ファンタジスタはいらない

サッカーW杯のカタール大会が終わってしばらくたちますけど、今回はなかなか興味深かったです。

結果的にはアルゼンチンが優勝したけど、10年ぐらいたってカタール大会ってどんなだっけと言われた時に、きっと僕が思い出すのは、メッシでもエムバペでもなく

「モロッコ、すごかったなぁ」

だと思います。

日本もドイツとスペインを下して死のリーグを抜け出し、クロアチアとPK戦にもつれこんだ。

まあ正直な話、日本代表なんて勝とうが負けようがどうでもいいんですけど(僕にとっては32か国ある出場国の一つに過ぎない)、ただ、今回の日本代表はなかなか興味深いんですよ。

スターが、いないんですよ。

もちろん、点を取った選手は注目されやすいですけど、誰か中心になって突出して活躍した選手がいるかと考えると、特にいない。

大会後の報道を見てても、メディアによく出るのは、キャプテンの吉田とか、ベテランの長友や権田とか、森保監督とか、要はしかるべきポジションの人が代表して出てるくらいで、それこそメッシやエムバペ、ポルトガルのクリロナみたいな、その国を代表するようなスターやエースは特にいない。

これが何を表しているかというと、「ひとりの天才の力・個の力で勝ったんじゃなくて、チーム全体の力で勝った」、ってことなんですよ。

ドイツ戦もスペイン戦も、相手と対等に渡り合えたかと言ったらそう言うわけじゃない。やっぱり相手の方が上手くて、ボールぜんぜん取れなくて、攻められ続けてるんだけど、なんとか耐え忍んで、1失点で押さえて、少ないチャンスをものにして勝つ。

つまり、守備が決壊していたら絶対にできない勝ち方なんです。守備って一人のスーパースターやファンタジスタにような個の力でどうにかなるものじゃなくて、戦術、約束事、全員が連動する、そういうことが大事なんです。守備が上手くいったということは、チーム力が良かったということ。一人のスーパースターがドリブルで切り裂いてシュートをねじ込んだ、そういう勝ち方じゃなかったはず。

快進撃を見せたモロッコだって、一人で点を取りまくった天才がいたわけじゃない。チームとして強かった。実際、守備はめちゃくちゃ硬かったです。

結局、天才メッシを擁するアルゼンチンが優勝して、「メッシはすべてを手に入れた」って言われてますけど、僕はむしろ「10代のころから天才と言われ続けたメッシですら、ワールドカップを制するのにここまで手間取る、サッカーは一人の天才の力でどうこうなるスポーツじゃない」という風に映りました。

でも、この「一人の天才の力ではどうにもならない」こそチームスポーツの醍醐味じゃないですか。選手それぞれに得意不得意があって、それぞれの選手がそれぞれのポジションでそれぞれの特技を発揮して勝つ。

一人で何でもできるんだったら、そもそもチームスポーツである意味がない。一人でやればいいじゃん。そういう競技もいっぱいあるよ。

オシム監督なんて、「ファンタジスタはいらない」とはっきりと言ってました。実際、オシムサッカーは全員が連動してチームとしてかつ、そういうサッカーでした。

なんだか最近、その辺がおろそかになってる気がします。チームスポーツなのに、個人の力ばっかり注目される。

一人が何本シュートを打とうが何本ホームランを打とうが、チームが勝てなきゃゼロと一緒。チームの勝敗だけが評価のすべて。個人の記録を競うスポーツじゃないんです。

個の力が必要以上に誇示されるようになってきた、そんな時代になってきたと思うのは、僕だけですかね。

そんな時代だからこそ、日本やモロッコのようなチームが健闘したことに意義があると思うのですよ。

小説 あしたてんきになぁれ 第37話「イス、ところにより貯水タンク」

亜美とたまきが、謎のコワモテおじさんに遭遇? 「あしなれ」第37話、スタート!


第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


東京は、外から見るとまるでお城のようだ。だからなのか、歓楽街のビルの5階にあるそのスナックの名前を『城(キャッスル)』という。もっとも、店としてはだいぶ前につぶれていて、今は三人の家出少女が勝手に住みついている。

そのひとり、たまきは屋上に上って、街を眺めていた。『城』のある太田ビルは歓楽街の中でもかなり高い建物のため、屋上に上ると街の様子がよく見える。

とくに、何か用事があるわけでもない。ただぼんやりとたまきは街を眺める。西の空には黒い雲が黙々と広がって、夕日を覆い隠している。あの雲がこっちに来たら、この辺にも雨が降るかもしれない。

「よっ」

声がした方を振り返ると、階段の前に亜美が立っていた。

「……どうかしたんですか?」

「こっちのセリフだよ。屋上で何やってるんだよ。まさか、また飛び降りようってんじゃないだろうな」

「……別に、そういうつもりじゃないです」

そもそも、「また飛び降り」と亜美は言うけれど、たまきがここから飛び降りたことなんて、一度もない。飛び降りようと、思い詰めていたことが何回かあるだけだ。

亜美は、手摺によりかかるたまきの横に来ると、手摺に背中を預けた。

「じゃあさ、おまえ、ここで何やってんのさ」

「別に……特に用事は……」

「屋上なんか来て、何か楽しいわけ?」

「楽しくはないですけど……高いところで風に吹かれてるのは、キライじゃないです」

「おまえ、ゲーセンよりも屋上にいたいって、それはもうビョーキだぞ」

何の病気だというのか。仮に病気だったとして、別に治さなくてもいいような気がする。

かつてのたまきだったら、こんなときは「どっかいってくれないかな」なんて考えたものだけど、今はもう、そんな風には考えない。

ひとりで屋上で風に吹かれてるのは「嫌いじゃない」けど、そこに友達が加わると、少しだけ、気分がいい。

「なに笑ってんだよ」

亜美はそういうと、煙草に火をつけた。

亜美の携帯電話が鳴った。ロック系の着信メロディーが鳴り響く。

「はいはいもしもしー」

亜美は背もたれから離れた。

「なに? 周りうるさくてよく聞こえないんだけど。 そこ、どこ? 近い?」

亜美は電話とは反対側の耳を押さえた。電話のむこうはガヤガヤと騒々しく、声がはっきりと聞き取れない。

「わかったわかった。とりま、これから行くから、ちょい待ってろ」

亜美はそういうと電話を切った。

「たまき、ちょい出かけるから……」

亜美が屋上を見渡すと、たまきの姿はなかった。

まさか、と亜美は手摺から身を乗り出して、下の道路に目をやった。

道路には、特に異変はなかった。その中で、少し足早に遠ざかる姿があった。

たまきだった。とりあえず、生きていて、元気に走っている。

屋上から飛び降りて、そのまま着地して走ってる。というわけではあるまい。たぶん、亜美が電話してる間に階段を下りたのだろう。

亜美に黙ってどこかに出かけるような子じゃなかったのだけど、まあ、屋上でぼおっとしていたひきこもりのたまきが、どこかに出かけていったのはいいことだ。走ってるのはもっといいことだ。ランニングにでも目覚めたのだろうか。

亜美は、携帯電話をとじてポケットに突っ込むと、屋上を下りる階段へと向かった。

 

写真はイメージです

亜美が呼び出されたビルは、区画の角にある。大通りと裏路地が交わるところにあって、バーやキャバクラなどが入っている、焦げ茶色のタイルのビルだ。客向けの入り口が大通り沿いに、従業員向けの鉄扉が裏路地の目立たないところにあった。

亜美は裏路地の鉄扉の前にいた。少し前に到着して、人を待っている。

「亜美」

声がした方を振り向くと、大通りの方から舞が曲がってきたところだった。

「さっきの電話じゃよくわかんなかったんだけど、どういう状況なんだって?」

「さあ、ウチもよくわかんねぇんだよ。なんか、電話のむこうがうるさいし、シンジもテンパってるし」

シンジというのは、亜美に電話してきた男だ。

「とりあえず、ケガ人が出てるみたいなこと言ってたから、ウチから先生に電話したってわけ」

舞は深くため息をついた。

「シンジの方から直接あたしに連絡すれば話早いだろうに……。つまり、そういう冷静で合理的な判断ができないくらい混乱してる状況、ってことだな」

「いや、どうだろう。シンジ、バカだし、本気で先生に直接電話すればいいって思い浮かばなかったのかもよ」

「……どっちみち、頭が痛い案件だな」

舞は頭をかきながら、鉄扉を開けてビルの中に入る。亜美がそのあとにつづく。

目的地は3階にある、ヒロキが経営しているバーである。つまりは、亜美の言う「ナワバリ」の中心地だ。

薄暗い蛍光灯の階段を二人は上り、しゃれた英語の名前が書かれたバーの前に二人は立った。

亜美が電話を受けた時は、ガヤガヤと周囲の音がうるさくて、シンジの声が聴きとれないぐらいだったけど、店の前はそれとは打って変わって静かである。もっとも、店内は防音の造りになっているはずなので中がどうなっているかはわからない。壁にもドアも窓ガラスがないので、視覚的にも、店内の様子は全くわからない。

舞はドアノブに手をかけ、ドアを開けた。

まず最初に飛び込んできたのは、殺気立った男たちの叫び声だった。次に、金髪の男が倒れこむ光景と、テーブルか何かが倒れる音。そして、何かがドアの方へ、つまり、舞の方にめがけて飛んできた。

舞はとっさにドアを閉めた。飛んできたなにかは、舞が慌てて閉めたドアにぶつかり、ガシャンと派手な音をたてて割れた。

舞は、ドアが開かないように背中で押さえつけた。突然何かが飛んできたことと、自分の手が信じられない反射でドアを閉めたことに、二重に驚いているようだ。

「ビビった~。あっはっはっはっは」

そう口を開いたのは亜美の方だった。

「いま飛んできたのって、ワイングラス?」

「……さあ。ガラス製だとは思うけど、音からして、もっと重いやつだろ。ビールジョッキとかじゃないのか?」

「それ、当たってたらヤバいヤツじゃん。先生、いまメッチャいいタイミングでドア閉めなかった?」

「自分でも驚いてる」

「あっはっはっはっは。マジウケる!」

「笑ってる場合じゃないぞ。あたしがドアを閉めるタイミングがあと少し遅かったら、割れたガラスの破片がお前の目に入って、失明してたかもしれないぞ」

「あっはっはっはっは。ナニソレ、ウケる」

亜美は腹筋を押さえて笑っている。

舞は、背中のドアに体重を預けた。

「とにかくだ、これは医者を呼ぶタイミングじゃねぇ。もっと前の段階だ」

「でも、けが人出てるって言ってたよ。治してやんないの?」

「いま飛び込んで行ったら、あたしがケガするだろ、バカ!」

舞の背中越しに、ドアがどしんと揺れた。おそらく、向こう側で誰かがドアに思いきりたたきつけられたのだろう。

「医者は、事件とか事故とかが終わってから呼ぶもんなんだよ。大乱闘の真っ最中に医者を呼ぶんじゃないよ」

「じゃあ、どうすればいいのさ」

「お前には常識がないのか」

舞は亜美の顔を見たが、なさそうだな、と判断して話を進めることにした。

「こういう時は警察を呼ぶんだよ。小学生でも知ってるぞ」

「えー、ケーサツ~?」

亜美は露骨に嫌そうな顔をした。

「なんだその顔は。別に、おまえが警察呼ぶ必要はないだろ。あたしが通報しとくから、おまえは警察来る前にとっととどっか行けばいいだろ」

「だって、ここ、ウチらのナワバリだよ? ナワバリの中にケーサツ入れるとか、ないわ~。 ナワバリで起きたモメゴトは、ナワバリの中でウマくやるってのが、ジョーシキじゃね?」

