「明日なんかどうでもいい」と援助交際で生活する少女、亜美。「明日が怖かった」と覚醒剤に手を出し、厚生施設に通い始めた少女、志保。「明日なんかいらない」と自殺未遂を繰り返す少女、たまき。3人は歓楽街のつぶれたキャバクラを不法占拠しながら暮らしている。今回は3人が出会って2か月がたったころのお話。
「あしなれ」第11話、スタート!
第10話「真夏日の犬と猫とフンコロガシ」
「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち
長月の長雨はなかなかやまない。
雨の中わざわざ「城(キャッスル)」にやってきた舞は、「迷惑だ」と言いながらも笑いながらたまきの右手首に包帯を巻き始めた。
「ごめんなさい」
というたまきの伏し目がちな謝罪に対して舞は、
「お前が遠慮してあたしを呼ばずに自分で処置して、傷口を化膿させる方がもっと迷惑だから、切ったら必ずあたしを呼べ」
と、笑いながら返す。
「おどろいたよ~。トイレ開けたら、たまきちゃんの手首から血が流れててさ、たまきちゃんがそれ、じっと見てるんだもん」
志保はそういうとソファに深く沈み込み、本を読み始めた。お菓子の作り方に特化した本だ。
「いつぶりだっけ、リスカするの」
舞が、包帯がほどけないようにたまきの手首にしっかりと固定しながら尋ねた。
「……八月の半ばです」
「その前は?」
「……七月の終わりごろ……」
「お前が勝手に一人で処置したやつな。やっぱり、二週間に一回くらいか」
たまきは無言でうなづいた。二週間に一回、無性に死にたくなる時がある。別になにか嫌なことが二週間ごとにやってくるわけではなく、普段の生活の中でため込んだ毒素が限界になるのが、二週間という期間なのだとたまきは解釈している。
「志保、お前はどれくらい経つ?」
急に話を振られて、志保が驚いたような顔をして舞の方を見た。
「え? な、なんの話ですか?」
「クスリやめてからどのくらい経つかって聞いてるんだ」
「……一か月ちょっとですね。自己ベスト更新中です」
「……ほんとに使ってないんだろうな」
その言葉に、志保はさみしそうに下を向いた。
「……あたしのこと、信じてないんですか」
「人としては信じてるし、信じたい」
舞はたまきから手を放し、志保の方に向き合って、言葉をつづけた。
「だが、医者としては信じていない。残念ながらな」
「……ですよね」
志保は視線をとしたまま、左手で右の腕をさすった。
そこに、
「とう!」
という掛け声とともに、亜美が勢いよくドアを開けて帰ってきた。
「たっだいま~! あれ、先生、来てるんだ。さてはたまき、また切ったな?」
たまきが申し訳なさそうにうなづく。
「亜美、お前どこ行ってたんだ?」
「え? 隣町の理髪店」
亜美の答えにたまきは首をかしげたが、舞は
「理髪店? お前もそんなとこ行くんだな、つーか、そんな言葉知ってるんだな」
と言いながら、救急セットをカバンの中にしまった。
「志保~、晩飯は?」
「先生がせっかく来たから、一緒に外で食べないかって」
「マジで? おごり?」
亜美が目を輝かす。一方、たまきは憂鬱そうに体育座りをしている。極力外に出たくないのだ。
「あたしのおごりだ」
勝ち誇るような笑みの舞に向かって亜美は、
「ゴチになります!」
と、勢い良く頭を下げた。
東京の街並みは遠くから見るとまるでお城みたいだ、と言ったのはいったい誰だっただろうか。城郭のような高層ビルと城壁のような雑居ビルの群れの中に、中庭のように歓楽街が広がっている。
その中の太田ビルというビルの5階にある「城」という潰れたキャバクラに亜美、志保、たまきの三人は住み着いている。不法占拠というやつだ。
