小説 あしたてんきになぁれ 第12話「夕焼けスクランブル」

不法占拠を続ける三人娘のところにも秋の足音が聞こえる。

施設で知り合ったトクラに引っ掻き回される志保。

ミチの思わぬ発言に腹を立てるたまき。

そして、なぜか「城」にいない亜美。

「あしなれ」第12話、三者三様の秋をお楽しみください。


第11話「惚気の長雨、口下手の夕暮れ」

「あしたてんきになぁれ」によくでてくるひとたち


写真はイメージです

屋上から西の空を見て、志保は思わず目を止めた。

つい半月ほど前のこの時間はまだまだ夕焼け空が広がっていたのだが、いつの間にか日は短くなり、空はすっかりすみれ色に染まっている。藍染のようなグラデーションの空の手前には無数のビルが城塞のようにそびえたち、窓の灯りは洞窟にちりばめられた宝石のように煌めいている。

洗濯物を細い腕にかけながら、志保はそこに影法師のように立ち尽くした。

空の色が菫から藍、そして紺へと、水の膜に色素を落としたように移り変わり、志保はそこで何かに気付いたかのように目を見開いた。

「なに見とれちゃってるんだろ」

そう自嘲気味に笑うと、洗濯物を腕にかけたまま、搭屋へと入っていった。

 

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「確かに迷惑じゃねぇ、とは言ったけどさ」

京野舞は煙草に火を付けながらいった。傍らにはバラのように赤く染まったガーゼが数枚置かれている。

「二週間で三回も呼び出されると、流石にイライラするぞ」

「……ごめんなさい」

たまきは真新しい右手首の包帯をさすりながら言った。

「イライラすると、手元が狂うからヤなんだよ」

「……ごめんなさい」

「そんなうなだれんな。別に、怒ってるわけじゃねぇから」

舞は珍しくにっこりと笑う。

「なんかあったか?」

「……特には……」

たまきは髪をとかして、前髪で左目を隠した。

「で、お前はクレープ屋でもはじめんのか?」

舞は、テーブルの上に積まれたお菓子の本を見ながら、志保に言った。

「そうなんですよ」

志保が笑顔で返す。

「なに、ほんとにやるの?」

志保は、施設の仲間と一緒に「大収穫祭」でクレープ屋をやることを話した。

「へぇ、あの施設、そういうこともやってるんだ。大収穫祭ね……。クレープ屋って、施設に通ってる人全員出るの?」

「……三分の一くらいですかね。有志だけなんで」

「ふーん」

舞がぷはぁと煙を吐き出す。

「イベントは二週間後です。先生もぜひ、来てください!」

志保は目を輝かせていった。舞は、

「……まあ、お前が施設でどんなことに取り組んでるか、見とかなきゃな」

とだけ答えた。たまきには、どこか感情が入っていないようにも聞こえた。

「……ところで、お前ら、メシは食ったのか?」

「これからなんですけど、今日、クレープつくる練習で帰るのおそかったからどうしようかって話してたところなんです」

志保が読みかけのお菓子の本を閉じて答えた。

「あたしが作ろうか?」

「え? いいんですか?」

「コミュニケーションって大事だろ?」

そう言って舞はドアの方を見る。

「この前はこんなタイミングであいつが帰ってきたんだけど、……今日は帰ってこないな」

舞が言う「あいつ」とは、この「城(キャッスル)」の最初の住人、亜美のことである。

「なんか最近……、ちょくちょくいないよね」

志保の問いかけにたまきはこくりとうなづいた。

「どこ行ってるんだ、あいつ? 昼間っから援交か?」

「さあ、隣町のヘアサロンに行くって言ってたけど……」

志保の言葉に、たまきは首をかしげる。

「この前もそんなこと言ってましたよ。隣町の理髪店に行くって。美容院って、そんなに頻繁にいくようなところですか?」

「……その割には、髪型、特に変わってるようには思えないけどなぁ」

「……亜美ちゃん、何やってるんだろ?」

三人の視線が、壁に掛けられた亜美の絵へと向かう。

「私たちに言えない、何か危ないことでもしてるんじゃないでしょうか……」

「援交してるっておおぴろっげに言うやつが、これ以上何を隠すんだよ」

舞が腕組みしながら言う。

「……いけないクスリの売人とか」

「もしそうだとしたら、真っ先にあたしに売りつけてるとおもうよ」

「同居人が売人だったら、お前、即、施設入所だからな」

舞が苦笑いしながら志保を見た。

「じゃあ、ピストルの売人とか……」

「とりあえず、売人から離れようぜ」

舞が呆れたように笑う。

「まったく、どこほっつき歩いてんだか」

舞はそう言いながら亜美の似顔絵を見ると、

「それにしてもこの絵、よく描けてるな」

と言ったので、たまきは思わず下を向いた。

「ほんと、よく亜美ちゃんの特徴捉えてますよねぇ」

「街の似顔絵屋さんにでも描いてもらったのか?」

舞の問いかけに、誇らしげに答えたのは志保の方だった。

「たまきちゃんが描いたんですよ。亜美ちゃんの誕生日プレゼントに」

「マジで?」

舞がたまきの方を振り向く。たまきはピンクのクッションを掴むと、顔全体に押しつけるように抱きしめた。

「はぁ~、たまき、お前にこんな特技があるとはなぁ。あたし、絵ごころ全然ないから、尊敬するよ」

舞はまるで鑑定士のように手に口を当て、描かれた鉛筆の線まで覗き込むように見ていた。こんな風に、絵をじろじろ見られるのが嫌だから、たまきは飾りたくなかったのだ。

「いや、大したもんだよ」

それでも、褒められるのはなれていないので戸惑うが、悪い気はしない。

 

結局、亜美は帰ってこなかった。

舞は、「ちりこんかん」という、たまきの食べたことのない料理を作った。舞の作るちりこんかんという料理は、豆とひき肉に少量のケチャップとスパイスを混ぜて茹でたものだった。

「おいしい~!」

志保が感嘆の声を上げる。

「先生と結婚するだんなさんは幸せ者だよ」

志保は年にちょっと釣り合わない感想を述べた。

「いや、あん時は忙しかったからな、ダンナにつくってやる余裕なんてあまりなかったよ。むしろ、ダンナが作ってくれた方が多かったな」

舞はモリモリとちりこんかんを頬張りながら言ったが、たまきと志保のスプーンを持つ手は完全に止まってしまった。

「えー! 先生、結婚してたの!?」

志保が驚嘆の声を上げる。たまきの左手はスプーンを口元に運んだまま止まり、重力で垂れ下がったスプーンから豆がコロコロとこぼれ落ちる。

だが、驚いたのは舞も同じようだった。

「え、あ、『結婚してたの』か……。『してた』という意味では……、イエスだな。っていうかお前ら、亜美から聞いてなかったのか?」

「全然」

志保とたまきが同時に首を横に振った。

「そうか。あいつには会ったばかりのころに、『ねえねえ、先生ってカレシいないの』って感じでしつこく聞かれて、べつに隠すことでもないから話したんだがな。あいつ、口軽そうだからてっきりお前らにも喋ってるもんだと思ってた」

舞が亜美の口調を真似すると、志保はくすりと吹き出した。

「意外と口が堅いんだね、亜美ちゃん」

「……聞きだすのに興味はあっても、喋ることに興味ないんじゃないですか?」

たまきはようやく思い出したかのようにちりこんかんを口に運んだ。

「あれ? 『結婚してた』ってことは……」

志保はちょっと言いづらそうに舞を見たが、舞はあっけらかんと

「ああ、別れたぞ。まだ、二十代だったころの話だ」

と答えた。志保は

「へぇ~」

と感心したようだったが、

「あれ? じゃあ、もしかして、先生ってお子さんとかいるんですか?」

と目を輝かせた。

「お前、ガキなんていたら、今頃こんなところでおまえらの面倒なんて見てねぇよ」

「……ですよね」

志保はばつの悪そうに笑った。

 

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「やっぱり、イチゴとバナナはマストでしょ」

トクラはホワイトボードに書かれた「イチゴ」と「バナナ」の文字を赤ペンで丸く囲んだ。

東京大収穫祭まで残り2週間を切った。今日中にメニューの最終決定を決めなければいけない。

「メロンとか、どうですか?」

志保は手を上げて提案してみたが、トクラは

「高い」

と一蹴した。

「色合い的には三色クレープってことでバランスいいと思ったんだけど」

「カンザキさん、メロンが緑なのは外側で、中はオレンジ色だよ。だったら、キウイがいいんじゃないかな」

おじさんが横から提案する。

「で、アイスはどうするの?」

志保の隣に座っていた女の子が訪ねた。アイスをクレープにれるか否かが、ここ数日の焦点だった。コンビニで買ったアイスを混ぜて試作したりしていたのだ。

「あたしはアイス入れたいんだけどな」

トクラは、赤ペンで「アイス」の文字の下に二重の線を引いた。

「でも、祭りは十月でしょ? アイスに需要があるかなぁ」

おじさんは首をかしげるが、トクラは

「真冬じゃないんだし、アイスは絶対喜ばれるって。十月って言ってもまだはじめだし。アイスが入ってるクレープって、よくあるよね、カンザキさん?」

急に名指しで質問をされて、志保は戸惑いつつも答える。

「え、あ、あると思いますよ? っていうか、なんであたし?」

「だって、そういうところ、よく行きそうな雰囲気だもん」

そうかしら、と志保は思いながらも、そういえば、高校の通学途中にクレープ屋があって、トモダチやカレシと行ったな、なんてことを思い出した。

「アイスを入れるとしてさ、どこでアイス買うの? コンビニやスーパーのアイスじゃ、足りないでしょ?」

志保の隣の少女が尋ねる。

「業務用、っていうのがあるんじゃないの? 昔、ヨーロッパに行ったときに、バケツみたいなのに入ったアイス、食べたことあるよ」

トクラがジェスチャーを交えて話した。

「その、業務用アイスっていうのは、どこで売ってるのかな?」

「さあ、問屋とかじゃない?」

トクラがどこか無責任に言った。

話が煮詰まってきた。こんな調子で今日中に決まるのかな、と志保が壁に掛けられた時計に目をやると、そこにはシスターが立っていた。

「ちょっといいかしら」

シスターはいつものように上品にほほ笑みながら歩み寄ってきた。

「この前皆さんにしていただいた検査ですけれども……」

検査というのは検便のことだ。飲食物を扱う屋台をやるということで、検便が行われたのだ。

もしかして、自分だけ薬物とか別の検査もされているんじゃないか。志保は検便の容器を見ながらそんなことを考えていた。もちろん、財布の一件以来もう二か月も薬を絶っているのだから、検査されたところで何も出てこない。何も出てこないはずなんだけど、なんだか不安な自分がいる

だから、これからシスターがどんな話をするのか、不安でしょうがない。「神崎さん、ちょっと別室に来てくださる?」とか言われたらどうしようかと、ありえないはずのことを考えてしまっているのだ。

一度そう考え始めると、どうしてもその考えがぬぐえない。二カ月も薬を絶っているのだから今更検査で何かが出てくるなんてありえないのだが、どうしても何か見つかってしまうような気がしてしまう。

「全員検査は合格でした」

シスターの言葉に志保は胸を締め付けていた鎖が突如消えたかのような解放感に抱かれ、笑みをこぼした。

ため息をついて顔を上げ、トクラの足が視界に入る。ふと気になってトクラの顔を見ると、トクラはにこにこ笑っていた。

……トクラさんもパスしたんだ。

もちろん、今回の検便はばいきんかなにかの検査であって、薬物の検査ではない。冷静に考えれば、教会が抜き打ちで検査をするとも考えられない。

それでも、志保はトクラが検査をパスしたことが、そして何よりも、トクラが何食わぬ顔で検査を受けていたことが引っ掛かった。

 

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ひと月ぐらい前までは蝉の声がやかましかった公園だが、秋を迎えて少しずつ落ち葉も目立ち、ギターの音がよく通るようになった。

ミチは林の中にビールの空き箱をひっくり返して用意した台の上に立つと、じゃらりとギターを鳴らす。彼の前方にはいくつか椅子が並べられ、ホームレスたちが腰かけている。

「えー、今付き合ってるカノジョを想って作りました、新曲です。タイトルは、あー」

ミチはギターのネックに手をかけたまま、右上を見た。

「『アイラブユー』です」

少し小さめの椅子に腰かけたたまきが、少し微笑んでミチを見上げながら、ぱちぱちと手をたたいた。しかし、その隣の仙人は口を堅く結び、ミチをまっすぐ見据えながら腕組みをしている。

ミチはジャカジャカとギターを軽くストロークして、歌い始めた。

 

――陽炎揺らめく夏の中で

――煌めく小さな光

――まるで海のように

――僕を包み込んでくれた

 

――そうさ君の微笑みは

――まさに天使の笑顔

――まるで空のように

――僕を包み込んでくれた

 

――好きだ好きだ愛してる

――ずっと大事にするからね

――好きだ好きだ愛してる

――ずっと守り続けるよ

 

そんな歌が3番まで続く。ハイトーンな声のキーを少し落として、ミチはゆったりと歌い上げた。

歌終わりに優しくストロークをして曲を終えると、ミチはやりきったという表情で頭を下げた。

「ありがとうございました」

たまきが軽く微笑みながらぱちぱちと拍手をする。だが、仙人は目をつむったまま動かない。とはいえ、背筋がしっかり伸びているので、寝ているわけではなさそうだ。

「……どうでした?」

ミチは仙人の顔を窺うように身をかがめた。

「……歌声はよかった。メロディも悪くない」

前にもそんな感想を聞いたな、とミチは苦笑いする。

「それで、歌詞の方は……」

「今、どこから指摘しようか、考えている」

仙人のその言葉に、ミチは肩を落とした。

「そうだな。好きなのか愛しとるのか、どっちなんだ?」

「え?」

ミチがギターを肩から外しながら、仙人に聞き返した。

「歌の中で『好き』とも『愛してる』とも言っていただろう? 結局、どっちなんだと聞いている」

「そんなの……どっちもですよ」

ミチは困ったように口をとがらせた。

「で、どっちなんだ?」

横で聞いていたたまきは思う。仙人が同じ質問を繰り返すときは、相手の出した答えに納得していないときだ。それは、相手に何かを気付いてほしい時でもある。

「だから……、どっちもですって」

ミチは、もう勘弁してくれというような目で、仙人を見た。

 

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自動販売機とはよくよく考えると不思議な装置だ。軽い百円玉を入れると、ズシリと重い液体を入れた缶が出てくるのだから。あの百円玉のどこにこれほどの重さがあるのだろうと不思議に思う。

志保は身をかがめ取り出し口に手を突っ込み、黄色い缶の炭酸飲料を取り出した。

プルタブに指を賭けたところで、志保は声を聞いた。

「よかったね。検査、引っかからなくて」

志保は鞭に撃たれたかのように左側を見た。通りの奥から、トクラがこちらに向かって歩いてくる。

教会から駅へと続く住宅街の道は、塀から顔を突き出した木々の緑によって彩られていたが、ところどころ黄色い葉っぱも交じってきた。

志保はトクラをじっと見ていた。

「なに? どしたの、カンザキさん」

トクラが怪訝そうに首をかしげる。

「……いえ」

志保はトクラから目をそらすと、缶のプルタブを開けた。トクラは歩調を速めると志保のそばまで来て、囁くように言った。

「私たちの検便ってさ、やっぱ、クスリの検査までされてるのかな?」

「さ、さあ」

志保は冷たい缶を両手でしっかり包み込むように持つ。

「されてたら、やばいよね」

「それってどういう意味ですか?」

志保は反射的にトクラの方を見た。トクラは右上を見上げたが視線を戻して、言葉を選ぶように言った。

「ほら、施設がプログラムの受講者に黙ってそういう検査してたら、信頼関係ってやつが崩れちゃって、ヤバいよね、って話。まあ、あの施設はそんなことするところじゃないけどさ」

そう言ってトクラは笑う。志保は、炭酸水をのどに流し込むと、駅に向かって歩き出した。

「カンザキさんって、シャブやってたんだよね」

「……あまり大きな声で言わないでもらえますか」

「ああ、ごめんごめん」

トクラはそう言いつつも、悪びれた感じではない。

「売人の番号って残ってるの?」

「……消しました」

財布を返しに行った日の昼に、売人の番号は携帯電話から消去した。一緒にいた亜美にも確認してもらっている。

「なんだ」

「……残ってたらどうするつもりだったんですか」

「教えてもらうに決まってんじゃん」

トクラはケラケラと笑いながら、そう答えた。その言葉に志保は足を止めた。二、三歩進んでトクラが気付き、振り返る。

「どしたの? あ、やっぱり、番号残ってた?」

「……トクラさんは、何のために通っているんですか?」

二種間ほど前にも同じことを訊いた気がする。

同じ質問を繰り返すということは、答えに満足していないからであり、相手に何かを気付いてほしい時でもある。

トクラは笑みを浮かべながら、志保の質問に答えた。

「行かないと、周りがうるさいから」

さっきまでアスファルトを照らしていた太陽が雲の影に隠れる。志保は睨むようにトクラを見ていたが、トクラはひるむ様子もなく言葉をつづけた。

「カンザキさんはさ、あそこのプログラムで、本当にクスリやめられると思ってるの?」

「そのために、私は通っています」

手にもったアルミ缶が少しへこむ。

「もう、周りを裏切りたくないんです」

「裏切るよ、どうせ」

トクラは不敵に笑いながら志保に近づく。

「あの施設に通ってても、クスリの再犯で捕まったやつを何人か知ってるし、実は私自身あそこに通うのは2回目だったりするの。まじめに通ってたんだけどね、逮捕されちゃっていけなくなっちゃった」

「施設のやり方が間違ってる、ってことですか」

施設の職員はみな親切で、志保は上品な感じが少し苦手だが、好感を抱いていた。それを悪く言われるのはいい気分がしない。

何より施設のやり方が間違いだということになると、この二カ月が無駄になってしまう。

「いや、あの施設はよくやってる方だとおもうよ。どこもあんな感じだと思うし、実際、依存症に対する取り組みではあそこはまあまあ有名な方だし」

トクラは志保に最接近すると、囁くように告げた。

「間違ってるのはね、私たち」

志保は自分の呼吸とトクラの呼吸が同期するのを感じた。手にもつ缶がベコベコへこみ、その冷たさがやけに志保の手の熱を奪っていく。

「薬物の再犯率はね、私やカンザキさんくらいの年だったら、40%くらいかな。それに、再犯率っていうのは、逮捕されないとカウントされないからね」

「……トクラさんは、もう治療する気がないってことなんですか」

いつしか志保の声は震えていた。

「ほんっと、カンザキさんって十年ぐらい前の私に似てる。まあ、私はカンザキさんほど真面目じゃなかったけどさ。それでも、本気でクスリをやめたいって思ってたり、自分の努力次第で何とかなるって思ってたり、周りを裏切りたくないってところとか、ホントそっくり」

志保は、自分の息が少し粗くなっているのを感じていた。

「だから、ほっとけないっていうか。ほら、ドラマの結末知ってて再放送見てるときってさ、最後死んじゃうキャラとか出てくると、教えたくなるじゃない、その人の宿命ってやつを」

その言葉に、志保は急に恐怖を感じた。

この人とあたしはちがう。あたしはこの人のようにはならない。

さっきまでそう思っていたのに、急にトクラをそんなふうに見れなくなっていた。

どうあがいたって、あたしはこの人みたいになる。

きっとトクラには、神崎志保という少女が、まるで自分の再放送を見ているかのように映っているんだろう。ドラマの再放送ってやつは、どうあがいたって絶対に過去に見た最終回と同じ結末に行きついてしまうのだ。

上空では雲が流れゆき、再び太陽が顔を出した。秋の澄んだ空気が灯に照らされ、トクラの顔がさっきよりも軽く見える。

まるで、志保とトクラのあいだにへだたりなんてないと言わんばかりに、はっきりとトクラの顔が見える。

志保の指先が小刻みに震える。トクラはそんな志保をからかうように見ると、再び囁くように告げた。

「ねぇ、シャブって、どんな味?」

「……どんなって」

思わず答えそうになった時、志保の頭の中で警報機が鳴り響く。

その質問に答えてはいけない。

思い出してはいけない。

忘れよう忘れようとこの二か月頑張ってきたのに。

心臓の奥から何かが電撃のようにほとばしる。

止まらない震え。

うっすらと滲む汗。

開いた瞳孔。

動悸。

日差しに照らされた緑の木々たちがモノクロになってぐにゃりと歪む。

「どうしたの、カンザキさん?」

トクラが悪戯っぽく微笑む。志保は小刻みに震える手で缶を持ち上げると、再び口の中に液体を流し込んだ。

炭酸水から揮発した二酸化炭素がのどをびりびりと刺激するが、何の解決にもならない。

 

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夏場ともなるとアスファルトが熱を湛え、たまきは階段以外の場所で絵をかくことも多かったが、九月の終わりが近くなり、再び地べたに腰かけられるようになった。ミチは階段の中ほどに腰かけ、ギターを弾きながら鼻歌を歌っている。たまきは同じ段に腰かけ、公園の絵を描いている。二人の間は人が一人二人通れるくらいに空いている。そうでなくても、広い階段だ。二人ぐらい腰かけたところで、大して邪魔にはならない。

二十分ほど、二人は会話をすることがなかったが、突如ミチが語りかけた。

「なんかないの? 質問とか」

何を聞かれているのかわからず、たまきはミチの方を向いて首をかしげた。たぶん、漫画やアニメだったら、たまきの頭上に「?」とマークが浮かんでいたはずだ。

「『カノジョのどこが好きなの?』とか、『カノジョってどんな人なの?』とか、『デートはどこ行くの』とかさ」

「なんでそんなこと聞かなきゃいけないんですか?」

たまきの頭上の?マークが増えた。

「志保ちゃんはこの前、いろいろ聞いてくれたよ」

「志保さんですから。私、志保さんじゃないんで」

たまきは表情を変えることなく答えた。

「だったら、二人のこと応援してるよ、とかさ」

「なんで応援しなくちゃいけないんですか?」

応援なんて言うのは、自分のことが十分にできている余裕のある人が有り余った力でやるものだと思う。

そもそも、「頑張って学校に行け」という応援なのか脅迫なのかよくわからない言葉を浴び続けてきたたまきにとって、「応援」がはたして良いものなのかよくわからない。

たまきの無表情っぷりに、ミチは不満のようだ。カノジョの話をしたくてしょうがないらしい。

「普通さ、もっと友達の恋愛に関心も……」

「友達じゃないです。知り合いです」

それに、たまきは「ふつう」ではない。そんなことはもう、わかりきっている。

ふと、たまきの頭に亜美の言葉がよぎった。

「あいつ、地味な女がタイプだって言ってたぞ」

だが、この前見た海乃って人は、おしゃれな茶髪に顔はばっちりメイクをし、ミニチャーハンを運んできた手には色とりどりのマニキュアがぬられてことも覚えている。とても「地味」とは思えない。

「地味な女の子がタイプなんじゃなかったんですか?」

たまきはミチの方を見ることなく尋ねた。深い意味はなく、ただ「聞いてた話と違うな」という違和感から来た質問だった。

「え?」

とミチがたまきの方を見る。

「……あの海乃って人、地味には見えなかったので」

地味というのは、露出の少ない黒い服を好み、化粧をせずにメガネをかけ、髪の毛をいじることもなく、口数少なく大きな声も出さない人、つまりたまきみたいな女のことを言うのだ。

「う~ん、恋愛するんだったら、おしゃれで、スタイル良くて、話してて楽しい子がいいかなぁ」

「じゃあ、地味な子が好きっていうのは、なんだったんですか」

これまた、話の流れで出てきた素朴な疑問である。深い意味などない。

「ああ、地味な子が好きっていうのはね、恋愛対象の話じゃなくて……」

たまきは何気なく、ミチの方を見た。ミチとたまきの目があう。

「エッチの対象」

「え?」

たまきの左手から小さな鉛筆がポロリと落ち、階段に当たってカランと音を立てる。そのままカンカラカンと下に転げ落ちていったが、たまきは気づいていないのか、ミチの方を見て目を見開いたまま動かない。

ミチは身を乗り出し、たまきとの距離をぐっと詰める。

「地味な子ってさ、エッチの経験とか、そもそも付き合ったことないって子おおいじゃん」

たまきは呆然としたままうなづく。自分がまさにそうだ。

「そういう子をなんていうかさ、穢してみたいっていうかさ。どんな顔してどんな声出すんだろうって」

たまきは急激に体が下腹部から熱くなるのを感じていた。

「ち、ちなみに……」

いつもの1.5倍の早口でたまきが尋ねる。

「私って、地味ですか?」

「うん」

ミチが、何をわかりきったことをとでも言いたげにうなづく。

「ってことは私も……」

「もちろん、エッチの対象だよ」

ミチがたまきをいやらしい目で見ていることはうすうす気づいていたが、こうも恥ずかしげもなく断言されると、顔が紅潮していく原因が怒りなのか恥ずかしさなのか、自分でもわからなくなってくる。

「たまきちゃんってさ、自分では気づいてないのかもしれないけど、目はわりとパッチリしてるし、ロリっぽいかわいらしさがあるっていうかさ……」

「そうですか……」

この場合、何と返事をしたらいいのだろう。

「それに、亜美さんみたいに巨乳ってわけじゃないけど、そこそこおっぱいあるし」

充血してきた目をたまきは下に向ける。

「バージンでしょ? エッチしたらどうなるんだろうって思うとさ、一回ちょっと壊してみたいなぁ、って」

たまきは蒸気機関車の煙のように早く立ち上がり、赤くなってきた目でミチを見下ろすと、いつもより強い口調で言った。

「私、帰ります!」

「え、ああ。おつかれ。またね」

片手を上げるミチに素早くたまきはお辞儀をすると、たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、階段を一段飛ばしで登っていった。

 

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「あの子絶対クスリやってるって」

「だって、あのやせかた、おかしいもん」

「うーわ、犯罪者じゃん」

雑踏をすれ違うたびに、そんな声が聞こえる。

そのたびに志保は足を止めて振り返り、声の主を探す。

なんだか、今視界に入っている全員がそう言っていたような気がして、志保は雑踏の中を縫って駆け出す。

すぐに息が切れて立ち止まる。震える手であたりを探るが、手をつないでくれる人は誰もいない。

駅から歓楽街へ戻るには、三途の川のように大きな道路を横切らなければならない。残念なことに歩行者用の信号は赤になったばかりで、色とりどりの車が濁流のように目の前を横切る。

さっきから、様子がおかしい。とってもおかしい。

またしても声が聞こえる。

「ねえ、シャブってどんな味?」

声の主はトクラだった。驚いてあたりを見渡すと、雑踏の中にトクラの姿がちらりと見えたが、すぐに見えなくなった。聞こえるのは車の騒音だけで、頭上の電光掲示板から流れるなんかのCDの宣伝すらもよく聞こえない。

トクラは何であんなことを言ったのか。志保は頭をかきむしりながら考える。いや、無理やりにでも考えないと、クスリ以外のことを考えないと、どうにかなってしまう。

「教えたくなるじゃない、その人の宿命ってやつを」

またトクラの声が聞こえる。記憶の中のトクラかもしれないし、さっき見かけたトクラなのかもしれない。

どうせいつかこうなるのが宿命なのだとしたら、戦うのなんて時間の無駄、ということなのだろうか。だからあの人は志保にクスリを思い出させようとした。どんなに頑張ったって、どうせいつか自分の手でその頑張りを捨ててしまうのだから。だとしたら、早い方がいいじゃない。頑張って頑張って、また亜美ちゃんやたまきちゃんを、舞先生を、そしてあたし自身を裏切って悲しませるくらいだったら、いま裏切った方が、みんなダメージ少なくて済むんじゃないの?

「やっちゃえば? どうせいつか裏切るんだったら、いま裏切った方が、みんなのためだよ」

今度はトクラが耳元でささやいてきた。志保はとっさに振り向いた。

そこにトクラはいなかった。

いたのは、志保だった。

いるはずのない、自分だった。

囁いたのは、志保の声だった。

恐怖に駆られた志保は、踵を返して走り出そうとした。

横断歩道の一番目の黒い空白を踏みしめたとき、志保の目に最初に飛び込んできたのは、赤く光る歩行者用の信号機だった。

次に右側を見た。25mほど向こうに青い乗用車が見える。車の姿と、タイヤが地面にこすれる音が、少しずつ大きくなっていく。

首から下はアスファルトを踏みしめたまま硬直して動かない。志保は、唯一動かせる首だけを後方に向けた。

信号待ちをする人々が鉄柵のように並んでいる。彼らは、まだ自分たちが何を見ているのかを理解できていないようだ。

その人ごみの中から、程よく日焼けした腕が伸びてきて、志保の右腕を掴み、そのまま勢いよく引っ張った。

「危ない!」

知らない誰かの声と、タイヤの摩擦音が響く中、志保は、その知らない誰かの胸に倒れこんだ。

 

信号は赤だ。今、飛び出したら死ねるんじゃないだろうか。

いつもは足元を通り過ぎるタイヤを見ながら、たまきはそんなことを考えてしまうのだが、今日に限って真っ赤に染まる信号をにらみながらじっと待っている。

考えれば考えるほどに頭に来る。もちろん、ミチのことだ。

ミチが時々たまきの胸元や足の付け根あたりを見たりと、たまきのことをいやらしい目で見ているのは察していた。それだけでも嫌だけど、まだ「男の子ってそんなものなのかな」と思うことで納得してきた。

ところが今度は、エッチをしてみたいと言ってきた。それも、「壊す」だの「穢す」だの。

いったいミチは、女の子のことを、たまきのことを、なんだと思っているのだろうか。壊すだけ壊して、穢すだけ穢して、どうせ責任とか取らないんだろう。わかってる。ミチはたまきのことが好きだとか、女として見てるとか、そういうんじゃない。弱そうな女の子を支配して、自分のものにして、遊びたいだけ。つまり、私はミチ君にとって都合のいいおもちゃってわけ。あ~、もう、君付けなんかしなくていいよ、あんな人。あの人にとって私は、あの人がバイト代ためて買ったハーモニカみたいなものなんだ、きっと。自分のものにして、遊ぶ。それだけ。

だいたいさ、あの人はカノジョさんがいるはずなのに、ほかの女の子とそういうことしようっていうのが、許せない。亜美さんみたいに好きでもない人とエッチできる人がいるっていうのは理解しているし、それが亜美さんの生き方なんだから、私はとやかく言わないけど、亜美さんと違って、ミチ君、じゃなかった、あの人には本命のカノジョさんがいるはず。なのに、ほかの女の子にああいうこと言うなんて、私だけじゃなくて、カノジョさんにも傷つけるよ。

カノジョさんがギターで、私がハーモニカ、そういうことなんだろう。あの人は結局、どっちも持って置きたかったんだ。

あ~、むかつく!

 

ぷんすかと腹を立てながらも、たまきは横断歩道を渡り終えた。お店が立ち並ぶ歩行者天国の大きな通りを、すたこらさっさと歩いていく。

1分ほどでまた信号待ちだ。たまきはスケッチブックの入ったカバンを胸の前でしっかりホールドすると、赤信号をにらみつけた。

ふと、聞きなじんだ声が鼓膜を打つ。

「ほんとにもう、大丈夫なんで」

声がしたほうに顔を向けると、志保の姿がそこにはあった。街路樹によりかかり、ペットボトル片手に何やら話している。

話している相手は知らない男性だ。見た感じ大学生くらいだろうか。顔だちにこれといって特徴はないが、服装はおしゃれな感じで背が高い。

「本当に大丈夫? 具合が悪いなら、救急車を呼ぶとか……」

「いえ、もう本当に大丈夫なんで。すいません。お時間お取りしてしまって……」

志保は相手にしきりに頭を下げている。

「そう……。疲れてるみたいだから、帰ったら、ゆっくり休みな」

男性はそういうとその場を立ち去った。たまきは少し時間を空けてから、志保に近づいた。

「……志保さん」

たまきの声掛けに志保は驚いたようにたまきを見た。

「い、いつからそこにいたの?」

「……い、今通りかかったんです」

いつになく早口でたまきが答える。

しばらく静寂が流れる。

「たまきちゃん、顔赤いよ?」

「志保さんこそ……、顔白いです」

信号が青になったタイミングで、どちらが言い出すでもなく、二人は歓楽街へ向けて歩き出した。志保はたまきの左側に立つと、するりと手を伸ばし、たまきの左手を握った。

こんなことは前にもあった。何もないのに、志保が手をつなぐなんてことはない。さっきの男性と何かあったのだろう。

こういう時、亜美さんなら何か聞くのかな。

たまきは結局、志保に何も聞かなかった。優しさから聞かなかったのでも、興味がなかったのでもない。どうしたらいいのかわからなかった。

 

写真はイメージです

手をつなぐ、と言ってもいわゆる恋人つなぎみたいなものではない。志保が差し出した細い左手に、たまきがそっと右手を添える程度のものだ。

志保の手の震えがたまきの手に、たまきの手の温かみが志保の手に、それぞれゆっくりと伝わる。

「手をつなぐ」という行為は互いの手の細菌を移しあう行為である。だが、互いに移しあうのは、細菌だけではないようだ。

「あ!」

たまきより少し前を歩いていた志保が声を上げた。少しうつむきがちだったたまきが顔を上げると、亜美がヒロキと腕を組んで歩いてくるのが見えた。

向こうは志保とたまきに気付いていないようだ。車が何台も並んで通れそうな広大な歩行者天国の斜め前から二人は腕を組んで歩いてくる。視界の端に移っている志保とたまきには気付いていないようだ。

手をつなぐよりも、腕を組んだ方が仲がよさそうに見える。

「よくさ、好きでもない男の人と、ああいう風に腕組んだり、エッチしたりできるよね。あたしは無理だな」

「……私もです」

「亜美ちゃんって、男の人の前だとキャラ変わるよね。甘え上手っていうか……」

「……ビジネスライクなだけだと思いますよ」

二人は、大通りへと出て信号待ちをしている亜美とヒロキの背中を見つめていた。寄り添うようにたたずむ二人の影は、秋の西日に照らされ、心なしか少し隙間があるように映っていた。

 

つづく


次回 第13話「降水確率25%」

10月に入り、ついに大収穫祭が開催される。クレープ屋ではりきる志保、祭りを楽しむ亜美、ステージ上で輝くミチ、そして、たまき。4人それぞれの祭りが始まる。「大収穫祭」編、いよいよクライマックス!

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第11話「惚気の長雨、口下手の夕暮れ」

「明日なんかどうでもいい」と援助交際で生活する少女、亜美。「明日が怖かった」と覚醒剤に手を出し、厚生施設に通い始めた少女、志保。「明日なんかいらない」と自殺未遂を繰り返す少女、たまき。3人は歓楽街のつぶれたキャバクラを不法占拠しながら暮らしている。今回は3人が出会って2か月がたったころのお話。

「あしなれ」第11話、スタート!


第10話「真夏日の犬と猫とフンコロガシ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

長月の長雨はなかなかやまない。

雨の中わざわざ「城(キャッスル)」にやってきた舞は、「迷惑だ」と言いながらも笑いながらたまきの右手首に包帯を巻き始めた。

「ごめんなさい」

というたまきの伏し目がちな謝罪に対して舞は、

「お前が遠慮してあたしを呼ばずに自分で処置して、傷口を化膿させる方がもっと迷惑だから、切ったら必ずあたしを呼べ」

と、笑いながら返す。

「おどろいたよ~。トイレ開けたら、たまきちゃんの手首から血が流れててさ、たまきちゃんがそれ、じっと見てるんだもん」

志保はそういうとソファに深く沈み込み、本を読み始めた。お菓子の作り方に特化した本だ。

「いつぶりだっけ、リスカするの」

舞が、包帯がほどけないようにたまきの手首にしっかりと固定しながら尋ねた。

「……八月の半ばです」

「その前は?」

「……七月の終わりごろ……」

「お前が勝手に一人で処置したやつな。やっぱり、二週間に一回くらいか」

たまきは無言でうなづいた。二週間に一回、無性に死にたくなる時がある。別になにか嫌なことが二週間ごとにやってくるわけではなく、普段の生活の中でため込んだ毒素が限界になるのが、二週間という期間なのだとたまきは解釈している。

「志保、お前はどれくらい経つ?」

急に話を振られて、志保が驚いたような顔をして舞の方を見た。

「え? な、なんの話ですか?」

「クスリやめてからどのくらい経つかって聞いてるんだ」

「……一か月ちょっとですね。自己ベスト更新中です」

「……ほんとに使ってないんだろうな」

その言葉に、志保はさみしそうに下を向いた。

「……あたしのこと、信じてないんですか」

「人としては信じてるし、信じたい」

舞はたまきから手を放し、志保の方に向き合って、言葉をつづけた。

「だが、医者としては信じていない。残念ながらな」

「……ですよね」

志保は視線をとしたまま、左手で右の腕をさすった。

そこに、

「とう!」

という掛け声とともに、亜美が勢いよくドアを開けて帰ってきた。

「たっだいま~! あれ、先生、来てるんだ。さてはたまき、また切ったな?」

たまきが申し訳なさそうにうなづく。

「亜美、お前どこ行ってたんだ?」

「え? 隣町の理髪店」

亜美の答えにたまきは首をかしげたが、舞は

「理髪店? お前もそんなとこ行くんだな、つーか、そんな言葉知ってるんだな」

と言いながら、救急セットをカバンの中にしまった。

「志保~、晩飯は?」

「先生がせっかく来たから、一緒に外で食べないかって」

「マジで? おごり?」

亜美が目を輝かす。一方、たまきは憂鬱そうに体育座りをしている。極力外に出たくないのだ。

「あたしのおごりだ」

勝ち誇るような笑みの舞に向かって亜美は、

「ゴチになります!」

と、勢い良く頭を下げた。

 

写真はイメージです

東京の街並みは遠くから見るとまるでお城みたいだ、と言ったのはいったい誰だっただろうか。城郭のような高層ビルと城壁のような雑居ビルの群れの中に、中庭のように歓楽街が広がっている。

その中の太田ビルというビルの5階にある「城」という潰れたキャバクラに亜美、志保、たまきの三人は住み着いている。不法占拠というやつだ。

一階からコンビニ、ラーメン屋、雀荘、ビデオ屋、そして「城」と積みあがっている。上に行くごとにいかがわしさが増し、3階の雀荘にはガラの悪い人たちが出入りしている。4階のビデオ屋にいたっては、店長が金髪のパンチパーマにサングラスという強面だ。

そんなわけで、まともな人間ならば5階まで昇ろうなどとは思わない。5階まで、ましてや屋上に上る人など、よほど宿に困っているか、お金に困っているか、何が困っているかもわからず死のうとしている人くらいだ。

しとしとと続く雨音の中、コンクリート製の階段を下りて、4人が階下のラーメン屋へと向かう。一列に並ぶ姿は、なんだか某ファンタジーゲームみたいだ。

「へいらっしゃーい!」

自動ドアをくぐると、野菜を炒める音を暖簾のようにくぐった野太い声と甲高い声の大合唱。店内は凸の字型にカウンター席が伸び、奥にはテーブル席が三つほど。夕飯時だが、それほど混んでない。

4人は入口で食券を買うと、カウンターに座った。亜美、志保、そして舞は食券をカウンターの一段高くなったところに置き、それを見てたまきはそっと食券を同じところに置いた。

「いらっしゃい」

カウンターの向こうから顔を出し、ニッと笑顔を見せたミチに最初に気付いたのは亜美だった。

「は?」

続いて志保が

「あれ?」

舞が

「ん?」

最後にたまきが

「あ」

と声を上げた。

「何やってんだお前、こんなところで」

舞の問いかけにミチは笑顔で

「バイトっす」と返す。

そういえば、バイト始まったって言ってたし、飲食店っぽいことも言ってたなぁ、とたまきはぼんやりと考えた。

「なんでこのビルなんだよ」

亜美が半ばあきれたように質問した。

「いや、先輩がこの上のビデオ屋で働いてて、よくこの店連れてってもらってたんすよ。そしたらバイト募集って書いてあっから、応募してみたらすんなり通っちゃって」

ミチがにやにや笑いながら答えた。

たまきは背筋がぞわぞわするのを感じた。自分の生活圏に苦手な男子が入ってくると、なんだか背中がぞわぞわしてたまらない。

ミチはたまきの方に近づくと、

「びっくりした?」

と聞いてきた。たまきは、

「……あんまり」

と返す。

「っていうかたまきちゃん、ミニチャーハンでいいの!?」

とたまきの食券を見てミチがびっくりしたような声を出した。たまきは無言でこくりとうなづいた。

「ハイ、とんこつ醤油、とんこつ醤油大、レバニラ炒め、ミニチャーハン、ギョウザ一丁!」

厨房の奥からほーいと野太い声が聞こえ、ミチも厨房の奥へと向かっていた。あとに残るはなにかを炒める音ばかり。

たまきがぼうっとしていると、亜美が隣のたまきを肘で突っつく。

「あれじゃね? ミチ、お前のことおっかけてここでバイトしてるんじゃないの? あいつ、地味な女が好みだって言ってたぜ?」

にやける亜美の言葉を、たまきはかぶりを振って否定した。

「ないです。ミチ君、バイト先に好きな人いるって言ってました」

そういってからたまきは気づいた。バイト先って、ここじゃないか。

じゃあ、ここにいるのかなと思ったの同時に、たまきの背後からするりと手が伸びてきた。

「お待たせいたしました。ミニチャーハンととんこつ醤油大です」

女性の声に、たまきは声のした方を見る。

二十歳ぐらいだろうか。茶色く柔らかそうな髪を後ろでまとめている。かわいらしい顔立ちはいかにもモテそうだ。

「みっくん」

女性が声をかけると、ミチが厨房の奥から顔を出した。

「休憩入っていいよ」

「はい」

ミチがこれまで見せたこともないくらい顔をほころばせているのがたまきの目に映った。

 