「勝手に常識を作るな!」

「それにさ、『小学生でも知ってる』っていうけどさ、小学生はこういう時、ケーサツじゃなくて先生を呼んでくるんじゃないの?」

「じゃあ、その先生を呼んで来い! どこの学校の先生を呼んでくるつもりだお前は!」

「だから、先生呼んできたんじゃん」

亜美は舞を指さした。

「だから、医者の先生を呼ぶタイミングじゃねぇっつってん……」

そこで舞は、ふと言葉を切った。ドアから離れると、何かを考えるように顎に手を当てる。

「先生か、先生……ふむ……」

舞はカバンから携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。

「もしもし? あ、ママ? 久しぶり」

「ママ?」

亜美が不思議そうに舞の電話を見る。

「あー、しばらく海外にいたんだよ。いや、ただの友達との旅行だ。またそのうち顔出すから。それよりさママ、今って大丈夫? 今どこいる?」

そういうと、舞はその場の状況を伝えた。

「じゃあ、そこなら十分もかかんないか。とりあえず、あたし、ビルの前で待ってるから……、あ、場所わかるの? うん、じゃあ分かった」

舞は携帯電話を切った。

「え、誰か来んの? 『ママ』ってことは、もしかして、先生の母ちゃん?」

亜美が面白そうに尋ねてくる。

「いや、そういうんじゃねぇんだ。『ママ』ってのはまあ、あだ名みたいなもんだな」

「先生なの、その人?」

「まあ、それに近い感じかな」

舞はドアの方に目をやると、時計の方を見た。店の外には特に怒号も衝撃音も聞こえてこないが、それがかえって不気味だった。

 

写真はイメージです

歓楽街の中で、たまきはきょろきょろとあたりを見渡していた。

屋上から見えたとあるビルに行きたくて、勢いよく飛び出してしまったものの、その目的地がどこにあるのかはわからない。とりあえず、近くまでは来ているはずだ。だけど、屋上から見た時はビルの上の部分しか見えなかったのに、いま、地上から見ると下の部分しか見えないので、どれが目当てのビルかわからなくなってしまったのだ。たしか、こげ茶色のレンガのようなビルだったと思うのだけれど。

ふだん走らないくせに、珍しく走ったものだから、たまきは息が切れてしまった。息を整えながら、目指すビルを探してうろうろしている。

そんなこんなで、飛び出してきてから二十分ほどたっただろうか。そろそろ帰らないと、亜美が心配しているかもしれない。暗くなる前に一度戻って、屋上からもう一度どこのビルだったかじっくりと探した方がいいかもしれない。

裏路地でそんなことを考えていた時、向こうから誰かやってくるのが見えた。何気なくそちらに目をやるたまき。

身の丈2メートル、とまではいかないけれど、かなりの大男が、たまきの方に向かって歩いてくる。

黒いスーツなのだけれど、サラリーマンには見えない。スーツの内側には柄物のシャツ。首には金のネックレス。手にも金のリング。それも、一つや二つではない。たまきからは右手しか見えなかったけど、きっと、左手にもいっぱいアクセサリーをつけてるんだろう。

でも、何よりも目を引いたのが、ひと睨みで相手を気絶させそうないかつい顔と、スキンヘッドだった。うっすらと髪の毛の残る坊主頭ではない。まったくのつるっぱげだ。頭皮がむき出しに、いや、そのごつごつとしたカタチは、頭蓋骨の形状がそのまま剥き出しになっているかのようでもあった。

コワモテおじさんだ……。

たまきは、その男の威圧感に圧倒され、目が釘付けになりながらも、声を出さぬようにして、その男が通り過ぎるのを待った。

ふと、たまきの鼻を、ヘンな匂いがくすぐった。仙人の棲む「庵」に出入りしていて、変な臭いに慣れているたまきだったけど、それとはまた違う「ヘンな匂い」。なにか、強烈な薬品とか、そんな感じの印象を受けた。

コワモテおじさんは、裏路地と大通りが交わるところにあるビルの、鉄の扉を豪快に開けて、中に入っていった。そのビルは、こげ茶色のレンガのような作りだった。

あれ、もしかして、このビルかも。

たまきはビルに近づいてみた。壁の色が、確かに似ている。ビルの高さは四階建て。屋上から見た時の高さにも近いような気もする。

試しに入ってみようと思ったたまきだったけど、コワモテおじさんの入った後についていくのはなんか怖かったし、ドアに「従業員専用口」と書いてあったので、別の入り口を探すことにした。

 

写真はイメージです

舞が電話をしてから、十分が過ぎた。その間、亜美が店の中を覗こうとして、舞が止める、というやり取りが三回繰り返された。

亜美の我慢の限界がいい加減切れそうになった時、階段の方から大きな足音が響いてきた。こっちに近づいてくる。亜美と舞は、自然とそちらに視線を向けた。

最初に見えたのが、スキンヘッドの男が階段を上ってくるところだった。次第に男の全貌が見えてくると、亜美は思わず「げ」と声を漏らした。

身の丈2メートルとまではいかないけれど、亜美の背後にあるドアをくぐれるかギリギリの大男だ。黒のスーツに柄物のシャツ。デザインは、何かの花だろうか。首や指に金のアクセサリーをジャラジャラとつけている。

コワモテおじさん来ちゃった……。

男は仁王像のような仏頂面のまま亜美と舞の方に近づいてくる。近づくにつれ、男が「ヘンな匂い」を放っていることに、亜美は気づいた。

乱闘に加勢しようとする、新手だろうか。

空手とケンカの心得が多少ある亜美だったけど、どう見ても勝てる相手じゃない。どうしようかと考えあぐねていると、男は舞の方を見て、仏頂面をくしゃっと崩した。そして、

「やだー! 舞ちゃん、久しぶりじゃなーい。海外旅行に行ってたなんて、聞いてなかったわよぉ?」

と、亜美が思ってたよりも2オクターブぐらい高い声で話し始めた。

「なんでママにいちいち、旅行先言わなきゃいけないんだよ」

と、舞。

「え? ママ? これが? おっさんじゃん?」

と、戸惑う亜美。

「どこよ、海外ってどこよぉ?」

と、迫るおじさん。

「ヨーロッパだよ。ドイツとか、フランスとか」

「えー、アタシも行きたかったぁ。行ってくれれば、休み合わせられたのにぃ!」

「ヤダよ。ママみたいなバケモノが来たら、アタシの友達が逃げ出すだろ?」

「ちょっと、バケモノはひどくない? まあ、舞ちゃんだから許すけどぉ」

と言いながら、おじさんは舞の肩をバシッとたたいた。

「いたたっ! 力が強いんだよっ!」

「ごめーん。でも、アタシを置いてきぼりにしたことと、バケモノ呼ばわりしたこと、これでおあいこじゃなーい?」

と、おじさんは白い歯を見せて笑った。そして、

「で、どういう状況なんだって?」

と、急に声のトーンを落とした。この感じだと、まだ「ちょっと声の高いおじさん」と言ったところだ。

「あたしにもよくわかんねぇんだ。コイツに呼び出されて、ここに来て、ドア開けたらいきなりビールジョッキ投げつけられたから、あわててドア閉めて、それっきりだ。それが十分前」

「あらぁ、それじゃ今、中でケンカ祭りってわけ?」

「もう全員死んでたりしてな」

舞が医者にあるまじきジョークを飛ばす。

「この店、防音がしっかりしてるから、外からじゃなんもわかんねぇんだ。で、こいつがケーサツはやだっていうから、ママなら何とかしてくれるんじゃないかって思って」

舞が亜美を指さしながら話す。

「ふーん。で、この子は?」

「ママ」が亜美を見て尋ねた。

「こいつは亜美。この辺に棲みついてて、あたしが面倒見てる、野良猫だ」

「ふふ、カワイイ子じゃなぁい」

そういうと、「ママ」は亜美をじっくりと見た。春になってますます露出の高くなり、肩なんて完全に出ている亜美の姿を、上から下まで丁寧に見る。だが、その視線にいやらしさは全く感じない。なんだか検査されてるみたいだ。

温かみはあるけれど、どこか冷徹さを兼ね備えたその視線から、亜美は逃れたい衝動に駆られたが、逃げても無駄と体が悟っているのか、思うように足が動かない。

この時になって亜美は初めて、「ママ」が放つ「ヘンな匂い」の正体が香水であることに気づいた。亜美の嗅ぎ慣れないタイプの香水だ。

「ママ」はやがて、亜美の右肩に彫られた、青い蝶の入れ墨に目を止めた。

「あなた……それ……」

「あ?」

「誰か身近な人、亡くしてるのかしら?」

「……は!?」

そのとき、「ママ」が上ってきたのとは違う階段から、ガンガラガタンと何かが倒れる音がした。音に反応してそっちを向いたのは舞だけだったが、特に人の姿は見えない。おそらく、階段にいる誰かが掃除用具でも倒したのだろう。いくつもの店が入っているビルだ。亜美たち以外に人がいても何ら不思議はない。

割と大きな音がしたにもかかわらず、亜美と「ママ」は微動だにしなかった。「ママ」は亜美の入れ墨をじっと見据え、一方の亜美はまるで心臓を撃ち抜かれたかのような顔をしている。

先に口を開いたのは、「ママ」の方だった。

「あら、ごめんなさい。アタシ、いきなり失礼だったかしら。でも、蝶々ってアタシの業界じゃ死者の魂とか、そういう意味で使われるのよ」

「し、知らねぇよ!」

亜美が少しかすれた声で言った。もしかしたら、さっきからの数秒間、呼吸そのものが止まっていたのかもしれない。

「別にこれ、そういう意味じゃねぇし。っていうか、ウチが選んだデザインじゃねぇし! その……、彫り師がウチのイメージにぴったりだっつって……、だから、全然そういうんじゃねぇし……!」

「あら、そうなの。とにかく、失礼なこと聞いちゃったわね。謝るわ。ごめんなさいね」

そういって、「ママ」は右手を差し出した。亜美は「ママ」から目線をそらして、その手を取って握手した。

「ママ、ママ、本題に戻っていいか?」

舞が少し呆れたように声をかける。

「そうだったわね。えっと、このお店の中の騒動を、とにかく静めてくればいいのね?」

そういうと「ママ」は、ドアノブに手をかけた。舞と亜美は、ドアの隙間から何か飛んできてもいいように、ドアから離れた。

亜美は、「ママ」との握手の感覚がまだ残る右手を、ズボンのすそでこすった。

空手をかじっている亜美は、握手した時に「ママ」がかなり鍛えていることが分かった。

だが、ドアのむこうには、ざっと数えても十人以上はいたはずだ。おまけに彼らはみな殺気立っているから、凶器を使うことすらためらわないかもしれない。いくら「ママ」が強そうだからって、そんな連中相手に何とかなるものだろうか。