一階からコンビニ、ラーメン屋、雀荘、ビデオ屋、そして「城」と積みあがっている。上に行くごとにいかがわしさが増し、3階の雀荘にはガラの悪い人たちが出入りしている。4階のビデオ屋にいたっては、店長が金髪のパンチパーマにサングラスという強面だ。
そんなわけで、まともな人間ならば5階まで昇ろうなどとは思わない。5階まで、ましてや屋上に上る人など、よほど宿に困っているか、お金に困っているか、何が困っているかもわからず死のうとしている人くらいだ。
しとしとと続く雨音の中、コンクリート製の階段を下りて、4人が階下のラーメン屋へと向かう。一列に並ぶ姿は、なんだか某ファンタジーゲームみたいだ。
「へいらっしゃーい!」
自動ドアをくぐると、野菜を炒める音を暖簾のようにくぐった野太い声と甲高い声の大合唱。店内は凸の字型にカウンター席が伸び、奥にはテーブル席が三つほど。夕飯時だが、それほど混んでない。
4人は入口で食券を買うと、カウンターに座った。亜美、志保、そして舞は食券をカウンターの一段高くなったところに置き、それを見てたまきはそっと食券を同じところに置いた。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから顔を出し、ニッと笑顔を見せたミチに最初に気付いたのは亜美だった。
「は?」
続いて志保が
「あれ?」
舞が
「ん?」
最後にたまきが
「あ」
と声を上げた。
「何やってんだお前、こんなところで」
舞の問いかけにミチは笑顔で
「バイトっす」と返す。
そういえば、バイト始まったって言ってたし、飲食店っぽいことも言ってたなぁ、とたまきはぼんやりと考えた。
「なんでこのビルなんだよ」
亜美が半ばあきれたように質問した。
「いや、先輩がこの上のビデオ屋で働いてて、よくこの店連れてってもらってたんすよ。そしたらバイト募集って書いてあっから、応募してみたらすんなり通っちゃって」
ミチがにやにや笑いながら答えた。
たまきは背筋がぞわぞわするのを感じた。自分の生活圏に苦手な男子が入ってくると、なんだか背中がぞわぞわしてたまらない。
ミチはたまきの方に近づくと、
「びっくりした?」
と聞いてきた。たまきは、
「……あんまり」
と返す。
「っていうかたまきちゃん、ミニチャーハンでいいの!?」
とたまきの食券を見てミチがびっくりしたような声を出した。たまきは無言でこくりとうなづいた。
「ハイ、とんこつ醤油、とんこつ醤油大、レバニラ炒め、ミニチャーハン、ギョウザ一丁!」
厨房の奥からほーいと野太い声が聞こえ、ミチも厨房の奥へと向かっていた。あとに残るはなにかを炒める音ばかり。
たまきがぼうっとしていると、亜美が隣のたまきを肘で突っつく。
「あれじゃね? ミチ、お前のことおっかけてここでバイトしてるんじゃないの? あいつ、地味な女が好みだって言ってたぜ?」
にやける亜美の言葉を、たまきはかぶりを振って否定した。
「ないです。ミチ君、バイト先に好きな人いるって言ってました」
そういってからたまきは気づいた。バイト先って、ここじゃないか。
じゃあ、ここにいるのかなと思ったの同時に、たまきの背後からするりと手が伸びてきた。
「お待たせいたしました。ミニチャーハンととんこつ醤油大です」
女性の声に、たまきは声のした方を見る。
二十歳ぐらいだろうか。茶色く柔らかそうな髪を後ろでまとめている。かわいらしい顔立ちはいかにもモテそうだ。
「みっくん」
女性が声をかけると、ミチが厨房の奥から顔を出した。
「休憩入っていいよ」
「はい」
ミチがこれまで見せたこともないくらい顔をほころばせているのがたまきの目に映った。