四人が店を出ると、廊下の角でたばこを吸っていたミチが、あわててタバコを傍らのバケツに放り込んだ。灰交じりの黒い水の中にタバコがひとひらポトリと落ちる。ミチは舞の顔を見て、ばつの悪そうに笑った。

「ん~、べつに未成年だからって止めやしないぞ、ミチ。お前の寿命が減るだけだからな」

舞が皮肉めいた笑顔を見せる。

「ねえねえ、ところでさぁ」

と志保が妙ににやにやしながらミチの方に近づいた。

「ミチ君が好きな女の人って、さっきの店員さん?」

「ちょ! 誰から聞いたんすか!」

志保がクルリとたまきの方を振り向き、たまきが申し訳なさそうに下を向く。

「なかなかかわいい人じゃん」

「まあ、お前には高嶺の花だな」

意地悪そうに笑う舞に対し、ミチは

「実はですねぇ……」

と含み笑いで切り出した。

「え? まさか、もう付き合ってるとか?」

「なに? ヤッたの?」

亜美まで身を乗り出してくる。

「いや、そういうわけではないんすけど……」

ミチのその回答に亜美は

「なんだ」

とつまらなそうに背負向けたが、志保は

「なになに? そういうわけではないってどういう関係?」

と目を輝かせてミチに迫る。

「……2回くらいデートしてるっていうか……、今週末も約束してるっていうか……、キスしたっていうか……」

「え―!! なにそれ! つきあってんじゃん!」

志保が、雨粒がはじけ飛ぶんじゃないかというほどの大声を出す。

「いや、ちゃんと、付き合ってくださいとか言ったわけではないんすけど……」

「いやいや、つきあってんじゃん、それ!」

「……やっぱそうなんすかね」

「ガキっぽい顔しといて、やることやってんな」

舞が感心したように言う。

「えー、カノジョ、名前なんて言うの? 学生?」

「海乃(うみの)さんって言います。二十歳の専門学校生っす」

「二十歳? 年上じゃん! 年上カノジョじゃん!」

「ええ、まあ……」

ミチは困ったように笑っているが、本当に困っているわけではないようだ。店の白い外壁に、ミチの薄い影が儚く揺れる。

「えー! よかったじゃん! おめでとう!」

「あ、ありがとうッす。あ、デートの写真見ます?」

「えー! みたいみたい!」

「おっ、カノジョ、なかなかかわいいじゃん」

「先生もそう思うッすか?」

そんなやり取りを見ていたたまきだったが、盛り上がる輪の横をすり抜けると、階段を上っていった。

なんで志保がミチにカノジョができたという話を、あんなに喜べるのかがよくわからない。

ああいう他人の幸せを素直に祝福できる人っていうのは、余裕がある人なんだろう。今現在、志保にカレシはいないはずだが、たぶん、志保はその気になればカレシを作れるのだと思う。その余裕があるから、あんなに素直に他人の祝福が祝えるのだ。

なんだかんだ言って、志保はあっち側の人間なんだと思うと、階段の蛍光灯の灯りよりも、外の暗さの方がより一層強く、ミチや志保の弾んだ声よりも長雨の雨音の方がより一層大きく感じられた。

誰が誰と付き合うとか、たまきには関係ないし、どうでもいい話だ。

 

写真はイメージです

「城」のドアに手を書けてガチャリとドアを開ける。右手首の新しい傷がねじれて、また痛む。

鍵は亜美が持っていたはずだから、亜美は先に戻っているらしい。

「城」の中は明かりがついていて、亜美が冷蔵庫の中からビールを出して飲んでいる。亜美の「客」が手土産に持ってくるのだ。

「・・・・・・ただいまです」

たまきは力なくそう言うと、亜美から少し離れたソファに腰を下ろした。

「下、まだ騒いでんの?」

「はい」

二人は特に目を合わせることなく会話をしている。

「よく盛り上がれるよな、志保のやつ。他人のコイバナでさ」

「……亜美さんって、私のことはあれこれずかずか聞いてくるくせに、ミチ君のカノジョさんの話は、興味ないんですね」

「え? だって、あれくらいの男子が付き合うって、フツーじゃん。興味ないし。ヤッたってんなら、また別だけど」

私にとってはその「ふつう」がどれほど手を伸ばそうとも届かないものなのに……。

たまきは下を向きながら考え、ふと気づいた。

そうか。私は普通じゃないから、亜美さんは面白がって私のことをずかずかと聞いてくるんだ。

私が普通じゃないから……。

「何やってた? 下」

「……なんか、ミチ君のデートの写真見てました」

「ナニソレ?」

亜美が半ばあきれたように笑う。

「ヒトのノロケ写真見て何が楽しいの?」

「・・・・・・さあ。『幸せのおすそ分け』じゃないですか?」

「ナニソレ?」

亜美がいよいよあきれ返ったような顔をする。

「そーいや、中学のダチでウザい奴いたなぁ」

エアコンの音がせせらぎのように静かに流れる。その音を背景に亜美は話し出す。

「カレシの話ばっかする奴がいてさ、それこそ、『幸せのおすそ分け』つって。『カレシさえいればもう、何もいらない!』とかほざくんよ」

部屋の中をエアコンの音がノイジーに流れる。

「だからウチ、そいつに『なんもいらないんだったら、財布の中身全部よこせ』つったらよ、そいつ固まって、なんか言いわけ始めてやんの」

「……カツアゲじゃないですか」

今度はたまきが呆れたような顔をする番だった。

「はぁ? 先に『なんもいらない』っつったの、向こうだぞ? いらないんだったらウチが欲しいからよこせっつっただけだぜ?」

亜美はテーブルの上に足を投げ出しながら、半笑いで語気を強める。

「な~にが幸せのすそわけだよ。『すそ』ってズボンの余ったところだろ? すそなんかいらねぇんだよ。現ナマよこせっつーの」

亜美は缶ビールをあおる。

「結局、だれも幸せなんて、他人にはビタ一文渡す気なんてねぇんだよ」

空っぽになったアルミ缶をべこっと潰すと、亜美はテーブルの上に置いた。ふと、そこに置かれたチラシに目が行く。

「……なにこれ」

そこには「東京大収穫祭」と書かれていた。

「なんか、志保さんがそこでクレープ屋やるみたいです」

「クレープ屋? なんで?」

「施設の人たちと一緒にやるそうですよ」

「へ~」

亜美は興味深そうにチラシを眺めている。

「お、ライブステージとかあるじゃん。面白そ~」

「ミチ君のバンドも出るみたいですよ」

「なんだよ。みんな出るじゃん。ウチらもなんかやろうか」

「……何やるんですか」

たまきがソファの上で体育座りをしながら尋ねた。

「お笑いオンステージってのあるぞ。二人でコンビ組んで出ようぜ」

「……嫌です」

「……ツッコミ弱ぇなぁ」

 

写真はイメージです

「あ~、むずかしい~」

トクラがおたまを片手に苛立ちを見せる。

教会の中の小さなキッチンで、志保は数人の人たちとともに、クレープを作る練習をしていた。リーダーのトクラがホットプレートの上のとろりとした生地をおたまで広げるが、なかなかきれいな円形にならない。おまけに、生地の厚さにどうしてもムラができてしまう。

「クレープ屋とか、どうやってるんだろ?」

トクラが長い黒髪をかき分けながらつぶやく。

「なんか、ヘラ使ってるみたいですよ?」

トクラのつぶやきに志保が答える。

「ヘラ?」

「なんか、竹とんぼみたいなの」

「竹とんぼ?」

トクラがホットプレートを覗き込みながら首をかしげた。

「あ~、イライラする」

ホットプレートの上には、いびつなクレープのなりそこないが置かれたまま、キツネ色の焦げ目を作っていた。

 

「トクラさんって、美人だよね~」

二十歳ぐらいの女の子がつぶやく。確か、彼女はギャンブル依存症だと言っていた。

噂のトクラ本人は、トイレに行っている。

すると、中年のおじさんが口を開いた。

「トクラさんのお母さんは女優さんだって聞いたことあるよ」

「女優さん? 誰ですか?」

志保が訪ねた。「トクラ」なんて女優、聞いたことない。

「あくまでもそういう噂。お母さんっていうのも、大物女優らしいけど、普段は芸名で活動しているらしいよ」

「ふ~ん」

「にしても、トクラさん、遅いなぁ。もう一回練習したいのに」

おじさんがトイレの方をちらりと見る。水の流れる音がして、トイレからトクラが出てきた。

「よーし! もう一回、練習やろうよ!」

「トクラさん、みんなと話してたんですけど、専用の道具を買ってきた方がいいのかなってなって、あたし、帰りにちょっとデパート行ってみようかなって……」

志保の申し出をトクラは大声で遮った。

「だいじょーぶだいじょーぶ! ねー、生地、どこどこ?」

「生地はそこにあまりが……」

志保が言い終わらないうちに、トクラは生地の入ったボウルを手に取ると、泡だて器を突っ込み、勢いよくかき回しだした。

「ああ、もうかき回さなくていいんですよ! あまり、空気は入れない方が……」

志保の言葉も無視して、楽しそうにトクラは生地を泡立てる。

 

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駅までは歩いて5分くらいのところにある。施設のある教会を出た志保は、駅へと向かう道の途中、ふと、視線を感じた。

振り返ると、トクラが歩いているのが見えた。トクラも志保を見つけると、にっこりとほほ笑む。

志保は少し歩くスピードを落とした。トクラも少し歩みを速めたらしく、すぐに志保の横に並んだ。

トクラの年は三十歳前後だろうか。並び立つと、決して小柄ではない志保よりもトクラのほうが背が高い。モデルのような顔立ちで、「女優の娘」とうわさされるのも納得ができる。少なくとも、それなりの風格があるのだ。

だが、その眼にはどこかゾッとさせるものもあった。

彼女は危険ドラッグの常習者だとどこかで耳にしたことがある。……自分もあんな目をしているのだろうか。

「カンザキさんも通いなんだ」

「あ、はい」

「電車? バス?」

「電車です。4駅先の……」

志保は繁華街のある駅の名を口にした。

「へぇ。あそこ住んでるんだ。すごいとこ住んでるね」

「い、いや、それほどでも……」

家賃を払っていないものだから、何とも言えない。

「トクラさんはどこの駅ですか?」

「私はバス」

「近いんですか?」

「まぁね」

志保もはっきりと数字を覚えているわけではないが、このあたりの家賃は高そうなイメージがある。「トクラは女優の娘」という噂の信憑性がまた一つ増した。

駅へと続く大通りはバスがけたたましく地面を揺らして走るが、人通りはあまりない。志保は、トクラの目を見ることなく、ぽつりと言った。

「……トイレの中で何してたんですか?」

「……聞くんだ」

志保はトクラの顔を見ていたわけではないが、声の感じから、トクラが笑っているのはわかった。

アスファルトに二人の影がくっきりと映される。そこだけ、光も熱も拒絶しているかのようだ。

「……トクラさんは、何のために通ってるんですか?」

「真面目だねぇ、カンザキさん」

トクラが歩みを止めたのを察し、志保も足を止める。トクラの方を向くと、相手も視線を落とし、志保の目を覗き込んでいた。

「その真面目さに首を絞められないようにね。じゃ、また」

そういうと、トクラは踵を返して、軽い足取りでバス停へと向かっていた。

 

携帯電話全盛の世の中となったが、駅前やコンビニの前、公園など、公衆電話を探そうと目を凝らせばまだまだ見つかる。

歓楽街のコンビニの前にある公衆電話に、たまきは十円玉を入れた。受話器を耳に当てながら自宅の番号を押すと、パ、ポ、ポ、と音が鳴る。

全部で十個のボタンを押すと、受話器からプルルルルと呼び出し音が流れる。

たまきは電話が大嫌いだ。自分からかけるのも、かかってくるのも大嫌いだ。

呼び出し音が途切れた。誰かの息遣いが聞こえた途端に、たまきは受話器を叩きつけるように戻すと、都立公園に向けて足早に歩きだした。

 

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「東京大収穫祭」。その言葉を見聞きするのはいったい何度目だろう。

たまきは都立公園の木立の下の掲示板に貼られたチラシを見ていた。

「東京大収穫祭」と書かれたチラシは、志保が「城」に持ってきたものと同じものだった。

そういえば、ミチがイベントが行われる場所を「この公園」と言っていたような気がする。時期は十月の初めごろ。あと一カ月もすれば、この静かな公園が人で埋め尽くされてしまうのだろう。

たまきは下を向いて、とぼとぼと歩きだした。

たまきがよく訪れる公園で開かれる祭りには、志保やミチも参加する。

身近な存在となりつつある大収穫祭だったが、きっとそこに、たまきのような人間が入り込む余地はない。

そんな風に歩きながらおもむろに顔を上げたとき、再びたまきの目に「東京大収穫祭」という画数の多い6文字が飛び込んできた。

ただし、今度はチラシやポスターのような類ではない。それは上下に揺れながら、少しずつたまきから遠ざかっていく。

それは、人の背中に書かれた文字だった。濃いピンクのTシャツの背中に、白い字で例の6文字が書かれていたのだ。

書かれていた文字はそれだけではなかった。あと4文字、「実行委員」という文字が添えられていた。

同じTシャツを着た人2人が、たまきの少し前を歩いている。どういうわけか二人とも右側を見ながら、何か話している。おそらく二十歳くらいであろう女性二人だ。

「でもさ、ここは屋台とかブースとか置く予定じゃないし、べつにいいんじゃない?」

「でも、人が来た時に、あそこが目に入ったらみっともないよ」

二人の女性は林の奥の方を見つめながら何か話している。

あの林の奥には、仙人さんたちの庵があったはず……。

たまきにしては珍しく歩調を速め、女性たちとの距離を少しつめた。

「それに、あんな林の奥だったら目立たない、っていうか見つからないって」

「ダメダメ。イベントの時はああいうところが休憩場所みたいな感じになるんだってば。人目に付きにくいからって誰も来ないとは限らないんだよ」

「でも、去年の大収穫祭の時、あの掘立小屋、あったっけ?」

「……イベントの1週間前には、もうなかったよ。でも、その前の視察ではあったよ。おととしもそうだった」

「毎年、視察の時にはあるけど、本番の時にはなくなってるってこと?」

「ホームレスなりに気を使ってるんじゃない?」

右側の女性はそう言って笑った。

「どうせ毎年いなくなるなら、戻ってこなければいいのに」

もう片方の女性も大声で笑う。

「っていうか、さっきのおっさん見た? 昼間っから酒飲んでなかった?」

「サイテー。どうせどっかいくんだったらさ、酒飲んでないでとっとと出てけばいいのにね」

「っていうか、飲んでないで、働けよ」

「ほんとそれ」

そう言ってまた笑う。笑い声も話し声も、間違いなく庵まで届いているだろう。

たまきはいつしか、彼女たちの後を追うことをやめていた。立ち止まり、その後ろ姿をじっと見ている。

ことし最後かもしれないセミの鳴き声のリズムが、たまきの鼓動と同調して、響く。

笑い声は聞こえても、後ろからでは彼女たちの表情はよくわからなかった。

追いかけていって何か言い返してやりたいが、口下手なたまきにはその「なにか」にあたる言葉が思い浮かばない。

さっき見たイベントのチラシの文字が頭にちらつく。

『みんな、来てね!』

月並みな言葉が残酷に嗤う。

仙人さんは、「みんな」の中に入っていないんだ……。

なんで? 仙人さんは、ここにはいてはいけないの?

たまきはそら豆のおじさんの顔を思い出した。おじさんは仙人にあってから、笑顔が少し明るくなった。仙人にホームレスとしての生き方を教わっていると言っていた。仙人にあっていなかったら、今頃どうしていただろう。

たまきは、カバンからはみ出たスケッチブックを見た。たまきに絵をかくことの楽しさを思い出させてくれたのは、学校の誰かなんかじゃなく、ホームレスの仙人だった。

でも、きっと良識ある大人たちは、仙人がここにいてはいけないというのだろう。初めて仙人にあった時の、どしゃ降りの中でのミチの言葉がたまきの頭の中をぐるぐると廻る。

「ここおっさんたちの家じゃないじゃん。不法占拠だろ?」

……人間は、「ただ、ここにいる」、そんな当たり前のことをするのに、誰かの許可が必要らしい。

 

写真はイメージです

林の中を緑の落ち葉を踏み入って入ると、仙人をはじめとしたホームレスたちが数人いた。ベニヤ板のお化けのような庵の前に、折り畳み式のイスとテーブルを地面の上に置き、カップ酒で酒盛りをしている。

木陰の中をアルコールの幽かなにおいが漂う。

仙人はたまきを見つけると、笑いながら声をかけた。

「やあ、お嬢ちゃん」

「……こんにちは」

たまきはぺこりと頭を下げると、空いている椅子に座った。おじさんばかりのこの空間にも、少し慣れてきた。

「お嬢ちゃん、リンゴジュース飲むか?」

仙人は微笑みながらそう言うと、たまきにリンゴの絵の描かれたアルミ缶を差し出した。たまきはぺこりと頭を下げると、プルタブに親指を引っかける。

だが、何度やってもプルタブを持ち上げることなく、親指が外れてしまう。

「なんだ、開けられないのか。かしてみな」

仙人はたまきの手から感を取ると、ぷしゅっとプルタブを開けた。たまきはお礼にまた頭を下げると、両手で缶を持ち、飲み始めた。

少し飲んで缶を口から話すと、缶をテーブルに置き、たまきは視線を落とした。

「……怒らないんですか?」

「なににだい?」

「……さっきの人たちです」

この距離ならあの二人の会話は間違いなく聞こえていたはずだ。たまきは、自分の知り合いが馬鹿にされているのを聞いて、背筋から湯気のようなものが沸き立つ感覚と、胸の奥あたりが凍てつくような奇妙な感覚を同時に味わっていた。

「あの人たち、仙人さんたちのこと何も知らないのに、ホームレスだからってあんなふうにバカにして……」

だが、仙人はカップ酒をぐびっとあおると、はははと笑った。

「なぁに、百年たてば、歴史に笑われるのはあちらの方さ」

そう言って仙人はまた、はははと笑う。

「それに、『何も知らないのにバカにして』というのは少し違うぞ、お嬢ちゃん。何も知らないからバカにするんだ」

他のホームレスたちもゲラゲラ笑っている。

「絵を見せに来てくれたのかい? それは嬉しいが、お嬢ちゃんもあまりここには来ない方がいいぞ。さっきみたいな連中に、お嬢ちゃんも笑われてしまう」

仙人はハスキーな声で優しく言った。

「……笑われるのは、……慣れてます」

たまきは視線を上げることなく言った。

「仙人さんたちは……、お祭りのときはどうするんですか?」

「出ていくさ。わしらは、ここにはいてはいけないからな。毎年のことだ」

仙人はさも当り前のようにそう言った。カップ酒の最後の一滴をのどに押しやると、じっと自分のつま先を見つめるたまきの頭をぽんっと叩いた。

「なに、祭りが終わったら帰って来るさ。毎年のことだ」

それを聞いてたまきは視線を上げた。

「ただ、それもいつまで続くか、わからんけどな」

「……どういう意味ですか?」

「ここ数年、東京都がオリンピックを誘致しようとしとる。もし本当にオリンピックなんて来たら、わしらみたいなのはどこかに追いやられてしまうだろうさ。まあ、仕方あるまい。公園はみんなできれいに使うもの。その『みんな』の中に、わしらは入っていないのだからな。今から断食して、浮いたお金で都民税でも納めてみるか」

そういうと仙人はにやりと笑い、ほかのホームレスたちもゲラゲラ笑う。

 

林から出たたまきは、都庁を見上げた。ぶ厚い雲が日光を遮り、都庁に影を落としている。

いつかの亜美は都庁に向かって「バカヤロー!」と叫んでいたが、口下手なたまきには、今、自分の中でぐるぐる回っている感情に言葉を付けてあげることができない。

 

写真はイメージです

長月の夕暮はなかなかくれない。不死鳥の翼のように茜に染まった空に黄金色の雲が浮かび、一日の終わりをオーケストラのように彩っている。

亜美は煙草を片手に太田ビルの屋上へと出た。太田ビルはこの歓楽街ではひときわ古く、それでいて、ひときわ高い。東を見れば歓楽街が一望、とまではいかないがとてもよく見える。一方、西の空にはいくつものビルがそれこそ城郭のように立ち並んでいる。

ふと、柵に目をやると、小さな影が東側の策によりかかっている。

その影の正体がたまきだと気付いた時、亜美は初めてたまきとあった時のことを思い出し、汗が頬を伝り胸元へと落ちていったが、よく見るとたまきは柵に背中を預けて絵を描いているだけだと気付き、胸をなでおろした。

「ビビらせんなよ、おい。また死のうとしてるのかと……」

そう言って亜美はたまきに近づいたが、たまきがまるで睨むかのように西のビル群をじっと見据えながら、たまに視線をスケッチブックに落として絵を描いているのがわかり、亜美は何も言わずに横でそれを見ていることにした。

数分してたまきは絵を描きあげた。亜美はそれを少し離れたところから見る。

「相変わらず、お前が描くと魔王の城みたいだな」

そう言った途端、たまきは描かれた紙をスケッチブックから切り離した。たまきはプルタブも一人じゃ開けられない細い腕に力を込め、自分の描いた絵をやぶきはじめた。紙のちぎれる音が雷鳴のように亜美の鼓膜を打つ。まっすぐには破けず、途中で曲がり、結局、最後まで破ききることができなかった。

亜美はあわててたまきの正面へと回り込む。

「ごめん! ウチ、なんか余計なこと言っちゃった? いや、ウチはそういう絵、好きだよ? なんか、へヴィメタのジャケットみたいじゃん?」

亜美の言葉に、たまきはまるで、たった今亜美に気付いたように大きく目を見開いた。

「え? な、何の話ですか?」

「いや、ウチ、余計なこと言ったのかなって」

「え? 何か言いました?」

二人とも、夕焼け雲のように顔を赤くしている。

「だって、せっかく描いた絵を破ってさ、ウチの言ったことが気に入らなかったのかなって」

「え? いや、これは、その……」

たまきが恥ずかしそうに視線を落とす。

「この絵は……、最初から……、やぶくつもりで描いたんです……」

「え? なんで?」

下を向くたまきの顔を覗き込むように、亜美がたまきを見る。たまきは答えない。

「意味わかんない。ねえねえ、なんで最初っからやぶくつもりで、絵なんか描いたの?」

たまきはやぶれていびつな形になった紙を見つめた。描かれている都庁、らしき建物は引き裂かれ、たれ込めている。

「……私、口下手なんで」

そういうとたまきは、紙を手に、口を堅く結んで、搭屋へと入っていった。

つづく


次回 第12話「夕焼けスクランブル」

次回、トクラが志保を、ミチがたまきを、かき乱す!

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第10話「真夏日の犬と猫とフンコロガシ」

仙人に出会って少しずつ、自分の絵に対する考え方が変わってきたたまき。絵を描くことが好きだったことを思い出し、暗い絵しか描けないのではなく、自分の感情がそのまま絵に反映されることを知った。しかし、同じ日に仙人に出会い、歌を酷評されたミチはあれ以来公園に姿を見せていない……。

「あしなれ」第10話、スタート!


第9話「憂鬱のち誕生日」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「だから……自販機が怖いんです……」

その男性はうつむきながら言った。志保(しほ)はその男性の右目の下のほくろをじっと見ていた。

部屋の中には十数個の椅子が丸く並べられて、様々な年代の人が座っている。志保はその中でも一番若かった。男性は四十代くらいだろうか。

「自販機が目に入ると、もう条件反射というか……、お酒のことを思い浮かべてしまうんです。スーパーとかはアウトですね……。お酒を買わないように財布は妻が持っていたのですが、どうしても欲しくなって、抑えられなくて……」

男性はそこで言葉を切った。志保にはその続きがわかるような気がした。

「……お酒を万引きしてしまったんです」

志保は一瞬、男性から目をそらしたが、すぐに視線を戻した。

「……お店ではばれなかったんですが……、買ったお酒を何気なく冷蔵庫に入れてしまって……、妻にばれてしまったんです。私が依存症ってわかってから、絶対お酒を買わないようにしていたんで、うちにお酒があること自体がおかしいってことでばれて……、妻に泣きながら責められて……」

志保は右腕をさすりながら、自分の母親のことを思い出した。

男性は話を切るとうつむいて、何も言わなくなった。嗚咽が漏れてくることから察すると、どうやら泣いているようだ。

シスターが男性のそばに立つと、優しく背中をさすった。シスターが何かを囁きかけ、男性が泣きながらうなづく。

誰かがぱちぱちと手をたたいた。それにつられて他の人も拍手を始める。

別に、男性の話が特段素晴らしい内容だったわけではない。話が終わったら拍手をする決まりだ。内容ではなく、自分と向き合うことができたことが素晴らしいのだ。

「よく話してくれました。さて、ほかに話してくれる方はいらっしゃる?」

 

都心から少し離れた住宅街にその教会はある。依存症患者たちのためのリハビリ施設が教会に併設する形で、多くの依存症患者を受け入れている。

多くの依存症患者はここに入所している。「入所」と言っても教会や施設で暮らしているわけではなく、近くにシェアハウスを作り、そこで共同生活している。

ただ、中には通院という形をとっている患者もいる。そのためには医師のお墨付きが必要だ。

志保は京野(きょうの)舞(まい)という医師の管理のもと、自宅から通院しているということになっている。自宅には姉と妹がいて、親の代わりに舞が保護者代わりという「設定」だ。

実際はだいぶ違う。志保は今「自宅」に住んではいないし、志保に兄弟姉妹はいない。

「城(キャッスル)」という潰れたキャバクラで不法占拠しているなんて知れたら、速攻で強制入所だろう。

本当の住所なんて教えるわけにはいかないから(そもそも「城」の住所なんて知らない)、施設には舞の住所と連絡先を、志保の住所・連絡先として教えている。舞は「まったく、あたしにも危ない橋渡らせやがって」と笑いながら言っていた。

 

「どなたか、ほかに話しても構わないという人は?」

シスターの問いかけに、志保はゆっくりと手を挙げた。

シスターは志保を見ると、にっこりとほほ笑んだ。

「神崎さん、よく手を挙げてくれました。では、お願いします」

志保はホワイトボードを見やった。そこには今日のテーマである、「依存症と戦うことの難しさ」が青いマジックで書いてあった。

志保は、一度大きく深呼吸をした。

「あたしは、一年ほど前からドラッグを使うようになりました……。……覚せい剤です。最初はやめる気なんてなかった……。でも、学年が上がって成績も体重も一気に落ちて、付き合っていた彼とも別れて、……クスリをやめたいって思いました」

そこで志保は一息ついた。

「でも、『やめたい』と『やめよう』は違うんですよね。『やめたい』て思っているうちはやめられない……。むしろ、彼を失って、どんどんクスリにのめりこんでいったんです……」

そこから志保はしばし沈黙した。「設定」上言っていいことと言わない方がいいことを選別していたのもあったが、「言いたくないこと」「思い出したくないこと」を思い出して戸惑っていたのもあった。

再び呼吸を整え、志保はしゃべりだした。

「初めてやめようって思ったのは……、今お世話になっているお医者さんに出会ってです。その人に、病気だから治せるって教えてもらって……、それまではずっと自分を責めてばっかで……」

そこでまた志保は黙った。ここから先は言いたくなかった。

でも、ここは言いたくないことを打ち明ける場だ。何もかも「言いたくない」では、きっと自分は変われない。

……変わらなければいけないのかな。

そんな思いが一瞬、志保の頭をよぎった。

「次にやめようって思ったのは……、ここに来る少し前でした……」

志保は、つばを飲み込んだ。

「あたし、クスリ欲しさに……、財布を盗んじゃたんです……。それも、最初あたしの……友達が疑われて……」

志保は震え声で続けた。

「でも、その友達はあたしのこと許してくれたんです……。こんなあたしのそばにいたいって言ってくれて……。もう一人の友達も、警察沙汰にならないように被害者の人のところにいっしょに謝りに言ってくれて……」

そこで志保はその時起こったすったもんだを思い出して、笑い出しそうになった。少しだけ気が楽になった。

志保は顔を上げると、1人1人の目を見ながら言った。

「この二人や、面倒を見てくれてる先生を裏切らないためにも、今度こそやめようて思っています。『やめたい』ではなく、『やめよう』って思ってます」

にこやかなシスターの笑顔が目に入った。

「……ただ」

そう言って、志保は再びうつむいた。

「毎日毎日、思うんです。どうせ自分は、また裏切っちゃうんじゃないかって。今は大丈夫でも、明日になったら裏切っちゃうんじゃないかって。それが怖いです……」

最後に、志保は震える声でこう言った。

「明日が来るのが……怖いです……」

志保は目線を上げることなく、軽く会釈をして話を終えた。ぱちぱちという拍手がやけに耳障りに聞こえた。

 

ミーティングが終わり、昼食に入る前にシスターから話があった。

「十月の初めに都立公園で『東京大収穫祭』というイベントが開催されます。もう六回目で、毎年行われているから知っている人もいらっしゃるかもしれませんね。この施設では毎年、依存症への理解を社会に対して啓発する意味で、また、皆さんの社会復帰支援も兼ねて、屋台を出店しています。もちろん、強制ではないので、参加したい方だけで構いません。参加したい人は私に申し出てください。来週の火曜日には、どんなお店を出すのかといた会合を始めたいと思います」

そう言えば、志保が通っていた学校もそろそろ文化祭の季節だった。

出たかったな、文化祭。

みんな、どうしてるんだろ。学校からいなくなったあたしを、どう思ってるんだろ。

そこで志保は思考を切り替える。

マイナスなことを考えると、また、クスリが欲しくなる。

あの事件以来、もうひと月ほど、クスリを使っていない。それが施設に通っているからなのか、「城」でともに暮らすあの二人の影響なのかはわからないが、少なくとも今までで最高記録だ。

やればできる。志保は自分にそう言い聞かせると、思考を切り替えた。

東京大収穫祭には中学校の時、当時の彼氏と一緒に出掛けた。「食べ物に感謝を」をコンセプトに、いろんな屋台が立ち並び、ステージではバンド演奏やお笑いライブなどが行われていた。

屋台もいずれも近くの学校だったり、団体だったりが出店していて、ステージ出演者もアマチュアバンドや駆け出しのお笑い芸人など、予算が少なさを逆手に取った手作り感のウリのイベントだった。

何かやらないときっと変われない、という思いと、もともとイベント好きという性格から、志保はこのイベントに携わるチャンスがあるならば、ぜひやってみたいと思った。

 

写真はイメージです

テレビから聞こえる「ポーン」という正午の時報の音でたまきは目を覚ました。別にずっと眠っていたわけではない。朝、志保が出かけるタイミングで目を覚まし、おやつを少し口にした後また眠ってしまった。

ぼんやりとした頭で、テーブルの上に置かれたメガネを探す。黒縁のメガネをかけても、視界がまだぼやけている。

ぼうっと人の顔が見えた。

次第に輪郭や目鼻立ちがはっきり見えてくる。同居人の亜美だ。満面の笑顔だ。それにしても、色彩が感じられず、白黒に映って見えるのはどういうことか。

それが自分が描いて亜美にプレゼントした絵だとわかり、さらに、それが額縁、というよりはフレームに入れられ、壁に突き刺さった画鋲につるされているのだと分かった時、たまきは仰天のあまり叫び声を上げた。

きゃー!というたまきの叫び声を聞いて、衣裳部屋から亜美が飛び出してきた。

「どうした、たまき! チカンか?」

「な、な、なんであの絵、飾ってあるんですか!」

いつになく慌てふためいたたまきが、顔を真っ赤にしている。眠気はすっかり覚めたようだ。

「ん? ああ、せっかく描いてもらったから、さっき雑貨屋で額縁買ってきたんだよ」

そう言うと、志保は満足げに飾られた絵を眺める。

「キャバクラの指名ナンバーワンみたいで、いいだろ」

「……外してください」

「なんで?」

うつむくたまきを亜美がわけわからんという目で見下ろす。

「だって、ここ、亜美さんの、その……、お客さんとか、友達とか、たくさん来るじゃないですか」

「……で?」

「……いろんな人に見られるじゃないですか……」

「いいじゃん。せっかく描いたんだから、いろんな奴に見せないと」

「……いやです」

たまきは消え入りそうな声を絞り出した。

「なんだよ。なに、おしっこ漏らしたみたいな顔してるんだよ」

「……漏らしてません」

「いや、そういう顔してるって」

亜美はどこかたまきの反応を楽しむように笑っている。

「なに? もしかして、たまき、自分が絵が下手だって思ってる? 大丈夫だって。たまきの絵はプロ並みだって」

何を持ってプロ並みなのか。亜美の適当な言葉をたまきは聞き流した。画力の問題じゃないのだ。

亜美がここに呼ぶ連中はチャラかったり強面だったりの男性ばっかりだ。そんな人たちが寄ってたかってたまきの絵をじろじろ見る。考えただけでも耐えられない。

「……上手い下手の問題じゃないんです。外してください」

「なんで? いいじゃん。ウチの顔描いた絵だよ? 描かれたウチがいいって言ってるんだから、いいじゃん」

「描いた私はいやなんです」

「でも、あの絵、ウチにくれたんだろ? 所有者のウチはあの絵見せたいんだから、いいじゃん」

「でも、描いた私が嫌なんです」

「知らねーよ、描いたやつのことなんか。ウチが持ってる、ウチの顔描いてある、ウチの絵だもん。ウチに決定権があるに決まってんじゃん」

そうなのかな、とたまきは思ったが、もう言い争うのも疲れてきた。たまきはソファの上にころりと転がる。

亜美は満足げに飾られた絵を眺めている。

「ゆくゆくはさ、ここに3人の似顔絵、飾ろうぜ」

「え?」

たまきの上半身が驚いたように跳ね上がった。拍子にメガネが少しずれて、たまきは左手でそれを直した。

「3にんの・・・・・・ですか?」

「そうそう。3人の似顔絵をここにならべんの」

「……亜美さんって、そういうの好きですよね」

たまきはドアにぶら下がるネームプレートを見ながらいった。

「……でも、その似顔絵って、誰が描くんですか?」

「お前に決まってんだろ?」

亜美は何をわかりきったことをとでも言いたげにたまきを見た。

「……いやです」

「なんで?」

亜美が首をかしげる。

「ああ、志保、髪型にウェイブかかってるもんな。やっぱ、描くの難しい?」

「……志保さんを描くのは……、嫌ではないです」

たまきはうつむきがちに返した。

「じゃあ、何が嫌なの?」

たまきは答えない。

亜美は、たまきにぐいと顔を近づけた。たまきは後ずさろうとするが、壁に当たってこれ以上バックできない。両手で壁どんされているため、左右にも逃れられない。

「はは~ん、お前の考えていること、大体わかってきたぞ」

亜美に至近距離で見つめられ、たまきは視線を落とす。

「お前、自分の顔、描きたくないんだろ」

たまきは静かにうなづいた。それを見届けると、亜美は満足げにたまきを壁どんから解放した。

「大丈夫だって。お前、まあまあかわいいから。ああ、でも、もっと自然に笑えるようにならないとダメだな」

「……そういう問題じゃないんです」

たまきは静かにかぶりを振った。

「じゃあ、何が嫌なの?」

「……なにがと言われても……、とにかく嫌です」

「気のせいだって。いいじゃん。描こうよ」

「……いやです」

「いいじゃんいいじゃん」

「……いやです」

「え~、べつにいい……」

「絶対に嫌!!」

いつになく声を張り上げるたまきに、亜美が驚いたように目を見開く。たまきの方は、泣きそうな目で亜美を睨んでいたが、やがて我に返ったのか、自信なさげに視線を落とした。

「……絶対に、嫌です」

「……わかったよ」

亜美は、たまきの肩にポンと手を置くと、ドアの方へと向かって行った。

「じゃあ、ウチ、隣町の美容院に行ってくるから」

「あれ? ついこの前も隣町の美容院に行ってませんでしたっけ?」

「……そうだったな。じゃあ、どうしよう、隣町の床屋いってくる」

首をかしげるたまきを残して、亜美はどこかへ出かけていった。

 

「あ、あの、シスター」

ミーティングが終わり、志保はシスターに声をかけた。シスターは微笑みながら振り向く。

この微笑みが、なんか暖かく、なんか苦手だ。

「どうなさったの、神崎さん」

シスターの上品でよく通る声が、志保の鼓膜を震わせる。

「あの、あたし、大収穫祭、やります」

シスターは静かにほほ笑んだ。

「やってくださるの? 神崎さん、ありがとう」

シスターは後ろを振り向いた。

「トクラさん」

シスターの声に、廊下で談笑していた女性が振り返った。年は三十歳ほど。確か、彼女も薬物依存だったはずだ。いわゆる脱法ドラッグに手を出したと言っていた気がする。

「神崎さんも手伝ってくれるそうよ」

トクラは志保に向かってほほ笑むと、軽く会釈した。志保も、会釈を返した。

 

写真はイメージです

足、足、足。たまきの視界に足ばっかり映って見えるのは、たまきがうつむきながら歩いているからだろう。

「城」から都立公園までの道のりで、たまきは風景よりも地面の模様やマンホールの形の方がよく覚えている。

駅から都立公園の方に向かうにつれ、視界に見える足の数は減ってくる。

うつむき加減でスカートのすそを掴み、とぼとぼとたまきは都立公園に入っていった。

いつもの階段を見下ろすが、誰もいない。

たまきは肩から掛けたカバンをしっかりと胸の前で抱きとめると、とぼとぼと公園を一周した。

演劇の練習をする集団。水彩画を描く老人。コーヒーを飲んで仕事をさぼってるスーツの男性。照りつける日差しの中、いろいろな人が都立公園で思い思いの時間を過ごす。

たまきはまた、元の階段に戻ってきた。階段の中ほどまで下ると踊り場の木陰に腰を下ろす。スケッチブックを取り出すと、いつものように都庁の絵を描き始めた。

蝉の声がやかましい。

絵を描き始めて十五分ほどだろうか。たまきは自分の左横に気配を感じた。

「となり、いい?」

聞き覚えのある声にたまきは勢いよく振り向いた。

「となり、いい?」

そこにはミチの屈託のない笑顔があった。

たまきは無言でうなづいた。

ミチはたまきのすぐ左隣に腰を下ろした。即座に、たまきの腰が右にスライドし、二人の間には、人が一人通れそうなスペースが空く。

それを見てミチは笑うと、担いでいた黒いギターケースをおろした。太陽光を十分に吸ったケースに触れて、「あっつ!」と声を上げる。

ミチはギターを取り出し、チューニングをし始めた。

蝉の声も、なんだか最初の一音を待ちわびているようだ。

「それでは聴いてください。ミチで、『未来』」

まるでラジオのような、誰に聞かせるでもない曲紹介をしたあと、ミチはギターを奏でて歌い始めた。

「未来」。二週間くらい前にミチがホームレスたちの前で歌い、「仙人」に酷評された曲だ。それ以来、ミチはこの公園に姿を見せなかった。

それから約二週間、たまきは2~3日に一回、この公園を訪れた。何枚も何枚も絵を描いた。まるで、自分が絵を描くことが楽しい、絵を描くことが好きだというのを確かめるかのように。

一方で、公園に来るたびに言いようのない不安に襲われ、たまきはため息をついていた。

公園に来るたびに園内をぐるりと一周する。殺意のこもった日差しに照らされ、汗がたまきの頬を伝い、ハンカチでそれをぬぐう。

結局、たまきの不安は晴れることなく、たまきはいつもの階段に戻ってくる。踊り場に腰を下ろすと、なぜだかため息が出てきた。そんなことを二週間続けていた。

 

写真はイメージです

ミチのギターがストロークを奏でると、不思議とたまきの中の言いようのない不安が晴れていることに彼女は気づいた。あるのはいつも通り、「できれば死にたい」という思いと、絵を描くことへの楽しさと、言いようのない安心感である。