「ママ」はドアノブをひねり、ほんの数センチだけ、ドアを開けた。

とたんに廊下に飛び込んでくる、男たちの怒号、何かが倒れる音、何かが割れる音。

どうやら、亜美に電話が来てからの十数分近く、こいつらはずっと暴れ続けていたらしい。なんとも元気な連中である。

ママは少しだけ開いたドアに足をかけた。

そしてそのまま、足を使ってドアを勢いよく開いた。蝶番を中心にドア板が回転し、壁に思いきりたたきつけ、派手な音を出した。

その音で、店の中の動きも音も、一瞬止まった。視線が一気にドアの方に集められる。すると彼らが目にするのはスキンヘッドの大男。状況が呑み込めずにぽかんとしているものもいれば、明らかな敵意を投げつける者もいる。

「なんだァ、てめぇ?」

金髪ロン毛が、「ママ」をにらみつけた。

「ダメよぉ、お痛しちゃ。みんな仲良く、ね。和を以て貴しとなす、聞いたことないかしら?」

しばしの沈黙、そして、一気に笑い声が店の中に溢れた。

「おい、おまえら、見ろよ。オカマがやって来たぞ!」

亜美は廊下の壁に背中をつけ、ドアのむこうをうかがった。

ドアにむこうにいるのは、十人どころではなかった。その三倍はいる。ただし、そのうちの三分の一は、すでにノビて床に転がっているのだけれど。

亜美から3メートル離れたところに、ひょろ長の男がテーブルの下に隠れてガタガタ震えていた。亜美に電話したシンジである。

「シンジ。おい、シンジ」

亜美が小声で手招きすると、シンジも亜美に気づき、

「あ、亜美さーん」

とすがるように亜美のもとに転がり出てきた。殴られたのか目の上にはこぶがあり、服はしわくちゃになってボロボロである。

「おい、何があったんだよ」

「タケシのチームが飲んでたんすよ。そしたら、そこにケイゴが仲間連れてやってきて、はじめは互いに無視してたんすけど、そのうち大げんかになって……」

「待て待て待て待て」

と割って入ったのは舞である。

「話が見えねぇ。タケシもケイゴもあたし知らないんだけど、なんでこの二人が同じ店にいるだけで大げんかになるんだ?」

「もともと仲悪いんだよ、あいつら」

「ナワバリ内の派閥争いってやつです」

「……くだらねえ」

舞は、深いため息をついた。

「ヒロキはどうした。あいつ、ここのオーナーだろ?」

「いま、ヨコハマに行ってて……」

その時、ガラス瓶が割れる音がした。さっきの金髪ロン毛が、テーブルにビール瓶をたたきつけて割ったらしい。

「ケガしたくなかったら、とっとと帰れや、おっさん」

ビール瓶を割ったのは、どうやら威嚇のつもりらしい。が、「ママ」は動じない。

大乱闘はひとまず止まっている。が、それは彼らの敵意が突如現れた謎の大男に向けられているからだ。

「帰れっつってんだろ!」

金髪ロン毛は別のビール瓶を手に取ると、その手を大きく後ろに振りかぶった。

これはさすがにマズいんじゃないか、と亜美が思うまでもなく、金髪ロン毛はビール瓶をテニスラケットのように勢いよく振り、「ママ」の左側頭部を直撃した。ガンッ! と、皮膚よりも骨にあたったんじゃないかという鈍い音とともに、ビール瓶は真ん中から砕け、水しぶきのように飛び散った。

亜美からは、ビンが当たった「ママ」の左側頭部がよく見えた。

少なくとも三か所、赤い筋が鈍く光っている。しばらくすると、そこから血液がこぼれ始めた。

亜美は、「ママ」が左手で両目を覆っているのに気付いた。最初、泣いてるのかと思ったけれど、その本当の意味が分かった時、亜美は鳥肌が立った。

「ママ」は両目にガラスの破片が入らないようにガードしていたのだ。たしかに、目に破片が入れば一大事である。

だけど、それは同時に、「瓶で殴られることそのものについては、特に気にしていない」ということでもあった。ふつうの人間ならばそもそも瓶をよけるか、瓶をガードしようとするか、何もできずに黙って殴られるか、だ。ふつうは、恐怖と動揺で何もできずにただ殴られるだけだろう。

なのに「ママ」は「目をガードする」という選択をした。あの状況でそれを選べるということは、やろうと思えばよけることだって止めることだってできたのに、あえてそれを放棄して、攻撃を受け止めて、急所だけ守ったということなのではないか。

実際、「ママ」が腕を降ろして両目があらわになった時、亜美から見えた横顔は、とても涼しげだった。痛がるようなそぶりは全くない。痛みを感じていない、というよりは、痛いんだけど気にしていない、そんな風に見える。

こういう表情、どこかで見たことあるぞ、と亜美は思った。

男たちがざわつき始めた。ビール瓶で殴られたのにこともなげに立っているというのは完全に想定外。動揺が広がっているのだ。

金髪ロン毛はおびえたような眼をしている。こいつらは、たいていのことは暴力や恫喝で主張を押し通してきたような連中だ。暴力で解決できないとなれば、それはもはや打つ手がないということだ。

「ママ」は金髪ロン毛に近づくと、右手で彼の頭を掴んだ。

「……おいっ! なにするんだ! やめろ! さ、さわんな!」

金髪ロン毛は「ママ」の腕を振りほどこうとするが、頭を振っても、「ママ」の腕をつかんでも、どうあがいても外れない。金髪ロン毛は「ママ」に蹴りを入れるが、ビール瓶で殴られて平気な人間が、いまさら蹴られたところで顔色一つ変わらない。

「ママ」は空いている左手で、近くにあった木製の椅子を掴んだ。見た目、かなり重そうなイスだが、「ママ」はそれを、背もたれの上部を片手でつかんで、やすやすと持ち上げた。その様子を見た男たちにも緊張が走る。

次の瞬間、「ママ」は椅子を床に思いきりたたきつけた。

椅子は四本の足がそれぞれ、てんでバラバラな方向へと飛んでいった。背もたれの部分はバッキリと折れ曲がり、木屑があたりに舞い散る。文字通りの木っ端みじんである。振り下ろした左腕の時計が、店のライトを反射して、何か勝ち誇ったかのように輝いている。

この「ママ」の行動に震え上がったのが、間近でそれを見させられた金髪ロン毛である。

もしも、「ママ」が振り下ろしたのが左腕ではなく右腕だったら、自分の頭が椅子と同じ運命をたどるかもしれないからだ。

「はぁ……はぁあ……」

金髪ロン毛は気の抜けた声を上げた。シルバーのズボンのまたの部分に何やら黒いしみができて、そこから雫がぽたぽたとこぼれ始めた。「ママ」が手を離すと、へなへなとその場に座り込んだ。

一番殺気立っていた男が情けなく床にへたり込んだことで、ほかの男たちも戦意をなくしたかのように亜美には見えた。

「みんな仲良く、ね」

「ママ」はにっこりとほほ笑んだ。

男たちの中の誰かが、ドアに向かって駆けだした。一人が動き出すと、ほかの者たちも一斉にドアをめがけて駆けだす。

「わあああああ!」

男たちは、沈没船から逃げ出す鼠のように、一斉にドアから飛び出していった。そのまま、階段を一気に駆け下りていく。

亜美の耳に、下の階から何か派手な音が聞こえた。誰か慌てて転んだのかもしれない。

最後に金髪ロン毛が、まるで足の使い方をすっかり忘れてしまったかのような動きで、店から這い出し、逃げていった。

「やれやれ、やっとあたしの仕事だよ」

舞は店の中に足を踏み入れると、ノックダウンして逃げることもままならない数人の手当てを始めた。

「あら、お店の責任者の子には残って欲しかったんだけど……」

「ママ」が亜美たちの方を見る。

「あ、あ、オレ、せ、責任者の代理っす」

シンジが恐る恐る手を挙げた。もともと乱闘にすっかりおびえ切っていたシンジだったけど、今はまた違う意味でおびえているようだ。

「ママ」はシンジに近づく。そのまなざしはやっぱり涼しげで、凶暴さなどみじんも感じられない。

「お店の椅子、壊しちゃって悪かったわね。弁償するわ。たぶん、これで足りると思うから。オーナーさんに渡しておいてくれる?」

「ママ」は、分厚い革の財布から、一万円札を十枚ほど取り出すと、シンジに渡した。

亜美は、木っ端みじんになった椅子の残骸に目をやった。

結局、「ママ」はだれ一人殴ることなく、乱闘を終わらせた。自分を殴らせ、イスを壊すことで、「ママ」自身は誰も殴ることなく、その強さを見せつけて事態を収束させたのだ。

「ヤダ、財布の中、空になっちゃったわぁ。オカネ、おろしてこないと」

「ママ」は亜美たちの方を向いて、親指と人差し指で丸を作った。

その姿を見て、亜美は「ママ」が何に似てるのかを思い出した。

子供のころ、祖父に連れられてよく行った地元のお寺の本堂に祀られていた、そこそこ大きな仏像。

「ママ」の涼しげな表情と、なんとも言えない威圧感は、その仏像によく似ていた。

 

写真はイメージです

たまきは、傍らで倒れているアルミ製のちりとりをそっと起こした。

こげ茶色のビルに入ったたまきは、屋上へと向かって階段を上り始めた。いかがわしいバーとか、いやらしいキャバクラとかの看板が並ぶビルだったから、入るのに少し勇気がいった。

3階を越えて4階へと続く階段を上っていた時だった。不意に3階あたりから

「は!?」

という大声がきこえた。それが、亜美の声にかなりそっくりで、驚いた拍子にたまきは踊り場にあった掃除用具を倒してしまった。ガンガラガタンと派手な音が階段と廊下に響く。たまきは慌てて倒してしまった掃除用具を起こしたのだった。

亜美の声がきこえた気がしてびっくりしたけど、亜美はさっきまで太田ビルの屋上にいたのだ。こんなところにいるわけない。

たまきは屋上の階までやって来た。塔屋の内側で、外に出るにはドアを開けねばならない。

たまきはドアノブを回した。鍵がかかっている。

だけどたまきは、ドアノブに、カギを回すつまみがついていることに気づいた。どうやら、中から開けられるタイプのようだ。

たまきは鍵を開けて、塔屋の外に出た。

屋上の一角に、大きな貯水タンクがある以外は、特に何もない。周りには同じ高さのビルが多く、あまり視界を遮るものはないけど、中にはもっと大きなビルもあるので、なんだか箱庭の中に入った気分だ。まあ、太田ビルの屋上とそんなに変わらない

たまきはまず、少し遠くに見えるはずの太田ビルを探した。

太田ビルはすぐに見つかった。区画にして二ブロックほど向こうだろうか。五階建てのビルがそんなにないうえ、屋上に洗濯物が干してあるからだ。今日の洗濯物はたまき自ら干したのだ。見ればすぐわかる。

たまきは、太田ビルがよく見えるように屋上のすみに移動した。屋上のヘリは、たまきのおへそぐらいの高さの囲いがある。そして、囲いギリギリのところに貯水槽があった。白い貯水槽だけど少し古いものらしく、汚れでだいぶ黒ずんでいる。太田ビルが見える、屋上の西側の一辺は、3分の2ほどがその貯水槽と接している。たまきは、のこり3分の1の部分に立つと、囲いに背中を預け、左側にある貯水槽を見た。