四人が店を出ると、廊下の角でたばこを吸っていたミチが、あわててタバコを傍らのバケツに放り込んだ。灰交じりの黒い水の中にタバコがひとひらポトリと落ちる。ミチは舞の顔を見て、ばつの悪そうに笑った。
「ん~、べつに未成年だからって止めやしないぞ、ミチ。お前の寿命が減るだけだからな」
舞が皮肉めいた笑顔を見せる。
「ねえねえ、ところでさぁ」
と志保が妙ににやにやしながらミチの方に近づいた。
「ミチ君が好きな女の人って、さっきの店員さん?」
「ちょ! 誰から聞いたんすか!」
志保がクルリとたまきの方を振り向き、たまきが申し訳なさそうに下を向く。
「なかなかかわいい人じゃん」
「まあ、お前には高嶺の花だな」
意地悪そうに笑う舞に対し、ミチは
「実はですねぇ……」
と含み笑いで切り出した。
「え? まさか、もう付き合ってるとか?」
「なに? ヤッたの?」
亜美まで身を乗り出してくる。
「いや、そういうわけではないんすけど……」
ミチのその回答に亜美は
「なんだ」
とつまらなそうに背負向けたが、志保は
「なになに? そういうわけではないってどういう関係?」
と目を輝かせてミチに迫る。
「……2回くらいデートしてるっていうか……、今週末も約束してるっていうか……、キスしたっていうか……」
「え―!! なにそれ! つきあってんじゃん!」
志保が、雨粒がはじけ飛ぶんじゃないかというほどの大声を出す。
「いや、ちゃんと、付き合ってくださいとか言ったわけではないんすけど……」
「いやいや、つきあってんじゃん、それ!」
「……やっぱそうなんすかね」
「ガキっぽい顔しといて、やることやってんな」
舞が感心したように言う。
「えー、カノジョ、名前なんて言うの? 学生?」
「海乃(うみの)さんって言います。二十歳の専門学校生っす」
「二十歳? 年上じゃん! 年上カノジョじゃん!」
「ええ、まあ……」
ミチは困ったように笑っているが、本当に困っているわけではないようだ。店の白い外壁に、ミチの薄い影が儚く揺れる。
「えー! よかったじゃん! おめでとう!」
「あ、ありがとうッす。あ、デートの写真見ます?」
「えー! みたいみたい!」
「おっ、カノジョ、なかなかかわいいじゃん」
「先生もそう思うッすか?」
そんなやり取りを見ていたたまきだったが、盛り上がる輪の横をすり抜けると、階段を上っていった。
なんで志保がミチにカノジョができたという話を、あんなに喜べるのかがよくわからない。
ああいう他人の幸せを素直に祝福できる人っていうのは、余裕がある人なんだろう。今現在、志保にカレシはいないはずだが、たぶん、志保はその気になればカレシを作れるのだと思う。その余裕があるから、あんなに素直に他人の祝福が祝えるのだ。
なんだかんだ言って、志保はあっち側の人間なんだと思うと、階段の蛍光灯の灯りよりも、外の暗さの方がより一層強く、ミチや志保の弾んだ声よりも長雨の雨音の方がより一層大きく感じられた。
誰が誰と付き合うとか、たまきには関係ないし、どうでもいい話だ。
「城」のドアに手を書けてガチャリとドアを開ける。右手首の新しい傷がねじれて、また痛む。
鍵は亜美が持っていたはずだから、亜美は先に戻っているらしい。
「城」の中は明かりがついていて、亜美が冷蔵庫の中からビールを出して飲んでいる。亜美の「客」が手土産に持ってくるのだ。
「・・・・・・ただいまです」
たまきは力なくそう言うと、亜美から少し離れたソファに腰を下ろした。
「下、まだ騒いでんの?」
「はい」
二人は特に目を合わせることなく会話をしている。
「よく盛り上がれるよな、志保のやつ。他人のコイバナでさ」
「……亜美さんって、私のことはあれこれずかずか聞いてくるくせに、ミチ君のカノジョさんの話は、興味ないんですね」