ミチのややハスキーなハイトーンが二週間ぶりに、階段の熱せられた空気を震わせている。

――僕の歩く今が未来になる

――夢もいつか「今」に変わる

――明日を変えなければいけないんだ

――未来が僕を待っている

ミチは「未来」を歌い終わると、「ありがとうございました」とだれに言うでもなく口にした。

ミチの歌が終わり、一瞬の静寂が訪れたが、すぐに蝉の声がそれを引き裂く。

蝉のスキャットの合間を縫うように、たまきがポツリとつぶやいた。

「……もう、来ないのかと思ってました」

「え?」

ミチの虚を突かれたかのような返事に、いったい自分は何を言ってるのかとたまきはそっぽを向いた。

「ああ、この前、俺が歌をボロカスに言われたこと?」

ミチは屈託のない笑顔を見せながらいった。

「それで俺がここ来なくなったって思ったんだ」

「だって……、この前、『死にたくなった』って……」

たまき自身、その言葉を本気にしていたわけではないが、この二週間、公園に来るたびにその言葉が頭をよぎった。

「死なねぇよ。『死にたくなった』とは言ったけど、『死のう』なんて言ってねぇし」

ミチはケラケラと笑いながらいった。

「あれ、もしかして、俺がショック受けて引きこもってるとでも思ってた? そんなだせぇことしねぇって」

引きこもり=ダサいという図式は少しショックだったが、たまきは珍しくミチの目を見て話を聞いていた。

「ちょうど、バイトが始まったんだよ。それで、仕事覚えなきゃでしばらく忙しくてさ。すっげぇ、疲れるし。ここに来る余裕なくて」

「そうですか」

たまきはもう興味がないかのように、スケッチブックに視線を戻した。

「なんのバイトか知りたい?」

「別にどうでもいいです」

「まだ教えらんないなぁ。知ったら、ぜってぇびっくりするから」

前にもそんなことを言っていたような気がする。

「ほんと、超大変でさぁ。立ちっぱなしだし、厨房熱いし、メニュー覚えんの大変だし」

何のバイトかは教えてくれないが、飲食店で間違いないようだ。

「でもさ、でもさ」

ミチはやけに嬉しそうにたまきに話しかけた。

「そのバイト先の先輩がさ、めっちゃかわいいんだよ!」

「へえ」

たまきが気のない声を上げる。

「超優しいんだ。『ミチ君、わからないことがあったら、なんでも聞いてね』って」

それは、バイトの先輩として、当たり前のことではないだろうか。そう思いつつもたまきは、自分がその当たり前のことをできる自信がなかった。「わからないことがあっても、絶対話しかけないでください」って言ってしまいそうだ。いや、それすら口にせずに、相手から逃げ回るかも、

そういえば、以前ミチは「地味な子が好み」と言っていた。その「先輩」も地味な人なのだろうか。まあ、どうでもいい話だ。

「ほんともう、厨房の天使って感じ。まあ、その人、厨房入んないんだけどさ」

たまきがぼんやりと考えている間にも、ミチはずっとその「厨房の天使」の先輩の話をしていたらしい。

「芸能人で言うとさぁ……」

と誰かの名前を引き合いに出されたが、たまきはその芸能人の名前を知らなかった。

「ほんと、先輩の笑顔見てるだけで、バイトの疲れ吹き飛ぶよ」

「疲れてないのなら、公園に来ればよかったじゃないですか」

言ってしまってから、たまきはばつの悪そうに顔をそむけた。自分だって、特に疲れてるわけでもないのに、学校に行かなかったくせに。

いや、疲れていたのかもしれない。中学の制服は鎧のように重く感じられたし、教室の扉は鋼鉄のように感じられた。

いざ、教室に入ると、毒ガスでも充満してるんじゃないかと思うくらい息苦しかった。

ふと、ミチが喋るのをやめていることにたまきは気づいた。ゆっくりと顔をミチの方に向けてみる。

ミチは視線を落とし、自分のギターを見つめていた。

「……結局、逃げてたのかもな……」

蝉の喧騒の中に、ミチはそう、ポツリと言葉を置いた。

その言葉にたまきは返事をするでもなく、ミチの方を見続けた。

「バイトはいつも夜からで……、昼間、うちでゴロゴロしてると、ギターが目に入るんだよ……。そのたんび、あのおっさんに言われたこと思い出して、ため息ついてさ。それまではアパートだからあんまり音たてないようにギター弾いて、曲作ってみたりしてたんだけど……、なんか、ギター見ると、嫌なことしか思い出せなくて……」

そう言ってミチは深いため息をついた。さっきまで「先輩」の話をしていた時の笑顔は、すっかり雲の影に隠れた。

「そういや、音楽も聞いてないな……。シャットアウトしてたんだ。途中でこれじゃだめだって思って、古本屋の二階のCDショップ行ったけど、結局何も買わなかったし、何も聞かなかったし。なんか、アーティストのポスターとかジャケットみるたびに、嫌なことしか考えなくてさ」

「……いやなこと、ですか」

たまきの問いかけに、ミチは苦笑いした。

「俺、本当にプロになれるのかなぁって」

ミチは照れるように笑いながら続けた。

「中学の文化祭で友達4人でバンド組んでさ、俺、ボーカルだったんだよ。そん時、めっちゃモテて。カノジョとかできてさ」

「カノジョとか」の「とか」にいったい何が当てはまるのか、たまきには疑問だったが、そのまま聞き流した。

「それでプロのミュージシャンになろうって思って……。かっこいいじゃん?」

炎天下の下でミチは語りながら、どこか肋骨の間を隙間風が通っているのを感じていた。

ミチがたまきの方に目をやると、普段の三割増しで生気を感じられない目でこっちを見ている。こういうのを「ジト目」とでもいうのだろうか。

ミチと目が合ったことに気付くと、たまきはさみしそうに、右手首の包帯に目を落とした。ぐるぐると手首に巻きつけられた包帯は、夏の日差しの下でうっすらと汗ばんでいる。

ミチの話に出てきたのは、「中学」とか、「文化祭」とか、「友達4人」とか、「カノジョ」とか、たまきが望もうと手の届かなかったものばかりだった。

自分がどれほど望もうとも手の届かなかったものを、ミチはあって当たり前のように話している。いや、ミチが当たり前のように抱いている「プロのミュージシャンになりたい」という夢自体、たまきが持っていないものだった。

そんなミチを、たまきは、やっぱり好きにはなれなかった。

他人が当たり前のように手にしているものが、自分がどんなに背伸びをしても決して届かないものだと分かった時、こんなにも死にたくなるものなのか。

だが、たまきがそんなことを考えているなんて、ミチには伝わっていないらしい。当然だ。地球から月を見て、月がどんなに寂しいところかなんて想像もつかないだろう。

「……やっぱり浅いか」

ミチは自嘲するように笑った。

「そんなさ、『モテたいから』とか『かっこいいから』なんて理由で音楽やってる奴が作った曲なんて、人の心打つわけなんてないよな。あのおっさんの言う通り、つぎはぎでしかなかったんだよ……」

「それでも私は……、好きですよ……。ミチ君が作る歌」

たまきはミチの目を見て、珍しくミチの目を見てつづけた。

「確かに、歌詞はどこかで聞いたことあるような言葉ばっかりでしたけど……」

それを聞いてミチが寂しそうにはにかんだ。

「でも、ミチ君が歌うと、不思議と、私でも気持ちが明るくなるというか……。やっぱり、ミチ君の歌には、何か、特別な力があるんじゃないかって……」

そこまで一気にいうと、たまきは視線を落とした。

「……すいません。私、音楽のことなんか何にも知らないのに、……えらそうなこと言って」

「いや……、うれしいよ。1人でも……、その、なんていうか、ファンがいてくれて」

たまきは、お尻を動かしてミチから少し距離を取ると、再びミチの目を見た。

「……なのに、どうしてまた戻ってきたんですか。……どうして、戻ってこれたんですか」

「来月さ、この公園で『大収穫祭』ってイベントやるんよ」

ミチは恥ずかしそうにはにかんだ。

「そのイベントでライブもあって、ウチのバンドがそれに出場することになってさ」

「……それって、すごいことなんですか?」

「いやいや全然。応募して、抽選に当たればだれでも出れるんだぜ?」

ミチはケラケラと笑った。

「で、いつまでもバックれてないで、練習しなきゃなって思って。2週間もサボってたらさ、流石に心の傷っていうの?も癒えるし」

たった2週間でへこんでたのが治った。やっぱり、ミチ君は私とは違う「あっち側」の人なんだと、たまきは街路樹の向こうの都庁を見つめながら思った。

 

ミチはギターおもむろにギターを奏でだした。

いつものミチの曲に比べると、少しスローテンポだ。

8小節イントロを奏で、ミチは歌い始めた。

 

――路地裏を歩く野良犬が一匹

――陽の光を避けるようにビルの影へ

――誰もいない公園で

――ひとり吠え続ける

 

――「僕には夢があるんだ」

――「僕には明日があるんだ」

――「僕には未来があるんだ」

――そんな風に歌ってたら、ゴミ捨て場のフクロウに笑われた

 

――夢の意味も知らないくせに

――自分が誰かも知らないくせに

――ラジオから流れてきた誰かの歌で

――知ったつもりになってただけ

――ただ吠えていただけ

 

声が伸びるところで、ミチのハイトーンな声が少し掠れる。たまきは、絵を描く手を止めてじっとミチの口元を見ていた。

ミチはポケットからハーモニカを取り出すと、吹き始めた。そういえば、前に「ハーモニカが欲しい」と言っていた気がする。

 

――いつの間にか日が暮れる

――黒猫のしっぽがゆらゆら揺れる

 

――あれほど好きだった歌も口ずさむのをためらって

――頭上のポスターを眺めては電柱にピスをかける

――ゴミ捨て場のフクロウの声と

――月の下の黒猫のしっぽと

――いつか抱きしめたウサギのぬくもりが

――潮騒のように響く

 

――夢の意味も知らないくせに

――自分が誰かも知らないくせに

――届きもしないフリスビー追いかけて

――足がもつれ転んだだけ

――ただ遊んでいただけ

 

たまきにはところどころ歌詞の意味が分からなかった。それでも、ただ明るいだけではない。今まで聞いたミチの歌では一番好きだと思った。

 

ミチがギターを弾くのを終え、たまきは、ぱちぱちと小さな拍手をした。

「この歌はいつ作ったんですか?」

「昨日」

ミチがチューニングをしながら答える。

「なんてタイトルなんですか?」

「タイトルかぁ……。そうだなぁ……」

ミチはしばらく黙っていたが、やがてたまきの方を向いて答えた。

「……『犬』」

「……それがタイトルですか……?」

「う、うん」

ミチが決まりの悪そうにたまきを見ている。

「前から思ってたんですけど……」

ミチの不安そうな目からたまきは顔をそらした。

「ミチ君って、名前付けるセンスないですよね……」

「知ってる……」

ミチが自信なさげにうつむく。

「たまきちゃんが名前付けてよ」

「え?」

たまきは目を大きく見開いてミチの顔を見た。

「たまきちゃんだったら、なんてタイトルつける?」

たまきはしばらく黙っていたが、ミチの目を見てこう言った。

「……『犬の歌』?」

ほんの一瞬、時間が止まったかのような静寂が訪れた。

そして、二人はお互いの顔を見て、同時に笑い出した。

ミチはケラケラと笑い、たまきはクスリと吹き出した。

夏の日差しの中、二人は声を出して笑った。

 

一通り笑ったところで、階段の上の方からハスキーな声が聞こえてきた。

「それにしても、『ゴミ捨て場のフクロウ』はちょっとひどいんじゃないか?」

ミチとたまきが振り返ると、そこには仙人がにやりと笑いながら立っていた。

「げ」

「きゃ」

ミチはこの上なくばつが悪そうに顔をこわばらせ、たまきは驚いた拍子に鉛筆を落とした。

「ち、違うんす。あれは、思いついた言葉をそのまま言っただけで、ベ、べつに深い意味は……」

ミチは立ち上がると、仙人に駆け寄った。

「なるほどなぁ。お前さんには、そんな風に見えとったのか」

「いや、ち、違うんす!」

たまきは「ゴミ捨て場のフクロウ」の意味が分からず、二人のやり取りを首をかしげながら見ていた。

仙人は歩みを止めることなく階段を下り続ける。

「声はよかった。メロディも悪くない」

たまきは階段の上の道を見上げる。さっきよりも顔がこわばっているように見えた。

「だがな……」

ミチの顔がますますこわばる。なんだか、たまきまで緊張してきた。

「歌詞がところどころ、なんの例えなのかわからん」

「……はい」

この前と違い、ミチは素直にうなづいた。

「表現し、伝える以上、わかりづらいのはよくないなぁ」

「……おっさんの画家がどうこうっていう話もわかりづらかったっすよ?」

二人の男は、互いに顔を見合わせ、同じタイミングで笑った。

仙人は、ミチの肩に手を置いた。アンモニアの臭いがミチの鼻腔を突いたが、ミチは顔をしかめることなく、むしろ、ほころばせた。

「ま、この前の歌に比べれば、お前さん自身の言葉で書こうとしてるってのは伝わってきた。前より良いんじゃないのか。まだまだ粗いけどな」

ミチが少し、ほっとしたように顔をほころばせた。

「ただなぁ、『ゴミ捨て場のフクロウ』はやっぱりひどいなぁ」

「すんません……」

仙人よりも少し高い位置にいるミチが頭を下げた。

「『年老いたフンコロガシ』じゃだめか?」

「え?」

仙人の言葉に、ミチが眉をひそめる。

「『ゴミ捨て場のフクロウ』の部分を、『年老いたフンコロガシ』にするのではだめか?」

「……べつにいいっすけど、フクロウよりひどくないっすか?」

「好きなんだ。フンコロガシが」

そういうと仙人は笑った。

 

写真はイメージです

「う~ん、一回整理しよ?」

その日の夕方。西日が照らす「城」の屋上で、志保が困ったように笑った。志保は施設から帰って来るなり、亜美から絵を飾る飾らないの論争を聞かされた。

「たまきちゃんは、絵を飾るのが嫌なんだね?」

「いやです」

たまきがきっぱりと言った。

「それに対して、亜美ちゃんは絵を飾りたい」

亜美が無言でうなづく。

「作者の意見を尊重すべきか……、所有者の意見を尊重すべきか……、亜美ちゃんの肖像権を尊重すべきか……」

志保は腕を組んで考えていたが、数秒して笑顔で

「わかんない」

と言った。

「でも、二対一でウチの勝ちだろ?」

「でも、こういうのって、作者に権利があるんじゃないんですか?」

二人の権利者の訴えを志保は裁判長よろしく聞いていたが、「そういえば」と切り出した。

「本で読んだことがあるんだけど、美術館ってホントは絵を展示したくないんだって」

「なんで? あいつら、絵を見せて商売してるんだろ?」

「絵を光にあたると痛んじゃうから、ほんとは人に見せたくないんだってさ」

「なんだそりゃ?」

「絵を百年残すためには、光に当てない方がいいんだよ」

亜美は腑に落ちない感じだったが、たまきはピンとひらめくものがあった。

「それです。絵が痛んじゃうんで、見せないでください」

珍しくたまきが勝ち誇ったように、亜美を見上げてる。

だが、亜美はたじろぐ様子もなくこう返した。

「なに、お前、あの絵、百年残したいの?」

「え?」

ぽかんと口をあけるたまきに、亜美が続ける。

「百年残すつもりなんだったらお前、全身描けよ。ウチのナイスプロポーションが百年後にも残ったのに」

「百年も残ったら、たまきちゃんの絵も歴史的資料として博物館に飾られてるかもね」

「え?」

たまきは、自分の絵が百年後、博物館に展示され、誰とも知らない人にじろじろ見られている光景を想像した。

「いや、もしかしたら、こいつの絵がすごい評価されてて、何億って値段になってるかもしれない」

「ありえるねぇ。それこそ、ゴッホ展みたいに、大行列ができたりして」

「え? え?」

たまきはただただ困惑している。

「そうなると、あの絵は天才画家たまき先生、十五歳の時の貴重な作品、ってことになるな。うん、保存した方がいい。どっか暗いところに大事にしまって、百年残そう」

「わあ、なんか、ロマンがあるね」

盛り上がっている年上二人に向かって、たまきは申し訳なさそうに言った。

「あの……、痛んじゃってもいいんで、今のままでいいです……」

 

つづく


次回 第11話「惚気の長雨、口下手の夕暮れ」

さ~て、次回の「あしなれ」は?

・ミチに新展開!

・志保、クレープを焼く

・たまき、怒る

の三本です。続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第9話「憂鬱のち誕生日」

亜美の誕生日を祝うことになったたまき。たまきにできること言えば、絵を描くことぐらい。たまきは亜美の似顔絵をプレゼントしようと思ったのだが、そこには大きな問題があった。どうしても、暗い絵しか描けず、とても誕生日プレゼントなんかにはできない。たまきは、そんな自分の絵が大っ嫌いだった……。

「あしなれ」第9話スタート!


第8話 ゲリラ豪雨と仙人

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


八月十五日。正午。晴れ。

写真はイメージです

ポーンとお昼の時報がなると、テレビの向こうの黒いスーツの人たちが一斉に目をつぶった。

たまきはソファの上に横になりながら、その映像を見ていた。

テーブルの上には志保(しほ)が握ったおにぎりが置いてある。もっとも、お米を炊いたのではなく、スーパーで売っているパックのご飯を握ったものだ。志保はおにぎりをつまみながら、テーブルの上のタブレットサイズのテレビを見ていた。

志保と一緒に暮らすようになってひと月。少し志保のこともわかってきた。

志保は歴史に関心があるらしい。何日か前も朝から炎天下のもと行われていた式典を見ながら、何か歴史うんちくのようなことを言っていたが、たまきはあまり覚えていない。

正直、戦争と平和みたいなことにたまきは関心がない。

もっとも、それを表だって口にしたことはない。口にすれば「最近の若い子は」だの「平和ボケしてる」だの怒られるのは目に見えている。

まず、「最近の若い子は」と言われるのは納得できない。オトナたちが言う「最近の若い子」というのは、教室でみんなで固まってわちゃわちゃ楽しそうな層を指すのだろう。たまきは間違いなくその層には属していない。小学校のころは、そういった連中から距離を置いて1人で絵を描いていたし、中学校では教室にすら入れなかった。

そして、「平和ボケ」と言われるのはもっと我慢がならない。

生まれてこのかた十五年ちょっと、平和だなんて思ったことがない。

こんなこと言うとまた良識ある大人たちは、自分も行ったことなさそうな国の話をして、戦争がいかに恐ろしいものかとしたり顔で語るのだろう。

確かに、今の日本で銃弾が飛び交うこともなければ、空から爆弾が降ってくることもない。

多くのオトナはそう思い込んでいるみたいだが、たまきにとっては違っていた。

外の空気は毒ガスみたいに息苦しく、教室では銃弾が飛び交うように感じられてまともに顔も上げられなかった。

何より、家族から浴びせられた言葉は爆弾より強烈にたまきの心を焼き尽くした。

たまきが引きこもっていた自分の部屋は、さながらたまきにとって防空壕だった。いや、すぐ近くに家族がいたから、敵地の戦場に掘った塹壕に近かったかもしれない。

ふと、以前に志保が言っていた歴史うんちくを思い出した。

「塹壕のすぐ近くに砲弾とか落ちるでしょ。その轟音が兵士の心をどんどん蝕んでいったんだって。けがせずに戦場から帰れても、心を病んじゃった兵士が多かったみたい」

その気持ちはたまきにも分かる気がした。塹壕はぜんぜん安全じゃないのだ。

でも、塹壕の外はもっと怖い。だから、塹壕からでられない。

 

テレビの向こうでは、総理大臣のおじさんがスピーチをしている。戦後六十年以上たち、日本は平和を守ってきました。これからも平和を守っていきます。そんな感じ。

六十年以上も日本は平和だったそうだが、たまきはいまだその恩恵にあずかれていない。むしろ、爆弾でたまきを中学校や自宅ごと吹き飛ばしてくれたら、今頃どんなに楽だっただろう。

六十年続いた日本の平和なんて、守るべきもののある『しあわせな人』だけの平和だ。たまきには関係ない。

 

ガチャリと奥の部屋のドアが開き、ぼさぼさの髪の亜美(あみ)が出てきた。金髪の根元はすっかりプリンになっている。眠たそうな目で亜美はテレビを見た。

「ああ、今日、戦争記念日か」

「終戦記念日だよ、亜美ちゃん」

志保が訂正する。

「そっか~、今年ももうそんな時期かぁ」

そういうと亜美は冷蔵庫からペットボトルを出してがぶがぶと飲み干した。

亜美が終戦記念日に関心を示したことに、たまきは意外さを感じた。明日のことなんてどうでもいいと言ったはばからない亜美は、同様に過去にも、それも歴史にも関心などないのかと思っていた。

だが、亜美が終戦記念日に関心を示した理由は、どうやら歴史への興味からではなかったらしい。

「ってことは、明後日、うちの誕生日だ」

「えっ?」

志保とたまきが亜美を見た。亜美は眠気覚ましのストレッチをしている。

「そっ、八月十七日。うちの十九回目の誕生日」

そういうと亜美はにっと笑った。

「お祝いよろしく」

「あ……うん」

自分からそれ言っちゃうんだ、と志保は少し戸惑った。

亜美はすっかり着替えを済ませると敬礼をしながら、

「隣町の美容院に特攻してきます」

と言って「城(キャッスル)」を出ていった。「戦没者への敬意」なんてものは全然ないらしい。

 

亜美が出ていった「城」では二人が黙ったままテレビを見ていた。

誕生日を祝う。たまきはあまりピンとこなかった。

生まれてきてよかったなんて、一度も思ったことがない。引きこもる前は誕生日に食事へと連れて行ってもらったが、どこか形式的な印象をぬぐえなかった。

お友達を招いてお誕生会、なんてやったこともないし、呼ばれたこともない。

誕生日にあまりいいイメージはなかったけど、それと亜美の誕生日とは関係ない。日ごろお世話になっているし、たまきが使うスケッチブックも鉛筆も、亜美からもらったお小遣いで買ったものだ。何より、本人からのリクエストである。お祝いしないわけにもいかない。

でも、何をすればいいんだろう。何を買っていいかわからないし、そもそも明後日までに用意できるのか。

まず思いついたのが洋服だった。亜美は洋服が好きで、奥の部屋は半ば亜美の衣裳部屋になっている。

ただ、どんな服を買えばいいのか見当もつかない。何がおしゃれで、何がダサいのかたまきにはわからないのだ。

そもそも、亜美の着るような服が置いてある店に行って買い物ができる自信がない。

5千円。それがたまきの全財産だ。

最初、亜美と暮らし始めたときはもっと多くお小遣いをもらっていた。

だが、一カ月ほどたってわかったのは、そんなにもらっても使わない、ということだった。

食費やお風呂代、洗濯代など3人共通のものは金庫の中のお金を使う。3人共同のお金だ。

それとは別に個人が欲しいものは個人のお小遣いで買うのだが、たまきが買ったものと言えばスケッチブックと鉛筆と消しゴム、公園で絵を描くときに飲む水くらいだ。

全然お金を使わないのに持っていてももったいないので、何週間か前に「お小遣いは5千円まででいいです」と自分から申し出たのだ。

毎月一日になるとお財布の中を確認して、5千円を下回っていれば金庫の中から補充してもらう。それでも多すぎるくらいだ。

確か、財布の中にはまだ四千円以上残っている。これでどれくらいのものが買えるのか、見当もつかない。

たまきは起き上がると不安げに志保を見た。

「志保さんは……、明後日……、どうするんですか?」

「う~ん、どうしよう」

志保は両手を頭の後ろで組んでそういったが、もう答えは出ているような顔をしていた。

「ちょっと豪勢なお夕飯でも作ろうかな。確か、亜美ちゃん、ハンバーグ好きって言ってたし」

やっぱり、料理ができる人は得だ。好きな料理を作ってもらって、喜ばない人はいない。

「志保さんはいいですよね……。料理作れるから……。私なんか、できることなんにもないし」

下を向くたまきに志保が笑いながら言った。

「たまきちゃん、絵がうまいから、亜美ちゃんの似顔絵描いてあげたら?」

それは、たまきが「服を買う」よりも真っ先に思いついたことだった。だが、たまきはぶんぶんとかぶりを振った。

「私の絵……見ましたよね……」

たまきは下をうつむきながらぼそりと言った。

「みたみた!すごいうまいじゃん!」

「……見たならわかりますよね……」

たまきは、足元のくすんだピンクのじゅうたんに映る、幽かな自分の影を見ながら言った。

「私の絵……、暗いんです……」

たまきは絞り出すように声を出した。

「でも、明るく描けばいじゃない」

そのやり方がわからないから、ずっと悩んでいるのだ。

「……私の絵なんて、誕生プレゼントに向いてないんです……」

たまきの頭の中で、数日前に出会った「仙人」と呼ばれるホームレスの、しゃがれた声が再生された。

「お前さんには、世界がこんな風に見えているのか」

仙人は褒めているようだったが、とどのつまり、たまきの絵が暗いのはたまき自身に問題があるからだ。たまきが暗いからいけないのだ。

「そうそう」

そういって、志保はたまきに体ごと向き直った。

「たまきちゃんの誕生日はいつ?」

「えっ?」

たまきは鳩が豆鉄砲を食らったような顔で志保を見た。

「な……、なんで誕生日なんか聞くんですか?」

「前もってわかっていた方が、お祝いしやすいじゃん」

たまきは志保に向けた顔をそらして下を向く。

一年で一番、誕生日が嫌いだ。いい思い出なんて一個もないし、人生で最大の失敗は何かと問われたら、そもそもこの世に生まれ落ちてしまったことだろう。

産んでくれ、なんて頼んでいない。だから、生まれたことを祝ってもらっても、きっとうれしくないだろう。

「いつ? 誕生日」

志保の問いかけに、たまきは聞こえるか聞こえないかギリギリのボリュームで答えた。

「……十月二十一日です……」

「……十月の二十一?」

志保が聞き返すと、たまきはこくりとうなづいた。

 

 

八月十六日。午後。曇り。

 

写真はイメージです

たまきはスケッチブックを持って、都立公園にやってきた。セミの鳴き声がいつもより一層うるさい。たまきはいつもの階段を見るが、誰もいない。

いつもこの公園に来ていたはずのミチの姿を、あれ以来見ていない。

ミチの歌が仙人に「切り貼り」とこき下ろされて以来、たまきはほぼ毎日足を運んでいたのに、ミチの姿が見えないのだ。

ミチは仙人にこき下ろされて、すっかり自信を無くしていたようだった。「なんだか死にたくなってきた」とも言っていた。

まさか。とたまきは首を振る。ミチはたまきと違う。自殺なんてするような人じゃない。

そういえば、バイトが新しく始まるとも言っていた。どんなバイトか知らないけど、きっと忙しいんだろう。

いつもの階段はほとんど影が無く、かなり暑そうだったのでたまきは別の場所を探すことにした。公園内を歩きながら思いを巡らせる。

結局、亜美へのプレゼントを何にするかはまだ決まっていない。明日の夜には、志保がハンバーグを作ってささやかな亜美の誕生パーティが開かれる。それまでに決めなければいけない。

ここに来る途中に、亜美が好みそうなおしゃれな洋服屋があったので覗いてみた。色とりどりの服やジャラジャラ系のアクセサリーが並ぶ店内を窓ガラス越しに店内を覗いていたが、おしゃれな客と目があった瞬間、たまきはくるりと背を向け、小走りにそこから逃げ出した。

なんだか、学校にいたころのことを思い出して、惨めになった。

公園内の木陰にベンチを見つけ、たまきは腰かけた。カバンを左横に下ろすと、スケッチブックとペンケースを取り出す。

左手の小さな指で、鉛筆を柔らかく握ると、真っ白なスケッチブックに向かってたまきは絵を描き始めた。

目の前には街路樹が生い茂り、その向こうから青空へと突き抜けるように都庁がそびえたつ。いつも書いている都庁だが、今日はちょっとアングルが違う。

明るく。なるべく、明るく。そう言い聞かせて鉛筆を走らせる。

なるべく影を付けないように。影はあくまでも立体感を出すため、最小限に。鉛筆に力がこもる。

三十分ほどして書き上げた絵を見て、たまきは愕然とした。

前より暗くなっているような気がする。昨日、テレビで戦争の様子を描いた絵を見たが、まさにあんな感じ。都庁は廃墟のお化け屋敷みたいだし、入道雲は爆炎みたくなってしまった。

たまきは深いため息をつく。昨日から何度も描いているが、こんな絵しか描けない。

あんなに「明るく」を意識して書いたのに、どうして前よりひどいんだろう。

やっぱり、ミチ君の歌がないからかな、とたまきは絵を見ながら思った。ミチの、どこかで聞いたような言葉ばかりを並べた、バカみたいに明るい歌は、多少なりともたまきに影響を与えていたのだろう。

たまきは、再び都庁を描き始めた。今度は「明るく」を強く意識すると同時に、ミチの「未来」という底抜けに明るい歌を脳内で再生しながら描いた。歌詞なんか覚えていないし、メロディも怪しい部分が多いが。

三十分後、たまきは泣きそうな目で自分の絵を見ていた。さっきの絵とほとんど変わらない、暗い絵がそこにあった。

今までたまきがこの公園で描いていた絵は、ミチの歌の影響でちょっとだけ明るくなった絵だったらしい。

再び、仙人の言葉を思い出す。

「お前さんには、世界がこんな風に見えているのか」

つまり、この絵がたまきが本来見ている「世界」というやつなのだろう。この絵を仙人に見せたら、今度はゲルニカを思い出したというに違いない。もちろん、技量は天と地の差という注釈つきで。

仙人に絵をほめられて以来、たまきは自分が絵を描くことが好きだということを思い出した。あれ以来、ほぼ毎日この公園に来ては絵を描いていた。また、「城」のある太田ビルの屋上でも絵を描いていた。

絵を描くことは楽しいし、好きだった。それを思い出せただけでも本当に良かった。

だが、描いた後の自分の絵を見て、その都度死にたくなる。

楽しい気持ちで描いていたはずなのに、たまきの絵は暗くなる一方だった。

絵を描くことは好きだけど、肝心の描いた絵そのものはやっぱり好きになれない。

 

 

八月十六日 夕方 夕焼け

 

 

写真はイメージです

公園からの帰り道、たまきは古本屋に寄った。

マンガが見たかった。「読みたかった」のではなく、「見たかった」。「明るい絵」がどういうものか確認したくなったのだ。

古本屋の中では大勢の人が立ち読みしていた。どちらかというと男性の比率が多いみたいだ。たまきは立ち読みの客が作った林の中を、肩身狭そうに歩いた。服がほかの客とこすれて音を立てる。

小学校のころ好きだった少女漫画が目に入り、たまきは手を伸ばす。たまきの小さな体でも届くところにあった。

ピンク。黄色。水色。

黒く細い線の集合体でしかないはずのその絵は、不思議とたまきの頭の中に次々と色彩を呼び起こす。絵全体が鮮やかなオーラを放ち、白黒の絵に色味を補完しているのだ。

子供のころは、この漫画みたいなかわいい絵が描けると信じていたのに。学校に行って、友達を作って、恋をして、夢を追いかけて。この漫画みたいな日々が当たり前に送れると信じていたのに。

現実のたまきは当たり前のことができず、学校に行けなくなった。

あのころ読んだ漫画は、学校に行けなくなった後のことなんか、描いてなかった。

結局、明るい絵というのは明るい人にしかかけないんだ。たまきはまた深いため息をついて、本を棚に戻した。

ふと、血まみれのナイフを持つ少女の絵が表紙に書かれた漫画が目に入る。

「さつじんぶ」というタイトルのその漫画の帯には、「映画化決定!」と書かれていた。

なんだか暗そうな漫画で、自分の絵に似ている。そう思ったたまきは思わずマンガを手に取っていた。

物語の内容は「さつじんぶ」なる殺人鬼の同好会が無差別に人々を襲っていく、というサスペンスホラーだった。高校生の主人公・トオルの日常は、修学旅行先のホテルで「さつじんぶ」の隣の部屋になってしまったことから一変する。次々と殺されるクラスメート。トオルは他のクラスメートと山の中を逃げるが、極限状態に陥ったクラスの不良が巨乳美少女のヒロインを乱暴してしまう。ヒロインを助けるために不良を殺してしまったトオル。呆然としているトオルのもとに「さつじんぶ」のメンバーが現れ、トオルを「さつじんぶ」にスカウトする……。

一巻はまだ数ページ残っていたが、たまきは気分が悪くなり、本をもとの位置に戻した。

あんなマンガ、読まなきゃよかったと、とぼとぼと自動ドアに向かって歩いて行った。

古本屋の一階は書籍コーナーで、二階はCDやDVDが並ぶ。

ふと、二階へと続く階段から誰か降りてきた。その人はたまきの前にひょいっと躍り出ると、九十度角度を変え、たまきに背を向けて自動ドアへと足早に向かっていった。

一瞬だけ見えた横顔は、たまきがいつも公園の階段で見ていたものだった。

ミチ君。思わずそう呼び止めようとしたたまきだったが、どうしても言うことができなかった。

呼び止めて、私は何を言うつもりなのだろう?

「どうして、公園来なくなっちゃったの」?

たまきが言おうとしたそれは、昔、たまきが学校の先生に言われた言葉だった。

 

中学二年の二学期、学校に行けなくなったたまきの家に、先生が訪れたことがあった。テーブルには先生と母親、パジャマ姿のたまきが座った。うつむくたまきに先生が問いかけた言葉が、「どうして、学校来なくなっちゃったの」だった。

そんなの……。そんなの……。

たまきは何も答えられず、ぽろぽろと泣くだけだった。

あの時、自分が傷ついた言葉と同じことを言おうとしていた。そのことに気付いたたまきは、ミチに声をかけることができなかった。

自動ドアを出て、薄暗くなったネオン街の雑踏に消えていくミチを、たまきはただ見送った。

 

 

八月十七日 午後 曇り

 

写真はイメージです

都立公園で暮らすその男の本当の名前を知る者は、公園のホームレスの中には誰もいない。白髪交じりの長髪にもじゃもじゃのひげという風貌からか、「仙人」や「仙さん」と呼ばれている。眼鏡の奥の理知的な目は、仙人というよりは中国の儒家を連想させる。

彼の仕事は廃品回収だ。基本は空き缶を拾っている。山ほど空き缶を集めて収入は千五百円ほど。空き缶でパンパンになったビニール袋を自転車の荷台にくっつけて街を走る様はフンコロガシのようだと自分では思っている。自嘲ではない。フンコロガシが糞を転がすから街はきれいになる。あえて汚れ仕事を請け負う。これは彼の矜持だ。

空き缶以外にも、金になりそうなものが落ちていれば拾う。今日はいわゆるコンビニ本を拾った。

「さつじんぶ」というタイトルのマンガのようで、表紙には「映画化決定!」と書かれている。

酒のつまみにと読んでみたが、半分ほど読んで読むのをやめた。

絵は悪くない。人物の表情もよく描けている。事件が次から次へと起こり、読者を飽きさせない展開だ。

だが、仙人は読むのをやめた。傍らのカップ酒を少し口に含み、ごくりと喉を鳴らしたところで、木立の中をとぼとぼと歩いてこちらに向かってくる少女に気付いた。

 

仙人がその少女と出会ったのは一週間前の大雨の日だ。

もっとも、彼女自身を見たのはそれが初めてではない。週に何日か、公園の中の階段に腰かけ、絵を描いているのを何度も見かけている。いつも隣に同い年ぐらいの少年がいてギターを弾きながら何やら歌っていたが、二人の間は必ず人一人通れそうなスペースが開いていて、二人が会話をしているところも見たことがなかった。

少女が自信なさげに見せたその絵を見たとき、仙人は息を飲み、目を見開き、言葉が出てこなかった。

まず思い出したのは、若かりし頃にアメリカの美術館で見たある絵だった。

夜の闇、渦巻く風、月明かりの揺らめき。色の一つ一つがカンバスに荒々しく、それでいて丁寧に塗りつけられていた。夜の風景が画家の目を通して分解され、データ化され、画家の解釈によって再構築され、卓越した技量でカンバスの上に絵具で表現されている。

「彼には世界がこんな風に見えているのか……」

若かりし日の仙人は、ため息とともに自身の想いを言葉にせずにはいられなかった。

少女の絵を見たとき、仙人は数十年ぶりに同じ言葉を口にした。

もちろん、技量はあの画家とは比べ物にならない。絵心はあるのだろうが、まだまだ繊細さに欠けている。

しかし、その少女には、その瞳に映った世界を独自の解釈で再構築する力があった。

 

その少女は仙人の前に小さな歩幅で近づいてきた。斜め掛けしたカバンからは、スケッチブックがはみ出している。

「……こんにちわ」

少女は今にも消え入りそうな声であいさつした。

「わしになにか用かな?」

仙人はやさしく目を細めた。

 

こんなにも人に自分のことを話したのは、たまきにとっては初めてだった。

とはいえ、言いたくないことは話していない。学校に行けなくなったこと。死のうと思って家を出てきたこと、潰れたキャバクラに勝手に住み着いていること。

たまきは仙人に、2か月くらい前に出会った亜美という人と一緒に暮らしていること、その亜美の誕生日が今日であること、お祝いをしたいのだけれど、何をすればいいのかわからないことなどを話した。

公園の中で花のデッサンを描いてみたが、どう描いても花に生気が見れない。でも、絵を描く以外に亜美にしてあげられることが見当もつかない。途方に暮れていたたまきの足は、自然と「庵」に向かっていた。

話を聞き終えた仙人は、一息つくと、たった一言だけたまきに言った。

「絵を描けばいいじゃないか」

しばらくの沈黙の後、たまきは力なく頭を横に振った。

「お前さんの絵は、フィンセントに通じるものがある」

「……ゴッホのことですか」

「そんな名前だったかな。あまりよく覚えておらんが」

仙人はやさしい目で笑った。

「……仙人さんが私の絵をほめてくれるのは嬉しいんですけど……、でも、私の暗い絵は人にあげるのには向いてないんです……」

たまきは泣きそうな声でそういうと、仙人から視線を逸らした。

たまきが視線を逸らしたその先には、昨日たまきが読んだスプラッタ漫画があった。表紙に描かれた、血まみれのナイフを握った、やけに巨乳の美少女をたまきはじっと見た。

仙人はそんなたまきをしばらく見ていたが、やがてカップ酒をぐびっと飲むと、たまきがじっと見つめている漫画を手に取った。

「こういうマンガを読むやつは、何を思って読むんだろうな」

仙人の言葉にたまきは首をかしげる。

「私は……あまり面白くありませんでした」

「だろうなぁ。お嬢ちゃん、自分のことが嫌いだろう?」

思いがけぬ仙人の言葉に、たまきはびくっと背を震わせ、ぱちくりと瞬きをした。

「わしも若いころはよくこんな映画を見たもんだ。殺人鬼に追いかけられる映画や、ゾンビが街を徘徊する映画……。そういうのを見て映画館を出た後は、自分が狙われたらどうしようだの、向こうからゾンビの大群が来たらどうやって切り抜けようだの、下らんことを考えとった」

仙人は、手に取ったマンガをぱらぱらとめくりながら続けた。

「そうやって、自分が幸せ者だって確認しとったんだ」

「えっ」

どういう意味だろう。たまきは首をかしげる。

「絶望に責め立てられる登場人物を、スクリーンの向こうから眺める。実に悪趣味だとは思わんか。『登場人物に感情移入してハラハラした』? 絶対に自分はその状況にはならないとわかりきっているからそんなことが言えるのだ。そして、映画館を出たらみんなこう思うのさ。私の周りには殺人鬼もゾンビもいない。家族がいて恋人がいて友達がいて、なんてしあわせな自分」

仙人の言う通りなのだとしたら、そういうマンガが楽しめない人は、不幸な人だということになる。たまきは、泣きそうになるのをこらえながら、自分のかけているメガネの黒いふちに視線を落とした。

「人というのはな、みんな自分が世界で一番不幸だとおもっとる」

仙人はぱたんと本を閉じた。

「それでいて、自分が世界で一番不幸だということに耐えられない。めんどくさい生き物だ」

たまきは怪訝な目で仙人を見つめていた。

「だから、こういったマンガを読んで、自分が一番不幸じゃないって確かめようとする。酒を飲んでいるようなもんだ」

仙人はそういうとカップ酒に口を付けた。仙人が酒を飲みこむたびに、のど仏が動くのをたまきはじっと見ていた。

仙人はカップ酒から口を話すと、ぷはぁと息を吐く。

「お嬢ちゃんの絵はそういうのとは違う。そう言う造られた暗さじゃない」

造られた暗さじゃないなら、なお一層ひどいということじゃないか。たまきはうつむいたままじっとしていた。

「その、亜美って子の絵は描いてみたのか?」

たまきはぶんぶんとかぶりを振った。

「描いてみたらいいじゃないか」

「……どうせ、暗い絵になるに決まってます」

「描いてみたらいいじゃないか」

たまきは、うつむいていた顔を上げて仙人の目を見た。

仙人はたまきをじっと見据えていた。

「描いてみたらいい」

仙人はやさしくそう言った。

 

たまきは仙人の隣に腰を下ろすと、スケッチブックを取り出した。

人の顔を描くなんて何年振りだろう。たまきは目を閉じると、亜美の顔を思い出す。

亜美さんっていつもどんな感じだったっけ。明るく描かなきゃ。なるべく明るく、なるべく明るく……。

ポンッと肩をたたかれ、たまきが目を開ける。

「お前さんはいつも都庁を描くとき、そんな風にじっと目をつむるのか?」

「……いえ」

いつもは、漠然と描きたいイメージが浮かんだら描き始める。完全にイメージが決まる前に描き始める、見切り発車だ。ちゃんとイメージが固まる前に書き始めるから、暗い絵しか描けないんじゃないのかというのが、ここ数日たまきが考えていたことだった。だから、できるだけしっかりとイメージをしてから描こうと心がけていた。