そこに、白い鳥の絵があった。ペンキで描かれた、ラクガキだ。

それはここ数日、たまきが歓楽街周辺のあちこちで見かけたものと同じ絵だった。太田ビルの屋上から、これが見えたのが、たまきがビルを飛び出した理由だった。

メガネっ子のたまきの視力はメガネをかけていてもそんなにはよくない。これまではそんな絵が二ブロック先のビルの屋上にあることなんて、気づきもしなかった。実際、太田ビルから見えた絵は小さすぎて、たまきもここに来るまで、はっきりと同じ絵だと認識できたわけではない。別の場所でこの絵を見ていて、気になって頭に残っていたからこそ、気づけたのだ。

それにしても、とたまきは首をかしげた。またしても、問題はこの絵が描かれた場所である。

この絵は、貯水槽の西の側面の上部に書かれている。しかし、西の側面というのは、屋上の囲いとわずか数センチの余白を残して接している。たまきはいま、囲いに背中を預け、若干のけぞるようにして、ようやくこの絵が見れているのだ。

どうやってこの絵を描いたのか。

たまきは、左手を伸ばしてみた。小柄なたまきでは、どんなに腕を伸ばしても、絵にはまだ1メートル近く足らない気がする。もっと背の高い人でも、さすがに届かないだろう。

たまきは、囲いを見た。

どう考えても、これに乗るしかない。

たまきぐらいの小柄な人でも、この囲いの上に立てば、ギリギリ手が届くだろう。

ただし、うっかり足を滑らせれば、そのまま十数メートル下の地上まで真っ逆さまである。絵は貯水槽のかなり上のところにあって、一般的な身長の人でも、描こうとすれば目線よりかなり上の部分での作業になる。そうなれば、ずっと見上げっぱなしになり、自然と上体はのけぞる。

囲いは、幅がたまきの靴の縦の長さと同じぐらいだろうか。これでは、ちょっと足を滑らせたら大変なことになる。

実際に囲いの上に立ったらどれくらいの高さなのか、たまきでも絵まで手が届くのか、足元は安定しているのか、実際に囲いの上に立ってみたらわかるのだろうけど、さすがのたまきもそれをする勇気はなかった。いかに死にたがりとはいえ、「自分から飛び降りる」のと、「うっかり足を滑らせて落っこちる」は、似ているようでぜんぜん違うのだ。

これまで見つけた鳥の絵はいずれも、よりによってどうしてこんな場所で描いたんだろう、というものばっかりだった。決して不可能ではないけれど、わざわざこんなところで描かなくても、と思うような場所ばっかりなのだ。

たまきが囲いの上に立つのを諦めて、なにげなく向かいのビルに目をやった時、たまきは息をのんだ。

向かいのグレーのビルの屋上にも、同じ鳥の絵があったのだ。向かいのビルは高さが一階分低い。そこの屋上の塔屋の外壁に、同じ絵があった。

たまきは、再び走り出した。たまきにしてはすごいスピードでビルの屋上を駆け下り、一気に外に出る。そして向かい、つまり道路を挟んで西側にあるビルに飛び込んだ。

そのまま屋上まで一気に駆け上る。息を切らしながら登り切り、塔屋のドアノブに手をかけ、回した。

だが、ドアは開かなかった。鍵がかかっている。そして、今度は中から開けられるような仕組みは、見つからなかった。もっとも、こうやって簡単に屋上へは入れないビルの方が、ふつうなのかもしれない。

でも、だとしたら、いよいよもってどうやって鳥の絵を描いたのかわからなくなる。鍵がかかってたら、入れないじゃないか。

一瞬、隣のビルから入って飛び移る、という危険な方法が思いついた。だけど、そこまでしてラクガキをする理由が思い浮かばない。そもそも、隣のビルには入れたのなら、隣のビルでラクガキすればいいじゃないか。わざわざ別のビルに飛び移る理由がない。

もしかしたら、一連のラクガキは全部、魔法使いが描いているんじゃなかろうか。それならば、全て無茶なところに描かれているというのも納得できるのだけど。

 

たまきが階段を下りてビルから出てきた時だった。向かいのビル、つまり、先程までたまきがいた焦げ茶色のビルの、従業員専用と書かれた鉄扉が開いた。

そこから、まるで亜美の「友達」にいそうないかつい格好の男たちが、次々と飛び出してきた。驚いてたまきはその場に固まってしまったが、どうも様子がおかしい。誰もかれも血の気を失っていて、まるで何かから逃げるようにビルから飛び出し、てんでばらばらの方角に走り去っていった。中には、殴られたかのような跡がある人もいる。

ぽかん、とたまきがその様子を見ていると、

「あれ? たまきちゃん?」

と聞きなれた声がきこえた。

振り返ると、志保が手を振りながらこちらに向かって歩いてきた。

「どうしたの、こんなところで?」

「べ……別に……、散歩です。志保さんは、バイト帰りですか?」

「うん、そう。お夕飯の材料、買ってきたよ」

志保が手に持っていたレジ袋を持ち上げて見せた。

二人はそのまま、「城」に向かって歩き出した。

「めずらしいね、このへんうろついてるのって」

「べ、別に……」

たまきはこれ以上ツッコまれたくないので、視線を落とした。別にやましいことをしていた覚えはないのだけれど。

「そういえばさ」

と志保が切り出した。

「この前さ、このへんにさ、なんか警察の人、いっぱいいたのを見たよ」

「えっ?」

たまきは志保の顔を見た。それから、後ろを振り返る。

例の焦げ茶色のビルがたまきの目に入った。たまきの頭の中に、屋上でラクガキをしていた誰かが、足を滑らせて落っこちるシーンがよぎった。

「だ、だれか落っこちたんですか?」

「え?」

志保が怪訝な顔でたまきを見た。

「警察の人がいただけで、何があったかまではわからなかったけど……、誰か落っこちたの?」

「い、いや……別に……」

たまきは視線を落としたけど、再びまた、焦げ茶色のビルの方を振り返っていた。

つづく


次回 第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」(仮)

はたして、コワモテおじさんこと「ママ」の正体とは? 続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

奇跡の連続

ほんとは文学フリマで100冊完売を達成して、高らかに言いたかったんですよ。「ZINE作家ノックのシーズン2がここから始まります! おたのしみに!」と。

それを言うには、やっぱり「100冊」って数字がないと説得力がないじゃないですか。

ところが、現実の売り上げは86冊だったんですよ。これが「86冊も」なのか、「86冊しか」なのか、まだわかんないんですけど、いずれにしても、シーズン2の幕開けを高らかに宣言するには、ちょっと弱い。

文学フリマが終わって二三日は、実は「100冊に届かなかった……」という残念な気持ちの方が強かったのも事実です。

なにせ、半年間この「100冊」という壁を目標に、いろいろと準備してきたわけですから。半年もかけていろいろやったけど届かなかった、となると自分の力不足を感じざるを得ないわけで。

ところが、これが一週間たつとまた気持ちが少し変わってきていて。

売り上げの数字とはまた別の「反響」ってやつを、少しずつ感じているんですよ。

それはSNSだったり、生の声だったり。文学フリマとはまた別の場所でZINEが売れてたり。

ZINEを取り巻く環境も少しずつ、面白い方向に変わっていってる気がしますし。

文学フリマの次の週末は、紙を買いに行ったり、納品に行ったり、印刷したり、新作を作り始めたりと、かなりの時間をZINEにまつわることに当ててました。

それも、「また来月のイベントが迫ってるから」という、やらなきゃいけない理由がちゃんとあって、そこで収益を出せるだけの実績もある。

「前にもこのイベントに出て、これだけ売れてるから、このくらいの収益にはなるだろう。そのためには、これだけの部数を用意しないといけない」と、ある程度ソロバンもはじけるようになってきました。

材料の紙を買いに行くのも、表紙を印刷しに行くのも、電車に乗って納品しに行くのも、「この出費は後で利益として取り返せる」という自信があるから。

ZINE作りを始めた3年前には考えられなかったことです。あの頃は、自分の作品が売れる姿なんて想像できなかった。そんなことは奇跡だと思ってた。

いや、今でも奇跡なんですよ。自分の作ったZINEが1冊でも売れる、自分の作ったものに誰かが価値を見出して、お金を払ってでも買ってくれる、そのことは奇跡でしかないんですよ。奇跡の連続なんですよ。売れて当たり前、なんてことはないんです。

あのゴッホだって、生前は絵がたった1枚しか売れなかった。ゴッホのとってその絵は「奇跡の1枚」だったはず。

そう考えると、そもそも、3年以上もZINE作りを続けていること自体が奇跡なのかもしれません。

この前、友人と話していたら「続けていることがスゴイ」と言われまして。

たしかに、少なくとも「こんなこと、もうやめよう」って状況ではないことは確か。

自分が起こしたアクションに対して、それに見合う程度の結果は出ていて、それなりに反響もあって、応援してくれる人もちらほらいる。すくなくとも、「誰にも相手にされていないんだから、もうおやめなさい」という段階ではもう、ない。

まだ続けたいと思うし、まだ続けていいとも思う。もちろん、ものすごい追い風が吹いているわけじゃないんだけど、風が全然吹いていないわけでも、ましてや向かい風なわけでもない。

「まだ続けられる」っていうのは、それだけで大したものだし、それだけで奇跡なのかもしれません。

まだまだまだまだ止まんないよ

缶バッジとサムズアップ

コンビニに行くと目立つところに、ワンピースとか仮面ライダーとかの一番くじがあるじゃないですか。

僕はワンピもライダーも大好きなんですけどね、フィギュアには全く興味がないので、スルーしちゃってます。

「かさばるグッズ」に興味がないんですよ。

場所をとるうえに、ホコリとか掃除するのめんどそうだし。

おまけに、実用性が全然ないじゃん。

渋谷のワンピースショップに行ったときも、かさばらないうえに実用性がある、そんなグッズは意外と少なくて困りました。せっかく来たのに、買うもんないじゃん。

マグカップとか売ってたんですけど、かさばる上にね、別に食器には困ってないし。新しいのいらんのよ。

そんな僕にとって重宝するグッズがあるんです。それが、「コースター」

小さく平べったくてからかさばらないうえに、実用的! あと、紙製のコースターは意外と消耗品だから、なんぼあっても困らない。

「コラボカフェ」みたいなイベントに行くともらえます。

あとは、やっぱり缶バッジですね。

実用的じゃないけど、かさばらないし、安いからついつい買っちゃいます。

こういうのは開封するまでどのキャラが出るかわからない、ってギャンブル性もあるんですよ。

まあ、僕はこの手の運には強くて、結構な確率で推しキャラを引いちゃうんですけど。

「プリンセス・プリンシパル」の缶バッジを2個買った時は、なんと推しキャラの「ベアトリス」がダブってました。缶バッジってけっこう落としやすいから、ダブりは助かりますね。

そんな缶バッジにまみれた生活を送っているある日、こんな出来事があったんですよ。

道を歩いていると、背後からバイクで追い越していったピザ屋のお兄さんが、突然僕にむかってサムズアップをして走り去ったんです。

はてな。ピザ屋さんにサムズアップされる覚えなんてないし。

知り合いかな、って思ったけど、一瞬見えた横顔は知らない顔。

なにより、向こうは僕を後ろから追い越していったんで、僕の顔は見てないはずなんですよ。見えたのと言えば、背中にしょってるリュックぐらい。そして、リュックには最推しアニメ「刀使ノ巫女」の缶バッジがいっぱい……。

……まさか、彼は同じ刀使ノ巫女を愛する同志だったというのか? それで、僕の缶バッジを見てサムズアップを?