「え? だって、あれくらいの男子が付き合うって、フツーじゃん。興味ないし。ヤッたってんなら、また別だけど」
私にとってはその「ふつう」がどれほど手を伸ばそうとも届かないものなのに……。
たまきは下を向きながら考え、ふと気づいた。
そうか。私は普通じゃないから、亜美さんは面白がって私のことをずかずかと聞いてくるんだ。
私が普通じゃないから……。
「何やってた? 下」
「……なんか、ミチ君のデートの写真見てました」
「ナニソレ?」
亜美が半ばあきれたように笑う。
「ヒトのノロケ写真見て何が楽しいの?」
「・・・・・・さあ。『幸せのおすそ分け』じゃないですか?」
「ナニソレ?」
亜美がいよいよあきれ返ったような顔をする。
「そーいや、中学のダチでウザい奴いたなぁ」
エアコンの音がせせらぎのように静かに流れる。その音を背景に亜美は話し出す。
「カレシの話ばっかする奴がいてさ、それこそ、『幸せのおすそ分け』つって。『カレシさえいればもう、何もいらない!』とかほざくんよ」
部屋の中をエアコンの音がノイジーに流れる。
「だからウチ、そいつに『なんもいらないんだったら、財布の中身全部よこせ』つったらよ、そいつ固まって、なんか言いわけ始めてやんの」
「……カツアゲじゃないですか」
今度はたまきが呆れたような顔をする番だった。
「はぁ? 先に『なんもいらない』っつったの、向こうだぞ? いらないんだったらウチが欲しいからよこせっつっただけだぜ?」
亜美はテーブルの上に足を投げ出しながら、半笑いで語気を強める。
「な~にが幸せのすそわけだよ。『すそ』ってズボンの余ったところだろ? すそなんかいらねぇんだよ。現ナマよこせっつーの」
亜美は缶ビールをあおる。
「結局、だれも幸せなんて、他人にはビタ一文渡す気なんてねぇんだよ」
空っぽになったアルミ缶をべこっと潰すと、亜美はテーブルの上に置いた。ふと、そこに置かれたチラシに目が行く。
「……なにこれ」
そこには「東京大収穫祭」と書かれていた。
「なんか、志保さんがそこでクレープ屋やるみたいです」
「クレープ屋? なんで?」
「施設の人たちと一緒にやるそうですよ」
「へ~」
亜美は興味深そうにチラシを眺めている。
「お、ライブステージとかあるじゃん。面白そ~」
「ミチ君のバンドも出るみたいですよ」
「なんだよ。みんな出るじゃん。ウチらもなんかやろうか」
「……何やるんですか」
たまきがソファの上で体育座りをしながら尋ねた。
「お笑いオンステージってのあるぞ。二人でコンビ組んで出ようぜ」
「……嫌です」
「……ツッコミ弱ぇなぁ」
「あ~、むずかしい~」
トクラがおたまを片手に苛立ちを見せる。
教会の中の小さなキッチンで、志保は数人の人たちとともに、クレープを作る練習をしていた。リーダーのトクラがホットプレートの上のとろりとした生地をおたまで広げるが、なかなかきれいな円形にならない。おまけに、生地の厚さにどうしてもムラができてしまう。
「クレープ屋とか、どうやってるんだろ?」
トクラが長い黒髪をかき分けながらつぶやく。
「なんか、ヘラ使ってるみたいですよ?」
トクラのつぶやきに志保が答える。
「ヘラ?」
「なんか、竹とんぼみたいなの」
「竹とんぼ?」
トクラがホットプレートを覗き込みながら首をかしげた。
「あ~、イライラする」
ホットプレートの上には、いびつなクレープのなりそこないが置かれたまま、キツネ色の焦げ目を作っていた。
「トクラさんって、美人だよね~」
二十歳ぐらいの女の子がつぶやく。確か、彼女はギャンブル依存症だと言っていた。
噂のトクラ本人は、トイレに行っている。
すると、中年のおじさんが口を開いた。
