚えてる?」

「……なんとなく……」

「アンタはクラブで覚せい剤を打って倒れた。認めるね」

「……はい……」

「クラブで倒れてひっくり返っているところを、ここにいる亜美とたまきが見つけて、アタシのところに連絡してきた」

「あの……、あなたは……」

「京野舞。医者」

黒髪ストレートはそういうと、煙草の煙を吐き出した。

「薬物中毒なんて、さすがにウチじゃどうにもならないから、知り合いの病院に連れてって治療した。そんで、連れて帰って、今に至る。以上!」

志保の心の中には不安が募っていた。この人は自分が薬物中毒であることを知っている。っていうことは……。

「……あたし、これからどうなるんでしょうか……。やはり、警察でしょうか……」

「そんなの……」

医者の女性はそういうとくるりと背を向けた。

「自分で決めな。さあ、メシにするぞ」

 

ドアの向こうはリビングルームとなっており、長方形のテーブルに、湯気と香りが沸き立つ料理が並べられていた。壁の時計は十二時を示している。日差しが窓から差し込む。テレビからは女性タレントの笑い声。舞が最初に腰を下ろし、残りの三人はそれぞれ、舞に支持された場所に座った。黒髪メガネの少女の名はたまき、金髪少女の名は亜美というらしい。

隣には亜美、正面には舞、はす向かいにたまき。

「先生、なんか、ウチとたまきと志保、量ちがくない?」

志保は命の恩人とは言え、初対面の人間に呼び捨てにされるのが何か納得できなかった。

「当然だろ。一人一人、症状が違うんだから」

そういうと舞は、隣に座ったたまきを見た。たまきの前にはご飯とみそ汁、そして中盛りの肉野菜炒めが湯気を立てている。

「お前はまず食べろ。量を食べろ」

次に舞は志保を見る。献立は一緒だが、肉野菜炒めは肉の割合が多い。」

「アンタはやせすぎ! もっと肉を食え!」

「せんせー、うちも肉食いたい!」

亜美が不満を言った。亜美の肉野菜炒めは野菜多めだ。

「お前はどうせろくなもん食ってないんだろ。野菜食え。」

亜美は渋々、箸をつけ始めた。

 

豚肉を頬張りながら、志保は隣の亜美と、はす向かいのたまきを見ていた。

たまきは左手の箸でつつくように食べていた。もやしをピンセットみたいに箸でつまんで、小さな口へと入れている。そのスピードも遅く、料理に手を付けることなく、ぼんやりと皿の上も見ているときもある。

食欲がないんだろう、と志保は思った。志保にもそういうときがある。

一方、亜美はたまきの三倍のスピードで野菜炒めを食べていた。かきこむ、といった感じだ。

ただ、皿の一角にはピーマンがたまっている。わざと残しているようだった。

志保は疑問だった。この二人はいったいどういう関係なんだろう。姉妹? 友人? 先輩後輩?

だが、いずれもしっくりこない。この二人、あまりにも違いすぎるのだ。

たまきは全身黒ずくめ、といった感じだった。たぶん、カラー写真で撮っても、白黒写真で撮っても、そんなに変わらない。上から黒い髪、黒いメガネ。夏には珍しい、黒い長袖の服に黒いロングスカート。さらには黒い靴下。

だが、最も印象的なのは、メガネの奥の目だった。左目は、メガネの前で目を覆うように隠している前髪で見えない。しかし、右目だけで十分印象に残った。

あどけなさを残す目だ。だが、生気というものが感じられず、誰とも目を合わせない。初対面の志保はもちろん、舞、亜美とも目を合わせようとしない。

一方、亜美は正反対だった。金髪の長い髪を後ろで結んでいる。袖がなく、胸の谷間を強調した服。腿まで見えるパンツ。捕まらない範囲で見せられるところはすべて見せている、といった感じだ。右肩には小さな青い蝶の入れ墨が、舞い飛ぶように彫られてある。

よくしゃべり、よく笑い、よく食べる。悩みなどなさそうに笑っている。

 