たしかに、いくつかある缶バッジの中でも、遠目からでもわかるくらいデカいやつがあって、しかも、それは主人公のキャラが描かれているもの。わかる人にはすぐピンと来るはずです。

刀使ノ巫女のゲームは、去年サービス終了しちゃったんだけど、500万ダウンロードを突破していたはずなので、プレイヤーは町中に結構いるはず。

こんなふうに、町で自分の好きなアニメのグッズを持ってる人を見ると、嬉しくなるけど、声をかけるのはさすがに、という場面が何度かあったんだけど、そうか、さりげなくサムズアップすればいいんだ。

民藝館に行ってきた

目黒区にある「日本民藝館」というところに行ってきたんですよ。

いまから100年ほど前に、作者の名前もわからない民芸品に美を見出してせっせと集めた柳宗悦っていう変人がいて、その人が集めた民芸品を展示する美術館です。

少し前からこの柳宗悦についていろいろ調べてまして。白樺派の一人として、ゴッホをはじめとする西洋の芸術家を日本に紹介していた彼が、どうして名もなき民芸品に美を見出すようになったのか。

この人はどうやら、美術評論家よりも、宗教学者・思想家に近いみたいです。彼が民芸品に見出した美というのも、何か宗教哲学に近いものだったみたいで。宗教思想などを専門としている人が、なぜ民芸品に美を見出したのか。

やっぱり現物を見るのが一番、ということで民藝館に行ってきたんです。

入場料1200円……。たけぇ……。

まあ、民間の美術館だしなぁ……。

展示されているのは、焼き物のお皿とか壺とか、木の机とか、服とか、タンスとか。どことなく、おばあちゃんちのにおいがしました。

そのほとんどが作者不明で、もちろんアート作品じゃなく日用品として作られたものばかり。まさか美術館に展示されるなんて、作った本人すら夢にも思わなかったでしょう。

でも、柳宗悦がこの民芸品に美を揺さぶられた、というのも何となくわかってきました。

たしかに、どれもアートとしても面白いです。釉薬の模様がユニークだったり、緻密な装飾が施されているものも多いです。

いっぽうで、言葉は悪いんですけど、どこか稚拙というか、不格好というか。

たとえば、一つだけ写真おっけーなツボがあるんですけど、このツボもよく見ると形がなんかアンバランス。

一つの民芸品のなかに、緻密さと、稚拙さが、同居している不思議な感じです。

たとえば、木でできた小さなタンスが展示されてたんですよ。まあ、だいたいタンスってのは木から作られるんですけど。

その形も、どこかいびつなんです。今の家具屋で売ってるようなきれいな直線を描いているわけじゃなくて、なんとなく曲がってて、いびつな形に見える。

でも、じゃあほんとに稚拙なのか、技術が足りないのか、って言ったら、たぶんそんなことないんですよ。だってそのタンス、すっごい緻密な装飾が施されてたんだもん。

木でつくるタンスであれ、粘土で作る焼き物であれ、布で作る服であれ、材料は自然物、生モノです。それを、機械を使わずに、手作業だけで民芸品を作っていく。

そのとき、生ものである材料が持つエネルギーを殺しきれてない、殺さないまま作っている、それが稚拙さの正体なんじゃないか。

現代のものづくりの技術は完璧です。この完璧っていうのは、「材料の持ってるエネルギーを殺して、完璧に道具として仕立てる」という意味で。たとえば、木製の家具はいっぱいあるけど、普段ほとんど「これは、木である」と意識することはないじゃないですか。

プラスチック製品にいたっては、もうプラスチックの原型を思い浮かべることなんてない。そもそも、プラスチックの原型って、何?

それに対して民芸品は、緻密な技術を持つ一方で、材料の持つ生命力を殺しきらない稚拙さを併せ持ってるように感じました。芸術品としての美と、日用品としての粗末さが同時に存在する、不思議な物体。それが民藝だ、と考えると柳宗悦が美を揺さぶられたというのもわかるのです。

うん、よくわかんないだろ。よくわかんないのなら、一度、民藝館に行ってみなさい。1200円取られるけど。

追伸:古本市で柳の書いた「美の総門」って本を見つけたんですよ。この本は彼の民芸運動の集大成らしいです。欲しいなぁ。

……古本なのに2200円。……たけぇ。

ほんとにリコリコの一人勝ちなのか

この夏は面白いアニメがいっぱいでした。

ただ、ネットの反応を見てるとなんかリコリコの一人勝ちみたいになってるんですけど、僕は決してそうだとは思ってないですね。

確かに、リコリコの面白さは頭一つ抜けてるかな、とは思うんですけど、ほかのアニメを大きく引き離してる、とも思わないんですよ。ほかのアニメもかなりの粒ぞろいでした。

ただ、オリジナル作品の中では、「徹底的に作りこんだ物語を、シンプルにテンポよく見せる」、これが一番できていたのが、リコリコだったのかな、とは思いますね。

雑に作ったお話を、雑に見せる。それだとあたりまえだし、それじゃダメじゃないですか。

複雑なお話を、いかにも難しそうに見せる。それもまた、当たり前。

雑に作ったお話を、いかにも難しそうに見せる。「特撮界のちむどんどん」との呼び声高い仮面ライダーリバ〇スがやらかしたことですね。

そうじゃなくて、

凝りに凝って、練りに練って、徹底的に作りこんだお話を、そうとは思えないぐらいシンプルに見せる。無駄な部分、わかりづらい部分は、ばっさばっさと切り落とす。でも、大事な部分はしっかり残す。

これがきっとかなり難しいことなんじゃないかな。徹底的に作りこむのも大変だけど、作りこんだら作りこんだで、それをシンプルにテンポよく見せるのがさらに大変。難しい部分は削ぎ落すけど、奥深さは失わない。

今期のアニメの中でそれが一番できていたのがリコリコだったんじゃないか、それがあのヒットの理由かな、と僕は思いますね。

「犯罪者を裏で始末しているリコリスという少女たちと、それを束ねる組織がある」っていう設定と、「リコリスでありながら敵も味方も殺さないやり方を貫く千束」と「これまでリコリスとしての生き方しか知らなかったたきな」というキャラだけ頭に入っていれば、なんとな~く見てても十分楽しめるんです。

すくなくとも、僕はそうでしたよ。

設定にしても、作りこんでるんだろうけど世界観の描写とか設定の説明とか、あんまりしてない。

キャラクターも、必要最低限のキャラしか出していない。

作りこんだ世界観と物語を、可能な限りシンプルに見せていたと思うんです。

ジブリとかもそうですよね。ネットとかで「もののけ姫の裏設定」みたいな話がよく出てくるけど、そういうネタがあるのは、ジブリ映画が設定や世界観を徹底的に作りこんでいて、歴史ネタとか民俗学ネタとかふんだんに盛り込んでいて、それでいてやたらと細かい描写はしないでシンプルに見せてほとんど説明しないから。

「緻密な伏線回収!」とか「大どんでん返し!」とか「まさかの展開!」とか、「いかにも難しいことやってます!」って感じは、リコリコにもジブリにもあまりなくて、強いメッセージとキャラクターの魅力による直球勝負、そんな感じがします。

そういうアニメは実はリコリコのほかにもいっぱいあるんだけど、リコリコほど注目されてないものがほとんど。リコリコ以外にも、直球勝負アニメがもっと評価されたらいいのにな、と思います。

そうじゃないと、バランスとれねぇよなぁ!

リコリコと選択とエゴイスト

今期の最注目アニメ「リコリス・リコイル」がついに最終回を迎えました。毎回、SNSで深夜アニメとは思えないほどの盛り上がりっぷり。それも、原作のないオリジナルもので、ですよ。

確かに面白いんだけど、正直ほかのアニメと比べても鼻先一つ抜けてるぐらいで、頭一つ飛びぬけてる感じまではないかなぁ。過大評価じゃないの?

……と思ってたんですけど、最終回を見て、感想を上方修正しました。なるほど。確かに頭一つ飛びぬけたアニメです。

今期はほかにも面白いアニメはあったんだけど、たしかに「キャラの描写は丁寧に、物語・設定・世界観はシンプルに」を一番うまくやれていたのは、リコリコだったかなぁ。

それに、メッセージが一貫してぶれなかった。「運命や使命、持って生まれた才能が何であれ、自分の生き方は自分で選んで決める」というメッセージが一貫していたうえに、それを説教臭く語るのではなくて、主人公・千束(ちさと)の生き方を示すことで視聴者に語りかける。

最後まで見て、「ああ、このアニメはこういうことを伝えたかったんだなぁ」というのがはっきりすると、もう一度見たくなります。きっとまた新しい発見があるはず。優れたアニメとは、ネタバレしていてもなおおもしろいアニメです。

こういうアニメが、リコリコ以外にももっと評価されないとアカン!

僕自身、「選択肢はたくさんあってなんぼ」と思って日々生きてるので、「自分で選んで決める生き方」というメッセージはとっても共感できましたね。

逆に言うと「勝手に選択肢を狭めてくるやつ」が嫌いなんですよ。「お前はAとB、どっちなんだ!?」って聞かれたら、「え、なんでCないの? Dでもいいじゃん」と、勝手に選択肢を増やすのが僕ですね。

あと、最終回ですごく響いたセリフがあって。

千束が敵対しているテロリストの真島の話を聞いて「あんたも結局、自分が正しいと思ってるんだね」と言った後の、「本当の悪者なんて映画の中にしかいない。現実は、正しい人同士が殴り合ってる」というセリフ。

これがまさに、最近僕が考えてたこととドンかぶりで。何とかしてこの話をマイルドに書けないかと、試行錯誤していたのです。

今の世の中、「とにかく自分は正しい! そして、他人も、社会も、国も、自分の考えと同じであるべきだ!」っていうエゴイストが多すぎるんです。

自分とちがう意見は、絶対に認めない。なぜなら、自分と違うことを言うやつは、自分のエゴを踏みにじる敵だからです。「世界は自分と同じじゃなきゃいけない! 自分と違うやつは、敵だ!」という考え方です。

それだけじゃなくて、中立的なものの見方も認めないんです。「俯瞰して物事を見る⇒誰の味方もしない⇒俺の味方じゃない⇒敵だ!」という考え方です。厄介ですね。

もっと厄介なことに、エゴイストは「政治への関心が強い」が結構多いです。「世界は俺と同じでなければならない!」というエゴイストにとって、政治という手段はとっても相性がいいうえに、「政治に関心があります」と言っておけば、「実は自分にしか興味がない。国とか社会とかほんとはどうでもよくて、とにかく自分にしか興味がない」という本性を、巧妙に隠すことができます。

今の政治家は「エゴの代弁者」になって、こういったエゴイストの力を借りないと当選できないのかもしれません。

リコリコで描かれた悪も、自分の考えを他人や社会にも押し広めようとする「エゴイスト」だったのかな、と思います。自分で生き方を選ぶ自由は、裏返せば他人の選択を尊重することでもあるんだけど、その「他人の選択を尊重する」「他人と自分は同じじゃない」ということがわかっていなくて、自分の選択を他人にも力づくで押し付けようとする人が、悪として描かれていたのかな。

とりあえず、リコリコ、もう一周したいなぁ。さかなぁ~。ちんあなご~。

小説 あしたてんきになぁれ 第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」

街中で落書きを見つけた三人。「ウチらのナワバリで勝手なことしやがって。と憤る亜美に対し、たまきはその落書きに妙に魅かれて……。あしなれ第36話、スタート!