「トクラさんのお母さんは女優さんだって聞いたことあるよ」
「女優さん? 誰ですか?」
志保が訪ねた。「トクラ」なんて女優、聞いたことない。
「あくまでもそういう噂。お母さんっていうのも、大物女優らしいけど、普段は芸名で活動しているらしいよ」
「ふ~ん」
「にしても、トクラさん、遅いなぁ。もう一回練習したいのに」
おじさんがトイレの方をちらりと見る。水の流れる音がして、トイレからトクラが出てきた。
「よーし! もう一回、練習やろうよ!」
「トクラさん、みんなと話してたんですけど、専用の道具を買ってきた方がいいのかなってなって、あたし、帰りにちょっとデパート行ってみようかなって……」
志保の申し出をトクラは大声で遮った。
「だいじょーぶだいじょーぶ! ねー、生地、どこどこ?」
「生地はそこにあまりが……」
志保が言い終わらないうちに、トクラは生地の入ったボウルを手に取ると、泡だて器を突っ込み、勢いよくかき回しだした。
「ああ、もうかき回さなくていいんですよ! あまり、空気は入れない方が……」
志保の言葉も無視して、楽しそうにトクラは生地を泡立てる。
駅までは歩いて5分くらいのところにある。施設のある教会を出た志保は、駅へと向かう道の途中、ふと、視線を感じた。
振り返ると、トクラが歩いているのが見えた。トクラも志保を見つけると、にっこりとほほ笑む。
志保は少し歩くスピードを落とした。トクラも少し歩みを速めたらしく、すぐに志保の横に並んだ。
トクラの年は三十歳前後だろうか。並び立つと、決して小柄ではない志保よりもトクラのほうが背が高い。モデルのような顔立ちで、「女優の娘」とうわさされるのも納得ができる。少なくとも、それなりの風格があるのだ。
だが、その眼にはどこかゾッとさせるものもあった。
彼女は危険ドラッグの常習者だとどこかで耳にしたことがある。……自分もあんな目をしているのだろうか。
「カンザキさんも通いなんだ」
「あ、はい」
「電車? バス?」
「電車です。4駅先の……」
志保は繁華街のある駅の名を口にした。
「へぇ。あそこ住んでるんだ。すごいとこ住んでるね」
「い、いや、それほどでも……」
家賃を払っていないものだから、何とも言えない。
「トクラさんはどこの駅ですか?」
「私はバス」
「近いんですか?」
「まぁね」
志保もはっきりと数字を覚えているわけではないが、このあたりの家賃は高そうなイメージがある。「トクラは女優の娘」という噂の信憑性がまた一つ増した。
駅へと続く大通りはバスがけたたましく地面を揺らして走るが、人通りはあまりない。志保は、トクラの目を見ることなく、ぽつりと言った。
「……トイレの中で何してたんですか?」
「……聞くんだ」
志保はトクラの顔を見ていたわけではないが、声の感じから、トクラが笑っているのはわかった。
アスファルトに二人の影がくっきりと映される。そこだけ、光も熱も拒絶しているかのようだ。
「……トクラさんは、何のために通ってるんですか?」
「真面目だねぇ、カンザキさん」
トクラが歩みを止めたのを察し、志保も足を止める。トクラの方を向くと、相手も視線を落とし、志保の目を覗き込んでいた。
「その真面目さに首を絞められないようにね。じゃ、また」
そういうと、トクラは踵を返して、軽い足取りでバス停へと向かっていた。
携帯電話全盛の世の中となったが、駅前やコンビニの前、公園など、公衆電話を探そうと目を凝らせばまだまだ見つかる。
歓楽街のコンビニの前にある公衆電話に、たまきは十円玉を入れた。受話器を耳に当てながら自宅の番号を押すと、パ、ポ、ポ、と音が鳴る。
全部で十個のボタンを押すと、受話器からプルルルルと呼び出し音が流れる。