「いつもやってるように描いてごらん」

仙人はやさしく笑いながらそう言った。

「……それじゃだめなんです」

「今日の夜までに描きあげればいいんだろう? とりあえず、やってみなさい」

仙人に促され、たまきはぼんやりと亜美の顔を思い浮かべると、左手に握った鉛筆を白い紙の上に置いた。

右手でしっかりと紙を押さえ、左手をさっさっと動かしながら、亜美のことを考える。

亜美と初めて会ったのは大雨の日だった。太田ビルの屋上から飛び降りて死のうとしていたところを亜美に邪魔され、そのまま「城」に泊まることになった。翌日、どうしても家に帰れずにトイレで自殺を図ったたまきだったが、気が付くとベッドに寝かされ、傍らには亜美がいた。

そこからどうして亜美と一緒に暮らすようになったのかははっきりと覚えていない。ただ、家には帰りたくなかった。それに、たまきがどんなに断っても、亜美のずうずうしさの前に結局押し切られていたと思う。いつだって、たまきはそうなのだ。いつかの亜美の声を思い出す。

「ああ、男に強く迫られると、断れないタイプか」

男性に限らず、たまきは強く迫られると、自分の意見を言えず流されてしまうのだ。もっとちゃんと自分の意見が言えたら、家で孤立することもなかったのかな。

そんなたまきに代わって声を挙げてくれたのが亜美だった。ライブハウスで泥棒の疑いをかけられたときは、何も言えなくなってしまったたまきに代わって無実だと訴えてくれた。

ただ、亜美のそういうところはいいのだけれど、ずかずかしすぎるとこがたまきは苦手だった。たまきは「城」でじっとしていたいのにいろんなところに連れまわすし、なんのおせっかいからか、初対面のミチといきなり二人っきりにされたこともあった。

デリカシーというものがないのだ。たまきが言いたくないことをずかずかと聞いてくる。

「ねえねえ、なんで死にたいなんて思うの?」

「ねえ、なんでオトコ作らないの?」

「えー、友達なんてほっといたってできるじゃん? なんで作り方なんか聞くの?」

そのたびにたまきの心はぐさぐさと傷つく。

そんな時、亜美は決まって笑ってる。

亜美は笑っているのだが、たまきは不思議と、バカにされているとは思わなかった。

むしろ、その笑顔になんだか救われた気がして、たまきも笑い返してみるのだが、決まってこう言われる。

「あんたさ、もうちょっと自然に笑えないの?」

「……自然に笑ったつもりなんですが……」

「いやぁ、堅いよ。あんた童顔だから、もっとかわいらしく笑いなよ」

そういって亜美はまた笑う。

そんな亜美だが、たまきがリストカットしたときは、何も言わなかった。

ぽたぽたと血を流し、「またやっちゃった」と珍しく笑うたまきに対し、亜美は困ったように笑いながら、

「そっか」

とだけ言った。たまきを叱るでもなく、避けるでもなく、

「あーあー、けっこう血ぃ流れちゃってるなぁ」

と笑いながら包帯でたまきの右手首をぐるぐる巻きにして、「先生」こと京野舞へと電話をするのだった。

普段、ほっといてほしいときはずかずかと近づいてくるくせに、

一番放っておいてほしいときに、

一番かまってほしいときに、

遠すぎず、近すぎず、そんなところからにこにこ笑ってる。

怒るでもなく、嫌がるでもなく、にこにこ笑ってる。

普段は苦手な亜美との距離感も、この時ばかりはなんだか暖かかった、

 

ふと、たまきは描く手を休めて空を見上げた。

もくもくの入道雲の少し上に、丸く白いものが浮かんでいる。

月だ。たまきは名前を知る由もないが、立待月というやつだ。

たまきは描く手を止めて、月を眺める。

月がどうして生まれたかにはいろんな説があると、むかし本で読んだことがある。

いくつかある説の一つに、宇宙をふらふら飛んでいた月が地球の重力に捕まった、というのがあった。

ちっぽけな月が、青くて美しい地球に捕まり、その周りをぐるぐる回り始めたとき、いったい何を思ったのだろう。

きっと、戸惑ったんだとたまきは思う。星の数ほどある石ころの中で、なぜ自分を選んだのか、と。

それから何億年もの間、月はずぅっと地球の周りをぐるぐる回っている。月は青い地球に憧れながら、ずっとまわっている。

地球は、そんなちっぽけな月の一番近くにいる。一番近くにいて、月がきれいだと言って、笑っている。長い歴史の中では、地球からロケットを飛ばして、月に土足で立ち入っている。

月は片方の面しか地球に見せていないという。数多の隕石が落下し、ぼろぼろになった裏側は絶対に地球には見せないのだ。地球は、そんな月を、一番近いけど少し離れたところから笑ってみている。決して、見られたくない裏側にまわりこんで覗き込むことをしない。

月は、きっと地球の周りをまわることが、居心地がいいんだ。

たまきは、少し口元をゆるませて、再び鉛筆を走らせた。

 

完成した絵を見て、たまきは口を開き、目を見開いた。

仙人が横から覗き込む。

「ほう、その亜美って子は、いい笑顔の娘みたいだな」

風音が去った後、たまきはようやく言葉を発した。

「……嘘です。これ、私の描いた絵じゃないです……」

「何を言っとる」

仙人が笑いながら言った。

「お前さんが今さっき、自分で描いた絵じゃないか」

「だって……私……こんな絵……」

その絵は、亜美の胸から上を描いていた。金髪を後ろに束ね、右腕には蝶の入れ墨が躍るように描かれている。

その顔は、この上ない笑顔だった。

『なにうじうじしてるんだよ。そんなこと、どうでもいいじゃん』

そんな亜美の声が今にも聞こえてきそうな笑顔だった。

たまきは隣でやさしそうに笑う仙人を見上げた。

「仙人さんは……私がこんな絵が描けるってわかってたんですか?」

「お嬢ちゃんはこの亜美って娘の誕生日を祝いたいんだろう?」

たまきは戸惑いつつもこっくりとうなづいた。

「誕生日を祝うということは、生まれてくれてありがとう、出会ってくれてありがとうというメッセージを伝える、ということだ。そういう相手を思って描けば、絵も明るくなる」

信じられないように自分が書いた絵を見つめるたまきに、仙人はそのハスキーな声でやさしく言った。

「お前さんは暗い絵しか描けないんじゃない。見たままに、思ったままにしか描けないんだ。こんな世界嫌いだと思って描けば暗くなる。逆に、大切な友達のことを思って描けば、明るくなる」

雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせた。風に吹かれた木の葉が互いをこすりあい、たまきの頭上でざわざわと音を立てていた。

 

 

八月十八日 午前 晴れ

写真はイメージです

「そうか」

ベンチに押しかけた仙人は、それだけ言うと深くうなづき、右手を差し出した。男も手を差し出し、がっちりと握る。

「行き詰ったら、いつでも帰ってこい」

「はい。いろいろありがとうございました」

そら豆みたいな頭をした中年の男はそう言うと、仙人に深々と頭を下げ、背中を向けて歩き出した。

すると、向こうから見覚えのある少女が歩いてきた。十日ほど前、彼にこの公園に来るきっかけを与えた少女だった。確か、たまきという名前だったはずだ。

たまきはそら豆顔のおじさんの前に来ると、小さな声でこんにちわと言った。おじさんが抱える大きなバッグを不思議そうに見る。

「……この公園を出て独り立ちすることにしたんだ」

おじさんの言葉にたまきは、

「そうですか……」

と少しさびしそうに言った。

「まあ、この街にはいるよ。この公園を出て、駅の周りで暮らすことにしたんだ。いつまでも仙さんに甘えてはいられないからね」

たまきはおじさんに何を言おうか迷っている感じだったが、結局何も言わずにぺこりと頭だけ下げて別れた。

少し歩いてからおじさんが振り向くと、たまきは仙人の前に立っていた。小柄なその体は後ろから見ると肩まで伸びた黒い髪に、かろうじてメガネの端が見える程度だ。

そのシルエットは家に残してきた下の娘に似ていて、おじさんはしばらくたまきを見ていた。

「絵は渡せたのか?」

仙人の言葉にたまきがうなづき、黒い髪がゆらっと揺れた。おじさんの位置からでは、表情までは見えない。

「どうだ? 喜んでくれたか?」

その言葉に、たまきの黒い髪がふわりと揺れた。たまきの顔を見て、仙人は満足そうにつぶやいた。

「お前さんも、そんなかわいらしい笑い方ができるんだな」

 

つづく


次回 第10話 真夏日の犬と猫とフンコロガシ

たまきが仙人と出会って二週間。公園の階段で絵を描いていたたまきの横に、二週間ぶりにミチが現れた。なぜ、道は公園に来なくなったのか。そして、なぜ再び公園に現れたのか。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第8話 ゲリラ豪雨と仙人

「たまきはたまきのままでいいんだよ」

「あしなれ」第8話はそんな話です。


第7話 幸せの濃霧注意報

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


数日前と比べても気温は変わらず、まだまだ天気予報では「熱中症注意」の言葉が躍る。

そんな中、たまきは相変わらず黒っぽい長袖の服を着て、公園で絵を描いていた。使うのは普通の鉛筆一本。白い紙を埋めるように、灰色の線が次々と書き込まれていく。隣には、例のごとくミチ。今日もまた汗だくになりながら、ギターをかき鳴らし歌っている。弦の弾ける音はアスファルトを震わし、ミチのハイトーンな歌声が夏の熱気に融けていく。

たまきは、この時間がどちらかというと好きだ。

絵を描いているときは、作業に集中できるため現実を忘れられる。

正直、絵を描くのは好きでもなければ、楽しくもない。ただただ時間を押し流すための作業。

だから、たまきは同じ題材を何度も描いた。絵にこだわりなどないからだ。斜め向かいに見える都庁を同じアングルから灰色の線で何度も描く。

何度描いても都庁はまるで魔王の城だし、その手前の公園の樹木は夜の樹海。白い雲でさえ、薄気味悪い煙のようにしかかけない。

そんな自分の絵が大嫌いだ。でも、絵を描くこと以外、現実を忘れることができないのだからしょうがない。

自分の絵は嫌い。でも、絵を描くことで時間を忘れることは好きだ。

そして、隣で歌うミチ。

何度も本人に入っているのだが、たまきはミチのことが嫌いだ。チャラいし軽いしいやらしいしめんどくさい。誉めるところが一個も見当たらない。

ただ一つ、彼の歌声は好きだった。ハイトーンで力強い歌声に、底抜けに明るい歌詞がよく映える。ミチの歌を聴きながら絵を描けば、こんな自分でも少しは明るい絵が描けるのではないかと期待してしまう。

歌ってる本人は嫌い。でも、彼が歌う歌とその歌声は好きだ。

プラスマイナス合わせて、どちらかというとたまきはこの時間が好きなのだ。

 

ふと、たまきはミチの方を見た。普段は並んで絵を描くことはあっても、嫌いだからほとんどたまきはミチを見ないのだが。

何とも楽しそうに歌っている。汗が音符のように滴る。大声を出してメロディに乗せることがそんなに楽しいのかな、とたまきは不思議に思う。

自分は隣で好きでもない絵を描き続けているのに、その一方でミチはこんなにも楽しそう。

ミチ君にとっての幸せってなんだろう。やっぱり、歌うことかな。

 

「ありがとうございました。『しあわせな時間』でした」

いつも通り、ミチは歌い終わると「世の中」に向けて挨拶をする。その後、しばらく休憩したら、また次の歌を歌い出す。

「あの・・・・・・」

「ん?」

珍しくたまきの方から声を掛けられ、ミチが振り向く。

「ミチ君にとって……、幸せってなんですか?」

「え?」

ミチは驚いたようにたまきを見た。

「……やっぱり、歌ってる時ですか?」

「うん」

間髪入れずにミチは答えた。

「あ、でも、今までで一番幸せだったのは、やっぱカノジョと一緒にいた時かな」

「カノジョいたんですか」

たまきが冷めた目で尋ねた。

「中学の時だけどな。流れで付き合って、しばらく遊んでたけど、自然消滅かな」

たまきには「流れ」も「遊び」も「自然消滅」もよくわからない。

「中学校、行ってたんですか?」

「え、うん」

ミチは「なんでそんなこと聞くの?」という目でたまきを見る。

「……卒業したんですか?」

「当たり前じゃん」

たまきはうつむいて、スケッチブックを見た。ぽたりと、たまきの遥か頭上の空の上から一滴スケッチブックに落ちてきた。

 

落ちてきた一滴は、すぐに山林のように降り注ぎ、やがて銃弾のように二人を襲った。さっきまで広がっていた青空は重い鈍色に染まっている。雨粒が地面にあたる音だけが二人の鼓膜を震わせる。

二人は公園の中のトイレの軒下で雨宿りをしていた。ここまで百メートルほど走ってきたが、二人ともかなり濡れてしまっていた。

たまきの黒い髪はびしょぬれで顔にぺったりと貼りつき、左目を完全に隠した。毛先から、メガネから、水滴がぽたぽたと胸のふくらみへめがけて落ちていく。たまきは胸の前でカバンをしっかりと抱きとめていた。カバンの中にはスケッチブックが半分むき出しのまま入っている。

ミチはそんなたまきをしばらく見ていたが、やがて目をそらした。茶色い髪はしょんぼりしたかのように濡れそぼっている。背中にはギターケース。Tシャツはびしょぬれで、ミチがそれを雑巾のように絞ると、雨粒と同じくらいの勢いで水が流れ落ちた。

ミチは絞ってよれよれになった裾を見る。裾はだいぶ水気が飛んだが、そこ以外はまだびしょびしょだ。

ミチはギターケースをおろすと、Tシャツを脱いだ。ミチの細くもやや筋肉のついている上半身があらわになり、たまきは顔を赤らめるとあわてて目をそらした。

「な、何脱いでるんですか?」

「だって、このままだと風邪ひくじゃん。明日、バイトの初日なんよ。たまきちゃんも脱いだら?」

ミチが冗談めかして笑い、たまきはますます顔を赤らめる。

「脱ぐわけないじゃないですか」

そう答えつつも、亜美さんだったらためらいもなく脱ぐのかな、などとしょうもないことを考えている。

ふと、雨粒の向こう側に、見覚えのあるシルエットを見つけた。

40代くらいの男が自転車を押しながら二人の前を横切ろうとしていた。荷台には空き缶でパンパンになったゴミ袋が取り付けられている。

深緑色のレインコートを着ているその男のおでこは広く、その輪郭はなんだかそら豆みたいだった。たまきは、男の輪郭に、顔に、見覚えがあった。

「あの……!」

たまきの問いかけに男が足を止めてたまきの方を見た。

数日前、「城(キャッスル)」に強盗に入ったおじさんだった。

そら豆顔のおじさんはたまきを見ると、驚いたように細い目を見開き、そして、どこか懐かしそうな笑みを浮かべ、自転車を止めてたまきの方に歩み寄った。

「……君はこの前の……」

「ん? 知り合い?」

ミチが二人の顔を見比べる。

そら豆顔のおじさんを見たら、たまきはなんだかほっとした。

生きてたんだ。

帰ったら、志保に教えよう。きっと喜ぶ。

「あのときは……迷惑かけたね」

おじさんはやさしく微笑んだ。

「……ここで何してるんですか?」

「君と一緒にいた長い髪の子に教えてもらったとおり、駅の地下に行ったんだ。そこであったホームレスの人に、ここに来ればこれからの生き方を教えてもらえるって聞いてね、お世話になってるんだ」

たまきは、目を赤らめて「さびしい」とつぶやいたおじさんの顔を思い出していた。あの時と比べて、おじさんの笑顔は少し軽くなったように見える。

「あの子にありがとうって伝えおいてよ。あの子の言葉で、だいぶ励まされたんだ」

それもきっと、志保が聞いたら喜ぶ。

おじさんは、ミチの方を見やった。

「お友達?」

一拍置いて、たまきが答える。

「……知り合いです」

こんな上半身半裸男と友達なわけがない。

「彼の方は何回かこの公園で見たことあるよ。知り合いだったんだ」

「私たち、二人とも傘持ってなくて……」

「降るなんて思ってねぇもん」

ミチが少し口をとがらせていった。

おじさんは二人を交互に眺めると、口を開いた。

「2人とも、だいぶ濡れちゃってるね。すぐそこに庵があるから、案内するよ。たき火もしてるし、ここよりはましだよ」

「イオリ?」

たまきの問いに答えることなく、おじさんは「ちょっと待ってね」といって、自転車を置いて小走りに走っていったが、やがて傘を2本持って帰ってきた。

「これ使って。すぐそこだから」

おじさんは二人に傘を渡すと、自転車を押して歩きだした。

たまきは、ミチの方を見た。ミチが不思議そうにたまきに尋ねる。

「どういう知り合い?」

「この前、ちょっと……。それより、どうします?」

「あのおっさん、どこ連れてくって言ってた?」

「イオリだって」

「なにそれ?」

「さあ……」

二人は首をかしげる。ミチはめんどくさそうに顔をしかめながら口を開いた。

「どこだかしんねーけど、あのおっさん、ホームレスだろ? ロクなところ連れていかねーって」

「でも……ここよりはましですよ、たぶん」

ミチは空から降り強いる雨粒を見る。まるで鉄柵のように、二人を公園から逃がすまいとしているようだ。

「まあ、風邪ひいたら困るしな……。たき火あるんだったら、そっち行こうか。でも、この公園、たき火禁止だぞ?」

 

「庵」とかいて「いおり」と読む。隠居や出家をしたものが住む小さな家のことで、たいていは森の中にポツンと、木漏れ日を浴びながら立つ木造の小さな離れのことを指す。

二人が連れてこられた庵は、公園の樹木に囲まれていたし、木造ではあったが、一般的な庵のイメージからはだいぶ違った。

木造は木造でもベニヤ板作り。その上にブルーシートがかけられていて、ベニヤの半分以上はそのシートに覆われている。入口は完全にシートに覆われ、人が通るところだけぽっかりと穴が開いている。その入り口は、昔、まだたまきが学校に行けたころ、教科書で見たモンゴルの遊牧民のテントを思い出させた。

大きさは、大型トラックの荷台くらい。天井はミチより少し高いぐらいか。きれいな立方体、というわけではなく、基盤となる大きな家に、中くらい、もしくはもっと小さい家がいくつもくっついている。

さながら、ベニヤ板のおばけのような風体だが、公園の最深部、木々やオブジェの死角となる場所で、積極的に探そうとしない限り、見つかることはないだろう。

おじさんは二人に少し外で待つように言うと、大きな空き缶の袋を抱えて中に入っていった。二人がどしゃ降りの中で傘を差し、外で1分ほど待っていると、おじさんが顔を出し、手招きをした。

中は薄暗く、意外と暖かかった。全体の四分の1は土間になっていて、残りはブルーシートが敷かれていた。シートの上にはちゃぶ台が置かれ、上にはカップ酒と、おつまみらしきものが置かれていた。ホームレスらしき男性が数人、その周りを囲んでいる。

光源は二つ。

一つは板張りの天井からつるされた電球だった。白熱電球というのだろうか。でも、白というよりはオレンジ色の光を放っているので、また別の名前があるのかもしれない。

そしてもう一つ。土間の奥の方にくず入れぐらいの大きさの四角い缶が置かれていた。缶の中には枝が突っ込まれていて、枝の下の方が赤々と光を放っている。たき火だ。

暖かいのはありがたいのだが、においが鼻につく。町中でホームレスの人とすれ違うとにおってくる、あの匂いだ。たまきは隣のミチの顔を見上げた。ミチは顔を少ししかめていた。

そのにおいのもとは、「イオリ」の奥にいるホームレスたちから漂っているのに間違いなかった。みな、四十歳を超えているだろうか。浅黒い肌と、白髪交じりの長い髪が対照的だった。

彼らはみな、異質なものを見る目で人のことを見ていた。中年のおじさんばかりの小屋の中に。未成年が二人入ってきたのだ。無理もない。人の視線が苦手なたまきは、少し後ずさりした。

そして、たまきはあることに気付いた。

この小屋の中で、女性は自分しかいない。

たまきはミチがわきに抱えていた彼のシャツをぎゅっと握ると、振り返って出口を確認した。

二人を案内したそら豆のおじさんが、ホームレス集団の中央にいる男に声をかけた。

「あっちの女の子の方が、前に話した女の子ですよ、センさん」

センさんと呼ばれた男は、二人をにらむように見ていた。品定めしているようでもある。浅黒い肌に長い白髪交じり、灰色のもじゃもじゃのひげ。キャップをかぶり、丸いメガネをかけている。その視線には、不思議と知性と貫禄を感じた。

ホームレスの一人が、二人によれよれのバスタオルを持ってきた。

「風邪ひくぞ。ふきな」

「ど、どうも……」

たまきはどもりながらもバスタオルを二つ受け取ると、少しきれいな方をミチに渡し、もう一方で自分の頭をわしゃわしゃと拭き始めた。服も濡れてしまっているが、こんな状況で脱ぐわけにもいかず、バスタオルを肩にかけると、たまきは焚火のそばに行き暖を取った。スカートの先からぽたぽたと水滴が地面に落ちる。

そら豆のおじさんが二人に近づくと、優しく微笑みかけた。

「雨が上がるまでここにいなよ」

「……おじさんは今、ここに住んでるんですか?」

「ああ、そうだよ」

おじさんがうなづく。

「今、センさんのところに泊めてもらっているんだ」

「センさん?」

たまきが、さっきセンさんと呼ばれていた眼光鋭い男をちらりと見る。

「そう、あの真ん中の人。『仙人』とか『仙さん』って呼ばれてるんだ」

そう言われてみると、確かに仙人っぽい。

「あの人が、この辺のホームレスのまとめ役なんだ。いろいろ面倒見てくれるんだよ」

舞先生みたいなものかな、たまきはそう思った。

たまきは仙人の方を見ると、「ありがとうございます」といってぺこりと頭を下げた。しかし、仙人は何も反応しない。

「しかし、すごい雨だねぇ」

そら豆のおじさんがテントの外を見ながら言う。その言葉に、ミチが笑いながら返した。

「まあ、よくあるゲリラ豪雨っすよ」

「いや」

重くハスキーな声が響き、たまきは声がしたほうを見た。

「わしらが若いころはこんな降り方はしなかった。地球温暖化の影響か、別に理由があるのか、いずれにしろ、異常気象だ」

声の主は仙人だった。仙人は腕組みしたまま、少し怒ったように続けた。

「異常が何年も続くと、みな異常だと思わんようになる。だが、異常は異常だ」

本当に面倒見がいい人なのかな、とたまきは思ったが、そういえば、舞もあんな突き放した言い方をする気がした。

「お前たち、見覚えがあるぞ。よく階段の上にいっしょにいるな」

仙人が再びハスキーな声で話し始めた。

「ボウズの方はほぼ毎日見るな。ギターでなんか歌っとる。お嬢ちゃんの方はたまに見るな。いつもボウズの隣で、何やら絵をかいとる」

見られていたのが恥ずかしくてたまきは下を向く。

「お前ら、付き合っとるのか?」

「あ、やっぱ、そういう風に見えます?」

「ちがいます! そういうんじゃないんです!」

「・・・・・・だろうなぁ」

仙人は顔を真っ赤にして首を横に振るたまきを見ると、納得したかのように呟いた。

「そういう風には見えんから、聞いてみたんだ」

雨はいまだやむ気配がない。それどころか雨脚は強くなり、傘をさしてもあまり役に立ちそうにない。

「ボウズ」

仙人はミチを見ると、ミチの持っているギターケースに目をやった。

「なんか歌え。いつもこの辺で歌ってるやつだ」

「え、なんで?」

ミチが少しいやそうに答えた。

「お前ら、わしらの家で雨宿りさせてもらってるんだから、わしらに何かお礼をするのが筋ってもんだろう?」

「いや、家ってここおっさんたちの家じゃないじゃん。不法占拠だろ?」

「……ごめんなさい」

謝ったのは仙人でもほかのホームレスでもなく、たまきだった。

「それに、たき火とかこういうのやっちゃいけないんじゃないの?」

どうしてそんな突っかかるような言い方なんだろう、とたまきはミチを見て、その後仙人の方を見た。しかし、仙人は表情を変えることなく口を開いた。

「なるほど。ボウズの言う通りだ。お前さんが正しい。おい、みんな、今すぐこの小屋をばらしてここから出ていこう。たき火は消しておけ。ただし、二人とも、傘は返してもらう。それはわしらの金で買った、正当なわしらの所有物だからな」

そういうと仙人はよいしょと立ち上がった。他のホームレスたちも立ち上がり、壁に手をかけ、ベニヤ板がみしみしと音を立てる。仙人はペットボトルを持ってたき火のもとへ来て、たき火に水をかけようとした。

「ちょ、ちょっと待って!」

あわてたのはミチの方だった。この大雨の中、傘を取り上げられて放り出せれてはたまらない。

「悪かったよ。歌うよ」

ミチがそういうと、ホームレスたちはみな、もといた場所に戻っていった。仙人も、にやりと笑いながら腰を下ろす。

ミチはギターを取り出すとピックを口にくわえてチューニングを始めた。チューニングしながら、隣のたまきに問いかける。

「何歌えばいいと思う? なんかリクエストある?」

たまきは下を向いて考えを巡らせたが、ミチを見上げて、自分の一番好きな曲名を伝えた。

「『未来』って曲が……私は好きです……」

「『未来』ね、オーケー」

ミチは口にくわえたピックを手に取ると、ホームレスたちの方を向いた。

「えー、ミチで『未来』です。聞いてください」

ミチは勢いよくギターをストロークすると、歌い始めた。

――青空の中、飛行機雲がどこまでの伸びていった

――あの先に未来が待っている そう信じ力強く羽ばたくよ

たまきは珍しく、ミチを見ていた。

ミチの声は力強く、ハイトーンながらも、ややハスキーなところもあった。

歌う前は渋っていたミチだが、歌い出すとなんだかんだ楽しそうだ。笑顔が焚火に照らされ、オレンジに輝いている。いつもはたまきしか聞いてくれる人がいないが、今日は他にも何人も聴衆がいる。それがミチのテンションをさらに上げているのかもしれない。

ミチ君は、本当に歌うことが好きなんだ。たまきはそんなミチがとてもうらやましかったが、なぜか口元が緩んでいる自分に気が付いた。

2番のさびが終わり、間奏に入る。間奏と言っても楽器はギターしかなく、ミチが口笛でメロディを奏でるのだが。たまきは、以前ミチが「ハーモニカが欲しい」とぼやいていたことを思い出した。

たまきはホームレスたちの方を見た。たまきより背の高いミチを見上げ続けて首が疲れてきたのもあるが、おじさんたちの反応も気になった。

おじさんたちはみな、つまらなそうにミチを見ていた。そのことにたまきは思わず目を見開いた。

曲調も決して、おじさんには受け入れられないようなジャンルじゃないはずだ。テンポはやや速いけど、ロック系の音楽が苦手なたまきでも好きだと言える曲なのだから。

――僕の歩く今が未来になる

――夢もいつか「今」に変わる

――明日を変えなければいけないんだ

――未来が僕を待っている

最後のサビが終わり、ミチがギターをじゃかじゃかじゃんと弾いて、演奏が終わった。ミチは「ありがとうございました」と言って頭を下げた。

そら豆のおじさんは微笑みながら拍手をしていた。他にもまばらに拍手があったが、大半は無反応だった。

しばらく静寂が流れる。やがて、仙人が口を開いた。

「声はよかった」

仙人は厳しい目つきのまま言った。

「メロディも悪くない。だがな、歌詞はひどい。ラジオでやっとるヒット曲の切り貼りだ」

「切り貼り?」

ミチが少し苛立ったように聞き返した。

「最近の若い者は、『コピペ』というのか?」

「あぁ?」

ミチの声に、たまきが驚きミチを見る。

「ふざけんな! 俺の歌は、パクリじゃねぇよ!」

「ミチ君……!」

たまきはミチのズボンを引っ張ったが、ミチはそれをふりほどいた。

そんなミチに対し、仙人は勤めて穏やかだった。

「別に盗作とは言っとらん」

「さっきコピペって言ったじゃねぇかよ!」

「そういう意味で言ったんじゃない。あの歌詞は、確かにお前さん自身が書いたものなんだろう。だがな、どこかで聞いたような言葉ばっかりだ。まるで、ヒット曲の歌詞を切って貼ったみたいだ。もちろん、お前さんにそんなつもりはないんだろうが、お前さんがこれまで聞いてきた曲の歌詞によく似た言葉で埋め尽くされている。違うか?」

ミチは黙ったまま仙人を見ている。

「お前さんの言葉で書いたんだろうが、本当の意味ではお前さんの言葉になっとらん。そんなんでは多少歌がうまくても、本当に人の心を打つことはできん。ま、売れる売れないはまた別の話だがな」

仙人の言葉を聞いていると、なんだかたまきまで悲しくなってきた。

ミチは肩を震わせながら仙人をにらむように見ていた。やがて、

「ホームレスなんかに何が分かんだよ……」とつぶやいた。

「ああそうだ。所詮はホームレスの戯言だ。社会の最底辺だ」

仙人はミチの言葉にも表情を崩さなかった。むしろ、少し笑っているようにも見える。

「だがな、そういったやつの心に響かないと意味がないんじゃないのか? 特に、さっきお前さんが歌ってたのは、いわゆる『応援歌』ってやつだろう? わしらみたいなものを励ませないと意味がないのではないのか? それとも、CDも買えないようなホームレスを励ますつもりなんかないか?」

仙人が喋っている間、ミチは口を堅く結んでいた。やがて口を開くと

「……おっさんのゆうとーりっす」

と力なくつぶやいた。

「……すんませんでした」

「何を謝る」

仙人は笑いながら言った。

「侮蔑と偏見は、若者だけの特権だ」

そういうと、仙人はたまきの方を見た。

「お嬢ちゃんの絵も見せてもらえんか?」

たまきは困ったように下を見た。

できれば、自分の絵なんて誰にも見せたくない。自分が好きなミチの歌がぼろカスにけなされたのだ。たまきのへたくそで暗い絵なんて、けちょんけちょんにけなされるに決まってる。

そうでなくても、絵を見られるのはとにかく嫌なのだ。何がそんなにいやなのかわからないが、今この場で裸になれと言われているような感覚だ。理由なんかない。恥ずかしいものは恥ずかしいし、嫌なものは嫌なのだ。

だけど、ミチが仙人たちの前で歌って、ぼろカスのけなされたのだ。なのにたまきが絵を見せないというのは、アンフェアである。

たまきは、肩にかけたかばんからスケッチブックを取り出した。スケッチブックの方がかばんより大きく、かばんからはみ出ていたが、たまきが身を挺して守ったおかげで大して濡れていない。

たまきは下を向きながらスケッチブックを仙人に差し出した。仙人は身を乗り出してスケッチブックを受け取ると、中を見始めた。

もういやだ。お願い。見ないで。

たまきは今にも泣きそうな顔で、ぱちぱちと燃えるたき火を見ていた。仙人に絵を渡さないで、たき火の中に突っ込んで燃やしてしまえばよかった。

たまきは、恐る恐る仙人を見た。仙人は目を見開いてたまきの絵を見つめていた。その後ろに群がるように、ほかのホームレスたちが覗き込んでいる。

もうやめて。お願い。そんなに見ないで。

 

小さいころからよく絵を描いていた。学校へ行っても友達があんまりいなかったので、休み時間もいつも絵を描いて過ごしていた。通知表で2と3が並ぶ中、図工だけは4だった。

中学に上がり、たまきは美術部に入った。美術部の仲間とは、クラスメイトよりは仲良くできた。しかし、そこでは新たな問題があった。

みんな、たまきよりも圧倒的に絵がうまかったのだ。たまきはクラスとは違う劣等感を感じざるを得なかった。

おまけにどうしても明るい絵が描けない。たまきの絵が美術部内やコンクールで評価されることなんてなかった。

 

「この絵を、お前さんが描いたのか」

仙人はそういうと顔をあげ、たまきをじっと見据えた。たまきはほんの少しだけ、仙人と目を合わせたが、すぐに下を向いてしまった。

「……はい……」

のどが自転車で轢かれて潰されたかのように声が出ない。

しばらく沈黙が続いた。たまきは、そら豆のおじさんにもう一度殺してほしいと頼みたくなった。

「都庁の絵が多いね。よく描けてるよ」

そら豆のおじさんは微笑みながらそう言った。しかし、

「いや」

という仙人の低いハスキーな声が、たまきのうなだれた頭をハンマーのように撃ちつけた。仙人はスケッチブックに目をやる。

「確かに、都庁を描いたんだろう。都庁に見える。だが、実際の都庁はこうではない。線の書き方、影の付け方、比率、そういうのが実際の都庁と違う」

たまきは、自分の濡れたスカートのすそをぎゅっと握った。水がジワリと指の間からにじみ出て、ぽたっぽたっと地面に落ちる。

「都庁の手前の木の描き方もおかしい。あの階段に腰かけて描いたんだろう。だったら、こういう風にはならない」

そう言うと、仙人はスケッチブックから目を離し、再びたまきを見た。うなだれるたまきの、メガネのふちを、さっきよりもしっかりと見据えた。

「お前さんには、世界がこんな風に見えてるのか……」

仙人の言っている意味がよくわからず、たまきは顔をあげた。仙人が真っ直ぐとたまきを見据えていたが、不思議と怖くなかった。

「……フィンセントを知っているか?」

だれだろう。たまきは首を横に振った。

「フィンセントは十九世紀のオランダの画家だ。フィンセントの絵は、風景画や静物画、自画像を描くくせに、ちっとも写実的ではない。写実的な絵が描けるにもかかわらず、だ」

仙人は、まっすぐたまきの方を見ながら語りかけた。

「絵筆の痕がはっきりとわかる荒々しいタッチだ。勢いに任せて筆を走らせ、その躍動感ごとカンバスに刻み付けている。それでいて、色の配置が絶妙だ。計算して色を置いているのか、直感で色を選んでいるのか、わしにはわからん」

そのフィンセントという画家の絵と私の絵、どう関係があるんだろう。

「きっと、フィンセントには世界がそう見えているんだろう」

そう言うと、仙人は今までで一番優しい目をした。

「お嬢ちゃんの絵を見て、フィンセントを思い出した」

 

たまきは不安げにミチを見上げて、再び仙人に視線を戻した。仙人の言っている言葉の意味が、今一つつかめない。

口を開いたのはミチだった。

「つまり、たまきちゃんの絵がフィンセントって画家の絵に似てるってこと……」

「まったく似てない」

ミチが言い終わる前に仙人が打ち消した。

「画風もタッチも全く違う。そもそも、技術に雲泥の差がある。フィンセントはプロとしての確かな技術があった。お嬢ちゃんのは、せいぜい中学校の美術部員ってところだろう」

正解すぎてぐうの音も出ない。

「だが、フィンセントの絵があそこまで人を惹きつけるのは、単に技術力の問題ではあるまい。素人目には、絵なんてうまいか下手かの二択でしかない」

仙人はたまきを見据えながら続けた。

「そうではなく、フィンセントにはああいう風に世界が見えていた。あの絵は、写実画なんだ。フィンセントは自分が見たままの世界をそのまま描いたんだ。だからこそ、いまなお高い評価を受けている」

そう言うと、仙人はたまきにスケッチブックを返した。たまきは申し訳なさそうに受け取る。

「お嬢ちゃんにも、フィンセントのような感性と表現力がある。画力はこれからあげていけばいい。そんなものよりも大切なものを、お嬢ちゃんは持っている。画力なんて、お嬢ちゃんの見ている世界を描くための道具にすぎない。むしろ、お嬢ちゃんの見ている世界をきちんと表現するために、画力を上げるんだ」

たまきは、この上なく不安げに仙人を見た。そして、ずっと気になっていたことを仙人に尋ねた。

「あの……私は……褒められているんでしょうか……」

「ああ、そうとも」

再び仙人はやさしく微笑んだ。仙人のメガネに、たき火のオレンジの暖かな光が写りこんでいた。

 

そら豆のおじさんが庵の外を見た。さっきまで泣きたいぐらいにどしゃ降りだったのに、いつのまにか雨はしとしと降っていた。これなら、傘を差せば帰れそうだ。

「その傘はお嬢ちゃんにあげよう。その代り、またお嬢ちゃんの絵を見せてくれんかね?」

「え、……は、はい」

たまきは戸惑ったように答えた。

「ボウズにも傘をやろう。新曲ができたら聞かせに来るといい」

「……またぼろくそに言うんでしょ?」

「また切り貼りだったらそうなるな」

仙人はにやりと笑いながらそう言った。

 

小雨がしとしと降る中、都庁のわきの道を二人は駅に向かって歩いていた。紺色のコウモリ傘を差したミチ。その後ろを若草色の折り畳み傘を差したたまきがとことこと歩いている。

たまきは歩きながら、ミチの背中を見ていた。絞ってよれよれになったシャツに、黒いギターケースを担いでいる。

ふと、ミチの方が大きく下がった。

「……自信失くした」

その声に、たまきはうつむいた。ミチは少し歩調を落として、たまきが横に並ぶのを待った。

「いや、実力もねぇのに、自信ばっかあったんだな、って思い知らされたよ。悔しいけどさ、あのおっさんのゆうとーりなんだよ」

二人は地下道に入った。傘をたたむ。休日の夕方近くだからか、ゲリラ豪雨の後だからか、いつもに比べて人が少ない。

「だからさ、たまきちゃんに言ってたことも、たぶん、あのおっさんのゆうとーりなんだと思う。すごいよ、たまきちゃん」

ミチの言葉に、たまきはブンブンとかぶりを横に振った。力強く振ったので、メガネが少しずれる。

「……私の絵なんか、すごくなんかないです」

「……俺さ、絵心ないし、絵の良しあしなんかわかんないけどさ、たまきちゃんはやっぱうまいとおもうよ」

「……中学の美術部レベルです」

「独特で面白いと思うし。あのおっさんみたいに何がいいとか細かく言えないけどさ」

「……中学の先生に『不気味』って言われました」

そう言いながらも、たまきは仙人の言葉を一つ一つ、頭の中で反芻していた。

褒められるなんてだいぶ久しぶりだ。それこそ、「はじめて歩いた」とか「はじめて喋った」時以来かもしれない。つまり、褒められた記憶なんてほとんどない。

中学の美術部では、決してたまきは特別な存在ではなかった。突出した技術も才能もなく、入賞するようなこともなかった。

なのに、なんで美術部に入ったんだろう?