第35話「ねこのちネコ、ところにより猫」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです

「はっ! はっ! おらぁ!」

奇声を発しながら、亜美が太鼓をたたいている。

本物の太鼓ではない。ゲームセンターにある、ゲームの和太鼓だ。

「どどどどーん!」

口でそう叫びながら、亜美は太鼓を連打した。

一曲終わり、亜美はバチを置いてふうとため息をつく。

「亜美ちゃんさ、叫ばないと太鼓叩けないの?」

横で見ていた志保が尋ねた。

「掛け声と一緒に叩くと、パワーが3倍になるんだぞ」

太鼓を叩くのに、3倍ものパワーが必要なのだろうか。そもそも、亜美が叩いていたのは厳密には太鼓ではなく、ゲームのコントローラーである。常人の3倍ものパワーでたたいたら、壊れてしまうのではないだろうか。

「祭りで太鼓叩いてるやつも、全員言ってるんだからな」

「嘘だよ、聞いたことないよ」

「そりゃ、太鼓の音がでかいから、聞こえないだけだよ」

ほかに客はいない。亜美は百円を投入し、再びプレイし始めた。

「よっ! はっ! たっ! たぁ! とんとととん!」

でたらめな掛け声だけど、叩く姿はなかなか様になっていた。

「ほら、たまきもやってみろ」

亜美は次のプレイのための百円を片手に持ちながら、もう片方の手にバチを持つと、たまきに差し出した。

「私は別に……」

「亜美ちゃん、そうやって強要するのはよくないって」

「べつに強要してねぇだろ! な、ボウリングやバッティングセンターみたいなスポーツってわけじゃねぇ。ほんとにただのゲームなんだから、軽い気持ちでやればいいんだよ」

じゃあ、やっぱり3倍のパワーなんて必要ないんじゃないだろうか。

たまきは亜美からバチを受け取ると、太鼓の前に立った。ゲームが始まり、音楽が流れる。

「よっはったったぁとんとととん」

小さな声で亜美の掛け声を忠実に模倣しながら、たまきは太鼓をたたいた。まあ、いちばん簡単なモードなので、ふつうにやればふつうにクリアできる。いかに「ふつうに」が苦手なたまきでも、これくらいの「ふつうに」はこなせる。

「どうだ、たまき。やってみた感想は」

「えっと、棒をもって、太鼓をたたいて、曲が終わって……」

たまきは亜美の方に振り替えると、困ったように言った。

「それで、どうすれば……」

どうすればと聞かれても、困る。

「おまえ、ゲーセンでゲームやっても楽しくないって、それはもうビョーキだぞ」

とうとう病気呼ばわりされてしまった。まあ、ゲームの楽しさがわからないたまきの方がおかしいのだ、ということくらいは、たまきも理解している。

「あ、じゃあ、つぎ、あたしやる!」

志保が手を挙げた。たまきからバチを受け取ると、百円を入れて太鼓の前で構える。

志保は無言で太鼓をたたき続ける。

「お前、掛け声言えよ」

「絶対ヤダ」

画面を凝視しながら、志保はバチを動かした。曲が終わると、かなりの高得点がマークされた。

「どう? すごいでしょ?」

「すごいけどさ……」

亜美は少し言いにくそうに言葉を続けた。

「なんか楽しそうに見えねぇっつーか、ゲームしてるっていうより、そういう作業をこなしてるように見えるっつーか……」

「そ、そんなこと……」

「だいたい、おまえの場合、太鼓の音が小さいんだよ」

「べつに、大きな音を出すゲームじゃないでしょ。本物の太鼓じゃないんだし」

「だから、リズムよく太鼓を叩いてるっつーよりは、黙々と太鼓にバチを当ててる作業してるように見えるんだよ」

「そんなの……き、気のせいだよ……」

それ以上、志保は反論しなかった。

 

画像はイメージです

ゲームセンターで少し汗を流した後、銭湯に入ってさっぱりして、帰りにコンビニに寄ってから帰る。3人のいつものルーティンだ。

4月に入り、だいぶ暖かくなったので、日が沈んでからもお風呂に行くようになったし、銭湯帰りにぶらぶら寄り道しても湯冷めしない。

三人は、コンビニで買い物を済ませたものの、すぐには帰らずに、買ったお菓子をつまみながら街をぶらぶらしていた。

少しばかり、冬の時よりも町はにぎわっているように見える。歓楽街にはグループで入れる居酒屋が多い。大学の新歓コンパや、会社の歓迎会が多いのだろう。中には、明らかに羽目を外してしまった姿も見られる。

たまきはいつも、亜美と志保の少し後ろを歩くのだけれど、ちょっと不安になって、その距離を少し詰めた。

ふと、亜美が足を止めたので、思わずぶつかりそうになり、たまきは足を止めた。

「どうしたの?」

志保は亜美の目線の先を追った。

通りの脇にある、ビルとビルの間の隙間。人が一人ギリギリ通れるような間隔しかなく、配管が無数に走り、地面にはポリ袋だの煙草の吸殻だのが散乱している。

そんな隙間の壁の一部に、スプレーのラクガキがあった。緑のスプレーで何やらアルファベットのようなものが書かれている。英単語なのだろうが、文字を崩してあるのか、なんて書いてあるかはわからない。

それがちょうど亜美の顔の高さの場所にあって、その下にもいくつか小さいラクガキがあった。配管にもステッカーが貼ってある。

亜美はしばらくそのラクガキを眺めていたが、

「ちっ」

と舌打ちして、顔をしかめた。

「へー、意外」

様子を見ていた志保が笑う。

「あ?」

「亜美ちゃんもそういう町の美化意識があるんだぁ、って」

「ビカイシキ?」

亜美は、志保の言ってる意味が理解できていない。

「ラクガキ見て顔をしかめるんだから、街をきれいにしたいっていう意識があるんだなぁ、って思って」

「は? ウチがそんな学級委員みたいなこと考えるわけねぇだろ?」

そういえばつい先週、道端に亜美が煙草をポイ捨てして、志保が咎めたばかりだった。

「ここは、ウチらのナワバリなんだよ」

「……どゆこと?」

今度は志保が、亜美の言ってることを理解しかねている。

亜美は、向かいのビルの上階を指さした。

「あそこにヒロキが経営してるバーがあんだろ」

「え? ヒロキさんってバーの経営者だったの?」

志保の驚きを華麗にスルーして、亜美は続ける。

「で、その2号店がこっち。その下がシンジの働いてるホストクラブだ」

志保は「シンジ」とやらの顔が思い浮かばなかった。

「で、あれがケイタの店だろ? そんで、リョウジの働くクラブがあれ」

顔は思い浮かばないけれど、どうやら亜美のクリスマスパーティや花見に集まるような連中のことだろう。亜美はその後も、夜空の星座案内かのように、周りのビルの店を示しては、誰それの店だと解説している。

「『城』の下の階にあるビデオ屋あんだろ? あそこのオーナーもウチらのグループの一人」

「え、あのおじさん?」

「あれは店長。そうじゃなくて、オーナー。ヒロキが、たまにビデオや手伝ったりしてんのも、オーナーがダチだからだぜ」

ほかにも、志保と出会ったクラブとか、ミチがライブをしたライブハウスとか、さっきまでいたゲーセンとか、ぜんぶ亜美のいう「グループ」のメンバーが何らかの形でかかわっているらしい。どうやら、たまきと志保は知らないうちに亜美の「ナワバリ」の中で生活していたようだ。

「つまり、この辺り一帯は、ウチらのナワバリなんだよ」

亜美は証明終了という顔をしているが、たまきはそもそも何の説明をされたのかすらよくわからない。困ったように志保の方を見た。

志保は、頭の中に碁盤を思い浮かべていた。囲碁のルールは確か、自分の石で周りを固めてしまえば、そこが自分の陣地になるはずだ。同じ理屈で、自分たちの仲間の店で囲まれた領域が、亜美の言う「ナワバリ」なのだろう。

とすると、亜美がラクガキひとつで怒っているのも何となく理解できた。自分の陣地にどんと相手の石を置かれた、そういうことなんじゃないか。

「つまり、亜美ちゃんたちのナワバリに、知らない誰かが勝手にラクガキしたから、怒ってるってこと?」

「さっすが! よくわかってんじゃねぇか!」

こんなことでホメられてもうれしくない。

「最近、これとおんなじラクガキが、歓楽街のあちこちで見つかってんだよ。ウチらのナワバリの、中でも外でも。誰かが、ここは自分のナワバリだって言ってやがんだよ。クソ腹立つ」

なるほど。どうやら、碁石の代わりにお店とラクガキで囲碁をしているようなものらしい。囲碁というより、犬のマーキングに近いのかもしれない。

だけど、そもそも亜美の言う「ナワバリ」も、別に土地を買い占めているわけでも、法律で決まっているわけでもない。自分たちの行動範囲を「ナワバリ」と言い張っているだけだ。要は、町を丸ごと不法占拠しているようなものである。

そんな志保の考えを見透かしたのか、亜美は不満そうに口を尖らせた。

「なんだよ、そのキョーミなさそうな顔は」

「興味ないもん。あたしに関係ないし」

「なに言ってんだ? おまえらも、ウチらのグループのメンバーに入ってんだからな」

「え?」

「ええ!」

志保もたまきも、そんな不良グループと契約書や杯を交わした記憶なんて、ない。

「あたりまえだろ。ウチと一緒につるんでるんだから」

たまきが「そういうものなんですか?」と言いたげに志保を見上げ、志保は「そんなルールない」と言いたげに首を横に振る。

「そんなグループに入ったおぼえ、ないんだけど? 勝手に入れないでよ」

「は? おまえら、どうして今までウチらの不法占拠がばれなかったか、わかんないのか?」

「え?」

志保は亜美の説明を思い返してみた。『城』の下の階のビデオ屋のオーナーは、亜美の「グループ」のメンバーだという。

つまり、その真上にある『城』も、すっぽりと「ナワバリ」に入ってしまっている、ということだ。

亜美はそれ以上説明しなかったが、不法占拠が今日までバレていない理由は、きっとそういうことなんだろう。

そもそも、野良猫同然の暮らしをしていた亜美が、太田ビルの『城』と言うキャバクラの廃墟に転がりこめたのも、もともとそこがナワバリの中だからではないか。

つまり、志保もたまきも全く無自覚のうちに、亜美の「グループ」と「ナワバリ」に守られていた、ということではないか。なんだか、非核三原則を持ちながらもアメリカの核の傘下で守られてる日本みたいだ。