たまきは電話が大嫌いだ。自分からかけるのも、かかってくるのも大嫌いだ。
呼び出し音が途切れた。誰かの息遣いが聞こえた途端に、たまきは受話器を叩きつけるように戻すと、都立公園に向けて足早に歩きだした。
「東京大収穫祭」。その言葉を見聞きするのはいったい何度目だろう。
たまきは都立公園の木立の下の掲示板に貼られたチラシを見ていた。
「東京大収穫祭」と書かれたチラシは、志保が「城」に持ってきたものと同じものだった。
そういえば、ミチがイベントが行われる場所を「この公園」と言っていたような気がする。時期は十月の初めごろ。あと一カ月もすれば、この静かな公園が人で埋め尽くされてしまうのだろう。
たまきは下を向いて、とぼとぼと歩きだした。
たまきがよく訪れる公園で開かれる祭りには、志保やミチも参加する。
身近な存在となりつつある大収穫祭だったが、きっとそこに、たまきのような人間が入り込む余地はない。
そんな風に歩きながらおもむろに顔を上げたとき、再びたまきの目に「東京大収穫祭」という画数の多い6文字が飛び込んできた。
ただし、今度はチラシやポスターのような類ではない。それは上下に揺れながら、少しずつたまきから遠ざかっていく。
それは、人の背中に書かれた文字だった。濃いピンクのTシャツの背中に、白い字で例の6文字が書かれていたのだ。
書かれていた文字はそれだけではなかった。あと4文字、「実行委員」という文字が添えられていた。
同じTシャツを着た人2人が、たまきの少し前を歩いている。どういうわけか二人とも右側を見ながら、何か話している。おそらく二十歳くらいであろう女性二人だ。
「でもさ、ここは屋台とかブースとか置く予定じゃないし、べつにいいんじゃない?」
「でも、人が来た時に、あそこが目に入ったらみっともないよ」
二人の女性は林の奥の方を見つめながら何か話している。
あの林の奥には、仙人さんたちの庵があったはず……。
たまきにしては珍しく歩調を速め、女性たちとの距離を少しつめた。
「それに、あんな林の奥だったら目立たない、っていうか見つからないって」
「ダメダメ。イベントの時はああいうところが休憩場所みたいな感じになるんだってば。人目に付きにくいからって誰も来ないとは限らないんだよ」
「でも、去年の大収穫祭の時、あの掘立小屋、あったっけ?」
「……イベントの1週間前には、もうなかったよ。でも、その前の視察ではあったよ。おととしもそうだった」
「毎年、視察の時にはあるけど、本番の時にはなくなってるってこと?」
「ホームレスなりに気を使ってるんじゃない?」
右側の女性はそう言って笑った。
「どうせ毎年いなくなるなら、戻ってこなければいいのに」
もう片方の女性も大声で笑う。
「っていうか、さっきのおっさん見た? 昼間っから酒飲んでなかった?」
「サイテー。どうせどっかいくんだったらさ、酒飲んでないでとっとと出てけばいいのにね」
「っていうか、飲んでないで、働けよ」
「ほんとそれ」
そう言ってまた笑う。笑い声も話し声も、間違いなく庵まで届いているだろう。
たまきはいつしか、彼女たちの後を追うことをやめていた。立ち止まり、その後ろ姿をじっと見ている。
ことし最後かもしれないセミの鳴き声のリズムが、たまきの鼓動と同調して、響く。
笑い声は聞こえても、後ろからでは彼女たちの表情はよくわからなかった。
追いかけていって何か言い返してやりたいが、口下手なたまきにはその「なにか」にあたる言葉が思い浮かばない。
さっき見たイベントのチラシの文字が頭にちらつく。
『みんな、来てね!』
月並みな言葉が残酷に嗤う。
仙人さんは、「みんな」の中に入っていないんだ……。
なんで? 仙人さんは、ここにはいてはいけないの?