「で、この後どうするの?」

舞が箸を置き、志保の目を見ながら尋ねた。志保は目を伏せた。

「……警察でしょうか……」

志保は三十分前と同じセリフを口にした。

「アンタがやっているのは、立派な覚せい剤取締法違反。アンタの年なら少年院行きだ。けどね……」

そういうと、舞は目に力を込めた。

「少年院で、あんたの病気が治るとは限らない。っていうか、アタシには思えない」

「病気……」

志保は、舞の言葉をオウムのように繰り返していた。

意外。そんな目をしている。

「少年院に行く女ってのは、薬物中毒者が多いんだ。そんな連中が同じ雑居房で暮らしてみな。確かに、社会と隔離することで、強制的に麻薬に手を出さなくなるかもしれないけれど、横のつながりってのができる可能性は否定できない」

そこまで言うと、舞は、コップの中の水を飲んで、言葉を続けた。

「薬物中毒者に対する対処は、なにも、刑務所だけじゃない。最近は、薬物中毒専門の病院や、施設があるんだ。そういうところに行くって道もある」

舞は、志保に一層近づいた。

「どっちに行くかは、アンタが決めな。警察行くってんなら、付き添ってやる。病院行くっていうなら、紹介してやる」

志保の中では、「病気」という言葉が響いていた。

そんな二人の会話を割るように、亜美が目を輝かせながら尋ねてきた。

「ねえねえ、何でドラッグなんてやったの?」

「えっ?」

志保はたじろいだ。

「……亜美さん……!」

たまきがボソッと声を上げた。

「そういうこと聞いちゃだめですよ」

「別にいいじゃん。ウチら、こいつの命の恩人だよ?」

「恩着せがましいですよ。私、亜美さんの、そういうところ、なんていうか……」

たまきはそこで言葉を切って、しばらく考えてから、言葉を続けた。

「……苦手です……。」

「たまき、はっきり言ってやっていいんだぞ。嫌いなら嫌いって」

食事を終えた舞が、煙草に火をつけながら言った。

「……怖かったんです……」

三人の会話を、志保のかすかな声が遮った。

「え?」

「明日が来るのが……怖かったんです……」

それっきり、志保は下を向いたまま、話さなくなった。

「明日……」

亜美とたまきは、異口同音につぶやいていた。

しばらくして、志保が口を開いた。

「……警察、行かなくていいんですか?」

「医者としてはそっちを勧めるね。法律的にはアウトだとしても。ちゃんと治療を受けるなら、アタシはあんたを通報したりしない」

病気なんだ……。治せるんだ……。そんな思いが志保の中に芽生えていた。

「……よろしくお願いします……」

志保はそう言った。

 