小学校のころは、休み時間は絵を描いていてやり過ごしていた。自由帳がたまきの唯一の友達だった。

そう、「絵」はたまきにとって友達だった。誰も友達がいない教室で、絵を描いて世界と対話することがたまきの唯一の救いだった。

その時間だけが、たまきの唯一の楽しみだった。

もっと記憶をさかのぼれば、幼いころの自分が見えた。父と母、そして姉。姉が美少女アニメのお人形で遊んでいる中、たまきはクレヨンでずっと絵を描いていた。動物の絵、町の絵、家族の絵……。ずっと、ずっと、ずうっと。

「……思い出しました」

たまきがそう言って立ち止まった。ミチは2,3歩進んだところでたまきがついてこないことに気付き、振り返った。

「……私、絵を描くことが、好きだったんです」

いたくもない教室での唯一の友達。たまきは絵を描くことで時間を押し流し、なんとか学校に通っていた。でも、たまきよりうまい人なんていっぱいいて、たまきの絵は誰からも褒められない。むしろ、不気味だと顔をしかめられた。いつしか自信を無くし、「絵を描くことが好き」、そんな当たり前のことを忘れてしまっていた。

でも、たまきは絵が好きだった。

絵をほめられたことよりも、そのことを思い出せたことの方がうれしかった。そのきっかけをくれた仙人に、心の中で頭を下げた。

「……今まで、好きでもないのに絵を描いてたの?」

ミチの質問に、たまきはこっくりとうなづいた。

「ずっと忘れてました。むしろ、自分の絵なんて嫌いでした」

そう言うと、たまきはカバンを胸の前でしっかりと抱き止めた。カバンからスケッチブックが飛び出ている。

「……でも、好きになってもいいのかも……」

そう言うとたまきは、少し恥ずかしそうに笑った。

その横で、ミチは大きくため息をつく。

「いいなぁ。たまきちゃんはあんなに褒められて」

人に羨ましがられるなんて、初めての経験だ。たまきは思わず下を向く。自分の鼓動が早くなっているのがわかる。

「それに比べて俺なんて……。なんか、死にたくなってきた」

「簡単にそんなこと言わないでください!」

たまきの珍しくも強い口調に、ミチは半歩後ずさった。

『えぇ~、たまきちゃんがそれ言う?』

と、

『……なんかたまきちゃんが言うと、説得力あるなぁ』

の二つの言葉が声帯のところでぶつかって、言葉にならない。

「……私は、ミチ君の歌は、うまいと思います」

「……ありがとう。でも、うまくても、歌詞が切り貼りなんだってさ……」

そこでまた、ミチは深くため息をつく。

ふと気づくと、またたまきがついてこなかった。ミチは振り返る。

たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、まっすぐにミチの目を見ていた。

「私は……好きです。ミチ君の、バカみたいに前向きで明るい歌が。聞いてる間、何も考えなくていいので、……私は好きです」

「それってさ……俺……、褒められてるの……?」

たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、ミチの目をまっすぐ見つめながら、力強くうなづいた。

 

「はい、どうぞ」

志保がプラスチックのカップに、インスタントのスープを入れてたまきに渡した。

生暖かい風の吹く外とは違い、「城(キャッスル)」の中は冷房が効いていて、たまきは帰ってきてすぐにくしゃみをした。ようやく服を着替えられたが、志保が「風邪ひくといけない」とスープを作ってくれた。たまきはそれをふうふうと冷まして飲む。

「へえ、あのおじさん、元気だったんだ」

「はい」

志保は、たまきがおじさんに再会した話に喜んだ。

「志保さんの言葉に励まされたって言ってました」

「ほんと? よかったぁ! 気になってたんだぁ。亜美ちゃん、あのおじさん、元気だったって!」

志保は部屋の奥でソファに転がっている亜美に声をかけたが、亜美は興味がないらしく、

「ふうん」

とだけ言って携帯電話をいじっていた。

たまきは1つだけ、気になっていることがあった。志保なら知っているかもしれない。

「志保さん、聞きたいことがあるんですけど……」

「なに?」

志保は笑顔で聞き返した。ここしばらく、志保は体調がいいらしい。本当に笑顔が似合う。

志保に聞こうとして、たまきは聞きたかったことの名前をちゃんと覚えていないことに気付いた。何て名前だっけ。

「志保さん、……ピンセットって画家知ってます?」

「ピンセット?」

なんか違う、そう思いながら口にしたのだが、志保の反応を見る限り、やっぱり違うみたいだ。

「……ピンセットじゃなかったかもしれません」

「ごめん。美術史はあんまり詳しくないんだ」

たまきは、必死に仙人の言葉を思い出していた。

「オランダの人で……、十九世紀の人だて言ってました」

それは思い出せるのに、何で名前は出てこないんだろう。志保も頭を悩ませている。

「その画家がどうかしたの?」

「今日あった人が、私の絵を見て、その画家のことを思い出したって……」

「これじゃね?」

そう言ったのは亜美だった。どうやら、携帯電話で検索をかけたらしい。

「十九世紀のオランダ人の画家で、似た名前の奴いたぞ。フィンセント・ファン……」

「あ」

たまきの中で、パズルのピースがピタリとはまった音がした。

「それです。ピンセットじゃなくて、フィンセントです」

「じゃあこれだ。フィンセント・ファン・ゴッホ」

「ゴッホ?」

驚きの声を上げたのは志保の方だった。たまきも自分の耳を疑った。

「ゴッホって、あのゴッホ?」

「じゃねぇの?」

亜美は携帯電話の画面を見せた。画質の荒い「ひまわり」が出てきた。

画面をスクロールさせると、いくつかゴッホの絵が出てきた。夜空を描いた絵、海辺を描いた絵、自分を描いた絵。

絵筆の後がはっきりとわかる荒々しいタッチだ。まるで、絵筆の痕跡をわざと刻み付けたかのようだ。それでいて、計算したのか直感で選んだのかはわからないが、色の配置が絶妙だ。

そうかと思えば、本を描いた絵は細かく写実的だった。

たまきは、仙人の言葉を思い出した。ゴッホは、そういう風に世界が見えていたんだ。

「たまきちゃん、ゴッホの絵に似てるって言われたの? すごいじゃん!」

「……いや、『思い出した』って言われただけで、全然似てはいないそうです」

「それでもすごいよ! ねえ、見せて見せて!」

「あ、うちも見たい!」

たまきは困ったようにスケッチブックを見た。たまきにとって絵を見られるということは、裸を見られるに等しいことで……。

……この二人なら、べつにいいか。一緒にお風呂に入る関係だ。

たまきは少し顔を赤らめながら、スケッチブックを差し出した。二人がスケッチブックを覗き込む。

「へぇ、たまきちゃん、絵、うまいじゃん」

と志保。

「おもしろい絵だな。なんかさ、Ⅴ系のジャケットでこういう絵ない?」

と亜美。

「そういえばさ」

と亜美が切り出した。

「ゴッホって最後、死んじゃったんじゃないっけ」

「……そりゃ、十九世紀の人だもん。もう、死んじゃったよ」

「そうじゃなくてさ……、確か最後……」

「ああ」

志保が何かを思い出したように声を上げた。

「ゴッホって最後、自殺しちゃうんだよね」

そう言ってからしばしの沈黙を置いて、志保はタブーを口にしてしまったのではないかと不安げな顔でたまきを見た。

しかし、たまきは平然とした顔で、

「そこだけ……似てますね」

と言うと、いとおしげにスケッチブックを見つめていた。


次回 第9話 憂鬱のち誕生日(仮)

亜美の誕生日を祝うことになったたまき。祝いたい気持ちはあるんだけど、何をしたらいいのかがわからない。志保は絵を描けばいいじゃないかと勧めるが、たまきの暗い絵は誕生日には向いていない……。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第7話 幸せの濃霧注意報

明日がいらない自殺志願の少女・たまきが一人で留守番をしていると、そこに合同が現れる。強盗に「殺してください」と頼むたまき。そこに帰ってきた亜美は強盗に飛び蹴りを浴びせる。「あしなれ」第7話はドタバタコメディ?


第6話 強盗注意報と自殺警報

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「お城みたい」

志保(しほ)はそうつぶやいた。

夕方ごろから始まった交通渋滞のせいで車はなかなか進まない。舞(まい)と志保は渋滞が解消されるまで、通り沿いのショッピングセンターで一休みすることにした。

買い物を一通り終え、喫茶店で一息つく。薄暗い照明の中で、志保はコーヒーを、舞は紅茶を飲んでいた。ふと、窓の向こうを見ると、土砂降りの向こうにビル群が見える。

都庁を中心とした高層ビル群。このビル群の日陰になるように、志保たちが暮らす繁華街が広がっている。

つやのある石のようなビルの群れだが、どこか志保に雄大さを感じさせるものがあった。

 

「ん?」

志保の言葉に、舞が聞き返した。

「いえ、お城みたいだなぁって思ったんです」

志保は窓の外を見ながら答えた。

「城ってどっちの?」

「え?」

舞の問いかけに、志保は眼を開いて、舞を見た。

「名古屋城とかのほうの城か?」

「あ、いえ、中世ヨーロッパのお城みたいだなって思ったんです」

志保は再び、ビル群の方を見た。

「ヨーロッパのお城って、王様や貴族だけじゃなくて、いろんな身分の人がいたんです。なんか、そういうところ似てません?」

「……そう言われれば、見えないこともないな」

舞が返した。窓の外は雨が降り続ける。

 

写真はイメージです

「これは……どういう状況……?」

「城(キャッスル)」に帰ってきた志保を出迎えたのは、何とも奇妙な光景だった。

最も目を引くのは、面識のないおじさんがビニールひもで縛られて、正座をさせられている、ということだろう。おじさんと向かい合うように亜美(あみ)が立ったまま彼を見下ろし、睨みつけている。その脇ではたまきが正座して、申し訳なさそうに見ている。

「このおっさんが逃げださねぇように、縛っといたんだよ」

亜美がおじさんをにらみながら、志保の方を少しだけ見ていった。

「でも……ビニールひも、痛そうですよ……。ほどいてあげませんか……」

たまきが少し心配そうに亜美を見上げながら言った。

「何言ってんよたまき! このおっさん、たまきのこと殺そうとしたんだぞ!」

「ええっ! ちょっと、それどういうこと?」

驚愕の真実に志保が驚く。そして、おじさんがあわてたように喋り出す。

「違います! その子を殺そうとしてたわけじゃ……」

「どう見たって殺そうとしてたじゃねぇかよ! じゃあ、あれか? おっさんの世代は、若い娘に刃物むけねぇと、コミュニケーションとれねぇってのか? あぁ?」

亜美が傍らに置いてあった包丁片手にがなる。亜美の方がよっぽど強盗っぽい。

「いや……その、確かに最初は殺そうとしたんですけど……」

おじさんは何て説明したらいいのかわからなくなってうつむく。実際、おじさんも自分の身に起きたこと、正確に言うと、目の前の少女が言い出したことがまだよく理解できていない。

おじさんはすがるような目でたまきを見た。たまきは、少し身を乗り出すと、亜美に言った。

「私がこのおじさんに殺してくださいって頼んだんです」

「ええっ!」

「はぁ?」

志保の何度目かの驚きの声と、亜美の呆れた声が「城」の店内に響く。

戸惑うのはおじさんも同じだ。なんだってこの子はそんなこと言いだしたのか。

だが、「アミ」という名の金髪の少女は、ため息をつくと、それですべて納得がいったかのような顔をした。

「……また、いつもの自殺願望か?」

「えっ、いつもこうなんですかこの子?」

おじさんが驚いて尋ねる。

「ああ、いつもこうなんだよ」

「あの……ちょっといい?」

志保が申し訳なさそうに手を挙げた。3人の視線が志保に集中する。

「……このおじさん……誰?」

一番重要な部分が、説明されないままに話が進んでいる。

亜美は身をかがめると、たまきに訪ねた。

「そういやこのおっさん、誰だ?」

「さあ、誰なんでしょうか……」

たまきが申し訳なさそうに答えた。

 

「お、財布はっけーん!」

亜美がおじさんのカバンから、黒い財布を取り出した。

「……亜美さん、その……、あんまり人のカバンとか財布とか見るのって、やっぱりよくないんじゃないかな……」

たまきが申し訳なさそうに言えば、志保も申し訳なさそうに

「あたしがこんなこと言う資格ないんだけどさ……」

と口を開く。

「亜美ちゃん、取っちゃだめだよ」

「とんねーよ! 今朝、わびいれて来たばっかじゃん」

亜美が笑いながら言った。

「ウチ、万引きとか中学で辞めてるから」

「昔やってたんだ……」

「そういえば、親の財布からお金取ってたって……」

「だから、それは罪になんねーんだってば」

亜美は笑顔でおじさんの財布を開ける。

「大体、金に困って強盗するようなおっさんの財布なんてあてにしてねぇし。」

そういうと亜美は、お札入れを指で広げた。中にはわずか3千円。小銭入れにも、わずかな硬貨しか入っていない。

「よし! 推理ゲームしようぜ」

「?」

亜美の提案に二人が首をかしげる。

「このおっさん無理やり脅して名前とか聞きだしてもつまんねーじゃん」

「つまんない以前に……、やっちゃいけないと思います……」

「だから、この財布やカバンの中身から、おっさんの身分とか推理するんだ。面白そうだろ」

「……だから亜美さん、あまり、人の財布覗いちゃだめですよ。……ねえ、志保さん?」

たまきが不安げに志保を見る。志保は、顔を少し赤らめ、申し訳なさそうに笑っていた。

「……ごめん、あたし、今、それ面白そうって思っちゃった」

「・・・・・・」

「よしっ、決まり」

そういうと亜美は財布のポケットから、プラスチックのカードを抜く。

「いきなり社員証とか出てくれば、一発でわかるんだけど、それじゃつまんねーよな~」

こういうのをまな板の鯉というのだろうか。おじさんは下を向いたまま黙っている。これだけおとなしい鯉なら、さぞかし料理しやすそうだ。

亜美は引いたカードを覗き込む。たまきがそれを見て口にする。

「なんですか、これ?」

たまきの言葉に亜美と志保が信じられない、といった目でたまきを見た。注目されることが苦手なたまきは思わず戸惑ってしまう。

「お前、定期券、知らないの?」

亜美の言葉で、たまきはやっとそれがなんなのか理解した。

「あ、これ、JRの定期券なんだ……」

「たまきちゃん、JR使わないんだ?」

「うちの近くの駅、私鉄だし……、私、あまり電車乗ったことないんで……。高校も行ってないから、乗るときはいつもキップだし……あんまり遠出したことなかったし……」

たまきが申し訳なさそうに下を向いた。

「でも、定期券じゃなんもわかんねーなぁ」

「そうでもないよ。ちょっと貸して」

志保が亜美の手から定期券を取った。定期券には、二つの駅名が描かれている。

「左に書いてあるのが、たぶん家の最寄り駅。右に書いてあるのが、勤め先とかの最寄駅だね」

志保は2,3秒考える。

「勤め先があるあたりは……、オフィス街だよ、東京のど真ん中の。一流企業とかあるところ」

「さすが東京人」

亜美が腕を組んで笑う。

「昔行ったことあるから」

志保が少しうつむいて答えた。しばし経って顔をあげると、再び定期券を目の前にかざす。

「家があるところは、まあ、普通の住宅地じゃない?」

「つまり、一流企業に勤める、普通のおっさんってところか」

亜美がおじさんを見下ろしながら言った。

「そいつが、会社をクビになって、金が必要になって強盗した、ってところだな」

亜美がにやりと笑い、志保がうなづく。

「うん、この定期、3カ月前に切れてる。」

「志保さん、探偵みたい」

たまきのつぶやきに、志保は少し照れた。

「さぁて、お次は何かなぁ?」

亜美は躊躇なく財布の中身をあさり始める。

「ん?」

亜美の指が薄い紙を探り当てた。亜美は写真をつまみ出した。

写真には、二人の少女が映っていた。1人は高校生くらいだろうか、茶色い長い髪でセーラー服を着ている。もう一人は中学生くらいで、黒い髪に弦の細いメガネ、学校の制服を着ている。

「お、このおっさん、ロリコンかよ」

「いや、普通に考えて、娘さんじゃない? この二人、顔だち似てるし、姉妹なんじゃないかな」

志保がおじさんを見やりながら言う。

たまきは写真を覗き込んだ。姉妹の妹の方が、少し自分に似ているような気がした。

「あのぅ」

か細い声でおじさんが言った。

「その……、警察だけは……」

「あ?」

亜美が聞き返す。

「警察だけは……、勘弁してください……」

「おっさん、なに、ムシのいいこと言ってんだ?」

亜美が呆れたようにおじさんを見る。

「人の金盗もうとして、警察はやめてくれなんて、おっさん、ふざけてんのか?」

「ごめんなさい……」

謝ったのは、おじさんではなく、志保だった。

おじさんは、じっとうつむいていたが、顔をあげると、少しだけ声を張り上げた。

「お願いします。本当に申し訳ないことをしました。謝ります。ですから、警察だけは勘弁してください」

「ごめんで済むならケーサツはいらねーんだよ!」

亜美の怒号が「城」の中に響いた。

「亜美ちゃん……、今朝と言ってること、違うよ……」

志保が亜美の背中越しにつぶやいた。

「あ? 今朝? ウチ、今朝なんか言ったっけ?」

「それにさ……」

志保が亜美の背中越しに続けた。

「警察ここに呼んで困るのは、あたしたちも一緒だよ」

亜美は、天井を見上げると、「城」の隅に移動した。

「たまき、志保、集合」

言われるままに、たまきと志保が亜美のもとへと移動する。亜美は、おじさんに背を向けると、小声で二人に話しかけた。

「どうする?」

「どうするって……さっきも言ったけど、ここに警察呼んで困るのは……」

「……私たちですよね」

三人は不安そうに顔を見合わせた。

「三人そろって不法占拠」

「私は家出中だから、警察が来たら家に帰されるかも……」

「あたしは、ドラッグで少年院行きかな……」

三人は再び顔を見合わせた。亜美が二人の肩を抱く。

「おい、このことは、絶対あのおっさんにばれたらだめだ」

「なんでですか?」

「なんでって、足元見られて、なめられるだろ?」

亜美の答えに、たまきはおじさんを見やった。うつむいたまま動かない。ビニールひもで縛られた姿は、荷物みたいで、なんだかかわいそうにも思えてきた。

ふと、おじさんと目があった。最初に、たまきに包丁を向けた時と、同じ目をしていた。

あの時、たまきは妙に冷静だったので、おじさんの目をはっきりと覚えていた。

今にして思うと、おじさんの目は、怯えたような目だった。

「亜美さん」

たまきは、亜美の方を見ると、心細そうに言った。

「あのおじさん、逃がしてあげませんか」

「そんな、捕まえた鈴虫じゃねぇんだから……」

そういうと、亜美は少し考えるように宙を見てから、言った。

「っつっても、ここに置いとくわけでも、ケーサツに突き出すわけにもいかねぇしな」

亜美はおじさんに近づき、しゃがみこんだ。

「おっさん」

「はい」

おじさんが上ずったか細い声で答える。

「うちらはジヒ深いから、おっさんを逃がしてやる」

「ありがとうございます」

おじさんは縛られたまま、深々と頭を下げる。

「逃がしてやる代わりに、なんで強盗なんかしたのか、その理由を教えろ」

その言葉に、おじさんはうつむいた。

「あの・・・・・・」

「なんだ?」

「自分、その、強盗に入ったわけじゃないんです……」

「あ?」

亜美が睨みつけると、おじさんはうつむいたまま続けた。

「……自分は、空き巣をするためにここに入ったわけで……」

「は?」

「包丁も、強盗するために買ったんじゃなくて……、お守りとして……」

その言葉に、たまきははっとした。たまきも、お守りとしてカッターナイフを持ち歩いているからだ。

いつでもどこでも、速やかにこの世からエスケープするために。

刹那、亜美が手に取った灰皿を思い切りテーブルに叩きつけ、空気を切り裂き破るような甲高い音が「城」の中にこだまする。たまきは背筋がびくっとなる。

「てめぇ、何ふざけたこと言ってんだ! 強盗するつもりはなかっただぁ? たまきに包丁突きつけてるところ、ウチは見てんだよ! たまき! お前、このおっさんになんて言われた!」

「お、お金を出さなきゃ、殺すって……」

「それみろ」

亜美が勝ち誇ったようにおじさんをにらむ。

「でも、そのあと殺してくださいって頼んだのは、私で……」

「そっから先はどーでもいいんだよ!」

亜美は今度は、志保の方を向いた。

「志保、このおっさん、強盗罪だろ! そうだろ!」

「……計画性はないけど、たまきちゃんに刃物向けて、お金出せって言っちゃったんなら、強盗未遂じゃない?」

「それみろ!」

「でも、その後たまきちゃん、自分から殺してくださいって」

「だから、そっから先はどーでもいいんだよ!」

そういうと、亜美はおじさんにぐいと顔を近づけた。

「とりあえずおっさん、なんで強盗したのかいえ。じゃねーと、この紐、ほどかねーぞ」

「警察に突き出すわけじゃないんだし、動機なんてそれこそどーでもいいんじゃないかな」

「どーでもよくねーよ。なんか、もやもやすんじゃん!」

亜美は、まったく論理的じゃない答えをした。

「要は、亜美ちゃんの楽しみのために、動機を言えってこと?」

「……そういう人なんです、亜美さんは」

たまきと志保はあきれたように顔を見合わせた。

おじさんは思いつめたようにうつむいたまま、話し始めた。

「……会社を、半年前にクビになったんです。」

「いや、それはわかってんだよ」

亜美が呆れたように言った。

「それで、半年ほど家にいて……就職活動したんですけど、見つからなくて」

「で?」

「家にいたら妻や娘たちに疎まれるようになってきて……、先月、家を出たんです。十万持って、ビジネスホテルとかを転々としてたんですけど、お金が底を突いて、それで……」

たまきは亜美の顔を見た。明らかに「ありきたりすぎてつまらん」といった顔をしている。

「あの……、亜美さん、おじさん逃がしてあげませんか……」

たまきはもう一度聞いてみた。亜美の答えはあっさりしたものだった。

「あ、いいよ」

もう、おじさんに興味を失ったらしい。

しかし、ビニールひもはきつく縛られ、結び目はほどけない。

「これつかったら?」

と、亜美がおじさんの包丁を差し出す。志保が驚いたように制する。

「いやいや、危ないでしょ」

「ちょっと待っててください」

たまきは自分のカバンから、黄色いカッターナイフを出した。それで、ビニールひもを1本1本こするように切っていく。

3分ほどかけて、おじさんは自由の身になった。おじさんの持ってきた刃物は危ないので、「城」においていくことになった。

「…ご迷惑をおかけしました」

ドアを背にそう言うと、おじさんは深く頭を下げた。

「これからどうするんですか? お金、ないんですよね?」

たまきの問いにおじさんは、

「さあ……」

と寂しそうに頭を振るだけだった。部屋の中にはかすかに雨音が響く。

たまきは、ドアの横の傘たてからビニール傘を引き抜くと、

「あの……」

とだけ言って、おじさんに差し出した。

おじさんは傘を受け取ると、

「ありがとうございます」

と、小さく頭を下げた。

 

写真はイメージです

おじさんが去り、「城」の中は何とも言えない静寂が漂う。夕飯を済ませ、テレビをつけると、あっという間に午後9時だ。

近所の銭湯は400円で入れる。銭湯と言っても、ビルの一角でそんなに広くない。いつも閑散としていて、ほとんど3人の貸切だ。

「あの……」

湯船の中からの、たまきのつぶやくような声もかすかに反響している。

「幸せってなんですか?」

髪を洗っていた志保と、体を洗っていた亜美が驚いてたまきを見る。

「いきなり、何言ってんだ、お前?」

「なんか、哲学的だね」

「わかんなくなっちゃって……」

風呂という完全無防備な場所で、同居人とはいえ、他人の視線を一気に集めてしまい、恥ずかしくなったたまきは湯船に身をうずめる。

「だって、あのおじさん、結婚して、子供もいて、それでも全然幸せそうじゃなくて……」

「会社クビになっちゃったからねー」

と志保が残念そうに言う。細い体に細い腕で、栗色の髪を泡立てている。

「でもさー、あのおっさん、家族いんだろ? 家族が支えりゃいーじゃん。うっとうしがって見捨てるとか、薄情じゃね?」

亜美がつやのある体を磨くように洗いながら言った。

「そうでもないよ」

そういったのは、志保だった。

「一番最初に裏切るのは、家族だよ」

志保は伏し目がちに言った。

たまきも、湯船の陰でこくりとうなづいた。

「あ~、でも」

と、亜美が浴室にこだまするように言った。

「ウチも、オヤジが仕事クビになって、ずっとうちにいたら『うっとうしいからどっかいけ!』って言っちゃうかもなぁ。おっさんの家族の気持ち、わかるよ」

「亜美ちゃんって、一貫性ないよね……」

志保が呆れたようにつぶやいた。そして、たまきを見ながら言った。

「たまきちゃんにとって、幸せって何?」

「え?」

頭の上にメガネを置いた、たまきの子猫のような目が大きく見開かれる。

「しあわせ・・・・・・?」

「ウチは、男と・・・・・・」

「亜美ちゃん、ちょっと黙ってて」

浴場の外にまで聞こえそうな亜美ののんきな声を、志保が制する。

たまきは困ったように志保を見ながら言った。

「……わかんない……です」

学校に行っても友達などいなく一人ぼっち、家に引きこもっても家族から疎まれ一人ぼっち。

どこに幸せがあるというのか。

「志保は?」

亜美が湯船に足を入れながら尋ねた。

「うーん、初めての彼氏と初めてデートしたのが、今までで一番幸せかな」

「はぁ~、リア充だねぇ」

亜美がたまきの隣にしゃがみ、お湯につかる。

「幸せだったんだはずなんだけどねぇ」

志保はどこか遠い目をして、そういった。細い右腕には、無数の針のあとが目立つ。

たまきは、湯船につかりながら考える。

恋人がいれば、友達がいれば、誰かに認めてもらえれば、幸せになれる。たまきは今まで、どこかでそんな風に考えていた。だから、誰からも認められない自分は、不幸せだ。

でも……、ちがうのかな。

たまきは、もう一度あのおじさんに会いたくなった。話が聞きたくなった。

 

写真はイメージです

都会の片隅に吹く雨上がりの風は生暖かくもあり、風呂上がりの3人には涼しくも感じられる。

繁華街の中に小さな公園があった。小さな神社と一緒になった、小さな公園。

公園の中に小さな岩がゴロゴロと転がっていて、その中に見覚えのある影が腰かけていた。

くすんだ背広に禿げ上がった頭。あのおじさんだった。

「亜美さん、志保さん、あれ……」

たまきはおじさんを指さした。

「ほんとだ、さっきのおじさんだ」

「ここで、一晩過ごすつもりですかね……」

たまきは心配そうにおじさんを見た後、亜美の方を向いた。

「亜美さん、あのおじさん、一晩だけでもウチに……」

「やだ」

亜美は振り向きもせずに答えた。

「なんで……」

「興味がない」

亜美は足を止めることなく答えた。

「普通のおっさんだろ」

「そうですけど……」

普通のおじさんだから……。

「冬なら泊めてもいいけど、今、夏だろ? 野宿したってしなねぇよ」

亜美はおじさんを一瞥することなく答える。

「あの……!」

たまきは少しだけ大きな声を出した。

「先に帰っててください」

「りょーかい」

亜美はたまきと志保を置いて雑踏の中に向かっていった。

志保はたまきをしばし見ていて、口を開いた。

「夜の一人歩きは危ないよ。たまきちゃんみたいな子には」

志保は、繁華街のネオンサインをちらりと見た。口を固く結ぶと、たまきの肩を軽くたたいた。

「あたしも付き合うよ」

たまきは、おじさんに歩み寄った。

「こんばんは……」

おじさんは、背筋をかがめてもそもそとコンビニ弁当を食べていた。たまきの呼びかけにおじさんが振り向く。

「君はさっきの……」

「……ここで一晩過ごすんですか」

おじさんは照れたように笑った。

「お金がないからね」

「……そのお弁当はどうしたんですか?」

「ゴミ捨て場で拾ったんだ。賞味期限が切れたばっかり見たいだからね」

おじさんは、まだ新鮮な鮭の切り身を口に入れた。

たまきはおじさんの右横の石に腰かけた。

おじさんはお弁当をわきに置くと、たまきに向き直った。

「私に、何か用かな」

二人の様子を、志保が少し離れたところで見ている。

「……おじさんは、一流企業に勤めてたんですか?」

「……自分で言うのもなんだけど、食品業界の最大手だったね。X食品って知ってる?」

なんか聞いたことがある気がする、とたまきは志保を見た。志保が口を開く。

「2年くらい前に、産地偽装で話題になったところじゃない?」

おじさんはゆっくりとうなづいた。

「牛肉の産地偽装でね、会社は窮地に追い込まれた」

深夜にぼんやりとしかテレビを見ないたまきはそんな事件知らないが、志保はニュースとかで見たことあるらしい。

「じゃあ、その事件に関わってクビに?」

志保の問いかけに、おじさんは首をむなしく振った。

「私は水産加工品の部署にいたんだ」

「じゃあ、関係ないじゃないですか」

たまきの質問に、またおじさんはむなしく首を振る。

「関係ないけど、同じ会社だからね。もちろん、実際に偽装に関わった社員たちは真っ先にクビになった。でも、一度信用を失った会社の業績は、戻らなかったんだ」

最後におじさんは、ぽつりと付け足した。

「人員整理ってやつさ」

「……おじさんは、大学を卒業したんですよね」

「ああ、そうだよ」

「……学校にちゃんと、行ってたんですよね」

たまきの質問に、おじさんはやさしく笑った。

「ははは。そんなの、当たり前じゃないか」

「……ですよね」

たまきが下を向く。

この人は普通のおじさんだ。当たり前のように学校に行って、当たり前のように卒業し、当たり前のように就職し、当たり前のように結婚して、当たり前のように子供育てて。

きっと、これからも当たり前のように幸せな人生を歩くはずだったのに……。

当たり前の人生を歩けば、幸せになれると思っていたのに……。

「でも、やっぱりおかしいですよ」

そういったのは志保だった。志保は難しそうな顔をしながら、たまきの右隣の石に腰かけた。

「おじさんは悪くないじゃないですか。食品偽装とは関係ないんでしょ?」

志保の問いかけに、おじさんはため息をついた。

「最初はそう思ったさ。妻も娘も言ってくれた。『お父さんは悪くない』って」

でもね、とおじさんは続けた。

「就職先が決まらず、半年ほどたつとだんだん家族から疎まれるようになってね……」

そこでおじさんは言葉を切った。

たまきはおじさんの顔を覗き込んだ。おじさんの目は赤みを帯び、うるんでいた。

おじさんはたった一言だけつぶやいた。

「さみしいなぁ……」

……たまきは、おじさんになにも声をかけられなかった。

なにを言えばいいんだろう。「強く生きてください」?

でも、私は人にそんなことを言えるほど、強く生きてなんかない。

今日だって、おじさんに殺してもらおうとした。

おじさんに、なんて声をかければいいんだろう。「頑張ってください」? 「負けちゃだめです」? 「生きてればいいことがあります」?

そんなきれいごとが、今までたまきの首を絞め続けてきた。

「学校行った方がいいよ」「世界には、学校に行きたくても行けない子もいるんだよ」「将来どうするの?」「みんな辛くても学校にちゃんと行ってるんだよ」

そんなこと、わざわざ言われなくてもわかってる。誰もが思いつきそうな言葉なんて、言われた方もとっくにわかってることなんだ。

たまきは、結局何も言えなかった。何も言えずに、たまきはおじさんの足元を見ていた。

おじさんの足元では群れからはぐれたのか、ありんこが一匹、ふらふらと歩いている。

「あの……」

そういって語り始めたのは志保だった。

「この辺で野宿するのは……危ないですよ。駅の地下道なら、ここよりも安全だと思います」

「駅の地下か……。確かに、そうだね。ありがとう」

「強く……生きてください」

たまきが言えなかった言葉を、志保はさらりと言った。

おじさんは、静かにうなづいた。お弁当の最後の日と口をほおりこむと、ゆっくりと立ち上がった。

「いろいろ、迷惑をおかけしました……」

おじさんはそういうと公園を去っていった。小さく丸まった背中が、ネオンの闇の中に消えていった。

たまきは、おじさんの背中が見えなくなるまで、見ていた。見送るでもなく、見ていた。

志保がポツリと言った言葉が、ふとたまきの耳に入った。

「おかしいよ、こんなの」

 

写真はイメージです

歓楽街の中は、まるで遊園地のようだ。

きらめくネオンサイン。

行き交う人々。

街中に流れるヒットソング。

ほとんど車も通らず、外界から隔絶された空間のようにも思える。

だけど、たまきはこの町が好きじゃない。

人ごみが苦手というのもあるし、行き交う人々がどこか楽しそうなのも嫌だ。

二人は、公園を離れ、帰路についていた。

曲がり角を曲がって、「城」のあるビルまで残り四十メートルほど。黒い空の下をネオンの看板が星のようにきらめいている。

ふと、志保がたまきの左手を、そっと握った。

「え?」

たまきは驚いて、少し背の高い志保を見上げる。

志保の手は、痩せていて、少し骨の感触もある。

志保は少しうつむいていた。

「なんであんなこと言っちゃったんだろう……」

「……さっきのことですか」

志保は力なくうなづいた。

「『強く生きて』なんて、自分が強く生きてなんかいないのに……」

そんなことない。そう言おうとして、たまきはやめた。

誰もが思いつきそうな言葉なんて、言われなくてもとっくにわかってる。

志保の「私は強く生きていない」は、そんな誰もが言いそうな言葉を心の中で何回も否定して生まれたんだ。

結局、私は、何も言えない。

無力だ。

生きてる価値がない。

消えちゃえばいいのに。

たまきが何も言えずにいると、志保が少しかすれた声で言った。

「……自分の偽善が嫌になる」

「……偽善ですか」

「だってさ、あたし……」

志保は、自嘲気味に笑った。

「犯罪者だよ?」

犯罪者。その言葉は、まるで志保とたまきの間に壁が生まれたかのように感じられた。

「さっきだってさ、たまきちゃんを一人で帰すのは危ないとか言っちゃってさ……、でも、一番危ないのは、あたしなんだよね」

「え?」

「……ネオン街、怖いんだ。ちょっと道外したら……、クスリあるから……。一人で帰ったら、あたし……、たぶんまた……」

志保の指先は少し震えていた。

 

たまきは、自分の姉のことを思い出していた。

2つ年の離れたたまきの姉は、志保に少し似ていた。たまきよりずっと勉強ができ、たまきよりずっと友達が多く、たまきよりずっとおしゃれで、たまきよりずっと笑顔が素敵な人だった。

幼いころのたまきは、お姉ちゃんが大好きだった。外出するときは、よく手を繋いでもらっていた。

でも、いつも最初に手を差し出すのは、たまきだった。お姉ちゃんは、しょうがないなと言いたげに手をつなぐ。

たまきはお姉ちゃんと手を繋ぎたかったけど、お姉ちゃんは少し面倒だったらしい。

 

たまきは、志保の軽い右腕を見て、その手をぎゅっと握った。1人じゃジュースも開けられない弱々しい握力だが、それでも、力いっぱいに。

志保はつながれた自分の右腕を見た。注射の針跡が生々しく残る右腕。

「……ありがとう」

志保は、少しかすれた声でつぶやいた。

「なんか最近、誰かに見られてる気もしてたんだけど、なんかほっとした」

志保の言葉に、たまきはくすりと笑った。

「志保さん、美人さんだから、みんな見ちゃうんですよ」

今度は志保がくすりと笑った。

「そうだといいんだけどね」

二人は歩き出した。

たまきは、志保の手を精一杯握りしめた。

こんな私でも、そばにいるだけで、手を握るだけで、誰かの力になれるんだったら、

こんなに幸せなことはない。

 

群れから外れた小さなありんこが二匹、それでもアスファルトの上を力強く歩いていた。


次回 第8話 ゲリラ豪雨と仙人

次回はずばり、「たまきはたまきのままでいいんだよ」そういうお話です。

「『お前さんには世界がこんな風に見えているのか』」

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第6話 強盗注意報と自殺警報

ライブハウスでの財布盗難事件も無事解決し、3人の新たな生活が始まった。依存症治療の施設へ通い出した志保。一方、留守番をしていたたまきのもとに、思いもよらない人物が現れて……。

「あしなれ」新章スタート!


第5話 どしゃ降りのちほろ酔い

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

写真はイメージです

まだまだ暑い日が続く。日差しがアスファルトをフライパンのように焼き付け、蝉の声が調味料として降りかかる。立ち上る陽炎は、さながら料理から溢れる湯気のようだ。

少年は公園の階段でギターを奏でながら、オリジナルのラブソングを歌っていた。軽やかなリズムでギターをストロークする。はじける弦の感触がピック越しに伝わる。

少年は仲間内からは「ミチ」と呼ばれていた。

日差しに負けじと、蝉に負けじと、声を張り上げて歌う。

だが、それに耳を傾ける者は誰もいない。階段の下に広がる広場では、若者がスケボーに興じるが、距離からかんがみて、おそらく、ギターの音がかろうじて聞こえるくらいだろう。ミチのわきを通り過ぎる者もいるが、目を向けることはあっても、足を止めることがない。

正直なところ、ミチも何のためにここで歌っているのか、わかっていない。

練習、というわけでもない。かといって、ストリートライブ、というわけでもない。ストリートライブをするには、人通りが少ない。

何のために、誰に向かって自分はここで歌っているのか。

そう考えた時、ミチの頭に、以前、この場所である女の子としたやり取りを思い出した。

一曲終った後、何も考えずに「ありがとうございました」とつぶやいたミチ。その時、彼の隣にいた女の子に、誰に対していったのか問われたことがあった。

その問いかけにミチはすぐに答えを出せなかった。ふと、口をついて出た言葉が「世の中」だった。

それを聞いた女の子は、あきれたような顔をしていた。

あの時、「世の中」なんて言う変な答え方をしたのは、曲を誰かに聞いてほしかったからだと思う。

ただ、それが特定の誰かではないし、「通行人」ですらない。よくわからない「誰か」に聞いてもらいたい。それが「世の中」なのだろう。

「世の中」に聞いてもらいたいから、密室ではなく、かといって聞いてくれる人がいるわけでもない、だだっ広い公園で歌っているのだろう。

いや、たった一人、彼の歌に耳を傾けてくれる女の子がいた。

女の子の名はたまき。ごく最近出会った、同年代の女の子だ。

ミチの中学校の先輩にヒロキという男がいる。そのヒロキの知り合いの女性とたまきは一緒に暮らしている。

たまきは週に一度か二度、この公園にやって来る。彼女は決まってミチの隣に腰を下ろし、絵を描いている。

一度だけ彼女の描く絵を見たことがある。青春真っ只中の年頃の女の子の絵とは思えない、暗い絵だった。鉛筆で公園を描いたものだったのだが、何ともおどろおどろしいものだった。見られたことが恥ずかしいのか、たまきは少し涙目だった。

たまきは変わった少女だ。常に死にたい死にたいとつぶやき、右手首には白い包帯が目立つ。

ミチの周囲にいる女性は、派手な人が多かった。不良仲間を見れば、派手な髪型に派手なメイク、誰を誘惑するつもりなのか谷間を強調するファッション。音楽仲間に至っては、ピンク色の髪をした女性もいる。

おしゃべりが好きで、男に対して警戒心がなく、なれなれしい。そんな女性ばかりだった。

たまきは、それとは真逆だった。黒い服を好み、化粧もしないし髪型も作らない。ほとんどしゃべらず、目を合わせない。極力肌を見せたがらず、触られるのを拒む。彼女が常にかけているメガネ、左目を覆う前髪は、どこか「世の中」を拒絶しているようにも見える。

決して人になつかない黒い猫。それが、ミチがたまきに漠然と抱いた印象だった。

 

太陽をスポットライトにしてミチは歌う。汗がたらたらと流れ、湯気にならないのが不思議なくらいである。「何よりも大切な人」とか「君を守り続ける」とか、どこかで聞いたことがあるようなフレーズを繰り返す。

と、隣に小さな影が歩み寄り、日陰に腰を下ろした。顔は見ていないが、そのたたずまいからたまきで間違いないだろう。

「ありがとうございました。今歌った曲は、『ラブソング』でした。」

誰でもない、「世の中」に対しFMラジオのような曲紹介をする。自分でも呆れかえるほどひねりのないタイトルだが、他に思いつかなかったので仕方ない。

一曲終ったところで、ミチは横にたたずむ影を見た。

やはりたまきだった。

だが、いつもとは様子が違っていた。

いつもなら、たまきの視線はミチをかすりもせず。スケッチブックと前方の景色だけに注がれている。会話を交わすことはあっても、たまきはミチのことをほとんど見ない。目を合わせることもない。

だが、今日は違っていた。ミチの右側の日陰に座ったたまきは、首を九十度左に向け、まっすぐにミチを見つめていた。いつもは貧血気味の肌も、心なしか紅潮している。ミチも思わず見つめ返す。

若い男女が見つめ合う、といえばロマンチックだが、たまきはメガネの奥の大きな瞳を見開き、口をとがらせ、まっすぐに攻撃的な視線を飛ばしてくる。つまり、睨みつけているのだ。

ミチが思わず視線をそらす。心当たりがあるからだ。

「……やっぱり、怒ってる?」

ミチが気まずそうにたまきを見ながら言った。たまきは睨んだままうなづいた。

「どうして助けてくれなかったんですか」

数日前、ミチのバンドのライブ会場で、バンドメンバーの財布が盗まれるという事件が起きた。その時、たまたま楽屋に入ってしまったたまきは疑われたのだ。

その件については今日の午前中にメールが来た。「真犯人」が友人に付き添われて謝罪と返金のためやってきたらしい。誰が犯人かは書かれていなかったが、全額帰ってきたことと、本人が深く反省し、誠心誠意謝罪したことから、警察沙汰にはしないそうだ。これにて一件落着。

だが、ミチにはまだ問題が残っていた。ライブハウスの楽屋でたまきが疑われていた時、ミチは助けを求めるたまきから目をそむけてしまった。

「……もちろん、誰が一番悪いかと聞かれたら、自分の言葉ではっきりと潔白を証明できなかった私です……。きっと誰かが助けてくれるなんて、そんなこと当てにしてません」

たまきはミチから目を離し、うつむきつつ言った。

「でも、ミチ君は私ともバンドの人とも知り合いなんですから、あの時何か言ってくれてもよかったじゃないですか」

たまきはそういうと、再びミチをにらみつけた。

「それとも、ミチ君も私が犯人だと思ってたんですか?」

「ま、まさかぁ」

ミチが取り繕うように笑いながら言った。

「お、おれだって、たまきちゃんがそんなことしたなんて思ってないよ」

「じゃあ、あの時そう言ってくれればよかったじゃないですか」

たまきはずっとミチをにらんでいる。ただでさえ目に生気がないうえに、あどけない顔だけに、睨まれると怖い。

「……俺さ、あのバンドの中では下っ端でさ……。ほとんどサポートメンバーに近いっていうか……」

言い訳にしかならないとわかっていながら、ミチは続けた。

「こういう風に路上で歌いたくて。でも、アカペラだと厳しいんだよ。何ていうか、アカペラで路上で歌ってても、よっぽどうまいやつじゃない限り、イタイじゃん?」

たまきが睨んだまま、こっくりとうなづいた。

「だから、ギターを弾きながら歌えればと思って、知り合いでバンドのリードギターやってる人に教えてくれって頼んだんだよ。そしたら、教える代わりに、バンドメンバー足りないからサイドギターで入れって言われて……」

「私は別に、バンドメンバーに逆らってくれとは言ってないですけど……」

「なんていうか、意見しづらいっていうか……」

たまきの納得できなさそうな顔を見て、ミチは申し訳なさそうに尋ねた。

「俺のこと、ちょっと嫌いになった?」

たまきはミチから顔をそらして答えた。

「もともと嫌いですけど」

「あ、そう……」

その答えは、ミチにとって心の片隅で予想していたものだった。

そのまましばらく二人の間に沈黙が流れる。空気を読まずになくセミの声がうっとうしく感じられる。たまきはスケッチブックをかばんから出すと、いつものごとく黙々と絵を描き始めた。ミチは沈黙に耐えかねるようにギターのチューニングを始める。