亜美は、もう説明は終わったという感じで志保に背を向け、再びラクガキをにらみつけていた。

「たまき」

「は、はい」

「おまえさ、この辺で絵を描く道具が買える店、知ってる?」

「ま、まあ」

「ソコ行ったらさ、こういうスプレーも売ってっかな?」

亜美はスプレーで書かれたラクガキを指さして言った。

「さ、さあ。見たことないですけど、あるかもしれないです」

「そんなの買ってどうするの、亜美ちゃん」

「いや、このラクガキの上から、スプレーで別のマークでも書いて、ここはうちらのナワバリだって示そうかなって」

「ええ?」

どうやら亜美は、ラクガキの上に新たにラクガキを塗り重ねるつもりらしい。

「なんでもいいんだけどさ、そうだな、うちのイニシャルの『A』を赤ででっかく書く、ってのどうだ。ナワバリのほかの場所も、ラクガキされる前になんか書いとくか」

「なに言ってるの亜美ちゃん!」

志保はラクガキをのぞき込む亜美に近寄った。

「落書きは犯罪なんだよ?」

だが亜美は、ハハハと笑うだけだった。

「お前、不法占拠とかいろいろやっといて、いまさらラクガキぐらいでなにいってんだ?」

「いや、そうなんだけど……、だからって何やってもいいってことにはならないでしょ! むしろ、そういう目立つようなこと、やめてよ!」

「だってお前、ウチらのナワバリに知らないヤツがなんか描いてんだぜ? 悔しくないのか?」

「ない!」

志保はきっぱりそう言うと、たまきの方を見た。たまき本人にその自覚はないけれど、こういう時に落としどころを作れるのがたまきである。

たまきも自覚はないなりに、このタイミングで志保がこっちを見るということは、何か言ってほしいんだな、と察する。

とはいえ、何を言ったらいいかなんて、わかるわけがない。そもそも、何を言ったらいいかがわからないからこそ、黙っていたのだ。そんな急に、今この場をうまく収める言葉なんて、思い浮かぶわけがない。

ただ、さっきの亜美と志保の会話の中で、一つだけ気になっていたことがあった。他に何も思い浮かばないので、それを口にしてみることにした。

「えっと、ラクガキって、やっちゃダメなんですか?」

しばしの沈黙。そして、

「え? そこから? 落書きはダメって知らなかったの?」

たまきは無言で頷く。

「そうか、このラクガキ、おまえが描いて回ってるって可能性あったな。おまえ、絵が好きだもんな」

「え? まさかたまきちゃん、外で落書きしてないよね?」

たまきはプルプルと首を横に振る。

「でも、ラクガキしてるのがたまきだったらよかったのにな。お前もグループのメンバーだから、おまえがウチらのナワバリでラクガキしてるってなら別にいいもんな」

「メンバーじゃないし、メンバーでもダメなものはダメだから!」

そこでまた、しばらく沈黙があった後、亜美はふーっ吐息をついた。

「ま、上から書くにしても、このラクガキよりセンスあるもん描かないと意味ないしな。ウチが描いても、センスねぇなって笑われるだけか。……帰っか」

亜美は太田ビルの方に向かって歩き出した。とりあえず、明日にでもスプレーを買ってラクガキするようなことはなくなったらしい。

ただ、一度立ち止まり、たまきの方を見て、

「おまえ、センスあるやつ描けるんだったら、描いていいんだぞ?」

「だからダメだって!」

亜美は再び歩き出し、志保が後に続く。

だが、しばらくして、志保はたまきがついてこないことに気づいた。

振り返ると、たまきはまださっきの場所で、ラクガキを見つめていた。

「たまきちゃん?」

志保の呼びかけにも反応しない。「たまきちゃん、行くよ?」

「は、はい!」

ようやくたまきは呼びかけに気づき、二人の後を追った。

 

写真はイメージです

「まったく、我が弟ながら情けないよ」

ミチのお姉ちゃんが呆れたようにつぶやいた。

「で、そのままたまきちゃんを帰しちゃったわけ?」

ミチのお姉ちゃんが十日ぶりに海外旅行から帰ってきたのが昨日の昼。「そのあと」というヘンな名前のスナックは、今日の夜から営業再開である。

今は営業前の肩慣らしにと、店で弟に昼飯を作ろうと準備していたところだった。そこで「なんか変わったことはなかった?」という質問に明らかに言いよどんだ弟に、たまきとのことの顛末を洗いざらい白状させたところである。

「そういうのをね、『据え膳食わぬは武士の恥』っていうの」

ミチには意味がさっぱり分からないが、姉が言わんとしていることはなんとなくわかった。

「女の子がわざわざ泊りに来たのよ? 向こうだってそういう展開を期待してたってことでしょ?」

お姉ちゃんは、ミチの携帯電話に保存されている、猫と戯れるたまきの写真を見ながら言った。

「いや、俺も最初はそうかもって思ったりもしたんだけどさ、とにかくさ、その、たまきちゃんはなんつうか、ちがうんだよ」

「なにがちがうのさ」

「その、姉ちゃんとは違うんだよ」

「ちょっと! 実の姉を尻軽女みたいに言うとは、許さないよ!」

ミチはしまったと、心の中で軽く舌打ちをした。

だが、とにかく姉の想像しているようなパリピな女子にたまきは当てはまらないのだ。ズレているどころか、重なるところが見つからない。

おまけに、ミチはたまきからはっきりと宣言されているのだ。「期待にはこたえられない」と。それこそ、たまきが姉の言うようなことを何一つ期待していなかったということではないか。

なんとかそのことを姉に理解してもらわないと、このままふぬけ呼ばわりされたのでは、昼飯がマズくなる。

「そのさ、姉ちゃんはまだたまきちゃんと何回かしか会ってないんでしょ? だから、まだあの子のことをよくわかってないんだよ」

「ほーう、まるで自分はたまきちゃんのよくわかってる、みたいな言い方ですな」

お姉ちゃんはちょっと茶化すように言ったが、ミチはそこで黙り込んでしまった。

はたして、自分はたまきのことを理解しているのだろうか。

正直、泊まりに来た夜、なぜ怒られたのか、どこに地雷があったのか、今でもよくわかっていない。

オダイバでのあれこれも、いまだにわからないことだらけだ。

ただでさえ女心はわかりづらいというのに、たまきの思考と感性は一般的な女心とは外れたところにあって、輪をかけて理解できないのだ。

ふいに、店のドアが開き、ドアの上につけられたベルが鳴った。

「すいません、今日はランチやってなくて……」

と言いかけたお姉ちゃんだったが、入ってきた人物の顔を見て、

「あら、ウワサをすれば。いらっしゃい」

と笑顔を見せた。その言葉で、ミチも誰が来たのかがわかり、ドアの方に振り返った。

「あの……ミチ君、いま……すよね」

ミチと目が合ったたまきは、軽く会釈をした。

「なに、今日はどうしたの? もしかして、またデートのお誘い?」

お姉ちゃんの言葉にたまきは一瞬、背中をビクッと震わせた。

「ち、ちがいます別に……」

と言い淀みながらたまきはミチの方を見た。

いかにミチがたまきのことをわかっていない、といっても、さすがに今のたまきが睨むようにミチを見て、何を言おうとしているかぐらいは察しが付く。おおかた「この前のこと、勝手にしゃべったんですか?」って感じだろう。ミチも、「だってしょうがないじゃん」と言いたげに、たまきから視線を逸らす。

「あ、あの……この前の写真を見せてもらおうと思って……」

「この前のって、猫をなでたりしてるやつ?」

お姉ちゃんが聞き返す。

「えっと……そっちじゃなくて……」

たまきが見たいのは、アキハバラの駅で見た夕日の写真だ。

「ああ、あれね。せっかくだから、プリントアウトしてあげるよ。姉ちゃん、ケータイの写真って、プリントできる?」

「パソコンに転送すればできるんじゃない? あたしのパソコンに添付してメールを送ればいいんじゃないの? あとで印刷しとくから」

「あ、ありがとうございます」

たまきはぺこりと頭を下げた。

そして、そのまま動かない。

しばらくしてたまきが顔を上げると、お姉ちゃんに尋ねた。

「……お姉さんは、私が猫と遊んでる時の写真を、見たんですか?」

「うん、見た見た。かわいく撮れてたよ」

「……何枚ですか?」

あの時、十枚くらい写真を撮られた気がするが、たまきはミチに、「猫を抱っこしている写真」一枚を残して、あとは消すように頼んだはずなのだ。

それなのに、お姉ちゃんは「猫をなでたりしてるやつ」の写真を見たというのだ。これはおかしい。おかしくないですか?

「うーん、十枚くらい?」

お姉ちゃんの答えを聞くやいなや、たまきの目線はミチの方にぶつけられた。それが何を意味するか、ミチにもはっきりとわかる。間違いなく、睨んでいるし、怒っている。

「見せてください」

「え、えっと……」

「携帯電話のその写真、見せてください」

ミチが携帯電話を操作し、件の写真の画像を出す。たまきは、ひったくるようにそれを奪い取ると、慣れない手つきで操作しながら、ほかの画像も確認した。

「……私、消してくださいって言いましたよね。ちっとも消してないじゃないですか」

「……いや、だって、もったいないなぁ、って思って。せっかく撮ったのに」

「消してください、って言いましたよね」

「いや、でも、俺のケータイのデータをどうしようが、俺の勝手じゃん?」

「写ってるのは、私です」

まっすぐにミチをにらみつけるたまきと、目線を合わせようとしないミチ。お姉ちゃんはその様子を、何やら楽しそうににやにやと見つめながら、

「いいじゃない。かわいく撮れてるんだから」

と口をはさんだ。

「……そういう問題じゃないです。……そもそも、私はかわいくはないです」

「そんなことないって~」

とお姉ちゃんは、たまきの手にある携帯電話の画像をのぞき込む。

「ほら、このしっぽをピンと立ててる姿、なかなか様になってるよ」

「それは私じゃなくて、ねこです」

「ああ、ごめん。似てるから間違えちゃった」

そんなわけない。ツッコミどころがありすぎるが、絶対にまちがえるわけない。

「……ほら、姉ちゃんのパソコンに写真送るから、ケータイ返して」

ミチが携帯電話を取り戻す。

「余計な写真も消しておいてください」

「わかったわかった、消しておくから!」

ミチが送信を終え、お姉ちゃんは印刷のために、いったん自分の部屋へと戻った。

お店の中にはミチとたまきの二人だけ。しかし、たまきはまだ怒っているのか、ミチと目を合わせようとせず、店の中を見渡している。

ふと、たまきは店の中にバスケットボールにまつわるものがいくつか置いてあることに気づいた。アメリカ人(たぶん)のバスケの選手の写真がテーブルの上の写立てにあり、壁の高いところにはバスケのユニフォームが飾られている。バスケットのゴールをかたどった小さな置物もみつけた。

お姉さんはバスケが好きなのだろうか。しかし、お店の雰囲気とは何だか合っていない気もする。こういうのはスナックよりも、ハンバーガー屋さんとかステーキ屋さんとかの方が似合いそうだ。

そんな風にきょろきょろと店の中を見渡していたら、ミチと目が合ってしまった。たまきは慌てて視線を外す。

「たまきちゃんさ」

ミチは不満げに口を開いた。

「どうして、今日は笑わないの?」

「べ、別に……」

「なんかさ、この前よりもよそよそしくない?」

「き……気のせいです」

「俺ら、一夜を共にした仲じゃん」

「たまたま同じ部屋にいただけです……」

そのまま、たまきはうつむきがちに言った。

「笑顔が見たいんだったら……」

そこに、ミチのお姉ちゃんが戻ってきた。手には写真が握られている。

「プリント終わったよ~」

たまきはイスから立ち上がると、たまきとは思えないほどしなやかな動きでお姉ちゃんの方に駆け寄った。そのまま写真を奪い取るかのように手にすると、

「私、帰ります。ありがとうございました」

と早口に告げ、たまきとしては信じられないスピードで店を出ていった。一連の動きはまるで、一流のバスケプレイヤーが相手選手からボールをかっさらい、そのままコートを駆け抜けて、鮮やかにダンクシュートを決めたかのようだった。

「ミチヒロ、あんたまたなんか怒らせたんじゃないの?」

「……わっかんねぇなぁ」

ミチは、ドアの上にあるベルが揺れるのをただ見ていた。

 

写真はイメージです

たまきは、スナックのドアを閉めると立ち止まり、ふうっと大きなため息をついた。

一息つくと、ゆっくりと歩き出す。

高架沿いの坂道をたまきは、とぼとぼと上っていった。

長い坂道の中ほどあたりで、ふと、たまきは足を止めた。

高架下の一角。フェンスで区切られ、中に入ることはできない。フェンスのむこうには2メートルほど先にコンクリートの壁があり、それ以外には何もない。

フェンスには「不法投棄禁止」という看板が貼り付けられていた。コンクリートの壁はそこだけ「コ」の字型にくぼんでいて、きっと、ポイ捨てにちょうどいい場所で、ほっといたらゴミがたまってしまうから、フェンスをつけてポイ捨てできないようにしたのだろう。

そのフェンスのむこう側の壁に、鳥の絵がラクガキされていた。

おそらく、ペンキで書いたのだろう。だけど、絵のサイズは普通の写真くらいでしかない。ハケではなく絵筆にペンキをつけて描いたのではないか。

白い鳥が、羽ばたくポーズを描いたものだ。くっきりとした黒い輪郭線と、どこか灰色が混じったような白。翼は特に細かく描きこまれている。

たまきがこのラクガキに気づいて足を止めたのは、これと同じものを前にも見ていたからだ。

つい昨日、銭湯帰りに亜美が見つけたスプレーのラクガキ。あのラクガキの周りには他にも、小さなマークが描かれていたり、ステッカーが貼られていたりしたのだけど、その中にこれと同じ鳥の絵があった。

ぼんやりとその絵を見ているうちに、たまきはあることに気づいた。

この絵、どうやって描いたんだろう?