食事も終わり、舞は皿洗いを始めた。

「手伝います」

志保が舞の横に立ち、皿を洗い始めた。

「お、慣れてるねぇ。料理とかするの?」

「まあ、一応……」

「そういえばさ……、アンタ、家はどこ? 親は……?」

その質問に、志保は顔をうつむけた。

「おいおい……コイツもかよ……」

二人の会話を聞きながら、亜美は見ながらぼんやりと煙草を吸っていた。

「……料理か……」

亜美は天井に向かっていく白い煙の帯を見ながらつぶやいた。

「……使えるな」

それを聞いて、たまきはにがそうな顔をした。

「……また悪巧みですか?」

「ウチがいつ、悪だくみをしたよ?」

「……私を助けたのも、悪だくみだと思ってますけど……。で、何、企んだんですか?」

「料理だよ。料理が足りなかったんだよ」

亜美は煙草を灰皿に押し付けた。

「ウチんとこに来る男がみんな『お前は色気があるけど女っ気が足りない』っつってるんだよ」

「……私はどっちもないですけどね……」

「アバウトな言い方だろ? 『色気』と『女っ気』ってどう違うんだよ。で、ずっと考えてたんだけど、『女っ気』っていうのは『女の子らしさ』だと思うんだよ」

「……『色気』と『女の子らしさ』はどう違うんですか……」

「……いや、わかんねーけど……。まあ、で、どうしたら『女っ気』が出てくるか考えてたんだけど、やっぱ、『料理』だと思うのよ」

「……女の子が料理できなきゃいけない、っていう時代はもう古いと思いますよ。現に、私たち二人とも、料理できないじゃないですか」

「わかってないなぁ。要は、オトコがオンナに何を求めてるか! 『オトコの理想のオンナ』をいかに演じるか。それがわかんないから、あんたはモテないんだよ」

「……別にモテたいと思ってないし……」

「てなわけでだ」

亜美は、体ごとたまきに向きなおった。

「ウチはあの子を『城』に迎え入れようと思うんだ」

たまきが「やっぱりね」と言いたげに亜美を見た。

「やっぱり、ビジネスは日々進化させないと」

そう言って亜美は笑うと、首を志保の方に向けた。

「志保―っ! あんた、行くとこないんでしょ? ウチこない?」

「え?」

志保が驚いたように振り返った。

「家出してるんでしょ? ウチらも同じ。ウチんとこきなよ」

「アンタねぇ。薬物中毒者と一緒に暮らすということがどういうことか……」

舞はそこまで言いかけたが、そこでしばらく黙った後、

「フム。まあ、やってみれば?」

と、娘にペットを許可するような口調で言った。

「あ……じゃあ、行くとこないし……、お世話になります……」

志保は、ぺこりと頭を下げた。

 

写真はイメージです

「……ここ……お店だよね?」

ネオンきらめく雑居ビルの5階。白く光る「城(キャッスル)」と書かれた看板を前にした志保が言った。

「ここはね、ウチらの城」

そういうと、亜美はドアを開けた。

ほのかな電灯をつけると、二人暮らしには広い間取りに、壁に沿っておかれたソファと、三つのテーブルが見える。

テーブルの上は雑誌やリモコン、ぬいぐるみなど、生活感にあふれている。誰に説明されなくても、志保はこの店がすでに営業していないことがわかった。

「二人は何の仕事してるの? この部屋、っていうか、店、家賃とか……?」

「ウチ? ああ、援交」

「援交!?」

志保が目を丸くして声を上げた。

「気を付けてください。ここに平気で連れ込みますから」

たまきがボソッと忠告する。

「……たまきちゃんも、そういうことするの?」

たまきは慌てて、「私は全く関係ありません」と言わんばかりに首を振った。

「私は、そういうの興味ありませんから……。結婚する気も、子供作る気もないですし……。……たぶん、そういう年になるころには、この世にいないと思うし……」

「ええっ!?」

たまきが最後にボソッと言った言葉に、志保はまた目を丸くした。

「たまきちゃんって……何かの病気なの!?」

「ああ、そいつはね、死にたがり病なの。志保も気を付けてよ。ちょっと目を離すとそいつ、すぐリストカットしようとしたり、屋上から飛び降りようとしたりするから」

「……そうなんだ……」

志保は亜美の方を向いた。

「じゃあ、ここの家賃は、亜美ちゃんのその、援助交際で払ってるってこと?」

「家賃? ああ、払ってないよ」

「はい!?」

「……まあ、不法占拠というやつです」

たまきがボソッと補足する。

亜美はカウンターの方へと歩いて行った。カウンターの中には、店だった頃はボトルが並んでいたと思われる棚があり、簡単な厨房も見える。

「ここが、志保に腕を振るってもらう厨房」

「あのね、亜美ちゃん、さっきも言ったんだけど、料理はできるけど、そこまで上手ってわけじゃ……。」

「いいんだよ、作れれば。ウチら、どっちも料理できないんだし。たまきも、『城』でおいしいもの食べたいもんなぁ」

「……私は別に食にこだわりはないんで……」

たまきはボソッと訂正した。

 

食事をして、銭湯に行って、そのあとは思い思いの時間を過ごしていた。

たまきはもう寝ると言ってソファの上に横になった。亜美は煙草を吸うと言って屋上に行った。

志保はわずかに開いたキッチンのカーテンから月を見ていた。

昨日の今頃はこんな風になるなんて、考えてもいなかった。

昨日の今頃。確か、ドラッグを打って……。

急に背中から生まれた悪寒が全身をつつむ。志保は、思考を切り替えようと後ろを見た。

たまきがこちらを見ていた。横になっているにもかかわらず、メガネをかけ、じっと志保の方を見据えていた。

 