「……下っ端だからあんなにつまらなそうにしてたんですか?」

たまきがポツリと発した問いかけに、ミチが振り向く。

「え?」

「この前のライブです」

「俺、つまんなそうだった?」

たまきは無言で、ミチに横顔を向けたまま、こくりとうなづく。

「そうかぁ。やっぱりつまんなそうに見えちゃってたかぁ」

ミチはチューニングをやめ、天を仰ぐ。途端に太陽のまぶしすぎる日差しが、容赦なく視界を襲う。

「確かに、楽しんではねえよ。でも、別に下っ端だからってわけじゃねえよ。たしかに、他の4人より年も下だし、ちょっと気まずいけど、みんないい人だよ」

日差しに目を細めながらミチは続けた。

「つまんなそうに見えたのはギターに必死だったってのもあるけど……」

ミチは下を向いた。

「やっぱ俺、歌いてぇんだよ」

ミチは気づかなかったが、たまきはミチを見つめていた。

「こういうこというとさ、本気でギターやってるやつはふざけんなって思うかもしれないけど、俺は歌を歌いたいんだよ。唄うためにギターを弾きたいんだよ」

そういうとミチは、再びチューニングを始めた。

二人の間を涼しい風がなびく。

 

写真はイメージです

都心から車で二十分ほど走れば、閑静な住宅街が広がる。赤土のレンガを用いた洋風のこじゃれた家が立ち並び、街路樹の緑葉がアクセントをつける。お店もカフェや雑貨屋とこじゃれたものばかりだ。

そんな街中にひっそりと、教会が佇んでいた。そんなに大きくはない。面積は家三軒分といったところか。

この教会は、薬物に限らず、アルコールやギャンブルなど、依存症患者への支援が手厚いことで知られている。

教会が主催している支援施設では、多くの人が入所したり通院したりして、あらゆる依存症と戦っている。

その支援施設の中の一室に、志保と京野舞が並んで座っている。二人の前には長机を挟んで、シスターの姿をした年配の女性が微笑んでいた。

「それで……、ドラッグを始めたのはいつ頃になるかしら」

シスターは志保に問いかける。シスターは手に黒いバインダーを持ち、その上には「問診票」と書かれた紙が志保には見えないようにおいてある。それまではドラッグから引き起こされる症状の話が主だったが、そのドラッグに手を出した頃の話に移ってきた。

「……高一の夏休みです」

志保は伏し目で答えた。

「ドラッグは誰からもらったの?」

「当時の彼から……」

少し頭が痛そうに、志保は顔をしかめた。

「ドラッグをやったきっかけは?」

「きっかけ……」

言葉に詰まる志保を見て、シスターは微笑んだ。

「いいわ。今日はここまでにしましょう。だいたい、入会に必要な情報も聞けたことですし」

志保は無言でうなづく。

「それでは京野先生、神崎さんは通院という形でよろしかったですわね」

「ええ」

舞が応答した。

「神崎さんはご自宅から通院する、ということでよろしかったかしら」

自宅……。何て言えばいいんだろう。まさか「不法占拠」なんて言えないし……。

志保は言い淀んだが、すぐに舞が代わりに答えた。

「はい。自宅からの通院です」

その声に志保は目を見開く。

「ご自宅ということはご家族と一緒に暮らしていらっしゃるのかしら」

シスターの問いかけに、またしても舞は毅然として答えた。

「はい、姉が一人に、妹が一人です」

え? あたし、一人っ子……。その言葉を志保は飲み込んだ。おそらく、姉というのは亜美を、妹というのはたまきのことを指すのだろう。

家族……。その言葉はぴんと来ない。

「ご両親とは一緒ではないのね」

シスターの言葉に、志保の眉が不安そうにふるえる。

「両親と同居していなければ、『通院』は認められませんか?」

舞が凛として訪ねた。

「そんなことはありません。患者さんによっては、両親や家族と離れた方がいい、という方もいらっしゃいますから」

「志保は今、わけあって両親と一緒には暮らしていませんが、この子の姉や妹も、まあ、ちょっと頼りないけど、私は信頼しています。両親がいない分は、わたしが主治医として責任を持って、この子をサポートします」

「お医者さんが親代わりなら、心強いわね」

シスターはそう言って志保に微笑みかけた。志保は、あいまいな笑みを返すにとどまった。

 

施設内の食堂でお昼ご飯を食べ、午後は見学ということになった。正直、疲れているので「城(キャッスル)」に帰って寝たいところだが、わがままも言えない。

そもそも、疲れてるのもまた、志保が原因なのだ。

数日前、志保はどうしても今すぐにクスリが欲しくなってしまった。その時、たまたま財布を「城」においてバンドのライブに来ていた志保は、楽屋に忍び込み、バンドメンバーの財布を盗んでクスリを買った。今日は教会に来る前に朝早くから、亜美に連れられてバンドメンバーのアパートを訪れ、謝罪と返金をしてきたのである。

朝だというのに部屋のカーテンは閉め切られていた。

志保が正座し、亜美は体育座り。机を挟んだ反対側に、被害者のバンドメンバーが胡坐をかいている。誰もが黙りこくり、外の大通りを走るトラックのエンジン音だけが聞こえる。

まず、志保が財布を返し、頭を下げて謝罪した。口を真一文字に結んだバンドメンバーが、しゃべりはじめる。

志保はある程度覚悟していたが、バンドメンバーには相当口汚く罵られた。自分が悪いとわかっていても、わかっているからこそ泣きたいぐらいに。

バンドメンバーが、警察を呼ぶと言った時、事件は起きた。

亜美がテーブルを蹴り飛ばしたのだ。軽いプラスチック製のオレンジ色のテーブルは宙を舞い、壁に叩きつけられ、ドンガラガンと音が鳴る。その音よりも大きな声で亜美が怒鳴る。

「てめぇ、志保がこうして恥を忍んで頭下げてんだろうが! 悪かったつってんだろうが! 金は全部帰ってきたんだろうがよ! 丸く収めるってことが出来ねぇのか!」

「何だと、てめぇ!」

「何だとはなんだてめぇ!」

亜美とバンドメンバーが互いに怒鳴りあう。互いに服を掴んで引っ張りあうので、つかみ合う二人はどんどん動き、そのたびに床に積んである雑誌が崩れ、棚の上の小物が落ちる。

志保は、亜美が自分の気持ちを口汚くも代弁してくれたことは嬉しかったし、結局一番悪いのは自分なのもわかっているが、それでも、謝罪の付添人としてこの態度はよくないんじゃないか、という思いを禁じ得なかった。

「てめぇ、ホントにケーサツ呼ぶぞ!」

バンドメンバーが怒鳴る。

「ああ、呼んでみろよ! 全員ぶっ殺してやるよ!」

亜美が社会に挑戦しかねない言葉を吐く。

「亜美ちゃん、とりあえず、落ち着いて!」

志保は亜美の右腕の入れ墨にほほを押し付け、肘を引っ張り、何とか二人を引き離そうと骨のように細い両腕に力を入れる。それとは別に冷静に考えている自分がいた。

謝りに来たのはあたしで、亜美ちゃんはその付添いのはずだったのに。

 

結局、何がどうなったのか、わずか数時間前のはずなのに、よく覚えていない。幸い、暴力沙汰にならなかったことと、亜美が貫録勝ちしてこちらの要求が通ったことは覚えている。

 

施設の中の一室に志保と舞は通された。白い壁で囲まれた部屋の中には長机が円卓のように並べられ、ホワイトボードが一つ置かれていた。そのわきには進行役の職員が立ち、机のまわりには施設の利用者なのであろう人たちが座っていた。志保と同年代であろう少女や、志保の親ぐらいの年齢の男など、まさに老若男女だ。

「これから、ここでミーティングが行われるのよ」

終始優しく微笑むシスターが説明してくれた。

「ミーティング……ですか?」

志保が尋ねる。今ひとつピンとこない。いったい何を話し合うというのだ。

「ミーティング、といっても、一般的な会議とは違うのよ。うちの施設では、毎回テーマを決めて、そのことを話してもらうの。自分の生い立ち、家族、夢、いろんなことを話して、みんなに聞いてもらうの」

「……聞いてもらうだけ、ですか?」

「ええ。」

微笑みシスターが返事をした。

進行役の職員がホワイトボードに、今日の議題を書く。

『依存症になったきっかけ』。それが今日のテーマらしい。

三十歳くらいの男性が話を始める。彼はアルコール依存症らしい。仕事のストレスからアルコールを飲む量が増えていった、という話をしていた。

話を聞きながら、志保は考えていた。

あたしが、クスリを始めたきっかけってなんだろう。なんだか漠然として、はっきりしない。

以前たまきに聞かれた時も、はっきりとは答えられなかった。

ただただ、明日が怖かった。

何であたしは、クスリに手を出したんだろう。

 

写真はイメージです

教会の駐車場に停められた、舞の赤い車に、志保と舞は乗り込んだ。エンジンをふかし、静かな住宅街の路に滑り出す。進路を歓楽街に向けてとる。

「シロで降ろすから」

舞はサングラスをかけ、煙草をふかしながらハンドルを握る。「シロ」というのは志保が暮らすつぶれたキャバクラ「城」(キャッスル)のことらしい。

「次からは電車で一人で行けるな? 本当はお前を一人で外出させたくないんだけど、こればっかりはなぁ」

「……はい」

車は住宅街を抜け、大通りを走る。頭上には高速道路が続いている。10分もすれば、歓楽街に着くだろう。

「あの、先生」

助手席の志保が少し顔を舞に向けた。

「どうした?」

「その……、あんな嘘ついてよかったんですか?」

「嘘?」

「自宅通いって言ったり、家族と同居してるって言ったり……」

「ほんとのこというわけにはいかねぇだろう」

舞は右手でハンドルを握りながら、左手でくわえたたばこをつまみ、灰皿の上に軽く押しつけた。そして志保の方を見やって、にっと笑う。

「あの二人はまだ家族とは思えねぇか」

志保は軽くうなづいた。

「まあ、一緒に住み始めて、半月ぐらいか? お前としては、この前の事件の負い目もあるだろうしな」

志保はまた力なくうなづく。

「でもな、志保。お前があいつらのことをどう思ってようが、あいつらがお前のことをどう思ってようが、あの二人は自分たちがお前を支えると決めたんだ」

舞の後ろの車窓に、陽を浴びた街路樹が流れていく。

「だったら、お前のことを家族だと思って扱ってくれなきゃ、困る」

赤い車の側面を、南西から太陽が照らし出す。前方に並ぶ車の列を見て、舞は舌打ちをする。どうやら渋滞にはまったらしい。カーラジオからは、夕方ごろから天気が急変し、ゲリラ豪雨の恐れがあるという予報が流れていた。

 

写真はイメージです

「うひゃー!」

亜美が「太田ビル」を出ると、外はものすごい雨だった。雨粒が銃弾のようにアスファルトをたたく。

「んだよ。さっきまで晴れてたのに」

亜美の愚痴も雨音にかき消される。

傘をさすと亜美は小走りに動き出した。たまきにはやむまで待ったらどうかと言われたが、亜美は待つことが苦手な性分だ。

小脇には3人の洗濯物を入れたビニール袋。これよりコインランドリーに洗濯に行くのだ。

今、『城』の中には結構なものがそろっている。テレビやビデオは亜美の稼ぎやごみ捨て場で手に入れたし、元がキャバクラで、夜逃げ同然で使われなくなったので、調理系の家電もそろっている。空調も万全だ。

だが、洗濯機はない。ましてや、風呂場などあるわけがない。なので3人はコインランドリーや、小さな銭湯を利用している。コインランドリーは亜美とたまきの2人でローテーションを組んでやっている。だが、「志保を一人で外に出すな」という舞からの通達があるため、志保は料理専門として洗濯担当から外されているし、外出が苦手なたまきを考慮して、亜美が洗濯に行く場合が多い。

コインランドリーまでは歩いて5分ほど。雨の中、亜美は小走りで駆け抜ける。

途中、背広を着た中年の男とすれ違った。ふと、気になり、足を止める。

なぜ気になったのか、亜美にもよくわからない。すぐにまた、コインランドリーに向けて駆け出した。

昼間の歓楽街に背広の人間はあまりいない。オフィスなんてほとんどない。居酒屋、エッチなお店、ヤクザの事務所……。背広を着て通勤するような場所はあまりない。

お昼時や夜なら食事や飲み会、エッチな目的で来たサラリーマンをよく見るが、午後3時、しかも雨となると、なかなかいないものだ。

 

写真はイメージです

「亜美さん、大丈夫かな」

『城』の中で窓をたたく雨粒を見つめながら、たまきがつぶやく。昨日も大雨の中、亜美は洗濯に行った。「今日は私が行きます」と言えなかった自分が情けなくて嫌になる。

一人で「城」の中にいるのは、なんとなく心細い。もともと店として活用されていた広いスペースに一人でいるのだ。空間を持て余してしまう。聞こえるのも空調の音と、ガラスの向こうの雨音だけだ。

たまきはソファの上に横になると、静かに目を閉じ、物思いにふける。

今日、ミチから聞いた話は、たまきをますますわからなくさせた。

世の中には輝いている人間がたくさんいる。ビジネスマン、芸能人、スポーツ選手などなど。特に、芸能人なんて、たまきと同じぐらいの年なのに、太陽のような輝きを放っている人がたくさんいる。

それに比べれると、たまきはちっぽけな月みたいなものだ。太陽の周りを回るちっぽけな地球。その周りを回る、さらに小さな月。

そんなたまきにとって、ミチは「地球」のような存在だった。青く、月より美しい地球。

以前、月から撮影された地球の写真を見たことがある。真っ暗な空に、青く大きく、丸く美しい、そんな地球が浮かぶ。

月から一番近いのに、穴ぼこだらけの月よりもずっと美しく、手を伸ばせば届きそうなのに、背伸びしても飛び跳ねても決して届かない。

月は、いつも地球にあこがれているのだ。その美しさにあこがれているのだ。

たまきは、そんなミチのそばにいれば、もっと正確に言えば、ミチの歌を聞いていれば、自分も少しは輝ける、と思っていた。

宇宙から見れば、月なんてちっぽけな石ころだ。でも、地球から見れば、美しく光り輝いて見える。

地球があるから、月は美しく見てもらえる。

だが、憧れであったはずのミチにも悩みがあった。彼は、もっと輝きたかった。

チャラい風貌は受け入れがたいが、夢に向かって毎日歌うミチは、たまきにとっては十分まぶしい存在だった。

だが、ミチは今よりももっと、太陽のように輝きたいという。

自分よりも友達作りスキルの高い亜美が学校というレールから外れ、自分よりも恵まれているはずの志保がドラッグに手を出し、自分より輝いているはずのミチがもっと輝きたいという。

地球は青く美しい。それで十分じゃないか。でも、彼らはもっと輝きたいと言ったり、輝きを捨てて月に近づこうとする。

一体どこまで行けば、ゴールにたどり着けるのか。友達ができれば、恋人がいれば、夢を持っていれば、たまきはゴールにたどり着けると思っていた。幸せになれると思っていた。

でも、二人の同居人やミチを見ていると、友達がいたって、恋人がいたって、夢があったって、悩みは尽きない。

だったら、きっとたまきみたいな人間は、どれだけ歩けどもゴールにたどり着けないんじゃないだろうか。

一体何がいけないのだろう。誰のせいなのだろう。

それとも、全部自分のせいでしかないのか。

『城』のキッチンの窓ガラスを雨粒が流れ星のように滑る。

雨の日はなんだか憂鬱になる。

 

あまりの大雨に、傘をさしていても、男の足元はどんどん濡れていく。濡れた裾が刺さるように痛い。

男はわきにあったビルを見た。ビルの一階はコンビニで、そのわきには上層へと続く薄暗い階段がある。男は傘をたたむと、階段に入って雨宿りを始めた。

コンビニの方に入らなかった理由は男にもはっきりとしない。明るいところを無意識に拒んだのかもしれないし、ただ誰かに顔を見られるような場所に行きたくなかっただけかもしれない。

男はスーツ姿だったが、薄汚れ、しわだらけで、「正装」とは言い難い。顔だけ見ると四十代半ばといったところだが、薄くなった頭はそれ以上に老け込んだ印象を与える。手には黒い、小さい、くたびれたかばんを持っている。

男は階段の入り口に掲げられた看板を見る。これを見れば何階に何が入っているのかがわかる。

一階はコンビニ。二階が飲食店。その上に雀荘があり、さらにその上にビデオ屋がある。その上にはキャバクラかなんかだろうか、「城」と書かれた看板がある。

人間の抱く、たいていの欲望がこのビルで叶いそうだ。ならば、自分の目的もはたせるかもしれない。男はそう考えた。

5階のキャバクラがいい。この時間なら、まだ人はいないかもしれない。

男はゆっくりと階段を昇って行った。甲高い足音がこだまする。

 

5階に着くと蛍光灯のカバーが割れた看板が男を出迎えた。「城」と一文字漢字で大きく書かれ、そこに「キャッスル」とルビが振ってある。

もしかしたら、この店はもうやっていないのかもしれない。そう思いながら男はドアノブに手をかけ、静かに回して引いた。カチャリ……、と小さな音を立ててドアが開く。

やはり、もうやっていないのか。それとも、ただただ不用心なのか。

中は薄暗い。小さな窓から灯りは差してはいる。だが、外は大雨。もともと外が暗いので、店の中はぼんやりとしか見えない。

男は、誰か来たらどうしよう、ということしか考えていなかった。店の人間に見つかったら、最悪の事態になりかねない、と。だから、ソファの上のぬいぐるみにも気づかなかった。

男は静かにドアを閉めて、歩き出した。レジスターらしきものは見当たらない。奥に行けば金庫ぐらいはあるだろうか。

もし、彼がこの時後ろを振り返れば、ドアにかかった「あみ しほ たまき」と書かれたカラフルなネームプレートが揺れているのに気付いたはずだ。

 

薄暗い店の中を男は探っている。背後には厨房らしきスペースがあり、右手に”PRIVATE”と書かれたドアがある。金庫があるとすればあそこの中だ。

と、ふと左に目をやったとき、ソファの上にクマのぬいぐるみが置かれていることに男は気づいた。

ぬいぐるみ? キャバクラの中に、ぬいぐるみ?

ぬいぐるみに気を取られていた男は、足元にあった何か固いものを踏んだ。不意を突かれてバランスを崩し、ソファに頭から突っ込んで鈍い音を立てた。右手から放たれた鞄と、左手から放たれた折り畳み傘が宙を舞い、派手な音と共に床へと落ちた。

幸い、顔から突っ込んだので、大したダメージはない。男はすぐに立ち上がった。と、ほぼ同時に、視界の隅で人影がゆっくりと動いた。

 

何かが倒れたり落ちたりする音で、たまきは目を覚ました。どうやら部屋でぼおっとしているうちに、眠っていたらしい。亜美か志保のどっちかが帰ってきたのか。こういう派手な音を出すのは亜美の方かな、と音のした方を見る。

見たことのない男がそこに立っていた。父親と同年代だろうか。頭の薄い、さえない印象を受ける。

本来、いるはずのない人間を見て、たまきは小さい叫び声をあげた。

だれ? なに? もしかして泥棒? どうやって入ったの?

そういえば、鍵を開けたままにしていたんだった。「城」のカギは、むかし亜美が店内で見つけたという一個しかない。たぶん、「城」のオーナーが夜逃げするときに置いていき、そのままになっていたのだろう。

そのカギは今、たまきの手元にある。亜美も志保も鍵を持たないまま外出したのだ。

もし、鍵を閉めてしまうと、今日のようにたまきがうっかり寝落ちした時に二人は「城」に入れなくなってしまう。

そんなことを刹那のうちに考えていると、男がたまきの方を向いた。

直後、男は

「うわぁ!」

とたまきの悲鳴より数倍大きなボリュームで叫んだ。

 

男は叫んだと同時に、後ろにのけぞり、腰を抜かした。そのままソファの上にばすんと尻を乗せる。

誰? 何? 店の人間? いつからここにいた?

相手の少女は小柄で、まだあどけない顔にメガネをかけている。おそらく、中学生か高校生といったところだろうか。冷静に考えれば、そんな年頃の地味な少女がキャバクラの店員なはずがないのだが、(中には法を犯して、中高生を働かせている店もあるかもしれないが)、この男、何せ生来の小心者。そんなことを落ち着いてかんがみる余裕はない。

どうする? 顔を見られた?

足元に目をやると、ビデオデッキと思われる物体が置いてある。どうやら、これを踏んづけてバランスを崩したらしい。

何で? 店の中にビデオデッキ?

目の前の少女は、怯えているのか、男の顔をじっと見つめている。

駄目だ。確実に顔を覚えられた。

どうする? 逃げるか? でも、顔を見られた!

パニックに陥った男は、あたりを見渡す。自分のかばんを見つけると、中に手を突っ込み、何かを取り出した。

それは包丁だった。店頭で売られていた時のまま、パッケージに入っていたが、男はぶるぶる震える手で乱暴にこじ開け、中の包丁を取り出した。まだ新品で薄暗い中でも、切っ先がほのかに光を放つ。その刃先をふるえる手で少女に向けると、男はあらん限りの声を振り絞って叫んだ。

「こ、殺されたくなかったら、言うことを聞け!」

言ってから、男は後悔した。なんてことを言ってしまったんだ。

いや、そもそも、最初から泥棒をするつもりで店に入ったのだ。もっとも、包丁を買ったのは、誰かに出くわしたときに殺すためではなく、包丁を購入することで、もう後戻りはできないと腹をくくるために、いわば景気づけのために買ったのだ。そのままお守り代わりにかばんに入れておいたのだが、まさか使うことになるなんて。

血の気が引いたのか、男は少し冷静に考えられるようになった。

もしかして、さっき一目散に逃げれば、大事にはならずに済んだのでは?

でも、もう遅い。刃物を女の子に向けて、あんなこと言って、これじゃもう脅迫、強盗、殺人未遂。

こうなったら。男は、悪い方向に腹をくくった。

こうなったら、とことんやってやる!

「か、金を出せ! 大人しくすれば命は助けてやる!」

上ずった声で叫びながら、頭の中で算段を立てる。

相手はたぶん、中学生か高校生。だとしたら、学生証なり身分を証明するものを持ってるはずだ。お金と一緒にそれを取り上げるんだ。そして「これでお前の身元は簡単に調べられる」とか、「しゃべったらおまえや家族を殺す」とか言えば、きっと黙っててくれるはずだ。

そうだ。俺はこの子を殺すために刃物を向けてるんじゃない。お互い、無事に事を収めるために刃物を向けているんだ。男は自分にそう言い聞かせた。

 

たまきは困っていた。

隣の部屋にはいくらあるのか知らないが、亜美がエッチであくどい事をして稼いだお金が入っている。お金を渡したら、きっと亜美に怒られる。

たまきは不思議と恐怖を感じていなかった。

どうも自分は、「恐怖」というものに鈍感なようだ。前に亜美にホラー映画を見せられた時も、あまり怖くなかった。きっと、中学の時、初めてリストカットした後に無理やり学校に行かされ、気分が悪くなって3時間目にさぼって吐いた女子トイレの便器の中に、恐怖心も一緒に吐き出してしまったんだろう。

そもそも、たまきはお金の場所を知らない。

亜美は普段はずかずかしているくせに、そう言ったことに関しては疑り深く、誰にもお金のありかを教えていない。何となく、隣の部屋にあるのだろうといった感じだ。

でも、お金を渡さないと殺されちゃう。男が持っている刃物は、おもちゃではなく本物のようだ。

あれ? でも、殺されたらそれはそれでいいんじゃない?

そうだよ。私、ずっと死にたかったんだから。

それでも、今日まで不本意ながら生き残ってしまったのは、どこかにためらいを感じていたんだろう。

きっと自分は、恐怖を感じていないんじゃなくて、恐怖を感じていることに気付いていないだけなのかもしれない。

たまきの右手首にまかれた包帯の下には、無数の傷の線が走っている。これを「ためらい傷」というらしい。

死ぬことが怖いのか、痛いことが怖いのか、自分でもわからないが、どこか恐怖を感じているのだろう。だからためらい、死にきれない。

だったら、殺してもらえばいいのだ。

奇特にも目の前にいる男は、たまきを殺すという。

たまきのような、毒にも薬にもならない女を殺してくれる人なんて、もうこの先現れないかもしれない。

よし、今度こそ、今日が私の命日だ。

たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、にっこりと笑った。

 

男は戦慄した。刃物を向けて殺すと脅した少女が臆するどころか、嬉しそうに笑ったのだから。

あどけない笑みはこういう状況でなければかわいらしいものだが、今は恐怖しか感じられない。

少女は男の方へ近づいてきた。男は怖くなって喚いた。

「おい! 来るな! 殺すぞ!」

「殺してください」

少女は臆することなく、笑顔で答えた。

「お金はあげられません。だから、殺してください。」

男と少女の距離は30センチぐらいだろうか。包丁の切っ先の、それこそ鼻先に少女の鼻がある。

少女の小さく白い手が男の手を包み込み、男の腕を降ろし、少女は刃先を自分の胸元へ向けた。少女の袖がめくれ、手首の白い包帯があらわになる。少女の指先はつめたかった。

何を考えているんだ、この娘は。

少女はしばらく考えていたが、やがて口を開いた。

「胸よりおなかの方がいいですかね?」

「え? え?」

「心臓を一突きにしてもらおうと思ったんですけど、でも、胸って心臓を守るための肋骨がありますよね。」

「え? あ、あるねぇ」

男は自分が何を聞かれて、何を答えたのかもよくわかっていない。

「だったら、胸よりおなかの方がいいですよね?」

「え? う、うん……」

少女は男の腕をさらに降ろし、刃先を自分のおなかに向けると、手を離した。

沈黙が流れる。

「あの……、まだですか?」

男より一回り背の低い少女が、男を見上げながら言った。

「え……、え?」

「早くしてください」

男の人生で、この先、こんな若い子に何かをせがまれることなど、もうないかもしれない。だからといって、さすがに殺すわけには……。

ちょうどその時、入口のドアが開いた。二人は同時にそっちの方を見る。

「あ、亜美さん」

さっきまでの黒髪の少女がそうつぶやいたのと、新たに入って来た金髪の少女が、

「たまきになにしてんだてめぇ!」

といって駆け出したのはほぼ同時だった。そのまま金髪の少女はテーブルを踏み台に飛び上がった。

男は、反射的に金髪の少女から顔をそらした。男のほほに少女の飛膝蹴りが突き刺さり、男の体は吹っ飛び、鈍く大きな音を立ててソファの上に落下した。


次回 第7話 幸せの濃霧注意報

強盗のおじさんと出会ったことで、「幸せってなんだろう」と考えるたまき。果たして、亜美に蹴り飛ばされたおじさんの運命はいかに?

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第5話 どしゃ降りのちほろ酔い

ミュージシャンを目指す少年・ミチのライブに来た亜美、志保、たまき。ライブ会場で控室から志保が出てくるところを見たたまきは、深く考えずに控室に入ってしまう。しかし、ライブ終了後にある事件が勃発する……。「あしなれ」第一章完結?


第4話 歌声、ところにより寒気

登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち 


写真はイメージです

水曜日。夜。月夜。

「関係者控室」。そう書かれた部屋から志保(しほ)が出てきた。もちろん、志保はライブの関係者ではない。

だが、たまきはあまり深く考えなかった。単純に、「こっちにも出入り口があるのでは?」程度にしか考えなかった。

たまきはドアを開けて中を覗いた。中には机といすと鏡。机の上にはお菓子が散らばっている。

壁にはロッカーが並び、その一つは蓋が開きっぱなしだった。看板に偽りなし。中は本当に控室で、それ以上ではなかった。

たまきはあまり深く考える人間ではない。だから、志保がここから出てきた理由もこの時はあまり深く考えなかった。「間違えて入ったんだろう」ぐらいにしか思わなかった。たまきは部屋を出ると、ライブ会場へと戻っていった。

その後ろ姿を、トイレから帰ってきた女性二人に見られていたことを、たまきは気づいていない。

 

写真はイメージです

水曜日。さっきの少しあと。月夜。

すっかり暗くなった路上で、志保は車を待っていた。

夏だというのに、気のせいか少し寒く感じる。

道行く人は少し、志保を避けてるように思えた。美少女とは言え、いや、美少女だからこそ、少し目がくぼみ、痩せこけた少女が道行く人をにらむように見ている光景は、恐ろしいものだ。

左の角からライトが灰色のアスファルトを照らしながら、黒いワゴン車がゆっくりと曲がってきて、減速し、志保の前で止まった。

「乗れ」

運転手の男は、志保を見るなりそう言った。志保は車の左側に回り込み、ドアを開けて乗り込んだ。志保がシートベルトをしないまま、車は走りだした。

「クスリ」

志保が少し焦ったように聞いた。

「金は?」

男は志保を見ずに尋ね返した。

志保は何も言わずに、黒い財布を出した。男は何も言わずに受け取った。

 

写真はイメージです

水曜日。またまた少しあと。月夜。

ライブ会場の重いドアを開けたとたん、爆音にたまきは突き飛ばされそうになった。

元の位置に戻ると、亜美(あみ)が右手を振り上げて黄金(こがね)色の髪を振り乱し、ぴょんぴょん飛び跳ねている。天井からは赤、青、緑、黄色、白といったライトが雨あられと降り注ぎ、耳にも目にも五月蝿い。

たまきはステージ上の、ライトと爆音のどしゃ降りにあっている黒衣の五人、正確にはその右端の一人、ミチを見た。

相変わらず、つまらなそうにギターを弾いている。

やはり、そこに自分の姿が重なる。

姿が重なると言っても、ミチの姿にたまきの姿がダブって見えるわけではない。ミチの後ろからたまきの雰囲気やオーラといったものが、背後霊のようにまとわりついているというような、煙のように吹き出ているというような、そんな感じだ。

たまきが時間を押し流すための作業として絵を描いているのと同じように、ミチも音を出すために手を動かしている。「演奏」ではなく音を出すための「作業」、そんな風に見えた。

 

水曜日。ライブ終了後。少し曇り。

結局、志保は帰ってこなかった。だが、亜美もたまきもそれほど気にしなかった。理由は簡単だ。何も告げずにフラッといなくなるなど、亜美はよくやることで気にしなかったし、たまきは今現在「何も告げずに家からいなくなる」の真っ最中である。ライブ会場の雰囲気が合わずに、帰りたい帰りたいと思っていたたまきは、志保は先に帰ったんだ程度にしか思っていなかった。

「ただなぁ」

そう亜美は切り出した。さっきまで、殺人的な爆音に満ちていた部屋も、ライブ終了後は嘘のように静かで、殺人的なライトも消え、ごく普通の照明が部屋全体を照らす。

「なんかあいつ、おかしかったような。口数も少なかったし」

「確かに、息も荒かったような気もしますけど……、具合悪かったんじゃないんですか? 今頃『城(キャッスル)』で寝てるんじゃないんですか?」

具合が悪くなって黙って抜け出す、黙って帰る。たまきにしたらよくある話である。

「とりあえず、ミチんところ顔出そうぜ」

そういうことになって、先ほどの「関係者控室」のドアを開けた。

ドアを開けて聞こえてきたのは「どこにあんだよ!」という男の焦った声や、「警察に電話したほうがいいんじゃないの?」という女の心配したような声だった。

バンドメンバーの一人と思われる男が、しきりにあたりを見まわしたり、何度もかばんの中をかき回したりしている。その周りに群がる何人もの人。

二人の姿を見つけたミチがぺこりと頭を下げる。ただならぬ雰囲気を察した亜美が尋ねた。

「……なんかあった?」

「メンバーの一人の財布がなくなってるんです」

さっきまでステージで歌ってた男が、財布を無くした男の前に出た。

「最後にこの部屋出たのはおまえだろ。その時、部屋の鍵もロッカーも閉めなかったお前が悪い」

「そうだけど……、でも、盗まれるなん思ってねぇし……」

「ほんとに泥棒か? もっとよく探してみ」

「何度も探したよ! 黒い財布だよ。誰か見てない?」

そのやり取りをおよそ自分には関係ないことだとみていたたまきだったが、ある一言が、全員の注目を彼女に向けた。

「ちょっといい? あたし、あの子がこの部屋から出てくるのを見てたんだけど……」

そう言ったのは、茶色い長い巻き髪の女だった。彼女が指差した少女、すなわちたまきに注目が集まる。

予期せぬ自分の論壇への登場に驚いたが、それよりも多くの人間に見られて、委縮したたまきは思わず下を向いてしまった。

「おい! どういうことだ!」

怒号を響かせながら、財布を無くしたと騒いでいた男が、まるでたまきが犯人かのように詰め寄った。無理もない。明らかにたまきの挙動は不審なのだ。だが、それはたまきが犯人だからではなく、たまきが苦手な「視線」が向けられているからなのだが。

「違います……。わたしは……、……」

そこまで言って、たまきは「真犯人」に気付いてしまった。

気づいてしまって下を向く。ますます疑われる。

気づけば、バンドメンバーに囲まれていた。「被害者」の男が今にも掴みかかろうとするのを、ボーカルの男が落ち着けと押さえている現状だ。

「おい! なんか言えよ!」

本当のことを言えば、真犯人がわかってしまう。でも、うまくごまかす嘘も思いつかない。結局、黙るしかないという悪循環。

たまきは、少し離れたところにいるミチの方をちらりと見た。たまきとも、バンドメンバーとも顔見知りである彼なら、自分の味方をしてくれるのではないか。

だが、ミチはたまきと目が合うと、困ったように、申し訳ないように、目をそらした。

いよいよどうしよう。そう思った時、亜美のやや低めの声が部屋に響いた。

「たまきじゃねぇよ。ありえない」

今度は視線が亜美に集まった。たまきと違って亜美は視線を浴びても、余裕を見せる。

「あんた、こいつのツレか?」

被害者の男が尋ねる。

「ああ、そうだよ」

亜美は臆しない。

「なんでコイツじゃないって言える」

「こいつはな、欲とか何にもないんだ。食欲もないし、性欲もないし、将来の夢もなんにもない。欲しいものもなんにもない」

悔しいが、たまきもこっくりとうなづくしかない。

「そんなやつが財布盗んでどうするんだよ。何に使う?」

そういうと、亜美はたまきが肩からかけてるかばんを指差した。

「嘘だと思うなら、そいつのかばん見てみな。財布どころか、何にも入ってないぜ。たまき、見せてやれよ」

被害者の男が、たまきのかばんを無理やり奪おうとする。

「……やめてください……」

たまきは小さな声でボソッと言ったが、男はそれを無視して、たまきの肩からかばんをはずすと、ひったくるようにして中を見た。

かばんの中はほぼ空っぽだった。男の財布はおろか、自分の財布すら入っていない。ただ、たった一個、黄色く細長い物体が入っていた。

「何だこれ?」

男はそれをかばんから出した。たまきは恥ずかしくて、下を向いてしまった。

男がかばんから出したのは、カッターナイフであった。

「何だこれ。」

男はもう一度言った。

カッターナイフ。それは、たまきのお守りだった。いつでも速やかにこの世からエスケイプするための。

「財布はあったか?」

亜美が男に近づき尋ねる。

「……ねぇよ。」

「わかったろ。たまきは泥棒なんかする奴じゃない。そうだろ、ミチ」

亜美はミチの方を向いた。ミチは慌てたようにこっくりとうなづいた。

「……コイツが犯人じゃねーってのはわかったよ。じゃ、オレの財布取ったの誰だよ!」

男が怒鳴った。亜美は、何か思いを巡らすように顔をしかめた。

「……知らねーよ」

亜美はそうつぶやいた。

 

写真はイメージです

水曜日。夜道。

亜美とたまきは「城」に向かって帰り路を歩いていた。ビルに額縁のように切り取られた夜空には、月も星も見えない。

二人は無言だった。たまきは下を向いてとぼとぼと歩き、彼女の右を歩く亜美は、右側のやけに明るいネオンや看板を眺めていた。

「……志保なんだろ……」

亜美がポツリと言った。

「……いつ気づいたんですか?」

「一人いなくなりゃ、誰だってそう思うだろ……」

「……見ちゃったんです……。志保さんが、あの部屋から出てくるの……。私、何も考えずに志保さんの出てきた部屋に入っちゃって、たぶん、そこを見られたんだと……」

たまきは下を向いたまま答えた。

「でも……、なんで……」

「なんで?」

亜美が初めてたまきの方を向いた。

「クスリに決まってんだろ。思い返せば、あいつ今日の午後ぐらいから、なんか様子がおかしかった」

その答えにたまきも亜美の方を向いた。もうすでに「太田ビル」の前に着いていた。

二人は階段を昇って「城」の前に来た。扉の前に、長い髪の女が立っていた。

「志保っ! ……?」

長い黒髪の女が振り向いた。

「……帰るの木曜……明日って……」

「仕事が早く終わったんたからさっき東京に戻ったんだ。……一人足りねぇな。志保は? あいつに話があってきたんだが?」

京野(きょうの)舞(まい)は「八ッ橋」と書かれたビニール袋を持ちながら言った。

 

写真はイメージです

水曜日。夜。曇り。

蛍光灯は寿命間近なのか、明滅を繰り返している。

テーブルの上には色とりどりの八ッ橋が置かれている。

「どうした、食わないのか? お前の所望した変わり種八ッ橋だ」

「いや、『何でもいい』って言っただけすけど……」

亜美もたまきも口をつけない。決して、八ッ橋が嫌いなわけではない。

「ここ来るのも久しぶりだ」

舞はあたりを見回した。

「だいぶもの増えたな。これだけ稼いでいるんだったら、アパートぐらい借りれるんじゃないのか?」

「ウチはここ、気に入ってるんですよ。ウチの城すから」

「で、志保はどうした。いないのか?」

急に静かになった。

「……ちょと、お出かけ中です」

たまきが答えた。

「あいつを一人で外に出すなってお前らに行ったはずだぞ。どこに行った」

「さ、さあ」

舞が足を組み替えた。

「電話は? 呼び戻せ」

「でねーよ」

亜美が答えた。

舞はため息をついた。

「お前ら、何隠してる?」

たまきの背中がびくっと動いた。

「アタシはライターだ。取材も仕事のうちだ。人の話を聞き、それがウソかホントか判断して文章にする」

舞はそういうと、二人をにらみつけた。

「お前らのちんけな嘘を見抜くのなんて、朝飯前だ」

「別に嘘も隠しもしてねーよ」

亜美が言った。

「……志保のやつ……、ライブハウスで財布盗んで逃げたんだよ」

「……まだそうと決まったわけじゃ……。たまたまその部屋から出てきたってだけかも……」

「じゃあ、他に誰がいんだよ!」

亜美の突然の大声に、またたまきがびくっとなる。

舞はあまり以外ではなさそうな顔をしていた。

「……たぶん、クスリを買うために盗んだんだろうな……」

「でも……」

たまきが白いラインの入ったピンクの財布を手に取った。

「志保さんの財布はここに……」

「今すぐ欲しかったってことだろうよ」

舞が答えた。

「……あいつの行きそうなところは?」

舞の質問に、たまきは答えが思い浮かばなかった。亜美も無言で首を振る。

「志保が戻ってきたら、すぐ連絡しろ」

それだけ言うと、舞は「城」を出て行った。

 

写真はイメージです

次の日。木曜日。夕方。雨。

志保は帰ってこなかった。

たまきは、「城」に一人でいた。亜美は買い物に出かけている。

夏の雨が窓を激しく叩く。

昨日の光景が頭の中を回る。

財布を盗んでいなくなった志保。

つまらなそうにギターを弾くミチ。

濡れ衣を着せられたたまき本人より腹が立っている亜美に、ため息をつく舞。

たまきのかばんからカッターナイフを取り出したときのみんなの反応。

たまきはお守りであるカッターナイフを手にした。

かちっ。かちっ。かちっ。

カッターの刃先をぼんやりと見つめる。

ぴしゃりという雷の音が部屋の中に響き、青い光に照らされて、たまきの影がくっきりと浮かび上げられる。

たまきは右手首の包帯をするするするとほどいた。

醜い傷跡がくっきりと浮かび上がっている。

たまきは、左手でカッターを握ると、右手首に押し当てた。

ほんの一瞬、痛みが走ったが、それはほんの一瞬だった。

小さな赤い筋が手首に描かれ、そこから赤い血がにじみ出た。

たまきは経験上わかっている。この程度の傷では、天国はまだまだ程遠いということを。

 

写真はイメージです

また次の日。金曜日。夜。大雨。

志保が帰ってきた。雨の中、傘もささずに。

 

志保は何を聞かれても「ごめんなさい」しか言わなかった。志保の声より大きく、雨音がギターのリフレインのように奏でられていた。

 

――志保さん、どこ行ってたの?

 

――ごめんなさい……。

 

――どけ、たまき。おい志保! てめぇ、どこ行ってたんだよ!

 

――ごめんなさい……。

 

――バンドメンバーの財布盗んだのお前か!

 

――ごめんなさい……。

 

――認めるんだな?

 

――ごめんなさい……。

 

――何に使った? クスリか?

 

――ごめんなさい……。

 

――もうやらないんじゃなかったのかよ!

 

――ごめんなさい……。

 

――お前のせいでたまきが犯人だと疑われたんだぞ!

 

――……、ごめんなさい……。

 

――ごめんじゃねぇだろ! 他になんかねぇのかよ!

 

――亜美さん、私ならもういいから……。

 

――たまきもたまきだ。なんでコイツ許してんだよ!