鳥の絵は、フェンスのむこう側にあるのだ。

フェンスにドアのようなものはない。となると、フェンスのむこう側に行くには、フェンスをよじ登り、乗り越えなければならないはずだ。

たまきは視線を上へと投げた。フェンスはたまきの背よりもはるかに高く、3メートル以上の長さだ。ちょうど同じくらいの高さでコンクリ壁のへっこみも終わり、コンクリ壁が道路のそばまで大きくせり出す。せり出したコンクリ壁はフェンスとぴったりっついているわけではなく、隙間が空いている。やっぱりフェンスを乗り越えればむこう側に行けそうだ。

でも、それは「不可能ではない」というくらいの話でしかない。実際にむこう側に行くのは、かなり難しそうだ。

まず、3メートル以上あるフェンスをよじ登らなければいけない。まあ、たまきには無理だけど、世の中にはそういうのが得意な人もいるだろう。

問題は、フェンスを乗り越えるとき、フェンスとせり出したコンクリ壁の、わずかな隙間を通り抜けなければならないことだ。

たまきはその隙間に目をやる。これまた、通り抜けることは不可能ではない。だけど、やっぱり狭い。小柄なたまきですら、どこかをすりむかないと抜けられないのではないか。

そうやって苦労して通り抜けたら、今度は3メートル以上の高さを安全に降りていかなければならない。

しかも、手ぶらでフェンスを登ればいいのではない。ペンキをはじめとした絵を描く道具も持っていかなければならないのだ。

そんな苦労を重ねて、フェンスのむこうにたどり着き、ラクガキをしたら今度は全く同じ苦労をして、フェンスを上って道路に戻らなければいけない。

その間、もしもお巡りさんなどに見つかったら、とてもめんどくさいことになる。

……何のためにそこまでしてラクガキするのか?

ラクガキするだけなら、何もそんな手間と危険を冒す必要はない。この近くなら、高架の下を抜ける、人目につかない通路なんていくらでもある。そこでいいじゃないか。だいたい、フェンスのむこう側にラクガキしても、気づく人はかなり少ないのではないか。

そんな風に考えると、昨日みつけたラクガキも、ラクガキするには適していない場所だったのではないかと思えてくる。

ビルとビルの間の隙間は、かなり狭い。一人くらいなら入ることはできるけど、そこで細かい作業をするのは、無理ではないけど、かなり面倒である。人通りも多い場所だ。通りかかれば誰かが気付くだろうし、やっぱりおまわりさんに見つかったらひどく怒られるだろう。

たまきの目には、スプレーの落書きの方は、少し歪んでいるように見えた。おそらく、描いた人はビルの隙間に入ったわけではない。隙間の外から、スプレーを吹き付けて描いたのだ。壁面に対して斜めに吹き付けたので、少し歪んでしまったのだろう。

あの壁にはステッカーもたくさん貼られていたけど、それなら人目を忍んで隙間に入って、貼り付けたらすぐに出ればいい。

だけど、鳥のラクガキは筆で書かれているように見える。となると、スプレーやステッカーと違い、何分かのあいだ狭い隙間に入って、肘を満足に動かせないような状況で器用に描かなければならない。

……何のためにそんなことを?

たまきは、フェンスのむこうの鳥の絵をふしぎに見つめていた。それはさながら鳥かごの中の鳥のようでもあり、一方で、実は鳥かごに囚われているのはたまきの方なのではないかという、奇妙な錯覚を起こさせる、そんな絵だった。

つづく


次回 第37話「イス、ところにより貯水タンク」

次回、新キャラ登場?続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

そんなに話題に合わせたいのか?

・若い世代の人はいろんなものを倍速で見る。

・映画もファスト映画で見る(違法)

・音楽はイントロをとばして聞く

・スポーツは結果だけ知ればいい

・短時間で楽しむ、タイムパフォーマンス重視

そういった話を聞くたびに、何をそんな生き急いでんねん、理解できねぇなぁ、と思っていたのだけれど、ここはひとつ、視点を変えてみることにしました。

「スポーツは結果だけ知ればいい」とは、日本で最もサッカー観戦文化が根付いている町で生まれ育った身としては、承服できる話じゃないけど、要は、試合の過程を楽しむというよりは、情報として知っておきたい、ってことですよね。

ファスト映画(違法)も、映画館でじっくり映画の世界に入り込むのではなく、情報として映画の結末が知りたい。

たかだか数十秒のイントロをとばすのも、楽曲を歌詞とメロディだけの情報として聞いている。

じゃあ、なんでそんなに情報が欲しいのか。

そんなことを考えながらラジオを聴いていると、令和キッズの意見として、「ゲームは別に自分でやるより、実況動画を見てる方が、友達とだらだらゲームで楽しんでるみたいで、好き」という話が出てきました。

これだ!

いままで、人がゲームしてるところなんか見て何が楽しいんだろうと思ってたけど、「人がゲームしてるところが見たい」んじゃなくて、そもそもゲームが見たいわけでもなくて、「ゲームしてる時の会話の空間が好き」なんじゃないか。

そう、彼らが重視しているのは「コミュニケーション」。SNSもコミュニケーションのツール。you tubeも「動画投稿サイト」ではなく、コミュニケーションと話題のための情報を提供してくれるツール。

どうしてyou tuberの人は毎日毎日動画投稿してるのか疑問だったんだけど、彼らは「昨日の○○見た?」「見た見た!」というどこの学校でも毎朝繰り返されているあのやり取りの、「〇〇」に入る部分を毎日毎日せっせと作っているわけです。

要は、話題作りですね。you tuberとはつまり「みんなが話せる話題を作る人」なわけです。

コミュニケーションが何より大事、そのための話題づくりが大事、となると、倍速文化もある程度理解ができます。

彼らは、映画を見たいわけでもなく、音楽を聴きたいわけでもなく、「あれ知ってる?」と話題をふられた時に「うん、知ってる」と答えられる回数を一回でも増やしたいから、「話題作」を一通りチェックしたいのです。なんだか、テスト勉強みたいですね。

……なんでみんなそんなにまでして、周りと話題を合わせたいんだろう?

僕は「周りと話題を合わせたい」「みんなの話題についていきたい」って思ったことが、一度もないんですよ。

たとえば、友人同士の会話で、みんなが僕の知らないことの話題で盛り上がっている時、いつも僕は「それ、知らないや、ふーん」で済ませます。僕はその話題について調べることすらしない。

「みんな見てる」とか、「いま、大人気」とか、「なにかの記録を更新」とか、そういったことは僕にとって、何のきっかけにもなりません。

鬼滅の刃、呪術廻戦、スパイファミリー、君の名は。

このへんは、名前しか知りません。どれだけ話題になろうが、記憶を塗り替えようが、まったく興味がない。

むしろ、「いま、話題!」と言われた時点で、見る気をなくします。

音楽に関しては、ラジオばっかり聞いてるので、「話題の曲を知らない」ということはないです。

一方で、ラジオばっかり聞いているので、いわるゆyou tuberさんの動画、全く見たことがありません。もちろん、何の興味もない。

僕がまともに流行に乗ったのは、ポケモンとワンピースぐらいです。無理して周りと話題を合わせようとは思わない。

みんな、何で話題を合わせようとするんですかね。

モノを売るって難しい

「真夏のノックフェス」と勝手に銘打ったイベント2日間が終わりました。もちろん、そういうイベントを主催したわけではなくて、たまたま出店予定の二つのイベントの日にちが並んでいたので、勝手に一人で盛り上がっていただけです。

イヤぁ、モノを売るって難しいですね。

用意した部数の70%以上が売れて、売り上げとしては1万5千円以上なのでまずまずの結果なんですけど、1日目のイベントは売れ残ってしまったり、2日目も最初は全然売れなかったりで、改めて「モノを売る」ということの難しさを痛感しました。

作品を買ってもらうには、手に取ってもらわないといけない。

手に取ってもらうには、ブースの前で足を止めてもらわないといけない。

足を止めてもらうには、ブースの前を通ってもらわないといけない。

ブースの前を通るには、そもそもイベントに来てもらわなくてはいけない。

これらの壁を突破して、初めて作品は評価されるのです。この幾重もの壁を突破して、「クリエイター」と呼ばれる人たちは初めて「作品を評価される」というスタートラインに立てるのです。

1つ作品を買ってもらうには、その何倍の数もの立ち読みが必要なんですね。

何人もの人に立ち読みしてもらうには、その何倍もの数の人に足を止めてもらわなきゃいけません。

より多くの人に足を止めてもらうには、その何倍もの人に前を通ってもらわなきゃいけません。

逆に言うと、人通りが少ないと、足を止める人の数も少なくなります。

足を止める人の数が少ないと、立ち読みが少なくなります。

立ち読みが少ないと購入につながらない、という理屈なんです。

購入に至るまでの段階の、どこかの数が少なくなれば、購入される数も少なくなるんです。

さて、イベントの集客力とブースの前の人通りはもうこちらではどうしようもないので、出店者ができる努力と言えば、いかに自分のブースの前で足を止めてもらうか、いかに手に取ってもらうか、です。

イベントの最中、全然足を止めてもらえない時間がありまして。通る人がみんなスルーしていく。目線が引っかかりもしない。だから、ちっとも売れない。

このままではまずい、と商品の見せ方を変えた瞬間、とぶように売れていきました。

商品自体はみじんも変わっていないのに、見せ方を変えただけで売り上げが10倍違うんです。

足を止める数、立ち読みの数からして、がらりと変わりました。

どんなにいい作品を作っても、売り方を間違えれば、さっぱり売れないんです。

そして、どんなにいい作品を作っても、売れなかったら評価の対象にすらならない。

売上以上に、販売に関して色んな事を気づき、学んだ二日間なのでした。