たまきには分からなかった。志保はなぜ、ドラッグなんかに手を出したのか。

今日一日、志保を見ていたが、志保はいたって普通の女の子だった。受け答えからも、育ちの良さ、頭の良さがうかがえた。

さらに、亜美ともすぐに打ち解けてしまった。

舞の家から「城」への帰り道、たまきは、亜美や志保の少し後ろを歩いていた。

二人は、それこそもう数年来の友人であるかのように話していた。元彼の話、お互いの通っていた学校の話、食べ物の話、etc……。

たまきはその少し後ろを歩く。自ら会話に加わることはないし、話しかけられても、ボソッと、最低限のことしか言わない。

こういう人たちはいるのだ。新学期、クラス替えとかでいきなり友達を作れる連中が。

それができれば、人生はきっと楽しい。たまきはずっとそう思っていた。

今、目の前にいる二人は間違いなく「友達作りスキル」のある人間である。たまきから見れば、勝ち組のはずだった。

だから、わからない。一方は学校というレールから外れ、一方はドラッグに手を出す。

自分がダメなのは、友達を作れないからだ。そう考えてきたたまきにとって、友達作りスキルを持っているにもかかわらず、自分と同じように枠から外れた亜美と志保は不思議でしょうがなかった。

自分がダメなのは、友達がいないからではないのか? それとも、論点が違うのか?

特に、志保はたまきが届かなかったもの、すべてを持つ存在だった。

だから余計にわからない。こんなにも他人に関心を持ったのは初めてではないだろうか。

ふと、志保と目があった。たまきは青いタオルケットを頭からかぶった。

「一つだけ聞かせてください」

タオルケット越しに薄暗い闇を隔ててたまきの声が志保の鼓膜に届く。

「明日が怖いって……どういうことですか……」

答えはきっとそこにある。

たまきの問いかけを聞いた志保は、少し微笑んだ。自嘲の色を帯びながら。

「志保さんは……。」

「もう志保でいいよ。年、そんなに変わんないんでしょ」

「……志保さんは、学校にちゃんと通えて、友達がいて、何で、ドラッグなんかに……。」

何てレベルの低いことを言っているんだろうと、たまきは思った。学校に通い、友達を作る。そんなの、最低ラインじゃないか。それにすら到達できない自分は何てクズなんだ。

そんなことを考えているたまきに、志保は優しく言葉をかけた。

「あたしの通ってる、ううん、もう一月ぐらい行ってないから、通ってた高校か。自分で言うのもなんだけど、結構、頭のいい学校なの。だから、入るのすっごい大変だった。相当勉強した」

志保の長いまつげが、月明かりに照らされる。

「親はすっごい喜んでね。もちろん、あたしもうれしかった。すぐに友達もできたし、夏休み前には彼氏もできた。自分でも、順調な高校生活だと思った……」

たまきにしてみれば、おとぎ話のような話である。

「でもね、順調だと思えば思うほど、ぼんやりと見えてきちゃうんだ、自分の明日が。このまま普通に大学行って、普通に就職して、普通に結婚して、普通に子供産んで育てて、普通に老後を送って、普通に死んでって。そう考えたら、急に怖くなったの」

「……それで……ドラッグに?」

たまきはますますわからない。

「ま、それだけじゃないけどね。でも、きっかけはそうかな」

順調だけど、順調だから、明日が怖い。

でも……。

でも……。

「そんなの……」

贅沢だ。たまきが言えなかった最後の一言を志保は理解したのか、やさしく笑った。そして、志保はさびしそうにつぶやいた。

「……贅沢だよね」

 

亜美は屋上にいた。煙草の煙がネオンに照らされて、紫色に映える。初夏の夜は肌に心地よい。

ここでたまきと会ったのか。あの時はこんな風になるなんて考えもしなかった。

何でたまきを助けたんだろ? いまさらながら考える。

そして、なんであの子を、志保を「城」に招き入れた?

……そりゃ、金になるからでしょ。

……本当に?

ぶっちゃけ、今まで週に二回来てたヒロキが、たまきが来て以降、週三回になったぐらいで、新規開拓なんて全くできてない。

きっと、志保が入っても、これ以上儲けは増えないだろう。

そんなの、最初からわかってた。「金儲け」なんて口実だ。

じゃあ、なんで、二人を招き入れた……。

……自分に似てるから?