 

志保の何度めかの謝罪を、雷の音がかき消した。

 

30分後。まだ金曜日。深夜。まだ大雨。

舞が「城」にやってきた。

蛍光灯の一つが切れ、薄暗い部屋の中にはいつもの三人がいつもと違う様子でいた。

心配そうに志保を見るたまき。

腕を組み、足を投げ出し、志保をにらむ亜美。

そして、バスタオルに包まれ、濡れた長い髪を前に垂らす志保。

髪に隠され、顔はほとんど見えなかったが、さらに痩せたように舞には見えた。

「……アタシの判断ミスだ」

舞はそう切り出した。その声はどこか毅然としていた。

「お前らと一緒にしたら、何か変わるんじゃないか。そう思っちまった、アタシのミスだ。廃業したとはいえ、医者としてあるまじき失態だ……」

そういうと、舞は志保に投げかけた。

「何か言いたいことはあるか」

「……ごめんなさい。」

志保は機械的にも聞こえる謝罪を口にした。

「お前は明日、予定通り、施設の方に連れて行く。ただし、『見学』でも『通院』でもない。『入所』だ。寮に入って、そこで暮らすということだ」

「……ここを出ていくってことですか」

たまきの尋ねに、舞はうなづきもしなかった。

「当然だろう。ここじゃ管理しきれないのだから」

管理。その言葉がたまきの脳に暗く響いた。

「……異論はないな。志保」

「……はい」

志保ははじめて「ごめんなさい」以外の言葉を口にした。

「で、こいつがくすねた金はどうするんだ?」

舞の尋ねに亜美が答えた。

「志保が弁償するみたいだからさ、ウチが返しとくよ。ウチが謝っとく」

「そうか」

そういうと、舞は一歩、真っ黒なドアに近づいた。

「荷物はそのかばんで全部か?」

志保はただうなづいた。

「とりあえず、今晩はうちに泊まれ。ちょうど徹夜で原稿書くつもりだったんだ。ついでに徹夜で監視してやる。ほら、行くぞ」

舞が出口に向けて歩き出した。志保も席を立ち、たまきと亜美に背を向ける。二人の黒い影がくっきりと壁に映し出される。

一瞬だけ見えたその顔は、ほほのくぼみを涙が濡らしていた。だが、それをすぐに長い髪の影が覆い隠す。

志保の背中をたまきは見つめる。『城』で築いた志保との思い出が走馬灯のように……。

……出て来なかった。志保との思い出は、たまきの頭に浮かばなかった。思い出は、まだなかった。

――そうだ。私は志保さんのことを、まだ何も知らない。

なぜ彼女がドラッグに手を出したのか。

彼女は何が好きなのか。

彼女は何が嫌いなのか。

やりたいことは何か。

なにで笑うのか。

なにで怒るのか。

たまきはまだ何も知らない。

なのに、……これで終わり?

そう思ったら、たまきは自然と立ち上がっていた。

「……待ってください」

消え入りそうな声でたまきはつぶやいた。

「……志保さんと、もうちょっと一緒にいちゃだめですか……。……この『城』で一緒に暮らしちゃだめですか?」

舞は振り返ると、あきれたように答えた。

「お前、何言ってるんだ?」

ため息をつきながら、舞は肩をすくめた。

「お前、こいつのせいでどんな目にあった?」

「ごめんね……たまきちゃん」

「……そのことはもういいです。気にしてないので。」

たまきにしてみれば、今まで、一番自分を傷つけたのは自分なのだ。今更他人にどんな目にあわされようが、大概のことは気にしない。志保とて、意図的にたまきに罪をなすりつけようとしたわけではない。

そんなたまきに、舞は冷たく言い放った。

「理解しろ。こいつはお前らの手に負えないんだ」

その一言は、たまきがずっと探していた、漠然とした思いの答えを、彼女に気付かせるものだった。

それと同時に、その言葉がたまきの中の何かに火をつけた。

「……手に負えないっていうのなら……」

たまきは囁くように言った。

そして、叫んだ。

「手に負えないっていうのなら私だって同じです!」

 

薄いガラスを破ったようなその声は、叫びと呼ぶにはちょっと、か細かったかもしれない。しかし、志保が足を止め、舞が目を向き、亜美の口を呆けたように開かせるのには十分だった。

「……た、たまき?」

当の本人だけが、まるで自分が叫んだことに気付いていないようだった。

「……私なんか、学校行っても友達いなくて……」

たまきはいつものようにボソッとしゃべった。

「……そのうち学校に行けなくなって……、家にも居場所がなくなって……。死のうとしてでも死ねなくて、そんなのを何回も繰り返して、挙句の果てには家出して、親からしてみれば、私、きっと、手に負えない娘だったと思います。だから、手に負えないのは、私も一緒なんです!」

たまきと違って志保は友達がいる。彼氏がいる。頭がいい。美人だ。何もかもたまきと違うはずだ。

でも、今は自信を持って言える。

志保はたまきと一緒だ。

だから、見捨てたくない。

自分の体に刃物を当てることができても、自分の命を終わらせることができても、

とどのつまり、人は自分を、自分と同じものを、見捨てることはできない。

たまきが言い終わると、舞がたまきに近づいた。

「……今回わかったはずだ。薬物の恐ろしさが」

舞は続けた。

「最初に志保に会った時、確かにこいつはクスリをやめようとしていた。それは嘘じゃないとアタシは思う。でも……、ダメだったんだよ。本人の意志の強さじゃどうにもならないんだ」

そういうと、舞はたまきにこう言った。

「またこいつがクスリを欲した時、お前に止められるのか?」

たまきの回答は、舞の予想より早かった。

「……止められないと思います」

「だったら……」

「でも……! そばにいるくらいはできます」

「ダメだ。そんなんでクスリがやめられるんなら、誰も苦労はしない」

「でも……! でも……!」

二人のやり取りを、いや、たまきの言葉を、亜美はなんだか真新しい気持ちで聞いていた。

たまきに出会ってまだ間もないが、彼女がこんなにも何かに、「死ぬこと」以外の何かに固執しているのを見るのは初めてだった。

「その施設っていうのは、志保さんみたいな人がいっぱいいるんですよね。そういう人たちの中で、治していくんですよね?」

「ああ」

たまきの質問に舞が答える。

「だったらここにいても……」

「なんでそうなる」

「……一緒だから」

たまきはそういうと、右腕の真っ白な包帯をはずした。無数についた切り傷。そのうち一つはまだかさぶたである。

それを一目見るなり、舞には分かった。

「また切ったのか?」

たまきは答えなかった。その代りにっこりと、たまきにしては珍しく、にっこりと笑った。

「私も志保さんと一緒だから」

たまきはそれだけ言うと、志保の方を向いた。

志保はうつむいていた。もしかしたら、たまきの新しいリストカットも、自分のせいではないかと思っているのかもしれない。

「志保さんはどうしたいんですか? 施設に行きたいんですか? ……こんな終わり方でいいの?」

「……それは、こんな終わり方はやだよ……」

志保は顔を挙げずに震え声で答えた。

「でも……、たまきちゃんにも、ミチ君のバンドにも迷惑かけて、もう、いられないよ……」

「私ならもう気にしてません。わざと罪をなすりつけようとしたわけじゃないんだし」

「でも……。」

「私だって、いっぱいいろんな人に迷惑かけてますし、たぶん、今も家族に迷惑かけてますし」

たまきも志保も似た者同士だから、施設に行くのもここにいるのも一緒。さて、その理屈を認めていいものか。

舞が、どうしようかと考えを巡らしていると、突如、亜美が声を上げた。

「思い出した」

そういうと、亜美は右腕の青い蝶の入れ墨がはばたくかのようにゆっくりと立ち上がった。

「中学のころさ、テレビで『親子間の窃盗は罪になんない』っていうのやってて、ウチ、ラッキーっつって、平気で親の財布から金くすねてたんだ。全部で四万ぐらいかな。あ、一回でじゃねーぞ。5千円ずつ抜き取って、ばれるまでやってたらそん位になったんだ。さすがにばれてさ、そんときウチ、妹のせいにして。でも、妹、ウチと違っていい子だから、そんなウソ通用しなくて、おやじに怒られて、でも、その後も懲りずに二万ぐらい抜き取ってたなぁ。」

亜美は笑いながら続けた。

「万引きもよくしたし。よくよく考えたら、志保なんかより、ウチの方が手に負えないサイテーのガキだったよ」

そういうと、亜美は舞に笑いかけた。

「ねえ、先生。こいついないと、ウチら、カップラーメンしか食うものないんだ。頼む! もうちょっとこいつ、ここに置いといてよ。施設に行くのも、ここにいるのも、手に負えない者同士って意味では、一緒、一緒!」

「お願いします!」

「頼むよ。ね?」

少し間をおいて、志保が口を開いた。

「先生……、お願いします」

舞は、頭を抱えるように抑えた。

「はあ……、なんてこった……。こいつら、三人ともアタシの手に負えねぇ」

舞はしばらく考えていたがやがて、

「……勝手にしろ。医者としての忠告はしたからな」

と言い放った。

それまで一つだけ灯りの灯っていなかった蛍光灯が、突然、ついた。急に部屋の中が明るくなる。

「いいんですか?」

「……とりあえず、志保、明日施設に行くことはかわんねぇぞ。『通院』するために『見学』するんだ。十時にうちに来い」

次に、亜美の方を向く。

「お前はちゃんと月一で性病の検査に来い!」

最後にたまきに向かい、

「次からは一人で傷の処置をするな。必ずあたしのところに来い」

というと、舞は、

「徹夜で仕事しなきゃならねぇから、帰る」

といって、出て行った。ドアを閉めると、つるされた「あみ しほ たまき」と書かれたカラフルなネームプレートが微笑むように揺れた。

 

30分後、日付は変わって土曜日。深夜。雨上がり。

たまきと志保は太田ビルの屋上に上がった。

太田ビルの屋上には、1メートルほどの柵がある。たまきは柵にもたれて、ビルの下の道路を見つめていた。深夜の繁華街はネオンが輝き、屋上から見ると、オレンジの夕日を反射してきらめく海のようだ。

「ごめんね、たまきちゃん」

柵に寄りかかった志保がそう言った。セリフは今までとそう変わらないが、声は心なしか晴れやかだった。いつもの愛くるしい笑顔だ。

「別にいいです。気にしてないんで」

たまきがいつものようにボソッと答える。

「それよりも頭にきてることありますし」

「え?」

「別に志保さんのことじゃないです」

たまきはそういうと、少し微笑んだ。

「お前ら、こんなところにいたのか」

階段を上がって亜美がやってきた。手にはビニール袋がぶら下がっていた。

「亜美ちゃん、それ、どうしたの?」

「貰ってきた」

亜美はビニール袋から、ビールの缶を取り出した。

「亜美ちゃん……、それ、お酒……」

「我らの変わらぬ友情を祝し、乾杯といこうじゃないか」

亜美はすでに酔っぱらってるんじゃないかというようなことを言い出した。

「いや、亜美ちゃん、あたしたち、未成年……」

「私、お酒、飲んだことない……」

「お前ら、不法占拠とか、リスカとかドラッグとかやっといて、いまさら何言ってんだ?」

そういうと亜美は、二人の手に缶を持たせた。

「さあ、乾杯! 乾杯!」

結局、たまきも志保も、缶ビールを持たされてしまった。

「亜美ちゃん、あのさ、あたし、普通のジュースとかがいいな……」

「何だよ、ノリ悪りぃな」

「いや、こういう酔っぱらっちゃう系は、なんていうか……」

「……酒でラリるとは思えねぇけど……、まあ、念のためってやつか」

そういうと亜美は、志保の手にある缶を受け取った。

たまきも缶を返そうとする。

「亜美さん……、私もお酒は……」

「おまえは特に理由ネェだろ」

「いや……、未成年……」

「大丈夫だって。気にすんな」

なにが大丈夫なのかわからなかったが、たまきは言われるがままに、プルタブに指をかけた。しかし、自分じゃ開けることができず、志保に開けてもらった。プシュッと音がする。

ジュースを買いに下のコンビニに行った志保が戻ってくると、三人は、それぞれが持った缶で互いの缶をたたいた。

「かんぱ~い!」

 

二十分後。土曜日。深夜。月夜。

「あははははは」

亜美の笑い声が屋上にこだまする。何が面白いのか志保には全く理解できないが、亜美はとにかく楽しそうに笑っている。いわゆる、笑い上戸というやつであろう。

志保は、横にいるたまきをちらりと見た。柵に顔をうずめるようにもたれかかっている。顔は赤い。

「たまきちゃん、大丈夫?」

「……なんかふわふわします」

たまきはいつになく甘ったるい声で言った。

「ちょっとやばいかも」

「お水あるよ」

ジュースと一緒に用意周到に志保が買っておいた水のペットボトルにたまきは口をつける。

「あははははは。おい、志保ぉ! あれ、この前見た都庁じゃないの?」

亜美が笑いながら志保に話しかけた。志保は亜美が指差す方向を見る。

黒い空に、より濃い黒さのビルが浮かぶ。ちらほらと、星のような窓の明かりがきらめく。

「うーん、どうだろう。方向はあっちの方だと思うけど、結構離れてたからなぁ」

「あっちなんだろ。じゃあ、あれでいいじゃねーか」

そういうと、亜美は歯を見せて、にっ、と笑った。

「青春ごっこしようぜ」

「……何それ?」

ちょっと言ってる意味が分からない。

「よく映画とかであるじゃん。海で夕日に向かって『バカヤロー』って叫ぶやつ」

確かにそういうシーンはよく語られているが、実際に使われている映画を志保は知らない。

「都庁に向かって叫ぼうぜ」

やっぱり言ってる意味が分からない。

志保が理解するよりも早く、亜美は口の横に手を添えて、都庁、らしき建物へ向けて叫んだ。

「バカヤロー!」

亜美の叫びが夏の湿った空気を震わす。

「遠くばっかり見てんじゃねーぞバカヤロー!」

柵にもたれていたたまきがふらりと立ち上がる。そしてふらふら歩きながら亜美の隣に立つと、同じように口に手を添えた。

「ばかやろー。」

たまきにしては精いっぱいの大声を出す。

亜美がさらに続ける。

「そんなところにウチらはいねーぞ!」

亜美は声の限り叫ぶ。

「ここにいるぞバカヤロー!。……ここに生きてんぞバカヤロー!」

亜美はふうっと息をついた。

「悔しかったら、こっち来てみーろ!」

叫ぶ亜美と、その隣のたまきの後ろ姿を、柵にもたれながら志保は眺めていた。

だが、急にたまきがバランスを崩したので慌てて駆け寄る。

バランスを崩したたまきを、亜美が抱き留めた。

「たまき!」

「たまきちゃん!」

亜美の腕の中で、たまきが言う。

「亜美さん、志保さん、あのね、私、今、ちょっと楽しいかも」

そういうとたまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、にっこりと笑った。

 

土曜日。深夜。まん丸お月様の夜。


次回 第6話 強盗注意報、自殺警報発令中

雨の日、たまきが一人で留守番していると、「城」に強盗が入る。包丁を向けて震える声で「お金を出さなきゃ殺す」と脅す強盗に、たまきは「殺してください」と頼む?

「『おい! 来るな! 殺すぞ!」』『殺してください』 」

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第4話 歌声、ところにより寒気

明日がどうでもいい亜美と、明日がいらないたまきの住む「城」に、新たな仲間、明日が怖い志保が加わった。ある日、ミチに彼のバンドのライブに誘われたたまきは、断りきれずにライブに行くと約束してしまう。しかも、その姿を亜美と志保に見られてあらぬ誤解をされてしまう。しかし、ライブ当日、穏やかそうに見えた3人の暮らしにある事件が起こる。正確には、ある事件を起こしてしまう……。

「あしなれ」第4話、スタート!


第3話 病院のち料理

登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


夏の朝。ブラインド越しに日差しが注ぎ込む。「城(キャッスル)」の中には志保が一人。テレビで朝のニュースを見ている。今日のトップニュースは国境の島に、外国の船が近づいたというものである。

ふと、悪寒が走る。何か明るい話題はないかとチャンネルを変える。

志保が「城」で暮らし始めて二週間。何とか、クリーンでやってこれた。

やればできる。きっと大丈夫。

「たっだいまー」

勢いよくドアが開き、日の明かりとともに亜美が帰ってきた。

「いやぁ、朝からあっついねぇ」

「ほんとだねぇ」

志保がふふふと笑った。

「城」の同居人に志保が増えてから、亜美は「仕事」を外で行うようになった。場所はホテルだったり、相手の家だったり。たまき曰く、ようやく亜美も「配慮」という言葉を覚えたらしい。

「あれ?」

亜美は室内を見渡した。いつもなら必ずいる、たまきがいない。

「たまきは?」

「なんかね、公園に行くって言ってたよ」

志保が、テレビを見ながら答える。

亜美は、鞄を床に放り投げると、ソファに座り、テーブルの上に足を投げ出した。

「あいつ、たまに公園に行くけど、一体、何やってるんだ?」

「さあ」

志保が答える。

「ちょっと、見当もつかないなぁ」

 

写真はイメージです

その公園に行く道のりは、たまきにとってはちょっとした旅行だ。

まず、たまきにしてみれば三途の川に等しい、黒いアスファルトの大通りを渡り、歓楽街を出なければならない。

歓楽街を抜けると、線路と電気屋の間の大きな道を歩く。しばらくすると、人でごった返すスクランブル交差点につく。

ここで、線路の反対側へ行ける。

線路をくぐったら今度は左へ。たまきの大嫌いな人ごみの中を歩き、駅についたら、吐き気を抑えながら駅の構内を通り地下へ。そして、駅に背を向けて地下道を歩きだす。

この辺でそろそろ疲れてくる。普段歩かないたまきが歩いているという疲れもあるし、大嫌いな人ごみ、それも、東京随一の人ごみの中を歩いてきた疲れもある。

すれ違う人がほんの一瞬、自分に目を向ける。この、ほんの一瞬が大嫌いだ。

疲れてきたたまきにとって、地下道の動く歩道はありがたい。もたれかかるように乗る。

地下道を抜け、道路を歩道橋で渡ると、緑の木々が見える。公園だ。

公園の林の中を歩くと、広場へとつながる階段がある。

聞こえる音は、広場にある人工の滝の音、やかましいぐらいのセミの鳴き声、そして、若い男の歌声だった。

男は、夏にもかかわらず、日差しの中で歌っていた。午前中とはいえ、気温は二十五度を越し、男も汗を流している。

男は、階段に腰を下ろして、アコースティックギターを腿に乗せて歌っていた。

ハイトーンで、芯のある声。

その男はたまきの顔見知りだった。

しかし、たまきは彼のことをあまり知らない。

まず、名前も知らない。「ミチ」と呼ばれてはいるが、本当の名前は知らない。

年はたまきの一つ上の十六。仕事は知らない。学生ではないらしい。また、プロのミュージシャンを目指しているらしく、ほぼ毎日、ここで歌っているらしい。

たまきは、ミチの座っている段の日陰に腰を下ろした。

肩からかけていた鞄を降ろすと、その中からスケッチブックとペンケースを取り出した。

斜め前にある高層ビルを描き始める。そのため、体の向きが若干ミチの方に動く。

左手に握った黒い鉛筆で一心不乱に、風景の模写をするたまき。その左隣でギターをかき鳴らして歌うミチ。

――さあ、歩いて行こう――

――光あふれる明日へ――

――さあ、手を伸ばそう――

――光あふれる未来へ――

たまきは自分の絵が嫌いだった。

黒い鉛筆ですべてを書くのだが、どうも、暗いのだ。

だったら、色鉛筆を使えばいいじゃないかという気がするが、色鉛筆で書いてもやっぱり暗いし、色を使うのはあまり気分が乗らない。

だから、たまきはミチの歌が好きだった。

はっきり言ってしまえば、どこかで聞いたような歌詞である。目新しいメッセージなんてものはなく、きれいごとと言ってしまえばそれまで。

それでも、たまきはミチの歌が好きだった。彼の歌を聞いていれば、自分の絵も少しは明るくなるんじゃないか、そんな気がした。

断っておくが、たまきは歌っているミチ本人は嫌いである。

ちゃらくてなれなれしいのも嫌なのだが、目つきもいやらしい。確実に、たまきに対してやらしいことを考えている。そういう経験のないたまきでも、本能的に感じ取れる。むしろ、たまきは他人からの目線に敏感だと言えるだろう。

だから、歌声に耳を傾け、体の向きも少しミチに傾けていても、視線を送ることは決してなかった。

公園の方に視線を送ると、日曜日だからか、いろんな人がいる。道路に面した日向の方では、スケボーに興じる若者たち。一方、滝のそばの日陰には、ホームレスと思われるおじさんたちが座っている。彼らに何か、プリントを配っている人はボランティアだろうか。

ビル街の中で緑に囲まれた、都会の喧騒を離れたと表現される公園だが、こう見ると、光と影の都会の象徴の気がした。

今の二人、たまきとミチもそうである。日向で汗をかきながら、希望に満ちた歌を歌うミチ。日陰で鉛筆で、童話の魔女の森みたいな絵を描くたまき。

「ありがとうございました」

ミチが一曲歌い終え、ギターの余韻を右手で止めると、宙を見ながら言った。

「今の、だれに言ったんですか」

たまきが、ミチの方を見ないで尋ねた。

「世の中」

聞かなきゃよかった、とたまきは思った。

「そこ、暑くないですか」

午前中とはいえすでに気温はかなり上がっている。ミチは、ずっと日向で歌っている。

「暑いね」

ミチも、たまきの方を向かずに答える。傍らに置いてあった、水の入ったペットボトルに口をつける。

「ぬるっ!」

当然である。ずっと日向に置いてあったのだから。

「暑いなら、日陰に入ればいいじゃないですか」

たまきはミチの方を見もしない。

「いや、こういうのは見た目も大事なんだよ。太陽の光に照らされてこそ、ロックンロールなんだよ」

言ってる意味が分からない。たまきのイメージでは、ロックと太陽は程遠いものだったし、そもそも、さっきの歌はロックではなく、フォークに近いものではないだろうか。

「今度、ライブがあるんだよ」

「そうですか」

「たまきちゃんもきなよ」

たまきは男にちゃん付されるたびに、背中がぞわっとなる。

しばらく沈黙が二人を包んだ。

「……わかりました。いきます」

「え?」

ミチが初めてたまきの顔を見た。たまきもミチの顔を見る。

「どうしたの突然。今まで、頑なに断り続けてきたのに」

「いい加減、断るのもめんどくさくなったんで。一回くらいなら」

たまきはそういうと、顔の向きを被写体のビルへと戻した。

「さてと」

ミチは立ち上がった。

「バイトの面接に行ってくるか」

そういうと、ミチはたまきの方を向いた。

「何のバイトか聞きたい?」

「どうでもいいです」

「受かったら教えるよ。ぜってーびっくりするから」

なんだかかみ合わない会話を残し、ミチは公園を去った。

一人残ったたまきは、つまらなそうに作業を進める。

びっくりなんてここ何年もしていない。むしろ、トイレでリストカットして、自分が他者をびっくりさせている側だ。

確かに、クラブのトイレで志保が倒れているのを見たときはパニックになった。しかし、それは何をしていいのかわからなかったからで、びっくりとは少し違う。

思うに、びっくりするにはある程度高いテンションが必要だと思うのだ。

そんなことを考えながら、作業を進めていたたまきの肩を誰かがたたいた。

同時にたまきの傍らにしゃがみ込む、金色の長い髪。

ノースリブの腕に見える、青い蝶の入れ墨。

聞きなじんだ声。

「何々、二人いい感じじゃん」

たまきの視界に亜美のにんまり顔が飛び込んできた。

たまきにしては珍しく、本当に珍しく、思わず「キャー!」と仰天の叫び声をあげた。

 

写真は都庁です

「あっついねー」

亜美が手で顔を仰ぐ。

「今日、最高気温、三十二度だからねぇ」

志保が太陽の方に目をやりつつ、タオルで汗を拭きながら、蝉の歌声をかき消すように答える。三人は階段を降り、広場に立っている。スケボーを楽しむ若者も、ホームレスの皆さんもみな男性。女性は三人と、ホームレス集団の中にいる、ボランティアと思われる女性だけだ。

「そうじゃなくて、たまきとミチがさ……」

「あ、そうだね。たしかに熱かったねぇ」

志保が、町で見つけた野良猫をなでるような優しい目つきでたまきの方を見る。

「だから、二人が思ってるような関係じゃないですから!」

たまきは二人に背を向けて立っている。背を向けている理由は一つ、赤くなった顔を二人に見られないためだ。胸の前ではしっかりスケッチブックをホールドしている。ただでさえ恥ずかしいのに、スケッチを見られたら恥の上塗りだ。

「ほう、ウチらが思ってる関係じゃないと」

「もっと親密な関係ってこと?」

「オトコとオンナの一線を越えちゃったわけだな。フムフム」

この二人は、何が何でもたまきとミチを「そういう関係」にするつもりだ。

「そもそも、二人とも、何でここにいるんですか」

「いやね、たまきがよく公園に行くっていうからね、何してるのかなって見に来たらねぇ」

「まさか密会してるなんてねぇ。いやぁ、たまきちゃん、若いなぁ。一歳しか違わないけど、若い!」

「だから、密会じゃないですって」

たまきは二人に背を向けたまま、日陰でうつむいて答える。

「階段でねぇ」

「二人より添って、ねぇ」

「寄り添ってないです! かなり間隔開けて座ってましたから!」

「でも、同じ段で、ねぇ」

「ねぇ」

「そういう関係じゃないなら、違う段に座ればいいじゃない、ねぇ」

「ねぇ」

たまきは痛いところを突かれた。たまきが公園に来た時、すでに、ミチは階段に腰掛け歌っていた。たまきは、わざわざ同じ段に座って絵を描き始めた。

理由は、ミチの歌を聴きたかったからだ。ミチのバカみたいに明るい歌を聴きながら書けば、少しは自分の絵も明るくなると思ったのだ。

だから、「なぜ隣にいた」と聞かれれば、「ミチの歌が好きだから」となる。

その言葉をたまきはそのまま言おうとした。だが、もしそんなことを言ったらどうなるだろうか。

「ミチの歌が好きなんだってさ」

「え? それって、ミチ君のことが好きなんじゃないの?」

とちゃかされるに決まってる。

やはり「好き」というワードは威力が強すぎる。別の言葉に言い換える必要がある。

ならば、「嫌いじゃない」が妥当だろう。

「ミチの歌は嫌いじゃない」。まだ、ちょっと威力が強い気がする。セリフをもう一つ付け足して弱める必要がある。

やはり、ミチ本人のことは嫌いであるということは、はっきり伝えた方がいいだろう。

思考を巡らすこと約1秒。たまきは口を開いた。

「あの人は嫌いだけど、あの人の歌は嫌いじゃないんで」

たまきは二人の反応を見るために、ちらりと後ろを振り返った。

そこには、無防備なウサギを見つけたライオンのようににやにや笑う亜美と志保がいた。無防備なウサギを見つけたライオンがどんな表情をするかなど知らないのだが。

「あの人のことは嫌いなんだって」

「でも、あの人の歌は嫌いじゃないんだって」

「あれだよね。第一印象は最悪だけど、なんか惹かれるところがあって気になっちゃうってパターンだよね。うわぁ、マンガみたい」

「あたしもそういう恋愛したいなぁ。いやぁ、たまきちゃん、若い! 一つしか違わないけど若いなぁ」

どうしてこうなるんだろう。穴があったら飛び降りて、埋めてもらって、死んでしまいたい。

 

暑いので、自販機でコーラを三本買った。

「あれが都庁かぁ。東京にずっと住んでるけど、生で見たのは初めて」

志保が、公園と道路を挟んで反対側にそびえたつビルを見上げながら言った。

「あれだろ、竹島買ったじいさんが住んでるビルだろ」

「うーん、亜美ちゃん、どこから訂正すればいいのかな?」

志保が困ったように微笑む。

「まず、竹島じゃなくて尖閣諸島ね。それを買うって言い出したのは知事だけど、実際買ったのは国の政府。で、ここは職場だけど住んでるわけじゃないし。そもそも、前の知事だし。」

二人からちょっと離れたところでコーラを飲んでいたたまきは、ある事実に気付いた。

ミチのライブの時間を聞いていない。

行くと約束してしまった以上、それを反故にはしたくない。

つまり、たまきはもう一度ミチにあって、ライブの日時、場所を聞かなければならない。

思いつく唯一の方法は、またこの公園に来ることだ。たしか、ほぼ毎日この公園にいると言っていた。

しかし、もし今後「公園に出かける」などと言おうものなら、あの二人にあらぬ想像をされることだろう。かといって、嘘をついて外に出たら、万が一ばれた時、いよいよもって逢引き扱いされるであろう。

そうだ。ヒロキならばミチの連絡先を知っているかもしれない。ならばヒロキを通して連絡を取り、こっちで場所と時間を指定して会えばいい。なんなら、ヒロキの携帯電話を借りて、直接電話で話してもいい。

 

写真はイメージです

「城」まで歩いて帰った。時間はちょうどお昼頃だ。

「城」は雑居ビルの5階にある、キャバクラだった部屋だ。1階はコンビニ。2階はラーメン屋。3階は雀荘で、4階はビデオ店である。

お昼ご飯を1階のコンビニで買うことにした。

空から日差しが降り注ぎ、アスファルトから陽炎が立ち上る中、「城」の入っている太田ビルの前についた。

ビルの前には、ビールケースに腰掛けた男が一人いる。

強面のチャラ男。彼の名はヒロキ。亜美の客であり、ミチの「センパイ」である。何の先輩なのかは知らない。

「おっす。ヒロキ、お疲れ!」

亜美がヒロキに声をかけた。ヒロキは、4階の呼び込みをしているため、一日中ここに座っている。

「熱くないんですか?」

志保が尋ねた。

「大丈夫。水、飲んでるから」

ヒロキが答える。

亜美と志保は、コンビニへ入っていった。

たまきは階段を昇らず、ヒロキの前で立ち止まった。

ヒロキなら、ミチの連絡先を知っているはずだ。

ヒロキがたまきの方を見た。

「ん? たまきちゃん、どうした?」

ヒロキとたまきが一瞬目が合った。

たまきはふいっと目をそらした。

ヒロキとは全く知らないわけではない。見かけほど怖い人間ではないこともわかってきた。

それでも、ヒロキと目を合わせるのは怖かった。ヒロキに限らず、他人と目を合わせるのが怖い。

亜美とも志保とも、舞ともミチとも、いまだに目を合わせられない。

もっとさかのぼれば、学校でも誰とも目を合わせずに過ごしていたと思う。両親や姉とも目線を合わせることはなかった。

一体いつからだろう。いつから、人と目を合わせるのが怖くなったんだろう。

たまきは人に見られるのが嫌いだ。顔を見られまいと髪で覆い、素肌を見られまいと袖で隠す。

中でも一番見られたくないのが目なのかもしれない。目を見られると、自分の内面を見られているような気がする。

もっとも、内面を見透かされたからと言って、何が困るというのだろう。内面の何を見られるのをこんなにも恐れているのだろう。

それでも本能的に怖さをぬぐえなかったたまきは、何も言わずにヒロキの前を去ってコンビニへ入っていった。

 

写真はイメージです

午後一時、「城」の中は冷房が効いていて快適だ。今日はお風呂に行くまでもうここから出ない、たまきは決めた。それにしても、この部屋の電気代はいったい誰が払っているんだろう。

たまきはソファの上に横になってタオルケットをかけていた。メガネはかけたままだ。

たまきは一日のほとんどをこうして横になって過ごしている。別に体調が悪いわけではない。問題があるのはフィジカルではなくメンタルだ。メンタルの不調がフィジカルにも不調をきたし、気分が悪い。なんだか、乗り物酔いしているような感覚。乗り物ならば降りればいいのだが、この世界そのものが酔う場合はどうすればいいのだろう。

たまきの隣では、亜美がいびきとも寝息ともつかない音を出して寝ていた。

亜美の生活リズムは普通とは違っている。亜美の場合、深夜に「労働」するので、寝るのはそれが終わってから、明け方近くになる。その時は4時間しか寝ない。

午前中に起きて、朝ごはんを食べ、「城」でゴロゴロして、お昼を食べたら今度は二度目の睡眠に入る。今度は3時間ぐらい寝る。そうして、夕方ごろに起きてきて、そのまま深夜まで起きて、明け方また寝る、という生活サイクルである。体に悪そうだが、実際のところどうなのかは知らない。本人はトータルで7時間も寝ているから問題ないと思っているし、自身の健康にはあまり関心がない。たぶん病気にならないと思っているし、なっても何とかなるだろうと思っている。

志保は起きていた。彼女の生活リズムは二人に比べると、規則正しかった。ただ、たまきから見ると、あまり寝ていないように思えた。

志保はブラインドおろして、電気をつけた部屋の中で、本を読んでいた。ブックカバーをしているので何の本を読んでいるのかはわからないが、マンガの類ではなさそうだ。

そこにチャイム音が鳴り響く。

ピンポーンピンポーンピポピポピンポーン。

亜美がのそのそと起き上がる。

「誰だよ、こんな時間に……」

世間的には、来客が来ても何の迷惑でもない時間なのだが、亜美からしてみれば、眠りを妨げた、大迷惑な奴である。

一番、意識がしっかりしている、志保がドアを開けるため立ち上がる。その間も、ひたすらチャイムは鳴りつづける。

ピンポーンピンポーンピポピポピンポーン。

たまきは迷惑そうにドアの方を見る。どうやら相手は非常識な人のようだ。大方、亜美の「客」だろう。しかし、彼らはたいてい夜中に来る。こんな昼間にいったい誰だろう。

たまきの頭に、亜美の客以外でこの場所を知っている非常識な男の顔が浮かんだのと、志保が開けたドアの向こうから、その本人の声が飛び込んできたのはほぼ同時だった。

「志保さん、ちわーっす」

その声を聴いた瞬間、たまきは背筋が寒くなった。

「ミチ君。」

志保が、目の前にいる、最近知り合ったばかりの少年の名を呼んだ。

 

たまきは、久しぶりに自分の鼓動が高鳴っているのを感じた。

さっき、散々からかわれた相手が自分の部屋を訪ねてきている。そして、部屋の中には、からかった二人もいる。このままだと、ろくなことにならない。

要件はだいたいわかっている。ミチも気付いたのだ。ライブの時間や場所を伝えていないことに。

それを伝えに来てくれたのは別にいい。だが、なぜ今、ここなんだ。ライブに行くことを二人に知られたら、からかわれること請け合いじゃないか。

ただ、ミチは先ほどの公園での三人のやり取りを知らない。なのにそれを責めるのは酷というものだ。

だが、それにしてもタイミングが悪すぎる。なぜ、三人そろっているときに来た。先ほどの非常識なチャイムといい、たまきはますますミチのことが嫌いになった。

ともあれ、まずはミチをここから連れ出すことだ。屋上がいい。話はそこで聞こう。二人には適当にごまかせばいい。

ミチを連れ出そうとたまきが起き上った。それを見たミチは声を上げた。

「あ、たまきちゃん」

ミチが余計なことを言う前に連れ出さねば。たまきは珍しく、たまきにしては本当に珍しく、走り出した。

普段走らない人が走ると、あまりろくなことが起こらない。足をテーブルの脚にぶつけて、たまきはソファの上に転がり込む。

たまきの頭上をのんきな声が響く。

「ライブね、明日の7時! 場所はね……」

ああ、おわった。

「ライブ?」

けだるそうにソファの上に転がっていた亜美が起き出す。

「なになに? 何の話?」

「たまきちゃんがね、今度ライブ来てくれるんですよ」

「うそぉ!」

亜美の大声が響き渡る。

「たまきなんで? どういう風の吹き回し? イベントとか大嫌いじゃん」

「……会うたびにしつこく言ってくるので」

「ああ、男に強く迫られると、断れないタイプか」

「……そういうのとは違うと思うんですが……」

今度は横から志保が口をはさむ。

「若いなぁ、たまきちゃん。ほんとはいきたくないんだけど、しつこく言うから行ってあげるんだからね!ってやつだね」

「ああ、ツンデレか」

「……そういうのとも違うと思うんですが……」

「あ、そうだ!」

ミチが、靴を置くマットを無視して土足で上がりこんできた。

「亜美さんと志保さんも来てくださいよ」

ミチは、亜美と志保に近寄って言った。

「えー。でもねぇ」

「なんかねぇ。悪いよねぇ」

二人はたまきの方をちらちら見ながら、ニヤニヤ笑う。

「何すか、悪いって。来てくれないと、ノルマ達成できないんですよ」

「ノルマ?」

志保が聞き返す。

「一人五人は連れてこないといけないんですよ。招待ってことで、金は俺が払うんで、お願いします」

「ノルマがあるっつーんならしょうがない。行ってやるか」

「あざーっす。これ、チケット三枚。んじゃ、また明日」

ミチは自分の用件だけ済ませ、亜美にチケットを渡すと、さっさと帰ってしまった。たまきはますますミチが嫌いになった。

 

午後三時ごろ。亜美を眠りから叩き起こしたのは、彼女の携帯電話だった。

「誰だよ……こんな時間に……」

亜美は携帯電話を確かめた。

「もしもし?」

「おっす。亜美」

「先生、……何すか?」

電話の相手は「先生」こと、京野舞だった。

「今さ、仕事で京都にいんのよ」

「……オペかなんかっすか?」

亜美がけだるそうに聞く。

「おめー、あたしが医療行為やってんのはボランティアで、本業はライターだってことを忘れてねぇか?」

「ああ、そうでしたね」

「今、取材で来てんだよ。ほら、京都の病院で臓器移植の手術があったろ」

「……何すか、それ」

「お前、ニュース見てないのか? まあいいや。そういうわけで、お土産何がいい?」

「何があるんすか?」

「八ッ橋とね、固い八ッ橋とね、変わり種八ッ橋とね」

「……全部八ッ橋じゃないっすか。何でもいいっすよ、粒あんじゃなきゃ」

「……どうした、元気ないな」

「……寝てたんで」

亜美は眠そうに答えた。

「お前、まだそんな不規則な生活をしてたのか」

「大丈夫っすよ。不規則を規則正しくやってるんで」

「やれやれ。たまきは? あいつは元気か?」

「相変わらず元気ないっすよ」

「そうか、まあ、自殺しなければそれはそれでいいか」

そういうと舞はそこで一呼吸入れ、少し声のトーンを落とした。

「志保は? あいつは、何か変わったことないか?」

「ああ、全然元気っすよ」

「そうか?」

「ほんとっす。心配無用っす」

「ならいいんだけど。木曜に東京帰るから、そん時、あいつを依存症患者用の施設に見学に連れて行こうと思うんだ。あいつにもそう言っといて。じゃ」

そういうと舞は電話を切った。

 

写真はイメージです

一日というのはあっという間に過ぎる。たまきのように、一日中ごろごろしている人間にとってもあっという間に一日は過ぎ去り、もうライブ当日である。

ライブハウスは思ったよりずっと小さかった。少なくとも、以前亜美に連れられたクラブよりずっと小さい。

ステージ上には真ん中にドラムがデンとおかれ、ギターのような楽器が三本ほどおかれている。床の上にはたくさんの配線。

客席は学校の教室ぐらいの広さだ。

もっと込み合っていると思いうんざりしていたのだが、客は十五人から二十人程度で、まばら。

「こんなもんだよ、アマチュアのバンドなんて」

亜美はそういっていた。

ふと、たまきは志保の方を見た。さっきから全くしゃべっていない。少し呼気が荒い気もする。もっとも、志保もあまりおしゃべりというわけではない。それでも、たまきから見れば十分よくしゃべる、「友達作りスキル」の高い人だ。

そろそろライブが始まる。ちらりと出口の方を気にする自分が、たまきはちょっと嫌だった。

 

照明が徐々に暗くなり、非常口の明かりも消え、直後にステージの上に灯りがともされた。

ステージに、黒の衣装で統一した5人の若い男性が入ってきた。各々楽器を取ったりドラムに座ったりマイクを握ったり。

もちろん、その中にミチもいた。ステージの右端で、青いギターを持って立っている。

ライブはいきなり演奏から始まった。ドラマーがまずドラムをどこどこと叩くと、続いてベーシストがブオンブオンと奏で始める。

その後に、ミチがギターをジャカジャカジャンジャンとはじきだす。続いて、左側のギタリストがギュオンギュオンと音を鳴らす。

4つの音が合わさって爆音となり、照明があわただしく明滅しだす。一転、音がぴたりと止まり、左側のギタリストが少しはかなげなアルペジオを奏で始めると、いよいよ真ん中に構えたボーカルが少しハスキーな声で歌い始めた。

マイクスタンドに寄りかかるように歌うボーカル。他の楽器の音も入ってきて、少しずつ盛り上がり、サビでは衝動的に叫ぶかのようなバンド音をバックに、ボーカルもとうとう叫びだす。はっきり言って、歌詞は聞き取れない。

あれ、とたまきは思った。ミチくん、歌わないんだ。歌、うまいのに。

たまきはミチの方を見た。ステージの右端で。ギターのコードを抑える左手の指使いを確認しつつ、右手をひたすら動かしている。

その表情にいつもの人懐っこい笑顔はない。観客が盛り上がるなか、なんだか今、この空間で一番つまらなそうな顔をしているように見えた。

公園で歌っていた時にはあれほど輝いていたミチが、なんだか影のさしているように見える。

ふと、たまきは、彼とどこかであったことがある気がした。

もちろん、たまきとミチは何回か会っている。だが、そうではなく、どこかであった気がするのである。

十五分ほどで3曲を演奏した。たまきには曲の違いがよくわからない。

ボーカルが二言三言喋るとまた同じような曲を演奏し始めた。

少し気分が悪くなってきた。ふと、隣の亜美を見ると、うでをふりあげぴょんぴょんとびはねている。

今度は後ろの志保を見た。が、そこには志保はいなかった。

トイレにでも行ったのかな。とりあえず、少し休もう、そう思い、たまきは会場を出た。

 

呼吸が荒い。鼓動も早い。寒気も感じる。だが、志保はもうそんなことは気にしなかった。

トイレの壁にもたれかかり、ただただ暗い天井を見つめていた。

少し、体が震える。

体が欲している。

志保は、携帯電話を取り出した。アドレス帳からある人物の名前を見つけ出す。

それは覚せい剤の売人の名前であった。

なぜ、彼のアドレスをいつまでも取ってあるのか。クスリをやめようと誓ったあの日、亜美やたまきに出会ったあの日なぜ消さなかったのか。

怖かったのだ。登録を消そうと彼の名前を見たとたんに、消すどころかまた再び彼に連絡を取って薬を手に入れてしまうかもしれなかったからだ。

震える手で携帯電話を支える。

今、アドレスを消せば、もう、クスリを手に入れることはできない。

そう思いつつも、志保は震える指で、「発信ボタン」を押した。

呼び出し音の後、低い男の声が電話から聞こえた。

「志保か。なんか用か?」

用なんてわかりきってるくせに。

「クスリ。欲しいの」

「場所は?」

志保は、自分の居場所を伝えた。しばらくして、男から返答があった。

「金は?」

「お金なら……」

そういって志保はカバンの中の財布に手を伸ばした。

だが、そこには財布はなかった。

志保はそこで初めて、財布を「城」に忘れていることに気付いた。

チケットは前日にミチが持ってきたので、今日、この瞬間まで、財布を忘れていることに気付かなかったのだ。

「……お金は、何とかする。いいから、早く持ってきて」

冷静に考えれば、「城」に戻って、財布を取ってくればいい話である。

 

冷静に考えられるのならば。

 

写真はイメージです

たまきは建物の外に取り付けられた、非常階段にいた。トイレに行くのが億劫になり、近くのあった非常階段に逃げ込んだのだ。

外はすっかり暗くなっていた。東京の夜空は星がなく、吸い込まれそうなくらいに暗い。

ライブスタジオはビルの3階にある。らせん状の非常階段から階下を覗き込み、はあっとため息をつく。

たまきは気づいた。

ミチのことをどこかであったことがあるというのは、ミチにある人物の姿を重ねていたからだと。

ある人物。それは、たまき自身のことだった。

何のやる気もなく、ただ消化試合のように生きている。絵を描くのも、楽しいからでもなく、何かを表現したいからでもない。時間をただ押し流すためだけの作業。

そんな自分の姿が、輝いていると思っていたミチに重なったのが、不思議だった。

そろそろ戻ろう。すっかり日の暮れた都会の空を見ながらたまきは思った。

 

非常階段からライブが行われている部屋へと続く廊下を歩く。と、廊下の右側の部屋から、少女が一人出てきた。茶色い長い髪の少女が誰なのか、たまきにはすぐにわかった。

「志保さん?」

たまきにしては結構大きな声で呼びかけたのだが、志保は見向きもせずに、廊下を横切ると、速足でエレベーターの乗り込んだ。たまきは、志保の出てきたドアを見た。

関係者控室。そう書かれたドアは、志保が本来、立ち入ることのないドアのはずだった。

つづく


次回 第5話 どしゃ降りのちほろ酔い

ライブハウスで財布の盗難事件が起こる。危うく濡れ衣を着せられそうになるたまき、真犯人に気づき苛立つ亜美、そして姿を消した志保。共同生活がピリオドを迎えそうになったその時、たまきが声を上げる……。

「『遠くばっかり見てんじゃねーぞバカヤロー!」』『そんなところにウチらはいねーぞ!」』『ここにいるぞバカヤロー!。……ここに生きてんぞバカヤロー!』」

⇒第5話 どしゃ降りのちほろ酔い


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説:あしたてんきになぁれ 第3話 病院のち料理

援助交際で稼ぐヤンキーギャル・亜美と、自殺未遂を繰り返す地味な女の子・たまき。二人はクラブのトイレで倒れている少女を見つける。少女の名前は志保。明日がどうでもいい亜美、明日が怖い志保、明日がいらないたまき、3人の物語がいよいよ始まる。

「あしなれ」第3話、スタート!