たまきはそら豆のおじさんの顔を思い出した。おじさんは仙人にあってから、笑顔が少し明るくなった。仙人にホームレスとしての生き方を教わっていると言っていた。仙人にあっていなかったら、今頃どうしていただろう。
たまきは、カバンからはみ出たスケッチブックを見た。たまきに絵をかくことの楽しさを思い出させてくれたのは、学校の誰かなんかじゃなく、ホームレスの仙人だった。
でも、きっと良識ある大人たちは、仙人がここにいてはいけないというのだろう。初めて仙人にあった時の、どしゃ降りの中でのミチの言葉がたまきの頭の中をぐるぐると廻る。
「ここおっさんたちの家じゃないじゃん。不法占拠だろ?」
……人間は、「ただ、ここにいる」、そんな当たり前のことをするのに、誰かの許可が必要らしい。
林の中を緑の落ち葉を踏み入って入ると、仙人をはじめとしたホームレスたちが数人いた。ベニヤ板のお化けのような庵の前に、折り畳み式のイスとテーブルを地面の上に置き、カップ酒で酒盛りをしている。
木陰の中をアルコールの幽かなにおいが漂う。
仙人はたまきを見つけると、笑いながら声をかけた。
「やあ、お嬢ちゃん」
「……こんにちは」
たまきはぺこりと頭を下げると、空いている椅子に座った。おじさんばかりのこの空間にも、少し慣れてきた。
「お嬢ちゃん、リンゴジュース飲むか?」
仙人は微笑みながらそう言うと、たまきにリンゴの絵の描かれたアルミ缶を差し出した。たまきはぺこりと頭を下げると、プルタブに親指を引っかける。
だが、何度やってもプルタブを持ち上げることなく、親指が外れてしまう。
「なんだ、開けられないのか。かしてみな」
仙人はたまきの手から感を取ると、ぷしゅっとプルタブを開けた。たまきはお礼にまた頭を下げると、両手で缶を持ち、飲み始めた。
少し飲んで缶を口から話すと、缶をテーブルに置き、たまきは視線を落とした。
「……怒らないんですか?」
「なににだい?」
「……さっきの人たちです」
この距離ならあの二人の会話は間違いなく聞こえていたはずだ。たまきは、自分の知り合いが馬鹿にされているのを聞いて、背筋から湯気のようなものが沸き立つ感覚と、胸の奥あたりが凍てつくような奇妙な感覚を同時に味わっていた。
「あの人たち、仙人さんたちのこと何も知らないのに、ホームレスだからってあんなふうにバカにして……」
だが、仙人はカップ酒をぐびっとあおると、はははと笑った。
「なぁに、百年たてば、歴史に笑われるのはあちらの方さ」
そう言って仙人はまた、はははと笑う。
「それに、『何も知らないのにバカにして』というのは少し違うぞ、お嬢ちゃん。何も知らないからバカにするんだ」
他のホームレスたちもゲラゲラ笑っている。
「絵を見せに来てくれたのかい? それは嬉しいが、お嬢ちゃんもあまりここには来ない方がいいぞ。さっきみたいな連中に、お嬢ちゃんも笑われてしまう」
仙人はハスキーな声で優しく言った。
「……笑われるのは、……慣れてます」
たまきは視線を上げることなく言った。
「仙人さんたちは……、お祭りのときはどうするんですか?」
「出ていくさ。わしらは、ここにはいてはいけないからな。毎年のことだ」
仙人はさも当り前のようにそう言った。カップ酒の最後の一滴をのどに押しやると、じっと自分のつま先を見つめるたまきの頭をぽんっと叩いた。
「なに、祭りが終わったら帰って来るさ。毎年のことだ」
それを聞いてたまきは視線を上げた。
「ただ、それもいつまで続くか、わからんけどな」
「……どういう意味ですか?」