……そんな馬鹿な。

右脳で出した答えを左脳で否定する。

あの二人が自分に似ているわけがない。たしかに、「家に帰りたくない」という点では似ている。それは認める。だから、たまきに親近感を覚えた。

しかし、たまきは亜美と違ってうじうじしてるし、志保は亜美と違って頭がいい。

そもそも、あの二人が言っていたことがさっぱり理解できない。たまきは明日なんていらないと言い、志保は明日が怖いと言う。

明日のことなんて考えるから、そんなこと言うのだ。明日なんて来ないかもしれない。

亜美は夜空を見上げる。もしかしたら、今日、宇宙のかなたから突然現れた恐怖の大魔王が、火の玉で地球を焦土と化し、みんな死んでしまうかもしれない。

まあ、今のはさすがに極端だが、明日が来る保証なんて、誰にもない。だったら、明日のことなんて考えたって仕方ない。明日なんてどうでもいい。今を楽しんで、明日が来ちゃったら、その時考えればいいのだ。

ふと、亜美の顔にあたるものがあった。思わず上を見ると、さらにポツッ、ポツッ、と冷たいものが当たる。

雨だ。

「マジかよっ」

亜美は屋上を後にした。

 

写真はイメージです

翌日は土砂降りだった。お昼少し前、亜美は買い物に出かけたので、「城」の中にはたまきと志保の二人がいる。

雨の日のたまきは気分が悪い。機嫌が悪いのではない、気分が悪いのだ。もっとも、はれや曇りでも気分がいいわけではなく、そんなに悪くない、というだけなのだが。

「たまきちゃん、何食べる?」

志保は厨房に立っている。髪を縛って、冷蔵庫の中を覗いている。

「お昼……いらないです……」

その時、雨音とともに、亜美が帰ってきた。

「ただいま。いいもの買ってきたぜ」

亜美は、手に持っていた、少し濡れたビニール袋の中から、何かを取り出した。

コルクでできた楕円型の薄い板。それといくつか、ひらがなの形をした造形物が、袋の中には入っていた。

「ネームプレート?」

志保が尋ねた。

「そう。せっかくだし、これに三人の名前を貼って、玄関につるそうぜ」

「……玄関につるしたら、不法占拠がばれるんじゃないですか……」

たまきの一言で亜美が一瞬止まった。

「……ドアの内側にしよう」

 

「うちはピンクね」

亜美はピンク色の造形物の裏にボンドを塗り、コルクのネームプレートの上の方に張り付けた。造形物は、ひらがなの「あ」と「み」の形をしている。

「たまきは黄色ね」

亜美は黄色い「た」「ま」「き」をたまきの手に渡した。

「……私、黄色ですか……?」

黒か紫が良かった。

「気分だけでも、明るくしなきゃダメなんだよ」

たまきは少し不満そうに、造形物を見ていたが、やがてボンドを手に取ると、ボードの下の方に張り始めた。

「たまき、そんな下でいいの?」

「たまきちゃん、真ん中にしなよ。下は新入りの私が」

「……いいです、私はここで」

そういいながら、たまきは「き」を張り付けた。

「志保は青ね」

亜美は志保に青と水色の間くらいの「し」と「ほ」を渡した。志保は笑顔で、「あみ」と「たまき」の間に張った。

亜美は、完成したネームプレートを、ドアの内側、ちょっと高いところにつるした。

「かんせ~い」

 

あみ

しほ

たまき

 

「へへっ。ちょっと、テンションあがるな」

「そうだね」

「……ちょっとだけ」

雨は激しく降り続いていた。

つづく


次回 第4話 歌声、ところにより寒気

亜美、志保、たまきの3人での生活が始まった。ミチに誘われて、彼のバンドのライブに出かけたたまき。事件はそこで起こる……。

「何のやる気もなく、ただ消化試合のように生きている。絵を描くのも、楽しいからでもなく、何かを表現したいからでもない。時間をただ押し流すためだけの作業。 」

⇒第4話 歌声、ところにより寒気


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