第2話 夜のち公園、ときどき音楽

登場人物はこちら ⇒「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


たまきはパニックだった。

ただ、パニックだったと言っても、慌てふためくとか、喚き散らすとかそういうのではなく、ただただ目の前の状況を飲み込めずに、ぼうっと見ていた。

トイレのタイルの上に倒れていたのは、白い、透き通るような肌の少女だった。

だが、不思議と、きれいとは思わなかった。

たまきは亜美(あみ)の方を見た。

亜美はというと、あんぐりと口を開けたまま、倒れている少女を眺めていた。亜美もまた状況が呑み込めずにいるらしい。

「亜美さん……どうしよう……」

たまきが不安げに亜美の方を見ながら尋ねた。

「どうしようって……とりあえず、ヒロキ呼んできて」

「うん……」

たまきは頷くと、トイレを出てとぼとぼと歩いて行った。

冷静に考えれば、救急車を呼ぶ状況なのだろうが、それが思い浮かばないくらい、亜美は動揺していた。また、冷静に考えれば、走らなきゃいけない場面なのだろうが、とぼとぼ歩いてしまうくらい、たまきも動揺していた。

亜美は少女の傍らにかがみこんだ。

ふと、少女の横に落ちている何かを亜美は見つけた。

「これって……」

亜美はそれを拾った。

 

ヒロキがトイレに到着した。

ヒロキは無言で、それを見下ろしていた。

「ヒロキ、どうしたらいいと思う?」

亜美が尋ねた。

「どうしたらって、救急車だろ、フツー」

「あっ」

二人は、そこで初めて顔を見合した。

「後、こんなん落ちてたんだけど……」

亜美は、赤いハンドタオルに包んだ拾い物を見せた。

「……なるほど……」

それを見ただけで、ヒロキはすべてを察したようだ。

「しかし、だとすると余計まずいな……」

「何が?」

亜美が尋ねた。

「この店が犯罪の温床だっていうのは聞いたことあるだろ?」

「まあ、噂なら……。」

「だからこういうのとか、救急車とかそういう騒ぎを避けたがると思うんだ。警察に目をつけられたくないからな。救急車を呼ぶことを許してくれるかどうか……。」

「じゃあ、どうするの?」

「……先生に連絡したほうがいいんじゃねぇの?」

「わかった。」

たまきは、二人の会話の内容についていくので必死だった。

そんなに年は変わらないはずなのに、なんだか二人が大人に見えた。人とかかわるのを避けてきたものと、人と交わりあい、群れあってきた者の違いだろうか。

 

亜美は電話を切った。

「先生が車でこっち来るから、通り沿いで待ってろだって」

「救急車は呼ばなくていいんですか?」

「先生の家からなら、救急車より早く来れるんだってさ」

ヒロキの道案内で、店の外までたまきと亜美は少女を運ぶことになった。

亜美が頭を、たまきが足を持つ。たまきの肩には少女のものと思われる白いショルダーバッグ。

二人で運んでいるとはいえ、少女の体は身長にそぐわず軽かった。

店のスタッフに「病人が出た」といって裏口から出してもらう。

ぐるりと回って大通りに出ると、すでに舞(まい)の車が来ていた。黒いワゴン車で6人は乗れるはずだ。

舞はすでに車の前で待ち構えていた。

京野(きょうの)舞(まい)。もともと医者だったのだが、今は医療系専門のライターとして食べている。医者としてたまきや亜美の面倒を見ている。

亜美は舞のところに駆け寄った。

「聞いたぞ亜美、トイレで倒れてたんだって?」

舞は亜美をじろりとにらみつける。

「またトイレかよ。アンタ、トイレの神様でもついてるんじゃないの?」

トイレの神様って、そういう神様だったっけ、とそばで聞いていたたまきは思った。

「アンタ、三か月はトイレに入んない方がいいかもね」

「そんなぁ、無理ですよ」

「そんなことより……」

そこで舞が声のボリュームを落としたので、たまきには二人の会話はよく聞こえなかった。亜美が鞄の中からハンドタオルにくるんだ何かを見せて、舞が難しそうな顔をする。

やがて、亜美が戻ってきた。舞は携帯でどこかに電話していたが、やがて電話を終えると車の中の少女を見た。

「走りながら状況を聞く。お前ら乗れ。1分で病院に行くぞ」

言われるままに亜美とたまきは車に乗った。

「よし、ヒロキ、あんたが運転しろ。あたしはその子を診てる」

ヒロキは無言でうなづき、運転席に乗った。舞は最後尾で横たわる少女に声をかけた。

「大丈夫。もうちょっとだけ頑張れ」

 

画像はイメージです

ネオンきらめく大通りから歓楽街に入る。カーラジオからは、若い男性アイドルの歌。

「ところでたまき、けがの調子はどうだい?」

舞が少女の顔色を見ながら言った。

「……大丈夫です」

たまきがボソッと答えた。

「亜美、お前はちゃんと月に一回検診に来なさい! 今月、まだ来てないでしょ!」

「大丈夫だよ、そんなの」

げ、という顔で亜美が答えた。

「え、亜美さん、どこか具合が悪いんですか?」

たまきが尋ねる。

「性病にかかってないかの検査だよ。セックスワーカーの基本」

舞が答えた。

「ヒロキ、アンタも最近こないね。ケンカ、やめたんだ」

「ちげーよ。けがしねーようになっただけだよ」

ヒロキが笑いながら答えた。

医者がこんなに余裕なら、たぶん大丈夫なんだろうな。

たまきはすぐ後ろの座席で横たわる少女を見ながら思った。

「しかしお前ら、何で救急車じゃなくてあたしに電話した?」

舞の問いに、先ほどのヒロキの考えを述べたのは亜美であった。救急車が着たら、店に迷惑がかかる。

しかし、舞は、「バーカ」と一言いうと、言葉を続けた。

「何も店のすぐそばに呼ばなくたっていいだろ。店から少し離れたところにきてもらえばよかったんだよ」

「あっ」

三人が同時に声を上げた。

「ま、うちから車出した方が早いし、もしかしたら、この子にとってはそれが良かった、なんてことになるかもね。そろそろ着くか」

舞は、後ろの座席で寝ている少女に少し目をやって言った。

 

病院につくと、医者らしき男性が出迎えた。

舞は車を降りると、男性と話し始めた。どうやら知り合いらしく、先ほどの電話の相手は彼のようだ。

やがて看護師たちがストレッチャーを持ってきて、少女をそれに乗せると、病院の中へと消えていった。

舞も男性医師と一緒に治療室へと入っていく。

「さてと」

そういうとヒロキは、踊りたりねぇと言って、来た道を戻っていった。

「……亜美さんは、どうするの?」

たまきは、少し背の高い亜美を見上げながら訊いた。

「残るよ。乗りかかった何とか、ってやつだ。たまきも残りなよ。今の時間、一人で帰るのは物騒だから」

たまきとしては、一刻も早く「城(キャッスル)」に戻りたかったのだが、そういわれると、残るしかない。

何より、ひとりで「城」までたどり着ける自信がない。

 

小田病院は、9階建ての総合病院だ。待合室も昼間なら患者でごった返しているのだが、夜の十時となると、誰もおらず、座っているのはたまきと亜美の二人きり。時折看護師や、パジャマを着た入院患者が点滴しながら歩いていくくらいだ。

静かである。音がすべて、白い壁と黒い影に吸い込まれてしまったみたいだ。

たまきは、壁にかけられた時計を見る。

夜の十時。

ちょうど、昨日、たまきが寝ているところに、亜美がミチを連れてきたのがこのくらいの時間である。

なんだか怒涛の二十四時間だった。実はそのうちの半分以上は、「城」でゴロゴロしていただけなのだが、それでも、たまきにとっては怒涛の二十四時間だった。

もしかしたら生涯で初めてだったかもしれない、「密室で男性と二人きり」。それから自分の過去に触れてしまい、大泣き。そのあと珍しく外出したら、ミチと再び会い、絵を見られる。さらに無理やりクラブに連れて行かれ、トイレで少女を発見する。

薄汚れた背もたれに寄りかかり、ふうっと息を吐いた。隣の亜美を見ると、携帯電話をピコピコいじっている。

 

深夜零時。亜美はゲームのキリのいいところで携帯電話から顔を上げた。隣のたまきはいつの間にか寝息を立てて、亜美の肩に首を預けて寝ている。

足音がした方に顔を向けると、舞が歩いてきた。

「終わったぞ」

舞はそういうと、手に持っていたコーラの缶を開けて飲み始めた。

「助かったの?」

「患者を死なせた直後に、コーラを飲む神経は持ち合わせていない」

亜美の問いに、舞は口からコーラのシーオーツーを吐きながら答える。

「じゃ、助かったんだ」

舞は無言でうなづいた。

「さてと、それじゃ、」

舞は一度言葉を切った後、続けた。

「あの子連れて帰るぞ」

「はーい。……えぇっ!」

亜美は大きく目を見開き、舞の方を見た。

「入院するんじゃないの?」

「医者の家に連れて帰るんだ。問題はないだろう。病院の許可はとってある」

舞はそういうと、コーラの缶に口をつける。

「たまき、帰るよ、起きて」

亜美はたまきの肩をゆすった。たまきは眠気交じりの声を上げた。

 

十二時半。たまきが舞の部屋のドアを開ける。まずたまきが部屋に上がり、電気をつける。白い壁が明かりに照らされる。

半開きになったドアを舞が足でさらに開けると、背中から部屋に入った。舞が少女の肩を持ち、亜美が少女の足を持っている。

寝室のベッドの上に少女を寝かせると、舞は棚の上からカップめんを三つ取り出し、お湯を注いだ。

「食え」

舞はそういうと、二人の前にカップめんを置いた。

「酒とかないんすか?」

亜美はそういうと、まるで自分の家のように冷蔵庫を開けた。

リビングルームにはドアのそばに、長方形のテーブルがあり、最大4人が座って食事ができる。その奥には二人掛けのソファと小さなテーブル、テレビがあり、ドアの反対側にある窓のそばには小さなデスクがある。デスクの上は本やら資料やらで散らかっており、雪のように積もった紙の隙間から、かろうじてノートパソコンが見える。

亜美は食卓の窓に近い方のいすに腰掛け、だらりと背もたれに体を預けている。たまきは、ソファの上で体育座りをしている。

三人はカップめんをすすっていた。テレビからはお笑い芸人の笑い声が聞こえる。

亜美は酒を片手にカップめんをすすっていた。もちろん、いけないことだが、舞は止めても無駄だという感じで亜美を見ている。

 

たまきは麺を食べ終わった。麺を食べ終わっただけで、スープはすべて残してある。同じタイミングで、亜美は麺とスープを完食し、ビールも一缶飲み終えた。

「ところで、あの子、何の病気だったんですか。」

たまきがつぶやいた。

舞は立ち上がると、少女の眠る寝室のドアを開け、中に入った。

茶色い長い髪。長いまつげの伏せられた眼。

眠っていても、たまきには少女が美人であることがわかった。

少女は長袖を着ていた。こんな時期に長袖を着るのは自分くらいと思っていたたまきは少し驚いた。

舞は、少女の右の袖をまくった。

少女の腕には、血のように赤い無数の点があった。。

「何ですか、これ?」

たまきは覗き込んだ。

少しの沈黙の後、舞は口を開いた。

「……注射器の跡だよ。」

薄暗い部屋を、さらに静寂がつつんだ。

「……注射器って……つまり……。」

たまきの疑問を遮るように、舞は答えた。

「検査で、この子の血液中から覚せい剤が検出された」

たまきは絶句した。少女は見たところ、自分とそんなに年が変わらない。自殺未遂を繰り返す自分が言えたことじゃないが、なぜこんな子が覚せい剤なんか……。

「だからここに連れてきた。あの病院にいたら、通報されるからね」

「なんでこんな子が覚せい剤なんか……。だって、覚せい剤って、どっちかっていうと亜美さんみたいな人が……」

「どういう意味だそれは! ウチだってさすがにドラッグは手を出してねーよ!」

ドアの向こうから部屋の中を見ていた亜美が大声を出した。

……快楽第一主義の亜美ですら手を出さないドラッグに、なぜこの子は手を出したのだろう。

「さてと、なんか持ってないかなぁ」

そういうと、亜美は少女のカバンの中をあさり始めた。

「ちょっと、亜美さん、何やってるんですか!」

たまきが亜美をたしなめる。

「別にとりゃしねーよ。何か、身元がわかるもんねーかなーと思って」

たまきは、次に自殺するときは、絶対に所持品のない状態にしようと思った。もし、死体が亜美みたいな人に見つかったら、何を見られるかわかったもんじゃない。

「お! 財布はっけーん」

亜美は人の財布の中身を見始めた。

「お! こいつ、結構持ってるぞ」

「亜美さん!」

「大丈夫。取ったりしねーって」

財布の中からは、数人の福沢諭吉が顔を出していた。

「クスリやるには金が要るからね。自力で稼いだか、犯罪に手を出したか、親からとったか……。確かに、そのくらいの年の子が持つにはおかしな金額だな」

舞が煙草に火をつけながら言った。

「お! 学生証はっけーん!」

亜美は、財布の中の、カードや会員証などを入れるポケットから、少女の写真の入ったカードを出した。たまきも、いけないと思いつつも思わず覗き込む。

学生証に描かれた少女の写真は、やはり美人だった。ぱっちりとした目、高い鼻、茶色く長い髪。そして、笑顔。

たまきには、こんな素敵な笑顔のできる人が、なぜ、覚せい剤などに手を出したのかがわからなかった。昔からほとんど笑わず、無理に笑えば似合わない、不気味だ、気味が悪いと言われてきたたまきには、こんなに美人で、こんなに笑顔が似合う人がなぜ……という思いが消えない。

「神崎(かんざき)志保(しほ)。星桜高校二年。」

亜美が生徒手帳に書かれた文字を読み上げる。たまきは、身分を証明する一切を家に置いてきてよかったと思った。もし、持っていたら、自殺して、亜美みたいな人に見つかった場合……。

「星桜高校? へぇー。進学校じゃん」

舞は灰皿にタバコの火を押し付けながら言った。

「先生、知ってるの?」

亜美が尋ねる。

「知ってるも何も、東京の女子はみんな一度はあこがれるものさ。偏差値高いし、制服はかわいいし」

「ウチ、東京の女子じゃないもん」

「……私も……」

「何だ、お前ら、東京出身じゃないのかい。じゃあ、どこの出身だ?」

とたんに、亜美は舞から目をそらし、たまきは下を向く。

「……言いたくないってか……。」

舞は二本目の煙草に手を伸ばした。

下を向いたたまきは、亜美の足元に転がっていた少女「志保」のカバンが目に入った。

人のカバンの中身を見てはいけないと思いつつも、たまきはカバンの中に手を伸ばした。

たまきの手がつかんだのは、手帳だった。

手帳にはプリクラが貼ってあった。「志保」を含む、たくさんの少女が写ったプリクラ。オレンジ色の字で「ずっとともだち」と書かれている。

別のプリクラは、「志保」と同じくらいの年の少年と映っているものだった。今度はピンク色で「だいすき」と書き込まれている。

「たくさんの友達」、「彼氏」。たまきがどれほど望もうと手に入らなかったこの二つを「志保」は持っているらしかった。なのになぜ、「志保」は覚せい剤なんかに手を出したのだろう。

 

写真はイメージです

頭が痛い。志保の目を覚ましたのは、グワングワンと揺れるように響く頭の痛みだった。

起き上がる。一瞬、痛みは高まったが、少しずつおさまってきた。あたりを見渡す。

知らない部屋だった。志保が寝ていたベッドは右側の白い壁沿いに置かれており、反対側の壁には本棚やCDラックが置かれている。そして、志保自身は覚えのないパジャマを着ていた。

部屋の中を見渡した志保は、ベッドのわきのいすに座り、こちらを見ている人物に気付いた。

黒い髪に黒いメガネ、黒い長袖の服を着た少女だった。メガネの左側のレンズはほとんど前髪に隠されている。メガネの奥の、眠たげに開いた眼はあどけなさが残るが、どことなく、生気というものを感じさせない。右手首の白いのはよく見れば包帯だった。

志保は少女と目があった。少女は、一言、

「あ、起きた」

とやはり生気を感じさせない声でつぶやくと、部屋の外へと出て行った。

「先生、亜美さん、起きました」

やがて、少女と共に女性二人が入ってきた。

一人は、二十歳前後の女性だった。金髪の長い髪。思わず目を背けたくなるほど露出の高い服を着ている。

もう一人は三十代前半と言ったところか。黒髪のストレート。煙草をくわえ、エプロンをしてた。

黒髪ストレートの方が志保へ近づいた。

「おはよう。気分はどうだい」

「え……、ちょっと頭が痛いですけど……」

志保は問われるままに答えた。

「うん、大丈夫だ」

「あの……、ここはいったい……」

志保は周りを見渡しながら尋ねた。

「昨日のことは覚えてる?」

「……なんとなく……」

「アンタはクラブで覚せい剤を打って倒れた。認めるね」

「……はい……」

「クラブで倒れてひっくり返っているところを、ここにいる亜美とたまきが見つけて、アタシのところに連絡してきた」

「あの……、あなたは……」

「京野舞。医者」

黒髪ストレートはそういうと、煙草の煙を吐き出した。

「薬物中毒なんて、さすがにウチじゃどうにもならないから、知り合いの病院に連れてって治療した。そんで、連れて帰って、今に至る。以上!」

志保の心の中には不安が募っていた。この人は自分が薬物中毒であることを知っている。っていうことは……。

「……あたし、これからどうなるんでしょうか……。やはり、警察でしょうか……」

「そんなの……」

医者の女性はそういうとくるりと背を向けた。

「自分で決めな。さあ、メシにするぞ」

 

ドアの向こうはリビングルームとなっており、長方形のテーブルに、湯気と香りが沸き立つ料理が並べられていた。壁の時計は十二時を示している。日差しが窓から差し込む。テレビからは女性タレントの笑い声。舞が最初に腰を下ろし、残りの三人はそれぞれ、舞に支持された場所に座った。黒髪メガネの少女の名はたまき、金髪少女の名は亜美というらしい。

隣には亜美、正面には舞、はす向かいにたまき。

「先生、なんか、ウチとたまきと志保、量ちがくない?」

志保は命の恩人とは言え、初対面の人間に呼び捨てにされるのが何か納得できなかった。

「当然だろ。一人一人、症状が違うんだから」

そういうと舞は、隣に座ったたまきを見た。たまきの前にはご飯とみそ汁、そして中盛りの肉野菜炒めが湯気を立てている。

「お前はまず食べろ。量を食べろ」

次に舞は志保を見る。献立は一緒だが、肉野菜炒めは肉の割合が多い。」

「アンタはやせすぎ! もっと肉を食え!」

「せんせー、うちも肉食いたい!」

亜美が不満を言った。亜美の肉野菜炒めは野菜多めだ。

「お前はどうせろくなもん食ってないんだろ。野菜食え。」

亜美は渋々、箸をつけ始めた。

 

豚肉を頬張りながら、志保は隣の亜美と、はす向かいのたまきを見ていた。

たまきは左手の箸でつつくように食べていた。もやしをピンセットみたいに箸でつまんで、小さな口へと入れている。そのスピードも遅く、料理に手を付けることなく、ぼんやりと皿の上も見ているときもある。

食欲がないんだろう、と志保は思った。志保にもそういうときがある。

一方、亜美はたまきの三倍のスピードで野菜炒めを食べていた。かきこむ、といった感じだ。

ただ、皿の一角にはピーマンがたまっている。わざと残しているようだった。

志保は疑問だった。この二人はいったいどういう関係なんだろう。姉妹? 友人? 先輩後輩?

だが、いずれもしっくりこない。この二人、あまりにも違いすぎるのだ。

たまきは全身黒ずくめ、といった感じだった。たぶん、カラー写真で撮っても、白黒写真で撮っても、そんなに変わらない。上から黒い髪、黒いメガネ。夏には珍しい、黒い長袖の服に黒いロングスカート。さらには黒い靴下。

だが、最も印象的なのは、メガネの奥の目だった。左目は、メガネの前で目を覆うように隠している前髪で見えない。しかし、右目だけで十分印象に残った。

あどけなさを残す目だ。だが、生気というものが感じられず、誰とも目を合わせない。初対面の志保はもちろん、舞、亜美とも目を合わせようとしない。

一方、亜美は正反対だった。金髪の長い髪を後ろで結んでいる。袖がなく、胸の谷間を強調した服。腿まで見えるパンツ。捕まらない範囲で見せられるところはすべて見せている、といった感じだ。右肩には小さな青い蝶の入れ墨が、舞い飛ぶように彫られてある。

よくしゃべり、よく笑い、よく食べる。悩みなどなさそうに笑っている。

 

「で、この後どうするの?」

舞が箸を置き、志保の目を見ながら尋ねた。志保は目を伏せた。

「……警察でしょうか……」

志保は三十分前と同じセリフを口にした。

「アンタがやっているのは、立派な覚せい剤取締法違反。アンタの年なら少年院行きだ。けどね……」

そういうと、舞は目に力を込めた。

「少年院で、あんたの病気が治るとは限らない。っていうか、アタシには思えない」

「病気……」

志保は、舞の言葉をオウムのように繰り返していた。

意外。そんな目をしている。

「少年院に行く女ってのは、薬物中毒者が多いんだ。そんな連中が同じ雑居房で暮らしてみな。確かに、社会と隔離することで、強制的に麻薬に手を出さなくなるかもしれないけれど、横のつながりってのができる可能性は否定できない」

そこまで言うと、舞は、コップの中の水を飲んで、言葉を続けた。

「薬物中毒者に対する対処は、なにも、刑務所だけじゃない。最近は、薬物中毒専門の病院や、施設があるんだ。そういうところに行くって道もある」

舞は、志保に一層近づいた。

「どっちに行くかは、アンタが決めな。警察行くってんなら、付き添ってやる。病院行くっていうなら、紹介してやる」

志保の中では、「病気」という言葉が響いていた。

そんな二人の会話を割るように、亜美が目を輝かせながら尋ねてきた。

「ねえねえ、何でドラッグなんてやったの?」

「えっ?」

志保はたじろいだ。

「……亜美さん……!」

たまきがボソッと声を上げた。

「そういうこと聞いちゃだめですよ」

「別にいいじゃん。ウチら、こいつの命の恩人だよ?」

「恩着せがましいですよ。私、亜美さんの、そういうところ、なんていうか……」

たまきはそこで言葉を切って、しばらく考えてから、言葉を続けた。

「……苦手です……。」

「たまき、はっきり言ってやっていいんだぞ。嫌いなら嫌いって」

食事を終えた舞が、煙草に火をつけながら言った。

「……怖かったんです……」

三人の会話を、志保のかすかな声が遮った。

「え?」

「明日が来るのが……怖かったんです……」

それっきり、志保は下を向いたまま、話さなくなった。

「明日……」

亜美とたまきは、異口同音につぶやいていた。

しばらくして、志保が口を開いた。

「……警察、行かなくていいんですか?」

「医者としてはそっちを勧めるね。法律的にはアウトだとしても。ちゃんと治療を受けるなら、アタシはあんたを通報したりしない」

病気なんだ……。治せるんだ……。そんな思いが志保の中に芽生えていた。

「……よろしくお願いします……」

志保はそう言った。

 

食事も終わり、舞は皿洗いを始めた。

「手伝います」

志保が舞の横に立ち、皿を洗い始めた。

「お、慣れてるねぇ。料理とかするの?」

「まあ、一応……」

「そういえばさ……、アンタ、家はどこ? 親は……?」

その質問に、志保は顔をうつむけた。

「おいおい……コイツもかよ……」

二人の会話を聞きながら、亜美は見ながらぼんやりと煙草を吸っていた。

「……料理か……」

亜美は天井に向かっていく白い煙の帯を見ながらつぶやいた。

「……使えるな」

それを聞いて、たまきはにがそうな顔をした。

「……また悪巧みですか?」

「ウチがいつ、悪だくみをしたよ?」

「……私を助けたのも、悪だくみだと思ってますけど……。で、何、企んだんですか?」

「料理だよ。料理が足りなかったんだよ」

亜美は煙草を灰皿に押し付けた。

「ウチんとこに来る男がみんな『お前は色気があるけど女っ気が足りない』っつってるんだよ」

「……私はどっちもないですけどね……」

「アバウトな言い方だろ? 『色気』と『女っ気』ってどう違うんだよ。で、ずっと考えてたんだけど、『女っ気』っていうのは『女の子らしさ』だと思うんだよ」

「……『色気』と『女の子らしさ』はどう違うんですか……」

「……いや、わかんねーけど……。まあ、で、どうしたら『女っ気』が出てくるか考えてたんだけど、やっぱ、『料理』だと思うのよ」

「……女の子が料理できなきゃいけない、っていう時代はもう古いと思いますよ。現に、私たち二人とも、料理できないじゃないですか」

「わかってないなぁ。要は、オトコがオンナに何を求めてるか! 『オトコの理想のオンナ』をいかに演じるか。それがわかんないから、あんたはモテないんだよ」

「……別にモテたいと思ってないし……」

「てなわけでだ」

亜美は、体ごとたまきに向きなおった。

「ウチはあの子を『城』に迎え入れようと思うんだ」

たまきが「やっぱりね」と言いたげに亜美を見た。

「やっぱり、ビジネスは日々進化させないと」

そう言って亜美は笑うと、首を志保の方に向けた。

「志保―っ! あんた、行くとこないんでしょ? ウチこない?」

「え?」

志保が驚いたように振り返った。

「家出してるんでしょ? ウチらも同じ。ウチんとこきなよ」

「アンタねぇ。薬物中毒者と一緒に暮らすということがどういうことか……」

舞はそこまで言いかけたが、そこでしばらく黙った後、

「フム。まあ、やってみれば?」

と、娘にペットを許可するような口調で言った。

「あ……じゃあ、行くとこないし……、お世話になります……」

志保は、ぺこりと頭を下げた。

 

写真はイメージです

「……ここ……お店だよね?」

ネオンきらめく雑居ビルの5階。白く光る「城(キャッスル)」と書かれた看板を前にした志保が言った。

「ここはね、ウチらの城」

そういうと、亜美はドアを開けた。

ほのかな電灯をつけると、二人暮らしには広い間取りに、壁に沿っておかれたソファと、三つのテーブルが見える。

テーブルの上は雑誌やリモコン、ぬいぐるみなど、生活感にあふれている。誰に説明されなくても、志保はこの店がすでに営業していないことがわかった。

「二人は何の仕事してるの? この部屋、っていうか、店、家賃とか……?」

「ウチ? ああ、援交」

「援交!?」

志保が目を丸くして声を上げた。

「気を付けてください。ここに平気で連れ込みますから」

たまきがボソッと忠告する。

「……たまきちゃんも、そういうことするの?」

たまきは慌てて、「私は全く関係ありません」と言わんばかりに首を振った。

「私は、そういうの興味ありませんから……。結婚する気も、子供作る気もないですし……。……たぶん、そういう年になるころには、この世にいないと思うし……」

「ええっ!?」

たまきが最後にボソッと言った言葉に、志保はまた目を丸くした。

「たまきちゃんって……何かの病気なの!?」

「ああ、そいつはね、死にたがり病なの。志保も気を付けてよ。ちょっと目を離すとそいつ、すぐリストカットしようとしたり、屋上から飛び降りようとしたりするから」

「……そうなんだ……」

志保は亜美の方を向いた。

「じゃあ、ここの家賃は、亜美ちゃんのその、援助交際で払ってるってこと?」

「家賃? ああ、払ってないよ」

「はい!?」

「……まあ、不法占拠というやつです」

たまきがボソッと補足する。

亜美はカウンターの方へと歩いて行った。カウンターの中には、店だった頃はボトルが並んでいたと思われる棚があり、簡単な厨房も見える。

「ここが、志保に腕を振るってもらう厨房」

「あのね、亜美ちゃん、さっきも言ったんだけど、料理はできるけど、そこまで上手ってわけじゃ……。」

「いいんだよ、作れれば。ウチら、どっちも料理できないんだし。たまきも、『城』でおいしいもの食べたいもんなぁ」

「……私は別に食にこだわりはないんで……」

たまきはボソッと訂正した。

 

食事をして、銭湯に行って、そのあとは思い思いの時間を過ごしていた。

たまきはもう寝ると言ってソファの上に横になった。亜美は煙草を吸うと言って屋上に行った。

志保はわずかに開いたキッチンのカーテンから月を見ていた。

昨日の今頃はこんな風になるなんて、考えてもいなかった。

昨日の今頃。確か、ドラッグを打って……。

急に背中から生まれた悪寒が全身をつつむ。志保は、思考を切り替えようと後ろを見た。

たまきがこちらを見ていた。横になっているにもかかわらず、メガネをかけ、じっと志保の方を見据えていた。

 

たまきには分からなかった。志保はなぜ、ドラッグなんかに手を出したのか。

今日一日、志保を見ていたが、志保はいたって普通の女の子だった。受け答えからも、育ちの良さ、頭の良さがうかがえた。

さらに、亜美ともすぐに打ち解けてしまった。

舞の家から「城」への帰り道、たまきは、亜美や志保の少し後ろを歩いていた。

二人は、それこそもう数年来の友人であるかのように話していた。元彼の話、お互いの通っていた学校の話、食べ物の話、etc……。

たまきはその少し後ろを歩く。自ら会話に加わることはないし、話しかけられても、ボソッと、最低限のことしか言わない。

こういう人たちはいるのだ。新学期、クラス替えとかでいきなり友達を作れる連中が。

それができれば、人生はきっと楽しい。たまきはずっとそう思っていた。

今、目の前にいる二人は間違いなく「友達作りスキル」のある人間である。たまきから見れば、勝ち組のはずだった。

だから、わからない。一方は学校というレールから外れ、一方はドラッグに手を出す。

自分がダメなのは、友達を作れないからだ。そう考えてきたたまきにとって、友達作りスキルを持っているにもかかわらず、自分と同じように枠から外れた亜美と志保は不思議でしょうがなかった。

自分がダメなのは、友達がいないからではないのか? それとも、論点が違うのか?

特に、志保はたまきが届かなかったもの、すべてを持つ存在だった。

だから余計にわからない。こんなにも他人に関心を持ったのは初めてではないだろうか。

ふと、志保と目があった。たまきは青いタオルケットを頭からかぶった。

「一つだけ聞かせてください」

タオルケット越しに薄暗い闇を隔ててたまきの声が志保の鼓膜に届く。

「明日が怖いって……どういうことですか……」

答えはきっとそこにある。

たまきの問いかけを聞いた志保は、少し微笑んだ。自嘲の色を帯びながら。

「志保さんは……。」

「もう志保でいいよ。年、そんなに変わんないんでしょ」

「……志保さんは、学校にちゃんと通えて、友達がいて、何で、ドラッグなんかに……。」

何てレベルの低いことを言っているんだろうと、たまきは思った。学校に通い、友達を作る。そんなの、最低ラインじゃないか。それにすら到達できない自分は何てクズなんだ。

そんなことを考えているたまきに、志保は優しく言葉をかけた。

「あたしの通ってる、ううん、もう一月ぐらい行ってないから、通ってた高校か。自分で言うのもなんだけど、結構、頭のいい学校なの。だから、入るのすっごい大変だった。相当勉強した」

志保の長いまつげが、月明かりに照らされる。

「親はすっごい喜んでね。もちろん、あたしもうれしかった。すぐに友達もできたし、夏休み前には彼氏もできた。自分でも、順調な高校生活だと思った……」

たまきにしてみれば、おとぎ話のような話である。

「でもね、順調だと思えば思うほど、ぼんやりと見えてきちゃうんだ、自分の明日が。このまま普通に大学行って、普通に就職して、普通に結婚して、普通に子供産んで育てて、普通に老後を送って、普通に死んでって。そう考えたら、急に怖くなったの」

「……それで……ドラッグに?」

たまきはますますわからない。

「ま、それだけじゃないけどね。でも、きっかけはそうかな」

順調だけど、順調だから、明日が怖い。

でも……。

でも……。

「そんなの……」

贅沢だ。たまきが言えなかった最後の一言を志保は理解したのか、やさしく笑った。そして、志保はさびしそうにつぶやいた。

「……贅沢だよね」

 

亜美は屋上にいた。煙草の煙がネオンに照らされて、紫色に映える。初夏の夜は肌に心地よい。

ここでたまきと会ったのか。あの時はこんな風になるなんて考えもしなかった。

何でたまきを助けたんだろ? いまさらながら考える。

そして、なんであの子を、志保を「城」に招き入れた?

……そりゃ、金になるからでしょ。

……本当に?

ぶっちゃけ、今まで週に二回来てたヒロキが、たまきが来て以降、週三回になったぐらいで、新規開拓なんて全くできてない。

きっと、志保が入っても、これ以上儲けは増えないだろう。

そんなの、最初からわかってた。「金儲け」なんて口実だ。

じゃあ、なんで、二人を招き入れた……。

……自分に似てるから?

……そんな馬鹿な。

右脳で出した答えを左脳で否定する。

あの二人が自分に似ているわけがない。たしかに、「家に帰りたくない」という点では似ている。それは認める。だから、たまきに親近感を覚えた。

しかし、たまきは亜美と違ってうじうじしてるし、志保は亜美と違って頭がいい。

そもそも、あの二人が言っていたことがさっぱり理解できない。たまきは明日なんていらないと言い、志保は明日が怖いと言う。

明日のことなんて考えるから、そんなこと言うのだ。明日なんて来ないかもしれない。

亜美は夜空を見上げる。もしかしたら、今日、宇宙のかなたから突然現れた恐怖の大魔王が、火の玉で地球を焦土と化し、みんな死んでしまうかもしれない。

まあ、今のはさすがに極端だが、明日が来る保証なんて、誰にもない。だったら、明日のことなんて考えたって仕方ない。明日なんてどうでもいい。今を楽しんで、明日が来ちゃったら、その時考えればいいのだ。

ふと、亜美の顔にあたるものがあった。思わず上を見ると、さらにポツッ、ポツッ、と冷たいものが当たる。

雨だ。

「マジかよっ」

亜美は屋上を後にした。

 

写真はイメージです

翌日は土砂降りだった。お昼少し前、亜美は買い物に出かけたので、「城」の中にはたまきと志保の二人がいる。

雨の日のたまきは気分が悪い。機嫌が悪いのではない、気分が悪いのだ。もっとも、はれや曇りでも気分がいいわけではなく、そんなに悪くない、というだけなのだが。

「たまきちゃん、何食べる?」

志保は厨房に立っている。髪を縛って、冷蔵庫の中を覗いている。

「お昼……いらないです……」

その時、雨音とともに、亜美が帰ってきた。

「ただいま。いいもの買ってきたぜ」

亜美は、手に持っていた、少し濡れたビニール袋の中から、何かを取り出した。

コルクでできた楕円型の薄い板。それといくつか、ひらがなの形をした造形物が、袋の中には入っていた。

「ネームプレート?」

志保が尋ねた。

「そう。せっかくだし、これに三人の名前を貼って、玄関につるそうぜ」

「……玄関につるしたら、不法占拠がばれるんじゃないですか……」

たまきの一言で亜美が一瞬止まった。

「……ドアの内側にしよう」

 

「うちはピンクね」

亜美はピンク色の造形物の裏にボンドを塗り、コルクのネームプレートの上の方に張り付けた。造形物は、ひらがなの「あ」と「み」の形をしている。

「たまきは黄色ね」

亜美は黄色い「た」「ま」「き」をたまきの手に渡した。

「……私、黄色ですか……?」

黒か紫が良かった。

「気分だけでも、明るくしなきゃダメなんだよ」

たまきは少し不満そうに、造形物を見ていたが、やがてボンドを手に取ると、ボードの下の方に張り始めた。

「たまき、そんな下でいいの?」

「たまきちゃん、真ん中にしなよ。下は新入りの私が」

「……いいです、私はここで」

そういいながら、たまきは「き」を張り付けた。

「志保は青ね」

亜美は志保に青と水色の間くらいの「し」と「ほ」を渡した。志保は笑顔で、「あみ」と「たまき」の間に張った。

亜美は、完成したネームプレートを、ドアの内側、ちょっと高いところにつるした。

「かんせ~い」

 

あみ

しほ

たまき

 

「へへっ。ちょっと、テンションあがるな」

「そうだね」

「……ちょっとだけ」

雨は激しく降り続いていた。

つづく


次回 第4話 歌声、ところにより寒気

亜美、志保、たまきの3人での生活が始まった。ミチに誘われて、彼のバンドのライブに出かけたたまき。事件はそこで起こる……。

「何のやる気もなく、ただ消化試合のように生きている。絵を描くのも、楽しいからでもなく、何かを表現したいからでもない。時間をただ押し流すためだけの作業。 」

⇒第4話 歌声、ところにより寒気


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