「ここ数年、東京都がオリンピックを誘致しようとしとる。もし本当にオリンピックなんて来たら、わしらみたいなのはどこかに追いやられてしまうだろうさ。まあ、仕方あるまい。公園はみんなできれいに使うもの。その『みんな』の中に、わしらは入っていないのだからな。今から断食して、浮いたお金で都民税でも納めてみるか」
そういうと仙人はにやりと笑い、ほかのホームレスたちもゲラゲラ笑う。
林から出たたまきは、都庁を見上げた。ぶ厚い雲が日光を遮り、都庁に影を落としている。
いつかの亜美は都庁に向かって「バカヤロー!」と叫んでいたが、口下手なたまきには、今、自分の中でぐるぐる回っている感情に言葉を付けてあげることができない。
長月の夕暮はなかなかくれない。不死鳥の翼のように茜に染まった空に黄金色の雲が浮かび、一日の終わりをオーケストラのように彩っている。
亜美は煙草を片手に太田ビルの屋上へと出た。太田ビルはこの歓楽街ではひときわ古く、それでいて、ひときわ高い。東を見れば歓楽街が一望、とまではいかないがとてもよく見える。一方、西の空にはいくつものビルがそれこそ城郭のように立ち並んでいる。
ふと、柵に目をやると、小さな影が東側の策によりかかっている。
その影の正体がたまきだと気付いた時、亜美は初めてたまきとあった時のことを思い出し、汗が頬を伝り胸元へと落ちていったが、よく見るとたまきは柵に背中を預けて絵を描いているだけだと気付き、胸をなでおろした。
「ビビらせんなよ、おい。また死のうとしてるのかと……」
そう言って亜美はたまきに近づいたが、たまきがまるで睨むかのように西のビル群をじっと見据えながら、たまに視線をスケッチブックに落として絵を描いているのがわかり、亜美は何も言わずに横でそれを見ていることにした。
数分してたまきは絵を描きあげた。亜美はそれを少し離れたところから見る。
「相変わらず、お前が描くと魔王の城みたいだな」
そう言った途端、たまきは描かれた紙をスケッチブックから切り離した。たまきはプルタブも一人じゃ開けられない細い腕に力を込め、自分の描いた絵をやぶきはじめた。紙のちぎれる音が雷鳴のように亜美の鼓膜を打つ。まっすぐには破けず、途中で曲がり、結局、最後まで破ききることができなかった。
亜美はあわててたまきの正面へと回り込む。
「ごめん! ウチ、なんか余計なこと言っちゃった? いや、ウチはそういう絵、好きだよ? なんか、へヴィメタのジャケットみたいじゃん?」
亜美の言葉に、たまきはまるで、たった今亜美に気付いたように大きく目を見開いた。
「え? な、何の話ですか?」
「いや、ウチ、余計なこと言ったのかなって」
「え? 何か言いました?」
二人とも、夕焼け雲のように顔を赤くしている。
「だって、せっかく描いた絵を破ってさ、ウチの言ったことが気に入らなかったのかなって」
「え? いや、これは、その……」
たまきが恥ずかしそうに視線を落とす。
「この絵は……、最初から……、やぶくつもりで描いたんです……」
「え? なんで?」
下を向くたまきの顔を覗き込むように、亜美がたまきを見る。たまきは答えない。
「意味わかんない。ねえねえ、なんで最初っからやぶくつもりで、絵なんか描いたの?」
たまきはやぶれていびつな形になった紙を見つめた。描かれている都庁、らしき建物は引き裂かれ、たれ込めている。
「……私、口下手なんで」
そういうとたまきは、紙を手に、口を堅く結んで、搭屋へと入っていった。
つづく
次回 第12話「夕焼けスクランブル」
次回、トクラが志保を、ミチがたまきを、かき乱す!
続きはこちら!
クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」